-
1:777
:
2022/05/24 (Tue) 00:05:59
-
パゾリーニ『奇跡の丘 Il Vangelo secondo Matteo』1964年
監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ
脚本 ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽 ルイス・バカロフ
撮影 トニーノ・デリ・コリ
公開 1964年10月2日
動画
https://www.youtube.com/watch?v=U63s0kZ1nVc
https://www.youtube.com/watch?v=Awaso0MNprY
『奇跡の丘』(伊: Il Vangelo secondo Matteo、英: The Gospel According to St. Matthew、「マタイによる福音書」の意)は、1964年(昭和39年)製作・公開されたピエル・パオロ・パゾリーニ監督によるイタリア・フランス合作映画である。
ヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞、国際カトリック映画事務局賞を受賞。
「マタイによる福音書」に基づいて処女懐胎、イエスの誕生、イエスの洗礼、悪魔の誘惑、イエスの奇跡、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ゴルゴダの丘、復活のエピソードが描かれている。
キャスト
エンリケ・イラソキ(イタリア語版) - イエス
マルゲリータ・カルーソ - 母マリア(若い時代)
スザンナ・パゾリーニ(イタリア語版) - 母マリア
マルチェロ・モランテ(イタリア語版) - ヨセフ
マリオ・ソクラテ(イタリア語版) - 洗礼者ヨハネ
セティミオ・デ・ポルト - ペトロ
アルフォンソ・ガット - アンデレ
ルイジ・バルビーニ - ヤコブ(ゼベダイの子)
ジャコモ・モランテ - ヨハネ(ゼベダイの子)
ジョルジョ・アガンベン - フィリポ
グイド・チェレターニ - バルトロマイ
ロザリオ・ミガーレ - トマス
フェルッチョ・ヌッツォ - マタイ
マルチェロ・ガルディーニ - アルファイの子ヤコブ
エリオ・スパツィアーニ - タダイ
エンゾ・シチリアーノ - シモン(熱心党)
オテロ・セスティリ - ユダ(イスカリオテ)
ロドルフォ・ウィルコック - カヤファ
アレッサンドロ・クレリチ - ポンテオ・ピラト
アメリゴ・ベヴィラッカ - ヘロデ大王
フランチェスコ・レオネッティ - ヘロデ・アンティパス
フランカ・クパーネ - ヘロデア
パオラ・テデスコ - サロメ
エリゼオ・ボッシ - アリマタヤのヨセフ
ナタリア・ギンズブルグ - ベタニアのマリア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E4%B8%98
-
2:777
:
2022/05/24 (Tue) 00:08:28
-
ヨーロッパ諸国の中でも特にカトリックの勢力が強いイタリアでは、パゾリーニがキリストを冒涜する映画を撮るに違いないと早合点し、激しい反対の声をあげ、撮影中から早くも妨害される。映画が完成してヴェネチア映画祭に出品されたときも、右翼の学生がパゾリーニに怒号を浴びせ、腐った生卵を投げたりした。
ところが映写が始まってみると、何と忠実なキリストの映像化…
満場はシーンと静まりかえった。 というエピソードがあります。
何故こんなに信用されなかったのか?
それはウルトラ左翼のパゾリーニだからです。
http://blogs.yahoo.co.jp/legendofbenji/12024963.html
無神論者・パゾリーニが、キリストの生涯を新約聖書の「マタイの福音書」を元に映像化した作品。
マリアの懐妊に始まり、東方三博士の礼、ヘロデ王の嬰児大虐殺、パンと魚の奇跡の話、サロメが洗礼者ヨハネの首を所望した話、最後の晩餐、釈放されたバラバ、磔刑、そして復活と、絵画等の主題になるような内容はほとんど描写されているし、 「汝の隣人を愛せよ」というような、よく知られたキリストのことばも、作中に多数含まれている。
他のパゾリーニ作品に見られるような”毒気”はなく、敬虔なキリスト教信者の視点で描かれているといえるだろう。 飾り気のない映像も、キリストを語るにふさわしい。パゾリーニが無神論者であることを知らなければ、キリスト教信者によるキリスト教布教の為の作品にも思えるほどである。いったい、パゾリーニの意図はなんだったのか。
パゾリーニがアッシジ滞在中に時の法王、ヨハネ23世のアッシジ訪問に遭遇し、ホテルで街の喧騒を聞きつつ手にした聖書が、この映画製作のきっかけとなったらしい。しかし、「奇跡の丘」撮影前に発表したオムニバス映画「ロゴパグ」の第3話「リコッタ」で、キリストの磔刑映画のパロディーを描き、「宗教を侮辱した」かどで告訴された(判決は無罪であった)という経緯があったので、パゾリーニによるキリストの映画製作には反対も多かったという。
ところが、「奇跡の丘」が発表されると、国際カトリック映画事務局賞を受賞。ローマ法王庁がキリスト教徒に適した映画を選出する「ローマ法王のオスカー」と呼ばれるリストでも、「奇跡の丘」は上位に入っている。ヴァチカンのお墨付きになったわけである。
http://www.cinemaitalia.jp/primipiatti/primo-ka.htm
ヨハネパウロ二世の推薦する映画第二位の映画。
カトリック信者ならこれ以上の信頼できる評価は無いでしょう。
1位「シンドラーのリスト」(93)
2位「奇跡の丘」(64)
3位「ライフ・イズ・ビューティフル」(97)
4位「モダン・タイムス」(36)
5位「ナザレのイエス」(77)
6位「ベン・ハー」(59)
7位「わが命つきるとも」(66)
8位「2001年宇宙の旅」(68)
9位「8 1/2」(63)
10位「山猫」(63)
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/B001SSXXWA
パゾリーニはコミュニストであったにもかかわらずなぜにこの映画を作ったのか。
彼はこう語っている。
[パゾリーニの言葉]
私はアッシジのプロ・チヴィターテ・クリスティアーナに泊めてもらっていた。その後も何度か訪ねているが、そこは私のような人間にもいつも扉を開いている。1962年10月2日だった。アッシジはロレート・ジョヴァンニ(ヨハネ)23世の来訪を待っていた。
ヨハネ23世はヴァティカンを出て、宗教会議のさだめによって“貧しくつつましき者”と名付けられた聖フランチェスコの墓に祈るためにやってきた初めての法王だった。
私はベッドに横になり、町の音に耳を澄ました。町は人々の声や足音で沸き立っており、好奇心と幸福感で熱くなっていた。大聖堂に向かう道にはたくさんの足音が聞こえた。ありとあらゆる鐘が鳴り始めていた。
私は優しい農民法王のことを思っていた。彼は難しいと当時は思われた希望へと人々の心を開き、またレジーナ・コエリの扉も彼に開かせたのだ。そこで法王は《自分の目で》泥棒や殺人者たちを見たのである。厚い慈悲の心以外は何もまとわずに。
私も一瞬起き上がってそば近くで彼にまみえたいと思った。しかし、鐘が私の頭の上でも鳴り響いているあいだ、彼に会いたいという望みは突然鎮まった。自分がたくさんの人にとって苛立たしいはみ出し者になるのではないか、安易な宣伝をしようとしていると非難されるのではないかと思ったからだ。
私は自分のことを“放蕩息子”とは思わなかったが、多くの人にとってはそうした振る舞いは趣味の悪いシナリオのように映るだろう。
本能的に手をナイトテーブルの上にのばして私は福音書の本を手にした。それはすべての部屋に置いてあるものだった。私は最初のところから読み始めた。
つまり4つの福音書の最初、マタイ伝から。最初のページから最後まで、今でもよく覚えているのだが、祝典で沸き立つ町の喧噪から喜んで身を守るように私は読み耽った。ついに本を置くと、私は最初のざわめきから、鐘が巡礼法王の出発を告げるまで、自分がこの厳しいと同時に優しい、かくもヘブライ的で激しやすいテキスト、それこそがマタイ伝だーーを全て読んでしまったことに気づいた。
福音書を映画化しようという考えは何度も浮かんだが、この映画はまさにそこで、その日の、その時間に生まれたのである。
パゾリーニは「信者の中に入り込まずには神の子イエスを描くことが出来ず、無神論者である自分自身と信者との、2つの物語の間をきわめて難しい均衡をこの作品で実現せねばならなかった」と書いている。
これでなるほどと思い当たるのが、この映画の極めて客観的なイエスの描き方だ。俳優は素人であり、現代的な感情を込めた演技をしていない。
本作のすばらしさはその音楽によるところが大きい。聖書に書かれている事実は、淡々と語られていく。
ゴルゴタの丘にのぼる場面。このシーンを「パッション」と比べるといかに違うかわかります。
熱心なクリスチャンのメル・ギブソンが作った「パッション」と比較するとあらゆる面で対照的だ。パゾリーニ版のこの淡々とした進行が、彼の客観的な視点、信者でないという事実を如実に物語っているように思える。
信仰というのは理屈でないので、「パッション」ではメル・ギブソンの思い入れの深さが、時に執拗なまでに残酷な描写に行き着いたり、観ている私からするとうんざりしてしまったりするのだが、「奇跡の丘」には見事にそれがない。やはりパゾリーニは信仰心からイエスを語っているとは思えない。非常に冷めているなあと感じる。
ではこの淡々とした語り口が、なぜ数あるキリスト教映画の中でももっとも感動的であるといわれる作品といわれるようになったのか。
まず聖書を読んでみるとわかることだが、聖書が淡々としているのだ。現代的なストーリー展開に慣れている私たちにとっては、入りにくい文章である。
なにより、いつどこでだれとだれがどうした、という現代なら当たり前の歴史記述が聖書にはない。唐突に物語りははじまり、ある記述はとても長かったり、ある記述はあっさりしていたり、時系列であったりなかったり、そのときにその場に誰がいたりというのが定かでない。
そしてそのとき「と思った」という登場人物たちの思いは見事に省かれている。だからそれは文脈から汲み取るしかないので、そこにイエスを物語にするときの醍醐味があるといえるし、難しいところであるのだ。そしてこれが様々な聖書解釈、異端信仰を生む。
だいたい、どうしてユダがイエスを裏切ったのか、その理由は一切書いていないのが、私からすると本当にミステリアスだ。
では、キリスト教に興味がない私が、もし聖書のイエスの生涯を映画にするとしたら、どうするだろう?
そう考えると、この映画も非常にすっきり理解できる。
おそらく、パゾリーニが聖書を読んで最も共感できた箇所が、この映画でもっとも感動的な場面になっているのだと思う。だから「イエスの奇跡」といわれる処女受胎や湖の上を歩いたことや、病の治療、復活は淡々と描かれる。削ってはいないという点もミソだと思う。あくまでそれは事実として描いている。
この、ことさら奇跡を大げさに映像にしていないことが、信者でない多くの人がこの映画に対して拒否反応を示さなかった理由だと思う。
そして、コミュニストらしい解釈というか、お金持ちや権威ある階層に対しては戦いを挑むイエスが描かれる。
過ぎ越しの祭りのときに、イエルサレムに入城し、両替人の台や、鳩を売る者の腰かけをくつがえし、天使のような子どもたちが宮に入り、イエスを祝福する。その子どもたちが、ロケ地周辺から集められて演技させられてますっていう感じが非常にほほえましく、子どものたちの純粋さに溢れている感動的な、私の一番好きな場面。
「神の国はこのようなものたちである」と、そのかわいい子たちをいとおしく、優しい表情で見つめる人間としてのイエス。
こういったキリスト教の教えの根幹にあたる小さきものたちへの「愛」のシーンの普遍性こそが、この映画の素晴らしいところだと思う。
これこそキリスト教の教えがどうこうよりも、信者でないパゾリーニの心をも揺さぶった聖書の一場面であったろうし、同じく信者でない私が見ても感動する場面なのだ。
聖書に懐疑的な人間が、どうしても信じられない奇蹟は淡々と(鞭打ちもなければ、磔で苦しむさまも出てこない)、現代人でも共感できるエピソードはしっかり描く、このバランスが優れているのが、本作の素晴らしいところだ。
また、キリスト教の信仰では、「自らの罪を認める」というのが重要だが、この映画からはガチガチの罪悪感が感じられない。象徴的な場面としては、イエスがムチ打ちと磔で苦しむ場面で最もそれが強く表される。が、映画にこのシーンはない。人類の罪を背負ってイエスは磔刑にされた、というイエスの受難は、ぽっかり抜けているのが興味深い。
http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/11038795.html
黒と白の対照を最大限に生かした美しい画面。黒の美しさ、白の美しさが心を動かす。
画面は動でなく、静を目指して構成されている。その静は石で作られ直線で象られた建物によってしっかりと支えられている。
そのような静かな美しさに充ち満ちた映像でイエス・キリストの生涯が語られる。
『奇跡の丘』でイエスの起す奇蹟は、ほとんど大道芸のように表現される。パゾリーニは奇蹟の中に聖なるものを示さない。パゾリーニの視線を追うとき、パゾリーニの視線が熱を帯び、炎をあげるのは、イエスが怒りを言葉に表す時だということに気付く。
パゾリーニは言葉の中にイエスを見ているのだ。
イエスの言葉は激しい。イエスの言葉はこう叫んでいる。全てを破壊せよ。私だけを見ろ。私だけを愛せ。
イエスの言葉は静かな美しさに充ち満ちた映像によって支えられている。映像の静かさの背後には激しさがある。その激しさが抑制されているところに生まれているのが『奇跡の丘』の映像の静かさなのだ。だからイエスの激しい言葉を支えることができる。
イエスは手に太い釘を打ち付けられるとき、苦痛の叫び声を上げる。それはキリストに対するパゾリーニの冒涜ではない。そうではなく超人でないイエスに対するパゾリーニの愛なのだ。
パゾリーニはイエスの中に一人の反逆者を見ていると言ったら、たぶん間違っているだろうが、パゾリーニのイエスに対する共感は怒れる反逆者という点にあるのだと僕は感じたことも確かなのだ。
『奇跡の丘』では常に鳥たちの鳴声が聞える。鳥たちの鳴声は、イエスという一人の人間の物語を、人間社会という閉ざされた所ではなく、世界という開かれたところに投げ入れる。イエスは世界と繋がり、人間を超える。いや人間たち全てが世界に投げ入れられているのだ。そこにおいてこそ神がその顔を見せる。
パゾリーニは神を信じていないとしても、絶対的なものを求めている。だからイエスに共感しこのように力の籠った映画を作るのだ
。
これは本当に僕の勝手な感想なのだが、パゾリーニは絶対的なものを求めているが、最後の最後のところで絶対的なものを信じていない。パゾリーニは信じていないものに必死に手を伸ばしている。そう僕は映画が終わったとき感じたのだった。
http://www.ne.jp/asahi/akira/flick/flick/movie/1999/9905.html
管理人
『奇跡の丘』は、『マタイによる福音書』を元に〈無神論者〉のパゾリーニが撮ったキリストの生涯です。日本で最初に公開された記念すべき作品でもあります。キリストはカッコ良かったですね。おいしんさんはよくわかんなかったみたいですけど。
BABA
いや、おいしんもああ見えてなかなか鋭いんだよ。
「にしてもこの役者さんはこんなテンションの高い役を演じてしまって、通常の生活に戻れたんかなあ?」
と書いてたけど、
この役者さん、撮影が終わった後に「自分はキリストだ!」とか言い出して精神病院に入っちゃったらしい。
管理人
……。それは凄いですね。
ヤマネ
この映画、カソリック教会とかは大嫌いだけど、キリストその人は愛しているパゾリーニの気持ちがよく出てますね。
オガケン
革命家としてのイエスだな。
BABA
説教がほとんどアジテーションだもんね。なんか教会から賞をもらった作品らしいけど、細かい事は抜きにしてそれくらいイエスがカッコ良かったってことかな。中盤のマシンガン・トークとかスゴかった。取りあえず眉毛がつながってるし。
管理人
……。それはどうでもいいでしょう。
オガケン
とにかくザックリ感がスゴイ。細かいところはどうでもいいっていうか。終わり方も全部スゴいし。『デカメロン』とか、パゾリーニ扮するジオットが、「夢の方が素晴らしいのに、なぜ絵を描き続けるのだろうか?」でバスっと終わる。
BABA
ホント。もう話終わってるんやから、とっとと終われや! っちゅう映画が多すぎるからね。
オガケン
アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』ってのを見たんだけど、パゾリーニの後に見るとやっぱり終わり方がダラダラしてて参った。
BABA
パゾリーニはとにかくスパッというか、バスッというか、ゴリゴリッとしたところがいい。
http://www.cafeopal.com/reviews/99/dec/reviews991214.html
パゾリーニが何故マタイ伝を基にしたキリストの映画を撮ったのであろうか。
彼が描きたかったのは素朴な民衆を導く者の姿ではないのだろうか。
それは田舎に生きる人々の生活習慣に関心を寄せ、またプロレタリアートの解放を訴え、左翼運動を続けていたパゾリーニ自身の反映――。
であれば『奇跡の丘』は、十二使徒や説教を受ける人々は、田舎の人々やプロレタリアートと見なし、その説教を説いているキリストはパゾリーニ自身として捉えられるのであろうか。
この映画のキリストはまるでアジテーションのように教えを民衆に訴えかける。
特に「山上の垂訓」といわれるシーンでの、たたみかけるような説教は他の介入を許さない。
カメラが捉えるのはアップで映し出されるキリストの険しい表情のみで、それが幾カットも力強く切り返し挿入される。パゾリーニの内面に秘められた熱き魂の叫びのようでもあり、また彼の生き方の姿勢とも見れる。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~satonaka/kiseki.htm
個人的なことになりますが、私がローマの・・・正確にはバチカンのサン・ピエトロ寺院に行ったときに一番驚いたのは、その壮麗さでもなく・・・周囲にお店がいっぱいあったことでした。
ご存知のように、新約聖書にはこんなエピソードが出てきます。
神殿の前で商売をやっていた屋台をキリストが打ち壊し
「ここは聖なる場所だ!金儲けをするところではない!」
有名なシーンですよね?
「よりにもよって、カトリックの総本山の寺院の前で商売かよぉ・・・何故にそんなことを許すの?」
私も絶句してしまったわけです。まさかバチカンの人が聖書を読んだことがないはずもないでしょうし・・・
まさに聖書の言葉ですと、「言葉は聞いたが、内容は理解しなかった。」ということなんでしょうか?バチカンも、なんと罪深い・・・
勿論、宗教だって現実と折り合いを付けないといけない。何といっても現実に存在する人間を救うのが宗教の目的の一つ。
しかし、ものには限度というものがあるはずです。
ということで、どのような宗教にも必ずある時点で原理主義的な運動が起こってくる。
「この宗教の本来の姿だった、精神的で厳しいスタイルに戻ろうよ!」というわけです。
カトリック圏ですと、ポール・ロワイヤル修道院を中心としたジャンセニストが活躍した時期がありました。
ジャンセニストは、今で言うと原理主義者の典型といえるでしょ?
禁欲的で、ある種、教条的。
そもそもイエス・キリストだって、ユダヤ教における原理主義者ですし・・・
「形を守っていればいいわけではないんだ!
周囲の人が許してくれるから、それでいいというものではないんだ!
一人一人の内面が重要なんだ!」
というわけですからね。典型的な原理主義者の発想です。
ロシア正教においても、分離派の運動がありました。
ロシア正教の主流から分離して精神的で厳しい宗教活動を行った一派です。
オペラ・ファンの方はロシアの分離派の問題を扱ったムソルグスキーのオペラ「ホヴァンスティーナ」でご存知でしょう。
分離派はロシア語でラスコリーニコフ。
ラスコリーニコフというとドストエフスキーの「罪と罰」の主人公の名前です。
つまり小説「罪と罰」は「宗教的原理主義者(=分離派)が、金の亡者(=質屋のばあさん)を惨殺するシーン」で始まるわけです。
19世紀のロシアの小説と全く同じシーンで21世紀が始まったことを考えると、
人類は全く進歩してない。昔も今も同じことをやっているだけ・・・
ということが実感できます。
・・・念のため申し上げますが、あの同時多発テロ事件について、アメリカ人が金の亡者だと申し上げているわけではありません。そう思っている人が起こした事件だということです。
さてさて、長い前置きですが、今回取り上げるのはパゾリーニ監督の「奇跡の丘」。
原題を直訳すると「マタイによる福音」で・・・新約聖書のマタイ伝の映画化といえます。
ストーリーはまさにマタイ伝そのもの。
では何故にマタイなの?
何故、ルカやマルコやヨハネではないの?
福音史家にも4人いるわけですからね。その選択における意味もあるでしょ?
どんな観点から、マタイを選択したの?
まずもって、ヨハネは文学的なので映画の原作には向かない。
ヨハネによる福音書は読むものであって、見るものではない。
あとマルコとかルカでもいいのでしょうが、マタイには大きなメリットがあるわけ。
バッハが音楽を付けた「マタイ受難曲」の音楽が使える。
あのすばらしい音楽を使えるのはメリットですよね?マルコやルカだとそういうわけにはいかない。
このパゾリーニ監督の「奇跡の丘」でも、当然のこととしてバッハの「マタイ受難曲」が使われています。 今回はその意図を考えてみたいと思います。
しかし、パゾリーニ監督が聖書のマタイ伝を映画化するに当たって、バッハのマタイ受難曲を使うってそんなにメリットなのかな?
何と言ってもバッハのマタイ受難曲はドイツ語の歌詞。イタリア人には理解できないでしょう。もうひとつ問題があります。バッハはプロテスタントであって、カトリックにしてみれば異端に属するもの。かつては長年にわたる戦争もやっていたわけですから、よりにもよって聖なるキリストを描くに当たって、使いにくい音楽でもあるわけです。
流行音楽だったら、その作り手がプロテスタントに属する人であっても、それほど問題にはならない。しかし、宗教的な題材を描く際には、その作り手の宗教的なバックボーンにも目を向ける必要があるわけ。だから、キリストの受難を、マタイ受難曲を使いながら描いていくスタイルを持つカトリック系の作品となると、ちょっと矛盾している。
しかし、どうやらパゾリーニはあえてプロテスタントの音楽としてバッハを使ったように見受けられます。というのはロシア正教圏からの代表?としてプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」も使われているからです。
プロコフィエフの音楽の使われ方は、ヘロデによる嬰児虐殺のシーンなどで使われています。確かに、その音楽は、死者累々の場面にはふさわしい音楽ですからね。
しかし、そのような場面でも別にプロコフィエフでなくてもいいわけですし、あるいは無理に音楽を付けなくても問題はない。むしろ、あえてプロコフィエフの音楽を使うことにより、ロシア正教圏代表のプロコフィエフと、プロテスタント圏代表のバッハ、そしてカトリック圏代表のモーツァルト(それにウェーベルンも?)の三位一体を狙っていたのでは?
単なるカトリックの範疇を超えて、キリストを描くこと。そのためにはカトリック,ロシア正教,プロテスタント・・・そしてアメリカのゴスペルと様々な文化圏のキリストに関わる音楽を使う・・・そのような魂胆があったように見受けられます。プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」はキリストとは縁がありませんが・・・ロシア圏では宗教曲って昔からあまりありませんものね。
プロテスタント陣営から参加したバッハの音楽ですが、マタイ受難曲のみを使っているわけではありません。ロ短調ミサのラストの部分「ドナ・ノヴィス・パーチェム」やヴァイオリン協奏曲も使われています。ロ短調ミサはプロテスタントのバッハの典礼音楽ということで、これもまた、ちょっと矛盾した存在といますね。
プロテスタントではそのようなミサ曲は使わないんですから。これはプロテスタントとカトリックの橋渡しくらいの意味もあるのでしょう。カトリック圏のウェーベルンがバッハの音楽を編曲したリチェルカーレも同じ意味もあるのでは?
とりあえずここでは「マタイ受難曲」を中心に考えてみることにいたします。
バッハの「マタイ受難曲」は新約聖書のマタイ伝に自由詩やコラールを追加したもの。全曲を演奏するには3時間はかかる超大作です。ですから、映画においてそのマタイ受難曲を使う場合でも「3時間の全曲の中からどの部分を選ぶのか?」という点に注目する必要があります。
パゾリーニはマタイ受難曲から2箇所使っている。
ひとつは「哀れみください。わが神よ!」。
タルコフスキーの作品では「ストーカー」と「サクリファイス」で使われています。
使われるもう一つが「マタイ受難曲」の最後「涙ながらにひざまずき・・・」
2つともマタイ受難曲でも自由詩に属する部分です。聖書の詩句でもなく、コラールでもない。イエスではない民衆の感情を歌った部分といえます。
「哀れみください。わが神よ。」では、イエスを否認したペトロの悲しみが歌われるわけですが、イエスの否認はペテロだけでなく民衆すべての問題ですよね?
そしてマタイ受難曲のラスト「涙ながらにひざまずき・・・」も民衆の感情を歌っているわけです。
ですからこのパゾリーニの「奇跡の丘」では、キリスト本人よりも、キリストを死に追いやった民衆の問題がテーマであるといえるわけです。聖なるものを認めない民衆。
この映画では、キリストが熱く説教するシーンが、長時間にわたって続きます。
「どうして人の目の中のチリを指摘するのに、自分の目に梁があるのに気がつかないのか?」
「彼らは重い荷をくくって、人の方に乗せ、自分は指一本さわろうとしません。」
「宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場で挨拶されたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」
・・・笑っていいのか?悲しんでいいのか?2000年前も21世紀の現在も、人類は全く変わっていませんね。
あるいはこのような言葉もあります。
「愚か者!あなた方は預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って
『私たちが先祖の時代に生きていれば、預言者たちの血を流すような仲間にならなかっただろう。』
と言います。こうして預言者を殺したものたちの子孫だと自分で証言しています。」
この言葉から、大昔より存在する創作する芸術家と、それを外から論評する評論家の関係を想起することは簡単でしょう。評論家っていつもこんな感じですよね?先代の評論家を否定し、同時代の芸術家も否定する・・・これって、典型的な評論家のスタイルです。
昔も今も、そして世界中どこも同じなんですね。パゾリーニ監督はそのような、創作する芸術家としての共感からこの部分を引用したのでしょう。
イエスと民衆の関係から、パゾリーニ監督は芸術家と民衆の問題が提起されているわけです。
実際として、パゾリーニは自分自身とイエス・キリストを重ね合わせている。
1. 父親との微妙な関係。
2. 周囲の人に混乱をもたらす。
3. 神から霊感を受けている。
勿論、最大の共通点は迫害と受難でしょう。
聖書に記述されたキリストの行動を読んでみるとお分かりになるでしょうが、キリストの行動は典型的なカルト宗教のもの。
それこそ、神殿の前で商売をやっていた人を妨害する威力業務妨害をやったり、マジメに漁師をやっている人たちを布教活動に引っ張り込んだり、「持っているお金を全部寄付せよ!」とか言ったり、「家族なんかと関わるな!」と言ったり・・・
しかし本来は宗教というものは現実社会を重視するのではなく、現実を超えた精神的な世界を重視するものですから、現実の生活と齟齬が出て来るのは当然なんですね。
では、それこそオウム真理教の麻原氏も何百年か後には聖人扱いになるの?
それはありませんよ。だって「この世のことより大切なことがある。」という言葉はいいとして、それについて、ちゃんと実行しないとね。
麻原氏のように、この世に富を蓄えたりしては言行不一致ですよね?
また、この世より大切なことがあるのですから、自分の命に拘っていてはダメなんですね。
堂々と・・・あるいは従容と死に赴かないとね。
死に赴くこと・・・受難を受け入れること、これこそ神を受け入れている証でしょ?
裁判でブツブツ言っているようではダメなんですね。ちゃんと黙って死なないと・・・
死んでこそ聖人への道といえるわけです。
これについては、パゾリーニ監督だって十分にわかっていたことでしょう。
パゾリーニ監督が「キリストにならいて」75年に撲殺されたのは、勿論意図的でしょう。
パゾリーニ監督は無神論者だったとか解説されています。
しかし、パゾリーニはキリストには共感を寄せていたわけ。
世の中の不正と戦う同志として・・・
そして聖なるものに殉じる芸術家として・・・
バッハのマタイ受難曲におけるイエスの否認の部分を取り上げることによって、2000年前の民衆がイエスを否認し死に追いやったように、今現在の我々が聖なるものを放擲していることを確認しているわけです。
パゾリーニ監督はデビュー作「アッカトーネ」でもマタイ受難曲のラストを使っています。貧民街の娼婦のヒモが主人公の「アッカトーネ」。あの作品では受難という面が強調されていました。
この「奇跡の丘」では、聖なるものの受難という面だけでなく、「哀れみたまえ、我が神よ。」も使うことにより、聖なるものを受難に追い込む民衆の問題も提起しているわけです。
そしてイエスが捕縛されてから映画の視点は、イエスからむしろ離れる傾向があります。意図的にペテロの視点になったり、ヨハネの視点になったりする。
ペテロやヨハネは12使徒としてキリストにつながるものとしての扱いではなく、精神的な弱さを持つ我々の代表としての扱いです。
この「奇跡の丘」という作品は、キリストを主人公とするより、民衆を主人公としているわけです。だからこそ「マタイ受難曲」で民衆の感情を歌った部分が使われているわけ。
あるいはこのようなセリフがあります。旧約聖書の言葉なのかな?
『耳で聞くとも理解できぬであろう。目で見るとも判別できぬであろう。
人々の心は感覚を失っている。彼らは耳を固くし、目を閉じた・・・』
ほぼ同じようなセリフがタルコフスキー監督の「ストーカー」でもありました。
タルコフスキーの「ストーカー」と、今回のバゾリーニは、同じ音楽を使っているだけでなく、同じようなセリフも登場するわけ。
民衆は神の言葉を聞く意思がなくなっている。
神の啓示を受けた芸術家の言葉を聞く意思がなくなっている。
パゾリーニは、聖なるものを受け入れない民衆に対して怒っている。
ニーチェ流にいう、「神は死んだ!我々が殺してしまった!」そのもの。
パゾリーニの行動と生涯は、神殿の前で商売をしている屋台を打ち壊したイエスと同じ。
彼もゴダールと同じように、聖なるものに殉じる伝統的な存在と言えるでしょう。
まさに「パッション」を受け入れる存在として自分自身を規定している。
昔も今も芸術家がやっていることは同じ。そしてそれを認めない民衆も同じ。
そんな何千年も変わらない人間の姿が、マタイ受難曲の中での選曲で示されているわけです。
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-07/04-07-20.htm
-
3:777
:
2022/05/30 (Mon) 05:35:04
-
バッハ『マタイ受難曲』
Mengelberg - Bach : Matthew Passion Part 1 (1939)
https://www.youtube.com/watch?v=Zs2HIpLEsPo&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=175
Mengelberg - Bach : Matthew Passion - Part 2 (1939)
https://www.youtube.com/watch?v=Atv_FVuqF0s&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=174
Willem Mengelberg cond. / Concertgebouw Orchestra of Amsterdam
Karl Erb, Tenor (Evangelist), Willem Ravelli, Bass (Jesus)
Jo Vincent - Soprano, Ilona Durigo - Alto
Louis van Tuler - Tenor, Herman Schey - Bass
Amsterdam Toonkunst Choir "Zanglust" Boys' Choir
Recorded 2nd Apr. 1939, Amsterdam - Live
transferred from the first issue of Japan Fhilips / LP- FL-5561/3
Mengelberg - Bach : Matthew Passion - Part 2 (1939-Live)-repost
https://www.youtube.com/watch?v=a9011ReoBok&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=179
Willem Mengelberg cond. / Concertgebouw Orchestra of Amsterdam
Karl Erb, Tenor (Evangelist), Willem Ravelli, Bass (Jesus)
Jo Vincent - Soprano, Ilona Durigo - Alto
Louis van Tuler - Tenor, Herman Schey - Bass
Amsterdam Toonkunst Choir "Zanglust" Boys' Choir
Recorded 2nd Apr. 1939, Amsterdam - Live
transferred from the first issue of Japan Fhilips / LP- FL-5561/3
Willem Mengelberg - Bach : from Matthäus Passion マタイ受難曲より(1936-Live)
https://www.youtube.com/watch?v=4f7azEsJwBY&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=45
Jo Vincent, soprano、Ilona Durigo, contralto
Karl Erb, tenor、Willem Ravelli, bass
Amsterdam Toonkunstkoor, Jongenskoor Zanglust
Willem Mengelberg cond,/ Amsterdam Concertgebouw Orch.
recorded 5 April, 1936 - Live
33 - Choral O Mensch, bewein dein Sünde groß (00:00)
50 - Rezitativ Erbarm es, Gott (08:33)
52 - Choral O Haupt voll Blut und Wunden (10:11)
58 - Choral Wenn ich einmal soll scheiden (13:00)
62 - Rezitativ Nun ist der Herr zur Ruh gebracht (16:00)
63 - Choral Wir setzen uns mit Tränen nieder
詳細は
バッハ 『マタイ受難曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/827.html