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2023/12/24 (Sun) 12:09:28
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世界の名画・彫刻
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16831535
西洋美術史を流れで学ぶ(第23回)~象徴主義編~
https://irohani.art/study/7242/
西洋美術史を流れで学ぶ(第24回)~キュビスム編~
https://irohani.art/study/7444/
西洋美術史を流れで学ぶ(第25回)~20世紀のパリ編~
https://irohani.art/study/7503/
ウェブブラウザに Brave を使うと、広告なしで youtube を視聴することができます
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131432
▲△▽▼
2016年のオーストリア映画「エゴン・シーレ死と乙女(Egon Schiele: Tod und Mädchen ディーター・バルナー監督)」
Dieter Berner - Egon Schiele : A halál és a lányka (Egon Schiele - Tod und Mädchen) 2016 MImi
ok.ru
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=Egon+Schiele%3a+Tod+und+M%C3%A4dchen&&mid=D921070FF64F10689F7BD921070FF64F10689F7B&&FORM=VRDGAR
エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890年6月12日 - 1918年10月31日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC
エゴン・シーレ - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=+%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC
早わかり!エゴン・シーレ:短くも波乱に満ちた生涯と、特異なスタイルで描かれた作品について解説!【シーレ展2023@東京都美術館 開催記念】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VQ559pIC0vo&list=PL_LEo6mQTQ1jLRyvdh8m7RSjMcVSs25P_&index=2
「シーレ展」主要出品作品を詳しく解説!―いま東京都美術館で見られる、シーレ、クリムト、モーザーたちが描いた世紀末ウィーンの名作をご紹介! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2LjtM1aQEIQ&list=PL_LEo6mQTQ1jLRyvdh8m7RSjMcVSs25P_&index=1
楽しく解説!美術講座【エゴン・シーレ】変態画家のあぶりだす人間の本質!
こやぎ先生の美術ちゃんねる
https://www.youtube.com/watch?v=RGA_9eSq0vA&list=PL4kfnhDGme3_FfeQoyO4pEfAKzgJsZsXU&index=29
https://www.youtube.com/watch?v=RGA_9eSq0vA&list=PL4kfnhDGme3_FfeQoyO4pEfAKzgJsZsXU&index=30
エゴン・シーレの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/356.html
「ドイツ表現主義」の画家と作品
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14028731
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2024/01/02 (Tue) 11:58:01
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スーラやシニャックらによる「新印象派」の登場
ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』
印象派の面々は「筆触分割」というテクニックを使って絵画作品に色を塗りました。筆触分割とは異なる色を隣同士に配置することで人間の錯視を誘発させ、あらたな色を作るものです。
それまでは基本的にパレットの上で色を混ぜて作っていた。ただ色は混ぜれば混ぜるほど黒に近づいていくんですね。印象派は基本的に「お外で風景の美しさとか光の加減を描こう」という意識なので、色彩が暗くなるのが根本的にNGなわけです。それで、あえて色をほとんど混ぜずに隣同士に配置することで表現をしていました。
そんな筆触分割を論理的に極めた画家が「ジョルジュ・スーラ」です。スーラはものすごく計画的に色の配置を決めたうえで、精密に精密に筆触分割を進めました。その結果、行きついたのが「点描」なんです。つまりミリ単位で筆触分割をおこなうわけですね。この点描の表現はポール・シニャックへと引き継がれていきます。
ポール・シニャック『七色に彩られた尺度と角度、色調と色相のリズミカルな背景のフェリックス・フェネオンの肖像』
「誰の作品でも展示するよ~」というアンデパンダン展の開催
ジョルジュ・スーラ『アニエールの水浴』
スーラの点描は、印象派が目指す筆触分割の完成形ともいえるものでした。彼は1883年に彼は「アニエールの水浴」という作品を作ります。彼はこれを当時民営化していたサロンに持っていくわけです。しかしサロンは「なにこれ……点描じゃん。どう評価したらええんこれ」と落選にします。サロンはまだまだ保守的なんですね。
それでスーラは「もう、サロンとかどうでもいいわ。もうなんか、思考がおじいちゃん過ぎるわ」と幻滅。友だちのポール・シニャックらと「独立芸術家協会」を設立し「アンデパンダン展」を開催するんです。
これは「賞とかないけど、審査なしで誰のどんな作品でも展示するよ」というコンセプトです。今でいうとpixivみたいな場所を作ったんですね。これは保守的なサロンへのカウンターでした。
アンデパンダン展はのちにゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ムンク、ルドンなどの画家が出品をしており「美術の多様化」にものすごく大きく貢献した場です。現在でも日本をはじめ、各国で毎年開催しており、いまだに「新しい画壇のスター」を生み出す展覧会として機能をしています。
そんな偉大な場所を生み出したスーラやシニャックの点描画は、 印象派のピサロから「お前たちの作品すげぇな。印象派展にも作品をだしてくれよ」とお声がかかるわけです。
それで彼らは1886年、第8回印象派展に点描画の作品を出品するんですね。ちなみに、新印象派の参加に対して、古参のモネなどは「いや、ちょっと俺らと目指してるところ違うわ」と反発します。板挟みのピサロは「まぁまぁ、新しい表現からも学ぼうや」みたいになだめるんですが、結局モネグループはいじけちゃって、第8回印象派展には参加していません。
https://irohani.art/study/7160/
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2024/12/31 (Tue) 12:25:36
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エゴン・シーレの世界 壺齋散人の美術批評
続壺齋閑話 (2024年12月31日 08:12)
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8137.html#more
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エゴン・シーレ(Egon Schiele 1890-1918)は、グスタフ・クリムトとならんでオーストリアを代表する画家である。鉄道員の父親のもとで、比較的裕福な生活を送っていたが、父親がシーレが15歳の時に死ぬと、残された家族「母と二人の姉妹とエゴン」の生活は、貧しいとまではいかぬが、余裕がなくなった。そこでエゴンは、工芸学校に入って職人の教育を受けた。その工芸学校はクリムトの出たところで、クリムトは卒業後職人の道に入ったのだが、シーレはウィーン美術アカデミーに進学した。しかしかれはアカデミーの堅苦しい雰囲気になじめず、当時業績をあげつつあったクリムトに師事することにした。
そんなわけで、シーレの画家としてのキャリアは、クリムトの強い影響からスタートした。クリムトはシーレに気を使い、色々と引き立ててくれた。十代にして早くも、クンストシャウ展にクリムトに招待されて出展した。クリムトの強い影響は、1909年の「ダナエ」や「ゲルトルーデの肖像」まで見られるが、1910年以後はクリムトの影響を脱して独自の画風を展開するようになる。
シーレの画風は表現主義に分類されることが多い。表現主義Expressionism は印象主義 Impressionism に対立するもので、印象主義は対象の表面を光によって表現するのに対して、人間の内面を表現したものと定義される。ノルウェーの画家ムンクは、そうした定義にぴったりあてはまる画風である。シーレもまた、人間の内面をなるべくストレートに表現しようとしている。
初期のシーレには、人物像が多い。自分をモデルにした自画像もどきの作品とか、少女の裸体像がこの時期の大部分をしめる。自画像はペニスをむき出しにし、女性の裸体画では陰部をむき出しに描いており、見方によってはポルノグラフィと言える。シーレはまた、未成年の少女をモデルに使ってかなりエロティックな絵を描いており、それが児童ポルノだと受け取られて、指弾されることが多かった。
シーレはクリムトのところで知り合ったヴァリー・ノイツィルとねんごろになり、1911年クルマウで一緒に暮らす。クルマウは母のゆかりの地である。そこのシーレのアトリエには、貧しい家の子がやってきて、シーレのためにモデルをつとめた。シーレはその子らの裸体を描いた。それを知った近所の人々が問題視し、シーレたちは追放される。
シーレらはウィーン郊外のノイレングバッハに移住するが、そこでもスキャンダルを起こす。家出の処女を一晩泊めたところが、少女の家族から未成年者誘拐のかどで告発されたのだ。シーレは一か月ほど拘禁されるはめになる。
その後、ウィーンのヒーツィンガー大通りに面したアトリエに移る。通りを隔てた向かい側に、ハルムスという人の家があり、その家の姉妹、アデーレとエディットにシーレは関心を示す。二人のうちどちらかと結婚したいと思い、結局エディットと結婚した。ヴァリーとも引き続き付き合いたいと申し出たが、ヴァリーは拒絶。二度とシーレにはあわなかった。彼女は看護婦の資格をとったあと、前線に配属され、1917年に病気で死んだ。
シーレの表現主義的画風は、1912年頃に円熟の境地に達し、「枢機卿と尼僧」(1912)、「聖家族」(1913)などを生んでいる。かれの最高傑作といわれる「死と乙女」は1915年の作品である。
結婚間もなく、シーレは兵役に従事する。1915年6月のことだ。ボヘミアで訓練を受けたのち、ウィーンやその周辺で軍務につく。軍ではシーレの芸術の才能を重視し、比較的自由を保障した。だが、シーレの意欲は低下した。意欲が再び高まるのは、1917年の後半だった。それから死ぬまで1年しかない。かれは1918年10月に、エディットともどもスペイン風邪にかかり、相次いで死んだのである。エディットが妊娠6か月で死に、その三日後にエゴンが死んだ。
死んだ年である1918年3月、第49回分離派展が開催。シーレは19点を出品して大いに好評をはくした。
わずか28年の人生だったが、十代から才能を発揮し、型破りな作品を描き続けたシーレは、20世紀の世界の美術界において、実にユニークな業績を上げたといえる。ここではそんなシーレの代表作を取り上げ、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。
https://blog2.hix05.com/2024/12/post-8137.html#more
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2024/12/31 (Tue) 12:32:31
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エゴン・シーレ 『死と乙女』の魅力を解説!【2024年10月】
2024.10.27
https://atold.jp/column/egon-schiele-death-and-the-maiden/
エゴン・シーレの『死と乙女』は、第一次世界大戦中に制作された代表作の一つであり、男性と乙女が対峙する姿が描かれています。男性は死を象徴し、乙女は生を象徴しており、戦争の暴力や死の不条理を表現しています。この記事では、『死と乙女』の制作背景や意味、表現技法、そしてエゴン・シーレ自身について紹介します。また、美術史における『死と乙女』の評価や後世に与えた影響についても解説します。エゴン・シーレの芸術的遺産を知りたい方や、『死と乙女』についてより深く理解したい方にぜひ読んでいただきたい記事です。
エゴン・シーレ 『死と乙女』とは
『死と乙女』は、オーストリアの画家エゴン・シーレが第一次世界大戦中に制作した油彩画であり、男性と乙女を描いた作品です。男性は死を象徴し、乙女は生を象徴します。この作品は、シーレ自身の死に対する不安や恐怖を表現しているだけでなく、戦争の暴力と死の不条理を反映しています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
エゴン・シーレとは
エゴン・シーレは、オーストリアの画家であり、アール・ヌーヴォーと表現主義の先駆者の一人です。シーレは、幼い頃から芸術に傾倒しており、16歳で美術学校に入学しました。彼は、自己表現のための芸術に没頭し、自分自身の肉体を描いた作品で知られるようになりました。彼は、若くして亡くなり、わずか28歳でしたが、彼の芸術的遺産は、20世紀の美術において大きな影響を与えました。
『死と乙女』の概要
『死と乙女』は、オーストリアの画家エゴン・シーレによる油彩画であり、1915年に制作されました。この作品は、死の象徴である男性と、若く美しい女性である乙女が描かれています。男性は乙女の肩に手をかけ、彼女を抱きしめているように見えますが、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、シーレが第一次世界大戦中に制作したもので、戦争の暴力と死の不条理を反映しています。また、シーレ自身の死への不安や恐怖も表現されています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つとして知られ、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
エゴン・シーレ 『死と乙女』の魅力を解説
エゴン・シーレは、オーストリアの画家であり、アール・ヌーヴォーと表現主義の先駆者の一人です。彼が1915年に制作した『死と乙女』は、男性と乙女を描いた油彩画であり、戦争の暴力と死の不条理を表現しています。男性は死を象徴し、乙女は生を象徴します。この作品は、シーレ自身の死に対する不安や恐怖を表現しているだけでなく、戦争によって引き起こされた悲劇を象徴しています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
エゴン・シーレ 『死と乙女』の制作背景
『死と乙女』は、1915年に制作されたエゴン・シーレの油彩画です。この作品は、第一次世界大戦中に制作されたもので、シーレが戦争の暴力と死の不条理に直面していた時期に制作されました。シーレは当時、オーストリア=ハンガリー帝国軍に徴兵され、戦地で看護師として働いていました。この作品は、シーレ自身の死に対する不安や恐怖を表現しているだけでなく、戦争によって引き起こされた悲劇を象徴しています。男性は死の象徴であり、乙女は若さと美しさの象徴です。男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
エゴン・シーレ 『死と乙女』の意味と解釈
『死と乙女』は、エゴン・シーレが第一次世界大戦中に制作した作品であり、戦争の暴力と死の不条理を反映しています。男性は死の象徴であり、乙女は若さと美しさの象徴です。男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、死という不条理な存在を表現しており、人間の終末を描いたシーレの代表作の一つとして知られています。また、シーレ自身の死への不安や恐怖も表現されており、彼の内面的な葛藤が作品に反映されています。
エゴン・シーレ 『死と乙女』に描かれた人物と風景
『死と乙女』は男性と乙女が描かれた油彩画であり、男性は乙女を抱きしめています。男性は鎧を着用しており、若い乙女は白いドレスを着用しています。男性は乙女の肩に手をかけ、彼女を引き寄せているように見えますが、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、戦争中に制作されたものであり、死の象徴と若さと美しさの象徴が描かれています。男性は死を表し、乙女は生を表しています。また、風景は非常にシンプルで、背景には草地が描かれています。
エゴン・シーレ 『死と乙女』の時代背景
『死と乙女』は、第一次世界大戦中に制作された作品であり、エゴン・シーレが戦争の暴力と死の不条理に直面していた時期に制作されました。シーレは当時、オーストリア=ハンガリー帝国軍に徴兵され、戦地で看護師として働いていました。この作品は、シーレ自身の死に対する不安や恐怖を表現しているだけでなく、戦争によって引き起こされた悲劇を象徴しています。男性は死の象徴であり、乙女は若さと美しさの象徴です。男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
美術史の位置づけと評価
『死と乙女』は、エゴン・シーレが第一次世界大戦中に制作した作品であり、戦争によって引き起こされた悲劇を象徴しています。男性は死を表し、乙女は生を表しています。また、男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、シーレ自身の死に対する不安や恐怖を表現しているだけでなく、戦争の不条理さを表現しています。シーレは、自己表現のための芸術に没頭し、自分自身の肉体を描いた作品で知られるようになりました。彼は、若くして亡くなり、わずか28歳でしたが、彼の芸術的遺産は、20世紀の美術において大きな影響を与えました。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
エゴン・シーレ 『死と乙女』の表現技法
『死と乙女』は、エゴン・シーレが第一次世界大戦中に制作した作品であり、戦争の暴力と死の不条理を表現しています。シーレは、男性と乙女を描き、男性は死の象徴であり、乙女は若さと美しさの象徴です。男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、非常にエレガントで、細部にこだわった描写が特徴です。シーレは、強い線と色彩を用いて、人物の表情や感情を表現しました。また、背景には草地が描かれており、非常にシンプルな構図になっています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
後世に与えた影響と評価
『死と乙女』は、エゴン・シーレが第一次世界大戦中に制作した作品であり、戦争の不条理さを表現しています。男性は死を象徴し、乙女は生を象徴します。男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品は、シーレ自身の死に対する不安や恐怖を表現しているだけでなく、戦争によって引き起こされた悲劇を象徴しています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術に大きな影響を与えました。シーレは、アール・ヌーヴォーと表現主義の先駆者の一人であり、彼の芸術的遺産は、芸術界に大きな影響を与えました。彼の作品は、自己表現のための芸術に没頭し、自分自身の肉体を描いた作品で知られるようになりました。彼は、若くして亡くなり、わずか28歳でしたが、彼の作品は、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
まとめ
エゴン・シーレ『死と乙女』は、第一次世界大戦中に制作された作品であり、戦争の不条理さを象徴しています。男性は死を象徴し、乙女は生を象徴します。男性が乙女を抱きしめているのに対し、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。シーレ自身の死に対する不安や恐怖も表現されており、彼の内面的な葛藤が作品に反映されています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。
編集部の感想
エゴン・シーレの『死と乙女』は、私にとって非常に強い印象を与える作品の一つです。男性が乙女を抱きしめ、乙女は彼に向き合わず、目を閉じています。この作品からは、不条理な存在である死と、生命の美しさを表した乙女が感じられます。男性は死を象徴し、乙女は生を象徴しています。シーレが第一次世界大戦中に制作したこの作品は、戦争によって引き起こされた悲劇を象徴しており、シーレ自身の死への不安や恐怖も表現されています。彼の作品は、非常にエレガントで、細部にこだわった描写が特徴的です。また、独特の表現技法によって、人物の感情や内面的な葛藤が表現されています。『死と乙女』は、シーレの代表作の一つであり、20世紀の美術史において重要な位置を占めています。私はこの作品を見るたびに、生と死、美と哀しみといった対比が感じられ、心に深い感動を覚えます。
エゴン・シーレ 『死と乙女』に関するQ&A
Q: なぜ『死と乙女』は重要な作品とされているのですか?
A: 『死と乙女』は、エゴン・シーレが当時の社会的状況や内面的な葛藤を反映させた作品として高く評価されています。絵画の中には、死の不可避性や人間の脆さ、そして生と死の共存が描かれており、深いメッセージが込められています。
Q: 『死と乙女』のテーマは何ですか?
A: この作品のテーマは、死と生の対比や人間の存在の脆弱さです。死神と乙女が抱き合う場面は、死への受容と抵抗、そして死に対する恐怖や希望が同居していることを象徴しています。
https://atold.jp/column/egon-schiele-death-and-the-maiden/
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2025/01/02 (Thu) 14:37:56
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アントン・ペシュカの肖像 エゴン・シーレの肖像画
続壺齋閑話 (2025年1月 2日 08:50)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8140.html#more
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エゴン・シーレの画家としてのキャリアは、グルタフ・クリムトの強い影響下から出発した。クリムトは、ウィーン分離派を代表する芸術家である。分離派は、絵画・彫刻・工芸・建築などを包括する総合芸術運動で、その中心にクリムトがいた。シーレはそのクリムトの影響を受けることから、自らのキャリアを始める。クリムト自身、枠にとらわれぬ自由な画風を追求したが、シーレもまた次第に独自の境地を開拓していく。
「アントン・ペシュカの肖像(Bildnis des Malers Anton Peschk)」と題するこの絵は、クリムトの影響を強く感じさせる作品。平面的で装飾的な構図、ほとんど無地に近い背景、微妙な中間色の多様、といったクリムト的な要素をふんだんに取り入れている。
モデルのアントン・ペシュカは、アカデミーでのシーレの同級生で、のちにシーレの妹ゲルトルーデと結婚する。シーレが1909年にアカデミーを退学して「新芸術集団」を結成すると、それに加わった。画家としてはたいして有名にはならなかった。
普通の肖像画とは異なり、モデルは観客には向き合っておらず、別の方角に視線を向けている。肖像画というより、風俗画に近い。
(1909年 カンバスに油彩とメタリックカラー 110.2×100㎝ プライベート。コレクション)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8140.html#more
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2025/01/05 (Sun) 16:18:55
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ダナエ エゴン・シーレの世界
続壺齋閑話 (2025年1月 4日 08:13)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8143.html
schiele09.2.danae.jpg
「ダナエ(Danae)」と題されたこの絵は、クリムトの影響を強く感じさせる作品。シーレは、1908年に催された国際美術展「クンストシャウ」で、クリムトの「ダナエ」を見て非常に印象づけられた。この作品は、クリムトの「ダナエ」の、シーレなりの翻案である。
クリムトの「ダナエ」は、神秘的な受胎をモチーフにしていた。ダナエが、膝を顔につけるようにして身をかがめ、受胎の瞬間の恍惚感に耽っている。その恍惚感をシーレは、自分なりに表現した。
クリムトの「ダナエ」は、かなり装飾的なイメージである。それに対してシーレのダナエは、装飾性を抑制して、精神性を表面に打ち出している。うつむき加減のダナエの表情は、受胎の喜びに震えているように見える。
(1909年 カンバスにメタリックカラー 80×125.4㎝ プライベート・コレクション)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8143.html
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2025/01/07 (Tue) 14:11:47
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黒い帽子の女 エゴン・シーレの世界
続壺齋閑話 (2025年1月 7日 08:36)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8147.html
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「黒い帽子の女(Bildnis einer Frau mit schwarzem Hut)」と題されたこの絵は、シーレの妹ゲルトルーデの肖像画。シーレとゲルトルーデは非常に親密な関係にあって、シーレは彼女の肖像画を数多く描いている。この作品を描いたとき、シーレは19歳で、ゲルトルーデは15歳だった。
クリムトの強い影響を感じさせる。平面的で装飾的な画面。無地に近い背景から、女性の全身像が浮かびあがってくるのは、ダナエと同じような雰囲気を感じさせる。
ドレスを飾る目玉模様が印象的だ。その目玉が、赤とグリーンの下地から飛び上がってくるように表現されている。また、ゲルトルーデの表情も、幼さを感じさせながら、どこか精神的な雰囲気をたたえている。
(1909年 カンバスに油彩とメタリック絵の具 51×48㎝ プライベート・コレクション)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8147.html
ゲルトルーデ・シーレ エゴン・シーレの世界
続壺齋閑話 (2025年1月 9日 08:10)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8149.html#more
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妹のゲルトルーデ・シーレをモデルにしたこの絵は、「黒い帽子の女」とほぼ同じ時期に制作された。クリムトの影響との格闘が読み取れる。クリムトは、背景を含めて装飾的なイメージを押しだしていたが、シーレはそうした装飾性をなるべく排して、対象をありのままに表現したいという願望を抱いていた。
この絵は、背景を無地に近くして、対象を浮かびあがらせるよう工夫している。「黒い帽子の女」も、背景を無地に近く仕上げているが、もともとは装飾的なものだった。あとでそれを塗りつぶして、無地に近くした。
ゲルトルーデは椅子に腰かけている姿勢だが、極度に平面的な表現なので、遠近感や立体感はまったくなく、フォルムの輪郭も曖昧である。
(1909年 カンバスに油彩とメタリックカラー 140.5×140㎝ ニューヨーク、近代美術館)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8149.html#more
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2025/01/13 (Mon) 02:06:07
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アルトゥール・レスラー シーレの肖像画
続壺齋閑話 (2025年1月11日 08:27)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8152.html#more
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アルトゥール・レスラー(Arthur Roessler)は画商を営む美術評論家で、1909年の「新芸術集団」の展覧会に批評を寄せたことで、シーレと付き合うようになった。以後かれはシーレにとっての有力な後ろ盾になる。この肖像画は、レスラーの注文に応じて、1910年に制作したものである。
レスラーは、顔を横に傾け、それに応じて上半身も大きくねじる姿勢でポーズをとっている。この姿勢は、前年に描いた「ゲルトルーデ・シーレ」のポーズとよく似ている。体のねじり方は、こちらのほうが激しく見える。
シーレは、レスラーの肖像画を、このほかにもいくつか制作している。二人の関係が親密だったあかしだろう。レスラーは、シーレについての印象記を折に触れて発表し、シーレ評価の高まりに一定の役割を果たした。
(1910年 カンバスに油彩 99.6×99.8㎝ ウィーン、市立歴史博物館)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8152.html#more
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2025/01/16 (Thu) 11:42:08
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自己観察者Ⅱ(死と男) シーレの二重自画像
続壺齋閑話 (2025年1月16日 08:26)
https://blog2.hix05.com/2025/01/post-8159.html#more
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1910年から翌年にかけてシーレは、二重自画像というべきシリーズを手掛けている。これは自分自身とそのコピーである像との関係をテーマにしたもの。コピーである自分が本来の自分を観察しているさまを描いたものだ。まず、「自己観察者Ⅰ」を制作し、続いて「預言者たち」「自己観察者Ⅱ」という具合に、発展させた。どの作品も、本来の自分がコピーである自分から観察されている。その観察という行為にシーレは精神的な要素を盛り込みたいと考えたようである。
「自己観察者Ⅱ(Selbstseher Ⅱ)」は、[死と男(Tod und Mann)]という副題がついているとおり、本来の自己の隣に死神としての自己が抱き着いている。死神に抱き着かれたら、もはや死ぬほか道はないであろう。シーレがなぜ、死神にとりつかれた自分をモチーフにしたか。興味深い。
自分自身も死神の自分も、目を閉じている。おそらく盲目を表現しているのだろう。この絵には、二人の自分のほか第三の眼も描かれている。画面右手にかすかに判別できる眼球がそれである。だからこの絵は、自分とその分身としての死神が、もっと大きな精神的なものによって包まれていることを感じさせる。
(1911年 カンバスに油彩 80.3×80㎝ ウィーン、レオポルト美術館)
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2025/01/19 (Sun) 06:52:56
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妊婦と死(母と死) エゴン・シーレの寓意画
続壺齋閑話 (2025年1月18日 08:27)
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エゴン・シーレには死への強いこだわりがあった。上の姉と父の死がその傾向をもたらしたのだと思う。かれの一連のドッペルゲンガー・シリーズの作品もまた、ドッペルゲンガーを死神と捉えることができる。いつも死神に取りつかれている人間としてシーレは自己認識していたのである。
「妊婦と死(Schwangere Frau und Tod)」と題されたこの絵は、副題に「母と死(Mutter und Tod)」とあるように、妊娠したかれの母親が死神に取りつかれていることを明示している。実際にはシーレの母親は、かれがこの絵を描いたときには妊娠してはおらず、また死神に取りつかれている様子もなかった。それなのになぜ、シーレはこんなモチーフを思いついたのか。
ジャンルとしては寓意画といってよいが、何を寓意しているのかいまひとつわからない。画面右手が妊娠した女、左手が死神であろう。全体として暗い画面で、モデルの人物も浮かび上がってはみえず。背景の中に溶け込んでいるように見える。
(1911年 カンバスに油彩 100.3×100.1㎝ プラハ、国立美術館)
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2025/01/21 (Tue) 14:11:09
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死せる町 Ⅲ エゴン・シーレの風景画
続壺齋閑話 (2025年1月21日 08:40)
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1911年5月、シーレは恋人のヴァリーとともにウィーン西郊の町クルマウに移り住んだ。この町は、母親の生地であり、落ち着いた雰囲気の古い町であった。この町を気に入ったシーレは、町をモチーフにした一連の風変わりな風景画を制作した。「死せる町Ⅲ(Tote Stadt Ⅲ)」と題されたこの絵は、シリーズの中でもっとも有名な作品。
シーレにとって愛着の対象である町に「死せる町」というタイトルを与えたことは不可解である。だが画面を見る限り、この街には人影がなく、まさに死んでいるように見える。町全体がモルダウ川に囲まれている。川はほとんど黒に近い色で塗られ、川というイメージは伝わってこない。町の建物群は、川に直接面している。これが実景を描写したものかどうか、よくはわからぬが、シーレなりの感慨を盛り込んだものなのだろう。
シーレは、当時17歳のヴァリーを裸にしてモデルをさせたり、性的に放縦と思われる行動を繰り返したので、近隣住民の反発をかい、長く住んでいることができなくなった。その年のうちに、クルマウの町を追われている。
(1911年 板に油彩とグアッシュ 37.1×29.9㎝ ウィーン、レオポルト美術館)
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2025/01/22 (Wed) 15:48:19
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エゴン・シーレ死と乙女 シーレの数奇な半生
続壺齋閑話 (2025年1月22日 09:15)
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2016年のオーストリア映画「エゴン・シーレ死と乙女(Egon Schiele: Tod und Mädchen ディーター・バルナー監督)」は、数奇な生き方で知られるオーストリア人画家エゴン・シーレの半生を描いた作品。シーレは28歳の若さでスペイン風邪にかかって死ぬのだが、映画は冒頭で彼の臨終の場面をうつし、そこから20歳の時点まで遡るという構成をとる。その八年間に、彼の身に起きた事柄を追っていくのである。
20歳の頃にシーレは、クリムトの保護下から脱して、新芸術家集団を結成する。その集団には、後に妹ゲルティと結婚するアントン・ペシュカもいる。シーレはその妹をモデルにしていた。しかも裸である。妹はシーレに異性を意識していたようである。シーレがタヒチ出身のモアという女性をモデルにすると、ゲルティは嫉妬するのである。このモアという女性のことは、大方のシーレの伝記には出てこないのではないか。シーレの作品には、彼女らしき女性は見えない。
シーレがモデル兼愛人としていた女性でよく知られているのはヴァリーである。ヴァリーとは、クリムトのアトリエで会うのだが、その前にクルマウでタチアナという女性と会う。普通の伝記では、シーレはヴァリーを伴ってクルマウに行ったことになっている。ともあれ、クルマウを追放されてノイレングバッハにいき、そこではヴァリーと一緒に暮らすようにしている。そこで近所住民の告発を受けて、シーレは裁判にかけられる。
タチアナはヒルツィンガー通りに住んでいることになっているが、そこはシーレの家のある場所でもある。その通りには、アデーレとエディットの姉妹も住んでいる。シーレはその姉妹と付き合うようになるが、結婚相手に選んだのはエディットのほうだった。エディットとの結婚に憤慨したヴァリーはシーレのもとを去る。シーレは彼女にも未練を感じているのだ。
エディットとの結婚後シーレは兵役に服すのだが、映画はそのことにはあまり触れない。いきなり死がおとずれたという描き方になっている。シーレの死は、妹ゲルティ一家が看取ることになっている。エディットはシーレより前に、やはりスペイン風邪で死んでいる。そのことをシーレは知らされない。かれも速やかに死ぬだろうと判断した医師が、知らせるのは無駄だと考えたのである。
タイトルの「死と乙女」は、シーレの代表作の一つだ。シーレが死神を、ヴァリーが乙女をイメージしている。
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2025/01/22 (Wed) 15:51:12
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2016年のオーストリア映画「エゴン・シーレ死と乙女(Egon Schiele: Tod und Mädchen ディーター・バルナー監督)」
Dieter Berner - Egon Schiele : A halál és a lányka (Egon Schiele - Tod und Mädchen) 2016 MImi
ok.ru
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=Egon+Schiele%3a+Tod+und+M%C3%A4dchen&&mid=D921070FF64F10689F7BD921070FF64F10689F7B&&FORM=VRDGAR
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2025/01/23 (Thu) 16:14:33
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ノイレングバッハの画家の部屋 エゴン・シーレの世界
続壺齋閑話 (2025年1月23日 10:08)
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クルマウを追われたシーレは、ヴァリーを連れてウィーン郊外の田舎町ノイレングバッハに移り住んだ。「ノイレングバッハの画家の部屋(Das Zimmer des Künstlers in Neulengbach)」と題されたこの絵は、かれらが暮らした部屋を描いたものである。シーレはこの絵を、ゴッホの「アルルのゴッホの部屋」に触発されて描いた。その絵をシーレは、1909年の「クンストシャウ」で見ていた。
ゴッホの作品と見比べると、構図も筆使いも異なっている。ゴッホのは、部屋の隅から斜め下に見下ろした構図であり。筆使いは明確な輪郭線を示している。一方シーレのは、上から見おろした構図であり、対象は明確な輪郭線を持たない。色彩に関して言えば、シーレのほうが明るく見える。
シーレはこの部屋に大勢の未成年者を連れ込み、かれらを裸にしてポーズをとらせた。それを見た近隣住民が、シーレを未成年者へのわいせつ行為を理由に警察に訴えた。そのためシーレは、4月13日から5月7日まで拘留された。
(1911年 板に油彩 40×31.7㎝ ウィーン、市立歴史博物館)
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2025/01/26 (Sun) 15:51:06
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黒い陶器の壺のある自画像 エゴン・シーレの自画像
続壺齋閑話 (2025年1月26日 08:23)
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「黒い陶器の壺のある自画像(Selbstbildnis mit schwarzer Vase)」と題されたこの絵は、当時シーレが熱中していたドッペルゲンガーをモチーフにした作品。シーレの顔が左手を向いている一方で、その顔の後ろ側に置かれている黒い壺は、よくよく見ると人間の顔の横顔になっている。ドッペルゲンガーを描いたものとしてはやや変則であるが、顔が二つある男を描くことでシーレは、自分自身の二重人格を表現しているわけである。
面白いことには、黒い壺である横顔の眉間のあたりから、ほおずきのような実をつけた小枝が伸びている。この小枝は何を表現しているのか。だいいちこの顔が黒い壺だというのなら、小枝は頭のてっぺんから伸びているべきだろう。
壺は一応白いテーブルの上に置かれているように見えるが、そのテーブルはほぼ真上から眺められている。一方シーレ自身の上半身はほぼ真横からの眺めである。このように、一つの画面上に複数の視点を持ち込む手法は、セザンヌが始めたものを真似したものであろう。
テーブルの上にはもう一つ、布切れのようなものも置かれている。その布には複雑なパターンが刻まれている。ウィーン工房風の布だと言われる。
(1911年 板に油彩 27.5×34㎝ ウィーン、市立歴史博物館)
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2025/01/28 (Tue) 17:08:17
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ほおずきのある自画像 エゴン・シーレの自画像
続壺齋閑話 (2025年1月28日 11:53)
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「ほおずきのある自画像(Selbstbildnis mit Lampionfrüchten)」と題されたこの絵は、構図的には「黒い陶器の壺のある自画像」とよく似ている。こちらには黒い壺に擬したシーレの分身はいない。そのかわり、ほおずきの実が一層大きく表現されている。
分身がいないだけ、モデルとしてのシーレの存在感は大きい。画面の大部分をかれの上半身が占め、頭部は一部がはみ出している。顔をやや斜にかまえ、眼は観客を正視している。その表情はいかにも挑発的で、シーレの強烈な自意識を感じさせる。
色彩も強烈である。ほぼ真っ白な背景から、シーレの黒いジャケットと赤ら顔が浮かびあがり、背景との間に強いコントラストを表現している。また、ほおずきの実は実物より大きく描かれ、数は少ないながらも、大きな存在感を発揮している。
この作品は、シーレの自画像のなかでもっとも有名な作品である。
(1912年 カンバスに油彩 32.2×39.8㎝ ウィーン、レオポルト美術館)
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2025/01/30 (Thu) 10:43:47
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ヴァリーの肖像 エゴン・シーレの肖像画
続壺齋閑話 (2025年1月30日 08:03)
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エゴン・シーレがワールブルガ・ノイツィルと出会ったのは1911年のこと。当時シーレは21歳、ノイツィルは17歳だった。ノイツィルはもともとクリムトの妾のような存在だったらしい。以後1915年までの4年間、シーレの恋人兼モデルとして一緒に過ごした。シーレは彼女をヴァリーと呼んだ。ヴァリーは数多くのポルノグラフィックな作品のモデルを務めている。
「ヴァリーの肖像(Wally)」と題されたこの絵は、ヴァリーの顔を大アップにした胸像画である。構図や色づかいは、「ほおずきのある自画像」によく似ている。小道具の小枝は、やはりほおずきだと思われる。
ヴァリーはシーレに捨てられたあと看護婦としての資格をとり、第一次大戦中ダルマチアの前線で仕事をした。そして2017年の12月に猩紅熱で死んだ。シーレのほうは、その翌年にスペイン風邪で死ぬ。
(1912年 カンバスに油彩 32.7×39.8㎝ ウィーン、レオポルト美術館)
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