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天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人

1:777 :

2022/06/01 (Wed) 19:11:57

 
天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人


現時点でわかっている事を纏めると

日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

弥生初期に水田耕作を生業とする朝鮮無土器文化人が北九州に移民した。

朝鮮無土器文化人の遺伝子は現代日本人と同じで、縄文人とは混血していない。即ち、縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った。

弥生時代後期に福岡の伊都国に漢民族系朝鮮人が植民市を作り、朝鮮の漢民族と奴隷貿易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族かが簡単に判別できます:


縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

倭人・朝鮮無土器文化人・弥生人
鳥信仰、太陽信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰、天照信仰


詳細は

稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が九州に移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居と鳥信仰
https://www.yoshinogari.jp/introduction/restore/moat-encircled-village/

朝鮮を追われた天皇家が日本に移住して作った伊都国・邪馬台国での鏡信仰
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


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朝鮮と日本の神話の類似性

上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

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高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注
1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91

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10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg
天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html

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昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643
10:777 :

2022/06/02 (Thu) 07:54:45


明日香と朝鮮
2007年11月19日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/014c153a9b64928bbcbc4cc36fb084f9

 明日香(あすか)の語源についてはこれまで色々な説が出されている。大和・磯城郡の「磯城(しき)」と関係があるとか、「あ・ すか」と読んで、横須賀などの「すか」(土地)の意味だとか言われてきた。私は「明日香」も先に述べた平城京(奈良)と同じように朝鮮半島と密接な関係があると思っている。

 -古代朝鮮の神話ー
 
朝鮮・高麗朝時代(1285年)に書かれた『三国遺事』には朝鮮半島の神話が語られている。それによると、半島の北部から旧満州にかけて4000年ほど前に「古朝鮮」という国があり、その始祖は「檀君(だんくん)」と言われ、都を「阿斯達(アシダル)」に置いたとある。その「阿斯達」が高句麗の首都・平壌であるとされている。これは、漢の楽浪郡の中心地が「朝鮮県」(今の平壌)であったことから思いついたものであろう。

 古事記の神武天皇神話と同じようなもので、所謂「檀君神話」と言われている。この「阿斯達」こそ「明日香」の語源であると思われる。
「阿斯達」の「あし」は「朝(あさ)」の意味だと考えられる。日本語の「あさ(朝)」は「あす(明日)」「あした(明日)」と単語家族 word family を形成する。古語では「朝」は「あした」とも読み、翌朝、早朝の意味でもあったことは高校の古文の授業で学んでご存知と思う。「あした」が明日 tomorrow の意味に限定されるようになったのは近世以後である。言語学的には日本語の「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした(朝)」「あずま(東)」と朝鮮語で朝の意味の「アチム」が比較されている。

 ただ、古代朝鮮語の文献資料が非常に少なく、「阿斯」が高句麗語で「朝」の意味があったのかどうかは不明であるが、「達(タル)」は高句麗語で「山」(土地、場所の意味にも使う)の意味であることは朝鮮の古代史書『三国史記』の記述から証明されている。つまり、漢字で書けば「朝鮮」、漢字の音を借りて万葉仮名風に書けば「阿斯達」となり、同じ意味である。なお、1392年李成桂が高麗国王から禅譲という形で新王朝を開いたとき、国名を古朝鮮(檀君朝鮮)の神話からとって「朝鮮」とした。

 ー明日香と阿斯達ー

「明日香」は「あす・か」と読み、「あす」は「あさ」「あした」と単語家族であり、同じような意味である。「香」は「有りか」「棲みか」の「か」で土地、場所の意味であるので、「あすか(明日香)」とはまさに「阿斯達(朝鮮)」を日本語に置きかえたものだと考えられる。これは何を意味するのか。6、7世紀の倭国には半島から多くの移住者があり、さまざまな分野で貢献している。政治制度、建築、仏教、漢字文化などに半島の顕著な影響がみられる。このような背景の元で日本の新たな都(みやこ)として造営された地に「あすか」の名が付けられたのであろう。これは、後の平城京を「なら(楽浪)のみやこ」と呼ぶのと同じ発想である。


 このような例は世界史上いくらでも見られる。18~19世紀の帝政ロシアはこれまで軍事的には強国であったが、西欧列強からは政治制度や文化、技術で遅れをとっていた。そのため、国家をあらゆる面から強国にしようと多くのドイツ人を招いていた。その結果、西欧列強にひけをとらない大国となった。実は、帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)はドイツ語なのである。また、オスマン・トルコ帝国でも政治、法律、経済などで多くのペルシャ人が登用されていた。古代日本も、巨大古墳を作るほどの強国であった(4世紀末には渡海して高句麗と戦っている…好太王碑文)。また、5世紀には中国・南朝の宋に朝貢し、半島の南部(任那・加羅)の支配権を認めさせている…「宋書倭国伝」。

 その後、6~7世紀頃には朝鮮三国が中国(隋、唐)の諸制度や文化を導入し、古代版の近代国家へと変貌した。地勢上、遅れをとった倭国はかれら半島の人を登用して日本を近代国家にしようとした。その中心となったのが蘇我氏であり聖徳太子であった。聖徳太子の仏教の師は高句麗僧であったことは『日本書紀』に書かれている。そうして、藤原京の造営や大宝律令の制定によって倭国の近代化は完成した。それが飛鳥時代であったのである。
 
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/014c153a9b64928bbcbc4cc36fb084f9

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