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世界最初の農耕文明を作った長江人の末裔の現在

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2022/08/16 (Tue) 12:32:27

世界最初の農耕文明を作った長江人の末裔の現在

落合信彦による中国貴州省の苗(みゃお)族のルポタージュ
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906846.html


今では現役を引退している落合氏であるが、昭和から平成の半ばくらいまでは、ビール会社のTV広告に起用されるくらい人気のある物書きだった。この大物ジャーナリストは、廃刊になった雑誌『SAPIO』でも採用され、「誰も見なかった中国」という連載を持っていた。昭和世代の読者なら、落合氏の十八番(おはこ)である「JFK」本を知っているはず。彼の本はエンターテイメントなのか、ノンフィクションなのか、ちょっと判らないけど、ベストセラー作家であったことだけは確かだ。

  この落合氏は「国際ジャーナリスト」を称していたから、現場取材に力を入れていたのだろう。(当時の日本はまだ景気が良かったから、出版社も取材費を出してくれたのかも知れない。) 彼は貧乏で名高い貴州省に赴き、ド田舎に棲む少数民族を取材した。「渾身のルポタージュ」に燃える落合氏は、貴州省にある「文明村」と呼ばれる地域を訪問し、そこに暮らす苗(みゃお)族の人々と邂逅(かいこう)した。落合氏のツアー・ガイドは、苗族自治県の副県長を務める30歳の役人、布依(ぷい)族の楊玲(やんりん )という女性だった。

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(左 : 昔の支那に住んでいた普通の子供 / 右 : 近代化以前の支那大陸に暮らす典型的な民衆 )

  通訳ガイドを伴った落合一行は、日本の乞食でさえ敬遠する寒村、別の言い方をすれば、ボロ小屋がズラリと並ぶ秘境へと到着した。支那は昔から贅沢と貧困がごちゃ混ぜの社会で、この村は絢爛豪華な都市部とは違う「裏世界」であった。案の定、落合氏が乗っているクルマを広場に駐めると、村人や子供達が物珍しそうに寄って来たそうだ。楊玲(やんりん)によれば、この村では外国人というのは珍しく、始めて見る村人ばかり、であるらしい。確かに、こんな辺疆だと普通の観光客は厭がる。

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( 左 : 現在でもある貧しい農村 / 右 : 元気が無い支那人の子供達 )


  落合氏は楊氏の案内で村の小学校を見学したという。しかし、「学校」といっても、それは薄汚い炭焼き小屋ていどの代物で、雨風が続けば崩壊しそうなほの“あばら屋”だ。よくカトリック教会の宣教師がアフリカの奥地に「校舎」を建てるけど、あれと同等か、それ以下の建築物である。

  昔、『インサイダー』編集長の高野孟(たかの・はじめ)が北京政府に招かれて支那人に感動していたけど、落合氏も“純朴”な支那人に会って喜んでいた。このジャーナリストは貧しいけど勉強に励む子供達に出逢ったそうだ。落合氏曰わく、

  校長先生が生徒たちを見る目なざしが実にいい。無制限の愛情で生徒たちを包み、生徒たちもその愛情を信じきっている。中国版“二十四の瞳”といった感じだ。 (落合信彦「誰も見なかった中国 第二回、汚水を飲み、字が読めずとも・・・中国版“二十四の瞳”を目撃する」、『SAPIO』 1997年7月9日号. p. 28. )

  えぇぇぇ~、こんなのは1960年代に支那を礼讃していた「進歩的文化人」の言葉と同じじゃないか ! まさか、1990年代の総合雑誌で活字になるとは思わなかった。でも、東京の下町で育った落合氏は、貧しかった少年時代の自分と少数民族の子供達を重ね合わせたのかも知れない。落合氏は校長を務める馬啓坤(ま・ちくん)の言葉を紹介した。

  この子供たちを見て下さい。彼らはこの国の将来なんです。その将来を作る手助けを私はしている。この喜びと充実感は何物にも代え難いものです。(上掲文、p.28)

  いやぁぁ~、支那人はアホな日本人を丸め込むのが本当にうまい。落合氏によれば、この校長先生(45歳)は、30歳まで人民解放軍の将校として働いていたという。もしかすると、馬校長は少数民族を管理する「お目付役」だったのかも知れない。とにかく、支那人というのは伝統的に人を騙すのが上手で、10歳の子供だって驚くほど老獪だ。それゆえ、普通の家庭に育った人でも遣り手の詐欺師になれるし、報酬次第では破壊工作員や産業スパイにもなれる。人民解放軍の元軍人からすれば、日本のジャーナリストなんて赤子と同じだ。ちょいと「お涙頂戴話」を聞かせてやれば、日本人は直ぐ涙を流して感動する。全国紙の論説委員もそうだけど、日本の知識人というのは本当にチョロい。

  村の子供達や教師に感動した落合氏は、次のように感想を述べていた。

  あくまでも柔和なその表情を見ながら、私は以前見たあるイギリス映画の一場面を思い出していた。その映画の中で卒業する生徒が教師に本を贈るのだが、そこにある文章を書き添える。“やさしきわが教師の目なざしは遠き神のごとし”。子供たちのためならどんな犠牲もいとわない良き教育者はどこの国にもいるものだと改めて感じさせられた。(上掲文、 p. 28.)

  「学校」を後にした落合氏は、次の取材先に向かったようで、彼は偶然案内された村で、ある大きな溜め池を目にした。ただし、そこにはゴミや糞尿、生活排水が流れ込んでいた、というから目を背けたくなる。落合氏は案内人の楊玲に向かって、「まさか、住民はこの池の水を飲むんじゃないでしょうね?」と尋ねた。すると楊玲はバツが悪るそうに答えた。

  飲み水はここの他にないんです。住民にはゴミを捨てたり排泄物を投げ込んではいけないと言っているのですが、中々やめないのです。衛生観念というものを持っていないのです。それを教え込むのもわれわれの仕事なのですが、たやすいことではありません。(上掲文、pp.28-29.)

  落合氏は「濾過したうえで飲むのだろう」と推測したが、仮に濾過したとしても、こんな水は小便と同じで、見ただけでもゾッとするから、日本人では絶対に口にできない。(支那大陸の水に関しては、拙書『支那人の卑史 朝鮮人の痴史』で紹介した「漱石が飲んだ塩っぱいお茶」<pp.103-105>を読んでね。)

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(左 : 現代支那で生き抜く子供達 / 右 : 片田舎に住む現在の支那人児童)

  支那人の飲料水に驚いた落合氏は、次に石造りの民家に案内され、その悲惨さに目を奪われた。家の中では豚が飼われており、台所には大きな鍋がある。その中には、残飯らしきモノがあって、酸っぱくなっていた。鼻を突くような臭いがしたそうだ。家の中では豚を飼っており、囲っている場所の直ぐ側には梯子がある。その梯子を登ると板を通しただけの二階があったそうだ。ここは寝室になっていたが、ベッドも無ければ布団も無い。有るのは板の上に敷いた空の肥料袋だけ。つまり、ビニールの袋が敷いているだけ、というのだ。しかも、それが「毛布代わり」となっていんるだから驚く。今にも抜け落ちそうな板で睡眠をとるんだから、貧乏な支那人は忍者よりも凄い。(『カムイ外伝』には奇想天外な事件や残酷なシーンがあったけど、あんなのは支那だと普通にある。)

  おもむろに落合氏が「トイレは何処か?」と校長に尋ねたら、「豚の囲いの上から落とす」という答えが返ってきた。つまり、豚が人糞を食べるという訳だ。まぁ、支那人が群れる暗黒大陸だから仕方ないけど、支那人の牧畜というか、食材の育成方法には常識を越えた秘訣がある。でも、落合氏にはショックのようだった。落合氏曰わく、

  そういった豚をレストランで食べると思うと、急に食欲が減退してしまう。(上掲文、p.29.)

  中東アジアや南米を取材する「現実派」の国際ジャーナリストであったはずだが、意外にも落合氏は涙もろい性格を持っていた。彼が村を去る時、乗ってきたクルマへ戻ると、子供達が集まってきたそうだ。こうした子供達を目にする落合氏は、小説家のような感想を述べていた。

  身なりは衛生的とはほど遠いが、着ている服がカラフルなためか極貧状態のま真っ只中にいるという悲壮感や惨めさは全く感じられない。それどころか子供独特のバイタリティとエネルギーを発散している。今の日本の子供たちよりもはるかに元気だ。(上掲文、p.29.)

  確かに、支那人の子供は「バイタリティー」や「エネルギー」に満ちているのかも知れない。だが、それは何らかの「利益」を求めているからだろう。たとえ少数民族でも、支那大陸で育つ子供は、皆支那人的になる。だから、日本からやって来た取材記者に出逢えば、「何かもらえる」と彼らが考えても不思議じゃない。例えば、チョコレートやキャンディーを恵んでもらえばラッキーだ。去りゆく落合氏にみんなが群がったのは、最期までチャンスを諦めない、という根性があったからだろう。


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( 左 : 田舎の学校で勉強に励む支那人の子供達 / 右 : 授業を真剣に聞く子供達)

  ところが、落合氏は計算高い子供を疑わず、逆に彼らの素朴さを称讃する。彼はパソコンやゲームに興じる日本の子供と、貧困に喘ぐ支那人の子供とを比較していた。

  物質的にはるかに豊かな彼ら(日本人)だが子供らしい元気さがない。もう片方(支那人)は、まともな黒板さえ教室になくノートブックさえもない。そして、いつ崩れるかわらない校舎で学んでいる。しかし、彼らの顔は精気に満ち、目が輝いている。彼らにくらべると日本の子供たちは行儀が良くおとなしい若年寄に見えてしまう。(上掲文、p.29.)

  もう、こうした現地レポートを読むと、呆れてモノが言えなくなる。こんな「ルポタージュ」の原稿を読んだ『SAPIO』の編集者は、「さすが、落合先生 !」と褒めたのか? 本当は、「あぁ~、こんな原稿よく書けるなぁ~。恥ずかしくないのか?」と馬鹿にしたんじゃないか? 昔、「CIAの友人がいる」という落合氏の文章を読んだことがあるので、筆者はSAPIOの編集者に尋ねたことがある。すると、答えてくれた編集者は笑いながら、「そうかも知れませんよぉ~」と述べていた。筆者の方も編集部の内情を察したので、「そうですかぁ~、さすが落合先生ですねぇ~」と笑いながら感謝の意を返した。

  まぁ、JFKの本を書いた時も、落合氏は「危ないハッタリ」を噛ましていたから、支那レポートがちょっとヘンでもおかしくはない。『SAPIO』は真面目な雑誌であったが、「商売」の側面を持っていたので、どうしても「エンターテイメント」の要素を混ぜなければならないのかも。今では懐かしい落合信彦。今、彼の著書は古本業界でどう評価されているのか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906846.html

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2022/08/16 (Tue) 12:42:04

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352

「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html


安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末~前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。


二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖德所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹德、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。

三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm


日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。



■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7~8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。



■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。

■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

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浦島伝説の起源

このたびは、古くからの友人であり 中国伝承文学の権威、君島久子さんにご一緒 していただき、改めて丹後半島を旅しながら、中国の浦島についてお話を伺うことにいたしました。

富山 三分間スピーチで、君島さんは中国の浦島太郎の話をして下さいましたね。あのお話、とても面白くて印象に残っていて、いつかもっと詳しくうかがいたいと思ってましたの。

  
 京都から由良川をくだり、大江山など訪ねたのち、丹後半島を歩いて、ここが古墳地帯であること、そして浦島伝説の地であることも知りました。

 郷土資料館も私の予想通り対岸との関係が想像できる資料がいっぱい、忘れられないですし、宇良神社(浦嶋神社)で重文の絵巻物も見ていただいた。その絵巻物では、普通私たちが聞かされる浦島物語(注4)とは少し話が違っていた。それを思い出したのです。

  そこで、今回の対談で、どうせ浦島の話をうかがうなら、ご一緒に宇良神社にお参りし、絵巻物も見て、それから対談、ということなら素敵だなと思いましたの。


君島 以前にも何度か来ましたが浦嶋神社の絵巻物は中国的で面白いですね。全体の雰囲気が中国的で、完全に神仙思想(注5)が絵になっている。五色の亀とかが描かれていて道教(注6)の影響も明らかに見られるし、とても面白かった。『風土記』(注7)の世界によく似ていますからね。


富山 以前、君島さんは「中国の浦島は日本とずいぶんと違っている」とおっしゃったと思うのですが、まずはその辺りからからお話いただけますか。

君島 両方あります。日本の浦島とよく似ている方は、洞庭湖(注8)のほとりの伝承なの ですが、


ある漁夫が、嵐の洞庭湖で水に落ちた乙女を助けるのです。すると、乙女が

「私は洞庭湖の竜女です。お礼に竜宮城へお招きしましょう」

と言う。竜女というのは乙姫様 ですよね。その男が

「竜宮の中に入っていくことができない」

と言うと、竜女が水を分ける珠「分水珠」をくれるのです。後日、彼がその珠を持って湖に行くと、さっと水が二つ に分かれて竜宮城へ着きます。すると乙姫様が出てきて、歓待され、結婚して幸せに暮らすのですが、ふと母親を思い出し、故郷に帰りたいと言い出す。乙姫様は宝の手箱を渡し て

「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけませんよ」

と言われるのですね。故郷に帰ってきてみると、村の様子 もすっかり変わり、村人たちも知らない顔ばかり。それもそのはず、竜宮での一日は、人間界の十年にあたるので何百年もたっていたわけ。彼は動転して、竜女に聞こうと思わず 手箱を開けてしまうのです。すると、ひとすじの白い煙が立ち上り、若い漁夫は、白髪のおじいさんに変わり、湖のほとりにぱったり倒れて死んでしまう。

でも、彼は死後も目を 閉じることなく、じっと洞庭湖を見つめ続けているのです。すると突然湖の水が満ちてきた。それは竜女が悲しみのあまりほっと長いため息をついたからなのです。その長いため 息が、洞庭湖の水位の変化だと伝えています。 (注9)


富山 彼女はまだ竜宮にいるわけですね。だいたい日本と同じですね。


君島 そうですね。古代中国の文明というと、以前から黄河文明が代表的なものでしたが、今は長江文明が考古遺物の発掘、発見などで次第に明らかになってきたのです。ちょっとした長江文明ブームかな。そのため、洞庭湖や陽湖など長江文明に属する地域からの日本への伝播の問題も、ずいぶん分かりやすくなってきたと思います。

  浦島の話も洞庭湖には古くからありました。六朝時代の『拾遺記』(注10)に、洞庭山(洞庭湖の中にあるという説があります)の薬草を取りにいった男が洞窟に迷い込み、しばらく行くと別天地が開け、楽の響きや美女たちの歓待に酔いしれ、この世のものとも思われぬ夢のような暮らしをおくった話です。男は、やがてふと故郷が恋しくなり、帰郷を思いたつ。共に暮らした美女が別れを惜しみ、贈り物をくれる。洞窟の出口までおくられ、故郷に帰ってみると、知る人は一人もなく、家も何もない。村人にたずねると、三百年前に薬草を取りに行った男がそのまま帰ってこないという。男は行方不明となる。まさに山の浦島ですね。洞庭湖には、山にも湖にもこの話があるということです。

浦嶋神絵巻


面白いと思うのは、今の洞庭湖のお話も、竜宮の一日が現世の十年というように、時間の差がはっきりあるのです。けれども中国には「玉手箱を開けたらおじいさんになった」という話よりも、「もらった宝の箱から乙姫様が現れて、ずっと現世で幸せに……」という民話の方が多いですね。

富山 中国にはほかにも浦島伝説があるのですか。


君島 いろいろな地域にあります。私は、この竜宮へ訪問する話を、最後に異常な時間の差異によって破滅する「浦島型」と「現世型」(注11)とに分けたのですが、中国では乙姫を連れてきてしまう現世型が結構多いのです。

 現世型は竜宮での一日が現世の一年というように、竜宮との時間の差が少なく、三日間竜宮で過ごして帰ってきたら「三年間もどこに行っていたか」と聞かれる程度です。そしていい女房をもらって幸せになる。時間の異常な経過がなければ、完全に現世型ですね。もらって帰ったら宝物が乙姫様だったりして。

富山 浦島伝説は中国のどの地域に多いのですか。

君島 長江から南の方が多いですね。竜は雨を司るものですから、北の畑作地帯も南の水田地帯も干ばつが怖いので、竜神に雨乞いは
3:777 :

2022/08/16 (Tue) 12:43:33

タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族

http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870

タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。

http://maesai.main.jp/page068.html


アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。

http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php

倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。

http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832


112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ


タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html

『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274

 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍~6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍~40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。



日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5~6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。



ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。



秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html
4:777 :

2022/08/16 (Tue) 12:50:48

弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

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【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 

【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770~403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。

【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について~稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について~布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について~森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674

百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A

句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2

呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)


越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
5:777 :

2022/08/16 (Tue) 12:52:35

環日本海文化圏
環日本海環境考古学・特別講演 国際日本文化センター教授 安田喜憲)

 縄文時代の人間や弥生時代の人間というものは、物凄く移動している、特に日本海を縦横無尽に移動している。古代の人々は東シナ海をかなり自由に行き来をしていたことが最近の研究でわかってきました。

 1994年に青森県の三内丸山遺跡、本州の最果てで高い文化が発展していたことがわかってきました。我々が環境考古学、特に花粉分析、或いは酸素、炭素の安定同位体でもって過去の気候を復元すると、三内丸山遺跡が発展した約5.000年前という時代は、現在より寒い時代なのです。約6.000年前という時代は、現代よりも気候が暖かったのです。縄文海進があった時代で海面が現在より2~3m高くて、温度が2~3度高いという温暖な時代であったのです。ところが三内丸山遺跡が発展する時代というのは、その温暖な時代が終って、気候が可也寒くなりました。

 何故寒くなるときに、このような北の端、東北地方に文化が発展したのか、それを証明するためには日本のことだけを考えていたのでは駄目だということが分かってきたのです。

 実は、この日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。その縄文時代の文化を考える時に非常に重要なことは、遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期に相当するのです。今から約6.000~7.000年前に紅山文化という非常に高い文化がありました。(紅山文化=北方地区の新石器文化の中で最も重要な文化です。ここで言う北方地区とは、東北3省―遼寧・吉林・黒龍江で内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区を指します)

 大連、遼河が、この

遼寧省
http://japanese.china.org.cn/japanese/ri-difang/liaoning.htm


から内モンゴル自治区の東部にかけて沢山の新石器時代の遺跡がみつかってきたわけです。今では、全く森がありません。黄土の大地で、森のない大地がずっと広がっているのです。実は、昔は深い森があり、花粉を分析してボーリング調査で土の中に含まれている花粉の化石を取り出して分析した結果、かつてこの大地には、深い落葉のナラ・ニレ・カエデの仲間、満州グルミというような落葉の広葉樹と松の針葉樹が混交した森があったということが分かってきました。即ち、現在は殆ど森のない大地の森の中で、今から約7.000から6.000年前に高い新石器時代の文化が発展していたのです。

 今から約8.000年前の遺跡、査海遺跡。打製石斧が沢山出土しました。これは恐らく畑を耕すために使ったと考えられています。(査海遺跡=集落のほぼ中央で、赤褐色の石で積んだ龍形配石遺構が発見された。長さ19.7m、龍の体は幅2mぐらいである。その遺構の下で、成人の土抗墓と祭祀抗が発見され、副葬品のない墓が多いものの、22点の石器や副葬した墓もある)サドルカーンという石器も発見され、雑穀をすりつぶして、粉にするものです。恐らく粟を栽培していたと考えられます。

 7.800年前の土器が出土しているわけで、縄文時代の土器と同じです。三内丸山遺跡の円筒土器と非常に良く似ているのです。縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使っていました。材質もそっくりです。

遼寧省から内モンゴル自治区
http://japanese.china.org.cn/japanese/ri-difang/xinjiang.htm


にかけて、紅山文化の時代に作られていたのです。

 この査海遺跡から中国での最古の玉製品として、けつ状耳飾りが出土しています。この玉製品と同じものが、福井県の鳥浜遺跡から、玉塊(たまかい)と言っているものが、縄文時代前期のものが見つかっています。中国のものよりは質的には劣りますが。即ち形も材質も査海遺跡のものと同じものが。査海遺跡のものは約7.800年前、鳥浜貝塚の玉は約6.000年前です。即ち、日本海を渡って、当時既に文化の交流があったと考えざるを得ないのです。

 査海遺跡から又、中国最古の竜が発見されています。石の長さは19.3m、幅3.8まります。頭も胴も尻尾もです。足もあります。これは7.800年前の石組みの石を置いて作った竜なのです。査海遺跡では既に7.800年前に、竜の信仰というものが誕生していたようです。

 紅山文化で、約6.000年前「ピラミット」と書いてあった敷石があります。石で周りが敷かれていて、高さ20m位で、14m位のピラミットと言われるものです。そして、女神の神殿というものがあり、それが大地母神だったのです。縄文時代の土偶と同じで、女神の神殿がありました。そして、竜の信仰も。

 この積み石塚はお墓なのです。既に、階級社会に入っているようです。約6.000年前の紅山文化のお墓なのです。お墓の中に遺体が埋葬されていて、そこからやはり竜が出てきます。

 この竜は、イノシシの顔をした竜です。猪竜と言いました。今まで竜というのはヘビが進化して、竜になったと考えていました。ところが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけては、実は原型はヘビではなく、森の中に住んでいる動物です。猪や豚です。或いは鹿です。森の中にいる鱗というのは、魚で、魚鱗、こういうものが合体したものとして、一番最初に中国の人々は竜を作ったようです。

 今は河北省一帯は森というものが全然ありません。黄土平原が広がっていて、一つも森はありません。ところがかつては、そこに深い森があったのです。6.000~7.000年前にはあったのです。

 縄文時代の東北地方と同じような、落葉のナラやクリ、クルミなどが生えている森があったのです。そういう森の中に住んでいた人が、最初に竜というものを作り出し、その竜の原形が猪、鹿或いは魚だったわけです。これらを合体したものとして竜が発想されたらしい。

 この文化が、実は約5.000年前に突然崩壊するのです。三内丸山遺跡が寒冷化した時代は約5.000年前に気候が寒冷化するのです。約6.000年前というのは気候が2~3度高くて、温かく南から湿った空気が入り、森の成育に適した環境でしたが、約5.000年前には寒冷化によって、内モンゴルでは、冬はマイナス11度とか、20度に下がるのです。

 この寒冷化が、紅山文化に大変大きな影響を与え、恐らく、紅山文化を担っていた人々が、寒さを避けて、恐らく、南へ、或いは南東部海岸地帯へ逃れ、その一部が三内丸山遺跡へ来たのではないか。と私の仮説です。

 丁度、紅山文化が崩壊する時代、約5.000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。縄文時代中期というのは非常に特徴のある時代です。例えば、長野県の八ヶ岳山麓には、火炎式土器。新潟県にも火炎式土器といって、炎のように盛り上がる土器があります。あの炎はヘビなのです。縄文中期土器、三内丸山遺跡でも、まず一番信仰が大規模になるのがヘビ信仰です。特に八ヶ岳山麓というものは、ヘビ信仰の中心地なのです。ヘビ信仰が大変盛んです。

 また土偶では、三内丸山遺跡から大量の土偶が出土しています。大量の土偶が作られているということは、大地母神を信仰するような信仰が、この縄文時代中期から盛んになるのです。

 ということは、突然約5.000年前に大地母神の信仰やヘビ信仰が盛んになります。それは、中国の東北部に非常に優れた新石器文化がありました。それが紅山文化なのです。それが、大地母神や竜信仰という世界観があったのです。それが崩壊して、大量の人々が三内丸山や新潟県の中期火炎式土器に影響を与えたのではないかと、私は考えております。

 三内丸山へ来た以外の一派が、約5.000年前から大きく発展してきた長江文明に竜がでてきます。この竜が紅山文化から出ていた猪竜なのです。玉で作った竜が突然出現してきます。

 こういうように日本海を取り巻く北方の文化と日本の関係も分かりましたが、南の関係も非常に大きな関係があることが最近分かってきました。

 其の一つは、福井県若狭湾沿岸の鳥浜貝塚です。縄文時代前期の貝塚で、約6.000年前の層から、鹿角斧(ろっかくふ)というものが出土しました。鹿の角の又の部分を残して、作っているのです。100本が出土しているのです。それは、三内丸山遺跡からも5~6本出土しています。

 中国の淅江省の河姆渡遺跡というのは約7.000年前から稲作が行なわれていました。そこに同じものを私は見ました。これは、畑を耕す農耕具だと説明していました。即ち、鍬だったわけです。それで鳥浜貝塚から、エゴマ、ヒョウタン、麻、リョクトウ、などの栽培作物が見つかっています。ヒョウタンというものは、南のものです。既に淅江省の河姆渡遺跡と鳥浜貝塚の間には、縄文時代前期の約6.000年前にも交流があったということです。

 雲南省の昆明の町のそばにテン池あり、今から約3500年前からのテン王国という青銅器文化の素晴らしい王国が発見されました。そのテン王国の青銅器の中に、「貯貝器」というのがありました。

 貯貝器とは、当時は貝がお金だったのです。アラビアやインド洋という南の海で取れる貝を雲南省まで運んできて、それをお金にしたのです。そのお金を貯える青銅器の器を貯貝器といいますが、円筒形の器なのです。その上には色々な模様や人間などが造形されています。横にも色々な彫像は彫られています。その模様に船に乗った人間が船を漕いでいます。何人かの人間が櫂で船を漕いでいるのです。その船を漕いでいる人の頭にあるのが、羽根です。

「羽人」
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/hiten/02_6.html

といいます。羽根の冠を被っているのです。魚も泳いでいるところを船を漕いでいるのです。船頭がおって、前方に号令をかけて、太鼓を鳴らしています。その太鼓を

「銅鼓」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200201/200201.htm

といいます。銅で作った太鼓です。そういうものが描かれています。揚子江下流の淅江省にも羽人という羽根の頭を描いた船を漕ぐ人々がいるのです。

 それが、日本でも見つかっているのです。淅江省と同じものが、鳥取県の淀江という弥生時代の遺跡から見つかっています。上に太陽と思われるものと、この船を漕ぐ人、頭に羽飾りを付けているのです。

 揚子江流域の雲南省から下流域の淅江省、そして、日本海側周辺にかけて、羽飾りをもった人々が船を操って来ていたのではないかということです。

 佐賀県の川寄吉原という遺跡が見つかっています。これには銅鐸の形をした鋳型に書かれたもので、土で作った銅鐸です。銅ではないのです。銅鐸の形に似せた土製品で、やはり人間が武器を持っているのですが、武器を持っている人の頭には羽飾りが付いているのです。

 福岡県の珍敷塚古墳
http://www.os.rim.or.jp/~yang/mezurasizuka.html

の壁画に描かれたのは、船の舳先の左の方に鳥が止まっている絵があります。雲南省からも船の舳先に鳥が留まっているのがあります。これは水先案内人として鳥が止まっているのです。それと同じものがこの珍敷塚古墳にもあります。

 この越人に重要なものは何かといいますと、この羽根です。羽根は何か、鳥です。そして淀江遺跡、珍敷塚古墳でもありますが、船の上にあるのが、太陽です。船に乗って、鳥を舳先に置いて、羽根飾りの帽子を着けて、そして太陽を神様として崇める。こういう人々が、実は揚子江の南の方にかけておるわけです。これを「越人」と呼ぶことを中国の考古学者の間で決まりました。

 昔は越人というのは、此の辺に住んでいる人をいいました。「呉越同舟」の呉越の越です。雲南省にいる越人とは、テン王国ですからテン越と決まりました。つまり、かつて揚子江流域には、羽飾り帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。

 この越人は、淅江省から実に鳥取県の淀江だけでなくて、越前、越後の国へ。

この越前、越後の国の越は、まさにこの越です。それはまさに日本海です。揚子江流域の人々が、羽飾りを付けて船に乗って、新しい文化を持ってきたのです。

 3.500年前に突然来たわけではないのです。揚子江の下流域と日本海側との交流は、6.000年前の鳥浜貝塚の時代に河姆渡遺跡の間には、深い交流があったわけです。その海のルートというものは、代々伝承されますから、3.500年前にはもっと航海の技術も発展して、若狭や北陸地方と中国揚子江の下流域には、深い文化的な交流があったのです 

 終わりに、東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区。此の辺一帯に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルートは8.000年も前に遡り、7.800年前にはそこで竜が生まれたのです。それが、5.000年前の気候変動での寒冷化です。その寒冷化によって、一部は日本に来たのです。そして日本の縄文時代中期の文化の発展に貢献したのです。長江文明もこの紅山文化の影響があったのです。其の時代長江文明にも竜が生まれ始めたのです。

 元々、長江流域には越人と言われる人々が住んでいました。その越人は鳥を神様にして、ヘビをも、太陽も神様にするという世界です。しかも、彼らは畑作の粟と猪や豚などの家畜で主たる生業にしていたのです。環境は落葉の広葉樹林でした。これを「ナラ林文化」と言われています。これに対して、稲作を行なって、魚を食べたり、ヘビを神様にしたり、太陽を神様にしているようなところは、照葉樹林です。カシやシイの森の中で。

 このように二つの大きな文化圏が存在したのです。5.000年前に一回目の寒冷化と3.500年前に再び気候の変動が起きたのが、大きかったのです。北方から大挙して繁栄していた長江流域に南下したのです。長江流域に住んでいた越人、羽飾りを持って、船に乗って、魚を食べて、お米を栽培して、鳥やヘビや太陽を崇めていた人々が、漢民族に追われるのです。追われて一部は雲南省の山奥へ逃れ、別の一部は船に乗って、ポートピープルとして日本に来たのです。そしてもう一つは南の東南アジアの方へ行ったのです。

 我々は雲南省の人々との間には非常に共通性が在ると言います。もともと同じ越の文化を持っていたからです。とりわけ、北陸の人は越人だろうと思います。そして、日本にやってきて弥生時代という新しい時代が出来てくるのです。

 こういう風に見ていきますと、今まで我々は、日本列島というのは海に囲まれていて殆ど交流がなかったと思われますが、鳥浜貝塚の6.000年前から、淅江省の揚子江下流域と日本の間には航海ルートが作られていたのです。また5.000年前には、3.500年前などには民俗の大移動と共に文化の交流が行なわれていたのです。

 縄文文明の時代に長江文明の担い手であった人々が太平洋も渡ったのではないかという仮設も考えられるのです。長江文明の玉器の中から南米のペルーから出土したチャビンデワンタルという石像の正面の顔がヘビに絡まれて髪の毛を持って、牙をむいている像が全く同じように思われるのです。これを「環太平洋文明論」といいます。
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/tok2-index/3GharukaEncare/tusimadariyu/bunkakousou/bunka.html
6:777 :

2022/08/16 (Tue) 12:54:25

古代中国の歴史
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304895


中国には長江、黄河という2つの大河があるが、文明はそれぞれの河川域に数千年の時代を経て誕生している。

長江が南方系の稲作農耕文明に対して黄河は畑作で牧畜を中心としており、モンゴル草原の終着点であることから気候変動期に遊牧部族がなだれ込んで先行していた西側(中東地域)の文明が入り込んだ。

現在でも中国はアジアと言いながら西洋的なのはこのときに誕生した略奪系の黄河文明がベースとなっているからでもある。

年代を追って見て行きます。
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【長江文明】
BC7000年 世界最古の稲籾跡
BC5000年 長江文明誕生(河姆渡遺跡)
     豚の飼育、漁労、狩猟跡・・・母系社会
BC4500年 最古の水田跡~城頭山古城
BC3500年 良渚文化 玉文化 国家的集合体
BC2000年 気候変動期に長江大洪水で文明消滅 良渚で洪水跡
      長江人は呉越に流れる
      ★この時代に大量に日本に江南人が流入。


【イラン、モンゴル高原の状況】
BC3500年~3000年 急激な寒冷、乾燥化
BC3500年にイラン高原で人類最初の戦争勃発⇒戦争の玉突きが始まる
 モンゴル族、ツングース族の南下
 遊牧民による農耕牧畜民の襲撃


【黄河文明】
BC5500年 畑作開始
BC3200年 西山遺跡~中国最古の城砦跡
     この時代に戦争が発生している。
BC2200年 伝説の王朝「夏王朝」が中原地域で誕生
     夏王朝を作ったのは南方のチベット族
BC2000年 華北で世界最古の金属製造開始~生産性が一気に高まる

BC1500年 殷王朝が誕生 モンゴル族出自
     甲骨文字の誕生 商人の登場
BC1100年 周王朝開始 チベット族出自
     周は殷王朝の下にあった一王朝が反乱して誕生
     徳知政治で王の徳を重視した。
BC770年 春秋時代開始
     各地の知識人が華北に集まる。
    BC500年 孔子
    BC300年 孟子
    BC250年 荀子など諸子百家
    
    この時代の戦争は1日~2日で決着
※武力時代に完全移行する前夜、大衆が私権社会を回避しようとした時代
 或いは私権社会の秩序、整合性を模索していた時代。
 鉄器による農耕革命が起き、格差が生じてくる。

BC500年 匈奴による侵略(モンゴル族の組織化が進む)

BC400年 戦国時代
    一転して武力で決する力の時代。
    華北を中心に勝ち抜き戦

BC221年 秦の中国統一
  中央集権で国が統一され、法による秩序形成、大土木事業(万里の長城)、貨幣の統一、文字の統一⇒私権社会の確立


 ※秦始皇帝の出自は漢民族ではない。

メソポタミアでBC558年に起きたアケメネス朝ペルシャの末裔が作った西戎がチベット高原を越えて華北に西方文明をもたらした。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=282879


秦は1代で滅びるが、中央集権的、力の支配はその後の中国王朝は継承する事になる。秦が中華思想の源流でもあり、今日の中国の原点である。

★この時代に始皇帝を欺いて日本に部族丸ごとで逃げ延びたのが徐福であり、未だ各地に残る徐福伝説である
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=243460


徐福は日本渡来後、葛城や秦氏を名乗ったという説もあり、その後の大和朝廷形成まで大きな影響力を持った。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271439



http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304895
7:777 :

2022/08/16 (Tue) 12:58:00

諏訪春雄のホームページ
http://home.s00.itscom.net/haruo/index.html

諏訪春雄通信10 2002年 9月

9月21日(金曜日)午後5時から、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。


中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

① イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

② イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

③ イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

① 民族の祖先の女神、②太陽神でもある、③稲作の神である、④歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。

この問題についてはつづけてまたこの通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa10.htm


諏訪春雄通信 11

東アジアの王権の問題について、夏期の中国調査の結果をふまえて、その後、かんがえたり、調べたりしたことをのべます。私の最終目的は、日本の天皇制の解明です。しかし、そのためには、東アジア、ことに中国大陸での王権の歴史の検討が絶対必要条件であるとかんがえています。

 

中国北方、黄河流域で巨大な王権が誕生し、南方、長江流域でなぜ巨大王権が成立しなかったのか、という問いについて、最初のきちんとした説明をしたのは、ドイツ生まれの社会学者カール・アウグスト・ウイットフォーゲル(1896~1988)でした。水利社会論とよばれて有名な彼の考えをまとめれば以下のようになります。

 

黄河流域は黄河文明のさかえた土地である。定期的に氾濫をくりかえした黄河の大量の土砂が堆積してできた沖積平野であり、そのままでは農耕に適せず、大規模な潅漑工事が必要であった。そのため、この土地では、大量の人手をあつめて水を支配しなければならず、それが可能な強大な力をもった者が、王権を獲得し、巨大国家を建設した(平野義太郎監訳『新訂 解体過程にある中国の経済と社会』原書房、1977)。

 

この水利社会論は、現在かなり旗色が悪く、日本でも戦後きびしい批判にさらされています。批判は二つにわけることができます。一つは、彼の政治性にたいする反発です。はじめマルクス主義者として出発したウイットフォーゲルはアメリカにわたって反共産主義者にかわりました。その政治理論から、進んだヨーロッパ社会にたいする停滞したアジアという図式をつくりあげました。この図式が不評を買って、批判者の舌鋒をするどくさせたのです。

 

もう一つは、彼の水利社会論そのものにたいする批判です。最近の代表的な批判者二人を紹介しましょう。中国環境史学者の原宗子氏(流通経済大學教授)は、農業のために黄土は多量の降雨を必要とし、でなければ人工的な潅漑がもとめられるというウイットフォーゲルの主張は空想にすぎないとしりぞけ、年間降雨量そのものが不足していない華北の多くの地では、降った雨や雪の水分を発芽期までどう保持するかが問題になるのであり、潅漑の必要など多くの地域で存在しないと断定します(「土壌から見た中国文明」『四大文明』NHK出版、2000年)。

 

批判者をもう一人紹介します。日本の考古学界はフィールドワーク重視一色です。遺跡を発掘しない考古学者を日本では考古学者とはみとめません。ところが、欧米では考古学理論とか比較考古学という学問方法が市民権を得ています。自分では発掘体験のない土地の発掘報告をもとに、比較をこころみる学問です。

 

カナダ・モントリオールのマッギル大學人類学部教授のブルースG・トリッガー博士は、考古学理論家として現在もっとも生産的な仕事をしている学者です。彼は水利社会論をつぎのように批判します。「いっそう大きい潅漑システムへの要求が結果として文明発展の初期段階に専制国家を生む、というかつての通説は、初期文明においては大部分の水利施設が小規模で断片的であったという特徴を、認識していなかった。大規模な国家管理の潅漑システムは、国家の産物であり、その逆であったようにはみえないのである」(川西宏幸訳『初期文明の比較考古学』同成社、2001年)。

 

こうした批判論に接しますと、ウイットフォーゲルの水利社会論の破綻はみとめざるをえないようです。しかし、黄河流域における巨大王権の誕生という事実をどのように説明するのかという問題は、依然そのままにのこります。

 

水利社会論にかわって提出されている論を検討してみます。

 

前述の原宗子氏はつぎのように説きます。「人類が摂取するエネルギー源として太陽エネルギー利用効率の点でもっとも効率的なのは穀物生産である。当時における人工増加のポイントは、いうまでもなく食糧の確保にあったから、穀物生産を発展させた社会が、人口増加でも軍事力増強でも、他の方法で暮らしている社会にくらべ優位に立ったわけである」(前掲論文)。

 

穀物生産農業が巨大国家を誕生させたという考えです。しかし、この説明は成立しません。年間の降雨量も平均温度も農業に適さない黄河流域(前掲の原氏の批判にもかかわらず、この事実は疑問がありません)で巨大専制国家が誕生したのに、あらゆる条件がより農業に適した長江流域で巨大専制国家がなぜ誕生しなかったのか、という問題の解答にならないからです。

 

北中国と南中国の農耕の発展形態に周到な目配りをしながら論をすすめ、巨大国家成立の秘密を説きあかそうとした論文が、やはり中国史学者の岡村秀典氏(京都大學助教授)の「中国文明の起源―農耕のはじまりから国家の成立へー」(前掲『四大文明』)です。

 

氏は、殷墟から出土した甲骨文に大規模な祭祀儀礼の存在をしめす文言がきざまれていることに注目します。そして、巨大な祭祀儀礼をいとなむために、それをささえる経済システムを整備し、農業の大規模経営がおこなわれ、その結果、巨大な専制王権が誕生したと主張します。

 

しかし、この論も誤っています。事実は逆です。巨大政権が成立したから、それを維持するために巨大な祭祀がいとなまれたのです。そうした事例はいくらでもあげることができます。日本の大和政権成立後の国家祭祀整備や大規模化がさしあたっておもいうかびます。

 

湿潤地帯と乾燥地帯のはざまに巨大な大河文明が誕生したという、文明史学者安田喜憲氏の学説は、ウイットフォーゲルに匹敵するスケールの大きなものです。

 

ユーラシア大陸を、大きく湿潤地域のモンスーン・アジア、大西洋地帯と、乾燥地域の乾燥アジア、北方アジアに二分し、これまで四大文明といわれてきたメソポタミア・エジプト・インダス・黄河の四大文明は、そのはざまをながれる大河のほとりでおこっていると主張し、乾燥地帯の牧畜民と湿潤地帯の農耕民の接触によって大文明は誕生したと主張するのが、安田理論です(『大河文明の誕生』角川書店、2000年)。

 

牧畜民は主食の穀物を農耕民との交易によって手に入れないかぎり生きてゆくことができない。この牧畜民に主食となる穀物や野菜を提供した人々こそ、乾燥アジアとの接点をながれる大河のほとりに生活する農耕民であった。それゆえ、乾燥と湿潤のはざまをながれる大河のほとりは、農業革命以来、農耕民と牧畜民の異文化の接触地帯になった。安田氏はそのように説きます。

 

この安田理論も、黄河文明にかぎってもいくつかの疑問があります。まず、華南に比較して、寒冷で乾燥した華北の地を湿潤地帯といえるのかという疑問です。

 

もともと、氏の説の立脚点には、1988年にはじめて氏が発見したという5700年まえにおこった地球規模での気候変動がありました(安田喜憲「五〇〇〇年前の気候変動と古代文明の誕生」『科学』五八号、岩波書店)。この変動は、北緯35度以南の大河ほとりの乾燥化をもたらした。このため、牧畜民が水をもとめて大河のほとりに集中した。この大河のほとりへの人口の集中と、もともと大河のほとりにいた農耕民とあらたにやってきた牧畜民の文化の融合が、都市文明の契機になった。これが安田理論の骨格です。

 

しかし、この論は、北緯35度以北に位置し、しかも5700年まえより1000年以上もあたらしい黄河文明に適用できないことはあきらかです。しかも、遊牧民との接触という事実の確認できない長江周辺に、巨大王権ではありませんが、都市文明の誕生したことの説明ができません。

 

批判することはかんたんにできますが、それに代わる理論を提出することは容易ではありません。ウイットフォーゲルに対する批判を丹念にたどってみると、そのことを痛感します。黄河流域に巨大王権が誕生したことは事実です。その事実にたいして納得できる説明がまだありません。

 

ここであたらしい説明を提示できなかったら、私もおなじ非難をうけることになります。次回の通信12で、私の考えをのべます。あらかじめ、私の立場をあきらかにしておけば、私は一つの理由だけを強調する一元論ではなく、複数の要因を考慮する多元論で、この問題を解明したいとかんがえます。しかも、黄河領域で最初に成立した巨大専制国家であった秦の成立要因を分析することによって、その目的を達成したいとかんがえています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa11.htm

諏訪春雄通信 12

前回の通信につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

黄河流域で最初に成立した巨大専制国家は秦です。紀元前221年に、のちに始皇帝とよばれることになった秦王政は、戦国6国のなかでただ一つのこっていた斉をほろぼして、天下統一をなしとげました。この中国史上最初の統一国家の成立要因を検討することによって、華北における巨大王権誕生の秘密を解明してみます。

 

①鉄製農具の出現

春秋時代の終りに、木製や石製にかわって鉄製農具があらわれ、未墾地の耕作が可能になりました。農民はかぎられた土地で氏族制を保持する必要はなく、家族単位に分解、その農民たちをあたらしく発生した官僚たちが再組織しました(西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫)

 

②潅漑工事

水利技術者鄭国の献策により、秦王政の即位元年に、渭水北岸の荒地を潅漑する大規模な工事がはじまりました。これが完成して沃野が出現し、秦国が富強になり天下統一の財政基盤ができあがりました(西嶋前掲書)。

 

③経済の発展

春秋時代の後半からはじまった鉄器の発明と普及は、農業や手工業の発展をうながし、経済と文化に繁栄をもたらしました。商業の発展にともなって、商人の往来や産物の流通もさかんになり、列国の封鎖的な国境をこえて、各地の経済はたがいに依存の度をつよめていきました(松丸道雄・永田英正『中国文明の成立』講談社)。

 

④富国強兵策

北方の強大な遊牧民族である匈奴の進入を阻止する防衛対策のうえからも、強力な統一国家の出現がもとめられました。富国強兵策を実施したために、生産は発展し、兵力は増強しました。戦国後期、秦の国土面積は全国の三分の一弱でしたが、その富は全国の十分の六に達したといわれ、騎馬戦術を得意とする軍団は無敵の強さをほこりました(松丸・永田前掲書)。

 

以上の四つは、主要な要因であって、この四つに限定されるといいはることはできません。また、たとえば、③について、経済の発展とまとめるか、鉄器の発明とするかは、意見のわかれるところです。

 

しかし、鶏が先か、卵が先かをあらそうことは、それほど生産的ではなく、秦帝国出現の要因はけっして一元的ではなく、多元的、複合的であったことを確認することが重要です。

 

さらに大切なことがあります。以上の四つは秦帝国出現の要因であって、そののち、漢、晋、隋、唐、五代、宋、金、元、明、清とつづいた歴代王朝のすべてに適応できる成立要因と断定することはできません。鉄器の発明は、秦成立の重要な要因ではありましたが、漢成立の要因とはいえません。

 

黄河流域の王朝成立過程を検討するためには、学問の手続きとして、秦のばあいと同様に、歴代王朝の成立要因を検討し、共通する原因を抽出するという作業が必要になります。

 

その作業の詳細を展開することは、しかし、日本の王権の成立におよぼした中国古代思想の影響という、私のさしあたっての研究テーマからずれることになりますので、ここでは必要最小限の言及にとどめます。

 

私の研究にとっては、秦につづいて、紀元前三世紀に成立し、紀元後三世紀に滅亡した漢帝国までを対象として、両国の共通性をぬきだせば、さしあたっては十分であるといえます。

 

両帝国誕生の共通要因はつぎの3点にまとめられます。

 A 匈奴を中心とした周辺遊牧民との抗争、軋轢

 B 商業を中心とした経済の発展

 C 農民勢力の台頭

 

Aは秦の4に対応します。匈奴が、モンゴル高原一帯の遊牧社会を統一して大帝国に成長したのは、秦末漢初といわれています。秦がこの匈奴の侵入にそなえて富国強兵政策をとったと同様に、漢もまた、強力な騎馬軍団で侵入をこころみる匈奴との対応に腐心し、軍備の充実につとめ、結果として国勢をのばしています。

 

Bは秦の③に対応します。漢の経済政策は商業一辺倒ではなく、税制の改革、塩鉄専売制度の実施、貨幣制度の制定など、多方面にわたっています。それらの総合的な経済政策が効果をあげて、武帝の時代には、「都鄙の倉庫は一杯になって財貨があふれている。都の銭の量は巨万をかさね、ぜにさしはくさってかぞえることができない。国庫の穀物は古米がふえて外にまで流れだし山積みになって腐敗している」と『史記』が叙述するようなゆたかな財政状態を現出させています。歴代の皇帝は、財政の好景気時代に、その資力を駆使して外征を実行し、領土の拡大と国威の昂揚につとめました。

 

Cは秦の①と共通です。巨大帝国秦を倒したのは、農民蜂起でした。決起軍の指導者の一人陳勝は、一時は、河南省の陳に農民王国を建設して王位につくほどの勢いをしめしています。最終的に秦をほろぼして漢を建設した劉邦もまた農民の出身でした。秦代以来の潅漑工事による農地の拡大と農業技術の改革が、農民に力をたくわえさせ、その爆発が秦をほろぼし、漢を誕生させたともいえます。

 

ウイットフォーゲルの水利社会論が批判の矢面にさらされていることについては、前回の通信でふれました。しかし、彼の論が批判されなければならないのは、その一元的主張であって、潅漑水利が巨大王国出現の重要な原因の一つであったことは、秦や漢巨大化の歴史の検討を通しても、みとめられなければなりません。

 

くりかえしになりますが、私の検討すべき課題は、日本の天皇家の永続です。そのために、大陸において巨大王権が交替をくりかえした黄河流域と、そうした現象のみとめられない長江流域を対比的にまずとらえてみようとしています。

 

中国で王朝交替を正当化する理論として生みだされたのが天の思想であり、日本では天皇の永続をささえる理論として太陽の思想が形成されました。これまでの通信でのべてきたところです。

 

天の思想とは、天の命令をうけて王となり、徳をうしなって天の怒りをうけて王の位置を追われるという思想です。一地方政権にすぎなかった周が殷(商)をたおして王権をうばった行為を正当化するためのイデオロギーであり、『書経』『詩経』など、儒教の書物のなかで理論が整備されていきました。『書経』の「多士」という章では、殷をほろぼした周公が、殷の遺臣たちにつげたことばをつぎのようにつたえています。

 

「汝ら殷の王室につかえていた者たちよ。天が亡国の運命を殷にくだした。そこでわが周は王国を開くべき天命を受けて、天の明らかな威光を奉じて、殷に大罰をくわえ、殷にあたえられた天命が終わったことを上帝に告げたのだ。」

 

この天の思想に対立する、日本の天皇家永続の理論的根拠が太陽の思想です。太陽の子孫だけが天皇の地位につくことができ、太陽の永続が天皇家の永続をささえるという考えで、八世紀の天武・持統の両朝のころから理論化され、『古事記』や『日本書紀』に神話体系としてとりこまれてゆきます。

 

『古事記』を例にとれば、そうした思想は全体にゆきわたっていますが、ことに、「三貴子の分治」、「スサノオの追放と五穀の起源」、「草薙剣」、「オオクニヌシの国譲り」、「ニニギの出生と降臨の神勅」、「天孫降臨」、「ホデリノミコトの服従」などの、骨格をなす神話に、天上の太陽神アマテラスの子孫の永続性と絶対性が周到にかたられています。

 

この天の思想と太陽の思想の生まれてくる母胎は、黄河流域の天への信仰と、長江流域の太陽への信仰にあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa12.htm


諏訪春雄通信 13

   前回につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm

諏訪春雄通信 14

前回にひきつづいて東アジアの王権についてかんがえます。今回のテーマはつぎのとおりです。

「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。
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諏訪春雄通信 15

前回予告しましたように、長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。
 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。

1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)
2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 
3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ
6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)
7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)
8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)
9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)
10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)
    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、(4)稲魂は新旧交代する、(5)稲は人々の生命力の根源である、など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4-稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm


諏訪春雄通信 18 2002年 12月

 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいっ
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2022/08/16 (Tue) 12:58:47

苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族の赶秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm


諏訪春雄通信 19

 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。

そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。
1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。

A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。
B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。
C.日神であるアマテラスの冬至神話である。
D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。
E.大祓の儀礼の性格をもつ。

 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5
2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16
3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16
4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15
5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13
6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19

 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。

 次回は新春にふさわしくこの天皇制の根本問題を中心にのべます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm


諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさ
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2022/08/16 (Tue) 12:59:46

まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm

諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm


諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったこと
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2022/08/16 (Tue) 13:00:24

こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。

祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm
11:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:01:03

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm

12:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:03:13

諏訪春雄通信


2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。


諏訪春雄通信 789回 (2018年1月22日更新) 天皇の来た道 (8)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


Ⅲ 稲作を伴う天孫降臨神話

中国南部に流布する稲作天授神話


タイ族

遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。

犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。

雲南省トールン族

洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。


中国地図
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

      


天皇の来た道 (9)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 Ⅳ 天孫降臨神話の二系列と日本への稲作伝来経路

① 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。

② このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。

③ しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。

④ このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二系列あった。この二系列は、日本への稲作伝来ルートに対応している。

⑤ このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。

 稲作の起源地と日本への伝来

浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」(『日本人はるかな旅』NHK出版、2001年)を参照する。


アジアの稲の起源地は中国の長江中流域。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。このころ、私もこの二つの遺跡を訪ねている。

 日本の稲作伝来の二系列


日本で稲作が始まったのは縄文時代前期の鹿児島県で6千年前、焼畑で耕作された熱帯ジャポニカであった。水田稲作の温帯ジャポニカは縄文晩期の二千六百年前の佐賀県の菜畑遺跡から出土した。2003年に国立歴史民俗博物館が、放射性炭素年代測定で弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとした。
野生稲の籾の先端の芒(のぎ)が長く、栽培稲では短くなっている。

水田稲作は、直接に中国から日本へ伝来したものと、朝鮮半島経由の二系列があった。天孫降臨神話の二系列に対応する。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 天皇の来た道 (10)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html


  Ⅴ アマテラスの本質 稲魂

『古事記』


①水田を作り新嘗祭を主宰している。

②最初に地上に降臨するアメノオシホホミミは威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味である。

『日本書紀』

①アマテラスは、ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうち、アワ・ヒエ・ムギ・マメを畑に、稲は水田に植えて大きな収穫をあげている。

②スサノオと誓約して、オシホホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名を持つアメノホヒなどを生んでいる。

③天上で水田を耕作し、新嘗を主宰している。

④第二の一書によると、ニニギの降臨の際に高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。
アマテラスの本質 太陽神  


『古事記』 「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸に籠ったことが日蝕とも冬至とも鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすること、などが太陽神の性格を現わしている。

『日本書紀』 アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などとよばれ、「明るく美しく照らし、天地四方の隅々まで照り輝いた」と叙述されている。

高千穂天岩戸神楽のアマテラス

アマテラスの本質 大地母神

アマテラスは地上で誕生して天に昇った神であった。『古事記』では、黄泉国を逃れて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原でみそぎして生んだ神である。『日本書紀』でも、イザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのち、「このように神秘で霊妙な御子はすみやかに天上に政事をゆだねるべきである」と、天の御柱を伝わって天上に送っている。


太陽は朝に地上から天に昇り、夕に地上に沈む。この点に注目すれば地上の神であるが、天に輝く日中に注目すれば天の神となる。さらに陽光がやさしいか強烈であるかによって、女神か男神か分かれる。中国南方では太陽は大地の女性神と観念され、北方では天の男性神と意識されている。

アマテラスは稲作の神であり、その稲作を守る太陽神、大地の女神であった。  
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天皇の来た道 (11)
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2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。通信799回に続きます。


平成大嘗祭(皇位継承最初の新嘗祭)の大嘗宮


祖先の太陽女神と稲魂(アマテラス)の祭祀 地方の女神の霊力(悠紀・主基)支配 廻立殿で清め、次いで悠紀・主基で神と共食、共寝


中国南部少数民族の太陽・女神・稲魂信仰

貴州省黎平県トン族の道切 銅鏡=太陽 貴州省ミャオ族集落入口 双竜と太陽

2001年の8月、長江流域の苗、土家、侗の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。

しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂に対する信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰と完全に一致している。

日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示している。
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天皇の来た道 (12)
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 Ⅵ 天の信仰と女神信仰 東アジア少数民族の祖先女神信仰

湖南省西南部トン族 薩歳(老祖母神)という最高位の女神を信仰し、薩祭という祭りでは他の神は招かずこの薩歳だけを祀る。その冒頭で主宰する巫師の唱える文句は「別の女神を招かず、別の神に祈らず、ただひたすらに大婆天子にだけお祈り申しあげます」ということばで始まる。大婆天子は薩歳の漢語訳である。


この他にも民族の祖先神を女性とする少数民族は多い。チワン族では人類の祖先は母六甲(ぼろっこう)とよばれる女の神である。水族、ミャオ族、チノー族、エベンキ族、満族など、女神が最初に天地をきり開いたり、最初の人類を生んだりする神話を伝えている。


動物神と女神の合体した創世神話も多い。ナシ族は一羽の白い鶏が九つの卵を産み、その卵から天の神、地の神、男女の人類が現われたとし、ハニ族は一尾の大きな魚から人類が生まれたとしている。(『中国各民族宗教と神話大詞典』学苑出版社、一九九〇年、他)


男女神信仰の四型


大地母神に代表される女神信仰が男神中心の新しい信仰にとって代わられる現象は世界的規模でみられる。その変化は大きく四つの型に分けることができる。第一は、魔女・異端型である。女神を信奉する宗教者を魔女・異端として退け、女神に代表される古い神々を悪魔、鬼神の類として厳しく排斥する。第二は、男神を最高支配神とするパンテオンに下位神してとして組み入れる型である。 第三は、新旧の神々を並列・混在させる型である。第四は女神を男神に優越させる型である。第一型は主として一神教世界、第二型は一神教的多神信仰世界、第三型・第四型は多神信仰世界にみられる。日本ではこの四つの型のすべてが存在し、四型に基づく祭りの形態がみられる。キリスト教は一型、銀鏡神楽など中世神楽は二型であり、諏訪大社の御柱は三型である。そして、日本の古代は女神優位であり、皇室、沖縄などにいまも女神優位の信仰が保存される。

中国の女神と男神の勢力関係についてみると、黄河流域の大帝国の歴史書に登場する神々は男神中心、南方の少数民族の宗教や叙事詩に登場する神々は女神中心であり、北方少数民族の神々は大きく女神から男神中心へ移ったという結論がみちびきだせる(君島久子編訳『中国女神の宇宙』)。

信仰も、文化の一部であり、生活環境と生業の産物である。  
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天皇の来た道 (13)
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  Ⅶ アマテラスとタカミムスヒの関係


日本神話に登場する最高司令神はアマテラスとタカミムスヒである。古文献に登場する両神の関係は三型に整理できる。

1アマテラス・タカミムスヒ併記型 古事記、古語拾遺


2タカミムスヒ単独型 日本書紀一書、先代旧事本紀


3アマテラス単独型 日本書紀一書

アマテラス・タカミムスヒの本質 従前説

①アマテラスとタカミムスヒは本来別系統の神。天皇家の本来の守護神はタカミムスヒ。岡正雄(「日本民族文化の形成」『図説日本文化史大系1 縄文・弥生・古墳時代』小学館、一九五六年)、松前健(「鎮魂祭の原像と形成」『日本祭祀研究集成一』名著出版、一九七八年)、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)、溝口睦子(『王権神話の二元構造ータカミムスヒとアマテラス』吉川弘文館、二〇〇〇年)

②タカミムスヒについて、男性神とする点は四氏一致するが、その先で、太陽神(岡田)、神木をヨリシロとする農耕神(松前)、朝鮮古代の起源神話と同一系統神(岡、溝口)と分かれる。

③アマテラスについて、先住母系的種族の主神(岡)、伊勢地方のローカルな太陽神(松前)、タカミムスヒに仕える巫女を神格化した神(岡田)、列島規模の土着の女性太陽神(溝口)と分かれる。

タカミムスヒは宇宙樹


タカミムスヒは『古事記』では高木神の別名でも登場する。この神が主として活躍するのは、天孫降臨神話や神武東征説話である。つまり、天と地を結ぶ神としての性格が強く、天地往来の宇宙樹としての本質を持っている。

宇宙樹は世界樹ともいう。まだ確定していない術語である。一般には天界と地下界とを貫いてそびえ,全世界 (宇宙) の秩序を体現していると信じられる巨木。世界各地の神話にみられ,ことに北欧の古代神話『エッダ』の中の巨木が有名で,その枝は全世界の上に広がり,天の上まで突き出ており,3本の根はそれぞれ神々の国・巨人の国・死者の国へと伸びている。そのほか,古代インドのウパニシャッド哲学,アステカの神話,シベリア諸民族のシャーマニズム信仰などにおいて,宇宙樹は多種多様な表象と意味を持つ。『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年


中国南部に流布する稲作天授神話と結合した宇宙樹 


湖南省・広西チワン自治区のヤオ族


大昔、天は低く、人間は大木を伝わって天に行くことができた。そのころ、天神の命で地上の水を管理していたのが天に住む水仙姫であった。ある日、地上から来た若者に夢中になり、水口をふさぐことを忘れたために、地上は大洪水となった。天神ははげしく怒り、水仙姫は若者の手を取って逃げ出した。姫の両親は、頼もしい若者が気に入り、二人に穀物の種子とゴマの種子を与えて地上に逃がしてやった。二人は、すでに水の引いた地上で、穀物とゴマの種を撒き、人類や動物をつくりだした。天神はこの様子を見て二人を許した。ただ、人間が天に登って来ないように、天を高く引き上げてしまった。

この神話では天地を結ぶ大木が大きな役割を占めている。日本の天孫降臨神話でアマテラスとともに活躍する高木神(古事記以外ではタカミムスヒ)が、本来は天地を結ぶ宇宙樹であったことを示している貴重な資料である。
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天皇の来た道 (14)
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タカミムスヒは宇宙樹

中国南部稲作民族の樹木信仰  貴州省トン族の聖樹と祭り(聖母と稲)   

ミャオ族の聖樹祭芦笙柱の祭り 宇宙樹と太陽と鳥


中国南部の苗族集落には、芦笙(ろしょう)柱が立っている。芦笙柱は苗族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。芦笙柱はフウ(楓)の木で作られ、頂上に太陽の昇る方向を向いた木製の鳥が止まっている。この柱には下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ている。

毎年正月や春分・秋分などの祭りには、この芦笙柱を中心にして着飾った男女が輪になって踊る。苗族の子供や若い女性がハレの時に着る百鳥衣には服の裾に鳥の羽がいっぱいに縫い付けてある。昔、苗族に稲穂を運んできてくれたので感謝するためという。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html

13:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:07:38

タイ山地民

タイ北部に広がる標高500メートル~1500メートルの山岳地帯には、アカ族、ラフ族、リス族、モン族、ヤオ族、カレン族など十数部族、約75万人の少数民族が生活しています。

多くは中国南部やミャンマー、ラオスからここ1~2世紀の間に移住してきた人々で、どの民族も独自の言語と高度な手芸技術による民族衣装をもち、焼畑農業にともなう数年~十数年ごとの集落移動を繰り返しながら、伝統的な世界観と文化を保持してきました。

しかし、今、彼らの生活や文化が脅かされつつあるのです。

タイ政府による森林保護政策により、森林の伐採、焼畑が禁止され、定住を余儀なくされた彼らは、生活の基盤を根こそぎ失いつつあります。

かつてのように肥沃な土地を求めて自由に移動することができず、かぎられた土地で連作を繰り返さなければならないため、地味のやせた山の傾斜地では収穫量が極端に低下し、収量を上げるには高価な肥料や危険な農薬に頼らざるをえなくなるのです。

今では主食の米でさえ自給できなくなっている村も多く、人々は貧困にあえいでいます。

かつて唯一の現金収入の手段だった違法のケシ(阿片)栽培は、近年厳しい取り締まりをうけ、逮捕者も続出しています。

一方でタイ経済の急速な発展と近代化の流れの中で、貨幣経済や物質文明への誘惑から、村の若い人々は現金収入を求めて労働者としてバンコクやチェンマイといった都会に流れて行きますが、タイ語の教育を受けていないことから不当な差別や低賃金で苛酷な労働に甘んじねばならず、若い女性たちの中にはことば巧みにだまされてバイシュン組織に連れ去られるといった例もあります。

村は過疎化が進み、共同体意識は衰退し、農業に期待が持てなくなった男たちは阿片やヘロイン、覚醒剤などに手を出すようになり、村の中にも麻薬中毒者や覚醒剤の売買による逮捕者が急増しています。

親がわずかばかりの借金のかたに娘をバイシュン宿に売り渡し、帰ってきた娘がエイズに感染していたなどという悲劇は今でも枚挙にいとまがありません。
http://chmai.loxinfo.co.th/~sakura/hilltribes.htm


かつてケシ(阿片の原料となる植物)栽培は山地民の唯一の現金収入であり、民族衣装に使われる銀や美しいビーズなどを他の人々と交換する手段でした。それに阿片を他国に売ることが外貨獲得にもつながるため、タイ政府が山地民のケシ栽培を奨励していたのも事実です。

しかし、第2次世界大戦後辺りから、次第にタイが阿片供給国として国際的非難をあびるようになりました。国の発展のために各国と外交を結ばなければいけない政府は、この非難を抑えるためにケシ栽培を禁止しました。
それからというもの、山地民の村も厳しい取り締まりをうけ、逮捕者も続出しています。
ケシ栽培が禁止された今、村人たちは昔のように簡単に阿片を手に入れることができず、高額で買い取る必要があります。
しかし、そのようなお金を得ることは特に中毒に陥ってしまった人々には難しく、子どもが町で稼いだわずかばかりのお金を親が麻薬や覚せい剤を得るために使ってしまうということもしばしば起こっています。
このような負のサイクルの繰り返しのなかで、親がわずかばかりの借金のかたに現金収入をもとめ、娘をバイシュン宿に売り渡してしまうということもおこっています。
そして、帰ってきた娘がエイズに感染しているということも起こりえるのです。
http://www.mirrorartgroup.org/japan/opium.htm


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子供らの誘拐多発、3年で755人=人身売買や臓器摘出目的
2007年4月19日16時0分配信 時事通信


 【バンコク19日時事】タイで子供などを狙った誘拐が多発している。2004年以降の被害者は755人に上り、その大半が行方不明のまま。人身売買やバイシュン、臓器売買が主な目的とみられ、子を持つ親たちを不安に陥れている。

 タイ警察と社会・人間開発省によると、事件は全国的に発生しており、被害者の多くは18歳未満の男児。ワゴン車で連れ去られるケースが多い。

 被害児童は無給で働かされたり、臓器移植が必要な人のために肝臓や腎臓などを摘出されたりしている。また、バイシュンや物ごいを強要されるケースがあるほか、子供がいない外国人の「養子」にさせられる被害者もいるという。

 バンコクで薬を飲まされ意識を失った少年2人がそれぞれ1万バーツ(約3万5000円)で売られ、漁船員として働かされていた事件もあった。

 深刻な事態を憂慮した労働省のパドンサク労働保護福祉局長は18日、全国の保護者に対し子供がさらわれないよう注意を呼び掛けるとともに、誘拐の疑いがあったり、幼い子供が重労働をさせられている現場を目撃したりした場合、警察などに通報するよう求めた。

保護者のあるタイ族の子供はタイ警察も保護するだろう。しかし、山岳少数民族や陸路で拐取移送される隣国民の子供の人身売買・児童買春については、無視、容認がタイの伝統である。

外で重労働をしていないとしても、北タイに行けば山岳少数民族やミャンマーから来ている「家内奴隷」のような女の子をしばしば目にすることができるだろう。

借金のかたに売り飛ばされるのはもちろん子供だけではない。タイ南部の町でもナイトクラブの前にたむろしているお姉さんたちにちょっとインタビューしてみれば、北部から来ている子や山岳民族らしい子が非常に多いことを実感するはずである。うちはチェンマイなどといっても、チェンマイの街中でも南部でも聞いたことのないような発音だったりする。

恒久的IDカード取得も難しくタイ国民としての地位も明確でない山岳民族の女性が、陸路南部まで拘束移送され、マレーシアを経てシンガポールなどの置屋に売られるという事例が後を絶たないようである。

最近もそのような事件が報道されている。

事件になったのは、シンガポール人の男が置屋にいたその彼女と出来て結婚しようとした(シンガポールではそういうことがよくあるのだろうか)らしいのだが、シンガポール当局は不法入国者として逮捕し、追放しようとしたりして裁判になっているという話。

バンコクポストは、シンガポールでひどい目にあっていた女性がたまたまタイ国民だっただけの、「置屋の恋」みたいな感じで取り上げている。しかし、英語はもちろんタイ語さえ満足に話せない女性だという。

タイ北部の山の中で拐取され深南部まで拘束移送された過程における「タイ人の関与」などまったくなかったかのごとくである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/3755_6018.html


チェンマイで逗留してる際に聞いた話ですが、現地じゃ日本円で2万も出せば小学生児童(少女でも少年でも)の買春が市内各所、どこでもできるそうです。

もちろんタイでも建前上、人身売買や児童買春は禁止されていますが、収賄により官僚や警察も「シンジケート」に取り込まれている状態で、法律は機能不全です。
梁石日の「闇の子供たち」という映画でこの問題がとりあげられてましたが、人身売買どころか臓器売買も横行しています。

10数年来現地にロングステイしている方々と会食中、自分は肝炎を患ったことがあり、あまり酒が飲めないと話したところ、「500万円ほど用意すりゃ、肝臓だろうが腎臓だろうが、角膜だろうが、なんでも’新品’に交換してやるよw」と言われ背筋が凍りつきました。

この’新品’ってのがミソです。つまり、タイ東北部の貧農や少数民族、カンボジアやミャンマーなど周辺国から子供を買い付け、解体して臓器売買するルートがある、ってのは都市伝説でもなんでもない、現実だということです。


さらに驚いたのは、子供の買取価格、つまり「原価」ですね。

地域やブローカーによって幅があるとのことですが、日本円にして4、5万円も出せば十分とのことです。なんせ山岳民族には算数すら習っておらず金勘定ができない、今だ貨幣価値や相場がわからない人も多くいるわけです。上手くやれば家電品との交換で交渉成立なんてのもザラだそうで、これが人間1人、「命」の値段です。

市場経済においては人間ですらモノとして流通され、生命に対する畏怖の念もクソもありません。まして人身売買ビジネスというのは、最短1、2ヶ月で数100倍という桁外れのリターンが望めるわけですから、これに資本が投下され一大産業と化すというのも当然の成り行きです。

結局、資本主義というイデオロギーは貨幣物の神化現象であり、「資本の利回りを最大化せよ」という啓示においては、奴隷商人や臓器ブローカーですら、神官や司祭に通ずるということです。
http://www.asyura2.com/10/senkyo90/msg/905.html
14:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:14:46

タイは輸出大国 _ 日本に何故タイ山岳民族の少女が輸出されるのか?
上野はアジアであって日本ではなく、沖縄も未だ本土復帰していなかった:

http://hage.momo-club.com/info/japan.html
http://www.f-1gp.com/sd/xn----heub1iuee2mzc/%E3%82%BF%E3%82%A4-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3/

タイ:バイシュン国家、お猿さんの国、白人と仏教とアレが好き、世界一の人種差別大国

タイ人女性 :金に困っている訳ではないが上から下まで全員バイシュン婦
凶暴で怒ると直ぐに〇〇〇を切ろうとする

タイ人の元バイシュン婦 :タイ山岳民族の少女をバンコクや日本に売り飛ばして稼いでいる
タイ山岳民族の少女 ; 食うや食わずの家族を助ける為にバンコクや日本に出稼ぎに出る
白人 :タイ山岳民族の幼女と金を払って“自由恋愛”をするのが好き, 幼女でないと立たない
日本人 :鴨ネギちゃん, 生〇〇〇が大好き, 若いタイ女性と結婚後 行方不明になる事多し


① タイ山岳民族の少女
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/asiasmile2.html
② タイ人の女の子
http://hage.momo-club.com/yaritai/top-yari.html
http://thaibeautygirl.blog78.fc2.com/


詳細は

タイは天国に二番目に近い国 1
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/377.html

タイは天国に二番目に近い国 2 _ 誰が私をこんな女にした
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/378.html

タイは天国に二番目に近い国3 _ 鴨ネギにされる日本人
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/379.html


1) 映画 闇の子供たち


舞台はタイ。

ヤイルーンは8歳のときに実の親に売られて、タイ北部の貧しい山岳地帯の村からバンコクに連れて行かれた。

両親は娘を売った金で冷蔵庫とテレビを手に入れた。

ヤイルーンは日本や欧米などの世界中の富裕層が集まるバイシュン宿に連れて行かれ、大人たちの性的玩具にされていた。

1年後、エイズを発症したヤイルーンは商品としての価値をなくし食事も与えられず、ゴミ袋に入れられ、処理場に捨てられる。

そして、ヤイルーンが売られたその2年後、今度は8歳になった妹のセンラーがバイシュン宿に売られていった。
http://www.youtube.com/watch?v=ETXTNKYtFiA


「闇の子供たち」バンコク映画祭で上映中止に


映画「闇の子供たち」は、明日23日から始まるバンコク映画祭に出品されていましたが、その上映が中止されることになりました。

決定を下したのは、映画祭のスポンサーであるタイ政府観光局とタイ映画連盟。

タイ国内での撮影の許可を得ないまま撮影されたこと、そして、「悪事を働くのは外国人ではありますが、映画にはタイ社会にふさわしくない児童バイシュンに関する不適当な内容を含んでいます」(Jaruek Kaljaruek連盟議長)というのが理由です。

しかし、実際のタイの児童買春や人身売買、臓器密売の現状は、原作の本や映画以上だといいます。
http://fwinds.jp/mail-magazine/148.html


タイを舞台に幼児売買春、生きたままの子供から臓器を摘出するような、臓器売買の実態を描いた映画「闇の子供たち」(阪本順治監督)が、異例のヒットをしているといいます。

タイの、そして日本の臓器移植とそれに伴う臓器売買の闇の部分を、事実に基づいて描いた映画です

経済発展が伝えられているタイですが、中国の状況に似ていて、バンコクのような大都市と地方の経済格差はたいへん大きく、特に北部の山岳地帯の村々に住む農民たちは、長引く旱魃の影響もあり、自給自足も困難なほど困窮しています。

こうした地域に住む人たちは、政府から自分たちの地域を出てバンコクなどに行くことを禁じられており、よその地域に働きに行くことができない。

隣国のラオスなどに密入国して仕事を探す人もいるが、仕事を得られる人はごくわずか。

そこで子供を人身売買業者に売るということが行われています。

タイとカンボジアの国境地帯の難民キャンプには、50万人といわれる人たちがいますが、そこの警備兵が、子供を誘拐して人身売買業者に売り飛ばす。

中には国連の職員、難民高等弁務官事務所の職員の中ににまでも、そういうことをしている者がいるといいます。

あるいは、親が食糧不足で子供を満足に育てることができず、わずか500バーツとか600バーツほどで(1バーツ3円強)子供を売ってしまうこともあります。

「売る」というのは文字通り「売る」わけで、一定の期間が過ぎれば、親元に返してもらえたりすることはなく、まるで物のように業者間で転売を繰り返され、そのうち子供は所在不明になってしまいます。

売られた子供たちは、バンコクなどのバイシュン宿に連れて行かれ、幼児性愛者の大人たちの性的欲望を満たす道具にされます。

バイシュンというのは、自分の体を売ることで相手からお金をもらう行為ですが、子供たちがさせられている買春は、バイシュン宿が儲かるだけで、子供たちには一切お金は与えられない。

単に客を取らされるだけの奴隷のような存在です。

ろくに食べるものも与えられず、地下室のようなところに監禁され、棒で殴られたり、煙草の火を押しつけられたりといった暴力を日常的に受けていて、その恐怖から言うことを何でも聞くように仕向けられます。

タイやフィリピンなどの東南アジアに買春目的で日本やアメリカなどの男たちが行くことは知っていましたが、「闇の子供たち」を読んで、客の中には女も相当数いることを知りました。

そしてバイシュンさせられている子供たちの中には、女の子だけではなく、男の子もかなりの数になることも。

女の客は、主に男の子を求めて来る。その中に日本人がいるかどうかは小説ではわかりませんでしたが、アメリカやヨーロッパの女が、10歳になるかならないかの男の子との性行為、それもかなり異常で激しい行為を楽しむために、休暇を取ってやってきます。

原作の中に出てくる性行為の描写は、恐ろしくリアルで生々しく、読むに堪えないような内容でした。SMと言われるような行為にあたるのでしょう。

大人同士が合意の上で行うのであれば、そういう行為も許されるのでしょうが、わずか8歳とかせいぜい14歳程度の子供たちに対して無理やりそれが行われている。

あまりにも悲惨な内容で、読み飛ばしてしまったところもあるのですが、一点、男の子に対して行われていることを、具体的な性的描写の部分をはぶいて紹介します。

客の女が男の子と行為を行う際、ホルモン剤を子供に使うことがある。

わずか 10歳前後の男の子のペニスに、これを直接注射すると、みるみるうちに大人のそれのように膨張することから、好んで男の子にこれを使う女の客がいる。

が、そんな薬が体に良いわけがなく、たいへんな副作用で、やられた子供は後で苦しむことになります。

ホルモン剤は、プロスタグランジンEIというもので、インポテンツの治療に有効だが、通常は医師がほかの薬と一緒に少量処方して使うもの。

しかし、バイシュン宿にそんな医師はいない。

それでこの薬品をそのまま子供に使うわけですが、そうすると、心疾患、脳梗塞、低血圧といった強い副作用が出ることに。

それが元で死ぬ子供もいます。

子供が死んだとしても、警察に捕まるようなことはなく、子供の遺体はゴミ袋に入れられ、他のゴミと一緒にトラックでゴミ捨て場に運ばれ、捨てられます。

原作の小説の中には、エイズに感染して発病したことから、生きたままゴミ袋に入れられてゴミ捨て場に捨てられた少女の話がありました。

その少女は、捨てられたゴミ捨て場から、歩いて故郷の村まで帰ります。

が、エイズが発症しているため体中に発疹ができて、そこから血液や膿が出て、家に帰るまでに衣服もボロボロになってしまったため、人間とは思えないような姿になります。

そんな娘を、両親はエイズ怖さに庭に檻を作って閉じ込めます。

ある日、ボロボロになった娘に無数のアリがたかって、口や鼻、耳の穴から体の中に侵入しているのを母親が発見。

それを聞いた父親が、ガソリンをかけ、娘を生きたまま火をつけて焼き殺してしまいました。

児童買春や子供を売り買いするような行為は、法律的にはもちろん、禁止されています。

が、役人も警察もそうしたことを生業とする業者たちとグルで、賄賂をもらうことで犯罪を黙認しています。


子供たちは性的な奴隷になるだけでなく、臓器の提供者(ドナー)としても使われます。

いわゆる臓器売買と言われるもの。

日本などの先進国の金持ちの子供たちの命を助けるため、生きたまま臓器を取られ、殺されるのです。

これには手術を行う病院も警察、役人、地元の犯罪組織、日本の暴力団などか複雑にからみあっていて、全貌がよくわかっていないようですが、金持ちの日本人が支払う数千万円という高額な手術費用は、そうした犯罪組織の間で分けられ、彼らの活動資金となります。

日本ではときどき、臓器移植によってしか助からない子供がアメリカに渡り、移植手術を受けて命が助かって日本に帰ってくることが美談のように報道されることがあります。

が、その影で、多くの子供がドナーな見つからず、移植を受けられずに亡くなっています。

それでアメリカでドナーを待つ時間の余裕がなく、お金のある人たちは、わが子の命を救うため、タイへ行き、そこで子供に移植手術を受けさせるのです。

ドナーは、臓器売買に関わる犯罪組織が見つけてきます。

バイシュン宿などに売られた子供たちの中から、健康で、エイズに罹っていない子を選んで。

病気の金持ちの日本人の子供の命を救うために、タイの貧しい農村で生まれた幼い子供の命が犠牲になるのです。

__________

2) タイと日本が世界で一番悪質な人身売買国家

人身売買・児童買春を容認するタイの伝統


アメリカ、タイを人身売買監視国に指定 2010年06月16日

 プーヂャッカーン紙によると、アメリカがタイを人身売買監視国に指定した事が明らかになった。

 14日に公開されたアメリカの人身売買に関する年次報告書によると、アジアではタイの他にシンガポール、ベトナム、アフガニスタン、ブルネイ、モルジブが人身売買監視国に指定されている。

 また年次報告書によると、タイは、人身売買の始発点、終着点及び中継点として利用されており、特に少数民族や近隣国の市民が性的な目的の人身売買や強制労働目的の人身売買の犠牲者になる危険性が高いという。
http://thaina.seesaa.net/article/153360844.html

米国国務省が毎年発表している人身売買報告書によると、およそ60万人から80万人が国境を越えて取引され、そのうち約80%が女性と少女で、50%が子どもです。

彼女は、バスの運転手に、無料でタイの工場に連れていってやると言われ、ついていった。

ところがバスの運転手は彼女をバイシュン宿に売り飛ばした。

バイシュン宿の主人は、バスの運転手に払った金額を働いて返すまで出て行くことはできないと彼女に告げた。

その金額がいくらなのかを教えられることはなかった。

彼女はここから逃げることはできないと思っている。

彼女は自分がひとりの客からいくら稼いでいるのかも、借金を返し終わるまでどれくらいかかるのか知らない。

(タイとビルマ国境地帯からタイに人身売買された子どもの被害者。ILO-IPECのレポートより
http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=2189

タイ北部のある村の実情です。

一時期ほどではありませんが、まだ人身売買が当たり前のように行われています。

私も「処女屋」といわれる所の人を取材したことがあります。

実際小学生くらいの子が5万から7万で値段がついていました。

村で一番価値あるものはと村人が話したのが、「若い女性」です。

バンコクの繁華街では日本よりも規模がおおきく、種類も豊富なのはこのような子達が巻き込まれているのもあります。

私は普段タニヤでへらへら飲んでいるわけではなくて(へらへらしちゃいますが)、一部の子達は自立のために助けになることがわかっているので、一概に風俗のお一言で片付けないのはこの辺の経験からです。

村では収入のためにバンコクに送られて性的サービスをさせられ、家族の借金やちょっと書けないような契約があり、10万バーツ以上の借金を背負い、窓がないバンコクの暗い部屋で失意の生活を送るということです。
http://ameblo.jp/silom-surawong/entry-10229988041.html


子供らの誘拐多発、3年で755人=人身売買や臓器摘出目的 2007年4月19日


 【バンコク19日時事】タイで子供などを狙った誘拐が多発している。

2004年以降の被害者は755人に上り、その大半が行方不明のまま。

人身売買やバイシュン、臓器売買が主な目的とみられ、子を持つ親たちを不安に陥れている。

 タイ警察と社会・人間開発省によると、事件は全国的に発生しており、被害者の多くは18歳未満の男児。ワゴン車で連れ去られるケースが多い。

 被害児童は、臓器移植が必要な人のために肝臓や腎臓などを摘出されたりしている。また、バイシュンや物ごいを強要されるケースがあるという。

 保護者のあるタイ族の子供はタイ警察も保護するだろう。

しかし、山岳少数民族の子供の人身売買・児童買春については、無視、容認がタイの伝統である。

外で重労働をしていないとしても、北タイに行けば山岳少数民族の「家内奴隷」のような女の子をしばしば目にすることができるだろう。

借金のかたに売り飛ばされるのはもちろん子供だけではない。

タイ南部の町でもナイトクラブの前にたむろしているお姉さんたちにちょっとインタビューしてみれば、山岳民族らしい子が非常に多いことを実感するはずである。

恒久的IDカード取得も難しくタイ国民としての地位も明確でない山岳民族の女性が、陸路南部まで拘束移送され、マレーシアを経てシンガポールなどの置屋に売られるという事例が後を絶たないようである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/3755_6018.html


私がタイで見た現実:性産業に人身売買


タイ北部のパヤオ県に、横浜YMCAとバンコクYMCAの協業で設立された児童保護シェルターがある。

昨年3月、私は縁あってそこを訪れた。

 シェルターの設立目的は、「人身売買などのリスクから子どもたちを守ること」。
昨年時点では、3歳~18歳の約50人の子どもたちが共同生活をしていた。

 この地域はミャンマーやラオスとの国境に近く、モン族など少数民族の人々が多く生活している。

彼らの一部は、国籍を持たなかったり、僻地(へきち)の集落に隔離されてしまっているため、貧困に悩まされて子どもをブローカーに売り渡してしまうケースが後を立たないのだ。

 シェルターに来ることができた子どもたちは「運が良い」と言えるかも知れない。

シェルターは設立以来、日本の団体と現地の総領事館によって支援を受けており、親の負担なしに学校に行かせてもらえるだけでなく、面倒も見てもらえる。

シェルターの子どもたちの中には、両親が貧困のために麻薬栽培に手を染めて刑務所送りになった子もいるが、奨学金などの制度もあるため大学まで進学することも不可能ではない。

 だが、こうした支援や保護を受けられなかった多くの子どもたち、特に少女は人身売買ブローカーによってバンコクに売り飛ばされる。

バンコクのパタヤやパッポンストリートといった歓楽街で働いている「性産業の奴隷」の多くが、実はタイ北部から来た未成年の少女たちだ。

 4月になり、パヤオ県のシェルターからバンコクに移動してきた私は、夜のパッポンストリートに行ってみた。

同行した事情通の方の1人が、閉店したカフェ1階の屋外の席を指差す。
そちらを見ると、暗がりの中で話し込む中年男性がいた。


 「彼らが今まさに人身売買の交渉をしているんだよ」

 あ然とした。名の知られたブローカーであるようだ。

こうも簡単にアンダーグラウンドの世界を垣間見るとは、とショックを受けた。


 翌日、バンコク郊外にあるエイズ孤児シェルターの施設に行った。

 この施設には、親をエイズで亡くした孤児やストリートチルドレンなどが共同生活を営んでいる。

母親から受け継いだのか、自らがエイズに感染している子どももいる。
私が行った時には、30名ほどがいた。

 施設の職員などによれば、バンコクで路頭に迷ってしまう孤児などのなかには、父親がわからない子も多い。


 人身売買は日本国内でも問題になっている。

国内では毎年のように、タイやカンボジアといった東南アジア諸国から入国目的を偽って渡航してきた少女が保護され、バイシュンを強要していたブローカーが逮捕されている。

 タイをはじめ東南アジアから日本に渡航した人身売買被害者の少女たちは、アパートの一室などで毎日、休みなくバイシュン行為をさせられている。

その収入の多くがブローカーや子を売り渡した親に渡るが、バイシュンをしている少女本人が受け取る金は極めて少ない。

 タイ北部のパヤオ県やチェンライ県では、広大な農地の一角に巨大な豪邸が建っている事がしばしばあるが、これらの多くが子のバイシュンで富豪になった親たちの住まいである。

だが、親たちは子が「日本やバンコクの工場で働いている」とブローカーから聞かされ、その嘘を信じて疑わない。
http://polarisproject.blog96.fc2.com/blog-entry-581.html

千曲のバイシュン・人身売買事件タイ人2人容疑で逮捕


千曲市上山田温泉のスナック「シャンデリア」を舞台にしたバイシュン・人身売買事件で、県警生活環境課と千曲署などは6日、いずれもタイ国籍で、同所のスナック「レモングラス」従業員コバヤシ・ラタヤ(26)(長野市合戦場)、住所不定、無職パラセーン・アナンヤー(34)の両容疑者を人身売買(売り渡し)容疑で逮捕した。

発表によると、2人は共謀、昨年11月中旬、レモングラス店内で、タイ人女性(30)を240万円でタイ国籍で同市内川、シャンデリア経営者のタナカ・ナッタポーン被告(41)(人身売買罪などで公判中)に売り渡した疑い。2人は「金は受け取っていない」などと容疑を否認している。

捜査関係者によると、女性は、昨年11月から今年6月までシャンデリアでホステスとして働き、客相手にバイシュンをしていたという。 ソース:読売新聞 (2009年12月7日)


_________

 タイ人女性を日本のバイシュン組織に斡旋していた女が10月18日、東北部コンケン県内のガソリンスタンドで逮捕された。

 この女は東北部ノンブアランプー県内の学校教師、チラパット容疑者(53)。

調べによると、2009年11月13日、バイシュン目的のタイ人女性を数人連れて日本に行き、日本側エージェントに引き渡し、手数料を受け取った後、タイに戻ったという。

 しかし、タイ人女性は日本到着後、諸費用として約100万バーツを請求され、その返済のため、軟禁状態でのバイシュンを強要された。

 これら女性は、今年6月3日、日本の警察に保護され、タイに強制送還されているが、日本での取り調べで、チラパット容疑者の存在が明らかになったことから、日本側がタイ警察に捜査協力を求めていた。
http://ameblo.jp/onigasima-kaminarisinno/entry-10387226989.html

13歳のタイ人少女、日本に人身売買される 21世紀版「じゃぱゆき」さん

まだ年端もいかない13歳の少女を日本に売り飛ばし、一年あまりに渡って、温泉街などでバイシュンさせていた。

その仲介者二人が逮捕された。21世紀のいま、日本で起きている現実の出来事だ。

 タイから連れてきた当時13歳の少女をバイシュン目的で売買したなどとして、警視庁少年育成課は4日、タイ人ホステスら2人を児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童買春等目的人身売買)などの容疑で逮捕したと発表した。

 逮捕されたのは、神奈川県愛川町中津、

タイ人ホステスでブローカーのピンゲーウ・グリッサニー(24)、

東京都日野市旭が丘、会社員白鳥清(65)の両容疑者。

 調べによると、ピンゲーウ容疑者は2002年10月ごろ、タイ国籍の少女(当時13歳)が18歳未満と知りながら、日本に入国させ、新宿区内のファストフード店で別のバイシュンブローカーの女にバイシュン婦として売り渡し、現金230万円を受け取った疑い。

 また、白鳥容疑者は04年1月ごろ、群馬県高崎市のJR高崎駅前で、15歳になったこの少女を埼玉県川越市の男(68)に紹介、6万円でバイシュンさせた疑い。

 調べでは、少女はタイ国内で「日本に行かないか」と誘われ、入国した02年10月から04年4月にかけて、バイシュンブローカーらに次々と売買されながら、群馬県内の温泉地や都内のホテルなどで、計約200人を相手にバイシュンさせられていた。

 少女は計約400万円を稼いでいたが、月約3万円をタイに送金するなどしていた以外は、白鳥容疑者らに巻き上げられていたという。

 同課の調べでは、今年3月に入管難民法違反のほう助の疑いで逮捕された独立行政法人「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」の調査役の男(当時59歳)が、自宅に住まわせていたタイ人の少女(19)も、白鳥容疑者らの組織から転売されたものとみて、詳しく調べている。(2005年7月4日12時23分 読売新聞)


白鳥清らがバイシュン代金のほとんど、400万を奪い、少女には月3万。

その3万も少女の親に仕送り。

少女は、バイシュンを拒否すれば家族に被害が及ぶと脅され、1年5ヶ月で200人の客と。
もし摘発されなかったら、少女は苦界から解放されなかったんだね、何て奴らだ。
http://blog.livedoor.jp/milkbottle/archives/27287954.html


騙されて連れてこられて、気がついたらバイシュンを強要されていた13歳の少女。発端はJAXAの少女飼育男か。あれも碌でない事件だったが。

彼女は現在、タイ国内の保護施設で心の傷を癒しているそうだが、大人の欲望に蹂躙された痛手は深い。NHKの報道。

娘達を売って、「豊かな暮らし」を手に入れた父親が得々として豪邸を見せて、自慢している。

大人がなぜ少女達を売りさばくのか。

背景には絶対的な貧困がある。貧困によって教育を受けてない親は、平気で娘を売る。
けなげな娘達は、まさか自分がバイシュンをしに日本に行くとは思ってないのだ。

ブローカーは、工場で働くなどと騙して連れてくる。

国内では、「異様に若い風俗嬢」が目撃されている。
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2005/07/1321_2b3e.html
15:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:15:29

【タイの「人身売買」 1人240万円、「品評会」で仲介】


 タイ人女性を不法に入国させ、強制的にバイシュンなどをさせる「人身売買」に関与しているタイの人身売買組織の関係者と朝日新聞記者がバンコクで接触に成功した。

日本に連れて来られ、バイシュンなどを強要される外国人女性はタイ人が一番多い。

日本での生活費などと称して法外な借金を背負わされ、長期間にわたり自由を奪われる。

入国審査で指紋採取が義務づけられたが、この関係者は、他人のパスポートを使う方法でしばらくは不法入国は続けられると話した。

 11月下旬、タイの首都バンコク。午後、指定されたホテルの一室に、タイ人女性のグループが入ってきた。

人身売買組織の元締の女性(45)と仲介役の女性(38)、日本に「売られる」女性が3人。

 「私がボスです」と元締女性は名乗った。

見た目はどこにでもいそうな中年女性だ。

 女性を日本の受け入れ側に紹介する機会を、タイ人仲介者の女性は「品評会」と呼んだ。

ボスのところには、人身売買と知りながら「仕事」と割り切って日本行きを希望する女性が多く訪ねて来る。

女性に服を脱がせ、出産の跡がないかなどを調べることも受け入れているという。

 「240万円を用意できますか」。

ボスは、どんどん契約の方向に話をもっていこうとする。


 からくりは、こうだ。

日本に送り込まれる女性は、1人あたり240万円で日本のスナック経営者らに売り渡される。

女性は、日本での生活費などとして、取引したスナック経営者らに500万円の借金をした形にされる。

スナック経営者らは、女性を店で働かせながらバイシュンさせ、代金をすべて取り上げる。
その徴収総額が借金額まで達したら、スナック経営者らは女性を自由にする。

 もし女性が逃げたら、契約額240万円のうち女性が日本で稼いだ分を除いた金額を、ボスが「購入者」に返済する。

誓約書も書くという。

 ボスは損をしないように手を打ってある。

「入国させる女性の家族に240万円の架空の借用書を書かせ、女性が逃げたときは家族に払わせる。

払わない場合は裁判を起こす」。

日本での稼ぎを当てにしている家族は拒まない。

「だから、今まで逃げた女性はいない」と胸を張った。

 では、どうやって日本に入国させるのか。

入国の手口は、本物のパスポートと、他人のパスポートを使う二つの方法があるという。

本物の場合、渡航費用の支払い能力を示す預金残高証明書などが条件とされるため、就労目的の疑いを持たれる一般女性にビザは出にくい。

一方、日本人と結婚した者からパスポートを買ったり借りたりすれば、配偶者ビザが出やすい。

 11月20日から外国人に指紋採取を義務づける日本の入国審査制度が始まった。

制度導入前は、他人名義のパスポートで、顔写真と似ている女性を複数人、何度も入国させられたが、制度導入後は、指紋が違う人物の入国が難しくなる。

 「でも、まだ指紋採取されていない者のパスポートを使えば、しばらくは入国できる」とボスは平然と言った。   

 昨年、日本に入国したタイ人女性は8万人近い。

そのほとんどは、違法行為とは無関係である。そのことを付け加えておきたい。(名古屋本社報道センター長・真田正明)
http://blogs.yahoo.co.jp/tenohira_is_for_children/50794446.html

ソムヨット26才彼が同年代の他のタイ人男性と少し違うところは彼は働かない。

一家の稼ぎ手は彼の妻で、彼は髪結いの亭主だ。

ソムヨットは金持ちの家に生まれたわけではないが、P村で周囲を圧倒する外国風の家に住み、新車を乗り回す贅沢な暮らしをしている。

デン69才はソムヨットと同じP村に住む百姓だ。彼はソムヨットより大きな家に住んでいる。

建築費だけでも二百万バーツ(約六百万円)十年前はおろか今でも想像できない金額だ。

この村で二人だけが一夜にして富を得たわけではない。

この同じ村で同じ二十世帯以上の豪邸がある。

文字通りのボロ屋からテレビ、ビデオ、ステレオ、冷蔵庫、洗濯機付きの豪邸に引っ越した。

ボロ屋を敷地に残したまま不釣合いな豪邸が建っている。

全てが整っているにもかかわらず村には何かが欠けていた。

女性がいない。若い女性がいないのだ。

ここの郵便配達も

「この村は女日照りだ。ここで嫁さんを探すのは至難の業だ」

と苦笑いした。


なぜ、若い女性がいないのか。

バンコク、日本、台湾、香港に出稼ぎに行ってしまっているからだ。

この村には毎月二百万バーツが海外送金されてくる。

特に4月、タイ正月の時には一千万バーツ以上にもなる。

大場良枝(仮名)27才関西出身、京都の某大学卒業後家電メーカーに勤めるが上司との不倫が原因で1年で退職し、在学中スタデーツアーで来た事のあるチェンライでNGOの手伝いをしようと思い一人で来た。

チェンライに来て半年後、タイ人の男Sと知り合い同棲、彼がタイ人女性を日本に送り出しているブローカーと知るには時間がかからなかった。

彼女はタイ人女性が騙され日本でバイシュンさせられていることを知っていたがSから

「同じ体を売るのなら少しでも儲うけて家族に送金させた方が良い」

と説得され犯罪とは知りながら協力することを承知した。

取材メモからの一問一答です。

私は「何故この仕事に手を染めるようなったか、いつから?」

良枝さんは「Sから説得されたから。この仕事を始めてから約4年です」

現在Sは薬物所持の現行犯で逮捕されチエンライ刑務所に収監されている。

「あなたの事を『人身売買ブローカー』と言う人もいますが、誰がタイ側のボスですか?」

「自分では人身売買とは思いません、
何故なら彼女達はバイシュン目的のために日本に行くことを知っているからです。
ボスはいません。今は地元の警察官と共同で送り出しています」

チェンライ県メーサイ郡は色白の美人が多い事で知られ地元警察の中には斡旋業を本職にしている警察官もいるという。

「未成年の女性を送ったことがありますか? それと女性を集める方法は?」

「何度か未成年の少数民族少女をタイから出国させた事があります。

もちろん彼女達は国籍がないのでパスポートは取れません。

だからチェンマイに行きタイ国籍を3万バーツで買い年齢を18才以上にしてタイの旅券を申請します。

タイ国籍を持ち18歳以上であれば旅券取得には問題はありません。

女性を集める方法で一番早いのはお金です。


女性の親・旦那さんにお金を見せて日本で働けば毎月三万バーツ送金できる、と言いそれでも渋る人にはP村に連れて行き豪邸を見せれば殆どの人が承知します。」


「日本入国にはビザが必要だが取得する方法は?」

「三つの方法があります。

1.タイ→シンガポール→日本→アメリカまでの航空券を買い日本に着いたらトランジットで空港近くのホテルにチェックインし日本側の人が迎えに来てその人の住んでいるところに行きます。

2.本人の銀行残高証明・日本出国航空券・日本の会社から招弊状・保証人、これは正規で取るビザです。

3.タイ人男性と偽装結婚し旅行代理店を通して新婚旅行で日本に行く方法。


最近は違う方法を使いますが言えません」

タイから日本に行くタイ人女性は一年で五万人という記録がある。

出国記録が残っているのは約三万人でその差が日本国内にとどまっていることになる。

「何割が日本入国に成功するのか? 入国出来なかった場合は?」

「最近は6割ほどが上陸できます。

入国審査で上陸不可と判断された場合国外追放になり、多くの場合日本出国の航空券を持っているので次の国に行くことになります」

日本の場合ビザは外務省、日本入国は法務省管轄なので例えビザが下りても日本入国が絶対に可能ということではない。


「貧しい彼女達が日本に行くためには幾ら位の借金を背負うのか。

また貴女は一人送り込むといくら儲かるのか?」

「日本行き希望の女性たちは、前借・旅券代・ビザ代・往復航空券・出国前バンコクでの生活費・ブローカーの手数料など約四百万円。

その中から私に入るのは一人につき五十万円弱です。

入国できない女性はバンコクの日本人クラブでホステスとして働き使った経費だけ返してもらいます」

バンコクには約三百軒の日本人カラオケクラブがありバイシュンも行われている。

「運良く日本に入国できて借金を全額返すのに何年ぐらいかかるのか?

借金を返すまでタイに送金はできないのか?」

「約一年半、客に囲われた子は借金を肩代わりしてもらうので早く自由になります。

彼女達にバイシュン代は入りませんがチップが収入となりそれを地下銀行を使って田舎に送金します」


地下銀行とは日本にいるタイ人が良枝さんに電話し彼女がジャパゆきさんに代わり家に送金するので日本とタイの間ではお金は動かない。

「今までに何人日本にタイ人女性を送り込んだか」

「月平均三人、四年で約百五十人」

「今後もこの仕事を続けるのか? 同じ女性として心が痛まないのか?」

「日本に行きたい女性がいるかぎり続けます。

殆どの女性は日本での仕事がバイシュンだということを知っています。

タイ国内でバイシュンの値段は一回千五百円から外国人を相手にしても一万円です。

私は彼女達がバイシュンすることを止めることはできません。

それなら日本で一回三万円以上稼いだ方がいいのではないですか」


最近ヤクザではなく会社からリストラされたり定年退職後の日本人がタイ人女性と組み日本に女性を送り出しているケースが増えてきているという。

人々を人身売買に押し込んでいるのは貧困だけではない。通常はもう一つ別の原因がある。

例えば大場良枝のような海外送り出し業者とかバイシュン斡旋人などだ。

言い換えれば、貧困プラス何かなのである。
http://panews.rakurakuhp.net/i_142317,si_20837.htm
16:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:16:43


14 :名無しさん@6周年:2005/07/04(月) 11:03:48 ID:wfkNZxtd0
東南アジアの女使っている風俗店全般にいえることだが、明らかに未成年の子供を連れてきている店が多すぎる。

手とかに触れた瞬間、皮膚が若すぎるのが感じ取れる。

あんな不健康な生活していて、肌の状態が良いって相当若い証拠。

性風俗に関する倫理観なんて殆ど持ち合わせていないが、それでもあれは拙いと思ってしまう。

17 :名無しさん@6周年:2005/07/04(月) 11:26:11 ID:Tojk4zFn0
俺も、だいぶ前、風俗店で東南アジア系の女の子が隣に座って、どう見ても10代前半にしか見えなかったので、やばいと思って、すぐに店を出たことがある。
29 :名無しさん@6周年:2005/07/04(月) 11:53:51 ID:YoBqh4St0
石和温泉、水上温泉はそういう子のすくつですね。


37 :名無しさん@6周年:2005/07/04(月) 12:12:41 ID:ts98PmAL0
元値250万で、1年間の経費120万あだとしても、売り上げ400万だと赤字。

人身売買など割にあわぬ。関係者は重罪にしろ

40 :名無しさん@6周年:2005/07/04(月) 12:21:15 ID:ODD6U9pM0
酷い話だとは思うんだが、どうもなあ。
学生時代にカンボジアにボランティアに行ったんだよ。
スラムでバイシュンやってる10代の女の子にエイズの危険性を説くみたいなのだったんだが。

「エイズで死ぬのは何年も後でしょう?私たちは体を売らないと明日飢え死にしてしまうの」

って言われて何も言えなくなったな。
犯罪なのは間違いないがその事が思い浮かんで一概に責められん。


44 :名無しさん@6周年:2005/07/04(月) 12:30:30 ID:OIwuNgaX0
飢え死にするとかの話じゃない。
親が娘売って豪邸で遊んで暮らしてる。タイ人なんてそんなもん。
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2005/07/1321_2b3e.html


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3) 日本人は性奴隷の管理が得意1_ これが昔の方法


日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。
http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm


『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』

耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。

ところが、両親は私たちを残して死ん でしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。
 
私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。

弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。

私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。

私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。

私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。

到着すると将校が

「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」

と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。

あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。

それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。
 

ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に

「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」

と言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。

そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。

私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。


  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。

私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。

私はここの「慰安所」に8年間いました。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。

1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生 むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html

日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:


A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で

『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』

と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。

B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。


C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。


D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。


F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm
17:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:17:31

4) 日本人は性奴隷の管理が得意2_ こっちが現在の方法

女性心理をうまく利用してスマートに収奪できる様になったのは大進歩:

日本の経済成長とともに男性のバイシュンツアーが始まり、ついで女性たちが日本に連れ込まれるようになった。

「単に良い仕事があると騙して連れてきたんです。

逃げる女性が続出しました。特に歌舞伎町なんかはすごかったんですよ。

それで、アジアの女性たちを助けるために1986年、HELPを設立しました。

女性たちはバイシュンを承知して来たのではありません。100%人身売買の被害者でした。


精神状態が変になった人もいましたよ。

なかには、マニラ大学の理工学部を出た女性もいて、日本でコンピューターの仕事と言われて来たら、いきなりバイシュンでしょう。

 今は国際的な批判が大きくなって入管も難しくなっていますが、状況が良くなったとは思えません。それどころか、数が少なくなったせいで、一人に背負わせる借金が高くなってしますし、人身売買が始まって10年も経つと、働かせる側に同国人がいますから逃げにくくなっています」


 人身売買は、地方のほうが酷い状況だという。

HELPが受け入れたある女性は、地方の小さなスナックで8分毎に客を取らされていた。

まるで養鶏場のケージに入れられて卵を産む道具と化した鶏のような扱いである。


「今の日本人はポルノなどで過剰刺激を得ていますからレベルが酷いのです。

器具などを使った性的虐待で動物以下の扱いです。

伊香保温泉から逃げてきた人の場合、外見は普通のスナックですが、奥の部屋に10人ぐらい入れられて、30分毎に客の相手をさせられていました。


 千葉では女の子たちが大きな車に乗せられて、寝泊りも車の中で、運転手が携帯電話で客と取引して宅配便のように送り込まれていました。
もちろん運転手の上にはボスがいます」

 日本人は、アジアの女性が性虐待の犠牲になっている事実を知らなすぎる。
現状は従軍慰安婦の時代と何も変わっていないのだ。


「日本には他国のように看護婦や家事労働者のビザもなく、あるのは不法な人身売買だけです。この国に人権を語る資格はありません。地方の場合、警察官や入管職員もグルという例もあります。


 ある女性など、逃げて警察に駆け込んだら、三万円持ってきたら助けてやると言われたそうです。

それで、お金を用意してもう一度行ったら、ブローカーが捕まえにきたんですよ」

外国人女性の人権侵害は、日本女性とは質が違う。そして、需要がある限り、この状況は変わらない。

「普通のアパートのなかで、例えばあなたの隣でこうした事が今も行われているのです」

外国人だから、アジア人だからという二重、三重の差別構造のなかで、アジア女性に対する搾取は続く。
http://www.suzin.com/index/sabetu/zosei.html

「日本で人身売買 衝撃の実態」 

人身売買の被害者、38歳のタイ人女性がインタビューに答える。

「逃げることできない」
「(逃げれば)殺される」

日本で人身売買。衝撃実態。

「出稼ぎ費用は最初の約束は250万円、でも成田に入ったら500万と言われた」

出稼ぎの組織を被害者女性に紹介したのは、タイ女性(タイ在住)だった。

5年間で150人のタイ女性を組織に紹介した。
バイシュンをすることは知っている、女性には借金があるから。組織には日本人が居る、と。

組織で用心棒をしていたというA氏(日本人63歳)に聞く。


「タイの人身売買組織は私が知る限り8つ。
その半分が日本人の組織。
1年に1000人を日本に送っている。」

組織はボスを頂点とした15人ほどのグループでほとんどが日本人。

ボスの下に、手配師、パスポート調達係、日本語の教育係、そして運搬係(ジョッキー)が居る。

送られる(被害に遭う)女性はアヒルと呼ばれている。
ジョッキーの後ろをちょこちょこ歩いて着いて来るだけ、だからアヒル。

入国手口は?
「今の流行は"なりすまし"」

本物のパスポートを借りたり、買ったりし、そのパスポートの顔写真に似た女性を送る。

A氏が実際に使っていたという教育マニュアルを見せる。

入管でのやりとりの例、たとえば

「ご主人のお仕事は何ですか?」
「会社員です」

といった言葉がローマ字で記されている。

東京入国管理局(成田)の担当官に確認する。

「なりすましというケースが増加傾向にあります」

このなりすましの手口は今では不法入国の3割を占めるという。

被害にあったタイ女性も答える。

「パスポートは本物だけど(写真は)自分じゃないの」

彼女はやはりなりすましで入国していた。

再びA氏が答える。

「(似ていても違う部分がある場合は)整形をおこなう。
鼻の高さ、二重なんかは当たり前、あとホクロとか」

手術代は日本円にすると、鼻の整形3万円、二重まぶたへの整形2万7千円、目の下の脂肪吸引3万円など日本に比べれば格安。

こうした徹底の準備のもと、なりすましが行われていた。

A氏いわく

「タイ側の組織は、借金として250万円。

女性が日本側に付いて生活費の名目でさらに日本の組織が女性に250万の借金を背負わせる。

その500万円、全額返すまで逃げられなくする。」


「たとえば脅し、自分の両親、家と土地とかそういうものが無くなるよ」 と。

「納得できない女性は締め上げる。逃げることは出来ない。」


家族を人質にとり、自由を奪う方法。

被害女性は結局5年間日本で働かせ続けられた。

もう日本へは行きたくない、と。

それでも日本への出稼ぎ希望者はあとをたたない。

タイの農村部に住む19歳の女性。

「(だまされる確立が50パーセントなら)日本へ行きたい、5歳の妹の学費を稼ぎたい」

去年の人身売買がからむ検挙数は36件、しかしそれは氷山の一角だと言われている。

スタジオ。菊川怜。

「こちらは火曜日に発表されたアメリカ国務省の資料。

日本の覧にはYAKUZAという言葉が。

被害者は恥ずかしさや暴力に寄る報復を恐れ、当局に進んで助けを求めることはしない、と女性が置かれた状況を報告しています」
http://www.taideomou.com/archives/50850840.html

A :記事の意味がよくわかりません。

被害女性は、お金を受け取っているのでしょうか?

「約500万円の借金を負わされ」とありますが、
どうやって負わされたのかがわかりません。

Q : いや、違います。彼女は一円だって受け取ってはいません。

渡航費用や日本での部屋代、食費などを肩代わりしてもらっただけなのです。

ひょっとしたら偽造パスポートや偽造外国人登録証代なども含んでいるかも知れないですね。

更には仕事の斡旋料、携帯電話のリース料、送り迎えの車代、などなど。

いろんな名目で代金を請求します。

それでも一日3万円稼げばあなたの取り分は一万五千円、そこから一万円づつ返していけば2年で返せるでしょう?となる訳です。

日本人にとって一日5千円にしかならないなんて馬鹿馬鹿しい話ですが、
それでもお国でバイシュンするよりずっと割がいいのでこんな馬鹿馬鹿しい話にも乗ってしまうのです。

http://questionbox.jp.msn.com/qa5504901.html

人身売買で日本に連れて来られて連日無償のバイシュンを強制され、そこから逃れるためにしたことが強盗致死罪とされて懲役7年の刑を受け、受刑中にガンを発症したために強制送還されたタイ人女性がいます。


  タイの貧しい農村の出身であるケイさん(仮名)

 は、騙されて、2000年2月に日本へ連れて来られました。

そして、暴力団とつながったタイ人のママに 買われて四日市市内のアパートに連れて行かれ、多額の架空の「借金」の返済を口実に、5ヶ月の間1日の休みもなく無償のバイシュンを強制されました。

 ケイさんは、このままでは生涯タイに帰れないと思い、逃げようと決意しました。

 そして、一人のタイ人男性に助力を求めたのです。

ママのアパートまで来た男性がママを殴っている間に、彼女は自分の所持品とお金を持って逃げました。

ところが、男性は、このままではヤクザに殺されると思い、ママを殺してしまいました。
 
ケイさんは、警察に捕まり、強盗致死罪で起訴され、懲役7年の刑を受けました。

 ケイさんは、5月中旬頃から激しい腹痛に襲われ、医療刑務所で検査・手術の結果、ガンで余命数ヶ月と診断されました。

私たちは、家族の見守る中で治療を受けて欲しいと思って彼女の帰国の実現を図り、タイ大使館のねばり強い努力もあって、9月下旬にタイへの帰国を実現することができました。

現在、彼女はバンコク市内の救急指定の病院に入院しています
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/3cbe969e032f38cce5c357327b652038

アジアや南中米などから移入した性産業で働く女性については、古くからその苛酷な状況がたびたび指摘されてきた。

グローバリズムのもと、多くの途上国の農村部では男性が職を失っている。

家計は出稼ぎ女性の仕送りに頼らざるを得ない。

90年代の初めはタイ出身のセックスワーカー10万人が日本の風俗産業を担ってきた。
バイシュン用に「売られる」タイ人女性たち

国際人身売買組織によって入国した人タイ女性は、「借金」という形で数百万円の入国手数料を支払うためにバイシュンを強要され、自由を奪われ続けている。

在日タイ大使館は、「日本国内でバイシュン業に携わったタイ人女性が、毎年五〇人近くエイズによって命を失っている」と発表している。

こうした経験により、多くの女性たちが心身に深い傷を負って帰国し、その後も心身の病や困窮生活にある女性が少なくない。

如田さんはタイ女性のAさんと知り合い、支援グループ「タイ─日移住女性ネットワーク」(SEPOM)を設立した。

Aさんは、九〇年初めに人身取引により千葉県へ連れてこられたセックスワーカーだった。

バイシュンを取り仕切っていたママを、他のタイ女性四名とともに殺し、懲役六年の実刑判決を受けた。

店長殺人事件の背景


タイ女性が日本に入国して就労する場合、通常、村のリクルーターが「窓口」になる。

そして、パスポート等を偽造して入国させる役割の者や引率する者が同乗し、日本側の空港にいるブローカーに引き渡す。

古いアパートが人身売買のマーケットである。

約一五〇~二〇〇万円でスナック、バー、風俗関係の経営者ら(ヤクザや外国人も多い)が彼女たちを買う。

その「買い取り額」の二倍(三〇〇~四〇〇万円)が彼女たちの「借金」として背負わされる。


Aさんは「裸になれ」と強要され、写真を撮られた。

Aさんを買った店長(ママ)が写真を見せながら、

「どこに逃げてもヤクザが追いかけてくるぞ」と脅した。


毎朝六時に起床し、日中は店長の家の家事や畑仕事をさせられる。

食事は一食。疲れさせて逃亡させないための策だという。

夜になると毎日客を取らされる。

生理も病気も関係なし。

客は店の常連だから、逆らうと店長に何をされるかわからないので従うしかなかった。

ある日、「借金」が全額返済目前の仲間のタイ女性をママが「転売」しようと電話で話していることを目撃し、みんなで話し合って殺したという。

出所後、彼女たちを待っていたのは、経済危機下にあるタイでの苦しい生活だった。
http://www.jimmin.com/doc/0509.htm
18:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:18:16

タイでバイシュンをするために売られたある少女の話を『アジアの子ども買春と日本』(編アジアの児童買春阻止を訴える会-ECPAT国際本部連帯)から引用してみる。


-幼い時両親を亡くし近所の家に引き取られたが、毎日こき使われ、殴られていた。

あるとき知らない男の人が来て、もっと楽に働くことが出来る所へ行こうと誘われ、遠い遠い路を「楽に働ける所」へ行く為にがんばって歩き、どこか分からないところまで来て、バイシュン宿に売られた。

それから何十回か数えきれないほどあちこちに売られた。

ある日警察が来て助け出されたが、どこに帰ってよいか途方にくれていると、男の人が近づいてきて、連れて帰ってくれると言うのでついていくと、バンコクで売られてしまった。

そこのバイシュン宿で働かされているうちに妊娠して女の子を出産した。

その間にエイズに感染してしまっていた。

やっとバイシュン宿から解放されたが、エイズの症状は二歳の子どもにも出ていて、あまりのことに、泣き続けるばかりだった-


彼女が最初に連れ出され、売り飛ばされたのは、七歳か八歳くらいのころであったという。

ジャーナリストの友田博さんの著書『バンコク下町発』を見ると、タイの子ども権利保護センターの調べでは、バイシュンで生活する12歳から16歳までの少女の数は約80万人だ。

しかし、今、客の要求する相手は低年齢化していて、8歳から10歳前後の少女が非常に多く買われているという。

さらに驚くことに、7、8歳の子どもをバイシュンに使う場合は家畜用の成長ホルモン剤を注射しているともいわれている。

幼ければ、エイズの心配がないという思い込みや、子どもは悪い下心もなく安心で言うことも聞くし、安いということから買春の低年齢化が進んでいるのだろう。


タイ人は、親に深く感謝して恩返しをする習慣がある。

とくに女の子は、どんなことをしてでも親を助けるのが当然であり良いことだとされている。

こういう考え方が、貧しい子ども達の人身売買を社会的に黙認している原因にもなっているのではないか。


人身売買される子どもの多くは、山岳民族の娘たちだ。

売られていく理由は、あるときは貧困と物質欲-新しい家を建てたいとか、電気製品が欲しいとか-であり、また、ある時は貧困と親のアヘン中毒である。

アヘン欲しさに娘を売ってしまうのだ。また両親が何らかの理由でいなくなってしまった子も犠牲になっていく。

タイのバンコク、パタヤ、チェンマイなど北部では買春が日常的に行われており、ここ10年エイズなどのリスク回避という理由で買春の低年齢化が進んでいる。

1988年のノルウェー政府の報告では、毎年100万人の子どもが誘拐され、買春などでセックス産業に送られているという。

しかし実際には、買春から保護される子どものうちの7割がエイズに感染している。

ここでアジア太平洋諸国の買春と日本との関係について調べてみた。

1995年に来日したフィリピン・バタンガス市サンタクララ町の町長の話によれば、日本の政府開発援助(ODA)によって、バタンガス港の開発がおこなわれた。

しかしODAにより、もともと平和に暮らしていた村民の生活を無視して、強制立ち退きが武装警察官により実行され、農民・漁民の生活の場に発電所が建てられ海や森林を破壊した。

電力は、一部の金持ちや日本企業、あるいはほかの外資系企業に供給される。

住民は、家を与えられた人もいるが、大勢の人が都市へ流れ出てスラム居住者になった。

こうしたODAによる開発があちこちにあり、土地と仕事を失った何百万人という人々が、都市の一番貧しい層をつくるのだ。

そしていつも、一番弱い立場にいる子どもたちにその被害は及び、ストリートチルドレンが増え、児童売買が起こり、児童買春の犠牲になる子どもが増えてゆく。

日本のODAは、アジアの児童買春の根幹に関わる大きな問題なのだ。

「どうぞ、貧しい人を助けてあげるという気持ちだけで、お金を出さないでください。

皆さんは、自分たちの出している税金がどんなふうに使われたか、それにより、たくさんの人々が生活を奪われていることを知らなかった、監視できなかったという道徳的責任を持ってお金を出してもらいたいのです。」

と彼は述べている。

日本国内にも、人身売買されてバイシュン婦として働いている東南アジアの少女たちがいる。

彼女たちは、少なくとも7万人はいるといわれており、そのうちの約5万人は、非合法で滞在している。

彼女たちの中には、日本にいくと良い仕事があるとそそのかされて連れてこられた少女や、誘拐されて何も知らされないまま連れてこられた少女たちもいる。

アジア太平洋諸国から日本への人身売買がこのように多いのは、受入国の日本が買春社会だからである。

日本が世界最大の人身売買受入国になったのは、性産業が異常に肥大化し、4兆円を超えてGNPの1%、防衛予算にも匹敵するほどの規模になったためである。

そしてそこで働く若い日本女性の不足を、安上がりのアジア女性たちで埋め合わせようとするからである。

アジア諸国から日本への売買ルートは日本の暴力団が支えているため、よく組織されていて資金も豊富にある。


タイの手配師が言うには、女性を一人集めて日本に送るたびに150万円ほど手に入るという。

一度の「取引」で、かなりの大金が日本の暴力団の手に渡っていることになる。

そしてこのことは、多くの東南アジアの少女たちを不幸に陥れている。

毎月、在日本タイ大使館には、約400人のタイ女性が助けを求めて逃げ込む。

彼女らの中には、思いつめた揚げ句、逃げようとしてバーのママさんを殺してしまった者もいる。

これは1991年に茨城県の下館市で起きた、3人のタイ人バイシュン婦がボスであるママさんを殺害した事件だ。

被告の中の一人が殺人を犯すまでに追い込まれた状況を書いた手紙の一部がある。


「私の家は仏教を信仰していて、親孝行をいつも教えられてきました。

農業を営む両親の末娘ですが、食べるお米がなくなることもあり、両親の困窮を見てきたのです。

小学校4年を卒業して進学できず、日雇い農業、工場、店員、掃除などで懸命に働き、そのうち結婚したら、親に仕送りもできなくなりました。

年をとった両親を助けなければと思っていたとき、日本へ行ったらレストランで働いて、月一万-一万五千バーツ仕送りできると言われました。

タイでは一年働いてもこんなに稼げません。

両親に毎月送金するから銀行口座を作って番号を知らせるように言って日本へ向かったのです。」


この女性は

「350万円の借金があるからバイシュンして返せ」

とボスから言われ、おもいもかけない性奴隷の日々が始まった。

虐待され、搾取され続ける日々は絶望的であったという。

同じスナックのタイ女性の一人は自殺をはかった。両親を侮辱する言葉に深く傷ついた。

「こんな地獄から逃げ出したい。
しかし逃げ出すことは両親の死を意味する。
自由になる為にはボスを殺すしかない」

と、殺人を決行した。

買春のための人身売買には、常に少女が巻き込まれている。

セックス相手としての子どもに対する需要に伴ってそうした少女の数は増え続けている。

また、子どもの供給源も子どもを移動させる犯罪集団の使う売買ルートも刻々と変化している。

長い陸続きの国境線をもつアジアのいくつかの国では、子どもの移動は非常に簡単に行われてしまう。

タイの国会議員ナロン・ノーヨンタイは1993年半期にタイ北部の国境沿い地域の開発に関する調査を行った。

それによると、隣国の未成年の少女が少なくとも150人、国境を越えて毎週密入国しているという。

年間になおすと、約8000人のタイの子どもたちが、買春をするために何らかの方法で越境させられているのだ。

フィリピンの少女がマレーシア東部へ、ネパールの少女がインドヘ、インドの少女が中東へと、子どもの移動は他の多くの地域でもみられる。


また国境を越えてのエイズの蔓延も無視できない問題である。

アジア太平洋諸国にはエイズを蔓延させる最も危険な要素(バイシュン婦、移住者)と、エイズへ導く条件(観光、貧困)がそろっている。

世界保健機構によると、2000年末までの南アジア・東南アジアのHIV感染者とエイズ患者総数は5、800、000人にのぼる。

そのうちの最も多くが、タイやインドで占められている。

この二つの国は、多くの子どもの買春従事者をかかえている点で共通している。

患者の感染ルートは性接触、ドラッグに使用する注射針の使い回し、出産時の母子感染などだ。

また観光客たちもエイズに感染している可能性が低そうな幼い子どもとのセックスを望む。

しかし、子どもと性的な関係をもつことは、大人と性的な関係をもつことよりも実際にはエイズによりかかりやすいそうだ。

少年少女の膣や肛門の十分に発達しきっていない粘膜は、傷つきやすく弱い。

エイズが感染する唯一の経路は、HIVに感染した人の血液、精液、膣分泌物が健康な人の血液あるいは粘膜と接触するときなのである。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/kyomu/koudai/kikaku/kensho04/kensho_j/2002/ronbun07.html

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彡三ミミヽ       | ..|ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|    日本人・・・・・
彡' /| ヾ、    _ノ|_|: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,|
  / ./|.  `ー '    {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"|    ぜったい許さない
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彡'| .:|:::|   ` ̄       `\   ー-=ェっ |    
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三ミ| |:::|        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|  
.   | |:::|  ィニニ=- '     / i   `ー-(二つ 
   | |::|彡'          { ミi      (二⊃
   /| |::|        /  l ミii       ト、二)
 彡 | |::|    __,ノ   | ミソ     :..`ト-'
.    | |::| /          | ミ{     :.:.:..:|
    | |::|       ノ / ヾ\i、   :.:.:.:.:|
.    | |::| .ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|  
     | |:::|     ./  `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|   
   ノ .| |:::|  _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|
19:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:19:20

性奴隷にされるタイ山岳民族の少女


「ヨハン」タイ山岳民族

アカ族のヨハンさんが山岳少数民族の現状について日本語で訴えております:

http://www.youtube.com/user/BIGKUMAMOTO#p/u/29/-z1Dij0jO6Q
http://www.youtube.com/watch?v=9d3i_i6t4gk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IEMnBYPc5CM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=eIVa8NOLfLI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=BIguk6ZL0rg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=n9pDs9ZhuzA&feature=related

http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870

1) タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。

この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。

焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。

この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。

峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。

この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。

アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。

いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。
アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。

アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。

焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。

自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。

またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。

祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。

この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。

垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。

これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。

この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。

日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。

現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。

古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。

アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。

村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php

倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。

「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。

それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。

ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。
だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。
それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。

鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)

再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。
苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。
しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。

文字通り、木である場合も、山である場合もある。

そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。

http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832
20:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:19:49

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。

113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ


タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。

標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。

高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。

帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。

村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。

水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。

これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。

若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。

集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。

アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。

結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。

私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。

アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。

しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。

第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。
第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。

 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。

中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。

彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。
その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


照葉樹林文化


ヒマラヤ山麓から日本列島にかけて、カシやシイなどの常緑広葉樹が繁茂する、照葉樹樹林が拡がっています。

照葉樹林の下での人の暮らしには共通の要素があり、照葉樹林文化と呼ばれています。

照葉樹林文化は中国雲南省辺りで興り、各地に拡がって、やがて日本列島まで伝わり、日本人の生活の基層をなしています。

みそ、酒、納豆、麹などの食べ物、そして、歌垣や十五夜の行事なども、照葉樹林に住む人々に共通する文化です。

 
タイ北部は亜熱帯モンスーン気候で、平地には雨緑林が拡がっています。

しかし、標高が1000mを越えると、カシやシイの照葉樹が少しづつ現れてきます。

中国奥地からタイへ移動してきたメオ族やアカ族などの少数民族も、最南端の照葉樹林になるタイ山岳地帯に住んで、照葉樹林文化の原型を濃く保ちながら暮らしている人々です。

チェンマイの南西約80キロの、ドイ・インタノン国立公園に向かいます。
車は、乾期ですっかり落葉した山麓から、インタノン山を目指して急な坂を登っていきます。

チェンマイを出て3時間半、標高2565m、タイ最高峰のインタノン山の頂を踏むことができました。

見渡す限り新緑が始まった照葉樹林が拡がっていました。

はるばるとやってきたタイの照葉樹林。

この辺りから始まり、はるか彼方の日本列島まで続いています。私にとっては感激の風景でした。
http://www.asahi-net.or.jp/~aj6h-ab/261.htm

映画『山の郵便配達』が歩いた道は、照葉樹林の道ではなかっただろうか。
あのこんもりした森に懐かしさを覚えたのは、故郷の森を映画に見たからだと思う。


山の郵便配達 トン族の村
http://www.youtube.com/watch?v=KbF9-Y4aWF0


 照葉樹林というのは、シイ・クス・カシ・ツバキ等の常緑広葉樹を主とする樹林のことです。

葉は冬でも深緑色のままで、葉の表面がてらてらと日に照らされています。
葉に光沢があるから照葉樹林と呼びます。

暖地性の木が多いので、西日本から三遠南信、関東地方の海岸付近にかけて分布しています。

 遠州の森は鎮守の森にしろ、里山にしろ、もこもこと生い茂っています。

子供の頃、遊んだ森は空を隠してうっそうとしていました。これが照葉樹林の特色です。

遠州地方の台地の縁に立つと、丸い森がいくつも見られます。

森の中で椎を拾う子供たちの声が今でも聞こえてくるようです。


 1957年、京都大学の中尾佐助教授がブータンの森を歩いていたとき、日本の森とえらく似ているなあと思いました。

照葉樹林帯の発見です。それはヒマラヤのふもとから中国の雲南を通って、長江流域、さらに西南日本まで帯となって延びています。

アジアの温暖多雨地域と一致します。


 照葉樹林地帯は驚くほど共通の文化を持っています。

茶・ソバ・納豆・なれ鮨・豆腐・コンニャク・酒・味噌・山菜。故郷の味と言われるほとんどの食べ物が、照葉樹林に源を発しているのです。

三遠南信で木の実やソバの食文化が発達していることに思いが行きます。


 食べ物だけでなく、羽衣・サルカニ合戦・花咲爺などの昔話、さらに鵜飼いがそうです。

絹織物・草木染め・紙漉き・漆等の伝統工芸も照葉樹林から生まれました。

日本の文化の古層に、照葉樹林文化が深く刻み込まれていたのです。


 照葉樹林文化は稲作文化の伝わる前からありました。その最たる特色は焼畑です。
緑濃い森林を、焼畑によって切り開いて、アワ・ヒエ・ソバ等の雑穀、里芋や山芋等の芋類を生産しました。

山と森の生活に深く結びついた焼畑文化は、温かい西南日本に広がっていきました。


三遠南信地域でも昭和30年代まで焼畑が行われていました。

夕焼けの山の斜面に白煙が立ちのぼり、赤い炎がチラチラと見えたといいます。
山に火入れをするときは、山火事がこわい。秋葉信仰は焼畑の火防と結びついていきました。

昔から火は畏れ多い存在であったのです。そう言えば、神に供える榊も、仏様に供えるシキミも照葉樹です。

 焼畑地域ではヤマノカミを奉ります。水窪の山住神社もそのひとつ。

11月17日のお祭のとき、里芋の串やトチ餅が境内の茶店に並びます。
トチ、ドングリの灰汁抜きも焼畑文化です。ワラビ、ゼンマイ等も灰汁を抜きます。

 やがて雑穀、芋から稲作へと移るようになっていきます。

古くから稲作を行っていた雲南では、今でも赤米の栽培をしています。

照葉樹林帯の民族は、日本のうるち米のようにねばり気がある米が好きです。

餅・おこわ・団子・チマキ・五平餅。それらはハレの日に食べるのです。

遠州の月見団子は、ヘソ団子と言って、平たい団子の真ん中をへこませます。
雲南、ネパールのお月見はどうでしょうか。

正月やお節句に餅つきが行われるのは、照葉樹林帯の共通した伝統です。

 やがて米を麹で発酵して酒を造る技術が生れます。

納豆・味噌・ナレ鮨・漬物と発酵食品が多く見られるのも特色です。
遠州の浜納豆もそのひとつです。

 茶・蜜柑・養蚕の源流も雲南です。漆も轆轤(ろくろ)を使う技術とともに伝わってきました。

こうして見ると、遠州は照葉樹林文化の特色をどこの地域よりも受け継いでいることがわかります。

 春と秋の月のきれいな夜に、若い男女が集まってきて歌の掛け合いをします。

愛情を交換するするこの習俗は、万葉の時代に歌垣と呼ばれていました。
照葉樹林帯では今も見られるところがあります。

 映画『山の郵便配達』で、二人が踊りながら目を合わせるシーンは、歌垣を彷彿させました。

 浜松の加茂光廣さんは、草笛のルーツを探しに照葉樹林帯を旅してきました。

入り母屋作りの茅葺き屋根、青田の中を行く農夫に菅笠が乗かっている。

草笛を吹きながら村を回っているうちに、昔の日本の田舎を歩いていると錯覚したそうです。

 雲南・タイ山岳地帯・ネパールの旅先で、果たせるかな、草笛を吹く人と出会うことになります。

草笛は恋する者たちを結び付けるという。

加茂さんは、古代の歌垣が今に残っていることを照葉樹林の村で発見したのです。

 
 思えば、雲南を中心にして、ヒマラヤのふもとから、延々と6000キロもの距離を照葉樹林文化は旅してきたのです。

ネパール・ブータン・雲南の少数民族の人たちが語ってくれた生活のひとこまひとこまに、遠州の昔が甦ります。
http://www.kumo-t.jp/tenryu/cat2457790/index.html


我々のように、雲南やタイ北部に足しげく通うものにとっての最大の関心は、彼らの「人間のあたりのやわらかさ」といったものが、いったいどのように形成されたのだろうか、ということだろう。

このことと照葉樹林文化説とは関係があるのだろうか、ないのだろうか。

それが根源にあるかどうは別として、やはり照葉樹林文化の特徴となっている「歌垣」に注目すべきであろう。

歌垣のある社会には、家父長制はうまく浸透しえないように思う。
男女が家族(父母)の干渉抜きで結びつくような社会では、漢族のような宗族は成立が難しい。

結局、社会の単位となるのは、宗族のような家父長制的な大家族ではなく、プリミティブ(原始的)であるとはいえ--部族的もしくは地域的な--我々に馴染みのある「共同体」だということになろう。

男女が比較的自由に語らい、相手を選ぶことができるということは、ある結果をもたらす。

若い女性の笑顔が多くなる。

漢族、雲南漢族、雲南の少数民族を比較した場合、若い女性が知らない男性に笑顔を振り向ける可能性は、後者の順に大きくなる。

相手を自由に選べる社会では、若い女性の立場からみれば、自分がいかに自分の魅力を自分に近づいてきた男性に強く印象づけるかどうかが、ポイントになると思われる。

「歌垣」においては、魅力の中心は歌や踊りであるかもしれないが、ハレの日に対しケの日を考えれば、彼女達の武器は「笑顔」「微笑み」であろう。

逆に、自由に選べない社会において、少女達の「笑顔」や「微笑み」は意味をもたない無駄な投資である。
それどころか時には禍のもとである。
http://www.21ccs.jp/soso/chinateki/chinateki_11.html
21:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:20:42

2) タイ山岳民族の少女が売られる様になった背景
タイ北部に広がる標高500メートル~1500メートルの山岳地帯には、アカ族、ラフ族、リス族、モン族、ヤオ族、カレン族など十数部族、約75万人の少数民族が生活しています。

多くは中国南部やミャンマー、ラオスからここ1~2世紀の間に移住してきた人々で、どの民族も独自の言語と高度な手芸技術による民族衣装をもち、焼畑農業にともなう数年~十数年ごとの集落移動を繰り返しながら、伝統的な世界観と文化を保持してきました。

しかし、今、彼らの生活や文化が脅かされつつあるのです。

タイ政府による森林保護政策により、森林の伐採、焼畑が禁止され、定住を余儀なくされた彼らは、生活の基盤を根こそぎ失いつつあります。

かつてのように肥沃な土地を求めて自由に移動することができず、かぎられた土地で連作を繰り返さなければならないため、地味のやせた山の傾斜地では収穫量が極端に低下し、収量を上げるには高価な肥料や危険な農薬に頼らざるをえなくなるのです。

今では主食の米でさえ自給できなくなっている村も多く、人々は貧困にあえいでいます。

かつて唯一の現金収入の手段だった違法のケシ(阿片)栽培は、近年厳しい取り締まりをうけ、逮捕者も続出しています。

一方でタイ経済の急速な発展と近代化の流れの中で、貨幣経済や物質文明への誘惑から、村の若い人々は現金収入を求めて労働者としてバンコクやチェンマイといった都会に流れて行きますが、タイ語の教育を受けていないことから不当な差別や低賃金で苛酷な労働に甘んじねばならず、若い女性たちの中にはことば巧みにだまされてバイシュン組織に連れ去られるといった例もあります。

親がわずかばかりの借金のかたに娘をバイシュン宿に売り渡し、帰ってきた娘がエイズに感染していたなどという悲劇は今でも枚挙にいとまがありません。

http://chmai.loxinfo.co.th/~sakura/hilltribes.htm

http://www.mirrorartgroup.org/japan/hilltribe.html

http://www.mirrorartgroup.org/japan/opium.htm


アジア女の「レンタルワイフ」を雇って一緒にのんびり滞在するというのが、東南アジアにおける白人ツーリストの一つの典型的な「型」になっていて、そのための女性紹介業者もある。

タイの英字のフリーペーパーなどを見るとそのような広告―いい女紹介します―を容易に見つけることができる。

日本の駐在員は都会で生活しているので農山村に長期滞在することはないが、バカンスの白人長期滞在者は地元の女を囲って田舎に滞在することも多い。

現地ガイドを雇ったり自分で現地語を覚えたりして、いい女をさがすのにも熱心である。

タイの農山村から、貧しい「処女」や「児童」を掘り出してきてこっそり同棲する白人は跡を絶たない。

彼らは相手を「ガールフレンド」「ボーイフレンド」と称し他人にも堂々と紹介するが、「援助交際」がバイシュンならばこれらもれっきとしたバイシュンであろう。

私もタイのチェンマイで「17歳まで数年間白人の『ガールフレンド』として同棲していた」という山岳民族の少女に会ったことがある。

もちろん「支払われるガールフレンド」である。男に捨てられたあとはNGOのようなところに保護されてバイシュン婦にはならなかったようだが、白人に使い捨てにされた心の傷は浅くないように見えた。

若い娘を囲う男は若いから好きなのであり、トウが立ったら捨ててしまう。たいていの子の「その後」はより厳しいバイシュンの道しかないようだ。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6065804/index.html


東南アジアにおけるオーストラリア人の生態実例

タイ山岳民族の少女を性的虐待した男逮捕=タイ・バンコク

【ライブドア・ニュース 2005年8月24日】- AP通信によると、タイ山岳民族の当時12歳の娘を養うと言って親元から引き取ってバンコク市内の自宅に住まわせ、約4年間、繰り返しレイプし虐待したオーストラリア人の男が23日、逮捕された。

タイ警察当局が24日発表した。

  警察によると、逮捕されたクリストファー・ロナルド・ホワイト容疑者(46)は、オーストラリア・パース出身で、5年以上前からタイに住んでいる爆破物の専門家。同容疑者は、約4年前、タイ北部チェンライ県の山岳民族の家族から、当時12歳の少女を養うという約束で引き取った。

だが、娘が虐待されていることを知った家族がチェンマイ警察に訴え、男はバンコク市内の自宅で逮捕された。

同容疑者は取調べ中、黙秘を通しているものの、少女暴行罪など6つの罪に問われ、最高で禁固20年の刑を科される見通しだ。

  タイ北部には2万人以上の山岳民族が暮らしているが、少女を養育すると偽って性的虐待をした外国人による事件が数件発生している。 

______________________

4 :オー様と名無し:2010/06/27(日) 07:54:32 ID:eFjpFBR60

中国系ビルマ族が一番可愛い。

当時メーサイのワントン按摩の中国系ビルマ族娘は20歳は、日本人61歳のおじさんと結婚して、今、日本で暮らしている。

この中国系ビルマ族娘の姉も日本で暮らしている。
妹は今、メーサイで、タイ人と暮らしているが、こいつが一番美人。
メーサイで、プローイというコーヒー店のオーナーしている。

11 :オー様と名無し:2010/06/27(日) 11:50:24 ID:7hBEGbw60
かなり昔から、タイヤイの欲の皮の突っ張った仲介バーバーと組んで
仲介業をして、がっぽり儲ける日本人たちもいるので注意したほうがよい。

手口は昔も今もかわらない。

昔は、北タイのチェンダオあたりで、紹介業をしてガッポリ稼いだ日本人がいた。

特にタイヤイ族は、ものわかりがよいから標的になりやすい

12 :オー様と名無し:2010/06/27(日) 11:57:07 ID:7hBEGbw60
昔の話ですが、北タイのチェンダオでは、日本からチェンダオに到着した、その日にお見合い、
翌日に結婚式でした。

こういう手口が一番危ない海外です。

今のチェンダオは、そういうことはないと思います。



14 :オー様と名無し:2010/06/27(日) 12:03:43 ID:7hBEGbw60
少数民族=素朴純朴

少数民族の少女たち=純朴で可憐な少女たち


この俺が、まさに探し求めていた俺様だけの宝物の少女たち

この発想こそが、危ない海外の始まりなのです。

119 :オー様と名無し:2010/06/30(水) 11:40:23 ID:JEt6TmxU0

少数民族好きは、少数民族の歴史、文化などはどうでもよく、可愛い少女だけが大好きなのです。

十数年以上前に少数民族に嵌り、そのままタイに居ついた人も沢山いますが
(特にチェンライ周辺)今は殆どが50才以上です。
今でも、山岳少女の追っかけをしてる人も数多く、部落の祭り等で良くハチ合わせします。

私もその一人で、傍から見れば気持ち悪い変態そのものです。

120 :オー様と名無し:2010/06/30(水) 11:43:40 ID:.FaUHSug0
ロリ臭がぷんぷんする。
山岳民族相手のNGOにも美少女目当ての変質者が居ることは確かだ。

122 :オー様と名無し:2010/06/30(水) 11:58:24 ID:JEt6TmxU0
何年か前に山岳民族少女の施設で、日本人(タイ嫁持ち)が14歳の少女を暴行
したとして捕まりましたよね。

147 :オー様と名無し:2010/06/30(水) 15:00:30 ID:nqj5EpRQ0
タイヤイの彼女を持ってから驚いた事を下記します。

・バンコク在住2年、まだスクンビットに行った事がない(シーロムはこの前初めていった)
・時差という概念をしらなかった
・海は見た事がない
・自分の誕生日を知らない(曜日は知っている)
・実家は水道・電気無し(なのにこの前テレビを送った)
・実家では納豆、コンニャクを食べる
・味の素は入れれば入れるほど良いと思っている
・電子レンジを使った事がない

156 :オー様と名無し:2010/06/30(水) 16:03:00 ID:/Og4mhAE0
未開人の教育は難しいね。
身の程を知らないまま天井知らずの贅沢にはまってしまう。
電気もないのにテレビを送るとか事実を知らずに味の素の大量投入が良いと刷り込まれている辺り彼女もその可能性は高いよ。

245 :オー様と名無し:2010/07/02(金) 11:29:59 ID:e6AMdm0o0
昔はトンローあたりのサービスアパートのロビーに西洋人のおじいちゃんたちが、
10代前半の子たちといちゃいちゃしていたけど、
今でも、そうかな?

あれ、きっと少数民族だよ。

タイヤイの子で、12歳のときに、バンコク行って西洋人と付き合っていたって
言ってたもの。

246 :オー様と名無し:2010/07/02(金) 11:32:08 ID:e6AMdm0o0
昔のバンコクの冷気茶室にいた10代の子達って、ほとんどタイヤイだったんじゃないの?

とにかくタイヤイ娘は、エネルギッシュだ。

297 :オー様と名無し:2010/07/03(土) 13:08:13 ID:DcgaTuog0
30年以上タイに通っている大阪人で、その人はバンコクのチャイナタウンの冷気茶室にも昔良く通ったみたいで、

そこで、彼は両目をつぶされ、歯を全部抜き取られたタイヤイ少女を見てゾッとしたっていってました。

タイでも不法滞在ってのは怖いと思います。

447 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 12:04:04 ID:3D33LCU60

10年以上前にメーサイとかメーソートだったか行ったときに、女は欲しくないか?
って言われてオキヤに連れてって貰ったが10歳の子もいた位。

あと初モノもいたけど、今の時代でもこんなのがあるのかと驚愕したもんだ。
情けないのがそれでハマってしまって会社辞めてメーサイで数年過ごしてしまった事だ。

俺みたいなバカがいるから無くならないんだろうなって反省した。
しかし今もタイの田舎、ラオス、カンボジアを歩いている。

450 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 12:23:42 ID:1iH66kL20
>>447
10年くらいまではそういう人身売買もひどかったですね。
借金先にして「おきや」とかで短期(3~6カ月)とかで返済する。
とか、普通にそういうことがありました。

ほとんどは山岳民族や北部のタイヤイなどの娘たちでした。これらの娘たちが
タイの南部であろうと、東北部であろうとあらゆるところで性搾取を受けていました。

山に貨幣経済がやってきて、売るものがなかったので性を売っていた。という悲しい話です。
456 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 13:20:08 ID:6uowysD20
人身売買から少女を救うとかいう活動に酔いしれてる人たちがいるけど、
確かに自らの意思に反して性業界で働かされてる子達は開放してやれば良い。

だけど、バンコクのMPにいるタイヤイとかって、自ら進んでやってるわけだ。
しかも家族とか友達の後押しとかあってね。

ばかNGO達はそういう子もまとめて開放とかしちゃうんだけど、じゃあ開放した後の
彼女達の生活は誰が保障してくれんの? 
結局、地元に連れ戻してはい終了、俺達人助けやってます!って酔いしれてるだけ。

 タイヤイに残されるのは相変わらずの貧困なわけで、何の解決にもならない。 

アグネス含めて、そういう表向きの偽善にしか過ぎない。 氏ね。

457 :とくちゃん:2010/07/07(水) 13:32:12 ID:1iH66kL20
結局貨幣経済からは逃げられないですから、代替になる現金収入の道筋が必要になります。

それとセットで社会的なセフティネット(国籍付与も含めて)を作ってあげること。

いい方向か、いろいろ議論もあると思いますが10年前と今現在の山の民を取り巻く環境も大きく変わってきました。

以前の性的搾取者はずいぶんと減ったはずです。
もちろん数としてはいまだに多いでしょうが。
そういう少女性癖のある人はその後多くはカンボジアや中国ベトナム国境地帯に移動したと聞きました。

カンボジアも最近は厳しくなってるはずですので彼らにとっての楽園はアジアからは急速になくなっていっているはずです。
そういう人たちはまた再び都市に戻って都市の中でスポイルされているスラムなどを狩り場としていくのでしょうか。



458 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 13:33:36 ID:6uowysD20
俺、これまで結構少数民族と関わってきたけどさ、あいつ等の生活を根本からかえるのは本当に難しいぞ。
 
国籍ない奴に「小金溜まったらIDとった方がいいよ」って忠告してやったんだよ。 
せめてIDでもあれば風俗から脱出できて、ウェイトレスでもやれるだろうからと想ってね。そしたら、

「そうだね、IDあったらエージェント無しで働けるから1ロープあたりの取り分が倍になるしね」

って言われて絶句したよ。 

でもさ、結局ね、教育もない連中が貧乏から脱出するにはそれしかないんだよ。まじで。

貧乏から脱出するには、まず田んぼの購入。
小作人から脱出するのが絶対条件。

ちょこまかウェイトレスなんかやってたら田んぼなんて一生買えない。
つまり、あいつ等教育は受けてないけど、ちゃんとわかってるんだよね。
風俗で働いて金貯めて田んぼ購入して貧乏を脱出するというサクセスストーリーをね。

そういうわけであの子達は進んで風俗やってます。

アグネスはこれでもあの子達を地元に強制送還するのか? 
アグネスが田んぼ買ってやるのか??

459 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 13:47:05 ID:B9NaI9WY0
金が必要なら18歳になってからやればいいだろ。
幾ら貧しいからって、心の発育が伴わない未成年の内から身体を売れば、人間性が崩壊する。

460 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 13:51:21 ID:6uowysD20
>>459
それはアグネス的な意見だけど、彼女達の実態からすれば貧乏は待ったなしなんだよ。
しかも18歳からとかそういう区切り自体なんの根拠があっての話なのかってのもある。

大体自分の年齢さえ満足に知らない子達だよ? 

18歳まではダメ、18歳なったらOkなんて理屈は全く通用しないよ。 

金がないから働く、それだけ。 現実はシビア。

461 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 14:02:49 ID:B9NaI9WY0
実際子供の内からバイシュンに手を染めた子の殆どは、精神が荒廃している。

18歳なら、一応自分で判断ができる年齢に達している。

理屈とかの問題ではない。

食堂で働いたところで飢え死にするわけではなく、事実、身体を売らない子は絶対に売らない。
性産業に従事したいのなら、自分で判断ができる年齢に達してからでも、決して遅いことはない。

480 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:03:44 ID:ji7FFVcY0
ここに書き込んで評論する前に、実際に現場を見れば、良く分かることだ。
山岳民族出身の娘がこう言っていた。

「お金ってすごい、何にでも取り替えられるんだもの!」

この意味分かりますか?

すべて、物々交換だった日常が、貨幣の出現で世界が変わるのですよ。
だから、その娘も自ら体を売っていました。

上の方で誰かが言っていましたが、貨幣価値を基準にした生活基盤を支えてやらなければ、理屈だけに終わります。

道徳なんて、二の次なのですよ。
我々の目線で、ものを言ってはいけないのです。

481 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:11:44 ID:B9NaI9WY0
大人同士の性の売買に関してどうこう言うつもりは無い。
但し、山岳地帯には金で子供を釣る卑劣な変質者が入り込むから、問題になる。



483 :とくちゃん:2010/07/07(水) 16:23:45 ID:9i9aefTM0
「ばいしゅん」の話は本意ではないですが、山の人々と外国人や一般の平地民との接点がそういう性産業の場であることが多いので、こういう沢山の人が集まる掲示板ではどうしても話題としての比重が大きくなっていくと思います。

もちろんここで議論してるようなことははとても大切なこととは思いますが。

ただ山の民の名誉のためにも言って置きたいですが

そういう性搾取の場に何も考えずに自ら飛び込む人はとても少ない。

必ず手引きをする「大人」が存在しますし。

また、なにも山の女性がほとんど「ばいしゅん」に手を染めているわけでもないです。

貧しくとも健気にその人生を精一杯生きている娘等も多い。

そういう人たちをからわたしは「生きる力」みたいなものを分けてもらっている気がします。

485 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:25:25 ID:ji7FFVcY0
少数民族に人○売買や児童○春以外で貨幣を入手できる方法を見つけてやらない限り、手助けにはなりません。

問題は、批判することでなく、どうやって助けてやるかなのです。

少数民族側は、大人も子供も方法に拘わらず、貨幣を欲しがっているのです。
それを、どうやって救うかなのですよ。

アグネスたちも、そこに着目するべきですね。
まず、現場に足を運び、山岳民族、少数民族側の声を聞いてみては如何でしょう。


487 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:29:20 ID:kO5Va0GU0

そういう性搾取の場に何も考えずに自ら飛び込む人はとても少ない。
必ず手引きをする「大人」が存在しますし。

パタヤやバンコクの日本人には、それを目当てに来てるのがほとんどという悲しい実態。

493 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:35:47 ID:6uowysD20

実際に山にいくと、彼らの99.99%は金欲しがってます。
テレビだったほしいし、家だって建て替えたい、そして田んぼが欲しい。
何から何まで金がなきゃ手に入らない。 

山岳民族を聖人化するのはもうやめたほうがいい。彼らは社会から取り残された
猛烈な貧民。

496 :とくちゃん:2010/07/07(水) 16:46:39 ID:9i9aefTM0

私の言っている山のイメージは
家はチークの葉で葺き上げて、竹を割ったものが壁で打ちっぱなしの土間。

あるいは大きな木で高床式にして下では豚を飼う。上は板材を敷いているが
下にモノを落とすくらいの隙間があちこち。くらいの感じです。

そもそも家はいつ村が移動するかわからないので、質素で良いと思っている。
そして、山なので田んぼはないか、あっても村の食事の賄いの足しに出来る程度の狭い額のような田んぼ。(それ以上は物理的に無理)で山の斜面でのお茶やコーヒーの栽培に従事。

最近は換金性のある高地作物の栽培も徐々に増えてきた。
テレビは最近ボランティア団体が村長の家に太陽電池パネルを設置したので衛星放送を観ることができるようになった。

498 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:47:56 ID:ji7FFVcY0
私が会った少数民族は、やはり文明の産物を欲しがりました。
たぶん、文明の産物を見せない限り、とくさんの言う通りなのでしょう。
しかし、デジカメに驚き、携帯の音楽に驚き、持って行ったインスタント食に驚いた彼らは、貨幣の意味を考えたに違い有りません。

彼らは、家も持たず(仮の家だけ持つ)、山から山へと移動する生活をしていました。
中に、タイ語の話せる人が独りだけ居たので、その人を介して会話をしました。

みんな、私の持っている物を欲しがりましたし、あげられる物をあげると喜んでいましたが・・

501 :オー様と名無し:2010/07/07(水) 16:58:18 ID:6uowysD20
>>496
なるほど。
では、俺が知ってる実際の村の状況をお伝えしましょう。

・基本的に家は掘っ立て小屋に手が生えた程度。ただし、あちらこちらにコンクリート建ての
 家がたってる(どうしてかは分りますよね?)

・電気、水道無し。ただし、テレビ、ラジカセ等色々持ってる奴らが多い。
 理由はバンコクに出稼ぎに出た娘からの仕送り。どうしても家電を使う時は
 バッテリーにより駆動。

・基本的に自給自足の生活。ただし、最近もっと良い物を食いたくなってきた。

・暇があったら隣人と見栄の張り合い
 (今月はいくら仕送りが来た! お前んちは!? 少ないねー!...etc)

・バンコクから帰ってきたお姉さん達の話を食い入るように聞く少女、大人。
 (基本的に大人と言っても少女と知能指数はほぼ同じ)

・頻繁に村にくるエージェント達。でも金になるからエージェントは歓迎されてる。

・ふらりとやってきて何も得になる事をしないNGOの連中。嫌われてる。

706 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 01:53:06 ID:uPaQ233g0
さくら寮の三輪さんは、最近できちゃった結婚したそうです。
奥さんは30歳年下。
タイに住んでる親父の目的は若い女。例外は無い。


708 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 05:01:38 ID:uPaQ233g0

>世界美少女図鑑の著者三輪さん曰く「日本人とタイ人が結婚して一緒に住んでも、
その90%は以上は上手くいっていない。」この人は現在、チェンライでNGOをしている。

そう言ってた三輪さんは、23-24歳の女に生中田氏結婚。
20年間、タイでどんな生活をしていたのだろうか?
綺麗なイメージは持てない。

803 :オー様と名無し:2010/07/23(金) 23:56:15 ID:4Yn49YgA0
少女のいろんな部分の匂いと味を堪能してるんだろう、この変態は。


828 :オー様と名無し:2010/07/24(土) 18:43:39 ID:mXt/gy0o0
10年位前のバンコクコージーには少数民族の子たちが子供部屋にいたもんだ
あの子らは今どうしているのだろうか


829 :クレクレタコラ:2010/07/24(土) 19:08:48 ID:rRga5sJI0
>828

すみませんど素人なもんで質問させてください。
昔はバンコクの風俗にそんなに少数民族の人たちがいたんですか?
今もいるんですか?

830 :オー様と名無し:2010/07/24(土) 19:17:41 ID:mXt/gy0o0
>>829
7年前くらいまではバンコクの店で10歳位の子もいた位です。
タクシン首相になってから取り締まりが厳しくなった気がします。
地方のオキヤでも未成年の子や色白の子はミャンマー人や少数民族が多いみたいです。
バンコクはどうか知りませんが地方都市では未だに16歳位の子は普通にいます。


835 :オー様と名無し:2010/07/25(日) 04:28:32 ID:dUOGirF60

サムイやプーケットでも16歳の子はバーで働いてますよ。
でも少数民族じゃないです。タイ人です。
違法なので18歳とか言いますが、仲良くなるとIDを見せてくれて16歳だと分かります。
本人が16歳だと言ってても、バーのマネージャーは19歳だと言ったりもします。

日本で援交があるのと同じで、タイでも小遣い稼ぎの為に体を売る子はいます。
貧しいからとか家族の為じゃなく、自分の為にそうしてる子もいます。
そんな子は放っておけばいいですね。自由な子が自由な道を選んだだけだから。

教養も権利も無い少数民族が、奴隷商人に買い付けられることは阻止しなければなりません。
日本人やファランがブローカーを通して、少女性奴隷を買ってるのは現実です。

842 :オー様と名無し:2010/07/25(日) 12:35:06 ID:QgsS/Gd20
現状では少数民族では生活のすべがないのでは?
まともな教育も受けていないし常識も考えも違うとなれば会社勤務なんて無理
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1277563535/


523 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 00:30:03 ID:2/Y2mcCo0
チェンマイの風俗店で一番多いのはリス族(正確にはリソと発音する)

○○マッサージ:旦那がヤーバーで服役中なので子供と一緒に住み込み

某複数のゴーゴーバー:若いうちにファランを引っ掛けて一攫千金狙い、お父さんはヤーバーで死亡、母親と兄弟姉妹を養っている

某チャンクラーン通りのカラオケ:出身の村の近所の娘が日本人を恋人にして家が潤っているので、親から日本人の結婚相手を探すように言いつけられてチェンマイに下りてきた

出稼ぎ風俗の山の子はやめておいたほうが良いよ、たいがい何らかの形で麻薬と縁がある家族が多いから日本人は巻き込まれたらやっかい
22:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:21:32

4. タイ人は何故 山岳民族を差別するのか?


先進国にはたいてい「ミスコン批判」という運動があり、いろいろな理由で美人コンテストを激しく非難する人たちがいるものです。

そのせいかどうかは分かりませんが、日本では美人コンテストを敢行する人々はあらかじめいろいろな言いわけを用意しなければなりません。

曰く、容姿だけでなく知性や教養も審査するだの、人間性を総合的に審査するだの・・・言えば言うほど滑稽になる理屈を用意し、何かしゃべらせたり、受け答えを見たりしたりするようです。

しかし世界にはそのような心配から一切自由な国もあります。そんな国の代表格の一つがタイです。タイでは、美貌こそ善であり正義である、という大原則が社会を貫いています。ミスコン批判など出る幕はないようです。

先日タイで行われた美人コンテストでは、母国語すらロクに話せない、オーストラリア白人との混血の女性がトップに立ち、ミスタイランドに選ばれました。

結局、タイ語ができないからミスタイランドとしての仕事が果たせないという分かりやすい理由で、賢明にも本人がトップの座を辞退しました。しかし、その人を選んだ人たちが何を考えていたのかは謎です。あとさきも考えず混血美人に飛びついたのでしょうか。

タイ人の「美」の基準はわれわれのものとはすこし異なると思われます。
まず、肌の色が白ければ白いほど美しい。何はさておき肌が白くなければダメ。肌さえ十分白ければ何とかなる。色黒は問題外です。

日本人から見れば色黒な人が多い国なので、これほどまでに色白に憧れる姿はいささか憐れを催します。しかし、上流階級のタイ人には華人系の肌の白い人も多いので、色白はわれわれが想像する以上に切実で具体的な憧れなのかもしれません。

褐色の肌を美の基準にすればもっと多くの人が幸せになれると思うのですが、彼らにその気はまったくないようです。タイ人が最も嫌うものが「平等」です。

ともあれ、ちょっと余裕のある人は異様な情熱で美白に励んでいるようですが、美白といっても、日本ではやっているようなシミそばかすやクスミを防ぐ美白ではなく透明感うんぬんでもなさそうです。そんなことより、なんでもいいからとにかくすこしでも肌を白く見せたい。できれば白人のように、それが無理なら中国人のように白く見せたいというダイレクトな白い肌への憧憬のようです。つまり、われわれから見れば「タイ人らしくなく」見せるためです。

タイ人にとって美はたんなる僥倖ではなく、むしろ倫理規範であり正義です。

つまり「美」を求めるのはタイ国民の義務であり、そのことに躊躇や恥じらいはまったくないようです。

そんなことから、大部分のタイ人とは似ても似つかない白人との混血女性を、タイを代表する「ミスタイランド」にしたてあげるのも平気だったのかもしれません。

美が正義である以上、美が要求されるのは男性も同じことで、その基準も同じ。

色白=ハンサム=金持ち=正義の人、ということになります。

色黒の人は、外で働かなければならない人=貧乏人とみなされます。

タイでは貧しさは悪です。

貧乏人や「弱者」は人間とはみなされません。

すこしカネのある人は下女に働かせて自分は日焼けしないように昼間から日陰でごろごろというのがよくあるタイ人の姿です。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-category-7.html

タイの男が最も気にするのが女性の肌の色


白ければ白いほど美しいと同義語になる。

タイ人は元々浅黒い肌(蜜色)なので、色白であることは美人の絶対条件の一つ。
浅黒い肌は最も蔑まれる。

華人との混血の人、北部出身の人、東北のイサーン人でもほとんどラオスとの国境にいる人々などは色白が多い。

外で力仕事をしている下層階級の人々は日照時間が長いから色白になりえない、家の中にいて優雅な暮らしをしている人々は色白だと固く信じられているのか、肌の色は社会階層まで表す。

それだけに色白の娘というのはタイ男が最も憧れる女の条件の一つになっている。

“ピユ・ダーム”と言えば「肌が黒い」という意味になるが、タイ語の「黒い」という言葉は何かしら蔑みの気持ちも含まれている。
http://hage.momo-club.com/news/mp-ura3.html


タイでテレビに出るような「美人」(とされる人)たちの大部分は、白人との混血。ただし日本のテレビに出る白人混血とはかなり違う顔立ちである。

タイの環境からして必然的に、ほとんどが契約バイシュン婦の子かバイシュン契約的婚姻関係で生まれた人たちと言うことになる。

背が低すぎたり顔が醜すぎたりして本国では女に相手にされない白人男性たちが、タイの女紹介エージェントに殺到している。

以前白人のサイトを見ていたら、「タイ人はもう大部分が白人との混血だから安心しろ」なんて書き込みもあった。

アジア全体が中南米のようになってしまうのが白人にとって一番都合が良い。
それが白人にとって最高のアジア戦略だということもこれまで書いてきたとおり。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/04/post_6ce7.html

数年前に私が飛行機内で隣り合わせた一人旅の日本人の女の子は、タイの入管役人に「お前はタイ人の癖になんで日本のパスポートを持っているんだ」と詰め寄られたと語っていた。

その理由はどうやら、彼女が小柄で「猿顔」だったからのようである。

それだけでなかなか通してもらえなかったそうである。

この一件で彼女はひどく傷ついたらしく、「タイの差別はひどい」「タイ人は人種差別主義者」としきりに訴えていた。

当時の私はまだタイに行ったこともなかったし、タイのことは何も知らなかった。

ご多分に漏れず、「仏教国で親日的な『微笑みの国』なのではないか」という、よくある幻想を抱いていたので、彼女の言っていることの意味がピンとこなかった(あとあとになってタップリと知らされることになる)。

この事例からも窺えるように、タイはまず「容姿」による差別を合理化し、制度化さえしている。

タイ人にとって「容姿」はIDカードに準ずるか、時にはそれにまさるものであり、法的資格でさえある。

その土台にあるタイの階級社会における生殖によって、「猿」顔は再生産されるとともに、「土人」搾取のシステムもまた再生産される。

白人がレンタルワイフにどんどん生ませている混血児が(時にマスメディアのセレブリティを獲得したりもして)事態を多少複雑にさせているかもしれないが、これが却って「土人」搾取の現実を対外的に曖昧化し、「タイ式社会」への「国際的」(=白人世界の)認知あるいは黙認を導き入れているのである。

タイ人は、「タイには(卑しい)土人がいる」ことを抵抗なく受け容れる。

タイ族は、彼ら(色黒の人、モン系、クメール系、山岳少数民族、マレー系等)を、外国人の前でも公然と侮蔑する発言をしてみせる。

ところが現実は、このようにタイ人自身が「タイに土人がいる」ということを受け容れていることによって、タイ人全体が「土人性」を帯びることになるのである。

このことこそ、タイがどこまでいっても土人国家、土人バイシュン国家(土人性奴隷国家)であり続けるゆえんである。

なぜなら、タイ人自身による「土人蔑視」は、客観的にはタイ人(タイ国民)としての自己卑下でしかなく、タイの「土人国家」性にかんする自己規定にほかならないからである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/07/post_3d74.html


強きものを強きがゆえに尊敬し、嬉々としてこれにへつらい、弱きものを弱きがゆえにおとしめ、ないがしろにし、踏みつけにする。

これがタイ精神であり、タイの思想であり文化であり美意識なのである。

白人の植民地になると白人崇拝になる、というのであれば、400年も白人に支配されていたインドネシアはよっぽど白人崇拝の国になっていなければならないはずだが、実際はそうではない。

誰が見たってインドネシアよりタイのほうがはるかに白人崇拝主義者のスクツである。

ただ、フィリピンや中南米のように混血が進んでしまうとなかなか誇りの回復は難しくなるようである。しかも、発端が「女奴隷」や「レイプ」のようなものであることは明らかなので、白人との混血系は白人と対等の立場を持つことは無理である。

タイもベトナム戦争以後今日に至るまでどんどん白人との混血が進んでいる。

ほとんどがバイシュン婦やレンタルワイフや、白人が遊びで「結婚」した事実上のレンタルワイフの子である。
 http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=126

179 :名無しさん:2008/08/14(木) 10:59:59 ID:7RddDhgX

タイは白人マンセーの国なので黒人はもてません。
黒人差別はアメリカよりひどいかもしれない。


180 :名無しさん:2008/08/14(木) 11:01:30 ID:A4vKdFxZ
一時期服の仕入れのメッカになって黒人が押し寄せてたけど、 宿はあからさまに嫌がってたなあ


184 :名無しさん:2008/08/14(木) 22:06:06 ID:3aWIcBuT
タイのCM観りゃ白人や色白ハーフばかりだろ
タイ人は色白ハンサムなファランが大好きなんだよ
逆に自分よりも色黒の黒人なんかは見下してるのが現実


188 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:31:33 ID:rEbk8CMW
大体よ、白い肌が上位なら
黒い肌のタイ人は醜いってことになるじゃん。


189 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:37:37 ID:xnOEZCFS
>>188
そうだよ
タイ人の中でもそうなってる
南方系の黒い人たちより北方系のが美人とされてる
白人や日本人(白いとされてる)と結婚したがるのは白い血をいれたいため


190 :名無しさん:2008/08/16(土) 03:54:52 ID:IksD8qsA
>>188
そうなんだよね。
タイ社会の中でも色の白いのが優位に扱われているし、色黒の人達は
コンプレックスを持っている。
>>184>>189の言うとおりなのが現実だよ。

実際、色白華僑系のムエタイ選手なんてほとんどいないだろ?
あんなのは低階級のやることだって言うのがタイ人の認識。
いろんな意味でタイは人種差別があるのが本当。
209 :名無しさん:2008/09/01(月) 19:45:32 ID:DWVoKR3B
白人を優遇してるのは白人との混血を増やして人種を白人に近づけようとしてるのかもしれん。
肌が白いほど良いとしてるのも国策なんじゃないか。

210 :名無しさん:2008/09/02(火) 10:36:32 ID:DtuBEVFN
混血増やそうたって、白人女性はタイ人を全く相手にしてないんだけど。
俺、白人と結婚したタイ人男性を一人も見たこと無い。
負け犬白人にはらまされたパン助は多いが。

337 :名無しさん:2009/10/27(火) 06:07:17 ID:MSkrVtb4
金持ちタイ人って他のアジア人(日本人含む)を見下す人が多い気がする。
タイの中で金持ちっていっても日本人からしてみれば普通レベル。
まぁまれに桁違いの金持ちがいるけど。
日本人が住むごく普通のコンドミニアムにそういうのが多いな。

アジア人には無愛想、白人には親切、ってね。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/world/1193226362/l50


59 : :03/08/06 00:12 ID:qux8372O
タイ人の場合、白人コンプレックスというより「肌白」 に対する崇拝のほうが激しい気がする

514 :soi57:2008/04/05(土) 20:18:52 ID:hgaEKE71
タイのTVとかも酷いよね
「色白でないと女じゃない!」みたいなCFとか平気で流してるし
タイの会社案内とか見ても、必ず登場するのは白人ビジネスマン
アメリカでこんな事したら、間違いなく黒人連中からクレームだよw

66 :☆:03/09/12 22:14 ID:SWf4IJqN
タイでは色黒は嫌われる。
よってタイ在住のインド人は好かれない。
勿論、黒人はアメリカ人でもモテない。
しかし母親がタイ人のタイガー・ウッズは例外。
白人は基本的にモテるが、タイの観光業者はイスラエル人やユダヤ系の人は大嫌い。
(とにかくドケチなくせに、 気難しく口うるさいから)

90 :☆:04/09/23 18:39:28 ID:iBNubaf+
タイ人は色白になりたがる
小麦色に焼きたがる日本人が理解できないらしい



113 :タイ焼き:2005/04/05(火) 03:12:08 ID:xbhNBPtZ
タイのポップス歌手はやたら混血が多い、白人顔が好まれる、
アジアで唯一植民地にならなかったのに、多のアジアの国より白人に憧れ度が高い。
ベトナムみたいに白人国家と戦争して勝った経験がないし 白人支配の経験が無いのが、白人に媚る原因か?

タイガーウッズもゴルフしてなかったら有色カテゴリだろな。
多の元植民地国家の対白人意識とタイの意識は違いを感じる。

114 : [sage]:2005/04/05(火) 04:10:26 ID:5U7GCaNQ
単純に白人のほうが見栄えがするからだと思うが?

88 : [sage]:04/09/07 23:25 ID:FVFrndTt
白人女性はアジア女性よりはるかに美しいと思う。 
ヤローについては何人でも何とも思わない。

102 :     :04/12/09 13:54:44 ID:XR/sZIYq
白人女性、綺麗だよね。若いうちは。

103 :XXXX     :04/12/10 00:01:56 ID:+0moPS9B
バッグパッカーでも何でも良いがタイで見かける白人女性の中には Miss World Class が随分といるよね。

78 :名無しさん@お腹いっぱい[sage]:04/07/07 15:14 ID:lsSuGp52
なんか、このスレの白人コンプレックスな奴キモイ。
白人の容姿が優れているとか思うのは、六本木とかテレビとかでみてる白人がそうだからだろ。
六本木にいる奴とかテレビに出てる奴は、モデルやモデル崩れなんだよ。
一般人の白人はそうでもないよ。とくにアメリカ人は野暮で下品だ。

194 :うむ :2006/09/02(土) 09:43:07 ID:DJuY2RVD
タイ国人は誇り高き民族 
経済発展で収入が底上げされれば地位が上がったように勘違いする。
特にバンコクのサラリーマン層は勘違いは甚だしい。
外国に言って自分の地位を再確認するべし(どうせ出国できないが)

周辺の国境を接している国やタイ族のいる外国では自分達が一番という態度をとる。
理由は建国から現在までの持続している歴史がありかつ現在の経済状況がいいから。

ミャンマーや西双版納、カンボジアでの彼らの振る舞いは「横柄、威張り」そのもの
もし日本人が中国、朝鮮等でそんなことをしたら絶対ボコられる。

国内でのマイノリティーに対する差別もあからさま。階層の順はこう考えているらしい

1位タイ人(中華系含む)、
2位イサーン人、
3位ベトナム人、
4位カンボジア人
5位イスラム教徒、
6位ミャンマー、インド、
最下位山岳民族(アカ族等)

※イスラム教徒は以前底辺扱いだったが南部爆弾テロの成果で少しは
地位が向上した様子。アカ族も一揆を起こせば少しは状況が変わるかも
しれない。

タイ人の人をモロに馬鹿にする場面もよく見たな

とあるホテルのロビーでなかなか来ない予約したタクシーを待っていると
レセプションの女どもがインド系の人達が流暢な英語で話しかけるとタイ語で何ですかとかよく理解できませんと言ってもろ嫌な顔をして文句ブツブツ言いながら不機嫌モロだしだった。

その後に白人が英語で話すとちゃんと英語で対応している場面あり。

ここで怒っちゃいけない。そういう文化というか風習の人達決して悪気はない (と思う)

多民族国家によくある差別は当たり前。

この差別にタイで抗議しているのは南部のマレー系の人達のみ。
北部少数民族や東北地方のラオ系は蜂起しないので彼らの扱いは醜い。

こうして考えればカースト制度というかアパルトヘイトみたいなのが自然に存在する

外国人旅行者もランク付けされているので ある意味白人以外はチップも必要ないし、外国人価格の適用を受けなくてもいいと思われる。

しかしこのあたりはタイらしく、金に関しては地位に関係なく持っている人は還元せよ的な自分本位な考えがある。

タイ人との結婚を考えている方 基本的に日本人とこのあたりの感覚が違うのは念頭においておいた方がいい。


530 :通りすがり:2008/11/12(水) 22:15:59 ID:vJiUbpJf
タイ人の人種差別は凄いぞ

山岳民族、ラオス、イサーン人は公然と差別して構わない雰囲気がある
それに比べ欧米人にはバカみたいに媚びる
奴隷ほど醜い人種差別を行うってことか
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237
23:777 :

2022/08/16 (Tue) 13:22:47

499 :オー様と名無し:2010/07/15(木) 03:52:54 ID:xpca9PFw0
タイの現在の法制度ではタイ人と山岳民族(タイヤイも含む?)は日本の戸籍制度にあたる住民登録が違っているのですが、

純粋のタイ人は黒のタビアンバーンで、
山岳民族等はタイに住んでいても外国人を意味する黄色のタビアンバーンを与えられています。

524 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 01:46:30 ID:8pGGVD4U0
チェンマイでもどこでも良いけれど役所の窓口で1時間くらい観察してみてください。
黒(濃紺ですか)と黄色の扱いの違いがはっきりわかるから。

黄色ホルダーの相手には役人はほとんど命令口調。
書類不備なのかどうか罵声を浴びせられてる場面もありました。

しかもまわりのタイ人はそれを見て笑ってました。
田舎へ行くほどその傾向は強いようです。
そういう社会なんですわ。

まあ外国人の黄色タビアンにはそういう扱いは無いようですけど。


528 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 09:11:52 ID:11VZTIw60
タイ人の人種差別意識には、ほんとにウンザリさせられる。

まず初めに気づいたのは、イサーン人への差別、俺がモーラムやルークトーン
が好きだと言ったら、赤貧農家の小作人にさえ馬鹿にされた。

次に気がついたのはインド人や黒人等、白人以外への差別。

また、隣国(ラオス、ミヤンマー、カンボジア人)への差別意識も物凄い。

最も酷いのが、山岳、少数民族への差別感、彼らは人間でなく家畜並みの存在だと思っている。

この鼻持ちならない差別意識に、今ではすっかりタイ人の性格がよく分かり
微笑みの裏にある、厭らしくて姑息で偏見だらけの国民であることが、最近よく分かった。

もうすぐ日本に帰るけど、もう沢山だよ、こんな国。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1275952742/


154 : [&]:2005/12/30(金) 02:11:29 ID:oFbK3j9h
タイ人ってのは、無学な国民が大多数なので見た目でしか人を判断できません。

見た目が金持ちなら、親切な態度をとってくれますが貧乏そうだと、自分よりも下のレッテルをはって見下した態度をとります。

ためしに、ヨレヨレのTシャツに短パン、不精ひげといういでたちで55やソイ7の円光バーに行ってみましたが、その時は見事に無視されました。

翌日アルマーニのYシャツ&ズボン、グッチの革靴で、こぎれいにしていくと、全然態度が違い、女が寄ってきてウザイほどでした。

男の店員もミスター扱いで、やれやれといったところです。
ホント、タイ人って馬鹿で、面白い国民です。

156 :THAI邦人:2006/01/13(金) 19:04:42 ID:OzVB37eF
タイ人は、貧乏人を最下級層と判断するDNAを持っている。(山岳民族等と同等)
よって、ミエ張りばかりで御座います。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


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5. タイ人女性は白人の奴隷女であることが嬉しい


仏教や王室に対する侮辱にヒステリックに反応して見せるタイ人だが、自国の娘たちが白人の女奴隷として扱われることには何の抵抗も感じない。

現にまったく抗議しないのだ。 嫌だという意思表示も一切しない。

タイ人は白人には一切文句を言わない。

彼らは白人からはどんな扱いを受けても平気なのである。

タイ人自身、どうせ自分たちは「猿」だと思っているからである。

それが猿の猿たるゆえんでもある。

そして、白人の前で他の有色人種がタイ人より勝って評価されないようにその足を引っ張ることにのみ専念する。


「日本人もヨーロッパに行くときには往復航空券が要るよね」

「日本人の女の子もファランが好きだよね」

タイ人が日本人に対する決め手として出してくるのはだいたいこんなとこである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/08/post_eecb.html

「猿」とは、白人が有色人種を見る歴史的な見方を、まずもって見られる側として次にはあくまでそれに従属する形で見る側として、内面化してしまった者のことである。

(したがって、日本の「過去の歴史」と「猿」性とは関係がない)。

白人との関係で、

有色人種の世界で他の有色人種に比べて上位の者とされたい、

白人に愛されたい、

白人が有色人種支配のために課したシステムの優等生になりたい、

という動機が内面に刷り込まれて本能のようになっている者のこと。


「金髪碧眼」に言われることにはおとなしく従う気分になるということだろうか。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html


タイでは都会はもとよりよほどの田舎町でも、ごろつき白人が奴隷女を囲って貴族滞在している風景を普通に見ます。

そういう「白人のいる風景」を毎日見ていて平気でいられる、それが普通なのだと思っている、というのがタイ人です。

これほど白人を受け入れている国民はアジアでも他にはあまりないと思います。

自国民の女をクズ白人爺が奴隷女のように囲って自分の町や村に滞在している、そんな「白人のいる風景」をタイでは普通に自分の生活空間の中で、屋台でも喫茶店でもモールでも、毎日のように目にしなければならない。

つまり、ごろつき白人はタイ人の生活の一部になっているわけです。

これがもしネパールだったら、と考えてみると、カトマンドゥのタメル地区(ツーリスト地区)では猿女連れ毛唐をたまに見ますが、女奴隷連れで旅行している白人で、女はネパールで調達したのではなくタイなど外国から連れてきたのが多いように見える。
ネパールでは契約バイシュン婦の調達は簡単ではないようです。

ネパールの田舎町だったら、仮にその毛唐が囲っているのが自分とは無縁のカーストの女であったとしてもネパール人は黙ってはいないと思います。
 
ヨーロッパ人はタイのバービア嬢やゴーゴー嬢と安易に結婚して(短期間=結局破綻するので)本国に連れ帰る例が多いようですね。

白人ツーリズム=買春拠点であるチェンマイではそんな話をよく聞きました。

ヨーロッパで暮らしたことがあるというのを自慢にしているバイシュン婦(自称「ガールフレンド」、「支払われるガールフレンド」を稼業にしている女)のも少なくないような。

そんなタイ女がヨーロッパにいっぱい住んでいるのだから、タイ人の場合、先進国で差別されて当然というほかないような気がします。

ごろつき白人がタイでだらだら暮らすためにバイシュン婦と結婚して本国にも連れて行くという例も非常に多いのですが(係累のない孤児のような女を必死で探すのだとか=それは納得ですが)、堅いイギリス人などで育ちの良いのがちょっとタイに来てバイシュン婦につかまってしまう例も少なくないと聞きました。

タイに来ただけで「アジア」がわかってしまったと思い込むタイプの白人が多いようです。

まじめなヨーロッパ人男が初めてのアジア旅行でタイに来て、自分が教えられてきたヨーロッパの価値観や美意識とはまったく違うものがまかり通っていて、しかもそれで結構楽しい思いができたことにショックを受け、

「これだ!これでいいんだ!これがアジアなんだ!」

とか思い込み、バイシュン婦と本気で結婚してしまうこともあるのではないかと思います。

実際、人身売買、児童売買、海外移送の手先として国際的に活躍しているタイ女が非常に多いので、タイ女が国際社会で胡散臭い目で見られるのはむしろ当然でしょう。それはタイが国策として長年やってきたことの当然の結果です。

タイの「ガールフレンド産業」のせいでタイ人以外のアジア女性全体が「ガールフレンド」や「レディー」のような目で見られている面が相当あるのだから、タイ人が差別されるのは自業自得というほかありません。

私は日本の入管もタイ女だけは極力入れないようにすべきだと思います。フィリピン女よりたちが悪い。彼女らがバイシュンするだけならまだしも、そのかげではるかに弱い立場にいる少数民族などの少女が売買され搾取されている可能性が非常に高い。

白人の児童性的虐待のカバーとして、児童の母親役のタイ女と偽装カップルになるというのはタイではごくありふれたことです。

(児童とも母親役の女とも・・・ということがあるかどうかまではわかりません。これでは偽装親子○ですね)。

これだと目立ちにくいので、それによってタイが「児童買春支援国家」として国際的非難を浴びることもないから、タイ国内では白人がやってる分にはほぼ野放しのようですね。

しかし(どうでもいいことですが)こういう悪い遊びをするにはある程度ネットワークが必要です。

児童の調達はもとより、母親役の女の調達など、現地人の支援と白人同士の助け合いが必要になります。

日本人買春オヤジはこういう組織性が必要な遊びは苦手なように見えます。

たしかに、白人同士はアジアでよく助け合っているように見える。

「野蛮人の地では助け合う」というのは、数百年にわたる経験で白人が得た知恵かもしれません。

在外日本人たちのようにいつも互いに足を引っ張り合っているよりは麗しいことかもしれません。
 http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-174.html

52 : [sage]:03/06/10 01:24 ID:KpHVIBQs

白人コンプレックスのタイ人女性をFBIが分析した


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  ..  |:::::| ∴∴ _-- ̄`´ ̄--__ ∴∴ |::::::|   /
    |:::::| ∴∴  -二二二二- ∴∴ |:::::::|  < 白人男は私の物
    |:::::|                  |:::::::|    \___________

顔・目は細く、小さい。目頭が無く、寄り目。眉毛が無い。鼻は低く穴は丸く、鼻筋が無い。

出っ歯。のっぺり顔。口は開きっぱなし。夢見る表情。

身体的特徴・チビ、弛んだ身体。首が短く、短足O脚。大顔。貧乳。 貧尻で垂尻。ぶ厚い前髪。

趣味・欧米の映画や音楽、白人スターの追っかけ、白人男性を見る。

好きな映画・ハリポタ、ロードオブザリングなど。ファンタジーや、中世映画で白人美男が出てくる作品。

目的・美形白人の恋人を作る。

性格・内弁慶。白人的外見の黄色人女性に嫉妬。親に八つ当たり。自虐的。
僻みっぽく、被害妄想。執着型。強迫神経症的。 誇大妄想。ナルシスト。

白人男性のこととなると急に自棄になり、白人男性と一緒にいるタイ人女性を見ると酷く嫉妬し、悪口を言いストーキング。

特徴・白人男性にしか興味が無く、有色男性を無視。色白で金髪青目の王子様ルックスや貴族を好む。

有色混血白人男性には興味無し。

完璧な白人男性を手に入れられず苦しむ。

自身を白人と同等に考えているため、白人とは別物だという事を理解しない。

自身を黄色人だと思わない。

白人男性からのナンパを期待しウロウロ。

白人男性とは下手糞な英語で皆に聞こえるよう大声で話す。

心の中で黄色人差別。英語が上手いふり。

欧米留学は白人男性が目的だから語学は上達せず大金を払った親が苦労。

欧米旅行も運命的な出会いを期待して。欧米人の集まる場所も同。 


291 :名無しさん:2006/10/19(木) 16:49:52 ID:G0tVeQpI
タイ人の心の中

「日本? あー戦争に負けたアメリカの植民地ね。
独立してる我が国とは格が違うわ。
あっスティーブンから電話だわ、着替えなくちゃ」

304 :権:2007/04/04(水) 20:26:51 ID:4BjjlJOw
それにしてもパタヤの女は完全ファラン漬けだ。

ファランの後ろを歩いていると実感するね。

「セクシーメーン!ウェカ~ム!」 

そのあとを歩く俺には顔を伏せて一斉無言を決め込む。 
 全く自身喪失になるよ。
日本でこんな屈辱知らないからね。


62 :名無し:03/09/10 18:09 ID:MH6fliqX
本国に帰ったら、永久に窓拭きやっているようなヤツにペコペコ頭さげてるタイ人を見ると哀れだよね。

413 :mm:2007/04/11(水) 00:09:41 ID:yti/C4HH

タイ人女は白人男とセックスの相性がいいからだよ。

白人がセックスするときの声とか聞いたことあるか?
ポルノ顔負け、というかポルノは演技じゃない。

実に卑猥な動物的な声でヒヒヒヒヒイエースイエースハーハーハーオーオーオー
って感じ。

それに対してタイ女が反応する。

オホーイオーイオホーイってね。これもまた実に動物的。

動物同士のセックスがうまくいくからなんだよ。

タイの女で日本女みたいに高周波な?ひーひーってあえぎ声出せる
やついるの?

182 :G[sage]:2006/08/29(火) 09:25:50 ID:gls40XbM
タイの若い女は全員バイシュン婦になっちゃったからな
女子大生の憧れがGOGOで踊る事らしいorz

118 : :2005/04/06(水) 10:20:28 ID:VYJCzbfq
タイだけじゃねーよ。ぴーなもジャパニーズも台湾人もチョンも女は同じ。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237
24:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/11 (Sat) 16:20:27

雑記帳
2023年02月10日
古代ゲノム研究に基づく中国の先史時代
https://sicambre.seesaa.net/article/202302article_10.html

 古代ゲノム研究に基づく中国の先史時代の概説(Gao, and Cui., 2023)が公表されました。本論文は、おもに現在の中華人民共和国の領土(中国)を対象として、近年の古代ゲノム研究を再検討します。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して、中国も含めてアジア東部の古代ゲノム研究が遅れていたことは否定できません(Liu et al., 2021、関連記事)。これは、中国では北方に位置する北京でさえローマよりも低緯度に位置することにも表れているように、中国は全体的に温暖湿潤な地域が多く、古代DNAの保存に適した地域とは言えないことも要因となっています。

 しかし近年では、DNA解析技術の飛躍的発展や中国の学術面での大きな進歩もあり、中国の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがあります。当ブログでもそうした研究をそれなりに取り上げており、アジアへの現生人類(Homo sapiens)拡散についての総説を取り上げたこともありますが(Yang., 2022、関連記事)、本論文はおもに中国を対象として古代ゲノム研究を整理しており、中国の先史時代の理解に有益なので、詳しく読むことにしました。当ブログで取り上げた論文については、該当の記事とともに最後に掲載しますが、本論文で引用されている文献は多いので、代表的な論文だけに限定したり、本論文で引用されていないより包括的な文献も取り上げたりしました。



◎要約

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)は約40年前に古代の遺骸から初めて抽出に成功しました。古代DNA研究は、21世紀初頭の次世代配列決定(next-generation sequencing、略してNGS)技術の進歩や、古代DNAの抽出および増幅の分野の発展により、大変革を遂げました。近年では、多数の古代ゲノムデータがヒトの起源と進化に光を当て、人口集団の移住および混合事象と、言語および技術の拡大への新たな洞察を提供してきました。中国はユーラシア東部に位置しているので、現生人類の居住の歴史を通じて、ユーラシア人の遺伝的歴史の調査に不可欠の役割を果たします。本論文は、中国の先史時代の再構築に役立つ、古代ゲノム解析に由来する最近の発展を再検討します。



◎前書き

 過去数十年にわたって、古代DNA研究には大変革がありました。ヒトの歴史の再構築に関して、多くの注目すべき達成がありました(たとえば、Bergström et al., 2021、関連記事)。当初、古代DNA研究はmtDNAのひじょうに可変的で部分的にコードする領域と、情報をもたらすY染色体の一塩基多型(SNP)に焦点を当てました。2006年以後、NGS技術の導入と古代DNA抽出の手法最適化により、先史時代の人口集団についてゲノム規模の古代DNA調査が可能になり、これは過去への新たな窓を開きました(たとえば日本語で読める具体的な解説は、太田., 2023、関連記事)。古代ゲノム研究は、時空間的なヒトの差異と移動性のパターンの包括的な理解につながります。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など古代型のヒト【絶滅ホモ属、非現生人類ホモ属】から得られたゲノム規模データは、ヒトの進化への直接的な洞察を提供しました(Reilly et al., 2022、関連記事)。深く標本抽出された時間横断区の規模での大陸の人口集団の大規模な研究は、時間的にも空間的にも両方で、人口集団の遺伝的起源の直接的証拠を提供でき、ヒトの移住および相互作用の詳細を増やせます(Olalde, and Posth., 2020、関連記事、およびVicente, and Schlebusch., 2020、関連記事、およびZhang, and Fu., 2020、関連記事、およびChoin et al., 2021、関連記事、およびWillerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。

 ユーラシア東部に位置し、アジアの北部と中央部と南東部をつなぐ中国は、アジアのヒトの歴史の再構築にきわめて重要な地域です。その広大な版図と多様な地形は、ヒトの移民と古代文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の長い歴史の発祥地でした。中国の人口集団の起源と進化的歴史は、考古学や歴史学や言語学や人類学や遺伝学や、最近では古ゲノミクスなど、さまざまな研究分野で広範に研究されてきました。中国における古代ゲノム研究は比較的遅く始まりましたが、古代中国の人口集団のゲノム規模データは近年では急速に蓄積されつつあります。古代DNA研究は中国とアジア東部の人口史に勝ちのある情報を提供し、中国文明の形成と発展をより深く理解する試みに重要です。



◎中国の人口集団の起源

 中国とさらにはアジア東部における解剖学的現代人(現生人類、anatomically modern humans、略してAMH)の起源は、ひじょうに長きにわたって議論されてきました。おもに2つの仮説があり、一方は他地域仮説で、もう一方は最近のアフリカ起源仮説です(Stringer., 2022、関連記事)。中国で発掘された古代人の化石から収集された証拠は多地域進化説を支持しますが、遺伝学的研究は最近の出アフリカ説と一致します【この問題に関しては、中国の民族主義と絡めて論じた概説(Cheng., 2017、関連記事)があります】。

 2017年の研究(Yang et al., 2017、関連記事)では、中国の北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の個体の全ゲノムが配列決定されました。Yang et al., 2017の成果は中国における初期現生人類の最初のゲノム規模解析を示したので、時空間的に標本抽出の間隙を埋めました。田園個体のゲノムは、現代アジア人と類似した遺伝的特徴を有しており、上部旧石器時代ユーラシア人により共有されるネアンデルタール人由来のDNAが約4~5%ありました。田園個体は、ヨーロッパ人とよりも現在および過去のアジア人の方と相対的に密接な関係がありました。

 しかし、田園個体と、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡の個体(ゴイエQ116-1)やブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)個体群といった同じ頃の古代ヨーロッパの個体群との間の遺伝的つながりが観察されており(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)、旧石器時代のオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の拡大と関連しているかもしれません【本論文はオーリナシアンの拡大との関連を指摘しますが、Hajdinjak et al., 2021や他の研究(Vallini et al., 2022、関連記事)などで指摘されているのは、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)との関連です】。

 ゲノム解析の証拠から、田園個体は現代の中国の人口集団の直接的祖先ではなかった、と示されており、4万年前頃のアジアの人口集団の多様性が示唆されます。さらに、アムール川地域の33000年前頃の1個体(AR33K)は田園個体と類似の遺伝的構成要素を共有しており(Mao et al., 2021、関連記事)、最終氷期前には田園個体関連人口集団が中国北部に広がっていた、と示唆されました。



◎地域的な中国の人口集団の交通と統合

 初期中国文明はさまざまな特徴を示しながら複数の地域で形成されたので、物質文化の多様性が見られました。さまざまな文化的人口集団の遺伝的な歴史や、周囲の人口集団との交流と相互作用や、広く議論されている現代の人口集団の形成への影響に関する、多くの論題があります。最近の古代ゲノム研究は、これらの問題に新たな洞察を提供してきました。


●中国の北東部地域

 中国の北東部地域は地理的にアジア北部と極東をつなぎ、遼寧省と吉林省と黒竜江省と内モンゴル自治区(モンゴル南部)の南東部を含みます。この地域には旧石器時代以来、人類が居住してきました。この地域の物質文化は新石器時代に栄え始め、中国北部の文化と乾燥地のうこうの中心地となりました。この地域は中国文明の形成と発展や、アジア東部北方における農耕の拡散に顕著な影響を及ぼしてきました。最近、アムール川地域と西遼河地域のゲノム規模データは、研究者による中国のこの地域の動的な人口統計学的過程の比較に役立ちました(Ning et al., 2020、関連記事、およびMao et al., 2021)。

 アムール川(AR)地域は極東に隣接しており、天然資源が豊富です。その結果、漁業や狩猟や畜産がこの地域の主要な生計戦略を構成します。この地域の人口史は、旧石器時代から鉄器時代のAR個体群のゲノム解析を通じて再構築されました(Ning et al., 2020、およびMao et al., 2021)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前には、ARの人口集団(AR33k)は田園個体と類似の遺伝的特性を有していました。

 一方、LGMの末には、【AR19個体に代表される】この地域の遺伝的構成(AR19k)は変わっており、以前には広がっていた田園関連構成要素は現代のアジア東部構成要素に置換されたかもしれず、33000~19000年前頃の遺伝的不連続性を反映しています(Mao et al., 2021)。アジア東部の古代の南方沿岸人口集団と比較すると、AR19kは古代の沿岸部北方人とより近い遺伝的関係を有しています(Mao et al., 2021)。この観察に基づくと、アジア東部人の南北間の遺伝的違いは19000年前頃には形成されており、それは以前に報告された可能性よりもほぼ1万年早くなります。

 LGMの後には、AR地域の人口集団は遺伝的連続性を示し、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)で回収された新石器時代(N)の採食民/農耕民である、悪魔の門人口集団(悪魔の門_N)と最も近い遺伝的関係を有しています(Sikora et al., 2019、関連記事)。さらに、14000年前後には、人口集団の遺伝的構成要素は変わらないものの、局所的な人口規模は増加し、この地域における定住農耕の出現と関連しているかもしれません(Mao et al., 2021)。

 西遼河(WLR)地域は中国文明の初期の形成と発展にとって重要な地域で、中国北部における乾燥地雑穀農耕の中心地の一つです。この地域の人々は、おもに農耕と漁撈と狩猟で暮らしていました。新石器時代の中期に、紅山(Hongshan)文化(6500~5000年前頃)に代表されるよく発達した物質文化が、この地域とその近隣地域に拡大しました。この地域の人口集団の起源、および黄河流域など他の雑穀栽培地域との接触に焦点を当てた研究は、中国における農耕の拡散についての知識の増大に重要です。

 AR地域における人口統計学的過程とは異なり、中期新石器時代(MN)から青銅器時代(BA)にかけてのWLRにおける人口動態は、周辺の人口集団との一連の相互作用により特徴づけることができます(Ning et al., 2020)。WLR地域の人口集団は、新石器時代AR地域(AR_EN)と中期新石器時代黄河(YR)地域(YR_MN)の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の混合を有していますが、これら2祖先系統の割合は時空間的規模で異なりました。AR地域に隣接する、WLRの北方の中期新石器時代のハミンマンガ(Haminmangha)人口集団は、WLRの南部の同時代の紅山文化人口集団よりも多くのAR_EN祖先構成要素を有していましたが、後期新石器時代人口集団は、中期新石器時代人口集団よりもYR_MN祖先構成要素を多く有していました。

 遺伝的構成のこの差異は、中原人口集団の北方への移住と、中国北部における2つの主要な乾燥地農耕中心地の人口集団間の接触を反映していました。遺伝学的証拠から、中国北部における農耕拡散のパターンは人口移動により促進視されたかもしれない、と推測されました。青銅器時代における気候変化の結果として、WLRはもはや雑穀栽培に適さなくなり、その生計戦略は遊牧的な牧畜へと変わり、AR_EN祖先系統構成要素増加の遺伝的変化を伴いました。


●中国の中原

 中原は自然条件が良く、中国文明の発祥地です。仰韶(Yangshao)文化と龍山(Longshan)文化は中原の新石器時代文化の代表で、彩色土器で有名です。考古学的証拠は、中原と周辺地域との間の相互作用を明らかにしました。中原における新石器時代から後期青銅器時代/鉄器時代の人口集団の遺伝的特性は類似しているものの、中国南部およびアジア南東部(SC-SEA)からの遺伝的構成要素が後期新石器時代の後に増加し、この時には稲作農耕が中原で強化されました(Ning et al., 2020)。人口集団の遺伝的変化と稲作農耕技術の長江流域からの北方への拡大との間の相関から、中国における農耕の人口拡散パターンを推測されました。

 古代の中原人口集団と比較して、現代の漢人はSC-SEAとは一般的により多くの祖先構成要素を有しており、これは漢人の形成期における稲作に依拠した農耕人口集団の継続的な北方への移住の結果かもしれません。さらに、新石器時代から鉄器時代にかけて、中原人口集団と類似した祖先構成要素を有する人口集団は、黄河上流や陝西省や内モンゴル自治区(モンゴル南部)など周辺地域に広く分布しており、中原と周辺地域との間の継続的な遺伝的交流が示唆されます(Ning et al., 2020、およびWang CC et al., 2021、関連記事)。


●中国の北西部地域

 中国の北西部地域は、東西をつなぐ経路で、文化と人口の交流において重要な役割を果たしました。この地域の遺伝的歴史は、長く議論されてきました。アジアの東部と中央部との間の交差点に位置する新疆には、複雑な人口史があります。この地域ではユーラシア東西間の文化的交流と人口集団の相互作用が、シルクロード(絹の道)が開けるずっと前に起きていました。新疆の移住はひじょうに議論になっている問題です。おもに二つの仮説がその起源の説明に提案されており、それは草原地帯仮説とオアシス仮説です。草原地帯仮説は、新疆への最初の移民はタリム盆地の北方のアルタイ地域からのアファナシェヴォ(Afanasievo)文化関連人口集団だった、と仮定します。対照的にオアシス仮説は、バクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)地域からの農耕民が青銅器時代にタリム盆地に到来した、と示唆します。

 2021年の研究(Zhang et al., 2021、関連記事)では、タリム盆地の小河(Xiaohe)文化のミイラで行なわれた古代DNA研究からの調査結果が報告されました。その結果、以前の仮説のいずれも裏づけられず、青銅器時代タリム盆地人口集団の古代ゲノム解析は在来起源モデルを示しました。タリム盆地人口集団の遺伝的構成要素は、草原地帯人口集団ともBMAC人口集団とも関連しておらず、古代北ユーラシア人(ANE)と古代アジア北東部人(ANA)の混合でした。この混合事象の年代は10000~6000年前頃と推定されました。現時点ではタリム盆地のミイラにより最良に表されるANE関連構成要素は、青銅器時代とそれ以前にユーラシアにおいて広がっていたかもしれません。文化的交流が小河文化と近隣の人口集団間で起きましたが、小河文化人口集団は遺伝的に孤立しており、長期の遺伝的安定性を維持しました。小河文化人口集団とは異なり、ジュンガル盆地の初期人口集団は、その祖先構成要素の大半がアファナシェヴォ文化人口集団に、さらに在来のANE祖先系統に由来します。

 その後、新疆の200個体以上の古代人のゲノム研究も、新疆北西部の初期青銅器時代人口集団の祖先構成要素は、小河文化人口集団により表される在来の人口集団だけではなく、アファナシェヴォ文化やチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化やシャマンカ(Shamanka)の人口集団にも由来する、と証明しました(Kumar et al., 2022、関連記事)。新疆と、草原地帯西部やアジア中央部および北東部などその周辺地域の青銅器時代におけるこれら人口集団間の頻繁な相互作用と混合は、新疆人口集団の複雑な遺伝的歴史を反映していました。

 青銅器時代の中期と後期には、アンドロノヴォ(Andronovo)文化からの祖先構成要素、アジア東部からの祖先系統の流入増加が観察されました。青銅器時代の人口集団と比較して、鉄器時代の人口集団は、漢人や匈奴などより多様な起源を有する、アジア中央部および東部の祖先構成要素の高い流入を示しました。鉄器時代の人口集団の遺伝的特性は、歴史時代および現在の新疆の人口集団で依然として観察されました。鉄器時代の新疆におけるサカ(Saka)文化構成要素の存在は、新疆におけるインド・イラン語派の拡大と関連しているかもしれません。新疆のこれらゲノム研究は、この地域の人口史を理解する試みに役立ち、さらに技術と言語の伝達に関する文献にさらに寄与しました(Zhang et al., 2021、およびKumar et al., 2022)。

 中国北西部に位置する黄河中流域と上流域は、中国文明の重要な発祥地の一つです。考古学と言語学両方の研究では、この地域の初期人口集団はシナ・チベット語族話者人口集団の形成と発展にかなりの影響を及ぼした、と示唆されました。この地域の5000年前頃のゲノムの遺伝学的分析(Wang CC et al., 2021)から、黄河流域の新石器時代人口集団はかつてチベットと中原に移住し、シナ・チベット語族を拡散させた可能性が高く、シナ・チベット語族話者の共通祖先の一つかもしれない、と明らかにされました。台湾の鉄器時代人口集団は、その祖先系統が、長江流域に居住していた農耕民だけではなく、中国北部に居住していた古代の人々にも由来しました(Wang CC et al., 2021)。この発見の痕跡は、中国北部の人々の南方への移住を確証しました。現代漢人の遺伝的構成は、黄河流域と鉄器時代台湾のさまざまな程度の祖先系統の混合としてモデル化でき、これは南北の漢人の間の遺伝的違いの理由を推測しました。


●中国の沿岸地域

 中国の南北の人口集団の遺伝的パターンと分岐過程は、アジア東部の深い人口史を調べるためには重要です。ゲノムの観点から洞察を得るために、研究者は中国北部沿岸地域(山東省)と内モンゴル自治区(9500~7700年前頃)および南部沿岸地域(12000~500年前頃)にわたる新石器時代のヒト遺骸を収集しました(Yang et al., 2020、関連記事、およびWang T et al., 2021、関連記事)。そのゲノムデータから、山東省の新石器時代遺跡の個体群により表されるアジア東部北方祖先構成要素は黄河とさらにシベリア東部草原地帯へと北方に少なくとも9500年前頃には拡大したのに対して、南部沿岸地域と台湾海峡の人口集団は、福建省とその隣接する島々の8400年前頃の新石器時代個体群により表される、アジア東部南方祖先構成要素の遺伝的構成要素を有している、と示唆されました(Yang et al., 2020)。これら2つの遺伝的構成要素は、2つの異なる遺伝的系統に分離しました。時の経過とともに、南北の人口集団間の遺伝的違いはじょじょに狭まり、新石器時代以来の南北間の頻繁な人口移動と混合が示唆されます。

 中国の南部沿岸地域はアジア南東部と接しており、現生人類の居住の長い歴史があります。中国南部沿岸は、ユーラシア東部とオセアニアの現生人類の起源と進化史の研究にとって重要な地域です。9000~8000年前頃となる福建省とその周辺地域の個体群の古代ゲノム解析から、南方祖先系統は現在の南部本土人口集団では大きく減少した、と示唆されました(Yang et al., 2020、およびWang T et al., 2021)。しかし、この祖先構成要素は現在のオーストロネシア人に顕著な影響を与えており、後期新石器時代のアジア南東部人口集団と密接に関連していました。

 広西チワン族自治区で発見された10686~294年前頃のヒト遺骸で行なわれたゲノム規模研究は、以前には標本抽出されていなかったアジア東部祖先系統を特定し、それは隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された較正年代で10686~10439年前頃の個体により表される広西祖先系統で、その遺伝的特性は古代の南方祖先系統(福建省祖先系統)およびアジア南東部の8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)個体関連祖先系統とは異なります(Wang T et al., 2021)。福建省祖先系統と広西祖先系統を有する人口集団間の相互作用は、9000年前頃に起きました。広西祖先系統は6400年前頃まで中国南部において存続しました。中国南部とアジア南東部との間の人口集団の混合は早くも9000~6400年前頃に起き、つまり、この地域に農耕技術が導入される前でした。



◎まとめと展望

 中国で行なわれた古代ゲノム研究の過去5年間の急速な発展は、中国の人口集団の起源と人口史の追跡に、大量の価値ある情報を提供してきました。たとえば、4万年前頃の田園個体の遺伝的特徴や、広範囲のこの祖先系統です(Yang et al., 2017、およびMao et al., 2021)。中国には広い領域と多様な地形があります。先史時代人口集団の遺伝的景観し人口統計学的事象は、地域により異なります(図1)。南北の人口集団は早くも19000年前頃には分岐し、両者の間の遺伝的違いは経時的に減少し、継続的な人口集団の相互作用が示唆されます。以下は本論文の図1です。
画像

 AR(アムール川)地域はLGMの末に遺伝的変化を経て、その後に長期の遺伝的連続性を示しました。農耕の拡大を伴う遺伝的変化と人口移動が、WLR(西遼河)地域で観察されました。中原の人口集団は周辺地域へと拡大し、SC-SEAからの遺伝的構成要素は経時的に増加しました。新疆の人口集団の動的なパターンは、初期小河人口集団により表される在来の祖先系統と周辺の人口集団との間の一連の混合により特徴づけることができます。南部沿岸地域は農耕の導入前に、さまざまな遺伝的祖先系統間の複雑な相互作用を経ました。

 しかし、中国の人口史の理解は完全にはほど遠いものです。中国の人口集団の直接的な祖先、いつどのように北部人口集団は南部人口集団と相互作用したのか、長江地域の古代の農耕民の遺伝的構成と拡大、チベット人の起源と進化など、多くの問題が提起されました。古代ゲノムデータはある程度蓄積されてきましたが、中国の人々の複雑な遺伝的過程の再構築には依然として長い道のりがあります。将来、時空間的横断区の以前には標本抽出されていなかった地域、たとえば中国の中央部地域からの古代ゲノムデータが増え、考古学年代測定や言語学や生物情報学やゲノミクスやプロテオミクス(タンパク質の総体であるプロテオームの解析手法)が発展すれば、学際的研究は、中国の人口集団の起源、人口集団の移住と相互作用、経時的な環境への適応について、並外れた洞察を提供できます。


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太田博樹(2023) 『古代ゲノムから見たサピエンス史』(吉川弘文館)
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