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ヤムナ文化の起源

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2025/03/10 (Mon) 19:57:07

雑記帳 2025年03月09日
ウクライナの人口史

現在のウクライナを含んでいる北ポントス地域は、広大なユーラシア草原地帯をヨーロッパ中央部とつなぐ移動の十字路でした。
以前の古代DNA研究では、一次近似値では、現在のヨーロッパ人のゲノムは完新世の主要な3人類集団の祖先系統で構成されている、と示唆されており、それは、

(1)在来の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)
(2)8000年前頃にヨーロッパに到来した近東の初期農耕民
(3)5000年前頃にヨーロッパへと移住した草原地帯牧畜民

です。しかし、特定の地域の詳細な遺伝的歴史は必然的により複雑で、より焦点を絞った局所規模の研究が必要です。そのようなこれまで比較的研究されていなかった地域の一つが黒海北部(ポントス)地域における現在のウクライナで、この地域は歴史的および考古学的に、ヨーロッパとアジアの人口集団間の接触地帯として知られています。

後期青銅器時代からスキタイ期鉄器時代の前のウクライナにおけるヨーロッパ南部祖先系統
 後期青銅器時代とスキタイ期の前の前期鉄器時代の個体群(LBAEIA、紀元前3000~紀元前700年頃)ミトコンドリアDNA(mtDNA)は、ハプログループ(mtHg)U・HV・H・T・K・J・N1aに属していましたが、ほんどの男性のY染色体ハプログループ(YHg)はR1aに属しており、これは草原地帯個体からの移住後のヨーロッパ北部の大半で以前に示されたことと同様でした。
https://sicambre.seesaa.net/article/202503article_9.html



2025年03月10日
新石器時代から青銅器時代の北ポントス地域の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202503article_10.html

 古代ゲノムデータに基づいて新石器時代から青銅器時代の北ポントス地域の人口史を検証した研究(Nikitin et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、本論文と同時に刊行された関連研究[7]以外は、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。5000年前頃以降、ヤムナヤ(Yamnaya)文化とも呼ばれるヤムナ(Yamna)文化の担い手は、ヨーロッパも含めてユーラシアに広く拡散し、文化と担い手の遺伝的構成を大きく変えました[3、4]。現在、ヨーロッパで話されている言語はほぼインド・ヨーロッパ語族ですが、これをヨーロッパに広めたのはヤムナ文化集団と考えられています。北ポントス地域(North Pontic Region、略してNPR)は古代ヨーロッパの農耕民とユーラシア草原地帯の狩猟採集民および牧畜民が遭遇した場所で、ヨーロッパ全域への移動の拠点でしたしかし、ヤムナ文化集団の正確な起源は依然として不明です。

 本論文は、関連研究[7]にも含まれた先史時代の北ポントス地域の81個体のゲノム規模データを報告し、ヤムナ文化集団がヨーロッパにおいて在来集団と遺伝的に混合しながら拡大していったことを示します。北ポントス地域の狩猟採集民は、ドナウ川鉄門バルカン半島狩猟採集民(Danubian Iron Gates Balkan hunter-gatherer、略してBHG)および東方狩猟採集民(eastern hunter-gatherer、略してEHG)といったEuHG(European Hunter-Gatherer、ヨーロッパ狩猟採集民)や、アナトリア半島新石器時代農耕民(Anatolian Neolithic farmer、略してANF)起源のヨーロッパ初期農耕民(early European farmer、略してEEF)やコーカサス狩猟採集民(Caucasus hunter-gatherer、略してCHG)の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していました。

 金石併用時代には、コーカサス・ヴォルガ川下流域からの移民が在来の狩猟採集民とは交雑せず、トリピッリャ文化(Trypillia)農耕民集団と遺伝的に同等の影響絵で交雑し、紀元前4500年頃にウサトヴェ(Usatove、略してUSV)集団が形成されました。コーカサス・ヴォルガ川下流域からは、これとは時間的に重複しつつも別の移民が到来し、在来の農耕民ではなく狩猟採集民と交雑し、スレドニ・ストグ考古学複合体(Serednii Stih archaeological complex)集団を形成しました。このスレドニ・ストグ考古学複合体集団の子孫は交雑によってヤムナ文化集団を形成し、前期青銅器時代となる紀元前3300年頃に拡大しました。

 レドニ・ストグ考古学複合体集団とヤムナ文化集団との間の時間的空白は、ウクライナのミハイリウカ(Mykhailivka)遺跡で発見された紀元前四千年紀半ばの1個体によって埋められ、ヤムナ文化集団の形成の中心地がこの頃のミハイリウカ遺跡周辺だった可能性も指摘されています。北ポントス地域におけるこうした移住の波は、外部の祖先系統を取り入れながらも、独自の祖先系統を広めており、これは北ポントス地域の人々がユーラシアの広範な地域に遺伝子と文化を広めるのに成功した理由かもしれません。北ポントス地域のとくに鉄器時代以降の人口史については、最近刊行されたばかりの研究(Saag et al., 2025)がたいへん有益だと思います。時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、金石併用時代(Eneolithic、略してEL)、CA(Copper Age、銅器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、EBA(Early Bronze Age、前期青銅器時代)です。


●要約

 北ポントス地域は古代ヨーロッパの農耕民とユーラシア草原地帯の狩猟採集民および牧畜民が遭遇した場所で、ヨーロッパ全域への移動の拠点でした[3~5]。本論文は、先史時代の北ポントス地域の81個体のゲノム規模データを報告し、その人々の遺伝的構成を明らかにします。北ポントス地域の採食民は、バルカン半島および東方狩猟採集民[6]やヨーロッパ農耕民に、時としてコーカサス狩猟採集民の祖先系統を有していました。金石併用時代には、コーカサス・ヴォルガ川下流域からの移民の波が、在来の狩猟採集民とは交雑せずに、トリピッリャ文化農耕民と同等の割合で交雑し、紀元前4500年頃にウサトヴェ文化の人々を形成しました。コーカサス・ヴォルガ川下流域からの移民の時間的に重複する波は、農耕民ではなく採食民と混合し、スレドニ・ストグ考古学複合体の人々を形成しました。

 第三の波は、スレドニ・ストグ考古学複合体集団の子孫であるヤムナ文化集団で、ヤムナ文化集団は紀元前4000年頃に交雑によって形成され、前期青銅器時代(紀元前3300年頃)に拡大しました。スレドニ・ストグ考古学複合体集団とヤムナ文化集団との間の時間的空白は、ウクライナのミハイリウカ遺跡で発見された遺伝的にヤムナ文化の1個体によって埋められました。ここは金石併用時代から青銅器時代への移行期にわたって考古学的連続性のある遺跡で、ヤムナ文化集団形成の中心地だった可能性が高そうです。これら3回の移住の波のそれぞれは、外部の個体群を取り入れながらも、独自の祖先系統を広めており、北ポントス地域の人々がユーラシア全域に遺伝子と文化を広めるのに成功したことを、説明できるかもしれません[3、4、5、8~10]。


●研究史

 黒海の北側の地域は北ポントス地域(NPR)と呼ばれており(図1)、中核的なインド・ヨーロッパ語族言語を話した共同体の故地と提案されてきており、インド・ヨーロッパ語族言語は、ヤムナ考古学的複合(以後、ヤムナと呼ばれます)の拡大に伴って紀元前四千年紀後半までにユーラシア全域に拡大し始めました。ヤムナ集団の拡大は、先行する人口集団の遺伝的祖先系統の豊かな多様性に大きく取って代わりました。以下は本論文の図1です。
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 古代DNAのゲノム規模研究では、NPRにおける氷期後の狩猟採集民の遺伝的祖先系統は、西方のWHG(西方狩猟採集民)と関連する祖先系統と東方のBHG(ドナウ川鉄門バルカン半島狩猟採集民)およびEHG(東方狩猟採集民)[6]の混合だった、と明らかにされてきました[3]。ウクライナでは、中石器時代から新石器時代への移行(紀元前5800年頃以後)は、以前に確立された在来人口集団のEHG祖先系統とのWHG祖先系統の混合によって特徴づけられました。

 新石器時代には、NPR西部はクリス(Criş)文化やスタルチェヴォ(Starčevo)文化や線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化などバルカン半島とヨーロッパ中央部の農耕クラスタ(まとまり)の故地で、さまざまな割合のWHGとの混合があり、ANF(アナトリア半島新石器時代農耕民)に由来するEEF(ヨーロッパ初期農耕民)祖先系統を有していました[12]。UNHG(Neolithic hunter-gatherer populations of the Dnipro Valley、ドニプロ川流域の新石器時代狩猟採集民人口集団、ウクライナ_N)は、EHG/WHGに基づく遺伝的祖先系統を保持し続けました[6]。

 初期金石併用時代(紀元前4800年頃)に、ククテニ・トリピッリャ考古学複合体(Cucuteni–Trypillia archaeological complex、以後トリピッリャ文化)の農耕集団がカルパチア盆地を横断して東方のドニプロ川流域へと拡大しました。トリピッリャ文化個体群の祖先系統はおもにEEFに由来し、BHG/WHGおよびCHG(コーカサス狩猟採集民)との混合がありました[6、17、18]。

 東方への拡大中にトリピッリャ文化集団は、おそらく紀元前五千年紀前半にアゾフ・ドニプロ・ドネツ地域で形成された、スレドニ・ストグ考古学的複合体(Serednii Stih archaeological complex、以後スティフ文化)の遊動的な共同体と遭遇しました。紀元前4700~紀元前4500年頃のアゾフ草原地帯における初期スティフ文化の存在は、マリウポリ(Mariupol)のネクロポリス(大規模共同墓地)の初期スティフ文化の1個体の同位体分析によって裏づけられます、しかし、スティフ文化個体群など草原地帯人口集団の遺伝的祖先系統(草原地帯祖先系統と呼ばれます[3~6、10])についての知識はこれまで限られており、それは高度に多様な祖先系統を明らかにした小さな標本規模のためです[6、18]。

 紀元前四千年紀には、ウサトヴェ文化として知られる独特な考古学的複合体がNPR北西部で確立しました。標本抽出されたウサトヴェ文化個体群は、EEFおよび草原地帯祖先系統や、コーカサス金石併用時代/マイコープ(Maykop)文化関連の遺伝的構成要素を有していましたが、構成祖先系統の近似供給源は不明なままです。紀元前四千年紀後半には、NPRは多様な集団によって占拠されており、そうした集団は、独特な埋葬儀式や土器様式や技術と、おそらくは車輪付き馬車の輸送を含む移動性増加によって特徴づけられます。この多様性は紀元前四千年紀の後半1/3に、次の千年紀の前半にまで続いた、ヤムナ文化の拡大によって翳りました。

 NPRの続旧石器時代から前期青銅器時代の人口集団の遺伝的祖先系統は、限られた数の遺跡に由来しており、とくにヤムナ文化関連の人々によって促進された遺伝的置換[3、4、6、10、18、22]に先行する期間の人口動態の理解を妨げています。本論文は、以前に利用可能だった考古学的遺跡よりもずっと後半な遺跡から得られた先史時代NPR個体群を分析し、これにはトリピッリャ文化やウサトヴェ文化やスティフ文化の以前よりかなり大きな標本規模が含まれます。これらのデータを付随する論文[7]で報告されているデータとともに共同分析することで、ヤムナ文化個体群へのこれらの集団の寄与が調べられ、とくに考古学的証拠との本論文の結果の統合に焦点が当てられ、ヤムナ文化の形成前後の遺伝的および考古学的変容の全体像が生成されます。

 新石器時代から青銅器時代のNPRの古代人81個体について、全ゲノム古代DNAデータが生成されました(このうち71個体のデータは初めて報告されます)。これらのデータを生成するために、206点の骨格要素が標本抽出され、462点の次世代配列決定ライブラリが構築され、検査後に245点が分析へと進められました。本論文は51点の直接的な放射性炭素年代の生成によって分析を充実させ、同位体比を分析するために比較データを使用しました。これらのデータは、新たに報告された291個体とデータが改善された63個体を含む、草原地帯人口集団の付随研究[7]のデータと共同分析されました。

 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行され、シベリアおよびヨーロッパの狩猟採集民(上部)からアジア西部狩猟採集民(底部)の分化、ヨーロッパ東西(水平上部)と内陸部および高地対地中海(水平底部)[24]の分化を把握するよう設計されている、人口集団一式[7]を用いて軸が形成されました。この分析は主要な5通りの勾配を明らかにします。CLV(Caucasus–Lower Volga、コーカサス~ヴォルガ川下流)勾配、ヴォルガ川勾配、ドニプロ川勾配、EuHG(European Hunter-Gatherer、ヨーロッパ狩猟採集民)勾配の4勾配は、付随研究[7]で正式に説明されています。5番目のEFHG(European Farmer and Hunter-Gatherer、ヨーロッパ農耕民および狩猟採集民)勾配は、ヨーロッパ中央部のLBK集団や、ブルガリアのユナツィテ(Yunatsite、略してYUN)遺跡の銅器時代となるグメルニタ(Gumelnița)文化もしくはカラノヴォ(Karanovo)文化と関連する人口集団(YUN_CA)で構成される一方のヨーロッパ農耕民と、もう一方のBHG(セルビア_鉄門_中石器)によって形成されます(図2a)。以下は本論文の図2です。
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 UNHG個体群はBHGへと無数EuHG勾配の「東」端、およびドニプロ川勾配の「北」端に位置します。これは、UNHGがドニプロ川勾配上のその後の金石併用時代および青銅器時代の人々に寄与し、中核ヤムナ文化個体群[7]が「南」端に位置することを示唆しています。

 図2aにおける金石併用時代(スティフ文化個体群を除きます)および青銅器時代個体群はほぼ、EFHG勾配の「農耕民」端に向かって位置します。NPRの4個体は中核ヤムナ文化個体群と草原地帯のマイコープ(Maykop)文化個体群との間で勾配を形成し、PCAでは、ヴォルガ川下流のベレスフノヴカ(Berezhnovka)遺跡およびコーカサスのプログレス2(Progress-2)遺跡の金石併用時代個体群(BP)で構成されるBP群人口集団に近いようですが、qpAdmはNPRの4個体の祖先が異なることを示しており、その祖先系統の約半分はシベリア/アジア中央部新石器時代供給源にさかのぼります[7]。これらのうち2個体、つまりウサトヴェ文化の個体I20078(ウサトヴェ_ I20078)とジヴォティロフカ(Zhivotilovka)遺跡の個体(ジヴォティロフカ_I17974)は、モルドヴァの後期金石併用時代の個体です。他の2個体、つまりハンガリーのチェルナヴォダ1(Cernavodă I)文化の個体(チェルナヴォダ_I5124)[7]とモルドヴァのジュジュレシュティ(Giurgiuleşti)遺跡の個体I20072(紀元前4300~紀元前4000年頃)は、考古学的にNPRおよび隣接するバルカン半島・カルパチア盆地地域にわたってオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)墓を残した人々と関連しています。


●新石器時代NPR祖先系統の供給源

 標的および広範なあり得る供給源として、UNHGでf₃統計が計算されました。その結果、UNHG人口集団は第一次近似として、EHGおよびBHGと関連する供給源で構成される、と示唆されます。しかし、EuHG勾配UNHG端がEEF祖先系統を有する人口集団の方へと動いていることは、図2aのPCAから明らかです。ADMIXTURE演算法での教師無分析(図2b)では、UNHGは、デレイフカ1(Deriivka I)遺跡の中石器時代ウクライナ集団かカレリアのEHG集団か鉄門遺跡のBHG集団には存在しない、アナトリア半島農耕民/CHG祖先系統の小さな構成要素が割り当てられています。ウクライナ_Nと分類表示された個体群からの標本を、付随研究[7]の他のEuHG人口集団でモデル化すると、72.5±2.9%のドン川下流のゴルバヤ・クリニッツァ(Golubaya Krinitsa、略してGK)遺跡の個体GK2の祖先系統と27.5±2.9%のBHG祖先系統での単一の2供給源モデルが依然として実行可能です。EHG供給源としてレビャジンカ(Lebyazhinka)遺跡もしくはカレリアの個体でこれら2供給源の混合としてのEHGとBHGとの間のより広範な勾配に適合させることは失敗し、qpAdmの出力は、これらのモデルがトルコ_Nと共有された遺伝的浮動を過小評価している、と示唆します。

 3供給源モデルはすべて、7~9%のEEF祖先系統とともにEHGおよびBHG祖先系統を含んでおり、EEF祖先系統は、そうした祖先系統のないモデルにおいてトルコ_Nとの過小評価された浮動を説明します。EEF祖先系統がUNHG人口集団の一般的特徴なのかどうか検証するため、EEF祖先系統を表すヨーロッパ中央部のLBKを含むモデルが、ウクライナ_Nの分類表示の35個体に適用されました。その結果、このパターンは数個体の外れ値によって起きているわけではない、と示されます。

 UNHGは顕著なBHGおよびEHG祖先系統を有している、と推測されており、ヴァシリフカ3(Vasylivka III)遺跡[6]およびヴァシリフカ1遺跡の中石器時代個体群[28]と比較してBHG祖先系統が増加しています。したがって、遺伝学的証拠は、この変化の原因となる、紀元前七千年紀における鉄門地域からドニプロ川流域への人々の移住と一致します。鉄門地域のBHG個体群は散発的なEEF祖先系統を有している、と示されているので、そうした祖先系統を有する一部の鉄門地域的な移民は、中石器時代ウクライナの個体群と比較して、BHGおよびEEF両方との混合を説明できるかもしれません。

 バルト海地域における混合したWHGおよびEHGの背景の狩猟採集民[3、24、30]は、UNHGで検出されるEEF祖先系統を有していません。スウェーデンのゴットランド島のアジュヴィーデ(Ajvide)集落遺跡およびヴェーステルブイェルス(Västerbjers)遺跡の円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)/戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)人口集団は、EEF祖先系統がおもに狩猟採集民背景の集団へと取り入れられ、約1/5のEEF関連祖先系統を有している、本論文のモデルでは正確に推測されます。UNHGにおけるEEF関連祖先系統に関する本論文の発見は、ヨーロッパにおける新石器時代の拡大の周辺での、狩猟採集民共同体への農耕民祖先系統の取り入れの、別々のずっと早い事例を提供します。

 UNHGの2個体、つまり本論文において報告されるマリウポリのネクロポリスのI31730と、フォフニギ2(Vovnigi 2)遺跡のI1738[6]は、LBK-EHG-BHGモデルと一致せず、供給源としてLBKの代わりにCHGでモデル化でき、これは紀元前六千年紀の後半[7]にドン川中流域[7、34]を越えてドニプロ川流域[18]へと時に広がっていたCHG関連祖先系統と一致します。


●CLV混合と長距離移動

 スレドニ・スティフ考古学複合体(スティフ文化)個体群の祖先系統は、付随研究[7]で詳細に調べられています。スティフ文化個体群は、ドニプロ勾配(ヤムナ文化集団が派生することになった、金石併用時代のそれ以前の人口集団の代理です)とドニプロおよびドン川狩猟採集民(UNHGもしくはGK2)の終点として、中核ヤムナ文化集団である供給源でモデル化できます。中核ヤムナ文化集団自体は、約4:1のCLV勾配とドニプロおよびドン川狩猟採集民人口集団であることと一致するので[7]、スティフ文化個体群の祖先系統の形成は、ドニプロおよびドン川狩猟採集民とのCLV勾配の移民の融合の結果と見ることができます。

 スティフ文化のイグレン8(Igren-8)遺跡の外れ値(outlier、略してo)1個体(I27930、イグレン_o、紀元前4400~紀元前4000年頃)の祖先系統[7]は、ドン川中流域の新石器時代のGK2個体(紀元前5610~紀元前5390年頃)[34]およびヴァシリフカ1遺跡とヴァシリフカ遺跡の中石器時代狩猟採集民[28]と類似しているようで(図2a)、約2/3のEHG祖先系統および1/3のBHG祖先系統を有する、とモデル化できます[7]。したがって、個体I27930はスティフ文化の埋葬状況において新石器時代祖先系統の持ち越しを表しており、ドン川中流域からの長距離移住の結果もしくは近隣のヴァシリフカ遺跡の中石器時代祖先系統の継続の結果として、ドニプロ川流域に現れた可能性が高そうです。

 ドナウ川下流のジュジュレシュティ遺跡の個体I20072(紀元前4330~紀元前4058年頃)は、ヴォルガ川下流~コーカサスの続旧石器時代集団と単系統群(クレード)です。ハンガリーの同時代のチョングラード(Csongrád)遺跡遺跡の1個体とともに、この単系統群はイグレン遺跡の個体I27930(イグレン_o)よりもさらに大きな範囲の長距離移住の事例を表しており、ヴォルガ川からヨーロッパ中央部の中心部にまたがっています。


●トリピッリャ文化とウサトヴェ文化

 本論文および先行研究[6、17]のトリピッリャ文化個体群を含む混合f₃統計では、トリピッリャ文化個体群はユナツィテ遺跡もしくはLBK個体群などのEEF集団よりも多くの狩猟採集民祖先系統と混合している[6]、と示されるものの、祖先系統供給源のより洗練された理解はありません[36]。BP集団とYUN_CAとBHGでのqpAdmモデルは、トリピッリャ文化の24個体のうち23個体について適用可能で、そのすべては一部のCLVを含んでいます。これらトリピッリャ文化の23個体について、遺伝的祖先系統は平均して、81%のバルカン半島続旧石器時代(YUN_CAなど)と14%のBHGと5%のCLV由来のBP集団に由来します(表1)。DATES(進化兆候の祖先系統区域の分布)によると、トリピッリャ文化個体群の形成的な混合は紀元前4595±121年(95%信用区間では紀元前4832~紀元前4358年)に起きました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 本論文および先行研究[5]のウサトヴェ文化個体群は遺伝的に多様で、PCA空間においてトリピッリャ文化個体群と、CLVとヴォルガ川およびドニプロ川勾配が交差する領域との間を示しています。qpAdmでの形式的モデル化から、ウサトヴェ文化人口集団は約45%のプログレス2(Progress 2)遺跡およびヴォニュチュカ1(Vonyuchka 1)遺跡(PV)集団(CLV勾配の中間的集団)と約55%のトリピッリャ文化個体群の混合としてのみモデル化できる、と明らかになります(表1)。一般化された3方向モデルでは、ウサトヴェ文化個体群におけるCLV祖先系統はヴォルガ川下流を中心とするBP集団に由来せず、コーカサス南部の新石器時代のアナシェン(Aknashen)文化個体群関連祖先系統[5]の顕著な割合を有していた、と確証されました。ウサトヴェ文化個体群とは対照的に、ドナウ川三角州のカルタル(Kartal、略してKTL)遺跡のチェルナヴォダ1(Cernavodă I)文化人口集団におけるCLVとの混合(カルタル遺跡の5個体で構成されるKTL_A)[5]は、BP集団に由来し、アナシェン文化個体群関連祖先系統は相対的に少ないか皆無でした。DATESを用いて、ウサトヴェ文化個体群の形成的な混合は紀元前4471±51年(95%信用区間では紀元前4571~紀元前4371年)に起きた、と推定されます(図3)。


●ヤムナ祖先系統およびコーカサスとの混合

 付随研究[7]に従って、本論文で中核ヤムナと呼ばれる集団が定義されて、この集団は遺伝的に均質な104個体一式によって表され、考古学的にヤムナ文化およびアファナシェヴォ(Afanasievo)文化に割り当てられる高品質なデータがあります。付随研究[7]では、これらの個体は紀元前4000年頃の混合起源に由来し、紀元前3750~紀元前3350年頃に小さな創始者規模から拡大した祖先人口集団を形成した、と示されています。中核ヤムナ集団はヤムナ祖先系統を有する全個体において最大の祖先供給源で、ヤムナ祖先系統を有する全個体は、中核ヤムナ集団が拡大中に遭遇したに違いない、在来人口集団からの追加の混合を有する点で異なります[7]。付随研究[7]では、複数の一連の証拠から、中核ヤムナ集団および恐らくはヤムナヤ文化集団自体が、NPR北東地域のドニプロ川およびドン川地域で形成された、と示唆されていますが、遺伝学的証拠のみに基づいてはヤムナ文化集団の地理的起源を絞り込めません。

 付随研究[7]ではさらに、中核ヤムナ集団はCLVとNPRの狩猟採集民集団の混合としてモデル化できる、と示されました。EEF祖先系統を、CLVおよびNPR狩猟採集民供給源以外に中核ヤムナ集団に追加の供給源として共生すると、その割合がゼロより有意には大きくならない(3.2±3.1%)一方で、コーカサス新石器時代集団の割合は15.6±4.3%で、中核ヤムナ集団におけるアナトリア半島関連祖先系統[10]はおもに、アルメニアのアナシェン文化集団[10]のようなコーカサス新石器時代人口集団から伝えられており、アナトリア半島起源のヨーロッパ農耕民から伝えられたわけではなかった[38]、と示唆されます。この仮説のさらなる裏づけは、CLVおよびNPR狩猟採集民祖先系統のみでのqpAdmモデルが、祖先系統の教室無ADMIXTURE推定値(図2b)と一致する、という事実に由来します。中核ヤムナ集団におけるEEF祖先系統は確定的ではありませんが、ブルガリアとハンガリーとルーマニアとセルビアの西方ヤムナ文化集団には明らかに存在します[7]。ヤムナ文化集団の混合は、エーゲ海のバルカン半島の最南端を除いて、ヤムナ文化拡大後のヨーロッパ南東部において一般的な祖先系統の特徴になりました[10、39~41]。

 ヤムナ文化集団の起源地をさらに絞り込むため、年代的に最古級の中核ヤムナ集団の個体である、ウクライナのドニプロ川下流域のミハイリウカ遺跡の第2層(祖型ヤムナ文化)から発見された、紀元前3635~紀元前3383年頃の1個体(ミハイリウカ_I32534)に焦点が当てられました。ミハイリウカ_I32534は、CLV諸集団がqpAdm分析の右側一式に設置されると、中核ヤムナ集団との単系統群として適合し続けます。さらに、UNHGもしくはEEFのどちらかが第二供給源として追加されると、両者は有意ではなく、名目上は負で、中核ヤムナ集団以外の祖先系統の証拠を提供しません。したがって、ミハイリウカ_I32534は後期スレドニ・スティフ考古学複合体人口集団と、シベリア南部からヨーロッパ南部へと拡大した主要なヤムナ文化集団の拡大との間の時間的空白を埋め、数千kmの距離にまたがる拡大によって地理についての情報が曖昧になったので、ヤムナ文化集団の形成の起源を判断することはできません。

 おもに中核ヤムナ祖先系統を有する他の初期3個体(紀元前3350~紀元前3100年頃)はすべてモルドヴァで発見され、そのうちクラスノエ(Crasnoe)遺跡の個体I20196(モルドヴァ_クラスノエ_EL)は、中核ヤムナ集団と単系統群です。他の2個体のうちメレニ(Mereni)遺跡の個体I17743(モルドヴァ_EBA_ヤムナヤの一部)は6.9%のEEFとの混合を、ブルシュチェーニ(Bursuceni)のジヴォティロフカ遺跡の1個体(ジヴォティロフカ_I17974)は18.2%の草原地帯マイコープ文化集団との混合を示しました。

 ミハイリウカ_I32534の他に、ウクライナのヤムナ文化の4個(I12168、I20975、I3141_データ改善、I21056)は、EEFとの混合の証拠を示さない中核ヤムナ集団と単系統群です。NPR北西部のウクライナのヤムナ文化の3個体は、ブルガリアの金石併用時代個体群もしくはトリピッリャ文化個体群など近位供給源からのこの種の顕著な混合を示します。したがって、NPR北西部は一貫して、ヤムナ文化集団がその西方への拡大中に初めて実質的なEEFとの混合を受けた場所であることと一致します。

 モルドヴァのヤムナ文化の外れ値2個体におけるかなりの割合のEEF祖先系統は、中核ヤムナに加えてトリピッリャ文化個体群もしくは球状アンフォラ(両取って付き壺)文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)個体群のモデルに最良に適合します。ブルガリアのヤムナ文化個体のうち1個体が22.3%のYUN_CA関連祖先系統を示したのに対して、同じ遺跡の別の1個体は中核ヤムナ集団と単系統群です。したがって、ヤムナ文化集団の拡大は、ウクライナに始まってバルカン半島南部へと到達し、中核ヤムナの遺伝的特性を維持していた個体群や、在来農耕民との他の混合、草原地帯を越えての、ヤムナ祖先系統とおそらくはインド・ヨーロッパ語族言語の伝達の開始を含んでいました。

 PCAにおいて草原地帯マイコープ文化へと動いている個体のうち2個体(図2a)、つまりジモルドヴァのヴォティロフカ_I17974とウサトヴェ_ I20078は、同じヤムナ祖先系統に加えて草原地帯マイコープ文化関連の混合過程で形成され、ヴォティロフカ_I17974はウサトヴェ_ I20078で見られる草原地帯マイコープ文化関連祖先系統を約1/3(18.2±6%対60.6±6.2%)有しています(表1)。ヴォティロフカ_I17973はヴォティロフカ_I17974とともに埋葬されており、本論文で利用可能な供給源のどれとも適切にモデル化できませんが、CLV勾配の「南」端もしくは南コーカサスの新石器時代アナシェン文化個体群に最も近く、これはPCAにおけるヴォティロフカ_I17973によって裏づけられます(図2a)。NPR北東部では、オゼラ(Ozera)遺跡で発見された初期ヤムナ文化の1個体(ウクライナ_EBA_オゼラ)は、中核ヤムナ集団的およびマイコープ文化集団的祖先系統の均等な混合として最適にモデル化され、ヴォティロフカ_I17973と同様に、コーカサスとの明確なつながりを提供しています。このつながりさらなる証拠は、マヤキ(Mayaky)遺跡の前期青銅器時代人口集団[5]に由来し、この人口集団は同じ地域のウサトヴェ文化個体群とは連続していませんが、1/5のマイコープ文化集団的祖先系統と、ドン川下流のヤムナ文化集団によって最適に表される残りの祖先系統の独特な組み合わせを表しており、このドン川下流のヤムナ文化集団自身が、中核ヤムナ集団およびNPR狩猟採集民の混合だった人口集団でした[7]。


●青銅器時代におけるヤムナ祖先系統

 NPRにおいて年代的に部分的ヤムナ文化と重なり、その後にも続いた地下墓地考古学複合体の個体群は、ヤムナ的な遺伝的祖先系統を示し続けた、と分かりました。「ウクライナ_EBA_地下墓地」と分類表示された人口集団には、本論文のデータセットの個体I12840およびI16668が含まれ、中核ヤムナ集団と単系統群です。ヤムナ祖先系統はNPRにおいて紀元前三千年紀後半まで存続しました。

 NPRでは、地下墓地群の後にバビネ(Babyne)と呼ばれる多突帯文土器(Multi-cordoned Ware)複合体が続きました。バビネ個体群的な祖先系統についての実行可能なモデルは、中核ヤムナ集団とヨーロッパ農耕民供給源とかなりの狩猟採集民祖先系統を含んでいます(表1)。同様に混合した人口集団は現在のルーマニアのアルマン(Arman)のカルロマネスティ(Cârlomăneşti)遺跡およびムンテニア(Muntenia)のタルグソル・ヴェチ(Târgşoru Vechi)遺跡の青銅器時代個体群で説明されており[10]、高い割合の狩猟採集民祖先系統の人口集団がNPRおよびカルパチア盆地南部において一部のヤムナ文化後の人々に寄与した、と示唆されます。


●考察

 本論文は、ヤムナ文化集団の出現以前および以後の、北ポントスの草原地帯および森林草原地帯における人口動態の包括的な再構築を提示します。ドニプロ川流域の新石器時代人口集団は、ほぼBHGおよびEHG供給源と混合し、個体I27992およびI3719など一部の外れ値個体を除いてUNHG人口集団には約7~9%のEEF祖先系統があり、個体I27992はヤシュニュファツカ(Yasynyvatka)遺跡の舟形墓に埋葬されていて(本論文の推定では27±6.0%のEEF祖先系統を有しています)、個体I3719はデレイフカ1墓地に埋葬され、混合していないEEF祖先系統(103.5±1.6%)を有していました。CHG祖先系統も散発的に約7~10%存在しており、とくにマリウポリの新石器時代ネクロポリスの被葬者において顕著でした。UNHG集団におけるEEF祖先系統の近位供給源は依然として不明ですが、ドニプロ川流域のBHG市民もしくはUNHG共同体に含まれていた1個体I3719などEEFの遺伝的背景の個体群[6]によって伝えられたかもしれません。

 金石併用時代のトリピッリャ文化人口集団は、BP集団のCLV祖先系統を有する人々からの限定的な混合(約5%)を受けた、EFHG勾配に沿った供給源からおもに形成されました。ウサトヴェ文化個体群はPV集団のCLVの人々から形成され、トリピッリャ文化個体群的祖先系統と近東に混合しました。

 ウサトヴェ文化およびトリピッリャ文化個体群から得られた証拠は、金石併用時代のNPRにおけるCLVの混合過程を明らかにします。ジュジュレシュティ遺跡およびチョングラード遺跡個体群のようなヴォルガ-CLV祖先系統の一部の保有者は、途中で遭遇した人々とほぼ混合せずに、NPR草原地帯を横断して、バルカン半島およびカルパチア地域へと進みました。対照的に、東方に向かったトリピッリャ文化農耕民はヴォルガ-CLVの侵入者の祖先系統を取り入れました。本論文の調査結果によって浮かび上がる興味深い可能性は、ウサトヴェ文化個体群が、ドナウ川とドニエストル川の三角州地域の前線周辺で形成され、そこではトリピッリャ文化集団の移民と初期CLV–PV集団とその経済的利益が収束したことです。同様の状況は、KTL_Aのチェルナヴォダ1文化人口集団でもあり得ますが、この集団には、ジュジュレシュティ遺跡およびチョングラード遺跡個体群のようなCLV祖先系統のBP集団由来の保有者がいました。あるいは、ウサトヴェ文化個体群とKTL_Aは、トリピッリャ文化集団とコーカサスおよびヴォルガ川の人口集団の両方が加わった、共存および独立した文化の「連邦」として形成されたかもしれません。第三の仮定は、平等主義のトリピッリャ文化集団を、CLV祖先系統を有しており、NPR北西部へと広がる、階層化された家父長制社会の支配下に置きます。

 ウサトヴェ文化個体群とは対照的に、NPRにおけるCLVおよびUNHG関連祖先系統の保有者[7]は、明らかなEEF祖先系統を欠いています。付随研究[7]および本論文は、中核ヤムナ集団を、標本抽出されたスレドニ・スティフ考古学複合体個体群より多くCLV祖先系統を有していたものの、同じCLVおよびUNHG/GK2に由来する構成要素から形成されている、後期スレドニ・スティフ考古学複合体由来の人口集団として確証します。CLV祖先系統が、トリピッリャ文化集団で約5%、ウサトヴェ文化集団の祖先系統の約50%を構成しているのに対して、ヤムナ文化集団[7]では約77%です。ウサトヴェ文化集団では、約14%のCLV祖先系統がコーカサス南部のアナシェン文化集団関連だったのに対して、中核ヤムナ集団では、アナシェン文化集団関連祖先系統は約21%だったので、西方へのCLV移住は単一地点に起源がなかったかもしれない、と示唆されます[7]。

 アルタイ地域からブルガリアまでの広範な地域における混合していない中核ヤムナ集団の存在は、急速なヤムナ集団の拡大の闕かとして最節約的に説明されます。中核ヤムナ集団クラスタ(まとまり)の顕著な均質性がその形成期間における相対的な孤立の結果だったのか、異類婚を意図的に避けた結果だったのか、という問題については、まだ回答がありません。形成期とは対照的に、西方への拡大に加わったヤムナ集団は、在来のEEF祖先系統を吸収しながら、ドン川のヤムナ集団で見られる祖先系統と関連する狩猟採集民の多い祖先系統、およびマイコープ文化や草原地帯マイコープ文化集団の祖先系統を有していました。人口集団間の相互作用戦略におけるこの変化は、より広範な配偶の機会を可能としたか、促進した、権力の均衡の変化の結果かもしれません。これらの共同体の統合的性質は、その顕著な移動性と組み合わされて、地理的および人口集団の境界を越える、インド・ヨーロッパ語族言語と文化の拡散において、ヤムナ集団の成功に寄与した可能性が高そうです。

 中核ヤムナ祖先系統を有する年代的に最古級(紀元前3635~紀元前3383年頃)の1個体は、後期金石併用時代から前期青銅器時代までの連続した文化層を示している、ミハイリウカ集落に由来します。考古学的証拠の文脈では、これらの結果は、ドナウ川下流、具体的には、ポントス・カスピ海草原地帯(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)全域の古代草原地帯の「高速道路」網の交差点に位置するミハイリウカ遺跡の周辺地域が、ヤムナ集団が最初に出現した場所である、との主張の妥当性を高めます。NPRにおいてヤムナ集団を継承した地下墓地およびバビネ集団はヤムナ集団的な遺伝的祖先系統を保有し続け、中期青銅器時代に向けて、狩猟採集民祖先系統の復活を示しました。バビネ集団的な遺伝的祖先系統を有する個体群の地理的拡散は、ヤムナ集団と類似しているものの、より小規模である、この集団の高い移動性を反映しているかもしれません。


●CLV拡大の波

 本論文の分析は、金石併用時代におけるNPRへのCLVと関連する部分的に重なった3回の波の歴史を示唆します。CLVの最初のBP集団/PV集団と関連するかもしれないヴォルガ川下流端は、紀元前4500年頃に始まりました。これはジュジュレシュティおよびチョングラード遺跡の「オーカー墓」と関連しており、トリピッリャ文化集団やウサトヴェ文化集団やKTL_Aに混合を残しました[5]。第2のより長い波は、西マヌィチ・レモントノイエ(West Manych–Remontnoye)型集団である、CLV勾配の中間的な部分を保有しており、最初の波動で、紀元前4500年頃にスレドニ・スティフ考古学複合体の形成と関連しており、KTL_Bの形成に寄与しました。しかし、それ以外では、この第2の波は、とくに紀元前五千年紀後半から紀元前四千年紀前半の草原地帯の「中断」期にはほぼドン川下流域に留まり、この「中断」は、乾燥化と気温の寒冷化へと向かう急激な気候変化および考古資料の相対的不足によって特徴づけられます。

 中核ヤムナ集団の遺伝的混合は、草原地帯の中断の最盛期において、紀元前4038±48年に起きた、と推定されています(95%信用区間では紀元前4132~紀元前3944年)。この年代が急速に起きた人口集団の混合に相当しているのかどうか、あるいは、何世代にもわたって展開した過程に相当するのかどうか不明で、その場合には本論文の推定は平均です。したがって、草原地帯の中断は、気候激変のため孤立した初期のスティフ文化に由来する祖型ヤムナ人口集団からの、中核ヤムナ祖先系統の出現の理由かもしれません。この仮定では、ミハイリウカ遺跡の1個体は、中核ヤムナ集団の地理的起源の近くのそうした祖型ヤムナ人口集団を表しており、その遺伝的特徴がすでに発達していた時代から標本抽出されました。

 CLV祖先系統拡大の第3の波は、紀元前3300年頃に始まり、紀元前三千年紀半ばまで続いた、ヤムナ主流派の拡大です。これら3回の拡大の波は、地理的および遺伝的に多様なCLV勾配にさまざまな地点から祖先系統を広めました。CLV祖先系統拡大の3回の遺伝的な波が、インド・ヨーロッパ人の影響の拡大と「古ヨーロッパ」の没落を説明する、1950年代にマリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)氏によって提唱された、クルガン(Kurgan、墳墓、墳丘)集団の3回の波と時空間的に一致していることは、注目すべきです。ギンブタス氏は征服の結果としてのクルガン祖先系統の拡大を想定し、文化的変容を強調しましたが、本論文の結果は、第1および第2と、特に第3の波におけるヤムナ集団の拡大によるCLV祖先系統の拡大によって影響を受けた、大規模な遺伝的変容の証拠を提示します。そうした遺伝的変化には複雑な文化動態が関わっていたに違いなく、そこでは紛争と平和的統合の両方が役割を担っていたかもしれません。これら3階の拡大の文化的影響を調べる将来の研究は、付随する広大な遺伝的影響の新たな理解によって特徴づけられねばなりません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:古代のゲノムがヤムナ文化の起源の手がかりとなる

 5,000年前にユーラシアステップ(steppe:草原)からヨーロッパへと移住した遊牧民ヤムナ(Yamna)族(別名ヤムナヤ〔Yamnaya〕族)の起源を明らかにする2つの論文が、今週のNature に掲載される。ウクライナとロシアの現代の古代ゲノムデータから、これらの遊牧民がどのようにして祖先、文化、そして恐らくは言語を広めていったのかについての洞察が得られた。

 ヤムナの人々は、インド・ヨーロッパ語族をユーラシアステップ(東ヨーロッパからアジアに広がる地域)からヨーロッパ大陸に広めるのに重要な役割を果たしたと考えられている。しかし、この民族の正確な起源は依然として不明である。

 今回Nature に掲載される2つの論文では、ポントス・カスピ海ステップ(Pontic–Caspian steppe:黒海とカスピ海に挟まれたヨーロッパとアジアにまたがる地域)とその周辺地域から最大435人の古代DNAを分析し、これまでサンプルが採取されていなかった多数の集団をデータセットに導入することで、ヤムナ人の起源を調査している。これらのデータは、地理的、考古学的、および時間的な情報を組み合わせて、ヤムナ人の歴史をモデル化するために使用された。

 Iosif Lazaridisらは、ヤムナ人の新石器時代(銅器時代)の祖先について、3つの異なるサブグループ(クライン〔clines〕と呼ばれる、集団内の勾配に沿った測定可能な変化によって定義されるもの)を提案している。すなわち、コーカサス・下ヴォルガ(Caucasus–lower Volga)クライン、ヴォルガ(Volga)クライン、およびドニエプル(Dnipro)クラインである。これらのクラインは、既存のヨーロッパの集団と混ざり合った。コーカサス・下ヴォルガのクラインは、ヤムナ族の祖先の約80%を占め、また、青銅器時代のアナトリアの人々(現在のトルコの大半を占める西アジアの半島)の人々の祖先の約10%を占めている。著者らは、アナトリア人とインド・ヨーロッパ人の共通の祖先の言語を話す人々は、紀元前4400年から紀元前4000年の間にコーカサス・下ヴォルガから派生したと示唆しているが、この結論については慎重に扱うべきである。

 2つ目の論文では、上記の分析に含まれた81人の個人のDNAの配列について説明しており、Alexey Nikitinらは、ヤムナ人の祖先は2つの波に分かれて広がり、その後、地元の住民と混ざり合ってヤムナ人が拡大していったと示唆している。著者らは、ヤムナ族の起源は、おそらく紀元前3635年から3383年頃のウクライナのミハイリフカ(Mykhailivka)であると提案している。この時期に、最も初期にサンプリングされた遺伝的にコアなヤムナ族の個体が特定された。

 これらの結果は、ヤムナ族がどのようにして発生し、東ヨーロッパ全体に新しい文化と言語を広めていったのかについて、新たな光を投げかけている。


古代ゲノミクス:北ポントス地域の新石器時代から青銅器時代のゲノム史

古代ゲノミクス:北ポントス地域のゲノム史

 今回、黒海の北部地域(北ポントス地域)の古代DNAの解析によって、この集団の新石器時代から青銅器時代までの歴史が明らかにされた。
https://sicambre.seesaa.net/article/202503article_10.html

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