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2022/08/22 (Mon) 10:38:21
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文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年10月20日
取り上げた作品 アンナ・カレーニナ
作者 レフ・トルストイ
テーマ 自己逃避型キャラクターについて
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/08-10/08-10-20.htm
このメールマガジンで、ロシアの文豪トルストイの言葉である「およそ幸福な家庭はみな似たりよったりのものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれである。」という言葉に言及したりしています。
私個人は、その見解には賛成いたしません。不幸な家庭・・・つまりダメダメ家庭というものは、多少の違いはあっても実に共通性が多いもの・・・私はそのように考え、その共通性の実例を、このメールマガジンで取り上げております。
実際に、この私が書いているダメダメ家庭の諸相は、購読者さんが実際に体験したダメダメ家庭と実に「似たりよったり」でしょ?
つまり、不幸な家庭というものは、共通性が高いと見た方が理解しやすいわけです。
じゃあ、この私とトルストイは、まったく別の考えなのか?
トルストイと私は、まったく違ったスタイルの「不幸な家庭」を想定しているの?
「不幸な家庭」を考える視点は、時代なり場所なり、あるいは、まさにその家庭によって、そんなに違いがあるの?
ある人が見ると、多様性が見えてきて、別の人が見ると、共通性が見えてくるものなの?
そうとは言い切れない。
そもそも、私はロシア語なんて全然わからないんだから、上記のトルストイの言葉だって日本語に翻訳したものから取っています。日本語訳にあたっては、翻訳者の判断が介在してしまい、原作者の当初の意図が違ったものになることが多い。それに、文章全体の中に言葉があるのであって、その一部だけを取り上げて云々するのは、フェアーじゃない。
と言うことで、その言葉が入っている作品全体を読んでみたい・・・と以前より思っていました。
上記のトルストイの言葉が入っているのは、有名な長編小説である「アンナ・カレーニナ」です。文庫本だと合計3冊くらいになる、冗談抜きで長い小説。まあ、合計して900ページ以上はあります。
トルストイの言葉は、その「アンナ・カレーニナ」の冒頭・・・正確には第1章の冒頭に記されています。
この「アンナ・カレーニナ」の簡単なあらすじは、以下のようになります。
かなり年上の夫を持つアンナ・カレーニナは、夫との関係にも特に問題はなく、一人息子とも問題はない。ちなみに夫のアレクセイ・カレーニンは貴族で有力政治家。列車の中でお軽い若い貴族のウロンスキー伯爵と偶然に知り合ったアンナ・カレーニナは、口説かれて、結局は関係を持ってしまう。やがては、アンナはウロンスキー伯爵との間に子供もできてしまう。
夫との関係、子供との関係、そして恋人であるウロンスキー伯爵との関係に苦悩するアンナ。結局、アンナは、列車に飛び込んで自殺する。
・・・という作品です。
この作品は、このアンナの行動を一方の軸に、そして、レーウィンという貴族とその妻のキティの行動を、もう一方の軸に展開いたします。
なんでも、「偉大なる恋愛小説!!!」なんだそう・・・
しかし、たとえ翻訳であっても、全文を読んでみると、とてもじゃないけど、恋愛小説とは言えないでしょう。全体のテーマは、まさに作品の冒頭にあるように、「幸福な家庭と不幸な家庭」の問題なんですね。
しっかし、読者に誤解されないように、作者がわざわざ最初に書いているのに、どうして恋愛小説と読んじゃうんだろう?トルストイもお墓の中で泣いていますよ。
読むだけの人間だったり、翻訳する人間だったり、あるいは研究する人間なら、この「アンナ・カレーニナ」という作品を恋愛小説と思うのかもしれませんが、たとえメールマガジンであっても、まがりなりにも文章を書いている私が見ると、トルストイの工夫なり表現の意図も実にわかりやすい。
というか、この「アンナ・カレーニナ」を読んでいると、「ああ!このシーンで描かれている心理は、以前にメールマガジンの文章としてまとめたよ!」とか、それどころか「このシーンって、ほぼ同じ言葉で自分も実際にやったよ!」と苦笑いすることになる。
作品を「外から」研究し、その研究成果を発表するのも勝手ですが、コッチは、実際の体験として、作品で描写されている事件をやってきたり、登場人物と似たキャラクターの人とのやり取りを実際にやったりしているんだから、実感のレヴェルが違いますよ。やっぱり「書き手」と「読み手」は本質的に違うものなんでしょうね。
では、作者であるトルストイは、この「アンナ・カレーニナ」という作品を制作するにあたって、どんな状況を見て書いたのか?アンナ・カレーニナという人物に何を見たのか?あるいは、作品を通じて読者に何を見せようとしたのか?
それは実にシンプルです。
アンナ・カレーニナを、特徴つける中心的なキャラクターは「見ない」ということ。
トルストイは「アンナ・カレーニナ」という作品によって、「見ない」人間の姿を、読者に「見せよう」としているんですね。
アンナは、周囲の人から、「彼女は、現実を見ようとしない。」などと言われている。
それどころか、「ワタシは、現実を見たくない!」「そんなものを見せないで!」と自分でも言っていて、周囲に要求する。
そのような「見ない」という言葉が、この「アンナ・カレーニナ」では頻繁に出てきます。
それに対して、レーウィンとキティ夫婦は、現実に逃げずに向かい合っている。だから夫婦で激しい口論があっても、一つ一つの問題を解決し、前に進むことができる。
アンナは、事態がマズくなると、「そんな困った事態は見たくない!」と、現実逃避するだけ。だから何も解決できずに、出口がどんどんと無くなってしまう。
そんな現実逃避の人間なんだから、周囲の人も、その「現実逃避を許容してくれる」人だけをはべらすようになってしまうわけ。現実から目を背けさせてくれる人を、「ああ!あの人って、ワタシのことをわかってくれる人だ!」「あの人だったらキツイことを言わないから安心だわ!」と受け入れることになる。
それに対し「で、君は結局はどうしたいの?」などと言われたら、逆上してしまい、そんな人との関係が悪くなる・・・アンナはそんな人。
「現実を見なさい!」と『言われない』うちは、良好な関係でも、いざ「現実を見なさい!」「アナタは、いったいどうしたいの?」と言われるようになったら、メチャクチャな関係になってしまう。
それこそ、アンナの夫の名前はアレクセイで、情夫であるウロンスキー伯爵の名前もアレクセイです。
2人とも、最初のうちは、アンナの現実逃避を許していた。しかし、事態がシビアーになってきたら、一緒になって現実逃避しているわけにはいかない。
事態の解決にあたって、一番の当事者であるアンナがどのように考えているか?どんな希望を持っているのか?当人に確認する必要がある。
しかし、現実逃避で、抑圧的なアンナは、「自分はどうしたいのか?」「自分がどのように考えているのか?」そのことを考えること自体がイヤ。そのことを聞かれると、まさに「どうしてそんなことを聞くのよ!キーっ!」と逆上するだけ。
そのような流れにおいて、夫も情夫のウロンスキーも同じ。
同じアレクセイという名前は、2人が同じキャラクターであることを暗示しているわけ。
本来なら、早めに対処すれば、キズは小さくて済むもの。
それこそ情夫であるウロンスキー伯爵との関係が深くなり、妊娠までしてしまう。
それを知った夫であるアレクセイ・カレーニンは、「その情夫ウロンスキー伯爵ときっぱり別れ、戻ってきたら、一緒にやり直す。」あるいは「もうきっぱり離婚する。ただし、一人息子の養育は夫である自分が行う。」そのように条件を出しています。そして情夫のウロンスキー伯爵も「ボクと結婚しよう!彼との間の子供もボクが責任を持つよ!」と言ってくれる。
夫からのそんな条件を受けて、アンナは離婚してウロンスキー伯爵と結婚するの?それとも、元の鞘に戻るの?それとも、修道院にでも行くの?
結局は、アンナがやった行動は、「夫と離婚もしないし、情夫ウロンスキー伯爵との関係はそのまま。」という問題先送りなんですね。ウロンスキーとは一緒に住むけど、結婚はしないわけ。
よく言う「内縁の妻」というヤツ。
夫と離婚するのも、元の鞘に収まるのも、どっちでもいいわけですが、アンナは何も判断しないわけ。「あのようなことをすれば、この面で不都合が起こる。」と減点部分に目が行ってしまって、どんどんと問題を先送りにして、自分で出口をふさいでしまって、結局は、列車に飛び込むという究極の出口だけになってしまう。
私はサスガに貴族のご夫人とのやり取りはやったことがありませんが、そのようなキャラクターの人とのやり取りは、結構ありますよ。
「どのような選択をするのか?」が問題なのではなく、そもそも「選択しないこと」が問題であるわけ。だから、何もアクションをせず、まさにドッカーンとなってしまう。
自分で判断なり選択するつもりがないものだから、現状認識もいい加減で、周囲の人もいい加減。そんな人間と一緒になっている人間も、所詮は同じ穴の狢。
幸福な家庭というものは、現実を直視して、その問題を一つ一つ解決していく家庭。
不幸な家庭は、現実から逃避して、問題をどんどんと先送りして、結局はドッカーンとなってしまう家庭。
トルストイは「アンナ・カレーニナ」という作品で、そんなシンプルなメッセージを発信しているわけです。そもそも長編小説だったら、逆に言うと、中心となるキャラクターや、中心となる「流れ」はシンプルなものにしないと、読む側以上に書く側がタイヘンですよ。それはいくら天才トルストイでも同じこと。
皆様が「アンナ・カレーニナ」をお読みになる際には、「見ない」という言葉に注目すると、作者の意図が見えてくるでしょう。
19世紀のロシアの貴族社会を背景にしていますが、この作品で描写されたやり取りは、21世紀の日本でも、やっているもの。
恋愛小説どころか、問題を先送り続けて、結局はドッカーン・・・という流れにおいて、まるで日本経済についての本と言えるくらい。まさにダメダメって、みんなこんなものだよねぇ・・・ということがよくわかる作品です。ホント、不幸な家庭のみならず、トラブルを抱えた集団は、いつも同じ様相をしているものなんですね。
なにぶん、やたら長い作品ですので、お読みになるのはホネが折れるでしょうが、長い作品は、構成もキャラクターもシンプルなものなので、実は、時間さえあれば、読むのはラクなんですよ。ちなみに、この「アンナ・カレーニナ」をお読みになる際には、事前に映画化されたものをご覧になっておくと、ラクだと思います。映像に接しておくと、ある程度イメージも浮かびやすいものですからね。そもそもロシアの人名はわかりにくいし・・・
皆さんがこの作品を読まれる際には、周囲にアンナ・カレーニナのような人が実際にいたら、どんなアドヴァイスを送るのか?そんな当事者意識を持って読んでくださいな。
実に「見えて」きますよ。
見ない人間だからこそ、どんどんと追い込まれ、究極の「見ない」方法である列車へのダイビングとなってしまう。
「見ない」ために列車へダイビングするという方法はともかく、「あ~あ、このまま現実逃避を続けると、やっちゃうだろうなぁ・・・」と思わされる人も、残念ながらいるんですよ。
そんな人は、皆様の周囲にも、実際にいるのでは?
(終了)
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発信後記
700回記念の号なので、モニュメンタルな長編作品を取り上げました。
ちなみに、今回は、「アンナ・カレーニナ」という作品においては、自己逃避というものが中心テーマとなっていることについてまとめておりますが、次回は、そのアンナ・カレーニナさんの自己逃避の様々な諸相を取り出してみます。続きの内容なので、配信は明日の火曜日です。
この「アンナ・カレーニナ」を取り上げることは、以前より予定していて、準備をしていて、多少匂わせたりしていたわけですが、とある芥川賞作家さんが、この「アンナ・カレーニナ」についての文章を公表していらっしゃいました。
なんでも「夕刊フジ」に書いたものらしい・・・私は「夕刊フジ」などは読みませんので、その作家さんが発行していらっしゃるメールマガジンで、先日その文章を読みました。
それが失笑するようなレヴェル。
「この作品は、気に入らない!」と、感情的に書いている。
しかし、そのようなことは、起こるもの。
自己逃避する人間の姿を描いた作品に対して、実際に自己逃避状態の人間は、感情的に反発するものなんですね。まるで自分がバカにされたように感じるんでしょう。それを自覚できればいいわけですが、そもそも自己逃避人間がそんな自覚に至るわけもない。
だから感情的な怒りをぶつけるしかない。
そんなことは、このメールマガジンの文章に対する反応で、実に多いパターン。
まさに「なじみ」のものですよ。
しかし、現実逃避をしている人間を厳しく描いた作品よりも、現実逃避している人間によって書かれた「ぼんやり」とした文章の方が、『商業的』な結果を得やすいのは、簡単にわかること。
だって、「自分自身を見なさい。」「現実を見なさい。」と言われ、それに納得すれば、実際に自分自身なり目の前の問題についてよく見つめ考えればいいだけ。
だから、そんな自分自身へ視点をもたらす作品は、基本的には一つあれば十分。
しかし、自分自身なり現実から目を逸らすためには、次々と新しい作品が必要になる。
見たくない現実が自分の目の前に入ってきたら、「新しい作品」で、それを塞ぐわけ。
そんな人は、次々と「新しい作品」を購入して、それによって目を逸らす。
だから、本も売れる。
いわゆる文学愛好者と称される人間のかなりの割合が、そんな自己逃避人間でしょ?
そんな人のニーズに応える作品は、やっぱり自己逃避の「甘~い」作品。
自己逃避の人間の周囲には、そんな「甘~い」作品や、「甘~い」人間ばかりのことが多いものなんですよ。
芸術というものにおいては、「使命」と「仕事」は大きく違うもの。読み手にとって厳しい文章は、商業的に売れないって、現実的には当然のことですし、何よりも歴史が証明している。
しかし、仕事のために、使命を放棄している人が、一番タチが悪い。
とは言え、現実的には、芸術業界で仕事としている人のほとんどは、そんな使命感なり問題意識すらないことも歴史が証明していること。
「作り手」と、研究者のような人たちとは、本質的に別物なんですね。
だから研究者による解説は、ビックリするほどトンチンカンなもの。
しかし、逆に言うと、一般の人は、そんな「解説」でないと、受け入れられない。
そんな現実があるので、まさにトルストイのような最後になってしまう。
これは芸術家にとって避けられないこと。しかし、逆にいうと、一般人は、この「アンナ・カレーニナ」で示された視点を参考にすれば、マトモな方向に進むこともできるわけ。
ということで、一度お読みになってみてくださいな。
このアンナ・カレーニナのキャラクターについては、「11年1月18日 アップの 自己逃避における男女の違い」という文章において、考えております。
R.10/12/14
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/08-10/08-10-20.htm
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2022/08/22 (Mon) 10:39:35
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文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年10月21日
取り上げた作品 アンナ・カレーニナ
作者 レフ・トルストイ
テーマ 自己逃避の諸相
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/08-10/08-10-21.html
前回において、トルストイの長編小説の「アンナ・カレーニナ」を取り上げました。
今回は、その続編になります。
前回でも書きましたが、作者であるトルストイは主人公のアンナ・カレーニナの中心的なキャラクターとして、「見ない」という設定にしております。
現実を「見ない」「見ようとしない」人が巻き起こす行動なり騒動・・・長編の小説ですが、基本的な流れは、そんなものなんですね。
ダメダメ家庭を作る人は、現状逃避であって、現実を見ようとしないし、自分の将来について考えようとしない。自分で何かを達成したいと思っていない。そんな人はあらゆる事態を自分が被った被害と捉え、「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くことになる。
嘆くだけならまだしも、その被害者意識から、「アイツのせいで・・・こんな事態に!」と何かを犯人認定して、その「アイツに報復してやる!」なんて発想になってしまう。
まさに、この「アンナ・カレーニナ」の冒頭にある有名な文句である「復讐は我にあり 我これに酬いん。」となるわけ。「被害に対して復讐するのはともかく、じゃあ、それ以外には何があるのか?自分で何をしたいのか?」と言われても答えられない。復讐すること、それのみがアイデンティティになってしまうわけ。
ヘンな話になりますが、このアンナ・カレーニナさんは、自分自身を抑圧していて、被害者意識が強く、だからスグに逆上し大騒ぎ、そして他者の気持ちを考えないという点において、典型的な韓国人と言ってもいいくらい。皆様も、この「アンナ・カレーニナ」を読まれる際には、アンナさんが韓国人と思ってお読みになると、実感が湧いてくると思います。
あるいは、「復讐は我にあり」なんて、クレーマー系の市民運動の人たちとまったく同じ。
実に、身近な姿なんですよ。
さて、前回配信の文章で、第一章の冒頭にある「およそ幸福な家庭はみな似たりよったりのものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれである。」という言葉に言及いたしました。
その言葉のロシア語の詳細がわからないと、何とも言いようがありませんが、「アンナ・カレーニナ」という作品全体においては、作者のトルストイは、幸福な家庭というよりも、不幸な家庭の方がみな似たり寄ったりであること・・・その根本原因として、当事者意識がなく、現実逃避の精神がある・・・その点について、見事に浮かび上がらせています。
第1章の冒頭の言葉はともかく、作品全体としては「およそ不幸な家庭はみな似たりよったりのものであるが、幸福な家庭はそれぞれである。」ことが表現されているわけ。別の言い方をすると「およそ不幸な家庭を『作る人』はみな似たりよったりのものであるが、幸福な家庭を『作る会話』は、それぞれである。」そう言ってもいいでしょう。そういう意味では、このメールマガジンで書いていることと同じなんですよ。
そのように当事者意識がなく、現実逃避であるがゆえに、何も見ないし、何も考えない。
その結果が、不幸な家庭というか、ダメダメ家庭になる。
そのような流れにおいては、多くのダメダメ家庭は、実に似ているもの。
さて、ここで、「アンナ・カレーニナ」で描かれている、この当事者意識の欠如なり現実逃避の諸相をリストアップしてみましょう。
1. あら探し・・・アンナは、当事者意識がないので常に減点法。だからマイナス部分への反応は鋭い。人からアドヴァイスなり情報を得ても、真っ先にするのが「あら探し」。「あの○○には、こんな不都合がある!だからダメだ!」。そして何もしないわけ。特に列車に飛び込む前においては、アンナは、あらゆるものをネガティヴに見て、「アイツはこんな欠点がある!これは、こんなにダメ!」とあら探し状態が頂点に達してしまっている状態。こんな状態は、ダメダメの心理としては、程度は別にして、頻繁に起こっているものなんですよ。
2. 逃げられる対象への関わり・・・アンナはウロンスキーとの間に生まれた自分の娘をネグレクト(育児放棄)しているのに、知り合いの子供を引き取って可愛がっている。最終的に自分に責任があるものは、いざとなっても逃げられないので、そのようなものと接するのは苦手。いざとなったら逃げられるようなものだと、安心して接することができるわけ。まあ、ボランティアの連中の心理と同じなんですね。
3. プライオリティ・・・本来なら、自分の離婚なり子育てなりを必死で考えなくてはならいはずなのに、アンナは、建築のことに関心を持ったり、美術に関心を持ったりと余計なことに首を突っ込んでいる。しかし、本来は、自分の身をしっかりさせてからでしょ?しかし、自分を抑圧しているので、自分自身にとって重要なことに向き合うことが怖いわけ。
4. 甘い周囲環境・・・そんな自己逃避のアンナに対して「アナタは、結局は、どうしたいの?」と言ってくる人間を排除してしまって、「まあ!なんてお気の毒なの?!」と言うような人間を集めてしまう。アンナとウロンスキーが田舎で一緒に暮していた際にも、そのような「おべんちゃら」するしか能がない女性をはべらせているわけ。
5. 自分自身がわかっていない・・・アンナは「人の気持ちが、自分の気持ちと同じくらいにわかったらねぇ・・・」などと、のたまいますが、読んでいるこの私も大爆笑。じゃあ、アンナは自分自身の気持ちをわかっているの?しかし、自己逃避であるがゆえに、「自分が自分自身のことをわかっていない。」こと自体がわからないわけ。自分自身についてわかっていない人は、この「ワタシは人の気持ちがわからない。」と言ったりするものなんですよ。
6. 幸福になる努力・・・アンナはグチばかり。だからと言って、じゃあ、幸福になるための努力は何もしないわけ。ただグチっているばかりなんですね。
7. 人の気持ちを無視・・・被害者意識が強い人は、「自分が一番かわいそうな人間」と確信しているので、他者の気持ちは無視する。それこそ「お母さんは死んだ」ということになっている自分の息子に突然に会いに出かけて、息子の心を混乱させる始末。そんなに息子がかわいいなら、まずは自分の身をしっかりさせて、息子を引き取るなり定期的に会いにくるなりの行動も取れるでしょ?しかし、自分の現実から目を逸らすために、自分の息子を利用しているんですね。
8. 気分次第・・・息子に会いに行くのだって、実に気分次第。事前準備なり、現状認識なり、将来展望なりも何もない状態で、突然に気分次第で会いに出かける。そして大騒ぎとなる。自分で考えることから逃避している人は、計画性がまるでないので、その時の気分で動いてしまうわけ。
9. 先送り・・・現実を見たくないと言っているアンナは、常に問題を先送り。だからウロンスキーとの関係も「内縁の妻」のまま。早めに対処しておけば、離婚するのも簡単だったのに、結論を出すのを先送りしているなら、離婚も難しくなってしまう。そうやって出口をどんどんと塞いでしまって、列車へのダイビングという究極の出口になってしまうわけ。
さて、この「アンナ・カレーニナ」は、このアンナの自己逃避をより明確化するために、対照的なキャラクターであるレーウィンとキティの夫婦も同時並行的に描写されています。
レーウィンもキティの双方とも、アンナと違って、その都度、判断する人間。
その判断に間違いがあることもありました。たとえばキティは最初には、お軽いウロンスキー伯爵に熱を上げていました。しかし、キティは自分自身や現状を認識して、レーウィンと結婚したわけ。そして結婚後は2人でディスカッションをしながら物事を進めていきます。逆に言うと、現実に向き合い、ディスカッションできる人間同士が結婚したわけ。
普段から現実と向き合ってディスカッションしているので、「言葉だけ」の軽薄な人間に対して、「なんか違うなぁ・・・」と違和感を持ったりする。だから、周囲の人間も「それなり」の人間が集まることになる。
しかし現状と向き合って、その都度解決していく習慣があれば、逆に言うと、解決の方法論も向上していくわけですし、周辺環境も、それに役に立つようになるわけ。
レーウィンとキティの夫婦は、地味ではあるけれど、事態に向き合って、ひとつずつ解決している。まあ物事の解決のためには、こんな感じにならざるを得ないもの。
それに対し、アンナは、現実から目を背けて、自分の被害を語るばかり。
被害は語っても、自分の希望は語れない。
そんなアンナは、所詮は、「お騒がせキャラ」「トラブルメーカー」にすぎないわけ。
文学解説の中では、アンナとウロンスキー伯爵の「激しい恋」なんてオバカな解説があったりするようですが、全然違っています。だってアンナはウロンスキーのどこを愛しているの?
アンナが求めているのは、現実から目を逸らしてくれる存在というだけ。一時的にそれが夫だったり、子供だったり、あるいは情夫だったりするだけ。アンナはウロンスキーのキャラクターを肯定的に見ているわけではなく、アンナにとってウロンスキーは自己逃避の具現化にすぎないわけ。
この「アンナ・カレーニナ」において、第7章の最後において、アンナは鉄道自殺いたします。第7章に続く第8章は、残された人々の描写になります。
アンナと深く関わったウロンスキー伯爵は、死に場所を求め、クリミア戦争に志願して出征する。あるいは夫であるアレクセイ・カレーニンは、精神状態がメチャクチャになってしまいオカルトに走る始末。アンナは結果的に誰も幸福にしない。ただ距離を持って、アンナを見ていた人は、アンナの事例を考えることになる。
このようなスタイルはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」と同じ。「ドン・ジョヴァンニ」においても、ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちた後で、残された人が、今後の展望を語り合うわけ。周囲の人にしてみれば、お騒がせの後で、じっくり自分自身を見直す・・・そんな契機にはなるわけです。
この手の「自分の希望を言えない」現実逃避キャラの話となると、以前に取り上げた映画「ベティ・ブルー」のベティもそうでした。あるいはこれも以前に取り上げたオペラ「蝶々夫人」のチョーチョーさんもそのパターン。あるいは、以前に集中的に取り上げたバルザックの「谷間のゆり」のアンリエットもその典型と言えます。あるいは、現実世界だと、それこそ田中真紀子さんもそのパターンでしょ?この手のキャラは、現実から逃避している分、逆に、現実から遊離した正論をぶったりするもの。だから「あの人は立派な人だ!」なんて言われたりもする。
しかし、そんな正論は、現実から目を背けるため、そして自分で考えないための正論であって、結局は、自分自身からの逃避なんですね。
まあ、この手の「お騒がせキャラ」は、ちょっと距離をおいて、見ていると自分自身を理解し、見つめなおすいい材料になるもの。しかし、ズブズブの関係になると、一緒に堕ちてしまうだけ。
この「アンナ・カレーニナ」をお読みになって、「まあ、なんてお気の毒な!」なんて感想を持つのはともかく、実際に身近にいたら、はっきり言って鬱陶しい存在ですよ。その点を踏まえ、適切な距離を取らないとね。
逆に言うと、この手の現実逃避の人は、何も考えずに「まあ、なんてお気の毒な!」なんて言うような人間ばかりを、自分の周囲に集めようとするわけ。
そんな人たちを組織して、「復讐するは『我々』にあり」になってしまう。
そんなシーンは、21世紀の日本でも実にポピュラーでしょ?
(終了)
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発信後記
芸術家の言っていることは、意外にもシンプルなことが多いもの。
それこそ、トルストイは晩年の作品である「復活」を発表した際に、「この作品を通じて、新約聖書を、虚心坦懐に読み直してくれればそれでいいんじゃ。」言っていたそう。
芸術家のメッセージなんて、実は、そんなものなんですよ。
しかし、それは、「ほとんどの一般人が、新約聖書を読んでいても、虚心に読んでいるわけではない。」という認識がないと、理解されないもの。
研究者とか文学愛好家も、聖書なり小説なりを読んでいても、実際は何もわかっていない。
そんなことは、それこそ聖書でキリストが言っているとおり。
ご存知のようにトルストイは、最後には家出をして、駅で「のたれ死」をいたしました。
いちおう病院には担ぎ込まれたようですが、実質上はのたれ死。
家出をするのはいいとして、のたれ死なんてね。
しかし、たとえメールマガジンのような文章であっても、まがりなりにも文章を書いている私としては、彼の行動の意味もよくわかる。
文章を書いている人間にしてみれば、せめて最後には、自分の理解者と話をしたいと思いますよ。当然のこととしてトルストイの元にはファンレターも来たでしょうしね。
そんなファンのところに行ってもいいのでは?
しかし、ファンが理解者であるとは限らない。
そして、往々にして、そのことをファンはわかっていないもの。
もし、「この人はオレの文章を隅々まで理解してくれている!」なんて思わされる人からファンレターが来ていたら、その人のところに行きますよ。
何も駅でのたれ死する必要もないでしょう。
しかし、理解者の不在という思いがあるがゆえに、家出をすることになる。
ちなみに、そのような心理は、まさにトルストイの「セルゲイ神父」という短編に触れられております。トルストイ自身はわかっていて、やっているわけ。
そんな発想は、以前にちょっと触れたウィーダの「フランダースの犬」におけるネロの発想と同じ。
芸術家の発想なんて、ツボがわかっていると、実に理解しやすいもの。ただ、別に理解する必要はありません。そんな連中は、むしろ、距離を置いて上手に利用した方が利口ですよ。
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/08-10/08-10-21.html
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2022/08/22 (Mon) 10:53:05
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「映画とクラシック音楽の周囲集」_ 映画・音楽に関する最も優れた評論集
07年7月から07年12月まで配信しておりました メールマガジンのバックナンバーのサイトです。
もう配信は全巻終了しております。
07年7月から07年12月まで配信していたメールマガジン「映画とクラシック音楽の周囲集」のバックナンバー
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.html
03年9月から04年8月まで配信していたメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」のバックナンバー
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html
「複数回取り上げた監督&原作者」・・・監督別でのリストです。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/derector-list.html
「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/tukaikata-list.html
追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/question-top.html
オペラの台本について・・・興味深いオペラの台本についての文章のリスト
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/opera-top.html
(上記のメールマガジンの文章と基本的には重複しております。)
最新追加文章 10年8月7日追加 ゲーテの「ファウスト」について
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/faust.html
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「ダメダメ家庭の目次録」_ 教育に関する最も優れた評論集
ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html
「ダメダメ家庭の目次録」転載の経緯
https://medium.com/dysfunciton
転載の経緯
このMediumのPublication「ダメダメ家庭の目次録」は、
①過去に配信されていた機能不全家族に関するメールマガジンを収録したサイトである「ダメダメ家庭の目次録」
の
②ミラーサイトの記事
を、さらに
③MediumのPublication「ダメダメ家庭の目次録」
へ転載したものです。
したがって、山崎奨は著作者ではありません。
記事は全てミラーサイトから、誤字脱字等も修正することなく、MediumのPublicationに転載しています。
「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
レスポンシブ化および広告の非表示化によって、記事の参照を容易にすることを目的として、MediumのPublicationに転載することとしました。
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ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html