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本村凌二『地中海世界の歴史』

1:777 :

2024/07/16 (Tue) 12:09:21

雑記帳
2024年07月06日
本村凌二『地中海世界の歴史1 神々のささやく世界 オリエントの文明』
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_6.html

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 講談社選書メチエの一冊として、2024年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、メソポタミアも含めて地中海世界を広い範囲で把握し、シュメール文化の頃からローマ帝国の東西分裂の頃まで約4000年間の地中海の歴史を、著者1人で執筆する『地中海世界の歴史』全8巻の第1巻となります。時空間的に広範囲の歴史を1人で執筆すると、それぞれの地域および時代について、専門家から異論が提出されそうですが、単独執筆により筋の通った地中海世界史になることも期待され、全8巻を読むつもりです。

 本書は地中海世界の長い歴史を対象としているだけに、その前提として、現在のような地中海がいつどのように形成されたのかも、簡潔に取り上げています。現在のような地中海が形成されたのは500万年前頃で、地質学的には中新世から鮮新世への移行期となります。本書は冒頭で、「文化」と「文明」の差異にも言及しています。人間が自然環境と深く関わることによって生み出される生活用式が「文化」で、自然環境の違いを超えて伝わり、より快適な生活空間を享受できるようになるのが「文明」である、と本書は指摘します。当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしているので(関連記事)、『地中海世界の歴史』全8巻を取り上げる記事でも、基本的に「文明」を使いません。

 本書で強調されているのは、文字の大きな役割です。文字こそは人類史において大きな飛躍だった、というわけです。日本もそうですが、現代ではほとんどの地域において文字の使用が常識となっており、文字がない世界を想像することは難しくなっているように思います。しかし、無文字世界しか存在しなかった時代は人類史において5000年前頃とごく最近まで続いていた、とも言えるわけで、その認識は重要になってくるでしょう。ただ、視覚表現で情報を伝えることは旧石器時代からあり、現生人類(Homo sapiens)に限定されていなかったようで、文字の前提としてこうした旧石器時代からの長きにわたる視覚表現があったことも考慮しなければならないのでしょう(関連記事)。

 シュメール文化には多数の文献(粘土板文書)が残っており、経済・行政文書が多いものの、人々の生活が窺えるような記録もあります。本書でもそうした記録の一部が紹介されていますが、日本に限らず現代社会で共感できるような内容も多く、確かにシュメール文化の人々と現代人とでは世界観や価値観が大きく異なるところも少なからずあるでしょうが、一方で同じ現生人類として共通点も多いことが窺えます。古代人の心情を安易に推測はできませんが、一方で理解困難と考えてその差異を強調することも問題なのでしょう。ウル第三王朝期には「世界最古の法典」も制定され、後にハンムラビ法典にも継承されますが、本書は、弱者救済思想があることに注目し、この2000年後のギリシア・ローマの古典期にそうした観念はなかった、と指摘します。

 エジプト史では、アクエンアテン(アメンヘテプ4世)の宗教改革の意義が強調されています。多神教から一神教への変革は人類史においてきわめて重要で、唯一神への心性の変化は当時の人々にとって想像しがたい大きな出来事だった、というわけです。一神教が当たり前の現代社会において、唯一神がなかった世界の観念や、唯一神を受け入れることへの抵抗の大きさなどは、想像しにくいところがあるかもしれません。上述の文字の問題もそうですが、現代人にとっての大前提からできるだけ離れて、当時の歴史をいかに再構築していくかは、歴史学の難しさでも醍醐味でもあり、研究者にとっては力量が評価される問題のようにも思います。

 紀元前13世紀末~紀元前12世紀にかけての地中海東部地域における混乱(関連記事)の原因として、近代以降「海の民」が注目されてきましたが、本書でも「海の民」への言及は多くなっています。「海の民」は、さまざまな地域に出自のある混成集団だったようで、その活動の原因としては、旱魃などの気候変動も挙げられています。「海の民」の主要な活動時期は青銅器時代末~鉄器時代初期ですが、この頃レヴァントにおいて一時的にヨーロッパ系の遺伝的痕跡の増加が確認されており(関連記事)、これは「海の民」の活動を表しているかもしれません。この「海の民」から外洋航海技術を得て、地中海に広く拡散していったのが、後のフェニキア人と考えられています。フェニキア人の業績として、本書はアルファベットの開発を特筆しています。

 第4章冒頭の、「現生人類につながるホモ・サピエンスが出現したころ、人類は惨めな生物だった。ライオンが食べ残した肉にハイエナやジャッカルが喰らいつき、その残り物をあさることしかできないのだ。恐る恐る死骸に近づき、骨を割って骨髄をすする」との評価は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の狩猟が本格的で、その戦略が柔軟だったこと(関連記事)を考えると、問題があるようにも思います。しかし、一般的にはホモ・エレクトス(Homo erectus)とされているような人類も含めてホモ・サピエンスに分類し、ホモ・サピエンスが200万年前頃に出現した、と想定するような1990年代以降の現生人類アフリカ多地域進化説の観点では、本書のこの指摘に大きな瑕疵があるとは言えないかもしれません。

 本書は最後に、「二分心」仮説を取り上げています。太古において人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた、との二分心仮説に著者は以前より肯定的で、右脳が神々の側に、左脳が人間の側にあり、意思決定の重圧によって神々の声(幻聴)が誘発され、「二分心」が失われていく過程で明確な「意識」が芽生えてくるのではないか、と本書は推測します。私は、「神々の声」を「聴ける」人は太古も現在も各文化集団において同じくらいの割合で存在し、それが社会にどの程度受け入れられるのかに関して、時空間的な違いが大きいのではないか、と今では考えています。
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2:777 :

2024/07/16 (Tue) 12:10:55

雑記帳
2024年07月13日
本村凌二『地中海世界の歴史2 沈黙する神々の帝国 アッシリアとペルシア』
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 講談社選書メチエの一冊として、2024年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は紀元前二千年紀末~紀元前4世紀頃までを扱っており、アルファベットと一神教の誕生をとくに重視しています。アルファベットの起源は紀元前二千年紀の原シナイ(カナン)文字で、ヒエログリフに倣ってカナン人が作りました。カナン人は海洋文化の影響を受けてフェニキア人とも呼ばれるようになり、フェニキア人の交易活動の拡大に伴い、アルファベットはフェニキア文字として地中海世界の各地へと伝わっていき、このフェニキア文字から、ヘブライ文字やアラム文字が派生します。文字、とくにアルファベットのような表音文字の誕生は人類史における一大画期で、飛躍的な知識の蓄積と文化の発展をもたらした、と考える人は多そうです。

 しかし本書は、文字の獲得が本当に人間の能力を高めたと言えるのか、と疑問を呈します。文字言語の習得は確かに人類にとってとてつもない能力の獲得ではあったものの、一方で途方もない能力の喪失でもあったのではないか、というわけです。ただ、この「途方もない能力」を現代人は知り得ない、と本書は指摘します。本書は、ソクラテスが文字に頼ることを警告しており、それは個人の能力としては的確な見解だった、と指摘します。ただ一方で、集団や社会として考えると、広い空間で時を経ても記録が正確に伝達されるのは大きな利点だった、と本書は指摘します。本書は、長期的には文化は経時的に複雑になる傾向にあるものの、ある時点では単純化に転じる場合があり、文字の単純化(アルファベットの誕生)とその普及は画期的な出来事で、一種の認識能力の革命だった、と評価しています。

 本書は、この文字の簡素化(単純化)を「アルファベット運動」と呼び、それと一神教の出現とが関連している可能性を指摘します。崇拝の対象が多数の神々から数少ない神々へと移行することと、文字の簡素化には類似性がある、というわけです。神々の吸収合併はオリエント各地で見られ、メソポタミアでも紀元前二千年紀になると、神々の数は30ほどに減っており、そうした動きがさらに目立っていたカナンの地でした。「アルファベット運動」と「一神教運動」は底流でつながっているのではないか、というのが本書の見通しで、壮大で魅力的な見解になっているように思います。

 「一神教運動」において重要な役割を果たすのがイスラエル人ですが、唯一神ヤハウェをひたすら崇めるその情熱の根源として、本書はイスラエル人がエジプトで長く暮らしていたことを挙げます。古代エジプト人は、真実も秩序も正義も一つの言葉「マアト」で表現し、マアトを遵守しており、それがイスラエル人にも継承されたのではないか、というわけです。この見解は、あるいは古代ゲノム研究の進展によりある程度判断できるようになるかもしれません。ただ本書は、「一神教運動」とはいっても、多神教と一神教の区別は曖昧で、明確に線引きできないことも指摘します。多神教にも至高神のような一神教的側面もあり、一神教にも聖者崇拝のような多神教的側面もある、というわけです。

 また本書は、ユダヤ教につながる古代イスラエル人の宗教の核心にある、唯一神と民の契約との発想が独特で異様であることを指摘しています。それまでの多神教は個人の内心にまでは入り込まず、一神教の成立過程の端緒にいたとも言えるモーセも、基本的には内心にまで踏み込まなかった、と本書は評価しています。本書は、神々の声が聴こえなくなってきた時代(第1巻)において、全知全能の神だけにしかすがれない、と人々が感じるようになったかもしれないことと、「一神教運動」との関連の可能性を指摘します。

 さらに本書は、紀元前千年紀における重要な「発明」として硬貨を挙げており、日常生活における硬貨の使用が、交換手段の規格化もしくは価値尺度の統一化という意識をもたらし、そうした潮流において、物事を抽象的に考えるような精神的土壌が生まれつつあった、との見解を提示します。また本書は、「地中海世界」の東西における硬貨の使用に大きな違いがあり、硬貨の使用が進んだ西方では、物資の交換に硬貨が介在することで、上下関係の絆が希薄になり、人的結びつきが緩やかでかなり自由になったのに対して、東方では硬貨の使用がなかなか進まず、上下関係の強固な絆が維持されたのではないか、との見通しを提示します。これが、ギリシア世界の直接民主政の前提の一つになったのではないか、というわけです。本書は貨幣の出現を、アルファベットや一神教の出現とともに、紀元前1000頃前後の東地中海世界における多様化・複雑化した文化の単純化という大きな流れで把握します。

 アッシリアは、紀元前三千年紀より存在する古い都市国家から、盛衰を経て紀元前8~紀元前7世紀に「史上最初の世界帝国」へと発展しました。アッシリアはその当初から、軍国主義的な社会だったようで、強制移住などかなり過酷な処置も行なっていたようです。とくに強制移住は、アッシリアの残酷さを強く印象づけることになりました。アッシリアは征服地を直接統治の属州とし、服属した土地は貢物の納入を義務付けられた属国と位置づけられました。こうした統治は、後のペルシア帝国やローマ帝国でも採用されました。「世界帝国」となったアッシリアで本書が注目するのは、センナケリブの宗教改革で、アッシリアの神であるアッシュルのバビロニアの神であるマルドゥクに対する優越を示そうとして、アッシリアの国家宗教がバビロニア風になったことを、本書は指摘します。それに対する反発もあったのか、センナケリブは2人の息子に殺害されます。アッシリアの軍事活動は盛んで、それ故に「史上最初の世界帝国」へと発展したわけですが、それが各地の交易路の開拓にもつながったことを、本書は指摘します。

 アッシリアの滅亡後に「世界帝国」へと発展したのがペルシアで、アッシリアの残酷さに対してペルシアの寛容さが強調される傾向にあるように思います。ペルシアは新たに征服した地の固有の制度や習俗を尊重し、租税と忠誠心以外はほとんど何も求めなかった、というわけです。ペルシア帝国の実質的な創始者とも言うべきキュロス(クールシュ2世)は戦死したものの、ペルシアの覇権は揺らがず、キュロスの長子であるカンビュセス(カンブージヤ2世)は、エジプトも征服します。しかし、バビロニアの反乱を鎮圧するための移動中にカンビュセスは死亡し、その後の混乱を制圧したのはダレイオス大王(ダーラヤワウシュ1世)でした。ダレイオス大王は、自身がキュロスの家系と4世代前の父系祖先を同じくする、と主張したようですが、真偽は不明で、いずれにしてもキュロスの直系子孫ではなかったわけです。

 ダレイオス大王は統治機構を整備し、行政区に総督を配置し、総督の統治が過酷にならないよう見張る監視官に加えて、密偵も全国に派遣しました。本書はダレイオス大王の寛容な統治方針を、古代にあっては異例と高く評価しています。そのダレイオス大王の治世に始まったペルシア戦争は、スキタイ勢力の制圧に失敗したダレイオス大王が、その威光を取り戻すための遠征で、当時のペルシアにとってギリシアはとくに脅威ではなく、ギリシアの征服ではなく親ペルシア勢力の強化がペルシア側の目的だったのだろう、と本書は指摘します。ペルシア戦争は、ヨーロッパとアジアとの宿命的な衝突ではなく、ヨーロッパ中心主義からの過大評価には注意すべきなのでしょう。本書は、ダレイオス大王の後継者となったクセルクセス(クシャヤールシャン1世)の治世の末期以降にペルシアが衰退した、との評価について、確かに王家内の殺害や簒奪は頻繁に起きたものの、帝国中枢が麻痺したわけではなく、ペルシア人は圧倒的な軍事力に基づく政治支配上の特権を維持していた、と指摘します。ペルシア帝国では、さまざまな人々による新たな世界秩序と世界文化が形成され、ローマ帝国にも影響を及ぼした、と本書は評価します。

 本書は、アルファベットや硬貨やアッシリアおよびペルシアのような「世界帝国」の出現と「神々の沈黙」と「一神教運動」とを、地中海世界の紀元前二千年紀~紀元前千年紀の「単純化」もしくは「普遍化」へと向かう大きな傾向に位置づけ、カール・ヤスパースが提唱した「枢軸時代」もその文脈で検討しています。紀元前千年紀前半の地中海世界では、イスラエルにおける預言者の出現、イラン高原におけるゾロアスター教につながる宗教運動(ゾロアスター教の「開祖」とされるザラスシュトラの活躍年代については諸説あり、紀元前千年紀前半説が有力であるものの、確定しているわけではないようですが)、ソクラテスなどギリシアの哲学者が出現し、魂のある精神的存在としての人間という理解が生まれ、本書の地中海世界の範囲から外れるものの、アジア南部(インド)ではウパニシャッド哲学とマハーヴィーラのジャイナ教とブッダ(ゴータマ・シッダールタ)の仏教、アジア東部(中国)では孔子の儒教など「諸子百家」が出現します。こうした紀元前千年紀半ば頃の宗教と思想におけるユーラシアの広範な地域で見られる重要な新現象を、ヤスパースは「枢軸時代」と提唱しました本書はこうしたユーラシアの広範な地域で起きた精神的現象を、「神々の沈黙」への早い反応だったのではないか、と把握し、それは「枢軸時代」という理解と通ずるところがあります。ただ、「枢軸時代」との把握については、疑問も呈されており(研究1および研究2)、その有効性は今後も検証されねばならないでしょう。
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3:777 :

2024/07/20 (Sat) 17:26:25

雑記帳
2024年07月20日
本村凌二『地中海世界の歴史3 白熱する人間たちの都市 エーゲ海とギリシアの文明』
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 講談社選書メチエの一冊として、2024年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とする主要な地域はギリシアというかエーゲ海地域ですが、扱う年代は紀元前三千年紀~マケドニアの台頭の頃までとなり、第2巻ではアッシリア帝国とペルシア帝国まで扱われましたが、本書では年代がさかのぼることになります。紀元前三千年紀から紀元前1200年頃のエーゲ海に限らず地中海世界の広範な混乱(関連記事)までの期間、エーゲ海の文化は、前半はクレタ島のミノア文化、後半はギリシア「本土」のミュケナイ文化により象徴されます。

 紀元前三千年紀に青銅器文化が栄えたクレタ島では、紀元前二千年紀に強力な統治機構が出現し、宮殿は紀元前1700年頃の大地震で打撃を受けたものの、その後で再建されました。しかし、紀元前15世紀半ばにクレタ島の宮殿は火災により失われました。ミュケナイ文化ではギリシア語古語を表す線文字Bが用いられ、当時の社会状況が窺えます。ミュケナイ文化は貢納王政的社会だったようで、この点では後のギリシアのポリス(都市国家)の構造とはかなり異なることになります。この点で、ミュケナイ文化などエーゲ海地域の王国と古代オリエント社会との類似性も考えられますが、エーゲ海地域の主要作物は、新石器時代のコムギとオオムギから青銅器時代にはオリーブとブドウへと変わり、作物の交換が必要となります。この交換の場が宮殿で、生産と流通の再分配を掌握した首長制が出現し、エーゲ海地域の貢納王政は、オリエント地域の中央集権的性格とは異なる、と指摘されています。ミュケナイ文化も、紀元前1200年頃の地中海世界の広範な混乱の中で、王宮が炎上するなど衰退していったようです。

 こうしたエーゲ海地域の青銅器時代文化を生み出したギリシア人は、ミュケナイ文化期には「アカイア人」として知られていたようで、「ギリシア人」は後世のローマ人が与えた語に由来します。ミュケナイ文化の衰退とともに線文字Bが憑分かれ亡くなり、紀元前1200年頃以降の数百年間は「暗黒時代」とも呼ばれています。ただ本書は、そうした用語に文字のみを文化創造の基本とする偏見があるのではないか、と指摘します。本書は、吟遊詩人などにも表れている口承技術の高さを重視し、ホメロスの叙事詩との高い類似性、さらにはホメロスの作品の背後に長期にわたる多くの吟遊詩人が存在したことを指摘します。これは、『史記』に口承文学というか市井の芝居が取り入れられている、との宮崎市定氏の見解とも通ずるところが多いように思います。本書は、「暗黒時代」に語り継がれた英雄譚に、神々を畏怖するだけではなく、偉大な自己への確信を抱く人々が搭乗する、心性史の転換を見ています。本書はこの心性史の転換期において、「罪」や「罰」といった新たな観念が見られるようになった、と指摘します。

 英雄譚が語り継がれた「暗黒時代」の後にギリシア世界というかエーゲ海地域では、経済活動の活発化を背景とした「集住(シュノイキスモス)」によってポリスが成立しますが、本書は、「暗黒時代」の前後で指導者の性格が大きく変わった可能性を指摘します。ミュケナイ文化期の、民主とは隔たった強力な王から、暗黒時代を経てポリス期には、「豪族」とも言えるような、民衆(デーモス)よりずっと富裕ではあるものの民衆に近い指導者(バシレウス)へと変わった、というわけです。この時代のギリシアの平民は、王や貴族に隷属していたわけではなく、かなりのところ自立しており、それが民主政の基盤となったようです。こうしてエーゲ海地域ではポリスが成立し、アルファベットの導入により文字も再び使われるようになりますが(本書はギリシアのアルファベットの意義として、母音文字の追加を挙げています)、そうしたポリスの出現に、エジプト人やとくにフェニキア人からの大きな影響があったのではないか、と本書は推測します。

 ポリスの出現以降、紀元前8~紀元前7世紀にかけて、ギリシア人の植民活動は活発化し、黒海沿岸も含めて地中海世界へと広範に拡大しましたが、それは母市であるポリスの勢力拡大というよりは、人口増加に伴う土地の不足や権力争いの敗者の逃亡などの結果で、政治的には母市と植民市は独立した関係にありました。また本書は、紀元前8世紀以降のギリシア世界において集落形態はポリスだけではなく、中心市を有さない集落がいくつか集まり、一つの連合体を形成しているような、エトノスも存在したことを指摘します。本書は、ギリシア本土においてポリスが成立したのはより東側の地域だったことを指摘し、つまり東方の「先進地域」に近い場所でその影響を受けつつポリスが成立した、というわけです。後には、エトノス的形態からポリス的形態への変容も見られました。

 ポリスでは紀元前7世紀半ば頃以降、ほとんどのポリスにおいて武具自弁の階層が増え、重装歩兵による密集軍団が形成されていきます。この点で、ギリシア世界は地中海の他地域に対して数世紀間優位に立ち、この密集隊戦術でとくに強さを示したのがスパルタでした。スパルタはその「軍国主義」で知られていますが、それは多数の隷属民(ヘイロータイ)の反乱に備える必要があったからです。なお、スパルタはギリシアの他地域と比較して、女性の役割と地位においてかなり解放されていたところがあったようです。ポリス出現以降のギリシア世界における学術の目覚ましい発展はよく知られていますが、その傾向が最初に現れたのは、「先進的」なオリエントに最も近いイオニア地方でした。イオニア地方の自然哲学者は、神話に依拠せず、万物の根源を直接的に追求します。

 ギリシア世界のポリスの栄光として有名なのが、ペルシア戦争(ペルシア・ギリシア戦争)での勝利です。ギリシア世界のポリス、とくにアテナイの強さは、その規模が強大であることだけではなく、自由平等の意識にある、と本性は指摘します。各市民が自ら国家に対する責任と義務を自覚することで、ポリスは強くなる、というわけです。本書は、スパルタがこれに気づいており、それ故にアテナイの民主政を早期に潰そうとしたのかもしれない、と指摘します。ペルシア戦争の影響でよく知られているのは、海戦でアテナイの下層市民が勝利に貢献したため、政治的発言力が増したことで、本書もこの問題を重視していますが、本書は下層市民自身が自らの立場をどう認識していたのか、という観点から教育に注目しています。ギリシア語で「教育」を意味する「パイデイア」は、ホメロスの叙事詩に出てこず、紀元前5世紀後半のペロポネソス戦争前半期までの文献でも、「教育」の意味で使われているわけではないそうです。既知の文献における「パイデイア」の初出は紀元前467年とのことですが、「子育て」といった意味だったようです。紀元前423年初演のアリストファネス『雲』で、「教育」というような意味合いでの「パイデイア」が用いられており、「古い教育」と「新しい教育」の論争が描かれています。古来の音楽や詩文を教え、神話や伝説を素直に受け入れ、道徳教育を重視する質実剛健な「古い教育」と、弁論の技術を授け、神話や伝説に堂々と不信の目を向け、性の解放すら唱えた「新しい教育」とが退避されています。ただ本書は、紀元前5世紀のアテナイに「古い教育」と「新しい教育」の論争が本当にあった、と想定することには慎重です。当時のアテナイにおいて、教育制度が整備されていたわけではなく、幼児期だけのごく初歩的な教育が行なわれていただけで、一定以上の年齢でさらに教育を受けたのは、ごく少数の富裕層だけだっただろう、というわけです。本書は、当時のギリシア世界において「教育(パイデイア)」に期待されていたのは良俗の躾であり、知育や学習の訓練ではなかった、と指摘します。

 ペルシア戦争の後、アテナイはデロス同盟の諸ボリスへの抑圧傾向を強めていきますが、それによりギリシア世界を統一したわけではなく、アテナイへの反感がペロポネソス戦争へとつながり、アテナイは敗北します。本書は、ペリクレスがアテナイへのスパルタの敵意を避けることはできない、と判断して東方の大国であるペルシア帝国と協定を結んだのではないか、と推測します。アテナイは紀元前5世紀半ばには「帝国」への道を歩んでいるかのようにも見えましたが、ペロポネソス戦争でスパルタを盟主とするペロポネソス同盟に敗れます。しかし、新たにギリシア世界の覇者となったスパルタも、アテナイと同様にギリシア世界を一元的に支配で来たわけではありません。アテナイも紀元前4世紀後半には復興していきましたし、スパルタは新興のテーバイに敗れて没落します。しかし、そのテーバイも、指導者の相次ぐ死により覇権拡大は挫折し、紀元前4世紀半ばのギリシア世界は、有力ポリスが散在して対立する、混迷の時代となります。ギリシア世界においてこうした戦乱と混乱の続く中で、兵士の担い手だった市民層で没落する者が多く、傭兵に頼るようになり、ポリス市民としての自覚が薄れていきます。

 本書は最後に、ギリシア世界の特徴として、性差が大きく、女性は概して抑圧されており、公然と活動する機会がほとんどなかったことや、奴隷の存在がプラトンやアリストテレスのような世界史上で一線級の哲学者でも大前提とされていたことを指摘します。こうして奴隷の存在が大前提となると、かつては叙事詩人ヘシオドスのように、労働は恥ではなく、働かないことこそ恥なのだ、といった観念から、紀元前4世紀には、農耕を含めて生産労働そのものが自由市民には厭わしい、といった観念へと変わっていき、本書はそこに、世界史における古典古代社会の特殊性を見ています。本書は、こうした観念の変化により、ポリス市民との自覚が希薄になっていったのではないか、と指摘します。本書はそうした古典古代のギリシア世界の際立った新しい特徴として「観察」を挙げており、ギリシア世界が近代に結びつく学問の基礎を築いたのは、そうした「新しさ」にあったのかもしれません。
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_20.html
4:777 :

2025/01/18 (Sat) 16:31:13

ギリシャは長い間オスマントルコ帝国の支配下(約400年)にあり、その間徹底したオスマン帝国の混血政策で、現在のトルコ共和国のトルコ人(中央アジアのトルコ民族も基は一緒だが)と現在のギリシャ人は医学的にはほとんど同じ人種である。

異なるのは宗教と言葉と長い歴史とそれに基づく文化である)。
それが民族間のとくに征服されたギリシャ側のトルコに対する憎悪を際立たせている。

トルコ人の発祥は古く中央アジアも中国よりのあたりと言われている。今ではトルキスタンと言われている地域だ。中央アジアの共通語は今でもトルコ語だ。 トルコ語人口は共和国を入れて約7000万人が話している。トルコ語だけでアジアを横断できると言われているくらいの広域言語だ。

トルコはその後セルジュクトルコやオスマントルコとして発展しながら、アジアからすこしづつヨーロッパに移動をしていった。その間にイスラム教に改宗した。またその間に移動した先々で混血をしたため、本籍のモンゴロイド系に、イラン系、アラビア系が加わり、世界最大のオスマン帝国時代にアフリカ系やヨーロッパ人の血を入れた。 特にギリシャ人、ブルガリア人との混血はすごかった。共和国トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種と言われている。言語と文化と住む地域と歴史が違うため、区別ができるのだ。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/





ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-14.htm


  当ガラパゴス史観が若い頃にイスタンブールに駐在していたことは当記事1-13.中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?で触れましたが、オスマントルコ帝国は約400年のバルカン半島の一部を支配下に置き、特に現代のギリシャとブルガリアに当たる隣接地域の徹底した混血政策をすすめた結果、 特にギリシャ人とブルガリア人のトルコ人に対する憎悪は計り知れないものがあります。

数百年以上に渡る長い間オスマン帝国の、それも首都のイスタンブールに隣接したギリシャ地域は ヨーロッパ人からはすっかり忘れられ、イスラム教徒の一部でしかなかったのです。

ところがヨーロッパ文明の夜明けであったギリシャ文明を興したギリシャ人を探していた西欧は オスマン帝国内にギリシャ語を話す集団がいることに気が付いたのです。しかもギリシャ正教を守っていたのです。これはギリシャ人の末裔に違いないと喜んだのです。

  下記はオスマン帝国が支配した歴史を持つバルカン半島に現存する国家とトルコ内のクルド人のY-DNA頻度リストです。つまり「南欧」地域です。これを見るとバルカン民族は大きく次の3種に分類されることがわかります。


1.ローマ帝国の子孫系と思われるラテン系Y-DNA「E1b1b1」が多い民族は、
   30%以上がギリシャ人とアルバニア人、
   20%がブルガリア人、セルビア人、マケドニア人

2.最も多いバルカン系遺伝子のY-DNA「I2」(ノルマン系はY-DNA「I1」)は、
   50%以上がヘルツェゴヴィナ人とボスニア人、
   30%以上がクロアチア人、セルビア人、ルーマニア人、マケドニア人とブルガリア人

3.メソポタミア農耕民系のY-DNA「J2」+アラブ系Y-DNA「J1」は、
   30%以上がトルコ人とクルド人、
   20%以上がアルーマニア人とアルバニア人です。

  その3種のY-DNAに2種の遺伝子が更に絡んでいるのもわかります。

4.スラヴ系遺伝子のY-DNA「R1a」は、
  30%弱がクロアチア人、
  20%弱がボスニア人

5.ケルト系遺伝子のY-DNA「R1b」は、
  20%以上がアルーマニア人、
  20%弱がトルコ人、クルド人とアルバニア人


  以上の5種のY-DNAが複雑に絡み合っているのがバルカン半島です。確かに民族毎に主要遺伝子がありますが、これにキリスト教、正教会とイスラム教などの宗教とそれぞれの言語が更に絡み合い訳がわからなくなっています。

かつてバルカン半島の大部分の国名だったユーゴスラヴィアは南スラヴ人の国と言う意味ですが、スラヴのY-DNA「R1a」は主要な遺伝子ではなく、チトーがソビエトに操られ机上で作った国家に過ぎなかったことが良くわかります。 解体は必然だったようです。あまりにも混沌としている地域なので深入りせずにY-DNA研究の結果のみを淡々とお届けします。


では、本題の、現代ギリシャはヨーロッパなのか?

  当ガラパゴス史観の経験とY-DNA調査の結果から判断すると、ギリシャはイタリア、スペイン、ポルトガルと一緒の南欧つまり地中海国家であって、北欧国家とは完全に別の地域国家なのです。

更にギリシャ人は長いオスマン帝国の徹底同化政策で南欧の中でもトルコ人と非常に似ておりペロポネソス半島とアナトリアはほぼ一体で考えられてきたのです。

  地中海国家とは、北アフリカも含めた地中海南岸と北岸のことです。現在の地中海南岸はサラセン帝国と後継アラブ国家とオスマン帝国によって完全にイスラム圏とY-DNA「J1」アラブの国家群に変貌してしまいましたが、 本来はY-DNA「E1b1b1」のラテン系地域だったのです。

現在でもアフリカ北岸のアラブ諸国のラテン度はかなり高く、特に砂漠の民ベルベル人、特にトゥアレグ族はY-DNA「E1b1b1」が主体の基本ラテン系民族で、 ローマ帝国に対抗した古代チュニジアなどアフリカ北岸を形成した古代民族遺伝子集団の末裔の一つと思われます。

  Y-DNA「J1」アラブ遺伝子集団が来なければ、オスマン帝国が来なければ、 アフリカ北岸はY-DNA「E1b1b1」ベルベル人主体の地中海民族集団として西欧列強の植民地になり戦後独立し、結局今と同じような地図上の国境線引きでベルベル人国家が出来ていたでしょう。

  一方北欧は本来のヨーロッパ国家群でケルト・ゲルマン系とスラヴ系及びノルマン系の遺伝子が混じり合い民族エネルギーを高めてきた国家群なのですが、長い間南欧ローマ帝国から見ると辺境の野蛮人集団に過ぎなかったのです。

つまり、北欧諸国は文明の先進地域だった南欧に対し、決定的なコンプレックスを持っているのです。ギリシャ文明もローマ文明もルネッサンスも全てギリシャとイタリアから。 だからオスマン帝国に埋もれていたギリシャ文明の末裔を探し出したのです。


  だからギリシャの踏み倒しの脅しにも関わらず更に支援を考えています。ギリシャもその北欧のコンプレックスを良く理解しているので、足元を見て平気で踏み倒しができるのです。

この民族の心の動きが下記の朝日新聞の記事で明瞭に理解できます。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-14.htm  



1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-14.htm

  集めたY-DNAデータの中から地中海周辺とバルカン半島、旧オスマン帝国領土に絞りまとめて見ました。先ずはインターネットから借用した地中海周辺の地図を頭に叩き込んで下さい。そのあとでY-DNA頻度データを見て下さい。 地中海の北岸と南岸に限り、東岸の近東諸国のデータは省きました。


結果をまとめて見ました。


1.ギリシャ

  予想通りラテン系Y-DNA「E1b1b1」が主要で、次いでメソポタミア農耕民系Y-DNA「J2」やアナトリア系Y-DNA「R1b」やスラブ系Y-DNA「R1a」、クロマニヨン系Y-DNA「I」等が続いています。

  またY-DNA「J2」と共にメソポタミア農耕を興したらしいY-DNA「G」もある程度残っています。 このアナトリア系のY-DNA「R1b」はロシアのバシキ―ル人がほぼ純系で、恐らくアフリカのチャド系Y-DNA「R1b」も同系ではないかと推測しています。

2.トルコ

  最も多いのはメソポタミア農耕民系のY-DNA「J2」です。

テュルク民族のオリジナル遺伝子と思われるY-DNA「N」(ヤクート人の遺伝子)が、西に民族移動を進める過程でイスラム化すると同時に各地の遺伝子を取り込み 最後に到達したアナトリアで東ローマ帝国を形成していた先住民のY-DNA「J2」と「R1b」と「 I 」、更にラテン系の「E1b1b1」を取り込み成立したのがセルジュクトルコと後継のオスマントルコなのでしょう。

調査の対象によって出現頻度がかなり異なることがわかります。現代トルコ人は均質ではなく調査対象の選び方でかなり変わるか、地域差がかなりあるのでしょう

  またオスマン帝国時代にアフリカ北岸も領土にしたため、アフリカ系Y-DNA「A」や東ユーラシア時代に取り込んだと思われるY-DNA「C」(タタール系でしょう)も現存しています。


3.バルカン諸国家

  アルバニア人だけがラテン系遺伝子を強く残していますが、他は見事にバルカン系遺伝子のY-DNA「 I2」が主要遺伝子となっており、旧ユーゴースラヴィアの国名にもなったスラヴ系Y-DNA「R1a」が続きます。

  どうやらアルバニア人だけが極めて特徴的な遺伝子構成のようです。他の諸国は遺伝子構成は現代では基本的に似通っているのですが、宗教と言語の違いが極めて厳しく、紛争地帯の最大の要因のようです。

4.バルカン周辺諸国家(旧オスマン帝国の影響があった諸国)

  バルカン系遺伝子Y-DNA「 I2」とスラヴ系遺伝子Y-DNNA「R1a」が核の民族群のようです。


5.イタリア

  ここではイタリア北部の遺伝子調査結果は出てきません、キチンと系統的に調査されたデータは意外にないのです。

  研究者の注目はやはりイタリアらしいラテンの色彩の強い地中海ど真ん中のイタリア靴のつま先最南端部のカラブリア州や島々のようです。

Y-DNA「E1b1b1」が核のシシリー島とバイキングY-DNA「 I1」が核のサルディニア島の違いがはっきりとわかります。恐らく島民の気質も大きく違うのでしょう。

特に不思議なのはマルケ方言を話すイタリア中央部のMarchigiano方言民の人々で、非常に希少なY-DNA「T」がほぼ100%なのです。 勿論ジェファーソン元アメリカ大統領(Y-DNA「T」)の出身地なのでしょう。このようにイタリア半島部と島々は遺伝子的にかなり面白い国なのです。


6.フランス・プロバンス地域

  フランスの地中海沿岸部のため、もう少しラテン系遺伝子の割合が多いのかと推測をしていましたが、ケルト系Y-DNA「R1b」が60%近くを占める典型的な北欧系地域でした。 恐らくイタリア北部も同じような傾向ではないかと推測できます。

つまりヨーロッパ大陸部は北欧で、バルカン半島やイタリア半島、イベリア半島のような地中海に飛び出した地域と島々のみが南欧 つまり地中海地域なのでしょう。もう少しイタリア研究論文の調査を進めて見ます。


7.スペイン

  スペインは各地方がスペインからの分離独立を声高に叫ぶような不思議な国家なのです。スペインを統一したのはカスティーリャ王国ですが、現代にいたっても国家への帰属意識は意外に低いのだそうです。 それぞれの州が好き勝手に叫んでいるようなのです。

実は予想に反してラテン度は低くケルト度が高いのです。スペインのY-DNA「R1b」はラテン気質をみてもゲルマン系ではなくケルト系に近いと思われます。


  バスク人はイギリスのケルト系と並ぶほぼ純系のケルト系遺伝子集団です。

  ガリシア州はスペインの中で最もラテン系遺伝子が多い州。

  アラゴン州はバルカン系遺伝子が最も高い州。

  独立の声が最も大きいカタルーニャ州はバスクの次にケルト度が高い州です。

  ポルトガルは独立していますが、遺伝子的にはイベリア半島民の一部です。


8.ベルベル人

  アフリカ北岸一帯に分布するベルベル人は見事にラテン系遺伝子Y-DNA「E1b1b1」の民族です。

アフリカ北岸はカルタゴやハンニバル将軍などの歴史があり、恐らく古代ローマ時代は当時の文明の先端に位置していたと思われます。 特にトゥアレグ族はほぼ純粋なY-DNA「E1b1」遺伝子集団です。


9.アラブ人

  サラセン帝国など、アラブY-DNA「J1」の拡大でアフリカ北岸はアラブ一色に染まりY-DNA「E1b1b1」はひっそりとわき役に落とされました。 しかし遺伝子調査は極めて明快に今でもY-DNA「E1b1b1」が民衆の遺伝子の核であることを示しています。

つまりアラブの文化を取り入れイスラム教に改宗した集団はイスラム・アラブ人の一員となり改宗せずに独自の信仰を守った集団はベルベル人として非定住・遊牧の生活を選んだものと思われます。

  これは中国で中華文明に取り込まれた異遺伝子集団は漢民族に取り込まれ、そうでない集団は辺境の少数民族化したのと同じような様相です。

  ベドウィン人は アフリカ北岸のアラブ人の中でも古いアラビア語を話す集団らしいですが、ラテン度はほとんどなくアフリカの主要遺伝子の一つであるY-DNA「E1a」を多く含み、 恐らく交易を通してだろうと推測できますが、むかなり特殊な交配を行ってきた民族集団のようです。

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