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雑記帳 2025年02月08日
長谷川岳男『スパルタ 古代ギリシアの神話と実像』
https://sicambre.seesaa.net/article/202502article_8.html
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文春新書の一冊として、文藝春秋社より2024年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。古代ギリシア史は日本でも一定以上の人気があるように思われ、一般向けの本も少なからず刊行されており、当ブログでも複数取り上げています。ただ、そうした一般向けの本では、史料の問題もあってアテナイを中心とした構成になることが多く、そこではスパルタはアテナイの有力な競合相手として描かれているように思われます。その意味で本書は、スパルタに焦点を当てた日本語の一般向け通史としてたいへん貴重なのではないか、と思います。
本書はまず、現代社会におけるスパルタの印象を取り上げます。本書冒頭で指摘されているように、現代日本社会において、スパルタの歴史についてまったく知らない人でも、そのうち多くの人はスパルタに由来する「スパルタ教育」という言葉を聞いたことがあるでしょう。スパルタが強健な兵士を育成するため、社会全体を厳格に統制していた、との印象は同時代からあったようで、そうした印象は西洋世界において現代まで一貫しているようです。これが、現代日本社会においてよく使われる「スパルタ教育」の用語につながっているわけですが、英語の「スパルタ教育」には体罰など厳格な教育との意味はなく、単にスパルタで行なわれた教育を指しているようです。現代日本社会のような意味での「スパルタ教育」は第二次世界大戦前からあったものの、広く浸透したのは1969年に刊行された石原慎太郎『スパルタ教育』の影響が大きかったようです。スパルタの特徴の一つとして、山がちなギリシアでは珍しく肥沃な平野のあるラコニア地方にあることが指摘されています。ラコニア地域を掌握したスパルタは紀元前7世紀には西隣の肥沃なメッセニア地方を征服し、ギリシアのポリスでは群を抜いた領土となります。
ペルシア戦争において、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシア帝国のクシャヤールシャン1世(クセルクス)が、父親のダーラヤワウシュ1世(ダレイオス1世)に続いてギリシアに侵略してきた、とギリシア世界に伝わると、コリントスにギリシアのポリスの代表が集まりましたが、断固たる抵抗を主張したのはスパルタやアテナイなど少なく、多くのポリスは日和見の姿勢を示したそうです。ペルシア戦争において、侵攻してきたペルシア陸軍に対してギリシア軍はペルシア軍よりかなり少なく総勢7000人程度で、このうちスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍は約4000人、そのうちスパルタ軍は300人程度でした。このようにギリシア側の兵力が少なかったのは、オリュンピア祭の開催期間だったから、とヘロドトスは指摘しています。ただ本書は、多くのポリスが様子見をしていたからだろう、と推測します。スパルタ軍が少なかった理由については、カルネイア祭の最中だったことや、ペルシアの大軍を阻止するには少なすぎるものの、本国防衛のためここでスパルタの主力が殲滅されるわけにはいかない、といった意図などが挙げられてきました。テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダスが撤退せず全滅した理由について、他のギリシア軍が退却できるよう殿を務めたことと、スパルタ市民にとって負け戦での生還は認めないという法に従ったことが挙げられており、その前提としてスパルタ社会の同調圧力の強さが指摘されています。ただ、内通がなければ、ペルシアの大軍は補給の問題もあって撤退せざるを得なかった可能性が高いので、スパルタ軍は出陣当初から全滅を覚悟していたわけではないだろう、と本書は指摘します。このテルモピュライの戦いで、後世のスパルタの印象が決定づけられることになりました。テルモピュライの戦いの翌年のプラタイアの戦いでも、スパルタ軍5000人の活躍は目覚ましく、軍事強国としての名声はさらに高まりました。
こうしてスパルタが軍事強国となった要因として、当時から教育が注目されていました。スパルタの教育の特徴は、教育を各家庭に任せた他のギリシアのポリスとは異なり、社会全体で責任を持ち、徹底的に規律と服従を強いたことです。さらに、スパルタの教育は市民資格の得られる20歳では終了せず、30歳まで当局の監視下にありました。ギリシア世界において当時から注目されていたスパルタの教育について、一方で体罰や恐怖による規律と服従の体得について、同時代のアテナイでは否定的意見もありました。ただ、スパルタは市民がポリス外に出ることを制限し、定期的に「外国人」をポリス外に追放したので、その教育の実態に関する情報はかなり少なく、理想化されて伝わった側面も多分にあるようです。スパルタでは繁殖が重視されたため、子供を産む女性は充分な食事が与えられ、10代半ばでの結婚や出産も多かった他のポリスに対して、10代後半以降に結婚する傾向にあったようです。誕生した子供は、長老の審査によって虚弱か障害のある場合には遺棄された、と伝わっています。男児は一定の年齢(数え年で7歳と伝わっています)になると公教育を受け、過酷な日々を過ごしました。また、女児も一定の教育を受けたようです。男性の教育は年齢によって区別されていたようで、7~13歳頃のパイデス、14~19歳頃のパイディスコイ、20~30歳頃のヘボンテスです。この公教育では、服従と競争が重視されました。公教育での食事は少なく、盗みが認められており、これには戦いでの狡猾さを養う目的があったようです。通過儀礼を終えた男性は共同食事仲間への加入試験を受け、これは市民であるための必須条件でした。
こうしたスパルタの厳しい統制はリュクルゴスの改革によって確立していき、それ以前のポリス内情勢はギリシア世界で最も不安だった、との評価が同時代からありました。ギリシア世界において先住のイオニア人集団に属するアテナイ人に対して、スパルタ人は後から到来したドーリス人に属し、ヘラクレスの末裔とされていました。スパルタの拡大過程において、アミュクライ人は市民とされましたが、ラコニアの住民は、自らの自治は認められたものの対外政策ではスパルタに従うペリオイコイと、スパルタ市民にとって奴隷に近い地位とされたヘイロータイに身分が区別されました。ペリオイコイとヘイロータイの総人数は、軍事などの公務への千年のため生業への従事が禁じられていたスパルタ市民の何倍にもなったので、スパルタ社会にとって深刻な問題でした。上述のように、スパルタは紀元前7世紀には西隣の肥沃なメッセニア地方を征服し、ギリシアのポリスでは群を抜いた領土となります。この対メッセニア戦争において、当初従軍を拒否したことで市民からヘイロータイへと身分が降格された者の子供(パルテニアイ)が不満から反乱を企て未遂に終わった、と伝わっています(未成年と未婚の娘との間に子供を産ませ、その子供が市民権を与えられず、パルテニアイと呼ばれた、との伝承もあります)。パルテニアイはスパルタを離れてイタリア南部でタラス(ターラント)という新たなポリスを建てた、と伝わっています。パルテニアイの実在については否定的な見解が有力なようですが、スパルタにおける身分をめぐる対立が反映されているのかもしれません。
スパルタは紀元前6世紀のこうした社会不安の問題を解決し、それがリュクルゴス改革と呼ばれているわけですが、この改革以前のスパルタは「質実剛健」との印象とは異なり、他のポリスと同様に華やかな文化が見られたようです。当時、ギリシア世界では広く社会危機があったようで、スパルタは他のポリスとは異なる方法で対応したわけです。これは、富裕層が富を誇示しないことで、広く平等意識を形成および維持する意図があったようです。リュクルゴスの実在性や年代はともかく、この頃にスパルタで大きな改革が行なわれたことは確かなようです。このリュクルゴス改革で、2人の王(アギス家とエウリュポン家の世襲)と28人の長老から構成される長老会が設置され、市民全体から構成される民会で最終決議が行なわれ、民会の決議が不適切な場合には長老会が拒否権を行使できる、と規定されました。これは、後のローマ共和政とともに、君主政と貴族政と民主政の混合政体として、高く評価されることになります。王は、戦時に軍を率いることと、神事を司ること以外には、ほぼ権限がありませんでした。ただ、王には任期がなかったので、在位期間が長くなると大きな影響力を有しました。長老の就任資格は軍役期間が満了となる60歳以上で、終身でした。長老に欠員が出ると、市民の長老候補への声援の大きさで新たな長老が選ばれました。民会では、アテナイとは異なり、出席した市民に発言が認められず、議案の是非を怒号で示すことしかできず、人数ではなく声の大きい方の意見が採用されました。ただ、一般市民の代表として1年任期で選出される5人のエフォロス(監督官)は権限が強く、紀元前5世紀以降には王を凌駕しました。本書は、スパルタなどのポリスが、合法的暴力装置を独占していないことから、「国家」ではなく「無政府社会で」、それがポリスの不安定な社会情勢につながっていた、と指摘しています。
リュクルゴス改革によって強固な体制を築いたスパルタは、紀元前6世紀半ば以降に勢力を拡大していきます。スパルタはこの勢力拡大の過程で、併合して住民をヘイロータイにするのではなく、スパルタが上位のポリス間の従属関係へと方針を転換します。このペロポネソス同盟は、スパルタが各ポリスと締結した攻守同盟の総体で、その条件は同盟国がスパルタの軍事行動に参加することでしたが、拒否権もあり、同盟総会でスパルタの方針に反対することもできました。ペルシア戦争後のスパルタは、紀元前465年頃の大地震で打撃を受け、ヘイロータイが放棄しますが、アテナイにも救援を要請するほど鎮圧に苦戦しましたが、この時に救援に来たアテナイ軍を、民主政の影響浸透への警戒から追い返したことで、アテナイでは反スパルタ感情が高まります。アテナイはスパルタの勢力圏を次々に侵食しますが、アテナイの勢力拡大を懸念したポリスがアテナイに反抗し、スパルタが支援するなど、ギリシア世界の二大国であるスパルタとアテナイの関係は悪化し、ついに紀元前431年、全面戦争となります(ペロポネソス戦争)。ペロポネソス戦争では一旦和約が成立しますが、長くは続かず、紀元前404年、最終的にスパルタを中心としたペロポネソス同盟軍が勝利します。
ペロポネソス戦争での勝利によって、スパルタは絶頂期を迎えます。しかし、ペロポネソス戦争の直後からスパルタ社会には体制の弛緩が見られ、経済的理由によって市民身分からの脱落者が増えていったようです。外交面でも、ペロポネソス戦争での勝利の直後からアテナイの処遇などをめぐってペロポネソス同盟内で対立が生じ、スパルタに不満を抱くテーバイやコリントスへのペルシア帝国の支援が、反スパルタの動きを加速させました。紀元前395年には、スパルタとテーバイやコリントスとの間で戦争が勃発し(コリントス戦争)、スパルタはペルシアに譲歩して、紀元前387年に和約を締結します。しかし、その後もスパルタとテーバイの対立は続き、紀元前371年、ペロポネソス同盟軍とテーバイを中心とするボイオティア連邦軍が戦い、ペロポネソス同盟軍は完敗し、スパルタ軍を率いていたクレオンブロトス王は戦死します。このレウクトラの戦いで、テーバイ軍の司令官だったエパメイノンダスが用いた斜線陣は有名です。レウクトラの戦いに参戦したスパルタ市民は700人で、そのうち400人が戦死した、と伝わっています。レウクトラの戦い後、スパルタは重要な経済的基盤であるメッセニアを失い、紀元前365年にはペロポネソス同盟が解体となります。こうしたスパルタの凋落を、本書は自滅と評価しています。本書では相続の問題とともに、何よりも厳しい統制による市民数の減少が指摘されています。
テーバイも有力な指導者を失って衰退した後、ギリシア世界で派遣を掌握したのは、ギリシア世界の辺境というかバルバロイ(野蛮人)とみなされていたマケドニアでした。スパルタはカイロネイアの戦いには軍を派遣していませんでしたが、マケドニアから領土を奪われていきます。マケドニアのアレクサンドロス大王が東方への遠征を始めても、マケドニアは参陣しなかったばかりか、ペルシア帝国と結んでマケドニアに抵抗しますが、敗北し、その痛手のためか、アレクサンドロス大王死後のアテナイなどによるマケドニアに対する蜂起(ラミア戦争)にも加わりませんでした。紀元前309年にスパルタ王として即位したアギス家のアレウスの在位期間は長く、アレウスはヘレニズム世界の王のように振舞っていき、スパルタ軍を支えていた公教育は廃れます。アレクサンドロス大王死後の後継者争いの結果、地中海東部ではセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトとアンティゴノス朝が鼎立することになり、ギリシア人はこの新たな世界で生きていくことになります。
そうした中で、贅沢が蔓延していたスパルタにおいて紀元前244年に王として即位したアギス4世は、リュクルゴス体制への回帰を試みます。しかし、アギス4世の土地再分配政策は進まず、民衆の支持を失って、紀元前241年に処刑されます。しかし、紀元前235年にスパルタ王に即位したクレオメネス3世に、改革の方針は受け継がれます。この改革は、リュクルゴス体制の忠実な復活とはとても言えないものの、この改革以降には、クレオメネス3世の定めた制度がリュクルゴス体制と認識されるようになり、リュクルゴス体制の認識面での影響は大きかった、と本書は評価しています。しかし、スパルタ軍は紀元前222年にセラシアの戦いでヘラス連盟軍に惨敗し、クレオメネス3世はエジプトに逃亡し、3年後にエジプト王のプトレマイオス4世に反乱を起こして敗れ、自害します。スパルタは占拠され、クレオメネス3世の改革はほぼ廃止され、伝統的な二王制も終焉します。
その後のスパルタでは、補佐していた幼少の王を殺害して自ら王を名乗ったナビスがクレオメネス3世の改革を継承し、外国人やペリオイコイやヘイロータイや奴隷を市民に編入し、敵対的な有力者を追放し、その財産を没収して市民に分配します。ナビスはマケドニアとローマとの戦いにおいて、ローマ側からマケドニア側、さらにはローマ側へと寝返り、領土の拡大に成功しますが、この一連の過程で獲得したアルゴスを解放するようローマが宣言すると、ローマに宣戦します。しかし、スパルタは強大なローマ軍に敵わず、アルゴスを失い、ナビスは紀元前192年に暗殺されます。この結果、スパルタはアカイア連邦の傘下に置かれ、クレオメネス3世の改革以降の生活習慣や教育が廃止され、ヘイロータイは解放されて、スパルタの身分制度は最終的に解消されます。紀元前146年にアカイア連邦とローマとの戦いが勃発し(アカイア戦争)、強大なローマ軍にアカイア連邦軍は崩壊し、中心的都市の一つだったコリントスは徹底的に破壊され、ローマの属州に編成されます。スパルタは大きな被害こそ受けなかったものの、ローマへの貢納金に苦しめられます。
ローマの「内乱の一世紀」の最終段階では、周辺地域とは異なり、スパルタはオクタウィアヌスを支持し、当時スパルタで有力だったエウリュクレスは大きな権力を有することになりました。帝政期にも、スパルタと周辺地域の間で境界紛争はありましたが、政治的な行動はほぼ不可能になっていました。一方文化面では、スパルタはローマ期に質実剛健との印象からローマ人に高い評価を受け、復古調の裕福な子弟を主要な対象とする教育制度が続き、人々はこれをリュクルゴス体制の教育と信じていました。質実剛健で勇猛とのスパルタの印象のため、東方のパルティアとの戦いで、ローマ皇帝がスパルタ兵を同行させることもありました。ただ、現実のスパルタはローマからの厳しい軍費調達に、ヘルリイ人やゴート人の侵略などで荒廃し、ビザンツ期にはラケダイモニアと改名して復活を試みるものの、スラブ人の侵入によって住民は移転せざるを得なくなります。1830年にギリシアがオスマン帝国から独立すると、ギリシア王となったオトンがスパルタの栄光を復活させるべく、かつてのスパルタの市街地に人々を移住させ、現在は人口約18000人の地域の中心地となっています。
現代につながるスパルタの印象に関して、上述のようにクレオメネス3世の改革が大きな影響を及ぼしたようですが、ローマが「質実剛健な」スパルタを他のギリシア人とは異なり自分たちと似ている、と考えたことも重要だったようです。スパルタも、ローマの支配下において、ローマ人のスパルタへの「幻影」の現実化に努めたようで、それがローマ人によって記録され、中世以降のスパルタへの「幻影」となったわけです。中世のヨーロッパ西部において、ギリシア語はほとんど解されなかったこともあり、スパルタの印象は薄くなっていったようですが、12世紀ルネサンスにおいて、スパルタの政治体制への注目が高まります。ただ、この時点ではスパルタの教育や社会への関心は低かったようです。14世紀以降のルネサンスにおいて、古代ギリシア世界への関心が高まり、マキャベリはスパルタの混合政体的な国制を高く評価します。ヨーロッパ西部においてスパルタの国制への関心は近世にも続きましたが、実際に導入することは不可能と認識されるようになると、国制への関心は低下します。しかし、スパルタ社会への関心は高まり、ルソーはリュクルゴス体制を高く評価し、その後のスパルタの印象に大きな影響を与えました。一方でヴォルテールやディドロは、文化の抑圧や経済的規制といったスパルタ社会の側面に批判的でした。フランス革命後のナショナリズムの高揚においては、スパルタ社会を賛美する傾向が強まり、ヒトラー政権下のドイツでそうした動向が極まった感もあります。ドイツの優生思想と民族浄化は、スパルタ社会を参考に推進されたところもあります。ドイツではその反動で、第二次世界大戦後にスパルタへの関心は大きく低下したようです。ドイツに限らず、ナチ体制との関連で、とくに西側において第二次世界大戦後にスパルタへの関心は低下しましたが、冷戦後期のアメリカ合衆国において、自国をアテナイ、ソ連をスパルタに見立てる議論もありました。
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2025/02/08 (Sat) 16:18:51
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ギリシャの ホロコースト
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この戦闘民族やばすぎる。ゲルマン民族の謎!!
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橋場弦『古代ギリシアの民主政』
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1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm
エーゲ海の民族の古代ゲノム研究
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