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リーベンアイナー『菩提樹』Die Trapp-Familie (1956年 西ドイツ)

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2025/03/14 (Fri) 17:08:16

リーベンアイナー『菩提樹』Die Trapp-Familie (1956年 西ドイツ)

菩提樹 Die Trapp-Familie
監督 ヴォルフガング・リーベンアイナー
脚本 ゲオルグ・フルダレック ヘルベルト・ライネッカー
音楽 フランツ・グローテ
撮影 ヴェルナー・クリーン
公開 1956年

動画
https://www.youtube.com/watch?v=N1ivtrTM7QI&t=1313s


菩提樹 (映画) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E6%A8%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

『菩提樹』(ぼだいじゅ、原題:独: Die Trapp-Familie、和訳: トラップ一家)は、1956年の西ドイツ映画である。邦題は劇中に登場するシューベルトの歌曲から取られている。

マリア・フォン・トラップによる自叙伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』の前編(オーストリア編)を原作としている。

トラップファミリーがアメリカに亡命するまでを描いており、続編の『続・菩提樹』では亡命後のトラップファミリーが描かれている。ブロードウェイミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』およびアメリカ映画『サウンド・オブ・ミュージック』の先行作品で[2]、史実との相違点が多いそちらに比べ、本作の内容は史実及び原作に比較的忠実になっている。

あらすじ
見習い修道女マリアはザルツブルクのノンベルク修道院学校で子供たちにドイツ語を教えていた。しかし彼女は口笛を吹いたり、階段の欄干を使ってすべり下りるなど厳しい規則に無頓着な娘。ある日修道院長はマリアを呼び、9ヶ月間ゲオルク・フォン・トラップ男爵の子供たちの家庭教師として赴任するよう諭す。

かくしてトラップ邸を訪ねたマリアだったが、白い制服姿の息子ふたりと娘5人が、ホイッスルの音で軍隊式に歩くトラップ家の厳しい規律を見て異様に思う。そこでゲオルクがウィーンで婚約者イヴォンヌ姫といる隙に、マリアは子供達を庭で遊ばせるのだった。これを知ったゲオルクは激しく怒り、マリアを解雇しようとするが、彼は子供たちの歌声を聞いて考えを変え、マリアが家庭教師を続けることを許す。

クリスマスの祝日にイヴォンヌ姫が屋敷にやって来る。彼女は冗談で「ゲオルクがマリアに恋をしている」と言うのだが、ゲオルクはそれをきっかけとして実際にマリアへの愛情を認識。マリアに結婚か天主への献身かを選択させる。マリアは修道院へ戻り院長の助言を聞いた上で、改めてゲオルクに求婚し男爵夫人となる。

1930年代、経済状況の変化でザルツブルクも影響を受けた。ゲオルクの親友で銀行家のグルーバーは、ナチス政権の経済措置を原因として自らの経営する銀行が破産しそうになっていた。ゲオルクは親友を助けるために、財産を彼の銀行口座に振り込む。一方その頃、教会へのオルガンの寄贈を依頼しにトラップ家を訪れた教会合唱音楽の専門家であるフランツ・ヴァスナー神父は、子供達の歌声を聴いて家族合唱団の音楽指導を受け入れる。それから間もなくして、グルーバーの自殺が新聞で報じられ、トラップ家は財産を失う。

マリアはそれでも悲観せず屋敷を観光ホテルとして開業した。同じ頃、子供らのうち長男のルペルトと次男のヴェルナーは市内でポスターを見て、秘密裏に合唱コンクールへの参加を申し込む。ゲオルクは当日まで家族の参加に反対していたが、トラップ一家は最優秀賞を獲得。彼らの歌に感動したアメリカの興行師ゼーミッシュはアメリカでの公演を依頼し、ラジオ放送を聞いたシュシュニック連邦首相もトラップ家族を国家行事に招待する。しかしナチス・ドイツのオーストリア併合により、シュシュニックは退任し、その行事は取り消され、ホテルに滞在していた海外からの宿泊客も逃げ出すように帰国して行った。

そんな中、実は以前からナチス党員であったトラップ家の執事フランツは、併合を機に屋敷にハーケンクロイツ旗を掲げる事を提案。しかし愛する祖国オーストリアを軍事力によって併合したナチスを支持しないゲオルクは、それを拒否する。やがて屋敷にやって来たナチ党員は、ハーケンクロイツを掲げない事やグルーバーへの援助を売国行為だと口汚く非難した挙句、マリアを侮辱。かっとなったゲオルクは彼を殴打してしまい、いよいよ逮捕を仄めかされるまでに追い込まれる。マリアはゼーミッシュの提案を受け入れ、アメリカに行こうとゲオルクを説得する。一家は「ハイキング」と称して夜中に荷物を背負い屋敷を出る。執事フランツは事態を察したが、長年仕えてきたトラップ家への忠誠を重視し、亡命を助けるのだった。

トラップ一家はニューヨークに到着。ヴァスナー神父と共に上陸許可を受けるため、窓の外に自由の女神像が見えるエリス島の合衆国移民局の広間に座り込んでいた。そこにはアメリカ入国を求める人々が何ヶ月も閉じ込められていた。というのも、ゼーミッシュのボスであるペトロフはオーストリア民謡や宗教曲の合唱というトラップ一家に興行的魅力を感じず、保証人となることを拒否したのだ。さらにペトロフはゼーミッシュと共に移民局にやってきて、トラップ一家の強制送還を要求する。せめて歌を聞いてほしいというマリアの懇願もペトロフははね除けるが、入国審査官の機転で広間から出られなくなったペトロフの前で、一家は「菩提樹」の合唱を披露。その歌声に感心したペトロフは一転、トラップ一家のアメリカ公演を決定する。

キャスト
マリア・トラップ:ルート・ロイヴェリク
トラップ男爵:ハンス・ホルト(ドイツ語版)
ヴァスナー神父:ヨゼフ・マインラート(ドイツ語版)
ヴェルナー・フォン・トラップ:ミハエル・アンデ
グルーバー:フリードリヒ・ドミン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E6%A8%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
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2025/03/14 (Fri) 17:18:21

続・菩提樹 Die Trapp-Familie in Amerika(1958年 西ドイツ)
監督 ヴォルフガング・リーベンアイナー
脚本 ヘルベルト・ライネッカー
原作 マリア・フォン・トラップ
音楽 フランツ・グローテ
撮影 ヴェルナー・クリーン
公開 1958年10月17日
上映時間 87分(西ドイツ:106分)

動画
https://www.youtube.com/watch?v=NrjF3xiKSj0&t=2s

続・菩提樹 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E3%83%BB%E8%8F%A9%E6%8F%90%E6%A8%B9

『続・菩提樹』(Die Trapp-Familie in Amerika)は、1958年制作の西ドイツ映画。

マリア・フォン・トラップによる自叙伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』の後編(アメリカ編)を原作としている。

ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の基になった、1956年公開の映画『菩提樹』の続編であり、アメリカ合衆国に亡命した後のトラップファミリーを描いている。スタッフ・キャスト共に『菩提樹』と同じメンバーである。

あらすじ
祖国オーストリアを併合したナチス・ドイツの手を逃れアメリカ亡命を果たしたトラップ一家は、小型バスに揺られて米国各地での演奏旅行を続けていたが、亡命直後の話題性による人気は早くも衰え、コンサート会場は空席だらけの有様であった。そんな中、アメリカ入国の保証人でもあった興行主のゼーミッシュからは契約解除を告げる手紙が届き、一家は安アパートでの貧困生活を強いられる。歌声に魅了されたアパートの住人から別の芸能プロデューサー、ハリスを紹介された一家であったが、宗教音楽にこだわるフランツ・ヴァスナー神父の指揮によるパレストリーナのミサ曲の直立不動の歌唱は「瀕死のアヒル」などと呼ばれ芸能的に評価されない。アメリカとヨーロッパの文化の違いに戸惑いつつ、マリアは結婚指輪、ゲオルクはマリア・テレジア勲章を売って資金を作りながら一家はアメリカで苦難の演奏活動を続けてゆく。

キャスト
※括弧内は日本語吹替(テレビ版、初回放送1965年4月7日 フジテレビ)

マリア・トラップ:ルート・ロイヴェリク(寺島信子)
トラップ男爵:ハンス・ホルト(ドイツ語版)(中村正)
ワーナー・フォン・トラップ:ミハエル・アンデ(三木弘子)
ヴァスナー神父:ヨゼフ・マインラート(ドイツ語版)(北村弘一)
パトリック:ウォルフガング・ワール(山谷初男)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E3%83%BB%E8%8F%A9%E6%8F%90%E6%A8%B9
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2025/03/15 (Sat) 07:21:08

サウンド・オブ・ミュージック (映画) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


オーストリア出身のマリア・フォン・トラップによる自叙伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』(The Story of the Trapp Family Singers)を基にしている。

本作品は、あくまで「『マリアの自伝を基にしたミュージカル』を原作とした映画」であり、元のミュージカルの時点から史実とは異なる点が多々ある。

実際にはオーストリアにおいてもドイツによるオーストリア併合を支持する国民が圧倒的に多く、動画サイトなどではこの映画の演出と異なりドイツ国旗を振りながら喜んでドイツ軍やアドルフ・ヒトラーを迎えるオーストリア国民の群衆を見ることが出来る。ドイツ軍進駐後にドイツ政府によって行われた国民投票では97パーセントが賛成したとされる(詳しくはアンシュルスを参照のこと)。『菩提樹』ではオーストリアの民衆が歓声をあげてドイツ軍を迎える様子を伝えるラジオ放送をトラップとマリアが苦々しい表情で聞いている場面がある。
映画およびミュージカルではマリアは修道院の紹介で修道女の身分のままトラップ家に家庭教師にやってくるが、史実では家庭教師になった時点で既に修道女を辞め修道院を出ている。その理由も作中と異なり、修道院の暮らしに馴染めずに体調不良に陥ったことで転職を勧められたためである。

ゲオルクには前妻アガーテとの間に子供が7人いたが、マリアが家庭教師として教えたのは最初は次女(名前は同じマリア)であり、後に長女(母と同じアガーテ)に教えていて、7人全員の家庭教師ではない。
ゲオルク・フォン・トラップの役名は、1956年と1958年に西ドイツで製作された『菩提樹』や『続・菩提樹』ではバロン・フォン・トラップであり、「トラップ男爵」と訳されている。1965年のこの作品ではキャプテン・フォン・トラップとなっていて、映画の中では「キャプテン」と呼ばれ、マリアも「キャプテン」と呼んでいる。しかし婚約していたエルザは彼を「ゲオルク」〔英語風にゲオルグ〕と呼んでいる[24]。ゲオルクは結婚式のシーンで少佐の制服(オーストリアでは中金線3条)を着用しており、映画製作者側のゲオルクの設定に対する構想の変遷を垣間見ることができる。

ラスト近くで「トラップ・ファミリー合唱団(シンガーズ)」の名でザルツブルクの音楽祭に出演しているが、この楽団名はアメリカに渡って戦後になってから改名したもので、この当時は「トラップ・ファミリー聖歌隊 (Choir)」と名乗っていた。

当時の実際の合唱団にはゲオルク・フォン・トラップの7人の連れ子の他に、マリアが産んだ二人(後にアメリカで3人目が生まれた)の子供も加わっており、ラストの1938年当時は7人の連れ子はすでに大人[25]であって、マリアが生んだ二人[26]だけが子供であった。これは、実際に二人が結婚したのは1927年で、ラストの出国当時はそれから11年後の話であることによる。そして1956年に西ドイツでマリア・フォン・トラップの手記を基に映画化された映画『菩提樹』で、時代設定を10年ずらして、二人が知り合い結婚してすぐに出国するストーリーにして、子供の顔触れも変えずにしたための矛盾である。『サウンド・オブ・ミュージック』も『菩提樹』の時代設定を踏襲している。

音楽好きの家族で合唱団を結成して、音楽のコンクールに出ることになっているが、実際は大恐慌によりゲオルクが資産を預けていた銀行が倒産。無一文となったゲオルクに対して、マリアは神学生に下宿を貸出して金を稼ぎ、その下宿人だった神父フランツ・ヴァスナーが子供たちの音楽指導を行ったのであり、音楽指導を行ったのはマリアではない。『菩提樹』では、教会へのオルガンの寄付を依頼しにトラップ家を訪れたヴァスナー神父が子供たちの歌声を聴いて飛び入りで合唱指導を始める、という設定になっている。

この映画は全般的に親衛隊と突撃隊とを混同して演出している。なお、突撃隊はナチス内部の権力闘争の結果この映画の舞台となった1938年にはその活動は下火になっている。ラストで追われるトラップ一家を追跡する一隊の制服は、ツェラーの副官は黒色の制服(親衛隊)だがその下の隊員(ロルフら)は褐色の制服(突撃隊)である(ただし、アンシュルスがあった1938年3月に一般親衛隊の制服は黒からフィールドグレーに変わっており、黒服は予備親衛隊員などが着るイレギュラーな存在となっていた。詳細は親衛隊と突撃隊および、制服 (ナチス親衛隊)、制服 (ナチス突撃隊)を参照。)。

トラップ一家が生まれ故郷オーストリアを離れることを決心したのは、ゲオルクの元に召集令状が届いたためだけでなく、ドイツ海軍の潜水艦艦長に就任するように要請され、また長男ルーペルトがユダヤ人医師を強制収容所送りにした後の病院に勤務することも要請され、さらにヒトラーの誕生日にミュンヘンのラジオ局でトラップ一家が歌えと要請されて、いずれも断ったことで、オーストリアに留まることが危険であると判断したことと、当時ナチス党員であった執事のハンスがオーストリア国境がもうすぐ閉鎖されることを伝えたことが大きい。

映画ではコンクールの最中に徒歩で逃げ出してナチス親衛隊の追跡を振り切るが、史実では周囲に全く気づかれないように普段着で家の裏庭を出て、北イタリア行きの列車に乗ってイタリアの南チロルの山に逃げ、国境を越えてフランスへ列車で移動し、そしてイギリスに渡り、サウサンプトンから船でアメリカに向った。映画のようにスイスへの山越えではない。ところでなぜイタリアに行ったのかについては、当時トラップ一家は戦前オーストリア領で戦後イタリア領になったトリエステで市民としてイタリアの市民権を持っていて、まだ独伊同盟が締結される前年で、オーストリア併合に反対したイタリア国内の動きからナチスといえどもイタリア市民権を持つ者を勝手に逮捕することが出来なかったことによる。

オーストリアを脱出する山越えのシーンは視覚効果のためか、ザルツブルクからスイスの間を結ぶ通常のルートとは全く異なる場所で撮影された。現実のザルツブルクから歩いて山を越えると、そこはドイツ(バイエルン州)のベルヒテスガーデンである。近辺にはアドルフ・ヒトラーの別荘すら存在する。ザルツブルクはドイツとの国境が近く、その半分以上の方角がドイツとの国境である。そしてザルツブルクからスイス国境までの間は相当な距離があり徒歩で移動するには遠すぎる。地元住民の視点においては非常に不自然なラストシーンである。

実際のマリア・フォン・トラップも活動的ではあったが、同時に勝ち気な癇癪持ちでもあり、ゲオルクの方がむしろマリアを優しくなだめる一家のまとめ役であり、音楽好きな性格であった。渡米後にトラップ・ファミリー合唱団が解散したのは、ゲオルクの死後マリアだけで子供たちをまとめきれなかったのも一因とされる。

伝記がミュージカル化される際、マリアは事実がフィクションとして脚色して描かれること自体には寛容だったが、亡き夫ゲオルクが厳格かつ横暴な人物として描かれるシーンにだけは納得しなかった。


オーストリア・ドイツ等における否定的な評価

『サウンド・オブ・ミュージック』は、地元のザルツブルクを含むドイツ語圏ではヒットしなかった。それはこの映画が当時のオーストリアの現実とまったく異なるものであることに起因する[31]。そのため、オーストリアではザルツブルクを除いて、21世紀に入るまでこの映画は1度も上映されていない。また、第一次世界大戦当時の敵国であったイタリアなどではトラップ艦長は商船を攻撃した極悪人であり、それがイタリアと第二次世界大戦時に同盟国であったドイツに抵抗する英雄で格好よく描かれているという点で反感を買い、本映画の上映が禁止されている町すらある。

しかし、西ドイツではこの映画の9年前、ミュージカルが作られるより以前の1956年と1958年に同じくトラップ一家の物語を題材とした映画『菩提樹』、『続・菩提樹』が制作されており、ドイツ語圏での『サウンド・オブ・ミュージック』の不評とは対照的に『菩提樹』は「1950年代で最も成功したドイツ映画のひとつ」とも言われている。

本作品では、映画の冒頭に字幕で出てくる「オーストリア 1930年代 最後の黄金の日々」という表現のとおり、ナチスが台頭する以前のオーストリアが自由で民主的な国であり、ゲオルク・フォン・トラップがその自由を守るシンボルとしてナチスと戦うように描かれているが、実際にはそうではなかった。

彼の立場はオーストリア・ファシズムと言われる時代の考え方を支持するものであって、1930年代初めに議会が停止されて社会民主党や労働組合が解散させられ、ナチスも抑え込まれた状況下での当時の首相フォン・シュシュニックを支持していた。そして、古い体制を支持(映画中のパーティ―において彼が燕尾服の首から掛けて佩用している中綬章タイプの勲章は古いファシズムを表すものである)して、結局ナチスとの権力争いに敗れたのであって決して自由と戦う者とは違うものであった。

そのため、戦後中立を標榜したオーストリアにとって、戦前のオーストリアも自由を抑圧した体制であり、やがてナチスに迎合して合邦された苦い歴史を作ったオーストリア・ファシズムを支持するトラップ一家は、単に権力争いに敗れて亡命を余儀なくされただけであり、戦前の体制を擁護する映画であると見られている。

ゆえに、この映画の内容を鵜吞みにして、ナチスに走ったツェラー、ロルフ、フランツを単純な悪役にしていては当時の複雑なオーストリアを理解することは難しい。本作品は日本におけるオーストリアのイメージを最も強く歪めてきたと言われている。

なお、映画で家政婦も執事もナチス党員で監視する悪役のような描写になっているが、西ドイツ製作の『菩提樹』では史実に沿って執事が党員でありながら手引きする場面があり、長女アガーテが半世紀が過ぎた後に回想記で感謝の念を述べている。

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