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2024/12/17 (Tue) 09:54:24
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”非情の人”の心に善性を灯す「動的性善説」【内田樹の談論風発13】
デモクラシータイムス 2024年9月11日収録
https://www.youtube.com/watch?v=cn0NMW6LHxY&t=1s
内田樹の研究室
性善説と民主政の成熟 2024-12-16 lundi
http://blog.tatsuru.com/2024/12/16_1456.html
日替わりで政治的事件が続くので、コラムを書くのが大変である。でも、これはある意味では「よいこと」だと思う。それだけ政治的状況が流動化しているということだからである。
公人としての資質問題で失職した県知事が、なぜかSNSで圧倒的な追い風を得て再選されたかと思うと、そのSNS戦略を受注した広報会社の社長が内幕を公開したせいで公選法違反を咎められるという展開になった。
「選挙にまつわる膿」がこうして噴き出したおかげで「なるほど選挙制度というのはこういうふうに腐ってゆくのかが可視化された。これも「よいこと」に数えてよいかも知れない。
ある候補者は公選法が想定していないトリッキーな行動を次々ととることで都知事選も県知事選もカオス化してくれたけれど、改めて公選法が性善説に基づいて設計されているという厳粛な事実を前景化してくれた点では功績があったと思う。
私たちの社会制度の多くは性善説に基づいて設計されている。喩えて言えば田舎の道にある無人販売所みたいなものである。「りんご5個で300円」と看板が出ていればふつうの人はりんごを取って代価を置いておく。でも、たまに「システムの穴をみつけて悪用する人間(ハックする人)」が出てくる。あるだけのりんごを持ち去り、ついでに置いてある代金も盗んでゆく。ハッカーたちは「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろう。
だが、その後りんご農家がこれに懲りて、店番を置いたり、防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁されて、次は「りんご5個500円」に値上がりしたりする。ハッカ―の取り分は良民が分担することになる。だから、制度の穴をみつけて自己利益を増やす人間をを「スマートだクレバーだ」とかほめる人は自分も彼らに盗まれていることに気がついていないのである。
盗まれるだけでは業腹だから「オレも今日からハッカーになる」と人々が我さきに制度の穴を探すようになると、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならない。「市民全員が潜在的には泥棒である」と思われて暮らすのはずいぶん気鬱なことである。何よりまったく価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない。
そんな生産性の低い、気分の悪い社会に私は住みたくない。
あらゆる制度は性善説で制度設計した方が圧倒的に効率がよいし、生産性が高い 。何より性善説で作られた制度は利用者たちに向かって「善であれ」という遂行的な呼びかけを行ってくれる。「私はあなたが善良な人間であることを願う」というメッセージを制度が個人に送って来るのである。
これは「民主政には無数の欠点があるが、それでも他の制度よりはましである」というチャーチルの理路と通じるものがある。民主政は不出来な制度である。なにしろ有権者の相当数が市民的に成熟していないと機能しないからである。市民の過半が「子ども」だと民主政は破綻する。だから、民主政は市民の袖を捉えて「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。
そんな親切な制度は他にない。帝政も王政も貴族政も市民に向かって「バカのままでいろ」としか言わない。統治者ひとりが賢者であって、あとは全員愚民である方が統治効率がよいからである。でも、独裁者はほぼシステマティックに後継者の指名に失敗する。そして、独裁制はどこかで「統治者もバカだし、残り全員もバカ」というカオスのうちに崩落する。
統治機構の復元力を担保するためには「一定数の賢者が社会的な層のどこかに必ずいて、統治者が不適切な場合に交替できる仕組み」が最も適切であることは誰にでもわかる。
民主政はその「最も適切な制度」であるのだが、不出来な制度である。「一定数の賢者」を特定の場所に特定の方法で育成しプールするということができないからである。当然のことだが、強制や脅迫や利益供与を以て人を成熟させることはできない。成熟した市民は「調達する」ことができず、「懇請する」という仕方を通じてしか呼び出すことができない。そこが「不出来」である所以なのである。
私たちの社会制度の多くが性善説で設計されているのは、その制度そのものが私たちに向かって「性、善であれ」と懇請してくるからである。その遂行的メッセージを聴き取れない者は邪悪であるのではなく、単に未熟なのである。
制度は生き物である。それが人間をどう成熟させ、世界をどう住みやすくするために作られたものなのか、たまには思量すべきだ。(12月16日)
http://blog.tatsuru.com/2024/12/16_1456.html
内田樹の研究室
性善説システムからのお願い 2024-07-27 samedi
http://blog.tatsuru.com/2024/07/27_0852.html
今回の都知事選では公選法の抜け穴を狙うような脱法的行為が目立った。ある政党は24人の候補を擁立し、選挙公報の半分近いスペースを占拠し、掲示枠にポスターを張る権利を有価で販売するということを行った。掲示板に選挙と関係ない写真や、別のサイトに誘導するバーコードを載せたポスターを貼った事例もあった。
これまでも政見放送や選挙公報にはあきらかに市民的常識を欠いた人物が登場したけれども、それは「民主主義のコスト」だと思って、私たちは黙って受け入れていた。だが、さすがに今度の都知事選の非常識さは前代未聞だった。
でも、こういう行為をする人たちは別に選挙を利用して金儲けしたり、売名したいわけではないと思う。彼らの目的は公選法が「性善説」で運用されているという事実そのものを嘲笑することにある。供託金さえ払えば、公器を利用して、代議制民主主義というものの脆弱性と欺瞞性を天下にさらすことができる。民主主義というのがいかに非現実的な、妄想的なまでに理想主義的な仕組みであるか、それを暴露して冷笑することがこのような行為をする人たちを駆動しているほんとうの動機のように私には見える。「民主主義がどれほどくだらない制度だか、オレたちが好き放題にしているのを見ればわかるだろう?」と彼らは国民に向かって挑発的に中指を立てているのである。
しかし、だからといってこういう行為を処罰できるように法整備をすることには私は原則として反対である。公選法は民主主義の基礎である。それは性善説に基づいて制度設計され、運用されている。もちろん現実の市民たちは全員がそれほど性が善良であるわけではない。それでもなお公選法が性善説で設計されているのは、「民主主義社会を構成する市民たちの多くは、社会が平和で安定的であり、市民的自由が保全されることを求めており、それゆえ基幹的な社会契約については、遵法的にふるまうものだ」という人間理解をそこに託しているからである。民主社会のシステムは現実に市民たちの性が善であることを根拠にしてではなく(実際にそうではない)、市民たちの性が善であることから市民たち自身が最大の利益をこうむるように設計されているということである。
性善説で作られた制度は有権者たちがふだん市場でふるまう時のように「自己利益が最大化するために」ではなく、市民社会の一成員として「長期にわたって自己利益を安定的に確保するために」思量することを求めている。違いは「長期にわたって」という条件があるかないかだけである。
市場のプレイヤーの行動基準は「無時間モデル」である。注文と納品はタイムラグゼロであることが理想であり、今思いついたアイディアは今すぐ換金されなければならない。「長期的に」というような副詞は市場のプレイヤーたちの語彙にはない。彼らにとっては今ここでの利益だけが問題なのだ。
でも、市民社会の諸制度は長期にわたり安定的に運営されなければならない。そのためには一定数の市民が合理的に思考し、遵法的に行動することがどうしても必要になる。
性善説的制度は無思慮の産物ではない。市民たちの袖をつかんで「お願いだからまともな大人に育ってくれ(そうでないとこの社会は持たない)」というリアルな懇請の産物なのである。(『中日新聞』、7月18日)
http://blog.tatsuru.com/2024/07/27_0852.html
内田樹の研究室
常識にもう一度力を 2024-12-19 jeudi
http://blog.tatsuru.com/2024/12/19_0842.html
兵庫県知事選について書こうと思ったけれど、日替わりで事件が続くので、この記事が出る頃には事態がどうなっているのか予測がつかない。とにかく「異常な選挙」だったことは確かである。
前知事の再選が決まった直後は「オールドメディアがニューメディアに敗北した」という総括が支配的な論調だった。しかし、実際にはオールドメディアが知事選の異常さを「報道しなかったこと」で前知事にSNSの「追い風」が吹いて世論が一転したのだから、むしろ「オールドメディアの世論形成力は侮れない」ことを思い知らされたと言うべきだろう。
今回の県知事選では、公選法の制度上の抜け穴を利用して自己利益を得る「ハッカー」が幅を利かせた。ハックすることをスマートでクレバーだと評価する人がいる。この人物を「賢い」評した政党幹事長さえいた。
公選法も他の制度と同じく「市民は遵法的であり、良識に従ってふるまう」ことを暗黙の前提にして設計されている。もちろん昔から政見放送や選挙公報で「非常識なこと」を言う候補者はいた。けれども、そういう常識をわきまえない人にも被選挙権を確保することも「民主主義のコスト」だと思って人々は黙って受け入れてきた。何らかの外形的な基準を設けて「非常識な人」を排除することはやろうと思えばできただろう。けれども、先人たちはそうしなかった。「そんなの非常識だ」と思ったからである。
常識にできる最大限は「それは非常識だ」と困惑してみせることである。それ以上のことは常識にはできない。常識は決して原理主義にならないし、強権的にもならない。それが「常識の手柄」である。
今「非常識な人間」が大手をふるってのさばっているのは、法律や制度に穴があるからではない(あらゆる法や制度には穴がある)。彼らに向かって「それは非常識だ」と告げる言葉に現実的な力がなくなったからである。
繰り返すが、民主政下の社会制度の多くは「市民は原則として遵法的であり、良識を持って行動する」ことを前提に、つまり「性善説」に基づいて設計されている。だから、「その性、邪悪な人間」の目には抜け穴だらけに見える。だが、それを制度の欠陥だと思ってはならない。
性悪説に基づいて制度を作り直すことはしようと思えばできる。事実、市民の一挙手一投足を監視するシステムを完成させた国もあるし、日本にもそれを真似たいと思っている政治家はいる。
しかし、どれほど網羅的な監視システムを作っても、人々はその監視の目を逃れる方途を必ず見つけ出す。というのも、国民監視システムは国民に向かって絶えず「お前たちは潜在的には全員が泥棒であり、謀反人なのだ」と告げているからである。朝から晩まで耳元で「お前は悪人だ」と言われ続けていながら「私一人でも遵法的で良識ある市民として生きよう」と思う国民が出現することを私は信じない。
性悪説に基づく制度は「悪人であることが市民のデフォルトである」という人間観を政府が公式見解として発信し宣布しているということである。
それとは逆に、性善説に基づく制度は市民に向かって「あなたたちが遵法的で、良識ある人であることを私たちは願う」というメッセージを送る。制度そのものが市民に向かって「善良な人であってください」と懇請するのである。
市民に道義的であることを求める制度と、市民が利己的で不道徳であることを前提にする制度とどちらが長期的に「住みよい社会」を創り出すかは、考えるまでもない。
「それは非常識だ」の一言が十分な抑制力を持つ社会を私たちはもう一度再建しなければならない。
(週刊金曜日11月27日)
http://blog.tatsuru.com/2024/12/19_0842.html
内田樹さんの見た都知事選:「性善説」あざ笑う人の祭り
2024.07.11
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/
今回の都知事選が見せつけたのは、社会制度のもととなる「性善説」をあざ笑う風潮ではなかったか。しかもこの風潮を生んだのは安倍晋三政権以来、3代にわたる自民党の「行政府>立法府」の態度ではないか。思想家の内田樹さんはそう考えている。
内田 樹 UCHIDA Tatsuru
失われつつある選挙への基本認識
今回の都知事選では、「選挙は民主主義の根幹をなす営みである」という認識が崩れてしまったという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する公人を、法を制定する場に送り込む貴重な機会であるという基本的な認識が今の日本からは失われつつあるようだ。
「『性善説』の制度は隙間だらけ。その隙が『ハック』された」と語る内田樹さん=東京都内(川本聖哉撮影)
知事選の当選者は1人に限られるのに「NHKから国民を守る党(NHK党)」が関連団体を含め24人の候補を擁立した。そして24人分の掲示板の枠に同一のポスターを貼るなど“掲示板ジャック”をした。NHK党は、一定額を寄付した人にポスターを張る権利を譲渡する行為にも及んだ。掲示板には選挙と関係ない人物や動物の写真、サイトに誘導する2次元バーコードなども張り出された。NHK党以外の候補も「表現の自由への規制はやめろ」と書いたわいせつな写真入りポスターを張り出すなど、目を疑うような行為があった。政見放送も含め、注目を集めて動画サイトなどのフォロワーにつなげるなど、選挙を単なる売名や金もうけに利用しようとする候補者が多数登場した。
公職選挙法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的に振る舞うはずだ」という仮定の下に設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄(ちょうろう)したりすることは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
安倍政権から始まった流れ
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍晋三氏、菅義偉氏、岸田文雄氏の3代の首相による自民党政権の立法府軽視が原因であると私は考えている。
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、自民党政権は行政府を立法府より上位に置くことにひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党が激しく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権は極めて熱心だった。
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩(も)らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
東京都中央区銀座で都知事選の候補の街頭演説を聞く聴衆=2024年7月6日(AFP時事)
代議制民主主義を嘲弄
現行憲法下で独裁制を実現するために、差し当たり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーにすぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「普通の市民以下かも知れない」という印象を扶植することに並々ならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることには見事な成功を収めた。
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。NHK党は、暴露系ユーチューバーで有罪判決を受けたガーシー(本名・東谷義和)元参院議員を国会に送り込むなど、国会の威信、国会議員の権威を下げることにきわめて熱心であったが、これは彼らの独創ではない。自民党が始めたゲームを加速しただけである。
今回の都知事選で2位につけた石丸伸二氏も前職の広島県安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。これも「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を忠実に踏まえている。
日本維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
裏金事件も根底でつながる
自民党派閥の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革を目指すだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕(むしば)まれてへたり込んでしまうだろう。そして、どうやら日本人の相当数は、この事件のニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように見える。
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用が極めて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。有権者の多数が「まともな大人」でないと、民主政は簡単に衆愚政に堕す。だから、民主政は人々に向かって「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。市民に向かって政治的成熟を求める政体は民主政の他にはない。
帝政も王政も貴族政も寡頭政も、どれも「市民が幼稚で愚鈍である方が統治コストが安く上がる政体」である。だから、これらの政体は市民に向かって「成熟するな」というメッセージを送る。「難しいことは考えなくていい。考える仕事は私たち支配者が代わって行うから、お前たちは愚鈍のままでいい」という甘い言葉を送り続ける。中国の歴史書・十八史略に登場する、「帝力なんぞわれにあらんや」とうそぶいて、自分が支配されていることさえ気づかなかった「鼓腹撃壌」の老人こそ愚民の理想である。
その中にあって、民主政だけが、市民を甘やかさない。市民に対して「大人になれ」という面倒な仕事を押し付ける。だから、民主政は嫌われるのである。
「ファクト・チェッカーが、威信をかけて政治家の発言を査定する必要がある」(川本聖哉撮影)
制限強化は終わりなきいたちごっこ
今回の選挙の混乱の再発防止のために、一部からは立候補時の供託金を高額に引き上げることや推薦人を一定数確保することを立候補の条件とする案も出ている。だが、私は立候補を困難にする条件をつけることには原則的には反対である。一部の「性善説制度をハックする人たち」を何とかするために、今私たちが享受している政治的自由を規制すべきではない。
というのは、性悪説に基づいても、違法行為も完全にシャットアウトできるシステムを作ることは可能だし、それに類するものを作ってみても、システムの設計と維持に膨大なコストがかかり、かつ効果は大してない。「ハッカー」というのは「穴を見つける専門家」なのである。性悪説にシフトすることが民主政にプラスをもたらすことはない。
規制を設けるなら、法律で網をかけ監視や取り締まりをしなければならず、システム構築に膨大なコストが必要になる。だが規制を設けても、相手は新たな穴を探してくる。おそらく終わりなきいたちごっこになるが、これによって民主主義に関する新たな価値を生み出すことは無い。
「市民社会の常識」再生のために
私たちがなすべきなのは、「市民社会の常識」を再生させることである。「君がやっていること、それは非常識だよ」という言明が、現実に強い規制力を持っていれば、法律を作る必要はない。
米国では2016年の大統領選挙の時、ワシントンポスト紙が候補者たちのステートメントにファクトチェックをかけて、「ピノキオ」という単位でその真実含有量を表示したことがあった。「一部誤認や事実のつまみ食い」が1ピノキオ、重大な言い落としや誇張は2ピノキオ、重大な事実誤認や明白な矛盾は3ピノキオ、大うそが4ピノキオ。前大統領のドナルド・トランプ氏は「底なしピノキオ」の称号を贈られた。信頼できるファクト・チェッカーがその威信をかけて「誰が真実を語っているのか」を査定するならば、法的規制は要らない。
今回の都知事選が改めて示したのは、「常識あるまともな大人」が一定数存在しなければ、民主政は持たないということである。今は「大人になれ」も「礼儀正しくあれ」も「非常識であるのは恥だ」も、どれも強い指南力を持つメッセージではなくなってしまったが、それでも私はこれからも忍耐強くそう言い続けるつもりである。
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/
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2025/01/21 (Tue) 14:03:34
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