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熊切和嘉『鬼畜大宴会 KICHIKU』1997年

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2022/05/25 (Wed) 08:35:11

熊切和嘉『鬼畜大宴会 KICHIKU』1997年

製作・監督・脚本・編集 - 熊切和嘉
音楽 - 赤犬
製作会社 - 鬼プロ作品

動画
https://www.youtube.com/watch?v=eIzbKthJYp8


『鬼畜大宴会』(英題: KICHIKU )は、1997年制作、1998年公開の日本映画。監督は熊切和嘉で、彼の大阪芸術大学芸術学部映像学科における卒業制作として制作された16mmフィルムである。第20回ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリを受賞し[1]、学生の作品ながら異例の劇場公開がされ、ロングランヒット作となった[2]。また第48回ベルリン国際映画祭にて招待作品として上映され、第28回タオルミナ国際映画祭でグランプリを受賞した[2][3]。

1970年代、日本の学生運動で起きた連合赤軍のリンチ殺人をモチーフとし、左翼組織の内部崩壊による惨劇をスプラッター映画として描写した青春群像劇[1][4][5]。劇場公開時のレイティングはR18。熊切は以後映画監督として日本国内外の映画祭の常連となり、近藤龍人、山下敦弘、宇治田隆史ら他の参加スタッフもその後プロとして活躍している。


キャスト
雅美 - 三上純未子
岡崎 - 澤田俊輔
熊谷 - 木田茂
杉原 - 杉原敏行
藤原 - 小木曽健太郎
山根 - 財前智宏
相澤 - 橋本祐二
平 - 平良勤
メンバー1 - 東野哲也
メンバー2 - 仙田学

受賞
第20回ぴあフィルムフェスティバル準グランプリ(1997年)[1] - 同賞のスカラシップ作品として、熊切の次回作『空の穴』が制作され、2001年に公開された。
第28回タオルミナ国際映画祭グランプリ(1998年)


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鬼畜大宴会

全世界に波紋を投げかけた、熊切和嘉監督(『私の男』『海炭市叙景』)衝撃の長編デビュー作!

◆98年タオルミナ国際映画祭グランプリ受賞作品
◆98年ベルリン国際映画祭正式招待作品
◆第20回ぴあフィルムフェスティバル/
 PFFアワード'97準グランプリ作品

青春☆金属バット』『ノン子36歳(家事手伝い)』『海炭市叙景』『莫逆家族 バクギャクファミーリア』、『夏の終り』と、 唯一無二の作品を発表し続け、最新作『私の男』が第36回モスクワ国際映画祭コンペティション部門で最優秀作品賞、 最優秀男優賞をダブル受賞する快挙を成し遂げた、熊切和嘉監督・衝撃のデビュー作!

70年代の学生運動グループの対立と崩壊を描いた、壮絶で残虐なこの問題作は、初監督作ながら全世界の映画祭を震撼させた―。
熊切監督が大阪芸術大学の卒業制作として制作した本作は、スタッフ・キャストすべてノーギャラ!

しかしながら、『私の男』の脚本も担当した宇治田隆史、撮影を担当した近藤龍人、山下敦弘(『リンダ・リンダ・リンダ』『マイ・バック・ページ』監督)、 向井康介(『色即ぜねれいしょん』『陽だまりの彼女』脚本)など、後の日本映画界をけん引する錚々たる才能が学生時代にスタッフとして参加している。

音楽は『味園ユニバース』出演で話題の赤犬が担当。

世紀末の日本を戦慄させた狂気と暴力の世界は、公開から15年以上の時を経た今も、観る者の脳髄を激しく殴打する!!
https://www.odessa-e.co.jp/cont/kichikudaienkai/index.html


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熊切 和嘉(くまきり かずよし、1974年9月1日 - )は、日本の映画監督。北海道帯広市出身。

経歴

北海道帯広柏葉高等学校、大阪芸術大学芸術学部映像学科卒業。卒業制作『鬼畜大宴会』が「第20回ぴあフィルムフェスティバル」で準グランプリを受賞し話題になる。この作品の脚本は当時、教授であり映画監督の中島貞夫から学生離れした内容とあまりに長い原稿枚数に本当にやるのかと問われた。この作品は、ベルリン国際映画祭招待。またタオルミナ国際映画祭ではグランプリを受賞。2001年、第10回PFFスカラシップ作品『空の穴』で、劇場デビュー。

2014年、モスクワ国際映画祭において、『私の男』が最優秀作品賞を受賞した[1][2]。この映画をはじめ、熊切の作品は日本国内外の映画祭に多数出品・招待されている[3][4]。2014年12月より1年間文化庁新進芸術家海外研修制度にてパリに留学[5]。

ハリウッドデビューをした菊地凛子、加瀬亮の初主演作はいずれも熊切監督作品である。

作品
特記の無いものは監督のみ担当作品。

映画
鬼畜大宴会(1998年) - 監督、脚本、編集、照明
空の穴(2001年) - 監督、脚本
夏の花火編〜あさがお(2003年)
冬の花火編〜妹の手料理(2003年)
アカン刑事(最も危険な刑事(デカ)まつり)(2003年)
アンテナ(2003年) - 監督、脚本
遡河魚(2004年) - 監督した野狐禅PVを再編集
揮発性の女(2004年) - 監督、脚本、編集
日野日出志のザ・ホラー怪奇劇場・第二夜 爛れた家「蔵六の奇病」より(2004年)
フリージア(2006年)
青春☆金属バット(2006年)
ノン子36歳(家事手伝い)(2008年)
海炭市叙景(2010年)
鶴園家のめまい(2010年)
莫逆家族-バクギャクファミーリア-(2011年)
BUNGO〜ささやかな欲望〜 人妻(2012年)
シネマ☆インパクト 止まない晴れ(2013年)
夏の終り(2013年)
私の男(2014年)
光の音色 -THE BACK HORN Film-(2014年) - THE BACK HORNとのコラボレーション映画[6]
ディアスポリス -DIRTY YELLOW BOYS- 監督、脚本
武曲 MUKOKU(2017年) - 監督[7]
多十郎殉愛記(2019年) - 監督補佐
#マンホール(2023年)


テレビドラマ
東京少女・セピア編 第4話「疾走少女」
東京少女瓜生美咲 第3話「三角形の恋」
BUNGO -日本文学シネマ-「魔術」
ディアスポリス 異邦警察 第7、8話 監督、脚本
60 誤判対策室(2018年、WOWOW)
満願 最終夜「満願」(2018年、NHK総合) - 脚本・演出


その他担当作品
盲獣VS一寸法師(2001年) - 出演、メイキング撮影
東京ハレンチ天国 さよならのブルース - 協力
おそいひと(2004年) - 編集
TOKYO!「メルド」 - メイキング撮影・編集


受賞歴
鬼畜大宴会
第28回タオルミナ国際映画祭グランプリ
第20回ぴあフィルムフェスティバル PFFアワード 準グランプリ
第23回おおさか映画祭 自主製作賞
空の穴
第30回ロッテルダム国際映画祭 国際批評家連盟賞 スペシャルメンション(特別賞)
ノン子36歳(家事手伝い)
『映画芸術』日本映画ベストテン1位(2008年)
海炭市叙景
第12回シネマニラ国際映画祭グランプリ、最優秀俳優賞
第13回ドーヴィル・アジア映画祭 審査員特別賞受賞
第25回高崎映画祭特別賞受賞
松本CINEMAセレクト・アワード 最優秀映画賞受賞
私の男
第36回モスクワ国際映画祭最優秀作品賞、最優秀男優賞(2014年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E5%88%87%E5%92%8C%E5%98%89
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2022/05/25 (Wed) 08:57:02


あさま山荘事件 1972年(昭和47年)2月19日 - 2月28日

あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

1972年2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した[5]。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[5]。これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

事件の発端

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会[注釈 3](マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ銀行に対する連続強盗事件(M作戦)と真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(真岡銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた[6])、総力を挙げてその行方を追っていた。一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった[7]。

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。

群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、山岳ベースに、息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警は榛名ベースの焼け跡を発見、さらに2月16日には迦葉ベースも発見された[8]。

1972年2月16日、彼らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。この時、最高幹部の森と永田が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。

坂口・植垣康博ら5人は合流地点設定のため先発隊として東京のレンタカーで調達したライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問[注釈 4]を受ける。警官らが車両の脱出を手助けしている隙に、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は2人を残して警察が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、「森林法違反容疑」で逮捕された。この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発した。事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した[9]。装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった[注釈 5]。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡の人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる[10]。

森と永田も榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された[注釈 6][11]。

2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣ら4名が軽井沢駅の列車内で職務質問された。メンバーは2手に分かれていたが、一方は手製爆弾や実弾を所持しているのが見つかり銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。駅売店の店員が、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを不審に思い、助役に通報したことがきっかけであった[12]。

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると警察の追跡を恐れて移動を開始し、捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた[13]。


事件の経過(浅間山荘への立てこもりから制圧まで)

2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊(5人。レイクニュータウン近辺の別荘の捜査が行われていた[13])がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという[14]。

15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた(署長は別の打ち合わせで不在)警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した(この時、北原はほぼ使ったことのないパトカーの無線機で「県下の無線は全部黙れ!」「東北信各署からできるだけ多数の人員を応援させられたい」と指示を出した)[15]。

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している[13]。最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした[16][注釈 7]。吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口と坂東は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念された。坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという[16][8]。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった[16]。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった[17]。

すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している[8]。

2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという[16]。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる[16]。こうして3人は1日でも長く徹底抗戦を続けることで一致した。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。実際は長く抗戦するためだったという[16]。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。

犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。

8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた[18]。

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった[16]。

人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという[16]。

2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫教は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった[16]。犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。

14時過ぎ、人質の夫から妻への激励の手紙や果物を差し入れたいと申し出を受け、第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置く。犯人らの反応はなく、籠はそのまま放置された[19]。

さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという[16]。

19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン訪中のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。


私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 [14]

19時半頃、警察の阻止線を越えた男が山荘に近付こうとしているのを発見され、逮捕される。男は新潟市内でスナックを経営する民間人で、警察は厳重注意のうえ23時20分に釈放[19][20]。

2月22日、午前、吉野の母の説得中に銃声。吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った[19]。涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという[16]。

正午ごろ、画家の男とSBCの記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした[19]。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃[16]。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される[19]。警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した)[19]。1人目の犠牲者。

14時40分ごろ、吉野と坂東の発砲により警察官2名が負傷。超望遠レンズを持たない長野県警の鑑識班員らが現場判断で関東管区機動隊の特型車の後ろに隠れて山荘に接近したところ、車両の速度と歩調があわず、更に凍った道路に足を取られるなどして車体の影から露出したところを狙撃されたもので、最初に散弾で分隊長が右膝を撃たれ、更に倒れた分隊長を救出しようとした駆け寄った隊員が首筋にライフル弾を受けた。この隊員は一命はとりとめたものの、口もきけなくなるほどの重傷を負った。この失態により警察内部の主導権争いで長野県警の旗色が悪くなり、長野県警本部長の野中庸による判断で、幕僚団が指揮系統を押さえるとともに山荘周辺の警備実施は警視庁機動隊に任せることになった[19]。

20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた[8] 警察が山荘の送電を断つ。山荘内の部屋が真っ暗になると同時に外周に設置した投光器で山荘が照らされる。山荘から数発の発砲[19]。以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。

23時16分、投光器の照明灯が山荘から狙撃される[19]。

この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否[16][注釈 8]。

2月23日 - 14時過ぎ、警官隊は山荘の三階玄関前に3台の特型警備車を配備し、強行偵察を開始。16時半ごろには二階風呂場に催涙ガス弾20発が撃ち込まれた。坂口はメンバーと人質にレモンを配り、人質を含めた全員が目の周囲、手の露出した部分にレモンをこすりつけた[注釈 9]。警察は強行偵察の目的であった犯人の特定と人質の安否の確認は果たせなかった[8]。

2月24日1時頃、犯人らを眠らせないための擬音作戦が開始される。作戦開始の合図として照明弾1発を発射する手はずとなっていたが、最初に点火した照明弾が燻るだけで打ち上がらないため別の照明弾を発射したところ、最初の照明弾が作動してしまい、「犯人らの突撃」を意味する2発の照明弾が撃ちあがってしまった。この日は長野県警が現場を受け持ち、残りの部隊は休息を取る予定だったが、慌てて緊急配備を敷いた警察は肩透かしを食う[19][21]。

5時と6時に人質の親族による呼びかけ[19]。人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望するが坂口は拒否[16][注釈 10]。

さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという[16]。

正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。

2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる[16]。

2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念[16]。

9時半、人質の親族が再び呼びかけ。人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった[16][注釈 11]。

坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念[16][8]。この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された[22]。

夕方、山岳ベース事件の犠牲者寺岡恒一の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ[19]。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという[16]。

夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判[16][注釈 12]。

犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」[16]。

2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測[16]。

2月28日、5時、投石が止む。9時、警察による投降勧告。同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった[8][注釈 13]。

9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。10時7分、犯人によるこの日初の発砲。機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。

11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部(殉職により警視正に特進)が被弾(「吉野か坂東のいずれか」によるものとされたが裁判でも特定されず)。1時間後に死亡。2人目の犠牲者。坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった[16]。

11時47分ごろ、第二機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。後に失明する。

11時54分ごろ、第二機動隊隊長の内田尚孝警視(殉職により警視長に特進)が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。3人目の犠牲者。

11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第二機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという[16]。

内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた[16][23]。

12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという[14]。

12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲[注釈 14]。信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く[16]。

14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。第二機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。

15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという[16]。

15時58分ごろ、第二機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾[24]。

17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除していった。

17時20分ごろ、第九機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾[24]。

17時55分ごろ、第九機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾[24]。

やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明[24]。

その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという[16]。

加藤倫教は連行された時の感情を以下のように記している。


のちに全員が連行される際の写真を見る機会があったが、私以外の四人は顔を歪めていた。私はただ前を真っ直ぐ見つめて歩くことを心に決めていた。
悔しい思いで、他の四人が顔を歪めていたとすれば、それは私も同じであったが、それは警察との闘いに敗北したことへの悔しさではなかった。 私は、自分が正しい情報分析もできず、主観的な願望で小から大へと人民の軍隊が成長し、自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた、その自らの浅はかさを思い知り、自分の幼稚さに悔しさを感じていた[8]。

18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。


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警察の対応

初期対応

全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。

そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線の駅での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。

また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」ことを大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。後藤田は20日朝に開かれた記者会見で「なんとかしてxx(人質女性)さんを無事救出したいという気持ちでいっぱいである。この事件が凶悪犯罪であることは間違いないが、彼ら(連合赤軍)はもともとインテリなのだから、彼らの心に訴えて慎重な作戦を取り、できるだけ血を見ないで解決したい」と述べている[25]。

警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。

警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正(警視庁警備部付)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。

後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。

機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に第二機動隊(隊長・内田尚孝警視)が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。

第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。

警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。

結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。

制圧作戦

包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立てこもっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った[注釈 15]。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領が中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。なおニクソン訪中のニュースについては犯人側もテレビで見ていた。初めは冷ややかに母親たちの説得を聞いていた機動隊員らも、子を思う親の愛情の深さに涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した[19]。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった[19]。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃眼を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、本当は「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリ・ターミナルを蹴飛ばしたため」であるといわれる[注釈 16]。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。

当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している[27]。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。

ただしこの故障説については作戦に関わった土木会社の関係者によると、故障ではなくて車両そのものが問題だったとしている。そもそもこのクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を地元の民間会社が使用していたもので、そこに同民間会社の敷地内にあった資材から鉄板を切り出して操縦席に取り付けるなど、防弾のための改造を急遽施したものだった。またモンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーン車のフック部分にケーブルで補強した上で鉄球を取り付けた代物だったため、ほぼ一回限りの動作が前提であった事を鉄球作戦に車両を提供および操縦した白田組関係者がテレビ番組、模型雑誌[28] および自動車雑誌[29] で明かしている。

事件の収束

2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、弾丸が盾を貫通することが分かり[注釈 17]、隊員は盾を2枚重ねて突入した。

突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受け[注釈 18]、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

内田二機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可[注釈 19]が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。狙撃班も配備されていたものの、射程が長く殺傷力の大きな狙撃銃の使用は長官許可とされていたため[31]、結局使用されなかった。ただしこの拳銃使用許可を受けて、狙撃班長・保坂調司警部により、屋根裏部屋の銃座に対する威嚇射撃が行われた。この銃座は二機隊長・内田尚孝警視を始めとして多くの犠牲を出していたが、この威嚇射撃を受けて射手が退避し、無力化された[30]。

しかしその後も、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は士気に関わるとして、部隊指揮官の意思を尊重する形でヘルメットに指揮官表示をしていたが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(銀行強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。

事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部(二階級特進・警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。

事件が長期化した要因
生け捕りの方針であったこと人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。警察官が殺人罪で告発される懸念があったこと1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。犯人が主張や要求をしなかったこと犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかった[注釈 20]。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返した。立てこもり側に有利な地形であったこと。山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと。頻繁に犯人が発砲してくること。警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったこと[注釈 21]などから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している[19]。


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事件後の情勢

連合赤軍の崩壊

あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され[注釈 22]、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

特殊部隊の創設

1972年9月5日、西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした[33]。

1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、本人が法廷闘争を望み留まった)。

1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。

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裁判

山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。

関係者のその後

佐々淳行は初代内閣安全保障室長に就任。退職後は危機管理の専門家・評論家として活動していた。
亀井静香警察庁警備局公安第三課課長補佐は、2017年まで衆議院議員を務めていた。
國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。
佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。
BS朝日で報道されたドキュメンタリー「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」で、連合赤軍の元メンバーは、親戚の叔父に言われた「社会を正しく導くというが、お前たちは誰か一人でも救ったのか?」という一言で活動を辞めていた。山荘に立てこもった内で当時は未成年だった青年が事件後15年の刑期を終えた後に45年ぶりにテレビ出演した。彼は60代の老人だったが現在は自民党の党員になって保守思想へ転向していた。連絡の取れる元メンバーらは転向していたことなどが明かされた[34][35][36]。


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エピソード
カップヌードル事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員に配給されるころには、炊き出したカレーライスも蠟細工のように凍っており、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという[19]。やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。

もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある[19]。このカップヌードルを食べる隊員達の姿が、テレビの生放送で幾度も大写しで報じられ、同商品の知名度を一挙に高めた。直後から他県警や報道陣からの注文が相次ぎ、それが更に大きく報道されたことで、カップヌードルの売上は爆発的に伸びて一躍ヒット商品となった[37]。モップル社2月22日、浅田光輝(立正大教授)・丸山照雄(僧侶)・水戸巌(東大助教授)・木村荘(弁護士)ら「救援連絡センター・モップル社」と名乗り、立てこもり犯との交渉を名目として野中庸本部長に面会を求めてきた。応対した佐々によれば、「身の安全については自己責任の原則」「対話にあたっては通牒にわたることはしない」「現場の警察官の指示に従うこと」の3点について書面で誓約することを条件に立てこもり犯への説得をすんなりと認めると、高圧的な態度で臨んできた彼らは動揺しだし、「あのう、彼らは我々に向かっても撃つでしょうか」と佐々に尋ねてきた。佐々が「そりゃあ撃ちますとも。実の親に向かって発砲する手合いですからね。ではどうぞ気を付けて行ってらっしゃい」と言うと「東京の本部と相談してから返事します」と退散した。後に彼らが無条件での面会を求めてきたため断ったところ、記者会見を開いて警察批判をぶち、軽井沢町内に宿泊して「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃犯五十人を集めた」と書かれたビラを撒くなどの宣伝活動を行った[19]。

鉄球作戦佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[19]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は国の登録有形文化財第1号[38][39]であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。

以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2018年時点において、長野市内の株式会社白田組に残されている。ヘルメットの意匠当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された(現在はヘルメット後頭部にある階級線によって識別が可能)。

生中継1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。後方の治安当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。

警備心理「警備心理学研究会」の宮城音弥東工大名誉教授・島田一男聖心女子大教授らが、現地に派遣された。両教授から「インフォメイション・ハングリー状態となっている隊員らに情報をこまめに伝達せよ」「明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ」などと警備本部幹部へ助言がなされた。一方、高橋幹夫警察庁次長の肝いりでできた研究会の現場視察とあって張り切っていた科学捜査研究所の某技官が幹部らの面前でテレビ出演の段取りまで仕切りだし、憤慨した丸山昂参事官が富田朝彦警備局長に抗議電話を掛けた[19]。事件後の人質女性事件後報道合戦が加熱する中、入院した人質女性はマスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警護されていたが、精神科医の問診や警察の事情聴取の模様等が、特ダネとして朝日新聞に次々とスクープされた。これは、病室のベッドの下に仕掛けられた盗聴器を使用して警察や他社を出し抜いていたものであり、電池の交換に来た記者が病院に侵入したところを取り押さえられたことで判明したが、大物記者らによる必死のもみ消し工作の甲斐あってか、表沙汰にはならなかった[19][40]。

3月1日に開かれた短時間の記者会見で、「(退院したらまず何をしたいかとの問いに対し)みんなと一緒に遊びたい」といった、気が動転している中でなされた女性の発言の一部がセンセーショナルに切り取られたうえ、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く(女性が所持していたお守りを夫が勘違いで犯人から貰ったものと別の記者会見で語ってしまっていたことも一因であった)報道された。この結果、女性は広く世間の批判を受けることとなる。実際には、「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」「2月29日の報道(朝日新聞の「スクープ」)を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と、女性は後に述べている[41]。この会見後、女性のもとヘの激励の手紙が激減し、逆に「うどんが食べたい(病院で食欲を尋ねられ、うどんを所望していた)とか、遊びたいとは何事だ」「お前のために警官が死んでいるのに何を考えているのか」といった文言やカミソリの刃を同封した脅迫の手紙が届くようになり、週刊誌は女性のプライベート情報や虚偽の内容を織り交ぜて『ウソ泣きxx(女性の名前)』『偽善者』と書き立てた。女性は予め夫が目を通して問題がなかった手紙のみを渡されていたが、精神的に不安定になっていった。女性は衰弱しながらも3月11日にそれまでの報道を否定する記者会見(全国からの励ましへの感謝、殉職警官遺族への「お詫び」の意向、監禁中は常に拘束と監視を受け生命の危機にさらされていた旨)を涙ながらに行った。それ以後、女性はマスコミとの接触を拒むようになった[41]。3月1日に東京で殉職警官の合同葬が行われた時、女性は病室から浅間山荘の方角に向けて黙祷を捧げながら涙を流していたという。また退院直後には山荘に直行し、殉職者の祭壇に跪き「申し訳ありません」と泣き崩れた[41]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
3:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:00:11

亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日

保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

総選挙前の8月10日に私が書いたエントリー記事「亀井派と社民党の合併は如何?」のコメント欄に下記のようなコメントをいただきました。

保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。


 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。

 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。
 >私はゲバラも亀井氏も好きなので(笑)、出典などを教えてくれればうれしいです。


 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 

 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。

「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。

 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する)

 そうして、(ゲバラは)自分の人生を、圧政と貧困のなかで苦しんでいる人たちの救済に捧げました。自分の人生を全部捨てて、人の痛みを少しでも和らげようとしたわけです」(亀井静香、前掲書、150~151頁)
 
 自民党の機関紙の『自由民主』でも今年の3月8日号で、亀井さんは鉄人・衣笠祥雄さんと対談して、ゲバラに対する想いを語っています。亀井さんのHPに紹介されています。
 http://www.kamei-shizuka.net/media/2005/050308.html

 その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

 私は、亀井さんが死刑制度廃止を叫び続けるのは、獄中で心の底から改心している永田氏のような人々を、死なせたくないからだと思います。

 警察の内部事情を知り尽くした亀井さんが、「冤罪は絶対に避けられない。無実の人間の命を国家が奪ってはならない。だから死刑には反対だ」と訴えているのです。冤罪が避けられないことは、他ならぬ警察の中にいる方々がもっとも良く知っていることでしょう。

 「共謀罪」などという治安維持法を思わせる法律が審議されている現在、亀井さんの訴えはますます重みを増しています。私も読者の皆さんも、全くの冤罪によって罪を着せられて死刑になってしまうというようなことすら、今後は発生するかも知れないのです。共謀罪が可決されれば、市民の誰もが冤罪の犠牲になってもおかしくないような状況が発生すると思います。警察官僚だった亀井さんの訴えに、私たちは耳を傾けるべきでしょう。
 
 それにしても興味深い事実は、暴力革命を目指した連合赤軍の摘発に敏腕を振るった警察官僚である亀井静香氏が、キューバで暴力革命を成功させたチェ・ゲバラや、大阪町奉行所の役人でありながら幕府の悪政に抗議して武装蜂起を行った大塩平八郎を「尊敬」しているという事実でしょう。

 亀井さんの頭の中では、この問題はどのように処理されているのだろう、と私も非常に不思議に思います。いまでもちゃんと回答は出せません。本人に直接聞いてみるのが一番ですね。

 私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。

 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。

 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るハゲタカファンドやヘッジファンドと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。

 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。

 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。

 小泉のような、苦労知らずの親の7光ボンボン3世議員とは、心が根本的に違います。

 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。

 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか?

 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


2005年7月2日 亀井静香
警察官僚亀井静香を政治家に転向させた「浅間山荘」事件の背景


定刻より15分ほど前に因島市民会館へ到着した俳優菅原文太さん。この日、飛騨の山里からJRを乗り継いだ新幹線の車中で目にした文藝春秋6月号。「三島由紀夫自決からあさま山荘事件まで」の特別企画の証言に亀井静香代議士が登場、当時、警視庁警備局公安第一課課長補佐として「あさま山荘」事件の作戦に加わっていたことに衝撃を受けた。

この事件があった72年といえば文太さんが「人斬り与太」でスターの仲間入り、その翌年に主演映画「仁義なき戦い」がシリーズ化され大ヒットした。昭和元禄といわれた六十年代の総決算ともいえる大阪万博は6422万人が押しかけた。ヤクザ映画は股旅物の様式美から実録ヤクザ映画がヒット。完全にサラリーマン化した大衆には仁侠映画でレトロ趣味を満たすことができなくなってきていた。

その一方で71年に警察庁は凶悪化した極左集団を取り締まるため警備調査官室を設置した。警視庁、神奈川、千葉の両県警をまたぐ重要事件について警視庁が直接指揮をとるための臨時措置だった。弱冠33歳の亀井静香氏が直接指示をした。72年2月には極左集団が金融機関を襲う連続強盗事件を起こし、銃砲店を襲った彼らの足跡をつきとめることができた。

地元民の通報で群馬県警が山狩りをして迦葉山山中で丸太小屋の山岳アジトを発見した。亀井氏も現場へ急行した。男女二人が不審自動車に立て籠もったが、引きずり出す容疑が見つからない。そこで窮余の一策として思いついたのが山小屋を作ったのだから無断伐採したはず。そこで「氏名不詳の窃盗罪」で逮捕礼状を請求した。逮捕した2人は京浜安保共闘の奥沢修一と杉崎ミサ子だった。妙義山山中=写真=ではリーダーの森恒夫と永田洋子を逮捕した。妙義から逃亡した連合赤軍を追い、軽井沢で4人を捕まえたものの5人逃がし、あさま山荘に逃げ込まれた。

「だから、私が彼らを取り逃がさなければ、あさま山荘事件は起きなかった。私にとって大恥というしかない」と、亀井代議士は回顧する。事件は解決したが。警視庁と長野県警が協力して死力を尽くしたからで、けっして威張れるような作戦でなかったとも言う。

しかし、同僚の警察官を殺した犯人グループに対して一方的な憎しみを感じなかった。彼らのやったことは明らかに間違っている。だが、恵まれない人民をどうにかしたいという強い思いが取り調べでその気迫が伝わってきた。六〇年代後半から七〇年代にかけ東アジアはどの国も文化大革命の中国が発する情報に目を注いでいた。志ある若者が、なぜ誤った道に足を踏み入れたのか。そこに政治の責任を感じ、亀井氏は警察庁を退職。衆院選出馬を決意する起爆剤になったことはまちがいない。

こういう亀井さんが大好きだという日本を代表する映画俳優の菅原文太さん。気を緩ませた時の笑顔が魅力的。若い男優がビビってしまう大スターの風格は厳しく怖いという印象とは別に一般聴衆たちが「文太ちゃん」という感じで接する様は闘将亀井静香の「亀ちゃん」の愛称と共通した一面もうかがえる。
http://0845.boo.jp/times/archives/6122
4:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:23:00

共産主義者はどういう人間なのか?

1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

https://medium.com/dysfunciton/正義感が強い-e107fdfd5eff

2) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?


まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

https://medium.com/dysfunciton/悪-あく-ac385668ea9e


3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/05-12/05-12-23.htm

4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない


支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ~あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

https://medium.com/dysfunciton/支配-被支配の構図-3c3ce4b7f638


5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきた
5:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:23:58

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。


格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。
https://medium.com/dysfunciton/序列過敏-62558f9a2332

▲△▽▼


ダメダメ家庭の目次録
音楽・映画関係の超有名サイトでしたが、東北大震災以降リンク切れになり、ミラーサイトでかろうじて読めるものがあります。

消えない内に早くコピーを取って残しておいた方がいいです:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

ダメダメ家庭 カテゴリー分類総目次
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/mokuji/sougoumokuji.htm

映画とクラシック音楽の周囲集
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.htm

「映画の中のクラシック音楽」
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html


因みに、現在の日本共産党は親米保守、極右反動勢力に変わっていますね。

昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。


戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。
6:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:26:59

内田樹の研究室 2015-05-28
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html


私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。

私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。

その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。

バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。


___

国旗国歌について


国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。

その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。

今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。

このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。

ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。

こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。
 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。

いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。

私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。

正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。

しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。

小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」

私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。

国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。

現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。

国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html
7:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:27:37

世間から相手にされなくなった 70年代左翼のその後

講演 憲法について考えよう──子どもたちの未来に平和を──
2006年1月14日(土)午後1時30分 鋸南町中央公民館多目的ホール
講師・東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員
川端 純四郎

 ご紹介いたします。
 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 「9条の会」の講師団メンバーとしても、全国を股にかけて講演なさっており、昨年は1年間で80回以上の講演会を開いておられます。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。
 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。
 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。

《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。

 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。
 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。

《規制緩和とグローバリゼーション - 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。
 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。

 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリ
8:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:28:26

それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。

《憲法改悪の要求》

 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。
 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。

「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

《平和憲法こそ 日本生存の大前提》

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です、「9条を守る」ということは、「アメリカの言いなりにならぬ」ということと一つ、なのです。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。ところが、憲法が危ないという、この危機的な状況にもかかわらず、国内で労働運動が弱体化していますから、ストライキも起きない。大きなデモも起きない。大反対運動も起きない──。という状況です。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。
 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。

 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。
 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。

 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。

 ヨーロッパはユーロでいくでしょう。アジア経済圏はなんといったって元です、中国の。中国は賢いですから、元を押しつけないで、何かアジアの新しい通貨を作るかもしれません。しかし元が中心になることは間違いないでしょう。ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。

 いまのうちに、アメリカに輸出してドルをもらったらユーロに代えておいた方がいい。ユーロの方は下がらないからです。EUという所は、国家財政が赤字だと加盟できないことになっています。赤字だと穴埋めにお札を出すので乱発ということになって下がるのです。だからユーロは一応下がらない仕組みになっています。乱発できないようになっているのです。ドルは短期的に持つのはかまわないが、3年、4年と長期的に持っていると下がってしまいます。それならユーロにしておいた方がいいとか、これから生まれるかもしれないアジア通貨にしておいた方がよいとかいうことになります。世界の大企業や国家が、決済のために多額のドルを持っていますが、これがユーロに切り替えられるとなると、ドルはもう世界通貨ではなくなります。

 そうなると、アメリカだけに依存している国は、大変苦しくなります。21世紀の日本を考えた時、アメリカと仲良くするのは大切ですが、しかしアメリカ一辺倒では駄目な時代になっているのです。アジアと仲良くしなければいけません。

 しかしアジアと仲良くするのには、無条件ではできません。なぜなら、60年前、アジアに戦争を仕掛けて大変な迷惑をかけた。その後始末がちゃんとできていないのです。仲良くするするためには、60年前のマイナスを埋めるところから始めなければいけません。別に難しいことではないのです。「あの時はごめんなさい。2度とやりませんから、勘弁してください」。これで済むわけです。

 問題は、「2度とやりません」が、信用してもらえるかどうかです。信用してもらうための最大の決め手が「憲法第9条」です。憲法9条第1項、第2項がある限り、日本は2度と戦争はできません。イラクの状態を見ても、自衛隊は鉄砲一発撃てない。(世界中)みんなが見ています。この憲法9条第1、第2項がある限り、日本は戦争はできません。だから安心して日本と付き合うのです。

 もし日本が憲法9条を変えて、もう1回戦争やりますということになったら、アジアの国々は日本を警戒して、日本との付き合いが薄くなってしまいます。いま既にそうなりつつあります。小泉首相は靖国に何度も行く。自民党は憲法9条を変えることを決め、改憲構想まで発表した。アジアの国々は用心します。「そういう国とは、あまり深入りしたくない」。

 小泉首相は「政冷、経熱」でいいじゃないか、といいます。政治は冷たくても経済では熱い関係というのでしょうが、そんなことはできません。中国と日本の経済関係はじわっと縮小しています。統計でもそれははっきり出ている。

 おととしまで中国の貿易のトップはアメリカでした。次が日本、3位はEU。これがひっくり返ってしまいました。去年はトップはEU、2位アメリカ、3位日本です。明らかに中国は日本との商売を少しずつ縮小させている。その分EUに振り替えています。

 去年5月、ショッキングなことがありました。北京・上海新幹線という大計画をEUに取られました。北京~上海って何キロあるのでしょう。日本の本州より長いのではないでしょうか。このとてつもない計画があって、去年、まだ予備調査の段階すが、日本は負けました。ドイツ、フランスの連合に取られました。予備調査で取られたということは、本工事は駄目ということです。中国にすれば、日本にやらせるのが一番便利なのです。近いですし、新幹線技術も進んでいます。まだ1度も大事故を起こしたことがありません。ドイツもフランスも、1回ずつ大事故を起こしたことがあります。技術からいっても資本からいっても、日本にやらせれば一番いいのに、日本が負けました。明らかに政治的意図が働いたと思われます。日本との関係を深くしたくない。いざという時、いつでも切れるようにしておく。いざというとき、切れないようでは困る。そういうことではないでしょうか。

 いまのままアメリカ一辺倒でいいのでしょうか。私は長島さんをよく思い出します。後楽園での引退試合の時、最後に「読売ジャイアンツは永久に不滅です」といったのです。永久に不滅どころか、去年のジャイアンツのサマといったらもう、見ていられない。アメリカもそうなるのではないでしょうか。小泉首相は「アメリカは永久に不滅です」と、いまもいっているのですが、そうではないのではないでしょうか。

 アメリカにさえ付いていれば、絶対大丈夫という時代は終わったのです。アメリカとも仲良くしなければいけませんが、しかしアジアとも仲良くしなければいけない、そういう時代がいま来ているのです。仲良くするのには、憲法9条を守ることが大前提です。これを止めてしまったら、アジアとは仲良くできません。

 憲法9条は、日本にとって“命綱”です。いままでは、憲法9条というと、「理想に過ぎない。現実は9条で飯食えないよ」という人が多く、中には鼻で笑う人もいました。しかしいまは逆です。9条でこそ食える。9条を変えたら、21世紀日本の経済は危ないのです。

 憲法9条を守ってこそ、この世紀の日本とアジアとの友好関係を守り、日本も安心して生きていけるのです。こういう世の中をつくる大前提が憲法9条です。憲法9条は美しいだけではなく、現実に儲かるものでもあります。そのことがやっと分かってきました。

 奥田経団連会長は、去年までは小泉首相を応援して靖国参拝も賛成だったのですが、そんなこといってたらトヨタは中国で売れなくなります。そこで今年の正月の挨拶でついに、「中国との関係を大事にしてほしい」と、向きが変わりました。
 財界が、中国と仲良くしなければ自分たちは商売ができない、となってくれば、日本の政治の向きも変わるだろうと思います。あと3年たてば多分、これは日本の国民の常識になってきます。中国と仲良くしないと経済が駄目になる。それは中国のいいなりになることではないのです。良くないことはきちんという。だけど敵にするのではなく、仲良くする。でなければ、日本の経済は成り立たない。これがみんなの常識になってくるでしょう。

 これまで60年、アメリカベったりだったから、アメリカから離れたら生きていけないと皆思ってきました。しかし現実の数字はそうでなくなっています。一番大事な経済の相手は、もうアメリカではなくアジアなのです。これに気づくのにあと2・3年かかるでしょう。これが世論になれば、もう、憲法を変えるなどということは、絶対にできません。

 しかし、この3年の間に、国民の世論がそのように変わる前に、憲法が変えられてしまったら、どうにもなりません。

 あと3年、必死の思いでがんばって、子供たちに平和な日本を残してやるのが、私たちの務めだと思います。そう思って、私も必死になってかけ回っています。あと3年ぐらいはまだ生きていけるだろうから、なんとしても3年間は9条を守るために全力をつくしたいと決心しています。

 ありがたいことに、9条を変えるには国民投票が必要です。国会で決めただけでは変えられません。国民投票で過半数をとらないと、憲9条は変えられないのです。逆にいえば、これによってこちらが憲法9条を守る署名を国民の過半数集めてしまえばいいことになります。住民の過半数の「9条を守る」署名を3年間で集めてしまう。そうすればもう、変えることは不可能になります。

 そうすれば、子供たちに憲法9条のある日本を残してやれます。2度とアジアと戦争する国にならないようにして、そしてもし長生きできれば、新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm


要するに、世間から相手にされなくなった 70年代左翼はその後、護憲派・反原発派に変身して、今は阿修羅掲示板や るいネットで細々と空しい政府批判を繰り返しているのですね。
9:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:29:16

学生運動しなくてもよくなった一流大学の学生のその後
年収5億円vs.186万円「新・階級社会」日本の真実 もはや「格差」ではなく「階級」だ
2018.02.05 週刊現代  :現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html


頑張れば報われる――それは、昭和の牧歌的な風景だったのかもしれない。努力しても報われない、現代日本の残酷な現実。

入会金540万円のスポーツジム

仮にW氏としよう。40代男性。シンガポールに住む投資家である。元々、メーカー勤務のサラリーマンだったが、ベンチャー投資で財を成した。その後、資産は倍々ゲームで増えている。

そのW氏が語る。

「資産がいくらあるのか――正直、自分でも正確に把握できていないんですよ。数百億円といったところでしょうか。複数のプライベートバンカーに運用を任せていて、株や債券、外貨、資源、ゴールドなど、ありとあらゆる金融商品に分散投資をしています。

何かで損が出たとしても他が補ってくれますから、資産は安定的に増えていく。年収5億円?それくらいは優にありますかね」

豊かな人はより豊かになり、貧しい人はより貧しくなっていく――。トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』で喝破した現実は、現代の日本でも着実に進行している。
W氏が続ける。

「月に1000万円を使うって大変なんですよ。昔は酒とオンナで浪費しました。入会金100万円を払って、VIP向けの会員制交際クラブに入り、有名グループの女性アイドルを買ったこともあります。でも、実際に寝てみたら『こんなものか』という感想。

ワインは多少高いものを飲みますが、飲める量には限度がある。結局、酒もオンナもほどほどで、健康が一番という結論に辿り着きました。

ああ、時計は買いましたね。アラスカでオーロラを見た後、スイスに寄った際に。リシャール・ミルの1億円の時計を2本買った。一つは自分がつけて、もう一つは保存用です。これも希少性が高く、今では買った価格よりも高値で取り引きされているようです」


使っても使ってもカネが減らない。年収5億円以上の超富裕層が日本にも存在する。彼らに共通するのは、こんな特徴だ。

●限度額が著しく大きなブラックカードを持ち、現金は原則使わない。

●事故を起こすリスクを考え、自分で車は運転しない。移動はハイヤーかタクシーを利用する。

●会員制高級ジムに通って健康維持に励む。

資産数十億円、年収1億円の上場企業創業者A氏はこう話す。

「カネを使うのは、自己研鑽、情報収集、人脈形成のためですね。たとえば、一般の方がとても入会できない高額のスポーツジムで汗を流しています。

大手町にある超高級ホテル内にあるフィットネスクラブです。入会金は540万円、年会費64万8000円。ここには私のような経営者や投資家が集まり、体を鍛えると同時に情報交換の場になっています」

超富裕層はこういった場で、公になっていない情報をやり取りし、新しい儲けのタネを仕込んでいく。前出のW氏は、こんな豪快なカネの使い方をしたと言う。

「ミシュランの星付きの店はたいてい行きましたが、高くておいしいのは当たり前。

むしろ私は、安くておいしいものに目がありません。博多で一人前800円のもつ鍋が評判だったので、シンガポールからビジネスクラスに乗って食べに行ったこともあります。

800円のもつ鍋を食べるのに、30万円くらいかかりましたが、まあ、いくら使ってもおカネはなくなりませんので……」

7割近くが結婚していない

超富裕層の中には財布が膨れるのが嫌というだけの理由で、お釣りの小銭を全額募金箱に入れる人もいる。一方で、日々の生活もままならない「階級以下」の層=アンダークラスが登場している。

「格差社会」が社会問題として一般に認知されるようになったのは、この言葉が流行語大賞トップテンに選ばれた'06年のことだった。所得が低く、結婚もできない「非正規労働者」の存在が問題視された。

その後、格差は縮小するどころか、拡大し、今や絶対に超えられない壁=階級となった。早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)の橋本健二氏は著書『新・日本の階級社会』で膨大なデータを用いて分析している。

「これまでの社会は、資本家階級があり、中間階級がいて、一番下に労働者階級がいると考えられてきました。労働者階級の給料は安いですが、正規労働者として身分は安定し、生活できるだけの所得はもらっていた。

ところが近年、その条件に当てはまらない非正規労働者、『階級以下』の存在(アンダークラス)が増えています。彼らはたしかに雇われて働き、賃金をもらっている労働者です。しかし、身分は不安定で、給料も安く抑えられている。

社会調査データから明らかになった、彼らの平均年収は186万円で、貧困率は38.7%。男性の未婚率は66.4%にも上ります。こうした人が929万人も存在し、就業人口の14.9%を占めているのです」

彼らの暮らしぶりはどのようなものか。東京都武蔵野市に住む日雇いバイト(45歳・男性)の話。

「20代の頃、人気グループのバックダンサーをやっていました。'90年代には小室哲哉さんと何度も仕事をしたことがありますよ。

でも年齢を重ねるごとにダンス関係の仕事は減っていき、安定した収入を得るために、洋服の包装・仕分け工場で非正規社員として働いたこともあります。

40歳を過ぎたとき、年下の上司と揉めて契約を更新されなくなりました。それ以来、イベント会場の設営などの日雇いバイトで収入を得ています。月の収入は15万円程度です。

中央線の駅から徒歩30分のボロアパートに住んでいます。家賃は6万5000円。夕食は100均で買ったカレールーを湯でとかしたもの。少し野菜も入れますが、この歳になると米は太るし、節約のために食べません。

2週間に一度、ラーメン屋に行って食べるのが唯一の贅沢です。移動は基本、人からもらった自転車。現場によっては交通費が支給されるので、それが浮くのがありがたい」


収入が低いと、異性と付き合うことにも困難を伴う。介護職に従事する男性(29歳)が物悲しいエピソードを披露する。

「学生時代から付き合っていた彼女がいたのですが、卒業後はデートをするにも交通費や食事代がかかり、厳しいものになりました。クリスマスはおカネのかかるイベントですから大変でしたね。

プレゼントは、彼女の革のブーツをピカピカに磨いてあげるというもの。おカネがないなりに相手を笑わせようとした精一杯の誠意だったのですが、彼女は笑うどころか引いていましたね。それが彼女との最後のクリスマスになりました」

一日頑張っても500円

愛知県在住の派遣労働者(26歳・男性)は、派遣労働の合間に小銭を稼ぐのに四苦八苦している。

「部品工場に派遣され、流れてくる部品を組み立てたり、運んだりします。時給900円で、一日7000円程度にはなる。

景気のいいときは月収12万~13万円ですが、派遣先が見つからないときもあり、そういうときはネット上のニュース記事を書くバイトをしています。500文字書くと50円もらえる仕事。一日頑張ると、500円くらいにはなります」


一日頑張っても500円。かたや財布がかさばるから小銭はすべて募金箱に投げ入れ。たしかに「格差」という言葉では生ぬるい。

アンダークラスの多くに共通するのは、正規労働者になりたいという切実な願いだ。

だが、企業は一度採用するとなかなかクビを切れない正規社員の雇用を渋っている。
'03年の時点で「年収300万円時代」の到来を予見した経済アナリストの森永卓郎氏は、今後、階級間の断絶はさらに広がると指摘する。

「資本家階級と労働者階級は、同じ日本で暮らしているかもしれませんが、超富裕層にとって、自分たち以外の人は人間ですらない。彼らにとっては金儲けの道具でしかないのです。

資本家と労働者階級が対立するのが、マルクス経済学が読まれた時代の資本主義でした。しかし、今の階級社会では、両者の間に接点がないので、対立になりようがない」

これがアベノミクスの背後に隠れた「日本の不都合な真実」なのである。


「週刊現代」2018年2月10日号より
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html



▲△▽▼

あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。
https://bllackz.com/?p=1039


▲△▽▼
「学歴」が分断する現代日本社会
『日本の分断』吉川徹教授インタビュー
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


 「学歴なんか関係ない」といくら言ったところで、学歴により就くことのできる職業も違えば、賃金にも差があるのが現実。また、社会人になると同業者や同じような人生を歩んできた人々とのコミュニケーションが多くなり、それ以外の人々がどんな生活を送り、何を考えているかについては無関心になりがちだ。大卒と非大卒の人生が別々のものになりはじめた現代日本社会では、特に若年非大卒の男性たちが多大なリスクにさらされているという。

『日本の分断 切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E6%96%AD-%E5%88%87%E3%82%8A%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%9D%9E%E5%A4%A7%E5%8D%92%E8%8B%A5%E8%80%85-%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9-%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8/dp/4334043518

を上梓した計量社会学が専門で、大阪大学大学院人間科学研究科、吉川徹教授に日本における学歴の意味や、学歴分断社会の現状、そして非大卒の若者たちに忍び寄るリスクについて話を聞いた。


(hyejin kang/iStock/Getty Images Plus)

――日本社会で学歴が持つ意味を一言で言い表すとどんな言葉になるでしょうか?

吉川:「自己責任だとみなされているがゆえに、もっとも重視されるアイデンティティ」でしょうか。

 今の日本社会では、「ジェンダー」「生年世代」「学歴」という3つの分断線が重要な意味をもちはじめています。前者2つについては変更不可能なある意味で運命論的な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。

 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。

――学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?

吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。

――トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?

吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。

 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。

――日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。

『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社)

吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。

 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013~14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。

――半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか?

吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。

 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。

――吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。

吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。

 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。


彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。


 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。
 
――なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。

吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。

――なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか?

吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。

――彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか?

吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。

 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。

 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。

 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。

――多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。

吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


結局、一億総中流だった日本でも中間層が没落して階級社会になってしまったのですね。

マルクスの預言通りの社会になりました。
10:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:30:45

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き

Theo Angelopoulos Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975

監督 テオ・アンゲロプロス
音楽 ルキアノス・キライドニス
出演 エヴァ・コタマニドゥ

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%9F+%CE%98%CE%AF%CE%B1%CF%83%CE%BF%CF%82

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ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?

「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?

ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・

それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?

しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?

「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?

しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。

では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。

「悪いのは全部アイツのせいだ!」

そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。

別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?

また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。

一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。

この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。

それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。


1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。


2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。


3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。


4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。


5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?


6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?

ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。


7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・


8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。


9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?


10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。

ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-11/04-11-12.htm
11:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:32:33

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き _ 2

テオ・アンゲロプロス アレクサンダー大王

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 ペトロス・マルカリス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス
衣装デザイン Ghiorgos Ziakas
音楽 クリストドゥロス・ハラリス
美術 ミキス・カラピペリス
1980年 ギリシャ=イタリア=西ドイツ作品

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Angelopoulos++O+Megalexandros+++&sp=mAEB

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キャスト

Alexander オメロ・アントヌッティ
The Stepdaughter エヴァ・コタマニドゥ
The Schoolteacher グリゴリス・エヴァンゲラトス
The Guide ミハリス・ヤナトゥス
Mr. Zelepis クリストフォロス・ネゼル
Mrs. Zelepis Miranda Kounelaki
Man of the Commune Thanos Grammenos
Man of the Commune Photis Paparamprou
Woman of the Commune Toula Stathopouluo
Italian Anarchist Francesco Carnelutti
Italian Anarchist ブリツィオ・モンティナーロ
Italian Anarchist ラウラ・デ・マルキ
Italian Anarchist Claudio Betan
Italian Anarchist Norman Mozzato
Alexander as a Boy イリアス・ザフィロプロス
Shepherd ストラトス・パキス

20世紀目前の大晦日、アレクサンダー大王と呼ばれる首領に率いられた山賊たちが脱獄した。 銃を手にした彼らはイギリス人貴族たちを誘拐、特赦を発令するとともに土地所有権の農民への変換を政府に要求する。だが、救世主として現れたアレクサンダーはやがて独裁者へと変貌していく。


映画のストーリー

1899年12月31日の深夜、何者かの手引きによってギリシャの小島にある刑務所から20数名の囚人が脱獄した。アレクサンダー大王(オメロ・アントヌッティ)と呼ばれる首領に率いられた賊の一団だ。

同じ夜、アテネの王宮では英国貴族らを迎えて新年と新世紀を祝うパーティが開かれていた。その席でさる英国人が、大地主ジェレピス(C・ネザール)の土地にある炭鉱の採掘許可が得られるよう陸軍大臣に訴える。しかし、ジェレピスはその土地は農民が所有権を主張して頑強に抵抗していると語る。

パーティに出席していたマンカスター卿は4人の仲間と3人の女性を伴って、アテネに程近いスーニオン岬に日の出を見に行くが、脱獄したアレクサンダー大王に誘惑されてしまう。大王はジェレピスの土地を農民のものと認め、自分たちに恩赦を下すよう国王、政府、英国大使に要求書を出し、生地である北ギリシャの村ヘ向った。途中、5人のイタリア人アナーキストが一行に加わる。しかし、村は先生(グリゴリス・エヴァンゲラトス)と呼ばれる指導者のもとで共産村が作られており、大王の部下は全てが共有で、自分のものは何ひとつないと、口々に不満を訴えた。そして翌朝、何頭かの羊が殺されているのが発見された。

村は政府軍に包囲され、大王と村人との間に不和が生じる。そんな時、政府の密使が大王を訪れ、恩赦には応じられないが形式的な裁判を開いた後、特赦によって彼らを自由にするという提案がなされ、大王は裁判を村で開くよう要請した。また、ジェレピスは政府の圧力でやむなく土地を村人ヘ返すが、陰謀の匂いを嗅ぎつけた先生はイタリア人アナーキストに不安を訴える。そして、村では戻った土地についての争いが始まり、共産制は危機に瀕し、村を逃げだそうとしたイタリア人も射殺されてしまう。

裁判は大王が検事を射殺したことにより成立せず、これによって村人とも完全に孤立し、遂に人質までも殺害してしまった。政府は人質が殺されたことにより、村に総攻撃をかけ、大王の部下を次々と倒していく。大王は多勢の村人に取り押えられるが、何故か後には大王の形をした石像が残るだけでその姿は消えてしまった。村から脱出したのは大王と同じ名の少年ただひとりだった……。
https://movie.walkerplus.com/mv11318/

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アレクサンダー大王(テオ・アンゲロプロス)


 1899年12月31日深夜、義賊の首領アレクサンダー大王(歴史上の、というより、「解放者」として知られる伝説上のアレクサンドロス)は、囚われていた自らの一団を率いて脱獄、明くる日の1900年1月1日に、イギリス貴族らを誘拐する。

 向かった先の生地である北ギリシャの村は、「先生」と呼ばれる指導者によって、すでに共産村と化していた。途中で遭遇したイタリアのアナーキストらと入村したアレクサンダーは、国王や政府に対し、人質の解放と引き換えに、自らの恩赦と、イギリス人地主によって搾取された土地を農民の手に戻すことを要求する。

 だが、なかなか取引は成立せず、時間が経つにつれ、アレクサンダーのカリスマ性も徐々に薄れていき、いつしか彼は解放者から独裁者へと変貌していく――。

 久し振りに見た『アレクサンダー大王』は、何と当たり前のようにイデオロギーの映画だったことか。イデオロギーの終焉が叫ばれて久しい現在、そのあまりに堂々としたイデオロギー映画ぶりに、何だか励まされた。

 言うまでもなく、イデオロギーが終焉したならば、夢もなくなったのだ。そして、夢を見られなくなったということは、すなわち芸術が終わったということである。にもかかわらず、人は、都合よく、死んだのはイデオロギーだけで、夢や芸術はいまだ健在だと思い込んでいる。

 アンゲロプロスはきっぱりと言う。「今日、語られうるのは、いわばちゃちな夢であり、ちゃちな芸術でしかない。すべては、ちゃちなものとなってしまった」(蓮実重彦インタビュー集『光をめぐって』)。

 だからこそ、この『アレクサンダー大王』は、20世紀の「夢」を、「芸術」として真正面から語ろうとした。

出発点にあったものは、今世紀に特有の夢、つまり、社会主義的な夢の実態を批判的に考察することです。社会主義の夢というのは、否定しえない現実として人びとの想像力を支配していた。その事実は、社会主義に反対の人でも否定することはできないものです。それは、二十世紀の夢なのです。それに到達するにはいくつかの異なる出発点がありました。だが、あらゆる理論的な探求は、ある一点で、現行の社会主義が失敗であったという事実につきあたる。なぜか。

 私の映画は、そのなぜかという理由を示そうとするものではない。最後に、アレクサンドロスと呼ばれる少年が、さまざまな社会主義的な経験と試練をへた上で、夕方、都会に向けて歩んでゆく。それはもはや大王ではないアレクサンダーです。その夜は長いのか、短いのか。朝が訪れるのか否か、それはどんな色調なのかわからない。いずれにせよ、もはや夢は夢ではありえない。(『光をめぐって』)

 有名なワンシーン・ワンショットや360°のパンの多用、あるいは古代ギリシャ悲劇の劇場のような円形広場のシーンは、観客を含む全宇宙を俯瞰する視線によって、20世紀を余すところなく総体として捉えようとする野心の表れである。

 かつて中上健次は、ギリシャ悲劇の円形舞台は、もともと神の近くにいた王が、そこから転がり落ち、そうと知らずに不可避的に罪を犯してしまうそのありさまを、観客が空の上の神の位置から見渡せるように作られていたのではないかと指摘した(『中上健次と熊野』)。まさに、この作品では、観客が、アレクサンダー大王が罪を犯していく一部始終を俯瞰するのだ。

 観客が神の位置にあるといっても、むろんそこには「お客様は神様」という消費者主義的な意味はみじんもない。むしろ逆なのだ。そして、そのことは、アンゲロプロスが、なぜモンタージュを嫌い、ワンシーン・ワンショットを好むかということと明確につながっている。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指さして、ほら、このイメージを良く見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。(中略)ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています。(中略)それは、つまり映画を見に来た人の知性を信頼し、その受動性から解放させようとすることにほかなりません。


 アンゲロプロスの作品においては、観客も積極的にスペクタクルに参加し、思考と想像力を駆使し、各々が各々の映画を作り上げていかねばならない。おそらく、そのことによって身をもって示そうとしているのだ――二十世紀を俯瞰してみたときに、われわれは、もはや「夢」が受動的に与えられるものではなく、自ら見ようと積極的に紡ぎ出していかなければならないものとなったのだ――ということを。

 ラストで、アレクサンダー大王の末路と20世紀社会主義の一部始終を見届けた少年アレクサンダーは、丘の上から見下ろしていた都会へと分け入っていく。アンゲロプロスは、彼に21世紀の夢を託した。

 アンゲロプロスの予言したように、果たして、すべてを見た少年は、本当に「大王=カリスマ」にならないだろうか。おそらく、黒沢清が、1899年からちょうど一世紀を経た1999年に撮った『カリスマ』は、この『アレクサンダー大王』への真摯なレスポンスだった。ラストで、「カリスマ」と呼ばれる木をめぐる闘争の果てに、真っ赤に燃える街を見下ろす役所広司の姿は、少年アレクサンダーの反復でなくて何であろう。

 もちろん、そこに答えなどない。ただ、アンゲロプロスの夢を見てしまった者だけが、夢を見続けることができる。そして、だからこそ、また後から来る者にも夢を見せたいと願う。そうした夢と芸術のか細い連なりだけが、そこにははっきりと見える。
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20120901/p1


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空想と現実感


16世紀、オスマントルコのギリシャ侵攻があった際、マケドニアの
アレクサンダー大王が復活したと巷間のうわさとなり、それと19世紀の
英国貴族誘拐事件の史実をふまえてアンゲロプロスはこのファンタジーを
つくり上げたそうです。

しかし、ファンタジーといっても本作の内容はやけに現実味を帯びた
部分もあり、類まれな空想のなかにのっぴきならぬリアリティを含ませて
います(全編が空想にもかかわらず)。

空想と現実感がないまぜになっているところがこの作品の魅力のひとつの
ような気がします。

長まわしのワンショット=ワンシーン、ロングショットの多用、曇天下の
撮影など、例によって変わるところはありません。

まず、冒頭近く、20世紀目前の大晦日いんちきくさい大王一味がいかにも
現実めいた脱獄を敢行したのち、いきなり古代マケドニアにタイムスリップ
したかのようなフォトジェニック、レンブラントの画のごとく明暗を強く
押し出してけぶる森の木立の拓けたまるい平土に一頭の白馬が繋がれて
遊んでいる。
やがて大王が馬に颯爽とまたがりエキゾティックな音曲がその夢のような
映像を盛り立てます。もやはうさん臭さはどこにもありません。

アレクサンダー大王、復活せり!

さて、大王が人質(農地の要求と恩赦を得るため)をつれて帰郷すると
そこはコミューンと呼ばれる共産村になっていました。
いわゆる私有財産は認められず、共有財産により貧富の差をなくそうとする
ものです。

そこで、イタリア人アナーキストの一団も加わり、村は徐々に安定性を欠いて
行きます(彼らは王のカリスマ性の限界を見抜くのだが)。

やがて、大王はしだいに村人から刀狩りや食糧略奪などをはじめ、じぶんの
言うことをきかないやつは処刑します。専制君主政のはじまりです。

結果、村人たちのうっぷんは水面下でだんだん蓄積されてゆきます。

ここらあたりは妙にリアリティが伴っています(その他、英国との折衝や裁判
など現実的な場面が何度もでてくる)。

ラスト近くの革命シーンのアイデアには度肝を抜かれますが、ここでは
思いっきり現実離れして、もはや寓話の世界です。映画的というより演劇的な
演出に圧倒されます。

史実のアレクサンダー大王もてんかん持ちだったらしく、それを持ち出すのも
芸が細かいです。

ところで、大王と同じ名のアレクサンダーという名の少年が登場します。
彼は向学心が強く、どうやらマザコンです。明らかに大王の少年時代を映しており、
次世代の英雄としての含みを持たせているように思われます。
これもどこか寓意的です。

ラストカットではもっと直截的に「英雄は生き続ける」と主張しているわけですが。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/dp/B00JKB218E
12:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:34:50

ユリシーズの瞳 Το βλέμμα του Οδυσσέα / Ulysses' Gaze

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス トニーノ・グエッラ ペトロス・マルカリス
音楽 エレニ・カラインドルー
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス アンドレアス・シナノス
公開 1996年3月23日

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%A4%CE%BF+%CE%92%CE%BB%CE%AD%CE%BC%CE%BC%CE%B1+%CF%84%CE%BF%CF%85+%CE%9F%CE%B4%CF%85%CF%83%CF%83%CE%AD%CE%B1+&sp=mAEB

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キャスト

A:ハーヴェイ・カイテル
Aの元恋人/博物館職員/ブルガリアの農婦/ナオミ:マヤ・モルゲンステルン(四役)
イヴォ・レヴィ:エルランド・ヨセフソン[1]
タクシーの運転手:タナシス・ヴェンゴス
ニコス:ヨルゴス・ミハラコプロス
タクシーに同乗する老女:ドーラ・ヴォラナキ

映画監督のAは、回顧上映と、バルカン半島最初の映画作家マナキス兄弟のドキュメンタリー映画を作るため、アメリカから故郷のギリシャに帰国した。そして、マナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探す旅に出る。

Aはタクシーでアルバニアを経て、マケドニアのにあるマナキス兄弟の博物館に行くが、手がかりは得られなかった。次いでブルガリア、ルーマニアのブカレストを経て、セルビアのベオグラードで旧友の記者ニコスと合流したAは、ベオグラード映画博物館の元教授を老人ホームに訪ねる。

元教授は、幻のフィルムはサラエヴォの映画博物館の館長であるイヴォ・レヴィが現像を試みていたが、戦争の勃発で音信不通になってしまったと語る。Aは戦火のサラエヴォでレヴィに会う。戦争のため完成寸前でフィルムの現像を諦めたというレヴィに、何があっても現像すべきだと説得するA。レヴィは彼の説得を聞き入れて、フィルムの現像に着手する。

レヴィの娘ナオミと知り合ったAは、戦闘が止んだ束の間の間、懐かしい恋人のように語り合う。やがて、フィルムの現像は成功するのだが、そんな彼らに再開した戦闘の現実が襲いかかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%9E%B3


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「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。

実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。

その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。

そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?

重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。

そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。

ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。

それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。

絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。

アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?

だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?

人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。

まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。

この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。

この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。

ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。

「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。

「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。

虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。

そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?

物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。

さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。

舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・

さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。

もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?

まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。

戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。

そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。

その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?

戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。

どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。

著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。

むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。

戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?

しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。

この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。

そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。

つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。

芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。

いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。

ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。

この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?

これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?

どうして芸術が育たないのか?

そのような問題意識が反映しているわけ。


あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。

じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?

その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?


「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」

自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?

現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?

「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。

そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・

その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。

「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。

「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。

しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。

しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。

ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。

右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・

しかし、所詮は影ですよ。


この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?

たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?

しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。

「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?

結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。

それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?

そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。

魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。

魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?

人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?

この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。

激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。


むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。

真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。

事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。

それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?

たどり着き、また旅立つ。

純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。

アンゲロプロスも、そう考えているのでは?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-08/07-08-02.htm
13:777 :

2022/05/25 (Wed) 09:37:17

山下敦弘 『マイ・バック・ページ』(2011年)

監督 山下敦弘
脚本 向井康介
原作 川本三郎
撮影 近藤龍人
公開 2011年5月28日


映画『マイ・バック・ページ』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8+2011&sp=mAEB


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キャスト

沢田雅巳(週刊東都、東都ジャーナル記者):妻夫木聡 ※モデルは川本三郎
梅山(本名・片桐優 赤邦軍リーダー):松山ケンイチ
倉田眞子(週刊東都表紙モデル):忽那汐里 ※モデルは保倉幸恵
安宅重子(赤邦軍隊員):石橋杏奈
赤井七恵(赤邦軍隊員):韓英恵
柴山洋(赤邦軍隊員):中村蒼
飯島(東都ジャーナルデスク):あがた森魚
徳山健三(週刊東都デスク):山崎一
清原(反戦自衛官):山本剛史
佐伯仁(運動家):山本浩司
中平武弘(週刊東都 記者):古舘寛治
津川(週刊東都記者):中野英樹
前園勇(京大全共闘議長):山内圭哉 ※モデルは滝田修
唐谷義朗(東大全共闘議長):長塚圭史 ※モデルは山本義隆
タモツ(うさぎ売りの青年):松浦祐也
キリスト(キリストのような風貌の青年):青木崇高
山口(東都新聞 社長):並樹史朗
小林(東都ジャーナル編集長)菅原大吉
島木武夫(週刊東都編集長):中村育二
白石(東都新聞 社会部部長):三浦友和
康すおん、近藤公園、熊切和嘉、早織 ほか

『マイ・バック・ページ』は、日本の評論家・川本三郎の著作、およびそれを原作とする2011年公開の日本映画。タイトルはボブ・ディランの楽曲「マイ・バック・ページズ」から取られている。

川本三郎が、1968年から1972年の『週刊朝日』および『朝日ジャーナル』の記者として活動していた時代を綴った回想録。前半は東大安田講堂事件や三里塚闘争、ベトナム反戦運動などの当時を象徴する出来事の取材談、出会った人々の思い出、当時の文化状況などが新左翼運動へのシンパシーを軸に綴られ、後半は活動家を名乗る青年Kと出会ったことから、朝霞自衛官殺害事件に関わって逮捕され、有罪となって懲戒免職に至る顛末が語られる。雑誌『SWITCH』に1986年から1987年にかけて連載され、1988年に河出書房新社から『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という題で単行本が出版された。一時は絶版となっていたが、映画化を機に2010年に平凡社より再刊された。


物語

1969年、沢田は東大法学部大学院生時代に安田講堂事件を目撃する。「週刊東都」の新米記者として、新左翼運動への取材を通じて活動家たちに共感を抱きながらも、ジャーナリストとして客観性を保たなければならない立場との間に葛藤する日々を送っていた。編集部はアポロ11号の月着陸記事で忙しくしている。

1970年、教室では片桐という青年と他の学生たちとが激しい議論を戦わす。沢田は名画座で 川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』を見る。映画では新珠三千代が頼りない恋人の三橋達也に、「あんた、どっか一つくらい当てないの?」「あんた、男でしょ」となじる。オールナイトが終わってから日曜日の編集部で『ガロ』を読んでいると「週刊東都」の表紙モデル・倉田眞子が遊びにくる。

1971年、活動家を名乗る梅山という青年が接触してくる。自分は「京西安保」の幹部であり、「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」などと語る。紹介した先輩記者・中平武弘は「偽物だ」と決めつけるが、離れに匿う。宮沢賢治を愛読し、CCRの『雨を見たかい』をギターでつま弾きながら「雨ってナパーム弾のことなんですね」という姿に、沢田は親近感を覚えていく。編集部では『週刊東都』が出版6日後に回収という事件が起きる。中平も「左遷」される。同僚から「あんたら、うちの余った紙で雑誌作らせてもらってるんでしょ」といわれ、殴りかかる。一緒に『ファイブ・イージー・ピーセス』を観て、倉田に「私はきちんと泣ける男の人が好き」と言われる。

やがて梅山は学生仲間を引き込んで「赤邦軍」なる組織を作ると、自衛隊基地を襲撃して武器を奪うという計画を立てる。計画を明かされた沢田は自分に独占取材させてくれと頼む。

「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く。接触すると他誌の記者も来る。証拠として腕章を預かる。社会部では「思想犯」ではなく「殺人犯」として通報するといい、反論すると「うちは大学新聞作っているわけではない」といわれる。捕まった梅山は軍を動かしているのは前園だという。警察は腕章を出せば証拠隠滅罪には問わないというが、燃やしてしまっていた。会社を辞める時にモデルは終わったという倉田が訪ねてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


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「マイバックページ」を観た 2011年6月 9日


なぜか弁護士会のボックスに、マイバックページのパンフレットが入れられていて、さして興味もなかったのに、もののはずみで観てきた。

わたくし的には、これほど途中で席を立とうかと何度も思った映画は初めてだった。

何しろ登場人物の誰にも感情移入できない。
時代は1969年から1972年。
学生運動崩壊過程で起きた自衛官殺害事件を題材にしている。

潮が引くように去っていく学生たちから孤立した活動家梅山は、存在自体が怪しい組織を騙って、暴力革命路線を追及する。

そこには何の理念もありはしない。
あるのは、ただ、世間を騒がすようなことをしでかして見返してやりたいという情念だけだ。

一方、彼の取材を続ける記者沢田は、彼の理念なき大言壮語を易々と信じて肩入れしていく。

僕にとっては、どこにも共感できる要素がないのだ。


僕が大学に入ったのは74年。
初めてセクトというものと出会ったのも同じ時期である。

当時は、中核派と革マル派の内ゲバ事件が最盛期だった。

東大駒場寮から引っ越し作業中の活動家が敵対セクトから襲撃されて殺された事件があった。僕も駒場寮に住んでいたが、それを聞いても、特段の感慨すら抱かなかった、そんな時代だった。

結局、崩壊した学生運動は、どれだけ派手な成果を挙げるかだけを競い、三菱重工爆破事件や、北海道庁爆破事件を次々と起こし、自壊していった。

映画は、そうした学生運動の崩壊過程の初期を描いていることになろう。

実は収穫が一つだけあった。

常々、学生運動の経験者が実権を握った現代日本がなぜ、これほどまでに保守化していくのか、疑問に思っていた。
朝日新聞などのメディアには、相当数の学生運動経験者が、今やデスクを握っているに違いないのに、とめどなく保守化していくのはなぜなのか。

映画は、そんな疑問に明快な回答を与えてくれた。

熱病が醒めれば、潮が引くように一部の活動家を孤立化させて、抵抗なく社会に適応をする学生が大半だった。
熱病には、確固たる信念もなかった。
共通する心情は、何かしら、目立つことがしたい、いい言葉で言えば「自己実現したい」ということだけだった。

政界にしろ、メディアにしろ、組織を左右する地位を手に入れる人たちは、人並み以上の権力欲を持っている人たちだろう。
そして梅山がそうであったように、権力欲とバランスするような理念を持っている訳ではない。

政治やメディアで権力を掌握した学生運動経験者たちは、過激派と違う方向で、「自己実現」を図っているに過ぎないのだろう。

誤解なきようにいえば、学生運動経験者の全てを批判している訳ではない。

若き時代の初志を貫いている人たちがいることも僕は知っている。
但し、そうした人たちは、基本的に、名前も権力も求めず、ひたすら地道に現代という時代が抱える問題に真摯に向き合う活動を続けている人たちだ。

それにしても、と僕は思う。
少し時間を遡り、学生運動の最盛期に戻れば、大人が手を付けられないほどの若者のエネルギーがあった。

若者のエネルギーは、今こそ発揮されて欲しい。

既得権にしがみつく、私も含む大人たちが、若者の行く手を阻む構造になっていることは見やすい道理だ。

日本の社会保障費は国際的に見て、年金が占める割合が大きいといわれている中、厚生年金で、現役世代以上の収入を得て、頻繁に海外旅行を楽しむ高齢者。

40代で1000万円の年収を約束されている大企業の会社員たち。
彼らが、日本の将来を考え、若者に道を譲ることを考えない限り、若者には未来が開けないと僕は思う。
しかし、彼らは、決して既得権を手放そうとはしない。

その結果、若者の30%以上が非正規雇用に甘んじている。

かつて学生運動が華やかだった頃、若者に対して不公正な社会構造があった訳ではない。

今の社会構造は明らかに若者に対して不公正なのだ。

若者はもっと怒っていい。
僕はつくづくそう思うのだが、「希望は戦争」といわざるを得ないほど、この国は閉塞してしまっているのだろう。

この閉塞感を生み出す、至る所に張り巡らされたコングロマリットを解きほぐす手がかりはないのか、ただ無為に煩悶しながら僕の日々は過ぎていく。
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2011/06/post-7948.html
14:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:03:48

このブログが赤軍事件の細部まで一番詳細に記録しています:

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entrylist.html

1970年5月10日 重信房子逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html


■1970年5月10日 赤軍派・女闘士を逮捕(朝日)


 重信逮捕といえば2000年11月の大阪府高槻市での逮捕を思い浮かべるが、この記事は明治大学時代(24歳)のこと。遠山美枝子(連合赤軍リンチで死亡)とホステスのアルバイトをやっていた頃と思われる。

よど号ハイジャック事件以来、赤軍派に対する捜査はいっそう厳しくなり、残った幹部が次々と逮捕された。そんな状況の中、まだ無名だった重信房子が逮捕された。この時代の重信については「婦人公論」に連載された「時代を創る女たち」(島崎今日子)に詳しい。


 女性活動家には男と同等に闘おうとジグザグデモの前に立つタイプと、「私は女よ、女でなにが悪い」と開き直るタイプがいた。重信は後者で「女を武器化している」とと批判されても「ブントのため」と平気だった。

 昔の週刊誌には、重信のオルグ率は98%とある。優しく笑いながら「ねえ、一緒にデモ行かない?世界が変わるわよ」。重信の「微笑外交」、またの名は「ポン引きオルグ」で思想研はみるみる膨れ上がった。そこには遠山のほかによど号ハイジャックの田中義三がいた。

 重信が目に見えて変わったのは赤軍派に入ってからだと、明大の仲間たちは異口同音に口にする。教師になるつもりだったが、高原(遠山美枝子の夫)にさそわれるまま赤軍派に加わった重信は、激しい内ゲバ・リンチの真っ最中に居合わせ、人生を変えた。「ルビコン川を渡った日です。党派の理論を知らないまま当事者になり、やるしかないとアクセルを踏みました」。

 赤軍派は男社会で、軍隊化はジェンダーの差異を明確にする。そんなとき田中美津がウーマン・リブのアジビラ「便所からの開放」を一晩で書き上げる。それに新左翼の女たちも激しく共振したが、しかし重信は「男を糾弾するより、主体的に世界を変えることに熱中していた」。

 すでに多くの逮捕者を出し、主たるメンバーは指名手配されていた。重信は神出鬼没で、運動資金を稼ぐために獄中手記を書き、テレビに出演した。彼女派赤軍は時代に公安条例違反等で3度逮捕されている。

(「婦人公論」2007年12月7日号「時代を創る女たち・重信房子 この空を飛べたら(2)」より抜粋)

 文中の「思想研」とは赤軍派の合法組織。獄中手記とは「週刊現代」1970年7月16日号「赤軍派"女隊長"初々の獄中記」のこと。サブタイトルが「日航機乗っ取り謀議の容疑で逮捕された明大生・重信房子の愛と闘争」となっている。


 赤軍派は、よど号ハイジャックで幹部が北朝鮮へ流出し、国内でも幹部逮捕が相次いだため闘争は完全に行き詰っていた。革命をあきらめるメンバーも多い中、重信は国外に活路を見出そうとしていた。そして彼女がテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の奥平剛士と出会うのは、この年の秋のことである。

https://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html

79. 中川隆[-11459] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:34:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[536] 報告
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1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html

■1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ

 ちょうど赤軍派がM作戦(強盗)を開始したころ、森恒夫と折り合いの悪かった重信房子がレバノンへ旅立った。空港に見送りに行った遠山美枝子(後の山岳ベースで死亡)は、「ふーが先に死ぬのね」と涙を浮かべたが、重信に悲壮感はなかった。


 前の年に、友人に連れられて重信は京大バルチサンの奥平剛士にカンパを求めに行ったところ、奥平が語ったゲバラやパレスチナ問題にすっかり逆オルグされてしまった。そして、彼女のほうから奥平にパレスチナ行きを持ちかけたのだった。


 2月26日、まず奥平がレバノンへ旅立つ。2月28日、奥平と偽装結婚して「奥平房子」のパスポートを取得した重信が後を追った。レバノンのベイルートで合流した2人は、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)の庇護と支援を得ることに成功する。

 森恒夫は重信のレバノン行きを「国内で資金を集めろ」と引き止めたが、赤軍派をやめてでも行くと伝えると、「なら、赤軍派として行ってくれ」と指令が下った。森にとって重信は制御不能な存在だった。歴史に「もし」はないが、重信が日本にいたなら連合赤軍事件は起こらなかったと言う人、真っ先に粛清されたと言う人、2つの見方がある。


 森はアラブの重信にお金を送ったことで遠山美枝子に自己批判を求めている。重信は、逮捕後独房で、親友の遠山が総括の名の下で殺されていく過程をつぶさに読んだときの苦しい胸のうちを明かす。


「リーダーたるべき人が次々いなくなり、できもしないのに責任感で頑張ったのが私であり、また森さんでしょう。森さんの遠山さんへの恨みは私の分もあるという人がいます。私の、女でいいじゃないかという甘えと、ダメな男への軽蔑の流れが、遠山さんへの批判と死をもらたした気がしました・・・」


「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」

■1971年3月15日 赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か(毎日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-15 毎日ベイルートに重信潜入

 3月15日、毎日新聞に「赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か」の見出しが躍り、クウェートにその記事が流れた。これをきっかけに、重信と奥平の短い"新婚生活"は終わりを告げる。・・・PFLPは「これでは秘密が守れない」と、重信は合法組織である情報宣伝局アルハダフに配属され、奥平は希望して軍事訓練所に赴くことになる。・・・


 映画監督の若松孝二が、後に日本赤軍のスポークスマンになる足立正生に「パレスチナに行こう」と誘われ、ベイルートに足を向けたのは5月だった。・・・その秋、『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』のフィルムを積んだ真っ赤なバスの上映隊が日本全国を回り、若者の血を駆り立てた。その中には、テルアビブ空港襲撃でひとり生き残り、イスラエルに逮捕される岡本公三もいた。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)

■テルアビブ空港乱射事件への道


 奥平は京都パルチザンの仲間を呼び寄せる準備を始めていた。安田安之、山田修、檜森孝雄の3人がベイルートに到着、軍事訓練に入る。PFLPの指揮の下、テルアビブ空港を襲撃するリッダ作戦が動き出し、討議が繰り返された。だが、重信がこうした事実を知るのは逮捕後の2002年2月、檜森から「語っておかなければならないことがある」と差し入れられた手記を読んだときだ。重信は、奥平の下に仲間が結集しているのを知ってはいた。・・・だが、彼らが重信に軍事機密をもらすことはなかった。


 72年1月、山田が寒中水泳の訓練中、心臓麻痺で急死。奥平は、泣いて拒む檜森を強引に遺体と帰国させる。山田の死で日本人グループの存在が明るみに出ると、PFLPは作戦決行を決定。・・・間もなく、重信は奥平から「退路を断つ闘いに行く」と告げられる。重信は衝撃を受け、猛反対してPFLPに意見書を上げるが、決死作戦を願い出たのは奥平だった。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)


 1972年5月30日にテルアビブ空港を襲撃したのは、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名だった。岡本公三は京都パルチザンのメンバーではなかったが、帰国した檜森に誘われた。


 檜森にどのような言葉で誘われたのかは不明だが、岡本が日本を後にしたのは、アラブゲリラと共闘しようとしたのでも、テルアビブ空港襲撃に加わるためでもなかった。逮捕後の岡本のインタビューが残されている。


-日本を出るときから、こういう計画(テルアビブ空港襲撃)に参加するつもりだったのか。
「いや、日本を出るときは単純に兄に会える期待と、軍事訓練を受けるつもりしかなかった」
(兄はよど号事件の次兄・岡本武のこと)


-その一員にどうしてなったのか。
「自分でもなぜボクに白羽の矢がたったのかわからない。たぶん、兄のせいだろう」


-その兄に会えるからといってレバノンへつれてこられて兄に会えず、だまされたとは思わなかったか。
「奥平が、お兄さんに合わせられなくて申し訳ないと謝ったので納得した」


(「週刊文春 1972年7月24日号 「テルアビブで岡本公三と一問一答」)

 このような経緯からわかるように、テルアビブ空港襲撃は京都パルチザンメンバーが主体となって行った闘争であり、重信は関与していなかったのである。また、事件当時、「アラブ赤軍」なる組織も存在しなかった。 しかし、重信は「アラブ赤軍」としての声明を出し、後に改称した「日本赤軍」を「リッダ闘争を行った組織」と宣伝したのである。


 日本赤軍コマンドだった和光晴生は、2010年の著書「日本赤軍とはなんだったのか」の中で、この宣伝を「うそつきの始まり」と辛らつに批判している。


※日本では「テルアビブ空港」と報道されたが、テルアビブの「ロッド空港」のこと。アラブ側呼称は「リッダ空港」という。日本赤軍は「テルアビブ空港襲撃事件」のことを「リッダ闘争」と呼称している。


https://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html

80. 中川隆[-11458] koaQ7Jey 2019年3月14日 05:55:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[537] 報告
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1972年3月14日 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)

 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。

自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html


81. 中川隆[-11457] koaQ7Jey 2019年3月14日 06:01:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[538] 報告
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1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。

「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。
取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」

というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。

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1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)


■1970年3月6日 武器頼まれ銃砲店襲撃を計画(朝日)

 岩手県水沢署に猟銃や散弾を盗んだ疑いで逮捕された元自衛隊員(23)が4日夜「赤軍派の武器調達を頼まれていた」と自供、警視庁に逮捕されていた赤軍活動家(23)とともに、秋田市内の銃砲店を襲う計画を立てていたこともわかった。この実行寸前に大菩薩峠で赤軍派が一斉逮捕されたため、あきらめたという。

 調べによると、昨年10月ごろ、赤軍派幹部から武器調達のために8万円を受け取り上野を出発、手始めに海上自衛隊のころ知り合った医師宅から上下2連銃と散弾68発を盗んだ。


■1970年3月16日 赤軍派委員長を逮捕(朝日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-03-16 朝日 朝14 赤軍派・ 塩見議長逮捕


 塩見は田宮(後によど号)、小西(後によど号)、前田と討論をした後、前田と2人でタクシーで駒込駅へ向かったところを警官にとめられた。降りたとたん、逃亡をはかった。

 


 ところが、陸橋のところに派出所があったのが運のつきだった。そこに若い警官がいて、彼に差をつめられた。「止まれ!」なんて叫んでいるもんだから、近所の6,7人の小中学生が、泥棒か何かと間違えて、わあわあ騒ぎ一緒になって追いかけてくる。「オレは人民のためにやっているのに、なんでガキ共に追いかけれれるんだ」(笑い)・・・。警官はピストルまで抜いて追いかけてくる。追いつめられ、しゃあない、という感じで逮捕された。まあ、それから僕の「20年」というのが始まるわけです。

(「赤軍派始末記」)


 押収された塩見の手帳には「HJ」のメモ書きがあったが、警察はそれが「ハイジャック」を意味するとは気づかなかった。


 ちなみに 「ハイジャック(hijack)」 とは乗り物を占拠すること。日本では 「Hight Jack」 と誤解され(?)、航空機に対してのみ用いられ、他の乗り物の場合は、シージャックとかバスジャックという和製英語で表現される。


 このころ、内ゲバを敵前逃亡し活動をはなれていた森恒夫が赤軍派に復帰する。重信房子は独自の活動をしていたようだ。


 後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」 というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。


 大菩薩峠のあと、赤軍派は中央政治局員7人のうち、花園紀男、堂山道生、上野勝輝、八木健彦が逮捕され、作戦を練るのは、塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3人になっていた。政治局員の補充に塩見は森恒夫を推したが、田宮は 「あんな度胸のないやつはだめだ。ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」 と反対した。しかし塩見は 「あの男には理論がある。一平卒からやりなおさせよう」 と納得させた。12月に大阪からボストンバッグ1つで上京した森は一平卒から出直すことを承諾し、翌日からビラ配りに従事した。


 12月12日、京大全共闘議長にして赤軍国際部長の小俣昌道が、国際根拠地建設のためアメリカ、キューバに向け旅立った。アメリカではイリノイ大学の集会などで大みえをきり、極左集団に精力的に働きかけた。キューバではカストロ首相に面会しようとするが、相手にされるはずがなく、滞在期間がオーバーして200ペソの罰金をとられるありさまだった。


 1月16日、お茶の水の電通会館で再起のための政治集会「1・16赤軍派武装蜂起集会」を開き、「国際根拠地論」 を披露し、すでにキューバに1人送り込んだと発表した。この日は1500円払えば報道関係者も傍聴できたが、これは大菩薩峠の痛手からよみがえったことを印象付けるための演出だったと思われる。
(「連合赤軍・この人間失格」より要約)

 森恒夫は臆病者だといわれているが、そのエピソードは次のようなものだ。


 1965年11月11日、日韓条約批准デモで逮捕されたとき「おっちゃん、かんにん、おっちゃん、かんにん」と泣声であっさり自供した。

 1969年6月28日、内ゲバで森恒夫と藤本敏夫が監禁され、自己批判を迫られたとき、藤本は拒否したためリンチを受けひん死の重傷を負うが、森はあっさり自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と泣きわめいた。

 1969年7月2日、赤軍派は藤本リンチの報復のため敵陣に乗り込むが、まさに乗り込もうとする直前、敵前逃亡した。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなった。


 森が連合赤軍のリーダーになったとき、「もう2度と逃げない」 と心に誓い、それが総括をより過激にさせたと考えられている。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10361265024.html
82. 中川隆[-11456] koaQ7Jey 2019年3月14日 06:10:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[539] 報告
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1971年12月  
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
 森氏は遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。

森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲だった。
遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。
遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。

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1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)


 永田と坂口が帰った後の赤軍派・新倉ベースの出来事を追いかけみる。このあと連合赤軍になるので、赤軍派単独としては最後の出来事になる。


 森は、進藤、遠山、行方の3人は、「連合赤軍メンバーとしての資格がない」 とし、新倉ベースの赤軍派メンバーを1軍と2軍に分けた。


(1軍)
森恒夫(理論家。過去、内ゲバから逃走したトラウマあり)
坂東国男(森の懐刀。酒もタバコも女もやらない硬派)
山田孝(理論家。塩見の秘書役で森より格上だが、一から出直すため森配下へ)

青砥幹夫(森の秘書。合法部との連絡役。革左女性との関係を批判される)
植垣康博(爆弾作りなど実用技術に優れる。革左女性への痴漢で批判される)
山崎順(M作戦途中で坂東隊へ入隊。女性問題で批判される)


(2軍)
進藤隆三郎(M作戦に惹かれて坂東隊へ入隊。同棲女性の問題で批判される)
遠山美枝子(救援対策から新倉ベースへ。女を利用していると批判される)
行方正時(救援対策から新倉ベースへ。消極的態度が批判される)


 こうしてみると女性問題が多いことに気づくが、別に女性とつき合ったからいけないというわけではない。それぞれの批判理由があった。


 この記事では、森恒夫が何を語り、進藤隆三郎、遠山美枝子、行方正時の3人がどのように批判されていくかに着目してほしい。


■1971年12月11日 「総括ができていない。銃の訓練を続けろ!」(森恒夫)


 森氏は、全員に、

「いいか、総括するには、それまでのことをああだったこうだったというだけではだめだ。それまでのここの実戦にどのような意識で関わってきたか、その意識は今からとらえ返せばどのような意識であったか、それを今後どのように止揚していくかを、自分ではっきりさせる必要がある」

と延べ、進藤氏、遠山さん、行方氏に対して、

「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ。そのためには、討論だけでは不十分だ。銃の訓練をしてよく考えろ」と命じた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森は銃の訓練をしている遠山・行方・進藤をそれぞれ呼んで、「銃を握っていて何を考えた?」などと聞いたが、森の期待する答えではなかった。結局3人とも、「総括ができていない。銃の訓練を続けろ」と却下されてしまった。


■1971年12月12日 「遠山さんにカチカチ山というあだ名をつけた」(植垣康博)

 遠山さんが山の急斜面で何度か転んだのに対して、私たちはその様子が不恰好で狸みたいだといって笑い、柴を背負った狸ということで、彼女に「カチカチ山」というあだ名をつけた。それは遠山さんを蔑視する差別的な言動だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

■1971年12月13日 「森氏への信頼は絶対的なものになった」(植垣康博)
 もうすぐ上赤塚交番襲撃事件一周年の「12・18集会」(柴野追悼集会)が行われる。そこでアピールをするため、これまでの赤軍派の闘争の総括の討論会開いた。2軍の3名は参加させてもらえなかった。


 森氏は赤軍派の総括をとうとうとよどみなく語り、私たちは圧倒されてしまった。この総括によって私たちの森氏への信頼は絶対的なものになったのである。私たちが森氏の総括に感心していると、森氏は「力量の違い」といって得意そうな顔をした。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森の語った総括は長いので省略するが、ブント以降の闘争を、「銃-共産主義化論」 の観点から、否定的に総括したものである。ところが「銃-共産主義化論」がうさんくさいと思って読んでいると、怪しい総括としか思えない。


 しかし、逆に言えば、これまでの闘争を否定的に総括することによって、「銃-共産主義化論」の正当性を主張するものになっている。つまり、「12・18集会」で、「銃-共産主義化論」をアピールするために、つじつまを合わせた、ということだろう。そういう観点でみると、やはり森の理論構築力は大したものである。なんといっても当時27歳の若者なのである。


■1971年12月14日 「ナイフと金を取り上げて隠せ」(森恒夫)

 この日、山田は12・18集会のため東京へ出発した。進藤、遠山、行方の3人は、雪の上の足跡を消してくるように命じられた。


 4人が出かけたあと、森氏は、私たちに、進藤氏たちに対する逃亡の警戒の必要性を強調し、彼らからナイフや金銭をすべて取り上げ、弾薬と金銭を隠すように指示した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 ナイフを取り上げたのは、彼らが立ち向かってくることを恐れたからである。この猜疑心は尋常ではない。


 心理分析(「ヘボ」がつくが)→ 決め付け → 常軌を逸した防衛行動、というのは、精神疾患(統合失調症)の被害妄想によくみられる。森がその種の病を発病していたかどうかはわからないが、病的なまでの人間不信(恐れ)があった。これはそのまま連合赤軍に持ち込まれる。


■1971年12月15日 「銃の訓練以外のことをさせてはならない」(森恒夫)
 この日、森と坂東は、翌日から会議のため一週間ほど革命左派の榛名ベースへ行くことをメンバーに告げた。そして、留守の間、「進藤、遠山、行方には銃の訓練以外のことをさせてはならない」 と言い残した。


■1971年12月16日 「遠山がお前をたぶらかすから気をつけろ」(森恒夫)


 森氏は、私と青砥氏に、進藤氏たち3人を甘やかしてはならず、きびしく監視するようにいった。特に、遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲 だった。遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。


 また、森氏は、私に対して、「遠山がお前をたぶらかして取り込もうとするかもしれないから、気をつけろ。甘い第度をとるな」といった。そんなことはどう考えてもありえないことなので、私は、森氏のそういう見方に驚いたが、そんなものだろうかと思い、遠山さんに厳しい態度で臨むことを表明した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 午後、森と坂東は、革命左派の榛名ベースへと出発した。


 この夜、植垣と青砥は、「おやじさん(森)いったいどうするつもりなんだろう?」「まったくあの3人のおかげでえらいことになってしまったなあ」と話し合った。

■1971年12月17日 「夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌った」(植垣康博)

 午前10時ごろ、山崎氏が大変な剣幕で進藤氏たちに怒っており、私たち(植垣・青砥)に、「あいつら、みんなが出かけてから俺の言うことを少しも聞こうとしない!総括する気がないんじゃないのか!」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 批判されている3人にしてみれば、うんざりしていたところで、森と坂東がいなくなったので、タガがはずれたのであろう。しかし、植垣、青砥、山崎は、彼らの総括の責任を負わされていたから、甘い顔をするわけにはいかなかった。


 遠山、進藤、行方はあいかわらず銃の訓練をさせられたが、午後、遠山を呼んで、重信房子との連絡ルートや金を送った額などを紙に書かせた。


 こうして私たちは、この日以降、坂東氏が迎えに来る12月29日まで、昼は遠藤氏たちに銃の訓練をさせ、夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌ったり雑談をしたりしてにぎやかに過ごしたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月19日 「座禅でもはじめたのか?」(植垣康博)
 3人に銃の訓練だけさせるということは、お互いにあきあきすることだった。そこで植垣は総括討論をやることにし、行方に質問しながら総括を聞いたが、行方は答えられなくなり、行方はうなだれて正座してしまった。植垣は「座禅でもはじめたのか?」と冷やかした。


■1971年12月20日 「お前は金が目当てだ」(植垣康博)
 この日は進藤を呼んで総括討論を行った。そして彼の行動を金銭欲などで解釈した総括を押し付けてしまう。彼女と付き合ったのは、旦那から金をせしめるためであり、赤軍派に関わったのはM作戦(銀行強盗)の金が目当てだった、というものだった。そして「克服するには、共産主義化を通して銃による殲滅線に全力をあげることだ」と結論をいった。


 進藤氏は「よくわからんけど、そういうことになってしまうな。しかし、そういう総括の仕方ははじめてだ」といい外に出て行った。(中略)
 その夜、私に「おい、バロン、やっぱりあの総括はおかしいよ」といった。だが私は冷たく、「おかしくもなんともない。よく考えろ」といって、考え直そうとはしなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月21日 「最高幹部・高原の妻という特権的地位を利用した」(植垣康博)
 この日は遠山を呼んで総括討論を行った。


 私は、遠山さんのそれまでの活動を、高原氏に依存し、高原氏の妻という特権的地位を利用した活動でしかなかったと解釈した総括を押し付けた。これに、遠山さんは、「そういう風に自分の問題を考えたことがないので、よくわからない」と答えていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月22日 「女にもてようとする英雄欲だ」(植垣康博)
 この日は再び行方を呼んで総括討論を行った。


 「市民社会から遠ざかるのが恐いといいながら赤軍派の活動に関わってきたのは、そのことによって英雄気取りをし、女にもてようとする英雄欲からではないか」と批判すると、行方氏はうなだれてしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私たちは、その後も、進藤氏たちに銃の訓練を強制しながら総括討論を行っていったが、これによって私が彼らに押し付けた総括が、後に彼らを死に追いやっていくことになるのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 植垣の総括の押しつけは、これまでの森の批判を踏襲したものだと思われる。だが、夜になると3人を含めて酒を飲んだり歌を歌ったりしていたのだから、本気でやっていたのか疑問である。森に対するポーズだったに違いない。


 「銃-共産主義化論」はまったくやっかいな代物である。銃の訓練ばかりやらされた3人はたまったものではないし、銃を握ったところで総括が進むわけではなかった。


 「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。森は、「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ」といって、ヒントをくれなかったから、「正解」は闇の中であった。


 総括を要求されている3人と、そうでない3人の差はほとんどなかったのだから、指導などできるわけなかったのだが、しかし、植垣、青砥、山崎は、これまで一緒に活動してきた仲間3人に対し、次第に蔑視的な態度をとるようになった。


 森と坂東のいない新倉ベースで、植垣、青砥、山崎、遠山、進藤、行方の6名はこのように過ごしていた。そして、年の瀬も迫った12月29日に坂東と寺岡が迎えに来て、革命左派の榛名ベースへ合流することになる。


 それは墓場への招待だった。榛名ベースでは、より進化した「総括」が彼らを待ち受けていたのである。この6名のうち、生き残るのはたった2名しかいないのである。

https://ameblo.jp/shino119/entry-10883575003.html
83. 中川隆[-11455] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:24:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[540] 報告
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
1971年12月 永田洋子の怒り爆発(革命左派・榛名ベース)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html


 今回は、連合赤軍結成直前の革命左派の動向である。


 この時点でのメンバーを確認しておくと、共同軍事訓練 に参加したメンバーが、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前澤虎義、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、岩田平治の9名。参加しなかったメンバーが、尾崎充男、小嶋和子、加藤倫教(次男)、加藤元久(三男)、伊藤和子、寺林真喜江、山本順一の7名である。


 山岳ベースに入るきっかけは、指名手配されているメンバーが潜伏するためだったが、永田は合法部隊も呼び寄せていた。加藤倫教の「連合赤軍少年A」によれば、それは、獄中指導者の川島豪からメンバーを引き離す目的があったからだという。川島豪の獄中からの指示や批判に対し、永田は面白くなかった。そこで、永田はメンバーを目の届くところにおき、川島豪から引き離そうとしたというのである。


 さて、この記事でのポイントは、まもなく開催される12・18集会(上赤塚交番襲撃事件 の1周年記念集会)の段取りに不満を抱いた永田たちが、集会に乱入(?)を企てるところだ。このことが後に、連合赤軍の暴力的総括の遠因となる。


■1971年12月13日「大見得を切ってきた以上、共産主義化を獲得してもらわねば困る」 (永田洋子)

 指導部会議のため赤軍派の新倉ベースに残っていた永田と坂口が、完成間近の榛名ベースに戻ってきた。永田は赤軍派との指導部会議の内容をメンバーに報告した。


 4,5日すると永田、坂口の2人が榛名に帰ってきた。2人は全員を集め赤軍派との論議について説明した。「今回の共同軍事訓練の最大の成果は、両派が共産主義化による党建設という点で一致したことである」と報告し、それに関して革命左派が主導権を持って論議を進めたことが強調された。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 実際のところは、「指導部会議はほとんど森氏が主導した」(永田洋子・「十六の墓標(下)」)のだった。


 永田は、女性解放という観点から、組織内の女性が男性メンバーと同様に、重い荷物を持ったり小屋の建設に参加したり、武力闘争でも実行部隊に入ることなどを、男女平等の実現だと考えていた。

 また、女性メンバーが活動上、必要もないのに化粧をしたり、指輪などの装飾品を身につけたがるのは、「男に媚びる女性蔑視のブルジョア思想」とみなしていた。そして、革命戦争を闘うには、これらのブルジョア思想の克服が不可欠だと語った。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田の考える「女性解放」とは、「女を捨てて男並みになる」ということだったが、これが後に女性への暴力的総括の原因となってしまう (ちなみに、当時の女性解放運動は男並になればそれでよいというような単純なものではない)。


 同時期、ウーマンリブ運動の中心にいた田中美津は、永田について以下のように語っている。


 他の人、男や、権力や金を持つ人、自分より力のある人が求めるもの、求めるイメージを生きようとする限り、結局は化粧も媚び、素顔も媚びになってしまう、ということに永田は気がついていなかったと思います。永田がもし毅然としている一方で、私もイヤリングをつけたい、イヤリングつけて革命して何が悪いのヨって思っていたら、あの群馬県の山中での出来事は起きなかったかもしれない。
(田中美津・「かけがえのない、大したことのない私」)


 田中は、真岡銃砲店襲撃事件 のあと、永田に誘われて革命左派の丹沢ベースを訪れたことがある。このとき彼女は、革命左派に取り込まれることを警戒して、わざと戦士にふさわしくないミニスカートで行ったそうだ。


 永田はわれわれに、「赤軍派に対して、革命左派が離脱者の問題にぶち当たり、組織のメンバーが自己分析に基づいて自分の中に巣食うブルジョア思想と闘うことによって、革命戦争を闘う党建設を進めてきたと大見得を切ってきた以上、皆が自己を革命戦士化する『共産主義化による党建設』の地平を獲得してもらわねば困る」 と話した。

 こうした説明は、一部のメンバーを悩ませることになった。特に、共同軍事訓練への参加から外された者は、深刻だった。自らが皆より遅れているから外されたのだといわれたに等しい。そう受け止めていたからだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 共同軍事訓練は、赤軍派のメンバーが9名だったため、革命左派も人数合わせのために9名に絞ったいきさつがあった。


 そのあと、尾崎氏が沈痛な面持で、「上京して京谷さんと会う手はずをとったけど、京谷さんは待ち合わせの場所に来なかった。そのため12・18集会の準備さえどうなっているのか聞いてくることはできなかった・・・・・全く頭にきた」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 12・18集会とは、上赤塚交番襲撃事件(柴野が死亡)の1周年の記念集会である。京谷は救援対策で、獄中のメンバーとの連絡役をしていた。

 この日の夕食は、私と坂口氏が沢山買ってきた豚の脂身を入れた雑炊であったが、これは好評だった。皆は、「脂身は安くて豚肉の香りがして脂肪が沢山とれるのだから、これからはこういう肉をたびたび買おう」といっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このころの食事は、押麦の雑炊に中国製アヒルの缶詰かサバの缶詰、採ってきた山菜が主なメニューだった。たまに即席ラーメンを食べる程度だった。豚肉の「香り」や「脂肪」で喜んでいるのだから、当時としても極貧の食事であった。後に逮捕され拘置所で出される食事で栄養回復したという話もある。


■1971年12月14日~16日「私は山で産む」(金子みちよ)
 14日の朝、大槻と岩田が12・18集会のアピール文を持って上京した。永田は小嶋といっしょに小屋のスキマを新聞紙で目張りしたり小屋の建設を手伝った。


 小屋建設の間、永田は杉崎ミサ子、金子みちよ、寺林喜久江など、女性たちから異性関係のことや組織活動のことで相談にのっている。永田は下部メンバーの個人的な相談にも丁寧に応じるから、相談しやすかったようだ。そういえば、赤軍派の進藤や行方も、永田をよき相談相手としていた。


 永田は、吉野の子供を宿していた金子みちよに、「産婦人科に行ったらどう?」とすすめたが、金子は「私は山で産む」といって、産婦人科には行かなかった。


 革命左派の山岳ベースは家族雰囲気で、問題も起きるが、楽しそうでもあった。だが、それもこのあたりまでの話である。


■1971年12月17日「永田は聴き手の心を揺さぶった」(坂口弘)
 再び京谷に会いに行った尾崎が帰ってきた。尾崎の報告によると、これまでのように京浜安保共闘(革命左派の公然大衆組織)と革命戦線(赤軍派の公然大衆組織)の主催ではなく、革命左派と赤軍派の主催になっていたということだった。そして、京谷は獄中からのアピールを尾崎に渡すとさっさと帰ってしまったという。


 組織名について解説しておくと、革命左派も赤軍派も、逮捕者の救援活動など合法活動を行う表の組織が別にあった。革命左派の場合「京浜安保共闘」で、赤軍派の場合「革命戦線」だった。新聞では革命左派のことを京浜安保共闘と報じているが厳密には正確ではない。


 もっとも、メンバーは流動的だったし、山岳ベースに合流したので、どちらも同じと思っても差し支えない。だが、12.18集会の主催名については、組織名が問題にされたのである。


 獄中からのアピールを読んで永田は激怒した。川島豪(革命左派指導者)は挨拶程度の電報文であり、渡辺正則(死亡した柴野とともに上赤塚交番を襲撃)は、「爆弾闘争ひとつもしていないじゃないか」と指導部を批判するものだったからだ。


 そこで私は、これらのアッピールと京谷氏が指導部との打ち合わせを拒否し、独断で革命左派の主催として12・18闘争を準備したことと関係があると考え、さらに京谷氏は、獄中革命左派が銃の問題を理解せず獄外革命左派に批判的であることから、12.18集会の打ち合わせを拒否したのだ、12・18集会には銃の観点はない、そうであれば12.18闘争一周年記念集会は何の意味もないと判断した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 要するに、永田は、京谷が獄中幹部とグルになって、銃による殲滅線を封じ込めようとしている、と疑ったのだ。

 永田はメンバーを前にしてアジ演説を行った。彼女には独特のアジテーションの才能があった。


 夜になると彼女は、「革命左派の主催にされた以上、銃の観点を打ち出す集会にしなければならない。そのためには軍から代表を送り、銃の観点を打ち出す発言を勝ち取る必要があると思うがどうか」と提起した。全員が「異議なし!」と答えた。それで積極的に賛成した前澤虎義君と伊藤和子さんの2人が上京して集会に参加し、軍の発言を勝ちとることになった。

 永田さんの怒りには激越さがあった。ちょっと口に出した碇でも、内心では煮えたぎっている場合が多く、切っ掛けを得ると凄い勢いで爆発した。怒りを爆発させると雄弁家になり、相手を激しく攻撃したかと思うと、ホロリとするようなことも言って、聴き手の心を揺さぶった。意識的というよりも自然にやっているので、情感に訴えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 翌18日、前澤虎義と伊藤和子が12・18集会へ出発した。


 それにしても、革命左派を名乗ったのを口実にしてメンバーを送り込んだのは強引過ぎた。それは、集会を準備したK君らの苦労を考えず、まったく一方的にこちらの意思を押し付けるものだった。私は、この時も彼女を制しなかった。弁解めくが、彼女のアジ演説はなかなかのものだったのだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そして、前澤と伊藤は忠実に責任を果たそうとした。ところが、この一件が後の暴力的総括の発端につながっていく。


■偶然集まった連合赤軍メンバー

 ここまでで、連合赤軍になるメンバーが出そろったわけだが、赤軍派にしても、革命左派にしても、連合赤軍になったメンバーは、志願したわけでも、選抜されたわけでもない。偶然そこにいただけである。


 逮捕された人とか、連絡がつかなかった人とか(当時電話はあまり普及してなかった)、山岳ベースに向かう途中ではぐれてしまった人とか、そういう人たちは、たまたまその場にいなかった。


 その場にいなかった者たちは、後日、あさま山荘の闘いをテレビでや新聞でみて拍手を送っていた。だが12名の同志殺害が発覚すると、その手は凍りついてしまった。自分がその場にいなかったのは偶然の成り行きでしかなく、彼らと自分を区別するものは何もなかったからである。


 一方、政治運動とは無縁の者にとっては、さしあたり異常者のレッテルを貼っておけばよかった。しかし後年になって、好奇心から当事者の記録を読むと、それではすまなくなった。彼らの常識や判断は、自分とさほど変わりがなかったからである。


 関係者であれ、部外者であれ、「自分と同じ」というのは都合が悪かった。自分も仲間を殺害できる人間だとは断じて認めたくない。彼らが異常者であってくれれば安心できるが、そうでないとすると、安心するための唯一の方法は、彼らがどこでどんな間違いを犯したかを見つけ出すことである。


 ここまでのところ、間もなく12名の同志殺害が起こる気配はない。しかし、実際に起こった。このあと彼らは、どこでどんな間違いを犯したのか、途中で引き返すことができなかったのか、という観点でみていくことにする。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html

1971年12月20日 森恒夫・坂東国男が榛名ベースへ
https://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html


 森と坂東が、指導部会議のため、完成したばかりの革命左派の榛名ベースにやってきた。イラストは植垣がボールペンで描いたものである。


 (山の斜面に建てられた榛名ベース 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・外観


■「遠山らは総括した」(森恒夫)
 再会した森と永田は、互いに宿題の報告を交わした。永田は正直に「共産主義化の観点から革命左派の党史の総括をやってみたけど、できなかった」といったが、森は「遠山らは総括した」といった。森がいったことはウソである。遠山、進藤、行方の3名は総括できていないどころか、2軍扱いされるまでになっていた。


 雑談のあと、赤軍派からの状況を森同志が報告しました。12・18集会を皆で祝ったことなどを。しかし、このとき、進藤同志、行方同志、遠山同志達を「2軍」とし、この集会に参加させずに、銃の訓練を科していたことは報告しませんでした。いろりのまわりで私たちが集会を祝い、酒を飲んでいるとき小屋の片すみの土間で、銃をかまえていた同志達の姿が今も目に浮かびます。自分たちを「1軍」として祝うことのうちろめたさから、彼らのほうをそっと見ました。ときどきこちらをみては、頑張らねばという建前と、しかし納得できないという晴れ晴れしない表情で、再び銃を構えるというような情景にこれでいいのかと思いました。

 しかし、そんな弱音をはいてはだめだ。これに耐えていかねばならない、そんなことでは共産主義化もできないと自分にムチうつという感じでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■坂東のアジテーション 「支離滅裂な内容だった」(坂口弘)
 革命左派のメンバーは歓迎の気持ちや決意を表明した。このとき、小嶋和子は「私の中にブルジョア思想が入ってくることと闘わなければならないと思っています」と述べたが、これがあとで問題になる。赤軍派の番になると、森は挨拶程度ですまし、坂東に代表発言を促した。


 坂東氏は身を乗り出すようにしてアジテーション調で相当長く発言したが、何をいっているのかよくわからなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 支離滅裂な内容で、何を喋ればいいのかわかってないようだった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そのあと私が赤軍派を代表することになったわけですが、これは、「銃-共産主義化論」を未消化のまま、森同志のうけうりで、いいカッコしてアジテーション調にやったため、みんなわかりにくいなあという表情でしたね。素直に自分の感情を言うことは、何か価値の低いものでもあるかのように思っていたものですから、人間蔑視もいいところですよね。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 ずっと森の傍らにいた坂東でさえ、 「銃-共産主義化論」 をわかっていなかったのである。


■森恒夫の個人批判 「私はますます不愉快になった」(永田洋子)
 夜になると指導部会議が始まった。指導部は赤軍派が森恒夫・坂東国男、革命左派は、永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦である。指導部が会議を行う場所は、土間とカーテンで仕切られ、コタツが備え付けられていた。


 (榛名ベースでの指導部会議 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議


 森はまず小嶋発言を問題にし、「ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分の中に入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、自己合理化だ」と批判した。このときから森は革命左派のメンバー個人個人を批判するようになっていたのだった。


 (森氏は)今度は他の革命左派の1人ひとりの評価を始めた。小嶋さんへの批判でいやな思いをした私は、驚き、ますます不愉快になり下を向いて目をつぶり、どうして森氏がこのようにいうのか考えながら聞いていた。森氏は金子さんを全面評価したが、それ以外の人、特に尾崎氏を軍人らしくないといって細かいことまで批判した。

 私は、革命左派の皆は頑張っており赤軍派にあれこれいわれることはないと思っていたので、腹が立った。しかし、森氏の批判に断固拒否することはできなかった。坂口氏らはどう思っているのだろうと思って、私は彼らのほうを見たが、彼らは姿勢正しくおとなしく聞いているだけだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練のときからずっとそうだったが、森の批判に反論するのは、常に永田と寺岡の2人だった。坂口と吉野はただ黙って聞いていた。


 私は革命左派内における個々人の評価を表明することで、森氏の批判に反対した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これでは、森の土俵に乗ってしまっただけである。もし永田が本気で個人批判をやめさせようとするなら、「革命左派内部のことに口をださないでよ」とピシャリと門を閉ざしておくべきだった。


■「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」(森恒夫)

 個人批判の問題がひとまず終わったあと、森氏は、それの延長のようにして、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした。これまで、関心を持たなかったのは自己批判的に考えているが、生理のときの出血なんか気持ち悪いじゃん。だから、そういうこともあったのだ。もうそれではやっていけないことがわかった」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派のメンバーには女性が多かった。そこで森は「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という。だが、生理のときの出血が気持ち悪いというように、森の「女性の問題の関心」とは、ちょっとズレているようなのだ。


 森の「女性の問題の関心」とは、どんなものだったのか。永田の冴えない反論も編集して紹介する。

森「女はなんでブラジャーやガードルなんてするんや。あんなもん必要ないじゃないか」
永田「ブラジャーやガードルが必要ないとはいい切れない。私もするときがある」


森「それに、非合法の女の変装で若い女の格好をし、化粧をしたり、都会の女の装いをするのはおかしい。農家の主婦の格好をすべきや。前々から僕はそうおもっていた。山を当面の拠点にする以上はこれは大原則だ」
永田「農家の主婦や娘の格好といっても、わからないのだからすぐにはできない」


森「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
永田「出血量は人によるけど、どの人も必要だと思う」


森「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
永田「生理のときは必要だし、新聞紙では困ることもある」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」 より編集)


 どうやら森は、女性の 「母なる身体」 に対し異物感を持っていることがわかる。ブラジャーや生理帯やチリ紙を排除したところで、何か問題が解決するのだろうか? 永田はどう思っていたのか。


 「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という森氏の発言は、明らかに女性の性そのものを否定した女性蔑視の観点を女性の革命戦士化の問題として持ち込むというものであった。しかし、それは、まず人間として生きることを掲げて、女性としての独自の要求をもとうとしなかった私の婦人解放の志向を徹底化させたものであったため、私は極端なことをいうと思っただけで、女性蔑視の観点そのものを批判していくことができなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 永田のいっていることもよくわからない。「女性の性そのものを否定」=「婦人解放の志向を徹底化させたもの」と解釈してしまうのは理解に苦しむところだ。


■毛沢東の評価 「森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた」(永田洋子)
 森は、「会議は徹夜でやろう」と張り切っていた。森は、中国の革命戦争と文化大革命の歴史的評価を通して、共産主義化の闘いを新たな次元に位置づけた。


 私は森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた。寺岡氏もほーうという感じでいたし、坂口氏、吉野氏も強い関心を持って聞いていた。私は、森氏が毛沢東思想を私たち以上にしっかりと理解していると思い、理論的指導者としての信頼の気持ちを深めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派は毛沢東主義であった。この日、森が毛沢東思想を持ち出して、共産主義化を正当化してみせたのは、革命左派に影響されたともとれるし、そうすることによって、革命左派と取り込んでしまおうという意図があったともとれる。


 森の意図はともかく、直前まで森に対して不愉快だったり、何かおかしいと思っていた永田は、これでコロっとイカれてしまうのである。というより、それを望んでいたといった方がいいだろう。


私は睡魔に勝てず、うつらうつらしていたが、森君は相変わらず、独りで延々と喋りまくった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


雑談はその後も続いていたようであるが、私はいつの間にか眠ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練 のときもそうだったが森はタフなのであり、それが自分の意見を通す武器にもなっているようだ。


 初日の指導部会議は森のペースで終わった。この日のポイントは、ひとつは森が革命左派メンバーに対する個人批判を持ち込み、永田がそれを許してしまったことで、もうひとつは、赤軍派が毛沢東を評価したことで、革命左派に歩み寄ったことである。


 そして2日目の指導部会議で、いよいよ「われわれ」になるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html

1971年12月21日 われわれになった日
https://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

 前日、徹夜で森が中国の革命について語っていたので、この日の指導部会議は昼から始まった。


(冬へ向かう榛名山 「氷解」・彼らはこの景色をみて榛名ベースに入った)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-冬へ向かう榛名山(「氷解」イラスト)


■「共産主義化の理論にすがりついた」(永田洋子)

 森は「三大規律・八頭注意」を共産主義化のモデルとすることを主張した。「三大規律・八頭注意」とは、毛沢東が制定した軍規である。


<三大紀律>
1.一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ)
2.不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな)
3.一切?獲要帰公(獲得したものはすべて中央に提出せよ)

<八項注意>
1.説話和気(話し方は丁寧に)
2.買売公平(売買はごまかしなく)
3.借東西要還(借りたものは返せ)
4.損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ)
5.不打人罵人(人を罵るな)
6.不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな)
7.不調戯婦女(婦女をからかうな)
8.不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)

 つまり、党建設の機軸を路線にではなく、作風・規律に置き、両派の路線の不一致のまま、路線問題の解決よりもその問題の解決を両派の共通の課題として優先させたのである。しかし、私はこれに確信をもった。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田のいう「やっていけなくなった」ものとは何か、最後に考察してみる。


■「われわれになった」(永田洋子)


 森君は、「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を獲ち取るというようにするのではなく、銃と連合赤軍の地平で獲ち取っていくべきなのだ」と提起した。永田さんが直ちに賛成し、「それなら、われわれになったという立場から共産主義化の問題を追及していくべきじゃないの」と応じた。期待をこめた発言だった。

 森君はややあってから頷いた。こうして「われわれになった」こと、即ち新党の結成が確認されるのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 永田さんは、「われわれになった」ことがよほどうれしかったとみえ、会議の途中、土間のストーブの周りにいた被指
15:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:04:36

森君はややあってから頷いた。こうして「われわれになった」こと、即ち新党の結成が確認されるのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 永田さんは、「われわれになった」ことがよほどうれしかったとみえ、会議の途中、土間のストーブの周りにいた被指導部メンバーのところへ行って、「われわれになった」ことを伝えた。そして、指導部のところへ戻ってきて、「われわれになったのだから、革命左派のメンバーを指導してほしい」と森君に慫慂(しょうよう)した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

この「我々になった」という表現は、革命左派の被指導部の者にはすぐには理解できなかった。意味がわからずきょとんとしている者が多かった。(中略)

 永田は私たちの反応がないのを見て、「我々になったのよ。嬉しくないの。これから赤軍派と一緒に闘っていくことになったのよ」と再度「我々になった」ことを強調した。これを聞いて、やっと被指導部の者たちは拍手した。中には雄叫びのような声を上げた者もいた。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 これまでは、赤軍派と革命左派の軍事的連合という位置づけであったが、このときから、ひとつの党としてやっておくことになった。これを永田が、 「われわれになった」 といったのである。


■「坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」(永田洋子)


 そのあと指導部会議は雑談的なものになった。森氏はこのとき、坂東氏に、「坂東はどうして結婚しないのだ。結婚しても闘っていくということが指導者に必要なのではないか」といった。(中略)


 私が、「我々になったのだから、坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」というと、坂口氏も、元気のよい声で、「それはいい。ぜひとも結婚すべきだ」と賛成した。森氏も勧めた。(中略)


 坂東氏は、皆から勧められて、「本来、結婚するとすれば永田さんが一番良いということになるのだろうけど、もう相手がいるからダメだし・・・。ごめんね、おちょくって・・・」といって考えていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田はさっそく伊藤に打診する。


 伊藤さんはもそもそした調子で私にいった。
「私は、日大全共闘の黒ヘルの人に行為を持っているから・・・」
「その人と結婚したいの」
「そこまでは・・・」
「もし、そうでないなら、坂東さんとの結婚を考えたらどう」
 私たちは夕食まで2人で話し合えばよいということにして、こたつを離れた。2人は何か話し合っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まったく個人的感情を無視しているが、組織的に結婚させるというのは、革命左派の前身あたりから風習があったらしい。


■「もう永田さんと離れまいと思った」(森恒夫)
 夕食後、全体会議で、永田が、「われわれになった」ことを正式に報告した。そのあと永田に要請され、森が共産主義化と「われわれになった」ということの説明を行った。永田は森の演説を、 「うまいなー」 と感心して聞いていた。


 森氏は最後に、共同軍事訓練での遠山さん批判を評価し、「この時初めて永田さんを共産主義者と認めた。そのときから、もう永田さんと離れまいと思った」と笑いながらいい、私の方へ手を差し伸べた。また、森氏は、「革命戦士の夫婦として求められるのは永田さんと坂口君の場合だけであり、僕も含めてあとの者はそうとはいえない」ともいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このあと、被指導部の者1人ひとりが発言した。それらは、中国革命戦争の歴史に関心を寄せ、「我々になった」ということに期待するものであった。小嶋さんも同様のことをいい、さらに「二人のときに立ち会ってうれしかった」といった。この時、それまでオブザーバーのようにしていた森氏が、急に身を乗り出して、「ちょっと待った。そんなこと言ってよいのか」と強い調子でいった。小嶋さんはビクッとし、「良くなかった」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 小嶋がいった 「二人のとき」 とは印旛沼事件(向山・早岐の処刑) のことである。小嶋は運転手役をやらされていて、その後、精神が不安定になっていた。


 前日、森が小嶋を批判したとき永田は不快感を表したが、「われわれになった」この日はもはやそうではなかった。


 森はもともと革命左派を吸収しようとしていた。だから森は水筒問題 で革命左派を責めたてたのだが、永田は遠山批判 というカウンターパンチを放った。もし森がそのまま主導権争いを続けたら、また違った展開になっていただろう。森が遠山批判を認め、永田を持ち上げたからこそ、永田は森をリーダーとして受け入れ、両派の統合が一気に加速したのである。


 この日のポイントは、ひとつは「われわれになった」ことであり、もうひとつは、政治路線は棚上げにして、内部の作風・規律を重要課題としたことである。


■永田は何を「やっていけなくなった」のか、何に「すがりついた」のか?
 永田は、共産主義化の理論 をよくわかっていなかったといっている。にもかかわらす「すがりついた」とはどういうことだろうか。細かい話になるが、永田が「確信をもった」という理由を再度引用して、深読みしてみたい。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この文章で、「やっていけなくなった」ものは、普通は「闘争」と考える。しかし、そうだとすると、「ガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったので、もっとガムシャラな闘争精神である共産主義化でやっていくことにした」というおかしなリクツになってしまう。そもそも共産主義化とは革命左派の「ガムシャラな闘争精神」を発展させたものだったのだから。
 
 ところが、「やっていけなくなった」ものは「闘争」ではなくて「メンバーの統制」のことだと考えると合点がいく。以前から、革命左派において、メンバーの間に反永田の気運が盛り上がっていた。印旛沼事件、中国行き提案など、永田指導部の方針には、常に批判や不満がつきまとっていた。


 永田指導部への批判は、永田や坂口が強弁によって押し切ってきた。それが限界になって、「理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなった」のではないだろうか。つまり、「極左的な実践の限界」とは、「メンバーを統制しきれなくなった」ことだと思われる。


 永田はメンバー統制のために、理論が必要だと考えていた。そこに現れたのが森恒夫である。


 もし森が従来の赤軍派の理論である「前段階武装蜂起」や「世界同時革命」などをふりがざしていたら、永田は興味を示さなかっただろう。なぜなら永田が必要としていた理論は、組織の外側に向いているものではなくて、内側に向いているものだったからである。


 森の提唱した「共産主義化」は、まさに組織の内側に向き、個人の内側まで達していた。永田の理想としたフォーマットだった。つまり、「革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えた」というのは、「メンバーを強弁によって押し切るのではなく、共産主義化の理論で説得できることを期待した」ということになる。


 永田が「すがりついた」のは、共産主義化の「理論」ではなくて、共産主義化の理論の「フォーマット」である。だからわからないのにすがりつけるのである。


 よって、理論を操ることのできる森恒夫に主導権を渡すことは、さして抵抗がなかった。むしろ、メンバーの統制をより強固にするためには、そのほうが都合がよかったのだ。


 これは推論であり、正しいかどうかはわからない。だが、もし正しいとするなら、森恒夫と共産主義化の理論は、見事に永田の「期待」にこたえることになる。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ
https://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html

 加藤・小嶋への殴打を紹介してきたが、特筆すべきは森の暴力の導入が、革命左派の榛名ベースで行われたことだ。赤軍派は、森と坂東と山田の3名だけで、いわば完全アウェーの中、革命左派メンバーの加藤能敬と小嶋和子を殴打したのである。


 そこには、森の強い意志が感じられるが、いざ、「高い地平」(森)に到達してみると、森は、新倉ベースに残してきた赤軍派メンバーの遅れが気にかかった。そして森の心は揺れ動くのである。


 南アルプスの新倉ベースでの赤軍派メンバーの出来事は、1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース) を復習しておいてほしい。


 今回は、12月27日の夜の指導部会議の様子である。


■「南アルプスにいる旧赤軍派の者をどうするか?」(森恒夫)
 

 (森は)「南アルプス(赤軍派の新倉ベース)にいる旧赤軍派の者をどうするか?」と問うてきた。(中略)


 森氏は、さらに、「僕は加藤、小嶋をい殴ったあとだから、ここを離れることはできない。それにしても、南アルプスにいる者はここにいる者よりはるかに遅れてしまった。この差はかなりのものだ」といった。私は、これに対し実に簡単に、「それなら、榛名ベースに結集させ、共に共産主義化を獲ち取っていこう」と答えた。


 「遠山(美枝子さん)ら3名は総括できた」という森氏の発言を信じていたからである。私は、遠山さんらに厳しい総括要求が課せられていることをまったく知らなかった。そのため彼女らを榛名ベースに連れてくれば、暴力的総括要求にかけられるかもしれないという予測をすることはできなかった。私の発言に皆が同意した。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そもそも、赤軍派の幹部(森・坂東・山田)が革命左派の榛名ベースにきたのは、新党結成のためのミーティングをするためであった。それが、とんとん拍子で、12月21日に新党に合意 したので、森が革命左派メンバーに対しても指導権を発揮するようになったのである。


 だから新倉ベースの赤軍派メンバーは、幹部の帰りを待っている状態だった。そこで、彼らをどうするか相談を持ちかけたわけだが、新党が結成されたのだから、合流されるのが当然である。


■「どこまで話すか?」(森恒夫)


 しかし、森の心は揺れ動いた。

 (森は)続いて、「どこまで話して結集させるか?」と問うてきた。私はすべて話すのが当然だと思い、「新倉ベースの人には、加藤、小嶋を殴ったことやその総括のすべてを話し、『共産主義化』による党建設」の同意を得て結集させるべきだ」と答えた。私は、すべてを話して同意を得ればおくれの差を生めることが出来ると思った。ところが森氏は、「そうか、すべてを話すのか」といって少し考え込み、「うん、そうしよう。すべてをそのまま話す」といった。


(中略・そのあと、具体的な段取りなどを打ち合わせたことが書かれている)


 この時、森氏は、私に、「遠山、行方、進藤をどうするか?」と聞いてきた。私は、意味が分からず、「どうして?」と聞いた。森氏は、強い口調で、「だってそうだろう。南アルプスの者ははるかにおくれてしまったのに、この3人は南アルプスの他の者より問題を抱えているのだ。榛名ベースの者からみれば総括できたといえないじゃんか」といった。この時、「遠山らは総括した」といったことが実は違うことを森氏はいわなかった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく森が心配していたことは2つある。


 ひとつは、暴力のことまで話すと、総括中の3人(遠山・行方・進藤)が逃亡するのではないかと疑っていたことである。だから、「遠山、行方、進藤をどうするか?」ときいたのは、「3人の逃亡を防ぐにはどうするか」という意味だったと思われる。結局、3人については車で移動させることにした。


 もうひとつは、総括中の3人が榛名ベースに合流すると、3人とも暴力的総括要求を行わざるを得ないと憂慮したことだろう。加藤・小嶋への殴打を正当化し、理論化してしまった以上、3人に対しても断固とした対応をとらなければならない。


 森の歯切れが悪いのは、この時点では、さらなる暴力に対し、いくらか躊躇があったからであろう。だから永田に相談を持ちかけたのである。


 ところが、12月20日に森は永田に「遠山ら総括した」とウソをついていたので、永田は森の躊躇にまったく気づかなかった。


 だから当然の如く、総括中の3人も含めて召集することに決まってしまう。坂東と寺岡が迎えに行くことにし、山本順一が車の運転をしていくことになった。


 そして、坂東たちが彼らを連れてくる頃には、森は、断固とした態度で臨むことを決意しているのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html


1971年12月29日 女の革命家から革命家の女へ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)は、理不尽な批判にさらされていく)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

■12月29日時点の連合赤軍メンバーの状況 (榛名ベース)

--- 指導部 ---
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)

坂東国男 (赤軍) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山田孝  (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
吉野雅邦 (革左)

--- 被指導部 ---
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前澤虎義 (革左) 中村愛子を迎えに上京
岩田平治 (革左) 中村愛子を迎えに上京
山本順一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
尾崎充男 (革左) 立ったまま総括中
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)


 夫婦関係にあるカップルは、永田洋子と坂口弘、寺岡恒一と杉崎ミサ子、吉野雅邦と金子みちよ、山本順一と山本保子の4組であった。山本夫妻を除いては、法的な婚姻ではなく、組織が認めた「夫婦関係」である。加藤能敬と小嶋和子は、組織に認められていなかったので、「恋人関係」にとどまっていた。


■「どうして美容院でカットしてきたんや」(森恒夫)

 指導部会議を終えてから、森氏は大槻さんから買い物の報告を聞いたが、その時、大槻さんが髪をカットしたことを知ると、「山でパーマをかけると決め美容院にパーマの道具を買いに行くようにいったのに、どうして美容院でカットしてきたんや。これは問題だぞ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 その後、森は杉崎ミサ子を指導部のこたつのところに呼んで深刻そうに話し込んだ。その間、永田は手洗いに立ち、金子や大槻と雑談をしてから、指導部のこたつに戻ったが、森と杉崎はまだ話し込んでいた。

 しばらくすると、杉崎さんは、「寺岡さんと離婚し、自立した革命戦士になる」といった。森氏はこれを評価し、私や坂口氏に伝えた。私は冗談じゃないと思ったが、自立した革命戦士になるという以上反対できずに黙っていた。


 このあと、大槻さんが「星火燎源」を読んでおり、秋収蜂起から井岡山への闘いに関心を持っているというと、森氏は、「知識として読んでいるにすぎない」といった。私は欲理解できず、「えーっ」といった。森氏は、「美容院でカットしてきたのは何だ!」といったあと、強い調子で、「知識!知識!」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「あぶり出しをしているかのようだった」(加藤倫教)
 夕食後、全体会議が開かれた。

 加藤倫教は、全体会議に参加する気持ちを次のように述べている。

 まるであぶり出しをしているかのように、毎晩毎晩の発言の中で、幹部たちの、特に森、永田の気に入らないような発言をしてしまった者が、次の標的にされいくように感じられた。(中略)


 物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのかわからない「総括」要求と暴力に、森と永田以外のものは怯えていた。


 私も怯えていたが、永田は、私や弟のことをまだ一人前の構成員とはみなしていないようだった。いわば子ども扱いされていたのであり、そのおかげで「総括」させられることもなかったのである。


 その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには、「銃による殲滅戦」を行うしかないという信念、それだけだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 全体会議といっても名ばかりで、実態は、指導部の方針の伝達と、それに対して決意表明を行う場だった。そのときの決意表明が、「総括」するかどうかのリトマス試験紙になっていた。森や永田が気に入らなかったらおしまいというのは、メンバーの証言が一致している。


 指導部の方針は指導部会議で出されるが、それも名ばかりで、森の問題提起に対して承諾を求められ、民主的な装いをあたえる機関でしかなかった。


■「女の革命家から革命家の女へ」(森恒夫)


 全体会議の参加者はいつもより大分少なかった。メンバー状況からわかるように、被指導部のメンバーは加藤兄弟以外は女性ばかりであった。


 全体会議では、杉崎が「自立した革命戦士になるために、寺岡さんと離婚します」と宣言した。これが森と杉崎の話し合いで出された結論であった。

 森氏が、「女性兵士が自立した革命戦死になるということは、『女の革命家から革命家の女へ』ということだ。杉崎さんの離婚表明は革命家の女になるものだ」といって、杉崎さんの離婚を評価した。しかし、森氏は、『女の革命家から革命家の女へ』ということがどういうことなのか説明しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 当時、リブ運動に、「抱かれる女から抱く女へ」というスローガンがあり、森はそのフレーズを意識していたのではないだろうか。

 その後も発言が続いたが、金子さんの番になると、彼女は、「私も、自立した革命戦士になるために、吉野さんと離婚します」と発言した。


 これを聞いて、私は杉崎さんのとき以上に驚きあわててしまった。私は、「金子さんは杉崎さんと違うのだから離婚する必要はない。離婚しないでもやっていけるし、自立した革命戦士になれる」といった。金子さんは黙ってしまったが、離婚表明は撤回しなかった。(中略)


 森氏は、私の反対に何もいわなかったが、のちに、金子さんの離婚表明への批判を独自の観点から行っていくのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は、「革命家の女になるために努力する」と発言した。

 森氏が、半ば私に、半ば全体にいう感じで、「美容院に行ってカットしてきたことも自己批判ぜず、女の革命家から革命家の女になるために努力するということが許されるのか」と批判した。森氏は終始一貫して大槻さんに批判的であった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「少し休ませてください」(尾崎充男)


 会議の途中に、尾崎君が指導部のいる炬燵に向かって歩いてきて、「少し休ませてください」と言った。森君は怒って、「おとなしく立って総括しろ!」と叱りつけた。尾崎君は、一旦、土間の側に戻って立っていたが、しばらくするとまた炬燵のほうにやってきた。


 森君はかんかんに怒り、その場で、「眠らずに総括しろ!」と言って、尾崎君に大きな試練を課した。尾崎君は、肉体的苦痛が大きすぎて、抑制の利いた行動が取れなくなっていたのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 この日の夜、森の指示で吉野が尾崎の見張りにつくことになった。


■「革命家の女」になるには、女を捨てなくてはならない


 永田は、「女の革命家から革命家の女へ」という言葉を受け入れたが、理論的には消化しきれずにいた。だから、離婚宣言に対して、杉崎については承認し、金子については引き止めるという中途半端な対応になった。


 「女の革命家から革命家の女へ」 というのは、 言葉通り受けとめれば、「女である前にまず革命家であれ」 ということだ。そういう意味なら、革命左派の女性たちは、とっくに 「革命家の女」 だった。以前から、女だから、などという意識はなく、あたりまえのように男女の区別なく活動してきたのである。


 ところが、森の問題意識は異なっている。12月20日 に、森は、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」といったが、その内容は、女性の身体や装着品についての問題提起だった。森の理想とする 「革命家の女」 になるには 、 女を捨てなければならないのだ。


 永田は、森の女性蔑視的発言に反感を抱きつつも、その後の女性メンバーへの総括要求では、森の側に身を寄せた。その動機はともかくとして、女らしさを粉砕しなければならない、という点については、永田も一致していたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html


1971年12月31日 「敗北死」の踏み絵
https://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html

 前回は、尾崎充男が死亡し、森が「敗北死」と規定した。今回はその続きとなる。


■メンバーの状況(12月31日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍) 新倉ベースから戻る
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左) 新倉ベースから戻る
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
進藤隆三郎(赤軍) 新倉ベースから合流
遠山美枝子(赤軍) 新倉ベースから合流
行方正時 (赤軍) 新倉ベースから合流

【死亡者】
尾崎充男 (革左)12月31日 敗北死(殴打による衰弱、凍死)


■「女性とばかり話している」(森恒夫) 「髪を切る必要を全く理解していない」(永田洋子)
 坂東に連れられて、新倉ベースからやってきた赤軍派の進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースの小屋に入るなり、尾崎、加藤、小嶋がたれ流し状態で柱に縛りつけられている光景を目にしてしまった。


 彼らは総括要求されている最中だったから、心中穏やかでいられるはずはなかった。3人は森に挨拶にもいけなかった。


 坂東は、森に3名について報告をした。坂東の手記では、3人とも総括できたと肯定的に報告したことになっているが、坂口の手記では、3人に不利な内容が報告されたことになっている。どちらにしても、森は3人を最初から冷たい目でみていたから、坂東の報告はほとんど関係なかったと思われる。


 森は、「進藤は戸口を気にしている。逃げようとしている」、「進藤と行方は、女性とばかり話している」、「行方は総括のことより、自分に出された指名手配書を気にしている」などと、さっそく批判を始めた。

 森氏のこの批判は、・・・(中略)・・・実にめちゃくちゃなものであった。あまりにもひどいものだったため、私たちは同意しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 しかし、永田は永田で、遠山をみて、「髪を切ったとはいえ、前と同じ服装であり、非合法の為に髪を切る必要を全く理解していない」としっかり批判している。山を降りてないのだから、服装が同じなのは当然である。


■「みんなにこのことを知らせるか?」(森恒夫)
 森は、尾崎の死について、指導部に対しては「敗北死」ということで始末をつけたが、被指導部のメンバーへの対応については、弱気な面をのぞかせた。

森「みんなにこのことを知らせるか?」
永田「みんなに知らせるのは当然だ」
森「そうか。それではそうしよう」
森「誰が全体に報告するか?」
全員「・・・・・」
森「永田さんにやってもらおう」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋)


 森は自分からは言いたくないようである。

 永田さんは、向山君と早岐さんの殺害と一緒に全体の前に報告すべきだと主張したが、森君はこの提案に躊躇した。しばらく考えてから彼は、前沢君と岩田君の2人に、早岐、向山殺害の事実を教え、しかる後に全体の前に報告しようとする代案を出した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 森、坂口、吉野は前沢と岩田を小屋の外によんだ。

 ここで森君は、「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括し切れなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。この時、私は、全身が汚辱にまみれ、下等な人間に転落していくのがハッキリとわかった。

 続いて彼は、早岐、向山を殺害した事実を明らかにした。岩田君は、「たぶんそうだと思っていました。自分は異議ありません」と言った。私は、革命左派の責任で行った殺害行為が、赤軍派の森君によって語られたことに、非常に惨めな気持ちになった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どうして森氏が2名の処刑を全員に話すことに反対し、前沢氏、岩田氏には話すといったのか、どうして尾崎氏の死を全員に話すことを始めはためらい、さらに自分が行うことは避け、前沢氏らには自分が話すといったのか、私にはわからない。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく、森は、尾崎の死に際して、誰よりも動揺していたし、誰よりも責任を感じていた。全員(ほとんどが革命左派メンバー)に「敗北死」が通用するかどうか、自信がなかったのではないだろうか。


 メンバーには隠しておこうとも考えたが、永田にピシャリと否定されたので、革命左派のリーダーである永田の口から説明してもらうようにしたのだろう。


 遺体を埋める作業を手伝わせるため、森は、岩田と前沢の2人には、すべてを話した。もっとも信頼できる2人を選んで、森の言葉が2人に通用するか確かめたのだと思われる。逆にいえば、他のメンバーには信頼をおいていなかったということである。


 しかも、このとき、坂口と吉野を同席させて、数的優位をつくった上での説明であった。このように森は、小心な面が顔をのぞかせることがある。

 私は、みんなが尾崎の死でびっくりしたりショックを受けたりして食事ができなくなるようではいけないから、全体会議ではパンとコーヒー、コンビーフの缶詰で軽い食事をしよう」と提案した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 普段は、麦の雑炊しか食べてないので、パン、コーヒー、コンビーフは、たいへんなご馳走だった。要するに、ニンジンをぶらさげて、敗北死を認めるように迫ったわけだ。


 尾崎の遺体は、坂東、吉野、前沢が小屋の近くに埋め、山田と岩田が、加藤と小嶋を小屋の外に出した。尾崎の死を聞いてショックを受けないようにするためということだった。


■「尾崎は自ら敗北の道を辿って死んでいった」(森恒夫)

 全体会議が始まった。始めに永田さんが、「尾崎が死にました」と報告した。全員がしーんと静まり返った。彼女は、命をかけて共産主義化を勝ち取っていかなければならないことを強調し、「加藤、小嶋に敗北死させないように必ず総括させよう」と言った。全員が、「異議なし!」と答えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 続いて森君が尾崎君の死を総括して、おおむね次のような発言をした。


「尾崎は、われわれの厳しい共産主義化の闘いの中で、最終的にこの闘いに勝利しきれず、自ら敗北の道を辿って死んでいった。われわれにとって共産主義化の獲得こそが党建設の内実であり、これを獲得するためには各個人の文字通りの命がけの飛躍が必要である。こうしたことをなし切れなかった尾崎の死は、共産主義化の獲得(=党建設)というわれわれが初めて直面した高次な矛盾であるが故に、この現実を厳しく直視しなければならない。だから彼の敗北死を乗り越えて前進する決意をわれわれ自身がより固めていかなければならず、食事が摂れないというようなことがあってはならない」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「高次な矛盾」とはいったいなんだろう。森はこの言葉を、都合が悪いときの言い訳として使っているような感じだ。


 「自己批判書」には以下のように書かれている。

 この事(前沢と岩田に敗北死の説明をしたこと)は、私自身が尾崎君の死を暴行によるものではないかと考えた事を”命がけの”飛躍という事によって合理化し、又、肉体的暴行、食事なし、寒気という異常な条件に対する指導という意味での慎重な配慮を為さなかった為に死なせてしまった事を省みず、死の責任を一方的に押しつけるものであったし、更に、その事実を食事云々ということで他のメンバーに対する踏絵にし前記の誤りの承諾を強要したものであった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「自己批判書」は、他の人の手記と違って、逮捕直後にかかれている。つまり、山岳ベースの熱が醒めないうちに書いているのだが、「敗北死」などとは思っていなかったことがわかる。


 永田はどう総括しているかと言うと、

 もし、暴力を制裁、報復と位置づけていれば、尾崎氏の死の原因が暴力にあったことを認めざるを得ないが故に、「敗北死」という総括が出てくることはなかったと思う。


 しかし、共産主義化の思想それ自身、すべての問題の原因をまず路線や指導に求めるのではなく、個々人の資質や性格に求めていくものであったのであるから、「敗北死」という総括は暴力的総括要求の論理の必然的結論だったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そ、そうなのかっ!?
 「死者が出た以上、暴力を援助と規定したことがそもそもの誤り」とするのが、「必然的結論」ではないだろうか。


■「尾崎の死は鴻毛のように軽い」(岩田平治)


 全体会議では、例によって決意表明が行われた。

 私は驚愕した。同志の死を「敗北死」で片付けて、悼む姿勢すら見せないことが信じられなかった。それどころか尾崎の死を受けて、再び出席者全員による総括と決意表明が行われたのである。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 皆の発言には、「敗北死」という総括に反対するものはいなかった。本当に敗北死だとか、尾崎氏は日和見主義だとか、自分は頑張っていくといった発言が相次いだ。


 遠山さんは、「私は絶対革命戦士になるんだと決めてきた」と発言した。岩田氏は、「毛沢東は『死にも泰山のように重いものと鴻毛のように軽いものがある』といっているけど、尾崎の死は唾棄すべき軽いものだ。僕は革命戦士として泰山のような重い死に方をしたい」と表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この岩田の発言は、森に気に入られた。岩田は、これまでも積極的に森に迎合した発言を行っていたが、しかし、内心では冷静に事態をみつめていた。なぜわかるかというと、彼は脱走者第一号になるからである。


■「小嶋は総括しようとしている態度ではない」(金子みちよ)

 各自の発言が続いている最中、金子さんが見張りから戻ってきた。金子さんは、指導部のところに来て森氏に、「とり肉とミルクをやったら、加藤は黙っておとなしく食べたけど、小嶋は食べたあと『また、あとでちょうだいね』といった。小嶋は総括しようとしている態度ではない」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 金子は、尾崎に決闘をさせたときは否定的だったが、ほかの「総括」にはむしろ積極的に関わっていたのである。

 小嶋さんは敵対的な態度をとっている私たちに同志としての態度を期待したばかりか、苦痛を強いる暴力的総括要求に圧力に屈しない自主性を持ち続けていたのである。ところが、私たちは、こうした小嶋さんの態度を総括しようとしない態度と決めつけたのである。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■踏み絵を踏んだ日


 尾崎の死は、暴力的総括から引き返す最大のチャンスだった。


 暴力に関わった者が自分の殴打によって尾崎が死んだと思い、動揺していた。それは森も同じだった。もし、森が、直後に「敗北死」といわなかったら、12名もの同志殺害はなかったはずである。


 尾崎の死が確認された直後の数分間で、森は「敗北死」という、実に効果的な言葉を創出した。「共産主義化」をイデオロギーに、入り口を「殴ることは指導」「殴ることは援助」で暴力に参加させ、出口を「敗北死」で完結させ、ステージを先へすすめてしまったのである。


 森は責任逃れの方便であることを自覚していたし、ほかのメンバーもそれはわかっていた。その証拠に、後に逮捕され、同志殺害を追求されたとき、誰一人として、「敗北死」などといわなかった。罪悪感から逃れるために、「敗北死」にすがりついたのである。


 「敗北死」の理論がまかり通ったのは、外部と遮断された閉鎖空間だったからである。もし、外部とつながっていれば、外部からの圧力によって指導方法が見直されたにちがいない。さらに悪いことには、指名手配者が多かったため、遺体を家族に返すこともなく、秘密裏に埋葬することになった。


 結局、「敗北死」の踏み絵を踏んでしまった以上、メンバーは、贖罪意識を背負って、尾崎以上に頑張り、革命戦士をめざすしかなくなった。途中下車という選択肢は、森によって、「山を降りる者は殺す」と出口を封じられていた。


 この日、榛名ベースに合流した進藤、遠山、行方の3人は、驚くことばかりであったが、次に、おのれにふりかかるであろう総括を考えると、心穏やかでいられるはずはなかった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html


1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html


(進藤隆三郎は榛名ベースに殺されに来たようなものだった)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-進藤隆三郎顔写真


進藤隆三郎(享年21歳)


【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 赤軍派
【学歴】 日仏学院
【レッテル】 ルンペン・プロレタリアート、不良
【総括理由】 金めあての闘争参加。女性関係。逃亡の意思。
【総括態度】 「縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
【死因】 殴打による内臓破裂


(加藤能敬と小嶋和子は外に出され、立ち木に縛られた)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-木立に縛られた加藤・小嶋

※横になっているのは見張りの山田孝と岩田平治


■「山谷物語を聞いてるんじゃない!」(森恒夫)


 全体会議は72年の1月1日に入っても続いたが、正月を迎えるような雰囲気ではなかった。全員の発言がすむと、森氏は進藤氏を批判し始めた。森氏の批判は激しく攻撃的なものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 進藤は、山谷や寿町の寄場で、暴力団手配師との闘争などをしていたところ、寿町で植垣と知り合い、赤軍派のシンパとして活動を共にするようになった。M作戦(銀行強盗) を行う頃には、持原好子と一緒に生活していた。森は精神的に消耗した持原への処刑命令 を出すが、実行されずにすんでいた。


 植垣によれば、進藤は、一緒に活動しているだけで、赤軍派メンバーという意識も薄かったとのことだ。そのため、森に対するリスペクトも少なく、従順というわけではなかったようである。森はそれが気に入らなかったであろう。


 森の進藤への批判は、闘争よりもむしろM作戦(銀行強盗)のために赤軍派に参加したこと、ルンペン的であること、持原との関係で自分も処刑されるかと思ったと話していたこと、などであった。


 進藤は、つきつけられた問題を1つ1つ、重苦しい感じで答えていった。

 私は寝ることを森氏らに断って、被指導部の人たちの後ろに行き、シュラフに入ってすぐ寝てしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このやり取りの中で、森君が、「山谷物語を聞いてるんじゃない」と言って、進藤君の話をさえぎろうとすると、進藤君が、「自分が階級闘争に関わったのは山谷だから」と言って、なおも山谷を中心とした活動を話そうとした場面があった。森君に逆らって自分の意思を押し通すなどということは、容易に出来ることではないので、これは印象深い出来事であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「縛ってくれ」(進藤隆三郎)
 討論は未明まで続き、森は進藤に最終的にどう総括するのか問い詰めた。

 すると進藤君は自分から、「縛ってくれ。自分はその中で総括する」と言った。この言葉は、進藤君の最大限の誠意の表れだった。ところが森君は、「縛ってくれなどと言うのは甘えた態度だ。われわれの方で君を縛って総括を求める」と言って、これをけった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 森君は、われわれ指導部のものに向かって、進藤君を全員で殴打することを提起した。この時、尾崎君のときの殴打に触れ、「ひざで殴ったのはまずかったかも知れない。今度は死ぬ危険がないように手で腹を殴って気絶させよう」と言った。これは森君自ら”敗北死”のペテンを認めるものに他ならなかった。(中略:坂東に命じて縛らせる)

 それがおわると、非常に厳しい口調で、「みんなに殴られて総括を深化しろ!」と進藤君に向かって言った。(中略)
 「自分から縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どれほど眠っていたかわからないが、ドタドタという足音が耳元にし私は驚いて起きた。皆は血相を変えて森氏のあとを追い、森氏と進藤氏を取り囲むところだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森がものすごい勢いで7~8発、続いて山田、坂口、吉野が、腹部を殴った。進藤は、「総括します。分かりました」と言っていたが、やがて失禁をした。


■「革命戦士になるためにこんなことが必要なのか!」(進藤隆三郎)

 しばらくすると彼は、思い余って、「何のためにこんなことするのか分からない!革命戦士になるために何でこんなことが必要なのか!待ってくれ!」と叫んだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 「こんなことで本当に総括といえるのか?」といわれたときには、心臓がドキドキしました。彼のいうことに答えきれる内容があるのか? そんなことを考える自分はやはり森同志のいうように甘いのかもしれないなど、自分にこだわり、自分の頭の中だけが忙しいだけでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、「自分で考えろ!」と突き放した。指導部が殴り終えると、下部メンバーが進藤を殴った。吉野の証言によれば、永田が下部メンバーに殴るようにいったそうである。

 女性メンバーに殴られたとき、進藤君は首を垂れて、「有難う」と言った。すると森君は叩きつけるように、「甘えるな!」と言い、女性メンバーに代わって進藤君の腹部を数発立て続けて殴った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「私には殴れない」(遠山美枝子)
 森は、行方と遠山にも殴るように指示した。彼らは殴れないでいたのである。

 行方氏は森氏にいわれてすぐ殴ったが、その殴り方は森氏ら男の人たちが殴ったときのような激しさはなかった。(中略)


 続いて遠山さんも殴ろうとした。しかし、殴ろうとした遠山さんは、その途中で森氏を見上げて、「私には殴れない」といった。皆は黙っていた。森氏は、「殴れ!」と強い口調でいった。遠山さんは必死の面持ちで進藤氏を数回殴った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 坂口によれば、遠山が殴れないでいると、メンバーは口々に「だらしがない」といって非難したそうである。

 そのうち、私は進藤同志の腹が赤くなっているのに気づきました。同じくらいに森同志も気がついたようでした。森同志は私を呼んで「大丈夫か?」といくらか心配そうにいい、私の方は、「わからないけど、早く気絶させるか、やめたほうがいいと思う。ミゾおちなら早く気絶するかもしれない」といったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 一体、何順しただろうか。このときの殴打もたまらなく長く感じた。終わりの方になると、進藤君の腹部は、赤色のかなりの部分が鮮やかな緑色に変色した。目も当てられぬ惨状であった。多分、内臓破裂したのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「もうダメだ」(進藤隆三郎)
 森によれば30分ぐらいたったところで、中止の指示を出し、外の木立に縛っていくように命じた。

 私、坂東君、山田さん、吉野君等で、進藤君を支えながら、加藤君たちを縛ってある木の近くに連れて行った。この時、進藤君は、喘ぎながら、「自分で歩いていきます。大丈夫です」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 しかし、進藤は途中で力尽き、自分で歩けなくなってしまった。

 この時、私は、「進藤は芝居をしているんだ!」と彼に罵声を浴びせた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂東も、甘えていると腹をたてた、と証言している。

 そのあと指導部会議が開かれた。森は進藤への批判を再確認するように繰り返した。、

 指導部会議を続けていると、岩田氏が、小屋に駆け込んできて、「進藤が、立ち木に縛られてしばらくして、『もうダメだ』といって死んだ」と報告した。私はびっくりしてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は極めて冷静にこの報告を聞いた。私も冷静であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口によれば、報告したのは岩田でなく山田ということになっている。


■「敗北死や」(森恒夫)

 森氏は、進藤氏の報告を聞くと少し考えていたが、


「敗北死や。縛ってくれといえば縛られないと思ったことが見破られ、殴られて縛られたことから共産主義化の為に闘う気力を失ってしまったんや。だからこそ、『もうダメだ』といったあと死んだんや。『もうダメだ』という気力がある位なら、共産主義化のために努力し共産主義化を獲ちとることができたはずや」


といった。この森氏の総括に、私はたしかにそうだと思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は本当にそう思ったのかもしれないが、「敗北死」はもちろんペテンであった。

 私自身、尾崎君の時以上に彼の死が殴ったことに原因するのではないかということを考え、腹部を強く何度も連続して殴るとそのときはすぐに肉体的に表に出なくても致命的な痛手を与えることになるので、今後は絶対そうしないでおこうと思ったりした。

(森恒夫・「自己批判書」)


■「進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった」(永田洋子)


 指導部会議のあと、全体会議を開いた。このときも森の求めに応じて永田が説明した。

 続いて森が進藤への批判を繰り返したが、女性が殴ったのに対し、「ありがとうございます」といったのは、女性をバカにしたものだ、という批判も行った。非指導部のメンバーも、進藤に対する怒りの空気が充満していたようだ。

 こうして、進藤隆三郎氏は、私自身でさえ、なんだかよくわからないうちに榛名ベースで1日もたたずに、暴力的総括によって「殺害」された。進藤氏の死は、腹部への激しい殴打による肝臓破裂だったのである。進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 こうして、同志を信頼せず、同志を自分のことのように考えきれず、おくれた人間として考える私のあり方が、榛名ベースに来て一日もたたずに、殺す事態をもたらしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 死の予感を抱きながら榛名ベースにやってきた進藤君の胸中は察するに余りある。殴打中の進藤君は、驚嘆すべき強靭な生命力を発揮し、その叫びは、総括を求めるわれわれの愚劣さと残酷さを厳しく告発していた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 同志に対する暴力への抵抗は消えていなかったが、「暴力=援助」論 に明確な反論ができない以上、幹部の指示に従わないわけにはいかない。否、むしろ指示がなくとも積極的に振舞わなくてはならない。そんな相反する気持ちの中で、自分は弟とともに最下位の兵士なので、それほど積極的に振舞わなくても大目にみられるだろうとも考えていた。そこで、同志を殴らざるを得ない場合も、強すぎもせず、弱すぎもしないように殴るという態度を取ることにした。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 進藤君の努力を認識しつつも、人間的な感情を押し殺し、共産主義化の戦いの厳しさをのみを観念的に拡大していき、その論理に安住することによって、現実や実際的な人間的感情と乖離していった。私のこうした過程が、ほかのメンバーに巨大な影響を与え、彼らの精神的荒廃をもいたらすまでになっていたのである。
(森恒夫・「自己批判書」より筆者が要約)


■出口のない「総括」と「未必の殺意」

 進藤は榛名ベースに到着したばかりで、新たに批判されるようなことはしていない。つまり、赤軍派時代の批判 がそのまま繰り返された。


 赤軍派時代は、「銃-共産主義化」論 に基づいて、銃の訓練をする程度だったのだが、森のものさしが変わってしまったため、ここでは暴力的総括にかけられたのである。ということは、森にしてみれば、進藤・遠山・行方を榛名ベースに呼んだ時点で、暴力を加えることは、規定路線だった。それゆえ、3名を榛名バースへ呼ぶことを躊躇 していたわけだ。


 革命左派メンバーにとっては、進藤への批判は何もわからなかったはずだが、積極的に関わることが共産主義化に必要なことと信じ、進藤を殴ることにためらいはなかった。このあたりは、新たに参加した赤軍派のメンバーと、はっきりとした心理的対比をなしている。


 坂東は、進藤・遠山・行方を「3人とも総括できている」といって榛名ベースにつれてきた張本人 なのに、かばう気配もなく、森の批判に同調し、進藤を殴っている。このあともそうだが、坂東は、自分の意見を主張せず、常に森の指示を冷酷に実行するのである。


 森は、坂東に「大丈夫か?」と尋ねていることから、殺意があったとは思えないが、腹を「鮮やかな緑色」(坂口)になるまで殴って、状態を確認することもなく、極寒の中、木立に縛りつけたら、死亡するのは当然である。「死んでもかまわない」という「未必の殺意」があったと考えるのが自然であろう(もちろん彼らの手記にはそんなことは書かれていないが)。


 さて、進藤の自己批判の内容はというと、植垣に押し付けられた総括をもとに、事実以上に露悪したと思われる。しかし、露悪することは、総括を認められるどころか、逆に怒りをかう結果となった。後の被総括者もたびたび露悪することになるのだが、それはことごとく失敗に終わるのである。


 黙っていれば「隠している」、反抗すれば「総括する態度ではない」、露悪すれば「反革命だ」、などと、森は出口という出口をふさいでいる。森の手記にも、どうなれば総括したことになるのか、ひとことも書かれていないので、あとから考えても出口はみあたらないのである。


 しかも、進藤への批判は、連合赤軍はおろか、赤軍派に加わる前のことであった。榛名ベースでは、あとから法律を作って裁く 「事後法」 がまかり通っていたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html

1972年1月1日 小嶋和子の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html

(小嶋は何を言っても悪意に解釈された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-小嶋和子顔写真


小嶋和子(享年22歳)
【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 革命左派(中京安保共闘)
【学歴】 市邨学園短大
【レッテル】 ヒロイズム 小ブルジョア急進主義、精神の病
【総括理由】 自己陶酔的態度、加藤能敬とキスして神聖な場をけがした
【総括態度】 「集中していない」「反抗的」「指導部を憎悪」
【死因】 凍死


■メンバーの状況(1月1日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左)
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 外の木立に緊縛中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 外の木立に緊縛中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
遠山美枝子(赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず
行方正時 (赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)


■「小嶋は闇を恐れるから、目かくしをするといいんじゃないか」(加藤三男)

 全体会議が終わった頃、雨が降り出したので、外の木立に縛られている加藤と小嶋を小屋の床下に移すことになった。

 N・K氏が、「小嶋は闇を恐れるから、それを克服するために目かくしをするといいんじゃないか」といった。私は、小嶋さんが真夜中がこわいといっていたのを思い出し、「たしかに小嶋は闇を恐れる」といった。すると森氏が、「革命戦士としては、それは克服させねばならないことだ」といった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このとき、小嶋が1人で歩こうとしなかったことも批判された。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-目隠しをされた小嶋和子


■「総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」(加藤能敬)

 このあと指導部会議が続けられたが、しばらくすると、床下で柱に頭を打ちつけている音がした。それはかなり長く続いた。森氏は、それに対し、「あれは小嶋や。小嶋はあんなことをして総括に集中していないんだ。総括しようとしていないのだ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森と永田が見に行くと、柱に頭を打ちつけていたのは、小嶋でなく加藤だった。

 森氏が、加藤氏の体をゆさぶるようにしながら、「おい、どうした」と聴いた。それは、驚いた声ではあったがやさしいものだった。加藤氏は、「こうしていても、ボヤーとして総括に集中できなくなる。それが悲しい。総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」といった。

 森氏は、「そうか、総括しようとしているんだな。よし、おまえを小屋の中に入れよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 加藤を小屋に入れてから、森は加藤の手を湯につけて揉みほぐしたり、「総括できるのも間近だろう。それまで頑張れ」とはげますように声をかけた。柱にしばるときも、「苦しかったらいってくれ」と少しゆるく縛った。

 床下で頭を柱に打ち付ける音がした時、森氏は「あれは小嶋や」と決めつけ、それを総括に集中していない表われとみなした。ところが、打ちつけていたのが加藤氏とわかると、評価は一転して総括していようとしているとみなしたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 だが、私は、加藤君を床下から部屋の中へ移す段階ですでに加藤君に対しては総括の期待をもっていたが、小嶋さんについては恐らく総括できないのではないかという事、即ち総括できないだろうから死ぬかもしれないがそれでも最後まで可能性を追求してみようという事を思っていた。
(森恒夫・「自己批判書」)

 私は、総括を要求されたものが次々と死んでいく中、兄が総括できそうだと森らに認められたことに胸が熱くなるほどの喜びを感じた。永田は私が嬉しそうな顔をしていると言い、小屋に戻された兄の服を着替えさせようとすると、「兄さんが頑張っているのだから、あなたも頑張らなければいけない」と、私が兄に近づくことを止め、小嶋の見張りにつくよう指示した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


■「小嶋は永田さんを恨んで死んでいった」(森恒夫)


 私と伊藤とで、小嶋の見張りをしていたが、兄が小屋に戻されてしばらくすると、様子がおかしくなってきた。私たちが見張りについたときには、顔を前に向けていたのだが、突然頭をガ
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2022/05/25 (Wed) 10:05:30

■「小嶋は永田さんを恨んで死んでいった」(森恒夫)


 私と伊藤とで、小嶋の見張りをしていたが、兄が小屋に戻されてしばらくすると、様子がおかしくなってきた。私たちが見張りについたときには、顔を前に向けていたのだが、突然頭をガクンと垂れてしまった。その様子を見た伊藤が私に、「森さんたちに報告してきて」というので、小屋の中に急いで行き、小嶋の様子がおかしいと報告した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 森や永田たちが、あわてて様子を見に行き、人工呼吸を施すが、小嶋が息を吹き返すことはなかった。

 森氏は、小嶋さんの顔を見ながら、「怒ったような顔をしている。永田さんを恨んで死んでいったんやろう」といった。私は意味が分からず、「エッ」といった。森氏は、「あたりまえじゃないか。それがわからないのか」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 最後に彼女の様子がおかしいという事で我々が床下へ行った時、彼女はすでに絶息していたが、口を大きく開けて目を見開き点をにらみつける風な感じで恐らく死ぬまで我々のことを憎悪していたと思われる程であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「死をつきつけても革命戦士にはなれない」(山田孝)
 そのあと指導部会議を開いたが、会議は重苦しく沈痛なものだった。森もすぐには「敗北死」とは言い出せないでいた。

 そうしたなかで、山田氏が、森氏に体を向けて指をさし、少しきつい調子できっぱりと、「死は平凡なものだから、死をつきつけても革命戦士にはなれない。考えてほしい」といった。(中略)

 山田氏は森氏をジーッと見つめ、森氏は考えるような感じで山田氏の目をはねつけていた。2人は火花が散るほど対立し合っていたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、山田さんに共感したが、助け船を出すことも出来ず、成り行きを見守った。2人はジーッと睨み合っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 そのうち、森氏は、断乎とした強い調子で、「いや、そうではない。死の問題は革命戦士にとって避けて通ることの出来ない問題だ。従って、精神と肉体の高次な結合が必要である。そのために、今後は心理学と医学を学ぶ必要がある」と主張した。山田氏は、「ウーン・・・精神と肉体の高次な結合か。よし、わかった」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「共産主義化には精神と肉体の高次な結合が要求される」(森恒夫)

 森は、小嶋の死は、共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北へとつながったと説明した。

 森氏はさらに、「小嶋は最後まで総括しようとしなかった。だから、死顔は恐ろしい顔をしてにらんでいたのだ。だいたい、あの直前まで元気だったのに急に死んだのは敗北死をよく示している。小嶋は加藤が小屋にあげられ自分だけが床下におかれたため、絶望して敗北死したんだ。共産主義化は精神と肉体の高次な結合が要求されているのだ」と主張した。山田氏はうなずいた。森氏のこの主張に皆もそうかという様子になり、それまでの沈痛な雰囲気が急速に薄れていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「精神と肉体の高次な結合」とは、共産主義化しようとしていれば、寒くても凍死しないし、食べなくても餓死しないし、銃で撃たれても死なない、という荒唐無稽な精神主義である。

 それ故、暴力的総括要求による死はすべて、「肉体と精神の高次な結合」を獲ち取れなかった「敗北死」ということになるのである。(中略)しかし、共産主義化に必死になっていた私たちは、ひたすらそのために「努力」し、その荒唐無稽さを考えもしなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 現実に価値をおかず、同志の痛みを自らの痛みとしえない同志愛、人間愛の欠如が、死すら精神で乗り越えるという極端な論理を作り、これをもって同志の死を無視したのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 我々はその後前述の様に2人の死亡でどの様な違った方法を考えるべきか討論していたが、結局、具体的な回答は出なかった。ただ、今までの殴る-縛るという方法が全く間違いであったという事で問題にしたのではなかった事、革命戦士にとっての"死"の問題は必ず英雄的な気概によって乗り越えなければならない問題であり、でなければ殲滅戦はとても闘い抜けない事、従って死に対する恐怖を払拭し、いつでも権力に死を賭けた戦いを挑む準備がなされていなければならず、縛られてからでも「自分が死ぬのではないか」と考えたり「死にたくない」と思ったりする事がすでに敗北のはじまりであると確認されていった事から、2人の死亡に直面して何とかこうした方法以外の方法を見つけ出そうとすることが考え出されなかったことは当然であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた」(永田洋子)

 全体会議では、永田が小嶋の「敗北死」を森の主張の受け売りで説明した。しかし、さすがに3人もの「敗北死」は、割り切れない思いがあったようで、全体会議は盛り上がらなかった。

 それぞれの発言は「敗北死」の規定を追認し、自分は共産主義化した革命戦士になると決意表明するものがほとんどだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さん、行方氏は、暴力的総括要求の現実と死者の続出の緊張感にすっかり落ち着きをなくしていた。特に、遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた。行方氏は、そういうなかでも動揺してはならない、元気でいなければならないと思って必死に努力しているようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「何の根拠ももたない残酷な制裁-憎悪に対する憎悪」(森恒夫)
 森の「自己批判書」を読むと、小嶋のいった言葉や態度をいちいち悪意に解釈して、それを解説している。「彼らの名誉回復の為に」といっているわりには、もう一度「総括」をやりなおしている感じである。


 この日も永田が指摘しているように、頭をぶつけているのが、小嶋だと決めつけ、「総括に集中していない」と悪意にとらえ、加藤だとわかると、「総括しようとしている」に変わった。


 「小嶋さんは殴られしばれても決しておとなしくはせず、毅然として自分の意見や要求をはっきり説明していた」(永田洋子)という。つまり、最後まで屈服はしなかった。それが、森にとっては、「反抗的」と映り、気に入らない存在だったのであろう。


 それを認めるように、森は小嶋について最後にこう述べている。

 彼女(小嶋和子)については・・・(中略)・・・何の根拠ももたない残酷な制裁-憎悪に対する憎悪でしかあり得ない。
(森恒夫・「自己批判書」)


 だが、この一文にしたって、「憎悪」は小嶋が先と決めつけている。その上、「でしかあり得ない」と、対岸の火事を眺めるか如きなのである。


 それに加えて残酷だったことは、メンバーのおそらく全員が小嶋を蔑視し、無視するようになっていたことである。


■またもや歯止めをかけるチャンスを逃した
 この日、山田が、「死をつきつけても革命戦士にはなれない」と、森との対決姿勢を示した。山田のほうが森より、赤軍派的には立場が上(赤軍派発足時の組織図)だから、暴力や緊縛をやめさせるチャンスだった。だが森はまたしても、「精神と肉体の高次な結合」という言葉を生み出し、イデオロギーと言葉のパワー によって、山田の抗議ををはねつけてしまったのである。


 山田がどういう気持ちだったのかはわからないが、彼は、この言葉によって、振り上げたこぶしをいとも簡単に納めてしまった。理論家の山田が納得したとは思えない。もし、誰かが山田の援護射撃をすれば、暴力と緊縛に歯止めがかかった可能性もあった。


 こうして、尾崎充男が死亡して、「敗北死」の踏み絵を踏んだときに続いて、またしても歯止めをかけるチャンスを逃してしまった。

 かくて、尾崎君の死を精神的な敗北としたことは進藤、小嶋さんの死によってますます純化され、意識的に死の恐怖に対する挑戦を要求することが必要であるという地点に迄至ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 かくて、森の脳内理論は暴走しつづけるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html


1972年1月2日 植垣・山崎・青砥が榛名ベースへ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

(指導部はカーテンで仕切られたコタツにこもりっきりだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議
 前日(1月1日)は、進藤隆三郎、小嶋和子が相次いで「敗北死」し、尾崎充男と合わせて犠牲者は3名になった。自分たちの行動が、目指したことと、つじつまの合わない結果が出れば、そこで立ち止まり検証するのが普通である。


 しかし森は、「敗北死」や「肉体と精神の高次な結合」という言葉を放って、見事につじつまを合わせてしまった。合理的に考えれば、そんなことがあるはずがないが、それは誰にとっても免罪符になったから、メンバーは異議をとなえるどころか、進んで受け入れてしまったのである。


 ただし、それは同時に、自分が「敗北死」する可能性を受け入れるということでもあった。「敗北死」を逃れる方法はただひとつ、共産主義化を達成して、革命戦士になることであった。


 1月2日には、残りの赤軍派メンバー(植垣、山崎、青砥)が榛名ベースへやってくる。植垣が榛名ベースの雰囲気を伝えているのでそれを紹介する。


■メンバーの状況(1月2日・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍) 独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左) 学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左) 永田とは夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍) 暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍) 森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左) 1月2日 東京経由で榛名ベースに戻る。
吉野雅邦 (革左) 暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左) 会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左) おしゃれ(パンタロン)や男性関係を批判される。
杉崎ミサ子(革左) 革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左) 断固とした態度で暴力に加わる。
岩田平治 (革左) 言動が森に評価される。
山本順一 (革左) 運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左) 山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左) 永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 長男。小屋内の柱に緊縛中。
加藤倫教 (革左) 次男。兄の様子が心配。
加藤三男 (革左) 三男。兄の様子が心配。
遠山美枝子(赤軍) 死者続出に動悸が激しくなり落ち着かない様子。
行方正時 (赤軍) 死者続出に必死に動揺を抑えている様子。
植垣康博 (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
山崎順  (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
青砥幹夫 (赤軍) 1月2日 東京経由で榛名ベースに合流。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)


■「前沢氏になんでもない風に装った」(植垣康弘)
 赤軍派の植垣康弘と山崎順は、新倉ベースの後始末(指紋消しなど)を行った後、1月2日の昼ごろ榛名湖のバス停に到着した。しばらくして、前沢が迎えに来た。

 前沢氏は、道々、付近の地理を案内してくれたが、その際、すでに2名が死んで小屋の近くに埋められていること、その1人は進藤氏であることを語った。私は、目まいを感じるほど驚いたが、彼がそのことをこともなげに語ることにも驚いた。ある程度予感していたことが、現実のものとなったことに強い圧迫感を受けた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 前沢は「敗北死」の説明をしなかったので、植垣は、2人は総括できないため殺されたと解釈した。

 しかし、私は、これに敗けてはならないと想い、前沢氏になんでもない風に装った。というのは、彼の態度があまりにも堂々としていて、2人の死に驚いているようではダメだといっているようなものだったたうえ、前沢氏が私たちの様子を観察しているようだったからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 大槻さんに再会できる喜びは大きかったものの、彼女に批判されるのではないかという恐れも一段と大きくなり、どういう顔をして彼女にあったらいいか困ってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、12月の共同軍事訓練のとき、革命左派の大槻節子に恋心を抱いたのだが、夜中に大槻に困ったことをしていた 。


 そのため、より総括の厳しくなった榛名ベースにおいては、彼女に批判されるかもしれないと、心配していたのである。


■「森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していた」(植垣康弘)
 大槻への心配は杞憂に終わり、彼女は植垣を笑顔で迎えた。

 しかし、小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんも共同軍事訓練のときのようなはつらつとした感じが見られなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、柱に縛られている加藤に気づいた。そして、おびえたような顔をしている遠山と行方に声をかけるが、2人には返事をする余裕もなかった。すると、森は、「こっちへ来い」と、植垣と山崎を指導部のこたつに呼んだ。

 私は、立ったまま、森氏に、「来ました」と挨拶したが、森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していたうえ、ほかの指導部の人たちも同じような目つきをしていたので、その威圧的な雰囲気に圧倒されそうになった。しかし、踏ん張って何気ない態度を装った。だが、山崎氏は少し萎縮し、態度がぎこちなく、森氏の威圧的な態度に圧倒されそうになっていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は森に新倉ベースの後始末を完了したことを報告した。そして永田に促されて、メンバーひとりひとりに挨拶をした。

 この時、私は、縛られている加藤氏に挨拶しなかった。私自身のなかに総括要求されている者を差別する気持ちがすでにあったのである。加藤氏を除く全員に挨拶を終えて指導部のところに戻ると、永田さんが、「もう一人忘れてはいない?」といった。私は、加藤氏を差別したことをつかれたように思い、あわてて加藤氏のところに行って、「植垣です。よろしく頼みます。大変でしょうが頑張ってください」と挨拶した。加藤氏は、「加藤です。こちらこそ」と答えた。このやりとりがおかしかったのか、その場にいた皆が笑った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「山田氏や坂東氏も威圧的になり、永田さんもよそよそしくなっていた」(植垣康弘)


 ベース内の雰囲気には、あまり暗さはなかったが、非常に緊張しており、それが全体を重苦しくしていた。旧革命左派の家族的雰囲気はなくなり、指導部と被指導部の区別が旧赤軍派の時以上にはっきりし、指導部に近寄りがたい威圧感があった。


 森氏に進藤氏のことを聞いてみても、「そのうちわかる」としか答えず、声をかけることさえはばかられる有り様だった。山田氏や坂東氏も、それまでの気楽に話せる親しさがなくなり、威圧的な」態度をみなぎらせていた。


 永田さんも、以前にはよく被指導部の人たちと一緒に話していたのに、指導部のこたつにおさまっていて、すっかりよそよそしくなっていた。


 指導部一人ひとりの性格までかわってしまったかのようだった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「大槻さんは女まる出しだ」(森恒夫)
 夜、全体会議が始まった。

 私は、自己紹介したあと、進藤氏の死は彼を総括させられなかった自分の責任である、M作戦には反人民的行為など多くの問題があり、それを今後総括して行きたい、丹沢での痴漢行為 は女性同志を女としか見ていない女性蔑視であり、謝罪すると自己批判した後、勇気を出し、思い切って、「新たな問題として、共同軍事訓練の時、大槻さんを好きになってしまったことがあります。大槻さんと結婚したいと思ってます」といった。


 私は、この時、激しく批判されるのではないかと覚悟していたが、皆は驚いたような顔をしただけで、何もいわなかった。大槻さんはひどく恥ずかしそうにうつむいた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森氏は、「お、いいじゃないか」といった。ところが、私は、(中略)「大槻さんには渡辺との関係の総括、向山との関係の総括が問われているのだから、これらをぬきに当面結婚は考えられない」といった。すると、森氏は、「お、いいじゃないか」といったのを忘れてしまった如く、植垣氏と大槻節子さんの結婚は当面ではなく、絶対考えられないように主張しだした。私はこの森氏の変化に面食らってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 渡辺と向山とは大槻の以前の恋人である。渡辺は上赤塚交番襲撃事件 で逮捕され、向山は、すでに処刑されていた(印旛沼事件 )。


 これまでもずっとそうだったのだが、森は、永田が厳しいことをいうと、それにかぶせるように、より厳しいことをいった。


 一般に、同じ思想を持った集団では、より過激な意見に反対するのは難しい、といわれている。森は常に一番過激な意見をいって、その場をリードした。

 続いて、山崎氏が自己紹介し、組織関係を利用して女性をはき捨てるように利用してきた。運転手の地位に安住し、それ以上のことをやろうとしなかったと自己批判した。私も山崎氏も批判されなかったので、ホッとしたものの、進藤氏したちへの非常なきびしさを思うと、批判されなくてもいいのだろうかともやもやした気持ちが残った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 続いて皆が自己紹介した。

 この自己紹介のなかで、大槻さんが、やはり恥ずかしそうに、「植垣君にはヴァイタリティがあります。植垣君の申し出を素直に受け止めたい」といった。今度は私がうつむいてしまう番だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 ところが、この時、森氏が指導部の者にいうように、「大槻さんは女まる出しであり、総括よりも男女関係の方を優先させている。総括なんて考えていない態度だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻に対する森の批判について、革命左派時代に一緒に活動した京谷明子は以下のように述べている。

 (大槻さんは)とっくの昔に「革命家の女 」なんですよ。たまたま女だっただけであって、男だ、女だと言ってない。(中略)
 大槻さんは綺麗だったから、女としてみていたのは森さんであって、大槻さんはぜんぜん自分は女だという意識はなかった。京浜安保は、女のほうがずっと勇敢だったんです」
(京谷明子・「情況2008年6月号」 京浜安保共闘の女性たち)


 「京浜安保共闘」というのは、「革命左派」の合法部隊の名称である。


■「『敗北死』という言葉がにわかには理解できなかった」(植垣康博)

 自己紹介がすむと、森氏、植垣と山崎に、「2人は圧倒的に遅れている。しばらくの間、皆から教われ」といった。そのあと、永田が小嶋の「敗北死」について総括した。

 私は、まだ死者がいることに驚いたが、「敗北死」という初めての言葉がにわかには理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「スプライトを飲んだことを自己批判する」(青砥幹夫)
 全体会議の最中、寺岡と青砥が榛名ベースに帰ってきた。青砥は始めての榛名ベースである。寺岡も青砥も、死者が出たことは、このとき初めて知ったはずである。

 青砥氏は各自の発言が終わったあと自己紹介し、新党結成の指示を表明した。また、東京に行った時にスプライトを飲んだことを自己批判し、「これまで金遣いが荒く無駄な活動が多かったけど、今回、寺岡さんと一緒に東京に行って行動を共にするなかで、節約の精神を身につけることが出来た」と発言していた。


 私ははたしてスプライトを飲んだことを自己批判することが共産主義化に必要なのだろうかと思い、あっけにとられた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は青砥は、革命左派の女性との関係について自己批判すべき問題があった。だが、この時は、わざわざスプライト(炭酸飲料水)を持ち出して、さしさわりのない自己批判でやりすごしたのであろう。


■榛名ベースは異様な緊張感につつまれていた

 この日、合流した赤軍派3名は、これまで森にそれほど厳しい追求を受けていなかった。それは3人が責任をしっかり果たしていたことと同時に、それぞれの存在価値があったからだと思われる。


 植垣は爆弾製造や戦闘能力にすぐれ、青砥は合法部とのつなぎ役として、山崎は車の運転ができた。当時、まだ車が少なかった時代なので、運転免許を持っている者も少なく、このときのメンバーで、ほかに運転免許を持っているものは、山本順一だけだったと思われる(小嶋和子も運転手役だったがすでに死亡している)。


 彼らは予感していたとはいえ、榛名ベースの異様な緊張感に驚いた。ましてや、道中、進藤の死を聞かされたから、圧倒される思いだったに違いない。


 これで現状において、集められるメンバーが揃った。ということは・・・・・あとは減る一方なのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

84. 中川隆[-11454] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:33:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[541] 報告
▲△▽▼
1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要
https://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

(遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真


 今回は1月2日の続きである。


 遠山美枝子が総括要求されるのであるが、遠山への批判は、過去のものと全く変わりがない。そこで、まずは、遠山美枝子について、これまでの経緯をまとめておく。


■遠山美枝子が榛名ベースへやってくるまで

 遠山は明治大学時代、重信房子の親友になり、赤軍派で主に後方支援や救援活動を行ってきた。


 重信がパレスチナへ 旅立ってからは、『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というプロパガンダ映画の上映会を行っていた。後の「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三がこの映画の影響を受け、事件を起こすことになる。


 遠山は、当時の赤軍派の幹部・高原浩之と結婚していたため、周りが幹部夫人として一定の敬意をはらい、特別扱いされていた。これは、遠山に限らず、赤軍派伝統の慣習的なものだった。


 その遠山が、1971年11月に、革命左派との共同軍事訓練 に参加した。軍の闘争や非合法活動に縁の遠かった彼女が、なぜいきなり共同軍事訓練に参加したのかは、はっきりしていない。森が人数合わせのために呼び寄せたという説や、救援活動に役立てるための見学のつもりだったという説がある。

(後に紹介するが、総括では、別の理由だと、決めつけられてしまう)


 遠山は、訓練にもついていけなかったし、服装や訓練に対する姿勢なども、それらしくなかった。それを革命左派メンバーに厳しく批判された。これを 「遠山批判」 という。遠山批判は、その前日に 「水筒問題」 で赤軍派に批判された革命左派が、赤軍派に対してカウンターパンチを放ったものだった。党派的な争いの手段としての批判だったのである。


 ところが、森は、遠山をかばうことなく批判をじっと聞いていた。森は、革命左派の吊るし上げともいえる集団的批判こそ 「共産主義化」 の実現方法であると考え、翌日には、森のほうから、遠山に対して、赤軍派時代の闘争へのかかわり方を糾弾 しはじめた。


 森の批判が、革命左派のそれと違っていたのは、過去の活動への批判だったことだ。これが、いわゆる 「総括」 の始まりであった。


 革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。


 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。


 共同軍事訓練が終わり、森が榛名ベースへ行った後も、遠山はずっと批判され続けていた 。ただし、このときまでは 「銃-共産主義化論」 に基づき、銃の構え方の訓練をえんえんとやらされるだけですんでいた。


 森は、榛名ベースに来てから、共産主義化に、 「殴ることは指導である」 「殴ることは援助である」 という理論を組み立て、総括に暴力を取り入れた。そこへ遠山たちが榛名ベースに呼び寄せられたのである。


 遠山が、榛名ベースについてみると、すでに死者が出るほどの殴打や緊縛が行われているのを目にした。そして、遠山と一緒に榛名ベースにやってきた進藤隆三郎が、その日のうちに殴打によって死亡 してしまった。


 遠山の緊張は極限まで達し、落ち着きがなくなった。ちなみに遠山とともに榛名ベースに合流した行方正時も、革命左派による批判こそなかったものの、ほぼ遠山と同じ経緯をたどっている。


 赤軍派で2軍扱いされていたメンバー3人(遠山・進藤・行方)は、何も変わっていないのだが、森のほうが変わってしまっていたのである。


■「小嶋のようになりたくない。・・・・・死にたくない」(遠山美枝子)

 森氏は、「遠山にはちゃんと批判しなければならない」といって、遠山さんを批判していった。
  「小嶋の死を自分が総括する立場からどうとらえているんや」
  「革命戦士になろうとしなかった者の敗北死だ。私は革命戦士になって頑張る」
  「革命戦士になって頑張るというだけでは総括にならん。どう革命戦士になろうとするのか」
 遠山さんは革命戦士になることに決めているとか、革命戦士になるつもりで榛名ベースに来たなどといったことを答えたが、森氏はそう答える度に強い口調で、「違う!」「そんなのは総括じゃない!」と批判した。
 そのため、遠山さんは答えることができなくなって黙ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そこで、森君は、彼女が榛名ベースに来てから初めて所持金を提出したこと、髪の毛を短くカットしてこなかったこと、従来の彼女の組織活動に対する関わり方が、闘争と組織のためというより、個人的な関心によってなされていた要素が大きいこと、合法活動のなかで権力との接触によって、精神的、肉体的に大きな負担を負うようになり、とても殲滅戦を闘い抜ける力を持っていないこと、さらに合同軍事訓練のとき、腹部に衝撃を受けたと言って訓練を中止し、ずる休みをしたことなどの点を列挙して詰問した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 すると、被指導部の人たちが、口々に、「黙っていないでなんとかいえ!」「総括する気があるのか!」などといいたてた。遠山さんは、落ち着かない様子でそのようにいう被指導部の人の方をキョロキョロと見ていたが、そのうち思いつめた表情で、「小嶋のようになりたくない。・・・・・とにかく生きたい。・・・・・死にたくない。・・・・・どう総括したらいいのかわからない」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせ総括させよう」(永田洋子)


 森氏は、遠山さんの発言に強い調子で、「我々にとって生きることは、革命戦士になって生きぬくことでしかない。『死にたくない』というのは、死にたいしてのブルジョア的な恐怖心であり、そのことをいうこと自体すでに敗北死の始まりだ。柴野君のように死ぬ ことが革命戦士として生きることなのだ」と批判した。


 私はその通りだと思った。森氏はこのあともさらに追求していったが、遠山さんは、顔面を蒼白にさせて、「死にたくない」「生きたい」と答えることしか出来なくなってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、森氏の追及は、遠山さんを追い詰めるだけで総括させることにならない。これではまた暴力を持ち込むことになるだけだ。実践によって総括させるのが一番よいと思い、指導部の人たちにいう感じで、「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせる実践によって死に対する恐怖を克服させ、そうして総括させよう」といった。森氏は、「それはいい」と答えた。(中略)


 遠山さんは、それまでの追い詰められた様子とはいくらか違って、しっかりした声で、「総括できないときの敗北は死だ。これを乗り越えるために、小嶋の死体は私が埋めに行きます」と表明した。私は、これを聞いて既に半分総括できたと思い、「死体を埋める実践によって総括しなさい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 これは、小嶋さんの敗北死を直視させて決してこういう道を選ばないという決意をさせる事によって、敗北的な傾向を払拭させる目的でそうしたのだが、(中略)彼女を本当に革命戦士にするような方法では全くなく1つの制裁にすぎなかったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「僕もやります。僕もそうして総括します」(行方正時)


 遠山さんが立ち上がりかけると、行方氏が、「僕もやります。僕もそうして総括します」といって立ち上がった。(中略)
 この時、寺岡氏が、「その実践が真に総括しているものかどうかを皆で確認しよう。皆で行ったほうがいい。そうして、遠山さん、行方君の総括を援助しよう」といった。すると、森氏がすかさず、「死体を埋めるのは遠山がやり、行方はそれを手伝え。他の者は手をだすな」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 皆が出かけていったときには、もう3日の午前一時になっていた。


■「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」(森恒夫)
  被指導部のメンバーも、遠山の沈黙を、「総括する態度ではない」とみなし、口々に彼女を批判した。では、何といえばよかったのかというと、おそらく誰にもわからなかった。


 なにせ、森は、「自己批判書」において、遠山に対して、「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」と書いている。さまざまな決め付けとは、男を手段化した、親への依存心が組織では官僚的な態度になる、男性にこびを売る、などである。


 そして、「心理的な問題を拾い上げては恣意的な判断に組みたて、精神的に彼女を縛り上げる残酷な詰問を何時間も行った」と証言しているのである。


 はじめから、「恣意的な決め付け」なのだから、何をいえばいいのかわかるはずがない。遠山は一生懸命言葉を探すが、何をいっても詰問を繰り返される運命だったのである。


 永田は、遠山への総括要求が行き詰ったと見るや、機転を利かして新たな展開に持ち込んだ。だが、小嶋の死体を埋めたからといって問題が解決するわけではない。助け舟を出したのだが、それは向こう岸まで渡れるものではなかったため、追求を一時中断させるものでしかなかった。


 そして、遠山が、小嶋の死体を埋めて戻ってきたあと、遠山を待っていたのは、目をそむけたくなるような制裁だった。


 否! 目をそむけることさえ、遠山は許されなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


(指導部はコタツ、メンバーは土間のストーブの周りが定位置だった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・榛名ベース
 


 遠山美枝子は小嶋の死体埋葬を強要されていた。


 森と永田と、しばられている加藤能敬以外は、遠山の死体埋葬作業を見守るため、遠山に同行した。


■「こんなことをやっていいのか?」(植垣康博)

 遠山と行方は小嶋の死体を引きずるようにして沢の上まで運んでいった。他のメンバーは、懐中電灯で2人の足元を照らしながら、「頑張れ、頑張れ」と声援を送った。

 その光景はそうみても異様だった。しかし、その異様な事態のなかで、誰もが死をめぐって何の動揺もなく動いていること、遠山さんさえ死体埋めにちゅうちょしなかったこと、むしろ、私自身の方がその異様な事態に驚いてしまっていることから、なるほど私の方が遅れていると思ってしまい、山崎氏に、「俺たちのほうが相当遅れているな。本当に圧倒されちゃうよ」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私は、坂東氏をつかまえて、「こんなことをやっていいのか?」と聞いた。私は、それまでの気安さで、坂東氏とよく話し合ってみたかったのである。ところが、坂東氏は、ぶっきらぼうに、「党建設のためだからしかたないだろう」としか答えなかった。私の意見に耳を傾けていたそれまでの坂東氏とまったく違っていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、榛名ベースにきて間もないので、死体運びに付き合うメンバーに対して違和感を感じている。榛名ベースのメンバーはすでに3人の死者を出していたから、免疫ができていたのである。


 それが、彼らの論理では、「遅れている」ということになるらしい。よく話したり、冗談をいったりした坂東も、すでに昔の坂東ではなくなっていた。


■「小嶋の死体を皆で殴れ」(寺岡恒一)


 死体を埋める場所まで運んでくると、遠山は、いきなり死体に馬乗りになり、顔面を殴り始めた。やり場のない怒りをぶつけたようだった。しかし、皆に早く穴を掘るように促された。穴を掘り終わると、死体の衣服を脱がせた。

 そのあと、遠山さんは、再び死体に馬乗りになり、「私を苦しめて」「私は総括しきって革命戦士になるんだ」といいながら、死体の顔面をしばらく殴っていた。
 この時、寺岡氏が、「よく見ろ。これが敗北者の顔だ。こいつは死んでも反革命の顔をしている。こんなやつが党の発展を妨げてきたんだ。こいつを皆で殴れ」といった。


 皆が小嶋さんの死体の顔を1,2回ずつ殴り、私も、妙な気分のまま1回殴ったが、皆が殴っている最中、寺岡氏は、「だんだん死人の顔になっていく」といっていた。


 皆が殴り終わってから、遠山さんと行方氏は、小嶋さんの死体を穴の中に入れて土をかぶせた。そのあと、皆で枯葉や枯れ枝を土の上にばらまき、小屋に戻った。その頃は、もう午前3時を過ぎていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「敗北死は反革命の死ではない」(森恒夫)

 午前3時頃、山田氏と坂口氏の2人が深刻そうな顔をして戻ってきた。そして、山田氏が、「非常に問題なことが起こった。寺岡君が小嶋の死体を皆に殴らせた」と報告した。坂口氏がこれにうなづいた。
 森氏は、「ナンセンスだなあ。もう死体になっているのだから、総括など関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ」と繰り返しいっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、戻ってきた寺岡に質問した。

 「どうして、皆に小嶋の死体を殴らせたのだ?」
 「小嶋の死は反革命の死だと思ったからだ」
 「敗北死は反革命の死として処理することは出来ない。死んでしまえば単なる物体だから、もう総括と関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ。このことはちゃんと総括しておくように」


 この時、森氏は反革命の死として処理することがどうしてできないのかを説明しなかったが、問題なのは新倉ベースから東京にまわっていたため、寺岡氏は、「敗北死」の規定についてほとんど知らなかったということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 寺岡は、革命左派では軍のリーダーであり、連合赤軍になってからも断固とした態度をとってきた。ところが、赤軍派メンバーを迎えに新倉ベース行ったあと、東京を回っていたため、3人の敗北死に立ち会っていなかったのである。


 だから、永田が指摘しているように、「敗北死」の規定を知らなかった。そのため、小嶋の死を「反革命の死」としたのであろう。「反革命」とは、革命を目指す側の人間に対し、「反抗者」という悪い意味でのレッテル貼りに使われる言葉である。


 この一件は、あとあとまで寺岡が批判されることになる。


■「とにかく自分の力で埋めました」(遠山美枝子)

 全体会議を始めると同時に、森氏は遠山さんに、「小嶋を埋めにいったことについて総括しろ」といった。遠山さんは、「最初は怖かったし、重かったし大変だったけど、とにかく自分の力で埋めました」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山はともかくやりきったということで、追いつめられた気持ちを払拭できたようだった。

 ところが、この時、遠山さんの様子に注目していた森氏が、指導部の者に、「おかしい。遠山は死体を埋めたことをそんなに恐ろしがっていない。どういうことや」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森はなぜおかしいと思ったかというと、、、

 というのも、我々が前に述べたように、総括の発展を促すといいつつ、実際的には制裁としてあの異常な作業を提起したが故に、彼女がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準であると思い込んでいたり、そこではじめて極限的な精神的解体-再生のの歩みがはじまるのであり、意識的にこの精神(=古い個人)の解体を迫ることなしに人間的情愛(涙等)の獲得もないと思っていた為である。
(森恒夫・「自己批判書」)

 これは、遠山さんが、遺体運びをなし切ったものの、それによって獲得したはずの共産主義的変革(革命戦士への変革)が態度に表れないのはおかしい、と思ってのことである。この森君の観察は、私の観察と異なる。遠山さんは辛い作業をやり終えて、自信に満ちた顔をしていたのである。だが、私は森君に異議を挟むことはしなかった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、あわてて遠山さんに、「知り合いの人の死に接したことがあるの?」と聞いた。遠山さんは、「おばあさんの死に接しました」と答えた。
 森氏は、「それでわかった。だから、恐ろしがらなかったんだ」と指導部にいったあと、遠山さんをさらに追及していった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「遠山は単なる死体として小嶋を見ていたにすぎない。革命戦士の敗北死として見ていたなら総括できるはずだ」と決めつけ、「遠山が死体を殴ったことも、嫌なものに対する憎悪か演技でしかない」と冷たく言った。
 自信に満ちた表情をしていた遠山さんは、一転して暗い顔になり、押し黙ってしまった。こうして”共産主義化"に基づく森君の一方的な判断によって、遠山さんの驚異的努力は、一瞬にして否定されてしまうのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「小嶋みたいになりたくない!」(遠山美枝子)


 このあとも追求はかなり長く続き、森は遠山の総括を、「芝居をしてるんじゃないのか」「お前は自分の問題を明らかにしようとしていない」 などと、ことごとく否定していった。


 遠山は、黙ってしまった。皆は例によって、「何とかいえ!」「いつまで黙ってるんだ!」といいたてた。
 そのとき、やはり総括を要求されていた行方が、突然、「あんたの顔には表情がない!判った、あんたの顔は小嶋の顔と一緒だよ!」といった。行方の言葉は、なんとか総括してほしいという願いをこめたものだったのだが、、、

 遠山さんは、ワーッと泣き出し、
「なりたくない!なりたくない!私は小嶋みたいになりたくない!やだもん、あんな格好で死んでいくのは!・・・何を考えていいのかわからない。頭の中を死がぐるぐる回っている!」
といった。
 森氏は冷たくつきはなすように、「死にたくないなら総括せい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■間違った「善意」と「弱者」のレッテル貼り
 「地獄への道は善意で舗装されている」という。


 榛名ベースでは、共産主義化の論理
が支配していたから、主観的には、善意で遠山を総括させようとしていたと思われる。それは、違和感を感じていた植垣でさえ、すぐに善意で舗装された道を歩みはじめたことからもわかる。


 「間違った善意」ほどたちの悪いものはない。「ストレートな悪意」なら歯止めがかかる可能性があるが、「間違った善意」は、それが正しいと信じているがゆえに、歯止めがかからないのである。


 そして、メンバーは、総括にかけられた者を、自分とは区別するために、「弱者」というレッテルを貼って、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖をやり過ごしていた。


 だから、森の一方的な決めつけに対し、遠山を弁護する者は誰ひとりいなかった。すべてを否定されてしまった遠山の絶望は察するに余りある。


 そして、森の次のひとことが、絶望している遠山をさらに地獄へ突き落とすのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」-女らしさの破壊
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

(遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

 今回は、連合赤軍事件の中でも、もっとも残酷で、書くのも辛い話である。


 小嶋の死体を埋めて戻ってきた遠山は、何を言っても、ことごとく否定された。

 遠山は、黙ってしまった。


■「自分で自分の顔を殴れ!」(森恒夫)


 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」


こうして、あれよあれよという間に遠山さんにたいし、自分で自分を殴らせることが決まってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 彼女が意識的に涙ひとつ出さず歯をくいしばってこの異常な残酷な要求を遂行したことをこうして否定した上で、我々は彼女のブルジョア的女性の解体を迫り、自分の手で自分の顔を殴ることを要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)

 森同志は、このとき山田同志と私(それから、他にも同志がいたと思いますが)を呼び、「これまで、尾崎、進藤同志のように殴ると敗北死すること、それに遠山同志は人に頼ろうとするから、何も援助せず自分で全部でやらせろ」と言ってきたわけです。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 遠山さんは、最初は躊躇していたが、突然、両手で自分の首を絞めようとした。森君がすぐ、「それは止めろ」と言って、止めた。すると彼女は、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。(中略) 遠山さんの自己殴打の場面を描くのはつらい。それは、見るに耐えぬ残酷なものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 遠山が両手で自分の首を絞めようとしたのは、自殺を考えたものとみられる。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。これは自分の唇に自身を持っているからとの理由で命じたと記憶している。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 酷い話だが、「唇を殴れ」でわかるように、どうやら目的は、遠山の顔を醜くすることなのである。


■「顔はボールのように腫れ上がった」(坂口弘)


 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 その中で私は、「顔を殴れ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 ここからが、皆が、「嫌な気分になった」と証言するところである。

 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。同性に対するこの仕打ちに私は腹が立った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 しゃがみこんでしまった遠山に、永田が鏡を見るように命じ、「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」と言いながら、鏡を見ようとしない遠山に鏡を見ることを何度も強いた。


 私は、この永田の行動に驚いた。永田が自分の容姿にコンプレックスを抱いているだろうとは以前から思っていたが、これでは、まるで白雪姫と魔女の世界ではないか。あるいは絶対的な権力を握った暴君が、非力な被支配者をいたぶるという図式ではないかと思ったが、永田に疑問を呈してもすべては総括させるためと言うに違いなかった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田自身は、次のように証言している。

「あんた、今の顔どんなか判る。ひどい顔になっちゃったけど、それを気にせず総括しなきゃだめよ。鏡を見てびっくりするようではだめだ」といった。遠山さんは鏡を見たが、別に驚く様子もなく無表情だった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が、遠山さんが自分で自分の顔を殴ったあと、鏡を遠山さんにみせたのは、私の意図しない形で展開した激しい総括要求にまけてはダメだという思いからであったが、それによって、私は、森氏の遠山さんへの総括の暴力化を追認し、支えてしまった。


 なお、私が鏡をみせた時、皆いやな思いをした、という証言があるが、この時、山田さんは遠山さんに、「そうして総括するんだ。」といったことを、明らかにしておく。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田は、鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 だというが、これでは理由になっていないだろう。

 この段階で、永田はすでに明らかにおかしくなり始めていた。しかし、私もその頃には、何が起ころうともはや永田たちについていくしかないという、半ば投げやりに近い気持ちに支配されていたのだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さんがこれ程まで自己殴打したにも拘らず、森君は、彼女の総括を認めず、当然のように坂東君、山田さん、吉野君ら3人の指導部メンバーに命じて、(命じられたのは赤軍派の植垣君、青砥君、山崎君の3人だったとの証言もある)、彼女を戸口の柱に立たせたまま、後ろ手、胸、大腿部、足首をロープで縛った上、柱に括りつけてしまった。(中略)


 それからすぐ森君が、山崎君に遠山さんの髪を丸刈りにさせた。それがおわると、永田さんが誰かに縄を解かせ、遠山さんの着替えをさせてやった。この時の事であるが、リュックサックから衣類を取り出した際、「こんなセーターを持っている」などと遠山さんの持ち物を品評して、嫌な気分にさせられた。


 着替えが終わると、再び縛り、森君の指示で彼女の肩から毛布がかけられた。「遠山は冷え性だから」という”配慮”によるものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森はもはや縛る理由を、加藤のときのように、 「総括に集中させるため」 とはいわなかった。それもそのはずで、髪を丸刈りにするなど、逃亡防止であることは明らかだった。

■白雪姫と魔女の世界か?

 遠山の女らしさを解体するきっかけが、共産主義化に基づく「善意」であったにせよ、ここまでくると、それだけでは説明がつかなくなってくる。


 森が、「女を売りにしている」ことを総括させるために、自分の顔を殴らせる(醜くさせる)という方法論を思いついた時点で、すでに常軌を逸している。


 残虐性でなければ、病気ではないかと疑うが、いまひとつ捨てがたい可能性がある。それは、永田の心情を察して、森が主導権をとって動いたということだ。


 永田に、そういう望みがあったのかどうかは定かでない。しかし、鏡をみせるくだりなどを考えると、的外れとも思えない。それに、青砥幹夫や加藤倫教は、永田が主導したかのように記憶し、証言してるほどだ。


 多くのメンバーが証言していることだが、永田は、特に女性に対して、自分より優れている者や、並びたとうとする者に対して、それを嫉妬し、粉砕せんとしたという。


 永田の場合、それがあからさまな態度となって現れたから、森がそれを察して、より過激な方法で具現化することによって、主導権を保とうとしたとしても、不自然ではない。


 もちろん、これは1つの推論にすぎない。どうしてこういう推論をするかというと、永田の証言では、心情説明に説得力が感じられないからだ。鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 というのがその一例である。


 いずれにしても、共産主義化の論理 に重なり合うように、森と永田の思惑が交錯していたことは確かだろう。どの角度から光をあてるかによって、連合赤軍事件は、さまざまな表情をみせるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

1972年1月3日 中央委員会(CC)の発足と行方への総括要求
https://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

(行方正時は「卑怯者」とレッテルを貼られた)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 行方正時 顔写真

 遠山美枝子を柱に縛った後、指導部会議が開かれ、その後全体会議を行った。徹夜が続いているので、日付の切れ目が難しいが、1月3日夜から、1月4日未明にかけてのエピソードを紹介する。

■「異常な禁欲的秩序にとまどうばかりだった」(植垣康博)

 榛名ベースに来てからの私たちは、生活そのものに至るまでの異常とも思えるほどに統制された重苦しい禁欲的秩序にとまどうばかりだった。タバコ1人1日3本という制限に至っては、理解に苦しんだ。指導部の森氏と永田さんがそうした制限を受けずにタバコをすっていたので、よけいそうだった。

 その後、この制限は、永田さんの意見でゆるめられ、なし崩し的になっていったが、こうした秩序に誰も不満をいう者はいなかった。全体会議で永田さんは、要求があれば提案して欲しいといっていたが、現実には、とても提案できるような状況ではなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 1月2日に合流したばかりの植垣は、榛名ベースの異様な光景や緊張感に、とまどいと疑問をもっていたが、指導部の、「遅れている」という判断を受け入れた。そして、同化しようと頑張る過程で、最初感じたとまどいや疑問を、消しゴムで消すように払拭していくのである。

 こうした思考停止に陥る過程は、特異な宗教団体などにもみられる現象である。

■「これでスッキリした」(行方正時)

 この日(1月3日)の夜の全体会議で、森君の提案により、C・C(中央委員会)を発足させた。私が司会を命じられ、指導部メンバー7名がそれぞれC・Cに立候補して全メンバーに承認された。

 この時、森君は、集団指導を強調し、新党は一に殲滅戦、二に他党派との分派闘争のための党建設であるから、党内での分派闘争は一切禁止すると言った。また”しのぎ合い”は競争ではなく、相互に前進や意欲を促しあうことである、という説明をした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 C・Cが承認された時、行方正時君が、「これでスッキリした」と言った。これに対して森君が、「”スッキリした”とはどういうことだ」と問い返した。これが行方君に対する総括要求の発端となる。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

「何がすっきりした!?」
「僕は南アルプスで自殺しようと思い、こめかみに銃口をあて考えましたが、それが間違っていたことがわかりうました。今、本当に革命をやらなーあかんと思っています」
「総括になっていねえじゃないか。何もすっきりしていねえじゃないか」

 行方氏は黙ってしまい、ますます落ち着きをなくすと、森氏は、「おまえのキョロキョロした落ち着きのない態度は何だ!」とどなったあと、「おまえみたいな卑怯な
17:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:06:23


「何がすっきりした!?」
「僕は南アルプスで自殺しようと思い、こめかみに銃口をあて考えましたが、それが間違っていたことがわかりうました。今、本当に革命をやらなーあかんと思っています」
「総括になっていねえじゃないか。何もすっきりしていねえじゃないか」

 行方氏は黙ってしまい、ますます落ち着きをなくすと、森氏は、「おまえのキョロキョロした落ち着きのない態度は何だ!」とどなったあと、「おまえみたいな卑怯な奴は何をするかわからん。青砥、山崎、行方のうしろについて押さえろ!植垣、行方の70年からの活動内容を聞け!」と命じた。

 当時、私はこれがどういうことかわからなかったが、行方氏が、赤ちゃんのRちゃんを楯にとって逃げようとするかもしれないからそうできないようにしろ、ということであったらしい。行方氏のうしろにRちゃんのベッドがあったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 Rちゃんとは、頼良(らいら)ちゃんのことで、山本夫妻が連れてきた赤ちゃんである。森は、行方が、頼良ちゃんを人質にして逃亡するのを警戒したようだ。

 行方は、闘争にかかわってきたものの、過激な闘争には臆病風をふかせたこと、赤軍派の極左路線にはついていけないと苦悩し、榛名ベースに合流する前に自殺しようかと考えたことを打ち明けた。


 「おまえ、ビビッたとかどうとかそういうことばかりいって、総括をひきのばそうとしてるんじゃないのか。深刻そうな顔をして悩んでいるような態度をしているが、それは総括しているかのようにみせるポーズとちゃうか」と批判したあと、「総括がなってない!青砥、山崎、植垣、縛れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方への追求は、具体的には、常に自分を後方の安全地帯におく、弱気なくせに女性にはカッコつける、開き直った態度をとる、などであった。

■「行方を卑怯者と決めつけた」(森恒夫)

 もともとおくれた分子とかってに決めつけ、総括要求の対象に考えていたのですから、何をいっても追及の手から逃れることはできなかったのです。誤った「共産主義化」に確信がもてず、また本音を隠せる(私のように建て前や観念的でない分)人ではなかった分、追求されるたびに動揺が大きくなり、それを私たちはますます、おくれていると決めつけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、南アルプスの新倉ベース時代、遠山や進藤に比べれば、行方は、総括が進んでいると考えていた。ところが、榛名ベースに合流してから、評価は一転したのである。


 12月31日に彼がベースに来た時には、私は彼が軽度のノイローゼにでもあるかの様にやせて神経質になり、目を異様に光らせて、1人で居る時と雑談している時の感情的な差異が余りに大きいのに驚いた。(中略)我々はこうした彼を革命戦士(連合赤軍兵士)として認めることができないと考えた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 永田や坂口の観察では、森がいうほどひどくはない。

 行方は、森の追及にたいし、弱々しい笑みを浮かべながら、そうだと思う、とうなずいていたそうである。


 我々は、彼のこうした様子から、革命戦士として不適格な弱者→卑怯者と彼の事を判断して、それを総括して強者→戦士にさせる為にロープで縛ることにし、逆エビ状にロープで縛って柱にくくったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森はまとめてしまっているが、正確にいうと、このときは普通に縛られた。後に再び追求された時に、逆エビ型に縛りなおされることになる。

■「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」(加藤能敬)

 行方氏を縛ったあとも、CCの承認を求める全体会議が続いた。この会議の最中、加藤氏が、縛られている土間のほうから大きな声で、「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」と発言したことがあったが、坂口氏が、「黙れ!」とどなって加藤氏を黙らせてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全体会議が終わったのは4日の午前3時ごろであった。このあと縛られている加藤が、目隠しを外そうとしたり、足を動かしているのを、見張り当番の植垣と山崎に目撃され、森に報告されてしまった。

 病的なほど逃亡を警戒している森が、これを知ったらただではすまないことは予想がつくだろう。

■CCは独裁に民主主義の化粧をほどこしたもの
 CC(Central Committee:中央委員会)の発足といっても、指導部の看板をかけかえたにすぎなかった。

 CC発足にあたって、「共同指導体制」とか「スターリン主義の防止」が強調されたが、その舌の根も乾かぬうちに、行方に対する追求・緊縛は、完全に森の独断専行で行われた。

 CCとは、森が、責任を分散させ、独裁に権威をつけるためのもの、すなわち、独裁に民主主義の化粧をほどこしたものと考えてよさそうだ。

 結局、赤軍派で2軍扱いされた進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースに合流すると、赤軍派時代の批判をそのまま持ちこまれた。つまり、赤軍派時代は許容範囲であったものが、連合赤軍においては、共産主義化の観点から見過ごせなくなった、というわけだ。

 しかも、過去の活動を事後法で裁くものだった。過去の活動暦だったら、森の活動暦こそ、ビビッたり、敵前逃亡したりの連続なのだ。

 森は、他者の中に、自分に内在する弱さをみつけたとき、それを厳しく糾弾するのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び
https://ameblo.jp/shino119/entry-11149128241.html


(行方が追求されているとき、遠山は 「手を切って」 と叫んだ)
 遠山美枝子顔写真

■「遠山さんは、女を意識している」(永田洋子)

 入り口の横に縛られていた遠山は立っているのがつらそうな様子でいた。それをみた永田は、座らせることを森に提案した。森はすぐに返事をしなかったが、永田の説得にしぶしぶ了解した。ところが、、、

 そのあと、縛りなおされた遠山さんを見ると、彼女は両足を崩して座っていた。その様子はボンヤリしており、総括しようとしているものとは思えなかった。私はせっかく勇気をふるい総括に集中しやすいように座って縛らせたのに、それに集中せず女を意識していると苛立った。(中略)
 私は、中央委員会の場でこの苛立ちをそのまま表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田が、「勇気をふるい」といっているのは、森にあまいと批判されるかもしれないと思ったからだそうだ。山岳ベースでの永田は、暴力的総括を鼓舞しているものの、縛られた者の苦痛についてはやわらげようとしている傾向がある。

 しかしながら、そのあと、中央委員会で、「両足を崩して座っていた」 からといって、 「女を意識している」 と摘発してしまうようでは逆効果であり、森の論理に味方することになった。


■「行方氏は放心したような顔をしていたが、追及にはていねいに答えた」(植垣康博)


 午後8時頃、森氏が青砥氏、山崎氏と私の3人を指導部のコタツに呼んで、「行方が権力にバラしたアジトを全部調べろ。パクられた時に何をしゃべったかも聞け」といった。(中略)
 行方氏は放心したような顔をしていたが、青砥氏の追及にはていねいに答えた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 行方への批判は、赤軍派時代のことであり、革命左派メンバーには、理解できなかった。


■「ああ、手が痛い。誰か手を切って」(遠山美枝子)


 青砥氏が中心になって追求していたが、何を追及しているのか私にはわからなかった。この最中、入り口の横に縛られていた遠山さんが、再び、
「お母さん、美枝子は頑張るわ」
「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね。私も革命戦士になって頑張るわ」
「ああ、手が痛い。誰か手を切って」
「誰か縄をほどいて。・・・いい、縄をほどかなくていい。美枝子は頑張る」
などと叫ぶようにいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山の手には酷いしもやけによる激痛があった。縛られたメンバーはいずれも手足が動かなくなるほどのしもやけになったのである。

 しかし、私たちは、そのような遠山さんを全く無視し、行方氏を追及した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」(森恒夫)


 行方氏の追及の終わり頃、森氏が、「懐中電灯で行方の目を見たら、瞳孔が開いているのがわかった。行方は死の領域に足を踏み込んでいる」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 青砥氏の追及が終わった時、行方氏はあきらめてしまったような様子であったが、それでも誠実に義務を果たそうとするかのように、これまでの事務やアジトを引き継ごうとして語り始めた。


 すると森氏は、「おまえから、そんなことを聞こうとは思わない。それはこっちで考える」といって、行方氏の発言を封じ、逃亡の意思について追及した。


「これまで逃亡しようと思ったことはなかったか」
「あります」
「いつ逃亡しようと思ったんだ」
「車で他の場所に移されるときに、逃亡しようと思ってました」

(中略)

 「逃亡してどこへ行こうとしたのだ」と追求した。行方氏は、少し黙ったあと、「実家に帰るより他にないでしょう」といくらか腹立たしげに答えた。


 そのあと森氏は、「縛る前に、絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まず森が肘で肩甲骨を殴り始め、ついで山田が殴った。

 その時の私は、こうした大変な任務は指導部だけにやらせておくべきではない、私たちもやるべきだという思いだった。続いて、大腿部を手刀で殴ったが、途中で寺岡氏が、「そんなんじゃだめだ」 といって、土間からまきを持ってきてそれで殴った。私は、その激しさに驚いたものの、さすがはCCと思い、私もまきで力いっぱい殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 他の者も寺岡氏に続いて、まきで思いっきり殴っていた。こうした行方氏への殴打はとてもみていられない程のものであった。

(中略)

 行方氏は激しい苦痛に必死に耐えているようで、わずかにうめき声をあげただけだった。殴り終わった頃、森氏は、「逆えび型に縛っておけ」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方は、逆えび型に縛られ、さらに縄を床に固定されて、まったく身動きが出来ないようになってしまった。


■「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」(森恒夫)

 このとき森は、信じられないようなことを考えていた。

 そして彼はすでに立直る事をあきらめたかの様に、彼の活動内容をしゃべり、引継ぎが可能な様に事情を説明したりした。この間、我々が見ていて異常と思われる位夢の中でしゃべるような様子であったので、急いで彼の瞳孔を調べると、半分近くに拡大している状態だった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 行方は、1月3日から縛られたままだったのだから、「夢の中でしゃべるような様子」であってもおかしくはないだろう。そして、夜の榛名ベースでは、ロウソクの灯しかない暗闇なのだから、瞳孔が拡大しているのは正常である。

 それで我々は、彼が恐らく精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている可能性がある事、それが瞳孔の異常として表われているので彼をこの絶望の状態から何とか引き出さないと駄目だと思って、詰問調の追及を質問調に変えたところ、その時にのみ彼の瞳孔は正常にもどった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は懐中電灯を目に当てながら質問しているので、瞳孔が縮小しはじめるのも、あたりまえのことである。

 こうした事から、我々は一方で彼が精神的に敗北する過程に入っているという判断をすると共に、もう一方逃亡の危険があると考え、彼の手足を力が抜ける程殴っておく事にし肩甲骨の裏を手拳や膝頭で殴り、大腿部を足や棒で殴ったのち、逆エビ状に再び縛ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」 といいながら、「逃亡の危険がある」 とはどういうことだろうか?


 そして、行方を「死の世界」から救おうとして、「詰問調の追及を質問調に変えた」はずなのに、「彼の手足を力が抜ける程殴って」「逆エビ状に再び縛った」 のである。


 森の論理は倒錯しているが、この場にいた坂口も違和感を感じていたようだ。

 私は、森君がほぼこれと同じ事を喋ったのを記憶している。瞳孔の開閉状態でそんな心の洞察ができるものだろうか、という疑問とともに、森君の表情と語り口が(彼は、行方君の目に懐中電灯の光を当てながらこういうことをいった)、何か物に取り憑かれたようで、嫌な感じがした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「イエス」でも「ノー」でも

 加藤能敬の最期を思い出してみよう。加藤は、逃亡の意思について否定し続けたが、まったく信じてもらえず、死ぬまで追求され続けた。そして加藤が死亡したとき、「逃亡しようとしたことがばれて絶望した敗北死」と解釈されたのだった。


 いっぽう行方は、逃亡の意思をあっさり認めた。しかしそうなると、手ひどく殴られ、逆エビに縛られてしまった。 何のことはない、「逃げようと思っただろう?」と疑われたら最後、「イエス」と答えても、「ノー」と答えても、ダメなのだ。


 つまり、森の手には、あらかじめレッドカードが握られていて、イエスだろうが、ノーだろうが、瞳孔が開いていようが、閉じていようが・・・・・出されるカードの色は変わらないのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11149128241.html

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る
https://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

(遠山美枝子に対する追及は拷問そのものだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 遠山美枝子 顔写真

 森は、行方氏を追及している最中に、遠山が、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね」と繰り返しいってたことを追求し始めた。


■「そうです。芝居でした」(遠山美枝子)


 行方氏を調べ終えると、森氏は植垣氏ら3人に、「遠山の縄をほどいてこっちに連れてこい」と指示した。(中略)
 「さっき、何であんなことをいった。芝居だったんとちゃうか」
 遠山さんが黙っていると、皆が「何で黙っているんだ」といった。

 皆は、この頃から遠山さんをこずいたり殴ったりしたらしい。遠山さんをぐるりと取り囲んだ輪のうしろにいた私にはわからなかった。そういうなかで、遠山さんは答えた。
「そうです。芝居でした」
「どうして、そんな芝居をしたんだ」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山は、父が自殺して母が苦労して育ててくれたこと、それでいつか母を仕合わせにしようと思って、階級闘争をやってきたことを語った。

 追求の終わりごろ、男性関係についても追及された。

「明大時代、誰がすきだったんや」
遠山さんは最初は黙っていた。すると、取り囲んだものが、「何とかいえ!」「おい、どうした。早くしゃべれ!」などといった。遠山さんは、しぶしぶという感じで、「サークルの部長です」といった。
「赤軍派に入ってからは?」
「高原です」
「合法時代はどうだったんや」
遠山さんはしばらく答えようとしなかった。そのため、周りのものから一斉にあれこれいわれ、そのうち、2人の男性と関係をもったことをいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「おやじさんが好きだったの」(遠山美枝子)


 森氏の追及が終わったあと時、遠山さんは、ポツンと、「おやじさん(森氏)が好きだったの」といった。森氏は、この発言にニヤニヤする態度をとった。
 それは、それまでの遠山さんに対しての態度とあまりにも違ったものであった。遠山さんが森氏にそのようにいうことによって総括要求を回避しようとしていると思い、また、それにたいして森氏がまじめに彼女に総括させようとしていないと思い、「やっぱりそういうのはわかっていた」と批判した。
 私は、森氏が遠山さんにたいしてただ激しい暴力的総括を果しているだけで、本当に総括させようとしているとは思えなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 ところが、森氏は何を勘違いしたのか遠山さんにたいして怒り出し、彼女を殴りながら追求した。
「おまえ、俺をいつから好きだったんだ」
「明大の寮にきた時からです」
「うそつけ!あのころはオバQだったんとちゃうか。俺よりもオバQのほうが偉かったんだぞ」
「はい、そうです」
「それなら、いつから俺を好きになったんだ」
「南アルプスからです」
「この野郎!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この追求は、無実の容疑者が、取調官に恫喝され、検察側のシナリオにそって「白状」してしまうケースにそっくりだ。シナリオと違えば「ウソ」であり、「正解」になるまで尋問は続けられる。


 森のシナリオは、遠山は常に権力のある者を好きになることによって高い地位を得ようとした、つまり女を売りにして男を利用してきた、というものである。だから、遠山が森を好きになったのは、森がトップである南アルプスの時点でなければならなかったのである。


 なお、このシナリオは永田も一致していたようだ。坂口によれば永田は、「あなたは偉い人ばかり好きなのね」と皮肉をいったそうである。


■「男と寝たときみたいに足を広げろ」(寺岡恒一) 「そういうのは矮小よ!」(永田洋子)

 そのあと、森氏は、「遠山も行方と同じように殴って縛れ」と指示した。私たちは遠山さんをうつぶせにし、まず肩甲骨を肘で殴り、続いて大腿部をまきで思いっきり殴った。遠山さんは悲鳴をあげたが、私たちはそれを無視した。


 殴り終わって逆エビに縛ろうとすると、森氏が、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といった。それで、まきをひざの裏に挟んで足を折り曲げさせたが、その際、寺岡氏が、「男と寝たときみたいに足を広げろ」といった。


 これに私たちは笑ったが、女性たちは一様にいやな顔をし、永田さんが、「そういうのは矮小よ!」と批判した。私たちはあわてて笑うのを止めたが、行方氏、遠山さんへの激しい暴行は、私たちの気持ちをすさませ、より残酷で下劣なものにしてしまっていたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 なぜ、森は、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といったのかというと、「女らしい様子をさせないため」(森)だそうだ。おそらく、少し前に永田が、遠山が女らしいしぐさで足を崩して座っていたことを咎めたからだと思われる。


 このように森は永田のいったことをよく覚えていて、わりとよく 「対処」 をするのである。

 こうして遠山さんは、3日の朝に縛られて以来、水も食事も与えられないまま、ここへ来て逆えび型に縛られ全く身動きできなくされてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山さんも行方氏もぐったりしていた。私は、この激しい殴打に、そこまでやらなくてはならないのかといささかたじろぎ、その反面、やられっぱなしの2人がなんともふがいないものを感じ、どうして総括を放棄してしまうような態度を取るのか、もっとシャキッとできないのか、何とか頑張ってくれという思いもあったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だとバトウした」(森恒夫)


 この時には、彼女が私を好きだということでロープを解いてもらおうとしているということと、階級闘争の中で男性を手段としてきているということが結合して、彼女に対する怒りとして放たれ、彼女が何人かの男性の名をあげた事に対して、我々は余りにハレンチだとして彼女を殴ったり、足げにしたりした。そして、本当に自分のことを情けなく思っているのなら、涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だ(彼女がかつて自分は泣けないと云ったことを押さえて)とバトウしたのである。
(森恒夫・「自己批判書」 句読点修正)


 森は、遠山に小嶋の死体を埋めさせたとき から、一貫して、「遠山がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準」と考えていたのである。


 どうやら、共同軍事訓練の最終日 に、森自身が総括を述べたとき、涙を流した体験と結びつけて考えているようだ。


■「寺岡は女性蔑視だ」(森恒夫)


 このあと、中央委員会を開いたが、そこで、森氏は、「寺岡君が『男と寝たときみたいに足を広げろ』といったのは、女性蔑視だ」と「真面目」な面持ちで批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「真面目」とカッコつきなのは、寺岡の言葉に男性たちはみな笑ったのに、あたかも、寺岡個人の問題であり、自分は無縁であるかのようにふるまった森への皮肉である。


 森は、永田の批判に、寺岡をスケープゴートにして面目を保とうとしたようだ。

 森氏は続いて、「殲滅戦のための準備のための活動を開始しよう」といって、井川ベースの整理、名古屋にいるF・Kさんらを連れてくること、東京での若干の活動、山岳調査などの必要をいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 F・Kとは殺害した小嶋和子の妹である。連れてこようと考えるとは、どういう神経であろうか。


■「女の革命家から革命化の女へ」(森恒夫)

 全体会議で、森は「女の革命家から革命化の女へ」という定式の説明を行った。

「共産主義化されないまま、女が男と関係をとり結ぶのは、それまでの生活を通して身に着けたブルジョア的な男性観にもとづいたものであり、こうした傾向を止揚しない限り女の革命戦士化はかちとれない」と述べた。
 この説明に私はなるほどと思った。そのあと、森氏は、大槻さんと金子さんにたいして、銃による殲滅戦を準備する闘いに向けて早く総括すべきだといった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


その後役割が決められた。


井川ベースの整理は、山崎、寺林、中村、山本保子の3人。
名古屋にF・Kを呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に行くのは前沢、青砥。


■独裁体制とメンバーの思考停止

 遠山への批判は、共同軍事訓練のときからずっと続いている。いつも永田の批判がきっかけとなり、森がそのあとを引き受けて追求した。よく注意してみると、森の批判は永田のそれとは別物であるが、永田は、森の批判に同調してしまうのだから、2人の関係はややこしい。


 森の過酷な追求によって、遠山は、それに迎合する告白をしてしまった。なんとか追求から逃れようとしたのだろうが、どのように答えても、批判され、人格を破壊されていくのである。あまりに残酷で拷問としかいいようがない。


 他のメンバーは、威勢はいいものの、せいぜい、「おい、どうした」 「黙ってないで何とかいえ」 という掛け声しか発することができなかった。すでに思考停止状態であり、森と永田の側に身を寄せることが精一杯だった。すべての判断は森と永田の専権事項になっていたのである。これを独裁という。


 いったん独裁体制が確立してしまうと、独裁者が自ら踏みとどまったり、引き返したりすることはない。事実、同志殺害は、森と永田が権力の手中に落ちるまで続くのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

1972年1月7日 遠山美枝子の「敗北死」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

(遠山は人間の誇りを破壊された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

遠山美枝子(享年25歳)
【死亡日】 1972年1月7日
【所属】 赤軍派
【学歴】 明治大学
【レッテル】 古い赤軍派、ブルジョア的女性
【総括理由】 指輪、化粧、髪型、女を売りにして男を利用、幹部の妻としての特権的地位、死への恐怖
【総括態度】 「まだ女を意識している」
【死因】 凍死 or 衰弱死


遠山美枝子が山岳ベースに参加してから死亡するまでの経緯は以下の通りである。

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ

1971年12月29日~31日 赤軍派メンバーが榛名ベースへ出発

1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める

1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」-女らしさの破壊

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る


 1月7日は、メンバーに任務が告げられ、その準備をしていた。この任務は殲滅戦を闘うための準備と位置づけられた。


井川ベースの整理に行くのは、山崎、寺林、中村、山本保子。
名古屋に小嶋史子(死亡した小嶋和子の妹)を呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に黒ヘルグループのオルグに行くのは、前沢、青砥。


 そして、森の提案で、新たな山岳ベースの調査することになった。榛名ベースは久々に活気に溢れたのである。


 しかし、その準備の最中に遠山の容態が悪化した。


■「お前は薄情だ!」(坂口弘) 「謝りなさいよ!」(永田洋子)


 手洗いから戻って来た時、縛られている遠山さんを見ると、それまでの様子と違って妙にひっそりしていた。私はそっと脈をみた。脈はかすかにしか感じられなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 それで坂東君、寺岡君ら5人のメンバーが飛んでいってすぐに人工呼吸を行った。私が少し遅れていくと、森君が、「酒を飲ませてみたらどうか」と言ったので、ストーブの上にかけてあるバケツの湯の中に一升瓶を入れて燗をしようとした。すると側にいた永田さんが、「一升瓶ごと燗するなんてナンセンスよ。お酒はお銚子に移してから燗するものよ」と言って私を腐した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 すぐそばでは人工呼吸が続いていた。永田は会議の場に戻った。

 ところが私が戻ってすぐ坂口氏が大変な剣幕で私のところに来て立ったまま大声で、「お前は薄情だ」とどなった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「おまえの態度は真剣でない!遠山が亡くなろうとしているのにお前はどこへ行く気だ!」と、私は彼女を怒鳴りつけた。鏡の件などで、遠山さんに冷淡で、刺激的なことをした永田さんに対し怒りがうっ積していたのだ。だが、すぐに本当の敵は彼女ではなく、森君だと思った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 永田と坂口の口論中、森が、「永田さんの行動は薄情ではない」と助け舟を出したため、坂口は押し返されてしまった。

 彼女はいっそう居丈高になり、「私と森さんを侮辱したことを誤りなさいよ!会議の進行を遅らせたことを誤りなさいよ!」と言って謝罪を求めてきた。(中略)
 私は目を瞑り、腕を組んで、反抗すべきかどうか考えた。(中略)
 総括の最大の山場だと思った。自分の全人格が問われていると思った。気持ちが反抗と屈服の交互に揺れ動いた。しかし、私は、反抗の道を選択することが出来なかった。両名、とくに森君と論戦しても勝てないと悟ってしまったのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、「CCを辞任したい」と申し出るが、驚いた森があわてて取り成した。結局、「会議の進行を妨げて申し訳なかった」と惨めな謝罪を行ない一件落着となった。

 森氏は新党維持のため、私や坂口氏を特別扱いしていた。そのため、この問題で、私か坂口氏のどちらかが総括要求されることはなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 2人は一緒に顔を洗ったりするなど仲が良かったので、このときの激しいやり取りにはとまどわされた。しかし、このあとは何事も無かったかのように仲良くしており、このことにもとまどってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「遠山さんは蘇生しなかった」(植垣康博)


 遠山さんの人工呼吸は30分以上も続けられたが、結局、遠山さんは蘇生しなかった。坂東氏たちは人工呼吸をやめ、遠山さんの死体を床下に運んでいった。会議は重苦しい気分のまま中断となった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 坂東氏たちが戻ってきた時、森氏が、坂東氏に、「どうだった」と聞いた。坂東氏は首を横に振り、遠山さんの死体を床下に置いて来たことを報告した。
 そのあと、全体会議を中断して中央委員会の会議を開いたが、この会議は重苦しいものだった。もはや討論もなく敗北死という規定をした。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「暴力は不適格な人間を間引くことだと気づいた」(前沢虎義)

 このころから、メンバーの間では、総括に対する複雑な思いが芽生え始めていた。

(なぜ死ぬと分かっているのに遠山を殴ったのか?)
 自分の死ってものをある意味では前提にしているわけです、僕ら。軍の兵隊になった時点で。自分の死を前提にしてると、同じ仲間の死というものも・・・というか、中途半端な態度をとってることに対して許せないわけですよ。なんでそういう態度をとってるんだ、と、そういう態度をちゃんと克服しろ、と。
(植垣康博・「朝まで生テレビ」2004年3月27日放送)

 加藤が死んだときは遠山美枝子が縛られ、行方も既に縛られるのを待っている状態でした。私は加藤が死んだことで、遠山も行方も、そしてその後ももし誰かが縛られれば、その人間も死ぬだろうと、はっきりと判断しました。
 それまでは総括の援助だと言われ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 前澤虎義上申書(1972年8月11日付))


 前沢はこのような思いを胸に抱いて、東京に黒ヘルグループのオルグに行くのであるが、任務終了後、榛名ベースへ戻るのをためらうことになる。

 なぜ、こんなことさせるんだという憎しみを持ちながらも、遠山さんに対する暴力行為を断れない・・・。正しいと思っているわけじゃないんだ。そう思い込もうとしているだけなんだ。そんなことみんな分かっているのに止められないんだよ。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫インタビュー『スキャンダル戦争1』2002年6月 より引用)

 僕は遠山さんの問題については、永田に非常に大きな責任があると思っています。遠山さんの「総括」の最中を思い出すたびに、本当に正視できないようなことばかりだったと思う。だって普通、女の人に顔殴らせてね、「あんたの顔こんなに醜くなった。見てみなさい」なんて、鏡を突きつけますかね。
(荒岱介・「破天荒な人々」 青砥幹夫インタビュー)


 永田が遠山に鏡をみせた経緯は、 1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」-女らしさの破壊 を参照。


■「遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくした」(永田洋子)


 遠山さんへの批判は、彼女のすべての行動を権力欲や嫉妬心で解釈することによって、彼女の人格を徹底して侮辱し彼女を絶望させてしまうものであった。それは遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくすものであった。


 こうした女性蔑視の排外的な批判に、遠山さんが沈黙してしまったのは当然のことであった。なぜなら、批判者自身が、そうした批判の誤りを理解しない限り、いくら違うといっても通用しないからである。


 敗北後、遠山さんに行われたのと同じような批判をされ続けてきたが、それによってやっと彼女の無念な思いが痛いほどわかるようになった。私たちの犯した誤りを利用した私への女性蔑視の排外的な批判に直結して、私はやっと同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は反省しているようでいて、「同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てた」 とはずいぶん虫のいい話である。


 遠山批判には、 「批判の誤り」 というような論理で割り切れないものを感じる人が多いだろう。


 以下のような吉野の証言もある。

 新倉共同訓練での遠山さん批判を受けた森がこうして遠山さんを縛らせるに至ったことで、森は永田からつきつけられた課題を片づけた思いになり、永田は永田で、赤軍派メンバーに対する自己地位を一応確保し、いわば赤軍派内での妨害要素を除去しえた思いで安堵したその心理が作用していたと私は見ます。


 森が苦心惨憺して遠山さんを批判していた時、傍らに座っていた永田は本当に満足そうに安堵しきった表情で、その追求ぶりを見物していたのを印象深く覚えています。


 私の認識としては、永田はとうとう森をして遠山さんを縛らせることに成功し、自分と森との統合への道の第一段階をこの時確保したのです。

(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 吉野雅邦 1983年1月28日付手紙)


 遠山を死に至らしめたのは、直接的には、森の課した肉体的制裁であることは間違いない。だが、森をここまで動かしたものは、はたして共産主義化の論理 だったのだろうか、それとも永田の意向が働いたのであろうか。


 同じ疑問は、このあとの革命左派の女性メンバー2人への総括要求のときにも生じるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

85. 中川隆[-11453] koaQ7Jey 2019年3月14日 07:49:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[542] 報告
▲△▽▼

1972年1月7日 金子みちよ・大槻節子への総括要求
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)はなぜ批判されたのか?)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

 今回は、遠山美枝子が死 亡したあとの全体会議での出来事である。遠山を「ブルジョア的女性の敗北死」としたため、それを受けて永田が、金子みちよと大槻節子へ総括を要求した。


■メンバーの状況(1月7日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。
吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左)「女まるだし」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)断固とした態度で暴力に加わるも疑問が生じる。
岩田平治 (革左)言動が森に評価される。
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左)永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
行方正時 (赤軍)★緊縛中★ オドオドした態度を批判された。
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)雰囲気に圧倒されてオドオドしている。
青砥幹夫 (赤軍)合法部との連絡役でそつなく立ち回る。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死) 

加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)

■「もう、総括はないだろう、との希望を持った」(青砥幹夫)


 遠山美枝子さんが亡くなった1月7日夜の全体会議で、森君が、「(死んだ)5名との共産主義化の闘いを踏まえて殲滅戦を具体化する」と宣言した。(中略)
 青砥幹夫君は、のちに連合赤軍統一公判裁判の証人尋問で、このときの気持ちを問われ、「もう、総括はないだろう、との希望を持った」と、実感をこめて述べたが、これは森君を除く全面メンバーの気持ちを代表していた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あんた、頭がよすぎるのよ」(永田洋子)


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 女性たちがそれぞれ自己批判する中、大槻節子はパンタロンを買った ことを自己批判した。だが、永田はそれでは不十分だと納得しなかった。

 私はさらに大槻さんに総括すべき問題をいった。
「あんた、よく本を読んでいるけど、知識として頭で理解したってだめなのよ。あんた、頭がよすぎるのよ。何でも頭で知識としてパーパー理解してある程度までは進むけど、それ以上は進めなくなっちゃう。あんたは頭が良すぎるのがかえってマイナスになっている」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは、以前、森が永田に、「大槻は知識として本を読んでいるだけ」と批判したとき の受け売りであった。


■「男にこびる方法を身につけてしまっている」(永田洋子)

 大槻は、永田の批判にピンと来なかった。そして、渡辺正則 との関係について自己批判した。

 「私が渡辺と関係をもったのは、渡辺のかっこよさにひかれたにすぎなかった。渡辺の私への要求は、結局、シンパ的な可愛い女にすぎなかった」


「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」


この時、寺林さんが、大槻さんに、
「私や中村さんは自慢できるものが何もないから、それだけ総括できる。大槻さんも私たちみたいに単純バカになって早く総括しちゃってよ」
と励ますようにいった。大槻さんは、「私にはまだよく判らないけれど、ちゃんと総括します」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は誠実に自己批判したものの、永田とかみ合わなかった。それえは当然で、永田は、頭がよすぎるとか、可愛すぎるとか、およそ欠点とは思われない点に批判の矢を向けていたのである。


■「あんた、まだ総括していないわね」(永田洋子)


 金子さんの番になったとき、彼女は、「私が吉野さんと別れるといったのは、私は吉野さんの足をひっぱってきたからです。私は、吉野さんとは運動にかかわる前から関係をもっていた。運動の中ではお互いを高めあうようにしてきたけど、この関係に甘えてきた。私は、完全に総括できないので吉野さんと別れたいと思います」といった。
 私は再び、「あんた、吉野さんと別れるといってるけどそうじゃないのよ。あんた、まだ総括していないわね。あんたは、離婚しなくても総括できる力があるのだから、離婚する必要はないのよ」といったが、金子さんは首をかしげ、うつむいて考え込んでいた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、金子に何を批判しているのかよくわからない。離婚表明にしたって、同じ理由で杉崎ミサ子が寺岡恒一と離婚表明したのは認めているのに、金子の離婚表明は否定するのである。

 2人とも兵士たちのなかでは活発に活動していたし、指導力もあったので、私は、どうして彼女たちが評価されないのか理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 全体会議を終わることにした時、私は、「大槻さんと金子さんは総括できるのだから、早く総括しちゃいなさい」といった。私は、彼女たちの批判をはっきりと理解できないまま、こういわずにはいられなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「女が男に対して行う女の顕示を克服しなければならない」(森恒夫)

 遠山批判を経て、森が構築した革命家の女論 は、「自己批判書」で明かされているが、原文は長いので、永田の説明を引用する。

 森氏は、敗北したあとで作成した「自己批判書」の中で、女性問題を特に重視した理由について、次のように述べている。


 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)


 早い話が、恋愛は革命の邪魔だということであり、恋愛は女が男に従属するものだと考え、そのため女が自立できないと決めつけている。


 革命家の女論を受け入れたとしても、問題は、「女の顕示」を判定する基準があいまいなことである。つまるところ、森や永田の恣意的な判断なのである。


 森は初めて革命左派のベースにやってきたとき、金子と大槻を大いに認めていた。それが、この理論を構築してから、批判に転じている。


■「不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬したのではない」(永田洋子)

 逮捕後のメンバーの多くは、金子と大槻への総括要求は、永田の嫉妬であると証言している。これに対して、永田は最終意見陳述において以下のように反論している。

 ところで、こうした大槻さんへの批判が、何か私の嫉妬から行われたかのようにいい、不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬して、批判し、殺したというまことしやかな中傷的解説が、まかりとおっている。もちろん、こんな解釈で連赤問題の本質を解明できないのは、当然である。だが、私が不思議に思うのは、こうした森氏の大槻さんへの批判に同調した他の男性のC・Cが、そんなことがなかったかのように口をぬぐっていることである。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田が言わんとしていることは、森が大槻を批判しているとき、むしろ擁護する立場をとったのであり、他のC・C(中央委員)は、森に同調していただけだったではないか。それを今さら、私の嫉妬のせいにするのはフェアではない、ということである。


■美人であることが批判された
 大槻節子と金子みちよに対する総括要求はわかりにくい部分である。森の理論にしても、永田の言い分にしても、美人であることがいけないとしか思えない。これでは、批判されるほうも、どう総括したらよいか困惑するばかりだ。


 大槻と金子は共通点が多い。大学が同じ(横浜国大)、美人でスタイルが良い、頭が良い、積極的な活動、リーダーシップがある、などであり、多くのメンバーから認められた存在だった。


 そしてもうひとつ忘れてはならない共通点は、2人とも永田に対してイエスマンではなかったということだ。大槻は、意見書 を書いた本人であり、金子は革命左派時代からたびたび永田に意見していた。


 永田は彼女たちの能力を認めていたが、その一方で、嫉妬があったり、自分の立場を脅かすという警戒があったりした可能性が強い。森の革命家の女論にしても、これまでもそうだったように、永田の直観や感情を理論化したものだったかもしれない。


 遠山美枝子を厳しく批判していた金子と大槻は、一転して批判される立場に立たされたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html


(榛名ベースは道路から近いので危険と判断されたが・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名山

(そう簡単には見つからない山の斜面にあった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース

■メンバーが活動に出発
この日の朝、メンバーがばたばたと出かけていった。


山崎、中村、寺林、山本保子は、静岡県の旧革命左派の井川ベースに残してきた荷物をとりにいった。

岩田、伊藤は、名古屋へ行き、総括で死んだ小嶋和子の妹をつれてくることになった。

前沢、青砥は、黒ヘルグループの奥沢修一たちをオルグし入山させることと、森の夫人に会うことになった。


 指導部会議では、新たな山岳ベースの調査に行くことが決まった。坂東・寺岡は日光方面へ、吉野・寺林は赤木山方面へ、植垣・杉崎は迦葉山へ調査に行くことになった。このため大槻と加藤三男は地図を買いに行くことを命じられた。


 なぜ新たな山岳ベースを調査するかというと、榛名ベースは道路から近いため危険と判断したからである。植垣が始めて榛名ベースを訪れたときにも心配していた。

 岩田氏は元気で張り切っている様子で、とてもそのあと脱走することになるとは思えなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」(坂口弘)


 私は、小屋上手の便所に行った帰り、便所の側で丹前を着たまま蹲り、森君はまだ総括を続けるつもりなのだろうか? そうだとしたら、われわれの組織はこの先、どうなってしまうのか? などと考えていた。
 すると、永田さんがやってきて、昨夜 とはうってかわった優しい調子で、私に話しかけてきた。それで私は、「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか。このままでは駄目だ。一刻も早く殲滅戦を戦うべきだ」といった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、なんとか永田を味方につけたいと思ったのであろう。しかし、、、

 私は人民内部の矛盾を認めながらも、共産主義化の闘いを絶対的に確信していたので、「総括は、私たちが前進していくためにはどうしても必要じゃないの」といった。坂口氏はうなづき、小屋に戻っていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、坂口の件を指導部会議で報告するが、森は何もいわなかった。

 私はこの問題で、当然総括を求められるべきなのに、その後も彼から追及されることはなかった。私は、永田さんと共に、森君に特別視されていたことを認めざるを得ない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」(行方正時)


 青砥氏が出かけたあとは、私が行方氏に食事を与えたが、行方氏は、その日の午後、「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」と唄っていたかと思うと、「ジャンケンポン、アイコデショ」といったり、「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」といったりしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 行方は1月3日に批判 され、1月4日未明に緊縛されてから、ほとんど食事を与えられていなかった。見かねた青砥と植垣が森に進言して1日1回食事をあたえていたが、あとはずっと放置されていた。


■「金子は主婦的、大槻は女学生的」(森恒夫)

 夕方、森は、金子を「主婦的」、大槻を「女学生的」と批判しはじめた。

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、森の批判に驚いたが、金子を会計から外せば、森に批判されないですむと思ったという。

 それで私は、金子さんのところに行き、「あんたを会計から外すから、持っているお金やノートを出して」といって、これらを受け取ってコタツに戻った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「行方氏はぐったりしていたが、私たちは注意を払わなかった」(永田洋子)


 夕食後、私たち兵士は土間で雑談をしていたが、8人も出かけているため、ベース内はガランとしていた。午後9時頃、見張りの順番を決め、早々に寝ることにした。行方氏がガタガタ震えていたので、指導部の誰かが行方氏に毛布をかけていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 8日の晩は、中央委員会も全体会議も無く見張りを残して寝た。見張りは被指導部の人たちが交代で行っていたが、行方氏はぐったりしたまま元気が無かったが、私たちはほとんど注意を払わなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■久々の活気も、いよいよ闘争・・・にはならなかった
 メンバーに任務を与えるとき、1人で外出ということはなく、慎重にペアが決められていた。これは、互いの行動の監視や、逃亡を抑止するという意味があったようだ。


 殲滅戦の前準備とはいえ、ようやく任務らしい任務を与えられた下部メンバーは少し元気を取り戻した。もともと彼らは、共産主義化のためではなく、闘争活動のために集ったのだから、それは当然であった。


 その一方で、行方は放置されていた。精神に異常をきたし、もはや総括うんぬんの状態ではなかった。誰もがそう思っていただろう。しかし、同情を口にすれば、総括にかけられる恐怖があり、断固とした態度でいるためには、弱者というレッテルを貼って切り捨てるしかなかった。


 森の金子と大槻に対する批判は、この日も止まらなかった。事実、金子は主婦だし、大槻は女学生なのだから、それが何か? とツッコミたくもなる。「主婦的」とか「女学生的」という言葉で批判する森のほうこそ、女を意識し、蔑視していることがよくあらわれている。


 さて、メンバーは、これで暴力的総括、すなわち、 「敗北死」 は終わりという期待をしていたようだが、そうはいかなかった。 それどころか、「死刑」 という 「新たな地平」 に連れて行かれるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html

1972年1月9日 何気ない日常の恐ろしさ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html


 今回は、行方死亡後の出来事をフォローしておく。

 メンバーは久々の任務について、活動にでかけていた。


■メンバーの状況(1月9日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。

吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)吉野の子供を妊娠中。会計係をはずされた。
大槻節子 (革左)「女まるだし」「女学生的」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)黒ヘルグループをオルグするために東京へ
岩田平治 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ(運転手)
中村愛子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ
寺林喜久江(革左)荷物を回収に井川ベースへ
伊藤和子 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)荷物を回収に井川ベースへ
青砥幹夫 (赤軍)黒ヘルグループをオルグするために東京へ

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)
加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・
18:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:07:14

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死) 

加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)

■「もう、総括はないだろう、との希望を持った」(青砥幹夫)


 遠山美枝子さんが亡くなった1月7日夜の全体会議で、森君が、「(死んだ)5名との共産主義化の闘いを踏まえて殲滅戦を具体化する」と宣言した。(中略)
 青砥幹夫君は、のちに連合赤軍統一公判裁判の証人尋問で、このときの気持ちを問われ、「もう、総括はないだろう、との希望を持った」と、実感をこめて述べたが、これは森君を除く全面メンバーの気持ちを代表していた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あんた、頭がよすぎるのよ」(永田洋子)


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 女性たちがそれぞれ自己批判する中、大槻節子はパンタロンを買った ことを自己批判した。だが、永田はそれでは不十分だと納得しなかった。

 私はさらに大槻さんに総括すべき問題をいった。
「あんた、よく本を読んでいるけど、知識として頭で理解したってだめなのよ。あんた、頭がよすぎるのよ。何でも頭で知識としてパーパー理解してある程度までは進むけど、それ以上は進めなくなっちゃう。あんたは頭が良すぎるのがかえってマイナスになっている」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは、以前、森が永田に、「大槻は知識として本を読んでいるだけ」と批判したとき の受け売りであった。


■「男にこびる方法を身につけてしまっている」(永田洋子)

 大槻は、永田の批判にピンと来なかった。そして、渡辺正則 との関係について自己批判した。

 「私が渡辺と関係をもったのは、渡辺のかっこよさにひかれたにすぎなかった。渡辺の私への要求は、結局、シンパ的な可愛い女にすぎなかった」


「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」


この時、寺林さんが、大槻さんに、
「私や中村さんは自慢できるものが何もないから、それだけ総括できる。大槻さんも私たちみたいに単純バカになって早く総括しちゃってよ」
と励ますようにいった。大槻さんは、「私にはまだよく判らないけれど、ちゃんと総括します」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は誠実に自己批判したものの、永田とかみ合わなかった。それえは当然で、永田は、頭がよすぎるとか、可愛すぎるとか、およそ欠点とは思われない点に批判の矢を向けていたのである。


■「あんた、まだ総括していないわね」(永田洋子)


 金子さんの番になったとき、彼女は、「私が吉野さんと別れるといったのは、私は吉野さんの足をひっぱってきたからです。私は、吉野さんとは運動にかかわる前から関係をもっていた。運動の中ではお互いを高めあうようにしてきたけど、この関係に甘えてきた。私は、完全に総括できないので吉野さんと別れたいと思います」といった。
 私は再び、「あんた、吉野さんと別れるといってるけどそうじゃないのよ。あんた、まだ総括していないわね。あんたは、離婚しなくても総括できる力があるのだから、離婚する必要はないのよ」といったが、金子さんは首をかしげ、うつむいて考え込んでいた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、金子に何を批判しているのかよくわからない。離婚表明にしたって、同じ理由で杉崎ミサ子が寺岡恒一と離婚表明したのは認めているのに、金子の離婚表明は否定するのである。

 2人とも兵士たちのなかでは活発に活動していたし、指導力もあったので、私は、どうして彼女たちが評価されないのか理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 全体会議を終わることにした時、私は、「大槻さんと金子さんは総括できるのだから、早く総括しちゃいなさい」といった。私は、彼女たちの批判をはっきりと理解できないまま、こういわずにはいられなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「女が男に対して行う女の顕示を克服しなければならない」(森恒夫)

 遠山批判を経て、森が構築した革命家の女論 は、「自己批判書」で明かされているが、原文は長いので、永田の説明を引用する。

 森氏は、敗北したあとで作成した「自己批判書」の中で、女性問題を特に重視した理由について、次のように述べている。


 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)


 早い話が、恋愛は革命の邪魔だということであり、恋愛は女が男に従属するものだと考え、そのため女が自立できないと決めつけている。


 革命家の女論を受け入れたとしても、問題は、「女の顕示」を判定する基準があいまいなことである。つまるところ、森や永田の恣意的な判断なのである。


 森は初めて革命左派のベースにやってきたとき、金子と大槻を大いに認めていた。それが、この理論を構築してから、批判に転じている。


■「不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬したのではない」(永田洋子)

 逮捕後のメンバーの多くは、金子と大槻への総括要求は、永田の嫉妬であると証言している。これに対して、永田は最終意見陳述において以下のように反論している。

 ところで、こうした大槻さんへの批判が、何か私の嫉妬から行われたかのようにいい、不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬して、批判し、殺したというまことしやかな中傷的解説が、まかりとおっている。もちろん、こんな解釈で連赤問題の本質を解明できないのは、当然である。だが、私が不思議に思うのは、こうした森氏の大槻さんへの批判に同調した他の男性のC・Cが、そんなことがなかったかのように口をぬぐっていることである。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田が言わんとしていることは、森が大槻を批判しているとき、むしろ擁護する立場をとったのであり、他のC・C(中央委員)は、森に同調していただけだったではないか。それを今さら、私の嫉妬のせいにするのはフェアではない、ということである。


■美人であることが批判された
 大槻節子と金子みちよに対する総括要求はわかりにくい部分である。森の理論にしても、永田の言い分にしても、美人であることがいけないとしか思えない。これでは、批判されるほうも、どう総括したらよいか困惑するばかりだ。


 大槻と金子は共通点が多い。大学が同じ(横浜国大)、美人でスタイルが良い、頭が良い、積極的な活動、リーダーシップがある、などであり、多くのメンバーから認められた存在だった。


 そしてもうひとつ忘れてはならない共通点は、2人とも永田に対してイエスマンではなかったということだ。大槻は、意見書 を書いた本人であり、金子は革命左派時代からたびたび永田に意見していた。


 永田は彼女たちの能力を認めていたが、その一方で、嫉妬があったり、自分の立場を脅かすという警戒があったりした可能性が強い。森の革命家の女論にしても、これまでもそうだったように、永田の直観や感情を理論化したものだったかもしれない。


 遠山美枝子を厳しく批判していた金子と大槻は、一転して批判される立場に立たされたのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html


(榛名ベースは道路から近いので危険と判断されたが・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名山

(そう簡単には見つからない山の斜面にあった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース

■メンバーが活動に出発
この日の朝、メンバーがばたばたと出かけていった。


山崎、中村、寺林、山本保子は、静岡県の旧革命左派の井川ベースに残してきた荷物をとりにいった。

岩田、伊藤は、名古屋へ行き、総括で死んだ小嶋和子の妹をつれてくることになった。

前沢、青砥は、黒ヘルグループの奥沢修一たちをオルグし入山させることと、森の夫人に会うことになった。


 指導部会議では、新たな山岳ベースの調査に行くことが決まった。坂東・寺岡は日光方面へ、吉野・寺林は赤木山方面へ、植垣・杉崎は迦葉山へ調査に行くことになった。このため大槻と加藤三男は地図を買いに行くことを命じられた。


 なぜ新たな山岳ベースを調査するかというと、榛名ベースは道路から近いため危険と判断したからである。植垣が始めて榛名ベースを訪れたときにも心配していた。

 岩田氏は元気で張り切っている様子で、とてもそのあと脱走することになるとは思えなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」(坂口弘)


 私は、小屋上手の便所に行った帰り、便所の側で丹前を着たまま蹲り、森君はまだ総括を続けるつもりなのだろうか? そうだとしたら、われわれの組織はこの先、どうなってしまうのか? などと考えていた。
 すると、永田さんがやってきて、昨夜 とはうってかわった優しい調子で、私に話しかけてきた。それで私は、「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか。このままでは駄目だ。一刻も早く殲滅戦を戦うべきだ」といった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、なんとか永田を味方につけたいと思ったのであろう。しかし、、、

 私は人民内部の矛盾を認めながらも、共産主義化の闘いを絶対的に確信していたので、「総括は、私たちが前進していくためにはどうしても必要じゃないの」といった。坂口氏はうなづき、小屋に戻っていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、坂口の件を指導部会議で報告するが、森は何もいわなかった。

 私はこの問題で、当然総括を求められるべきなのに、その後も彼から追及されることはなかった。私は、永田さんと共に、森君に特別視されていたことを認めざるを得ない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」(行方正時)


 青砥氏が出かけたあとは、私が行方氏に食事を与えたが、行方氏は、その日の午後、「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」と唄っていたかと思うと、「ジャンケンポン、アイコデショ」といったり、「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」といったりしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 行方は1月3日に批判 され、1月4日未明に緊縛されてから、ほとんど食事を与えられていなかった。見かねた青砥と植垣が森に進言して1日1回食事をあたえていたが、あとはずっと放置されていた。


■「金子は主婦的、大槻は女学生的」(森恒夫)

 夕方、森は、金子を「主婦的」、大槻を「女学生的」と批判しはじめた。

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、森の批判に驚いたが、金子を会計から外せば、森に批判されないですむと思ったという。

 それで私は、金子さんのところに行き、「あんたを会計から外すから、持っているお金やノートを出して」といって、これらを受け取ってコタツに戻った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「行方氏はぐったりしていたが、私たちは注意を払わなかった」(永田洋子)


 夕食後、私たち兵士は土間で雑談をしていたが、8人も出かけているため、ベース内はガランとしていた。午後9時頃、見張りの順番を決め、早々に寝ることにした。行方氏がガタガタ震えていたので、指導部の誰かが行方氏に毛布をかけていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 8日の晩は、中央委員会も全体会議も無く見張りを残して寝た。見張りは被指導部の人たちが交代で行っていたが、行方氏はぐったりしたまま元気が無かったが、私たちはほとんど注意を払わなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■久々の活気も、いよいよ闘争・・・にはならなかった
 メンバーに任務を与えるとき、1人で外出ということはなく、慎重にペアが決められていた。これは、互いの行動の監視や、逃亡を抑止するという意味があったようだ。


 殲滅戦の前準備とはいえ、ようやく任務らしい任務を与えられた下部メンバーは少し元気を取り戻した。もともと彼らは、共産主義化のためではなく、闘争活動のために集ったのだから、それは当然であった。


 その一方で、行方は放置されていた。精神に異常をきたし、もはや総括うんぬんの状態ではなかった。誰もがそう思っていただろう。しかし、同情を口にすれば、総括にかけられる恐怖があり、断固とした態度でいるためには、弱者というレッテルを貼って切り捨てるしかなかった。


 森の金子と大槻に対する批判は、この日も止まらなかった。事実、金子は主婦だし、大槻は女学生なのだから、それが何か? とツッコミたくもなる。「主婦的」とか「女学生的」という言葉で批判する森のほうこそ、女を意識し、蔑視していることがよくあらわれている。


 さて、メンバーは、これで暴力的総括、すなわち、 「敗北死」 は終わりという期待をしていたようだが、そうはいかなかった。 それどころか、「死刑」 という 「新たな地平」 に連れて行かれるのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html

1972年1月9日 何気ない日常の恐ろしさ
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html


 今回は、行方死亡後の出来事をフォローしておく。

 メンバーは久々の任務について、活動にでかけていた。


■メンバーの状況(1月9日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。

吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)吉野の子供を妊娠中。会計係をはずされた。
大槻節子 (革左)「女まるだし」「女学生的」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)黒ヘルグループをオルグするために東京へ
岩田平治 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ(運転手)
中村愛子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ
寺林喜久江(革左)荷物を回収に井川ベースへ
伊藤和子 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)荷物を回収に井川ベースへ
青砥幹夫 (赤軍)黒ヘルグループをオルグするために東京へ

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)
加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)
行方正時 (赤軍) 敗北死の規定なし(1月9日・凍死or衰弱死)


■「岩田君は僕に似ている」(森恒夫)


 岩田氏、前沢氏について森氏は、最初から評価していたが、とりわけ岩田氏を高く評価し、「岩田君は僕に似ている」とさえいっていた。しかし、森氏が高く評価した彼らがのちに脱走することになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、山岳ベースで、ずっと心理学者気取りであったが、まったく的外れだった。


■「中村さんと結婚したい」(山崎順一)
 夕方、井川ベースに整理に行ったメンバーが帰ってきた。

 夕方、井川に行っていた山崎氏たちが戻ってきた。さっそくリュックを持って、大槻さんや山本氏たちといっしょに車まで荷物を取りに行った。その際、大槻さんがすすんで重い荷物を運び、私の方が驚いてしまった。(中略)
 それだけに、こんなに頑張っている大槻さんに対して「総括できていない」という指導部の態度が腹立たしかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 中村さんは、「山崎さんは、運転中に眠気止めといってタバコをのんでいたけど、帰ったらのめなくなるから今のうちに沢山すっておくんだといってスパスパすった」とさもおもしろそうに話した。
 また、山崎氏は、「車の荷台にちょこんと横になって寝ていた中村さんがかわいかったので、中村さんと結婚したいと思った」と明るい調子でいった。
 私は二人の気持ちがそういう風ならそれはよいと思い、ニコニコしながら聞いていたが、これらのことがのちに批判的に取り上げられることになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 夕食後、土間で一服しながら皆と雑談したとき、私は、山崎氏と、新しいベースの調査には2人で行こうと約束し合った。これは、山崎氏が運転手としての地位に安住していたと自己批判したことから、できるだけ他の任務をした方がよいと話し合い、誰か行くものはいないか聞かれたら、2人で立候補することにしていたからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「植垣、お前の大槻に対する態度は何だ」(森恒夫)
 夜9時ごろ、遠山、行方の死体を埋める作業が行われた。坂東、吉野、植垣が行方の死体をかつぎ、坂口、山田、寺岡、山崎が遠山の死体をかついだ。


 戻ってきた時は午前零時をまわっていた。

 この時、森氏は植垣氏を中央委員のこたつの所に呼び、まず、杉崎さんと一緒に山岳調査に行くよう指示し、さらに党員にすることを伝えた。植垣氏は了解したものの、今一つ彼らしく張り切る様子はなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 植垣が気乗りしなかった理由は、ひとつは、山岳調査にいく相手が山崎ではなかったことだ。しかし、森は脱走を異常に警戒していたから、仲の良い2人組にすることはなかった。

 もうひとつは、他の党員候補が、前沢、岩田、寺林と聞いて、植垣の評価と違い、拍子抜けしたからである。

 そのあと、森氏は、「南アルプスでは、お前も大槻もすぐれていたが、ここでは違うんだ。お前の大槻に対する態度は何だ。いやらしいぞ」と批判しだした。私は、まずいことになったと思い、あわててその場をはなれた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森が、「南アルプス」といったのは、連合赤軍になる前の、赤軍派と革命左派の共同軍事訓練 のことをさす。 森は、榛名ベースでの植垣の大槻に対する態度を 「いやらしいぞ」 と批判したが、実は、共同軍事訓練のときの植垣の態度 のほうが、批判されるべきだろう(笑)


■連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされた
 今回の話は、大したエピソードではない。しかし、行方が死んだ直後なのに、何もなかったかのように時間が流れた。それが逆に恐ろしい。


 行方の死で、死亡者は6名になった。もうかんべんしてくれと言いたくなるが、まだあと6名死亡するのである。


 これまで検証してきて、はたして、「彼らはどこでどんな間違いを犯したか」 という答えがみつかったかというと、ノーと答えるほかない。ここだ、と指をさせるポイントはみあたらないのだ。

 あとから考えてみても、ここでとどまるべきだったといえる明確な地点はどこにもない。いいうることはただ、ある人間が泳ぎだし、ちょっと遠くまで泳ぎすぎたということだ。しかし、どのひとかきが余計だったのか、正確にどの地点で引き返すべきだったのか、はっきりと考えることの出来る人などいないだろう。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー -日本赤軍派-」)


 ただ、引き返すチャンスはあった。最大のチャンスは、最初に尾崎が死亡したとき である。死者が出るとは想定外だったメンバーは大いに動揺し、それは森恒夫もまったく同じだった。


 ところが森は、指導方法を改める代わりに、瞬時に、「敗北死」という規定を提示した。「敗北死」は自らの指導を正当化すると同時に、メンバーに免罪符を与えるものだった。動揺していたメンバーは、「敗北死」にすがったのである。


 もし、尾崎の死を「敗北死」と規定しなければ、2人目の死者はでなかった可能性が強い。連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされたのである。それゆえ、森の理論の中でも、「敗北死」の理論はもっとも罪深いのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html

86. 中川隆[-11452] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:01:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[543] 報告
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1972年3月12日 頼良ちゃんを救え!   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html
 森の上申書をきっかけにメンバーの自供が相次いでいる。ただしそれは断片的なものだったので、新聞はそれらを組み合わせ、ストーリーを考え、記事を創作したとしか考えられない。当時これらの情報により、彼らは自分とは違う人間なのだと思っていた。


■3日間夫は泣いた 山本保子(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-12 毎日 朝刊19


 山本保子は素直に取り調べに応じ、「私は夫が殺されるのをこの目で見た」と始めて語った。幹部に少しでも逆らうと総括を受け、リンチはしょっちゅうだった。とくに永田のリンチぶりはひどかった。リュックにおしめを入れていると夫の順一が手伝ってくれた。これが永田の目に留まり「夫婦はブルジョア趣味だ。もっと強くならなければならない」となじった。ついに夫は総括を受けることになった。1月下旬、森、永田らは突然、「これから総括する」と言って腕や手足を縛り上げ、木切れや板でなぐったりけったりした。私は駆け寄ろうと思ったが、監視がきびしく泣き声すらあげられなかった。リンチは3日3晩続いた。夫は寒かったのだろう。"オー、オー"と叫びながら助けを求めていた。3日目になると声も出なくなった。夫は死んだのだ。


 直接話法でかかれているが、事実とはまったく違う。保子はリンチの現場にはいなかったし、森、永田もリンチの現場にはいなかった。山本順一の総括は坂口が中心に行なわれた。

■処刑の跡 ロープ 無数の弾痕 暗い穴の中に焼けた布切れ(毎日)
 榛名山アジトは榛名湖から保育等に約5キロ。4畳半くらいの小屋跡にはバスローブのタオルひも、おしめのような布、クギ、カスガイなどが凍り付いている。小屋のすぐ上に深さ1メートルぐらいの穴があり、細かい布が無数にこびりついていた。すぐ下の大木には、人の背中の高さのところにロープでこすったような跡がある。小屋から5メートルぐらい下ったところに小さな小川が流れている。そのほとりに黒く焼けた木材、石などがころがっていた。ここが彼らの炊事場。炊事場に隣接するこの小川の中がトイレ。おびただしい量の排泄y物や、生理用品が、済んだ水の中に浮いている。・・・榛名山アジトの小屋周辺はすべてが焼き払われており、灰化したような土の山。それは、自分たちの犯行の血なまぐささに耐えられなくなり、その悪夢を振り払おうとして、撤退していく彼らの暗い絶望的な姿を思わせた。


■頼良ちゃんを救え! 連れていた中村手配(朝日)
 保子の供述によると頼良ちゃんは1月末、榛名山味とから、迦葉山アジトに移った直後、「夫婦、親子の関係を清算しなければ革命はできない」と幹部に指摘され、保子の手から中村愛子に移されたままという。

 中村愛子は2月7日の雪の朝、榛名湖畔でストーブにあたらせてやった食堂経営者佐藤道三さん(48)は「てっきり自殺かと思った。...こちらの心配を気にしてか、"自殺なんかしないわよ"とはじめて笑顔をみせた。あの赤ん坊はどうしているんですかねえ」という。

 身元引受人にされた高校時代のAさんも「ひどく疲れているようだった。タクシーの中でほとんど話をしなかった。"事情がある"というだけで、あとはよくわからないまま"サヨナラ"といって行ってしまった」といっている。


■前沢が出頭 リンチこわくアジトを脱走(朝日)
 11日親類2人につきそわれて東京・練馬署へ出頭した。2月7日、金を一銭ももたず、乞食のような身なりでやってきて、塗装業の栗田さんの手伝いをしていた。栗田さんは指名手配されて顔写真がいっせいにのった10日の新聞記事をみて驚き、「これではきれいさっぱり話してしまわなければいけない」と前沢を説得、出頭したという。前澤は「リンチの場面をみてこわくなり組織をやめようと逃げた」と語った。


■夫婦も兄弟もなかった  肉親でもリンチ殺人 車もたつき"総括"直前(朝日)
 奥沢修一(22)の自供によると・金子みちよの殺害には、当初吉野が不在のときといわれていたが、吉野も手を下していた。加藤には弟も殺害に参加。これは「夫婦、親子、兄弟などの関係は革命の前には放棄すべきだ」とする永田の考え方の実践で、同時に生き残る者に対する「踏み絵」としての意味を持たせた。肉親同士殺し合うという異常ぶりに「革命の精神が高められた」と総括していたという。

 山本は運転をしばしば誤って総括されたが、車をミゾに落とすことは、そのまま犯行の発覚につながる恐れがある、と重視されたという。死体搬出でスリップしてミゾに車輪を落とした山本は、味とに帰ってから森や永田に「気合が入っていないからだ」と厳しい追及を受ける結果となった。

 2月7日、奥沢は怪しまれてレンタカーを断られると、永田が「革命精神が足りなかったからだ」と総括にかけられた。奥沢は死を覚悟したが、心酔していた森から「あと1日やるから車をかりてこい」と1人だけ残った運転技術を買われて助けられた。8日に車輪を溝の落として近所の人に助けられて人目につき、16日にもぬかるみに車輪を取られて警官にみつかり、グループの破滅につながった。

 結局、山も虎の運転技術者を「運転の仕方が悪い」などの理由で次々に殺して言った最高幹部の"過剰殺人"が、奥沢のようなまずい技術者の起用につながり、壊滅的な打撃となって終わった。

 加藤は1月上旬ごろ、女性関係のもつれから榛名山アジトで人民裁判にかけられ、リンチされることになった。次男Aもそのメンバーに入れられて一緒に殴った。三男Bは兄の処刑が決まりリンチが始まると「殺される」と思い、森ら最高幹部たちに「兄さんの命だけは助けてほしい」と訴えた。この命乞いに森は「だまっていろ、兄のことは組織に任せておけ」と答え、聞き入れられなかったという。


 最後の加藤リンチの状況は事実と違う。次男Aも三男Bも、永田に促されて2人とも殴った。命乞いうんぬんのくだりは彼らの手記にはでてこない。


■「女問題・逃亡は『死刑』」 青砥が自供 山崎惨殺は見せしめ(朝日)
 山崎順(21)があまりにもむごたらしい殺され方をしていたため、青砥らを追求したところ、山崎は榛名山アジトに出入りしていた女性をめぐって他の男とトラブルを起こした。森・永田らからとがめられたことから、イヤ気がさし、逃亡しようとしたところをみつかり、人民裁判にかけられた。

 同アジトでは、少ない女性をめぐって、他にもトラブルがあったため、森・永田らは、「これ以上女性トラブルが増えると組織がもたない」と考えていた。こうした中で脱走者が出ることを厳しくチェックするようにしたり、山崎の脱走行動がヤリ玉にあがったという。このため山崎は他の処刑者と違って死刑宣告を受け、殺され方もみせしめのため、みんなの前でわざと残虐な方法がとられたという。


 山崎死刑は幹部だけで話し合われて、メンバーには死刑の理由を知らされていなかった。メンバーの自供に基づいた記事のため、事実と違う記事になったと思われる。


■永田洋子という女 森しのぐ実力 飛びぬけて激しい言動(朝日)
 永田の存在が不気味にクローズアップされてきた。アジト内の会議では議長の森を牛耳った。処刑の場では大声をあげてメンバーを動かしていた。当局の調べに対し、逮捕者が相次いで脱落、自供していく中で、彼女だけは口を割らない。「実質的な指導者は森ではなく永田ではないか」という評価も生まれつつある。


▲リンチ通し地位高める
 山本保子の供述によれば、永田はリンチのとき飛びぬけて激しい言動をみせた。集団リンチという異常極まりない行動をとるとき、病的に冷酷な人間が最低一人は必要といわれる。当局によればそれが永田だった。逮捕当時「ナンバー1」の森さえ、永田を抑えきれなくなっていたらしい。彼女はリンチを加えることによって組織内での自分の地位を高め、ついに事実上の「ナンバー1」にのしあがったといえるようだ。


▲死に行く者をあざ笑う
 最後に処刑された山田孝は妙義山のほら穴アジトで縛られ、雪の上に放置されていた。死の直前、のどのかわきをいやすためか、山田はからだを必死にねじまげて雪をなめ、そのまま死んだ。居あわせたメンバーは一瞬シーンとなった。洋子はその静けさを破るように大声で笑いながら言った。「こいつは死ぬまで食い意地が張っている」(警視庁への密告から)


 これはひどい。山田が死んだとき、永田は森とともに東京アジトにいて現場にいなかった。関係者がそんなこと供述するはずがない。全員逮捕されているのに「警視庁への密告から」というのも奇妙だ。「永田」でなく「洋子」と呼称しているのは女性を強調するためだろうか。


▲警官の心臓めがけ短刀
 永田は森恒夫と妙義山中でつかまった。登山ナイフをふりかざしながら機動隊員と取っ組む森に「やれえッ、やれえッ、殺せッ、突き刺せッ」と声を限りに叫んだ。機動隊員が雪ですべって森に組み敷かれると彼女もとがったやすりを振りかざして旨めがけて突き刺そうとした。機動隊員は防弾チョッキを着ていたので、ケガを免れた。あとで、チョッキを調べたら、刺し跡は心臓のみに集中していた。


 「十六の墓標(下)」(永田)によると、永田が持っていたのはナイフであり、すぐ取り押さえられたというから、攻撃できたとは思えない。心臓にナイフを刺したのは森。


▲不美人を気にする日常
 「色黒。ギョロ目、上歯やや突出した感じ」(手配書から)。美人とは言いがたい永田はそれを自覚してかどうか、仲のいい活動家に「私だって子供には慕われるのよ」といっていた。浅間山荘にたてこもった坂口弘と同性していたところ、わざと腕を組んで見せて「新婚なのよ」と誇らしげに話した。人目をそらすための、偽装だけではなかった、と当時を知る人たちはいう。


▲仲よい山本夫妻いびる
 坂口は心臓が弱く「夫婦仲」は必ずしもよくなかったようだ。夫婦仲のよかった山本夫婦のむつまじさにイラ立って「夫婦気取りで革命はできない」と非難した。保子が子供のおむつを味との外に干そうとすると「人にみつかる」ときつくたしなめた。群馬県警に逮捕された1人は「嫁いびりのようだった」と表現している。


▲永田とはだれの名だ
 妙義山中の逃避行の際、警官に職務質問されたことがあった。洋子は一緒にいた森ととっさにキスをして、アベック旅行者を装ったという。逮捕後、自分への手配書をみせられると泣いて悔しがったが、取調べでは一番係官を手こずらせている。自分が永田であることを認めていない。留置場につけられた「永田洋子」の名札をみて「これはいったい誰の名前だ」。取調官にたて突く。「殺人罪とはどういうことをいうのか」「刃物を持つのが悪いとはどういうことか」ダバコをすすめると「オマエらのものをすえるか」しかし、しばらくして灰皿の吸殻を拾ってすった。


 いくらなんでも職務質問中に「とっさにキス」をしたとは信じ難い。取調べの模様は「続・十六の墓標」(永田)に詳しい。それとはずいぶん違う印象だが、このようなう面もあったかもしれない。タバコの件は「タバコを権力にもらうのはよくないが、落ちているタバコを拾ってすう分には問題ない」という連合赤軍ルールによる。森も「拾って」吸った。


▲コーヒーを飲ませろ
 彼女はいま群馬県高崎署に収容されている。朝晩留置場から調べ室に警官が両脇をかかえて進行する。その警官に必ず彼女は言う。「病人だから大事にあつかいな」調べ室ではあいかわらずだんまりを決め込みプイと横を向く。そしてときどき命令する。「病気だから調べをやめな」「下着を買ってくれ」「コーヒーをのませろ」「弁護士を頼んでくれ」永田はバセドー氏病にかかっている。


 永田の感情の高ぶりがよくバセドー氏病と結び付けられるが、まったく関係はない。また「永田はバセドー氏病のため子供が生めない体だから、妊娠した金子に嫉妬していた」などとかかれる事もあるが、これも病気とは一切関係がない。事実、永田は妊娠し中絶している。この経験から、金子が妊娠したとき「今後は子供を生んで育てていくようにしよう」と提案し、祝福したから、金子は山に入ったのである。


▲大学生も恐れる論旨
 京浜安保共闘の川島豪議長が逮捕されてから「理論面」で永田に並び立つものはいなかった。アジ演説も巧みだし、論旨もそれなりに明快だった。だから議論になっても反論するものはなく、大学生のメンバーでもひたすら恐れ入ってしまったという。


 「大学生も恐れる論旨」という見出しからもわかるように、当時、大学生はエリート扱いされていた。だから赤軍派は「労働者諸君!」などと見下すようにアジっていたのである。ちなみに永田は共立薬科大卒業だ。


■13人目のリンチ殺人(毎日)
 京浜安保共闘がが独自で山岳アジトを作ったとき、リンチ殺人が行われたとみている。これは中京安保共闘の少年2人と同、寺林真喜江(23)、京浜安保共闘の伊藤和子(22)、山本保子(28)の断片的な自供から得たもの。


■その他の記事
きょう4人の死体発掘 保子が現場を案内(朝日)
37名の警官が負傷した明治公園爆弾事件は森が陣頭指揮をとったと青砥が自供(毎日)
頼良ちゃんを連れて逃亡したとみられる中村愛子(22)を森林法違反の疑いで全国指名手配(各紙)

https://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html

87. 中川隆[-11449] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:30:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[546] 報告
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1972年3月13日 破滅の魔女・永田洋子   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme

 この日の紙面は永田バッシングのオンパレード。憶測(でっちあげ?)記事が多く、なんでもありの書きたい放題。新聞の間違い探しをするのが目的ではないが指摘しないわけにいかない。連合赤軍の”総括”を批判しながら、連合赤軍の"総括"とまったく同じことが行われているのだ。新聞とはかくなるものであったか、と痛感する。


■さらに四遺体 同じ穴、折り重なって(毎日)
 群馬、長野寮県警は青砥らの自供にもとづき、榛名山ろくで男3人、女1人の死体発掘作業を行い、4遺体を収容した。同本部は、加藤能敬(22)、尾崎充男(22)、進藤隆三郎(21)、小嶋和子(22)と確認した。これで9人の死体が発見された。


■隠された"ねらい"に焦点(朝日)
 連合赤軍殺人事件は13日の発掘で12人全員がみつかり、殺された人数は12人と断定した。これは8日森が前橋地裁あてに書いた上申書の内容とこれまでの捜査経過から判断されたものである。
 警察当局はこれだけ陰惨なリンチ事件を繰り返し、組織を防衛してきた背景には、何か、大きな目的があったのでは、と疑っている。その1つに妙義アジトでつかまった森恒夫と永田洋子がまっ先に捜査員に聞いたセリフ「東京で何かあっただろう」という質問がある。この永田のセリフからして、その前後に東京またはその周辺で何事かが起こるか、武器の隠し場所がわかるなどのことがあるはずだが、1ヶ月あまりたったいまもそうした動きを警察はつかんでいない。


 森や永田が「東京で何か起こらなかったか?」と聞いた、という記事は3月1日の読売新聞にもでていたが、彼らの手記を読んでみても、東京でコトを起こそうとしていた気配はない。


■恐怖の"穴掘り役" 次は自分が「総括」に 山本保子、前沢ら自供(朝日)
 遠山、行方、寺岡の死体の処分は保子が運転する車に死体をのせ、監視役として坂東か吉野がのりこみ、穴掘りは前沢だった。前沢と保子が死の恐怖を感じたのは、遠山、行方、寺岡が尾崎ら4人の死体処理に出かけたときに永田が「次の処刑予定はあの3人だ」とアジトでもらしていたのを聞いたためで、自分達も同じ運命にあると感じたという。

 前沢らが「今度は自分の番だ」と恐怖にかられていた矢先、山崎順の「脱走失敗」のハプニングがあり、死刑が行われた。森らの自供を総合すると、保子についての疑いが晴れなかったので、その長女、頼良ちゃんを人質として取り上げ、中村愛子にあずけさせるとともに、保子の身代わりとして夫の順一を総括して殺し、保子らに対する処分を先延ばししたという。


 永田は次の処刑予告などしていない。山崎は脱走失敗したわけではない。保子の身代わりとして順一を殺したということではない。


■「総括」と「死刑」は別 「死は彼らの敗北」 森の自供(毎日)
 森は自供の中ではっきりと「総括」と「死刑」2つの殺害方法があったことを明らかにした。これによると「総括」とは「ブルジョア社会の残存物を排せつして、革命戦士として自らを変えていくことであり、討論(自己批判要求のこと)の過程で"総括"しつくせないときは、暴力の援助(全員によるリンチを意味)をし、仮にその者が死しに至った場合は敗北になる」という。「死刑」については「味方を敵に売り渡す裏切り分子に対しては"死刑"を宣告した」という。しかし、森は総括にかかれば死以外にはないことも認めている。


 これは重要な記事だ。森が「暴力の援助」や「敗北死」について自供しているのがわかる。ここにリンチ殺人の本質のヒントがあったのだが、当局もマスコミも、この論理を「身勝手」と一蹴し、一顧だにしなかった。その姿勢は後の裁判においても続く。しかし、いかに身勝手な論理であっても、彼らはそれにすがってリンチ殺人を行っていたこともまた事実なのである。


■「15人を殺した」永田洋子ついに自供(毎日)
 永田は2月17日、妙義山アジトで逮捕されて以来高さ貴書に留置、取調べを受けていたが、名前も応えず、捕まったことに悔し涙を流しただけ。あとはかたくなに黙秘を続けていた。


 しかし13日になって、奥沢の自供によって山田隆や金子みちよらの発掘当時の無残な全裸死体のカラー写真と山田の引きちぎれた衣類、森が8日に書いた上申書を見せたところ、永田は動揺の色をみせた。


 始めは「この上申書はウソだ」と言い張っていたが、やがて見覚えのある森の筆跡に納得したのかカラー写真をじっと見つめた。そのうち全身を震わせはじめ、まず「永田」であることを認めた。刑事の間髪をいれぬ厳しい追及に群馬県下での連合赤軍関係の12人殺害の事実を認めた。


 さらに奥沢や11日自首した前沢、少年兄弟2人の「永田は丹沢や大井川の山岳アジトでもやっている」との供述を告げたところ「そうだ」と認めたという。


 血の粛清をした事実については「15」の数をあげているが、どこでたれを殺したのかは、まだはっきりとはいっていない。人数と場所の関係については、森、奥沢、前沢の供述を総合すると、西丹沢では男女2人、多い側では男1人になっている。


 「永田自供」のニュースは毎日だけが一面で報じた。朝日と読売は翌日の朝刊に掲載されることになる。不思議なことに毎日はたびたび他紙より1日早く記事になる。「15人」というのは何かの間違いだろう。翌日の朝日、読売では「14人」と自供したことになっている。

■永田洋子の残忍さ 女はみんな丸坊主(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 毎日 夕刊11

 12日、榛名山で発掘された小嶋和子の頭髪はわずか1センチ。迦葉山で発掘された金子みちよ、大槻節子の頭髪もほとんど同じ状態だった。これらの被害者は「イヤリングをするのはブルジョア的だ」「物質欲が強い」「コケティッシュだ」と普通の女性なら誰でももっている"本能"を「反革命的である」と決め付けられ、永田洋子の命令で徹底的に痛めつけられた。


 「総括」-。永田のツルの一声で、たちまち両手足をしばられ、なぐられ、けられ、あげくの果てに「自己批判しろ」と長い髪をつかまれて、ハサミでバッサリやられた。いわば、女性への最大の恥辱がリンチの手始め。それは組織(仲間)への見せしめなのか、不美人と言われる永田のうっぷんばらしだったのか。 永田は共立薬科大に在学中、目が飛び出るバセドー氏病にかかった。娘時代に、この突然の容ぼう変化は劣等感をつのらせ、自分より美しいものへ憎悪をかりたてたのではあるまいか。


 特に仲むつまじい男女への仕打ちはまるで嫁いびりのシュウトメのようにネチネチとしつこかった。大井川、丹沢のアジトを経て榛名山アジトに移り革命を妄信したグループの閉鎖社会の中で、数少ない女性リーダーとして仲間からチヤホヤされているうちに、うっ積していた美しい者へのネタミが一挙に爆発、それ以降は森をも押さえて"革命"の名のもとにやりたい放題だった。永田の目は1日中、女性隊員の行動をギラギラと追い続け、ちょっとでも男から声をかけられた女性は絶対に許さず、それが"任務"の話であっても永田の目には男女間の"恋愛行為"と写ったらしい。


 こうしてささいなことを取り上げては"総括"の対象者に仕立て上げ、そのリンチも髪を刈ることだけでは満足せず、被害者を雪の中に放り出したあとも、妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐり「お腹の子供をひっぱりだそうか」と森と真剣に協議していた。 サイギ心とネタミにとりつかれた心は、逮捕後もガンとして開かず、森をはじめ逮捕者が次々に自供した中で、1人"反抗"を続けている。その心は革命とはまったく無縁の"狂気の女性心理"といえる。


 金子と大槻の緊縛や暴力を主導したのは森である。髪を切ったのは「手始め」でなくリンチの後であり、逃亡を防ぐためだった。妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐった事実もない。金子が総括できない場合「子供を取り出すことも考える」と言ったのは森である。


■ナイフ刺し「抜くな」 永田が、とどめ(毎日)
 寺岡恒一(24)が虐殺された模様が杉崎ミサ子(24)の自供で明らかになった。寺岡は死刑の宣告を受けた1人で、森がナイフで心臓をえぐり、永田が首を絞めてとどめを刺した。森が寺岡に対して「坂口の地位をねらっていた」と詰問した。全員の厳しい追及に寺岡は「現在はそんなことは考えていない。しかし過去にそのような考えを持ったことは確かにあった」と応えた。このため森が死刑を宣告、坂東に目配せした。坂東はいきなり正座している寺岡の左太ももにナイフをつきたてた。寺岡がナイフを抜こうとすると、まわりから押さえ込んで15分間もそのままにさせた。坂口はそのナイフを抜くと、寺岡の左腕に刺し、こんども抜かずに15分間そのままにした。森はこのナイフを抜き取ると、正面から寺岡の心臓を深く刺した。
 ひん死の状態になった寺岡に、永田は杉崎にアイスピックをにぎらせ「とどめをさせ」と命令。杉崎は寺岡の首の後ろを刺した。さらに永田はヒモで首を絞め、絶命させた。


 寺岡の足にナイフを刺したのは坂東でなく森。腕に刺したのは坂口でなく坂東。「首の後ろを刺せばいいのでは」といったのは永田ではなく他の誰か。ヒモで首を絞めたのは永田ではなく他のメンバーたちである。首の後ろを刺したのもヒモで首を絞めたのも、なかなか絶命しない寺岡を早く楽にさせてやりたいという気持ちからであった。


■「七人委」が殺人儀式 指名の証人、次は被告(読売)
 これまで森らは全員が裁判に加わったと自供していたが、前言をひるがえし、7人が合議のあと森と永田が最終結論をくだしたという。"総括"とするか"死刑"とするかを宣言したのは森で"判決"があると全員が"被告"にとびかかって縛り上げ、次々になぐるけるのリンチを加えた。


 永田は、刑の執行をながめながら被告の行状を口汚なくののしり、"被告"が助けを求めても、「だれがお前の潔白を証明できるのか」と誘導尋問し、仲間の一人を名指しすると、名がたらはその名指しされた仲間にいっそう激しく暴力をふるうよう命じていた。この証人探しは森、永田にとっては、次の被告選びでもあったという。


 永田は”被告"の行状を大げさにののしったのは確か。かなり迫力があったらしい。だが、証人探しはしていないし、次の被告選びということもなかった。


■チリ紙をとって、といっただけでも(読売)
森恒夫などの自供で、児島和子ら4人の総括と称される処刑理由が明らかになった。
小島和子=●男と肉体関係を結んだ●組織の指示に従わなかった。
尾崎充男=●合法活動をしている者に銃器の保管場所を教えた●寝袋に入ったままチリ紙をとってくれといった。革命的でなく甘えている。
加藤能敬=●小島和子と肉体関係を持った●作業態度がよくない。
進藤隆三郎=●女遊びばかりして革命実践に対する意欲がみられない。


 同じ記事が3紙とも掲載されているから公式発表と思われる。こういう些細なこと(しかも過去のこと)が、総括要求となり、死へのリンチに発展した。


■兄貴も浮かばれる(読売)
 「ああ、これでよかった。兄貴もやっと家へ帰れるだろう」-加藤倫教(19)は兄、能敬の遺体が発掘されたと知ると、こうつぶやいた。「線香を立てて、兄のめい福を祈らせてください」と係官に頼み込んでいた。「リンチが終わったあと、弟のこっそり"この日を兄貴の命日にしよう"と話し合った」とポツリポツリ語った。


■森、永田は再三上京 前沢ら自供 土田邸事件とも符号(朝日)
 この自供は前沢、山本ら。森は「あの事件はわれわれではない」と土田邸爆破事件の犯行を否定したが、上京して何をしていたか、については供述していない。しかし長野県に逮捕されている被疑者の中で「あの事件をやった」としていることなどから、事件解明を急いでいる。


 「土田邸爆破事件」とは、土田国保警務部長の私邸に届けられたお歳暮に見せかけた爆弾が爆発し、夫人が即死した事件。警察はメンツにかけて犯人逮捕にやっきになったいた。これは連合赤軍の犯行ではない。後に、活動家18名が逮捕・起訴されるが、公判中に捜査当局のデッチアゲが明らかになり、全員無罪となる。

■リンチはこうして 「総括」は夜中に 理由はどうにでも 永田は手を下さず(朝日)
▼午前2時
 森の「起きろ」の声が犠牲者の出る人民裁判の開始を告げた。「だから夜中が恐ろしかった」と恐怖を語る自供が多い。裁判にかける理由はさまざまだが、異様なまで永田が嫌ったのは男女関係だった。アジト移転のときオムツを袋に入れる山本保子を手伝ったという理由で、夫の順一が殺された。死の直前に「オー、オー」と大声を上げているのを聞き、永田は生き残りの妻保子に近づいていった。「何いってんのよう」「赤ちゃんを呼んでいるのかもしれない」「違うわよ。あんたを呼んでいるのよ」。このあと保子から4ヶ月の赤ちゃんを引き離したりもしている。保子を恐怖でナマ殺しにしていたわけだ。


 理由は何でも良かった。ささいなことを取り上げて、妊娠8ヶ月の金子みちよ(24)を3日間も立ったまま屋外に縛りつけて殺してしまうのだった。女が女を憎むとき、もっとも陰惨なリンチとなって現れていた。


 山本順一が総括要求された理由は運転技術が未熟なのを認めなかった点と暴力に否定的で「物理的に手伝っただけだ」といったこと。「オムツを袋に入れるのを手伝った」からではない。


▼素手
 「総括」は立ち直りを「援助」する名目だった。処刑・リンチに幹部はナイフで「兵士」は素手で全員が参加した。


 ナイフやアイスピックは「死刑」の場合に使われたのであって、幹部以外も使っている。「総括」の場合は幹部を含めて刃物は一切使っていない。「死刑」と「総括」は区別されていた。


▼寝袋
 総括にかかりそうになって助かったのは、ただ1人の運転手だった奥沢だけ。処分が決まるとたちまち縛り上げられたり、ナイフを突き刺された。処分が出されてしまえばそれで終り。大槻と金子と山田は縛られたまま寝袋に入れられ運ばれた。..遺体解剖で胃に食べ物が入っていたものはほとんどいない。


▼罪状
 リンチのときに永田はいつも叫び続けた。犠牲者の罪状をあげて責め続けた。これが総括の集団ヒステリー的空気をさらにあおった。しかし永田自身はけっして手を下さなかった。永田は自ら実行しないことで「手が汚れていない」と言い逃れをしようとしたのか。


■これがアジトの生活 幹部はパン食、銃訓練 兵士は雑炊、たきぎ集め(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊03

▼生活
 森らはパンやミルクなどうまいものを食べることが多く、大部屋組は土間で麦・野菜・魚のカンヅメを使った雑炊が多かった。森か坂口が「食べろ」と合図するまでハシに手をつけられなかった。大部屋組は「革命」のためには多少の空腹に耐えて体を鍛えよ」と幹部から言われていた。...昼間は小屋作り、たきぎ拾いが作業の中心で、永田以外の女は交代で買い物に行かされた。夜は6時に寝た。


▼人民裁判
 .いっさいの反論は許されず、他の活動家の弁護も聞かれなかった。幹部7人いても追求するのは森・永田の2人で、独裁的な"判決"が下されていた。.幹部のうち寺岡と山田も殺されたが、その理由については幹部以外には知らされなかった。


▼訓練
.. 7人の幹部は腹心の青砥と植垣をつれて9人で銃器をもち、アジトからさらに数キロもはなれた山奥へ向かっていった。留守組はアジト作りに終われ訓練らしい訓練をしていなかった。山奥に訓練に出かけた幹部は半日ぐらい帰ってこないことがあった。


 連合してから射撃訓をしたという話は彼らの手記には書かれていない。


▼学習
 .テキストやパンフレットの使用はほとんどなく、森が連合赤軍の精神について1人でしゃべりまくることが多かった。それに対して意見を述べたり討論することもあった。反対意見も許されたが武装ほう起の路線をはずれたり、批判することだけは許されなかった。


 永田はたびたびレジメうぃ作ることを森に申し入れるが、森はこれを無視し続けた。森にとってはメンバーを革命戦士に飛躍させることが最大関心事だった。


■取調べ軟化 永田洋子(朝日夕刊)
 12日、永田は係官の点呼に「ハイ」と初めて答え、永田であることを認めるなど、態度を軟化させ始めた。この点から事件の本筋に
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2022/05/25 (Wed) 10:07:54

■取調べ軟化 永田洋子(朝日夕刊)
 12日、永田は係官の点呼に「ハイ」と初めて答え、永田であることを認めるなど、態度を軟化させ始めた。この点から事件の本筋についての自供も間近いとして、本部は追及に全力をあげる。また、奥沢から「ほかにもう2人ぐらい殺されている、という話を聞いている」との供述を得たため、事実かどうかの確認を急いでいる。


 群馬県内以外にも連合赤軍のリンチの被害者がいる、との情報について、警察庁は疑問を持っている。警察庁が疑問を持っているのは、(1)事実を目撃したわけではなく、幹部が話していたとの伝聞である(2)前沢虎義、寺林真喜江らは「そんなリンチがあれば次の榛名アジトなどへはこわくて参加しなかった」とはっきり否定しているなど。


 読売夕刊には以下のように報じられている。


 長野県警本部の得た自供は森恒夫の「永田洋子からの伝聞だが、京浜安保共闘だけが集結した丹沢アジトで粛清があり、男女2人が殺された」というもの。さらに青砥ら2人が「丹沢か、奥秩父、大井川上流アジトで、やはり粛清があったらしい」と供述した。


■すらすらだんまり 表情も様々"死刑執行人"(読売夕刊)
▼森恒夫(27)
 「同志の死は、ムダにはしない。殺したのは、命を捨てて革命を進めるための人柱だ」と彼ら一流の"総括"について、さる8日、上申書を書いて"殺害"の一切を自供した。さらに永田洋子が漏らしたという丹沢アジトの京浜安保共闘だけの粛清についても自供。夜中に「ウーン、ウーン」とうなされたり、大きな声で寝言をいう。しかし、都内の一連の爆破事件、土田邸爆破事件については、ひとこともしゃべらず「われわれの闘争、粛清については、法廷であきらかにする」とむっつり。殺人以外の事件については、警察を権力と敵視する態度はくずさないが検事とは対話する。


▼永田洋子(27)
 山田孝、山本順一らの死体発掘を知らされたときも、ただ頭をたれただけだったが、この日、群馬県内で最後の12体目が出たことを告げられても無表情。名前も明かさない終始完全黙秘を続けている。森の書いた上申書に「フン」といって横を向き「森さんが、こんなものを書くわけがない」といったのが口をきいた最初。朝の点呼さえ、返事もしないかたくなな態度をとり続けた。ただ13日朝午前6時の点呼で「永田洋子」と呼ばれるとはじめて「ハイ」と答え、追求に「考えさせてください」。


▼坂東国男(25)
 独房の中では食事のときだけ看守のほうを向くが食べ終わり「こっちを向け」といっても、また瀬を向けてすわり続ける。東京から来た保坂節雄弁護士(27)との面会も拒否。「知らねえ人の差し入れは受けない」とみんな断り、1食62円の食事だけ。11日夜は山崎らの遺体埋葬現場の写真を見せられ、顔は真っ青になったが、死人のように口をつぐんだまま。


▼吉野雅邦(23)
 いぜん、何を聞かれても顔をそむけ、無表情に黙秘を続けている。まだ自分の名前すら言っていない。さる10日、自分の子を身ごもっている内妻、金子みちよの死体発掘を知らされたが、表情ひとつ変えなかった。


▼坂口弘(25)
 次々と明かされるリンチ殺人を聞かされても完全黙秘を続け、表情、態度に大きな変化はない。わずかにリンチ死体が発掘されてから、ふてぶてしい態度を和らげてきている程度。雑談にも一切応じず「便所」といった必要以外の言葉は話さない。


▼青砥幹夫(23)
 調べ中、気弱そうな目でジッと一点を見つめたりする。リンチ殺人についてはほぼ供述を完了したが、山本保子の脱走についてはほかの幹部が「子供を人質にしておけば逃げないとみていたが、子供をおきざりにして逃げてしまい、計画が狂った」ともらしていたのを聞いていると言う。


▼奥沢修一(22)
 早くから自供を始めたが、1月中旬以降に合流したため、公判のリンチ殺人を目撃しただけ。迦葉山の三遺体を埋めた場所を自供、案内した。新たな自供をしそうな気配を見せているが「森さんを尊敬しているので、森さんのことはあまり言えない」としぶっている。最近は安心したのか、夜半に2、3回寝返りを打つ程度でよく眠り、よく食べている。


▼伊藤和子(22)
 入浴の介添えに当たった婦人補導員に「人間とは思われない」といわせた和子が自供をはじめたのが10日夜から。「仲間の遺体がでたぞ」と知らされると、総括にあった"同志"の名前を次々と上げるなど、これまでのつき物がおちたように語りだした。しかし、法廷に出たとき、仲間の報復を受けるのではないか-という恐怖感が強く、時々「しゃべっても大丈夫でしょうか」と取り調べ官に不安を訴えている。


■主導権争いで自滅(読売夕刊)
 殺人と言う手段がとられた裏には、丹沢ですでに殺害の実績"をもつ永田が、森ら赤軍派に革命への献身度を誇示して同じ方向をとるように迫ったためだった。同じ過激路線の赤軍派は京浜安保共闘の銃強奪事件で「遅れをとった」として強いコンプレックスを持ち、一連の金融機関襲撃作戦を始めたと言われ、当局ではこうした背景と"強固な革命軍"結成へのあせりがからみあって、森も永田に同調していったとの見方を強めている。


■破滅の魔女 脱落者は消せ 鬼のような絶叫(毎日夕刊)
 事件の全容が明らかになるにつれ、永田の残虐さが説きに際立っている。毎晩開かれる会議で「脱落した者はどうせ戦いには加われない。われわれの殺しの訓練台に使おう」とまくしたてた。「やっちまえ」と毎日絶叫する永田。シーンと静まり返ったアジトで「男だろ。もっと強く首を絞めろ」。スジ金入りの戦士をアゴで使う永田。森恒夫も坂口弘、坂東国男ら中央委員も黙々と永田の指示にしたがうだけ。


 永田の姿は都内各地のデモでもよく見られた。髪をふりみだし、ツバを飛ばし「イヌ」と警官に叫ぶ永田の姿には"女性"を見出すことはできなかった。 しかし、その永田も幼いころは成績優秀なおとなしい女の子だった。「大きくなったら薬剤師になる」が夢だった。微妙な変化が見え出したのは高校時代。世の中は"60年安保"で騒然としていた。「人生、学問とは何か」-永田は思い悩んだ。さらに共立薬科大時代、バセドー氏秒をわずらい、目が異常に突起してから過程でも激しく泣きわめいたりするヒステリックな女になった。


 丸顔、色黒、ギョロ目、上歯がやや突き出た感じ(警察庁の手配書)-異性とのつきあいも少なく、男性コンプレックスに陥っていた永田は、大学を出て病院勤めをしているうち、心臓病で悩む坂口と知り合い、ウルトラ過激派へ-狂気の殺人集団へ突っ走っていった。


 「脱落者を殺しの訓練台に使おう」「男だろ。もっと強く首を絞めろ」などと永田は言っていない。。「やっちまえ」とも言っていないと思われる。坂口や坂東はともかくとしても、森恒夫が「黙々と永田の指示にしたがうだけ」ということはなかった。


■いま"狂信"に泣く 山本保子(毎日夕刊)
 「私は夫と行動をともにしようと群馬のアジトに入った。みんな連合赤軍の同志です。やっと見つけたアジトで、きっと温かく迎えてくれるだろう、楽しい共同生活ができる、そう信じていた。しかし私をまっていたものは、あまりにも過激なオキテ、狂った倫理だった。人間無視の生活。永田のガラガラした、ヒステリックな声が毎日響き、同志が次々と殺されていった。永田がにくい。」


 永田のヒステリックな言動はメンバーの手記にもたびたび出てくる。スタインホフ氏の「死へのイデオロギー」によれば、「永田のやり方は主に個人的に批判をぶつけるというもので、あとであたたかく接することによってバランスをとっていた」。だがそれは革命左派時代までで、連合赤軍になってからは、暖かく接する余裕はなくなっていた。


■「自分が恐ろしい」 杉崎みさ子(毎日夕刊)
 「今回のような人間として許せない残酷な、目をおおうばかりの殺人行為をしてきた自分自身が恐ろしく、また、なくなった方々のめい福を祈る心境から深く反省し、哀悼し、今後自分自身もこれを機会に真人間になって新たな出発をし、両親のヒザ元に帰り、親孝行をしたいと思っている」


20:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:08:44


■(広告)週間サンケイ臨時増刊号

「連合赤軍全調査」特別付録 6インチ両面シート あさま山荘トップシーン完全録音盤


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊CM


ソノシートの付録つきとういうのが当時ならでは。

この時期、週刊誌は連合赤軍特集の臨時増刊号を出している。だが、それは結果的にあさま山荘までの"前編"になってしまった。各誌とも後に粛清事件を特集したもう一冊の臨時増刊をだすことになる。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme

88. 中川隆[-11447] koaQ7Jey 2019年3月14日 12:56:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[548] 報告
▲△▽▼
1972年3月14日 頼良ちゃんは無事 永田洋子ついに自供
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme

 この日の紙面は頼良ちゃん関連の記事で持ちきり。「目がパッチリ、血色もよく、丸々と・・・」と元気な様子が大きな顔写真写真入りで報じられ、この陰惨な事件の唯一の明るい記事となった。ほかにも永田自供など見逃せない記事が盛りだくさん。


■頼良ちゃんは無事(朝日)
 迦葉山アジトから中村愛子に連れ出されたまま行方がわからなかった頼良ちゃんは無事だった。母親保子に置き去りにされたあと、2月7日、中村に抱かれて山を降りたが、消息をたってから34日ぶりに保護された。


■中村愛子も出頭(朝日)
 21時23分、警視庁に「中村です。これから自首します」と電話をしてきた。5分後に正門に来たので、中村を確認 した。自供によると先月7日から山を下りて、頼良ちゃんといっしょに都内に舞い戻り、まもなく知人に頼良ちゃんを預けた。指名手配を知り、自首しようとしたが、頼良ちゃんを預けた知人と連絡が取れずためらっていた。頼良ちゃんが13日、保護されたことを知ってホッとし、自首する決意をしたという。中村は「リンチの場面をみたか」との係官の質問にうなづいて涙ぐみ下を向いてしまった。


■預かって欲しいと中村から電話 合田さん語る
 合田さんは2月7日(8日に中村と頼良ちゃんを高崎署員がみており食い違いがある)の夜、子供を背負った中村が「今夜泊めて」と訪れてきた。2月9日、合田さんは勤めに出たが、中村から「子供を預かって欲しい」と電話があり、アパートに帰ると頼良ちゃんが一人で寝ているだけで、中村はいなかった。子供の具合が悪そうなので、知り合いの寺岡医師にみてもらい、そのまま預かってもらった。寺岡医師は11日の新聞をみて「大変だ」と思って12日、弁護士に相談、13日一緒に市川市へやってきたという。


■無心の荒旅93日間 友人の子供と中村が預ける(読売)
↓クリックすると読めます。

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972ー03-14 読売 夕刊10

■永田、ついに犯行自供 逮捕以来、25日ぶりに(朝日)
 連合赤軍の主犯格、永田洋子(27)が13日「12人の同志を殺したなかに私も加わっていた」と初めて自供した。逮捕されてから25日ぶりのことである。元"同志"の12人の遺体が発掘されたことを告げられ、"共同墓地"の遺体写真をみせられて、急に態度を変え、リンチ殺人の事実関係について口を割った。


 「オニババア」と同志からもカゲ口をされていた永田。群馬県・高崎署の薄暗い2階。この5号室が永田の独房。連行されたとき永田はまるで、野生の山ネコのような表情だった。留置場では顔は一応毎日洗う。3度の食事も警察で用意したものだけはきちんきちんと食べる。1日1本のタバコもうまそうに吸い、週1度の風呂にも入る。が、救対組織からの差し入れには「名前もわからない人からのものは受け入れない」と拒む。


 ふてくされ、ダンマリを続ける永田に手を焼いた高崎署は取調官を警備部公安担当から捜査の黒沢警部にかえた。大久保事件で名をあげた"落としの黒沢"だが、歯が立たないほどだった。


 それが8日、山田の遺体写真をみせられてから、少しずつ態度が変わってきた。スカートをスラックスに履き替えたり、髪にはくしを必ず入れた。「きょうはきれいだね」と係官が声をかけるとはずかしそうに「へへへへ・・・」。夜、寝てからうなされさかんに寝返りをうつ。独房の隅でじっと考え込むこともあった。


 「どうだい、君だけががんばってないで、もう話したら・・・」の説得に「両親と相談したい」と口を開いたのが11日。そして12日、森の上申書をみせられ、「ニセモノだ」「警察のでっちあげだ」と強がりはいってみたものの、同志の"転向"にささえを失い、ガックリしたのか、13日の朝の点呼にはじめて応じ、同志の殺害を自供した。


 この日、取調室を出てきた永田はジーパンに濃いグリーンのカーディガン姿。腰縄をされているが、髪はさほどみだれていない。フラッシュに驚いて一瞬あげた顔はむしろあどけない感じさえする。血も凍る大量リンチの「主役」とは思えないほど弱々しかった。


 永田が森の上申書を見せられたのは12日ではなく9日。上申書をみたとき、「驚愕し、わけがわからなくなり、何かがガラガラとくずれおちるように感じた」という。全面自供ではないが、殺害の事実を認めた。黙秘については著作で以下のように述べている。


 私の黙秘は、密室で第三者のいない取調べではそれが唯一の防衛であり、権利であるということを理解した上でのことではなかった。それは、黙秘すべきという観念からであった。というのは、何故黙秘が必要であり大切であるかということが語られないまま、黙秘することを絶対的原則のように強調され、黙秘したかどうかが組織員たりえたかどうかの基準、さらには転向しなかったかの基準のように扱われ、雑談でさえも黙秘に違反したことのようにみなされていたからである。(「続・十六の墓標」)


 いうまでもなく「黙秘が絶対原則」の理由は組織防衛のためである。しかし、このときすでに全員逮捕されていて、「連合赤軍」という組織はなかったから、黙秘の必要性は根本からなくなっていた。

 また"落としの黒沢警部"については好意的である。


 取り調べのある時、黒澤刑事と私の2人だけになったことがある。そのときこの刑事はポツンと「お前もかわいそうな女だな」とつぶやいた。留置場から連れ出すときも、取調室に行きたくない私がゆっくり歩いたり、途中で立ち止まって歩かなくなっても、それを黙って待ってくれた。私が菓子パンの購入希望をいうと、すぐに買いに行ってくれもした。この時買ってきてくれたメロンパンもおいしかった。(「続・十六の墓標」)


■編集手帳(読売)
 連合赤軍によるリンチ事件がここまでいやらしくなり得るという標本なら、首謀者の森恒夫が書いた上申書なるものは、人間がこうも得手勝手になることができるという見本である。上申書のように、自分たちが虐殺しながら、かれらの死をムダにせずなどとしらじらしいことをいったら軽蔑されるだけだ。


 本当に1日でも早くかれらのなきがらを家族に渡したいと言うなら、なぜ逮捕されたときにすぐいわなかったか。それをいまごろ取ってつけたようなことをいうから、何を勝手なことを・・・という気持ちにもなるのである。この期に及んで自分だけいい子になろうという魂胆が見えすいている。


 彼らの死は反革命や卑俗な人間性の問題ではなく、生死を賭けた革命戦争の主体構築のための戦いのなかの死とやらだそうだが、チリ紙を出してくれといったのがいかんなどとおよそくだらない理由で殺しながら、ずいぶんと都合のいいきれいごとがいえたものである。できることなら知らん顔で通す積もりだったのに、心ならずも自供したのでてれかくしの意味もあったろう。だがそれよりも、かれらの死を美化することによって、自分たちの殺人行為を正当化するのが上申書の狙いではなかったか。だからこそ、ひとごとみたいにいえるのだろう。


 意味ありげな「総括」と「死刑」の区別にしても、どっちみち死ぬまではやめないのだから無意味であった。総括して死んだ場合は敗北と言うのも詭弁である。まるで死んだ者に理ありといわんばかりだが、総括とはしょせん同志の首を<しめくくる>ことにすぎなかった。


■統一公判を要求 森(読売)
 森は「法廷を戦いの場として、すべてを明らかにする。このため他県で逮捕された仲間を加え、全員を同じ法廷に立たせてほしい」と13人の統一公判を要求した。「12人の遺体はオレの責任で明らかにした。ほかの事は法廷で戦うことなのでいっさい言えない」と口を閉ざし「奥沢は何をいっていますか」「永田に何もいうなと伝言してほしい」と面会人などに頼んでいるという。


そう言っておきながら森は4月13日から「自己批判書」を書き、そして法廷に立つ前に自殺してしまう。


■「私が悪かった・・・」加藤兄の父 白髪めっきりふえて(朝日夕刊)
 加害者の中にはやはり次男、三男がまじっていた。父親は悲しみと憤りをどこにぶつければよいのかとまどいながら「私はすべて自分に向かって問い直しているんです。教育者として、父親としての私に・・・」-約1時間、悲しく語った。


 ある夜、次男の部屋から日本向けの中国放送が聞こえてきた。「毛沢東語録」「ゲリラ戦教程」をみつけたときも感情をむき出しにして怒った。長兄は家を飛び出し、そのころからあわてだした。三男が長髪にしているのをとがめるとくってかかる。あのおとなしい息子が突然変わった。


 3人が家出してから私は息子達の思想を理解しようと進歩的な大学教授の本を読んだ。無責任に革命と暴力を結び付けている。それにしてもなぜもっと早く、息子らの思想を理解しようとしなかったのか、遅かった。


 ただうれしかったのは、次男と三男が坂東の父親の自殺を私と思って悲しんでいた、と警視庁の方から聞いたときだった。私は教師をやめ、2人がいつか帰ってきたら、ほんとうの父親になって息子らに接したい。


■ツキモノ落ちた対面 青砥(毎日)
 青砥は明け方必ずうなされている。大声でわめき、ガバッと起きる。「いつも同じ夢です。高校時代の友人が次々とリンチを受けて殺されていく。私はそれを黙って傍観しているのです。友人の顔が次から次に迫ってくる・・・」。


 13人のうち一番早く自供した青砥。完全黙秘に"攻め手"を考えた。そこで事件のことには一切触れず、青とのふるさと、福島の名物饅頭の話など雑談を繰り返した。依然黙秘。ただ同じ話を繰り返すと、厳しい表情でひとこと「くどい」。


 逮捕後10日たって父親が面会に来た。肉親のキズナを絶つことが革命への第一歩と思い込んでいた息子が、わずかな時間だがあった。面会後、やがてポツリ。「父親が・・・、ありがとうございました」あとは○○○(3字不明)のように自供をはじめた。父親と面会してツキモノが落ちたようになった。


■信仰化した理論(毎日)
 上申書の文中に特徴的にみられるのは、12人もの同志を殺していながら、それを「闘いの中で死亡した」「元同志たちの死」「死に物狂いの闘い」と他人事か、自然死、事故死のように片付け、「同志の死を決してムダにせず」といってのけていることである。


 呪文をとなえながら自らを縛る。他者への説得力はゼロである。うしろをむいてはならない。理論に、そして信仰に忠実に、死に物狂いの闘いを、と自分自身に言い聞かせたとき、残された道は前へ前へとまい進するだけ。その不自然さに気づかず、たどり着いた先が12人を殺し、一転して全面自供。しかし、罪の深さにおののく気配は何一つ感じられず、遺族へのお詫びの言葉ひとつない。


 革命を志した仲間がこわくなり「命助けて」と敵のはずの警察に飛び込んだり、捕まった仲間が「もうコリゴリ」と"自供コンクール"を演じているのを知っていて(森は取り調べ刑事から事件をつぶさに報道した日刊各誌を見せられている)なお「今は逮捕された同志の団結を軸に闘う」という無神経ぶり。


 指導者に必要不可欠な"冷静な状況認識"などカケラもない。わずか30人余しかいない連合赤軍の残党の3分の1以上を、自ら指揮して殺して、それでなくても減少した戦力をなぜ自滅させていったか、常識では到底、理解できない"リーダー"ぶりである。

 ナゾの男である。赤軍はそのものが発足当初からミステリーに包まれた疑惑の集団だったが、その幕引きにふさわしい男が、これまたわけのわからぬ森恒夫。「上申書」は森のカタワぶりを如実に示している。


■あと5人殺す予定 森が自供(毎日)
 森はこの日の調べで「あと5人は総括する予定だった」と自供。13番目から17番目までの殺しの順番を自供した。13番目の奥沢は連合赤軍が結成される前から杉崎と愛人関係にあったことと、寺岡の死刑に対し手加減を加えたこと、レンタカーを借りるのを怪しまれて失敗したことが理由。だが運転できるものがほかに1人しかいないので死体運搬要因に残しておいた。杉崎も次に総括の方針だったという。


 15番目は青砥。尾崎のリンチの際、手加減をしたためだが、あやまったので、死体運搬係として"一時延期"していたという。


 16、17番目は16歳と19歳の少年兄弟。長男の加藤能敬と愛人の小島和子殺害のとき、森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにしたため総括を免れていたが、兄をころしたことでかなりショックをうけ、いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていたという。この恐るべき殺人予定リストはすでに"殺人法廷"の決定機関「七人委員会」でも正式決定していたという。


 「死体運搬要員に残しておいた」「死体運搬係として"一時延期"していた」「いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていた」というのだから、総括とは名ばかりで、森ははじめから殺害目的だったことになる。もしこの記事が事実ならば。


 ところが、殺人予定リストの件は「正式決定していた」というが、森、永田、坂口、坂東の著書にもひとことも出てこない。また、本文中「森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにした」というのは間違いで、実際は森でなく永田が「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」といって数回殴らせただけである。 ここ数日の毎日のすっとんだ記事から推測すると、この記事の信憑性は薄いのではないだろうか。


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)
 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。


■永田も手を下す(毎日夕刊)
 永田の持っていたアイクチから、ルミノール反応があり、死刑にされた寺岡の血液型と一致した。これで永田が寺岡を指した疑いが強いとして追求を始めた。永田は「もっと厳しくやれ」と指示することが多かったとされていたが、永田自身も命令者としてではなく、死刑執行人として寺岡の心臓を刺した疑いが強くなった。


 これ自体はどうと言うことのない記事だが、同紙は昨日、寺岡殺害について「永田がとどめ」という見出しで「永田はヒモで首を絞め、絶命させた。」と報じたばかり。ちなみに永田は寺岡を刺していない。


■手配の岩田を逮捕(朝日夕刊)
 13日夜10時50分過ぎ、家族に付き添われて長野県辰野署に出頭した。岩田は寺岡、山崎が死刑にされるのを目撃し、恐くなって逃げ出した。2月17日大阪府のおじの家にころがりこみ「仲間につかまれば殺される」といってかくまってもらったという。


読売朝刊では「張り込み中の長野県警署員に逮捕された」と報じていたが、自首が正しい。


■頼良ちゃん 危うかった一命 時々入浴も 中村自供(朝日夕刊)
 中村も昨年11月、警視庁に逮捕されたときの態度を森や永田に問い詰められたが「完全黙秘で通した。ただトイレに行くか、といわれたときに返事をした」と答えると「権力と口を利いたのはまずい」と一晩反省させられた。頼良ちゃんの面倒をみていると「子守をさせるために呼んだんじゃない」と批判されることもあったが、「子守も革命」と自分自身に言い聞かせ、ときどきは頼良ちゃんを風呂にいれたりした。「リンチに参加しないと自分も殺される」と思って恐かったという。


 死亡した加藤能敬は、無抵抗に逮捕されたことと取調官と雑談しただけでリンチをうけた。それに比べれば一晩反省するだけなら、まだましだった。加藤論教はこのときの様子をこう述べている。


 そこへ、前沢と岩田に連れられて、中村が帰ってきた。中村は席に着くと、逮捕されて留置されている間に、刑事の出してくれた飲み物や食べ物を拒否せず、飲み食いしてしまったことを自己批判すると述べた。永田はこの発言を聞くと、その夜の総括中の者の見張りを自分と一緒にするように命じて、中村にはそれ以上の追求はしなかった。


 私にはこれはきわめて不公平に映った。それは、永田に素直に従うものには寛容で、永田に意見を言うものには厳しく応対するということだった。特に女性の同志に対して、その姿勢は顕著だった。府中の是政での逮捕時の対応において、中村は兄と同様に厳しく追及されてもよさそうなものだった。しかし、ほとんど問題にもされなかったのは、ただ単に永田に従順だったからだ。そう思うと、納得がいかなかった。(「連合赤軍少年A」)


■今さら!悔恨の涙 森「死刑」におびえる(朝日夕刊)
 「死刑がこわい」-森恒夫が13日夜の取調べでぽつりともらした。調べ官は「あれだけ冷酷無残に仲間を"死刑"にしておきながら・・・」と憮然としながらも、やっと森にまともな感情が戻ってきたとみて追求をつづける。


 森は山田の死体が発見されてからショックを受け、調べ中に泣きじゃくるなど、それまでの強い態度をくずしはじめた。ところが8日、上申書では「山田らの"総括"は革命遂行のために必要だった」と処刑の正当性を主張し、居直りをみせていた。しかし、10日以降、次々に掘り出された惨殺したいのカラー写真をみせられて再び態度が急激に変わり出した。13日夜はついに「死刑になるんでしょうか。死刑がこわい」と恐怖を訴えた。


 森は逮捕されたときからずっと動揺しつづけた。時に強気になり、時に泣き崩れる。上申書を書いたり、それを後悔したり、自己批判書を書いたかと思うと、すぐそれを撤回する。死の直前には、自己批判しなおすことが急務と手紙に書きながら、気持ちが揺れ動き、1973年1月1日についに自殺してしまう。


■羽田闘争が動機に 奥沢 赤軍加盟で自供(朝日夕刊)
 慶応大に入学した42年、第一次羽田闘争事件で学生一人が機動隊の下敷きになって死んだという記事を読み、「警察が殺したに違いない」と確信、学生運動に入った。その後森と知り合い、ひかれていった。昨年11月、下宿に森が土方ののような姿であらわれ、赤軍に入るよう説得された。12月19日夜、下宿に若い男女があらわれ「森に頼まれた」とやはり赤軍に入るよう説得した。


■その他の記事

山本順一の父秀夫さん(58)は「一度も見たことない孫だからどういっていいのか」と喜んだ。(朝日)

もし警察の手が伸びなければ、青砥・奥沢も総括のリストに入っていた。(読売)

不審なのは中村愛子のアジト脱出の供述が得られていないことだ。(読売)

青砥の自供から、12人以外の殺人は、京浜安保議長と愛人のA子の2人と確信を得た。(毎日)

岩田は吉野から「お前の目は革命の目ではない」とすごまれ、総括を恐れ逃走した。(朝日夕刊)

前沢は雑談には素直に応じよくしゃべるが、肝心な点になると口が重くなるという。(朝日夕刊)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme

89. 中川隆[-11446] koaQ7Jey 2019年3月14日 13:13:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[549] 報告
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1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供
https://ameblo.jp/shino119/entry-10283102868.html?frm=theme

■丹沢リンチ 永田洋子が動機自供(毎日)

 永田は「これまでの10年間の闘争生活は楽しいことばかりだった。こんど逮捕されたのは路線に誤りがあったためである」と、いままでになく反省の態度を見せた。さらに「丹沢アジトでは男1人女1人を殺した」と事件の事実を認め、殺害した理由については「京浜安保共闘のメンバーで1人がアジトから脱走をはかった。もし警察に寝返りをした場合、アジトは発見され、組織の機密が守れなくなると思い、このあと2人を総括にかけて殺した」と、はじめて動機について供述を始めた。


 いままでは丹沢アジトのリンチについて「森さんがそういっているのならそうでしょう」とか、森の供述を「そのとおり」とか、消極的自供しかしていなかったが、この日は、初めて自ら犯行を認めた。場所については地図で場所を示すそぶりをしたが「私は死体を運んでいないので、くわしくはわからない」と述べた。


 永田は「裁判所では私が最も信頼している森恒夫と共闘して法廷で闘う」と延べ、リンチ殺人事件を自供した森に"裏切り者"として反発していた態度を急にやわらげた。 また永田はノート数枚に「あなたと誓い合った約束は忘れていないが、こうなった以上はやむをえない。われわれは敗北した」という意味の森宛の手紙を書いた。


 2人は「総括」にかけたのではなく、騙して連れ出し、いきなり暴行を加え死亡させた。

 永田は「手紙を出す許可」は下りたものの、「学習許可」が下りなかったため、房で筆記用具を使うことはできず、手紙を書くときは別室で筆記用具を借り、30分以内に書かなければならなかった。すぐに森と坂口に手紙を出したが、坂口には離婚表明したことを謝った。「あなたと誓い合った約束」とは完全黙秘のことだろうか。

■岩田の同級生も犠牲? 丹沢アジトで総括か(朝日)
 岩田から「丹沢アジトにいた頃、京浜安保共闘の向山茂徳(21)が殺されたのではないか、という話をきかされた」との自供を得た。このため岩田は大井川アジトに移ったころ、坂口、吉野らにこの点をただしたところ「お前の知ったことじゃない」いうような意味のことを言われ、そのままわからずじまいになったという。


■寺岡が独断で許可 山本親子のアジト入り(読売)
 「七人委」のメンバーだった寺岡が死刑を受けたのは、山本夫婦がアジトに頼良ちゃんを連れてきたことが「七人委の許可をとっていない」と問題になった際、寺岡が独断で山本夫婦に許可をあたえたことがわかったため。「独断は反革命的な行為だ」と永田らが強く主導、死刑に決まったという。


 寺岡の死刑は、革命左派時代に永田・坂口をおろして自分が主導権を握ろうとした、という過去の出来事が理由だった。寺岡は詰問され暴力を受ける中で、ありもしないことを"告白"する。坂東とアジト予定地探しに行ったとき「坂東を殺して逃げようと思ったが、スキがなくて逃げられなかった」といい、みなの怒りを買った。しかし、当の坂東は、自分が寝ている間に朝ごはんを作って起こしてくれたことなどから、「おや?」と思ったという。


 寺岡同志への追及が始まり、「永田同志や坂口同志がつかまればよい、そうすれば最高指導者になれる」という告白から怒り、そのあと「私を殺そうとした」というのを聞いて、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。だから、次々と為される"告白”-金をとって王宮を作ろうとしたとか-を遠い世界の他人のことのように聞いていたのです。(「永田洋子さんへの手紙」)


■ラーメンでも総括(朝日)

 金子みちよの総括の1つにラーメンがある。アジトでインスタントラーメンを食べていたとき、「お腹の子供のためにもうひとつほしい」といったところ、永田洋子が「ブルジョア的で物欲が強い」と怒り、内縁関係の吉野の足をひっぱったことと合わせて、リンチされた。


 金子はラーメンで総括されたのではない。尾崎が坂口と決闘をさせられた際、席をはずしたことをとがめられた。「あんなことをしても尾崎君は立ち直れない」と批判的に言ったことから総括対象になった。他にも、下部メンバーに官僚的であるとか、吉野に頼りすぎているとか、総括の理由をつけられたが、実質的には「死刑」であったといわれる。事実、森は幹部に対し「金子は女の寺岡だ」「子供を取り出すことも考えなければならない」といっている。金子は幹部に対しても批判すべきことは批判し、暴力に対しても最後まで屈服しなかった。しかしその毅然とした態度さえ、森に「お腹に子供がいるから総括されないと思っているのだ」と決めつけられてしまう。


 対して、同じ時期に総括にかけられていた大槻節子は終始素直な態度だったが、森に「優等生的だ」ととがめられている。総括にかけられたら助かる道はない。


■だんまり三人男(毎日)

▼坂口弘(25)

 取り調べのために「外へ出ろ」というとくるりと背を向けてしまう。食欲はすさまじい。留置場の定食のほか、さらに必ず1回に食パン5枚を平らげる。思い出したようにはくことがある。「ミカンをくれ」「便所」-。


5月4日の読売では「房内で食べるのは実費62円の至急弁当だけ」となっている。


▼坂東国男(25)

 警官が入り、2人ががりでかかえるようにして調べ室に入れる。いすに座ると真正面を向いて目をとじたまま。なんとも攻め手がないといった状況だ。


▼吉野正邦(23)

 自分の名前すら認めていない。高校時代の話で水を向けると「そんなことは関係ない」とどなる。凍りつくような目でにらむ。ただ14日には「いい天気ですね」といいい、長い髪をつかんだりしていた。


■軍建設へ徴兵制 「銃が最高の兵士 人はいくらでも補充」 青砥自供

 青砥らの自供から軍建設のために「徴兵制」をしいていた事実をつきとめた。森恒夫らは150人近い活動家の中から、次々と「兵士」を招集、過酷な訓練についていけない「「兵士」は死の処分にするという軍律を確立していたという。「銃こそ最高の兵士、人間はいくらでも補充できる」-その軍律は人間蔑視で貫かれていた。


■この徹底的差別 革命という名で "どれい" 扱い(読売)
 寺林の自供によると、迦葉山と妙義アジトでの食事は、森、永田ら七人の中欧委員は別室でパンやミルクなのに対し、兵士は大部屋で円陣をつくり、麦や野菜をまぜた雑炊をたべさせられていた。幹部たちは「革命遂行のため、兵士は粗食に耐える訓練をせよ」と命令し、幹部が合図するまでハシを持つことさえもできず、幹部は食後にコーヒーも飲んでいた。 また、寺林は永田から会計係を引き継いだが、出納簿は1円にいたるまで、克明に記入され、森、永田は金銭の横領は「総括」の対象だと、おどしていた。


 岩田の自供によると、西丹沢では、武闘訓練が行われ、幹部だけが小屋に入り、小屋のハリには猟銃など銃が5丁乗せてあった。兵士は小屋の付近にテントを張って寝起きし、"革命戦士を育成する"ということで、夜間のタキギ取りのほか、炊飯、洗濯をさせられ、学習、討論もするというきびしい生活だったという。このため脱落者が相次いだこととから、アジトを変えることになり、点々としたあと11月末に榛名山に移った。


 革命左派時代の山岳アジトは岩田の自供と異なり、和気あいあいとしていたと証言する人も多い。連合赤軍結成前に森たちが革命左派のアジトを訪ねたとき、こんなエピソードがある。


 妊娠している金子さんが山岳で子供を生むということが話題になった。森氏が、これにたいして目を丸くして、「ムチャだ。大体予防接種なんかどうするんや。こんなところで育てられるはずがない」と言った。革命左派の女性たちは、森氏の発言にワイワイと反論し、山岳ベースでも子供を育てられるようにしてゆくのだ、そのために協力すべきであり、足を引っ張るべきではないと主張した。森氏はあくまでも「ムチャだ」といっていたが、「金子さん用に肝油を手に入れよう」といいだした。これに革命左派の女性たちは「ウァー」と歓声をあげた。(「十六の墓標(下)」)


■悪霊の世界(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-15 毎日 夕刊11

▼ろうそく集会
 夜の討論はろうそくをともして行われた。車座になってすわるが、山の寒さはピリピリするほどだった。その風景を、2人の少年は「今思うとぞっとするほどこわい」という。
 討論では、いつも森恒夫と永田洋子が話した。坂東国男、吉野雅邦、坂口弘なども発言をするが、他のものはあまりものはいわず、ほとんどが下を向いて聞き入っていた。 森はよく「オレは中国に行きたい」と話していた。永田はいつもヒステリックで、つねに討論の主導権を握っていた。残酷なことや他のものに対する批判は、ほとんど永田から出た。


 このあたりの様子は、永田の「十六の墓標(下)」、坂口の「続・あさま山荘1972」、植垣の「兵士たちの連合赤軍」に詳しく述べられている。それによると討論の主導権は常に森であり、永田は過激な言葉で森に同調していたようだ。永田が摘発→森が問題視し詰問→永田が同調して煽る→森が暴力指示、という流れのようだ。


▼マキ割り
 幹部たちは、銃の訓練をしに山奥へ出かけていったが、他のものは一日中マキ割りやアジトの修理、タキギ拾いなどをさせられた。しかし、必ずどこかで監視の目が光っていた。ときどき銃の訓練もさせられたが、青砥幹夫らはマキ割りで、てのひらはマメだらけになり、銃がよく持てず、ねらいが定まらないので、坂東から「モタモタするな」とどなられた。それでも言い訳は許されなかった。「総括!」と、いつ言われるかわからないからだ。永田以外の女はよく山をおりて食料や日常品を買いに行かされた。それでもお互いがつねに監視しあう方法がとられた。


▼麦と赤軍兵士
(省略。読売の記事とほぼ同じ)


▼マラソン競争
 榛名山アジトから迦葉山アジトに移るとき、忘れものをしたので、みんなアジトに走って戻った。坂口が1番で青砥が2番だった。坂口は「心臓が悪くて坂を上るのもムリ」といわれていたが、それはとんでもない間違いだった。髪をハサミできるのは坂東だった。坂東は手先が器用でハサミをうまく使った。


▼新月が羅針盤
 アジトからアジトへ移るときは新月の晩だった。月光をたよりに、暗い山道を歩いた。山登りに自信がある青砥がいつも先頭。だれもが4、5回疲れと寒さで倒れた。それでも銃だけは決してぬらしたり、放り出すことは許されなかった。


▼次のアジトは八溝山系
 ラジオで追求の手がのびたのを知り青砥が「八溝山にしよう」と提案した。八溝山のふもとに青砥の親戚があり地理にくわしい。「少なくともそこへ行くまではオレが案内役だから殺されない。八溝山へ行けば、地理に詳しいので逃げられると考えていたからだ」という。アジトを移すごとに殺されるものもふえていく。そして最後には、いったいだれが残ることになったのだろうか。


 このとき、寺岡と山田はすでに死亡していて、森と永田が逮捕されたから、幹部は坂口、坂東、吉野しか残っていなかったし、すでに総括もおこなわれていなかった。しかも山岳逃避行の最中だから、逃げようと思えばなにも八溝山までいかなくても、いつでも逃げられそうなものだ。後年、青砥は「離脱するつもりはなかった」とインタビューに答えている。


青砥「バスに乗ったままだと軽井沢に行ってしまうことは僕も植垣もわかっていた。でも見て見ぬふりだった」

 荒 「どうして?」

青砥「もう疲れきっていたんです」

 荒 「連赤を離脱しようとは思っていなかった?」

青砥「離脱しようとは全然思っていなかった」

 荒 「もうどうなってもいいとも思っていた」

青砥「というより、正常な判断力を失っていたと思う」

(「破天荒な人々」)


■その他の記事

・寺林は会計を任され、女性ではナンバー2であった。(朝日)

・この日森は取り調べには応じず、上申書に続く"執筆"を行った。(朝日)

・頼良(らいら)ちゃんの祖父は「黙っていたが名前はあまり気に入りません」。(毎日)

・寺林は京浜安保共闘の丹沢アジトで手投げ弾20個をつくったと自供。(毎日)

・森は「革命は決して間違ってはいない。その方法に誤りがあった」と自己批判。(毎日)

・森は「森」と呼んでも返事しない。「渋川21号」といえば「ハイ」。(毎日)

・発掘現場はまるで観光名所の様相を呈している。(毎日)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10283102868.html?frm=theme

90. 中川隆[-11443] koaQ7Jey 2019年3月14日 14:20:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[552] 報告
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連合赤軍リンチ殺人事件の報道をふりかえる(筆者)  2009-03-31 
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


■新聞とはかくなるものであったか

 写真が一枚もなく、当事者たちは死んでいるか、留置場の中にいる。だから記者は、逮捕されたメンバーの供述のリーク情報によってしか記事を書くことができなかった。メンバーたちは断片的な供述しかしないから、それをつなぎ合わせ、足りないところは想像で補って記事をつくりあげた。もともとのリーク情報さえ、当局の想像で組み立てられたものだったから、「警察は・・・とみている」という責任転嫁の表現をせざるをえなかった。


 当時は永田や坂口の手記はなかったから、報道に接した当時の人たちは、森恒夫や永田洋子を悪魔だと思っていた。筆者もそう思っていたから「十六の墓標」(永田洋子)をはじめて読んだとき「あれれ?」と拍子抜けしたものだ。そして「どうしてまともな思考の人が、あんな常軌を逸した事件をおこしたのだろう?」と興味を持ったのである。なぜなら彼らの手記に書かれていた思考や判断は私たちのそれと別段変わるところがなかったからである。


 私たちはマスコミを通してしかニュースをしることができない。特に新聞記事は多くの人が信頼している。しかし、ときとして一線を越えてしまうことがある。それはどんなにひどいことを書いても、誰からも文句を言われない状況において起こる。連合赤軍事件もその1つだったし、オウム真理教事件のときもそうだった。逮捕されたメンバーはどのような気持ちで新聞を読んだだろうか。


 おもしろいことに、新聞がセンセーショナルに報じたのに対し、週刊誌はきちんと取材した記事が多い。おそらく新聞にお株をとられてしまったことと、新聞ほどリーク情報が得られないことによるからだろうが、周辺人物の取材をして事件を検証する、という落ち着いた記事が多いのである。


■今後の予定
さて、1972年4月以降も取調べが続き、1973年から大荒れの連合赤軍裁判へと続くことになる。その間には森恒夫の自殺もあり、坂東国男のアラブ行きもある。しかし、先へ進める前に、一度時計を戻して、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が誕生したころからの彼らの新聞記事を振り返ってみたい。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10325060408.html?frm=theme


91. 中川隆[-11442] koaQ7Jey 2019年3月14日 14:51:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[553] 報告
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(基礎知識編)赤軍派・革命左派・連合赤軍 組織関連図   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10917629099.html?frm=theme

 連合赤軍と日本赤軍は何が違うのか、テレビカメラにVサインしていたおばさんは何者なのか、永田洋子と重信房子の区別がつかない、などなど、最近のニュースで興味を持った人にとっては、左翼運動の派閥がわかりにくい。


 そこで、連合赤軍周辺の組織について、手持ちの組織図・関連図をまとめて掲載しておく。


■赤軍マップ (「赤軍―1969→2001」より )

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍マップ

 歴史的な流れをつかむのはこの図が決定版だ。事件を中心に知りたい人は、これだけ知っていればよい。


■赤軍派発足時の組織図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍派組織図・発足当時

 赤軍派を発足したメンバーが名を連ねている。


 田宮高麿は9名でよど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡り、そのまま亡命した。このグループを「よど号グループ」とよぶ。


 他の中央政治局のメンバーは逮捕されているので、連合赤軍メンバーの手記では「獄中幹部」などと呼ばれている。獄中幹部は森恒夫の敵前逃亡を知っているため、森に対する評価は高くない。


 後に、連合赤軍メンバーとなる山田孝の名前があるが、当時は森より地位が上だった。そのため、森に意見することのできた唯一の赤軍派メンバーであった。


■よど号グループ(2002年3月13日 朝日新聞より )


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-よど号グループの関係図


 「当時16歳少年」というのは柴田泰弘のことで、柴田は2011年6月に死亡した。


■京浜安保共闘の関係組織 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-京浜安保共闘の関連組織


 革命左派の組織図。連合赤軍メンバーの名前がちらばっている。「京浜安保共闘」は労働者を中心としたさまざまな組織を束ねていた公然組織(表の組織)である。新聞記事で組織名がさまざまなのはこのためである。なお、図には表れていないが「中京安保共闘」からも連合赤軍に参加している。


■人民革命軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-人民革命軍関係図


 上記の組織図から少したって、連合赤軍結成直前の革命左派の組織図。京浜安保共闘のメンバーも山岳ベースに集められたころである。


■連合赤軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍関連図


 組織がたくさんありすぎて、どこがどう違うのかよくわからない。左翼運動は組織分裂の歴史で、思想・闘争方針・人間関係などの要因によって分裂を繰り返した。特に赤軍派は一人一党といわれたほどである。


 共産党配下を代々木系、反共産党系を反代々木系という。名前がまぎらわしいが、永田洋子・坂口弘の「日本共産党革命左派」は反代々木系で日本共産党と対立関係にある。


■日本赤軍組織図 (ネットより)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-日本赤軍組織図


 日本赤軍のリーダーは重信房子で、2000年9月に逮捕された時、カメラに向かってVサインをしていた人である。重信は、森恒夫と折り合いが悪く、独自の路線に舵を切り、アラブへ旅立った。


 PFLPというのは、パレスチナ解放人民戦線のことで、PLO(パレスチナ解放機構)にも参加する過激派である。


 重信は人気者で、赤軍派時代はオルグとカンパに手腕を発揮し、「微笑外交」とか「ポン引き外交」とかいわれた。アラブへ行ってからは、結集を呼びかけ、日本から多くのメンバーがアラブへ渡った。さらに、ハイジャック闘争で、連合赤軍や、東アジア反日武装戦線、はては一般刑事犯まで釈放させ、日本赤軍に結集させた。


 ごった煮集団だが、コマンド(軍事)志向のメンバーを集めたことが特徴的である。


■京大パルチザン

 赤軍マップで、日本赤軍と点線でつながっているが、これは、京大パルチザンが重信房子を手配師としてアラブへ渡り、テルアビブ空港乱射事件を起こしたからである。


 京大経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム・滝田修)の革命理論の影響を受けたノンセクト・ラジカル(党派に属さない過激派グループ)である。


■東アジア反日武装戦線


(右翼にも愛読された腹腹時計)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-腹腹時計(東アジア反日武装戦線<狼>)

 赤軍マップに突如現れる「東アジア反日武装戦線」について説明しておく。


、1970年代に三菱重工爆破など連続企業爆破事件を起こした独特のグループである。他の組織は民間企業をターゲットにすることはなかったので、日本中が驚いた。


 なぜ民間企業を爆破したかというと、戦後も大企業はアジアを経済侵略し、彼らを隷属させ、利益を搾取している、したがって大企業は現在進行形のアジア侵略者である、という思想にもとづいていた。この歴史観は他の左翼とは一線を画している。


  「東アジア反日武装戦線」というのは総称で、実際の組織は「狼」「大地の牙」「さそり」から成っている。大道寺将司の「狼」に共感したり、爆弾指導を受けたグループが、「大地の牙」「さそり」である。


 「狼」が出版した「腹腹時計」という爆弾製造法やゲリラの心得を書いた教本は、左翼過激派だけでなく、右翼や公安にも幅広く読まれた。


 それぞれのメンバーは以下の通りであるが、重信房子に好まれたようで、日本赤軍のハイジャックによって3名が出国した。


・「東アジア反日武装戦線・狼」

 大道寺将司(死刑確定)

 大道寺あや子(→日本赤軍・指名手配中)

 片岡利明(死刑確定)

 佐々木規夫(→日本赤軍・指名手配中)


・「東アジア反日武装戦線・大地の牙」

 斎藤和(逮捕直後自殺)

 浴田由紀子(→日本赤軍→逮捕→懲役20年))


・「東アジア反日武装戦線・さそり」

 黒川芳正(無期懲役)

 宇賀神寿一(懲役18年→2003年出所)

 桐島聡(指名手配中)


 このグループのメンバーは、他の組織でみられる様な責任の擦り付け合いがなく、とても仲が良い。この点でも他の組織とは一線を画している。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10917629099.html?frm=theme

92. 中川隆[-11441] koaQ7Jey 2019年3月14日 15:00:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[554] 報告
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(理論編)「イデオロギー」と「言葉」のパワー   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
https://ameblo.jp/shino119/entry-10816638091.html?frm=theme

 連合赤軍のリンチ殺人事件について、誰もが感じる最初の疑問は「なぜ12名もの仲間を殺害したのか」ということに違いない。


 永田洋子や坂口弘によれば、それは共産主義化のイデオロギーということになる。イデオロギーとは「観念の体系」と訳されるが、この事件の場合、「物事の判断を下す根拠となる思想」と理解すればいいだろう。


■統一公判一審「中野判決」

 共産主義化のイデオロギーを紹介する前に、まず、裁判でどう判断されたかを紹介しておく。1982年の統一公判の第一審判決では永田洋子に死刑、坂口弘に死刑、植垣康博に懲役20年が言い渡された。有名な「中野判決」である。


 なぜ有名かというと、永田を、「執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」と酷評するにあたり、「女性特有の」と一般化した表現を使ったため、大いにひんしゅくを買ったからである。そして、判決理由には、中野武雄裁判長の永田に対する並々ならぬ怒りがこめられていた。


 被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。


 他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である。


 被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである。

(1982年6月18日 一審判決 中野武雄裁判長)


 判決を報じた新聞の社説では各紙とも、「死刑判決は当然」としつつも、「だが、12人もの殺害については・・・」とつづく。「いささか物足りなさが残る」(朝日)、「およそ考えられないことだ」(読売)、「いまだ得心のいかないことが多い」(毎日)という具合に、歯切れが悪い。12名の同志殺害について判決理由を聞いても、ピンとこなかったのである。


 判決の時点で事件からすでに10年がたっていたが、新聞各社は12名の同志殺害の原因について、納得する理由を見つけられずにいた。かといって中野判決のように個人的資質の問題だけに割り切ることもできなかった。これは39年たった現在でも同じで、だからこそ連合赤軍事件がいまなお語られるのであろう。


 もし判決の通り、森と永田の個人的資質の問題だとすると、なぜ殺された12名は、黙って殴られ、縛られ、無抵抗に死んでいったのか。なぜメンバーは森恒夫と永田洋子の2人をやっつけてしまわなかったのか。なぜさっさと逃げ出さなかったのか、という疑問がわく。森と永田以外のメンバーの行動に説明がつかないのである。


 判決が間違っているとはいわないが、十分とも思えない。中野裁判長は「革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく」として、確信犯的に革命運動の問題を切り離している。


 本件は刑事裁判であり、思想を裁くことはできないから判決にあたり考慮しない、といえばよさそうなもので、わざわざ断定的に否定する必要があったのだろうか。これでは心を裁いたことになりはしないだろうか。


■「イデオロギー」と「言葉」のパワー

 1995年、オウム真理教という団体が、地下鉄サリン事件を起こした。サリンを撒いたのは、学歴が高く分別のある人たちだった。実行者たちは大いに動揺し、迷いながらも、満員の地下鉄車内でサリンの入ったビニール袋に傘を突き立てた。実行に踏み切らせたのは「救済」という言葉だった。


 人が動揺し、迷っているときは、どのような言葉で正当化するかが決定的な役割を果たす。それが「救済」だった。とはいえ、いきなり「救済のために」といわれても、サリンを蒔けるわけではない。


 オウム真理教の「救済」という言葉は、タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)のイデオロギーの上に盛られていた。信者がタントラ・ヴァジラヤーナを受け入れていたからこそ、「救済」という言葉が威力を発揮し、人間を反社会的行動に動かしたのである。


 「救済」を「援助」に、「タントラ・ヴァジラヤーナ」を「共産主義化」に置き換えれば、連合赤軍のリンチ殺人事件も同じことがいえる。すなわち、暴力的総括は「援助」という言葉で正当化され、それは「共産主義化」というイデオロギーの上に盛られていた、と。


 いったんイデオロギーを受け入れてしまえば、「救済」とか「援助」という言葉が、いかに詭弁であろうと、たとえ指導者が詐欺師であろうと、それは有効に機能する。


 こういうことは、別にオウム真理教や連合赤軍に限ったことではない。「教育」とか「治療」とか「矯正」とか、一見正しそうな言葉が、何らかのイデオロギーの上に盛られることによって、反社会的なパワーを発揮する例はめずらしくない。


 ただ、外部の目にさらされることによって(特に人が死亡すれば)、歯止めがかかる仕組みになっているだけだ。オウム真理教はサティアン、連合赤軍は山岳ベースで、外部の目の届かない空間で起こったため、歯止めがかからなかったのである。


■どちらが「本質を見誤った」のか

 連合赤軍の同志殺害は閉鎖空間で共産主義化の「イデオロギー」と「言葉」が猛威をふるい、メンバーがそれを受け入れていたからこそ、仲間に対して過酷な暴力をふるうことができたし、被総括者は無抵抗に暴力を受け入れたのである。


 ゆえに森恒夫と永田洋子の資質だけに原因を求め、イデオロギーを切って捨てた判決理由は、大事な部分から目を背けたというしかなく、「本質を見誤った」のではないだろうか。
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(理論編)「共産主義化」 - 死をも恐れぬ革命戦士となること -
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 山岳ベースの12人の同志殺害について、当事者たちは口をそろえて「殺意はなかった」といっている。そして「共産主義化をめざした」とも・・・共産主義化とはいったい何なのか?


■共産主義化とは「ブルジョア性を克服し、死をも恐れぬ革命戦士となること」
 国家の共産主義化ではなくて、個人の共産主義化とはどういうことなのか。明確な定義はないが、当事者たちによれば、「過去の活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために、死をも恐れぬ革命戦士となること」ということである。


 一般的な言葉で言えば、内面から 「私」 を消し去り、命さえも革命のためにささげる、ということになるだろう。


 何がブルジョア性の現われなのか、どうすれば克服できるのか、共産主義化が達成されたとはどういう状態なのか、などすべての基準はあいまいであり、森恒夫や永田洋子の恣意的な判断だった。実は永田もよくわかっていなかったが、永田は「問題があるとみなした言動をブルジョア性の現われとみなした」のである。


 つまり、共産主義化の理論は、山岳ベースでは森恒夫の頭の中だけにあって、誰にもわからなかったのだが、わかるかどうかは大して問題にならない。重要なことは、受け入れるかどうかであり、連合赤軍のメンバーは全員受け入れたのである。


 ハワイ大学の社会学部のパトリシア・スタインホフ教授は、以下のように分析している。


 赤軍派の、闘争用語でいっぱいの難解なイデオロギーは、それが不可解に近いがゆえに、受け入れられることが多い。人びとが心情的にやりたいと思っている行動を、学問的に知的に裏付けてくれるような気がするからである。


 実際のところ、共産主義化という概念は実に曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、全く理解できなかったと述べている。しかし、彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。


 問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得すべき変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった。日本のプチブル学生が革命戦士への変革を獲得するということは、個人の過去から現在に至るあらゆる思考や行動をすべて否定することにつながりかねない。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー -日本赤軍派-」)

■塩見孝也議長の提起した「共産主義化」
 赤軍派は、1969年12月、大菩薩峠での大量逮捕 により、大打撃を受けた。この総括として赤軍派議長・塩見孝也が「革命戦争の網領問題」の中で提起したのが「共産主義化」である。


 永田の「続十六の墓標」に植垣康博の最終意見陳述が引用されているが、それによると、


 塩見は「革命戦争の網領問題」の中で、革命戦争の客観的な要素よりも主観的な要素を重視し、「革命戦争の型は戦争の担い手の主観的要素の如何によって決まる。・・・戦争の問題とは結局"人間の問題"である」と述べ、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律が闘いの源泉となる」と主張して、「戦争に占める"人"、すなわち精神力の要素の決定的重要性」を強調した。そしてこの「精神力」の獲得の為に「主体の共産主義的改造」いわゆる「共産主義化」を提起したのである。
(植垣康博 「1983年・最終意見陳述」)


 塩見は大菩薩峠での大量逮捕において、その原因は、指導部の計画・作戦に問題がある
21:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:09:28


 塩見は大菩薩峠での大量逮捕において、その原因は、指導部の計画・作戦に問題があるのではなく、無抵抗で逮捕された各人の問題であると考えた。爆弾1つ、ナイフ一太刀の抵抗もないまま大量逮捕されてしまったことを問題視したのである。


 だから、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律」が必要であるとし、そのように「主体の共産主義的改造」を行うことを提起し、それを「共産主義化」といった。


 赤軍派と革命左派が共闘するようになった頃、塩見は、「党の軍人化、軍の中の党化をかちとり、革命党を建設しよう!」「軍の正規軍化、共産主義化をかちとり、『赤軍』を拡大、強化しよう!」という獄中からのアピールを出した。


 しかし、塩見は必要性をアピールしただけで、具体的な方法は示していなかった。もちろん、このとき共産主義化のために暴力を持ち込むなどとは考えていなかったはずである。


■森恒夫は塩見孝也の「共産主義化」に応えようとした

 森恒夫は塩見孝也を信奉しており、塩見の提起に忠実に応えようとした。塩見の共産主義化をそのまま引き継いでいるためか、森の手記には、共産主義化の定義や説明はでてこない。


 「自己批判書」の冒頭で「まず最初に、全体の概略を明らかにしておきたい」と述べてから、数ページ後にはもう「共産主義化」の文字が現れる。1971年12月の共同軍事訓練の革命左派による遠山批判 の話である。


 こうした討論が繰り返される過程で、私は問題が両者とも党に関する問題であり、とりわけ革命戦士の共産主義化の問題である事、要はその結果を「そうしなければならない」として受け止める事にあるのではなく、共産主義化の組織的な達成を党建設の中心的な方法の問題として確立してゆく事である事に気付いた。


 従来の旧赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では「革命戦士の共産主義化」が中心軸としてだされてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は旧革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判-自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えたのである。


 そして、そうした相互批判-自己批判の同志的な討論の組織化を通して実践的な経験を貴重なものとして受け止め、真に"人の要素第一"の原則を確立してゆくことができると考えたのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は、遠山批判は、個人が改めればそれでいいというものではなく、共産主義化の問題であり、それを組織的に達成することが、党建設の軸になると気づいた。


 すなわち、メンバー全員を共産主義化させることを党の中心課題とし、そのためには、相互批判-自己批判を組織的に行うことが必要だと考えたのである。


 革命左派による遠山批判を引き継ぐように赤軍派による遠山批判 が行われたのは、こうした理由による。


■森恒夫は共産主義化の歴史的必然性を理論づけた


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕-自供-逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党-世界赤軍-世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党-軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装-暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党-蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取-味方の武装-敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」-実は蜂起の軍隊建設-を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判-自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士-連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)


 漢字が多くて読みにくいが、要するに、共産主義化の総括要求は歴史的必然であった、といいたいのであろう。しかし、この理論にはかなりの飛躍がありそうだ。


 理論はともかく、気になるのは文体の方で、「問われた」「要求された」を連発して、決して「考えた」とはいわないのである。この文章の中に主体であるはずの森自身が不在なのである。


 「自己批判書」であるにもかかわらず、ここまで自己を不在にした理由は、責任の重さを引き受けられないからであり、歴史的必然を装った理論は、生身を覆い隠すための鎧のように思える。


■証言集


 私と永田さんが新倉ベースでの確認事項を伝えたとき、寺岡幸一君が、「共同軍事訓練の成果をみんなに伝えようとしたところ、何を報告すればよいのかハッキリしなかった」と当惑して言った。寺岡君等より2日長く居て森君の話を聞いていた私ですら、森君が何を話し、何を言わんとしているのか理解できなかったので、この発言は無理もなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や、文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。


 ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。


 何が「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものかと問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。


 従って私は、「共産主義化」に対する明確な規範を持たないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の表れとして批判し、その総括を要求していったのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 「新党」(筆者注・連合赤軍のこと)では、一応討論という形をとっていたものの、実際には指導部会議でも、討論をを通して問題を明確にし、物事を深めるということが一回もなかった。たとえば、「共産主義化」というもっとも肝心な問題1つとっても、その必要性が強調されながら、いったいそれは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった。主導的な意見に、それを支持するか否かが問われるだけで、それで終わっていたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 共産主義化の闘いの本来の目的は、それまでの活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために自己のすべてを犠牲にすることのできる革命家を育成することにありました。


 この点で、共産主義化の闘いを推進した森氏は他の誰よりも自己犠牲的な革命家たろうとしていましたし、私たちもそうした革命家になろうと必死になりました。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」あとがき)


 大菩薩での敗北は、「殺すか、殺されるか」の政治における人の要素と、「敵を消滅し、味方を保存する」軍事における武器の要素との分離にあったとして考えていったということです。単純に言えば、本当に武器をもって闘おうとせず、福ちゃん荘でも、爆弾ひとつ投げる人間はだれもいなかったと批判することによって、自分たちがいつも銃のことを考え、身からはなさず、いつでもそれを敵に向けて使う用意があるようにすべきであり、そうなるためには、人が死をも恐れない革命戦士として共産主義化されなければならないというものです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 このとき、私を含む指導部が自己を改造する立場に立って働きかける指導制をもてず、「共産主義化」をいうとき、自己の人生観(ブルジョア性や小ブル思想-人間憎悪、人間蔑視の哲学)を絶対的な基準として下部の同志たちへの対象変革を求めることに陥っていくことになりました。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 赤軍派は、世界革命戦争というロマンを掻き立てて華やかに登場した。しかしながら、その闘争は次々と権力に圧殺され、よど号ハイジャックのほかは、たいした成果はあげられなかった。逮捕者が続出し、壊滅寸前になったところで、森恒夫がリーダーに繰り上がった。


 考えてみると、森がリーダーとなった時点で、取り得る選択肢は2つしかなかった。ひとつは敗戦処理であり、闘争を後退させ組織を温存すること。もうひとつは、闘争を飛躍させ、敗北に直面した現状を一気に飛び越してしまうことである。


 森は後者を選択し、「銃による殲滅戦」で飛び越しに賭けた。そのイデオロギーが「共産主義化」だった。しかしながら、死を覚悟するということは、敗北を意識しているということに他ならなかった。
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(理論編)「銃-共産主義化」 - 人と銃の結合 -
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 森恒夫は「共産主義化」 に銃をからめて、「銃-共産主義化」論を構築した。これが実にヘンテコなのだが、しかし、どんなにヘンテコな理論であろうと、山岳ベースでの総括を支配し、リンチ殺人事件をもたらしたのである。なお、 永田洋子や植垣康博の著書では、「銃による殲滅戦論」と表記している。


 森の書いたものの中に、「銃の物神化」とか「人と銃の高次な結合」などという言葉が出てくるが、いずれも、「銃-共産主義化」論の話で、関係式は次のような感じである。


「共産主義化」+「銃の物神化」=「銃-共産主義化」 → 「人と銃の高次な結合」の要求


■「革命左派の撤退を美化した」(森恒夫)
まず、革命左派が山岳ベースへいたるまでの経緯を復習しておくと、以下のようになる。


リーダー川島豪の逮捕
→川島豪の奪還計画を策定
→銃奪取を計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わる)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→北海道への逃避行
→永田が中国への逃避を提案するがメンバーの反対で断念
→山岳ベースへ後退


 森は共同軍事訓練最終日 に、革命左派の行動を高く評価した上で、「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」と結論づけた。いったいどういうことなのだろうか?


 「自己批判書」は難解なので、赤軍派による「12・18アピール」(森の考えを山田孝が書いたもの)と坂口の手記を参考に、大胆にデフォルメしてみると、以下のようになる。


1.上赤塚交番襲撃 では、「殺すか、殺されるか」という攻防が出現したが、威力のない武器で対抗したため敗北してしまった。「殺すか、殺されるか」という攻防には銃が不可欠である。


2.真岡銃砲店襲撃 は上赤塚交番襲撃の総括の上に立って行われたため成功を収めた。「奪取した銃」は敵の弾圧を引き出した。そして、「奪取した銃」は革命左派に銃を守る闘いを要求した。


3.「奪取した銃」によって銃を守る闘いを要求された革命左派は、山岳への退避によって、「奪取した銃」の要求に応えようとした。


4.「奪取した銃」は、銃を握る者に対し、主体の革命戦士化、すなわちメンバーの共産主義化を要求している。


5.「奪取した銃」の要求に応えようとして、革命左派は、山岳ベースで自己批判・相互批判を組織的に行なってきた。これは自然発生的ではあるが共産主義化の萌芽である。


6.「奪取した銃」にはこのように人を変革する力があるのだから、ゆえに「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」

(赤軍派による「12・18アピール 殲滅する銃を! 」と「あさま山荘1972(下)」をデフォルメ)


 なるほど、そうだったのか・・・と納得する人はおそらくいないだろう。奇妙な理論である。

 森は、赤軍派と革命左派との共同軍事訓練の最中、遠山批判 をきっかけに、革命左派を吸収しようという姿勢から、革命左派に学ぼうという姿勢に転じた。そして革命左派の行動を美化し、理論化したのである。


 無論これは森君が頭の中でそう考えたということであり、われわれ革命左派にはそんな意識はこれっぽっちもなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口にこういわれてしまうと身も蓋もない(笑)。しかし、持ち上げられるのが好きな永田洋子だけは「そうだったのか!」と本気で信じたような気がする。


 たしかに革命左派は、敗走に敗走を重ねて山岳ベースにたどり着いたのであり、山岳ベースでも、目の前の事態に追われ続けていただけだった。もっとも森はそれを承知しているので「自然発生的ではあるが」「共産主義化の朋芽」と繕っている。


■ 「銃を物神化した」(森恒夫)
 森は、革命左派の行動を美化し、あたかも銃が導いたの如く理論を構築した。しかも銃に「奪取した銃」というように属性を持たせている。


 驚くべきことに、主体の飛躍に応じて「奪取した銃」→「味方を団結させる銃」→「敵をせん滅させる銃」→「プロレタリアート独裁の銃」というように銃が成長していくのだという。銃に超自然的な力があるかのように考えていたようだ。これを後に「銃を物神化した」と振り返っている。


 共同軍事訓練後も、森は行方正時に対し、人が銃を成長させる、だから総括すれば銃は重くなってくるはずだ、といっている。ばかばかしいようだが、赤軍派の遠山・進藤・行方の3名はこの理論を根拠にして、寒い中、ひたすら銃を構える訓練を続けさせられるのである。


 彼は、12・18闘争(上赤塚交番襲撃)が日本革命戦争の開始であり、2・17闘争(真岡銃砲店襲撃)は12・18闘争の実践的総括である。奪取した銃で殲滅戦をやろうとしたからこそ、銃を守るために退却した山岳ベースで共産主義化の闘いを組織し得た。従って、人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない、と述べた。しかし、これが何を意味し、何をみんなの上にもたらすことになるのか、私には想像もつかなかった。


 この主張の要点は、前述したように共産主義化の論理的必然性を銃の説明に基づいて明らかにしたことである。無論それは、客観的なものではなく、森君の観念に客観的装いをこらしたものに過ぎないが、彼はこれによって、共産主義化の闘いを確信をもって進めていくようになる。

 いまひとつの要点は、共産主義化の新しい方法論を見つけたことである。人と銃を結合させて共産主義化を勝ちとる、というのがそれである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「かなりの信頼をもった」(永田洋子)


 私は、森氏の説明を聞いていて、それが「銃を軸とした建党建軍武装闘争」をよりいっそう理論化したものであると思い、かなりの信頼をもった。そして、その中で、共産主義化による党建設の重要性を強調したことから、目的意識的な共産主義化をどうしても獲ち取っていかなければならないと思うようになった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 もともと永田は、「銃を軸とした建党建軍武装闘争」を主張していたが、理論というより、直観的なものだった。「銃-共産主義化」論は、永田の直観に共産主義化をリンクさせたものという見方もできる。


 「目的意識的な共産主義化」というのは、自然発生的な共産主義化(「下から主義」)ではなく、目的意識的な共産主義化(「上から主義」)を達成しなくてはならない、と森がいったことによる。


 森は永田の直観や行動を次々と理論化したので、永田が「かなりの信頼をもった」のは当然だった。しかし、いったん思い込むと盲目的に突き進む永田は、その都度理論を繰り出す森と相互作用を繰り返して、12名の同志殺害というとんでもない結果を生み出してしまうのである。


■「『銃-共産主義化論』をでっちあげた」(森恒夫)
 森は逮捕された直後から「自己批判書」を書いた。しかし、後に森は「自己批判書」を全面撤回し、自己批判をやり直すと宣言している。したがって、逮捕直後の「自己批判書」を書いた当時の森と自殺直前の彼は総括の立場が異なっていることに注意したい。


 坂東国男にあてた最後の手紙では、「『銃-共産主義化論』をでっちあげた」と表現した上で、以下のように述べている。


 この形而上学的「銃-共産主義化論」の非科学性、反マルクス・レーニン主義、プラグマティズムに対して疑問を持ったり、反対した同志、こうした同志に対して「総括」を要求し、過去の闘争の評価等を含めてぼくの価値観への完全な同化を強要して粛清を実現していったのです。
(1973年1月1日 森恒夫が坂東国男にあてた最後の手紙)


 ひらがなの「ぼく」、「形而上学的」、「強要」、「粛清」などの言葉の用法からして、山岳ベースの狂気から醒めたような印象を受ける。そして、早急に自己批判をやり直さなければならないと書かれているが、残念ながらそれは実現しなかった。なぜなら、森はこの手紙を書いた直後に首を吊ってしまったからである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10843356658.html?frm=theme

(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


 事件報道当時、連合赤軍といえば総括、総括といえば処刑を意味した。学校でも「ソーカツ」がはやり言葉になったほどだ。よく「総括」とカッコつきで表すのは、連合赤軍における総括は、リンチ殺人と結びついていて、一般用語としての総括とはいささか意味が違うからである。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-03-11 朝日 人民裁判=総括=死刑. 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1982-06-19 朝日 私刑に法の総括

■連合赤軍以前の総括
 一般に総括という場合は、組織内での活動において、それまで行なってきた活動の方針や成果を自ら点検・評価し、最終的には、組織としての今後の方針を打ち出すことである。


 赤軍派では、作戦行動上のミスがあったときなどに、メンバーをリーダーの前で自己批判させ、リーダーは、1ヶ月の禁酒・禁煙など禁欲的罰則を課して総括をすませていた。集団批判は行われていなかったようである。罰則は守らない者もいたようだ。


 革命左派では、総括という言葉は使わなかったが、もともと自己批判・相互批判が行なわれていた。坂口によれば、「吊るし上げに終わることが多かった」そうである。永田がリーダーになってからは、メンバーが指導部の批判を行うこともあったようだ。


■連合赤軍における「総括」
 連合赤軍では「総括」という言葉の意味を使い分けているので注意が必要だ。「総括しろ」というときは自己批判の意味で、「総括にかける」というときは集団批判の意味、「総括できていない」というときは、本来の総括の意味だったり、自己批判の意味だったりする。


 森は革命左派の集団批判のスタイルを取り入れ、より過酷な追及の場にした。それは人民裁判のようだった。被告が被総括者とするなら、裁判官が森と永田、検察官は他のメンバー全員で、弁護人は不在である。しかも法律に基づいていなかった。客観的には、集団で一方的に断罪する吊るし上げでしかなかった。


 連合赤軍における「総括」の定義を、共産主義化と合わせて考えると、「自分の内面(ブルジョア性、日和見性、敗北主義など)と誤りを徹底的に、問題点を深く掘り下げて、根本的な原因の解明と克服方法を提示すること」になる。


 森は共産主義化の方法論として、革命のためには個人の内なる革命が必要と考えた。そして、「闘争に対する姿勢やかかわり方、日常生活上の問題点を通じてブルジョア性、日和見性、敗北主義を払拭し、死をも恐れずに、肉体的限界状況下で死をも辞さない厳しい総括が必要である」と、「総括に命がけの真剣さを要求した」のである。


 森は総括の達成度を態度を観察することで判断しようとした。断固としている、能動的である、明るくふるまう、元気を出す、などが総括が進んでいる証と考えたようだ。総括を認められたメンバーは1人もいないので、認められなかった理由から逆に推測すると、そういうことになる。


 特徴的なのは、総括の目的が、組織の活動に生かすためというよりは、人の精神を変革する目的で行われたことだ。


 ともかく、ある人間が、別のある人間の精神のありようを変えようとすることは、よかれあしかれ、きわめて危険をはらんだ操作といいうるであろう。それはどこかで、他者を自分の意のままに支配する欲望と短絡する危険をはらんでいる。そして変化の目的が、教育・治療(森の述語で言えば「飛躍」)などの大義名分をもっているときに、当然必要なブレーキや他者に対する謙虚さを失う危険が大きいのである。

 教育や治療の真の目的は、他者のうちにひそむ健康な自発性や才能の自然の開花をうながし、その現存在を世界に向かって開くことを助けるものでなければならない。
(精神医学博士・福島章・「甘えと反抗の心理」)

■被総括者の選定 -誰でもよかった?
 森恒夫と永田洋子は、「闘争から逃げた」「キスをした」「運転をミスした」「風呂に入った」など、ささいな問題を、針小棒大にとりあげ、あたかも反革命的行為であるように摘発した。しかも、摘発は過去の活動にまでさかのぼるのだからたまったものではない。


 そんなささいな理由だったら、誰にでも思い当たることはある。それはすなわち、被総括者は誰でもよかった、ということになる。いくらなんでもそれはないだろうと考えるなら、別の合理的な理由で摘発が行われたと推測するしかない。


 別の理由があったと推測する人は多い。新党結成に疑問を抱いている者を粉砕しようとしたとか、軍事能力の低い者を間引いたとか、森や永田の立場を脅かす可能性のある者に先制攻撃したとか、単に気に入らない者を摘発しただけとか、・・・・・諸説あるのだが、意見の一致をみていない。共通しているのは私刑あるいは制裁の趣があったと解釈している点だ。


■総括の進捗

 総括が進んでいるかどうかは、森にしか判断ができなかった。それはあたりまえで、「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。


■「殴ることは援助である」(森恒夫)
 森は剣道部時代、気絶して目が覚めたときに生まれ変わったような気がしたそうだ。その経験から、「殴って気絶させ、目が覚めたときには、革命戦士に生まれ変わっているはずだ」といって総括に暴力を持ち込んだ。


 さらに、「殴ることは援助である」と正当化し、メンバーを暴力に参加させた。ところがいくら殴っても思惑通り気絶しなかった。この失敗が逃亡防止のために被総括者を縛ることになり、ますます衰弱させ、死に至らしめる結果となってしまう。


 ちなみに、ボクシングの試合で、鮮やかなノックアウトが生まれるのは、やわらかいグローブをつけているからである。グローブの弾性が脳を振動させ、麻痺させるから気絶する。素手で殴ったところで、ボコボコになるだけで気絶することはない。事実、被総括者は顔が球状に腫れ上がるまで殴られたが、気絶した者は1人もいなかった。


 気絶しないのなら「援助」にならないのだから、やめればよさそうなものだが、死者が出ても暴力は続いた。なぜかというと、森は殴ることによって得た新たな告白に満足し、暴力を新たな告白を得るための手段として活用することにしたからである。


 しかしその告白は、冤罪事件でよくあるように、厳しい取調べを受けた無実の容疑者が、苦し紛れに「自白」してしまうのと同質の「告白」であった。


■「盲目的に森氏に追従した」(永田洋子)
 表向きの事実経過だけをたどれば、暴力的総括は森が主導したことは疑う余地がない。しかし、気になるのは、そこに永田の意向が反映されていたかどうかである。


 永田の「十六の墓標(下)」には、暴力的総括の様子が詳しくかかれている。そこに登場する永田本人のキャラクターは、徹頭徹尾、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」である。


 だが、それは、他のメンバーの証言と大きく異なっている。永田の手記全般についていえることは、事実関係については、他のメンバーの証言とほぼ一致しているが、こと彼女自身の内面の描写については、他のメンバーの印象と大いに食い違いをみせるのである。内面は確かめようがないが、少なくとも周囲には、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」には見えてはいなかった。


 永田さんの筆は、彼女の周囲の人々の動きや心理の翳を実に的確に捉えています。下手な小説家などはとても適わない筆力です。そのくせ、彼女自身の影が薄いのです。彼女の言動が一番影絵のようで生彩がありません。
(瀬戸内寂静・「十六の墓標(下)」まえがき)

 最後にあたって、永田同志の総括について、自分の問題として一言のべておきたいことがあります。「十六の墓標」を読んで感じることは、自分の感情や頭の中での問題意識を比較的正直に表現していると思いますが、しかし、そこに価値がないということをとらえかえしてほしいと思いました。客観的に映る永田同志や私の姿は、まさに、自分の誤りを保守するために、冷酷に、鬼のように同志を死に至らしめたという姿であって、まさに、その実態こそが、敗北を引き起こしたのだということに中心の問題があると思います。

 もし動揺している姿が実態であれば、同志を殺すこともなかったと思うのです。動揺していたということでは、最も動揺していたのはきっと森同志であったでしょう。それは、永田同志の書いている本にも出ているし、私自身のとらえかえしの中でも気づくことです。動揺したというのは、自分にとっての事実ではあると思いますが、客観的事実は、同志を殺したということであり、同志に映っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、私達の姿、本当の姿であると思うのです。その革命的でも、美しいものでもない姿を、自分の姿として認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、総括の第一歩が始まると思います。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 こうしたことから、暴力的総括は、森が永田に引きずられた、という説が浮上する。なぜなら、森は、当初、革命左派の2名の処刑に否定的だったが、後に肯定するようになったし、山岳ベースも否定的だったのに、いつのまにか肯定に転じている。永田の影響を強く受けたふしがあるからだ。


 したがって、森は永田の意向にそって総括を行った、という見方もありえない話ではない。総括で死亡した革命左派のメンバーは、永田とそりがあわないメンバー(しかも指導者の資質を持った者)が多いことも、そうした見方を補強している。


■「総括できなかったところの敗北死だ」(森恒夫)
 普通、組織内で死者がでれば、遺体は家族に返される。もし連合赤軍が、家族と連絡をとっていたら、2人目の犠牲者は出なかっただろう。しかし、幹部はみな指名手配されていて、人目につかない山岳ベースに潜んでいたので、それはあり得ない選択だった。議論するまでもなく、山中に埋葬することになってしまった。


 メンバーは、自分たちが仲間を殺してしまったと大いに動揺した。それは森も同じだった。しかし森は直後に、「われわれが殺したのではなく敗北死した」 という解釈を披露したのである。すなわち、「同志の援助に応えられず、総括できずに敗北し、死亡した」というのだ。


 もちろん「敗北死」など信じられるはずがない。だが、この理論は動揺したメンバーたちに、救済の手を差しのべていた。彼らは、「敗北死」の理論にすがりつき、罪の意識を開放したのである。


 森は目の前の事態を正当化する能力にずば抜けていた。森がとっさに「敗北死」の理論を創造しなかったら、この時点で暴力行為は見直されたに違いない。


 1人目の犠牲者が出て、「敗北死」の理論を受け入れてから、メンバーには心情的な変化が現れた。ひとつは、次第に物事の解釈や判断を指導部にゆだね、自らは思考停止していったこと。そして指示があれば、仲間を殴ることも、殺すことも抵抗がなくなっていった。もうひとつは、自ら共産主義化(革命戦士化)を達成しなくてはならないという、贖罪意識が生まれたことである。


 同志が死んでも暴力的総括要求を続けたのは、私たちが「殺害」した事実を認めることを恐れた以上に、同志を「敗北死」させた自己批判を自分たちの闘い-死に求めたからである。(中略)

 私たちは、同志への暴力を通して自分たちはもはや死ぬ以外にないところに追い込み、同志の死への贖罪意識によって死を恐れない革命戦士となって、殲滅線を実行せんとしたのである。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)


 「敗北死」とは、死亡した者へ責任を転嫁する言葉にすぎなかった。しかし、その言葉の影響は絶大で、次々と「敗北死」を再生産していくのである。


■証言集 「永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。」(横浜国大生・S)


 短期に組織の共産主義化をかちとろう-そのために厳しい同志的援助をし合う必要があり、苛烈な暴力すら余儀なくされているそうした同志的な、かつ厳しい援助の下でなおかつ真摯な総括の姿勢を示さない場合、文字通り命がけの状況を創出して総括を迫るのがぎりぎりの同志的援助であるし、最終的には共産主義化の獲得は同志的援助ではなく、個人の力によってなされるべきものである、というのであったが、この端緒的な指導の誤りとその合理化は、当初からそうした指導に対する下からの批判が保障、確立されていなかったことから前述した過程へ突入していったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした討論過程で常にそうしていたのだが、批判や追及に対して、ただそれを事実として認めることが総括の意味ではなく、事実を事実として素直に認めた上で、それが革命戦士になろうとする自分にとってどういう問題なのかを把みとり、そうした問題を止揚する方法、方向性、決意を確立することが大切であること...(以下略)
(森恒夫・「自己批判書」)

 新党で掲げられた共産主義化とは、武装闘争のためにいかなる犠牲も恐れない革命戦士となるために、それまでの活動上の問題を自己批判し、克服していくこととしてあった、こうした観点から、新党では、それまでの夫婦関係や恋人関係も問題にされた。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。なにが「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものか、と問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。

 したがって、私は、「共産主義化」に対する絶対的な規律をもたないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の現れとして批判し、その総括を要求していったのである。これは、私がそれまでの革命左派の党派活動の中で経験的に見につけた作風や規律を、「共産主義化」のための規律にしたということに他ならない。
(永田洋子・「続・十六の墓標」)

 12名の同志「殺害」という自殺的行為によって敗北し、組織そのものが完全に解体したことほど、この誤りの大きさを私につきつけたものはなかった。しかし、この12名の同志「殺害」を引き起こした共産主義化が赤軍派との共同軍事時訓練を通して提起された時、このような事態に至ることを予想することはまったくできなかった。反対に、私たちは、この共産主義化によってよりいっそうの前進が可能になると多いに希望を持ったのである。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 12名への批判の重大な誤りは、誤った闘争路線に基づいていたことにあるだけでなく、批判、総括要求に政治的な基準を与えなかったことにある。そのため、私たちの批判は、人の性格や資質を憶測や推測で批判する個人批判になってしまった。私たちは、批判を際限なく拡大させ、その人の全過去、全人格を否定し、自己批判要求された人を絶望に追い込み、どのような方向で自己批判したらいいかわからなくさせてしまった。自己批判できたと判断しえる基準もないため、いつまでたっても自己批判できたといえない状態が続き、暴力のもちこみの中で「敗北死」を続出させることになったのである。

 そして、暴力的総括要求の残酷さに対する動揺、ためらい、恐れなどの人間感情を、克服すべき「弱さ」「甘さ」として自らをおしつぶしたばかりでなく、皆にもおしつぶさせ、総括要求をより残酷なものにしていった。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)

 森君の総括要求は客観的必然性を有したものではない。それは彼の観念の産物であった。それ故、総括のマニュアルなど有るはずもなく、勢い対象者の態度で判断する恣意的なものにならざるを得なかった。こうした無茶な総括から逃れるには、森君の意に沿って、明るい顔をしたり、何のためらいもなく自分の問題を語るようにすれば良かった。つまり総括ができたふりをすれば良かった。言うまでもないが、精神的に追い詰められた時に、こういう芸当はたやすくできるものではなかった。
(坂口弘・「続あさま山荘1972」)

 森同志や永田同志がこれらの会議を主導していく(形としては)ことになったわけですが、私はその都度、二人の同志が非常によく観察していること、自分なら想像もしないような解釈を同志の行動の中に見出すことに対して、感心しさえしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 尾崎同志の「政治的死」の総括によって、自然発生的に目的意識的に指導部への造反が生まれ始め、制裁に動揺示した同志、我々の絶対化を少しでも批判めいたことを主張した同志、「共産主義化」の闘いに遅れていると我々が考えた同志(実際は小ブル革命主義の反動化路線に反対した同志)を、単に「自己総括」が遅れている不徹底者とみなすだけでなく、「分派」と決め付けたり、「脱落分子」と決め付けたり、更には「権力の手の中へ逃亡し、敵権力と通ずる分子」ではないかと疑い始め、総括要求は厳しい追求・詰問に変わっていった。
(「赤軍ドキュメント」坂東国男)

 今思えば、森恒夫があの暴力的総括要求を「日和見主義や敗北主義との戦いによる主体の飛躍」、それによるメンバーの死を「主体の飛躍に失敗した敗北者の死」と理論付けることがなかったら、いくら永田さんが感情丸出しでメンバーを摘発したとしても、あのように死者が続出することにはならなかったように思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 森君本人も、自分の中の暴力回避の日和見性を払拭し切らんとする内的志向があって、あれほど苛烈に自らを駆り立て、論理で自らを縛り、袋小路にのめりこんでいったのだと僕には思えます。下部メンバーはもちろん、森君にも、けっして総括の対象者への憎悪や敵愾心は無かったと思います。森君は実に的確に、被対象者の心理を「見抜き」、批判の矢を浴びせ、暴力をエスカレートさせていきました。それは彼が、対象者の内に、自らの姿を投影して見ていたためで、彼が、被対象者に鉄拳を加える時、森君自身の内なる日和見性に鉄拳を下し、消し去ろうとしていたのだと思います。森君にとって「12名との闘い」とは即ち、「内なる12名との闘い」を彼自身闘っているつもりだったろうと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 結局暴力は当初から異端者なる者、分派に傾く可能性のある者や、脱落・落伍の可能性のある者、不服従姿勢を持つ者への制裁といった色彩の強いものであったと思い返さざるをえません。...実質的には一種の統制手段としてのそれに他ならなかったということであろうと思います。(中略)追求や暴力への関与姿勢そのものが、評定・点検の観察対象となり、また被緊縛者の反抗姿勢や逃亡意思の有無が最大の評価対象となったのも、その本質の所在を示していました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 僕や植垣君が「総括」の対象からはずされていたということはありません。実際、両名とも何度か「総括」を求められた。極限までいかなかったことに理由はないと思います。だから常に危機感があった。
「総括」要求の対象およびレベルに明確な基準があったとは思えません、だれでも可能性があった。一方で「真のターゲット」というような考えは、当時も今もあったとは思えません。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫公判調書)

 森と永田とは不即不離の関係にあって、永田が感情的、直感的に発言し行動することを森が理論づけしていた。永田は組織の中で、自己の地位を脅かす者とか永田のヘゲモニーを奪おうとするものとか、別の面(美人、頭がよいとか)で永田に勝っていると思われる者とかに対してはきわめて敏感であって、それをできるだけ粉砕しようという意図を持っていた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫ヒアリング)

(加藤が死亡したとき)それまでは総括の援助だといわれ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 森も永田も小心性な性格であった。森と永田は、メンバーを強制的に殴打させ、あとでどう感じたかを聞いて、その答えの内容を今度はその者に対する「総括」の理由とした。永田は、自分が信用できないと思う者に順番にいいがかりをつけていったのが「総括」であった。何人目かが死んだ頃、永田はメンバーに対して、「同じ立場になったから逃げるものがいない」趣旨のことを言った。永田は指名手配になったことを相当重荷に思っていたようである。メンバーを共犯にすることによって、みんなが警察に追われる立場になったことを喜んでいたものと思われる。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義公判調書)

 (森は)いっしょに生活しているうちになんとなく「この男は気が小さいな」と感じることがありました。(中略)この森の小心性から、同志に対して不必要な疑いをかけ、敗北主義者、あるいは日和見主義者、と決めつけて殺した例がたぶんに出ております。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 永田は、女性に対して非常に一種独特な批判の眼を持っており、特に自分を批判的に見る人に対してそういう眼を持っていた。つまり指輪をしているから革命戦士になれない(遠山の場合)というような、すごく矮小的な形から批判をもってゆく、そのようなものを根本とするものの考え方をした。非常に嫉妬深い性格である。そのことは永田の排他的性格でもあった。つまり、メンバーが自分と同等であってはならなかった。自分と対等に並ぼうとするものに対しては、常にこれを排斥しなければ自分が落ち着いていられない性格であった。とくにそれは男性面で出た。だから結局、自分に取って代わるだろうと思われる者を排斥(抹殺)した。


 榛名ベース以前では銃はわたし達が保管していたが、以降は永田や森が座る位置の後ろに必ず銃が立てかけてあって、それは我々の方に向かっていた。それは永田や森を守るために必要だったのだと思う。常に権力というものはそういうものが必要なのだと思う。「総括」要求の基準というものは何もなかった。永田と森の肝づもり1つであった。だから永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。永田をして「女王」「絶対君主」みたいにした原因は、我々にも責任があると思う。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」寺岡の妻で横浜国大生Sの公判調書)

 ごらんのように、「総括」については、当事者たちの証言でも意見が分かれている。12名もの同志を殺害しておきながら、主導したのは森恒夫だったのか、永田洋子だったのか、真の目的はあったのか、なかったのか、あるとすれば、それは何だったのか・・・・・はっきりしないというのは、どうにもこうにも収まりが悪い。これが今なお連合赤軍事件が語られ続けている理由である。


 総括に暴力をもちこんだのは、他者を変革するための「同志的援助」のつもりであったにせよ、暴力を受けた者の内面に生まれるのは、反抗か屈服のどちらかしかない。反抗すれば「総括する態度ではない」と、より苛烈な暴力を加えられた。屈服し、反革命的行為を告白すれば、「裏切り者」とレッテルを貼られた。総括に出口はあったのだろうか。


 メンバーの心の一方には、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖があり、それに対しては、被総括者に弱者のレッテルを貼ることによって何とかバランスを保っていた。もう一方には、贖罪意識という死者への負債が重くのしかかっていた。死者への負債を返済するためには、自らが革命戦士となって殲滅戦を全うするしかなかった。


 森は次々と理論を創出し、適用を試みるのであるが、彼の脳内理論と現実の間には大きな隔たりがあり、それは決して埋まることはなかった。なぜなら森は指導する者ではなく、裁きを与える者だったからである。しかも、森の脳内のものさしは、事態の変化に応じて、どんどん形を変えたから、ついていけるはずがない。


 そして、「総括」によって、自分の価値観をメンバーに強要し、他の価値観を一切許さなかった。メンバーの主体はこうして解体されていくのだった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)
 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 - 死をも恐れぬ革命戦士となること -

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕-自供-逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党-世界赤軍-世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党-軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装-暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党-蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆
22:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:10:19


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取-味方の武装-敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」-実は蜂起の軍隊建設-を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判-自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士-連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)


 漢字が多くて読みにくいが、要するに、共産主義化の総括要求は歴史的必然であった、といいたいのであろう。しかし、この理論にはかなりの飛躍がありそうだ。


 理論はともかく、気になるのは文体の方で、「問われた」「要求された」を連発して、決して「考えた」とはいわないのである。この文章の中に主体であるはずの森自身が不在なのである。


 「自己批判書」であるにもかかわらず、ここまで自己を不在にした理由は、責任の重さを引き受けられないからであり、歴史的必然を装った理論は、生身を覆い隠すための鎧のように思える。


■証言集


 私と永田さんが新倉ベースでの確認事項を伝えたとき、寺岡幸一君が、「共同軍事訓練の成果をみんなに伝えようとしたところ、何を報告すればよいのかハッキリしなかった」と当惑して言った。寺岡君等より2日長く居て森君の話を聞いていた私ですら、森君が何を話し、何を言わんとしているのか理解できなかったので、この発言は無理もなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や、文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。


 ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。


 何が「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものかと問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。


 従って私は、「共産主義化」に対する明確な規範を持たないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の表れとして批判し、その総括を要求していったのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 「新党」(筆者注・連合赤軍のこと)では、一応討論という形をとっていたものの、実際には指導部会議でも、討論をを通して問題を明確にし、物事を深めるということが一回もなかった。たとえば、「共産主義化」というもっとも肝心な問題1つとっても、その必要性が強調されながら、いったいそれは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった。主導的な意見に、それを支持するか否かが問われるだけで、それで終わっていたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 共産主義化の闘いの本来の目的は、それまでの活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために自己のすべてを犠牲にすることのできる革命家を育成することにありました。


 この点で、共産主義化の闘いを推進した森氏は他の誰よりも自己犠牲的な革命家たろうとしていましたし、私たちもそうした革命家になろうと必死になりました。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」あとがき)


 大菩薩での敗北は、「殺すか、殺されるか」の政治における人の要素と、「敵を消滅し、味方を保存する」軍事における武器の要素との分離にあったとして考えていったということです。単純に言えば、本当に武器をもって闘おうとせず、福ちゃん荘でも、爆弾ひとつ投げる人間はだれもいなかったと批判することによって、自分たちがいつも銃のことを考え、身からはなさず、いつでもそれを敵に向けて使う用意があるようにすべきであり、そうなるためには、人が死をも恐れない革命戦士として共産主義化されなければならないというものです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 このとき、私を含む指導部が自己を改造する立場に立って働きかける指導制をもてず、「共産主義化」をいうとき、自己の人生観(ブルジョア性や小ブル思想-人間憎悪、人間蔑視の哲学)を絶対的な基準として下部の同志たちへの対象変革を求めることに陥っていくことになりました。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 赤軍派は、世界革命戦争というロマンを掻き立てて華やかに登場した。しかしながら、その闘争は次々と権力に圧殺され、よど号ハイジャックのほかは、たいした成果はあげられなかった。逮捕者が続出し、壊滅寸前になったところで、森恒夫がリーダーに繰り上がった。


 考えてみると、森がリーダーとなった時点で、取り得る選択肢は2つしかなかった。ひとつは敗戦処理であり、闘争を後退させ組織を温存すること。もうひとつは、闘争を飛躍させ、敗北に直面した現状を一気に飛び越してしまうことである。


 森は後者を選択し、「銃による殲滅戦」で飛び越しに賭けた。そのイデオロギーが「共産主義化」だった。しかしながら、死を覚悟するということは、敗北を意識しているということに他ならなかった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10827152785.html?frm=theme


(理論編)「銃-共産主義化」 - 人と銃の結合 -
https://ameblo.jp/shino119/entry-10843356658.html?frm=theme

 森恒夫は「共産主義化」 に銃をからめて、「銃-共産主義化」論を構築した。これが実にヘンテコなのだが、しかし、どんなにヘンテコな理論であろうと、山岳ベースでの総括を支配し、リンチ殺人事件をもたらしたのである。なお、 永田洋子や植垣康博の著書では、「銃による殲滅戦論」と表記している。


 森の書いたものの中に、「銃の物神化」とか「人と銃の高次な結合」などという言葉が出てくるが、いずれも、「銃-共産主義化」論の話で、関係式は次のような感じである。


「共産主義化」+「銃の物神化」=「銃-共産主義化」 → 「人と銃の高次な結合」の要求


■「革命左派の撤退を美化した」(森恒夫)
まず、革命左派が山岳ベースへいたるまでの経緯を復習しておくと、以下のようになる。


リーダー川島豪の逮捕
→川島豪の奪還計画を策定
→銃奪取を計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わる)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→北海道への逃避行
→永田が中国への逃避を提案するがメンバーの反対で断念
→山岳ベースへ後退


 森は共同軍事訓練最終日 に、革命左派の行動を高く評価した上で、「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」と結論づけた。いったいどういうことなのだろうか?


 「自己批判書」は難解なので、赤軍派による「12・18アピール」(森の考えを山田孝が書いたもの)と坂口の手記を参考に、大胆にデフォルメしてみると、以下のようになる。


1.上赤塚交番襲撃 では、「殺すか、殺されるか」という攻防が出現したが、威力のない武器で対抗したため敗北してしまった。「殺すか、殺されるか」という攻防には銃が不可欠である。


2.真岡銃砲店襲撃 は上赤塚交番襲撃の総括の上に立って行われたため成功を収めた。「奪取した銃」は敵の弾圧を引き出した。そして、「奪取した銃」は革命左派に銃を守る闘いを要求した。


3.「奪取した銃」によって銃を守る闘いを要求された革命左派は、山岳への退避によって、「奪取した銃」の要求に応えようとした。


4.「奪取した銃」は、銃を握る者に対し、主体の革命戦士化、すなわちメンバーの共産主義化を要求している。


5.「奪取した銃」の要求に応えようとして、革命左派は、山岳ベースで自己批判・相互批判を組織的に行なってきた。これは自然発生的ではあるが共産主義化の萌芽である。


6.「奪取した銃」にはこのように人を変革する力があるのだから、ゆえに「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」

(赤軍派による「12・18アピール 殲滅する銃を! 」と「あさま山荘1972(下)」をデフォルメ)


 なるほど、そうだったのか・・・と納得する人はおそらくいないだろう。奇妙な理論である。

 森は、赤軍派と革命左派との共同軍事訓練の最中、遠山批判 をきっかけに、革命左派を吸収しようという姿勢から、革命左派に学ぼうという姿勢に転じた。そして革命左派の行動を美化し、理論化したのである。


 無論これは森君が頭の中でそう考えたということであり、われわれ革命左派にはそんな意識はこれっぽっちもなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口にこういわれてしまうと身も蓋もない(笑)。しかし、持ち上げられるのが好きな永田洋子だけは「そうだったのか!」と本気で信じたような気がする。


 たしかに革命左派は、敗走に敗走を重ねて山岳ベースにたどり着いたのであり、山岳ベースでも、目の前の事態に追われ続けていただけだった。もっとも森はそれを承知しているので「自然発生的ではあるが」「共産主義化の朋芽」と繕っている。


■ 「銃を物神化した」(森恒夫)
 森は、革命左派の行動を美化し、あたかも銃が導いたの如く理論を構築した。しかも銃に「奪取した銃」というように属性を持たせている。


 驚くべきことに、主体の飛躍に応じて「奪取した銃」→「味方を団結させる銃」→「敵をせん滅させる銃」→「プロレタリアート独裁の銃」というように銃が成長していくのだという。銃に超自然的な力があるかのように考えていたようだ。これを後に「銃を物神化した」と振り返っている。


 共同軍事訓練後も、森は行方正時に対し、人が銃を成長させる、だから総括すれば銃は重くなってくるはずだ、といっている。ばかばかしいようだが、赤軍派の遠山・進藤・行方の3名はこの理論を根拠にして、寒い中、ひたすら銃を構える訓練を続けさせられるのである。


 彼は、12・18闘争(上赤塚交番襲撃)が日本革命戦争の開始であり、2・17闘争(真岡銃砲店襲撃)は12・18闘争の実践的総括である。奪取した銃で殲滅戦をやろうとしたからこそ、銃を守るために退却した山岳ベースで共産主義化の闘いを組織し得た。従って、人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない、と述べた。しかし、これが何を意味し、何をみんなの上にもたらすことになるのか、私には想像もつかなかった。


 この主張の要点は、前述したように共産主義化の論理的必然性を銃の説明に基づいて明らかにしたことである。無論それは、客観的なものではなく、森君の観念に客観的装いをこらしたものに過ぎないが、彼はこれによって、共産主義化の闘いを確信をもって進めていくようになる。

 いまひとつの要点は、共産主義化の新しい方法論を見つけたことである。人と銃を結合させて共産主義化を勝ちとる、というのがそれである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「かなりの信頼をもった」(永田洋子)


 私は、森氏の説明を聞いていて、それが「銃を軸とした建党建軍武装闘争」をよりいっそう理論化したものであると思い、かなりの信頼をもった。そして、その中で、共産主義化による党建設の重要性を強調したことから、目的意識的な共産主義化をどうしても獲ち取っていかなければならないと思うようになった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 もともと永田は、「銃を軸とした建党建軍武装闘争」を主張していたが、理論というより、直観的なものだった。「銃-共産主義化」論は、永田の直観に共産主義化をリンクさせたものという見方もできる。


 「目的意識的な共産主義化」というのは、自然発生的な共産主義化(「下から主義」)ではなく、目的意識的な共産主義化(「上から主義」)を達成しなくてはならない、と森がいったことによる。


 森は永田の直観や行動を次々と理論化したので、永田が「かなりの信頼をもった」のは当然だった。しかし、いったん思い込むと盲目的に突き進む永田は、その都度理論を繰り出す森と相互作用を繰り返して、12名の同志殺害というとんでもない結果を生み出してしまうのである。


■「『銃-共産主義化論』をでっちあげた」(森恒夫)
 森は逮捕された直後から「自己批判書」を書いた。しかし、後に森は「自己批判書」を全面撤回し、自己批判をやり直すと宣言している。したがって、逮捕直後の「自己批判書」を書いた当時の森と自殺直前の彼は総括の立場が異なっていることに注意したい。


 坂東国男にあてた最後の手紙では、「『銃-共産主義化論』をでっちあげた」と表現した上で、以下のように述べている。


 この形而上学的「銃-共産主義化論」の非科学性、反マルクス・レーニン主義、プラグマティズムに対して疑問を持ったり、反対した同志、こうした同志に対して「総括」を要求し、過去の闘争の評価等を含めてぼくの価値観への完全な同化を強要して粛清を実現していったのです。
(1973年1月1日 森恒夫が坂東国男にあてた最後の手紙)


 ひらがなの「ぼく」、「形而上学的」、「強要」、「粛清」などの言葉の用法からして、山岳ベースの狂気から醒めたような印象を受ける。そして、早急に自己批判をやり直さなければならないと書かれているが、残念ながらそれは実現しなかった。なぜなら、森はこの手紙を書いた直後に首を吊ってしまったからである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10843356658.html?frm=theme

(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


 事件報道当時、連合赤軍といえば総括、総括といえば処刑を意味した。学校でも「ソーカツ」がはやり言葉になったほどだ。よく「総括」とカッコつきで表すのは、連合赤軍における総括は、リンチ殺人と結びついていて、一般用語としての総括とはいささか意味が違うからである。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-03-11 朝日 人民裁判=総括=死刑. 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1982-06-19 朝日 私刑に法の総括

■連合赤軍以前の総括
 一般に総括という場合は、組織内での活動において、それまで行なってきた活動の方針や成果を自ら点検・評価し、最終的には、組織としての今後の方針を打ち出すことである。


 赤軍派では、作戦行動上のミスがあったときなどに、メンバーをリーダーの前で自己批判させ、リーダーは、1ヶ月の禁酒・禁煙など禁欲的罰則を課して総括をすませていた。集団批判は行われていなかったようである。罰則は守らない者もいたようだ。


 革命左派では、総括という言葉は使わなかったが、もともと自己批判・相互批判が行なわれていた。坂口によれば、「吊るし上げに終わることが多かった」そうである。永田がリーダーになってからは、メンバーが指導部の批判を行うこともあったようだ。


■連合赤軍における「総括」
 連合赤軍では「総括」という言葉の意味を使い分けているので注意が必要だ。「総括しろ」というときは自己批判の意味で、「総括にかける」というときは集団批判の意味、「総括できていない」というときは、本来の総括の意味だったり、自己批判の意味だったりする。


 森は革命左派の集団批判のスタイルを取り入れ、より過酷な追及の場にした。それは人民裁判のようだった。被告が被総括者とするなら、裁判官が森と永田、検察官は他のメンバー全員で、弁護人は不在である。しかも法律に基づいていなかった。客観的には、集団で一方的に断罪する吊るし上げでしかなかった。


 連合赤軍における「総括」の定義を、共産主義化と合わせて考えると、「自分の内面(ブルジョア性、日和見性、敗北主義など)と誤りを徹底的に、問題点を深く掘り下げて、根本的な原因の解明と克服方法を提示すること」になる。


 森は共産主義化の方法論として、革命のためには個人の内なる革命が必要と考えた。そして、「闘争に対する姿勢やかかわり方、日常生活上の問題点を通じてブルジョア性、日和見性、敗北主義を払拭し、死をも恐れずに、肉体的限界状況下で死をも辞さない厳しい総括が必要である」と、「総括に命がけの真剣さを要求した」のである。


 森は総括の達成度を態度を観察することで判断しようとした。断固としている、能動的である、明るくふるまう、元気を出す、などが総括が進んでいる証と考えたようだ。総括を認められたメンバーは1人もいないので、認められなかった理由から逆に推測すると、そういうことになる。


 特徴的なのは、総括の目的が、組織の活動に生かすためというよりは、人の精神を変革する目的で行われたことだ。


 ともかく、ある人間が、別のある人間の精神のありようを変えようとすることは、よかれあしかれ、きわめて危険をはらんだ操作といいうるであろう。それはどこかで、他者を自分の意のままに支配する欲望と短絡する危険をはらんでいる。そして変化の目的が、教育・治療(森の述語で言えば「飛躍」)などの大義名分をもっているときに、当然必要なブレーキや他者に対する謙虚さを失う危険が大きいのである。

 教育や治療の真の目的は、他者のうちにひそむ健康な自発性や才能の自然の開花をうながし、その現存在を世界に向かって開くことを助けるものでなければならない。
(精神医学博士・福島章・「甘えと反抗の心理」)

■被総括者の選定 -誰でもよかった?
 森恒夫と永田洋子は、「闘争から逃げた」「キスをした」「運転をミスした」「風呂に入った」など、ささいな問題を、針小棒大にとりあげ、あたかも反革命的行為であるように摘発した。しかも、摘発は過去の活動にまでさかのぼるのだからたまったものではない。


 そんなささいな理由だったら、誰にでも思い当たることはある。それはすなわち、被総括者は誰でもよかった、ということになる。いくらなんでもそれはないだろうと考えるなら、別の合理的な理由で摘発が行われたと推測するしかない。


 別の理由があったと推測する人は多い。新党結成に疑問を抱いている者を粉砕しようとしたとか、軍事能力の低い者を間引いたとか、森や永田の立場を脅かす可能性のある者に先制攻撃したとか、単に気に入らない者を摘発しただけとか、・・・・・諸説あるのだが、意見の一致をみていない。共通しているのは私刑あるいは制裁の趣があったと解釈している点だ。


■総括の進捗

 総括が進んでいるかどうかは、森にしか判断ができなかった。それはあたりまえで、「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。


■「殴ることは援助である」(森恒夫)
 森は剣道部時代、気絶して目が覚めたときに生まれ変わったような気がしたそうだ。その経験から、「殴って気絶させ、目が覚めたときには、革命戦士に生まれ変わっているはずだ」といって総括に暴力を持ち込んだ。


 さらに、「殴ることは援助である」と正当化し、メンバーを暴力に参加させた。ところがいくら殴っても思惑通り気絶しなかった。この失敗が逃亡防止のために被総括者を縛ることになり、ますます衰弱させ、死に至らしめる結果となってしまう。


 ちなみに、ボクシングの試合で、鮮やかなノックアウトが生まれるのは、やわらかいグローブをつけているからである。グローブの弾性が脳を振動させ、麻痺させるから気絶する。素手で殴ったところで、ボコボコになるだけで気絶することはない。事実、被総括者は顔が球状に腫れ上がるまで殴られたが、気絶した者は1人もいなかった。


 気絶しないのなら「援助」にならないのだから、やめればよさそうなものだが、死者が出ても暴力は続いた。なぜかというと、森は殴ることによって得た新たな告白に満足し、暴力を新たな告白を得るための手段として活用することにしたからである。


 しかしその告白は、冤罪事件でよくあるように、厳しい取調べを受けた無実の容疑者が、苦し紛れに「自白」してしまうのと同質の「告白」であった。


■「盲目的に森氏に追従した」(永田洋子)
 表向きの事実経過だけをたどれば、暴力的総括は森が主導したことは疑う余地がない。しかし、気になるのは、そこに永田の意向が反映されていたかどうかである。


 永田の「十六の墓標(下)」には、暴力的総括の様子が詳しくかかれている。そこに登場する永田本人のキャラクターは、徹頭徹尾、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」である。


 だが、それは、他のメンバーの証言と大きく異なっている。永田の手記全般についていえることは、事実関係については、他のメンバーの証言とほぼ一致しているが、こと彼女自身の内面の描写については、他のメンバーの印象と大いに食い違いをみせるのである。内面は確かめようがないが、少なくとも周囲には、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」には見えてはいなかった。


 永田さんの筆は、彼女の周囲の人々の動きや心理の翳を実に的確に捉えています。下手な小説家などはとても適わない筆力です。そのくせ、彼女自身の影が薄いのです。彼女の言動が一番影絵のようで生彩がありません。
(瀬戸内寂静・「十六の墓標(下)」まえがき)

 最後にあたって、永田同志の総括について、自分の問題として一言のべておきたいことがあります。「十六の墓標」を読んで感じることは、自分の感情や頭の中での問題意識を比較的正直に表現していると思いますが、しかし、そこに価値がないということをとらえかえしてほしいと思いました。客観的に映る永田同志や私の姿は、まさに、自分の誤りを保守するために、冷酷に、鬼のように同志を死に至らしめたという姿であって、まさに、その実態こそが、敗北を引き起こしたのだということに中心の問題があると思います。

 もし動揺している姿が実態であれば、同志を殺すこともなかったと思うのです。動揺していたということでは、最も動揺していたのはきっと森同志であったでしょう。それは、永田同志の書いている本にも出ているし、私自身のとらえかえしの中でも気づくことです。動揺したというのは、自分にとっての事実ではあると思いますが、客観的事実は、同志を殺したということであり、同志に映っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、私達の姿、本当の姿であると思うのです。その革命的でも、美しいものでもない姿を、自分の姿として認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、総括の第一歩が始まると思います。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 こうしたことから、暴力的総括は、森が永田に引きずられた、という説が浮上する。なぜなら、森は、当初、革命左派の2名の処刑に否定的だったが、後に肯定するようになったし、山岳ベースも否定的だったのに、いつのまにか肯定に転じている。永田の影響を強く受けたふしがあるからだ。


 したがって、森は永田の意向にそって総括を行った、という見方もありえない話ではない。総括で死亡した革命左派のメンバーは、永田とそりがあわないメンバー(しかも指導者の資質を持った者)が多いことも、そうした見方を補強している。


■「総括できなかったところの敗北死だ」(森恒夫)
 普通、組織内で死者がでれば、遺体は家族に返される。もし連合赤軍が、家族と連絡をとっていたら、2人目の犠牲者は出なかっただろう。しかし、幹部はみな指名手配されていて、人目につかない山岳ベースに潜んでいたので、それはあり得ない選択だった。議論するまでもなく、山中に埋葬することになってしまった。


 メンバーは、自分たちが仲間を殺してしまったと大いに動揺した。それは森も同じだった。しかし森は直後に、「われわれが殺したのではなく敗北死した」 という解釈を披露したのである。すなわち、「同志の援助に応えられず、総括できずに敗北し、死亡した」というのだ。


 もちろん「敗北死」など信じられるはずがない。だが、この理論は動揺したメンバーたちに、救済の手を差しのべていた。彼らは、「敗北死」の理論にすがりつき、罪の意識を開放したのである。


 森は目の前の事態を正当化する能力にずば抜けていた。森がとっさに「敗北死」の理論を創造しなかったら、この時点で暴力行為は見直されたに違いない。


 1人目の犠牲者が出て、「敗北死」の理論を受け入れてから、メンバーには心情的な変化が現れた。ひとつは、次第に物事の解釈や判断を指導部にゆだね、自らは思考停止していったこと。そして指示があれば、仲間を殴ることも、殺すことも抵抗がなくなっていった。もうひとつは、自ら共産主義化(革命戦士化)を達成しなくてはならないという、贖罪意識が生まれたことである。


 同志が死んでも暴力的総括要求を続けたのは、私たちが「殺害」した事実を認めることを恐れた以上に、同志を「敗北死」させた自己批判を自分たちの闘い-死に求めたからである。(中略)

 私たちは、同志への暴力を通して自分たちはもはや死ぬ以外にないところに追い込み、同志の死への贖罪意識によって死を恐れない革命戦士となって、殲滅線を実行せんとしたのである。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)


 「敗北死」とは、死亡した者へ責任を転嫁する言葉にすぎなかった。しかし、その言葉の影響は絶大で、次々と「敗北死」を再生産していくのである。


■証言集 「永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。」(横浜国大生・S)


 短期に組織の共産主義化をかちとろう-そのために厳しい同志的援助をし合う必要があり、苛烈な暴力すら余儀なくされているそうした同志的な、かつ厳しい援助の下でなおかつ真摯な総括の姿勢を示さない場合、文字通り命がけの状況を創出して総括を迫るのがぎりぎりの同志的援助であるし、最終的には共産主義化の獲得は同志的援助ではなく、個人の力によってなされるべきものである、というのであったが、この端緒的な指導の誤りとその合理化は、当初からそうした指導に対する下からの批判が保障、確立されていなかったことから前述した過程へ突入していったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした討論過程で常にそうしていたのだが、批判や追及に対して、ただそれを事実として認めることが総括の意味ではなく、事実を事実として素直に認めた上で、それが革命戦士になろうとする自分にとってどういう問題なのかを把みとり、そうした問題を止揚する方法、方向性、決意を確立することが大切であること...(以下略)
(森恒夫・「自己批判書」)

 新党で掲げられた共産主義化とは、武装闘争のためにいかなる犠牲も恐れない革命戦士となるために、それまでの活動上の問題を自己批判し、克服していくこととしてあった、こうした観点から、新党では、それまでの夫婦関係や恋人関係も問題にされた。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。なにが「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものか、と問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。

 したがって、私は、「共産主義化」に対する絶対的な規律をもたないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の現れとして批判し、その総括を要求していったのである。これは、私がそれまでの革命左派の党派活動の中で経験的に見につけた作風や規律を、「共産主義化」のための規律にしたということに他ならない。
(永田洋子・「続・十六の墓標」)

 12名の同志「殺害」という自殺的行為によって敗北し、組織そのものが完全に解体したことほど、この誤りの大きさを私につきつけたものはなかった。しかし、この12名の同志「殺害」を引き起こした共産主義化が赤軍派との共同軍事時訓練を通して提起された時、このような事態に至ることを予想することはまったくできなかった。反対に、私たちは、この共産主義化によってよりいっそうの前進が可能になると多いに希望を持ったのである。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 12名への批判の重大な誤りは、誤った闘争路線に基づいていたことにあるだけでなく、批判、総括要求に政治的な基準を与えなかったことにある。そのため、私たちの批判は、人の性格や資質を憶測や推測で批判する個人批判になってしまった。私たちは、批判を際限なく拡大させ、その人の全過去、全人格を否定し、自己批判要求された人を絶望に追い込み、どのような方向で自己批判したらいいかわからなくさせてしまった。自己批判できたと判断しえる基準もないため、いつまでたっても自己批判できたといえない状態が続き、暴力のもちこみの中で「敗北死」を続出させることになったのである。

 そして、暴力的総括要求の残酷さに対する動揺、ためらい、恐れなどの人間感情を、克服すべき「弱さ」「甘さ」として自らをおしつぶしたばかりでなく、皆にもおしつぶさせ、総括要求をより残酷なものにしていった。
(永田洋子・「氷解-女の自立を求めて」)

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)

 森君の総括要求は客観的必然性を有したものではない。それは彼の観念の産物であった。それ故、総括のマニュアルなど有るはずもなく、勢い対象者の態度で判断する恣意的なものにならざるを得なかった。こうした無茶な総括から逃れるには、森君の意に沿って、明るい顔をしたり、何のためらいもなく自分の問題を語るようにすれば良かった。つまり総括ができたふりをすれば良かった。言うまでもないが、精神的に追い詰められた時に、こういう芸当はたやすくできるものではなかった。
(坂口弘・「続あさま山荘1972」)

 森同志や永田同志がこれらの会議を主導していく(形としては)ことになったわけですが、私はその都度、二人の同志が非常によく観察していること、自分なら想像もしないような解釈を同志の行動の中に見出すことに対して、感心しさえしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 尾崎同志の「政治的死」の総括によって、自然発生的に目的意識的に指導部への造反が生まれ始め、制裁に動揺示した同志、我々の絶対化を少しでも批判めいたことを主張した同志、「共産主義化」の闘いに遅れていると我々が考えた同志(実際は小ブル革命主義の反動化路線に反対した同志)を、単に「自己総括」が遅れている不徹底者とみなすだけでなく、「分派」と決め付けたり、「脱落分子」と決め付けたり、更には「権力の手の中へ逃亡し、敵権力と通ずる分子」ではないかと疑い始め、総括要求は厳しい追求・詰問に変わっていった。
(「赤軍ドキュメント」坂東国男)

 今思えば、森恒夫があの暴力的総括要求を「日和見主義や敗北主義との戦いによる主体の飛躍」、それによるメンバーの死を「主体の飛躍に失敗した敗北者の死」と理論付けることがなかったら、いくら永田さんが感情丸出しでメンバーを摘発したとしても、あのように死者が続出することにはならなかったように思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 森君本人も、自分の中の暴力回避の日和見性を払拭し切らんとする内的志向があって、あれほど苛烈に自らを駆り立て、論理で自らを縛り、袋小路にのめりこんでいったのだと僕には思えます。下部メンバーはもちろん、森君にも、けっして総括の対象者への憎悪や敵愾心は無かったと思います。森君は実に的確に、被対象者の心理を「見抜き」、批判の矢を浴びせ、暴力をエスカレートさせていきました。それは彼が、対象者の内に、自らの姿を投影して見ていたためで、彼が、被対象者に鉄拳を加える時、森君自身の内なる日和見性に鉄拳を下し、消し去ろうとしていたのだと思います。森君にとって「12名との闘い」とは即ち、「内なる12名との闘い」を彼自身闘っているつもりだったろうと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 結局暴力は当初から異端者なる者、分派に傾く可能性のある者や、脱落・落伍の可能性のある者、不服従姿勢を持つ者への制裁といった色彩の強いものであったと思い返さざるをえません。...実質的には一種の統制手段としてのそれに他ならなかったということであろうと思います。(中略)追求や暴力への関与姿勢そのものが、評定・点検の観察対象となり、また被緊縛者の反抗姿勢や逃亡意思の有無が最大の評価対象となったのも、その本質の所在を示していました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 僕や植垣君が「総括」の対象からはずされていたということはありません。実際、両名とも何度か「総括」を求められた。極限までいかなかったことに理由はないと思います。だから常に危機感があった。
「総括」要求の対象およびレベルに明確な基準があったとは思えません、だれでも可能性があった。一方で「真のターゲット」というような考えは、当時も今もあったとは思えません。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫公判調書)

 森と永田とは不即不離の関係にあって、永田が感情的、直感的に発言し行動することを森が理論づけしていた。永田は組織の中で、自己の地位を脅かす者とか永田のヘゲモニーを奪おうとするものとか、別の面(美人、頭がよいとか)で永田に勝っていると思われる者とかに対してはきわめて敏感であって、それをできるだけ粉砕しようという意図を持っていた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫ヒアリング)

(加藤が死亡したとき)それまでは総括の援助だといわれ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 森も永田も小心性な性格であった。森と永田は、メンバーを強制的に殴打させ、あとでどう感じたかを聞いて、その答えの内容を今度はその者に対する「総括」の理由とした。永田は、自分が信用できないと思う者に順番にいいがかりをつけていったのが「総括」であった。何人目かが死んだ頃、永田はメンバーに対して、「同じ立場になったから逃げるものがいない」趣旨のことを言った。永田は指名手配になったことを相当重荷に思っていたようである。メンバーを共犯にすることによって、みんなが警察に追われる立場になったことを喜んでいたものと思われる。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義公判調書)

 (森は)いっしょに生活しているうちになんとなく「この男は気が小さいな」と感じることがありました。(中略)この森の小心性から、同志に対して不必要な疑いをかけ、敗北主義者、あるいは日和見主義者、と決めつけて殺した例がたぶんに出ております。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 永田は、女性に対して非常に一種独特な批判の眼を持っており、特に自分を批判的に見る人に対してそういう眼を持っていた。つまり指輪をしているから革命戦士になれない(遠山の場合)というような、すごく矮小的な形から批判をもってゆく、そのようなものを根本とするものの考え方をした。非常に嫉妬深い性格である。そのことは永田の排他的性格でもあった。つまり、メンバーが自分と同等であってはならなかった。自分と対等に並ぼうとするものに対しては、常にこれを排斥しなければ自分が落ち着いていられない性格であった。とくにそれは男性面で出た。だから結局、自分に取って代わるだろうと思われる者を排斥(抹殺)した。


 榛名ベース以前では銃はわたし達が保管していたが、以降は永田や森が座る位置の後ろに必ず銃が立てかけてあって、それは我々の方に向かっていた。それは永田や森を守るために必要だったのだと思う。常に権力というものはそういうものが必要なのだと思う。「総括」要求の基準というものは何もなかった。永田と森の肝づもり1つであった。だから永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。永田をして「女王」「絶対君主」みたいにした原因は、我々にも責任があると思う。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」寺岡の妻で横浜国大生Sの公判調書)

 ごらんのように、「総括」については、当事者たちの証言でも意見が分かれている。12名もの同志を殺害しておきながら、主導したのは森恒夫だったのか、永田洋子だったのか、真の目的はあったのか、なかったのか、あるとすれば、それは何だったのか・・・・・はっきりしないというのは、どうにもこうにも収まりが悪い。これが今なお連合赤軍事件が語られ続けている理由である。


 総括に暴力をもちこんだのは、他者を変革するための「同志的援助」のつもりであったにせよ、暴力を受けた者の内面に生まれるのは、反抗か屈服のどちらかしかない。反抗すれば「総括する態度ではない」と、より苛烈な暴力を加えられた。屈服し、反革命的行為を告白すれば、「裏切り者」とレッテルを貼られた。総括に出口はあったのだろうか。


 メンバーの心の一方には、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖があり、それに対しては、被総括者に弱者のレッテルを貼ることによって何とかバランスを保っていた。もう一方には、贖罪意識という死者への負債が重くのしかかっていた。死者への負債を返済するためには、自らが革命戦士となって殲滅戦を全うするしかなかった。


 森は次々と理論を創出し、適用を試みるのであるが、彼の脳内理論と現実の間には大きな隔たりがあり、それは決して埋まることはなかった。なぜなら森は指導する者ではなく、裁きを与える者だったからである。しかも、森の脳内のものさしは、事態の変化に応じて、どんどん形を変えたから、ついていけるはずがない。


 そして、「総括」によって、自分の価値観をメンバーに強要し、他の価値観を一切許さなかった。メンバーの主体はこうして解体されていくのだった。
https://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)
 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 - 死をも恐れぬ革命戦士となること -

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕-自供-逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党-世界赤軍-世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党-軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装-暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党-蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取-味方の武装-敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」-実は蜂起の軍隊建設-を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判-自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士-連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme
93. 中川隆[-11440] koaQ7Jey 2019年3月14日 15:06:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[555] 報告
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日本赤軍 
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm
 


 日本赤軍のルーツは、1960年代、学生運動をリードした共産主義者同盟(ブント)である。 当時、自分たち
の力で無理やり世の中を自分たちの考える国に変えてしまおうというグループがいろいろあった。 ブントは、
1969年、武力闘争路線をめぐって深刻な内部対立を起こし、最左派が分離して赤軍派を結成した。 この赤軍
派の中央委員兼中央組織局副局長だったのが重信房子である。 赤軍派は、日本をはじめ、世界にはよくない
国がいくつかあるので、武器を使って世の中を変えようと考えた。 そして、世界各地に拠点を作り、軍事訓練を
受けた上で日本で革命を起こすという 「 国際根拠地論 」 を唱えていた。 

 

【北朝鮮に渡った赤軍派】

   1970年3月 ――― 日航機 「 よど号 」 乗っ取り事件が起きる。


 赤軍派は 「北朝鮮は日本と仲が悪いし、軍隊もある。日本からそれほど遠くない。 北朝鮮に行って軍隊の
訓練を受けさせてもらおう。 そのためにはいっぺんに行けるように飛行機を乗っ取ろう。赤軍派がやったという
宣伝にもなる。」 と考えて、この事件を起こした。 この時、幹部ら9人が 「 国際根拠地論 」 に基づいて北朝鮮
に渡った。

 この事件が起きてから「 ハイジャック 」 という言葉が使われるようになった。 ハイジャック防止法という法律も
でき、飛行機に乗る際の所持品検査やボディチェックもこの後から行われるようになった。 彼らは政治亡命を主
張しているが、この行動は北朝鮮からはそれほど歓迎されなかった。 

メンバーですでに死亡した者もいるが、北朝鮮で妻子らとともに働いている。 2001年には、子どもたちのうち
3人が日本に来た。 娘たちの話では、メンバーは帰国を望んでいるというが、帰国すれば日本の警察に逮捕さ
れる。

 

【連合赤軍】

 赤軍派の他のメンバーは、新たな国際拠点を中東に求めた。 
   1971年2月 ――― 重信房子、奥平剛士らが、レバノンに出国した。(2人は偽装結婚して出国 )
 このグループはパレスチナ人の味方をして、世界各地で飛行機をハイジャックしたり、大使館を襲ったりした。 
彼らは、日本赤軍と呼ばれた。

 

 国内に残った赤軍派は、京浜安保共闘と連合赤軍を結成し、日本各地で銀行や郵便局、銃砲店などを襲った
りした。

   1972年2月・・・連合赤軍は、浅間山荘事件を起こす。
 連合赤軍は、群馬山中で軍隊の訓練をしているところを警察に見つかって逃げ出し、5人が軽井沢の浅間山荘
に立てこもった。 管理人の奥さんが人質となり、警官隊と銃撃戦を繰り広げた。 この時、警察官2人が死亡し
たが、5人は逮捕された。 この連合赤軍は、群馬県で訓練をしている間に、仲間を14人も殺していたことがわ
かった( 連合赤軍事件 ) 。 この事件後、連合赤軍は事実上、消滅し
23:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:11:12

この連合赤軍は、群馬県で訓練をしている間に、仲間を14人も殺していたことがわ
かった( 連合赤軍事件 ) 。 この事件後、連合赤軍は事実上、消滅していく。 

 

 

【日本赤軍が起こした事件】

 重信房子たちは、1972年、従来の赤軍派と決別を宣言し、 「 アラブ赤軍 」 を名乗り、海外を拠点にテロ活動
を独自に進めることになった。
 重信房子はPLOの内部組織・パレスチナ解放人民戦線( PFLP )の幹部と結婚し、PLO内でも重要な地位に
あり、アラファト議長と直接会話をする間柄とされる。 

   1972年5月30日・・・イスラエル・ロッド空港事件 ( テルアビブ空港乱射事件 ) を起こす。


 奥平剛士、岡本公三ら3人が、テルアビブのロッド空港で自動小銃を乱射したり、手投げ弾を投げたりして、
100人を死傷 ( うち24人死亡 ) させるという無差別テロ事件である。  奥平剛士は自爆死し、岡本公三は
逮捕された。 重信房子らは、この事件を日本赤軍の誕生日と位置づけた。  
 重信らは長く中東の庇護下に置かれ、旅行者を装ってレバノン入りした日本の捜査員も重信らの姿をそっと
見守るしかなかった。  彼女は、パレスチナ過激派の幹部と接触し、軍事訓練を取り仕切り、数々のテロや
ゲリラに送り込んだ。

 


   1973年7月・・・日航機ハイジャック事件が起きる。
  丸岡修とパレスチナゲリラ4人がオランダのアムステルダム上空で
 日航機を乗っ取り、リビアに着陸した。 乗客らを解放した後、日航機
 を爆破した。 犯人たちはリビア政府に投降、国外追放となった。

 ←左写真   1973年8月、ヨーロッパで日本の民放テレビ番組の
         インタビューに応じ、ハイジャック事件などについて語る
         重信房子

   1974年9月・・・ハーグ事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生(ハルオ)らが、オランダ・ハーグのフランス大使館に手投げ弾や短銃を持って乱入した。 
パリ当局に拘禁中の日本赤軍の一人を奪還し、シリア・ダマスカス空港に逃げた。 そこでシリア政府の説得に
応じて投降したが、その後姿を消した。 

 

   1975年8月・・・クアラルンプール事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生ら5人がマレーシアのクアラルンプールでアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠し
た。 彼らの要求は、日本に勾留中の日本赤軍のメンバーらの解放だった。 日本政府は要求されたメンバー
を超法規的措置で出国させた。  

 

   1977年9月・・・ダッカ事件が起きる。


 丸岡修らがバングラデシュで、飛行機乗っ取り事件を起こす。  乗客156人らの人質と交換に超法規的
措置で奥平純三ら6人を釈放させ、身代金を奪い(600万ドル)を奪い、アルジェリアに逃亡した。 

 

【中東和平など国際情勢変化の中で・・・】

   1993年9月・・・パレスチナ暫定自治合意が達成される。(=歴史的な和解)


 これをきっかけに、中東和平が進み、日本赤軍はレバノンのベカー高原を閉鎖せざるを得なくなり、重信房子
らメンバーは他の中東地域や南米、東欧、アジアに散らばったとみられた。 実際に、ルーマニアやネパール、
ボリビアで仲間が身柄を拘束され、国際テロ組織に対する世界的な包囲網から、南米やアジアでも活動の場を
失ったようだ。 
 1997年には、それまで保護していたレバノン治安当局が、岡本公三、和光晴生らメンバー5人を逮捕し、
組織の弱体化に追い討ちをかけた。 ( レバノン政府は岡本公三に対しては 「 彼こそ真の反イスラエル闘争に
かかわってきた 」 との理由で政治亡命を認めている )  

   2000年11月・・・日本赤軍の最高幹部・重信房子が、大阪で逮捕される。


 重信容疑者は、ハーグ事件の計画立案者として国際手配されていた。 重信はテロ事件では表に出ず、陰の
黒幕的存在だった。 中東和平が進み、日本赤軍の居場所がなくなり、重信容疑者も帰国を余儀なくされたと
みられている。


http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm

94. 中川隆[-11432] koaQ7Jey 2019年3月15日 07:27:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[564] 報告
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
https://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html


(寺岡恒一の不在中に厳しい総括の準備がなされていた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

■「寺岡の問題はCCに止まれるかどうかまで問われる大きな問題」(森恒夫)
 この日、指導部で残っているのは、森、永田、坂口の3人だけだった。森は、永田と坂口に、寺岡の問題を提起した。


 坂東と寺岡が日光方面へ新たなベースの調査に行っているとき、寺岡恒一に対する批判が本人不在のまま始まったのである。

 森君は、「寺岡君の総括の問題は、寺岡がC.Cとして止まるかどうかまで問われる大きな問題なので、寺岡の従来の活動を体系的に検討しよう」と永田さんと私に言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


C.C(Central Committee)とは中央委員会、つまり指導部7名のこと。


寺岡の問題点として、表向きにあげられたのは、以下の3点である。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき、皆に死体を殴らせたこと
(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと


それぞれについて擁護のコメントをしておく。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき 、皆に死体を殴らせたこと
 森は、これを「党建設の高次な矛盾を反革命として処理するのはスターリン主義だ」と批判した。「スターリン主義」とは、強権的独裁者というような意味である。

 しかし、寺岡が小嶋の死を「反革命の死だ」といったのは、この直前に東京から榛名ベースに戻ってきたばかりで、まだ、「敗北死」という言葉を知らなかったのだから無理もないことだった。


(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
 杉崎はさまざまな面で寺岡に依存していたことを反省し、革命戦士として自立するために寺岡との離婚を表明していた。だが、寺岡は本気とは思っていなかったようで、まじめに取り合わなかった。

 杉崎が離婚を表明したのは、「女の革命家から革命家の女へ」 という森の理論に沿ったものだったが、寺岡はこの理論も聞いていないので、離婚表明されたといっても、にわかには信じられなかったのである。

(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき 、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと
 寺岡の発言に対して、男たちが笑っているのをみて、永田が「そういうのは矮小よ!」と、森を含めた男たち全員を批判したのである。森はその時は何も言わなかったが、その後の会議では、「女性蔑視だ」と寺岡個人に責任を転嫁したのである。


■「寺岡に対して体系的な批判を行う必要がある」(森恒夫)


 ところが、森の批判の矛先は、問題とされた3点ではなくて、別の方向へ向かっていった。「自己批判書」をみると、だんだん論理が飛躍していくことがわかる。


 森は、「我々」とは森と永田のこと、としているが、素直にそう読める人はいないだろう。

 こうした現実に起こった問題と共に我々はその頃から彼に対する体系的な批判を行う必要があると考えていった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 それは彼が旧革命左派の古い政治理論を批判することを通り越して、旧赤軍派の政治理論に乗り移る様な傾向を示した事、(私から見れば一知半解と思われる)現状分析や理論を得意げに振り回し旧革命左派の同志があたかも自分よりはるかに遅れているかの様な態度をとった事、以前から旧革命左派の指導部間でそうした態度をとったことがあり、、乗り移り的路線変換やそれに伴うほかの指導メンバーのパージ等を策した事がある事、又、以前から直系的な人脈作りを行う傾向があり、概して他のメンバーに官僚的で厳しいことであった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 こうした事から、我々は、真に同志的な”しのぎ合い”の場であるべきC.C.を競争のように彼が考えているのではないかと考え、更に軍事指導者として活動してきた彼の活動内容を検討することにした。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした批判を彼には12月3日頃任務で出かける前に話して、彼の政治的傾向が官僚主義的スターリン主義的であると批判したが、彼はそれを認めて自分は以前からそういう傾向があった、革命左派への参加も中核なら大きいが革命左派なら小さいしすぐ出世できるという政治的野心をもって入った、等を言った。
(森恒夫・「自己批判書」)


「12月3日頃」というのは「1月12日」の誤りだと思われる。

 その後、彼が任務から帰ってくるまでに我々は、彼のこうした問題は単なる政治的傾向というよりはもはや体質をなしている事、政治的野心競争-官僚主義-女性蔑視-等は、・・・(中略)・・・小ブルテロリズム的な冷酷さすら示しているとして彼を批判してC.C.を除名する必要があるのではないかと考え、その上で、一兵士としていわば0よりマイナスの地点から彼が実践的に総括することを進めるべきだと考えていた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 ということは、森は、寺岡の批判を始める前の段階で、寺岡をC.Cから除外しようと考えていたわけだ。


■「それは大いに問題だ。分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ」(森恒夫)

 森氏は、「2・17(71年2月17日の真岡銃奪取闘争)後の厳粛な総括が必要だ。そのなかに寺岡君の問題もあるにちがいない。闘争後のことを詳しく話せ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、革命左派時代の寺岡君のことは知らないので、永田さんにいろいろ質問した。永田さんは躊躇する訳でもなく、積極的に答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 永田は、寺岡が改組案を出したこと にふれた。寺岡を委員長とし、永田を機関誌の編集だけに格下げする改組案だった。しかし、寺岡は改組案をひっこめ、それ以降は永田に協力的になったので、永田は何も問題はないと思っていた、と語った。

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 (森氏は)「この分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ。寺岡に厳しく総括要求する必要がある」といった。私も坂口氏もそれにうなずいた。この時から寺岡氏への森氏の呼びつけに、私は抵抗を感じなかった。

 森氏は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ、山田君がもうすぐ戻って来るから、山田君をオルグしよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■森は、はじめから寺岡を処刑するつもりでいた
 結果を先にいえば、数日後に寺岡は「死刑」になる。筆者の結論も先にいえば、森は最初から寺岡に殺意があったと考えている。


 まず、坂東と寺岡の山岳ベース調査が唐突に追加されたのが不自然だ。これはおそらく寺岡のいない状況を作りたかったからだ。森は、革命左派幹部で、寺岡と一緒にやってきた永田と坂口に、寺岡への処刑を納得させるための時間をつくりたかったのではないだろうか。


 寺岡が出発すると、森は、永田と坂口に、寺岡批判を開始し、たてまえ上、3つの問題点をあげたが、そんなことはどうでもよかった。すぐ、過去の活動に焦点を移し、寺岡の過去を聞きだすことによって、処刑の理由になりそうな問題をみつけだそうとした。


 改組案の話を聞いて、これだと思った森は、改組案をことさら大げさにとりあげ、寺岡を「分派主義」ときめつけた。永田が擁護する発言をすると、その擁護を「下から主義」と、永田に問題があったかのように批判した。


 こうして永田と坂口の説得に成功した森は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ」と、思わず「オルグ」という言葉を使った。これは、永田と坂口に対しても「オルグ」であったことを露呈したものだ。


 もちろん、森は、永田や坂口に「処刑する」とはいっていないから、2人とも数日後に寺岡が「死刑」になるとは想像もできなかっただろう。 だが、森の頭の中では、寺岡の「死刑」について、この日、お墨付きを得たのである。


 以上は、筆者の推測であることを強調しておくが、坂口も、森にはじめから寺岡に対する殺意があったと証言している。

 坂口は、「森は、...寺岡君のことを自己の権力を脅かす危険人物とみなし、彼を除くために、彼を総括することにきめた。...森は、寺岡君を総括にかける前から、除くことを考えていた・・・」と述べており、この点で、植垣の主張と一致している。
(「インパクション18」(1982年)水戸巌・「連合赤軍における『総括』とは何か」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html

1972年1月15日~17日 寺岡恒一への総括要求の根回し
https://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


(寺岡(左)は 「総括がよくわからないんだよね」 と打ち明けたが、坂東(右)は公式見解で逃げた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真     連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

■1月15日 「寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」(山田孝)


 1月15日の夕方、山田孝氏が戻ってきた。森氏はさっそく山田氏に寺お菓子に対する厳しい総括要求の必要性を話した。山田氏はすぐ了解し、「尾崎ら4人の死体を埋めに行った時のことで、寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」といい、さらに、「小嶋の死体を皆に殴らせたことは、大いに問題だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


寺岡は「山田さんは非常に問題だ」と批判したことがあった。

■1月16日 「寺岡氏の言動をすべて分派主義として否定的に解釈した」(永田洋子)

 森氏、私、坂口氏、山田氏で寺岡氏の問題をまとめることになったが、それは寺岡氏のそれまでの言動をすべて分派主義として批判的、否定的に解釈していくものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月16日 「アラ探しをするが如く寺岡君の問題点を列挙した」(吉野雅邦)


(吉野は寺岡が批判されていることがわかると、寺岡の問題点を列挙した)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 吉野雅邦 顔写真


 16日の午後、吉野・寺林が帰ってきた。新たなベースに適当な場所は見つからないということだった。

 そのあと、森氏の指示で、私は吉野氏に寺岡氏への激しい総括要求の必要性について話した。続いて、森氏はさらに詳しく説明した。吉野氏は、寺岡氏への厳しい総括要求の必要に躊躇することなく同意した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が赤木山の新ベース調査から戻ったとき、(中略)、突然永田から「ネエネエ、寺岡のことどう思う?」と寺岡君について意見を求められたのです。

 永田は興奮し、身を乗り出し私を立たせたまませき込むように聞いたのですが、何のことか判らずキョトンとしている私に永田は、さらにタタミかけるように「寺岡が、あなたから坂東さんに話し相手を変えてるでしょ。気がついてる?気がつかなきゃダメよ。あれ何でだと思う?」というようなことを説明ともなく質問をぶつけてくるので、私はなんとなく、これは寺岡君が批判されているのかもしれないという気がし、安堵しはじめたのです。

 はじめは、永田の質問をいわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクしていたのですが、次第に自分ではないようだと思いはじめるとともに、永田から寺岡君批判への同調を求められると完全にそれに迎合し、アラ探しをするが如く寺岡君についての「問題点」を列挙していったのです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」1983年1月23日付 吉野雅邦の手紙)


 この吉野の証言は、多くのメンバーが総括にかかわったときの心境と同じである。なぜなら、総括に対する態度を観察されて、次に総括にかけられる者が選び出されるからだ。

 こうして寺岡氏への批判は、彼の全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判に発展してしまったのである。この批判は、事実関係を少しでもまじめに検討すればたちまちひっくりかえってしまうものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それなら、寺岡をよく知る永田が、擁護してもいいと思うが、永田は、「メチャクチャな批判」 をそのまま受け入れ、寺岡に怒りを感じていたのである。


■1月16日「総括ということがよくわからないんだよね」(寺岡恒一)
 そのとき、日光方面へ坂東と共に調査に行っていた寺岡は、どんな様子だったのか。

 寺岡同志は調査中、一貫して元気がありませんでした。山岳での調査活動をやっているときには比較的元気ではあったが、夕食後、テントの中で沈み込んでいることが多く、何か話しかけるのも悪い感じがするくらいでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 寺岡は森から、「調査中に総括しておくように」といわれたため、考えこんでいたのである。

 しかし、いよいよ山岳へ戻るという日を明日にひかえる中で、どうしても話したいという感じで、彼のほうから質問されたのです。
 「S同志との離婚問題についてどう考えたらいいんだろうね。それから総括ということがよくわからないんだよね。坂東さんはどう考えていますか」といわれたのです。
 強気な人で、断固としてやっていたと思っていた同志のこの「弱気な」質問は、一瞬信じがたいものでした。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、女性差別の問題とか、個々人の革命化が必要とか、公式見解を述べ、意識的に問題を鮮明にすることを避けた。寺岡も「そうだよね」といったきり、それ以上何もいわなかった。

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東がぐっすり寝込んでいるとき、寺岡が朝食の準備をしていた、という事実は、あとで重要な意味を持つので、記憶にとどめておきたい。


 坂東は、常にナンバー2として、リーダーの公式見解しかいわないようだ。榛名ベースにやってきたときもそうだったし、赤軍派時代、ジョークを言い合っていた植垣に、「こんなことをやっていいのか」と聞かれたときもそうだった。


 ちなみに、手記「永田洋子さんへの手紙」にしても、アラブへ行って、重信房子の配下になってから書いているため、総括内容も言葉づかいも、重信の公式見解を聞いているような印象である。


■1月17日 「坂東はやはり信頼できるな」(森恒夫)

 17日も、朝から午後にかけて寺岡氏への厳しい総括要求についての話が続いたが、森氏は、「あと、坂東をオルグしなければならん」といっていた。
 夕方、坂東氏、寺岡氏、植垣氏、杉崎さんが帰ってきた。山岳調査にいった人はこれですべて帰ってきたことになる。坂東氏はすぐ中央委員のこたつに来た。森氏は坂東氏に頭を寄せて何か言った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が坂東に言ったことは、「永田洋子さんへの手紙」では「今日は、寺岡同志の厳しい総括要求を行う」となっていて、坂東はすぐに「いいよ」と答えた。ところが坂東の供述調書では、違っているらしい。

 さらに「供述調書」によると、(中略)、森君は、
「きょうは寺岡に厳しく総括要求する。すでに問題点は中央委員会で詰めてあるし、新党の中央委員は総括できなければ死刑もやむを得ないというぐらい厳しくやることについて意思一致している。場合によってはナイフをつきつけるぐらい厳しくやることが必要なのだ。問題はこれまで出されている官僚主義の問題であり、分派主義の問題だ」と言ったのだという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 「分派主義」 については意見一致していたといっていいが、「死刑」や「ナイフ」は申し合わせた事実はなく、森の頭の中にあっただけである。

 すると、森氏は坂東氏に、「寺岡は調査中に逃げようとしなかったか?」と聞いた。坂東氏は、「常にそれに気をつけ2人でいるようにしていたから、そういうことはなかった。寺岡が駅のトイレに入った時には、出てくるまでその前に立って待っていた」と答えた。
 森氏は、「そうか」といって嬉しそうに笑い、まんまるい目をして私たちに、「坂東はやはり信頼できるな。何を任せても大丈夫だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、坂東は、見張りをいいつけられたことさえ忘れていたという。


■寺岡はすぐに指導部のコタツのところには行けなかった
 森は、執拗に寺岡の活動に分派主義のレッテルを貼り、幹部に根回しを続けた。永田は森の解釈を聞くたびに感情的になるから、2人のコンビネーションはまことに始末が悪い。この間、坂口はどんな発言をしたのか、何を思っていたのかはよくわからない。


 寺岡は、出かける前に言い渡された3つの問題について悩んでいたが、留守中、状況はすっかり変わってしまっていた。まさか、分派主義のレッテルによって活動のすべてが否定されるとは思ってもいないだろう。


 総括を要求したときから、森の脳内ものさしが変化しているので、寺岡がどんなに頑張ったところで、総括を達成することなどできっこないのである。


 寺岡は、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


1972年1月17日 寺岡恒一への総括
https://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(寺岡恒一に出口はなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

今回も寺岡の話である。1月14日から続いている。


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
1972年1月15日~17日 寺岡恒一への総括要求の根回し

 寺岡は山岳ベース調査に行っていて、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部(CC)のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。


■「永田さんと坂口さんが逮捕されればよいと思った」(寺岡恒一)

 寺岡氏はなかなか中央委員のこたつの所に来なかった。私たちから総括を課せられ冷たい態度をされていたため、来にくかったのであろう。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は冷たい口調で追求を始めた。寺岡は総括要求された3つの問題 について、共産主義化を理解していなかったこと、女性蔑視だったことを認めたが、それ以上はよくわからなかったと答えた。

「そんなことで総括したとはいえない。そんなことは許されない。一体、総括要求ををどう考えているんだ」
森氏の追及は非常に長いもので、それまで問題としてあげてきたことをやつぎばやに追求していくものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 寺岡君は、そうした批判を認め、他のメンバーに対して、弱点を掴み、それによって自分を精神的上位に置こうとしたとか、組織の歩みに従いていけないメンバーや権力に屈服する恐れのあるメンバーいついては殺してもよいと思っていたとか、さらに真岡銃奪取闘争を1人でやったかのように言ったこともスターリン主義的傾向の表れだった、と言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 寺岡君が認め、告白したことも、すべて森君の厳しい追求にあってしたものであり、自分から進んでしたものでないことも明らかである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうしたやりとりの中で、寺岡君は、「永田さんと坂口さんが出かけたとき、逮捕されればよいと思った。組織の金を自由に出来ないことを苦々しく思っていたからだ」と答えた。
 永田さんは怒った。私はまずいことを言ったと思った。吉野君が寺岡君の顔面を一発殴った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「坂口さんは落ちた。永田さんは軽い。森さんは倒せると思っていた」(寺岡恒一)
 森は寺岡に、「おまえは、しのぎあいを競争と取り違えている」と批判したあと、「一人ひとりをどう思っていたかいってみろ」といった。

 寺岡氏は、吉野氏は自分より下だったので対象外だった、坂東氏は軍事の競争相手と見ていたといったあと、


「山田さんは当面の自分の競争相手であり、理論的にしっかりしているようだけど、尾崎らの死体を埋めに行くときにあわてたので、落ちたと思った」


「坂口さんは永田さんに追従しているけど、殴ったりする総括要求にたいして、人民内部の矛盾だからといって動揺する気持ちをもったので、落ちたと思った」


「永田さんについては、森さんが教師で永田さんが生徒のようだと思った。だから、競争相手として軽いと思った」


「森さんは倒すのが大変な奴だと思っていた。しかし、女性関係で弱みがあるから、これをつけば倒せるだろうと思っていた」


といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 無論、無理に言わされたのであり、進んで告白したなどというものではない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私たちは、誰もこの寺岡氏による評価に苦笑しただけで、怒ったり批判したりする人はいなかった。これらの評価が一面で当たっていたからである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「殴って欲しいんだよね」(寺岡恒一)

 そのあとも森氏は追及したが、寺岡氏が急に立ち上がって、「殴って欲しいんだよね。僕は殴られることを恐れる気持ちがあるから、殴られることによって克服し、そのことによって総括したい」といった。それは思い余っての発言だった。

 森氏は冷たく、「おまえに指示されて殴りはしない。我々はもっと追及する」といってさらに追及していった。しかし、それは同じことの繰り返しであった。それで私は、「寺岡への総括要求はもはやCCだけの問題ではないから、全体で追求しよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏は、寺岡氏に、「いいか、我々はおまえのような傾向と最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」と激しい口調でいった。寺岡氏は坂口氏と吉野氏の間で正座し黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全員が起こされた頃にはもう日が変わっていた。


■はじめから寺岡に出口はなかった
 寺岡に対する追求は、総括要求された3点の問題とは、まったく別の問題で行われていることに注意したい。森の根回しによって、そもそもフェアな場ではなくなっていた。


 「全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判」(永田)を、寺岡は無理やり認めさせられたが、それを総括要求されるのではなく、「最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」といわれた。はじめから寺岡に出口はなかったのである。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(理論編)「上からの党建設」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)
 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 - 死をも恐れぬ革命戦士となること -

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕-自供-逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党-世界赤軍-世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党-軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装-暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党-蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取-味方の武装-敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」-実は蜂起の軍隊建設-を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判-自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士-連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
https://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html

1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その1・戸惑うメンバー
https://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


(メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


 今回掲載するの内容は、前回 から続いているが、すでに日付は18日になっていた。

 寺岡が死刑にいたる過程は詳しくみていくので、何回かに分割して掲載する。


■「永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた」(坂口弘)

 被指導部の人たちが全体会議のため集った頃は、もう18日の午前1時頃になっていた。皆は急に起こされ、一体なんだろうという様にボンヤリとしていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君に指示された永田さんが、経過報告を兼ねてアジ演説をぶった。それを聞いて、森君への”乗り移り”(これこそ本当の”乗り移り”だろう)の鮮やかさに驚いた。寺岡君の胸中は知るべくも無いが、抵抗が無かったとは到底言えまい。
 永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 寺岡の「乗り移り」とは、赤軍派の理論を受け入れたとき、革命左派のメンバーに対し得意げに語ったことから、森に「乗り移り」と批判されていたことをさす。

 しかし、皆はよくわからない様子をして少しも盛り上がれず、そのため、私の話は空回りしているようだった。私は、「どうして、こんな重大な問題にみんな黙っているの」といったが、やはり皆はぼんやりとして黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 ここで吉野が、けしかけるが、やはりメンバーはピンとこない様子で黙ったままだった。

 そこで私は、「みんな判らないような顔をしているけど、考えてごらん。思い当たることがあるでしょう。みんな今まで寺岡に指導されてきたと思ったらだめよ。彼のは指導じゃないんだから」といったが、それでも誰も積極的に語ろうとしなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡の何が問題なのかよくわからなかった」(植垣康博)

 私は、寺岡氏が永田さんや坂口氏が逮捕されればよいと考えていたことを大変なことだと思ったものの、寺岡氏の指導が他の指導者たちのそれと特に変わっていたわけではなかったので、一体彼の指導の何が問題なのかよくわからなかった。だから、発言しなかったのではなく、発言できなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 そうしたなかで、坂東氏が、大きな声で、「お前らひとごとのような顔をしているがなー、寺岡はなー、革命を売ろうとしたんだぞ!永田さんや坂口さんを敵に売ろうとしたんだぞ!黙っていてもしょうがない、何とかいえ!」と怒鳴った。これに、皆はびっくりし、寺岡氏を批判し始めた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 しかし、その批判の内容は、寺岡氏の指導が自分勝手で個人主義だったとか、被指導部の者への口のきき方が乱暴で官僚主義的だったというもので、寺岡氏に固有のものとはいえなかった。それは、中央委員への指導への不満を寺岡氏に集中したものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡を真ん中に引き出して追求すべきだ」(大槻節子)

 批判が活発になっていった時、大槻さんが、立ち上がり寺岡氏を指をさして、「寺岡をそんなすみに置かないで、真ん中に引き出して追求すべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 すると、寺岡氏の両脇に坐っていた坂口氏と吉野氏が寺岡氏を私たちの方へ突き出した。寺岡氏は皆に引っ張られるようにして真ん中に引き出され、私の前に正座させられた。そのまわりを皆が取り囲んだ。私は、寺岡氏の胸倉をつかむと、寺岡氏のメガネをはずしてそばにいた山崎氏に渡し、「この野郎!ふざけた野郎だ!」といいながら、顔面と腹部を1発ずつ殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣が殴ったのをきっかけに、被指導部のメンバーが寺岡を殴りだした。


■永田は寺岡を擁護しないばかりか、森の側に立って寺岡を攻撃した


 寺岡への批判の根回し は、森が指導部に行ったもので、メンバーには知らされていなかったし、そもそも悪意を持って決めつけるものでしかなかったから、急に言われても、メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった。


 坂東の恫喝によって、ようやく批判を口にしたが、「自分勝手」「口のきき方が乱暴」「官僚的」と、指導部全員にあてはまることをいっただけで、特に寺岡の問題ではなかった。


 寺岡は、革命差派時代、永田を格下げする改組案を出したことは確かではあるが、すぐに撤回している。


 当時、革命左派は、反永田機運が漂っていた。改組案撤回後は、寺岡が永田支持に回って永田を支え、協力してきたこともまた確かなのである。


 また、連合赤軍になる直前、森の革命左派批判に、永田への援護射撃を行ったのは寺岡だけであった。坂口と吉野は黙っているばかりだったのである。


 寺岡は、森に批判されるだけならともかく、永田によって、革命差派時代の全活動と人格を否定されてしまったのだから、その悔しさたるや察するに余りある。


 メンバーは、6名の死によって、「総括」は一区切りついたと思っていたので、また始まったのかとうんざりした。だが、「総括」ではすまなかった。「死刑」という「新たな地平」に連れて行かれるとは、誰も予想していなかったのである・・・・・唯一、森恒夫を除いては。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その2・森が足にナイフを突き立てる
https://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html

(寺岡は、坂東を刺して逃げようと思ったというが・・・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

 森は、寺岡を総括にかける際、永田にアジ演説させたが、それは寺岡が革命左派の幹部だから、メンバーを同意させるには、永田のほうがよいと思ったのであろう。


 さて今回は、いよいよ森の追求である。


■「坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」(寺岡恒一)


森  「おまえは新しい組織をつくろうとしたようだが、新しい組織づくりができると思ったのか」
寺岡 「できるとは思わなかった」
森  「できなかったら、どうするつもりだったのか」
寺岡 「逃げるつもりだった」
森  「いつ逃げようと思った」
寺岡 「坂東さんと調査に行っていた時です」
坂東 「どうやって逃げようと思った」
寺岡 「テントで寝ている時に坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」
森  「どうして坂東を刺して逃げなかったんや」
寺岡 「坂東さんにはそういうスキはなかった」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)

 (私たちは)さらに激しく怒り、寺岡をめちゃくちゃに殴った。あまりに激しく殴るため、寺岡氏が倒れないよう胸倉をつかんでいた私まで殴られる有り様だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「『おや?』と思った」(坂東国男)

(坂東は寺岡がウソの告白をしていることに気づき「おや?」と思った)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真


 ここで思い出さなければならないのは、1月16日(山岳調査の最終日) に、寺岡が坂東に、「総括ということがよくわからないんだよね」と打ち明けたときのことである。再掲載すると、、、

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 だから寺岡は、逃げようと思えば、逃げられたし、坂東を刺そうと思えば刺せたのである。それを一番よく知っていたのは坂東本人であった。

「私を殺そうとした」というのを聞いて、逆に、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず、「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■「宮殿をつくって、女をはべらかせるつもりだった」(寺岡恒一)


森  「組織を乗っ取ったらどうするつもりやったんや」
寺岡 「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」
森  「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」
寺岡 「商社から金を取るつもりだった」
森  「いくら取るつもりだった」
寺岡 「数千万円取るつもりだった」
森  「そんなに金をとってどうするつもりだったんだ」
寺岡 「宮殿をつくって、女を沢山はべらかせて王様のような生活をするつもりだった」
森  「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」
寺岡 「そうしたことはないが、いろいろな女性と寝ることを夢想する」
森  「誰と寝ることを夢想する?」
寺岡 「大槻さんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 M作戦とは、赤軍派時代に行った銀行強盗 のこと。

 森に「他にはだれか」といわれて、金子、伊藤、中村、寺林、永田の名前をあげたが、寺岡はそのたびに本人たちから殴られた。

森  「お前はいったいなんのために闘争に参加してきたんや」
寺岡 「革命左派は小さな組織だったので、すぐ幹部になれると思ったからです」
森  「それなら、おまえにとっては、どの組織でもよかったのとちゃうか」
寺岡 「はい、そうです。どの組織でもよかったんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


■「ナイフを刺して追求するぞ。いいな」(森恒夫) 「うん」(永田洋子)


森  「おまえは情報を売って助かる道を確保するつもりだったといっていたが、今までに権力に情報を売ったことはなかったのか」
寺岡 「ありません」
森  「本当にないのか」
寺岡 「本当にありません」
森  「本当にないのか!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 皆も「どうなんだ!」「隠すな!本当のことをいえ!」と追求しだしたとき、森は、皆の輪の後ろのほうにいた永田に小走りに来て、「寺岡の足にナイフを刺して追求するぞ。いいな」と確認した。永田は、「うん」とうなずいた。

森  「おまえが逮捕された時(69年の9・3、4 愛知外相訪ソ訪米阻止闘争 で逮捕された時)、おまえだけが執行猶予になったなー。これはどういうことや」
寺岡 「判らない」
森  「どうなんや」
寺岡 「叔父さんに父が手を回したのかも知れないが、そのことを僕は知らない」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 この追及の過程で、森は正座した寺岡の足にナイフを突き立てた。

 すると、森氏は、私に、「後ろで寺岡の手を持って押さえてろ」と指示した。私は、寺岡氏の後ろに回り、寺岡氏の両手を後ろ手に持ち、押さえた。森氏は、寺岡氏の前に正座すると、再び権力との関係を追及したが、その際、いきなり寺岡氏の左腿に細身のナイフを刺した。寺岡氏は、「ううっ」とうめいき声をあげて状態をよじらせた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 突然、寺岡君の表情が苦痛に歪んだ。何事が起きたのか、と思って彼の全身を見回すと、森君が左大腿部の上で、ナイフの柄を握っていた。ナイフを突き刺したのだ!息を呑んだ。ナイフを突き刺す状況ではないし、事前に相談があった訳でもない。不意打ちである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 森君は、握った柄を時々ゆすったりした。残酷だった。寺岡君は「ううっ」と呻いたり、体を捩ったりして堪えた。こんなにされても、彼は権力との関係を否定した。私は見ていないが、この後、森君はナイフを抜いたらしい。彼の供述調書によると、ナイフの先が3センチほど曲がっていたという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「少しも彼への憎しみがわいてこなかった」(坂東国男)


森  「おまえ、一度東京へ1人でいったことがあったなあ。あれ、何しにいったんや」
寺岡 「学生時代のサークルの友だちの所にカンパをもらいに行きました」
森  「本当にそうか」
寺岡 「そうです」
永田 「あんた、あの時、帰りがばかに遅かったじゃないの?どうしてあんなに遅かったの?」
寺岡 「慎重を期して遠回りの電車で帰ったから、遅くなったのです」
永田 「ちゃんといいなさいよ。本当にそうなの」
寺岡 「本当にそうです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 寺岡は、権力との関係についてはきっぱりと否定した。

 その時、森氏は、ナイフを抜き、坂東氏に耳打ちした。坂東氏は、寺岡氏のそばに坐ると、「この野郎、本当のことをいえ」といって、ナイフを寺岡氏の左腕の付け根に差した。それでも寺岡氏は、権力との関係を否認した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 それは名誉を大きく傷つけられた彼の自己尊厳を守る最後の踏ん張りであった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうした追求のため、寺岡氏の足の下から血がしみ出して来たばかりか、腕からも血が流れて来て、私の手や袖口が真っ赤になった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森同志が足を刺したと同時に、決意して腕を刺しました。しかし、決意してやってみても、少しも彼への憎しみがわいてこなかったのです。非常に矛盾していることではあるんですが。死刑を宣告したことに対しても、敵対矛盾だからやむをえないと思いつつ、同志達がナイフやアイスピックでで刺すのを外から眺めていたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、「おや?」とか「シラー」と思ったり、憎しみがわいてこなかった、とふりかえっているが、やってることは冷酷そのものである。彼はどんな状況にあっても、常に森の命令を忠実に実行した。


■判断は森の専権事項になっていた

 森の追求に寺岡はありもしない露悪をした。これまでも、厳しい追求を受けると、ありもしない露悪をするメンバーがいたが、寺岡も例外ではなかった。


 森がナイフを刺したのは、寺岡になにがなんでも権力との関係を「自白」させようとしたものだが、そんなことをしてまで「自白」を引き出すことに意味があるとしたら、それはあらかじめ予定している「判決」を正当化するためとしか考えられない。


 森はナイフで足を刺して「自白」させることに失敗すると、次は坂東に腕を刺させることぐらいしか思いつかなかった。うまくいかないと、立ち戻
24:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:11:54

森はナイフで足を刺して「自白」させることに失敗すると、次は坂東に腕を刺させることぐらいしか思いつかなかった。うまくいかないと、立ち戻って考え直すのではなくて、より苛酷な手段をとるのは、これまでの公式どおりである。


 寺岡が権力との関係を「自白」すれば「反革命」と断罪されるだろう。しかし、寺岡はきっぱり否定した。決して自暴自棄になっていたわけではないのである。


 では「自白」しないとどうなるかというと、これまでの公式では、「総括する態度ではない」と批判され、やはり「反革命」と断罪されるのである。事実も公式どおりとなる。


 こんなヘンテコな論理がやすやすとまかり通るのは、指導部もメンバーも思考停止し、すべての判断を森にゆだねるようになっていたからである。すでに判断は森の専権事項になっていたのだ。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その3・「革命戦士として しねなかったのが残念です」
https://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html

(青砥幹夫のイラスト・寺岡の処刑は残酷だった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 寺岡恒一の処刑

■「反革命といわざるをえない。死刑だ」(森恒夫)


 しばらくすると、森氏は、改まった大きな声で、「おまえの行為はこれまでのことと異なり、反革命といわざるをえない。これまでと違う根本的な総括を早急にやる必要があるが、おまえにそれを期待することはとうていできないので死刑だ」といった。
 皆は、「異議なし!」といった。私も皆と一緒に「異議なし!」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「声が小さい!どっちなんだ、ハッキリしろ!」と強い口調で、再度返事を促した。その声に威圧されて、全員が、「異議なし!」と大声で答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「革命戦士として しねなかったのが残念です」(寺岡恒一)


 そのあと、森氏は、寺岡氏に静かな口調で、「おまえに死刑を宣告する。最後に言い残すことはないか」といった。寺岡氏は沈痛な、しかし落ち着いた声で、「革命戦士として しねなかったのが残念です」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏はセーターとシャツをまくりあげて胸をはだけると、「お前のような奴はスターリンと同じだ。死刑だ」といって、アイスピックを心臓部に刺した。しかし、一度では絶命しなかった。すると、森氏は、全体を見まわした。おそらく、誰が自分に続くのか確かめようとしたのであろう。


 私は、どのみち殺されるのなら早く殺してしまったほうがいいと考え、また、このような誰もやりたくない任務を党のために率先してやるべきだと思っていたので、「よし、俺がやる」といって、そばにいた大槻さんとN氏に寺岡氏を支えるのを代わってもらい、森氏からアイスピックを受け取って寺岡氏の心臓部を刺した。血はまったく出なかった。私は2度、3度と刺したが、絶命しなかった。


 すると、青砥氏が私に変わってアイスピックで刺した。やはり絶命しなかった。私は、脊髄の付け根の延髄を刺せば即死すると聞いていたので、「脊髄の付け根を刺せばいいのではないか」というと、誰かが寺岡氏の首の後ろをアイスピックで刺した。それでも絶命しなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 首の後ろをアイスピックで刺したのは、杉崎ミサ子である。杉崎は寺岡の妻であった。

 彼女は、寺岡君を殺すことで早く楽にしてあげようと、進んでこの辛い行為を引き受けたのだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた」(植垣康博)


 「植垣、首を絞めろ」と坂口氏がいった。私は、寺岡氏の後ろから両手を彼の首にまわして締めようとしたが、締めきれなかった。吉野氏が「ロープで締めたほうがいい」といい、誰かがサラシを持ってきた。私たちは寺岡氏を早く絶命させようと必死だった。サラシを寺岡氏の首にまいて、吉野氏や山本氏、大槻さん、長谷さんたちが両方から引っ張り上げて首を締めた。寺岡氏の体は、数分の間、けいれんしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 この時、輪の中から出てきた森氏は、その頃、皆の輪のうしろでウロウロしていた山崎氏をジロリと見て、私に、「問題だ」といった。そのあと再び輪の中に入って行った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 以前から森は、総括に対するメンバー態度を、注意深く観察していた。そして、その態度によって、次に総括にかける者を選び出していたのである。

 そのうち、けいれんは間遠になり、止まった。青砥氏が寺岡氏の手首を取って脈をみていたが、しばらくして、寺岡氏が死んだことを告げた。サラシがはずされると、寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 寺岡氏が絶命したのは18日の午前7時ごろで、もうあたりはすっかり明るくなっていた。森氏が、寺岡氏の死体を床下に移すように指示した。何人かが寺岡氏の死体を床下に運んでいった。寺岡氏の坐っていたシートの上には血が沢山たまっていた。私は皆と一緒にそれをふきとったりしていたが、誰も一言も発せず黙々とこれらのことを行った。誰も大変なことをしてしまったという感じで、いうべき言葉がないようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「我々はすごく高い地平に来たのだ」(森恒夫)

 朝食後、中央委員会が開かれたが、この時ももっぱら森氏が話した。森氏は、「寺岡との闘争は、テロリズムとの闘いだった。CCのなかからテロリズムを出したのは、共産主義化の闘いが進んだからだ。我々はすごく高い地平に来たのだ」と感激したような面持ちで語った。
 そのあと、「実際に、ナイフで刺すのは大変なことだ」といって、ナイフやアイスピックで刺した坂東氏、青砥氏、植垣氏を大いに評価した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 続いて森は、スターリン批判を展開し、寺岡をスターリン主義ときめつけて死刑の位置づけを行おうとした。スターリン批判とは、世界革命の観点がない、官僚的、粛清を行ったという批判であった。

 私は、スターリン主義に関連付けたところに疑問を感じた。その頃は、中ソ論争の影響を受け、私たちはプロレタリアート独裁を維持したという観点からスターリンを擁護していたので、寺岡君をスターリン主義と決め付けた最初の段階からずっと違和感を抱いていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 革命左派の永田、坂口、吉野は、スターリン主義批判に同意しなかった。かといって反対もしなかったので、森は同じ主張を繰り返すことになり、中央委員会は夕食後まで続いた。それまでメンバーは、寺岡が死刑になった理由がわからなかった。


■「森君の総括を理解できた者は1人もいなかった」(坂口弘)

 全体会議は夜9時ごろから始まった。
 森は、最初、永田にメモを渡して説明をさせたが、永田はうまく説明が出来なくて、しどろもどろになった。

 森君は次のように述べた。
「寺岡の問題は、単に従来からどういう傾向を持っていたとか、どういうことをしたとかいうことではない。革命戦争をやり抜く指導部として、この間の6名の死を生んだ苛烈な革命戦士の共産主義化を主導する立場に居ながら、自己の内在的な総括をしようとせずに、反革命という名での死んだ同志への清算、競争の中でのヘゲモニー構築というスターリン主義的な政治を持ち込んだことが、今後の党建設にとって致命的な問題を突き付けてこのような闘争をしなければならなかった。6名の死以後も共産主義化の闘い---党建設の闘いはより高次な地平で永続的に発展することを問われており、6名の死によって、何かしら闘争が終わったということではない」
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森は、「寺岡は分派主義だ」ということも強調した。指導部に意見を言う者、つまり、イエスマンでないと分派主義者ときめつけられてしまうようだ。

 この内容を理解できた者は1人も居なかったと思う。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、指導部の寺岡氏の死刑の総括になるほどと思ったが、総括要求が更に続いていくというのには、いささかげんなりする思いだった。その頃は、なにかというと行われる会議そのものが苦痛になり出した時だったので、この思いは大きかった。しかし、そのように思っても、共産主義化を必要な闘いとみなす考えには変わりはなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった」(青砥幹夫)

 メンバーは、理由がよくわからないまま寺岡を殴り、死刑判決に「異議なし!」といわされた。「いわされた」 というのは、総括に対する態度が断固としていないと、次の総括のまな板にのせられるを知っていたから、同意するしかなかったのだ。


 組織がここまで暴走してしまうと、もはや個人の力ではどうすることもできない。

 あの場には横のつながりが一切ないのです。いかに革命兵士として充分ではないかを自己批判要求され、それを乗り越えよということを言われた。みんな一人一人になってしまっていた。総括を要求されるときも一人だし、総括を要求するから集れと言われて集っても、一人一人がバラバラに言われるから集っているに過ぎない。

 何らかの共通の認識を持って追求するということはなかった。みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった。

(「情況2008年6月号」 『36年を経て連赤事件を思う』・青砥幹夫インタビュー)


 これは、独裁者の支配体制そのままである。

 逃れる手はただひとつ、独裁者がいなくなることであろう。
https://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html
25:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:12:40

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html

能力が低い人は、自分の能力が低いことに気づく能力も低い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/940.html

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これ読めば、自分のどこが逝かれてるか良くわかるよ:

ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html


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東大全共闘 安田講堂 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q5qq0jW1yTE
https://www.youtube.com/watch?v=X7xcOi4fpro

よど号ハイジャック事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=cOhCoEJzPsk

ドラマスペシャル よど号ハイジャック事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CD65pnHxH6s

重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU

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連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6


連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


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しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。

世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。
26:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:17:37

元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚、2月5日死亡(弐)。 2011/02/07
https://kirayamato-sarainiko.at.webry.info/201102/article_5.html


日本共産党神奈川県委員会革命左派出身の永田洋子が日本共産党と違うとな?wwwwww (引用)

(以下引用)

349 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 09:48:43 ID:9JQLFjMY0
>>336
永田洋子も連合赤軍もアカじゃないんだけど?
つか、新左翼も社民党や民主党みたいな売国反日団体のことをアカと言ったら愛国政党であり日本の民主主義と独立を守る日本共産党に失礼だ。

377 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 09:52:25 ID:wNZKLzaa0
>>349
日本共産党神奈川県委員会革命左派出身の永田洋子が日本共産党と違うとな?wwwwww

392 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 09:54:36 ID:vD9Oy25J0
極左ってマジで怖いよな。
平気で仲間ぶっ殺すし、銃乱射して住民虐殺するし。
火炎瓶千葉が保身のために、死刑囚をぶっ殺したのも頷けるわ。

434 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 09:59:31 ID:9JQLFjMY0
>>377
日本共産党と連合赤軍みたいなトロツキスト団体は全くの別物だよ。共産党を除名されたカスがソ連や中国の支持の元に社会党や在日と連合したのがそもそもの新左翼なんだから、日本共産党とは敵対関係だよ。

実際に血で血を洗う抗争を続けてきたし、新左翼を擁護する社会党(社民党)やプロ市民と違って共産党は一貫して新左翼による暴力行為には反対してきた。

福島や辻本や菅や仙谷みたいなテロリストが社民党や民主党に多い理由も、上記の通り。

466 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:03:13 ID:wNZKLzaa0
>>434
朝鮮人そそのかして暴動やテロを起こしてきた代々木(日本共産党)が言える台詞ではありません。

477 :m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU :2011/02/06(日) 10:04:55 ID:9JQLFjMY0
>>466
朝鮮人とは縁を切ったし、ソ連や中国とも関係を断ち切ったから大丈夫。そのお陰でサヨク全盛時代にも社会党に負けっぱなしだったけど、日本の名誉と独立は守れたぞ。

495 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:06:49 ID:wNZKLzaa0
「不屈の共産主義・よど号30周年記念の集い」(平成12年開催 公式サイト消滅)
民主党沖縄県連代表喜納昌吉議員が赤軍派よど号ハイジャック30周年記念式典の呼びかけ人

http://members.at.infoseek.co.jp/siomi403/yodo.htm (公式サイト消滅)
http://megalodon.jp/2010-1020-0431-29/members.at.infoseek.co.jp/siomi403/yodo.htm (魚拓)

505 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:07:53 ID:yrDY2JJs0

この当時の革命戦士(笑)の人の殺し方

1、お前の革命理論は間違ってる!と言いがかりをつける。
2、何処が間違ってるかの説明はしない。
3、被害者が、なぜですか?といったら、こう答えればOK

なぜ?だあ?お前、今、我々の崇高な革命理論に疑問を持ちやがったな!!
粛清してやる、有りがたく思いやがれ!!

4、あえて、理屈を言わないのがポイント!被害者の方が頭良かった場合
  論破されるから!

と、言うワケで革命戦士(笑)に正しい革命理論なんてありません!!ヘタに理論を出して、論破されると、自分が粛清されちゃうからです!

その、証拠に、殺された人達は革命理論が元で殺されたのではなく、キスしてたとか、ジュース飲んでたとか、生意気だからであって、

別に革命に付いて話し合いの末、意見が分裂して殺害されたワケじゃありません!!!!

530 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:10:55 ID:/6dsAl6r0
>505

結局宮本の真似だよね。

543 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:12:23 ID:Xe9bLBzkO
>>392

結局、自己正当化の為に敵見つけて悪魔化レッテル貼りのイチャモンつけて「アイツより俺の方が良い(マシ)だろ?な?」というやり方でしか勢力拡大出来ない根本的・絶対的に見ると「無能」な連中なのよ(´・ω・`)

だから、外に敵が居るうちはそれはもう身内に対しては親分気取りで虚勢張って、ジェントル(笑)な振る舞いでイキイキと輝いているように「見せかける」のが得意だが、

「外の敵」(笑)と何らかの理由(敵失・実力差がありすぎてとても戦えない等)で戦えなくなると、今度は身内の中から「敵」を見つけ出し始めるわけ。

(勿論「アイツより俺の方がマシだろ?」の自己正当化の為w)これがブサヨの十八番「内ゲバ」であり「粛清」。

粛清は大して能力無い癖に自己正当化と権力拡大・維持したいような権力志向だけが強い尊大なゴミみたいな奴にとっては実に便利な魔法なのよねw

日本古来の哲学
(他人がどう言おうが、或いは他人と比べて上か下か等という相対評価がどうであっても自分の心が納得しなければその道を究める事を止めない職人的気質)とは全く相容れない

考え方>相対評価さえ高ければ良い、自分の相対評価上げるためにはどんな方法使っても他人を貶めて自分をよく見せて権力さえ掴めばいい、という考え方。

602 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:18:20 ID:IXYlzecWO
永田と親交のある大臣いそうだな(笑)
民主党なら可能性ゼロじゃないw
枝野の革マル献金もあるしw

630 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:20:57 ID:QgGD42bU0
>>392
極左じゃないよ、サヨク一般の本質。 権力を手にする前は、国民がとか、市民がとか人権とか、福祉とか優しいことを並べ立てるが、権力を手にすると(それがセクト内のものであっても)その権力をすぐに絶対化する。独裁、粛正、言論統制は思うがまま。

今の民主党がそう。

民主党の自衛隊に対する態度などまさにそう。

サヨクというのは本質的に冷酷、残酷、そういうことを人類は20世紀の間に数億人の犠牲の代償として学んで、もう既に常識になってる。なのに、この日本だけはぬくぬくと現実から隔離され、そういうサヨクが生き残ってる極めて稀な国。小沢とか、管とか、北澤とかの言動みてみ、あいつら政権とったら何してもいいって本気で思ってるから。

635 :エラ通信@“226” ◆0/aze39TU2 :2011/02/06(日) 10:21:09 ID:kq47F2QW0
山岳ベース事件か。

田原総一郎とかの仲間。

642 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:21:27 ID:gfXPqzdv0
男なら オウム真理教 麻原彰晃
女なら 連合赤軍    永田洋子

日本犯罪史上に燦然と輝く二大テロ集団の頭目にして
大量リンチ殺戮者 手段は『ポアしろ!』 『総括しろ!』 → 『友愛しろ!』(最新進化型)

その永田洋子(享年65歳)のおトモダチであった菅直人、岡崎トミ子、仙谷ら
旧学生運動家は、年をとっても 相変わらず党内で内ゲバに明け暮れている。
まるで進歩ナシw
特に菅首相(当時東工大)は、当時の公安だった佐々淳行から、
デモの先頭でアジ演説をやってたと思ったらいつの間にかいなくなる
『逃げ足の菅ちゃん』と呼ばれマークされていたwww

当時の呼び名

菅直人(当時東工大 64歳);逃げ足の菅ちゃん
岡崎トミ子(当時高卒 66歳):爆弾おトミ
仙谷由人(当時東大 65歳):弁当運びのヨシト

・行方正時(享年22)
  坊ちゃん育ちのため、当時、永田や森に目をつけられた
  成れの果ての図


画像


686 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:25:09 ID:wSTnRItS0
定期的に永田と重信を混同した問いが入るが、何なんだ?
なんかのお約束なのか?

ブス永田
プリティ重信
 ↑
とりあえずこれで暗記しとけ!

692 :エラ通信@“226” ◆0/aze39TU2 :2011/02/06(日) 10:25:27 ID:kq47F2QW0
前原・仙谷・野田あたりは、弔意を示しているんじゃないか?

田原総一郎はこの種類の人間。
あとみのもんたとか、テレビ局の顔になっているキャスターに、こいつらと同じ傾向じゃないか、
って人間は多い。

720 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:28:09 ID:gfXPqzdv0
【一方、当時のブサヨの同志は今… スーパーでサキイカを万引きしてたwww】

http://live14.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1106746117

かつて国際指名手配にまでなった日本赤軍コマンド、山本万里子、赤軍解散後の現在、東京都内で生活保護を受けています。本年、コンビニで万引きして身柄保護も受けました。その際、新聞に出て判明しました。

勿論、生活保護はその後も継続されています。執行猶予も取り消しにはなっていません。ニッポンは寛大で甘い良い国ですなー。

http://www.jimmin.com/2002a/iwase_02.htm

http://blog.livedoor.jp/milkbottle/archives/23035047.html

日本赤軍にヘキサゴン

山本万里子がスーパーでさきイカを万引きしたこと、小さな事件だったが世間の嘲笑をかっただろう。生活保護を受けていた身、万引きしなくても暮らせたはず。赤軍コマンドが万引き、さきイカだよ、何と恥ずかしい。重信は支援者から豊富な資金カンパ、64歳の山本万里子は放置、仲間内の支援もなく、山本の過去は犯罪の経歴しか残らない。

763 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:32:46 ID:xpEwIex00
森と永田


画像


790 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:35:07 ID:FyjCjNmw0
赤軍のリンチの内容って、通州事件で、中国人が
日本人の妊婦を生きたまま、
胎児をはらから取り出したとか、内容が似ている。

共産主義にかぶれると、ああいう残虐なの平気になるらしい。

812 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:37:03 ID:39seb6Rt0
旧社会党にはこの永田のお仲間がたくさんいたし、その社会党から現在の民主党に流れ着いてる人間がまたゴマンといる。仙谷やら千葉やらトミ子やら……だけではない。

そういう民主党に、小沢が代表する旧自民党の腐敗金権体質がドッキングして力をつけ、政権奪取に至った。

いわば、今の政府は「赤と黒」で出来ている。まともな国になるわけがないよね。

824 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:38:23 ID:tprml/qG0
日本帝国主義=悪 共産主義=善 だと妄信していたのです。一番悪いのは、歴史を捏造したGHQなんですけどね。

団塊の世代は、皆が貧しかったですから。万人の平等という言葉に惹かれたんでしょう。

彼等も最初は被害者だったと言えるかもしれません。

908 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:46:03 ID:gfXPqzdv0
『森さん、あなたはズルい、ズルい、ズル~~い !』

共犯者、連合赤軍最高幹部 森恒夫の首吊り自殺の報を聞いて 永田洋子談話

954 :名無しさん@十一周年 :2011/02/06(日) 10:50:33 ID:sbFdpP3w0
連合赤軍って主要な実力者が全部海外にでちゃって
ボロボロの赤軍と横浜連合?とかいうところがくっついてできた
もう終わってた組織だよね

https://kirayamato-sarainiko.at.webry.info/201102/article_5.html
27:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:23:54

60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン ~左翼右翼の対立、戦争etc~

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)

アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ-バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。

背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)-アンチテーゼー(反)-ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html



▲△▽▼

60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3


▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html
アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ-バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。
 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。
2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。
3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。
4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html


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権力闘争 【分断して統治せよ】
http://ronri2.web.fc2.com/game05.html

分断統治とは、支配階層が世の中を統治し易くするため、支配される側の結束を分断して、反乱を未然に防ぐための統治法です。

支配される側を一級市民と二級市民に分けて、扱いに差をつけます。すると生活に不満があっても、一級市民は二級市民を見下すことで不満のはけ口にします。「自分はまだあいつらよりもマシだ」。とうぜん、二級市民は一級市民を敵視するようになります。支配される側の人々は仲たがいをし、小さな利害でも対立するようになるのです。

支配される側の人々は互いに争うので、支配階層に対する批判の矛先を逸らすことができるのです。分断統治は、人々が持つ差別意識や優越意識を利用しています。

たとえば、江戸時代の身分制度も分断統治といえます。身分制度とは、出身などにより生まれつき身分が固定されている制度のことで、江戸時代には士・農・工・商という身分制度がありました。支配階層である武士階級の下に、被支配階層の商人・職人・農民という序列が存在しました。

しかし、農民の下にもっと身分の低いえた・ひにん(部落)という賎民階級が存在していました。賎民(せんみん)とは、ふつうの民衆よりも下位に置かれた身分を指す言葉です。教育用の資料から引用してみましょう。

(『江戸時代後半の民衆の不満をそらす差別強化 別の身分から下の身分へ(PDF)』より引用。)

江戸時代中頃から、幕府や藩は一揆や打ちこわしの増加に対して、えた身分やひにん身分への差別を強めることで、不満をそらしたり、農民と対立させたりした。そうした中で、世代を経るにつれ、えた身分やひにん身分を百姓・町人より下に見る差別意識が強くなっていった。それに対して渋染一揆のように立ち上がった人もあった。

部落の民は、藩から差別的な制限を強制されており、例えば、水害の危険性の高い河原などの決められた場所にしか住むことを許されませんでした。また農民や町人との交際も禁止、職業や服装も制限されていたため、姿を見ただけで部落民だと判別できるようになっていました。さらに、部落の身分は法律により親子代々に受け継がされました。江戸幕府は身分制度をうまく利用して、武士による厳しい支配への不満を逸らし、民衆の結束を阻止したのです。

ではなぜ、民衆はこうも容易く分断されて、下を見て生きていくのか、そのヒントが


自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか – 2000/9/1
クリストフ アンドレ (著), フランソワ ルロール (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4314008776?ie=UTF8&tag=dayswingtrade-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4314008776


という本に載っています。「自己評価」とは、自信のようなもので、自分自身に対する評価のことです。

【自己評価と人種差別】

心理学の実験で、被験者になってくれた人たちにわざと難しい仕事をさせて失敗させたり、自分の死のことを考えさせて自己評価を下げさせてやると、そうされた人々は他人の悪口を言うか、そうでなければ犯罪に厳しくなったり、自分の文化とはちがう文化からの攻勢に不寛容になる(11)。たとえば、このような方法で自己評価を下げられたアメリカの市民たちは、自分の国の悪口を言う人間に対して厳しい判断を下す傾向にあった。また、別の実験を見ても、自己評価を下げられた人間は容易に人種差別的な偏見を口にするようになるという結果が報告されている。

もちろん、人種差別の原因は、自己評価が低いことばかりではないだろう。だが、自己評価が下がっている人間にほんの少しイデオロギーが手を貸してやれば、簡単に差別的な行為をするようになるはずである。

11.J.Greenberg et al.,>,Journal of Personality and sociar Psychology,1992,63,p.212-220
(「自己評価の心理学 」より引用。)

社会的な階級が低い人ほど一般的に自己評価も低いと思いますので、まさしく統治者が恐れている層ほど、下を見て生きる習慣があるということになります。たとえば、ホームレスを襲撃する少年たちも自己評価が著しく低いと考えられます。犯人の少年たちは同世代に比べて社会的に低い位置にいると思いますが、彼らをそうさせたのはホームレスではありません。しかし、少年たちはホームレスを見下して、正義の名の下に襲撃しようとします。

これの応用に、外交問題をクローズアップして民衆の目を内政から外交へ向けさせる統治法があります。内政に対する民衆の批判が強くなってくると、仮想敵国を演出して国の外側に攻撃の矛先向けさせるやり方です。

ほかに分断統治の手法の一つに賞を使った統治があります。

『分裂勘違い君劇場』
https://www.furomuda.com/

というブログにわかりやすい記事が載っているので引用します。


世界史を勉強すれば、この「抜け駆け」こそが、搾取と隷属を作り出してきたことがよく分かります。とくに、「抜け駆け」を利用した間接統治は、白人が有色人種を支配し搾取する時の常套手段です。

ラテンアメリカでも、アフリカでも、まず、現地の有色人種のうち、抜け駆けして白人に媚びを売った有色人種に特権的な地位を与えます。そして、その特権的な有色人種に、他の有色人種を支配させるのです。

そして、支配される有色人種には、「抜け駆け」して白人政権のために働けば、オマエも特権的な地位に就けてやるぞ、とささやくのです。

全文は

『分裂勘違い君劇場 プログラマの労働条件を過酷にしているのは、過酷な労働条件を受け入れるプログラマです』
https://www.furomuda.com/entry/20070216/1171627060


権力者に逆らわない者、命令をよく聞く者を一級市民に昇格させてやり、反抗するものは二級市民の身分とする。一級市民には賞を与える、というわけですね。

・分断統治は小さな集団の中でも効力を発揮します。スタンフォード大学がある実験を行いました。刑務所を模した実験施設に囚人役と看守役の被験者を入れて、その動向を観察する実験です。この実験のなかで、看守役は賞と罰を巧みに利用して囚人役の結束を分断したのです。ほかのサイトから記事を引用します。

二日目、早くも事件が発生した。囚人らは監獄内で看守に対して些細なことで苛立ちはじめ、やがて暴動を起こしたのである。

看守らはこの事態を重く見、補強人員を呼んで、問題解決にあたった。しかし暴動は一向に収まらず、最後には囚人に向けて消火器を発射して怯ませ、その隙に監獄内に突入、全員を裸にした上で、暴動を主導した人物らを独房へと送ったのである

更に看守らは今後の暴動を抑止するために心理的攪乱(かくらん)作戦を開始した。まず暴動に関与していない囚人のグループを”良い”監房へ収容して彼等を丁重に扱い、そして関与した囚人のグループを”悪い”監房へと送り、過酷な扱いを行うことにしたのである。そして半日程が経過すると、今度は一部の囚人を、理由を教えずにそれぞれ交代させ、囚人らを混乱に陥れた。

つまりこの交代によって悪い監房に残された囚人らは、良い監房に移動した囚人が看守に何らかの密告を行い、その褒美で良い監房へと格上げされたのではないかと推測したのだ。

そしてこの巧妙な看守側の作戦は見事に功を奏し、たった二日目にして、看守と囚人の間のみならず、囚人内部でさえ、対立が発生した。

また途中から入獄したある被験者(彼は途中まで予備の囚人として待機していた)は、看守の態度を知るなりすぐにハンガーストライキ(絶食などによる抗議行動)を行ったが、逆に罰として真っ暗な独房へと押し込められ、数時間をそこで過ごすことを強要された。そして看守らは他の囚人らに対して、彼を独房から出す交換条件として毛布を渡すこと、より粗末な囚人服に着替えることなどを要求したが、囚人らはそれを拒否し、結果、更なる囚人間の対立を生んだ。

全文は

『情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは』
https://www.furomuda.com/entry/20070216/1171627060


分断統治には内集団バイアスが関係していると考えられます。これは自分の所属する集団が他の集団よりも優れていると錯覚する現象です。リンク先で詳しく解説しているので、よろしければご覧ください。

【まとめ】

支配者チームが勝利するためには、いかに民衆チームの結束を分断するかがカギになります。民衆チームが数で勝っているときに団結されると逆襲される恐れがあるためです。逆に、民衆チームが勝利するためには、いかに分断統治を見破って団結するかがカギになります。

★分断統治は、学校や家庭で、子供を管理する方法として使われることもありますが、そのように育てられた子供は民主的なコミュニケーションを覚える機会を失ってしまうので、権力闘争でしか物事を判断できなくなります。

http://ronri2.web.fc2.com/game05.html
28:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:26:01

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日本に浸透してくるアングロサクソンの支配情念 2015年5月18日
http://www.news-pj.net/news/21035


資本主義と共産主義は、かって相反するもののように考えられていた。

前者は自由を、後者は平等を、それぞれ表看板の理念として掲げていた。

平等を表看板にかかげたソ連の共産主義国家はスターリンの独裁国家となり、やがて崩壊していった。

冷戦はおわった。

一方の対立軸を失った状況のなかで、現在は「自由」を表看板に掲げて、新自由主義と称する金融資本主義が、コンピュータの技術に援護されながら、国境と各国の伝統に貪着無く、大手をふって世界の政治と経済を支配しているようだ。

***

しかし、現状をみると両者は元々コインの両面である。

コインの表が自由の観念にもとづく金融資本主義で、裏が平等の観念にもとづく支配情念としての共産主義である。

その支配のイデオロギーに潜むのは、いわゆる「分断統治 (divide and rule)」である。

非支配の国民や民族を単に分断するのだけではなく、相互に対立させ誤解させ敵対関係にさせる戦略である。

対立するそれぞれの組織においても、さらに支配と非支配の構造を作り上げるのが、政治戦略としての分断統治の基本構造である。

***

分断統治の巧妙な戦略は、組織の末端においても戦術的に機能する。

大英帝国領のビルマ(現ミャンマー)に警察官として勤務していた G.オーウェルのエッセイに「絞首刑 ( A Hanging(1946) 」がある。

絞首刑を執行される犯罪者はヒンズー教徒のインド人、彼が収容されている刑務所の看守たちもインド人、看守の長はドラヴィダ系インド人、死刑囚の首に縄をかけて落下のレバーをひく者は刑務所の囚人で、ビルマ人の判事が立ち会っている。

死刑囚の落下後に刑務所長(オーウェルはあえて記述していないが大英帝国のイギリス人役人)があらわれ、わずかに揺れてぶら下がっている死体をステッキで突いて、「完全に死んでいるな ( He’s all right )」とつぶやいてから、腕時計を見ながら「やれやれ、これで今朝の仕事は完了だ ( Well, that’s all for this morning, thank God.)」という。

処刑後、 ヨーロッパ人との混血の若い看守は、即死しなかった囚人の脚を引っ張って死亡を確認した話をする。刑務所長は耳を傾ける。

さらに、その若い看守は、「でも、反抗する囚人は、もっと悪いですよ。」と、六人掛かりで独房から引きだすのに手間取った囚人の話をつづける。

若い看守「おまえが俺たちに引き起こしている手間ひまを考えてくれよ、といったが、もちろん聞き分けてくれませんでしたが。彼はほんとにやっかいだった」と、芝居がかった媚びた冗談を刑務所長にいう。

ビルマ人の判事は、突然笑い出す。周りの者たちもみんな同調して刑務所長を囲んで笑いだす。 オーウェルも笑った。

刑務所長は鷹揚な態度でにんまり笑い、愛想良く関係者らにウィスキーの提供を申し出る。

「われわれは、みんな一緒になごやかに一杯やった、現地人も欧州人もだ。死体は100ヤード先にあった。」でエッセイは終る。

***

同様の状況において、旧日本陸軍が中国で現地人を処刑をした場合、どうしていただろうか。

アングロアメリカンの米国もアングロサクソンの支配の構図は受けついでいるだろうが、大英帝国の役人ほどの熟達した対応を囚人たちにはしないだろう。

***

オーウェルの父親は、大英帝国のインドに駐在してアヘン局に勤務していた。

今日アヘンといえば麻薬であり、犯罪にかかわる危険物質であるが、アヘン局は、アヘンの栽培の管理をおこなう部局であり、それを中国に売りつけていた。

インドー中国ーイギリスの三国間で、インドの麻薬を原資として綿製品と茶が回転する魔の三角貿易である。イギリスはインド人には製品を作らせず綿製品をインドに売りつけ、アヘンと綿花を中国人に売りつけ、その金で茶を買い付けていた。

当時は、国家的な規模の麻薬貿易が国際的非難も受けずにまかり通っていたのである。

***

表現の自由に寛大なイギリス人であり、女王陛下の戯画を描いても問題にならない英国であるが、アヘンの話題だけはタブーに近いようだ。

権力や偽善に対して呵責なく批判するオーウェルであるが、ことアヘン( opium )に関してだけは彼の著作を調べてもどこにも言及が見当たらない。

今日のイギリス知識人の間でも、これだけはタブーのようである。(後藤春美『アヘンとイギリス帝国――国際規制の高まり1906~43』参照)

ここに西欧人のいう「歴史認識」については、ある種の深い欺瞞があるだろう。

***

1993年、S.P.ハンチントンは「The Clash of Civilizations」を『外交問題』誌に発表した。

これに対してG. ピッコ氏が鋭く批判を加えた。

冷戦が終わって世界は平和を望むべきであるが、米国は「新たな敵が必要だった」と指摘している(・・・The Soviet Union was no more; civil war had erupted in the Balkans, the Caucasus region and Africa. There was a need for a new enemy. His theory was the first of many to offer one.・・・ (Giandomenico Picco: ’A dialogue of civilizations’; Special to Japan Times ;10/10/1998)。

結果的に、ハンチントンの論文は現代おこなわれている中東の混乱の枠組みを提示してしまっている。

彼は、分断統治派に格好の戦闘舞台の設計図を提供してしまった。

2004年にハンチントンは遺作となる「我々とはだれか――アメリカ国家のアイデンティティ」を発表して、合衆国がラテン系グループと非ラテン系の二つのグループ、二つの文化、二つの言語に分断されることに警告している。

しかし、「アメリカ国家のアイデンティティ」に危機感をいだいたハンチントンは、アングロアメリカンの底深い支配情念にとっては、いまだ善良なるアメリカンのようだ。

「アングロサクソン」の支配情念には「連合王国」という実体的伝統のある本拠地があるが、「アングロアメリカン」へと肥大化したグローバリズムの支配情念は、あたかもアメリカ政府さえも利用機関とみなしているように思えるからだ。

「アングロアメリカン」の支配情念には、国民的アイデンティティや民族的な伝統は支配の障害である。

アングロアメリカン的支配情念にとっては、「資本主義と共産主義」は結局、支配力というコインの両面に過ぎない。

なぜなら本家アングロサクソンの分断統治には、その内部に二重思考が隠されているからだ。

***

『マクベス』の最初に三人の魔女たちが歌う――Fair is foul, foul is fair (公正は邪悪、きれいはきたない、快適は不快、などなど、 なんとも多義的な表現で訳しようがない)

シェークスピアの全作品のなかで「マクベス」をもっとも評価するオーウェルは、彼の『1984年』で、魔女たちの言葉を転用する。

戦争は平和 自由は隷属 無知は力(war is peace;freedom is slavery; ignorance is strength)

つまり被支配者の言語内に二重思考を埋め込むのが言語支配の戦略であり、これが様々な行動とシンボルの使用にもかかわってくる。

この二重思考は、極度に抽象化された言語操作であるから、一般の人々は、実感をもって理解できにくい。

しかし、その抽象化された意図は知られることがなくても、具体的な行動で現実世界に影響をあたえことができる。

来客を迎えるにこやかなホストの笑顔は、獲物を得る前の隠された喜びである場合がある。

西欧人の、特に知識人における人生のゲーム化は、彼らの生活の様々な場面で観察できることであり、ゲームとはプレーであるが、同時に獲物をも意味する。

アングロサクソン的支配情念とは、結局のところ、戦略的言語操作に帰着する。

世界史を動かしているのは、言葉、言葉、言葉だ。

***

「カオス理論 (「Chaos Theory and Strategic Thought」)」という戦略理論を最近知った。

1992年にアメリカの戦略家 Steven R. Mann が発表した論文である。

これに対して批判的な指摘がある――「最近の出来事は完全に米国によって発明された「管理化された混乱 (manageable chaos) 」に合致している。それを創作した者たちに、Z. ブレジンスキー、G.シャープ、S. マンがいる。

S. マンは、「カオス理論と戦略思想」を著し、彼自身はかってのソ連の一部の共和国における「カラー革命」の陰謀に関わっている。


「管理化された混乱」理論の主要な原則は――


1 現体制に反対する様々なグループを合体させる

2 一国の指導者たちに、自分自身と軍隊の忠誠に対する自信を徐々に減退させる

3 攻撃的な反対者たちと犯罪者らを援助して、現状を不安定化される


などである。

特に、2)はターゲットにされた指導者に対する心理的攻勢である。

これはロシア側の一部の論評であるから、この指摘の妥当性については、各識者の見解に委ねる。

しかし、スターリンの共産主義と決別したロシアは、いまだに西欧において信用がないが、かってマルクス共産主義に多くのイギリス知識人たちは賛同していたのではないか。

***

本日、朝日新聞(5月14日)の夕刊の一面をながめていた。「安保11法案 今夕閣議決定」の大見出し。

紙面の左側には、「南シナ海 中国、数年後に滑走路」の記事。

両方の見出しを交互にながめていると、なんだか「安保11法案」を肯定したくなるような気分になってきた。

紙面の中央には横書きで「銀座・官邸前で抗議の声」があるが、その「声」がかすんでいる。

他の読者はどうだろうか。

自分も、すでに二重思考の言語操作に溶け込まされているのか。

安倍政権には、日本の伝統の本質と国益について、そして世界史的観点からアングロサクソン、アングロアメリカンの支配情念について、今一度深い歴史的洞察をおこなっていただきたいと願う者である。

もちろん、この支配情念は、一般のイギリス国民やアメリカ国民の国民性とは別個のものである。
http://www.news-pj.net/news/21035



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分断統治・分割統治
人々を地域・民族・宗教・身分などで分断・対立させ支配する統治方法
Divide-and-conquer, 2016.5.13, 2018.9.7,
http://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html
分割統治の歴史

 分割統治ともいいますが、他国や他勢力の地域や組織を支配するときに、内部対立を誘発し、支配しやすいいずれかの勢力を支援することで、その地域や組織の全体を支配するという支配方法です。

 歴史的には、ローマ帝国が支配下の都市同士の間に格差を設け、人々の不満を都市同士に向かわせることで、征服した都市同士が連携して反乱することを抑えることに成功した、というあたりが起源のようです。

 19世紀中盤から20世紀中盤まで約90年に渡り、イギリスがインドを支配していましたが、このときも分断統治が使われました。このときはイスラム教とヒンズー教の対立が支配に利用されました。

 イギリスのインド支配以降、分断統治は様々な国家や組織の支配に積極的に利用されるようになり、それが現在まで続いています。

 分断統治は、現在でもテロ・紛争などの宗教や民族対立、また、格差社会という国家内部構造を不満のはけぐちにすることで、国民を支配しやすくするという方法に利用されています。しかしながら、現在では、格差社会は政治の失策という認識が広がっており、人々の不満が政府に向かうことを防ぐことは難しくなってきています。

 人々は政治によって格差社会を是正できると考えるようになってきていますので、実際に格差社会を改善できる可能性は日増しに高まっていると言えるでしょう。2016.5.13


大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

分断や分割、両建の例
 あれもこれも対立誘発作戦だった

 一見すると分からないようになっていますが、分断して対立させコントロールして支配しようという戦略に使われている対立を挙げてみます。私たち一般人や組織同士の対立を誘発する印象操作が疑われる分断は思いのほか多いです。マスコミ報道レベルでは私たちの関心や悪意・善意などを誘導する報道が多くなっています。

ハラスメント・イジメ問題 … 暗黙の分断工作
セクハラ問題 … 暗黙の男女対立
パワハラ問題 … 暗黙の上司部下の対立
他国のイメージダウン報道 … 国家対立
オリンピック … 愛国心の強化 国家対立へ誘導 そもそも国別対抗戦にする必要はない
犯罪報道 … ごく少数の犯罪者と市民の分断 防犯利権のための危険偽装
学歴社会 … 学歴という隠された身分による市民分断
市民監視政策 … 共謀罪・通信傍受法などで監視・被監視という基準で市民を分断
マスコミ報道全般 … 利益誘導のための印象操作が目的 無から利益や必要性という有を生み出す大衆洗脳 対立構造の悪用が多い
右翼左翼 … 保守・革新の政治機能が機能しているという偽装
与党野党 … 左右翼より具体的な政治機能偽装
在日批判 … 日本人・朝鮮人対立
自国や自民族の美化 … 他国や他民族と優劣をつける分断
イスラエルとアメリカのシリア攻撃 … 国家対立・戦争などの誘発
アメリカ・ロシア … 二大軍事国家の対立 軍事危機の偽装 軍需利権の維持拡大
イギリス・フランス … 表世界の支配の実行犯の対立
ユダヤ人批判 … ユダヤ・非ユダヤ人対立
民族批判 … 社会や国家よりも多くの人たちをまとめて対立へ誘導
南北朝勢力 … 日本の分断支配 イエズス会系とメーソン系の分断説も
イエズス会・イルミナティ … 秘密結社対立
陰謀論 … 庶民と富裕層の対立 富裕層は超富裕層の身代わりの悪者役
血統支配 … 限られた血族にだけ富や権力を与え支配者層と市民を分断


大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

民族・国家・大勢力などの広範囲分割と組織内の上下関係を強める小規模分割

 タイトル名とサブタイトル名でほぼすべて説明してしまいましたが、分割統治には大規模な横割りパターンと小規模な縦割りパターンがあります。

 縦割り分割では上下の立場が違う人たちの間では争いが起こりにくいので対立を偽装する分割統治感は弱いので一般的には分割統治には含まれていませんが、支配のために分割していることはたしかですから、分割統治に含めても問題ないだろうとこのサイトでは考えています。

 実際に支配層は縦割り分割も好んで使っていて、イルミナティなどは33階層とも99階層とも言われる細かい階層に分割して支配されています。

 さらに大規模と小規模の間の中規模な分割統治としては、経済格差で序受け関係を作る社会階層や、政治家・軍人・警察官・市民といった職業毎に権力や実力で上下関係を作るというやり方もあります。社会階層や職業毎に生まれる上下関係は自然発生した部分もあるでしょうが、これも支配層が好んで分割統治に使っています。

 少数の特定の民族や部落、血族などをエリートとして特別扱いする代わりに従わせ、さらにそれらの人々を使って一般の人たちを間接支配するというのが分割統治のやり方です。これを社会階層や職業に応用して、一部の階層や職業に過度な特権を与えエリート化し一般人の支配するという支配方法になっています。

 このサイトが追っている集団ストーカー問題でも、同じ仲間だったはずの日本人を加害者・加害協力者・被害者などに立場を分割することで支配しようとしています。

 分割統治や支配層戦略の全体は牧畜がモデルになっています。羊飼いが羊を飼うために番犬を飼って、若いリーダー羊を何頭か残してそれ以外の羊を去勢して管理するような牧畜と同じパターンが私たちの人間の支配に悪用されています。

 支配者と支配される一般人というのは支配や管理のために意図的に作られた強者と弱者であるとも言えます。

 それぞれ分割された勢力は表向きは争ったりけん制しあったりしているように見えます。しかし、分割統治の本質はグループの頂点だけを支配層などの権力ネットワークで支配することで、末端の人たちを権力で従わせる点にあります。

 そのため分割統治の仕掛け人たちは本当はあまり争うことはないとみられています。主に争っている、あるいはそう見えるのは仕掛け人が使っている作業員や一般人である私たちなのです。

 秘密ネットワークを使って隠れて談合し、争わずに楽に支配し富や権力を得るというのが分割統治や支配層戦略のやり方です。2018.5.25


分割統治の目的

 分割統治の目的を簡単にまとめると次のようになります。


対立による社会混乱
 人種・民族・宗教・その他の勢力を対立させ、争わせることで社会を混乱させる。


真犯人の隠蔽
 偽の犯人勢力をあえて作っておくことで、真犯人、真の首謀者勢力の隠蔽を行い、人々の批判の矛先を変える。


反対勢力への監視と統制の強化
 人種や民族、地域などで人々を分断し、互いに争わせることで、互いの監視や各勢力の権力バランスのコントロールを行う。助力がないと活躍できないような小勢力に助力しつつ借金などで支配することで、全体を支配させ利益を得る。2017.5.29, 2018.1.21


選択肢の制限
 政治の左右翼など意図的に分断された、あるいは対立が偽装された勢力が出す意見のどれを選んでも支配層が得をする、あるいはあまり不利益にならないよう選挙などでの人々の選択肢を制限する。2017.5.29, 2018.5.26


社会的なルール変更
 各勢力を争わせた後は、その反省として支配層に都合のよい新たルール作成やルール変更を行い、さらなる利益の拡大を行う。


まとめ
 社会的な混乱は、社会全体のモラルを低下させ支配層である、多国籍型の秘密エリートネットワーク(*1)の得意な詐欺・洗脳犯罪の成功率を高める土壌となります。モラルの低い社会のほうが詐欺洗脳犯罪を行う上での協力者も作りやすくなります。また分断された各勢力は互いに監視し合いますので、エリートネットワークが支援し、利用している勢力やそれに敵対する勢力の情報も手に入れやすくなります。反対勢力だからといってつぶしてしまうよりも残しておいたほうが、友好勢力への監視に使えるというのが支配層戦略です。情報を管理しつつ各勢力へのコントロールを強化し詐欺洗脳犯罪を永続するという戦略です。2017.5.29, 2018.1.21


両建戦略の目的

争いの発生と解決による利権の創造

 両建戦略とは二つの勢力を作り、争い事を起こしたり解決させたりして利権を拡大する支配層戦略(*2)のことです。陰に隠れて他人を動かすことで利益を得るシオニストネットワーク(*1)お得意のフィクサー型支配戦術です。両建戦略と分断統治(戦略)は似ていますが、色々ある分断統治の方法のうちのひとつが両建戦略です。

 両建戦略が行われる理由は、本質的には争い事を意図的に引き起こすこと自体が目的となっています。人は一般的に喧嘩や争い事を起こすものではありますが、自然状態では互いを強く傷付け合うような過剰な争い事は起こさないものです。戦争が代表的な例ですが、特に大きな争い事というものはわざと起こるように仕向けないことには、なかなか起こりません。人間同士は大きなくくりでみれば同属であり仲間ですから自然状態では無闇に殺しあうようなことはしないように出来ているのです。

 それではあまり儲からないので、争い事を意図的に引き起こす、というのがシオニストネットワークの戦略です。社会を混乱させ争いを起こし、そこで利益を得て、争いが終わると自分たちの都合のよいようにルールを変更するというのが、長年行われてきた彼らの詐欺支配戦略です。


両建戦略は継続型分断統治

 分断統治では2大勢力を作り争わせるという方法がよく使われています。歴史的にみればイギリスとフランスが何百年もその2大勢力を演じています。政治の与党と野党なども両建戦略のひとつと見ることが出来ます。その時々の支配層の都合で、利益が出る場合は協力させ、利益に反するときは争わせるということが日本でも何十年も繰り返されています。

 今の社会で起きている出来事、特に政治的な出来事の多くはヘーゲル弁証法の正反合の発展思想に基づいて仕組まれた争い事であって、大きな事件の多くが意図的に起こされた争いだったとみられてます。

 私たちは政府やマスコミが流す情報によって世界が動いているように思わされていますが、実際には結果の決まったお芝居を見させられているような状態にあります。何十年も前にケネディ大統領が“すべてのニュースには流す目的がある”といったことを言っていますが、あの言葉は今も真実を示しています。

 補足しておくと、現在ではマスコミの発信出来る情報量自体が増えてしまっているので、あまり意味のない情報、つまり支配層からするとうまく大衆誘導出来ていないようなニュースも増えているようです。2018.1.21


日本と特亜の分割統治

 大局的にみると、日本の嫌韓思想誘導や韓国の反日教育なども、英米超富裕層などによる日韓支配のための不和や対立構造の意図的な構築であろうことが疑われます。

 日韓はともに海を隔てた外国同士ですから、嫌いになる理由も、好きになるきっかけも、もともとの自然状態ではそれほど存在しません。日韓友好は国益を見込んだ日韓両政府の意向であり、日韓対立はそれを拒む勢力の思惑とみるべきでしょう。

 日中友好に関してもアメリカは以前から強く反発しており、親中政策を打ち出した政治家、田中角栄や小沢一郎などは、政治的失策というよりも、強引な妨害工作によって失脚させられたとみられています。2016.5.13, 2016.5.24

 これに対して米中は友好関係を深めて国益を拡大していますので、直接的にはアメリカ勢力が主導する、日本と特亜(中・韓・北朝鮮)との分断政策が、現在も行われていることが予想されます。2016.5.13

 日本と特亜の不和は、アメリカの都合で、アメリカ主導で行われているマクロ的な分断統治とみられており、日本国民が忌み嫌う核兵器の実験を何度も北朝鮮に行わせている理由もここにあるとみてよいでしょう。

 日本と特亜の友好関係が築かれた後は、ロシアとの関係も改善されることになるでしょう。日本が中東から輸入している石油は、タンカーで運ぶだけでも燃料費が2千万円などと莫大な費用がかかり効率が悪いのですが、ロシアと北海道の間に海底石油パイプラインを通してしまえば、輸送コストは劇的に下がり、エネルギー問題も一気に改善に向かいます。

 ロシアは世界一の石油産出国ですから、価格の交渉もしやすく、安定した供給も見込めます。また、ヨーロッパ諸国の石油の多くもロシアが供給しています。

 ちなみにISISテロが攻撃している地域も石油パイプラインが通っている地域ですので、石油利権をめぐる水面下での様々な戦いが存在することが予想されます。2016.5.13, 2016.5.24

日本の領土問題はすべて分断統治工作、逆に共有化で解決可能

 分断統治の分かりやすい例が領土問題です。北方領土はロシア、尖閣諸島は中国、竹島は韓国、それぞれ日本との間に領土問題という外交問題を発生させ、互いに争わせるという100年の計が実行されています。

 中韓は国策として政府が反日思想誘導を行い、政治に利用していますので、しばらく解決は難しいでしょう。しかし、ロシアであれば、特に反日という訳でもありませんので、比較的解決しやすいでしょう。

 領土問題で問題となっている島は、島自体はどれも大した価値のない島や岩ですので、つまらない紛争のきっかけとして残すよりも、早く分割なり、買取などして決着をつけてしまうほうがよいでしょう。

 理想的な解決策としては、所有権紛争地域(?)は両国共有の自由貿易地域などにすれば、平和的な解決が可能で、さらに両国のさらなる発展も見込めるでしょう。

 レジャー施設を充実させていけば、領土問題解決の成功例として、歴史に輝かしい名を残すことも夢ではありません。日本だけでなく世界の紛争地域も共有地化してしまい、税収や資源などの利益を公平に分配すれば健全な運営も可能となることでしょう。

 インターネットで人々がつながってしまった現在の世界で、その土地がどの国の名義であるかといった問題は、ささいな問題のようにみえます。2016.5.30


< 追伸 2016年10月18日 >

 日本とロシアの領土問題、北方領土問題への解決策として、共有方式の共同統治案が検討されていることが、日経新聞の記事となっていました。

 共同統治案は菅官房長官が否定しているように、現在の日本の政治方針では、表向きは否定されています。政府としては2島返還という2島の譲渡を求める方針で話を進めたいようです。2016.10.18


< 関連 >
新領土問題 日本の土地がイギリスに取られていた
 天皇陛下が危ない! 皇居のとなりのイギリス大使館はイギリスの土地に建っている


コラム : 分断統治は個人でも使えるがリスクが高い詐欺術

 余談ですが、分割統治・分断統治・対立工作などは、ここであげた大きな勢力同士でなくても使うことができます。最少人数はたったの2人です。上司が2人の部下に、それぞれ異なる情報を与えることで対立させ、自分に有利な方向へ事態を変化させるような使い方ができます。

 たとえば、お互いに対して、別の人はもっと頑張っているとか、影であなたの悪口を言っていたとか伝えることで対立させる、自分に有利な状況を作り出すことができます。これは姑が嫁たちに対して使っているというのがフジテレビで放送されていたことから、今後、庶民レベルでも悪用される危険があります。

 分断工作は詐欺洗脳術ですから、本当はこんなことを書くと情報が広まってしまうので、紹介すべきではありません。しかし、そうではありますが、日本も心理戦が家族や交友関係・ビジネスなどでの、人として求められるメインスキルとなるような社会に変わりつつありますので、対処するためにはいたし方ないことでしょう。

 心理戦というのは誰かが始めてしまうと、それに対抗するためほかの人たちも使わざるをえないものですから、偽ユダヤなどが日本に心理戦を持ち込んでしまった以上は、これを理解することで対処していくしかないでしょう。

 対立や争いが起きているとき、これは分断統治や対立工作かもしれない、と考えられる視点を持つことが大切です。

 みなさんは、なるべく悪用しないよう注意してください。分断統治を個人レベルで顔見知りの人たちに行うと嘘がバレやすいうえに、バレてしまったときは自分の信用を大きく傷つけるというたいへんリスクの高い詐欺戦略となっています。

 分断統治や対立工作はあくまで人をだます詐欺術、洗脳術の一種であることをよく心得ておいてください。

 このサイトのテーマとなっている集団ストーカー問題でも、被害者の周囲の人たちへ、被害者の悪評を振りまく風評被害というのがあります。これも分断統治の理論を民間レベルで悪用したかたちになっています。2017.5.29


http://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html
29:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:29:28

1960年代から1970年代前半の学生が全員 反米左翼、毛沢東崇拝になった理由

17 dead in 'horrific' high school shooting - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xgIJosk0pnA


暴力も自殺も、まるで伝染病のように人々の心に乗り移るという事実を知れ2019.04.08
https://blackasia.net/?p=12486
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私たちは「伝染病」と言えば、ウイルスが人から人へと伝染していくインフルエンザのようなものだけを想像する。

しかし、伝染するのは病原菌だけではない。

強い感情もまた人から人へと伝染していく。たとえば、憎悪だ。それはとても強い感情なので、共鳴するにしても反発するにしても、相手と同じ憎悪が当事者に発生して、どんどん広がっていく。

憎悪は理性ではなく感情である。感情は往々にして理性を超えるので、憎悪が蔓延すると理性は働かない。

個人的な憎悪もそうだし、集団的な憎悪もそうだ。それが国家的な規模の憎悪になることもある。そういった憎悪は、しばしば紛争や対立を生み出す元凶となる。そして言うまでもないが、暴力もまた伝染する。

秩序だったデモの一角で暴力が発生すると、それが見る見るエスカレートしていくのは、それが紛れもなく「伝染」するものだからだ。(鈴木傾城)

「強い感情」が拡散していく

フランスは2018年11月17日から「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト運動)」という政府に対する抗議運動が始まった。「燃料税を引き下げろ」「自動車税を引き下げろ」「貧困層の生活水準を改善しろ」という要求が、マクロン政権の退陣要求へと広がっていったものだ。

このデモはしばしば破壊と暴動につながっているのだが、いったん暴動が起きるとその暴動はすぐに全国規模で広がっていく現象が知られている。

過激な言動がテレビやインターネットで克明に映し出されると、それがより過激行動を生む。暴力は伝染していったのである。

ベネズエラでも首都カラカスで激しいニコラス・マドゥロ打倒のデモが起こると、それは瞬時に地方都市に伝播して広がっていくのが知られている。暴力が吹き荒れると、それは「伝染」していくのである。

これは別に今に始まったことではない。

殺人も同じく、伝染していく。世界のどこかで一度でも耳目を集めるような巨大テロが起きると、世界各国でテロが「伝染」して暴走していく。

2014年から2018年までシリア・イラク一帯で猛威を振るった超過激イスラム暴力集団「ISIS」の指導者は、インターネットで斬首や爆破によって損壊した遺体の動画を上げ、「世界中でテロを起こせ!」と扇動していた。

どうなったのか。インターネットでリアルな暴力を見せつけられた人々に「暴力感情」が乗り移り、まるで伝染病のようにテロが世界に広がっていったのだ。

暴力は人種や国をやすやすと超越して放射状に影響力を放っていく。

爆破が起きると爆破事件も伝染して続いていく。自爆が起きるとそれも伝染して自爆事件が続く。戦争が起きると戦争まで伝染して広がっていく。

暴力は人間の感情を激しく興奮させる伝染的効果がある。その「強い感情」が拡散していく。激しい感情は分かりやすく、一方的で、強力なので、その伝染力もまた強力なのだ。

自殺もまた伝染するという事実

2018年2月16日。フロリダ州にあるマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で、退学処分を受けたニコラス・クルーズという19歳の男が、武装して高校に乗り込み、火災報知器を作動させ、生徒が避難を始めたところでAR-15ライフルを乱射するという事件を引き起こした。

この事件では、17人の生徒や教職員が死亡した。

ところで、最近になってこの銃撃事件で生き残った生徒たちが相次いで自殺を図っていることが報告されている。

生き残った生徒は親友が目の前で死んでいく姿を見て大きなショックから抜けられず、自らも引き寄せられるように死を選んでいったのだった。憎悪や暴力と同じく「死」もまた人から人へと伝染していく。

自殺とは何か。自殺とは「自分自身に対する暴力」である。暴力が他者に向かうか自分に向かうかという違いだけで、自分に向かった暴力が自殺となるのだ。

カリスマ的な有名人が自殺や死亡すると、それは強い感情を放射状にまわりに引き起こして、感受性の強い人を巻き込んでいく。日本でも、香港でも、アメリカでも、芸能人が自殺した後に、ファンが後追い自殺をしていく現象はよく知られている。

マイケル・ジャクソンが突然死したのち、世界各国で後追い自殺するファンが続出したこともあった。

全世界でそのような現象が起きており、自殺もまた伝染することが何度も何度も確認されている。

サダム・フセインが絞首刑にされたあと、その映像が出まわってアラブ圏の人々にはとりわけそれにインパクトを受けた。そこでどうなったのかというと、それからアラブ圏で首吊り自殺が次々と拡散していったのだった。

西側諸国にとってサダム・フセインは悪人だったかもしれないが、アラブ諸国の一部の人々にとって、サダム・フセインは神にも等しいカリスマだったのである。カリスマの死は、伝染病のように死を伝播させていた。

人間は感情の伝染病に無防備である

他人が死んだから自分も死ぬというのは、もちろん理性的なことではない。しかし、それは「強い感情」によって突き動かされているものであり、理性を超えたところにあるものだ。

だから「憎悪や暴力や死」の伝染というのは、いったんそれに取り憑かれると、理性ではコントロールできない。激しい感情が人々の熱狂を生み出し、理性を消し去り、終点に向けて突き動かしていく。

憎悪が伝染し、暴力が伝染し、死が伝染する。それは、もう「経験則」ではない。科学的に証明された現象でもある。

人間の感情が伝染する理由のひとつとして、科学の世界では「ミラーニューロン」という脳神経細胞が作用していることが突き止められている。ミラーニューロンとは何か。直訳すると「鏡の脳神経細胞」となる。

ミラーニューロンは1996年に確認されたものだ。他人が行動しているのを見ると、見ているだけで自分もまた脳の同じ部位が活動していく。

相手があくびをすると自分もあくびが出る。相手が泣いていると自分もまた涙が出てしまう。相手が興奮していると自分もまた興奮する。それは、あたかも自分が同じ行動をしているかのように感じさせる。

相手が何らかの感情を発火させることによって、ミラーニューロンは反応して同じ感情を呼び起こす。

ところで、それは何の役に立つのか。それは「他者の行動を即時に理解する」ことに対して役に立っている。ミラーニューロンがあることによって人は相手の感情や気持ちを推し測ることができる。人間が社会性を確立するために、ミラーニューロンは必要不可欠なものだったのだ。

しかし、それは「負の側面」もある。それが「憎悪が伝染し、暴力が伝染し、死が伝染する」というものだった。だから、人々は他人の感情に影響されて、憎悪がそこにあったら憎悪を感じ、暴力がそこにあったら暴力の感情に巻き込まれる。

にも関わらず、感情が伝染病のように伝播していくという事実はあまり意識されていない。自分が「感情の伝染病」にかかるということも意識されていない。意識されていない以上、人間は感情の伝染病に無防備である。(written by 鈴木傾城)

「憎悪や暴力や死」の伝染というのは、いったんそれに取り憑かれると、理性ではコントロールできない。激しい感情が人々の熱狂を生み出し、理性を消し去り、終点に向けて突き動かしていく。
https://blackasia.net/?p=12486
30:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:30:01

1960年代から1970年代前半の学生が全員 反米左翼・毛沢東崇拝になった理由 _ 2

パラノイア・統合失調症は伝染病として感染する
1960年代から1970年代前半の学生の反米左翼・毛沢東崇拝は憑依型の感応精神病


フォリ・ア・ドゥ folie à deux
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。

 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。

これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。

最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。

必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。

2人は同じ妄想を共有していたのだった。


 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。

 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。

あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。

そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


 悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いた


こっくりさん
http://homepage3.nifty.com/kazano/kokkuri.html


の例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき

「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」

などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。

これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師K に祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

 こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、

「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」

と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。

次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、

「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、

「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、

「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、

ものもいえず苦しげにもがいているもの


など憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が

「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」

と提案した。すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。

 これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


家庭内幻魔大戦


 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。

 Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。

「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、

「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、

「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば

「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。

 昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。

見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

 笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。

 きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。入院3日目より陽子は

「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」

と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」


などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」

と語り合っていた。


 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」


と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」

と逃げ出した。主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、

「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。


 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。

「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」

と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」

と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」

と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


 入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、

「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には

「先生! オールマイティになってください」

と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。しかし飛べずに興奮し始め、「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。

 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。

「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


という訳で、

大学は中世の人里離れて隔離された山奥の村落と同じで、すぐに憑依型の感応精神病が猛威をふるってしまうのです。
31:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:32:08

ロクでなしの左翼に大金を流して操るのは、闇組織や外国勢力の常套手段

ジョージ・フロイドの「圧殺死」は全米各地に木霊(こだま)し、彼の不幸な死を悼む黒人は後を絶たなかった。米国の根深い人種対立を知らない日本人だと、「たかが不逞黒人のフロイドが警官に抵抗して自業自得の発作を起こしただけなのに、どうして見ず知らずの他人があれほど騒ぐのか?」と訝しむ。
だが、人種問題で大統領選挙を操作したかった闇組織は、「全体主義反対」を掲げる極左グループの「アンティファ」を利用しようと考えた。

ロクでなしの左翼に大金を流して操るのは、闇組織や外国勢力の常套手段である。日本の60年安保闘争や70年代の新左翼運動には、ソ連工作員の資金が流れていたじゃないか。

もちろん、機動隊とぶつかっていた左翼学生は、酒を飲みながらインターナショナルを唄うくらいで、裏金については何も知らなかった。彼らは汚く伸ばした長髪とゲバ棒を片手に、「反戦平和」の闘士を気取ったり、「社会正義」の雄叫びを上げるだけ。東工大出身の菅直人や信州大出身の猪瀬直樹に訊いてみればいい。ちなみに、猪瀬は「白ヘル」で、同志社大の佐藤優(さとう・まさる)は「黒ヘル」だった。佐藤を「保守派言論人」と勘違いした新潮社や『諸君!』の元編集員は反省しろ。まぁ、KGBの工作員からすれば、「馬鹿と左翼は使いよう」という訳だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68850782.html



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【超重要】ジェームズ斉藤が語るトランプ後の「認知戦争」の真実! GAFAとロスチャイルド、そしてQアノンの正しい捉え方とは?
2021.02.23
https://tocana.jp/2021/02/post_200447_entry.html

【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】


──ジェームズさん、しばらくどこに行かれていたんですか! 全然捕まらなくて困っていました!

ジェームズ いやいや、すいません(笑)。米国の政権がああいう形で変わったので、いろいろなところを調整する必要が出てしまったんで、ずっと動いていました。

──やっぱり、かなり変わるんですよね。

ジェームズ 変わるところもあれば変わらないところもあります。変わらないところから言えば、国防総省はトランプ政権からバイデン政権になっても一貫性は維持されます。変わる部分は対ロ政策と対中東政策です。また、バイデン政権の特徴であるLGBT関連も調整しなければ、政権内の極左が騒ぐので、そこは変わらざるを得ないでしょう。ただし、宇宙軍、サイバー軍はトランプ政権の時から軍産複合体が稼ぐ場所だったので、バイデン政権でも維持されますし、トランプ政権と違ってバイデン政権は軍産複合体とは一体ですから加速するでしょう。さらに、現政権にはもともと国防意識の高い人間が入っているので、トランプ政権の道筋を本質的には変えないようです。

──対日政策や対中政策はどうなりそうですか?

ジェームズ 対日政策は基本的にトランプ政権の撤退路線を継続です。実は、トランプ政権の撤退路線は極左のオバマ政権が始めました。オバマ時代は「アジア回帰」を打ち出し、オバマ大統領自身が東京で演説を行うなど、日本も騒ぎましたが、実は「アジアのことはアジアに任せる」という、責任放棄の戦略でした。その典型が対北の「戦略的忍耐」という「非戦略的」な戦略でした。その結果、北朝鮮のICBM能力保有を許し、日本を含む地域諸国はパニクることになりましたが、米国は北朝鮮のショボいICBMなど簡単に撃ち落とすことができるので、痛いことも痒いこともありませんでした。しかし、日本等の近隣諸国はパニくり、安倍政権の安保改正や日豪印準同盟に繋がるのでした。ここで北朝鮮のことばかり注目されて、中国の台頭を許してしまいます。オバマ政権の戦略は日本にとって「百害あって一利なし」でしたが、なんとトランプ政権にも事実上継承されます。米中対立で米中がバトっているように見えましたが、結局は「濡れ仕事」は日本等に任せ、中国の台頭を更に許してしました。バイデン政権は対中戦略でオバマ時代の対北戦略であった、「戦略的忍耐」を適応しようとしています。これで米国の「撤退」が加速します。先月の日米首脳電話会談における尖閣諸島に対する日米安保条約の適応の確認など完全に目眩しで、本質は「日本人に血を流してもらう」ことがバイデンの目的です。

──やっぱり日本にとってバイデン政権はあまりいいことないようですね。

ジェームズ そうでしょうね。しかし、トランプが素晴らしかったかといえば、そうでもないので、バイデンだけが取り立てて悪いわけでもないです。問題は日本のあり方だとは思います。日本がいまのまま、自国を省みない政策を続けていることがなにより、「いいことない」と思います。いい機会なので、お話しておきますが、いま日本の国民は新しい戦争について理解しておかなければいけないでしょう。

──新しい戦争ですか?

ジェームズ そうです。この前の大統領選挙同様、いま世界中で新しい情報戦である認知戦争が始まっています。

──認知戦争? なんですか、それは?

ジェームズ 簡単に言ってしまえば情報戦であり、情報操作なのですが、敵国国民の認知を根底からひっくり返すものです。例えば、2016年の大統領選でトランプが勝利した時、「ロシアが介入した。フェイクニュースを流した」とアメリカの諜報機関は言ってるんですが、私から言わせるとアメリカの諜報機関はロシアの意図が全然わかっていません。ロシアがアメリカに仕掛けていたのは認知戦争であってフェイクを流して混乱させたとか、そんなレベルのものではありません。だからこそ、アメリカはロシアに完全に入り込まれてしまったんですから。

──超高度な情報戦みたいなものなんですね?

ジェームズ 人間の認知、つまり目の前の情報をどのように捉えるのか、その捉え方を変えるだけです。情報戦の場合は目の前の情報を変えます。しかし、認知戦は捉え方のほうを変えてしまうので、どのような情報が目の前に来ても正しい判断ができなくなってしまうんです。

──洗脳みたいなものですか?

ジェームズ 洗脳と言っていいでしょう。しかし、それはCIAが昔やったようなMKウルトラのような薬物を使ったり、拷問したりといったことではありません。ソーシャルメディアなどを使って標的の客観現実を操作することで可能となります。例えば、2016年の大統領選ではロシアはアメリカ国民全体を標的とするため、陰謀論やフェイクニュースを、ソーシャルメディアを主に使って撒き散らしました。この時、ロシアはトランプ支持者になりすましたり、民主党支持者になりすましたり、それこそ、いろんな勢力になりすまして情報を発信していったのです。それをされたアメリカ国民は客観的現実が完全に汚染されて、何が本当なのかわからなくなってしまったんです。実際、当時、「ポスト真実」という言葉が流行りましたが、まさに情報空間がカオスになったことの証明でしょう。


──情報空間がカオスになるとどうなるんですか?

ジェームズ 具体的にはどの候補者を信頼していいのかわからない状態になってしまうので、アメリカ国民は直感を信じるようになってしまったんです。直感といえば聞こえがいいかもしれませんが、要は論理的思考ができなくなってしまったんで、感情的に候補者を決めてしまったということです。


──それで選ばれたのがトランプだったと。


ジェームズ 結果的にはそうですね。ただし、ロシア側が仕掛けていたのはアメリカの分断です。アメリカ国民の脳を情動優位にして、物事の判断を白か、黒か、どちらかにしようとしたんです。それを2016年のアメリカ大統領選挙で仕掛けることによって近年のアメリカの分断が始まっているのです。もちろん、アメリカは南北戦争の時代から分断の歴史はありました。しかし、2016年からのそれは情報空間のレベルでの分断にまでなっています。


──情報空間というのは人間の思考という意味でいいんですか?

ジェームズ そうですね。2016年からロシアが仕掛けたのは情報空間の二極化を加速させたということです。ロシアの認知戦には「反射的コントロール(reflexive control)」というものがあって、簡単に言いますと、人間の認知を徹底的に分析し、相手の意思決定サイクルに入り込むものです。このサイクルはウーダループ(OODAループ)と呼ばれるものが代表的で、少し説明すると人間には「観察(Observe)、方向付け(Orient)、決心(Decide)、実行(Act)」の流れを繰り返すループがあって、客観現実=目で見たもので意思決定をするということがわかっています。逆に言えば、目の前にあるものを操作してしまうと人間の意思決定サイクルは狂っていくんです。ロシアはこのウーダループに介入して、自分たちが意図した方向に意思決定サイクルを狂わせたんです。


──それは情報操作と何が違うんですか?

ジェームズ 情報操作を深化させて洗脳の域にまで達しているということです。昔から行われている情報操作は敵国内のプロパガンダだったんですが、いまは世界がソーシャルメディアでつながっていますよね。つながっているということはいつでもあなたの目の前にロシア、中国が介入できるということになります。


──う〜ん、でも、そんな簡単に洗脳される気がしないんですけど。

ジェームズ と思いますよね。しかし、ソーシャルメディアを見ている時、ほとんどの人が一人ですよね。決して世界とはつながっていません。それはソーシャルメディアがそう言っているだけですし、ソーシャルメディアとつながることで現実的には世界は狭まっています。実際、トランプ支持者はトランプ支持者で集まるだけです。BMLはBMLで集まるだけです。そのコミュニティの中での人間関係は広まるかもしれませんが、本当の意味での多様性はどんどん収縮しています。認知戦争はそのコミュニティを操作するんです。また、そういうコミュニティを作って誘い込んだりもします。しかも、これはロシアだけでなく、アメリカも中国も仕掛けています。もちろん、日本の国家権力もやっていますが、いま一番の問題は国家権力よりもさらに上、超国家権力が最も巧妙に仕掛けているということです。


──超国家権力?

ジェームズ GoogleやFacebookなどGAFAと呼ばれる勢力がいま代表的ですけれども、彼らがメインプレイヤーかというとそうではありません。その後ろにいる金融家たちです。具体的にはジョージ・ソロスやロックフェラー家、ロスチャイルド家といった連中です。彼らが仕掛けています。私の以前の記事で何度も紹介している、「ディープステート」もその一つの勢力です。


──確かにそんな感じは凄くしますが、彼らの目的は何なんですか? 世界を牛耳りたいんですか?

ジェームズ 彼らが考える理想の世界を作りたいんです。
──世界政府?

ジェームズ もそうでしょうけど、もっと実は単純で金儲けです。金儲けで最もいいのは世界がカオスになることです。カオスになれば、株価などが大きく変動します。これをボラティリティというのですが、資本主義はボラティリティが生まれないと儲からないのです。ですから、彼ら超国家権力はカオスさえ生み出せればいいんです。

画像は「Getty Images」より引用
──それが分断であり、パンデミックでありだと。

ジェームズ その通りです。ロシアやアメリカ、中国などの国家が仕掛ける認知戦争はまだ自国のためという大義名分があります。しかし、超国家権力はボラティリティのためだけにカオスを生み出していますから、混乱さえ起こせばいいわけです。よって、彼らが仕掛ける認知戦争はグロテスクなのです。具体的には人々の煩悩を刺激します。金とセックスを刺激されると人間は容易く堕落します。それはバイデン親子を見ればわかるでしょう。

 また、米国の極左が支配したGHQによる日本占領政策である3S政策(Screen, Sports, Sex)も、日本人「一億総白痴化」のために遂行されたもので、その結果、日本はいまや世界ナンバーワンのAV国家になってしまいました。あれは、エンターテイメントを通じた愚民化政策で、ユダヤが長年非ユダヤ(ゴイ)に対して行ってきた統治論理なのです。それがいまは世界中で行われていて、それを拡散しているのがFacebookのザッカーバーグユダヤ系が牛耳るスマホ(Smart phone)とソーシャルメディア(Social media)で、これは先の3S政策と合わせて5S政策と呼ぶほうが妥当かもしれません。これら5S政策によって全人類が「スマホ脳」に犯されていき、次はバイオテックの進化でマイクロチップを人体に埋め込まれて神経中枢を完全にコントロールする段階へと移行するでしょう。しかも、このディストピアはコロナ・パンデミックによって、かなり現実味が増しています。

──確かにそうですね。

ジェームズ 実際、いまのアメリカ大統領を見てください。金とセックスしかありません。副大統領時代から中共の傀儡になって年間10億もの金をもらい、息子のハンターも中国企業やウクライナー企業の株をいまだに手放しません。しかも、二人とも性行動が異常で、スマホで赤裸々な記録まできちんと残していましたよ(苦笑)。

──まさに、あの親子こそ「スマホ脳」に犯されていたと。

ジェームズ ですから、バイデン政権のLGBT政策は完全な認知戦争だと私はいうわけです。それによってアメリカ社会はさらに細かな分断が発生します。なにしろ、彼らはいまゲイの中でも細分化をはかっていますし、ペドも性行動のひとつだと主張する可能性まであります。(※あくまでもLGBT“政策”についての指摘です)


──最悪ですね。

ジェームズ 本当にそうです。なにしろ、ボラティリティが生み出されればいいのですから。そして、これはすでに日本にも来ています。アンティファ、BLMの日本支部ができていることはすでにご存知でしょうが、私が心配しているのはQアノンです。日本でもQアノンのデモがありましたが、あれはかなりヤバいものなのです。


──えっ、Qアノンはトランプ派だからいいんじゃないんですか?

ジェームズ いえ、その考え方がすでに認知を操作されています。だから、認知戦争は怖いのです。次回はこの話を中心に、認知戦争の恐ろしさをお伝えしたいと思います。


──えっ、いやいや、ちょっと待ってください! いきなり終わらないください! Qアノンはダメなんですか!?

ジェームズ はい。かなりヤバい組織であることが最近判明しました。というのも私、Qアノンの内部に少し入ってきたんです。ただし、いまもう時間がないので次回詳しくお話します!


──えーッ!! 一番気になるところで!

ジェームズ ごめんなさい、また連絡します!

文=ジェームズ斉藤


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トランプ好きでもQアノンを信じるな! ジェームズ斉藤が解説する「ディープステートの思惑とCIAの裏工作」
2021.02.24
https://tocana.jp/2021/02/post_200441_entry.html

【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】
──前回は、Qアノンは問題だと言ったところでタイムアップになりました! 一体、何が問題なんですか!? 彼らはトランプ派だったじゃないですか!? また裏切りとかがあったんですか!!

ジェームズ まあまあ落ち着いてください(笑)。何がQアノンの問題なのか? これを説明するにはまず、1月6日、議会に突入したあのデモの再検証からしたいと思います。そもそもあのデモは平和的なものだったんですよ。私も参加していましたからわかりますが、主要メディアが伝えるようなトランプ大統領が暴力を訴えたなんてことはありませんでした。また、議会に行進するまでの間も極めて穏やかなものでした。ところが、デモ隊の先頭が議会に着いた途端に例の議会突入騒動が始まってしまったんですよ。

──誰かが煽ったんですよね?

ジェームズ そうです。問題は誰が煽ったのかで、4つのグループに分けることができます。1つは極左、2つ目は極右、3つ目はエスタブリッシュメントのエージェント、そして最後は、煽られたトランプ支持者です。極左というのはアンティファやBLMですね。これらは金融家などの超国家勢力にコントロールされた反対勢力です。トカナではいま新CIA左派と呼んでいますが、ジョージ・ソロスとか左派の富豪の支援を受けています。実は私のところにも一時期アンティファに入らないかというリクルートがきました。

──えっ、そうだったんですか!? 

ジェームズ はい。その時は週給2000ドルのオファーでした。なにをするのかというと鉄パイプや金属バットを持って道に停まっている車や店の窓ガラスを破壊するんです。それで一ヶ月8000ドル。1ドル100円で換算する80万円ですよ。ですから、超国家勢力のソロスたちはそのぐらい金をばら撒まいています。そうやってアンティファたちが活発に暴れまわり、現実がカオスになると、ボラティリティ(株価の値動きの幅)が高まるんです。それでソロスたちは儲けているんです。

──その超国家勢力に操られている極左たちが、あのデモ隊の中にいたんですよね?

ジェームズ はい。彼らが最初に議会に突入しました。それがきっかけであんな騒動になったのですが、ここで考えなければいけないのは、そもそも彼らはどこの段階で極左になったのか?なんです。

──どこなんですか?

ジェームズ 実はアメリカの高校とか大学には極左の学生サークルがいっぱいあるんですよ。もちろん、それは極左と名乗ってはいません。平和や反差別といったことを前面に押し出して人々を勧誘します。しかし、その中身はドラッグに耽る素行の悪い連中で、そんな輩を洗脳するなど簡単です。こういったサークルに何年もいると、次第に快楽に耽ることばかりを考える、自分でモノを考えないゾンビのような人間になっていきます。生活のすべてをデモのために尽くすとか、そういうふうになってしまうんですよ。そういう人たちを私は何度も見てきました。普通の生活が彼らはできないんです。ですから、極左はゾンビなんですよ。デモの時も「ペンスを殺せ」と叫んだりしていたのはほとんどが極左でした。

──つまり、アンティファやBLMは何年も前から時間をかけて洗脳されてきた人たちなんですね。

ジェームズ そうです。たぶん、15年ぐらい前からの東側の工作が進んでいます。彼らは徹底的に煩悩を刺激されてゾンビ化した輩で、堕落しきった人間です。なにしろ、デモを画策したり、街の破壊をするだけで金が貰える生活をずっとしてきたのですから。沖縄なんかで活動している極左も大抵この類です。彼らは実働部隊として動かしやすい人間たちなんです。一方、極右も実働部隊になります。典型的なのがミリシャで、武装した市民、愛国者ですね。彼らも議会に突っ込んでいきましたが、彼らの場合はゾンビではありません。自国民が自国を大切にするのは当たり前ですから。ただし、彼らは、思想が極端なので、議会に突っ込んでいくんですよ。なので犯罪者なんですが、認知戦争的にはあまり問題ではありません。

──愛国的犯罪はOKと(笑)。

ジェームズ この場合はですが(笑)。そして、3番目がエスタブリッシュメントのエージェント。これは認知戦争を仕掛ける側です。彼らもゾンビではありません。明確なミッションをもって、トランプ支持者になりすまして、デモ隊を議会に誘導して突っ込ませるんですよ。事実、警察やFBIのアンダーカバーなどがデモ隊にまぎれてたくさんいました。知り合いなので、すぐにわかりました。


──この3つがデモを破壊活動に変えてしまったんですね。ということは、4つ目の煽られたトランプ支持者はいわば犠牲者ですよね。

ジェームズ まあ、犠牲者といえば犠牲者かもしれませんが、私は一番の問題だったのが彼らだと思っています。煽られたトランプ支持者つまりQアノンたちこそが今回の認知戦によってゾンビ化されてしまったんです。例えば、角がついた兜を被って議会に突っ込んで有名になったQシャーマンなんかは認知戦で思考がメチャクチャになってゾンビ化してしまったんですよ。それで議会に突っ込んでいったんです。

──えっ!? でも、彼らはアンティファやBLMに煽られて議会まで入っていってしまったわけですよね。うかつだったとはいえ、それが一番の問題とは思えないんですが。

ジェームズ いえ、彼らこそ、典型的なコントロールされた反対勢力なんです。Qアノン支持者っていま世界中にいますよね、アメリカだけでなく、日本にも。彼らは陰謀論を主体にしたQアノンの匿名掲示板Qポストにアクセスすることでのめり込んでいくんですが、いまはトランプの再選を待つということになっています。

──おとなしく待っていますよ。

ジェームズ いえ、その思考はそもそもイスラム国やアルカイダがイスラム教徒に仕掛けるような認知戦争と同じ構図です。救世主の到来を待ち、到来とともに再び過激な活動を始めてしまうでしょう。つまり、Qアノン・ムーブメントは過激主義者を養成しているんです。人間の思考を揺さぶってゾンビ化し、特定の勢力のコントロール下に置くんですね。

──う〜ん、それはそうかもしれませんが、Qアノンってマイケル・フリン中将がトップだとか、バックだとか言われていたじゃないですか。それはどうなんですか?

ジェームズ Qアノンをコントロールしているのは軍事インテリジェンスだとずっと言われてきました。しかし、今回、私はQアノン・ムーブメントに少し入って調査してきていろいろわかったんですよ。

──あっ、そうです! それが聞きたかったんですよ、実際、どうだったんですか!

ジェームズ そこで明らかになったのはディープステート側のオペレーションの可能性が十分にあるということです。Qアノンの最大の問題点は匿名性にあり、ディープステートが簡単に乗っ取ることができます。軍事インテリジェンスや特殊部隊OBの有志がQアノンにある程度関わったことは事実のようですが、実際の運用は終末論を基礎としたカルト組織でCIA左派に乗っ取られていたんです。

──そうだったんですか!

ジェームズ 実際、カルト組織の結成や運営はCIAの裏工作での十八番で、ヒッピー運動や朝鮮系カルト宗教の統一教会もCIAが作り出したものです。中でも特筆すべきが、CIA左派は2011年にソーシャルメディアを利用して中東に認知戦争を仕掛け、「アラブの春」を起こしました。Qアノンの運営手法を見てみると、完全にアラブの春の焼き直しです。

 アラブの春はCIA左派とGAFAが結託して実現しました。QアノンもGAFAが「看過」していたからこそ人気が出たわけですよ。インテリジェンス的には、この「看過」するという行為は、ただ気づいていないだけでなく、「防諜(カウンターインテリジェンス)的な意味を持ちます。つまり、「泳がせていた」ということです。

 あの1月6日の議会突入デモを境に、Qアノン弾圧が始まりましたが、これが完全な自作自演であった証拠です。つまり、Qアノンが用済みとなり、ディープステートに「ポイ捨て」されたということです。そして、Qアノン弾圧は「防諜(カウンターインテリジェンス)」から「対テロ(カウンターテロリズム)」に焦点が変わったことを意味し、テロを口実に憲法上の権利を停止できることになります。もちろん、バイデン政権にQアノンの主謀者と見做されている、トランプ大統領を「国内テロリスト」と断罪し、2024年の大統領選出馬阻止のため、公民権剥奪を狙ったものです。ですから、Qアノンは完全なフェイクだったんです。

 断言しますが、Qアノン・ムーブメントは本当に気をつけないといけません。日本の人々もトランプが好きだからと言って軽はずみにQアノン・ムーブメントには乗っからないでください。これは完全な超国家勢力による認知戦争ですから、その犠牲者にはなってほしくないんです。

 そもそもデモというのは自発的なものなどひとつもありません。なんらかの勢力、特に超国家勢力が裏で動かしている場合が多いんです。ですから、日本でもデモに参加する時は凄く気をつけないといけません。といっても、日本のQアノンのデモは前述の統一教会や同じく朝鮮系のカルト宗教の幸福の科学がバックに存在し、普通の日本人なら関わらないと思いますが(笑)。いずれにせよ、簡単にその場の雰囲気に煽られてとんでもない行動をしてしまうことがあるんです。実際アメリカではその場で煽られて議会に突っ込んでいった素朴なトランプ支持者たちが出現したわけですから。彼らは本気で、その行動が正しいと思ってしまったんです。しかし、議会に突入して無事に済むわけがありません。通常であれば、そのぐらいの判断は誰でもつきます。しかし、あの熱狂が正常の判断をなくさせるんです。

 トランプ好きだからといってQアノンを信じてしまうとこれもゾンビ化なんです。日本でQアノンのデモが行われているということは日本人もすでにゾンビ化している人がいっぱいいるということです。なので、皆さんは認知戦争が毎日毎秒行われていることを常に認識し、慎重に動いてください。

文=ジェームズ斉藤
32:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:33:54

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/
33:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:34:52

重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html



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ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280


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重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html

 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命-よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五-五十六年(一九八〇-一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/97.html


なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長燁から直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html


オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html
34:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:35:50

要するに彼等は、世界支配中枢の手先なんです。
つまり、さまざまな謀略を仕掛ける上で「閉鎖的で・従順な」集団というものが必要なんです。それにはどうしてもカルトが一番適している、というところを世界支配中枢はわかったから、それぞれの国でそういったカルト的な組織を育成して、巨大化させて、権力を持たせてきたわけです。

それを日本においては戦後GHQそしてCIAが主導権を握って、創価学会と統一教会という2つの宗教に主としてその役割を担わせてきたと、考えていますが、ただし、その二つの宗教だけではありません。そういったCIAの息のかかった宗教というのは、例えば真光系のいくつかの教団にしてもそうだし、幸福の科学とか、そういったものもそうだと思います。

まあ、ある意味、それぞれの教団に対して統一教会が人間を送り込んで内側から支配構造を作っていく。いつのまにか支配中枢に座っている、ということで大元は実は統一教会であるという場合が多いと思います。つまり創価学会も実は統一教会の連中が入りこんで中から動かしている。

その結果として何が起きたかというと、オウム事件において統一教会だけではなく創価学会も暗躍したというのはそういう意味だったと思います。

つまり中核でおかしなことをやってる連中はみな同じ連中なんです。つまり、統一の服を着てその上に創価学会の着ぐるみを着て、さらにその上にオウム真理教の気ぐるみを着た三重なんです。十二単みたいな連中なんですね。そういう事なんです。

で、オウム信者というふうに新聞に出るけども、皮むくと創価、もう一回むくと統一教会。これが謀略に謀略を重ねた結果なんですね。

ということで、この連中は宗教というもの、閉鎖的で外に情報が洩れなく、そして非課税特権で守られているから、おかしな金の流れというものに手を染めても司直が手を出せない。というメリットを利用してるわけです。

つまり宗教は非課税特権だからこそおかしなことに手を出せる。犯罪・謀略、全て非課税特権があるからこそ出来るんです。したがって創価学会あたりに対して民主党の議員さんあたりが「宗教の非課税特権を撤廃するべきである。」ということを一言でも言ったら、公明党創価学会大騒ぎして叩きのめそうとする。

つまり彼等にとって一番のウィークポイントがここなんです。つまりこの非課税特権がなければ、宗教はいかなる謀略も出来ないんです。そして、金を集めてその金をどうしようがわからないからこそ、おかしな犯罪に金を投入することが出来るんです。麻薬にしろ保険金殺人にしろ、非課税特権があるから出来るんです。

その結果として、戦後六十数年たって、わが国は完全にこのカルト集団によって略奪されてきています。

あの~ここに、今朝見つけたんだけど「くたばれ創価学会、お国の為に」あのこれは僕が書いたわけじゃないけれど、実に達筆だよね。というかこういうソフトがあるんだろうけれども本当にそうだ。わが国のためにはこんなのいらないよ。 

そりゃね、信者さんの大半はね、変な人じゃないの。信心してるの。でもね、ここをね、大きく2つに分けて考えなきゃいけない。

創価学会は日蓮正宗の信徒団体であって、そもそも最初は日蓮の教えを勉強したい人達がいたわけ。ところが今は、そういう人達とは別に池田教になっちゃっているわけ。池田大作という在日朝鮮人の2世が神様になっちゃってる。

つまり1つの宗教の中に2つの要素が入り込んじゃってる。これが間違いなんだ。
だいたいが教祖を神格化するというのはこれCIAの手口なんだよね。

そもそも本来は仏教団体なんだから、仏教団体として活動してくれる分には全然問題ないわけですよ。どうぞお好きになさいと。仏法、立派なもんです。ゴータマ・シッダルダ以来、人間に生きる道を教えてくれる。素晴らしいものです。

ところがそれと池田教とは全然違うもんなんだよね。で、そこのところに気がついて止めた人も一杯いる。気がついたってことは、あの~まだ頭がちゃんと働いているっていうことだと思う。

さて、このこういう映像・画像見てもらえればだいたい分かると思う。どんなに偉そうなこと言ったって、北朝鮮の親分と手を握り合ってる親父、こんなの信用できるわけ無いじゃないよ。

この親父が、自民党の議員さんに自分のところの信者を沢山送り込んでいるんだよ何百人も、文鮮明が。北朝鮮のボスと手を握った男が自民党のボスなんですよ。こんなことが許せるんですか?

統一教会の信者さん、ここ説明してください。これをどう解釈したらいいんですか?わが国の敵じゃないんですか、北朝鮮は?わが国の人間をどんどん勝手に拉致して行方不明にしてさせて、変なミサイルを飛ばすとか飛ばさない
とか・・

今日はどうやらぶっ壊れたから飛ばないみたいだけども(笑声)そりゃまあそうでしょう。ま、その程度のレベルだと思うから。

そしてこの人、いい顔してるね(文鮮明の写真を指す)こんな人がメシアの再臨のわけないでしょう、顔見れば分かるでしょうが。これがメシアの再臨?そう信じているとしたらあなた頭がおかしいよ!この人、北朝鮮やオウムや麻薬に関わっている犯罪者ですよ。

それからまだ分からないで、いつまでたってもぐずぐず統一教会に引っ張られて搾取され拘束されている人達、可愛そうですね。早く気がついてください。
                  
それからこの三色のうちわ、韓国に行くとおみやげやさんで売ってます。で、あのWBCの野球の大会で日本と韓国が対戦する時は、チアガールの綺麗な女の子がこのうちわを持って「コリアン頑張れ」ってやります。韓国のスリーカラー、韓三色です。

この同じ色が見たかったらそのへんに一杯あります。創価学会の旗です。
創価学会の旗になぜこの色を使ったのか?つまり、池田大作さんは、自分の創価学会の信者の中のごく一握りの、コリアンを源泉に持つ人達にメッセージを与えているんです。

「創価学会はコリアンの為の宗教だよ」ということを伝えるためにわざわざこの色で3色旗を作った、というふうに私は解釈しています。

もう1つ、聖教新聞を読むと、池田大作さんの回顧録として子供の頃お父さんから

「日本人は戦争の時、韓国をいじめた。それに対して反省しなければならない」

ということを先生書いてる。そりゃ結構ですよ。で、同じ聖教新聞には「韓日友好」とか平気で書いてるわけ。日本国の宗教で、日本人のための新聞で、何で「韓日友好」なんですか?

これも同じこと。創価学会の中のコリアンのメンバーに対してメッセージを伝えてるんです。聖教新聞は「創価学会はコリアンの為の宗教なんだよ」ということを暗に伝えている。
http://blog.goo.ne.jp/candy-cats7/e/307813e14d625928891ad4b7150528ba
35:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:36:41

日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は
イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm
36:777 :

2022/05/25 (Wed) 10:38:57

2017年01月17日 世界を支配しているCIA3派とは・・・・
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html

ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。

ヘンリー・キッシンジャー、サイラス・バンス、ジェームズ・ベイカーが国務長官だったときに副次官補を務めたスティーブ・パチェニクはWikiLeaksについて、クーデターを阻止しようとしている情報機関内のグループが作り上げたのではないかと推測している。

___


非常に長い記事ですので一部をざっくりと訳してみました。全てをお伝えできず残念ですが、残りの部分はサイト内の本文をご覧ください。

この記事はCIAについて非常に詳細に説明してくれています。そして世界を実際に支配しているのはCIAの3派閥だとも言っています。これらの3派閥で内紛が勃発しているそうです。またCIA 対 NSAの闘争も起きているそうです。彼らの戦いが激化して共倒れすることを願うばかりです。

日本の政治家もCIAに暗殺されていますが、トランプ氏もケネディ大統領と同様に彼らに暗殺される危険性があります。CIAとは関係がなくスキャンダルも少ないトランプ氏はCIAと主要メディアと戦っていることがよくわかります。主要メディア(日本のマスコミも含め)は、大統領就任式間近の今、反トランプの情報操作を激化しています。マスコミはトランプ氏の暴言について嘲笑しながら伝えていますが、トランプ氏の暴言の内容は非常にまともで本当のことを言っています。これほど本当のことをストレートにいう政治家はいままでいなかったでしょう。
激しくののしっているように聞こえますが、トランプ氏はオルターナティブ・メディアが伝える内容をそのまま言葉にしているだけです。想像以上にアメリカの闇を知り尽くしているのでしょうね。


http://themillenniumreport.com/2017/01/exposed-cia-the-swamp-monsters/

(一部のみ)

1月14日付け


EXPOSED: CIA –The Swamp Monsters


世界を支配しているCIAの3派


By the Anonymous Patriots

The Millennium Report Exclusive


(非常に長い記事ですので、一部しかお伝えできません。ご了承ください。残りの部分はサイト内の記事をご覧ください。)

CIAの国内におけるスパイ活動は全ての米国民を標的にしている。いつ米国民がCIAに狙われ銃で撃たれてもおかしくない状況にある。

大統領選での様々なハッキング騒動は大統領選を無効にするためにCIAが行った偽旗であり、これには国を混乱に陥れているCIAの派閥争いも絡んでいる。
現在、CIAの派閥闘争及びCIAとCIAほど重要でない他の諜報機関(FBI、NSA、国土安全保障省、NIA国家情報機関、その他)の闘争が進行中である。
このような諜報機関同士のスキャンダル合戦は今に始まったものではないが。
米政府の代弁者でしかない主要メディアでさえ、米諜報機関同士の争いが起きていることを報道している。


CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。
大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。
大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。

現在、オバマ大統領は、米議会、最高裁判所、米国民の承認を得ずに国際戦争を行っている。オバマ大統領は、NDAA(直訳:国防権限法)を修正し大統領の権限を増大させたため、米議会の承認なしに国内外で様々な戦争を行うことができるようになった。オバマはこの8年間で数々の違法な大統領令を確立させ、大統領の権限をかつてないほどに増大させた。


オバマが確立させた大統領令の下で国の安全を理由に大統領はアメリカの全資産を強奪できるようになった。

更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。


CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。
CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する


組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。


DNI国家情報長官のジェームズ・クラッパー氏(James Clapper)はCIAが提出した偽の調査書類に同意したことで、政府諜報機関の無能さが露呈した。


1981年にレーガ大統領が大統領令によりDNI国家情報長官を創設した主な理由は、米軍の高級将官が運営していたNSAをなくすためだった。DNIの職務はCIAの監視役として定義され、全諜報機関のトップに立った。しかし彼はCIAを支配することはできない。


国内外の情報活動に携わっている政府機関は世界各地に1271機関あり、政府から委託された民間会社は1931社存在する。つまり、85万4千人以上の職員が機密情報を取り扱っている。
諜報部員は85万4千人以上存在する。


クラッパーDNI国家情報長官は米議会で真実を話すことを宣言したにも関わらず、NSAは米国民の個人情報を収集していないと嘘をついた。
クラッパー氏はDNIに任命される前に、英軍に機密情報を提供している会社(Detica)の業務最高責任者を務めていた。同時に他の民間諜報機関(SRAとBoozAllen Hamilton)にも勤務していた。


クラッパー氏は諜報活動のための約75億ドルの年間国家予算を管理している。また彼はイギリスの元民間スパイである。それでも彼はトランプ氏に関する主要メディアのねつ造報道を見抜けなかったのである。
つまりこの男はプロの諜報部員を従えて年間75億ドルの予算を管理してるのにもかかわらず、CIAがトランプ氏を中傷するために偽の情報を流していることにさえ気づいていないのだ。
一方、我々市民は独立メディアの情報によりその真実を知っている。

法治国家であるならば、CIAによる次期大統領に関するねつ造報道は違法行為と見なされるがアメリカは法治国家ではない。


クラッパー氏は、現在、17の諜報機関(CIA、NSA、国土安全保障省、FBI、国務省、財務省、国防情報局、空軍情報局、陸軍情報局、米海兵隊情報局、沿岸警備情報局、エネルギー省、国家偵察局、麻薬取締局、国家地理空間情報局)のトップに君臨している。同時に彼は今でも3つの政府請負会社(Detica、BAE Systems、SRAインターナショナル、Booz Allen Hamilton)の取締役である。
クラッパー氏はアメリカの全ての情報機関を支配しているが、同時にアメリカの敵でもある。

彼は外国の諜報機関に所属してアメリカをスパイしていたこともある。
彼はアメリカの国家諜報機関のトップに上りつめ、全権力とカネを手に入れた。


オバマがクラッパー氏を国家諜報機関のトップに任命してから、アメリカではねつ造報道のオンパレードとなり、多国籍グローバリストの利益のために売国されるようになった。
CIAは国外の違法なハッカーを雇ってサイバー攻撃を行わせている。ヒラリーと民主党全国大会は彼らのサーバーがハッキングされた後にその調査を国外の民間会社に依頼した。しかしロシアが彼らのサーバーをハッキングした証拠は一切見つかっていない。

ほんの数人に権力が集中すると、必ず誤った方向へ進んでしまう。クラッパー氏は正確な情報を提供することに興味はない。彼はナチスの情報局と同様に単なるプロパガンダ・マシーンなのだ。
クラッパー氏は17の諜報機関を使って、彼らが流す情報は全て正しいと証拠もなしに我々に信じさせようとしている。


オバマの大統領令により、NSAは米国民と世界人類を監視することが可能となった。NSAが盗みとった個人データは全諜報機関が共有している。


スイス、ジュネーブのCIA海外本部はスイスの金融スキャンダルやCIAの犯罪活動に関わっている。


CIAのCiscoルーターやサーバーはNSAによってスパイされCIAの犯罪活動がNSAに知られてしまった。その結果、CIAと共謀したスイスの金融エリートらが逮捕された。NSAは今後もCIAに対するスパイを行っていく。

CIAのスイス本部は極秘施設であり、そこのサーバーがハッキングされたことでCIAは激怒した。
NSAに対するCIAの反撃として、CIA請負エージェントのエドワード・スノーデンを使って、NSAが米国民の個人情報を盗んでいることを示す大量のデータをリークさせた。


CIAは、CIAの3派閥を暴露したNSAがこれ以上CIAをスパイできないように対策を講じている。
クラッパー氏は米議会に呼ばれる度にNSAはスパイ活動を行っていないと嘘の証言をした。

CIAとNSAの闘争の中で、CIAはCisco SystemsやDARPAなどの活動情報をNSAに盗まれないようにした。

現在、CIA、NSAそして他の諜報機関の情報操作、情報収集合戦が進行中である。
しかしCIAは国際安全保障を担っているため国家安全保障を担当するNSAよりも優位に立っている。

CIAは国際的な紛争や事件に必ず関与している。通貨戦争、市場戦争、金融戦争、サイバー戦争、麻薬戦争そしてテロは常にCIAの関心事である。


オバマのNDAAは軍隊がテロリストと見なされた米国民を攻撃することを可能にした。愛国法により、CIAは米国民、企業、機関がテロリストでないことを証明できるまでテロリストと見なすことが可能となった。

CIAは3つの派閥に分類されており、世界中のスパイ活動を通して大きな利益を得ている。
アメリカはCIAに支配されており、ワシントンDCはCIAの泥沼の怪獣に包囲されている。
CIAは国内外で偽旗事件や非人道的犯罪を繰り返している。CIAによる殺人行為で無数の人々が犠牲になり、3兆ドルものアメリカの納税者の血税が無駄に使われた。CIAは国際戦争を勃発させるための偽旗事件を仕掛ける。またCIAはメディアを支配しサブリミナル・メッセージを流すことにより人々を洗脳している。


CIAは、元祖CIA(金に裏付けられたCIA=GB-CIA)、ブッシュCIA、Ex-CIAの3派閥に分かれている。それらの3派閥がアメリカや世界を支配してきた。


GB-CIA:Gold backed CIA

元祖CIA(OSS)は第二次世界大戦中に世界の国々から金(Gold)を盗んだ。ドイツや日本が他の国々から奪い取った金もCIAが奪った。しかしCIAは盗んだ金を返還するつもりはない。CIAが盗んだ金はアメリカには保管されておらず、フィリピンとスイスに保管されている。

GB-CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。

GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。
GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。


GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。
ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。


また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。
彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。


Bush CIA (ブッシュ、クリントン、オバマ犯罪ファミリーとも呼ばれる):


パパブッシュが副大統領時代にブッシュCIAが正式に創設された。アメリカの16の諜報機関は国家情報長官によって支配されている。パパブッシュはCIA長官も務めたことがある。レーガン政権を支配していたのはパパブッシュである。彼はレーガンによってアメリカの外交政策の責任者に任命された。当時、パパブッシュはCIAの戦術を使ってソ連を崩壊させた。


パパブッシュ政権時代にジョージ・ソロスとレオ・ワンタが米財務省の偽の米国債を使ってロシア通貨を攻撃し不安定化した。

パパブッシュの兄(弟)は、Riggs Bankを経営しており、その傘下にVelment Bankを創設し、ロシアから奪ったお金とゴールドをロンダリングしている。一部のお金はミット・ロムニーの会社、Bain Capitalを介してロンダリングされた。
ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。
パパブッシュはブッシュCIAのごろつき集団にホワイトハウス、司法省、国務省を取り込み、勢力を拡大した。その結果、CIAの犯罪は全て連邦判事や国務省の高官によって見逃された。


ブッシュ家はクリントン家とビル・クリントンがアーカンソー州知事になる前から親しい関係にあり、オバマの母親は元CIAエージェントである。そのためオバマは生まれた時からCIAと深い結びつきがあった。オバマは完全にCIAの創造物である。
オバマが抱える問題は、CIAの3派閥ともつながりがあることであり、どの派閥に属してよいのかわからない。彼のめちゃくちゃな政策は、GB-CIAとブッシュCIAの両派閥を満足させようとしたからに他ならない。


ピザゲートで悪名高いジョン・ポデスタ氏と彼の兄(弟)はワシントンで最も有力なロビーストであり、レーガン政権時代から米政府の小児性愛組織を牛耳ってきた。
パパブッシュはレーガン政権の事実上の権力者だったが、当時からホワイトハウスでは小児性愛犯罪が日常的に行われていた。
ホワイトハウスがこのような性犯罪を堂々と行っていたことで連邦議員らの倫理が完全に崩壊した。


パパブッシュはケネディを暗殺したCIAを当時から支配し続けており、やりたい放題のことをやってきた。誰もそれを止めることはできなかった。パパブッシュはレーガン大統領の暗殺も企てたが失敗した。

ホワイトハウスも司法省も国務省もCIAの犯罪行為に慣れてしまい、CIAや政治家の犯罪をひたすら隠蔽してきた。


ケネディが暗殺されたとき、パパブッシュはCIAエージェントだった。
当時GB-CIAは世界の地政学的領域で独占するようになり、政治リーダーの暗殺を行うことで政権を変えることが可能になったとパパブッシュは認識した。
当時、パパブッシュは外交政策の責任者としてCFR(元CIA、政府の諜報部員及び企業の諜報部員で構成されている)の命令に従って政策を実行していた。また、パパブッシュは自分が任命した政治家全員の脅迫状リストを作成し彼らに命令に従うことを約束させた。


パパブッシュはサウジ王族と非常に親しい関係を築いた。そして彼の人生の多くをサウジの宮殿で過ごすことになった。パパブッシュは世界最大の武器商人、麻薬王、マフィア、王族、金融詐欺集団と協力関係にあった。彼はどこの国を訪れてもセキュリティに引っかかることなく自由に入国を許され、彼のビジネス(犯罪活動)を世界中で展開することができた。

最終的にGB-CIAはブッシュCIAの活動に気が付き、両者間の緊張が高まった。


パパブッシュは、配下のジョージ・ソロスとレオ・ワンタがロシア通貨を崩壊させ巨額の富を得た時、ロシアから大量の
金(ゴールド)を盗んだ。
そしてその2年間でパパブッシュは絶大な権力と富を獲得し、ブッシュCIAとGB-CIAのいがみ合いが悪化した。GB-CIAはブッシュの協力を得て政府とのつながりを持ちたかった。彼らはクリントン大統領が単にパパブッシュの命令で動いていることを知っていた。


Ex-CIA:


既にGB-CIA対ブッシュCIAの対立が激化している中で、Ex-CIAがそれに参戦している。
政治家を脅迫して政権を変えることが好きなGB-CIAと非常に欲深く際限のない権力闘争に明け暮れるブッシュCIAの対立を逆手に取りEx-CIAはこれらの2派閥の戦術と利権を盗もうと考えた。多くのEx-CIAは、政府を去り、利益の多い民間の諜報機関に籍を置いている。民間諜報機関はアメリカの諜報活動の65%を行っている。

Ex-CIAは、政府、銀行、企業の最高の地位にいた元CIAエージェントたちである。また、Ex-CIAは、GB-CIA及びブッシュCIAで働いていたエージェントらによる無秩序スパイ集団として創設された。


Ex-CIAのメンバーは政府や大企業で最高の地位を獲得している。
弁護士のジミー・コメィ氏は、FBI長官になる前に、ニューヨーク南部の連邦検事、検事副総長、米最大の軍事契約企業、ロックヒードマーチン社の上席副社長、CIA関連企業の相談役、CIA銀行のHSBC及びGB-CIAの金を保管しているHSBCホールディングズの理事を務めていた。
CIAの高級エージェントはこのよう昇進の梯子を上っていく。


コメィ長官はFBIを去ったあとに別の場所で高い地位を得ることで、 彼が犯罪によって獲得した巨額の富は守られることになる。コメィ長官はCIAの3派閥の命令に従って動いていた。


ジョン・ブレナンCIA長官は、長官になる前に国土安全保障省の副補佐官、サウジアラビアのステーションチーフ、国家反テロセンターの所長、諜報ネットワークのAnalysis CorporationのCEO、National Security Allianceの会長、 Global Strategies 、GlobalIntelligence SolutionsそしてGTECの主任エージェントだった。


これらの3派閥はシリアで破壊活動を行っている。シリアでCIAはペンタゴンが支援している部隊を攻撃していることが明らかになった。

アレッポの外側でアメリカが支援している3つの集団がお互いに戦っていることが分かった。この事実を隠蔽するためにオバマはクラッパー氏に偽の情報を流すよう命令した。
それこそが、ロシアがトランプ氏を脅迫していることや大統領選でロシアがハッキング行為を行ったとするねつ造報道である。また、国土安全保障省が有権者のデータベースをハッキングしたと報道されたのはシリアにおけるオバマの個人的な戦争の実態を隠すための偽装工作である。

クラッパー氏、ブレナン氏、コメィ氏は共に17の諜報機関がメディアを介してねつ造報道を行うことに賛成した。トランプ氏に対する彼らの攻撃により、CIAの3派閥の汚職、共謀、グローバリズム・アジェンダ、反米姿勢が明らかになった。


トランプ氏はCIAに刃向かう戦士である。


トランプ氏はグローバリズムと戦い法の支配を推し進めているため、CIAの3派閥の一番の敵となった。


CIAの3派閥は法の上に君臨して権力を悪用しているが、反グローバリズム、反NWOのトランプ氏が大統領に選ばれたことで彼らはかなりの衝撃を受けている。そのため、3派閥はトランプ氏の信用を落とすためにあらゆる情報操作を行っている。また、彼らが継続的に行ってきた数々の邪悪な犯罪を隠蔽しようとしている。また、ケネディがやろうとして失敗したことをトランプ氏がやろうとしているため、それを阻止しようとしている。


トランプ氏は、CIAがCIAメンバーとCIAの利権を守るためなら容赦なく人を殺すことを知っており、彼の命が危険にさらされていることを十分認識している。
CIAはトランプ氏についての調査書類を持っておらず、彼がワイルドカードだったことをCIAは知らなかった。トランプ氏にはこれまで明らかになったスキャンダル以外は何もないのである。トランプ氏はCIAの3派閥とは一切関わり合いを持っていない。
トランプ氏はワシントンDCの関係者を一切信用していない。なぜなら彼らは既にCIAに取り込まれている恐れがあるからだ。

トランプ氏が1600ペンシルベニア・アベニューのビルにオフィスを構えることをしなかったのは賢い選択である。なぜなら、そのビルの隅々にCIAのスパイ装置が設置されているからである。
愛国者は、トランプ氏が使うことになるホワイトハウスの内装及びリフォームの費用を支援すべきである。


CIAはあらゆる手法を使ってトランプ氏を公然と攻撃しはじめた。CIAの3派閥と繋がりのあるジョージ・ソロスも世界の舞台で公然とトランプ氏を攻撃している。


ビルダーバーグや三極委員会、ボヘミアングローブ、CFRが一同に集まり会議を開いた。そこでトランプ氏を大統領にさせないための作戦を練った。世界中の邪悪なカバラ犯罪集団は神経をとがらせている。既に彼らはトランプ氏を殺害しようとした。また、彼に賄賂を贈ろうともした。彼らは他の政治家に対してならうまくいく戦術がトランプ氏にはうまくいかないことを知った。トランプ氏はCIAが日常的に行っている活動に一切関心がない。

以下省略
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html
37:777 :

2022/05/28 (Sat) 17:52:10

あげ 40
38:777 :

2022/06/04 (Sat) 06:49:35

上げ 55

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