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2024/11/09 (Sat) 20:42:38
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樋口一葉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E4%B8%80%E8%91%89
樋口一葉 作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person64.html#sakuhin_list_1
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2024/11/09 (Sat) 20:43:38
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闘う女一葉 壺齋散人の樋口一葉論
続壺齋閑話 (2024年11月 9日 08:29)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8069.html
樋口一葉と聞けば大方の日本人は、平安時代の王朝風の女流文学の伝統を受け継ぎ、明治という時代に和文で創作した最後の作家というようなイメージを思い起こすだろう。その作品は、抒情的な雰囲気を以て人間とりわけ女性たちの心理の機微を描いたというふうにみなされる。そういう見立てのもとでは、一葉は明治の時代に源氏物語の世界を再興したと言われがちである。そういう見方を流布したのは森鴎外と幸田露伴であった。鴎外らは、一葉の小説「たけくらべ」が一年にわたる断続的連載を終えて、全編一機に掲載されたのを受けて、雑誌「めさまし草」の文芸批評欄「三人冗語」の場で、一葉の才能を絶賛したのだった。その際にかれらが持ち出した批評の基準が、抒情性とか日本的な美的感性といったものであった。一葉は抒情性の豊かな、日本的な美的感性を表出した作家というふうにカテゴライズされたのである。そうした一葉の見方は、その後の批評の大きな準拠枠となった。いまでも一葉をそうした作家として単純化する見方が支配的である。
しかし一葉の作品を虚心坦懐に読めば、鴎外らの見方が一面的だということに気づく。一葉の小説には、非常に抒情的な要素があることはたしかではあるが、それ以上に、社会的な批判意識が濃厚である。一葉の代表作はいずれも、女の生き方をテーマにしたものだ。一葉の時代の女は、まだまだ徳川時代以前の封建的な因習にとらわれて、非常に窮屈な生き方を強いられていた、窮屈であるとともに、抑圧的でもあった。一葉の描いた女たちは、抑圧されて、その抑圧に抵抗できず、多くの場合、それに屈するような生き方を強いられている。そこに一葉は一葉なりの怒りを感じ、その怒りが小説の基調となった。一葉の小説はなによりも、怒りの文学なのである。
鴎外らが激賞した「たけくらべ」は、一年にわたる連載の過程で、当初の意図を超えて新しい物語に変化している。当初「雛鶏」という題名を与えられたこの小説は、題名通り少年少女たちの成長のプロセスを描くことを意図していたと思われるが、途中から、もっぱら美登里という少女が女としての自分の宿命を受け入れていく過程を描くことにかわっている。美登里にとって女としての宿命とは、吉原の芸妓になることである。美登里の姉も吉原の芸妓であって、彼女らは子供のころから芸妓となるよう定められていたのである。そのことに気づいたとき、美登里は少女から女へと変貌する。そのことに気づかない読者は、美登里の変貌を初潮と結びつけたりしたものだが、初潮はめでたいことではあっても、深刻な出来事ではない。小説の中の美登里は、深刻な出来事に見舞われてショックを受けているのである。
一葉が、「たけくらべ」のテーマを、少年少女の成長物語から女の抑圧された生き方の自覚に変更したのは、一年にわたる連載の間に、彼女の問題意識が変わったからである。一葉は、「たけくらべ」の連載と並行して、「十三夜」「にごり江」そして「わかれ道」を執筆する。「十三夜」は夫の抑圧から逃れようとして逃れられずに妥協する女の話であり、「にごり江」は銘酒屋のバイシュン婦がかつての客に殺される話であり、「わかれ道」はこころならず男の妾になる女の話である。いずれも封建的な因習に押しつぶされる女を描いている。そうした女を描きながら、一葉は明らかに女たちに感情移入し、女たちを抑圧している因習に怒りをあらわしている。その怒りは、因習との一葉なりの闘いであったといえる。そうした闘いを描くうちに一葉は、「たけくらべ」を単なる少年少女の青春物語にしておくことに満足できなくなった。そこで途中から主人公の美登里に封建的な因習の犠牲者という役割を与えることで、一葉なりに、因習との闘いを自覚したのではないか。
一葉が因習に押しつぶされる女をもっぱら描くようになったのは、彼女自身の境遇にもよる。少女時代の一葉は、かならずしもみじめな生き方をしていたわけではなかったので、社会に対して不満をもつことはなかった。萩乃舎は裕福な家庭の子女の集まりであり、その中にあって貧しさにもとづくコンプレックスは感じたようだが、社会を恨むというような気持は持たなかった。ところが父親が死に、経済的に困窮するようになると、一葉は次第に社会的な矛盾に自覚的にならざるを得なかった。自分自身の貧しさを思い知らずにはいなかったし、自分の周辺の貧しい女たちの境遇にも目がゆくようになった。それについては、吉原の近隣で駄菓子屋を開いたこととか、丸山福山町で銘酒屋の女たちと親しく接したということもある。そういう自分の置かれた境遇から、一様は次第に、女が直面している社会的矛盾に自覚的になった。その自覚が一葉に、社会を相手にして闘う姿勢をとらせたといえる。
一葉の転機を画した小説「大つごもり」は女の貧困をテーマにしたものである。その貧困は一葉自身の貧困を下敷きにしたものであった。この小説の中で主人公お峰は、主人の目を盗んで二円の金を盗む。それは彼女の切羽詰まった事情のためである。この小説の中の事件は実は一葉自身の起こした事件を下敷きにしているのである。一葉は中島歌子の塾の下働きのようなことをしていたのだが、その仕事の最中、授業料収入の中から二円をくすねた。一葉自身には、これは毎月もらえるはずの手当であり、決してゆえなく手にしたのではないという気持ちがあったようだが、世間にはそうは見えない。一葉の行為は盗みとしてうけとられて仕方がない面がある。いずれにしても不愉快なこの事件を、一葉は小説の中に取り入れた。どういうつもりだったかは、うかがい知れないが、もし一葉が経済的に切羽つまっていなかったら、そんなことはおこさず、また、小説の題材に取り入れることもなかったであろう。
こんなわけで、一葉の小説の中の社会的な矛盾にかかわる部分については、一葉自身の実生活が大きなかかわりをもっている。自分自身の置かれたみじめな境遇が一葉に社会的な矛盾への自覚を深めさせ、その自覚が、小説の主人公たちを通じて、社会を指弾するような姿勢をとらせたのであろう。
一葉の作家としての事実上の遺作「われから」は、女が置かれた因習的な境遇に、果敢に立ち向かう女を描いている。その女は、自分が父親から受け継いだ財産を、入り婿に奪われる。自然の親子関係からは娘である自分に相続の権利があるはずだが、社会的な因習は、女の権利を認めない。そんな因習に対して主人公のお町は、勝てない闘いだとわかっていながら、果敢に闘いを挑む。そうした女の闘いを一葉は、横山源之助に影響されて思いついたようである。毎日新聞の記者だった横山が一葉を訪ねてきたのは明治29年2月29日のことである。その際に女の生き方について語り合った。横山は一葉を大いに励ましたようである。その励ましに応じるようにして、一葉は果敢に闘う女を前面に出したのだと思われる。
以下、一葉の代表作及び日記を読み解きながら、一葉文学の神髄に迫っていきたい
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8069.html
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2024/11/16 (Sat) 20:11:05
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大つごもり 樋口一葉を読む
続壺齋閑話 (2024年11月16日 08:20)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8079.html#more
樋口一葉の作家としての代表作は「たけくらべ」以下の五編の短編小説であるが、そのうち「大つごもり」は最初に書かれた。明治二十七年(1984)十二月発売の雑誌「文学界」に発表。一葉は満二十二歳であった。
下女として働く若い女(十八歳)の過酷な境遇がテーマである。貧しさのあまり、旦那の家から二円の金を盗む。しかし偶然の女神のはからいで、露見を免れ、当座をしのぐことはできた。しかし、彼女の境遇にはいささかの変化もないから、再び同じことをするはめに陥らないとも限らない、そんな絶望的な境遇が淡々と描かれる。文章に誇張はない。それでいて劇的な展開を感じさせる。一葉はこの作品によって、ついに自分の文学スタイルを確立できたと感じたのではないか。
一葉が小説世界で描いたのは、古い因習によってがんじがらめにされた女たちの過酷な境遇である。また、貧しい境遇の女たちを描いた。一葉自身、貧困な境遇にあえいでいた。しかも病弱である(後に肺結核を発病する)。それでもやけになることはなく、自分の体験をもとにして、独特の小説世界をつくりあげた。「大つごもり」はその転機となった作品である。
お峰という名の若い女が主人公。人使いの荒い家で下女として働いている。そのお峰が旦那の金を盗むはめになったのは、二つの事情が重なったからだ。まず、養父の病気で家族の経済状態が悪化。養父から金の無心をされる。借りた金に利子がつもり、それを払わないととんだことになる、といって二円という金を無心される。お峰は、前借でもしてなんとか都合をつけようと思い、かならず用意するから、大晦日(大つごもり)の日に、七歳になる弟に取りにこさせてくれと言う。
お峰は旦那の女房に金を用立ててくれるように願い出る。意外なことに女房はそれをうけがう。ところが、大つごもりの当日になると、女房は前言を翻して、金を渡してはくれない。そんな折に弟が金の受け取りにくる。お峰は切羽詰まり、なんとかせねばならぬ状況に追い込まれる。これが盗みをするはめになった第二の事情である。
大つごもりの日には、旦那の倅がきていた。倅は、父親に年越しの資金を無心する。その倅が、お峰が旦那の金を抜き取る場面を見ていたかどうかわからぬが、結果としてお峰を救う役割を担うことになる。というのも、お峰が手を付けた札束をそっくり頂戴し、自分がそれをもらったという書置きを残したのだ。それによって旦那ら家のものは、金がなくなったのは倅のせいだと思い、お峰が金を盗んだことは露見せずに済んだのである。
そのことについて、結びのところで次のように書いている。「さらば石之助(倅の名)はお峰が守り本尊なるべし、後のこと知りたや」。後のことを知りたいと言うのは、意味深長な言い方である。二円盗んだことは露見せずに済み、とりあえず無事を得たが、それは一時しのぎというべきもの。養父の家の状況は、二円の金でなんとかなるというものでもなく、いずれまたお峰に金を無心することになるだろう。その時にお峰はどんなふうに振舞えばよいのか。なんら明るい見込みはない。そんなきわどいお峰の境遇を、一葉は突き放したような言い方で表現しているのである。
「大つごもり」を映画化したものとして、今井正の「にごりえ」がある。この映画は、「にごりえ」「十三夜」を含めたオムニバス形式の作品で、久我美子がお峰を演じていた。そのお峰が、盗みが露呈するのではないかと恐れおののくシーンが非常に印象的だった。一葉の小説には、視覚的なイメージはあまり感じられないのだが、それを表現すると久我美子のあのような表情になるのであろう。
まずしいお峰の境遇に、自分自身のまずしい境遇を一葉が重ね合わせていることは、十分に考えられる。
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8079.html#more
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2024/11/23 (Sat) 18:00:26
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樋口一葉「たけくらべ」を読む
続壺齋閑話 (2024年11月23日 08:19)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8088.html
「たけくらべ」は、樋口一葉が書いた小説の中で最高傑作といってよい。短編小説ではあるが、他の小説にくらべて長いのと、その分筋書きの展開が入り組んでおり、色々な要素が共存している。メインの要素は、江戸から東京になった下町を舞台にして、少年少女を中心とした庶民の生きざまが生き生きと描かれていることと、主人公格の少女美登里の変貌である。美登里は当初男の子顔負けのお転婆娘として描かれていたのが、ある日突然変化する。その変化は、美登里の仲の良い男友達正太郎がびっくりするほど顕著である。正太郎は美登里より二つ年上の十六歳に設定されているが、その正太郎が、美登里がいきなり変わったことに辟易するほどなのである。
たしかに、この小説の最大の読ませどころは、美登里の変貌の部分なのである。その変貌をどうとらえるかで、小説の読み方ががらりと変わってしまう。従来の主流の意見は、美登里が初潮を迎えたことで、女を自覚するようになった。その自覚が美登里に顕著な変化を与えた。美登里は、それまでの性別を感じさせないような活発な女の子から一人の女に生まれ変わった。その女としての自覚が美登里に顕著な変化をもたらした、とするものだった。
それに対して佐多稲子が異議をとなえ、ちょっとした論争に発展した。佐多にとっては、美登里の変わりようは尋常ではないのである。「美登里のこの変りようは初潮に原因があると解釈されている。それですむなら『たけくらべ』の良さは単なる少年少女の成長の記に終わると云えないであろうか」と佐多は言って、それですむのだったら、「たけくらべ」はただの少女小説に過ぎなくなると言っている。佐多の直観では、この小説はそんない浅はかなものではない。当時、つまり明治になって間もない時代における、一部の少女たちの厳しい境遇を暗示している。美登里を憂鬱にさせたのは、初潮のショックなどではなく、自分の身の上に花魁の姉大巻と同じ境遇が起ることを自覚したことによるのであると佐多は言うのだ。十四歳の美登里の身にも、芸者として生きるように強制するものが迫ってきた。その切迫感が美登里を憂鬱にした。
評者の中には、美登里は廓の中でじっさいに身を売ったのではないかと推測するものもあり、その現実的な可能性などを忖度するものもあった。初めて身を売ることを、関西では水揚げと言い、関東では初店と言うそうだ。その初店の行事が、廓の中で行われ、その行事にともなって美登里は体を売ったのではないか、そう推測するような見方も提出されたりするが、小説の書き方としては、なにも体を売る場面をことこまかく書く必要はない。それとなく匂わせるだけでよいのであって、一葉の筆はどうも、美登里の身に体を売ることに通じるような何事かが起り、それが美登里の気持ちを乱れさせたと匂わせていると受け取れる。
ともあれ、廓から戻ってきた美登里の様子は、佐多の言うとおり尋常ではない。彼女は自分の身の上を恥じるようになり、そのため仲のよかった正太郎をはじめとして人と会うのが怖くなった。人の自分に向けられる目に、侮蔑を感じるようにもなった。ただの初潮くらいで、人の侮蔑の対象になるわけはない。そうなるのは、彼女が人をはばかるような境遇になるからだ。つまり売女の境遇である。とはいえ、明治の初め頃には、売女の境遇は現在ほど屈辱的であったわけではない。じっさい、美登里の姉は廓の中では売れっ子の花魁なのであり、そんな姉を美登里は誇りにしてもいる。だから、自分が姉と同じ境遇になるのは、絶望的なこととはいえない。そこをわかっているから美登里の母親は、「怪しき笑顏をして少し經てば愈なほりませう、いつでも極りの我まゝ樣さん、嘸お友達とも喧嘩しませうな、眞實ほんにやり切れぬ孃さまではある」などと平然と言ってのけるのである。最初はショッキングだろうが、そのうち姉のように慣れてくるだろうと楽観している。美登里の両親は、姉娘を売る際に、美登里も将来売ることを条件に周旋屋の厄介になったといういきさつがある。こんなひどい親がかつてはいたようである。
佐多の意見に強く反論した前田愛は、たけくらべにおける緑の変貌は初潮で説明できると強調した。だが前田の反論は、些末な技術的な指摘がほとんどで、肝心の美登里の気持ちがわかっているとはいえない。女の子にとって初潮は、たしかに照れくさいものではあろうが、しかし人目をはばかるような恥ずかしいものとは言えない。そこのところを前田は軽視しているようである。美登里の変貌を初潮のせいにしたがるのは、この小説を少年・少女の成長の物語として受けとめたいとする、主に男を中心とした読者の偏見のせいではないか、と思いたくなる。もっとも女の読者の中にも、瀬戸内寂聴のように初潮説を支持するものもいるにはいるが。
この小説が少年・少女の成長の物語になっていることもたしかなことで、その成長ぶりが、当時の東京の下町の環境を舞台に描かれる。舞台は吉原の西側に隣接する地域で、小説では大音寺前と呼ばれている。少年・少女たちは、おのれの親の身分に応じて二つのグループに分かれる。経済的に豊かな層は公立小学校に子どもを行かせ、貧しいほう私立小学校に行かせる。その二つのグループが睨み合いをするのは、よくあること。美登里は私立学校、正太郎は公立学校で、この二つは本来対立関係にあるのだが、美登里と正太郎は仲が良い。正太郎は美登里に恋心をいだいているほどだ。十六歳ともなれば、恋をしてもおかしくない年頃だ。ともあれ、対立するグループの男女がむつましくするのは、ロメオとジュリエットを思わせる。
かくして、小説はこの二つのグループの対立を、祭りや年中行事をからめながら、情緒豊かに描くのである。その描き方には一葉の筆の闊達さがうかがえる。一葉は、この小説の舞台に一時住んでいたことがあり、その折に、地域の人々の生きざまのようなものにも接したことであろう。
なお、この小説は、最初の三巻が明治28年1月に発行された「文学界」に掲載され、その後併せて七回にわたって分載され、明治29年1月発行の「文学界」で完結した。その間に、「にごりえ」「十三夜」「わかれみち」が書かれている。そんなわけでこの小説には、一葉自身の作家としての成熟のプロセスが反映されていると考えられる。書き始めは少年少女のたけくらべの物語であったものが、途中から美登里の女としての深刻な変化が主題になるのである。そこに我々読者は、一葉自身の中に生じた変化を読み取ることができるのではないか。
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8088.html
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2024/11/30 (Sat) 09:58:30
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たけくらべの舞台空間
続壺齋閑話 (2024年11月30日 08:26)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8100.html#more
小説「たけくらべ」は、浅草の吉原遊郭街に隣接する空間を舞台にしている。小説を読むには、かならずしも舞台背景を知っている必要はないが、維新後のある時期の日本の庶民生活がテーマになっている「たけくらべ」のような小説の場合、庶民が生活していた空間についてリアルな認識を持っていることは、小説の味わい方を深めこそすれ、余計なことにはならないだろう。ましてこの小説は、吉原という特殊な空間に深く結びついている。その空間は、歴史的な事情を引きずっている。そんなわけで小生は、この小説が舞台とする空間について、強く意識した次第である。
この小説は次のような書き出しで始まる。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や・・・」。
この文章を理解するためには、吉原の地形について一定の知識が必要である。吉原の遊郭街は、江戸幕府が浅草田圃と呼ばれる湿地帯を埋め立てて造成したところだ。ほぼ四角形の土地をお歯黒溝と呼ばれる堀で囲み、北東部に一つだけ門を設けた(敷地の形状は北東から南西へ向かって伸びる四角形である)。廓内への出入りはその北東部にある門を通じて行われる。その門を大門と呼び、門の傍らに植えられている柳を見返り柳と呼んだ。朝方客が帰り際に名残りを惜しんで振りかえったときに目に入るからである。
上の書き出しの文章には、大門にはお歯黒溝を回りこまねば行けぬこと、そのお歯黒部溝に対岸の遊女屋の灯りが映っていること、また、そのあたり一帯を大音寺前と呼ぶこと、三島神社からほど近いことなどが盛り込まれている。この地理感覚は、一葉自身の目線を物語っている。一葉は一時期浅草で小間物屋をいとなんでいたが、その小間物屋の所在地というのが、吉原の敷地の北西にあった(現在は台東区竜泉一丁目、一葉旧居跡の碑がある)。その地点からすれば、上の文章のような視点が得られる。一葉はその視点から、この小説の舞台空間を見ているわけである。
大音寺は実在する浄土宗の寺で、当時の一葉の家からは歩いてすぐ行ける距離にあった。この寺の名前が一体の地名として使われていた。いまは竜泉地区と言われる。三島神社は地区の西はずれにある。金杉通りを北上してきて、この神社の角を東に回れば小説の舞台となる大音前地区に入る。そこは金杉通りに比較すると、軒の低い長屋がたちならぶ貧相な地域である。小説はその地域を主な舞台として展開するのである。
三島神社の祭礼が、小説前半のクライマックスの舞台である。この祭礼は、いまでも行われている。三社祭や鳥越祭りに比較すべくもないが、この地域の伝統ある祭礼として延々と受け継がれてきた。
小説後半の山場は鳳神社の酉の市である。鳳神社は廓の南西の外側にあった。廓の規模は、大門から見て幅が330メートル、奥行きが250メートルほど、そんなに大きなものではない。美登里たち小説の登場人物がどのあたりに住んでいるは、文面からはわからない。ただ、美登里が姉にあうために廓の中に行くときに、鳳神社で商売道具を広げていた長吉が美登里の通りかかるのを見たとある。美登里はおそらく、鳳神社付近に住んでいて、廓の中に入るには、神社を通り過ぎて、お歯黒溝沿いに大回りしたと考えられる。大回りといっても、大した距離ではない。
なお、この地域の人々は、鳳神社の酉の市を、生計を営む大きなチャンスとしていたようである。松があけるとすぐに、その年の酉の市のために、熊手や飾り物の生産にいそしみ始めるのである。長吉までが、酉の市の期間中は、俄か商人になる。
美登里が心を寄せる真如は龍華寺の住職の息子ということになっている。龍華寺という名の寺は実在しない。おそらく龍泉寺のことだろうと思う。龍泉寺の当時の住職には息子がいなかったのかもしれない。そこで、龍泉寺に関していい加減なことを書くよりも、架空の寺のこととしたのではないか。別に龍泉寺にこだわる理由はない。
一葉が浅草の大音寺前に住んでいたのは、明治26年7月から翌27年5月までの、わずか十か月ほどのことである。短い期間ではあるが、一葉はそこに住む人たちと、荒物屋の経営を介在して付き合ううちに、かれら下町の庶民の暮らしぶりに接した。山の手に武士の娘として育った一葉にとって、浅草のしかも吉原に縁の深い人々の暮らしぶりは、新鮮に映ったにちがいない。その自分なりの印象を、この小説のなかで表現したと言えるのではないか。
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8100.html#more
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2024/12/14 (Sat) 21:09:55
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樋口一葉「十三夜」を読む
続壺齋閑話 (2024年12月14日 08:22)
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「十三夜」は、一葉の小説の中でもっと完成度が高いといわれる。それは主に文章の完成度に注目した評価だろう。この小説の文章は、少数の登場人物の間の会話のやりとりを中心に展開していくのであるが、そのやり取りが非常にテンポよく、しかも言いたいことを過不足なく表現し得ており、それが地の文章と微妙に調和して、全体として緊迫感に満ちたものになっている。しかも読者はそこに音楽的なリズムを感じる。文章の魅力の大部分が、言葉の音楽的なリズムによることを思えば、この小説の文章のスムーズな音楽的リズムは強みである。
内容的には、一人の女の生き方をテーマとしている。一葉は、自分が生きた時代の女たちの生き方を追求した作家だったといってよい。「たけくらべ」の美登里は、芸者になるべく宿命づけられた少女が、いよいよ自分の宿命を思い知らされて動揺することころを描いているし、「にごりえ」のお力は、新しい男に自分の運命をゆだねようとして、古い男に無理心中を仕掛けられるところを描いている。「大つごもり」のお峰は貧困にあえぎながら、養家の窮状を救おうとして主人から2円の金を盗む話である。以上の小説の主人公に共通しているのは、不本意な自分の境遇に翻弄される姿である。「十三夜」の主人公お節も、自分の境遇に不満がある。とはいっても、彼女は経済的には困窮しておらず、むしろ安定した暮らしをしている。彼女が不満なのは、夫が自分を見下して、一人の人間として見てくれないことである。このまま夫と暮らしていては、自分は人間らしい生き方ができない。そう感じた彼女は、実家に両親を訪ね、自分の不幸な境遇を説明し、是非離婚させてくれと懇願するのである。
このように、結婚生活に不満のある妻が、夫との離婚を望むという話は、現実の世界ではあったのかもしれぬが、小説の世界では珍しかったといえよう。一葉がイプセンの「ノラ」を意識していたかはよくわからぬが、小説のテーマ設定という点では、「ノラ」とよく似ている。ノラの場合には、自立への意思を優先させて結婚生活を解消する。しかしこの小説のお節は、父親に説得されて離婚を思いとどまるのである。
父親が娘を説得するに用いた理屈というのが、実に世俗的で功利的なものである。いまの常識から考えても、あまりにも卑屈にすぎるといわねばならぬ。世間体とか、経済的な利益とかを持ち出して、それを失ってまで離婚するのは損得勘定にあわない。ありていにいえば、父親の言っていることはそれに尽きる。それに対して娘のお節は、父親の説得をあっさりと受け入れる。自分さえ我慢しておれば、今まで通り世間体にかなった生き方ができる。一人息子に片親の悲しさを味わせることもなく、両親や弟をがっかりさせることもない。
そういう卑屈ともいうべき姿勢は、当時の日本女性が置かれていた状況を反映していたものなのか。日本の女性といっても、明治の前半においては、徳川時代の因習的な生きざまがまだ根強く残っていたと思われる。徳川時代には、武家の女性が階級的な面目にとらわれて非常に窮屈な生き方を強いられていた一方で、町人や百姓の女性は比較的自由に生きていたと思われる。そういう点では、一葉には武士の娘という意地があり、その意地がこの小説のなかに表現されていると考えられる。この小説の中のお節の実家はどうやら町人のようだが、その意識は武士のそれを思わせる。そうだとすれば、お節と父親が世間体に強くこだわるのは、武士としての階級意識がそうさせるのであろう。一葉の父親自身は農民の出身ではあるが、一葉が生まれた時には士族を称していたし、娘の一葉は自分を士族の娘として意識していた。その意識が、この小説のお節にもうかがわれるのである。士族としての面目は、そう簡単に捨てられるものではなかったであろう。
小説は上下二段からなり、上段でお節と父親のやりとりを描いたのち、下段ではお節が幼馴染の男と偶然出会う場面を描く。その男はお節が子供ながらに慕っていた男だった。もともとは利発な人間で、商売もうまく切り盛りしていたが、お節が別の男と結婚してからは人が変わり、商売も妻子も投げ捨てて、車夫の身に転落した。いまでは浅草の安宿でその日暮らしをしている。その男がお節を相手に、さんざん世の中を呪うようなことをいう。それに対してお節がいさめる役柄を演じる。先ほどは、父親相手に世の中を呪い、それを父親にいさめられたのだったが、いまでは、世の中を呪う男に対して、自分がいさめる立場になるのである。
一葉がなぜ、そんなふうに舞台設定したか。やはり、一葉が現実に生きていた当時の日本社会においては、人間個人の生き方を世間体が大きく作用していたということであろう。その世間体を一葉なりに解釈したものが、この「十三夜」という小説だった。そう言えるのではないか。
この小説は、題名が暗示するとおり、旧暦を強く意識している。新暦に切り替わったのは明治5年のことで、この小説を書いた時点では旧暦は使われていなかったが、小説の中では、旧暦を強く意識している。十三夜は月が非常に明るくなる時期で、十五夜のためにいろいろ用意する時である。お節の実家でも、月見饅頭を用意していた。そこで訪ねてきた娘にそれを食うように勧める。また、お節が実家を辞して車夫とやりとりするのは、明るい月光の中である。当時はまだ、月は庶民の生活にとって重要な役割を果たしていたのである。
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8116.html#more
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2024/12/21 (Sat) 16:02:29
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樋口一葉「わかれ道」を読む
続壺齋閑話 (2024年12月21日 08:26)
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8125.html#more
「わかれ道」は、一葉の小説のなかでは一風変わった筋書きのもので、それがちょっと唐突な終わり方をするので、生煮えな印象を与える。この小説は、長屋へ越してきたばかりの若い仕事屋の女と、親に捨てられ他人に養われて育った16歳の少年のやりとりからなっているのだが、少年は年の割に幼すぎ、女は人物像がいまひとつ曖昧である。というのも、少年の生い立ちについては本人の言うことも含め、かなり詳細な情報が提示されるのだが、女のほうは、自分の口からも余り多くを語らないし、また小説の語り手も彼女については非常に淡白な扱いをしているからである。そのうえ、小説は女が妾になるために他所へいってしまうことをほのめかし、それについて少年が強い愛着を示すところで終わる。タイトルの「わかれ道」は、折角仲良くなった男女が、別々の道を歩むことになることを暗示しているのであろう。
幼さの抜けない少年と、その少年を弟のようなかわいがる年上の女の関係であるから、恋愛はテーマではない。なにがテーマかというと、少年の年上の女への強い愛着だろう。それに加えて、若い女が自分の身のすすぎ方に窮して、妾になることを受け入れるということだ。一葉自身、妾になるように言われ、それについて多少心が動いたという体験があったから、この小説にはそうした一葉の個人的な体験が影を落としているのかもしれない。だがそれにしては、女の心のうちがどんなものか、小説はほとんど語るところがない。女自身に多くを語る気持ちがないからである。16歳の少年を相手に、妾になることがどんなことか、説いても無駄だという気持ちはあっただろう。
少年の身の上は鮮明に浮かび上がるように書かれている。親がわからぬまま、角兵衛獅子を踊りながら育ったこと、傘屋の媼に拾われて可愛がってもらったこと、その媼が死んだあとは、二代目の婆に馬車馬のようにこき使われていること。少年は発育が悪く、体が小さいので一寸法師と綽名され、みなからバカにされている。そんな少年を唯一年上の女お京さんが弟のように可愛がってくれる。少年は、お京さんのところで餅でも食っているときが一番幸せなのだ。
そんなお京さんが、人の妾になるといううわさが立つ。叔父と言う人の口利きで、さる屋敷の旦那の妾になるらしいというのだ。少年は驚き悲しみ、嘘であってほしいと願うが、本当のことだとわかる。女のほうから少年に戯れかけて、実は明日妾になるために他所へ引っ越すというのだ。そこで少年が必死になって止めようとし、それに対してお京さんがなだめることになる。なだめたとてどうなるものでもない。少年がなんとかしていかないでくれと懇願するのに、お京さんは、「誰れも願ふて行く處では無いけれど、私は何うしても斯うと決心して居るのだから夫れは折角だけれど聞かれないよ」と答えるのみ。それ以上のことは何も言わない。それでは少年もなすところがなく、読者もまたはねつけられたように感じるばかりだろう。
こんなわけでこの小説は、幼さの残る少年の大人の女への恋慕をテーマにしたものだ。少年の恋慕が強調される一方、恋慕される女のほうは、あまり丁寧に描かれてはいない。この時代、つまり明治の20年代に、女が妾になることにどんな意味があったのか。それをもう少し丁寧に書いていたら、多少の深みを感じさせることにもなっただろうと思われる。なお、女の職業である仕事屋とは、針仕事など手先の仕事を請け負って口を糊するものだ。それでは女一人の身が支えきれないということか。
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8125.html#more
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2024/12/29 (Sun) 09:45:52
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樋口一葉「われから」を読む
続壺齋閑話 (2024年12月28日 08:27)
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8133.html
「われから」は一葉最後の小説である。これを発表したのは明治29年5月10日発行の雑誌「文芸倶楽部」においてであり、一葉は24歳になったばかりだった。だが、病状が急速に悪化し、同年7月22日を最後に日記を書くこともなくなり、11月23日に死んだ。死因は喉頭肺結核である。
「われから」のテーマは、男尊女卑の日本的風習への強烈な異議申し立てである。この小説の主人公お町は、書生千葉との浮気を疑われて、夫に家から追放される。その家は、父親の才覚で立ち上がったもので、本来は娘のお町が相続すべきものだ。ところが入り婿の夫がその家を自分のものにしたあげくに、妻のお町を追放する。これは理不尽ではないか。お町の浮気がどれほど本当らしく見えるかはともかくとして、離縁するというなら、入り婿の方が出ていくのが筋ではないか。また、浮気の問題にしても、男の浮気が甲斐性の表れとして容認されるのに対して、妻の浮気はとことん迫害される。これほどひどい不平等はない。男尊女卑も極まれりと言うべきである。そんな一葉の憤慨がこの作品には込められている。
「たけくらべ」は別として、一葉の小説は女の不遇な立場に寄り添ってきた。「大つごもり」は貧しさゆえに主人の金を盗まざるをえない境遇の女を描いていたし、「にごりえ」は貧しさから私娼の境遇に身を持ち崩した女を描いていたし、「十三夜」は夫から迫害を受けながら、それを耐え忍ばねばならない妻の悲しさを描いていたし、「分かれ道」は身をしのぐために妾になることを選択した女を描いていた。それらの女たちにはしかし、自分の境遇をいやいやながらも受け入れて、忍従するしかないといった諦念が見られた。「われから」のお町は、そうした女たちとは違う。彼女は貧しくはないし、家持の女としての矜持もある。だが、それでもいったん浮気の嫌疑をかけられると、なすすべもなく迫害される。近所の噂話が彼女に圧力を加え、また男尊女卑の掟が彼女に不利に働く。親が生きていたならば、また違った展開になったかもしれないが、亭主のほか頼る者がない身としては、その亭主に愛層をつかされたら、終わりなのである。そこに一葉は理不尽さを見た。
この小説は基本的には、お町の運命のようなものをテーマにしているのだが、そのお町の母親美尾のことにかなりなスペースを割いているので、構成にやや破綻が生じている。なぜわざわざ美尾を待ちださなければならなかったか。美尾はいなくても済むような存在だと思う。たとえお町の人間形成に重大な影響を与えた人間として紹介したいとしても、もっとあっさりした書き方があったであろう。それを、お町のことをそっちのけにして、美尾が小説前半で大きな存在感を示すので、どちらが主人公かわからなくなるほどである。そこに読者は混乱を覚える。なにしろ、お町と書生千葉との浮ついた間柄が描かれていたところに、話は急にかわり、美尾が生んだばかりの娘お町を捨てて家を出た経緯がことこまかく書かれるのである。そのわりに、美尾は決定的な存在感を発揮してはいないのである。小説の構成上、これほど多くのスペースを割り当てるべき存在ではないであろう。
お町と書生千葉との浮気も、ただそれとなく言及されているだけで、お町本人の立場からは何らの描写はない。小間使い達の噂話のなかに、お町と千葉との関係がおもしろおかしく誇張されて語られているばかりである。そんな噂話を信じて、妻につれなく当たる亭主も亭主である。この亭主は、ほかに妾を囲っており、男の子もいる。もっともこの亭主は世渡りの才覚はあるようで、自分の努力でのし上がったということはある。だから、妾を持つくらいは、男の甲斐性として許される。だが、女はそうはいなかい。浮気をした女は、世間から追放されても文句はいえないのである。この小説を一葉が書いた当時は、姦通罪はまだ刑法上の犯罪にはなっていなかったが、日本社会は伝統的に姦通に不寛容だった。
ともあれこの小説は、姦通を直接的なテーマにしているわけではない。第一お町自身に姦通しているという意識はない。書生千葉との浮気を疑った夫が、妻のお町を一方的に追い出すことの理不尽さを直接のテーマとしている。なぜ家持の私が追い出されねばならないのか、そうしたお町の怒りが、この小説のテーマなのである。
「お前樣まへさまどうでも左樣なさるので御座んするか、私を浮世の捨物になさりまするお氣きか、私は一人もの、世には助くる人も無し、此小さき身みすて給ふに仔細あるまじ、美事すてゝ此家を君の物にし給ふお氣きか、取りて見給へ、我をば捨てゝ御覽ぜよ、一念が御座りまする」。お町はこう言って亭主の理不尽さを糾弾するのだが、だれも耳をかすものはいない。彼女は父親が残した自分の家から追い出され、そのあとにはやがて妾が子を連れて入ってくるであろう。それを痛いほど感じながら、お町は屈服させられるであろう。お町を屈服させるのは、当時の日本社会の理不尽な慣習である。
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8133.html
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2025/01/05 (Sun) 07:40:30
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【文豪の生涯】樋口一葉|貧困の中に生きた天才女流作家の生涯・作品・魅力を徹底解説!
大人の国語便覧 2024/12/27
https://www.youtube.com/watch?v=Kb3hXYmOzf8
以前からリクエストをいただいておりました樋口一葉の生涯について解説しました。
大政奉還、明治維新という時代の変化に翻弄され、貧困にあえぎながらも数々の傑作を残した樋口一葉。薄幸のイメージが強い一葉ですが、初恋に身を焦がし、同人たちと文学について熱く語り合い、したたかに金策をめぐらせるなど、意外な一面がたくさんあります。
そんな知られざる一葉のエピソードや同時代の作家たちとの交流についてもたっぷりお話しています。
■目次
0:00 イントロダクション
05:06 文学少女なつ
09:14 萩の舎入門
14:26 身のふる衣
18:03 零落
22:24 小説家への道
27:38 初恋の人
38:26 樋口一葉の誕生
43:44 決別
54:24 遊郭のそばで
1:03:10 奇跡の14ヶ月
1:09:34 輝きの中で
1:15:59 本編を終えて
1:42:34 年末のご挨拶
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2025/01/05 (Sun) 07:43:03
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樋口一葉の生涯【一葉記念館】
台東区立一葉記念館 2020/09/15
https://www.youtube.com/watch?v=suLWFbTZPrE
「たけくらべ」をはじめ、数多くの名作をのこした明治の女流作家 樋口一葉の生涯を紹介します。
「たけくらべ」ゆかりの地を訪ねて【一葉記念館】
台東区立一葉記念館 2020/09/15
https://www.youtube.com/watch?v=zQiyMdUXMKQ
かつて樋口一葉が暮らし、代表作「たけくらべ」の舞台となった台東区竜泉。名作のゆかりの地をご紹介します。
樋口一葉が暮らした風景を辿る
文京区公式チャンネル 2022/07/01
https://www.youtube.com/watch?v=P32gT64f4FM
ぶんきょう浪漫紀行
令和4年6月27日~放送
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2025/01/05 (Sun) 16:17:46
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一葉の小説「この子」を読む
続壺齋閑話 (2025年1月 4日 08:11)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8142.html#more
樋口一葉の短編小説「この子」は、一葉の小説としてはかなり毛色の変わった作品である。一葉の小説は、「大つごもり」以降晩年の傑作群についていえば、女性の貧困とか男尊女卑の観念による社会的な抑圧とか、女性の生きづらさをテーマにしたものだった。一葉はそれらの作品を通じて、女性の置かれている悲惨な境遇を批判し、できうれば女性が自立できるような社会を展望していたといえる。ところがこの小説は、自らすすんで、封建的な社会に適応しようとつとめる女性を描いている。つまり、一葉らしさとはもっともかけ離れた作品なのである。そのことは早い時期から指摘され、これは一葉の作品としては失敗作だという評価が多かった。
一葉がこの小説を書いたのは、明治二十八年の暮れのことで、「わかれ道」脱稿後のことである。つまり一葉最晩年の作品ということになる。その最晩年に、封建的な社会との妥協に甘んじる女性を描いたのはどういうわけか、という疑問が当然起きる。その疑問を解くカギは、一葉がこの小説をどのような動機から書いたのか、という執筆事情に求められる。一葉にこの小説の執筆を依頼したのは、当時刊行されたばかりの雑誌「日本乃家庭」である。この雑誌は、家庭教育なるものを標榜していて、家族の団らんと家族の主婦としての女性の心構えを説教するという特徴をもっていた。そうした意図から、創刊号では家族の結びつきを重視する加藤錦子の文章を載せ、また発刊の言葉では、家庭こそが日本社会の礎だとの認識が表明されていた。一葉はそんな雑誌の第二号の付録のために小説を書くように依頼された。依頼されるにあたっては、家族団らんとか家族における主婦の役割とか、具体的な指示が出されたに違いない。一葉は、とりあえずその指示に見合うような小説を書いたということだろう。金のためにそうせざるを得なかったと考えられる。だから、一葉としては妥協の産物ということができる。
この小説の特徴をごく簡単に言うと、一つには、自分の生活に大きな不満を抱いていた女性=妻が、出産を契機に家族愛(母性愛を含む)に目覚める様子を描いていること、もう一つには、ですます調の言文一致体で書かれていることである。一葉の小説のうち言文一致体で書かれているのは、この作品だけである。
この小説は一女性の独白という形をとっている。その女性の独白の前半で、彼女がなぜ自分の境遇に不満を抱くようになったか、その理由がことこまかく語られる。色々なことを言っているが、要するに夫が自分を大事にしてくれないことへの不満である。夫が憎らしい、夫が憎けりゃその子も憎いとばかり、自分が身ごもった子まで呪詛する始末である。子がなければ家を出て自由にもなれるが、子がいてはそうもいかない、という理屈である。ところがいざ子どもが生まれてみると、途端にその子が可愛くなる。子が可愛くなると、その父親まで可愛くなる、という具合に、この出産を契機に女の家族愛が一気に目覚めるのである。家族愛とはそんなに単純なものかといぶかしく思うところだが、そこは一葉の限界であって、家族を持ったことのない(夫や子のいない)一葉には、家族愛を緻密に捉えることができなかったのかもしれない。
語り手の不満は、どうみても理にかなったものとはいえない。この女性は、一葉の他の作品に出てくる女性とは違って、表向きは何不自由のない生活をしている。夫は裁判官として社会的な信用があるし、暮らし向きも楽である。複数の下女を雇い、自分が家事に忙殺されるということはない。それに、彼女の理不尽ともいえる駄々のこね方に、夫は感情を爆発させることなく、冷静に対処している。そんな夫がなぜ憎らしいのか、そこが読者には伝わってこない。しかもその憎しみが、子が生まれることによって霧消してしまう。そんなに簡単に霧消するというのは、彼女の夫への憎しみが、そんなに深いものではなかったからではないか。
それでもこの女性の言葉に迫力があるのは、いざ語り出すと止まらなくなり、しかもその語り口が他の小説の主人公、たとえば「にごりえ」のお力の語り方に類似しているからである。この小説の語り手も、お力同様の語り方で夫や社会を呪っている。それは一葉の地の性分が出たということだろう。一葉は、自分と同じような境遇の貧しい女たちには感情移入できたが、金持ちで何の不足もない女たちには感情移入することは難しかったのであろう。
この小説の二つ目の特徴である言文一致について。一葉のほかの小説は、西鶴流の雅俗混交文であって、地の文章と語りの部分とが混然一体化しており、しかも文語調である。この小説が言文一致なのは、女性による語りであるということに大きな理由があると思う。雑誌の読者が、教育のない女性を含めて広い層の女性を対象としていたことも、このような言文一致をとらせた動機であろう。とはいえ、完璧な言文一致とは言えない。「そこがわからぬなれども」とか「ござりまする」とか文語的な表現が随所に出てくる。それも一葉の一つの限界だといえなくもない。
以上、この小説を読んでの印象は、一葉らしくないテーマを日頃慣れぬ文体で書いたために、中途半端なものになってしまったというものである。一葉自身そのことを自覚していたと思う。この作品を書いた後、一葉は最後の傑作「われから」を書く。「われから」は一葉の一葉らしさがもっとも純粋に現れた作品である。雅俗混交体で女の直面する社会的矛盾を力強く描いたものだ。
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2025/01/13 (Mon) 02:05:21
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樋口一葉の習作小説 闇桜ほか
続壺齋閑話 (2025年1月11日 08:25)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8151.html
樋口一葉は、短い生涯に26篇の短編小説を書いた。そのうち最初に雑誌に載ったのは「闇桜」である。これは明治25年3月23日刊行の「武蔵野」創刊号に掲載された。一葉19歳のことである。その後、「大つごもり」を書くまでの2年あまりが一葉の習作時代である。一葉は、小説作法を半井桃水に学んだ。だから、初期の習作には桃水の影響を読むことができるようだ。小生は桃水を読んだことがないので、その影響をつぶさに指摘できる能力をもたないが、一葉への指導内容等からして、文体的には西鶴流の雅俗混交体、テーマとしては若い男女の恋愛を描いたというふうにいえるかと思う。一葉は、少女時代に書き始めた日記の文体などからして、王朝風の女性的な和文を主体とした文章を得意としていたようであるが、それでは今風の小説にはふさわしくないので、もっと俗っぽい文体に心がけるようにアドバイスされて、西鶴流の雅俗混交体を書くようになった。それを出発点として、彼女なりの独特の文体を獲得していったと整理できるのではないか。
二年余りの一葉の習作時代の作品は、桃水の影響を強く受けた作風から、次第に自分自身の独自の作風への模索という過程をとったというふうにいえよう。ここでは、習作時代の前半期の作品から、「闇桜」、「五月雨」、「経つくえ」の三作を取り上げ、彼女の作家としての出発点の特徴を分析したいと思う。
「闇桜」は、桃水がかかわっていた雑誌「武蔵野」の創刊号に掲載されたことからわかるように、桃水の指導を踏まえた作品ということができよう。先述したように、小生は桃水を読んだことがなく、したがって子弟間の影響の詳細を分析できる能力を持たないので、作品それ自体に即して、その特徴を見たいと思う。この小説は、テーマとしては若い男女の恋愛を描いている。幼馴染の若い男女が、喧嘩をしながらもむつみ合う。ところが女のほうが不治の病にたおれ、二人は死によって離される、といった内容である。文体は、王朝風の和文で、それにところどころ俗語的な表現を交えている。和文脈の文章の特徴は、地の文章と会話部分の文章が連続・一体化していることである。いちおうト書きというかたちで、会話の部分を浮き出させるという試みはあるが、一葉の場合には、会話は地の文章とほとんど一体化しており、独立したものとはなっていない。だから、ちょっと見には、稚拙な印象を与える。
文体も、テーマ設定も、習作というにふさわしく、幼稚さを感じさせる。物語としてのふくらみに乏しく、文体ものびやかさにかける。19歳という年齢を考えれば、こんなところかもしれぬ。
「五月雨」は、一人の男を二人の女が愛するという三角関係をテーマにした作品である。しかもその二人の女が特別な関係にある。貧しい女が豊かな女に仕えており、その主人に深い恩義を感じている女が、主人を好きな男と結ばせてあげたいと思っていた矢先、実はその男は自分がかつて愛していた男だった。男は、主人といいなずけの関係にありながら、かつて愛し合っていた女への遠慮があって、自分から身を引いていく。それを女は自分のせいであるかのように思って罪悪感のようなものを抱く、といったような内容だ。「闇桜」に比べれば、筋書きに複雑さが加わっただけ、進歩のようなものを感じさせるが、テーマ的に言って、たいした作品とはいえない。だいたい、芝居がかっているのである。そういう芝居がかった構成は、一葉の作家としての未熟さの反映したものだといえよう。
「五月雨」の小説としての最大の特徴は、その文体にある。典型的な和文である。しかも句読点を省き、段落を欠き(一応章分けの工夫はある)、息の長い文章である。地の部分と会話の部分が未分化で、全体として、小説というよりエッセーのような印象を与える。おそらく、紫式部より清少納言に似た文章といえるのではないか。一葉の本来の文体は、日記などからすれば、和文的な文体だと思う。それを桃水の指導をうけて、雅俗混交体にかえようと努力もしたようだが、この小説においては、自分本来の和文的な文章に立ち戻ったということだろう。一葉は、和文で小説を書いた最後の作家といえるが、この習作は、和文の可能性を模索したものと位置付けることができよう。
「経つくえ」は複雑な女心を描いた作品である。母親に死に別れた女が、母親の主治医であった医師の世話になっている。だが、女はその男を素直に愛せない。表向きには嫌悪しているようなふりを装っている。がっかりした男は札幌へ転勤となり、その地でチフスに感染して死んでしまう。それを知った女は、自分がその男を愛していたことに気づき、以後その死んだ男に操をつくす、といったような内容である。現代人の感覚からすれば、この女は自分に忠実でないし、また、人格的に未熟である。そんな女でも、男を愛する気持ちには真剣なものがある。そんなふうに一葉は思って、この小説を構想したのだろうか。
以上三作を通じて言えることは、一葉は男女の恋愛とか女心とかいったものを描くことから作家としての活動を始めたということであろう。おそらく桃水の指導もあって、小説に芝居がかったドラマ性を持たせたいと願ったのではないか。それは処女作の「闇桜」では不発に終わったが、「五月雨」ではドラマとしての体裁をやや整え、「経つくえ」ではユニークなドラマ性を実現したということではないか。一葉後期の作品の特徴は、社会的な矛盾が女性に大きなしわ寄せとして現れている現状に対する怒りを描いたことにあると思うが、そうした社会的な視点は、以上三つの習作には見られない。
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2025/01/19 (Sun) 06:52:17
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樋口一葉の習作小説その二 暁月夜ほか
続壺齋閑話 (2025年1月18日 08:25)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8161.html#more
「大つごもり」に先立つ樋口一葉の習作時代の小説は十一編である。「別れ霜」がやや長い(それでも新聞連載15回分)のを除けば短い作品ばかりで、筋書きは単純だ。短編小説であるから単純な筋書きで差支えはないのだが、一葉は妙に芝居がかった描き方をするものだから、器と中身が調和していないという印象を与える。ほとんどの作品は若い男女の恋、それも悲恋というべきものをテーマにしている。若い男女の恋愛感情は、「たけくらべ」の前半部分のテーマでもあるから、一葉はまず、男女の恋愛を描くことから作家活動を始めたといってよいだろう。それが半井桃水の指導によるものなのか、それとも一葉の本来的な気質に根差すものなのか、なんともいえないが、おそらく若い頃の一葉には、男女の恋愛への強い関心が潜んでいたのであろう。
その一葉の習作時代の作品のなかから、ここでは「暁月夜」、「雪の日」、「琴の音」を取り上げたい。「暁月夜」は、「うもれ木」に続き「都之花」に掲載された。「都之花」は、山田美妙や二葉亭四迷のかかわった文芸雑誌で、一葉は萩の舎の先輩田辺花圃の紹介で寄稿した。「うもれ木」は一葉に初めてまとまった原稿料をもたらした(11円程度だが)。
「暁月夜」のテーマは、若い男の報われぬ愛である。若い女に一目ぼれした男が、その女になんとか近づきたいとの思いで、その女の家の庭男として住みつくようになる。女には腹違いながら弟がおり、その弟が女と非常に仲が良いので、男はその弟を手なづけて、恋文を届けさせたりする。しかし一向に反応がない。そのはずで、女は男の恋文を、封も切らずに手箱に投げ入れたままなのである。そのうち女は、鎌倉の別荘に一人住まいすることとなる。びっくりした男が女の真意をただすと、女は自分の身の上話を始める。女自身というより、彼女の母親の話なのである。母親は自分を生んだ後いなくなってしまった。自分は父親の家で育てられたが、いつも肩身の狭い思いをしている。なかでも一番気にかかるのは、自分もまた母親と同じ運命をたどるのではないかということだ。だから、結婚する意思はない。あなたはわたしになどかかずらっていないで、勉学に励みなさい、といって男を諭すのである。
なんとも奇妙な設定である。一葉の描く男女は、だいたいが悲恋の犠牲者なのだが、この小説の中の男女は、恋愛どころか人間的な関係性がそもそも成立していないのである。女はすでに現世を超越した仙女のようなものとして設定されている。仙女を相手にしては、現世的な恋が成立するはずもない。一葉はなぜこんな無理な設定で小説を書いたのか。彼女の作家としての未熟さの結果か。
「雪の日」は、400字詰め原稿用紙にして十枚にも満たない短編だが、その割にはいろいろなことが詰め込まれている。一人の女の回想という形をとっており、その女が幼いころに教えを受けた学校の教師に恋心を抱き、周囲の噂を恐れた叔母(育ての恩人)の忠告を無視して、自分の恋を優先し、あまつさえその教師と駆け落ちしたというような内容である。その教師との結婚がかならずしも幸福なものではなかったことは、叔母を見捨てたことに深い悔恨を抱いていることから伝わってくる。一応男女の恋を描きながら、その恋が中途半端な位置づけのものに終わっている。そんなわけでこの作品も、かなりな未熟さを感じさせる。その理由は、短い行間に、色々なものをごたごたと詰め込んで、単純な筋書きの割には、情報過多に陥っている。要するにチグハグサを感じさせるのだ。
「琴の音」は、かなり風変わりな構成の小説である。二部構成になっていて、前半は余にすねて盗賊になった14歳の少年の生い立ちが述べられ、後半は、18歳の若い女が琴を弾く場面が描かれる。そしてその場に居合わせた少年が、心をいれかえて更生する決意をするというような内容である。14歳の少年がなぜ、18歳の若い女が弾く琴の音に心を惹かれたか。まあ、ありえないことではないが、未成年者が日頃無縁な琴の音を聞いたことで、心を入れ替えたというのは、かなり無理な設定だろう。しかし、その少年が世をすねるにいたった経緯はけっこう自然に描かれている。その点でこの小説は、一葉全盛期の小説における社会的な視線の優位を多少は感じさせるものにはなっている。そういう意味で、過渡的な作品と位置付けることができよう。
以上、習作時代における一葉の作風は、若い男女の恋愛をテーマとしながら、その恋愛に芝居じみた効果を持たせようとして、かなり無理な設定をしているといえよう。そのため小説としてのおさまりが悪い。傑作といえるものは見当たらない。そんな一葉が、未熟な作品を新聞・雑誌に掲載する機会に恵まれたのは、桃水とか花圃といった身近な人の助力によるところが大きい。その点では一葉は、ラッキーだったといえる。未熟な作品を発表する機会を得たことで、一葉は自分の力量について反省することができた。その反省から、作家としての自分の使命は、男女関係をダラダラと描くことではなく、下層社会に生きる人への共感とか、女性の立場の弱さに対する自分自身の怒りを表現することだと気づくようになったのではないか。
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2025/01/26 (Sun) 15:50:25
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一葉の日記 本郷菊坂町時代
続壺齋閑話 (2025年1月25日 08:44)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8169.html#more
樋口一葉が日記を書き始めたのは明治24年4月11日、満年齢19歳になったばかりのことであった。一葉にはそれ以前に、明治20年1月に書き始めた「身のふる衣」という日記風の文章があるが、これは覚書程度にみなされるのが普通である。内容は、中島歌子の塾萩乃舎にかかわるものである。14歳で入門し、大勢の人々と交流しあうようになった感想を記したものである。一葉は明治29年11月に満24歳の若さで死ぬのであるが、死ぬ少し前の7月22日まで、多少の中断を伴いながら、日記を書き続けた。中断は、下谷龍泉寺時代が多い。生活に追われて日記を書く余裕がなかったためであろう。小説の創作も途絶えがちになっている。
日記を書き始めたとき、一葉は本郷菊坂町に住んでいた。一葉が、母多喜、妹邦子とともに菊坂町に住み始めたのは明治23年9月のこと。前年の7月に父即義が病死したあと、母子は次兄虎之助の家に引き取られたのであったが、母親が寅之助と不和になり、本郷菊坂町70番地に家を借りて移り住んだのであった。その家は、菊坂のほぼ半ばほどにあったらしい。現在一葉旧居跡とされている場所の近所であった。その旧居跡は、崖のすぐ下にあって、崖の上は鐙坂という坂道になっている。このあたりは起伏の多い土地柄である。
最初の日記は「若葉かげ」と題されている。一葉の日記は40冊ほどになるが、いずれも何らかの形の題名がついている。菊坂町時代の日記の多くは「蓬生日記」あるいは「よもぎふ日記」と題され、この蓬生のイメージが、菊坂町時代の一葉のイメージをあらわしているようである。そんな中で、最初の日記には「若葉かげ」という題をつけた。その理由のようなものを一葉は、日記の冒頭で記している。一葉得意の歌のかたちである。いわく、「卯のはなのうきよの中のうれたさにおのれ若葉のかげにこそすめ」。これは一種の厭世観の表出である。19歳の若い女性としては悲観的なものを感じさせる。
本郷菊坂町時代の日記は、半井桃水への恋情吐露を別にすれば、中島歌子の私塾萩乃舎における活動と、菊坂町の家での厳しい生活の記述が主な内容である。生活の厳しさは日を追って増していき、借金地獄のような様相を呈するにいたる。なにしろ、内職で乏しい銭を稼ぐほか、収入の道はないのである。一葉一家は、武士としての誇りがあるから、いくら貧しくても、誇りを失わない程度の見栄ははらねばならぬし、また、一葉も妹の邦子もまだ大人にはなりきっていない。だから教育のための金も必要である。その金の調達については、とりあえずは母親の仕事だったようだが、そのうち、一葉の肩にも押しかかってくる。一葉は、樋口家の家長として役所に届けていたのである。
この時期の日記の前半は、桃水への恋情吐露が中心なので、それなりに華やかさを感じさせる。若い女性の日記なのであるから、華やかさを欠いては面白くないだろう。だが、事情があって桃水との正規の関係を断ってからは、そうした華やかさは次第に影を潜め、生活の苦しさばかりが表出されるようになる。若い女性が毎日金の心配ばかりしているというのは、まともなことではない。
「若葉かげ」は、萩乃舎の面々が、師匠の中島歌子を含めて、向島の桜を愛でる様子から書き始めている。書き出しは次のような文章である。「吉田かとり子ぬしの澄田河の家に、花見の宴に招かるる日也。友なる人々は、師の君のがりつどひて共に行給ふもおはしき。おのれは、妹のたれこめのみ居て春の風にもあたらぬがうれたければ、いでやともになどそそのかして誘ひ出ぬ。花ぐもりとかいふやらんやうに、少し空打霞みて日のかげのけざやなならぬもいとよし」。向島の花見に招待されたのをいいことに、とかく家にこもりがちな妹を連れだして、一緒に花見をしたという。一葉と邦子との固い絆が伝わってくる記述である。
文章は、王朝の女流日記文学を思わせるような典雅な和文である。以後一葉は、この文体で日記を書き続ける。一葉にとって日記は、創作の訓練のような意義ももたされていたと思われる。なお、小生が利用したテクスト(小学館「全集樋口一葉」第三巻)は、句読点を付し、段落にわけているが、原文は句読点も段落もない、流れるままの文章である。
典雅なのは、文章だけではなく、一葉をとりまく人々の遊びぶりもそうである。単に花見をするだけではなく、歌のやり取りをしたりして、優雅に遊んでいる。この宴の際には、連歌のような歌のやりとりを行っている。年長の同僚田中みの子が、「蛙の声ものどけかりけり」という下句をつけると、それに一葉は「おもふどちおもふことなき花かげは」という上句をつけた。
萩乃舎は、若い頃の一葉にとっては、世間との唯一ともいえる接点だったようである。萩乃舎に出入りする人々は、華族や高級士族の夫人や令嬢であり、また師の中島歌子は、前田家をはじめ名門の家に出入りしていた。一葉はだから、社会の上層の人たちと接していたのである。知り合いの弟子の中には一葉を、中島の使用人のように見なして馬鹿にするものもあった。じっさい一葉は、一時期中島の家に寄宿して、使用人のようにこき使われていたようである。中島歌子はしかし、一葉に必要な教養を与えてくれたし、時には金の面倒も見てくれた。それゆえ一葉は師にマイナスな感情は抱いていない。中島には偏屈なところがあって、年長の弟子田中みの子を毛嫌いするようなところがあり、それについて一葉は冷めた目で見ているが、しかし決して師をバカにはしていない。
相弟子たちのきらびやかな暮らしと自分のそれを比較して、コンプレックスを感じることもあった。時には、盛大な宴に着ていくものがなくて、遠慮したこともある。一葉はしかし、自分の家族が貧しいことは自覚していても、それがもとで自己卑下するようなことはなかった。貧しいのを自分の運命として受け入れていた。自分より貧しくて悲惨な境遇にいる女のこともわかっていた。日記を書き始めてから半年ほどのあるとき、一葉は父親が存命中に住んでいた上野黒門町のあたりを歩いた。その折の感想を日記の中で述べている(明治24年10月4日)。「前住みける家の前を過てくるに、あやしき待合などいふ家出来たり・・・待合といふものはいかなる物にや。おのれはしらねど、只文字の表よりみれば、かり初に人を待ちあはすのみの事なめりとみるに、あやしう唄姫など呼上て酒打ち飲み、燈あかうこゑひくく、夜更るまで打ち興ずめり」。
そんなわけで一葉は、世の中には光のあたる部分と、闇の部分が共存しているとふうに考えていた。そして光の部分だけを描くのが作家の甲斐性ではないと考えていた。だから、金港堂から、「歌よむ人の優美なるを出し給へ」との注文を受けた時には、反発している。「さしも其社会にたち交りて、あさましくいとはしきことを見聞きなれぬる身には、歌よむ人とさへいへば、みだりがはしくねじけたる人の様におもはれて、誠のみやびなるをかかんとせば、人しらぬむぐらふに世をせばめたるなどをこそ引出うべけれ。玉だれのおお奥にうちしめり、かひひそまりたる令姫などにも歌よむ人なしといひがたけれど、それらはすべて我眼にうつり来たらずかし」。
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2025/02/01 (Sat) 08:30:57
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樋口一葉の恋 日記から
続壺齋閑話 (2025年2月 1日 08:23)
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樋口一葉の生涯は、わずか24年の短いものだった。その短い生涯は、貧困との戦いにあけくれていた。父が生きていた少女時代には、中産階級の家族としてそれなりの生活はしていたようだが、父が一葉の17歳の時に死ぬと、一家は収入のあてがなくなり、次第に貧困に苦しむようになった。その貧困を、やがて一葉が一家の家長として引き受けるようになる。彼女の晩年の日記の記事は、金の心配事ばかりといってよいほどである。そんな中で、一葉は恋をした。もしこの恋がなければ、一葉の生涯は悲惨そのものだったろう。恋が彼女に生きる気力を奮い立たせたといってよい。一葉はその恋の思いを、日記の中で克明に記している。
一葉の恋の相手は、作家の半井桃水である。一葉は、小説作法の師匠として半井を選んだのだったが、それが恋に変わり、生涯桃水を慕うようになる。ところが彼女はその恋の成就をあきらめざるをえなかった。一つには、師の中島歌子はじめ知人・友人らの強い反対があったこと、また、半井自身に一葉への配慮が欠けていたことがその理由である。一葉は桃水との正式な付き合いが終わったあとでも、桃水への思いを忘れなかった。日記を読むと、死の年まで桃水との交際を続けており、そのたびに桃水を懐かしんでいる。もっとも、死期に近づくほど、彼女の桃水への恋情は淡白なものに変わっていくのであるが。
一葉が桃水とはじめて会ったのは明治24年4月15日のことである。日記を書き始めた日から4日後のことだ。きっかけは、妹邦子の友達野々宮きく子の紹介だった。一葉が小説作法の師を求めていることを知った野々宮が、知り合いの桃水を紹介したのである。桃水を一見しての印象を一葉は次のように記している。「君は年のころ卅計にはおはすらん。姿形など取立てしるし置かんも無礼なれど、我が思ふ所のままをかくになん。色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん」。
一葉の願いを桃水は受け入れ、「我れ師といはれん能はあらねど、談合の相手にはいつも也なん。遠慮なく来給へ」と言ってくれた。その言葉を励みに、一葉は以後頻繁に桃水を訪ねるのだ。一葉は桃水のところを訪問する際に、小説の草稿を手渡し、指導を乞うた。
一葉はその一週間後に、別の小説草稿を持参して桃水を訪ねた。その時桃水は、「先の日の小説の一回、新聞に乗せんには少し長文なるが上に、余り和文めかしき所多かり。今少し俗調に」と、かなり踏み込んだ指摘をした。小説の長さへの指摘を脇に置くと、文体についての指摘が興味深い。一葉はこの指摘を踏まえ、以後和文を基調としながら、それに俗調を取り入れるために、西鶴風の雅俗混交体というべき文体を追求していく。
明治25年の暮れまで一葉はかなりの頻度で桃水を訪ねるが、日記の上では恋情についての記述はない。ただ、桃水が男女関係が誤解されやすいことを一葉に諭すように語っていることに触れている。「余や、いまだ老果たる男子にもあらず、君は妙齢の女子なるを、交際の工合甚だ都合よろしからず」と言うのである。一葉はその言葉にひるまず、かなりの頻度で桃水を訪ね続ける。やはり桃水の教えをありがたいと感じたからであろう。
一葉が桃水への恋を自覚したのは、明治24年2月4日のことだ。後に「雪の日」としてたびたび思い出すこの日の出来事を、一葉は自分が恋を自覚した日だと認識していた。この日12時を少し過ぎたころに、一葉は平河町の桃水を訪ねる。桃水はまだ寝ていた。その桃水のいびきを聞きながら、一葉は隣の座敷にあがり、桃水の目覚めるのを待った。そのときにどんな感情を抱いたのか、日記には細かく書いてはいないが、桃水が目覚める二時ごろまでずっと彼の目覚めるのを待っていたというのは尋常ではない。若い女が男の家に単身上がりこみ、その寝息を聞き続けていたというのである。
2月4日の訪問のすぐあと、一葉は小説「闇桜」を脱稿する。桃水はそれを自分がかかわっている雑誌「武蔵野」に載せることを約束する。その際に、本名ではなくペンネームを使ったらどうかとアドバイスされる。彼女が選んだのは「一葉」である。その一葉という名に込めた気持ちを、後に次の歌で表現している。
なみ風のありもあらずも何かせん一葉のふねのうきよ也けり
自分の身の境遇を波間にただよう船のたよりなさにたとえたということか。
一葉と桃水との関係は公然たる恋愛関係には発展しなかったけれども、悪い噂が立った。その噂を気にする記事が明治25年5月29日の日記にある。「我始めより、かの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床しなど思ひつること、かけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に、人けなき折々は、そのこととなく打ちかすめてものいひかけられしことも有しが、知らず顔につれなうのみもてなしつる也。さるを、今しも、かう無き名など世にうたはれ初て、処せく成ぬるらん、口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやきしものなりかし」。
噂はやがて師中島歌子の耳にも入る。歌子は、桃水が一葉を妻と吹聴していることを取り上げ、もしそんなことがないならば、桃水とは絶交したほうがよい、と忠告する。一葉はその忠告に従って、桃水と絶交する振舞いをする。この振る舞い方が、ちょっとわかりづらい。日記には、桃水のやり方を「にくしともにくし」と書いて、もう桃水には未練がないというような気持を表出しているが、じつは彼女の桃水への恋情は簡単には収まらず、以後彼女は桃水を思い続けるのだ。さすがに死ぬ直前ともなれば、桃水への気持ちは淡白なものにかわるが、絶交以後も一葉は桃水を思い続けるのである。
桃水と絶交したあとに、かつての婚約者であった渋谷三郎が来訪する。渋谷は父親が夏子の婿に決めていたのだが、父親の死後縁談は破談になった。樋口家が渋谷を金銭的に支援できないというのが理由だった。その渋谷に対して、母親の多喜は面白くない感情を抱いていたが、一葉自身はまんざらでもないと思った。そこで渋谷からの復縁の仄めかしに心が動いた。渋谷の妻になれば、いまや成功した彼の金力を以て、自分や家族が楽になれるだろうと打算したのだ。しかし一葉は思いとどまった。「今にして此人に靡きしたがはんことなさじとぞ思ふ」、と決意するのである。
一葉の桃水との関係は、死の直前まで続いた。日記を読むと、一葉から桃水の家に訪ねていったり、桃水が一葉を訪ねてきたりした。そのたびに一葉は、なつかしい気持ちでいっぱいになる。その思いが絶頂に達するのは、離別後二年後の明治27年7月12日である。その日の日記に一葉は次のように書いている。「一度は、ふたたび此人を思はじ。思へばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。諸事はみな夢、この人こひしと思ふもいつまでの現かは。我にはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし・・・かく計したはしく、なつかしき此人をよそに置て、思ふ事をも語らず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこころは、大河をふさぎてかへってみなぎらするが如かるべし」。
一葉が恋する半井桃水は、どう思っていたのか。一葉の日記が公刊されるや、半井は俄然時の人となり、各方面から誹謗されたり、廣津柳浪などは、「一葉の恋人はまさしく君であったそうな」と言ってきたが、桃水本人は、自分ら二人の仲は「兄妹であったより以上の何事もなかった」と言っている。
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