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奈良時代の美術 _ 仏像

1:777 :

2024/01/08 (Mon) 20:48:14

日本の名画・彫刻
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奈良時代の美術 _ 寺院・神社
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奈良時代の美術 _ 仏像
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天平仏 - YouTube
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天平仏
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/369.html

天平文化 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E6%96%87%E5%8C%96


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奈良時代の美術
https://irohani.art/study/12452/

前回の第3回では飛鳥・奈良時代の美術について紹介しました。

仏教が中国・朝鮮から渡来し、しかもその背景にはインドの影響もあった……みたいな超グローバルな時代。仏像をはじめとする日本文化がどう醸成されたかがよく分かったのではないでしょうか。

前回「日本は唐の影響を受けながら美術作品を作っていったんやで」と紹介しましたが、その結果、具体的にどんな仏像ができたのか。今回は唐の影響を受けまくった奈良時代の仏像を紹介していきましょう。


奈良時代の仏像のキーワードは「写実主義」

まずは簡単におさらいをしておくと、飛鳥時代には渡来系の仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)さんが仏像を作り始めました。法隆寺金堂の「釈迦三尊像」が代表作です。


Tori Busshi


止利様式の特徴は前回紹介しましたが、上下のまぶたが同じ形、やせ型で面長、ちょい微笑んでいる(アルカイック・スマイル)みたいな感じ。服のしわもカッチカチです。ぱっと見、すごく端正なお釈迦さんなんですけど、かっちりし過ぎてて、ちょっと人間らしくないよね~、というのが持ち味でした。

それが奈良時代は唐の影響を受けて、写実的になっていきます。つまり「すんごく人間ぽい」という感じになるんです。例えば腰巻や上衣といった衣類のひだがよりリアルになりますし、体系はふくよかになる。不自然に微笑むこともなくなりました。

この写実的な表現は作り方を工夫することで可能になりました。飛鳥時代って一本の木を彫りまくる「一木造」や、複数の木のパーツを組み合わせる「寄木造」が主流だったんです。つまり基本は「木を直で彫る」っていう。これじゃ、なかなか繊細な表現は難しい……。

そんななかで奈良時代に入ると「塑像」「金銅像」「脱活乾漆像」などの作り方が出てきます。

● 塑像:骨組みに粘土をつけて彫る
● 金銅像:内側から粘土→蝋(ろう)→粘土の順番で型取りして焼き、蝋が溶けた部分に青銅を流し込んで成形する
● 脱活乾漆像:骨組みに粘土を貼り付けて成形したあと漆に浸した布を貼って成形する。

ただ木を彫るだけでなく、粘土や青銅、布などを駆使することで繊細な表現を可能にしたんですよね。いや、すごい。


初唐~盛唐へ。奈良時代の仏像の世界

奈良時代は平城京遷都の710年~平安京遷都の794年までを指しますが、この時代にはさっき紹介した技法で、いろんな仏像が作られます。ここからは重要作品をみていきましょう。


興福寺西金堂 乾漆十大弟子立像
仏陀は生涯に1250人の弟子がいたといわれますが、そのなかでも特に優秀な10人を「十大弟子」と呼びます。乾漆十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)は、その弟子を彫った乾漆像です。今は6躯が現存しています。

・乾漆十大弟子立像(法相宗大本山 興福寺)
https://www.kohfukuji.com/property/b-0017/


いやまぁインド人なんですけどね。日本に合わせて、顔は日本人になっています。まず表情が豊かですよね。そのうえで衣類のひだがかなりリアルになっています。まさに写実主義。

東大寺法華堂 不空羂索観音像

Ismoon (talk) 15:49, 10 February 2019 (UTC)


奈良時代の仏像!といえば王様・東大寺ですよ。そのなかでも中心に据えられたのが「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」です。脱活乾漆像の表面に金箔を張っています。高さは362cm、目が3つと腕が8本の「三目八臂(さんもくはっぴ)」モチーフの巨大な立像です。

モチーフはもちろん「光」。まず後光(後背)がエグい。そのうえ宝冠や、合掌の手の間にはさまった宝玉など、全体的にきらびやかです。こんなん対面した瞬間に「ははーっ」ですよ。ひれ伏さざるを得ない。

そのうえ身体がガッシリしているのに注目です。ボディビルの掛け声でいうと「キレてる!」でなく「デカい!」みたいな身体になっています。これは唐の開元年間の特徴と通じており、当時日本は唐から影響を受け続けていたことが分かっています。ちなみに日本ではここから平安初期まで、こうしたがっしりした仏像が増えていきます。

この像は、この後の鎌倉の彫像にも影響を与えており、よく「日本の仏像の古典(クラシック)」ともいわれます。

東大寺盧舎那仏像
Mass Ave 975


いわゆる「奈良の大仏」さんですね。752年に完成しました。とはいえ、当時つくったものが今でも現存しているわけではなく、その後の戦国時代で何度か焼損したので、ほとんどは再建されたものです。

なので今の大仏さんをみて「材質」や「表現」をみることで奈良時代の仏像の時代背景がわかる、というわけではないのが前提ですね。

それよりも重要なのは「当時なんでこんな超巨大な仏像をつくったのか」という部分ですね。いまでいうと約4,657億円もかけて260万人雇って、7年かけて仏像を作ったんですよ。令和の今はありえない。こんなことすると、SNSで「#スピリチュアル岸田」みたいなハッシュタグが流行っちゃいます。

当時、盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)を作ったのは聖武天皇ですが、当時の日本はかなり悪い状況でした。まず疫病が流行して政治の中心人物が次々に亡くなった。また飢饉やら地震があり、乱も起きたんですね。そのなかで社会不安が巻き起こっていた最中でした。

今でいうとコロナとオイルショックと東日本大震災が同時期に起きて、九州の知事が「国は何してんだー!」つって東京に攻め込んでくる、みたいな。もう未曽有&阿鼻叫喚みたいな状態です。

そのなかで聖武天皇は「仏やな」と。「仏の力で国を安定させたい」と思ったんですね。それで奈良の大仏さんをつくったり、全国に国分寺と国分尼寺というお寺を作らせたりしたわけです。つまり、奈良時代はそれくらい国は仏教の力を信じていた、ということになります。

大仏開眼会での美術作品
それで752年に盧舎那仏像が完成するわけですが、完成した際に大仏開眼会が開かれました。そのなかで「伎楽(ぎがく)」というパントマイム演劇のような伝統芸能が開催されました。伎楽は飛鳥時代に中国から伝わったものです。


東大寺所蔵の伎楽面30面のうち酔胡従(重要文化財)/
今泉篤男 et al.


これによって中国で作られたお面がいくつか伝わってきたのも注目ポイントです。

なかでも「崑崙(こんろん)」というお面は伎楽内ではかなりゲスな役回りです。モデルは中国の周辺民族になっています。今見ても「こいつは100%悪人やろ」という顔だちでしょうが、このイメージが当時から確立されていたのはおもしろいポイントですよね。

・伎楽面 崑崙(e国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100769&content_part_id=007&langId=ja&webView=null


唐招提寺 鑑真和上像

Tōshōdai-ji, Nara


最後にご存じ鑑真さんの坐像です。鑑真は「唐の文化を日本に伝えたいのです」という一心で、5回の渡航に失敗してもめげずに6回目の渡航で日本に到着して唐の文化を広めました。

この時の渡航には絵画、彫り物、刺繍などの技術者も含まれていたといわれてるのがポイントです。ちなみに、2回目の渡航のときには85人も乗っていたのだといいます。

つまり鑑真によって、唐の後期文化が日本に持ち込まれることで、奈良時代の仏像はまた新しい一面を見せるわけですね。

例えば、飛鳥時代に最盛期を迎え、奈良時代ではあまり用いられなかった「一木造」。鑑真一行はそれまでの木材とは別の「榧(かや)」に直接ノミを入れて彫っていたんですね。この榧材の一木造の仏像は、東大寺を建築していた工人に受け継がれ、平安時代前期に盛り上がることになります。
中国の影響で育った日本文化の源流
さて、こんな感じで奈良時代の美術作品の王道はもう何と言っても仏像です。つくることで救われる。という時代だったからこそ、奥深い作品ができました。

「日本文化」という意味でも、ターニングポイントとなりますね。ここまで唐の影響を受けたカルチャーが日本に浸透していくと、日本文化の源流の一部は中国にあることにあらためて気付きます。個人的には「伎楽」のお面はむっちゃ好きです。この時代から今に至るまで「悪人ぽさ」や「善人ぽさ」という感覚的なデザインは変わっていない。

いやむしろこの当時に生まれた「○○ぽさ」が今の私たちに影響を与えているのでしょう。まさに歴史を知って、今を理解するというおもしろさがありますよね。

さて、そんな徐々に形成されていく日本文化が花開くのが、みんな大好き平安時代。次回は平安時代の美術作品について紹介していきたいと思います。
https://irohani.art/study/12452/


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天平時代の美術:作品の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo.index.html

710(和同三)年の平城遷都から784(延暦三)年の長岡京への遷都を経て794(延暦十三)年の平安遷都に至るまでの80数年間を、美術史上では天平時代と呼ぶ。聖武天皇治世下の天平時代(729-749)に花開いた華麗な仏教美術を以てこの時代を代表させた形である。

天平時代の仏教美術の最大の特徴は唐の影響が大きいということである。度々派遣された遣唐使(奈良時代に入唐に成功した遣唐使は六次)が大量の情報や美術品をもたらし、それらが日本の仏教美術に直接影響を与えた。唐の仏教美術の特徴は現世的・人間的であることで、深い精神性を特徴とする北魏の仏教美術とは著しい対照をなしているが、日本人にとっては、こちらの方がなじみやすかったようである。

唐の仏教美術はまた、国際性が豊かだったという特徴がある。世界国家となった唐はシルクロードを通じて西域と結びつき、インドとの交流も盛んであった。したがって唐時代の彫刻などには、西域やインドの影響も伺われる。そうした国際色豊かな文化が、遣唐使を通じて天平時代の日本にも伝わってきたわけである。

平城京では、遷都直後から、飛鳥地方の大寺(薬師寺や大安寺など)の移転や藤原氏による興福寺の造営が行なわれたが、天平時代に入ると諸国に国分寺の制度が定められたほか、平城京に国分総寺及び総尼寺として、東大寺と法華寺が造営され、それらに収めるための仏像や美術品が大量に作られた。この時代は国家が中心になって仏教美術の振興にあたっていたわけである。

天平仏は唐の様式に従うということのほかに、木造や銅像に加え、乾漆や塑像の技法を駆使する点でも前の時代と違う。乾漆や塑像は白鳳時代の末期になって現れたのであるが、天平時代に入ると全面的に開花し、平安時代には消滅する。したがって天平時代に特徴的な様式といってもよい。

天平時代における仏教美術の制作の担い手は、大規模な官営工房であった。建築、彫刻、絵画、写経、工芸品などの分野ごとに造営のための組織が整備され、大量の技術者が製作に従事した。奈良時代の前期には、光明皇后直属の皇后宮職として整備され、金光明寺造仏所を経て天平時代盛期には造東大寺司となり、東大寺大仏の制作には述べ50万人が動員されたという。

制作に従事した技術者たちは、唐からもたらされる仏教美術をいち早く吸収し、高水準の技術を駆使して製作にあたった。しかし、これらの官営工房は、長岡遷都以降は活躍の場がなくなり、やがて(789年)廃止の憂き目にあった。

ここではそんな天平時代を代表する美術作品について、画像を鑑賞しながら適宜解説を加えたいと思う。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo.index.html


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奈良時代の画家・彫刻家

国中 公麻呂 くになか の きみまろ(奈良県 生年不明 - 774年11月11日)
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将軍万福 しょうぐん まんぷく(奈良県 生没年不明、奈良時代)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16834876
2:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:38:00

天平時代前期の仏像1:薬師寺薬師三尊像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo02.yakushi.html


(薬師寺薬師三尊のうち薬師如来像)

薬師寺金堂の薬師三尊像は、680(天武天皇八)年に発願されて藤原京に作られた元薬師寺の本尊として作られ、平城遷都後の寺院の移転に伴って現在の薬師寺に伝わったものと考えられている。そうだと考えれば、この仏像が初唐の様式をよく伝えていることが納得される。

初唐の様式というのは、写実主義を徹底させたもので、人体の自然の美しさを追求したところに特徴がある。その点、精神性を重んじるあまり写実にこだわらなかった北魏の様式とは著しい対照関係にある。

この薬師三尊のどの像も、人体比例は現実の人間とほぼ同じである。そしてふくよかな顔つきや身体の線が現実の人間を彷彿させる。といっても、仏が人間の姿を取ったというような感じはさせない、むしろ仏の姿を借りて人体の究極の美しさを表現しようとする意思を感じさせる。

中央の薬師如来は、円満で具足した表情をしている。巨大な台座の上に結跏趺坐し、上半身は裸体で左肩から衣を垂らし、上品下生の印を結んでいる。薬師如来といえば左手で薬壺を持つ姿が連想されるが、このように阿弥陀仏と共通の印相や釈迦と同じ印相を結ぶものもあるわけである。それだけだと、薬師仏としての特徴が曖昧になるが、この仏の場合には脇侍として日光・月光両菩薩を従えていることから、薬師如来であることが明らかである。


(薬師寺薬師三尊のうち日光菩薩)

両脇侍は、腰のひねり方や手の位置などがほぼ左右対称になっている。像高は日光菩薩のほうが2センチばかり高い(日光317.3cm、月光315.3cm)。どちらもややうつむき加減で、おだやかな表情をしている。上半身は裸体で、胸には瓔珞をつけ、両肩から衣を垂れている。

これらの仏像は前後左右いずれの方向からも見ることが出来る。むしろそうした視線を前提にして作られているといってもよい。その点も、もっぱら前から見られることを前提にしている前時代の仏像と異なる。


(薬師寺薬師三尊のうち月光菩薩)

https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo02.yakushi.html
3:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:39:13

天平時代前期の仏像2:薬師寺東院堂の聖観音像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo03.seikannnon.html


(薬師寺東院堂の聖観音像)

薬師寺東院堂の聖観音像については造立の経緯に諸説あって定まらない。寺伝の一節に、孝徳天皇の后であった間人皇后が亡き夫のために作らせたとあるが、もしそうだとすれば白鳳時代盛期の作と言うことになる。しかし、この仏像には薬師三尊像の脇侍同様に唐の様式の影響も認められ、それらとあまり違わない時期に作られたとする説もある。そうだとすれば、平城遷都の直前に作られた可能性が高い。

この仏像は薬師三尊像の脇侍とよく比較される。まず、姿勢であるが、両脇侍が腰を軽くひねって動きを感じさせるのに対して、この像はほぼ直立して、しかもシンメトリカルな形になっており、静的な感じを与える。衣装については、脇侍のものは身体にフィットした感じを与えるのに対して、この像の場合には、裳裾の両側が左右に大きく開いており、その点、前時代との連続性を感じさせる。

顔については、両脇侍がふっくらとしてやわらかな表情をしているのに対して、この像の表情はやや硬い(その点で古風な)感じを与える。髪については、両脇侍が丁寧に櫛ったあとが見られるのに、この像はあっさりと仕上げている。また髻の飾りもこの像の方がシンプルである。すなわち、両脇侍が髻の三面に凝った飾りをつけているのに対して、この像は髻の左右両側に唐草模様文を施しているだけである。

以上の諸点からすると、この像は薬師三尊像よりも古風に近いという印象を受けるのであるが、しかし古風な趣を残しながらも、全体的な印象としては唐の様式の影響も感じさせるので、白鳳期には遡らないのではないかとの説が有力である。

なお、この像の髻前面には化仏を刺していたと思われる穴があいている。それがこの像が観音像であることの証拠になっている。なお、観音像といえば右手の方を上にし、左手を提げるのが通常の姿であるが、この像の場合にはそれが反対になっている。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo03.seikannnon.html
4:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:39:53

天平時代前期の仏像3:興福寺の阿修羅像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo04.ashura.html

(興福寺の阿修羅像 脱活乾漆 153cm)

興福寺の阿修羅像を始めとする八部衆像は、天平五(733)年から翌年にかけて造営された興福寺西金堂の群像32体の一部として作られた。この造営を推進したのは光明皇后直属の皇后宮職であり、彼らは遣唐使のもたらした文物等をよりどころにして、最新の唐の様式を採用したとされる。

いずれも脱活乾漆の技法で作られているが、それには高価な漆の原料を大量に必要とするとあって、強固な財政基盤が要求される。当時の政権が仏教文化にかけていた比重の重さが推し量られようというものである。

八部衆像のうちもっとも有名なのが、この阿修羅像である。阿修羅というのは六道の一である阿修羅道の主であり、闘争的とされているが、この阿修羅像の表情には闘争的な雰囲気というよりは、求道者の雰囲気が伝わってくる。

細身の体で直立し、裸の上半身の左肩から衣を垂らし、下半身は下裳をつけている。両手を胸の前で合わせて正面を見つめているが、左右それぞれ二本ずつ別の腕が伸び、また頭部の両側にもそれぞれ別の顔がついている。正面の顔は幾分憂いを孕んでいるのに対して、側面の顔の表情はやや曖昧である。

全体的な印象としては阿修羅道の主と言うよりは、若い女性の、それも憂いを含んだ表情のように受け取れる。この像が現代人の間でも特別の人気を誇っているのは、宗教的な雰囲気と言うよりは、人間的な雰囲気のほうに理由があるのだろう。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo04.ashura.html
5:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:40:33

天平時代前期の仏像4:東大寺法華堂不空羂索観音像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo05.hukuu.html

(不空羂索観音像)

東大寺法華堂に安置されている不空羂索観音像は、東大寺の前身金鐘寺の本尊として作られた。乾漆材を用い、仏としては最も本格的とされる周丈六(十二尺、約3.6メートル)の大きさに作られている。写実を基本とした唐の様式を踏まえながら、仏の気高さ美しさを理想的に表現した傑作との評価が高い。不空羂索観音とは、「慈悲の羂索を以て衆生を愛護引接し、その心に願うところをして空しくせしめず」との意である。

法華堂内陣仏壇中央に、更に八角仏壇が設けられ、その上に立っている。両眼の外、額の中央にも縦に一眼を開き、胸元で合唱する二腕の外に、6本の腕を伸ばし、三目八臂の形をとっている。

整った顔つき、がっしりとした上体、引き締まった腹部、そしてしっかり構えた足もとなど、人間の理想的な姿が表現されているといえる。

宝冠は銀製で、唐草模様を散らし、正面には化仏を埋め込み、両側面には鏡が取り付けられている。銀の輝きの外に、2万数千個に及ぶという勾玉が怪しい光を重ねている。

光背はいわゆる舟形光背で、舟形の光背を環状に四重に重ね、それと交差する形で42本の光線が放射状に延びている。各交点付近には火焔状の唐草文様を配し、天平時代にしては非常に繊細な感じを出している。

台座は、葵花状八角の框座三枚と平たい敷茄子を組み合わせ、その上に蓮華座をおいている。

作られたのは天平十九(747)年で、本体、宝冠、光背、台座いずれも造営当時のままである。


(同拡大図)
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo05.hukuu.html
6:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:41:10

天平時代の仏像5:日光・月光菩薩像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo06.nikko.html

(東大寺法華堂、日光・月光菩薩像)

東大寺法華堂の不空羂索観音像の前に置かれている一対の塑像は、寺伝では日光・月光菩薩といわれ、脇侍のように見えるが、もともとこの寺にあったものではなく、他から移転してきた客仏である。初めて文献に見えるのは江戸時代のことであるから、その当時に移転してきたものであろう。

日光・月光両菩薩は普通薬師如来の脇侍とされるが、薬師以外に釈迦やその他の仏の脇侍とされる場合もある。しかし、この一対の菩薩は、日光・月光菩薩の姿ではなく、明らかに天部の姿をしている。そこで、これらを梵天・帝釈天とする見方が有力になっている。梵天・帝釈天なら、不空羂索観音の本来の脇侍として、こういう場に相応しいし、実際この堂内には、本物の梵天・帝釈天が脇侍として仕えている。これらが日光・月光両菩薩と伝えられるようになったのは、この本来の脇侍と重複することを避けたからだろうと思われる。

客仏でありながら天平時代前期の作と断定されるわけは、塑像による表現や盛唐の様式を感じさせることからである。中心を木材で作り、その周囲に塑土をつけて形を取ったものである。塑土のつけ方は、最深部に荒い土を塗り、その上に麻屑などを混ぜたこまかい土を塗って形を整え、表面に紙を混ぜた細かい土を塗って仕上げるというものである。当初は表面に彩色を施していたと思われるが、今日では彩色は綺麗にはがれて、特に月光菩薩の場合には、透き通るような白さがあらわれている。

なお、像高は、日光菩薩が224.4cm、月光菩薩が226.1cm。これに対して本来の脇侍である梵天は402.8cm、帝釈天が404.6cmである。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo06.nikko.html
7:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:41:49

天平時代の仏像6:東大寺法華堂執金剛神像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo07.kongou.html

(東大寺法華堂の執金剛神像 塑像 167.0cm)

東大寺法華堂の執金剛神像は、「日本霊異記」によれば、東大寺の前身金鐘寺の像として、金鷲行者という者の発願によって作られたということになっている。金剛力士とは、仁王の原初の姿であり、釈迦のボディガードのような存在だった。金剛杵を振りかざしている姿から、執金剛神像とも呼ばれるようになった。

この像は長らく秘仏とされてきたこともあり、彩色の状態がよく保存されている。特に上腕や膝の周囲の極彩色や、花文や唐草文様などが目に鮮やかである。塑像といえば真っ白なイメージを思い浮かべがちだが、もともとはこのように彩色を施されるのが基本だったのである。

執金剛神の役割は、説法する釈迦の背後に立って、敵から釈迦を守ることである。そんな役割が、もの像にも表現されているわけである。黒曜石を嵌め込んだ目をかっと見開き、口を大きく開いて威嚇の声を上げ、右手で金剛杵を振り上げ、左手の拳を握りしめた姿は、今にも敵に襲い掛からんとする勢いを感じさせる。

金剛力士はもともとこのような単体の像であったが、後に仁王となって仏殿の前面に控えるようになると、単体では格好がつかず、阿吽一対の像となった。一対の像であるから二王、すなわち仁王ということになったわけである。


(拡大映像)
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo07.kongou.html
8:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:42:28

天平時代前期の仏像7:東大寺戒壇院の四天王像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo08,kaidan.html

(東大寺戒壇院の四天王像、右持国天、左増長天、どちらも塑像で約163cm)

四天王は仏法の守護神として、わが国では仏教伝来の当初から深い信仰を集めてきた。四天王そのものを本尊とした四天王寺が、仏教寺院としては法隆寺と並んで最も古い寺院であるのを始め、西大寺など数多くの寺に本尊や脇侍として祀られてきた。仏像彫刻として最もポピュラーなものであるし、したがって各時代を通じて芸術的に優れた作品にも恵まれている。そんな四天王像の中でも、東大寺戒壇院の四天王像は、とりわけ芸術的香気に富んだものと言える。

戒壇院にはもともと銅像の四天王が安置されていたが、それらは古い時代に滅びたという。現在ある四天王像は、江戸時代に戒壇院が再興されたときに、他の堂から移されてきた。いずれも天平時代の前期に作られた塑像である。

戒壇院の堂内中央に多宝塔が安置され、四天王はそれを守護するような形で、壇の四隅に配されている。東南には持国天、西南には増長天、北西には広目天、北東には多聞天である。

持国天はただひとり兜をかぶり、手には剣を握って、目をかっと見開き、口をきりっと結び、邪鬼を踏みしめながら、いかにも守護者らしい力強さをみなぎらせている。一方増長天の方は、右手で槍を持ち、左手を腰に当て、口を大きく開きながら、誰もここを通さんぞと叫んでいるかのようである。


(右広目天約163cm、左多聞天約162cm)

持国天と増長天とが非常に動的な印象を与えるのに対して、広目天と多聞天は静的な印象を与える。広目天は筆と巻物を持ち、多聞天は宝刀を掲げているが、どちらも威嚇的な表情ではなく、遠くを見つめるような顔つきだ。

このように、動と静、力と知恵を対照的に表現しているのは、四天王が四躯一体の相のもとでとらえられていたことの現れだろう。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo08,kaidan.html
9:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:43:05

天平時代前期の仏像8:新薬師寺の十二神将像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo09.sinyakusi.html

(新薬師寺金堂内:薬師如来と十二神将)

新薬師寺は、天平の末年に光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈って造営されたものであり、当初は伽藍の連なる壮大な寺院であったらしい。しかし、780(宝亀十一)年の雷火によって伽藍の多くを失い、962(応和二)年の台風により、金堂も失った。現存する金堂は、当初は他の目的で建てられたものを、後になって金堂としたものである。

現金堂内にある薬師如来像は、平安時代初期の一木彫刻で、光背の化仏とあわせて七仏薬師を構成する。薬師如来を取り巻く十二神将は、新薬師寺の近くにあった岩淵寺から移したものである。十二神将は薬師如来の眷属ということになっているので、新たな薬師如来の造営にともなって、格式の高いこの寺に移されたのだと思われる。なお、薬師如来としては、日光・月光両菩薩が脇侍として控えるのが普通であり、実際この金堂内にもかつては両脇侍があったというが、事情があって民間に売り払われてしまったという。


(迷企羅大将、塑像、166.7cm)

十二神将のうち、宮毘羅大将をのぞく十一体が天平時代の作である。これらを作ったのは、東大寺戒壇院の四天王と同じく東大寺造営司であり、したがって作風に共通するところが認められる。もっとも大きな特徴は、各像に静と動の対照と調和を込めている点であり、動的な像としては迷企羅大将と伐折羅大将、静的な像としては波夷羅大将、魔虎羅大将などがあげられる。

十二の神将像は、十二の方角にそれぞれ置かれ、また、藤原時代になると、それぞれの頭上の標識として十二支の動物が施されるようにもなったが、天平時代の作であるこれらの十二神将には、そうした標識はまだ登場していない。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo09.sinyakusi.html
10:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:43:47

天平時代後期の仏像1:東大寺大仏
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo10.daibutsu.html

(東大寺大仏、銅像、高さ1619cm)

東大寺の大仏(盧舎那仏)は、天平十五(743)年に聖武天皇の詔勅によって造営の準備が始められ、様々な段階を踏んで、天平勝宝四(752)年に、全体の完成を前にして開眼供養が行われた。台座連弁や光背も含めて完全な形になったのは宝亀二(771)年のことである。大仏の造営に携わったのは、造東大寺司と称される官営の専門家集団であり、従事した工人としては、大仏師の国中連公麻呂、大鋳師の高市連大国、大工の猪名部百世などが知られている。

この大仏は奈良時代における日本の王朝の権威を象徴するものとして威厳を誇ったが、創建当時の姿を今日にとどめているわけではない。まず、治承四(1180)年に平重衡の乱の兵火で頭部や両手などが焼け落ち、胴体や台座の一部も損傷した。これらは、文治、建久頃(1185-1198)に俊乗坊重源が勧進職になって補修された。

ついで、永禄十(1567)年に松永久秀の兵火によって、再び頭部などが焼け落ちた。この時には、薄い銅板を張りつけただけの仮の補修が施されたが、元禄五(1692)年頃から、竜松院公慶によって現在の形に作り直された。

こんな経緯から、この大仏には創建当時の面影がまったく残っていないかと言うと、そうではない。台座の連弁は天平時代のものがそのまま残っているとされるものであるが、そこに描かれた盧舎那仏像は、東大寺大仏の姿を描きなおしたものと考えられる。その盧舎那仏の姿を見ると、現存の大仏の姿と同じなのである。おそらく、修復はこの絵などを参照しながら、なるべく原像に近いものにしようと考慮されたと思われる。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo10.daibutsu.html
11:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:44:24

天平時代後期の仏像2:東大寺誕生釈迦仏
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo11.tanjo.html

(東大寺誕生釈迦仏、銅造、像高47.0cm)

毎年4月8日は釈迦の誕生を祝う灌仏会という儀式が催される。その儀式に本尊として用いられるのが誕生釈迦物である。生まれたばかりの釈迦の姿をかたどっているこの像は、仏伝に従って、生まれたばかりの釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったという姿を現している。

東大寺に伝わるこの誕生釈迦仏も、右手で天上を指し、左手で天下を指しているように見える。儀式ではこの像の頭の上から香水を灌ぎかける。そのことから甘茶のおしゃかさんとも呼ばれ、また花の季節に行われることから花供養とも呼ばれる。

日本でも灌仏会の儀式は古くから行なわれ、推古天皇14(606)年にすでに元興寺において灌仏が行なわれた例がある。そんなことから誕生釈迦仏の遺品は多数伝わっており、そのなかには天平時代の様式を窺わせるものも多いが、なんといっても最大の傑作は、この東大寺の誕生釈迦仏だといえる。

この像は、丸々と太った姿で可愛らしい笑みを浮かべ、非常に明るさを感じさせる。大仏開眼供養の後いくばくも経たない時期に作られたと推測される。

なお、付属の灌仏盤も本体と同じ時期に作られた。盤の外側には鳥獣や草花の文様が線彫りで施されており、これはこれで素晴らしい意匠である。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo11.tanjo.html
12:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:45:03

天平時代後期の仏像3:唐招提寺金堂盧舎那仏像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo12.rushana.html

(唐招提寺金堂盧舎那仏像、脱活乾漆造、像高303.0cm)

唐招提寺金堂盧舎那仏像は天平時代後期を代表する仏像といえる。全体に写実的であり、肉付きのよい体躯とふくよかな顔つきに天平時代前期の特徴を引きずっているとともに、体躯には横への広がりが強調され、全体的に沈んだような重さを感じさせるところが、天平の盛期を過ぎ平安時代初期につながる作風を感じさせる。

表情の細かいところにも、天平後期の特徴がよくあらわれている。すわわち、抑揚に富んだ切れ長の目、おおらかな唇、ゆったりとした頬の線などである。

光背は千仏光背といって千体の仏があったものと思われるが、現存するのは864体である。それでもなかなかの迫力だ。

唐招提寺は私寺であるが、その造営については官営の造東大寺使が関わったとされる。この像を作ったのも、造東大寺使の工人たちである。台座には、沙弥浄福、塗部造弟麻呂、物部広足の名が墨書されている。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo12.rushana.html
13:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:45:39

天平時代の仏像4:唐招提寺金堂千手観音立像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo13.senju.html

(唐招提寺金堂千手観音立像、木芯乾漆、像高535.8cm)

唐招提寺金堂に安置されている一群の仏像のなかでも、ひときわ迫力を感じさせるのがこの千手観音立像である。なにしろ像高535.8cmの巨体である。しかも、堂々たる体躯からは千本の腕が生えて、様々な方向へと伸び広がっている。その中心となる両手は胸の前で会わされ、顔の表情には独特の威厳を湛えている。その威厳が、見る人々を圧倒する。

この像は木芯乾漆造りといって、木で作った枠の上に乾漆を塗ったものである。これだけの巨体が立っていられるのは、足の心木から伸び出た部分を仏壇に穿った穴に嵌め込んで固定してあるためである。背の低い台座は、このはみ出た心木の部分を覆い隠す役目を果している。

全体的な印象としては、自然な均整と調和を心がけているという点で、天平時代の理念に沿っていると思われるが、独自の特徴も見受けられる。条帛や裳の襞の模様に特定の形式的な秩序が見られること、表情にも精神性の強調が見られることなどである。それらは、天平時代から平安時代への移り変わりを感じさせる点である。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo13.senju.html
14:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:46:16

天平時代後期の仏像5:聖林寺十一面観音像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo14.seirinji.html

(聖林寺十一面観音像、木芯乾漆造、像高209.0cm)

奈良県桜井市の南方、多武峰街道に面した聖林寺の十一面観音像は、天平時代後期の仏像を代表する逸品という評価が高い。この像はもともと大神神社の神宮寺たる大御輪寺の本尊であったものを、明治時代初期の廃仏毀釈運動の折に、聖林寺に移されたものである。

一本造式木芯乾漆といって、頭部から足まで一本の心木で刻み、その上から木屑漆を盛り付けて形を整えている。

体型はすらっとして均整がとれ、肉はやや厚みを感じさせる。一方、表情の方は、物思いに耽っているかのような眼、ぎゅっと引き締まった口、張りのある頬などに、様式的な精神性を感じさせるのは、天平時代後期の仏像の大きな特徴とされている。

天衣、条帛、裳などもふっくらとして物質的な存在性を感じさせ、模様もかなり様式的である。

頭上の十一面のうち、前後左右の十面は菩薩修行の階位である十地を表し、最上部の仏面は仏果を表すとされる。

なお、この写真には見えないが、左手には花瓶をもっている。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo14.seirinji.html
15:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:47:08

西大寺四天王像踏鬼
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo15.saidaiji.html

(西大寺四天王像踏鬼、左増長天、右多聞天)

西大寺は、奈良時代後半に、称徳天皇が父の聖武天皇の東大寺に対抗して建てたもので、その造営のため特別に造西大寺司が設けられた。しかし聖武天皇の時代に比べて国家財政が不如意になっており、東大寺ほど豪華なものはできなかった。しかも、度重なる火災によって建物が焼失し、現存する伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。

西大寺の本尊は、四天王寺同様四天王像である。創建当時のものは火災によって失われてしまい、現在四王堂におかれているものは後世の作である。ただし、踏鬼だけは創建当時の姿を今も伝えている。

四つそれぞれに仕草や表情が違い、個性を感じさせる。共通するのは、形がおおまかで力強さを感じさせる点だ。おおまかすぎて粗雑なところがあるのは、あるいは火災による損傷のせいかもしれない。

西大寺といえば、善財童子を含む文殊菩薩一行が有名であるが、これは鎌倉時代の作である。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo15.saidaiji.html
16:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:47:50

秋篠寺伎芸天像
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo16.akishino.html

(秋篠寺伎芸天像、頭部乾漆像、本体木造、彩色、像高212.1cm)

秋篠寺は光仁天皇による勅願寺で、780(宝亀十一)年善珠僧正の開基になると伝わる。天平末期から平安初期にかけて大いに繁栄したが、1135(保延元)年の火災によりほとんどの伽藍が焼失した。現存する本堂は鎌倉時代に再建されたものである。

秋篠寺の本尊は薬師三尊であったが、原作は消失し、現存の本尊像は室町時代の作である。今も伝わる像の中で天平時代の面影を伝えるのは、有名な伎芸天像を始めとする四体の像、すなわち、梵天、帝釈天、救脱菩薩、伎芸天である。

これらはいずれも天平様式を示す乾漆像であるが、四体とも頭部以外は鎌倉時代に木造で補作されたものである。梵天像の首部にある墨書銘が、その補作の事情を記している。それによれば、1289(正応二)年7月25日に補作が完成、奉行人は藤原光安ということになっている。

これら四体の像は、天平の頭部と鎌倉の体躯とが見事な調和をみせた例として名高いが、なかでも最も名高いのが伎芸天像である。女性的な雰囲気をもつ頭部にあわせて、体躯も女性的な輪郭を醸し出して、全体として一体的なイメージを演出している。これと比較すると、梵天像のほうは、頭部も体躯も男性的なイメージで統一されている。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo16.akishino.html
17:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:48:27

鑑真和上坐像:天平時代後期の美術
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo17.ganjin.html

(鑑真和上坐像、乾漆造、像高79.7cm)

鑑真は中国揚州の律宗寺院の僧侶であったが、742(天宝元)年、遣唐使の留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の十二年間に五回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなったが、753(天平勝宝五)年、六回目にして遂に日本の地を踏んだ。その和上を聖武天皇は手厚く迎え、自身東大寺大仏殿前で和上より戒を受けた。以後和上は、日本仏教における戒律制度の確立に寄与した。

和上は始め住坊として唐禅院を与えられたが、やがてこれを弟子の法進にゆずり、自身は新田部親王の旧宅地を賜って、759(天平宝字三)年そこに唐招提寺を開き、763年(天平宝字七)にその寺で亡くなった。

この像は、鑑真の死後間もなく作られ、鑑真晩年の相貌を伝えるものといわれている。

眼は閉じられていながら、心眼を以て真理を見据えているといった印象を見るものに与える。極めて写実的ながら、なお精神性を感じさせることころは、天平時代後期の代表作たるに相応しい。
https://j-art.hix05.com/04tenpyo/tenpyo17.ganjin.html
18:777 :

2024/01/12 (Fri) 17:01:55

仏像-天平時代
https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/butu-tenp.htm

 「天平時代」の区分を、ここでは「藤原京」より「平城京」に遷都された710年(和銅三)か
ら「長岡京」遷都の784年(延暦三)の74年間といたします。天平時代を一名「奈良時代」
とも言います。しかし、我が国の仏教美術史が、奈良から始まるだけに奈良時代といえば「飛鳥時代」「白鳳時代」も含まれると誤解を招きそうなので、天平時代の方が妥当な年号と
言えましょう。

天平七代の天皇のうち四代、元明(げんめい)、元正(げんしょう)、孝謙(こうけん)、称徳(しょうとく)(孝謙の重祚)の女帝が、在位されたことは他の時代には見られぬ大きな特色
で世界的にも珍しいことです。後の時代、二人の女帝が在位されますが「天皇制中央集権
国家」での女帝は「称徳天皇(孝謙天皇)」が最後と言えましょう。

 天平時代に美術の花が大きく開いた「奈良の都」は、万葉集に「青丹(あをに)よし 寧楽
(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の薫(にほ)ふがごとく 今さかりなり」と詠われております。ところで、「寧楽」ですが「東大寺寧楽美術館」は「ねいらく」と読みます。
 時代は「塔」を中心とする伽藍配置から「金堂」を中心とする伽藍配置に変わり、礼拝の対
象が「塔」から「仏像」に移る「仏像崇拝」となりました。結果、素晴らしく大きな像が数多く
造られました。当然、塔は不要となるべきでしたが境内の象徴的な建物として生き残りま
した。
 江戸時代の俳聖・松尾芭蕉が「菊の香や 奈良には古き ほとけたち」と詠んだように古都
奈良には幾世紀もの歴史を経て生き長らえた「み仏」が皆さんを温かく迎えてくださいます。
 
  「天平時代」は「明治時代」「太平洋戦争後」と同じように先進国に追付き追い越せの時代で、躍動溢れる活気のある時代でした。それだけに、あらゆる分野にわたって当時の先進
国「唐」の影響を、一番受けたと言うより受け入れた年代でした。その唐の影響を受けての
仏像の制作は、色々な種類の素材が使われました特異な時代でした。
 国の威信を掛けた「重要政策」の中には大規模な寺院の造立があり、そのため、「造東大
寺司」などの臨時の役所まで設置し造寺造仏が盛んに行われました。これらの役所は設立
当初は臨時で工事が終われば解散するものでしたが次第に永続性のものに変わっていきま
した。造東大寺司の造仏所だけでも1,619人以上の技能者が働いていたとのことで想像以
上の大掛かりな組織で運営されており、それら官営工房では組織力を利用して数多くの美
術品が造られました。国を鎮護する国家仏教としての造寺造仏でもありましたので「仏師」
は国家公務員のエリート扱いを受けておりました。
 
 どうして天平時代にあれだけの素晴らしい美術作品が造られたのかを考えて見ますと、
その頃の「仏師」は熟練度にもよりますが破格の待遇を受けていました。その高給取りのプ
ライドをもって意欲的に制作に励んだのと、当時は徹底的な成果主義であり作品の出来栄
えによって業績評価が決められたからでしょう。 
 重要政策での大規模な造寺造仏で、今なお優れた仏像の豊富なことが、古都奈良の魅力
となっております。しかし残念なことに、天平時代の面影を色濃く残している古都奈良の
歴史を、ご存じない不幸な方が多くいらっしゃることは由々しき問題です。

 「仏師名」が記録されなかったのは当時の仏師が国家公務員だった事と当時盛んだった脱
活乾漆造の場合、作品を仕上げるのに1躯ではなく多躯制作でなければ大変な手間と経費
が掛かる造像技法だったのでどうしても流れ作業の分業にならざるを得なかったからでし
ょう。天平時代で仏像の制作に関係した者で氏名が分かるのは一部であり、東大寺大仏造
営で陣頭指揮した「国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)」などの渡来人たちです。現
代の公麻呂と言えば「綾小路きみまろ」さんですね。前代に続いて造像には渡来人が重要な
役割を果たしました。
 「脱活乾漆造」の作品が多くあるのはその時代趣向の写実的な表現に「塑像」と同じく素材
が適していたからでしょう。「木彫像」のように削り過ぎると補整が困難なのに比べて加工
性に富んで細かい塑形をいくらでも修正しながら制作できる材料の特性があらばこそでし
ょう。これらの造像技法は中国から学んだものでありますがこの脱活乾漆像の遺品が中国、東南アジアには皆無であるのに対し、古都奈良には多く残っていることは世界遺産そのも
のです。しかし反対に、中国には我が国では少数である「塑像」「石像」が数多く存在いたし
ます。それゆえ、「金」と同価格と言われた「漆」の素材と秀れた仏師の技の融合が世界的に
も名高い仏像を生み出し、感動と興奮を与える仏像は古都奈良にしか存在しないと評価さ
れるようになったのであります。
一方、「木彫像」が少ないのは霊木信仰の時代のため「一木造」でなければならず素材以上
の大きな仏像が出来ません。ところが「脱活乾漆造」は巨像の制作が可能で、国家鎮護目的
の巨像制作の要求に応えることが出来たのであります。

軽量な「脱活乾漆像」に比べて「金銅像」は重量がある欠点がありました。武家政権が目の
敵にした僧の姿をした僧兵軍が政争に首を突っ込んだ「興福寺」「東大寺」では、本尊の金銅
像は兵火による火災時に搬出叶わず損壊して仕舞いました。助演者だった八部衆「阿修羅
像」の洗練された魅力から考えると本尊の金銅像はそれはそれは眼を見張るばかりの迫力
ある像だったことでしょう。

国力を注ぎ込んで造仏事業に傾注し過ぎたため、高価な「漆」を大量消費したり大型の金
銅像の造営に国内在庫の銅を使い切ったりして仕舞い、現代の超デフレとは逆に超インフ
レとなり経済状況は極度に悪くなる一方でした。それに、貨幣の発行で、和同開珎(708年)萬年通寶(760年)、神功開寶(765年)と発行されましたが当初は物々交換制度でしたのでな
かなか流通せず朝廷はお金を貯めた者には官位を与えたりして流通に力を入れました。な
ぜならば、貨幣の製造原価と貨幣の流通法定価値の差額が朝廷の収入となり、朝廷にとっ
て財政的には優れた政策だったからです。しかしその裏には、「旧銭」と「新銭」の発行原価
がさほど変わらないのに「新銭」は「旧銭」の10倍もの法定価値があると決めたりしました
のでインフレを増長させることになり、庶民は貧窮に苦しむことになりました。 
 さらに、当初は政治と仏教は良き関係でしたが、不幸の始まりは僧侶が都市仏教である
ゆえ中央政界に進出、「道鏡」のように僧侶でありながら天皇を志望したり仏教界が政治に
大きく関与する弊害もありました。そこで、これらを解決する手段として「桓武天皇」は長
岡京に続いて平安京への遷都を決断、その遷都の際行われる寺院が古都から新都に移動す
る慣例を廃止し、官寺の造寺造仏の取りやめなどで仏教界の粛清を図りました。
 平安京遷都で平城京は寂れましたが古都奈良の町全体が灰燼に帰す内戦が起こらなくな
ったことはかえって幸いでした。庶民の犠牲の下に築かれた天平文化でしたが素晴らしい
作品が多く残っておりますのは世界的に見ても奇跡としか言いようがありません。

 仏像を制作する際「儀軌(ぎき)」という守らなければならない約束事があります。その
儀軌の中には「仏像のお話」で記載いたしました「仏の優れた容姿の特徴で32の大きな特
徴と80の細かい特徴の三十二相八十種好(さんじゅうにそう・はちじつしゅごう)」も含
まれております。儀軌は仏像の形、大きさ、服装、壇場の飾り付け、拝み方などこと細か
く規定されております。儀軌は密教で重視された影響で平安時代以降では厳然と守られま
すが天平時代は仏師が理解していなかったのか重要視されておりませんでした。それだけ
に仏師の思い思いの個性を発揮された像が造られております。それと、天平時代は戯画が
多く残されており、唐招提寺梵天立像の「台座」には落書きがありそこにはおおらかさが過
ぎて色んな画像に交じってHな画像までがあります。
 「新薬師寺十二神将像」は等身大の立派な像ですが平安時代になりますと儀軌に忠実な小
型の像になります。新薬師寺の本尊「薬師如来像」を取り囲む「十二神将像」のパノラマは見
事です。天平時代の面影を残した唯一の本堂と併せてご覧ください。「新薬師寺」の拝観だ
けでも古都奈良を訪れた価値がありますので新薬師寺拝観だけでお帰りになることをお勧
めいたします。それは、古都奈良の仏像を見れば他の仏像は見れたものではないと常々申
しておりますように、感銘深い仏像の集合体である古都奈良のお寺を、二ヶ寺、三ヶ寺と
強欲に回られますことは高級料理店をはしごするのと同じで感激が薄れてしまいかえって
思い出が残らないものになるからです。その点から言えば「法隆寺」などは高級料理店の集
まりで、かけがえのない大事な思い出作りのためには何回も訪れる必要があります。
 儀軌のように詳しくはありませんが「経典」にも仏像の制作の定めがあります。この経典
と儀軌とを併せて「経軌(きょうき)」と言います。

白鳳時代の個人礼拝用の童顔・童児の愛くるしい小型像から国家鎮護の役目を負らされ
た成人の像に変わり写実主義も頂点に達します。しかし、節度ある写実主義を極めた反動
で天平時代の終末には男性的な厳しい表情、沈うつな表情や誇張されたバロック調の像が
現れてきます。このことは、次代の弘仁・貞観時代の仏像様式の先駆けを成していました。
 「東大寺戒壇院四天王像」などは眉をひそめた程度で怒りを表し仏敵を威嚇、一方、バロ
ック調の「新薬師寺十二神将像」は身振り手振りの大げさな振る舞いで威嚇いたします。戒
壇院像は和様の美術、新薬師寺像は大陸様の美術とも言えます。

遣唐使が中国龍門の「奉先寺盧舎邦大仏像」を見てきた話に「聖武天皇」が刺激を受けて
「東大寺盧舎邦大仏像」の造像に踏み切られたのでありましょう。奉先寺大仏像は「磨崖像」
でありますが東大寺大仏像は「金銅像」で我が国では磨崖像の素材に恵まれなかったのに、
国内在庫の銅を使い切ってまで造像されたのは天平時代だったからでしょう。世界に目を
向けても今回、世界遺産に指定されたバーミヤンの磨崖大仏を始め、中国の磨崖大仏など
総て素材は「石」に限られておりますのに、東大寺の大仏だけが「銅の金メッキ造り」で、よ
くぞ東大寺大仏が完成されたものだと感心いたします。以前に「紫香楽宮」において大仏の
造営が起こり中断となりましたが、そのことが良きリハーサルとなったことでしょう。

 「漆」素材の技法から天平時代を考察しますと律令制度が確立した頃の「脱活乾漆造」から「木心乾漆造」、「木彫像一部乾漆」へと国家財政が厳しくなった影響を受けて漆素材がだん
だん節約ムードになっていったことが分かります。例外としては天平末期に造られました「唐招提寺本尊盧舎邦仏像」が脱活乾漆造です。その流れで、次の平安時代は「木彫像」一辺
倒となります。

 我が国で肖像彫刻の最高傑作と評されるのは「鑑真和上像」と「行信僧都像」ですが、両像
ともに見事な出来栄えでこれこそ写実主義の頂点を極めた作品です。ただ惜しいことに、
鑑真和上像は6月の3日間だけ(今年は特別の9日間)の拝観で、行信僧都像は少し見辛い
位置に安置されております。  

           
塑 像 (塑像のお話)

塔本四面具(法隆寺)
  
    執金剛神像(東大寺)  
  月光菩薩像(東大寺)   
    持国天像(東大寺)  

   迷企羅像(新薬師寺)            伐折羅像(新薬師寺)
 
脱活乾漆像 (脱活乾漆像のお話)
 
  阿修羅像(興福寺)       
   迦楼羅像(興福寺)
迦旃延像(興福寺)
 
金剛力士像(東大寺)
 不空羂索観音像(東大寺)
梵天像(東大寺)

      行信僧都像(法隆寺)
  鑑真和上像(唐招提寺)

毘盧舎那仏像(唐招提寺)
薬師如来像(法隆寺)
伎芸天像(法華寺)
 
木心乾漆像 (木心乾漆像のお話)

 千手観音像(唐招提寺)
千手観音像(聖林寺)
 
木 彫 像 (木彫像のお話)

  九面観音像(法隆寺)
梵天像(唐招提寺)
 
金 銅 像 (銅像のお話)

月光菩薩像(薬師寺)
薬師如来像(薬師寺)
日光菩薩像(薬師寺)

https://www.eonet.ne.jp/~kotonara/butu-tenp.htm
19:777 :

2024/01/12 (Fri) 17:04:45

天平のミケランジェロ 国中連公麻呂

国中 公麻呂 くになか の きみまろ(奈良県 生年不明 - 774年11月11日)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16834873



田中英道◉日本から見たサピエンス全史#26◉奈良天平時代の天才作家・国中連公麻呂!天平のミケランジェロをご存知か!
2020/07/06
https://www.youtube.com/watch?v=Yg35YD67erM

世界がミケラジェロを絶賛するように、国中連公麻呂はもっと注目され大絶賛されるべき日本を代表する天才であると、田中英道先生は論じます。

◾️国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ / 生年不明〜774年)
天平の大彫刻家(仏師)。その作品には、東大寺大仏・大仏殿。東大寺法華堂の不空羂索観音・日光菩薩・月光菩薩、東大寺戒壇院の四天王像、新薬師寺の十二神将像、唐招提寺の鑑真和上坐像、法隆寺の行信僧都坐像。ほかが挙げられる。


田中英道◉日本から見たサピエンス全史#25◉奈良文化を再発見せよ!〜アテネ・奈良・フィレンチェは世界三大文化都市
2020/03/30
https://www.youtube.com/watch?v=SPZJB4tzKsY&t=0s

世界三大文明はこれまでお伝えしてきた通り、

1.ギリシャ・ローマのヨーロッパ
2.ユダヤ・キリスト・イスラムの中東
3.日本を中心としたアジア

でしたが、都市で言えば

1.アテネ
2. 奈良
3.フィレンチェ

であると田中先生は述べます。

これより先は、飛鳥・奈良時代から始まる日本文明の歴史を、紐解いて参りたいと思います!



田中英道『天平のミケランジェロ 公麻呂と芸術都市・奈良』弓立社、1995年9月
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E2%80%95%E5%85%AC%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%A8%E8%8A%B8%E8%A1%93%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF-%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%86%8D%E8%80%83-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/48966756

内容(「BOOK」データベースより)
ルネッサンスより800年前の奈良・天平時代に、ミケランジェロ級の大彫刻家がいた。七世紀の日本は、紀元前五世紀のギリシア、十六世紀のイタリアと並ぶ、世界的な美術の黄金時代だった。その天才群の中で、ひときわ輝く、「奈良の大仏」を作った公麻呂…。今まで、だれも問題にしなかった、天平時代の名作の作者を推理・特定し、西洋のミケランジェロなどと同じ水準の評価を、世に問う。江戸時代の『万葉集』再評価に匹敵する、世紀の野心作。

内容(「MARC」データベースより)
七世紀の日本は世界的な美術の黄金時代だった。その天才群の中でひときわ輝く、奈良の大仏を作った公麻呂。この天平時代の名作の作者を推理・特定し、ミケランジェロなどと同じ水準の評価を世に問う。

カスタマーレビュー

hermes
5つ星のうち5.0 仏像が、これほど優れた芸術作品であるとは知らなかった、もったいない
2022年7月24日

ミケランジェロによるローマ、システィナ礼拝堂の天井画の修復に関わり、レオナルド・ダ・ヴィンチ研究で、あのケネス・クラークから賛辞をおくられた、西洋美術史の第一人者、田中英道先生が、日本美術に目を転じ、25年前に書かれた本。

日本の歴史を学校で習いながら、仏教美術の解釈については全く知らず。ルネサンス、フィレンチェには、『美術家列伝』を著したヴァザーリがいたのに対し、日本では、これまで日本美術史家らによって、工房の作とされてきたから。つまり文献が残されていないから、と。それに対し、田中先生のアプローチは、西洋美術解釈のモレリアンメソッドなど、作品の“かたち”から、作家を同定するもの。鋭い観察、膨大な史料の解析により、日本でも、ギリシャ、イタリア美術と同様に、美術表現がアルカイズムからクラシシズム、バロックへと様式の変遷が見られることを立証。

15世紀ルネサンスのミケランジェロに比する8世紀奈良の国中連公麻呂(くになかのむらじ・きみまろ)の作品をメインに紹介する一方、ドナテッロに対応する将軍万福(しょうぐんまんぷく)、それ以前の止利仏師(とりぶっし)らの傑作を解説。イタリアルネサンスの700年も前に、日本にこれほどの天才芸術家たちがいたとは!しかもルネサンス期のネオプラトニズムに対し、盧遮那仏(るしゃなぶつ、大仏のこと。現在のものは江戸時代に作られたもの)建立の礎となった華厳経の思想的背景まで迫り、優れた美術作品の誕生には、これらが必須と。日本人でありながら、日本にいながら、これほどの芸術作品が、先人たちにより遺されたことを知らず、世界に発信していない、また満足な修復さえ施されていない、とは痛恨の極み、文化庁の怠慢だけなのであろうか。


▲△▽▼


田中英道東北大学大学院教授ってどうよ
https://academy3.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1029412317/

157 :わたしはダリ?名無しさん?:04/11/24 23:36:39

なんで田中さんはこんなになっちゃったんだろ??


158 :わたしはダリ?名無しさん?:04/11/27 01:30:53

同じアホでも篠沢教授みたいな路線なら人畜無害なのに、よりによって作る会だもんなあ


111 :わたしはダリ?名無しさん?:02/11/02 23:23

あの人の文章って支離滅裂で何言いたいのかわからんところ多いんだよな。
ああっ、「そらお前の語彙力が貧弱なんじゃ!」というツッコミが聞こえる。。。


118 :わたしはダリ?名無しさん?:03/01/02 08:25
>>111
俺もよくわからないこと多い。
文の前後の繋がりが不明瞭なことが多いっていうかね。


144 :わたしはダリ?名無しさん?:04/01/06 04:36

かつて、洋行帰りに大量の無修正エロ本を税関で取り上げられたというレジェンドの持ち主


147 :わたしはダリ?名無しさん?:04/06/14 18:23

講義でもますます快調に毒電波飛ばしまくる田中先生
西洋美術史の授業なのに延々と日本の仏像の話するのってどうよ
ああ、今年度末のご定年が待ち遠しいなあ。

...と、研究室のみんなの気持ちを代弁してみるテスト


151 :わたしはダリ?名無しさん?:04/09/16 23:10:10

最近出した新書、何ですかあれ?
完全にイカ(以下略


161 :わたしはダリ?名無しさん?:皇紀2665/04/01(金) 08:44:32 東北大はめでたく定年だな
西美のスタッフ・学生一同も喜んでるよ


8 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/16 08:38

しっかりした研究者だったのに、
運慶がどうとか、写楽がこうとか、専門分野でも
最近電波発信しまくってるけど、
いったいどうしちゃったんどうろう?

あ、それと彼の『フォルモロジー研究』は俺が東京でリサーチした限り、
各古書店での在庫率が一番高い美術研究書だと思う。
似たような書名・装丁の『イコノロジー研究』はなかなか手に入らないのに・・・
皆が売払ってしまいたくなるほどのDQN本なのか?
俺はまだ読んでないけど・・・(読む予定もなし)

12 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/16 23:41
>>8
>しっかりした研究者だったのに、
>運慶がどうとか、写楽がこうとか、専門分野でも
>最近電波発信しまくってるけど、

西洋美術が専門だから、運慶も写楽も全然専門分野ではないよ。
日本彫刻史の専門家からは全然相手にされていない。
一人だけネガティブな批評を書いた研究家がいたが、それに自著で猛反発。
しかし、その後は全く無視されているらしい。


15 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/17 14:15

フランスで博士論文にしたジョルジュ・ド・ラトゥール研究は今でも基本書だが・・・
まあ20世紀では最初期のカタログの試みだったというだけかもしれん。

16 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/17 22:59

天平のミケランジェロ
運慶とバロックの巨匠たち
実証 写楽は北斎である
法隆寺とパルテノン
 (プププププ

17 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 00:21
>>16
「天平のミケランジェロ」というのは造東大寺司次官の国中連公麻呂のことらし
い、そしてドナテルロが興福寺の阿修羅像などの作者とされる将軍万福らしい。

この人は天平期の傑作、例えば新薬師寺十二神将像・東大寺法華堂日光月光菩薩
像・東大寺戒壇院四天王像・唐招提寺鑑真和上像などの像の作者を著書の中で勝
手にこの天平のミケランジェロ国中連公麻呂と断定している。

まあ、自分の著書で何をどう書こうが自由なのだが、その学界では全く認められ
ていないDQN説を、こともあろうに扶桑社版「新しい歴史教科書」の中で、あ
たかも広く学界で認められている「定説」であるかのように記述しているのだ。

新しい歴史教科書に反対する陣営もこのことについて触れる人はいないが、教科
書執筆者として、このような態度はいかがなものか。


19 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 05:41

24 名前: goatsong 投稿日: 2002/08/17(土) 17:46
ところで、英道さんがある天平彫刻の作者帰属(国中連公麻呂だとか)を行っ
た時、「史料にない」とかなんとかいう理由で、その帰属にいちゃもんをつけた
学者がいたそうな。詳しくは知らないので何ともいえないのだが、もし理由が
それだけなら、この学者のオツムの程度が知れると思う。「史料がない」こと
は、「この帰属は間違っている」という何らの根拠にもなりえない。例えばルネ
サンス期の芸術には、署名なんかもなく、来歴の確認出来ないものが五万と
ある。これは巨匠も同じで、署名や史料のあるもの(基準作)なんかは実際に
は指で数えるほどしかない。

それをどうやって色々の芸術家に帰属させるのかといったら、これは作品自
体の分析(画材や様式等)を通して行われるものであって、そういう結果の後
に今日、例えばヴェロッキオの「キリストの洗礼」の部分が、レオナルド・ダ・ヴィ
ンチに帰属されてる。まぁ、そういったわけで、仮に「違う」と主張するなら、そ
の反対史料の存在以外には、作品自体の分析の結果を提示しない限り、も
う全然意味は無い。
(ちなみに英道さんは、正にこのような日本美術史の史料偏重と様式論の貧弱を批判している人なのです)


25 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 16:21
>>19
お前・・・現場の人たちに殺されるぞ。
なんの史料もない、言い伝えのみの仏像を相手にして
年代設定と仏師の出自の推定をしてるんだぞ。
お前、調査の現場知らないでいってるだろ。


27 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/18 19:01>
>>19
自分の著書でどんな学説を書こうが自由だ。しかし、中学生が学ぶ社会科の教科書に学界
では全く認められていない自説(学界ではドキュソ説とされている)を、あたかも確定さ
れた定説のように断定的に載せるのはいかがなものか。教科書を自説の宣伝の場として使
っているとしか考えられない。と、俺は言っているだけだ。田中英道の手法、及びその説
が正しいのか、正しくないのかなどという議論はしていない。


31 :25:02/08/18 19:26

>正にこのような日本美術史の史料偏重と様式論の貧弱を批判している人なのです)

って記述にかっとしちゃったよ。

T氏の日本関係の著作、特に仏像関係は読んでるんだが
明らかに史料を誤読してるし、現代の研究者の論文まで
正反対の意見をいってることにして引用してたりするわけですわ・・・
たとえ仮説として独創的でも、やっぱり即物的な史料の無視・詐欺的引用があると困るんだ。


36 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/19 00:52

某サイトのBBSからのコピペ。

さて、ご指摘の田中英道氏については、私自身はあまり存じ上げておりませんので、ご紹介下さった「天平のミケランジェロ」という本をあたろうと思いましたが、拙ページの「文献」に収録されていない本なので、他のスタッフもおそらく知らないのかもしれません。 ○○○○に電話して聞いてみたところ、

「ああ、あの方は西洋美術の専門家ですよ」

と言い、

「西洋美術の専門家なのに、日本美術についても色々論を出しておりましてね、ただあの方のメジャーは西洋美術のそれでしかないのに、それで日本美術をも論じて独特の見解を述べられておりますね。奇特な方だなあ、とは感じております」

と話しておりました。

××様の御見解にありました、

「奈良時代の作家をドナテルロやミケランジェロに準える、鎌倉時代美術をバロックに準える」考え方を話したら、笑っていました。

「それが田中さんの奇特な点でしてね、少なくとも私個人としては全面的に受け入れ難い。
まあそういう極論もあるかと、適当にほっとくのがいいですね。
あんまりあの方の論をまともに受け取らないことを、私はおすすめしますが」

と話しておりました。

37 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/20 20:53

比較芸術学とか比較史学とかの方法論はあるが、田中さんのは、なあ……


46 :わたしはダリ?名無しさん?:02/08/25 02:24

まあ、それ自身偉大な天平や鎌倉の仏師たちを説明するのに、わざわざドナテルロやミケランジェロを引き合いに出して「ニッポン版ミケランジェロ」とか矮小化したような言い方をしてしまうあたり、このおじさんは自分の国の文化に対し本当は劣等感がある、強い西洋コンプレックスの持ち主だなあと思います。
のびやかさとは無縁な、怨念のこもった認識をお持ちのお方だね(ピュア


116 :わたしはダリ?名無しさん?:03/01/02 04:50

「田中英道」って検索したら、ここに流れてきたのですが、現在の彼ってやっぱり「キワモノ」だと思います。

確かに昔は「学術的に」実績を残している「らしい」けど、やはり「営業右翼」と揶揄されている3K新聞とつるんでいる事で、もう終わっていると。

ジェンダー系の美学・美術史のワークショップに出入りしてたときも、彼の話題が出てましたが、出席者(もちろん「研究者」です。)の方たちは、彼の言説がどうこう、というより、彼を取り巻くメディア環境から判断して、既に「終わってる」 と判断されてました。「まともに相手をするのはよそう」と。

ただ、怖いなぁーと感じるのは、そうした態度が「結果的に」田中氏のような方を「野放し」にしていることにあります。

ここにおられる方は、研究者としての「立場」を堅持されようと努力されている方ばかりなので、慎重になっておられる。

大袈裟な、的はずれな言い方かもしれませんが、「嘘も100回言えば、本当のことになる」ということもあります。

専門家の皆さんだからこそ、早めに声を上げておいた方が、「いろんな意味」でよろしいかと思うのですが…。

117 :わたしはダリ?名無しさん?:03/01/02 07:17

うーん、割とあの人の言うことは納得出来る部分あるけどな。
あの人の作品評価や作者認定についてはちょっと疑問に感じる部分はあるし、
つくる会とつるんでるのも嫌なんだが・・・
でも確かに天平彫刻だろうが作者はいて当然だと思うし、
無著世親像を「弟子が彫るのを運慶が指導した」なんて説明されると
ちょっと一般人の理解を超えてる感じがするよ。
田中説が極論に過ぎるとしても、ある意味では日本の美術史界に
対して大きな問題提起にはなると思う。

田中さんが日本の美術史に対して専門の人に比べると弱点が多いのは
間違いないので、これから専門の人達がその問題提起をどう受け止めて
発展させて行くかってのが楽しみ。
ま、無視されてるんじゃ何も起きようがなさそうですが。
それと日本の美術家を評価するのにミケランジェロとかドナテッロとか
持ち出して来るのはどうかと思うな。
世界を視野に入れた上での位置をはっきりさせたいという狙いがあるのかもしれんが。
それと同じく☆の評価も・・・
https://academy3.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1029412317/


▲△▽▼


西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html
20:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:42:10

ああああ

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