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蓼科仙境都市 _ 日本一標高の高い別荘地、天空のリゾートとして名を馳せた別荘地の現在

1:777 :

2024/08/11 (Sun) 04:55:25

蓼科仙境都市【天空の高級リゾート廃墟】【蓼科ソサエティ、蓼科アソシエイツ】【黒川紀章設計】
Haiken 廃墟遺構空撮 2024/03/09
https://www.youtube.com/watch?v=BRUihH9URxM


蓼科仙境都市
https://haikyo.info/s/16484.html

蓼科アソシエイツスキー場
https://haikyo.info/s/9044.html

1969年頃から開発の始められた高原の高級リゾート「蓼科仙境都市」。
ファミリー向けだった開発当初の中心エリアには、黒川紀章設計の天体観測棟、「不老苑」「マルコポーロ」やテニスコートなどがあり、個人別荘なども多く作られました。
また鹿曲川林道の入り口にエリアには、これも黒川紀章設計によるゲストハウス「アンデルセン」や、雨天遊び場や温水プールを備えた研修施設「ベイフォーラム」が設置されています。
1980年代には若者向け施設が拡充され、ロビー「サウサリート」、レストラン「ベイトパーズ」、温水プール、大浴場、サウナ、トレーニングジム、「アネックス・ホテル」「エリアベイ・ホテル」、コテージ風別荘「ビオン・ザ・ベイ」8棟、蓼科アソシエイツスキー場などが建設されました。
現在も個人向け別荘などは使用されていますが、開発初期の施設は多くが廃墟化し朽ち果て、比較的新しい施設にも閉鎖されたままの建物が目立ちます。



【バブル遺産】日本一標高の高い別荘地に行ったら廃墟が点在...その理由は?
TOMO’S TRAVEL / トモズトラベル 2023/09/01
https://www.youtube.com/watch?v=erJmfa_wTBw

長野県佐久市にある「蓼科仙境都市」に行ってきました。
かつては”日本一標高の高い別荘地”、”天空のリゾート”として名を馳せた別荘地の現在はいかに?



蓼科仙境都市 概要・歴史
https://haikyo.info/s/16484.html

天空の会員制巨大リゾート
蓼科仙境都市は長野県佐久市にある別荘地、総合リゾート施設。一部に手入れの行き届かない箇所があるが、現在も管理されており全体が廃墟なわけではない。

蓼科仙境都市は富士コンサル株式会社が1969(昭和44)年頃から開発を始めたもので、1973(昭和48)年より「蓼科ソサエティクラブ」として運営が開始された。「蓼科ソサエティクラブ」は入会金を納め理事会の承認を得て加入する預託金会員組織で、会員は非会員より低額でクラブ施設を優先的に使用できた。「先生のいない学校」「屋根のない病院」等のキャッチフレーズで、家族ぐるみの健康開発・親睦の場として売り出されていたという。

1976(昭和51)年当時は一日800~900名が宿泊できる規模だったが、施設の拡張が図られた結果、1981(昭和56)頃には2000名が宿泊可能となり、施設内のレストランも2箇所から6、7箇所に増設された。

この頃、会員の間に大型プールや体育館、サウナ等の施設の設置を望む声があったため、新たな会員を募集しその入会金を新規開発費用に充てることとしたが、1982(昭和57)年8月頃から会員の一部がこの計画に反対し「蓼科ソサエティメンバーズ友の会」を組織し、これが週刊誌等に取り上げられた結果、1983(昭和58)年には計画が中止されることになった。

1983(昭和58)年5月から同クラブ隣接地の山林が新たに取得され、「アソシエイツ」と称される預託金会員制クラブの運営が新たに開始された。元々の「蓼科ソサエティクラブ」が子どもや家族連れ施設を中心とするのに対し、「アソシエイツ」は蓼科アソシエイツスキー場やサッカー、モトクロス等若者向けの施設だった。

雑誌『観光産業』(東洋大学短期大学観光産業研究所、1996年3月)によると、運営者は富士コンサル、会員数4900(個人4500、法人400)、入会金と預託金は合計で個人330万、法人660万とされている。他に個人2万5千円、法人10万円の年会費が必要だった。会員制の高級リゾート施設のため、当時は私設の警備員が敷地内をパトロールし治安維持にあたっていたという。

敷地は大きく4つのブロックに分けることができ、高層建物のあるAブロックは比較的後期に開発されている。センターフロントがあるメインハウス「アソシエイツタホー」にはロビー「サウサリート」、レストラン「ベイトパーズ」、温水プール、大浴場、サウナ、トレーニングジムなどが備えられ、さらに「アネックス・ホテル」「エリアベイ・ホテル」、コテージ風別荘「ビオン・ザ・ベイ」8棟などがある。2023年6月現在もこれらは比較的良好な状態にあり、一定の管理が行われている。

センターフロント向かって左にはロビーやレストランだったらしい「ASSOCIATE TAHO」、右にはトレーニングジムだったらしい「MOON CHILD」が残り、いずれも大きな損壊等はない。「よみがえれ冒険心」「汗を流そう」「80才青年開発」「友達つくろう」「自然大学」という掲示、「我等の荷車をあの天の星につなげ」の石碑などが見られる。

南西側のBブロックは初期の中心エアリアで、旧フロント(解体済?)や黒川紀章設計の天体観測棟(プラネタリウム?)、「不老苑」「マルコポーロ」、テニスコートなどがある。2023年6月現在、一部建物の周りで草木が繁茂しているものの、入り口にはチェーン等が設置され進入禁止の掲示が設置され管理されており、建物も比較的良好な状態で残っている。ただし天体観測棟は2020年頃に大きく倒壊、二つあったドームのうち一つが地面に崩落している。

両者の間にあるCブロックは個人別荘群を中心とするもので、これらの一部が現在でも利用されている。ガラス張りの檜風呂があったヴィラ「ビクトリア」、「パノラマロッジ」などもあったが、営業はしていない。

一番北側で鹿曲川林道の入り口に近いDブロックには、黒川紀章設計によるゲストハウス「アンデルセン」、雨天遊び場や温水プールを備えた研修施設「ベイフォーラム」があった。2023年6月現在、比較的低地にあるこのエリアに向かう急な下り坂は、通行は可能なものの痛みが進んでいる。この道はかなり狭隘かつ急峻なため、本来は上りと下りが一方通行で信号が設置されていたが、信号は稼働しておらずエリアから上る道は草が茂り通行困難となっているため、本来下りの道を逆走して戻るのが比較的安全になってしまっている。

RC造の「ベイフォーラム」は建物自体に大きな損壊はないが、周囲に高い木々が茂っており、隣接する木造のカフェは朽ちた状態となっている。木造のゲストハウス「アンデルセン」は劣化が進み、壁面が随所で剥落、階段の敷石も朽ちてボロボロになっている。

なお林道鹿曲川線はこのリゾート地が作られた際に一緒に整備された林道で、2009年から通行止めになっている。

蓼科ソサイエティ倶楽部の公式サイトは2008年頃に更新が止まり、2017年頃に削除されている。
https://haikyo.info/s/16484.html


▲△▽▼



日本一高所にある「都市」に足を踏み入れる!
2015/4/23
https://yamaiga.com/road/kakumagawa/main7.html

出発から5時間近くも要したが、今私は約6kmの鹿曲川林道閉鎖区間を走破し、八ヶ岳連峰蓼科山北側の標高1750mという高所に辿り着いた。
長く続いた渓谷の眺めから一転して眼前に展開したのは、空を間近に感じる高原と、その一角に聳え立つ幾つものマンション的な高層建築物だった。
今回の探索において私の「見たい!」の筆頭にあった「仙境都市」の下の端に、遂に辿り着いたのだ。




右図は最新の地理院地図だが、この「都市」に所属するとみられる無数の建物が、かなり広い範囲に描かれている。
その中で最も標高の高いものは、標高2000mの計曲線(太い等高線)より上にまで及んでいる。
これは実に驚くべきことで、参考までにわが国の47都道府県のうち、標高2000mよりも高い地点を有しているのは16都道県しかない。

もちろん、「都市」を名乗ってはいても、これが一般的な意味での都市とは違うだろうということは私も勘付いていた。
これは、いわゆる別荘地というものに違いない。
そこにこれを経営している企業が付けた名が、仙境都市というのである。
住所としての地名は、佐久市大字春日字富貴の平というそうである。
だがそれを差し引いても、人がある程度まとまって定住している土地としての標高の高さや、都市を名乗っている事実という二点については、やはり特筆ものだと私は思う。
それでは本編の終盤戦、私が生まれてはじめて踏み込んだ仙境都市の実態を見て貰うことにしよう。 




うん、大丈夫。 さすがに酸素は薄くないな。
…そんなことを冗談で考えたが、帰宅後に念のため調べてみると、実際はだいぶ薄かった(苦笑)。おそらくは地上の80%くらいしかなかったのである。2割も少なければ体に全く影響が無いことは無いだろう。
オブローダーは登山家ほど高所には慣れていないので、この後で私が妙に疲れやすく頻繁に休息していたのは、そのせいだったのかも知れないし、単純に疲れる行程だっただけかもしれない。

鹿曲川林道の通行封鎖バリケードを越えたことで、ここは普通に解放されている区間であるはずだが、今のところ人や車に出会う事は起きていない。
林道もまだ終わってはおらず、約1.5km先の蓼科スカイライン合流地点まで続いている。

傍らには現代的な電信柱が現れ始め、「都市」に居るということを感じさせたが、良く見ると電信柱に「送電するな」というテープが巻かれていた。理由は不明。




第一“建物”を発見!!

「都市」なのだから建物を見たくらいで騒ぐのもどうかしていると思ったが、やはり驚きは隠せなかった。
これまで目にしていた建物は、だいぶ遠い所にある大きなマンションのようなものだけだったので、地形図に沢山描かれているサイズの家屋はここで初めて見た。
具体的な場所は、バリケード地点から250mほど進んだ所にある切り返しのカーブの所だ。
標高云々は写真では分からないことだが、それでも普段目にする住宅地の家屋とは明らかに違う雰囲気を醸している。
ひとことで言えば「別荘っぽい」で片付けられるのかも知れないが、山の斜面を均してそこに建てるのではなく、斜面の上に鉄骨で土台を組んで、その上に高床式の要領で家が乗っかっているのが特徴的だ。自然環境との共存云々か、豪雪に対する備えなのか、或いは常に住む人ばかりではない別荘の場合、湿気った地面に接さないほうが長持ちしやすいのか。家のことはよく分からないが、全体的に瀟洒なイメージなのは統一されていた。




一軒目が現れてからは、道の両側に様々な個性的な家の姿が、途切れずに現れるようになった。
とはいえ、そこらの住宅地のように軒を連ねている訳ではなく、どの家も道から50mは離れた山腹に散らばって建てられていた。
このときに道と家を繋ぐのは、写真のようにタイルで鋪装された綺麗な通路であったり、コンクリート製の階段であったりしたが、とにかく道と家は離されていた。

そして、このことを書かないわけにはいかないだろう。

これまでに目にした家は、全て雨戸が閉め切られた状態で、人が中に居る様子は無かったということを。
屋根や壁が壊れていて、露骨に廃屋らしいものさえあった。
そもそも、全ての家が道路から奥まった所にあるので、住人の自家用車は路上に駐車されるはずだが、封鎖区間を出た後、一台の車もまだ見ていない。
このことから、ここまでのエリアは、この日完全に無人だったと判断して良いだろう。




10:11 《現在地》

バリケードの地点から700mほど前進した地点には、ひときわ大きな敷地を持った研修所風の建物があった。
しかしここもまるで人が出入りしている様子が無く、踏み跡のない残雪の山が出入口を塞いでいるばかりか、道路から見通せる通路上に何かの獣の白骨が転がっている有り様だった。

ここに至るまで、道は二度切り返しながら順調に高度を上げ続けており、遂に1800mにまで届いた。
だが、「都市」としてはまだまだ下の方である。これより上に果たして人気のある建物があるのかどうか、不安になってきた。
いや、もしかしてこの「都市」は、冬季には完全に無人になるのだろうか。季節集落というのは聞いたことがあるが、季節都市?
別荘地というのは、そういうこともあるのかな? 
…だとしても今はもう4月末だし、そもそも蓼科スカイラインは通年で仙境都市まで開通しているはずだ…。



地形図には、ここから分岐して南へ向かう道が描かれている。
そして現地にも確かに、その道は存在していた。

だが、そこは「私道」として、部外者の通行が禁止されていた。
そのうえで一方通行にもなっているようだ。さらに信号機も設置されていたが、点灯しておらず正体不明である。
まあ、私道なら何でもありだが。

なお、地形図には多くの枝道が描かれているが、林道鹿曲川線と蓼科スカイライン以外の全ての道が、私道として通行を禁止されていた。
「都市」が紛れもなく別荘地であることの証明といえるだろう。




左右の写真は、別荘地内で見つけた看板たち。

どうやら仙境都市を分譲しているのは東京の富士コンサルという会社であるようだ。価格は300坪で110万円というが、高いか安いかは、私には全く判断出来ない。

「カーサ・アラモアナ」は、集合住宅の名前らしい。他にも「スカンディア」とか、日本離れしたネーミングばかりであった。仙人は洋風かぶれ?



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その後も続々と現れた「都市」を構成する建造物達。

これは看板のあった「カーサ・アラモアナ」の(何号かは忘れたが)どれかだ。

堅牢なコンクリートの建物は、別荘というよりは都会にある普通の集合住宅のようで、同じカタチのそれらは10棟以上も建ち並んでいた。
しかしそのどこにも、明かりや洗濯物や車や人は、見えなかった。
笹と白樺の海に呑み込まれた建物群の風景は、ゴーストタウン以外の何ものも想像させなかった。




こちらは、「スカンディア」と名付けられた建物群だ。

先ほどの建物とは打って変わって、明るいログハウス風の集合住宅だ。
徹底的な高床式で、家にアクセスするまでが結構大変そうだった。
なお、人気がまるでないのは、他と一緒。




遂に標高1850mに到達。
あの塩那道路の最高所を完全に越えたのだ。やりました。
「日本の屋根」と呼ばれる地方は、やはり凄かった。

バリケード以降はずっと日当たりの良い南向きの斜面だったので、残雪に行く手を阻まれることが無くなっていたが、ここに来て久々の残雪だった。
注目すべきは、残雪の量が残り僅かだというのに、車や人が踏み越えた跡が全然ないこと。
今まで見てきた「都市」は、やはり冬の間完全に無人だったらしい。
…夏も、そうかもしれないが。

鹿曲川林道の終点に、いよいよ迫った。




前方に分岐地点がみえてきた! 終点である!

が、その直前の路上に小さな東屋が建っていた。
近寄ってみると、そこには「バス待合所」と書いてあり、中には綺麗なベンチがあって、外装にはクリスマスでもないのに電飾が施されていた。

しかしここにバスが発着している様子は無い。
待合所はあるのに、バス停は存在しない。
送迎バスが走っているのかもしれないが、それ以前に、まず分岐地点が封鎖されていた。




10:28 《現在地》

出発から実に5時間半という長い時間をかけて、麓の湯沢集落から12kmを自転車で走破した。
標高1860m、林道鹿曲川線の終点である。

この道はこれで終わりだが、私の旅はまだもう少し続く。
さらに上へ、標高2000mよりも上の世界を目指すのだ。
ここからの舞台は、蓼科スカイラインというお洒落な名付けを与えられた、実態はやはり林道である道となる。

分岐を振り返って見ると、そこには林道の起点で見たのと同じデザインの青看が立っていた。有料林道時代のものと思われる。
書かれた行き先は「望月宿 春日温泉 春日渓谷」とあり、全て私が今朝から通ってきた地名だった。
山盛りの残雪と共に「全面通行止」と「通行止」の看板が置かれていて、いままで見てきた「都市」が、もう公には見棄てられているらしい事を示していた。




ここからは、この見違えるように鋪装の綺麗な道を行くことになる。
蓼科スカイラインは、林道鹿曲川線に代って仙境都市や大河原峠へのアクセスルートの役目を担っているのだ。
ちゃんと除雪もされていた。
仙境都市も、ようやく今までとは違う生きた表情を見せてくれそうだ。

と、その前に、この場所はこれまでで最高の展望台になりそうだった。
「なった」ではなく「なりそう」と書いたのは、この日は天気は申し分なかったものの、かなり霞が出ていて、佐久平と呼ばれる下界の広い盆地でさえも十分には見通せず、その向こうに聳え立っているはずの浅間山などは影さえも見えなかったのである。
史上最高級の展望を期待出来そうな立地だけに残念だったが、それはまたいつかの楽しみということにしておこう。




下界の景色は少し残念だったが、

振り返って眺めた仙境都市の景色は、別の意味で凄過ぎた!

一体何を考えてこんなものを作ったんだろうか。
↑こんな書き方は失礼かも知れないけど、別荘を持とうなんて考えたことのない私には、本気で理解に苦しむ景色だった。
山が好き。だから山に住みたいという需要は確かにあるのだろう。だからこれだけの分譲が成立し、沢山の家が建ち並んだのだろうが、とにかく出来上がった景色が異様である。良い悪いではなく、異様。
山という緑の下地に、何の脈絡もなく家々が置かれていて、それは昔の性能が低いゲーム機の中に再現された街の景色みたいだった。





次回「最終回(後)」では、あの一番高くに見える家よりももっと上、

この界隈の道路が辿り着きうる“てっぺん”を目ざします!

仙境都市の核心部には、何があるのか。

つづく
https://yamaiga.com/road/kakumagawa/main7.html



蓼科仙境都市の神髄
2015/4/23 10:33 《現在地》
https://yamaiga.com/road/kakumagawa/main8.html

林道鹿曲川線の探索を終え、引き続き蓼科スカイラインの探索を続行する。
目的地は、到達する過程で自身の自転車における最高到達高度を更新することになる大河原峠だ。
地図上での距離は約4kmで、地図上ではすぐ近くのようにも見えるが、仙境都市内を著しく蛇行しながら上っていくために、案外に遠いのである。

なお、詳しくは後段の机上調査編で述べるが、蓼科スカイラインのうち仙境都市から大河原峠までの区間も、元は林道鹿曲川線の一部として建設されたもののようである。
なので、道路の現在の名称だけでなく、その由緒に着目するオブローダー的な視点では、引き続き林道鹿曲川線の探索が続いているとも言える。
ただし、道の状況はこれまでとは一変して2車線になったばかりか、歩道さえも設けられていた。これは確かに、「都市」っぽい。




蓼科スカイライン区間に入って間もなく現れた、この土地の名前を記したらしき立派な看板。

「ウッドヒルベイアソシエイツ」と、書かれていた。

「Wood hill Bay Associates」=「木の丘の海岸の仲間たち」?

仙境都市との関係性はよく分からない。この名前でググってもヒットしなかった。




スカイライン区間の最初のヘアピンカーブの所で、今回仙境都市に入ってはじめて人がいそうな施設を見た。
確固たる事は言えないが、おそらくこの施設は無人では無く、仙境都市の一部として今も機能しているようだった。

後日調べた所によると、この施設はセンターフロントといい、別荘地全体の管理施設だった模様である。
「都市」に置き換えれば、市役所(city hall)と言ったところか。
実に海抜1860mという高所であった。




給油機が一台だけの無人ガソリンスタンドがあった。
最寄りの集落からはかなり離れた仙境であるから、あれば安心といったところだが、現在も使えるのかは不明である。
話は変わるが、私はここでまた雪のことを考え始めなければならなかった。
思い返せば、私がはじめて大量の残雪に進路を阻まれ自転車を長く押す羽目になったのは、海抜1640mの辺りであった。→(証拠)

それからしばらく苦戦を強いられたが、海抜1700mで仙境都市に辿り着いてからは、明るい南向きの高原地帯となったお陰で、それから標高が上がってもほとんど雪はなかった。
だが、海抜1900mを目前とした今、同じような南向きの明るい斜面が続いているにも拘わらず、路外の雪は急激に増えている。
除雪されているらしく、道は良く乾いているが、さすがに不安になってくる。

そして、前方に見える大河原峠付近の稜線はといえば、6時間前に地上より遙かに見上げた印象と何も変わらず、木の下は一面真っ白であった。




10:36 《現在地》

ほら~(涙)

やっぱりこうなったー。

今回、事前に見ていた佐久市の道路情報に、
仙境都市へは林道鹿曲川線の代わりに蓼科スカイラインで行けという事が書かれていたので、
仙境都市までは除雪されていると分かっていたが、それより先の大河原峠までも除雪されているかは、
正直「五分五分」くらいだと思っていた。敢えて事前にそこは調べずに来たのだったが、
私のこの「五分五分」の賭けは、「負け」という結果がここではっきりした。

現在地は、スカイライン合流地点から500mしか進んでおらず、
大河原峠まではまだ3.5kmもある。 …ありやがるのだ!



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除雪されなくなった途端に、この有様である…。

正直、引き返したい衝動に駆られた。

廃道ならまだしも、雪さえなかったら普通に自動車で走れる道で、私はどれだけ体力と時間を消耗させられるのだろうか。
今日はこの探索だけで終わる予定では無かったから、現金ではあるが、こういう時間効率が凄く悪い状況になると、テンションが下がってしまう。

ぶっちゃけ、どうしようかなぁ…。
でも、元を辿れば林道鹿曲川線として開通した部分なワケだし、ここで引き返すというのも、悔しかったりする。

我慢して、進むかぁ…。

標高1900mを突破したが、未だに道の両側には散発的に別荘地の家並みが現れる。
仙境都市は、まだ続いているのである。

だが、下の方と比べれば明らかに建物が現れる頻度は少なくなっており、それぞれの建物の規模も小さい。
そして、明らかに廃墟と分かるような崩れかけた建物が多くなってきた。

この変化は、別荘地として開発された時期がより早かったのか、高標高による自然環境の厳しさから来ているのか。
少なくとも後者の影響は半端なく大きいと想像する。


分かり易く標高2000mとして説明するが、地上(海抜0m)と比較した環境の厳しさたるや、登山を愛好する人ならば私よりも確実に詳しいはずだ。
その気温は平均して13℃も低く、避暑地としては日本一優秀そうだが、標高700mほどの佐久市中心部でも8月の平均気温は23℃らしいから、おそらくここでは15℃くらいにしかならないだろうし、真冬などは最低気温が-20℃にも届きそう。
気圧も低く約800hPaしかないから、真水は94℃で沸騰する。酸素濃度も地上の8割弱といったところである。人によっては高山病になるかも知れない。

大袈裟でなく、家の真ん前で遭難しうるような環境ではないのだろうか。
果たして、これらの別荘を購入した全員が、こうした厳しさを理解していたのかどうか。
もちろん、世界的に見ればもっと遙かに高標高の都市はあるのだから住めないわけではないはずだが、冬には道が封鎖され近付く事も容易では無くなるこのエリアに別荘を維持するのは、気軽なことでは無いと思う。




それでも、唯一無二の住環境を求める人にとって、ここは限りなく魅力的な立地なのだろう。
その証拠に、冬季閉鎖区間に入ってからもときおり、廃墟のような建物に混じって明らかに真新しい家屋が現れることがあった。

“唯一無二の住環境”という表現も、おそらくそう大袈裟ではないはずである。
仙境都市の別荘地は標高2000mより上にまで広がっているが、そこから直線距離で1kmほどしか離れていない大河原峠は、八ヶ岳中信高原国定公園の区域になっていて、当然のことながら人が住むことは許されない。(参考:国定公園区域図)

わが国の標高2000m以上の土地の大部分が、このような国立公園や国定公園の区域であったり、アクセスの極端な難しさが予想されるのであるから、お金を払うだけで(300坪110万円だっけ?)住むことが出来るという状態が貴重であるのは間違いないはず。(これを聞いて住んでみたいと思う人がどのくらいいるのか気になるので、良ければコメント下さい)





私は仙境都市の回し者では無いつもりだが、

ここは凄いなと思う。もちろん、良い意味でも、だ。

時間の経過や高度の上昇と共に空気の清澄さの度合いが上がってきたのか、
路傍から見下ろされる下界の眺めが、さすがに半端のないものになってきた。浅間山もうっすら見えだしている。
仙境都市の眺めは、掛け値無しに美しいと思う。しかもただの深山の眺めではなく、
山腹の所々に洋風の建物が見えているのも、洒脱で世俗離れしていて格好がいい。
High Society=上流社会の優雅な暮らしには、こんな風景が似合う日もあるだろう。


11:10 《現在地》

冬期閉鎖地点から仙境都市の“街並み”(廃墟らしきものが7割くらい)を眺めながら、右に左に蛇行しつつ上り続けること、約2km。
この間、路面が雪に埋もれていた場所が断続的にあり、その都度自転車を押す羽目になったが、それでもペースを維持しようと努力したので、要した時間は30分と少しくらいである。
そのぶん汗は絞られたが、大河原峠まで行きさえすれば後は当分下りっぱなしになるはずだから、体力の回復はそこで図ることを心に決め、すこし無理をした。

そして今、仙境都市の頂点とも言うべき場所に、辿り着いた。
標高は2010m。
路傍に看板があり、「仙境都市上部保安室」と書いてあった。
ちょっとだけ寄り道してみよう。



冬季閉鎖区間内にある事からも分かるとおり、この施設は無人である。
というか雑草の育ち方を見る限り、今は年間を通じて利用されていないようだ。

しかし構内はかなり広く、テニスコートやバスケットのコート、それに「MALCO POLO」という看板のある天文台風の施設があった。
一帯は完全に高山であり、青空に浮かぶ雲が近いと感じられた。




市民憲章

蓼科の自然を愛する私達は
活力に満ちた創造性あふれる
街づくりにつとめます

ひらこう未来に心の窓を
めざそういきゝと明るいコミュニティを
まもろう美しい心で蓼科の自然を
つなごうみんなの力で街づくりの手を
きずこう個性ゆたかな
あすの蓼科仙境都市を

蓼科仙境都市

以上が、無人の公園にあった塚状の構造物に埋め込まれていた、巨大な市民憲章碑文の全文である。
「都市」に市民憲章は不可欠であり、これを見ることが出来た事で、仙境都市を体験したという確かな実感が得られた。

これにて蓼科仙境都市を後にしまして、大河原峠へ向かいます。




全ての林道が上り尽きる、大河原峠


11:17 《現在地》

海抜2000mオーバーの世界は、積雪という一点についてだけでも、下界とはまるで違っていた。
この雪の量は、自転車にとってはもはや反則というしか無い。
ときおり僅かに路面が露出している場所を見るという程度で、基本的には常にザクザクとした濡れ雪を歩かねばならなくなった。
この有様では、仮に下り坂であっても乗車は出来ないだろう。
それでもまだ救いがあったのは、雪が案外に堅く締まっていて、足が底まで沈み込むわけではないことだったが、それでも一歩一歩が重く苦痛であるのに変わりは無かった。
顎から垂れた汗が限りなく白い地面に吸い込まれていった。
もはや先を見るのも嫌になり、下ばかりを見て歩いた。




11:34 《現在地》

10分ほど頑張ると、林道大河原峠線という道が左に分岐していった。地形図にも描かれている道である。
それを無視してさらに5分ばかり進むと、標高2060m付近で、今度は右に歩道が分かれていた。
こちらには「滝めぐり」の看板が立っており、そういえばそんなものがあったなと思い出す。
かれこれもう3時間も前の事になるが、標高1640mで鹿曲川を最後に徒渉した地点でも「滝めぐり」の看板を見ていた。
脇道は良いから…、早く大河原峠に辿り着いて楽になりたいッ!
残りは、ようやくあと800mほどになっていた。




キタキタ-ッ!

「滝めぐり」分岐以来、道はもうほとんど上ることを止めており、15分経っても風景に変化がなくやきもきしていたのだが、突然キタッ!

前方の視界がぶわっと開け、そこにズドーンと蓼科山の頂部が聳え立っていた。
私は遂に森林限界を超えてしまったのか。
道はこの先雪渓のような斜面に埋もれていたが、横切って進まねばならない。
携帯用のスノースパイクを持ってくれば良かったのだが、もう後の祭である。
しかし、きっとこれが最後の一頑張りである! 峠は近いぞ !!





うわ~~! 峠だ~~(歓喜)!!

そして、振り払ったと思った蓼科仙境都市の亡霊が、追いすがってきた~~。

「ごきげんよう」ぢゃねーーだろ!! きついっつーの!!

「また おいでください」だと?! もう当分来たくねーよ!

↑ 見ろこれを!

完全に雪山じゃねーか!www

どこかの物好きも一人歩いた形跡があるけど、俺なんか自転車持ってきてやったぞ!w

……などの軽口をはっきり口にしながら、解放感と、してやったりの気持ちが

綯い交ぜになった“半笑い”の表情で、最後の数十メートルを踏破した。

11:55 《現在地》

海抜2093m!大河原峠に到達!

自転車での自己最高到達高度を更新した。(この記録は5ヶ月後に別の場所で塗り替えられた)

出発から要した時間は、ほぼ6時間。出発時から鮮明に見えていたのに、こんなに掛かった。




峠の一角に立つ「蓼科スカイライン」の立派な標識。
こんな名前ではあるが、正体は「県単林道」という県の県単林道事業で新たに整備された林道と、もともと有った別の林道を同事業で改築した道の集合体である。具体的には、昭和30~40年代に県が相次いで整備した林道鹿曲川線、林道唐沢線、林道夢の平線などの一部区間を含んでいる。
そしてこの大河原峠は、林道鹿曲川線と林道唐沢線という2本の道の終点だった。我らが鹿曲川線の真の終点である。
同じ峠の広場の一角に、ここが林道唐沢線の終点だった名残の標識があった。


(←)
この文字通り山小屋風の山小屋である三角屋根の建物が、麓から見たときも、鹿曲川林道の中間から見たときも、峠の目印として一人目立ちまくっていたヤツだ。
冬期閉鎖でなければ多くの登山者やドライブ客で賑わう峠も、今日だけは私の貸し切りであった。

(→)
峠の南側は樹林帯で全く視界は開けないが…


北側は東信最強クラスの大展望が縦(ほしいまま)!

相変わらず下界が少し靄っていて、遠くの山が見えないのは残念だが、とりあえず、

足元から遠くへ伸びる大峡谷が鹿曲川である!!

…という事実だけで、鹿曲川林道探索者としては満足してしまった。だって、今日のこれまでの“全て”が、

閻魔が持つという人の行いの全てを見る鏡を覗いたかのように、全くの一望に完結していることの気持ちよさたるや!!

もちろん、この眺めには今回の探索のもう一つの主役であった「都市」も、控えめに見えていた。

峠で“全て”を振り返りながらのゴールなんて、最高に冴えたやり方じゃないか。

肉眼だとぎりぎり、望遠レンズならばはっきり見える、尾根の上の印象的な二つ屋根。
あれは私が仙境都市に入って比較的最初の頃に見た無人の家屋に違いない。
近くで見たときは、よもやこれほどの存在感を峠に示しているとは露も思わなかった。

その下の峡谷内壁斜面に目を転じれば、解れた糸のように頼りなさげな鹿曲川林道が散見される。
今はまだ無理をすれば通れるが、いずれはここから微かに眺めるだけの道になってしまうかも知れない。

12:01

休憩5分、大河原峠を後にする。残雪のせいで完璧に予定から遅れているので、これ以上ゆっくりは出来ない。

ここから先は林道唐沢線だ。この林道についてはレポートしないが、残雪さえなければ普通に通行可能な鋪装林道だった。

残雪さえ無ければな!


大河原峠に到達したので、このレポートも終わろうと思うが、最後にもうワンシーンだけ紹介したい。
それは峠から林道唐沢線を1.8kmほど下った標高約2000mの尾根上にある、「トキンの岩」と呼ばれる場所のことである。




今日はじめての下り坂を目の前にして、私は少しおかしくなっていた。
これから待ち受けている下りの量は、今見えている分なんてほんの一部でしかない、それこそ1時間は下りっぱなしで楽しめるくらいあるはあったのだから、冷静に路上の残雪が無くなるまで大人しく押していれば良かったのに、つい調子に乗った結果が、こうして笑っちゃうくらいの大転倒である!www
路肩の笹藪付近の残雪が少ないからと、そこを乗車して下っていたら、うっかり路肩から路外に前輪を零してしまい、それがかなりのスピードだったもんで、あっという間に私の体が前のめりに雪の上へ放り出されやがった。
雪があって良かったな~お前ww


なお、大河原峠からトキンの岩までの区間は、右手に鹿曲川の源頭谷を見下ろしながら走るので、鹿曲川林道の終盤が手に取るように見えた。
中央に見えるトンネルは山伏隧道である。
また、林道が蛇行しながら上っているその上の尾根が仙境都市のある高原状の緩斜面であり、ぽつぽつと建物が見えた。

そしてこの眺めをさらに進化させたのが、トキンの岩のてっぺんからの眺めだった。


12:20 《現在地》

「トキンの岩」の下までやって来た。
正面に見える小さな岩峰がそれである。
「トキン」とは何かと思ったが、おそらく「頭巾」のことで、全国的に多くある「烏帽子岩」の仲間だと思う。尖った姿から名付けられたのだろう。

当初はここに寄り道する予定は無かったのだが、岩のてっぺんに小さな石の祠が飄々と佇んでいるのを見つけてしまったことと、最後にもう一度今回の路を振り返れたら良いなという思いから、急遽自転車を停めて岩場によじ登ってみることにした。




小さな岩山に見えたが、実際に上ってみると案外に高く、そして険しくもあり、さらに明示された道もなかったので、怖ろしかった。

どうにかこうにか岩頂に立つと、下から見えていた小さな祠が待っていた。
それは昭和59年という建立年が刻まれた、「五智観音」の祠だった。

そして、期待していた見晴らしはといえば、この立地で優れていない訳が無い!
まさに全天全方位に遮るもののない、大河原峠を遙かに超越する展望台であったのだが、私としては、次の1枚で満足した。



蓼科仙境都市はきっと、
日本一高所にあることを願われた街なのだ!

林道鹿曲川線で行こうとしなければ、何もここまで苦労はしないんだけど、

両者は密接な関わりを持って誕生したものだから、セットで攻略することに意味があった。


机上調査編: 大河原峠周辺の開発史

元有料林道でありながら長期間の封鎖により荒廃の度合いを強めている林道鹿曲川線は、もしかしたらこのまま復旧されず、道としての使命を終えようとしているのかもしれない。
ここ10年以上は工事の手が入っている気配がなく、新たな崩壊も多く発生している現状を見る限り、私はそのような危惧を持っている。

だからというわけではないが、ここで一度この道の歴史についてまとめておきたい。
もちろん林道だけでなく、大規模別荘地としておそらく日本一の高所に存在する仙境都市や、風光明媚な大河原峠の開発史と絡めた話となる。
なお、この机上調査には「望月町誌 第五巻近現代編」が役に立った。

まずは林道鹿曲川線が誕生した時代背景を、町誌から引用しよう。

1960年代の後半になると、高度経済成長によって経済的にゆとりができた都会の人々が、自然を求めて長野県に流入してきた。この現象を受けて県は、観光を兼ねた総合開発に本格的に乗り出した。例えば県企業局では、小渋ダムや菅平ダムなどのダム開発によって県営発電事業を推進すると同時に、蓼科有料道路、戸隠有料道路、菅平有料道路などの有料道路を次々に建設し、奥深い豊かな自然を自動車、バスで簡単に楽しめる観光開発をおこなった。こうした動きは望月町の行政や観光事業、さらには財産区の事業にもすぐに影響を与えた。そのひとつが大河原山荘の建設であり、もうひとつが町内各地でおこなわれた大規模な別荘造成であった。


図は昭和57(1982)年に発行された道路地図の一部である。

左下の諏訪盆地と右上の佐久平を隔てる山岳地帯は、八ヶ岳連峰から美ヶ原へと連なる長大な2000m級の山陵を横たえている。そこは昭和39(1964)年に八ヶ岳中信高原国定公園の指定を受けた風光に恵まれた土地であり、交通の便も比較的に悪くないため、マイカーブームの勃興を契機として、観光立県を謳い「日本のスイス」を標榜した長野県が主体となって大々的な観光開発が進められた。
その結果が、図中にひしめくように描かれた青色の線、すなわち大量の有料道路であった(現在は全て無料化済だ)。

当時は有料林道だった「鹿曲川林道」(林道鹿曲川線)は、図中の赤い○で囲ったところにある。
観光の根幹ルートである「ビーナスライン」(蓼科有料道路および霧ヶ峰有料道路)からは少し離れているが、同じく有料林道だった「夢の平林道」(林道夢の平線)を介して繋がっていた。

蓼科山北麓の古い宿場町である旧望月町(平成17(2005)年に佐久市と合併)にとって、林道鹿曲川線の開発は、八ヶ岳中信高原国定公園の観光ブームに乗り遅れることなく、その一翼となって確固たる発展をとげるための重要なミッションを帯びていた。


図は望月町の周辺を拡大したものである。
昭和34(1959)年に本牧町や春日村など4町村が合併し誕生した同町にとって、町の南端の標高2000mを越える大河原峠からの眺望や、その登山基地としての有用性は、将来の重要な観光資源と期待されていたが、当初は車道が通じておらず、十分に活用が出来なかった。
今回の私の探索でも、春日温泉付近をスタートした直後から真っ正面に大河原峠の明瞭な鞍部が見えていて、度肝を抜かれたから、町の人々がこのとても高い峠に親しみを覚えていたことは想像に難くない。

大河原峠開発の契機となったのは、県による蓼科有料道路の建設であった。

県企業局が建設した蓼科有料道路は、一九六五年には白樺湖まで開通した。白樺湖まで来たマイカーや観光バスを春日温泉や素晴らしい景観を持つ大河原峠まで誘導することは県の観光事業からも、町や財産区や商工会にとっても大いに望むところであった。そして、林道唐沢線は一九六二(昭和三十七)年に開通していたし、春日湯沢経由大河原峠行きの林道鹿曲川線は一九六二(昭和三十七)年からの突貫工事で一九六六(昭和四十一)には完成をみた。

今回の探索では(偶然にも)林道鹿曲川線で大河原峠へ登り、林道唐沢線で下ったが、この2本の林道は同時期に建設されたものだったのだ。
どちらも望月町内と大河原峠を結ぶ路線であり、周遊が考えられていたようだ。

また、望月町誌には何も書かれていないが、同じ時期に隣の立科町内に林道夢の平線が建設され、これにより大河原峠は蓼科有料道路と結ばれた。
これらの林道を整備したのは県だが、望月町も一定の負担をしたものと考えられる。
なお、鹿曲川線や夢の平線が開通当初から有料であったかについては、記録が無く不明である。が、遅くとも昭和57年の道路地図には有料道路として描かれている。

当時はまだ、仙境都市から佐久市野沢に下る蓼科スカイライン(地図中の破線)は存在しなかった。この道が開通したのは平成初年以降である。
また、こちらも開設年度が不明だが、仙境都市の一角にはかつてスキー場が存在していた(国設蓼科スキー場)。
現在は蓼科スカイラインが冬季も除雪されており、仙境都市まで行くことが出来るが、当時は鹿曲川線が仙境都市やスキー場への冬季唯一のアクセスルートとして除雪が行われていたはずである。あの狭く険しい区間が多い林道を冬に通るのは、かなり怖ろしい体験だったろう。

ここで少し話が逸れるが、大河原峠についても書いておきたい。

標高2093mの大河原峠は、八ヶ岳連峰の主稜線上にあり、佐久市と茅野市を分けている。だが、現在ここを通っている蓼科スカイラインは峠を越えるようになっておらず、佐久市側だけで完結している。 最新の地理院地図も茅野市側には歩道さえ描いていない。

しかし、大正元(1912)年の地形図を見ると、ちゃんと峠を越える「里道」が描かれている。この里道は、南佐久郡臼田町(現佐久市)と諏訪郡永明村(現茅野市)を結んだもので、「角川日本地名辞典」によると、峠付近で弥生土器が出土するなど古代から通じた峠であり、戦国時代に武田信玄が佐久に侵攻するときにも使われたという。
明治以降はどの程度利用されていたか不明だが、車両交通時代に入って一旦は忘れ去られた山奥の峠が、昭和40年代のマイカーブームの中で観光地として甦ったのが現在の姿なのだろう。


「望月町誌」より転載。
こうして、ビーナスラインという長野県の最も成功した観光ルートの中に組み込まれた大河原峠を最大限活用すべく、望月町は昭和41(1966)年に1億5千万円をかけて峠の近くにレストハウス「大河原山荘」を建設している(右写真、現在は解体済み)。

そして次に1970年代から町内で本格化したのは、大手資本の参入による大規模な別荘地の開発だった。

一九七〇年代に入ると望月町内の各地で別荘造成がはじまった。生活にゆとりの生じた都会の人々が失われた自然を求めて長野県の高原、山野にセカンドハウスとして別荘を作るブームが起こった。各界名士の別荘地として名高い軽井沢やその周辺は手の出ない階層に、蓼科山麓が注目され始め、それに応ずるカタチで別荘造成が始まった。
その最初のケースは大河原山荘に近い富貴の平で、ここに東京富士コンサル株式会社が春日財産区から五〇㌶借り、貸別荘を作ったのは一九七〇(昭和四十五)年で、その貸付け収入は一九六九(昭和四十四)年に三〇〇万円入っている。

ここに書かれているのが、「蓼科仙境都市」こと、富士コンサル(株)の富貴の平別荘地である。

標高や名称などに特筆すべき要素を持ったこの別荘地について、町誌は上記の引用文以外何も記していない。
富士コンサル(株)のサイトにも特にこの件についての記述は無く、仙境都市利用者の会員制倶楽部である蓼科ソサエティ倶楽部のサイトにも、賑わいに溢れた「エリアマップ」などに興味はあるが、歴史的な経緯についての記述は見られなかった。


平成13(2001)年と昭和51(1976)年の航空写真を比較してみたが、昭和51年には既に現在と同じほぼ範囲が別荘地として開発されていた事が分かる。

平成13年の図で新たに増えているのは、蓼科スカイラインや蓼科国際スキー場、それにスキー場周辺の大きな建造物(私が現地で見た高層マンション群)等である。
近年まで旺盛に開発が進められていたようだが、スキー場はその後に廃業した。


大まかではあるが、以上が林道鹿曲川線や仙境都市の開発の経緯である。
ひとことで言えば、県と町と民間資本が手を組んで行った面的な大規模開発だった。
特別に奇抜といえる内容は無く、日本中で当時繰り広げられた我も我もの開発ブームの中においては、比較的穏便に成功した部類であろうと思う。

確かに現状では鹿曲川林道が廃道化の一途を辿っており、仙境都市も無人化が進んでいる様子はあるものの、前者については、より高規格な蓼科スカイラインの開通によって発展的解消したようにも見えるし、後者も別荘地としての最低限の機能はおそらく保たれており、別荘ブームの終焉によって規模を縮小している過程なのだろう。

その後に林道鹿曲川線が無料化された経緯や、その時期も興味ある所だが、情報が不足しており、はっきりしていない。
時期については左図のように昭和63(1988)年までは有料道路であったことが分かっている。無料化は平成初年代だろうか。
ここは、皆さまからの情報によって絞り込めそうなので、ぜひ通行の体験談をお寄せいただければと思う。

最後になったが、仙境都市の立地条件について、私などより遙かに客観性があると思われる“声”を紹介しておこう。抜粋しても少し長いが、なかなか厳しい見解が述べられている。

●国会議事録(昭和55(1980)年2月20日衆議院農林水産委員会)
 中川利三郎委員の発言より一部抜粋

それでは、具体的に蓼科高原についてお聞きします。
これは最大の問題になった事案でありますが、約四十五万坪、七億五千万、四十五年十月取得と書いていますね。(中略)
蓼科高原土地調査の概要というものをちょっと私拝見したのですね(中略)、私ちょっと読み上げさせていただきます。まず、そこは海抜千五百七十メートルから二千七十メートルの範囲内にあるというのですね。開発されない理由はそういう高所にあることが第一の条件だというのですね。それから、国定公園法による開発規制、都市計画法、森林法等による開発規制のすべてを満たしたとしてもなお次のような問題があるということで、いろいろなことを挙げてあるんですね。どういうことかと言いますと、たとえば唯一の平たん部が千七百メートルから千八百メートルのところに少しあるということが書いてあるのですね。その千七百メートルから上は見上げるような断崖絶壁というか、急斜面だ。千七百メートルから下は何十メートルもの深い谷がのぞく。傾斜も二十度から三十度だ。それでも強いて建設するとするならば谷底になるということか書いてある。そして、開発規制の重要な一つとして、見えないように道路から二十メートル離さなければなりませんが、そうすると、目隠しのために植生をしてもそこはとうてい根づかないところだ、こう書いてあるんですね。それから、そこから千八百五十メートルのシシ岩というところに行くためには、けもの道をたどって行くには行けるが、若者かかなり頑健な体力の持ち主でなければ非常に苦しい、こう書いてある。人間の生活というものは千六百メートルまで耐えることかできるが、それ以上になると、頑健な人でも体調を崩すというわけですね。調査委員会の結果こう書いてある。そうかと思えば、飲料水確保不可能と書いてある。飲料水を確保することはできない。雨水排水対策等について、付近の開発業者と協議調うことは、不可能、こう調査委員会報告は報告しているわけですね。(中略)
 理事会調査結果というものですが、これにも非常に遠慮しがちにこう書いてあるんですね。「将来の開発見通しについては、地形・環境等からみて、別荘用地としての開発には制約が多く、また保養施設としても上下水道等多くの規制から見て開発が困難な土地である。近隣業者としては、法規制・立地条件等を勘案すれば、観光開発のための土地としては手におえるものではなく、最近の時価も取得価額よりもかなり低いものであり、現在の時点では評価額の認定は困難であるとの意見もあった。」こう書いてある。こう書いてあることに間違いありませんか。

これは仙境都市について議論されている、その一部である。
最終的には決着があり、現状あるように仙境都市は存続もしているのであるが、開発の途上では国会で議論されるほどの「特異な立地」と考えられていた事が、お分かり頂けるだろう。

な~んだ、やっぱり凄いと思っていたのは、私だけじゃ無かったんだなー。 ホッとした。

完結。
https://yamaiga.com/road/kakumagawa/main8.html

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