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天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人

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2022/06/01 (Wed) 19:11:57

 
天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人


現時点でわかっている事を纏めると

日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

弥生初期に水田耕作を生業とする朝鮮無土器文化人が北九州に移民した。

朝鮮無土器文化人の遺伝子は現代日本人と同じで、縄文人とは混血していない。即ち、縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った。

弥生時代後期に福岡の伊都国に漢民族系朝鮮人が植民市を作り、朝鮮の漢民族と奴隷貿易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族かが簡単に判別できます:


縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

倭人・朝鮮無土器文化人・弥生人
鳥信仰、太陽信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰、天照信仰


詳細は

稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が九州に移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居と鳥信仰
https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/moat-encircled-village/

朝鮮を追われた天皇家が日本に移住して作った伊都国・邪馬台国での鏡信仰
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


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朝鮮と日本の神話の類似性

上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

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高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注
1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91

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10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg
天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html

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昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643
2:777 :

2022/06/02 (Thu) 01:36:23

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない

日本人(縄文人、弥生人、アイヌ人、琉球人)は漢民族と混血していない限りは全員二重瞼です。


兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説
2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512


兵馬俑(2016年5月6日撮影、資料写真)。(c)CNS/ケイ利宇
始皇帝の兵馬俑(2015年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/彭華

【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。

 大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。

 兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。

 千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。

 兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。

■その1・顔料の色落ち説

 兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。

■その2・職人の手抜き説

 二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。

 ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。

■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説

 ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。

 2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。

 医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。

 晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。

 一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。

 千年の月日が流れ、秦の兵馬俑はすでに秦帝国の栄枯盛衰を忘れ、血統に関心を払う者はいない。兵馬俑の形状や表情を通して、当時の文明や社会の様子を理解することができる。今日に至るまで、兵馬俑は人類の歴史と文化の宝庫であり、依然として無数の神秘が眠っている。新たな発見とその継承が待たれる。(c)CNS/JCM/AFPBB News
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※この記事は、CNS(China News Service)のニュースをJCMが日本語訳したものです。CNSは1952年に設立された中華人民共和国の国営通信社です。
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512


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天皇一家ってなんで一重ばっかなの?


Q : 皇室関連ニュースをみて思うのですが、皇室の方々、特に今上天皇ご一家に特徴的な「切れ長、一重まぶたの目」は島津久光公、ひいてはその母である江戸の大工の娘、お由羅の方からの遺伝といえるでしょうか?

私は右派でも左派でもなく、ただ単に遺伝の話をしています。

ご存知の方も多いと思いますが、現皇室には香淳皇后の実家、久邇宮家を通じて、久光公・その息子である島津宗家29代忠義公の血が流れています。

久光公・忠義公・久邇宮邦彦王妃俔子殿下・その娘である香淳皇后陛下と、写真の残っている四人の故人はいづれも特徴的な「切れ長・一重まぶたの目」をされています。やや高い鼻梁も特徴かと思われます。

久光公の異母兄・島津斉彬公は疑問符つきの不鮮明な写真しか伝わっていませんが、日本の西南方に多い顔の特徴といえばいわゆる「どんぐりまなこ」ではないでしょうか。

もちろん高貴な家の方々は何代にもわたって諸方の貴族と婚姻関係を結んでいるので、一概に地方的な顔の特徴と結びつけることはできませんが、司馬遼太郎氏の小説に斉彬公と久光公の容貌の相違が描かれており、久光公の容貌が

「そいだような切れ長の目鼻は、薩摩顔ではなかった。そのため『お由羅顔』と呼ばれ、正義派の面々からは嫌忌の対象となっていた。」

とあります。


司馬氏の歴史家としての力を信用しているわけではなく、逆にいわゆる「司馬史観」の弊害から疑問符をつけている私ですが、久光公から四世代「切れ長の目」の持ち主が続いたことは事実です。

さて、現皇室の話に戻しますが、今上天皇陛下・陛下の弟宮であらせられる常陸宮殿下、皇太子殿下・秋篠宮殿下・黒田清子さんの三兄妹、陛下の孫世代のなかからは皇太子家の愛子様、秋篠宮家の眞子様・悠仁様、といずれも「切れ長・一重まぶたの目」の持ち主です。

お由羅の方の容貌は明らかではありませんが、これだけ続くのはよほど強い遺伝子なのだなあと感じます。

単に「大陸系・渡来系の顔である」と言い切ってしまうのは簡単ですが、「現皇室の方々のお顔は、少なくとも久光公以来の島津家の遺伝である」と言えるでしょうか?


Ans1 : annodomini_op01さん


まず、島津家。

久光の写真では切長かも知れないが一重かは解らない。
一方、島津重豪(肖像画)も目は「切長」であり、
さらに、島津斉彬(肖像画)は「切長一重」である。
つまり、「切長一重」が由羅に由来するという事が言えない。

次に皇室の方を。

香淳皇后は確かに俔子妃に似ておられるが、父宮たる邦彦王も「切長一重」です。
つまり邦彦王と俔子妃の子孫が「切長一重」として、それが島津家に由来するかどうかすら何とも言えず。

さらに孝明・明治・大正・昭和天皇は「切長一重」の様子です。

由羅の血は今上天皇からしか入ってないのに、現に孝明・明治・大正・昭和四帝が既に「切長」だったり「一重」です。

無関係な筈の徳川慶喜も「切長一重」ですね。

私は慶喜の曾孫に会った事が有りますが、見事な「切長一重」です。


____


Ans2 : tefu3tefu4さん

メンデルの法則や、イギリスのビクトリア女王からの血友病因子が、19世紀から20世紀前半にかけての子孫の婚姻で、欧州の王族男性に、血友病患者拡大系図に、中学時代からこの遺伝の話は、大好きです。

普通は、遺伝学上、一重まぶたと二重まぶたとでは、二重まぶたの方が、優性遺伝で、多いはずなんですがね。

皇室では、昭和天皇の香淳皇后の母方の島津系顔立ちが、子孫でも、特に、長男の今の天皇の顔立ちに遺伝していますよね。

他の兄弟には、島津系容姿が引き継がれていませんね。

今では、皇室顔と呼ばれるようになった香淳皇后の若い頃の、細面の輪郭に、切れ長の一重に鷲鼻の容姿。

それは、天皇の子供では、皇太子と黒田清子さんが引き継がれましたね。

秋篠宮も、鼻の形のみ引き継がれましたね。


孫世代では、愛子さんは、輪郭は、雅子妃だけど、目鼻立ちは皇太子似。

秋篠宮家では、眞子さんが父似の顔立ちだけど、島津顔ではない。

佳子さんは、二重で、容姿は、両親のいいとこどり。
悠仁くんは、容姿は、紀子妃の実家の川嶋系の顔立ちですね。

母の美人度が、皇室の血と混じってしまうと、娘は、佳子さん以外は、父親似なのが面白いです。


島津系では、島津久光の母のお由羅の方の容姿は、肖像画が残ってないので、その容姿が遺伝したかどうかわかりませんね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10106500930


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渡来した「O2」漢族系侵略者


日本人の支配階級のY-DNA「O2」

  日本人の原風景に全く無関係で、韓半島から勢力争いに負けて追い出され流れてきた好戦的な戦闘集団が、日本列島に逃れてきて旧唐書にあるように日本なる小さな上陸拠点を恐らく九州当たりに作りそこを足がかりに勢力を増強しながら、先に韓半島から逃れてきていて勢力を持っていた先住「O2」集団や縄文-弥生集団を武力で征服しながら東征を行ったのが大和朝廷族と考えられます。


  現在報告されている日本列島のY-DNA「O2」の遺伝子の亜型、子亜型は中華大陸の型と全く同じだと言うことは、日本列島で「O2」集団は征服した縄文-弥生集団との交配をしてこなかったことを示しています。

   これだけ見ても「O2」集団は支配者階級意識の強い嫌な連中だったことが良くわかります。


日本列島の「O2」合計は約19%です。日本人男性の5人に1人は「O2」なのです。


日本の成立考

何故百済や伽耶は日本列島の倭と連携をとることが多かったのでしょうか?

理由は簡単で韓半島南部に位置したため非支配層がY-DNA「O1b」集団だったからです。ただし支配層は帯方郡などの中国王朝の出先機関から追い出されてきた漢族です。高句麗等の新興勢力との抗争に負けた出先機関の「O2」漢族が韓半島を南下し土着の「O1b」を支配し作ったのが百済でしょう。あくまで漢族支配王国なのです。

  現在北朝鮮の遺伝子調査の報告は全くないため、韓半島北部の様子は皆目わかりません。しかし、日本列島にはないY-DNA「C2b1a2」が南部(韓国)に13%近くあるということは、北部にあった高句麗が「C2b1a2」ツングース族支配の王朝で、中国王朝の出先機関にいた漢族が非支配層である可能性は大です。

しかし新羅は百済同様「O2」漢族支配国家で、非支配層も漢族(一部ツングース「C2b1a2」もいたでしょう)でもある王朝ではないかと思います。高句麗は滅んだ後、支配層のツングースは留まったか北へ逃げ、非支配層の漢族戦闘部隊の一部は恐らく日本海側から日本列島に逃げ込み関東に定着し後に坂東武士団を形成したと思われます。


日本列島に逃げてきた「O2」集団は戦闘集団でもあったようです。旧唐書にあるように九州から日本海沿岸のどこかに「日本」なる上陸拠点を作り、そこを足場に戦力を増強し、日本列島の中心地と考えられていた畿内を目指し侵略軍を進めたのが後に大和朝廷族となった神武東征軍でしょう。

我が縄文―弥生混成集団は本来戦闘集団ではなかったため、容易く征服されていったようです。どちらかと言うと手を焼いたのは同じ「O2」で先に韓半島から逃げてきていた同類の戦闘集団でしょう。要するに侵略軍同士で闘い勝ち抜いたのが大和朝廷族だったと言うことです。あくまでも侵略者です。

●侵略者の中の勝者=大和朝廷族

「O2」遺伝子戦闘集団同士の抗争で結局最後に残ったのが、百済系の桓武王朝です。途中南北朝に分裂したり、何処からか探し出してきた天皇がいたり、女性天皇がいたりとY-DNA遺伝子が連綿と続いているわけではないのですが、比較的素直・恭順な縄文-弥生交配集団を結局手なずけ列島に居座ることに成功し今に至っています。

また傍流だった「O2」戦闘集団の武士団が政権を奪取しましたが、大和朝廷族にせよ武士団族にせよ結局勝者「O2」が歴史を作ってきたのです。


寒冷地適応、黄砂適応

寒冷地適応が起こったのは当然シベリア台地上です。寒冷化したシベリアからいろいろな動物が逃げ出し始めました。 出シベリアの最大の理由は食料兼防寒用毛皮の材料の動物がいなくなったことです。小型動物からマンモスやナウマン象に至るまで大小の動物が寒気を嫌い南下してしまい、食料兼毛皮が欠乏してきたわけです。シベリア台地の大型獣ハンターだったY-DNA「C3a」が日本列島に南下してきたのはまさしくそんな時代だったのです。


この時代に移動を決行した集団は寒冷地適応を少ししか受けていません。それでも一部の集団は凍る季節の前に、川で魚を取りだめすることを覚え、残留することを選び1万年以上に渡る長い寒冷地での適応=エピジェネティクス(後天的獲得形質)でいわゆる寒冷地適応と呼ばれる形質を獲得しました。現在でもシベリア民は川沿いに多くが居住しています。


いわゆる寒冷地適応の最も有名な改質はフルフラットフェースで一重瞼、いわゆる狐目といわれています。

そして中国人や韓国人、日本人は欧米人から長い間、そんな風に描写されてきました。それを助長したのが実は浮世絵の人物(男女共に)画です。あのデフォルメされた日本人顔が典型的なモンゴロイド形質として、日本人観を欧米人に定着させてしまったのです。しかし私の周囲を見渡してもあんな典型的なモンゴロイド顔は意外に少ないのです。

  日本で周りを見渡しても、フラットフェースで一重瞼の形質を持った人の割合はかなり少ないのです。中国や韓国は明らかに日本よりかなり多いようです。その形質が明らかに多いといわれるのが、モンゴロイドの語源になったかつて元帝国を築いたY-DNA「C2b1a2」主体のモンゴル人です。彼らも全員ではありませんが、かなりの頻度で見受けられます。そして最も多いのがY-DNA「N」と「Q」のシベリア居住民です。彼らは現在でも極寒冷地に住むため寒冷地適応が徹底的に進んだ例です。

  日本列島で寒冷地適応遺伝子ではないかと思われる「NO」、「P」、「Q」(日本列島に「C2b1a2」はまだ見つかっていません)あわせて1.5%程度です。100人いれば2人弱です。

しかし韓国では「C2b1a2」が加わるため13.5%つまり10人いれば1人はそうなのです。
日本人の10倍以上フラットフェースで一重瞼が多いのです。
だからプチ整形が盛んなのです。


いわゆる寒冷地適応した新モンゴロイドといわれる人々の遺伝子はY-DNA「C2b1a2」、「NO」、「N」、「Q」の中のシベリア及び北アジアに暮らしてきた住人たちだけです。同じ「N」、「Q」でもシベリアに留まったネネツ人やKet族のように完璧な寒冷地適応型に対し、出シベリアした集団は寒冷地適応をあまり受けてはいないのです。

専門家は苦し紛れに寒冷地適応型ではない黄色人種に古モンゴロイドなどというインチキ用語を作りあてはめました。


或る本で黄河文明人は黄砂適応を受けていると書いてありました。寒冷地適応は寒気を防ぐために皮下脂肪を溜めやすい形質もあり、顔や体はむくんだようになりますが、黄砂適応は体に悪い黄砂が付着しないように寒冷地適応と同様やはりフラットフェースで一重まぶたになり、とにかく微粒子の黄砂が付着するのを防ぐのだそうです。しかし寒気ではないため皮下脂肪を蓄える必要はなく、この点が寒冷地適応型とは異なる点だそうです。

だから黄河文明系Y-DNA「O2」正統派はフラットフェースで一重瞼が多いのです。


Y-DNA「O2」は中華4000年の歴史の中で華南と華北は交配が極めて進んでおり、華南型「O2a2」(長江文明人型)の漢民族の頻度の方が高く、当然凹凸があり、二重瞼です。だから中国人は意外に典型的な新モンゴロイド顔が少ないのです。

ところが常に華北の中華人「O2a1」から侵略を受けていた韓半島人は華北型の「O2」が多いため、寒冷地適応型新モンゴロイド+黄砂適応型「O2a1」の組み合わせで、漢民族より更にフラットフェースの一重瞼率が高いのです。


  勿論日本人にも黄河文明系「O2a1」、つまり黄砂適応型も5.7%もいるため、顔の厚ぼったいフラットフェース・一重瞼型(1.5%程度)と顔の薄いフラットフェース+一重型(5.7%程度)の2種類、合計7.2%いるのです。黄砂適応型の方が多いのです。

浮世絵の人物画はこの黄砂型の感じですね。
以上 http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/

これが日本の支配階級「O2」の容姿

浮世絵

Shunga - Erotic ( Art ) - Japan
http://www.akantiek.nl/shunga.htm

Category:Shunga by Kitagawa Utamaro
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Shunga_by_Kitagawa_Utamaro

Gallery 9 - "Shunga" (Erotic) Prints - Woodblock Prints of the 19th Century
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm


Prints by Utamaro, Kuniyoshi, Kunisada I/II, Eisen & Utagawa School
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Toyoshige
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Tomioka


歌麿 美人画 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AD%8C%E9%BA%BF+%E7%BE%8E%E4%BA%BA%E7%94%BB
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF++


浮世絵 春画 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5++%E6%98%A5%E7%94%BB


▲△▽▼
▲△▽▼


香淳皇后が典型的な O2 顔

昔の皇族の顔wwwwwwwww

竹田宮恒久王  
朝香宮鳩彦王  
北白川宮成久王
有栖川宮威仁親王  
明治天皇

10: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:07:25.75 ID:prbFCkwQ
いつからおかしくなったんだよ


39: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:14:51.27 ID:iRr9HTZW
>>10
この人(香淳皇后)の遺伝子が強すぎンゴwww


46: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:15:37.13 ID:6W7nDD9s
>>39
これは御戦犯であらせられますわ


48: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:16:17.08 ID:H/3seVjj
>>39
昭和帝が「良宮」ゆうてラブラブだったからしゃあない


92: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:23:45.66 ID:VbQDb/Bd
>>39
これ平安時代とかの昔基準で美人やな


14: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:08:00.48 ID:y1Pm71/P
どこでオカメみたいになったんや


22: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:09:43.45 ID:VyAe3mz3
>>14
昭和天皇の嫁


38: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:14:21.73 ID:kLTS3Y+U
>>32
皇太子のクローンかね


60: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:17:50.93 ID:4kLIajdZ
>>32
なかなか子供できなかった&子供がこの顔って言うの考えると
顔が似てなかった子供は間引かれたんじゃ無いかと思ってしまう
誰が見ても実子であること疑わない顔の子供産まれるまで闇に消されてたんじゃ無いかと


64: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:18:33.90 ID:E0fxYEsv
>>60
それ以上踏み込んではいけない(戒め)


63: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:18:22.26 ID:C79EHFEo
でも香淳皇后は家柄や血族だけは大正義やからなぁ
だから典型的な公家顔なのかもしれんが


72: 風吹けば名無し 2013/01/31(木) 21:19:59.30 ID:bXypulfO
香淳皇后の検索結果に堂々とブスと書かれて草生える^~・・・いかんでしょ
http://anisoku.info/archives/1017
http://blog.livedoor.jp/chihhylove/archives/7712829.html

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香淳皇后 - アンサイクロペディア


この記事は誤りと嘘八百でいっぱいの百科事典であるアンサイクロペディアに掲載されています。つまり、全て嘘八百ということです!

香淳皇后(こうじゅんこうごう、本名「良子(ながこ)」。

1903年3月6日~2000年6月16日)は、昭和天皇の皇后で今上天皇の母、徳仁親王達の祖母。「良宮(ながみや)」という愛称を持つ。

おおらかでおっとりとした円満な性格で夫に従順だった為、昭和天皇もよく気遣い、シンクロを頻繁に行ったとされ、沢山の皇子女を儲けた。しかし長らく男児を得られず、華族から「皇后さまは女腹」と非難された事も。

姑貞明皇后や嫁美智子とは性格の違いで対立し、大正、昭和、今上と3代の天皇を苦しめる。


少女時代

1903年3月6日、久邇宮邦彦王の第一女子として誕生。

1907年、学習院女学部幼稚園に入園し、裕仁親王(昭和天皇)と出会う。その時、昭和天皇と恋仲になり、1918年1月14日、皇太子になった昭和天皇の妃に立候補する。持ち前の才能と器量で、対立候補二名を倒し、内定。4月13日には学習院を退学し、久邇宮邸内に設けられた学問所で皇后としての教育を受け、結婚実現へと進む。

しかし、1921年、山縣有朋がテロ事件「宮中某重大事件」を起こし、久邇宮家に婚約辞退を要求、良子女王(香淳皇后)は追い詰められるが、これに激怒した昭和天皇が原敬と協力して、山縣を追放、事件は決着した。

1922年、大正天皇から結婚許可を貰い、9月18日に「納采の儀」を行うが、関東大震災が発生、婚儀は延期となった。

婚儀~終戦前後

度重なる延期の後、1924年に婚儀を挙げ、港区赤坂の東宮御所に入居し、その時、昭和天皇から「良宮」の名を与えられ、対し香淳皇后は昭和天皇の事を「お上(おかみ)」と呼んだ。

第一皇女・照宮成子内親王が誕生、1926年には昭和天皇の即位に伴い立后し、皇居へと引っ越す。しかし男児を得られなかった為、心労とプレッシャーに苦しむも、プロジェクトX並の努力の後、明仁親王(今上天皇)が誕生、日本全体から盛大に祝賀を受ける。

その後、第二次世界大戦が勃発、昭和天皇と共に東京で指揮を執り、自ら皇居で野菜を育て、敗戦後は引き揚げ者用の布団や着物作りを行なう等、「天皇の仕人」として活躍した。その後、積極的に国民と親しむ為、昭和天皇は皇后同伴の公務を一般化させ、香淳皇后は1947年に日本赤十字社名誉総裁就任し、東京オリンピックや大阪万博開会式に参加した。

戦後

1957年、皇太子となった今上天皇が平民出身の正田美智子(現皇后)を皇太子妃に推した時、香淳皇后は義妹の秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子や側近達と共に反対し、大規模な親子喧嘩が勃発。

今上天皇の熱意に押され、婚約を認めるも、部下の松平信子と共に右翼を動かしたり、アメリカから帰ってきた美智子妃を無視したりした為、日本中から批判を受けた。

1961年に長女成子を失った悲しみから老いの兆候が目立つようになり、1977年に近臣達の権力争いに巻き込まれ、腰椎を回復不能なまでに破壊され、杖をつかなければ歩行もままならない状態となる。更に認知症の症状が見られ、1986年の新年祝賀を最後に公務出席を禁じられた。

晩年~崩御

1989年1月7日昭和天皇が崩御し、皇太子明仁親王が即位する。それに伴い香淳皇后は皇太后となり、第三皇女・鷹司和子、実妹の大谷智子の最期を看取り、マスゴミの前から姿を消した。1994年、歴代皇后の中で最長寿となり、6年後の2000年6月16日平成ライダー第1作「仮面ライダークウガ」のスタートを見届けて97年の生涯を終える。

皇子女 誕生順に記載。

東久邇成子(1925年-1961年) - 東久邇宮盛厚王妃
祐子内親王(1927年-1928年)
鷹司和子(1929年-1989年) - 鷹司平通夫人
池田厚子(1931年-) - 池田隆政夫人
明仁(1933年-) - 第125代天皇・今上天皇
常陸宮正仁親王(1935年- )
島津貴子(1939年- ) - 島津久永夫人


逸話
ある時、昭和天皇と「卵が先か、鶏が先か」と言う事で大規模な夫婦喧嘩を繰り広げたのを目撃した側近に笑われた為、その側近を脅して「夫婦喧嘩は一度も無かった」と証言させたと言う。

ストレスで体重が60キロを越えてしまい、数々のダイエットを行うも、失敗した為、NHKに協力を要請し、5キロの減量に成功する。

幼い時、叔父で内閣総理大臣東久邇宮稔彦王の膝に尿をしてしまい、後に長女東久邇成子が稔彦王の子、盛厚王に嫁いだ時に「私は膝に尿をかけた人の子を長男の嫁に貰った」とからかわれる。

阪神タイガースのファンである為、大阪の人達から尊敬されており、崩御した日、全国の阪神ファンが甲子園に集まってタイガースの応援歌「六甲おろし」を合唱し、哀悼の意を示した。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E

▲△▽▼


tsuyoshi06110さん

皇族の久邇宮邦彦王はwikipediaによるとクズ野郎みたいなんですが本当ですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%BD%A6%E7%8E%8B


久邇宮邦彦王

昭和天皇の妻:香淳皇后の父親


・外威として皇居に出入りし金の無心。(昭和天皇の母親を怒らす)

・長男:朝融王は女好きで婚約破棄して事業に失敗して、最後は母親や妹に泣きつく。

・三頭身のドチビ。

今の天皇と皇太子がチビなのはこいつのせいじゃない?

小和田が外威として好き勝手にやってるのもこいつのせいじゃない?

みなさんはどう思いますか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14106656024

香淳皇后 画像
http://www.google.co.jp/search?q=%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=uSygUYqgK4i-kQXasYDwBw&ved=0CAcQ_AUoATgK&biw=1036&bih=892
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1256121324379.jpg
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1233492906085.jpg


香淳皇后の先祖 島津久光 島津忠義 久邇宮朝彦親王
http://bakumatsu.org/posterities/view/166


島津斉彬・久光兄弟は異母兄弟
久光の母は江戸の大工の娘お由羅

つまり今の皇族の顔というのは江戸の大工の顔の遺伝子

島津さんの家の子って数人見知りがあるけど皆終わってる

万引きやめられない人とかw

島津斉彬
http://kazusin.web.fc2.com/jinbutu/simadunariakira.jpg


お由羅の方
江戸出身の庶民。薩摩では珍しいきつね顔
   ↓
島津久光
http://kazusin.web.fc2.com/jinbutu/simaduhisamitu.jpg
http://samuraiworld.web.fc2.com/image/satsuma/satsuma_shimadzu_hisamitsu01.jpg
http://www.ndl.go.jp/portrait/1024_1536/427-53/002/0055_l.jpg
   ↓
島津忠義
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Shimadu_Tadayoshi.jpg/459px-Shimadu_Tadayoshi.jpg
   ↓
八女・ちか子
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/HIH_Princess_Kuni_Chikako.jpg
   ↓
香淳皇后(昭和天皇の皇后)
   ↓
今上天皇
   ↓ 
皇太子・サーヤ
   ↓
愛子さま


昭和天皇の嫁ブス杉ワロタwwwしかも性格もブスで美智子さまを虐めてたらしいwwwww


1:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土)


子孫をことごとく不細工にする香淳皇后の強力な遺伝子
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%AD%90%E5%AD%AB%E3%82%92%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%94%E3%81%A8%E3%81%8F%E4%B8%8D%E7%B4%B0%E5%B7%A5%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%81%AE%E5%BC%B7%E5%8A%9B%E3%81%AA%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=2ahUKEwi21Y2mqqnfAhVFbrwKHa_fBKwQsAR6BAgAEAE&biw=1079&bih=585#imgdii=shRctXBfCTmWxM:&imgrc=gzirIPplVXWGCM:&spf=1545134470645
左から、今上天皇の姉、佳子、今上天皇の姉、佳子、今上天皇の姉だなw

一方美智子様は
https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90%E7%9A%87%E5%90%8E?sort=mostpopular&mediatype=photography&phrase=%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90%E7%9A%87%E5%90%8E#license
https://matome.naver.jp/odai/2135739280191827801


香淳皇后は今城誼子というカルト宗教団体の女に心酔
事実上今城のあやつり人形だった
のちに今城は魔女と呼ばれ追放される

平民出の美智子さまをよく思っておらずいびり倒していたのは有名な話
美智子さまが空港で挨拶されたところを無視した映像が問題になった


長年宮中に仕えた松平信子らと共に

「平民からとはけしからん」

などと強い不快感を示している。『入江相政日記』においては、松平が宮崎白蓮などと共に、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとしたと記されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。                                 
香淳皇后 - Wikipedia

1958年(昭和33年)に巻き起こったミッチー・ブームには、香淳皇后や妹で常磐会会長の松平信子、姪の秩父宮妃勢津子らと共に強く反発した。皇太子明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記には、

「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」

と記している。ただ、この結婚に理解を示した昭和天皇の意向もあり、以後は表立って批判することはなくなった。       梨本伊都子 - Wikipedia


昭和天皇がブス専じゃなかったら皇室ももう少しマトモだったのにな


166:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 14:03:26.82 ID:OsriAxV90[1/2回(PC)]
>>1
実際、宮内庁を巻き込んでのいじめは相当苛烈だったらしいね
貴族の世界へ下民の血をひくものが来るなという意識があったのかもしれない
宮内庁からのマスコミへのリークによって右翼が煽動されたり閉ざされた世界だからね

68 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:18:26.25 ID:wR8ZxRuW0[1/1回(PC)]

うむ。生きてるあいだに美智子皇后をいじめたり悪口言ったりするから、死んでから自分が悪口言われてんだな。


95 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:55:46.64 ID:D58CXXBE0[1/1回(PC)]

まあネットどころかテレビも高級だった時代なのに美智子様がイジメられたのは誰でも知ってたからな。うちの死んだ婆さんもテレビで昭和皇后が映るたびに「美智子様をイジメて~」とか言ってた

143 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 13:30:30.92 ID:PMrYsrU50[1/1回(PC)]

お嬢様が性格いい
血筋がいいから性格いい
嘘だよな

112 : 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2012/09/01(土) 12:08:55.23 ID:JL8GnLly0 [1/1回(PC)]

昭和天皇も平民出の広田弘毅きらってたんだっけか


4 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:25:43.56 ID:Z1HxGgYx0[1/2回(PC)]

>子孫をことごとく不細工にする強力な遺伝子


子孫の中で一番可愛いのをなぜここで出す


88 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:35:30.41 ID:QFVCyPWr0[1/4回(PC)]
>>1
> 子孫をことごとく不細工にする強力な遺伝子

貼ってある画像が一番可愛いのじゃんか
そこは皇太子とさーやと愛子を出さなきゃ


124 : 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2012/09/01(土) 12:33:27.90 ID:+BgdkEzx0 [1/1回(PC)]

ブスなうえに血が強いから困る…

188 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 14:47:00.50 ID:HN6jD/cM0[1/1回(PC)]

まあ男はいいとして紀宮さんに遺伝子出ちゃってかわいそうな事になってたな


126 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 12:36:51.22 ID:0YTYIZUM0[1/1回(PC)]

戦争が起きたのもこいつが煽ったかららしいよ

190 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 15:11:32.54 ID:FqW5bZh60[1/1回(PC)]

なんじゃこのブサイクは


191 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 15:12:50.65 ID:dVNWAuB00[1/1回(PC)]

古風なお顔立ちですね(震え声)


150 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 13:39:50.57 ID:woA/LFPTP[1/1回(p2.2ch.net)]

外国の王族だと、一般人の美人をもらうので、世代を重ねるごとに容姿がよくなっていく。

でも日本の皇族は、美人じゃなくて仲間内から選ぶので容姿がよくない。
(一般から嫁もらったのは戦後からなのでまだ結果が出るのはまだまだ先)

99 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 11:59:26.53 ID:dUcrI9Fy0[1/2回(PC)]

朝鮮系だな


100 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:59:32.59 ID:O4GZ9Kqq0[1/1回(PC)]

チョンは頬骨とエラだからな ホームベースみたいな顔


119 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 12:17:27.25 ID:RQrN8qkmO[1/1回(携帯)]

おかめ納豆みたいな面だな

103:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 12:02:51.61 ID:nRPRhFfK0[1/1回(PC)]

目が大きい奥二重のタイプが一番日本人っぽい顔だと思う

この女はマジでブッサイクだな
朝鮮人でもここまでナチュラルにブサイクなのは少ないだろう

105 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 12:04:29.81 ID:KmdFK6EC0[4/5回(PC)]
>>103
だから秦、東漢氏で関西からきた朝鮮系なのは間違いいないんだが・・


90 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 11:45:50.35 ID:Ru/9t7y60[1/1回(PC)]

香潤皇后の血のせいで天皇家にブサイクが増えすぎてしまったんだよな
島津ってほんとカスだわ

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:24:49.99 ID:5gVRPnYg0[1/4回(PC)]

島津の出だからな

69:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:18:51.66 ID:KmdFK6EC0[1/5回(PC)]

島津は秦氏といって朝鮮半島からの帰化人の子孫だろ
大漢氏は元々関西の帰化人だ。

そもそもサムライ、殿様は殆どが平安公家の末裔で
藤原とか大漢氏とか皇別ばっかりだぞ

九州の殿様も島津に限らず全てよそ者、
加藤、細川、黒田、有馬 菅原 武藤(少弐) 全部、関東関西のよそ者だろw

ちなみに筑紫哲也始め筑紫氏は武藤(少弐)の末裔

175:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 14:26:21.92 ID:/BR9HrY50[1/1回(PC)]
>>69
家系の話しするなら基礎ぐらい押えろ
細川は足利一門で三河細川郷発祥だわ馬鹿


107 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 12:04:48.53 ID:YSkOstNp0[1/2回(PC)]

島津のせいにしてるけど久邇宮家のお姫様じゃん
父親に似てるのに母親のせいにするのは無理がある

5 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:26:28.73 ID:tqUObNf7O[1/1回(携帯)]


血が濃いと変な顔の人格破綻者しか生まれない

89 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:45:16.36 ID:V04Z/YkBO[1/1回(携帯)]

垂れた眉、細い目、バナナマンの日村みたいな輪郭
オカメ顔って言うの?俺が一番嫌いな女の顔のテンプレみたいな顔だわ


22 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:38:08.65 ID:NT3xgMV20[1/1回(PC)]

典型的なおかちめんこだし性格もまさに大和撫子の鑑

24:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:40:03.03 ID:3fZbWV3hP[1/1回(p2.2ch.net)]

性格悪い糞ブスで色盲でも結婚できるんだもんなっすげえ


41 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:55:23.25 ID:VQSprnEg0[1/3回(PC)]

歯の生え方がキモイ。
なんかネズミっぽいわ。
よりにもよってなんでこんなの選んだんだか・・・


42 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:57:25.33 ID:eDIUXuyb0[1/1回(PC)]

朝青龍みたいな顔してんな もしくは朝鮮半島~中国北東部辺りの


43 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:58:15.67 ID:gyJphak10[1/1回(PC)]

なんというかチョンみたいな顔・・・
しれっと嫌韓コピペに混ぜてたらネトウヨ信じるんじゃね?

3:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:25:12.62 ID:nBMv+Uiv0[1/1回(PC)]

目が細いんだけど朝鮮の出なの?


58 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 11:09:01.05 ID:9xwqhENe0[1/2回(PC)]

だから、顔は島津のお由羅顔だっつうの
朝鮮顔と違う

91 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 11:47:18.80 ID:QXCHIdIX0[1/1回(PC)]

チョンみたいとか言ってる奴は目が黒豆かよ
チョンはエラでてんだよエラ
これは和風の美人顔だ
昭和なんだから仕方ないだろ
今で言う浅田真央だわ

37 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:50:28.18 ID:P4qjlzjk0[1/1回(PC)]

一重の奴って子孫に申し訳ないと思わないの?
一重の奴は子供つくらずに死んで欲しい


46 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:02:17.34 ID:b4nvE80tO[1/2回(携帯)]

一重の血の呪いは何代にもわたり受け継がれる
俺は二重でよかった

132 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 13:02:33.34 ID:2Xb7pmsf0[1/1回(PC)]

平安顏のお手本だな
現代では白人崇拝が旺盛だがそれもまた時を経て変わってゆくのかな

65 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 11:16:06.64 ID:Z1HxGgYx0[2/2回(PC)]

十二単似合いすぎわろた

38 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:51:25.88 ID:wSMZaYPeP[1/1回(p2.2ch.net)]

平安時代ならもてた

7 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:28:40.40 ID:QL3Aywft0[1/1回(PC)]

平安時代なら相当美人だと思う

64 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:15:42.04 ID:m3e4vo7Q0[1/1回(PC)]

太る前の若い頃はぎりぎり昔なら美人枠だったのかもしれない
引き目おちょぼ口の浮世絵の美女みたいな顔だし

312 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/02(日) 00:34:49.11 ID:pU5ZdIBy0[1/1回(PC)]

完全に雛人形の顔だな

208: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2012/09/01(土) 16:11:16.83 ID:+f8Yq66i0 [3/3回(PC)]

卵型の瓜実顔に切れ長の目、筋の通った鼻におちょぼ口の美しさが分からないチョンは死んでね

71: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 11:20:41.56 ID:cuvF7Wb20 [1/1回(PC)]

この頃ってまだ写真加工してないよな
昭和天皇イケメンすぎだろ

82 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:30:51.26 ID:2/PrMvS40[1/1回(PC)]
>>71
昔ほど写真加工しまくってるよ。現代の写メ詐欺も真っ青なぐらいに。

108 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 12:06:02.55 ID:SuTzT71D0[1/1回(PC)]
>>71
いまではあんま理解されてないことのひとつだけど、
明治末期から大正の前半には、昭和天皇にはアイドル的な人気があったんだよ
イケメンという定評だったし、ゴルフが好きなこととかもよく知られてたし、思想的には民主的な面が強調されてて、いっときあった内親王へのアイドル的な人気に近いとこもあったり
戦中を経て戦後からみるイメージと戦間期当時の人が抱いていたイメージの落差はかなり激しいから、古い本を最初にみたりすると、ちょっとびっくりしするよ


44:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:58:25.88 ID:IhnWfW620[1/2回(PC)]

鹿児島の人間は縄文系とこういう大陸系の顔がはっきり別れてる。縄文系は大隅なんかに多い。
やっぱり鹿児島市内やその周辺は昔から人の出入りも激しいのか、大陸系の顔が多い。
高麗町なんかも鹿児島市にあるしね。もし隼人族ってのがまだ居るなら、大隅とか指宿あたりに住んでると思えるくらいに、顔立ちが違う。

19:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:36:27.72 ID:QvYbZlBq0[1/1回(PC)]

あれだけどうしようもないくらいに皇室顔なのに
愛子様が生まれたとき浮気してできた子だから親子ともども追い出せと鬼女が騒いてたんだぜ

20 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:37:45.79 ID:jZ+OzaFT0[1/2回(PC)]

徳川家って天皇家の血を入れてなんか終わったコンテンツになっちゃったね
ヘンなのばっかりになった

9:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:30:09.92 ID:3pqWDUZFO[1/1回(携帯)]

それでも昭和天皇は側室持たなかったんだから、人間できてたのか
それとも嫁に容貌以外の何らかの美点があったのか、床上手とか


16 : 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2012/09/01(土)


エゲレス巡りして、英国式に魅せられたとかなんとか、それを今の皇族も踏襲してるんだろ
まあ日本の皇族の習慣ではないよね、たった三代下ったらもはや世継ぎが一人の有様だし
やっぱ戦犯昭和天皇だわ

32:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:47:15.98 ID:y7/IlR0EO[1/1回(携帯)]

大正天皇から一夫一妻だったか
召使いは処女の華族の子女を当てたんだっけ?


40 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:52:31.57 ID:C0mgoFVa0[3/3回(PC)]
>>32
皇后が四人も産んだから必要なかったんじゃなかったけ>大正天皇
一方昭和天皇は、ブサイク皇后がなかなか子供産まなかったのに逆に意地張って側室を廃止させたクズ

31 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:46:59.71 ID:aNsliWCvP[1/5回(p2.2ch.net)]

 昭和天皇は妃にぞっこんで側室持つのを拒否したし
 魅力的なタイプなんだろうな


36:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 10:49:23.37 ID:M+nXP9uM0[1/1回(PC)]

いろいろあってやっぱ婚約破棄させようやとなったとき
昭和天皇が「良子じゃなきゃやだ」つって結婚したんだよな

39:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:51:39.61 ID:66oTCBxoP[2/2回(p2.2ch.net)]
>>36
むしろ「山縣の言いなりはヤだ!」って言って結婚したw

それまで明治維新の元勲の最後の生き残りでやりたい放題だった山縣は事実上失脚。
翌年に失意のうちに死んだ。

18:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage]投稿日:2012/09/01(土) 10:36:12.40 ID:66oTCBxoP[1/2回(p2.2ch.net)]

色盲だったんだよな。
この人との結婚話が原因で、天皇家に色盲の遺伝子を入れるなと言いがかりをつけた山縣有朋が失脚した。


23: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2012/09/01(土) 10:38:25.83 ID:Hzb2R0nv0 [2/4回(PC)]
>>18
山縣って失脚したの?
元老の権化みたいなイメージあるが


98 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[]投稿日:2012/09/01(土) 11:59:05.34 ID:+tUetTVy0[1/2回(PC)]
>>23
その事件で求心力を失って程なく死亡
http://www.logsoku.com/r/poverty/1346462609/
3:777 :

2022/06/02 (Thu) 02:05:08

韓民族の一重瞼比率

  中国の朝鮮族もデータに含まれていますが、北朝鮮のデータは当然ありません。近くて遠い存在であることがはっきりとわかります。

似ている部分は長江文明の流れ汲む呉越系の水田稲作農耕民遺伝子の「O1b」を共に30%近く持つこと、です。これが韓民族に感じる親近感の原因です。遺伝子の約1/3が共通すると言うことは極めて大きいと思います。

一方似ているようで違うのが「O2」と「C2」の頻度が日本より高いことです。

特に韓国史上1000回にも上るという中国大陸からの侵攻・侵略・支配のせいで韓民族の遺伝子基盤は「O2」に変化しています。「 D1b」が遺伝子基盤の日本民族との決定的な違いになっています。

  日本人が一般的に感じる一重瞼の韓国人の姿は寒冷地適応した「O2」の特徴そのものです。また釜山や済州島など南になるほど二重瞼が増える理由も「O1b」が南に分布しているからに他なりません。

30年ぐらい前に仕事で釜山に入り、済州島も訪れそのままバスで各地のユーザーを訪問商談しながらソウルに入りましたが、北に向かうほど、一重瞼一色に変化してゆくことをはっきり覚えていますが、遺伝子調査は解明してくれました。

  遺伝子がもともと異なるのです。北部ほど「O2」が多いのは楽浪郡など中国の古代帝国の組織が置かれ、長く中国の一部として占領されていたところだからです。南方は水田稲作地帯で長江文明の子孫が(恐らく呉越の)住み着いた場所だったのでしょう。だから韓半島極南部は日本の原風景と似ている感じがするのでしょう。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/
4:777 :

2022/06/02 (Thu) 02:06:22

天皇一族の様な朝鮮からの漢民族系渡来人は黄河文明人 O2 で一重瞼

縄文人(D1b, C1, C2)と弥生人(O1b2)は全員二重瞼


一重瞼は漢民族系渡来人だと思って間違いない :


グレゴール・ヨハン・メンデルの「優性の法則」によると、遺伝には親の性質が現れやすい「優性」と、現れにくい「劣勢」の二通りあり、両方の遺伝子が存在した場合、優性の形が優先されるそうです。

二重まぶたの遺伝パターン

二重まぶたは「優性遺伝」、一重まぶたは「劣勢遺伝」です。「それなら、両親とも、もしくはどちらかが二重まぶたなら子供も絶対二重まぶたになるのでは?」と思いますよね。でも、実は遺伝には4つの遺伝法則があるのです。
そもそも、まぶたには3種類の遺伝パターンがあります。


●二重の遺伝子を2つ持つ「AA」の二重

●二重の遺伝子を1つと一重の遺伝子を1つ持つ「Aa」の二重

●一重の遺伝子を2つ持つ「aa」の一重

両親が二重でも、「AA」タイプの二重なのか「Aa」タイプの二重なのかによって、子供が二重になる確率は変わるのです。


二重まぶたの遺伝の法則

両親のどちらかが「AA」タイプの二重であれば、子供が二重になる確率は100%、

両親が二重であっても、「Aa」タイプの二重であれば、子供が一重になる確率が25%ある

両親のどちらかが一重であれば、子供が一重になる確率は50%になります。


両親のタイプ別二重まぶたの遺伝ケース

父「AA」×母「AA」の二重
子供も「AA」の二重


父「Aa」×母「Aa」の二重
子供は「AA」か「Aa」の二重、又は「aa」タイプの一重になる可能性がある


父か母「AA」の二重×父か母「aa」の一重
子供も「Aa」の二重


父か母「Aa」の二重×父か母「aa」の一重
子供は「Aa」の二重、又は「aa」の一重になる可能性がある
https://moomii.jp/baby/babymabuta-iden.html
5:777 :

2022/06/02 (Thu) 02:08:18

従来 弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江人、後期は漢民族系朝鮮人で、完全に別民族です。

天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作り朝鮮との交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系朝鮮人です:

弥生時代後期の弥生人骨 大半が渡来系 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


研究の成果について報告する篠田副館長(右、鳥取市青谷町で)

DNA分析に使われている弥生時代の人骨。青谷上寺地遺跡展示館で展示が始まった


 ◇青谷上寺地遺跡

 ◇DNA分析 後期、盛んな交流


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。

大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。(河合修平)

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

 共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員宮川昌樹さん(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。



 同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時~午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。

2018年11月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun


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邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
2018年11月23日 06時00分

 邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば~後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。

 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。

 5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10・4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0・5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4・4~5・4センチ。3個には朱を使った跡があるという。

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。

=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/467782/



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神代文字の使用を裏づける!?、弥生時代の硯も発見された九州筑後の平塚川添遺跡 ・・浮かぶ先進性 三角縁神獣鏡発見で注目(かいけつニュース速報)
https://gansokaiketu-jp.com/kaiketukeijiban/nipponshi/light.cgi?
平塚川添遺跡

浮かぶ、筑後平野の先進性 三角縁神獣鏡発見で注目 福岡・朝倉
https://mainichi.jp/articles/20180906/ddl/k46/040/424000c?inb=ra

弥生時代中期から古墳時代初頭にかけての大規模環濠(かんごう)集落遺跡、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市、国史跡)についてのシンポジウムが同市内で開かれた。「卑弥呼の鏡」との説もあり、同遺跡付近で出土したとみられる三角縁神獣鏡が最近発見されたことが報告され、同遺跡一帯の重要性が改めて浮かび上がった。

 平塚川添遺跡は筑後川の支流・小石原川沿いの低湿地にある。1991~93年に発掘調査。17ヘクタールの範囲で最大7重の環濠や柵列を巡らせた中に、竪穴住居跡300カ所や大型掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。住居、工房、倉庫の用途ごとの区画が存在したとされる。大量の土器や木製品のほか、玉類などもあった。遺跡の最盛期は邪馬台国時代に当たるため、「魏志倭人伝」に登場する「国」の存在を示す遺跡として知られている。

 朝倉市教委文化財係の中島圭さんは、遺跡一帯の地形に着目した。朝倉市では北部の山地から筑後川に向けて小石原川などの支流が流れるため扇状地が発達している。川に沿った高い台地に弥生~古墳時代の遺跡が多数見つかる。ところが平塚川添遺跡は低湿地で、台地は遺跡の東部に広がる。中島さんは「国の中心は台地にあって、平塚川添遺跡はむしろ新興の開拓地だったのでは」と推測した。

 それをうかがわせるのが発見された三角縁神獣鏡だ。旧福岡藩士の家に所蔵していたもので、今年3月に朝倉市に寄贈された。100年以上前の絵図で存在は知られていたが現物は所在不明だった。出土地点は文献から、同遺跡東部の台地にある、平塚大願寺遺跡の方形周溝墓だった可能性が高いという。これまで同市内で唯一の三角縁神獣鏡の出土地だった神蔵(かんのくら)古墳も、この台地にある。平塚川添遺跡では銅鏡や銅矛の破片しかなく、首長の墓は確認されていない。一方、三角縁神獣鏡は初期大和政権が各地に配布した威信財とされ、地域の首長墓の存在を示す。

 中島さんは「平塚川添遺跡は氷山の一角。台地にはまだまだ遺跡が広がっている」と想像する。武末純一・福岡大教授も「平塚川添遺跡の全容はまだ分かっていない。三角縁神獣鏡と共に葬られた人が当時どこにいたのかも探してほしい」と今後の調査に期待を寄せた。

 朝倉市の隣りの筑前町では近年、弥生時代の硯(すずり)が相次いで発見され、文字使用の可能性を巡って注目されている。同町の遺跡では「王墓」とみられる墳丘墓や銅製品の鋳型も確認されている。平塚川添遺跡を巡る調査研究の進展は、当時の筑後平野の先進性を探る上で鍵を握っているのかもしれない。【大森顕
https://gansokaiketu-jp.com/kaiketukeijiban/nipponshi/light.cgi?



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こうして畿内は朝鮮からの漢民族系渡来人に完全に乗っ取られた


国内最古の大壁建物跡か、奈良 渡来人の定住早まる可能性 2018年11月27日
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2018112701001874.html

 奈良県高取町教育委員会は27日、同町の市尾カンデ遺跡で4世紀末から5世紀初めに渡来人が建てたとみられる朝鮮半島式の大壁建物跡が16棟分見つかったと発表した。国内最古とみられ、これまで5世紀後半以降とされていた渡来人の本格的な定住時期が大幅に早まる可能性がある。

 町教委によると、大壁建物は狭い間隔で柱を立てた後、土で壁の中に柱を塗り込めるのが特徴。全容が分かる最大のもので東西約15メートル、南北約13メートルだった。高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった大壁建物跡と並び最大級という。同町ではこれまで約40棟見つかっていた。

(共同)


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埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


▲△▽▼

畿内の被差別部落民は縄文人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


▲△▽▼

小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼


網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。




▲△▽▼
畿内の被差別部落民は縄文人の子孫 _ 2

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

①自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

②調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

③曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

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Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
①自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
②調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
③曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097
6:777 :

2022/06/02 (Thu) 02:09:14


漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

天皇一族は

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、 → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土


の順に朝鮮を追われて日本に移民して以降、支配地域を広げて行った様です。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。


中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html

・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html
7:777 :

2022/06/02 (Thu) 02:10:39

天皇は日本人ではない
天皇一族や畿内の渡来人は奈良時代まで百済語で会話していた
百済が日本にもたらしたもの~文化でなく言語にその本質があるのではないか
 

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥~平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80~90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004




▲△▽▼
7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。
 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生~千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html
8:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:49:59


天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)

阿毎氏
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%8E%E6%B0%8F

阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝[1]にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。


『魏書』第三十烏丸鮮卑東夷伝・『後漢書』列伝第八十五東夷伝によると、朝鮮半島南部の耽羅[2](済州島)で遊牧生活をしていた州胡こと耽羅鮮卑[3]と呼ばれる部族が存在したことが判明されている。

東京大学の教授であった江上波夫は持論の『騎馬民族征服王朝説』で、以下のことを述べている[4]。

三国時代以降の東晋の時代に北方からトルコ系匈奴・羯[5]・鮮卑[6][7]やチベット系の羌氐[8]などの遊牧民族が南下して中国北部を征服した五胡十六国時代に変遷した影響を受けいた応神天皇(慕容讃)[9]・仁徳天皇(慕容珍)[10]父子が耽羅(済州島)におり、鮮卑化したチベット系の羌氐の酋長である武内宿禰[11]の補佐を得ていた。

この父子はトルコ系遊牧民族で前燕・後燕・西燕・南燕・吐谷渾[12]などを建国した鮮卑慕容部の一支族の酋長として、同じトルコ系東胡の末裔で、ツングース系の穢(獩)貊(濊狛)[13]・沃沮[13]などとの混合民族である半農半牧の扶余[14][15](夫余)と鮮卑化したチベット系の羌氐と古代トルコ人であり現在の中国河北省北部に中山国を建国した白狄鮮虞部[16]の末裔などを吸収して、北魏(代魏)・東魏・西魏などを建国した同じ鮮卑拓跋部と同族で、南涼を建国した鮮卑禿髪部の酋長である烈祖武王の禿髪烏孤の甥で、景王の禿髪傉檀の子である禿髪破羌(源賀)の末子である禿髪阿毎を阿毎氏族の祖となった。阿毎が逝去すると、子の禿髪稚渟毛二岐[17]が後を継いだ。稚渟毛二岐が亡くなると、弟の禿髪意富々杼[18]が後を継いだ。意富々杼が亡くなると、弟の禿髪乎非[19]が後を継いだ。乎非が亡くなると、弟の禿髪汙斯[20]が後を継いだ。汙斯は亡父の諱を採って、禿髪氏から阿毎氏に改姓したという。

汙斯は応神・仁徳天皇父子らと連合して、朝鮮半島南部に移動しながら、耽羅(済州島)を拠点として、多くの部族を統率をしていた。やがて彼らは耽羅(済州島)付近にいた海洋民族である韓人あるいは汙人[21]を奴隷として舟を築造させて、日本列島に渡ったという。

日本列島にやって来た州胡(耽羅鮮卑)の盟主である応神・仁徳天皇父子は、中国南部・ベトナム北部からやって来た越人・呉人・荊楚人[22]が米作りを営む農耕民族であることで、これも奴隷として今までの肉を主食の風習を米食に変更したのである。さらに日本の先住民族である海洋民族の倭人[23](委人)をも奴隷として、河内国で河内王朝が成立され古墳時代に突入した。同時に朝廷の主要民族である鮮卑・扶余・白狄・羌氐などは越南人・呉人・荊楚人・倭人などと混血を繰り返して、これが大陸系の大和民族(和人[24])の成立の過程になった[25]。さらにアルタイ語族を骨子とする日本語[26]といった言語が同時に成立された。

阿毎汙斯は応神・仁徳天皇父子により、出雲国から若狭国までの日本海に面する広大な領地を与えられた。阿毎汙斯が亡くなると、阿毎男大迹(継体天皇)[27]が後を継いだ。その間に阿毎氏族は徐々に勢力を蓄えており、河内王朝にとっても脅威的な存在となっていた。

同時に、河内王朝の動向は、仁徳天皇の孫である大王(おおきみ)の安康天皇[28]は年代が近い叔父の大草香皇子(大日下王・波多毘能王)を誅殺して、その妻である異母妹の草香幡梭姫を奪うも、従弟である大草香皇子の子の眉輪王に暗殺された。安康天皇の同母弟・雄略天皇[29]が後を継いで、眉輪王も含む皇位継承権がある多くの親族を皆殺しして、河内王朝は衰退を極まった。雄略天皇の従孫である武烈天皇[30]は、応神・仁徳天皇父子の6世の孫・玄孫であり、稀代なる暴君であった。このころの朝廷はやや遊牧民族国家から農耕民族国家に変遷していたが、それでも部族間に争いは凄まじいものがあった。

扶余の一酋長でもあった大連の大伴金村は朝廷で権威を振るった挙句に、反乱を起こした平群真鳥・鮪(しび)父子を討ち取る功績を残した。だが、武烈天皇の暴虐ぶり聞いてこれを諌めるも、それを聴きいれなかった武烈天皇は佞臣とともに奴隷の殺戮を繰り返していた。この行為は殷(商)の紂王(帝辛/季受)に等しいものがあり、武烈天皇は諌める臣下を処刑したり、妊婦の腹を引き裂いたり、ある女性たちに数頭の馬と交尾させるなどなど、無限の暴政をおこなっていた。

これを見かねた大伴金村は武烈天皇の姉妹の婿である阿毎男大迹と密談して、武烈天皇を討伐するように計画を立てた。しかし、阿毎男大迹は武烈天皇の姉妹の婿のみではなく、その子の阿毎勾大兄[31](安閑天皇)と阿毎檜隈高田[32](宣化天皇)と阿毎天国排開広庭[33](欽明天皇)兄弟は武烈天皇の娘を娶っていた。

阿毎男大迹は悩んだ挙句に、出雲国から若狭国から軍勢を率いて、南下して大伴金村と呼応して河内国に攻め込んだ。阿毎男大迹と大伴金村の謀反を知った武烈天皇は激怒して、迎え撃ったが離反する臣下が続々と出たため、大敗して宮殿の奥に逃げ込んで火を放ち、自決を遂げた。武烈天皇8年12月8日のことであった。こうして鮮卑慕容部出身である応神・仁徳天皇父子を祖とする河内王朝はついに滅亡した。

阿毎男大迹は大伴金村をはじめ、物部麤鹿火[34]・巨勢男人らに迎えられて、大和国で即位した。これが継体天皇であり、大和王朝の始まりであった。ここで大和時代に突入したのである。それでも、部族間の争いは相変わらず凄まじかった。

歳月は流れて645年の『大化の改新』以降に、腹心の中臣鎌足(藤原氏の祖)とともに、積極的に中国文化を採り入れた中大兄皇子(天智天皇)は、皇室の姓を鮮卑風の阿毎氏から中国風の「原氏」と改称させ、君主の号を大王から天皇に改称させたのである。このころの日本朝廷は、ほぼ遊牧民族国家から農耕民族国家として変遷を遂げ、文明国家となったのである。


脚注

↑ それによると、モンゴル系柔然普六茹部(楊氏)の隋の煬帝に謁見させるために、日本の実力者で摂政の蘇我馬子の命で、遣隋使・小野妹子を派遣させた時の大王は阿毎多利思北孤/阿毎多利思比孤(用明天皇(橘豊日皇子/池辺皇子/大兄皇子)、あるいは子の聖徳天皇(厩戸豊聡耳皇子)の説がある)という。
↑ 耽牟羅・屯羅・渉羅・純羅・度羅とも呼ばれた。
↑ 耽羅民族とも呼ばれる。
↑ 江上と同様に民族学者の岡正雄は、天孫降臨神話が朝鮮半島経由で日本列島に入ったこと、その担い手はアルタイ系の遊牧民文化的要素を強くもっており、おそらく皇室の先祖だった、と考えた。民族学者・東京大学名誉教授の大林太良も岡説に賛意を表するとともに、これが征服騎馬民族によってもたらされたかはっきり判明されていない(その一方で、「皇室の祖先は、アルタイ語族系の征服者であった」ともいう)、と述べている(『日本神話の起源』(大林太良/角川新書/1961年))。
↑ 現在の山西省長治市武郷県を拠点とした匈奴羌渠部に属する氏族。
↑ 鮮卑の原音はツングース語の祥瑞・吉兆を表わす語の「Sabi」であろうとの説があったが、近年はトルコ・モンゴル語の帯鉤をさす語の「Sarbe」とする説が有力である。中国の史書に記録されている若干の鮮卑語に対して、かつて一部の学者はこれをモンゴル系とツングース系の混種であろうと主張した。しかし、近年は鮮卑語には多少のモンゴル語的要素の混合は認められるも、本質的にはトルコ語であり、従って鮮卑はトルコ系であったとする学説が有力である(陳舜臣もこれを支持している)。
↑ 同時に内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年刊行)の3~4頁が引用するフランスのポール・ペリオは1925年秋にロシアのレニングラード(サンクトペテルブルク)における講演において、4~5世紀に華北を支配した鮮卑拓跋部の語彙を基礎として、鮮卑はトルコ諸語に属する民族であったと発表したと、それを引用したドイツ系ロシア人のワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(ヴォルフガング・ヴィルヘルム・バルトルト)(Vasily Vladimirovich Bartold)は紹介した(Wolfgang.Wilhelm.Barthold:Der heutige Stand und die nächsten Aufgaben der geschichtlichen Erforschung der Türkvölker〔Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft,Neue Folge Band 8 - Heft 2.S.124〕)。ついでに引き続き引用されたぺリオ自身は鮮卑語をモンゴル諸語とみる意味のことをToung-pao XX.S.328注3、XXVII.S.195.注1で発表した。ペリオを引用したバルトリドは鮮卑の言語はトルコ諸語であると論じ、鮮卑は疑いもなくトルコ諸族であったと結論を示し(Zwölf Vorlesungen über die Geschichte der Türken Mittelasiens〔Orta Asya Türk Tarikhi,Istanbul 1927.Die Welt des Islams Bd.XIV 1932.〕)。さらに、アメリカのP.ブッドバーグは鮮卑拓跋部をはじめとする諸族の語彙が実質的にトルコ諸語に属する民族である考証を示した(P.Boodberg,The Language of the Tó-pa Wei.Harvard Journal of Asiatic Studies I-2 1936)。
↑ 前秦の苻(蒲)氏と後秦の姚氏などの残党を含む。
↑ 慕容胎中・慕容品陀和・慕容大鞆和・慕容品太・慕容凡牟都和希とも呼ばれる。
↑ 慕容大雀・慕容大鷦鷯とも呼ばれる。
↑ 建内宿禰とも呼ばれる。
↑ チベットにあった遊牧民国家。
↑ 13.0 13.1 穢(獩)貊(濊狛)・沃沮はツングース系と骨子として、トルコ系と混血している民族とする説もある。
↑ この系統である北扶余(北夫余)からモンゴル系と化した豆莫婁(達末婁)が出た。
↑ その一方で、金平譲司『日本語の意外な歴史』では扶余はアルタイ化したウラル語族の南サモエード諸族の後裔で、鮮卑化したチベット系姜氐と混血して、日本人の祖となったと伝わる。
↑ 漢風の姓は釐姓。
↑ 禿髪若沼野毛二俣・禿髪稚渟毛二派とも呼ばれる。
↑ 禿髪意富々杼・禿髪意富々等・禿髪大々迹とも呼ばれる。
↑ 禿髪宇非・禿髪宇斐・禿髪弘斐とも呼ばれる。
↑ 禿髪琵彦主人・禿髪毘古主人
↑ 倭人とは別の民族で、根あるいは泥とも呼ばれるオホーツク諸族(古アジア諸族=旧シベリア諸族)に属する。
↑ これらの稲作民族は「江南系弥生人」と総称され、同時に「南漢民族」の祖でもあった。
↑ 縄文人とも呼ばれる。同じく日本の先住民族で、南方の琉球民族と北方のアイヌ(蝦夷)も含まれる。
↑ アイヌ(蝦夷)による大和民族の総称のこと。
↑ 今日の日本人は日本の国籍を持った人々を指し、民族と種族は問われない。
↑ 大和語とも呼ばれ、中国南部やベトナム北部などの江南系の弥生語および縄文語(琉球語とアイヌ語(蝦夷語)も含む)などの原日本語(古代日本語)などを吸収している。
↑ 阿毎袁本杼・阿毎雄大迹・阿毎乎富等・阿毎琵古太尊・阿毎毘古太尊とも呼ばれる。
↑ 慕容穴穂と呼ばれる。
↑ 慕容大泊瀬幼武・慕容大長谷若建とも呼ばれる。
↑ 慕容小泊瀬稚鷦鷯・慕容小長谷若雀とも呼ばれる。
↑ 阿毎広国押建金日とも呼ばれる。
↑ 阿毎建小広国押楯・阿毎武小広国押盾とも呼ばれる
↑ 阿毎志帰嶋・阿毎斯帰斯麻とも呼ばれる
↑ 物部麁鹿火とも呼ばれる。物部氏は鉄器製造技術を生業とする古代トルコ人の白狄鮮虞部に属する一酋長という。


https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%8E%E6%B0%8F  


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原氏 (皇室) : 「げん - じ」「はる - し」


原氏
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原氏(げんじ/はるし/はらし)とは、日本の氏族である。幾多かの系統があり、越後国にも異流の原氏などがある[1]。

原氏 (皇室) : この姓のみ「げん - じ」「はる - し」と呼ばれる。日本の皇室の姓である阿毎氏[2]が『大化の改新』以降に中国風に改姓したもので、現在の今上天皇(平成天皇)までいたる。この系統から皇別[3]として、橘氏・清原氏・高階氏[4]・在原氏・平氏・良岑氏(桓武源氏)・源氏などの庶家が出て、この系統は地方では貴種として尊ばれた。

原氏 (物部氏) : 物部氏一族の原国造を祖とする氏族[1]。

原氏 (漢氏) : 渡来系の阿智使主(阿智王/阿智吉師)[5]・都加使主(都加王/都加吉師)父子[6]を遠祖とする漢氏または倭漢氏(東漢氏/西漢氏)の系統である坂上氏の系統で原首(はらのおびと)を祖とする。摂津国嶋上郡原邑[7]を本拠地とした[1]。

原氏 (秦氏) : 古代トルコ系とされる渡来系の秦氏の系統で、秦原公(はたのはらのきみ)を祖とする氏族[1]。

原氏 (中臣氏) : 中臣氏の系統である荒木田氏の庶家。伊勢神宮の神官の氏族で、藤原氏とは同族である[1]。

原氏 (度会氏) : 古代に皇室に仕えた神官である度会氏(渡会氏)の系統である氏族[1]。

原氏 (藤原氏) : 藤原南家の工藤氏の系統。陸奥国を本拠地とした[1]。

原氏 (千葉氏) : 丹姓平氏良文流千葉氏(坂東八氏/房総平氏)の庶家。下総国香取郡千田郷原村[8]を本拠地とした。この系統は相模国の北条伊勢家こと相模北条氏(相模平氏)および、甲斐国守護の武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)に仕えた原虎胤(まさたね、胤元)[9]・盛胤[10]父子などが出た。通字は「胤」[1]。

原氏 (源氏) : 武家源氏の系統。約3系統ほど存在する[1]。


脚注

↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 『姓氏』(著作:丹羽基二・監修:樋口清之/秋田書店/1970年)
↑ 『隋書』列伝第四十六東夷伝の高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求(台湾のこと、琉球とは別)・倭国による。一説では、トルコ系鮮卑拓跋部の支族である禿髪部の禿髪阿毎(禿髪破羌=源賀の末子)の系統で、朝鮮南部の耽羅(済州島)にいた耽羅鮮卑こと州胡の中心部族だったという(『後漢書』列伝第八十五東夷伝)。
↑ 臣籍降下した皇族・宗室の氏族。
↑ 庶家に大高氏が出た。
↑ 阿知使主(阿知王/阿知吉師)とも呼ばれた。
↑ 漢氏は後漢の霊帝(劉宏)の末裔と自称(仮冒)した。
↑ 現在の大阪府高槻市原大字
↑ 現在の千葉県香取郡多古町原大字
↑ 友胤の子、甚内の兄。
↑ 別名は昌胤。横田綱松(横田高松の婿養子、尹松の父)の弟、重胤(貞胤)・直胤(胤貞)の兄、勝胤(昌吉)の父。

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天皇家にはなぜ姓がないのか?2019年05月08日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f239c0f30c5037a219085d5bb5efa582

 天皇家には姓がない。なぜだろうか・・・。
 この問いに対する答えは簡単明瞭である。古代の倭人には姓(苗字)がなかったからである。天皇は日本史の生きた化石なのである。姓を持たないということは、人類史上格別珍しいことではない。世界の諸民族はほとんど姓を持たなかった。唯一、中国を除いては・・。

 日本、朝鮮、満州、モンゴル、トルコ、などアルタイ系諸民族も無論、姓がなかった。あるのは個人を特定する名前(テムジンとかチムールなど)とその個人が所属する部族や氏族の名称だけである。(ちなみに、ジンギスカンはボロジキン氏族、チムールはバルラス氏族)。古代日本では、大伴、物部、額田、佐伯などがそれに当たる。佐伯部、額田部、久米部のように、氏族集団を「部」で表す。その属民は「部曲(かきべ)」という。後に、大伴氏とか蘇我氏のように氏族名が中国風の姓となってゆく。

(1)『宋書』倭国伝の記事

 五世紀の『宋書』倭国伝には「倭讃」とか「倭隋」など姓らしき名称が出ているが、これは中国の冊封体制下にあった当時の倭国の王が中国風に漢字二文字で表わしたにすぎない。「倭」はけっして日本の王姓ではない。この時代、東アジアの諸国は中国に朝貢するに当たって、中国風の姓を名乗る必要性があった。そのため、百済は自分たちの出自である「夫余族」の「余」を王姓として、六世紀の武寧王は「余隆」を名乗り(本名は「斯麻」)、他にも「余映」とか「余歴」「余固」などの名で中国の南朝に朝貢している。

 高句麗も王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていたにすぎない。

 新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝「愛新覚羅」( 満州語 aisin 金 ) と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合は七~八世紀にほぼ半島全土を統一した後、人名、地名などすべて中国風に改めたため、中国とそっくりになってしまった。朝鮮が小中華と呼ばれるゆえんである。

(2)『隋書』倭国伝の記事

 八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。この時、倭国は推古天皇の時代(600年)であったので、これは大和政権の王ではなく、九州にあった別の国の王のことだと主張する人まで現れた(古田武彦の九州王朝説)。
 

 はたしてそうであろうか。倭人には個人を特定する姓(苗字)はなかった。この姓「阿毎」も倭王固有の姓ではなく、中国の皇帝に朝貢したとき「倭王の姓は」と尋ねられて、倭王の信仰する天の思想から生まれた倭王の氏族名「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎないと考えられる。おそらく、使者はそう答えるように倭王から指示されていたのであろう。

『古事記』高天原神話初代の神は「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)であり、「天(アメ)」を冠した神々は数多い。これは北アジアの騎馬民族トルコやモンゴルにも共通した信仰であり、彼らが中国に行ったとき、王(可汗)の姓を聞かれて「テングリ(天)」と答えるようなものである。「アメ」も「テングリ」も王姓ではない。倭人も北方騎馬民族も「姓」はなかったのである。

 では「多利思比孤」(タリシヒコ)はどうか。推古天皇が男性名を名乗っている。古田氏の面目躍如というところであるが、漢和辞典で「字」の意味を見てみると、古代中国では「字」とは男子が二十歳になったとき本名のほかに決める通称名とある。普通、この通称名を使うとある。つまり、後世、日本で相手の本名を呼ぶことは失礼であり、「小松殿」(平重盛)とか「越中守様」(松平定信)などのように、その人の住む地名とか官職名で呼ぶ文化と共通している。(現代でも、上司の名前を呼ばず「課長」とか「部長」などと言う)
 
「タリシヒコ」は倭王の本名ではなく、その通称名であったと考えればスンナリ理解できる。古代の天皇で「タリシヒコ」の通称名を持つのは12代景行、13代成務、14代仲哀の各天皇であり、仲哀天皇の和名は「帯中日子天皇」(タラシナカツヒコ)。他に「タラシヒコ」という名称を持つ天皇は、ずっと下がって七世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇であることから、景行、成務、仲哀は八世紀の史官の捏造だとの説を主張する人もいる。しかし、「タラシヒコ」を倭王の通称名と考えれば、初期大和政権(四、五世紀)にはすでにこの名称が存在していた証拠とも言える。(「タラシ」と「タリシ」の母音の違いは時代が変わればよく起きることである)。

 このように考えると、推古天皇の時代であったとしても、倭国の使者は日本の大王(天皇)の通称名を言ったにすぎず、歴代大王は当然、男であり、たまたま女であったことがむしろ例外であったのだから。後世の「ミカド(天皇の呼称)」のようなものである。
 

(3)氏姓制度と大王(天皇)家

 日本史の教科書にも出てくる「氏姓(うじかばね)制度」が古代王朝で確立する(六世紀頃)。氏(うじ)とは北アジア騎馬民族でいう部族、氏族に当たるものであり、久米、物部、大伴、佐伯などがそれであり、姓(かばね)とは「臣」「連」「真人」「宿禰」など、つまり位階である。後世の大納言とか、明治時代の爵位に相当する。なお、氏(うじ)はモンゴル語の ulus (ウルス・・部族、国)と比較されている。
 
 不思議なのは、古代氏姓制度が確立したとき、大王家も強力な氏族の一つであり、神話時代以来の「天(アメ)」氏族であるのに、それを国内的には名乗らなかった。中国・隋に使者を送ったときには姓は「阿毎(アメ)」と答えているのに。つまり、推古天皇は大王(天皇)家の氏族名の「あめ(天)」を姓として隋・皇帝に伝えたのである。

 貴族階級に限るとはいえ、大伴、蘇我、佐伯、久米などの氏族名が飛鳥時代には中国の姓と同じような機能を持っていた。だのに天皇家はなぜか「天(アメ)」を名乗らなかった。もしこのとき、「天(あめ)」を大王家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天(あめ)」名は「裕仁(ひろひと)」のようになっていたであろう。歴史は偶然が左右する。事実はそうはならなかった。
 
 私はその理由を次のように考えている。大王家の氏族名は本来「天(あめ)」であった。しかし、中国の文献から「天皇」の称号を選んだとき、その中にすでに「天」の文字が入っている。つまり、「天皇」そのものが「天氏(あめうじ)」であり、姓そのものであるとの考えから、特に姓を決める必要性がなかったからであろう。案外、理由は単純なところにあるのではないか。また、大伴家持(おおとものやかもち)と「の」を入れて読むのは、大伴氏族に属する「家持」の意味であり、古代の氏族制度の名残りである。

 なお、日本が姓(苗字)の数で世界一を誇るようになって行くのは、平安時代の荘園制の発達と武士の登場に由来している。

 <追記>
 アラブ系の民族(イスラム教徒)も同じく姓を持たない。あるのは個人名と部族や氏族の名称だけである。これでは個人の識別が困難なので、自分の父親の名前を便宜上、姓として使っている。中国のトルコ系のウイグル人も同様である。例えば、名前は「メフルグル」で父親の名前が「アブリズ」なら、「メフルグル・アブリズ」と名乗る。がしかし、これでは代替わりごとに姓が変わるので不便である。おそらく中央政府は中国人のように固定した姓を持たせたい思っているだろうが、いまだそうなっていない。ウイグル人は頑迷に民族固有の文化を守っている。

 北隣りのモンゴル共和国では、ごく最近、固定した姓を全国民が持つように決め、各自がそれぞれ好きな言葉を選んで登録していることを新聞記事で読んだ。それによると、やはり、地名とか山や川の名前などが多いとのことだった。やはり、国が近代化すれば行政上やむを得ないのであろう。中国のウイグル人も早晩そうなるであろう。なお、ウイグルと同じトルコ系のウズベキスタンではソ連時代に「姓」を名乗るようになったが、ロシア人とは違い、日本人と同じく「姓・名」の順である。やはりアルタイ系の言語を話す民族のゆえんである。なぜか親近感を覚える。 
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f239c0f30c5037a219085d5bb5efa582


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天皇家にはなぜ姓がないのか?  - 続編 - 2019年12月31日 |
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/50ca658d4ebc1abad056d3be484b2299

 この問いに対する答えはすでに書いた。ところが、日本史の大学教授の名字に関する著書に「姓を与えることは天皇の権限であり、姓を名乗ることは天皇支配を受け入れることを意味する」とあった。これは常識の噓(俗説)である。たしかに、『日本書紀』に天智天皇が中臣鎌足に「藤原」姓を与えたとあり、これが根拠とされているようだが、この記事から分かることは、天智天皇の時代には倭国の氏族名が中国風の「姓」と同じ機能を有していたことを示しているだけであり、姓を与えることが天皇の権限であるなど、どこにも書かれていない。これは後世の「源氏」「平氏」「豊臣」などの姓を朝廷(天皇)が下賜した例との混同である。

 なぜ、このような誤解が生まれたのか。それは古代日本で六世紀頃成立した「氏姓(うじかばね)制度」による。この漢字「姓」は中国の人名の姓(漢の皇帝の姓は「劉」、唐は「李」)とは違う意味で使っていたからである。日本では「姓」は地位・身分を表わした。蘇我大臣蝦夷とか大伴宿祢家持のように、この場合「大臣(おほおみ)」「宿祢(すくね)」が「姓」である。勿論、これら「姓(かばね)」を与える権限は天皇にある。『日本書紀』に出て来る天武天皇が684年に新たに制定した「八色の姓(やぐさかばね)」の制が有名である。「真人(まひと)、朝臣(あそみ)などのように貴族を八種の階層に分けた。しかし、古代日本では氏族への帰属意識が強かった。この点では日本は北方騎馬民族のトルコやモンゴルに近い。朝鮮半島では氏族意識がそれほど強くなかったようで、統一新羅(八世紀)が中国風の「姓」を受け入れた。日本でも奈良時代あたりから位階の「姓」制度がうすれ、氏族名が中国風の「姓」となっていった。今、ネット投稿などに天皇賜姓説が定説のように流布しているが、これは人名の「姓」のことである。つまり、天皇は臣下に姓を与えられるが、天皇に姓を与える上位の人はいないとの・・。とんでもない誤解である。今一度、私見を述べたい。

 ー東夷、南蛮、西戎、北狄 には個人の姓はなかったー

 古代の東アジアで姓を持っていたのは中国だけである。その周辺の諸民族は中華文明の影響を受けて、姓を名乗るようになった。至極、単純なことである。ただ、国家・民族によって、姓を持つ中国文化を受け入れた時代は様々である。まず、朝鮮半島では五世紀頃、王族が高(高句麗)、金(新羅)、余(百済)、列島では倭(日本)などを名乗り始めた。三世紀の倭の女王・卑弥呼や台与には姓らしきものは出てこない。半島では統一新羅(八世紀)が人名、地名などすべてを中国風に改めた。倭国では遣隋使(七世紀)が倭王の姓を「阿毎(あめ)」(大王家の氏族名)と答えており、この頃、倭国でも氏族名を中国風の姓として使い始めたようである。

 - ラストエンペラー ・ 溥儀には姓がなかった ー

 清朝最後の皇帝、愛新覚羅・溥儀の「愛新覚羅」とは「アイシン部族」の意味であり(満州語 aisin ・・金)、20世紀まで姓を持たなかったのである。勿論、「愛新覚羅」を姓として使ってはいたが、現在、中国に住む元清朝皇帝一族の人は皆「金」姓を名乗っている。北狄のモンゴル共和国ではなんと21世紀になって全国民が姓を持つようになったが、中国・新疆のウイグル人はいまだ固定した姓はない。南蛮のベトナムでも中華文明の影響は大きく、有名な建国の父、ホー ・ チミン も漢字名の「胡 志明」からきている。また、楊貴妃でよく知られている唐の玄宗皇帝のとき(八世紀中葉)、西域で反乱を起こした安禄山は、実はイラン系のソグド人であり、本来、姓を持たない西戎であるが、中国風の「安」を姓として名乗っている。「禄山」が名前で、ペルシャ語の「 Roshan ( ロウシャン )・・光、輝き 」の意味であることが分かっている。

 -天武天皇は「大海人皇子(おおあまのみこ)」-

「あめ」と「あま」は容易に交替するので同じものである。「天皇」の称号を使い始めたのは天武天皇からと言われている(それまでは「王」)。天武の和名は天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)であり、この「天」を「あめの」又は、「あまの」と読み、通説では美称とされているが、私の考えでは「大伴家持(おおとものやかもち)」や「蘇我入鹿(そがのいるか)」同様、「天氏族に属する誰それ・・」の意味であり、大海人皇子は通称名であったと考えられる。つまり、「大天(おおあま)皇子」。なぜ漢字「海人」を使ったのかは諸説あり定かでない。また、天武天皇の皇后、持統天皇の和風諡号(死後のおくり名)は大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)であり、やはり「天氏族の姫」の意味を持っている。

 大海人皇子は中国の皇帝を意識して、「天皇」の称号を用い、「 天(あめ)氏族・・大王家 」が倭国の全氏族の上に立つ権威を確立しようとしたのではないのか。以前の蘇我氏による崇峻天皇暗殺事件や山背大兄皇子弑逆事件など、二度と起こさせないとの強い決意があったと思われる。(この二つの事件から言えることは、倭国の王権が天氏から蘇我氏に移る可能性もあったということでもある)。この時、現代にまで続く天皇制が確立した。

 また、天武天皇の兄、天智天皇の和名は天命開別尊(あめのみことひらかすわけのみこと)。つまり、「天氏族の・・」の意味を持つ。その前の欽明天皇の和名は「天国排開広庭天皇」であり、やはり、天国(あまくに)もしくは、(あめのくに)を冠している。どうも欽明天皇あたりから半島の高句麗、百済、新羅が軍事的に強くなってきており、倭国も大王家(天氏族)を中心に強国化を図る必要性を感じていたようである。(欽明天皇23年・・562年、任那日本府滅亡)

 <追記>

 私はかねがね不思議に思っていたが、「天皇」の読みは「てんのう」である。漢字「皇」は日本では「こう」としか読めない。(例、皇帝、皇太子、上皇など) このことに関して明確な回答を聞いたことがない。私は次のように考えている。天武天皇以前、倭の大王は自身の氏族名「天(あめ)」と「王(おほきみ)」から、倭人語で「あめのおほきみ」(天氏族の王)と呼ばれ、漢字音で通称「天王(てんのう)」と称していた。漢字「天王」は仏教の「四天王」と偶然一致しており、欽明天皇あたりから仏教に帰依していた倭国王にとっては最適な称号だったと思われる。天武天皇が中国皇帝に対抗して「天皇」の文字を用いるようになったが、読みはこれまでどおり「てんのう」と変えなかった。これならスンナリ理解できる。すでにこの説を唱えた人はいるかもしれないが・・。

 最後に今一度、言っておくが、天皇家にはなぜ姓が無いのかを考える以前に、日本人はどうして姓を持つようになったのか、という疑問を持つのが先決である。日本人の「姓」の起源は、倭国の氏族名が中華文明の影響を受けて中国風の「姓」となって行ったものである。決して、天皇が賜姓したものではない 。全国どこにでもいる「久米さん」の御先祖は神武東征のとき、近衛隊長「大久米命」として古事記に出てくる。神武天皇が賜姓したのだろうか ・・。今でも、奈良県明日香にはその氏寺、久米寺も現存している。その後、飛鳥時代あたりから、国の発展に伴い、多くの新氏族(姓)が生まれた。天皇に姓が無いのではなく、天皇家はなぜかその氏族名「天(あめ)」を「姓」として名乗らなかった。ただ、それだけのことである。(令和元年 大晦日)

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/50ca658d4ebc1abad056d3be484b2299
9:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:54:14


平城京と韓国の首都・ソウル
2007年12月21日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f03f8fa3eb4b63cc0309d54964ab0541

 韓国の首都・ソウルの語源は古代新羅の首都「金城」にある。朝鮮の史書『三国史記』には金城を「徐伐(ソボル)」と漢字の音を借りて表記している。「ソ」は「金とか鉄」の意味、「ポル」は「地、所、野」などの意味なので、「ソボル」は日本語の「みやこ(京)」と一致する言葉なのである。新羅語の「ソボル」を漢字で書けば「金城」となる。なお、「ソ」は現代朝鮮語の soi (鉄)と一致し、満州語の aisin (金)と比較されている。「ポル」は日本語の「原(はら)」、九州・沖縄地方の「原(ばる)」と比較される。韓国の首都・ソウルはこの「ソボル so-pol」の P音が脱落して生まれた言葉なのである。李氏朝鮮の首都は漢字で「漢城」と書くが、同時代の文献にはソウルの意味で「京師」と書かれたものもある。
 
 -古代日本にもあったソウルー 
 今、奈良県奈良市の昔の郡名は「添下(そふのしも)郡」である(『日本書紀』天武紀、676年)。「藤原京木簡」には「所布評(そふのこおり)」とある。この「所布(そふ)」こそ新羅の都「徐伐(ソボル)」に当たるものである。
「評」は新羅で「郡」と同じ意味で使っていた。百済では都を「所夫里(そふり)」と表記しているので、日本の「所布(そふ)」は百済語からの借用であろう。 日本では国名や郡名は漢字二文字が原則なので、「所夫里」の「里」を省略して「所布(そふ)評」となったと考えられる。後に、上下二郡に分かれた。つまり、「所布(そふ)郡」とは日本語で言えば「京(みやこ)郡」の意味であり、首都・平城京の置かれた地にふさわしい名である。ところで、福岡県には「京都(みやこ)郡」があるが、律令制度の豊前の国、古代の「豊(とよ)の国」の地である。そこに邪馬台国時代には王城の一つがあったのであろう。なお、「所布(そふ)評」 は現在でも奈良県・添上(そえかみ)郡として存在している。

 -日本古代国家は半島の影響が大ー 
 以上のことから見えてくるものは、7世紀の飛鳥時代の政治・文化は大きく古代朝鮮三国の影響を受けているということ。王城や朝廷に関する言葉は特に顕著である。つまり、大和政権の中枢部にかれら半島の人々が多く仕えていた証拠でもある。
 錦(にしき)は新羅の王号「尼斯今(ニシクム)」、奈良の都は「楽浪(ナラ)」、明日香は古朝鮮の「阿斯達(アシダル)」、平城京のある郡名「所夫(そふ)」は都(みやこ)を意味する新羅・百済語からきている。しかし、日本語の基礎語彙や音声構造はなんら影響は受けていない。日本固有の文化および日本語の強固な生命力はわれわれ日本人として誇るべきものであろう。(例えば、朝鮮では統一新羅時代に民族固有の人名や地名などを中国風に改めている。一方、日本では人名、地名はおろか、出雲大社など古墳時代に起源をもつ神社を今でも尊崇している)。つまり、古代の倭人が大陸から受け入れたのは政治制度であり、固有の文化は守ってきたと言える。

 最後に、佐賀県・吉野ケ里遺跡の北方に聳える山は「背振(せぶり)山」と呼ばれている。「背振」(せぶり)とはまさに新羅の「徐伐(ソボル)」、百済の「所夫里(ソフリ)」、まさに都城、王城の意味である。女王・卑弥呼の都、邪馬台国の所在地になにか示唆を与えているように思えてならない。吉野ケ里こそ邪馬台国ではなかったのか。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f03f8fa3eb4b63cc0309d54964ab0541


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 錦の御旗はなぜ朝廷の代名詞なのか  -錦(にしき)の語源ー
2007年11月24日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/69566df9c99aa3a76ece34a6084216b0

 幕末、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に錦(にしき)の御旗が翻ったとき、幕府軍は総崩れとなって敗走した。「錦の御旗」とは朝廷、天皇そのものを指す言葉であるので、この時から徳川幕府は朝敵となった。漢和辞典で「錦」を引くと「金糸や色糸を織りこんだ美しい模様の織物」とある。もともと織物の一種であるが、これを皇帝や貴族が着用することから「錦」は皇帝(朝廷)の代名詞となったである。
 

 では、漢字「錦」はなぜ「にしき」と読まれるのか。これまで様々な説が出されている。「丹敷き」や「虹色」などなど。この「にしき」も先の「奈良」「明日香」同様、古代朝鮮語から入ったものであると考えられる。

 朝鮮の歴史書『三国史記』によると、新羅の王号は「尼斯今」(ニシクム)とある。「脱解尼斯今」と表記された王がおり、現代朝鮮語でも「脱(タル)」は「月」、「解(へ)」は「日」の意味であるので漢字で書けば「月日王」の意味になる。このように、日本の万葉仮名に先駆する表記法がすでに新羅にはあったのである。これを「吏読」という。新羅人からこの用法を学び、日本語に適用させたのが万葉仮名であった。
 

 この「尼斯今」 ni-si-kum を開音節語(子音プラス母音)の倭人は「ニシキ」と発音した。明治時代でも英語の ink は「インキ」、strike は「ストライキ」とか「ストライク」と借用していることからも分かる。

 また、『古事記』によると、応神天皇のとき「論語」「千字文」を持って来朝した百済の「王仁」を「わに」と読ませるのも、「王」は wang と鼻音なので、鼻音を持たない倭人は「ワニ」と発音し「王仁」の漢字をあてたか、あと一つは、現代日本語同様「ワン」と発音したが、この時代「ん」に当たる文字がなかったので、「ん」に「仁」の字を当てたとも考えられる。いずれにしても、「わに」は漢字「王」を日本語風に読んだものである。この「王仁」は漢文に習熟した楽浪王氏の一族であった可能性が高い。

 以上、「錦」に新羅の王号「にしき」の訓読みを与えた当時の飛鳥・奈良時代の日本人は、その意味を当然知っていたはずである。がしかし、「明日香」や「奈良の都」同様、時代を経るにしたがいその記憶はうすれ、だれも分からなくなってしまったのであろう。

 なお戦前、大槻文彦がその著『大言海』において、「錦」の説明のなかで「新羅の王号を尼斯今と云う」と控え目に書いている。皇室に遠慮したのであろうか。この説のプライオリティ(先取権)は勿論、大槻文彦にある。

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10:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:54:45


明日香と朝鮮
2007年11月19日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/014c153a9b64928bbcbc4cc36fb084f9

 明日香(あすか)の語源についてはこれまで色々な説が出されている。大和・磯城郡の「磯城(しき)」と関係があるとか、「あ・ すか」と読んで、横須賀などの「すか」(土地)の意味だとか言われてきた。私は「明日香」も先に述べた平城京(奈良)と同じように朝鮮半島と密接な関係があると思っている。

 -古代朝鮮の神話ー
 
朝鮮・高麗朝時代(1285年)に書かれた『三国遺事』には朝鮮半島の神話が語られている。それによると、半島の北部から旧満州にかけて4000年ほど前に「古朝鮮」という国があり、その始祖は「檀君(だんくん)」と言われ、都を「阿斯達(アシダル)」に置いたとある。その「阿斯達」が高句麗の首都・平壌であるとされている。これは、漢の楽浪郡の中心地が「朝鮮県」(今の平壌)であったことから思いついたものであろう。

 古事記の神武天皇神話と同じようなもので、所謂「檀君神話」と言われている。この「阿斯達」こそ「明日香」の語源であると思われる。
「阿斯達」の「あし」は「朝(あさ)」の意味だと考えられる。日本語の「あさ(朝)」は「あす(明日)」「あした(明日)」と単語家族 word family を形成する。古語では「朝」は「あした」とも読み、翌朝、早朝の意味でもあったことは高校の古文の授業で学んでご存知と思う。「あした」が明日 tomorrow の意味に限定されるようになったのは近世以後である。言語学的には日本語の「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした(朝)」「あずま(東)」と朝鮮語で朝の意味の「アチム」が比較されている。

 ただ、古代朝鮮語の文献資料が非常に少なく、「阿斯」が高句麗語で「朝」の意味があったのかどうかは不明であるが、「達(タル)」は高句麗語で「山」(土地、場所の意味にも使う)の意味であることは朝鮮の古代史書『三国史記』の記述から証明されている。つまり、漢字で書けば「朝鮮」、漢字の音を借りて万葉仮名風に書けば「阿斯達」となり、同じ意味である。なお、1392年李成桂が高麗国王から禅譲という形で新王朝を開いたとき、国名を古朝鮮(檀君朝鮮)の神話からとって「朝鮮」とした。

 ー明日香と阿斯達ー

「明日香」は「あす・か」と読み、「あす」は「あさ」「あした」と単語家族であり、同じような意味である。「香」は「有りか」「棲みか」の「か」で土地、場所の意味であるので、「あすか(明日香)」とはまさに「阿斯達(朝鮮)」を日本語に置きかえたものだと考えられる。これは何を意味するのか。6、7世紀の倭国には半島から多くの移住者があり、さまざまな分野で貢献している。政治制度、建築、仏教、漢字文化などに半島の顕著な影響がみられる。このような背景の元で日本の新たな都(みやこ)として造営された地に「あすか」の名が付けられたのであろう。これは、後の平城京を「なら(楽浪)のみやこ」と呼ぶのと同じ発想である。


 このような例は世界史上いくらでも見られる。18~19世紀の帝政ロシアはこれまで軍事的には強国であったが、西欧列強からは政治制度や文化、技術で遅れをとっていた。そのため、国家をあらゆる面から強国にしようと多くのドイツ人を招いていた。その結果、西欧列強にひけをとらない大国となった。実は、帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)はドイツ語なのである。また、オスマン・トルコ帝国でも政治、法律、経済などで多くのペルシャ人が登用されていた。古代日本も、巨大古墳を作るほどの強国であった(4世紀末には渡海して高句麗と戦っている…好太王碑文)。また、5世紀には中国・南朝の宋に朝貢し、半島の南部(任那・加羅)の支配権を認めさせている…「宋書倭国伝」。

 その後、6~7世紀頃には朝鮮三国が中国(隋、唐)の諸制度や文化を導入し、古代版の近代国家へと変貌した。地勢上、遅れをとった倭国はかれら半島の人を登用して日本を近代国家にしようとした。その中心となったのが蘇我氏であり聖徳太子であった。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧であったことは『日本書紀』に書かれている。そうして、藤原京の造営や大宝律令の制定によって倭国の近代化は完成した。それが飛鳥時代であったのである。
 
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11:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:55:17


平城京はなぜ「ならのみやこ」と称されるのか ?
2007年10月16日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/4ff2fed522349632493612081d06546d

 奈良時代の大宰権帥・小野老(おゆ)の有名な歌「 あおによし 寧楽(なら)の都は 咲く花の 匂うが如く いま盛りなり 」。平城京は「ならのみやこ」と称されてきた。万葉仮名では「寧楽」とか「奈良」と表記される。なぜ「なら」なのか、これまで色々な説がだされてきた。土地をナラして造営したから「ナラ」だとか、朝鮮語の「ナラ(国)」が語源だとか。私は「ナラ」の語源は前漢・武帝が朝鮮半島に設置した楽浪郡(現在の平壌)にあると思っている。「楽浪」は朝鮮漢字音で「 nak - rang (ナラ)」と読める。このことをすでに指摘している人はいる( 駒井和愛『楽浪』中公新書 )。朝鮮漢字音では語頭の R音は脱落もしくは N音に変化する。ちなみに、韓国では姓の「李」は「イ」と発音するが、スポーツ選手などは対外的に「Li(リ)」を使っている。北朝鮮ではすべて「リ」に統一している。
 

 漢帝国の出先機関・楽浪郡は倭人をはじめ東夷諸民族の憧れの地でもあった。この間の事情を『前漢書』地理誌は「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」と記録している。ところが、世紀313年、北方の高句麗が南下して楽浪郡を併合し、427年にこの地を「平壌」と命名して首都にした。ここで旧名称「 楽浪(ナラ)」と新名称「平壌」の関係ができた。丁度、「江戸」と「東京」の関係と同じように。

 漢字「壌」は土や土地のほかに国や国土の意味もあり、「城」にも国の意味もあるので「壌」と「城」は音義ともに一致する。つまり、次のような関係が成り立つ。
          

高句麗  ・・ 平壌 ー 楽浪(ナラ)
        日本 ・・ 平城 ー 奈良(なら)

 ー楽浪府は土塁の城市ー
 高句麗が「城」ではなくなぜ「壌」の文字を使ったのか、その理由は簡単明瞭である。楽浪府は土塁で囲まれた城市であった。戦前の調査でも土塁の一部が確認されている。 日本の7世紀は、朝鮮半島の高句麗、百済が滅んで多くの半島人が日本に亡命してきた時代でもあった。故国を失った彼らは日本の地に自分たちの理想の国家像を重ね合わせ、日本の古代律令国家建設に貢献した。聖徳太子が建立した日本最古の寺・法興寺(現在の飛鳥寺)は高句麗の清岩里廃寺と同じ様式であったことが分かっている。『日本書紀』にも高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置したとの記事もある。現在、埼玉県日高市に高(句)麗一族を祀る高麗神社がある。足利尊氏の家臣、高師直もその末裔であろう。高句麗の王姓「高」を名乗っている。
 これらの事実を背景にして710年平城京の成立とともに「ナラのみやこ」と呼ばれるようになったと思われる。この時にはまだ亡命半島系の人たちの影響が残っていたのであろう。しかし、時代が経るにつれて半島の記憶はうすれ、いつしかなぜ平城京が別名「ならのみやこ」と呼ばれるのか誰も分からなくなってしまったのであろう。

 最後に朝鮮語の「ナラ(国)」との関係であるが、高句麗語、満州語、日本語では土地のことを「ナ」と言う。日本語では「名主(なぬし)」として江戸時代まで使われてきた。朝鮮語の「ナラ」が高句麗時代に存在していたかどうかは資料がなく分からない。韓国・朝鮮の人が書いた本などに古代朝鮮語ではこうだなどの記述が散見されるが、古代朝鮮語の文献資料はほとんど残っておらず、せいぜい、李氏朝鮮時代(16世紀頃)までしか遡れない。この「ナラ(国)」もしかり。私は漢字「楽浪」を高句麗風に「ナラ」と読んだことから「国」の意味が生じたと思っている。なぜなら、漢の楽浪府こそ朝鮮半島で最初の本格的な都城、つまり、国都であったから。それが、なんと800年後の海東の日本にまで伝わり、平城京は「なら(楽浪)」と呼ばれた。
 
 <追記>

 万葉集の柿本人麻呂の有名な歌  「楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」
 

 この志賀にかかる枕詞「さざなみの」になぜ「楽浪」の文字を当てるのか、これまで明確な説明をした人はいない。誰も分からなかったのである。この枕詞「楽浪の」は別の歌で「楽浪(さざなみ)の 国つ御神・・・」ともあり、国にかかる枕詞でもある。私のこれまでの論証、「楽浪」=「ナラ(国)」であると7世紀の万葉人たちが認識していたと考えれば、「楽浪の志賀(近江京)」という表記が生まれた理由がわけなく理解できる。平城京、奈良の都の生まれた所以(ゆえん)である。

 また、近年発見された奈良県明日香のキトラ古墳(7世紀頃)の天井の星宿図がなんと紀元前一世紀頃の平壌(当時は前漢の楽浪府)の夜空の観測図であったとのこと、飛鳥時代の日本人の「楽浪」に対する思い入れの深さを如実に物語っていると言える。 
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12:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:56:07


広開土王(好太王)碑文の新解釈 -「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp

    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 -広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末~5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 -広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 -臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 -女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印靑綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

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13:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:56:42

卑弥呼は漢字を知っていた!
2007年11月03日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e6cdba43c1edbfec6862584f107bf66e

 邪馬台国時代(三世紀)には倭人は漢字を知らなかったというのが古代史の定説となっている。「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の地名、人名などは倭人の発音を聞いた魏の使者が漢字表記したものであると。日本に漢字が伝わったのは五世紀頃で、『古事記』にある百済から「王仁(わに)」の来朝記事がその根拠とされてきた。毎年、洪水のように出される邪馬台国関係の本や論考でもそれが自明のこととして書かれている。
 

しかし、これに異を唱える人が現れた。『邪馬台国はなかった』の著者・古田武彦である。古田氏は、倭人は前漢以来「以歳時来献見」(『前漢書』地理誌)と半島の楽浪郡に朝貢し、漢字文明と接触していること。「魏志倭人伝」にも「郡使倭国 皆臨津捜露 伝送文書」と文字を使った事務作業を行っていること。そうして、決定的なことは帯方郡使が卑弥呼に対して「奉詔書印綬」と書面を渡しており、それに対して卑弥呼は「倭王因使上表 答謝詔恩」と魏の皇帝に対して答礼の上表文を呈している。これらの記事を読むかぎり、卑弥呼の宮廷には漢字に習熟した人がいたことは明らかである。(その人が倭人であったかどうかは別として)
 古田氏は至極当り前のことを言っているのである。明治以来日本の学者は「倭人伝」を本当に真面目に読んできたのであろうか。ただし、古田氏の唱える「邪馬壱国」は支持できない。中国史書『後漢書』(五世紀) にはちゃんと「邪馬台国」とあるのである。日本の学者が「大和(やまと)」に合わせるため、勝手に「壱」を「台」に読み替えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の「倭人の条」は『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。現存している『魏志』はずっと後の12世紀(南宋代)の版木本のみである。
 私も邪馬台国には漢字に習熟していた人がいたと思っている。その根拠は「倭人伝」に記された「対馬国」と「末盧國」にある。

(1)対馬国
 「対馬」の表記は「倭人伝」以来、今日まで変わらない。七世紀の『隋書』「倭国伝」には対馬は「都斯麻」と万葉仮名で表記されている。これは中国人が当時の日本人の発音を聞いて書いた文字ではなく、すでに漢字で日本語を書き表す方法を習得していた日本側が隋の使者に示した文字であろう。万葉仮名というのは子音プラス母音で一音節を構成する日本語を、漢字一文字で書き表すものである。現代でも新彊ウイグル自治区の首都ウルムチは漢字で「烏魯木斉」、内モンゴル自治区の首都フホホトは「呼和浩特」と表記される。日本の万葉仮名そっくりである。もし、定説のように邪馬台国の倭人が漢字を全く知らず、「ツシマ」と倭人が発音したのを漢人が表記したとすれば、先の「烏魯木斉」「呼和浩特」の例のように漢字3文字になるはずである。時代は下がるが、『明史』「日本伝」にも「明智光秀」を「阿奇支」と表記した例もある。しかし、「つしま」は「対馬」と漢字2文字である。これは何を意味するのか。
 

 一つには対馬は三世紀には「ツマ」と2音節語であったのか。いや、私は対馬は三世紀も「ツシマ」であったと思う。なぜなら、対馬の語源は「津島」であるからである。「倭人伝」の「対馬」は倭国側で使っていた表記をそのまま魏使が書き写したものと考えられる。対馬は上下二つの島から成り立っている。正確には日露戦争のとき狭い水路を掘削して完全に二島に分離されたものだが、古くから二島と認識されていた。むしろ、二つの島が対(ペアー)になっているというのがより正確である。「対馬」はまさにそれに適っている。つまり、漢字の意味を借りたのである(訓借)。では、なぜ「対島」と表記されなかったのか、その理由は分からないが、「対馬」は邪馬台国側で使っていた表記であることは間違いない。                                  

(2)末盧國
 現在の長崎県松浦半島にあった「末盧國」も「マツラ」と3音節である。当然、魏使は漢字3文字で表記したはずである。ところが、実際は「末盧」と2文字である。なぜか、 それは一音節語の漢字「末 mat 」を倭人語風に「 mat-u (マツ)」と母音を加えて2音節にして使用しているからである。 これは漢字で日本語を書き表す手法を習得していた七世紀頃には一般的であった。筑紫の「筑」は漢字音 tik を tik-u 「チク」又は「ツク」と2音節で使う。 地名表記でも「信濃(シナノ)」は「 sin-a no 」、「讃岐(サヌキ)」は「 san-u ki 」というふうに使う。『魏志』より400年後に成立した『隋書』倭国伝には「筑紫」を「竹斯国」と表記している。「魏志倭人伝」の「末盧國」と同じ用法である。つまり、「竹 tik 」を tik-u と母音を加えて二音節として使っている。( 一音節の漢語「末 」や「竹」を「マツ」や「チク」と母音を加えてニ音節化して使う, この用法を国語学で「ニ合仮名」と言う)。なお、『古事記』には「末羅縣(まつらのあがた)」として出てくる。
 

 この用法はすでに五~六世紀頃に造営されたと思われる埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘文に現れる。それには「多加利足尼」とあり、この「足尼」が飛鳥・奈良時代の位階のひとつ「宿禰(すくね)」を意味する言葉であるとされている、(例、大伴宿禰家持)。 三世紀の邪馬台国時代にすでに、七世紀の飛鳥時代と同じ漢字使用法が定着していたのである。朝鮮漢字音では漢字はそのまま一音節で借用している。(例えば、「国」は kuk 、日本語の koku (コク) とは全く違う)
 

 これらの事実は驚くべき結論をさし示す。つまり、邪馬台国時代の倭人は漢字を知らないどころか、すでに漢字で倭人語を表記する方法を習得していた。その証拠が「対馬国」と「末盧國」である。倭人に漢字をもたらしたのは楽浪・帯方郡の漢人であろう。漢人のうち何人かは卑弥呼の宮廷に近侍していたはずである。そうして、倭人の中にも漢字に習熟していた人たちがすでに存在していた。そう考えなければ「倭人伝」にいう「倭王因使上表、答謝詔恩」などの文が理解できない。他にも、国々にあった「市(いち)」の監督官「大倭」、伊都国に置かれた政治・軍事の監察官「一大率」、この「大倭」と「一大率」などは邪馬台国が独自に決めて使っていた文字であることは明らかである。邪馬台国にやってきた漢人(魏使)がどうしてこんな漢字を思いつくだろうか、あり得ないことである。前漢以来の楽浪・帯方郡と倭国との密接な交流の歴史を再認識する必要があるのではないか。
 

 <追記>

 なぜ、明治以来の邪馬台国論争でこれらのこと(倭人が漢字を使っていた)が無視されてきたのか。その理由は単純なところにある。日本国家の中心は大和の天皇家であり、日本のすべての古代文化(古墳も漢字も仏教も)はまず大和から始まり、そこから列島の隅々まであまねく伝えられたという虚構(皇国史観あるいは大和中心史観)にある。今でも、地方で立派な出土物が出ると、大和朝廷の勢力はここまで及んでいたのか、と言う学者が少なからずいる。すべてはここにある。

 近年、九州の弥生時代遺跡(紀元前後)から相次いで、硯(すずり)石の断片が出土している。卑弥呼の時代の吉野ヶ里遺跡からも硯石と研石が発見されている。おそらく、楽浪・帯方郡から倭国に移住してきていた漢人が持ち込んだものであろう。「卑弥呼は漢字を知っていた」との私の論考の正しさを証明してくれている。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e6cdba43c1edbfec6862584f107bf66e
14:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:57:16

911名無しさん@お腹いっぱい。2021/03/08(月) 10:50:34.28ID:GQYQ6vCJ

まとめ

ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョン) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)

ヤマトの神 スサノオ(=韓神)

ヤマトの姫 卑弥呼(=朝鮮系シャーマン)

ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)

ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)

ヤマトの食 水稲・米(=朝鮮半島から伝来)

ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)

ヤマトの墓 支石墓(=半島から伝来)

ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)

ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)

ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)

ヤマトの言語 宮廷語(=百済人の王仁が伝える)

ヤマトの天 高天原(=朝鮮半島)

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。
書紀で「天」は朝鮮半島を指すのだ。ウヨが言うように「チョン」と読むと
高チョン原、チョンの御中主神。チョン照らす、チョンのぬぼこ

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50
15:777 :

2023/08/15 (Tue) 08:30:30

大神神社の初代神主のオオタタネコのミコト が記したとされる『ホツマツタヱ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139992



古事記(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/514.html

日本書紀(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/513.html

先代旧事本紀 (現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/515.html

古語拾遺 (現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/516.html
16:777 :

2024/02/29 (Thu) 06:00:25

ゲノム解析からわかってきた日本人のルーツ~神武東遷・邪馬台国・空白の四世紀
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2024/02/15
https://www.youtube.com/watch?v=iSlBLpHywTk

古墳時代に日本に大量の渡来人がやってきた~! DNAのゲノム解析からわかってきた 日本人のルーツ。古墳時代、渡来人が大量に日本にやってきた!縄文・弥生・古墳時代の歴史をどう読み解けばよいのか?皆さんにわかりやすくお話しします。また、銅鏡からわかることも併せて。久しぶりの古代史シリーズです^^
葛木御歳神社



邪馬台国の謎
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/09/11
https://www.youtube.com/watch?v=O_3AGnmJJbs&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=4

葛木御歳神社の宮司が、邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP https://www.mitoshijinja.jp/


葛城・鴨氏、八咫烏と神武天皇の物語
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/07/11
https://www.youtube.com/watch?v=bs5VlcUddhM&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=1

葛木御歳神社宮司が地元葛城・鴨氏ゆかりの神話の物語を解説いたします。
鴨氏のルーツは?
八咫烏は何者?金鵄が飛んできて何故ナガスネヒコ軍は総崩れになったのか?神武天皇は御所市の柏原で政務を執った(本居宣長談)など。


古代の出雲と葛城と九州の関係~二つの天孫降臨と出雲国譲り神々のその後~
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=PJtQK6_3zUU&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=2

葛木御歳神社宮司が地元葛城からさらに広げ、葛城・鴨氏と出雲の関係、葛城・鴨氏と九州の関係を紐解きます。
前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れますね。後編では、「出雲国譲り神々のその後」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。


出雲の国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/25
https://www.youtube.com/watch?v=XaXF-4jJYqc&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=3

後編では「出雲国譲り神々のその後~大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
葛城、鴨氏はやはり、出雲の流れを引いていた!江戸時代まで出雲大社には葛城の鴨三社に祭られている大国主神の御子神が勢ぞろいで祭られていた!
8/19にアップした前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れています。ぜひ前編もご覧ください。


葛木御歳神社HPには、オンライン、アーカイブ講座の動画もご案内しています。ぜひご覧くださいね^^

葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel - YouTube
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/playlists
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神社講座 - YouTube
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全国の神社紹介 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWALFxUi_pxlfzu4bejPcZaJ

葛木御歳神社祭事 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBhj6lRhN4dHFAqslExyIrO

古代史・神話解説 - YouTube
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