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遊牧民の起源

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2025/04/13 (Sun) 01:18:21

遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年 (講談社選書メチエ 818) – 2025/1/16
白石 典之 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/406538320X

ユーラシアの遊牧民が、世界史のなかで果たしてきた役割の大きさについては、近年、広く知られている。黒海沿岸にまで黄金文化を展開したスキタイや、歴代の中華王朝を脅かした匈奴や鮮卑、突厥などの存在、さらに13世紀にモンゴルが築いたユーラシアの東西にまたがる大帝国は世界史の転換点になったといわれる。
しかし、こうして語られる壮大な歴史像に、本書の著者は心を躍らせる一方で、不満も感じてきたという。そのなかに「遊牧民の姿は見えなかった」というのだ。
ユーラシア大陸を人体に見立てれば、モンゴル高原がその心臓部にあたるという。そこに暮らす遊牧民たちの動静が生み出す人と物の流れが、血流のように各地に行きわたり、人種、民族、宗教の垣根を越えて新しい細胞を目覚めさせてきたのだ。本書は、30年以上モンゴル各地の遺跡を発掘してきた著者が、その成果を集成した「遊牧王朝全史」である。
近年の考古学は理系研究者との協業により、新たな知見を次々もたらしている。例えば、出土人骨の最新のゲノム解析では、多数の東ユーラシア人を少数の西ユーラシア系エリートが統治していた匈奴という遊牧王朝の実態がわかってきている。また、歯石からは摂取していた乳の種類もわかるという。さらに、権力の源泉となる鉄はどこから来たのか、モンゴル帝国が営んだカラコルム首都圏の実態は――。文献史料には表れてこない、遊牧と騎乗の起源の探究に始まる「馬と遊牧のユーラシア史」を知る必読の書。

目次
はじめに
第一章 始動する遊牧民族――青銅器・初期鉄器時代
1 遊牧民の登場
2 家畜馬の到来
3 エリート層の形成
4 遊牧王朝の萌芽
第二章 台頭する遊牧王権――匈奴、鮮卑、柔然
1 ゴビ砂漠の攻防
2 シン・匈奴像
3 単于の素顔
4 みずから鮮卑と号す
5 カガンの登場
第三章 開化する遊牧文明――突厥、ウイグル
1 トルコ民族の勃興
2 大国の鼻綱
3 突厥の再興
4 ウイグルの興亡
第四章 興隆する遊牧世界――契丹、阻卜、モンゴル
1 契丹と阻卜
2 モンゴル部族の登場
3 最初の首都
第五章 変容する遊牧社会――イェケ・モンゴル・ウルス
1 国際都市の繁栄
2 大造営の時代
3 亡国の影
おわりに

▲△▽▼


雑記帳 2025年04月12日
白石典之『遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年』
https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_12.html

 講談社選書メチエの一冊として、2025年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はおもにモンゴル高原を対象として、考古学の知見を活用した遊牧民の歴史の概説で、遊牧民の具体的な生活と行動を浮き彫りにしているところが特徴です。モンゴル高原は、西をアルタイ山脈、北をサヤン山脈とヤブロノーブイ山脈、東を大興安嶺山脈、南を陰山山脈と祁連山脈によって囲まれた、平均標高が1000mを超える大地です。本書ではモンゴル高原(モンゴリア)は地理的に、ゴビ砂漠以北の北モンゴリアと、ゴビ砂漠南縁以南の南モンゴリアに二分されています。本書はまず、遊牧が牧畜という生業の一形態で、一ヶ所に居を定めず、水や草を求める家畜とともに移動する、と指摘します。遊牧の形態は多様で、アフガニスタンのパシュトゥーンは冬季だけ村落で暮らし、アジア西部のベドウィンは遊動性がきわめて高い生活を送っています。モンゴル高原では、春夏秋冬の4ヶ所の定まった季節営地の間を1年かけて周回する様式が古くから採用されてきました。


●遊牧の起源と展開

 遊牧の起源については、遊動的な狩猟採集民が野生の有蹄類の群を追う過程で農耕文化とは関係なく進行した、との説もありますが、近年の考古学的知見からは、遊牧の前提に牧畜があり、牧畜の始まりには農耕の開始と定住化があった、と考えられています。現時点で最古の牧畜の痕跡が確認されている地域はアジア西部で、牧畜に先行して紀元前9000年頃から穀物栽培が行われ、定住化も進み(定住化が農耕に先行する場合もあります)、紀元前8500年頃には、トルコ東南部のタウロス(トロス)山脈付近で、野生のヒツジおよびヤギの家畜化が始まりました。初期の家畜の用途はおもに肉や毛皮でしたが、屠畜だけなら狩猟の方が効率的とも言えるので、家畜化では乳利用が重要だったのではないか、と本書は推測します。紀元前7000年頃までには、乳利用は本格化したようです。農耕と牧畜によって人口が増加し、集落の大型化と農耕地拡大につながり、集落の内部もしくは近接地に置かれていた家畜の飼育圏は、農耕地との競合を避けて遠隔地へと移りました。その頃、肥沃な三日月地帯の西部に位置するレヴァントでは、乾燥化によって森林が衰退し、草原が拡大したので、家畜を有する一部の集団は拠点集落を維持しつつ、放牧地を変えながら周回移動するようになりました(移牧)。さらに乾燥化の進展した地域では紀元前7000年頃に、より移動性の高い移牧が行われるようになり、これが遊牧の萌芽となります。

 紀元前6000年頃までに、牧畜はコーカサス山脈にまで伝わり、コーカサス山脈南麓の半農半牧の集落では、周辺でヒツジとヤギを日常的に放牧しつつ、夏には高山、冬には山裾で、標高差を利用したヒツジとヤギの垂直方向の移牧も行なわれていました。肥沃な三日月地帯からコーカサス山脈にまで牧畜が伝わるまでに、集落地での家畜の係留、集落周辺での放牧、標高差を利用した季節周回型の移牧など、複数の牧畜技術が確立しました。牧畜を生業とした集団は、さまざまな牧畜技術の中から、各地域の地形や気候に適したものを選択したため、牧畜が広範な地域に伝わったのではないか、と本書は指摘します。じっさい、牧畜は急速に伝播したようで、紀元前6000年頃にはアジア中央部東方にも転がり、紀元前4000年頃には、カスピ海北岸からウラル山脈南麓の草原地帯と森林地帯の境界付近に、半農半牧の定着的集落が形成され、その一つであるカザフスタン西北部のボタイ(Botai)遺跡では、大量のウマの骨が出土しており、馬乳を利用していた痕跡が確認されていますが、ボタイ遺跡のウマから現在の家畜ウマへの遺伝的寄与は限定的と推測されています(Librado et al., 2024)。

 紀元前3100年頃に、カザフ平原の草原と森林が混在する地帯で、青銅器を使用し、半農半牧で、ウシとヒツジとヤギを家畜としていた、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化が成立しました。この頃には、カザフ平原を含むアジア中央部東方で乾燥化傾向が見られ、バルハシ湖周辺では森林が縮小する一方で、草原が拡大します。この乾燥化の過程でアファナシェヴォ文化集団は東漸し、紀元前3000年頃にはアルタイ山脈からハンガイ産地南麓に出現しました。当時のアルタイ山脈は、比較的温暖かつ湿潤で、森林が保たれていました。アファナシェヴォ文化の東進によってモンゴル高原には青銅器がもたらされましたが、実用的ではなく、北モンゴリアは考古学的時代区分ではこれ以降が青銅器時代とされていますが、まだ利器としては石器が広く使われていました。アファナシェヴォ文化の墓は、直系10m、高さ0.5m程度の低墳丘の円形積石塚で、ほぼ中央に浅く掘った墓坑が設けられ、その中に手足を曲げた姿勢で遺体が安置されていました。同位体分析に基づくと、アルタイ山脈のアファナシェヴォ文化集団は、穀物を摂取しておらず、おもに草食動物に依存していたようです。モンゴル高原における牧畜の初現はアファナシェヴォ文化の到来とされており、この集団は遺伝的にはユーラシア西部集団の構成要素を示していますが、中期青銅器時代以降、その遺伝的構成要素はモンゴル高原の人類集団からほぼ消滅したようです(Jeong et al., 2020)。

 紀元前2500年頃、アルタイ山脈北部に新たな様式の墓地が出現し、その径は20m、高さは2m程度で、円形積石墓です。その傍らには人物を模した石像(石人)が立っており、埋葬施設は深さ3mほどの竪坑で、その底に大きな板石を用いた箱式石棺が置かれました。この様式の墓の分布はアルタイ山脈北部に限定されており、地域の環境に適応し、在地化した集団が残した、と本書は推測します。この様式の墓は東トルキスタン北部のイルティシュ川流域に高頻度で分布し、モンゴル国内でも30ヶ所程度が知られており、チェムルチェグ(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化と呼ばれています。チェムルチェグ文化の墓から出土した家畜骨では、家畜ウマの骨は確認されていませんが、野生ウマの寛骨が発見されていません。チェムルチェグ文化の人類遺骸からは、ヤギとヒツジの乳の利用の痕跡は確認されていますが、馬乳を利用していた痕跡は認められませんでした。チェムルチェグ文化集団は遺伝的に、ユーラシア東西の混合と示されています(Jeong et al., 2020)。この地域の在来集団は、季節で棲息水域を変える淡水魚や、群れで季節移動するシカなどを追っており、遊動性が高かったので、牧畜とは親和性がきわめて高く、在来集団と西方から到来した牧畜の結びつきは当然の帰結だった、と本書は指摘します。本書は、北モンゴリアにおける遊牧の初現を、家畜を伴う季節周回型の移動生活の始まりと把握していますが、遊牧が北モンゴリアで始まったわけではなく、アジア西部起源の牧畜にすでに遊牧の選択が内包されており、アルタイ山脈の環境において最も有効な方式として選択されたにすぎない、と指摘します。紀元前2000年頃には、アルタイ山脈周辺で乾燥化と寒冷化によって森林の減少と草原化が進み、これは遊牧の拡大には好都合だったものの、乾燥化と寒冷化は人類にとって好ましい状況とは言えません。一方、アルタイ山脈の東方のモンゴル高原西北部の平原地帯では、気候が乾燥から湿潤傾向へと変わり、家畜の好むイネ科植物の優占する草原が拡大し、引き続き遊牧が行なわれました。

 紀元前1500年頃には、シベリア南部のエニセイ川上流や北モンゴリア西北部に新たな様式の墓が出現します。この墓は、地表に人頭大の礫を円形もしくは方形に低く積み上げ、塚の四隅に立石を設置し、石積みの径もしくは1辺の多くは5m前後でした。被葬者は、その積石塚直下の深さ1mほどの竪坑に、西北に頭を向け、仰向けで足を延ばした仰臥伸展か、左半身を下にして膝を曲げた左側身屈肢の姿勢で安置され、墓坑は何枚かの板石で閉塞されており、副葬品にはわずかな土器や石器や石製装飾品がありました。こうした墓の被葬者は、遺伝的にユーラシア西部的な構成要素を主体としたユーラシア東部的な構成要素との混合で、ウシやヒツジやヤギの乳を利用していました。紀元前1400年頃には、積石塚は円墳状に高く大型化し、四隅の立石が消えた代わりに、大型の礫を配した石囲いが塚を一巡し、こうした墓はヒルギスールと呼ばれています。

 紀元前1300年頃には、ヒルギスールの傍らに高さ0.5~3mの石柱が立てられるようになり、石柱の表面には多くの場合、誇張された野生動物や器物が陰刻され、シカの姿も描かれていることから、この石柱は鹿石とも呼ばれています。こうしたヒルギスールと鹿石から構成される構造物は、鹿石ヒルギスール複合と呼ばれています。鹿石ヒルギスール複合のうち、初期段階や小型のものはおおむね墓のようですが、積石塚の径が10m超の場合には、墓ではなかったこともあるようです。大型のヒルギスールでは、人骨のうち幼児の割合が、モンゴル高原の他の青銅器時代文化の1割と比較して3割と高く、成人の埋葬事例でも大腿骨以下だけのこともあり、純然たる墓というよりも、何らかの祭祀の場だった、と本書は推測しています。鹿石ヒルギスール複合の担い手の系譜はよく分かっていませんが、シベリア西南部のエニセイ川中流域のミヌシンスク盆地を中心に広がっていた、カラスク(Karasuk)文化(紀元前1400~紀元前1000年頃)の影響が指摘されています。カラスク文化の担い手については、遺伝的にユーラシア西部系と推測されています(Guarino-Vignon et al., 2022)。

 ヒルギスールの外側のサテライト集石の礫の下からはヒツジなどの家畜骨が発見されていますが、紀元前1250年頃以降はほぼウマの頭部が発見されています。同位体分析から、このウマは家畜として飼育されており、遺伝的にはウラル地方で栄えてシンタシュタ(Sintashta)文化のウマと関連があります(Librado et al., 2021、Librado et al., 2024)。シンタシュタ文化では輻のある車輪が出現し、ウマはそうした車両の牽引にも使われたようです。家畜化されたウマがどのようにモンゴル高原にもたらされたのか、よく分かっていませんが、ヒルギスールで発見された人類遺骸のプロテオーム(タンパク質の総体)解析から、馬乳の利用が紀元前1420~紀元前1270年前頃までさかのぼる、と推測されています。馬乳の痕跡が見つかった紀元前1270年頃のオリアスタイ(ウリアスタイ)・ゴル(Uliastai gol)遺跡の人類遺骸は、母系でも父系でもユーラシア西部系統です(Jeong et al., 2020)。オリアスタイ・ゴル遺跡には、アジア中央部から天山山脈北麓沿いに浸透してきたアンドロノヴォ(Andronovo)文化(シンタシュタ文化はアンドロノヴォ文化の一部とされています)の影響が見られます。シンタシュタ文化の輻のある車輪を用いた馬車は耐久性と軽量な点で円盤形車輪よりも優れていたためか、アンドロノヴォ文化で広がり、北モンゴリア西部にもアンドロノヴォ文化を介して家畜ウマが伝わった、と推測されています。


●遊牧王朝前史

 北モンゴリアでは、家畜ウマをサテライト集石に納めるようになった頃にヒルギスール複合が巨大化し、葬られたウマでは6~15歳の雄がかなりの割合を占めていたので、ウマを供出させ、労働力も挑発できる上流階層が鹿石ヒルギスール文化に存在していた可能性も指摘されています。ただ、上流階層の墓にしては、巨大ヒルギスールの埋葬施設が簡素で、副葬品が乏しい、とも指摘されています。本書は、巨大な鹿石ヒルギスール複合は、上流階層の墓ではなく、共同体の統合と連帯の象徴として築かれた、との説が有力であることを指摘します。巨大な鹿石ヒルギスール複合を築いた集団は遠方の集団ともつながりを有するようになり、それを可能としたのはウマの機動力だった、と本書は推測します。その証拠となるのが、アルタイ山脈やハンガイ山地の岩壁画に刻まれた馬車です。騎乗によって移動力はさらに増大しますが、いつ騎乗が始まったのか、今でも議論になっています。騎乗の起源地も不明ですが、本書は多元的に騎乗が始まった可能性も指摘します。北モンゴリアにおいては、紀元前千年紀初めに騎馬遊牧民が出現したようです。騎乗をより安定させる鐙の確実な出現はかなり遅れたようで、確認されている最古級の安全な硬質の鎧は西晋期まで下りますが、それ以前により危険な皮革や植物繊維で鐙が作られていた可能性もあるそうです。北モンゴリアにおける最古の鐙の年代は、現時点では5~6世紀頃で、柔然期に相当します。

 北モンゴリア西北部で青銅器時代が始まった頃、ゴビ地域の北モンゴリア東南部では石器時代が続いており、西北部よりも湿潤なため生計は狩猟に基づいていて、当初、青銅器や牧畜は流入せず、高度な石器技術に基づいて製作された玉は、黄河上流域の彩文土器と交換されたようです。紀元前2000年頃にゴビ地域で急激な乾燥化が始まると、ゴビ地域から陰山山脈周辺にかけて、以前とは異なる、東に頭を向けた伸展の姿勢でうつ伏せに安置する葬制が出現します(伏臥葬文化)。本書はこの伏臥葬文化の墓を、遺跡名に因んで「テウシ型墓」と呼んでいます。この頃にはゴビ地域にも青銅器が到来し、伏臥葬文化集団は遺伝的にはほぼ在来のユーラシア東部系統でしたが、黄河流域のオルドス地域に由来する構成要素も見られます(Jeong et al., 2020)。オルドス地域の青銅器時代でも伏臥葬が見られ、伏臥葬文化の源流としてオルドス地域が推測されています。ゴビ地域に定着した伏臥葬文化では、紀元前1200年頃以降に鹿石ヒルギスール文化の影響が見られるようになります。馬車を有する鹿石ヒルギスール文化は伏臥葬文化に対して優勢だったようですが、紀元前1100~紀元前900年頃には、伏臥葬文化でもウマの痕跡が確認されるようになり、伏臥葬文化はハンガイ山地南麓とオルホン川やトーラ川やヘルレン川の流域と後バイカル地域へと拡大します。ヒルギスールの一部を壊してテウシ型墓を築いた事例もあることから、鹿石ヒルギスール文化と伏臥葬文化の力関係が逆転した可能性も考えられます。

 紀元前1000~紀元前800年頃に北モンゴリア東南部で、被葬者はうつ伏せではなく仰向けで安置されるようになり、縁辺が内側に湾曲する長方形積石墓ではなく、大きめの礫で縁辺を四角に直接的に囲む形態の四角墓へと変わります。一部の墓では縁辺の囲みに衝立状の板石が設置され、板石墓と呼ばれています。こうした方形の墓を築いた文化は、四角墓文化と呼ばれています。四角墓の1辺の長さは5m前後が多く、板石墓では衝立状の砕石の高さは10cm~ヒトの背丈ほどまでおり、時代が下るにつれて高くなる傾向にあります。四角墓の中央には、1人を収容できる大きさの深さ0.5~1mの素掘りの墓坑が設けられ、東頭位の埋葬姿勢や四角の墓形は伏臥葬文化に由来すると考えられており、墓坑を分厚い板石で閉塞する点は小型のヒルギスールと共通しているので、四角墓文化は伏臥葬文化と鹿石ヒルギスール文化の融合で形成された、と推測されています。四角墓文化の担い手は遺伝的に、8割ほどのユーラシア東部系統と2割ほどユーラシア西部系の混合と示されています(Jeong et al., 2020)。四角墓には、以前の北モンゴリアの青銅器時代の墓と比較して副葬品が多く、青銅器も含まれています。四角墓文化と鹿石ヒルギスール文化では、青銅器技術に違いが見られます。四角墓では青銅製の冑も出土しており、その所有者は軍団を指揮する上流階層と考えられています。

 北モンゴリアで軍事指導者である上流階層が出現した頃に、その西北に位置するトゥバ地域では遺跡数が顕著に増加します。サヤン山脈とタンヌ山脈に囲まれた狭隘な土地で、エニセイ川の源流があるトゥバ地域では、紀元前9世紀頃に湿潤化によって針葉樹林と草原が斑状に広がる森林草原地帯へと移行しました。これが人口増加、さらには遺跡数増加につながり、アルジャン文化が形成されました。アルジャン文化の中心地の一つであるウユク盆地にあるクルガン(Kurgan、墳墓、墳丘)のいくつかの規模は、強力な王権の存在を示唆するほど大きく、豪華な副葬品が多数発見されました。

 紀元前7世紀中葉には、トゥバ地域でアルディ・ベリ文化が始まり、鉄器の使用が重要な特徴です。このトゥバ地域集団は遺伝的に、ユーラシア西部系統主体からユーラシア東部系統優勢へと変わったことを示しており(Jeong et al., 2020)、そのユーラシア東部系構成要素は四角墓文化集団に由来するかもしれません。アルディ・ベリ文化を代表するアルジャン2号墳の男性と女性の被葬者2個体は、母系ではともにユーラシア東部系で、多数の豪華な副葬品があり、有力な政治指導者と考えられています。アルディ・ベリ文化で発見されたウマの遺骸では明確な騎乗痕が確認されており、ウマの機動力によって勢力を拡大したようです。アルディ・ベリ文化期の上流階層の地位は、ゲノム解析から父系での世襲と示されており、これを初源的国家と評価する見解もありますが、本書は遊牧王朝との評価には慎重で、その萌芽を認めることはできる、と指摘しています。トゥバ地域では、部分的に農耕も行なわれていましたが、紀元前6世紀には乾燥化が進み、遺跡数は急減して、新たなクルガンが築かれなくなります。

 紀元前5世紀には、北モンゴリア西北部一帯で再び湿潤化が進み、アルタイ山脈北部ではパジリク(Pazyryk)文化が広がります。パジリクとは墓を意味しており、山間の平坦地に築かれた大小の積石塚がパジリク文化の特徴です。しします。パジリク文化ではウマの殉葬が一般的で、頑丈なウマが広範囲の交配によって生産されていたようです。パジリク文化の一部の被葬者は突出した地位を示唆していますが、墓の規模と副葬品の点でアルディ・ベリ文化の上流階層には遠く及ばない、と本書は評価しています。パジリク文化の担い手は、遊牧民でも定着的側面があり、中国の産物が出土したり、オルドス地域でパジリク文化の影響が見られたりと、広範な地域とのつながりがありました。

 紀元前4世紀頃に、モンゴル領内のオブス湖に流れ込むサギル川流域で遺跡数が増加し、その一つにオブス県オラーンゴム市郊外のチャンドマニ山麓のチャンドマニ遺跡があります。本書によると、英語圏ではチャンドマン(Chandman)遺跡と表記することもあるものの間違いとのことで、当ブログでもこれまでチャンドマン遺跡と表記していましたが、この機会に改めます。チャンドマニ文化はアルディ・ベリ文化とも関連しており、その担い手の遺伝的構成はユーラシア東西系統の混合と示されています(Jeong et al., 2020)。チャンドマニ文化において、社会階層は存在していたようですが、王と呼べるような突出した指導者の存在や、社会階層と遺伝的構成との関連は示されていません。チャンドマニ遺跡やその西隣のパジリク文化の被葬者では損傷が目立ち、紀元前4世紀~紀元前3世紀前半の北モンゴリア北西部は広範囲で戦乱状態だったようです。その要因として、ウマの機動力と鉄器の入手もあった、と考えられます。


●匈奴

 本書が最初の遊牧王朝と評価しているのは匈奴です。匈奴は単于を頂点とし、主要な政治家や軍人は上流階層の氏族から世襲的に選ばれ、そうした氏族は平時には各遊牧領域を治め、有事には配下を率いて戦う領主でした。配下の領民は10世帯を1単位として什長に束ねられ、10人の什長は配下とともに百長に従い、10日の百長は配下とともに千長の指揮下に入って、千長を王侯が監督しました。匈奴の民衆は単于を頂点とする十進法の統治機構に組み込まれ、それが軍事組織として機能しました。前漢(西漢)は建国当初、匈奴に敗れて従属しますが、武帝期には対匈奴政策を武力対決へと方針転換し、匈奴領を侵食していきます。ただ、匈奴は武帝期に漢に屈服したわけではなく、紀元前1世紀中葉における単于をめぐる内紛や気候悪化の結果として、漢に抵抗できなくなり、紀元前51年に呼韓邪単于が漢に臣下の礼をとることになりました。その結果として、モンゴリアではユーラシア東西の要素が融合した文化の出現に至り、それはこの時期以降に出現した方形墓にも見られます。

 本書は、武帝期に築かれた漢軍の前線基地として受降城(Shouxiangcheng、降伏者を受け入れるための要塞との意味)を挙げていますが、その候補地として一部の研究者はモンゴルのウムヌゴビ(Umnugovi)県のノムゴン(Nomgon)郡の南方26kmに位置するバヤン・ボラグ(Bayanbulag)遺跡を比定しているそうです。本書は、バヤン・ボラグ遺跡の城郭が機能した年代(紀元前1世紀~紀元後1世紀初頭)は、史料に見える受降城の年代と矛盾しないものの、受降城との断定は時期尚早と指摘します。バヤン・ボラグ遺跡で発見された人類遺骸の学際的研究(Ma et al., 2025)では、遺伝的には現在の漢人および古代華北人口集団と類似しており、同位体分析から、地理的起源は現在の中国北部と中原で、食性は華北の農耕集団に類似していた、と示されています。そのため、バヤン・ボラグ遺跡が受降城だったか否かはともかく、漢にとって対匈奴の前線基地だったことは間違いなさそうです。

 『史記』の記述から、匈奴は農耕を行なわなかった、と一般的には考えられていますが、『漢書』などから、匈奴の領内で農耕が行なわれたことも窺え、拉致や投降によって匈奴に来た「漢人(という分類を紀元前千年紀後半~千年紀前半の人類史の説明に用いてよいのか、疑問は残りますが)」が農耕の担い手だった、と考えられてきました。この見解は『史記』の記述とも整合的と言えそうですが、近年の考古学的研究では、コムギやオオムギやキビのような、生育期間の短い穀物が栽培されていた可能性も指摘されています。同位体分析から、穀物の消費は匈奴の上流階層にも浸透していた、と示されています。また、匈奴で独自に鉄が生産されていたことも明らかになってきました(関連記事)。匈奴に先行する遊牧民の巨大な政治勢力としてスキタイがあり、その構成員の遺伝的構成要素はユーラシア東西系統の混合だった、と示されています(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)。これは匈奴も同様で(Jeong et al., 2020)、さらには社会的地位による遺伝的構成要素の違いが指摘されており(Lee et al., 2023)、ユーラシア草原地帯における人類集団の移動性の高さを示しているように思います。

 前漢からの禅譲で8年に成立した新は、匈奴に対して融和策から武力侵攻へと方針を変え、モンゴル高原の旱魃および蝗害と単于をめぐる争いのため、匈奴は急速に衰退し、単于の求心力は著しく低下します。48年には、匈奴は南北に分裂し、ゴビ砂漠の南にいた南匈奴が後漢(東漢)に降伏した一方で、ゴビ砂漠以北の北匈奴は独立を維持しました。しかし、南方の後漢と東方の新興勢力である鮮卑の軍事侵攻によって、北匈奴の単于は一族を多数殺され、遠く天山方面へと逃走しました。本書はこれを事実上の匈奴の滅亡と把握しています。本書の対象外となりますが、匈奴とヨーロッパのフンの関係について、フン集団の主要な遺伝的構成要素はユーラシア東部由来ではないものの、匈奴期の最高位の上流階層の一部の個体とフンの一部との遺伝的つながりが示されています(Gnecchi-Ruscone et al., 2025)。


●鮮卑と柔然

 北モンゴリアから匈奴政権が消えると、東方から鮮卑と呼ばれる遊牧集団が台頭してきました。『後漢書』などの歴史的記述から、鮮卑は匈奴時代に大興安嶺山脈周辺にいた古代遊牧民である東胡の子孫と言われてきましたが、最近の古代ゲノム研究(Cai et al., 2023)で、鮮卑の遺伝的起源はアムール川地域の大興安嶺山脈周辺にあり、鮮卑が南下して中原へと勢力を拡大する過程の当初には、拡大先の在来集団からの遺伝的寄与は限定的だったものの、華北に定住し、遊牧民から定住農耕民へと変容するにつれて、地元住民との遺伝的混合が進んでいった、と指摘されています。鮮卑が政治的にまとまり始めたのは2世紀後半で、内紛で勢力が分立したこともあったものの、3世紀中葉には拓跋部という政治勢力が形成され、315年に拓跋部は西晋から代国として認められ、386年には国号を北魏と改め、439年には太武帝が華北を平定します。太武帝は中華王朝の皇帝であるとともに、遊牧世界の支配者とも自認していました。鮮卑の拡大の過程では、匈奴の遺民も加わり、南下して拓跋部が形成されますが、その一方で北モンゴリアにはシベリア方面から集団が新たに南下してきて、考古学的研究からクルムチン文化やブルホトイ文化の影響が指摘されています。こうした集団が、鮮卑の南下を促進したかもしれません。

 そのシベリア南部では、匈奴期から丁零(狄歴もしくは敕勒)と呼ばれる集団が活動していました。4世紀頃の集団は漢文史料では高車丁零と見え、鮮卑の代国の北辺に侵攻しました。4世紀初めには、ゴビ砂漠の南辺で柔然と自称する集団が現れ、漢文史料では蠕蠕や茹茹や芮芮とも表記されています。柔然はユーラシア東部系でモンゴル語族につながる系統の言語を話していたかもしれませんが、本書は、匈奴や鮮卑と同様にさまざまな民族集団が結びついたのだろう、と推測します。柔然は代国に貢物を送っていましたが、380年頃に敵対し、郁久閭氏の社崙が首長の座を奪い、ゴビ砂漠以北に勢力を拡大すると、高車を支配下に収めて、402年には丘豆伐カガン(可汗)と号しました。これ以前に鮮卑でカガンが用いられていた可能性もありますが、確実な事例は社崙が初となります。カガンの后はカトン(可敦)と呼ばれます。柔然はゴビを越えて、天山北路やタリム盆地周辺のオアシス国家や青海地方の吐谷渾にも勢力を拡大し、北魏領への侵入を繰り返しました。480年に高車から離反されると、柔然の勢いは一時的に衰えますが、510年頃に醜奴が豆羅伏跋豆伐カガンと称すると、516年には高車を破るなど、再び勢力を拡大しました。


●突厥とウイグル

 高度な製鉄技術の存在したアルタイ山脈の南麓に、アシナ(阿史那)氏が存在しました。アシナ氏は、アルタイ山脈で精錬された鉄素材から、鍛造によって武器や工具類を生産し、柔然に納めていたようです。アシナ氏はトルコ(テュルク)系氏族で、トルコ(テュルク)は漢文史料において突厥と表記されており、類似の名称の集団に鉄勒がいます。鉄勒は、北周と隋と唐側による北方の草原地帯に暮らすトルコ系集団の総称のようです。トルコ系集団はテュルク語族系言語を話していた、とされますが、よく分からないそうです。丁零や高車もトルコ系集団と考えられており、元々はモンゴル高原に暮らし、遺伝的にはユーラシア東部系だったようですが、9世紀後半以降の西方への拡大に伴って、ユーラシア西部系からの遺伝的影響を受けた、と考えられます。6世紀半ば、アシナ氏の族長である土門は柔然に対して反旗を翻し、柔然が東魏と結んでいたことから、西魏と提携して柔然を滅ぼします。土門は552年にイルリク(伊利、ブミン)・カガンと号し、突厥は隆盛を迎えます。当時華北では北周と北西が抗争しており、北周と北西が突厥の来襲を物資で避けようとしたため、突厥はさらに強大化しますが、583年に突厥は東西に分裂します。突厥は、アシナ氏などの突厥集団やその他のトルコ系集団の鉄勒に、モンゴル系の在来集団やソグド人も存在した、多様な出自の集団から構成されていたようで、時空間的に近いにも関わらず、葬制に大きな違いが見られます。突厥期のゴルワン・ドウ(Gurvan Dov)遺跡では、現在の中国北西部の集団とつながる、ユーラシア東部系の遺伝的構成の個体や、東胡や鮮卑と類似する遺伝的構成の個体が確認されています(Lee et al., 2024)。

 南朝の陳を滅ぼし強大になった隋に対して、突厥は啓民カガンの治世には従属を強め、支配層は「漢化」していき、突厥の重心は「漢地」に近い陰山山脈周辺へと移り、北モンゴリアへの関与が手薄となります。隋の滅亡と唐の建国という漢地の混乱に乗じて、突厥は唐には高圧的な態度に出るものの、すぐに唐は強大化し、突厥は内紛と寒雪害によって急速に弱体化して、北モンゴリアでは鉄勒の諸部族が活性化します。630年に頡利カガンが唐に捕らえられ、突厥第一カガン朝は滅亡し、突厥の遺民の一部は唐に降りました。唐は鉄勒の一派で、アルタイ山脈方面の薛延陀の首長である夷男をカガンに冊立して北モンゴリアを委任しましたが、薛延陀が強大化して唐と対立するようになると、夷男の死による混乱に乗じて、646年に薛延陀を滅ぼしました。唐はこれ以降、北モンゴリアの統治に積極的に関与するようになり、北モンゴリアに6ヶ所の都督府と7ヶ所の刺史州を設置し、唐に帰順した鉄勒の諸部族の首長を任命することで、支配を強化しました。唐は府州の統括機関として都護府を設置し、唐の中央から官吏と軍隊が派遣され、これは682年の第二カガン朝の成立まで続きました。突厥については考古学的研究と古代ゲノム研究も進められており、ショローン・ボンバガル遺跡では、6世紀後半~8世紀後半の被葬者は、ゲノム解析からユーラシア西部系と推測されています。

 突厥第一カガン朝の崩壊後、突厥の中核は南モンゴリアに移り、多くはオルドス地域に居住して唐の支配下に入って、多くは漢地の習俗に同化したものの、不満を募らせていき、騒乱がたびたび起きました。679年の突厥の有力氏族である阿史徳氏の決起はすぐに唐軍に鎮圧されましたが、682年、アシナ氏のクトゥルク(骨咄禄)が決起して、突厥の遺民を糾合し、唐から自立して突厥第二カガン朝―が成立しました。クトゥルクは北モンゴリアの鉄勒諸部族も攻略し、突厥中興の祖となりました。突厥は8世紀前半のビルゲ(毗伽)・カガンの治世には、唐との関係が良好でした。734年、ビルゲ・カガンが大臣に毒殺されると、突厥では内紛が激化し、北モンゴリア西北部のウイグル(回紇)などが挙兵して、突厥は急速に衰退して滅亡に至ります。突厥はモンゴル高原の王権では初めて文字を積極的に活用しましたが、当初それはソグド文字などで、突厥自身の文字ではなく、やがて突厥は独自の文字(突厥文字)を創出しました。突厥文字はソグド文字からの影響が指摘されていますが、違いは大きく、独自性が強いようです。

 突厥の後にモンゴル高原で覇権を確立したのはウイグルで、ヤグラカル(薬羅葛)氏族のクトルグボイラ(骨力裴羅)が744年にキョルビルゲ(闕毗伽)・カガンと号し、唐は懐仁カガンとして冊立しました。ウイグルでは、鉄勒の諸部族が連合して支配層を形成し、カガン位は当初、ウイグル部族のヤグラカル氏族から、795年以降は鉄勒諸部族のエディズ氏族から選ばれました。安史の乱のさい、ウイグルの葛勒カガンは唐の要請に応じて援軍を派遣し、長安と洛陽を反乱軍から脱会し、763年に史朝義を討ち取り、安史の乱を鎮圧したことで唐に対して優位に立ちました。751年に唐がアッバース朝にタラス河畔で大敗したことによって、ソグディアナ地方はイスラム化が急速に進展し、ソグド人の中には新たな拠点としてウイグルを選んだ者もいました。安史の乱以後、唐の貢納によってウイグルは豊かになり、草原世界では都市の造営が本格化します。北モンゴリアではそれまで、遺体は土中に埋葬されていましたが(地下式)、ウイグル期のオロン・ドウ(Olon Dov)遺跡では、地面の高さに遺体が安置されており、その葬制から在地民とは異なる出自が示唆されており、古代ゲノム研究によって、ユーラシア西部系統の強い影響が明らかになりました(Jeong et al., 2020)。9世紀半ば、ウイグルは気候変動によって急速に衰退し、南下してきたキルギスによって滅亡します。ウイグルの遺民は北モンゴリアから東トルキスタンや河西回廊へと移住します。現在のウイグル人は、8~9世紀にかけてのウイグル国との直接的関係はほぼないようです。


●キタイと阻卜とモンゴル

 9世紀半ばにウイグルを滅亡に追い込んだキルギスは北帰し、北モンゴリアでは政治権力の空白が生じます。その間隙に、バイカル湖の南側にいたモンゴル系とされる九姓タタル(九姓韃靼)が北モンゴリア中央部へと南下し、やがて漢文史料に「阻卜(もしくは韃靼)」と見える勢力を形成しました。アルタイ山脈周辺には、八姓オグズと呼ばれ、漢文史料では粘八葛もしくは粘八恩と見えるトルコ系の集団がおり、後にナイマンと呼ばれます。東方では、ヘルレン川流域からフルンボイル地域に実体のよく分からない烏古と敵烈という大規模と思われる集団がおり、大興安嶺山脈中東部のシラムレン川流域には、キタイ(契丹)という強力な遊牧集団が台頭しつつありました。キタイはモンゴル系言語話者集団で、耶律阿保機が首長となると急速に台頭し、耶律阿保機はキタイ(西遼)を建国しました。キタイは北モンゴリア東部へと勢力を拡大し、烏古と敵烈を服従させ、阻卜(阻䪁)への介入を強化します。阻卜はキタイを牽制するため、北宋へ検視しました。キタイは占領地域で、ウイグル期から続く都市造営を強化しました。1004年の澶淵の盟でキタイは宋と和睦し、北方経営に注力します。阻卜はキタイに帰順の意を示しつつも、宋に再度遣使し、キタイを牽制するとともに、メルブ(現在のトルクメニスタン)にいたキリスト教東方教会派の大司教にも使者を派遣するなど、アジア中央部との関係を強化していきます。1012年、阻卜はキタイに叛いたもののすぐに平定され、その後両者は良好な関係を維持します。ヘルレン川北岸のゴルワン・ドウ遺跡で発見されたこの頃の女性1個体(GD2-2)は遺伝的に、主要なユーラシア東部系要素と少ない割合のユーラシア西部系要素で構成されていました(Lee et al., 2024)。隣接する墓から見つかった近い年代の1歳程度の男児(GD1-3)も、GD2-2と類似の遺伝的構成でした(Lee et al., 2024)。モンゴルのボルガン県に位置するザーン・ホショー(Zaan-Khoshuu)遺跡でも阻卜期の被葬者(ZAA003とZAA005)のゲノムが解析されており、ユーラシア東西両系統の混合が示されています(Jeong et al., 2020)。アルタイ山脈では、北モンゴリアとは異なる文化が見られます。

 現代のモンゴル人と直接的につながる祖先集団と考えられているのは、8世紀頃に大興安嶺山脈の麓に広く居住していた、『旧唐書』の「蒙兀室韋」で、アルグン川流域に暮らしていたようです。この現代モンゴル人の主要な祖先と考えられる集団は12世紀にモンゴル高原中央部に出現し、関連史料が乏しいため、本書は考古学的観点でこの問題を検証しています。千年紀の終わり頃に、アルグン川流域を含む後バイカル地域東部一帯には二つの葬制が存在していました。一方は、被葬者が北に頭を向け、仰向けで手足を伸ばす仰臥伸展葬で、副葬品は少なく、鮮卑時代の遺制と考えられています。もう一方は、被葬者の多くが頭を東に向け、身体の右側を下にして膝を軽く曲げた、側身屈肢葬で、副葬品には深鉢形土器とヒツジの肩甲骨と金や青銅製の耳飾りがありました。これは、6~9世紀頃に後バイカル地域全体に広がっていたトルコ系文化の影響と考えられています。こうした複数系統の文化がアルグン川流域に存在していたところへ、10世紀中葉にキタイが侵出し、アルグン川流域における二つの葬制は融合していき、こうした葬制の被葬者は、13世紀の北モンゴリアの集団と遺伝的に近い、と示されており(Jeong et al., 2020)、本書は「原モンゴル集団」と仮称しています。10世紀の気候寒冷化によって、原モンゴル集団はキタイの北辺を侵すことが増えたようです。後バイカル地域では11世紀に鏃の主要な素材が骨から鉄へと変わるなど、軍事力が向上したようで、そうした構想を勝ち抜いたのが原モンゴル集団でした。

 キタイは1125年にジュシェン(Jurchen、女真)の金に滅ぼされ、金はキタイとは異なりモンゴル高原の経営に直接的には介入しなかったので、さまざまな集団が草原地帯に南下しました。これは、権力の空白もありますが、12世紀に寒冷化したことも大きかったようです。その中で集団間の武力紛争と離合集散が激化し、原モンゴル集団から現在につながるモンゴル人集団が形成されます。この過程で、葬制なども変わっていき、東北に頭を向けた仰臥伸展が採用され、副葬品としてはヒツジの肢骨1本が置かれました。こうした葬制は13世紀に北モンゴリア全体に広がっていき、イェケ・モンゴル・ウルスを構成した、「モンゴル人」を表象します。そうした中から、テムジン(チンギス・カン)が現れ、自身とその後継者が世界規模の大帝国を築きます。なお、チンギスは終生カンと名乗り、カガンが無声音化したカアン(ハーン)を名乗り始めたのはチンギスの後継者であるオゴデイなので、チンギスの意識の中では世界征服の意図はなく、目的は交易にあったのではないか、と指摘します。

 モンゴル帝国の都だったカラコルムは、モンゴル高原におけるウイグル期以降の都市造営の本格化の延長線上にあると言えそうで、モンゴル帝国の広範な領域を反映してまさに「国際都市」だったようで、仏教施設とキリスト教施設が考古学的に確認されており、文献に見えるイスラム礼拝堂は考古学的にはまだ確認されていませんが、イスラム教徒の集団墓地が見つかっています。イェケ・モンゴル・ウルス期のモンゴル高原では、都のカラコルムに限らず、建築が盛んでした。クビライの代に成立した大元ウルスでは、大都(北京)で大規模な宮城が造営され、こうしたモンゴル帝国の大規模な建築は、宗主であるクビライも含めて、有力者たちが威信を誇示する目的もあったのでしょう。ただ本書は、こうして建造されたカラコルムなどの都市において、住民の食料調達の難しさといった問題があることを指摘します。カラコルムについては、クビライが政治と経済の重心を漢地の方へとより移すと、北モンゴリアの重要度が低下したため、食料調達には苦労したようです。14世紀の気候悪化と漢地での反乱によって、漢地からカラコルムへの食料輸送はさらに困難になって、カラコルムは衰退しました。この時期のモンゴル高原のタワン・ハイラースト(Tavan Khailaast)遺跡の14~15世紀の被葬者では母親(TK5-8)と息子(TK5-2)の関係が遺伝学的に特定されています(Lee et al., 2024)。現在、モンゴル高原でも人口に占める遊牧民の割合はかつてよりずっと低いでしょうが、歴史的に遊牧民の果たしてきた役割が大きいことは、本書でも改めて示されていると思います。


参考文献:

白石典之(2025)『遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年』(講談社)
https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_12.html

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