紀元前6000年頃までに、牧畜はコーカサス山脈にまで伝わり、コーカサス山脈南麓の半農半牧の集落では、周辺でヒツジとヤギを日常的に放牧しつつ、夏には高山、冬には山裾で、標高差を利用したヒツジとヤギの垂直方向の移牧も行なわれていました。肥沃な三日月地帯からコーカサス山脈にまで牧畜が伝わるまでに、集落地での家畜の係留、集落周辺での放牧、標高差を利用した季節周回型の移牧など、複数の牧畜技術が確立しました。牧畜を生業とした集団は、さまざまな牧畜技術の中から、各地域の地形や気候に適したものを選択したため、牧畜が広範な地域に伝わったのではないか、と本書は指摘します。じっさい、牧畜は急速に伝播したようで、紀元前6000年頃にはアジア中央部東方にも転がり、紀元前4000年頃には、カスピ海北岸からウラル山脈南麓の草原地帯と森林地帯の境界付近に、半農半牧の定着的集落が形成され、その一つであるカザフスタン西北部のボタイ(Botai)遺跡では、大量のウマの骨が出土しており、馬乳を利用していた痕跡が確認されていますが、ボタイ遺跡のウマから現在の家畜ウマへの遺伝的寄与は限定的と推測されています(Librado et al., 2024)。
紀元前3100年頃に、カザフ平原の草原と森林が混在する地帯で、青銅器を使用し、半農半牧で、ウシとヒツジとヤギを家畜としていた、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化が成立しました。この頃には、カザフ平原を含むアジア中央部東方で乾燥化傾向が見られ、バルハシ湖周辺では森林が縮小する一方で、草原が拡大します。この乾燥化の過程でアファナシェヴォ文化集団は東漸し、紀元前3000年頃にはアルタイ山脈からハンガイ産地南麓に出現しました。当時のアルタイ山脈は、比較的温暖かつ湿潤で、森林が保たれていました。アファナシェヴォ文化の東進によってモンゴル高原には青銅器がもたらされましたが、実用的ではなく、北モンゴリアは考古学的時代区分ではこれ以降が青銅器時代とされていますが、まだ利器としては石器が広く使われていました。アファナシェヴォ文化の墓は、直系10m、高さ0.5m程度の低墳丘の円形積石塚で、ほぼ中央に浅く掘った墓坑が設けられ、その中に手足を曲げた姿勢で遺体が安置されていました。同位体分析に基づくと、アルタイ山脈のアファナシェヴォ文化集団は、穀物を摂取しておらず、おもに草食動物に依存していたようです。モンゴル高原における牧畜の初現はアファナシェヴォ文化の到来とされており、この集団は遺伝的にはユーラシア西部集団の構成要素を示していますが、中期青銅器時代以降、その遺伝的構成要素はモンゴル高原の人類集団からほぼ消滅したようです(Jeong et al., 2020)。
紀元前2500年頃、アルタイ山脈北部に新たな様式の墓地が出現し、その径は20m、高さは2m程度で、円形積石墓です。その傍らには人物を模した石像(石人)が立っており、埋葬施設は深さ3mほどの竪坑で、その底に大きな板石を用いた箱式石棺が置かれました。この様式の墓の分布はアルタイ山脈北部に限定されており、地域の環境に適応し、在地化した集団が残した、と本書は推測します。この様式の墓は東トルキスタン北部のイルティシュ川流域に高頻度で分布し、モンゴル国内でも30ヶ所程度が知られており、チェムルチェグ(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化と呼ばれています。チェムルチェグ文化の墓から出土した家畜骨では、家畜ウマの骨は確認されていませんが、野生ウマの寛骨が発見されていません。チェムルチェグ文化の人類遺骸からは、ヤギとヒツジの乳の利用の痕跡は確認されていますが、馬乳を利用していた痕跡は認められませんでした。チェムルチェグ文化集団は遺伝的に、ユーラシア東西の混合と示されています(Jeong et al., 2020)。この地域の在来集団は、季節で棲息水域を変える淡水魚や、群れで季節移動するシカなどを追っており、遊動性が高かったので、牧畜とは親和性がきわめて高く、在来集団と西方から到来した牧畜の結びつきは当然の帰結だった、と本書は指摘します。本書は、北モンゴリアにおける遊牧の初現を、家畜を伴う季節周回型の移動生活の始まりと把握していますが、遊牧が北モンゴリアで始まったわけではなく、アジア西部起源の牧畜にすでに遊牧の選択が内包されており、アルタイ山脈の環境において最も有効な方式として選択されたにすぎない、と指摘します。紀元前2000年頃には、アルタイ山脈周辺で乾燥化と寒冷化によって森林の減少と草原化が進み、これは遊牧の拡大には好都合だったものの、乾燥化と寒冷化は人類にとって好ましい状況とは言えません。一方、アルタイ山脈の東方のモンゴル高原西北部の平原地帯では、気候が乾燥から湿潤傾向へと変わり、家畜の好むイネ科植物の優占する草原が拡大し、引き続き遊牧が行なわれました。
紀元前1300年頃には、ヒルギスールの傍らに高さ0.5~3mの石柱が立てられるようになり、石柱の表面には多くの場合、誇張された野生動物や器物が陰刻され、シカの姿も描かれていることから、この石柱は鹿石とも呼ばれています。こうしたヒルギスールと鹿石から構成される構造物は、鹿石ヒルギスール複合と呼ばれています。鹿石ヒルギスール複合のうち、初期段階や小型のものはおおむね墓のようですが、積石塚の径が10m超の場合には、墓ではなかったこともあるようです。大型のヒルギスールでは、人骨のうち幼児の割合が、モンゴル高原の他の青銅器時代文化の1割と比較して3割と高く、成人の埋葬事例でも大腿骨以下だけのこともあり、純然たる墓というよりも、何らかの祭祀の場だった、と本書は推測しています。鹿石ヒルギスール複合の担い手の系譜はよく分かっていませんが、シベリア西南部のエニセイ川中流域のミヌシンスク盆地を中心に広がっていた、カラスク(Karasuk)文化(紀元前1400~紀元前1000年頃)の影響が指摘されています。カラスク文化の担い手については、遺伝的にユーラシア西部系と推測されています(Guarino-Vignon et al., 2022)。
ヒルギスールの外側のサテライト集石の礫の下からはヒツジなどの家畜骨が発見されていますが、紀元前1250年頃以降はほぼウマの頭部が発見されています。同位体分析から、このウマは家畜として飼育されており、遺伝的にはウラル地方で栄えてシンタシュタ(Sintashta)文化のウマと関連があります(Librado et al., 2021、Librado et al., 2024)。シンタシュタ文化では輻のある車輪が出現し、ウマはそうした車両の牽引にも使われたようです。家畜化されたウマがどのようにモンゴル高原にもたらされたのか、よく分かっていませんが、ヒルギスールで発見された人類遺骸のプロテオーム(タンパク質の総体)解析から、馬乳の利用が紀元前1420~紀元前1270年前頃までさかのぼる、と推測されています。馬乳の痕跡が見つかった紀元前1270年頃のオリアスタイ(ウリアスタイ)・ゴル(Uliastai gol)遺跡の人類遺骸は、母系でも父系でもユーラシア西部系統です(Jeong et al., 2020)。オリアスタイ・ゴル遺跡には、アジア中央部から天山山脈北麓沿いに浸透してきたアンドロノヴォ(Andronovo)文化(シンタシュタ文化はアンドロノヴォ文化の一部とされています)の影響が見られます。シンタシュタ文化の輻のある車輪を用いた馬車は耐久性と軽量な点で円盤形車輪よりも優れていたためか、アンドロノヴォ文化で広がり、北モンゴリア西部にもアンドロノヴォ文化を介して家畜ウマが伝わった、と推測されています。
北モンゴリア西北部で青銅器時代が始まった頃、ゴビ地域の北モンゴリア東南部では石器時代が続いており、西北部よりも湿潤なため生計は狩猟に基づいていて、当初、青銅器や牧畜は流入せず、高度な石器技術に基づいて製作された玉は、黄河上流域の彩文土器と交換されたようです。紀元前2000年頃にゴビ地域で急激な乾燥化が始まると、ゴビ地域から陰山山脈周辺にかけて、以前とは異なる、東に頭を向けた伸展の姿勢でうつ伏せに安置する葬制が出現します(伏臥葬文化)。本書はこの伏臥葬文化の墓を、遺跡名に因んで「テウシ型墓」と呼んでいます。この頃にはゴビ地域にも青銅器が到来し、伏臥葬文化集団は遺伝的にはほぼ在来のユーラシア東部系統でしたが、黄河流域のオルドス地域に由来する構成要素も見られます(Jeong et al., 2020)。オルドス地域の青銅器時代でも伏臥葬が見られ、伏臥葬文化の源流としてオルドス地域が推測されています。ゴビ地域に定着した伏臥葬文化では、紀元前1200年頃以降に鹿石ヒルギスール文化の影響が見られるようになります。馬車を有する鹿石ヒルギスール文化は伏臥葬文化に対して優勢だったようですが、紀元前1100~紀元前900年頃には、伏臥葬文化でもウマの痕跡が確認されるようになり、伏臥葬文化はハンガイ山地南麓とオルホン川やトーラ川やヘルレン川の流域と後バイカル地域へと拡大します。ヒルギスールの一部を壊してテウシ型墓を築いた事例もあることから、鹿石ヒルギスール文化と伏臥葬文化の力関係が逆転した可能性も考えられます。
紀元前1000~紀元前800年頃に北モンゴリア東南部で、被葬者はうつ伏せではなく仰向けで安置されるようになり、縁辺が内側に湾曲する長方形積石墓ではなく、大きめの礫で縁辺を四角に直接的に囲む形態の四角墓へと変わります。一部の墓では縁辺の囲みに衝立状の板石が設置され、板石墓と呼ばれています。こうした方形の墓を築いた文化は、四角墓文化と呼ばれています。四角墓の1辺の長さは5m前後が多く、板石墓では衝立状の砕石の高さは10cm~ヒトの背丈ほどまでおり、時代が下るにつれて高くなる傾向にあります。四角墓の中央には、1人を収容できる大きさの深さ0.5~1mの素掘りの墓坑が設けられ、東頭位の埋葬姿勢や四角の墓形は伏臥葬文化に由来すると考えられており、墓坑を分厚い板石で閉塞する点は小型のヒルギスールと共通しているので、四角墓文化は伏臥葬文化と鹿石ヒルギスール文化の融合で形成された、と推測されています。四角墓文化の担い手は遺伝的に、8割ほどのユーラシア東部系統と2割ほどユーラシア西部系の混合と示されています(Jeong et al., 2020)。四角墓には、以前の北モンゴリアの青銅器時代の墓と比較して副葬品が多く、青銅器も含まれています。四角墓文化と鹿石ヒルギスール文化では、青銅器技術に違いが見られます。四角墓では青銅製の冑も出土しており、その所有者は軍団を指揮する上流階層と考えられています。
紀元前7世紀中葉には、トゥバ地域でアルディ・ベリ文化が始まり、鉄器の使用が重要な特徴です。このトゥバ地域集団は遺伝的に、ユーラシア西部系統主体からユーラシア東部系統優勢へと変わったことを示しており(Jeong et al., 2020)、そのユーラシア東部系構成要素は四角墓文化集団に由来するかもしれません。アルディ・ベリ文化を代表するアルジャン2号墳の男性と女性の被葬者2個体は、母系ではともにユーラシア東部系で、多数の豪華な副葬品があり、有力な政治指導者と考えられています。アルディ・ベリ文化で発見されたウマの遺骸では明確な騎乗痕が確認されており、ウマの機動力によって勢力を拡大したようです。アルディ・ベリ文化期の上流階層の地位は、ゲノム解析から父系での世襲と示されており、これを初源的国家と評価する見解もありますが、本書は遊牧王朝との評価には慎重で、その萌芽を認めることはできる、と指摘しています。トゥバ地域では、部分的に農耕も行なわれていましたが、紀元前6世紀には乾燥化が進み、遺跡数は急減して、新たなクルガンが築かれなくなります。
紀元前4世紀頃に、モンゴル領内のオブス湖に流れ込むサギル川流域で遺跡数が増加し、その一つにオブス県オラーンゴム市郊外のチャンドマニ山麓のチャンドマニ遺跡があります。本書によると、英語圏ではチャンドマン(Chandman)遺跡と表記することもあるものの間違いとのことで、当ブログでもこれまでチャンドマン遺跡と表記していましたが、この機会に改めます。チャンドマニ文化はアルディ・ベリ文化とも関連しており、その担い手の遺伝的構成はユーラシア東西系統の混合と示されています(Jeong et al., 2020)。チャンドマニ文化において、社会階層は存在していたようですが、王と呼べるような突出した指導者の存在や、社会階層と遺伝的構成との関連は示されていません。チャンドマニ遺跡やその西隣のパジリク文化の被葬者では損傷が目立ち、紀元前4世紀~紀元前3世紀前半の北モンゴリア北西部は広範囲で戦乱状態だったようです。その要因として、ウマの機動力と鉄器の入手もあった、と考えられます。
本書は、武帝期に築かれた漢軍の前線基地として受降城(Shouxiangcheng、降伏者を受け入れるための要塞との意味)を挙げていますが、その候補地として一部の研究者はモンゴルのウムヌゴビ(Umnugovi)県のノムゴン(Nomgon)郡の南方26kmに位置するバヤン・ボラグ(Bayanbulag)遺跡を比定しているそうです。本書は、バヤン・ボラグ遺跡の城郭が機能した年代(紀元前1世紀~紀元後1世紀初頭)は、史料に見える受降城の年代と矛盾しないものの、受降城との断定は時期尚早と指摘します。バヤン・ボラグ遺跡で発見された人類遺骸の学際的研究(Ma et al., 2025)では、遺伝的には現在の漢人および古代華北人口集団と類似しており、同位体分析から、地理的起源は現在の中国北部と中原で、食性は華北の農耕集団に類似していた、と示されています。そのため、バヤン・ボラグ遺跡が受降城だったか否かはともかく、漢にとって対匈奴の前線基地だったことは間違いなさそうです。
『史記』の記述から、匈奴は農耕を行なわなかった、と一般的には考えられていますが、『漢書』などから、匈奴の領内で農耕が行なわれたことも窺え、拉致や投降によって匈奴に来た「漢人(という分類を紀元前千年紀後半~千年紀前半の人類史の説明に用いてよいのか、疑問は残りますが)」が農耕の担い手だった、と考えられてきました。この見解は『史記』の記述とも整合的と言えそうですが、近年の考古学的研究では、コムギやオオムギやキビのような、生育期間の短い穀物が栽培されていた可能性も指摘されています。同位体分析から、穀物の消費は匈奴の上流階層にも浸透していた、と示されています。また、匈奴で独自に鉄が生産されていたことも明らかになってきました(関連記事)。匈奴に先行する遊牧民の巨大な政治勢力としてスキタイがあり、その構成員の遺伝的構成要素はユーラシア東西系統の混合だった、と示されています(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)。これは匈奴も同様で(Jeong et al., 2020)、さらには社会的地位による遺伝的構成要素の違いが指摘されており(Lee et al., 2023)、ユーラシア草原地帯における人類集団の移動性の高さを示しているように思います。
前漢からの禅譲で8年に成立した新は、匈奴に対して融和策から武力侵攻へと方針を変え、モンゴル高原の旱魃および蝗害と単于をめぐる争いのため、匈奴は急速に衰退し、単于の求心力は著しく低下します。48年には、匈奴は南北に分裂し、ゴビ砂漠の南にいた南匈奴が後漢(東漢)に降伏した一方で、ゴビ砂漠以北の北匈奴は独立を維持しました。しかし、南方の後漢と東方の新興勢力である鮮卑の軍事侵攻によって、北匈奴の単于は一族を多数殺され、遠く天山方面へと逃走しました。本書はこれを事実上の匈奴の滅亡と把握しています。本書の対象外となりますが、匈奴とヨーロッパのフンの関係について、フン集団の主要な遺伝的構成要素はユーラシア東部由来ではないものの、匈奴期の最高位の上流階層の一部の個体とフンの一部との遺伝的つながりが示されています(Gnecchi-Ruscone et al., 2025)。
●鮮卑と柔然
北モンゴリアから匈奴政権が消えると、東方から鮮卑と呼ばれる遊牧集団が台頭してきました。『後漢書』などの歴史的記述から、鮮卑は匈奴時代に大興安嶺山脈周辺にいた古代遊牧民である東胡の子孫と言われてきましたが、最近の古代ゲノム研究(Cai et al., 2023)で、鮮卑の遺伝的起源はアムール川地域の大興安嶺山脈周辺にあり、鮮卑が南下して中原へと勢力を拡大する過程の当初には、拡大先の在来集団からの遺伝的寄与は限定的だったものの、華北に定住し、遊牧民から定住農耕民へと変容するにつれて、地元住民との遺伝的混合が進んでいった、と指摘されています。鮮卑が政治的にまとまり始めたのは2世紀後半で、内紛で勢力が分立したこともあったものの、3世紀中葉には拓跋部という政治勢力が形成され、315年に拓跋部は西晋から代国として認められ、386年には国号を北魏と改め、439年には太武帝が華北を平定します。太武帝は中華王朝の皇帝であるとともに、遊牧世界の支配者とも自認していました。鮮卑の拡大の過程では、匈奴の遺民も加わり、南下して拓跋部が形成されますが、その一方で北モンゴリアにはシベリア方面から集団が新たに南下してきて、考古学的研究からクルムチン文化やブルホトイ文化の影響が指摘されています。こうした集団が、鮮卑の南下を促進したかもしれません。
高度な製鉄技術の存在したアルタイ山脈の南麓に、アシナ(阿史那)氏が存在しました。アシナ氏は、アルタイ山脈で精錬された鉄素材から、鍛造によって武器や工具類を生産し、柔然に納めていたようです。アシナ氏はトルコ(テュルク)系氏族で、トルコ(テュルク)は漢文史料において突厥と表記されており、類似の名称の集団に鉄勒がいます。鉄勒は、北周と隋と唐側による北方の草原地帯に暮らすトルコ系集団の総称のようです。トルコ系集団はテュルク語族系言語を話していた、とされますが、よく分からないそうです。丁零や高車もトルコ系集団と考えられており、元々はモンゴル高原に暮らし、遺伝的にはユーラシア東部系だったようですが、9世紀後半以降の西方への拡大に伴って、ユーラシア西部系からの遺伝的影響を受けた、と考えられます。6世紀半ば、アシナ氏の族長である土門は柔然に対して反旗を翻し、柔然が東魏と結んでいたことから、西魏と提携して柔然を滅ぼします。土門は552年にイルリク(伊利、ブミン)・カガンと号し、突厥は隆盛を迎えます。当時華北では北周と北西が抗争しており、北周と北西が突厥の来襲を物資で避けようとしたため、突厥はさらに強大化しますが、583年に突厥は東西に分裂します。突厥は、アシナ氏などの突厥集団やその他のトルコ系集団の鉄勒に、モンゴル系の在来集団やソグド人も存在した、多様な出自の集団から構成されていたようで、時空間的に近いにも関わらず、葬制に大きな違いが見られます。突厥期のゴルワン・ドウ(Gurvan Dov)遺跡では、現在の中国北西部の集団とつながる、ユーラシア東部系の遺伝的構成の個体や、東胡や鮮卑と類似する遺伝的構成の個体が確認されています(Lee et al., 2024)。
突厥の後にモンゴル高原で覇権を確立したのはウイグルで、ヤグラカル(薬羅葛)氏族のクトルグボイラ(骨力裴羅)が744年にキョルビルゲ(闕毗伽)・カガンと号し、唐は懐仁カガンとして冊立しました。ウイグルでは、鉄勒の諸部族が連合して支配層を形成し、カガン位は当初、ウイグル部族のヤグラカル氏族から、795年以降は鉄勒諸部族のエディズ氏族から選ばれました。安史の乱のさい、ウイグルの葛勒カガンは唐の要請に応じて援軍を派遣し、長安と洛陽を反乱軍から脱会し、763年に史朝義を討ち取り、安史の乱を鎮圧したことで唐に対して優位に立ちました。751年に唐がアッバース朝にタラス河畔で大敗したことによって、ソグディアナ地方はイスラム化が急速に進展し、ソグド人の中には新たな拠点としてウイグルを選んだ者もいました。安史の乱以後、唐の貢納によってウイグルは豊かになり、草原世界では都市の造営が本格化します。北モンゴリアではそれまで、遺体は土中に埋葬されていましたが(地下式)、ウイグル期のオロン・ドウ(Olon Dov)遺跡では、地面の高さに遺体が安置されており、その葬制から在地民とは異なる出自が示唆されており、古代ゲノム研究によって、ユーラシア西部系統の強い影響が明らかになりました(Jeong et al., 2020)。9世紀半ば、ウイグルは気候変動によって急速に衰退し、南下してきたキルギスによって滅亡します。ウイグルの遺民は北モンゴリアから東トルキスタンや河西回廊へと移住します。現在のウイグル人は、8~9世紀にかけてのウイグル国との直接的関係はほぼないようです。
●キタイと阻卜とモンゴル
9世紀半ばにウイグルを滅亡に追い込んだキルギスは北帰し、北モンゴリアでは政治権力の空白が生じます。その間隙に、バイカル湖の南側にいたモンゴル系とされる九姓タタル(九姓韃靼)が北モンゴリア中央部へと南下し、やがて漢文史料に「阻卜(もしくは韃靼)」と見える勢力を形成しました。アルタイ山脈周辺には、八姓オグズと呼ばれ、漢文史料では粘八葛もしくは粘八恩と見えるトルコ系の集団がおり、後にナイマンと呼ばれます。東方では、ヘルレン川流域からフルンボイル地域に実体のよく分からない烏古と敵烈という大規模と思われる集団がおり、大興安嶺山脈中東部のシラムレン川流域には、キタイ(契丹)という強力な遊牧集団が台頭しつつありました。キタイはモンゴル系言語話者集団で、耶律阿保機が首長となると急速に台頭し、耶律阿保機はキタイ(西遼)を建国しました。キタイは北モンゴリア東部へと勢力を拡大し、烏古と敵烈を服従させ、阻卜(阻䪁)への介入を強化します。阻卜はキタイを牽制するため、北宋へ検視しました。キタイは占領地域で、ウイグル期から続く都市造営を強化しました。1004年の澶淵の盟でキタイは宋と和睦し、北方経営に注力します。阻卜はキタイに帰順の意を示しつつも、宋に再度遣使し、キタイを牽制するとともに、メルブ(現在のトルクメニスタン)にいたキリスト教東方教会派の大司教にも使者を派遣するなど、アジア中央部との関係を強化していきます。1012年、阻卜はキタイに叛いたもののすぐに平定され、その後両者は良好な関係を維持します。ヘルレン川北岸のゴルワン・ドウ遺跡で発見されたこの頃の女性1個体(GD2-2)は遺伝的に、主要なユーラシア東部系要素と少ない割合のユーラシア西部系要素で構成されていました(Lee et al., 2024)。隣接する墓から見つかった近い年代の1歳程度の男児(GD1-3)も、GD2-2と類似の遺伝的構成でした(Lee et al., 2024)。モンゴルのボルガン県に位置するザーン・ホショー(Zaan-Khoshuu)遺跡でも阻卜期の被葬者(ZAA003とZAA005)のゲノムが解析されており、ユーラシア東西両系統の混合が示されています(Jeong et al., 2020)。アルタイ山脈では、北モンゴリアとは異なる文化が見られます。
現代のモンゴル人と直接的につながる祖先集団と考えられているのは、8世紀頃に大興安嶺山脈の麓に広く居住していた、『旧唐書』の「蒙兀室韋」で、アルグン川流域に暮らしていたようです。この現代モンゴル人の主要な祖先と考えられる集団は12世紀にモンゴル高原中央部に出現し、関連史料が乏しいため、本書は考古学的観点でこの問題を検証しています。千年紀の終わり頃に、アルグン川流域を含む後バイカル地域東部一帯には二つの葬制が存在していました。一方は、被葬者が北に頭を向け、仰向けで手足を伸ばす仰臥伸展葬で、副葬品は少なく、鮮卑時代の遺制と考えられています。もう一方は、被葬者の多くが頭を東に向け、身体の右側を下にして膝を軽く曲げた、側身屈肢葬で、副葬品には深鉢形土器とヒツジの肩甲骨と金や青銅製の耳飾りがありました。これは、6~9世紀頃に後バイカル地域全体に広がっていたトルコ系文化の影響と考えられています。こうした複数系統の文化がアルグン川流域に存在していたところへ、10世紀中葉にキタイが侵出し、アルグン川流域における二つの葬制は融合していき、こうした葬制の被葬者は、13世紀の北モンゴリアの集団と遺伝的に近い、と示されており(Jeong et al., 2020)、本書は「原モンゴル集団」と仮称しています。10世紀の気候寒冷化によって、原モンゴル集団はキタイの北辺を侵すことが増えたようです。後バイカル地域では11世紀に鏃の主要な素材が骨から鉄へと変わるなど、軍事力が向上したようで、そうした構想を勝ち抜いたのが原モンゴル集団でした。
モンゴル帝国の都だったカラコルムは、モンゴル高原におけるウイグル期以降の都市造営の本格化の延長線上にあると言えそうで、モンゴル帝国の広範な領域を反映してまさに「国際都市」だったようで、仏教施設とキリスト教施設が考古学的に確認されており、文献に見えるイスラム礼拝堂は考古学的にはまだ確認されていませんが、イスラム教徒の集団墓地が見つかっています。イェケ・モンゴル・ウルス期のモンゴル高原では、都のカラコルムに限らず、建築が盛んでした。クビライの代に成立した大元ウルスでは、大都(北京)で大規模な宮城が造営され、こうしたモンゴル帝国の大規模な建築は、宗主であるクビライも含めて、有力者たちが威信を誇示する目的もあったのでしょう。ただ本書は、こうして建造されたカラコルムなどの都市において、住民の食料調達の難しさといった問題があることを指摘します。カラコルムについては、クビライが政治と経済の重心を漢地の方へとより移すと、北モンゴリアの重要度が低下したため、食料調達には苦労したようです。14世紀の気候悪化と漢地での反乱によって、漢地からカラコルムへの食料輸送はさらに困難になって、カラコルムは衰退しました。この時期のモンゴル高原のタワン・ハイラースト(Tavan Khailaast)遺跡の14~15世紀の被葬者では母親(TK5-8)と息子(TK5-2)の関係が遺伝学的に特定されています(Lee et al., 2024)。現在、モンゴル高原でも人口に占める遊牧民の割合はかつてよりずっと低いでしょうが、歴史的に遊牧民の果たしてきた役割が大きいことは、本書でも改めて示されていると思います。