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フリーダ・カーロ(メキシコシティ コヨアカン、1907年7月6日 - 1954年7月13日)

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2024/08/20 (Tue) 10:42:39

世界の名画・彫刻
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フリーダ・カーロ(Frida Kahlo、1907年7月6日 - 1954年7月13日)
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フリーダ・カーロ - YouTube
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2:777 :

2024/08/20 (Tue) 10:48:58

フリーダ メキシコ人画家フリーダ・カーロの半生
続壺齋閑話 (2024年7月31日 08:25)
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2002年のアメリカ映画「フリーダ(Frida)」は、メキシコ人の画家フリーダ・カーロの半生を描いた作品。メキシコ人であるサルマ・ハエックが制作し、自身フリーダを演じている。顔つきがそっくりなので、フリーダ本人が出てくるドキュメンタリー映画かと思えるほどだ。じっさい、フリーダ自身の写真らしいものも出てくるようなので、どれが本人でどれが役者なのか区別がつかないくらいである。

18歳のときに遭遇した交通事故で、骨盤や脊髄に重大な損傷をこうむり、生涯それに苦しめられたことが強調されている。一方、ディエゴ・リベラとの共同生活や、奔放な性生活もくわしく描かれる。フリーダは非常に性欲の強い女性で、男女の別なく気に入ったパートナーとのセックスを楽しんだというのである。フリーダの奔放な性行動には、リベラは当初静観する態度をとっていたが、やがて嫉妬にたえられなくなり、自分のほうから離婚を申し出た。その申し出にフリーダはあっさりと応じた。しかしたった一年で再婚しなおした。それはフリーダのディエゴへの愛が強かったからだ、というふうなメッセージになっている。

フリーダの生活ぶりを描くのと並行して、彼女の有名な作品が数多く紹介される。自画像のほか、家族や友人の肖像画も紹介されている。フリーダの友人関係のなかでよく知られているのは、レオン・トロツキーとの付き合いや、アンドレ・ブルトンとの付き合いだ。トロツキーとは深い友情を結んだが、すぐにあきてしまった。トロツキーが退屈な人間だったからだ。ブルトンについては、かれをバカにしたりはしないが、彼を囲むシュルレアリストの集団には嫌悪感を示している。馬鹿にはうんざりしたと言っている。

これは一応アメリカ映画ということになっているが、そのアメリカに対するフリーダの嫌悪感も強調されている。フリーダはコミュニストだったから、アメリカの露骨なブルジョワ体質に耐えられなかったのだ。特に、ディエゴがコミュニストであることを理由に、ロックフェラーが先頭になって、リベラをアメリカ市場から締め出したことに怒りを示している。
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フリーダ・カーロ
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マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家[2]。

メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる[3]。
幼年期

幼年期を過ごし、終の棲家となった「青い家」。現在はフリーダ・カーロ記念館として一般公開されている。

フリーダは1907年7月6日[注釈 1]、メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで父ギリェルモ・カーロ[注釈 2]と母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンサレスの三女として生まれた[6]。

1904年に両親が建てたフリーダの生家である「青い家」は現在はフリーダ・カーロ記念館(英語版)として公開されている[6]。

父親のギリェルモは1871年にドイツ南部のバーデン=バーデンに誕生した、ハンガリー系ユダヤ人であった。母マティルデはメキシコ系の出自であり、フリーダは自身のルーツを堂々と表明していた。後年、父の出身地ドイツでナチスが台頭、1935年には、ユダヤ人を排除し、アーリア系ドイツ人の純潔を守らせるとしたニュルンベルク法が成立。その喧伝にナチスは系図表を使ったが、彼女はこれを逆手に取り、翌1936年、<私の祖父母、両親そして私(家系図)>を制作した[7]。職業写真家のギリェルモは自身の母の死去を契機に1891年にメキシコへ渡航した。1921年のメキシコ独立百年祭の記念に出版された写真目録の製作に携わり、メキシコで最初の公式写真家としてその地位を確立している[5][8]。

しかし、1910年のメキシコ革命の勃発により安定した生活は終わりを告げた。フリーダはこの頃の状況について、「私の家ではとても困難なもとで暮らしを立てた」と回顧している[9][10]。

出産の影響で母親が衰弱していたため、幼年期は乳母によって育てられ、母親の愛情とは疎遠であったことが日記や対談などから窺える[5][11]。

6歳になった頃に急性灰白髄炎にかかり、およそ9か月にわたって寝たきりの生活を送った[12]。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた[12]。父親は足がもとに戻るようにあらゆるスポーツをフリーダに習わせたが、足が元に戻ることはなかった[13]。

リハビリを兼ねて父親はフリーダを良くハイキングに連れて行っており、そこでフリーダに自身の趣味であった水彩画や職業としていたカメラの手ほどきをほどこした[14]。こうした経験は、画家となった後年のフリーダに大きな影響を与えた[15]。1951年に制作された『父の肖像』の下縁に書かれた献辞には「私は父ギリェルモ・カーロを描くものなり。父はハンガリー・ドイツ系の出にして、芸術家であり、職業写真家である。心ひろく、知的で、その人となり貴く、勇敢にして、60年の長きにわたっててんかんに悩めるも、休みなく働き、ヒットラーに歯向かった。敬愛する娘フリーダ・カーロ」とあり、若き日の父親への感謝の念を贈っている[15]。

1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業すると、ソカロにあるメキシコの最高教育機関とされる国立予科高等学校(英語版)へ進学した[16][17]。女性として国立予科高等学校に入学したのはフリーダを含めてこの年に入学した35人が初めてであった[18]。

フリーダはカチュチャスと呼ばれるグループに入り、国民社会主義的考えに傾倒し、文学に熱中した[19]。メンバーには後年様々な分野で活躍した人物も含まれており、作家オクタヴィオ・ブスタマンテ、ミゲル・N・リラ(スペイン語版)、作曲家アンヘル・サラス、ジャーナリストアレハンドロ・ゴメス=アリアスなどがいる[20]。

フリーダは1925年頃まで父親の友人であった広告デザイナーフェルナンド・フェルナンデスにスケッチを習っており、いくつかの習作が残されている[19]。こうした経験から絵画に対する関心が高まり、次第に画家への道を目指すようになった[19]。

また、フリーダは活動を通じてカチュチャスのリーダーであったアレハンドロと恋仲になり、将来について互いに語り合うようになっていた[21]。

画家を目指す

ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ(1932年撮影)
1925年9月17日、通学に使用していたバスが路面電車と衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した[22]。フリーダも生死の境をさまよう重傷で、3か月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるようになった[22]。痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという[22]。

フリーダの事故により、アレハンドロとの仲は自然消滅のように破綻し、その孤独感はフリーダを絵画へさらにのめり込ませる一因にもなった[23]。1926年から1928年の間にフリーダは十数枚の作品を制作している[24]。通常の生活が送れる程度に回復した1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党する[25]。

そこで写真家ティナ・モドッティの紹介で画家ディエゴ・リベラと出会った[25][注釈 3]。リベラの絵に感嘆したフリーダは闘病時代に描いた自分の作品を見せ、リベラに意見を求めた[25]。リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けた[27][28]。

これを契機に二人の仲は急速に接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した[29]。年の差やリベラの外見上の印象から、フリーダの両親からはあまり祝福されなかった[30]。なお彼女は両性愛者であり、米国の画家、ジョージア・オキーフと関係があったとも言われている[31]。

二人は最初メキシコシティ中心部にあるアパートを借りて住んでいたが、リベラにコルテス宮殿(英語版)の壁画作成の仕事が入ったため、同年にクエルナバカ市へと移っている[32][33]。

翌年11月、リベラに今度はカリフォルニア美術学校(現サンフランシスコ芸術大学)から壁画作成の依頼があり、サンフランシスコへと居を移した[34]。その後も仕事の都合でニューヨーク、デトロイトなどを転々とした[35]。

リベラのこうした無節操な仕事の選び方はメキシコ共産党の反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された[33]。この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている[33]。

1930年にフリーダは妊娠したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産となった[35]。1932年、1934年にも流産している[32]。

これらの出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなった[35]。 1933年12月、メキシコに戻った二人は、知人の建築家ファン・オゴールマン(英語版)に頼んでメキシコシティの南郊外サン・アンヘルに家を建てて貰い、そこに落ち着くこととなった[36]。

絶望と成功
1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移した[37]。この年に発表した『ちょっとした刺し傷』はフリーダの心理状況をつぶさに反映している[37]。

同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に戻ったが、フリーダはリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持った[37][32]。

1936年7月にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった[37]。

同年、ノルウェーがモスクワの外圧によって追放した革命家レフ・トロツキーの庇護をメキシコ政府に申請している[37]。翌1937年にメキシコへ渡ってきたトロツキーと妻ナタリア・セドヴァ(英語版)を「青い家」へ迎え入れ、1939年まで住居を提供した[38]。フリーダとトロツキーは短い間ながら関係を持ち、トロツキーの誕生日で、ロシア革命の記念日でもある11月7日に制作した『レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ』を贈っている[39]。この作品はトロツキーを支持していたフランスの詩人アンドレ・ブルトンの目に留まり、親交を深めるきっかけとなった[40]。

1938年にフリーダにとって最初となる大規模な個展を海外で催すこととなった[40]。この個展を見たバートラム・D・ヴォルフ(英語版)は、直後ヴォーグ誌に発表した論文でフリーダの作品が他のシュルレアリスムの画家の作品と異なった独自の世界観を持っていると評価している[40]。 同年ジュリアン・リーヴィ(英語版)の招待を受け、ニューヨークのジュリアン・リーヴィ・ギャラリーで再び個展を開いた[41]。それまで自分の作品を不特定多数に見せるという経験を持たなかったフリーダはこうした評価に困惑を隠せずにいたようで、友人のルシエン・ブロッホ(英語版)に宛てた手紙の中で「人は私の作品の何を見たいのかしら」と綴っている[41]。

1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機としてアメリカへ旅立つ機会が増えていった[41]。フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道され、ニューヨーク現代美術館の館長アンソン・グッドイヤー(英語版)、ジャーナリストクレア・ブース・ルース、写真家のニコラス・ムライなど多方面の著名人から絵の注文が舞い込むようになった[42]。

フリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立った[43]。ここで複数のシュルレアリスト達と親交を結びたいと考えたことがその一因となっていたが、考え方の違いによりパリの芸術家たちと深い親交を持つことはなかった[43]。加えて戦争の影響によって展覧会は経済的成功に至らず、その後に予定していたロンドンでの展覧会は中止になった[43]。 しかしながらフリーダの作品は好意的に評価され、ルーブル美術館は展示された『ザ・フレーム』を買い上げている[43]。

フリーダの成功と精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラとの離婚が成立、フリーダは生家である「青い家」へと戻った[44]。

孤独を忘れようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努めた[44]。 1940年9月、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治療のためサンフランシスコへと向かった[45]。

医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダはリベラへ再婚の提案を行った[45]。経済的に自立させること、性的関係は結ばないことなどフリーダが提示したいくつかの条件を飲み、リベラは提案に合意し、1940年12月8日、サンフランシスコで二人は2度目の結婚をした[46]。 サン・アンヘルはアトリエとして使用することとなり、二人は「青い家」で生活を行うこととなった[46]。

1940年代に入ると、メキシコ内においてもフリーダの名は知られるようになり、様々な賞を受賞し、複数の委員会委員に選出され、講師の委嘱や雑誌の寄稿などを求められるようになった[47]。

1942年には文部省が支援したメキシコ文化センターの会員に選出され、メキシコ文化の振興と普及を目的とした展示会の企画や講演、出版物の発行などに広く携わった[47]。また同年、文部省の管轄下にあった絵画と造形の専門学校「ラ・エスメラルダ」の教員にも選ばれ、週12時間の授業を受け持つことになった[48]。

フリーダの型破りな講義は好評を博したが、数か月後には健康上の問題から学校へ通うことが困難となり、自宅での講義に切り替わった[49]。フリーダは受講していた生徒たちの中から才能ある若人を得、油絵の指導や作品展示機会の獲得に尽力した[50]。

1940年代後半にはカタルーニャ人画家のジュゼップ・バルトリが恋人であり[51]、2015年にはカーロとバルトリがやり取りした手紙や詩のコレクションが13万7000ドルで落札されている[52][53]。

晩年
1940年代の終わりごろになるとフリーダの健康状態はさらに悪化し、入退院を繰り返すようになった[54]。

1950年には右足の血液の循環が不足して指先が壊死したため、切断手術を行っている[54]。 作品制作が再開できるようになるのは1950年11月ごろに入ってからで、ベッドの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作できるよう整備した[54]。

1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなった[54]。

1953年8月には右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、主治医は膝までの切断を取り決めた[55]。以後フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった[55]。

1954年2月の日記にフリーダは次のように綴っている。「6か月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った。いまだに自殺したくなる時がある。ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。なぜなら、私がいなくなれば、彼がさびしがるだろうと思うから。」[55]

しかし、同年の7月13日、フリーダは肺炎を併発して死去した[55]。日記に自殺のことがたびたび出ていることや、前夜にリベラへ8月21日の銀婚式の贈り物を手渡していたことなどから自殺ではないかという憶測も流れた[55]。

死後、フリーダの棺は国立芸術宮殿のホールに安置され、翌日までに600人を越える人々が別れのあいさつに訪れた[55]。火葬されたのち、フリーダの遺灰は先征服期に作られた壺に入れられて「青い家」に安置されている[55]。

1958年7月12日、「青い家」はフリーダの残した作品や民芸品、奉納画や絵のコレクション、使用した絵画道具や手紙、日記などを展示する博物館、「フリーダ・カーロ記念館」として開館された[56]。

作品と評価
フリーダ・カーロは生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像であった。1926年に描いた『ビロードの服の自画像』は、イタリア・ルネッサンス絵画に対する関心が表れており、フリーダが絵画に真剣に向き合った初めての作品とされている[6]。

同年に描かれた『事故』は自身の事故の体験に基づいて描かれた鉛筆画で、レタブロの手法で表現されており、自身の事故をテーマに扱った唯一の作品となっている[22][注釈 4]。 このようにフリーダは自分の身の上に起きたことや自分自身をひたすらに描くことを身上とし、様々な作品を生み出した[58]。

1945年に発表された『モーゼ、あるいは、創造の核』はジークムント・フロイトの著作『モーゼと一神教』に強く影響を受けた作品で、国立芸術宮殿年次芸術展の絵画賞を受賞した[59]。

自画像を描くということについてフリーダは、美術評論家アントニオ・ロドリゲスに「私はほとんどの時間を一人で過ごすし、自分のことは自分がいちばん知っているから、自分を描くのです」と語っている[58]。こうした自画像の特徴として、孤独を反映するような荒涼とした空間モチーフを好んで使用する[58]。

夫との関係、事故後の自身の健康状態、子供が産めない身体であることなど、作品はその時フリーダに起こった出来事を象徴的な意味を込めて描くことが多く、フリーダの心情を表現している[58]。

こうした表現は女性の身体や性に対するタブーを打ち砕いたとして評価されており、夫であり、画家でもあったディエゴ・リベラは「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と評している[3]。
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3:777 :

2024/08/20 (Tue) 10:49:59

時は飛ぶように過ぎ去る フリーダ・カーロの自画像
続壺齋閑話 (2024年8月 3日 08:10)
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フリーダ・カーロの作品の大部分を自画像が占める。彼女は自画像を描くために生まれてきたといってもよかった。専門の美術教育を受けたわけでもなく、趣味で絵を描いたので、自分自身をモデルにするというのは合理的な選択だ。普通の画家にとって自画像は、息抜きのような位置づけだろうが、フリーダにとっては、自分自身を描くことが自分なりの美術のあり方なのだ。

「時は飛ぶように過ぎる(El Tiempo vuela)」と題されたこの絵は、フリーダが22歳の時の自画像で、フリーダらしさが現われる最初の作品といわれる。それまでは、写実的で西洋美術の伝統を模倣した作風だったのだが、この作品以降は、メキシコの民族芸術を感じさせるような画風へと転換していく。

この絵の中のフリーダは、白い衣装を着て、メキシコのエスニックなイアリングとヒスイのネックレスをつけ、厳しい表情を呈している。背景には、時計と飛んでいる飛行機がある。この二つのオブジェをあわせて、時が飛ぶように過ぎるというイメージを喚起しているわけだ。

(1929年 カンバスに油彩 77.5×61㎝ プライベート・コレクション)
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フリーダとディエゴ・リべラ フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月 6日 08:16)
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フリーダ・カーロは、1931年に壁画家のディエゴ・リベラと結婚した。フィリーダは18歳の時に巻き込まれた交通事故で、長い間療養生活を強いられたのだが、大方の回復をまって、昔の学生仲間と連絡をとった。その仲間の一人に、女流写真家ティナ・モドッティがあった。モドッティの紹介で、フリーダはリベラと会ったのだった。フリーダは、かつてリベラと出会い、自分の才能を評価されたことがあった。そんなわけでフリーダはリベラを愛するようになり、1929年に21歳も年上の彼と結婚したのだった。

「フリーダとディエゴ・リべラ(Frida y Diego Rivera)と題されたこの絵は、二人の記念肖像画である。ディエゴとフリーダが仲良く手を握りあっている。リベラは大柄な体つきで、右手にはパレットと絵筆をもっている。フリーダのほうは、メキシコの民族衣装を思わせるような格好をしている。

ディエゴに比べてフリーダは実際より小さく描かれている。特に足が子供のそれのように小さい。フリーダは6歳の時に小児マヒにかかり、そのため腿からくるぶしにかけて成長が止まってしまった。その小さな足をフリーダは強調している。なお、この作品は、美術収集家でディエゴの後援者アルバート・ベンダーの依頼を受けて制作したものである。

(1931年 カンバスに油彩 100×78.7㎝ サンフランシスコ近代美術館)
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9:777 : 2024/08/08 (Thu) 13:26:26
ヘンリー・フォード病院 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月 8日 08:09)
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フリーダ・カーロは1932年7月に流産を体験した。「ヘンリー・フォード病院(Henry Ford Hospital)」と題されたこの絵は、その際の体験を表現したものである。画家が流産をモチーフに絵を描いた例はこれ以前にはなかった。しかも、女性の画家が自身の流産体験をあからさまに描いたことは、前代未聞のことであった。

フリーダは、1930年11月以降、ディエゴとともにアメリカで暮らすことが多かった。ディエゴにアメリカでの壁画の仕事がオファーされたためである。1932年4月から1年間、ディエゴの壁画の仕事でデトロイトに滞在中、妊娠に直面した。フリーダ自身は、出産に前向きではなかった。自分の体がそれに耐えられるか疑問だったし、だいいち夫のディエゴが子どもを欲しがらなかったからだ。

そこでフリーダは、有名な外科医レオ・エレッサーに相談したりした結果、流産の処置を受けることとした。この絵は、その様子を描いたものだが、絵の中のフリーダは、涙を浮かべて子どもの死を悲しんでいる。ベッドに横たわったフリーダの周囲には、死んだ胎児をはじめ、流産にかかわりのあるイメージが描かれている。自分で流産を選んでおきながら、その結果に罪悪感を抱いている様子が伝わってくる。

(1932年 金属プレートに油彩 30.5×38㎝ メキシコシティ ドロレス・オルネド美術館)

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メキシコとUSAの国境に立つ自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月10日 08:19)
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フリーダ・カーロはアメリカでの生活になじめなかった。夫のディエゴの仕事の都合でアメリカに滞在しているだけで、アメリカを気に入っているわけではなく、かえってその俗悪さにうんざりしていた。アメリカの金権主義が、社会主義的傾向を強くもっていたフリーダには我慢ならなかったのである。

「メキシコとUSAの国境に立つ自画像(Autorretrato en la frontera entre México y Estados Unidos)」と題されたこの絵は、そんなフリーダの気持ちを表現したものである。フリーダは、メキシコとアメリカの国境をまたいで立ち、あたかも二つの文明を比較しているように見える。メキシコを愛したフリーダだから、メキシコは暖かく、アメリカはグロテスクに描かれている。

フリーダは、左手でメキシコの国旗を、右手でたばこを持っている。タバコはアメリカの象徴なのだろう。そのアメリカは、工場の煙突から煙がもうもうと立ち込め、そのスモッグで星条旗がかすんで見える。一方メキシコは、マヤの遺跡が描かれ、その遺跡の上に雲に覆われた太陽と月がかかっている。その両方の雲が混ざることで、稲妻が発生する。手前には、メキシコの固有の植物が深く根を張っている。

(1932年 金属プレートに油彩 31×35㎝ プライベート・コレクション)

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私の衣装がかかっている、あるいはニューヨーク フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月13日 08:16)
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フリーダは、「メキシコとUSAの国境に立つ自画像」において、メキシコへの郷愁とアメリカへの軽蔑を表現したが、「私の衣装がかかっている、あるいはニューヨーク(Allá cuelga mi vestido o New York)」と題するこの絵は、アメリカへの軽蔑に焦点をあてたものである。

リベラとフリーダは、サンフランシスコとデトロイトを経て、1933年の3月にニューヨークに移った。ロックフェラー・センターの壁画を制作する仕事のためである。リベラはアメリカが気に入って、いつまでも滞在するつもりだったが、フリーダはアメリカの俗物性にうんざりしていた。リベラがアメリカを去ってメキシコに戻る気になったのは、ロックフェラー・センターの仕事をキャンセルされ、しかも破壊されたことに腹をたてたためだ。その壁画にリベラはレーニンの肖像を描き入れたのだったが、それがネルソン・ロックフェラーの逆鱗に触れたのだった。

この絵には、フリーダ自身の姿は描かれていない。フリーダのお気に入りだったメキシコの民族衣装テワナが描かれている。そのテワナを囲むようにして、ニューヨークの俗悪さを象徴するような景色が描かれている。その俗悪さは、便器でも強調されている。ニューヨークは糞のような街だと言いたいかのようである。便器とならんでトロフィーが見えるが、トロフィーもアメリカ人の俗物根性の象徴のようなものである。

(1932年 メソナイトに油彩とコラージュ 45.5×50.5㎝ フーヴァー・コレクション)

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ちょっとした刺し傷 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月15日 07:31)
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「ちょっとした刺し傷(Unos cuantos piquetitos)」と題されたこの絵は、ある殺人事件に刺激されて描いたものだ。妻をナイフで殺害した男が、妻の傷口を見せられて、これはちょっとした刺し傷です、と答えた。それにフリーダは、男による性差別的暴力性を感じてこの絵のアイデアを得たといわれる。

この絵を描いたころ、フリーダはディエゴの性的なだらしさにうんざりしていた。ディエゴは、こともあろうか自分の妹のクリスティーナにまで手を出した。さすがのフリーダも、離婚を真剣に考えたほどだった。この絵には、そうしたフリーダの心理状態が反映しているようである。

ベッドの上に血まみれの女が横たわり、その傍に男が立っている。男の顔には薄笑いがうかび、その手には血まみれのハンカチが握られている。男の顔には、ディエゴの面影をみることができる。白黒二羽の鳩が、リボンを広げているが、そのリボンには「ちょっとした刺し傷」と書かれている。

(1935年 金属板に油彩 38×48㎝ メキシコシティ、ドロレス・オルメド美術館)
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思い出、あるいは心臓 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月17日 08:28)
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「思い出、あるいは心臓(Recuerdo o El corazón)」と題されたこの絵は、夫ディエゴと妹クリスティーナの肉体関係への彼女の深い悲しみを表現したものだと受け取られる。フリーダは、人間の悲しみを、身体から飛び出た心臓で表現する傾向があった。この絵のなかでは、彼女の胸から飛び出た心臓が、画面左下の砂地の上にころがり、どす黒い血を流している。地は砂浜に流れ、さらに海へと注いでいる。フリーダは、砂浜と海の境界に立っているのだ。

フリーダの両側には一本の腕だけをおさめた服が描かれている。左側は、女子の学生服で、袖からのびた左腕は、彼女に向かって差し出されているが、触るまでにはいかない。右側は、メキシコの伝統服テワナで、その肩の部分から伸びた右腕がフリーダを支えているように見える。

フリーダの心臓のあったあたりは、金属の杖で貫かれている。杖は人によって握られているわけではなく、自力で空中を動いている。心臓を突き刺されたフリーダは、観客に向かって無表情な顔を見せており、その両目からは涙があふれている。なぜか彼女の両腕には手がついていない。

(1937年 金属プレートに油彩 40×28㎝ パリ、個人コレクション)
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レオ・トロツキーに捧げた自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月20日 08:08)
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フリーダは、もともと政治的な傾向が強かった。リベラの影響もあっただろう。その傾向は、1936年にスペイン内戦が始まると強化された。彼女は共和国支援を呼びかけ、連帯委員会を組織したりした。彼女とリベラはまた、ロシア革命の英雄レオ・トロツキーに共感していた。トロツキーが第四インターを結成すると、彼女もそれに共感を表明した。

「レオ・トロツキーに捧げた自画像(Autorretrato dedicado a León Trotsky)」と題されたこの絵は、そんなフリーダのトロツキーへの連帯を表現した作品である。フリーダとディエゴは、スターリンによって追跡されているトロツキーの庇護を、1934年にメキシコの大統領に就任したカルデナスに要請し、それが認められてトロツキーは、ナタリア・セドバとともにメキシコにやってきた。

フリーダは、コヨヤカンにあるカーロ家の屋敷「青い家」をかれらに提供し、親しく交流した。その交流は、フリーダとトロツキーの間に愛を芽生えさせたといわれる。その愛は長続きしなかったが、フリーダはトロツキーに捧げる自画像を1937年の11月に完成させた。彼女の自画像は民族衣装テワナを着た姿で表現されている。

(1937年 メソナイトに油彩 76.2×61㎝ ワシントン、国立女性美術館)

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4:777 :

2024/08/22 (Thu) 09:00:46

乳母と私、あるいは乳を吸う私 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月22日 08:06)
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フリーダは、わずか11か月の時に妹のクリスティーナが生まれたので、母親はクリスティーナのほうに勢力を傾け、フリーダのことはあまり世話しなかった。授乳はインド人の乳母にまかせきりだった。そのことにフリーダは、複雑な感情を抱いた。クリスティーナは、幼い時分から母親の愛情を奪ったばかりでなく、大事な夫のディエゴまで奪ったのだから、彼女が複雑な気持ちを抱くのは当然なのである。

「乳母と私、あるいは乳を吸う私(Mi nana y yo o Yo mamando)」と題されたこの絵は、フリーダと乳母の関係を回想したものだ。フリーダはこのテーマでいくつかの作品を手掛けている。

乳母はフリーダを抱いて乳を飲ませ、フリーダは乳を飲んでいる。不思議なのは、乳母がマスクをつけて素顔を見せないことと、フリーダが、身体は赤ん坊のままで、顔だけ大人であることだ。しかも、乳母の乳房には、乳腺が浮かび上がっている。幼いフリーダは、その乳腺からしみだしてくる乳を、機械的に飲んでいる風情だ。

背景に粉雪の舞う様子が描かれ、右手には雪で白く染まった葉が描かれている。なんとも寒々とした雰囲気の作品である。

(1937年 金属プレートに油彩 30.5×34.7㎝ メキシコシティ、ドロレス・オルメド・コレクション)
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5:777 :

2024/08/24 (Sat) 10:26:27

フラン・チャンと私 フリーダ・カーロの自画像
続壺齋閑話 (2024年8月24日 08:10)
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フリーダ・カーロは、生涯に200点あまりの作品を手掛けたが、その大部分は自分自身をモデルにしていた。そのうち55点にのぼる作品は、上半身をアップした半身像で、そのどれもがユニークな装飾性に富んでいる。彼女が自画像にこだわったのは、一人で過ごす時間が多く、自分自身をモデルにするのがてっとりばやかったからだと語っている。

「フラン・チャンとフリーダ・カーロ(Fulang-Chang y Frida Kahlo)」と題されたこの絵は、自分自身をモデルにした半身像の初期の傑作である。フリーダは、自分の半身像にサルやオウムなど動物を添わせるのが好きだった。この絵の中のサルは、彼女が飼っていたフラン・チャンという名のクモザルである。

1938年10月にニューヨークのジュリアン・リーヴィ・ギャラリーで開かれた初の個展にこの作品を出したところ、いい価格で売れた。この絵を、当時ニューヨークの現代美術館長だったコンガー・グッドイアーが欲しいといったが、すでに売り手がついたあとのことだった。

彼女は長髪を無造作にたばね、クモザルを胸に抱いている。左右の眉毛がつながっているのは、彼女の自画像の特徴である。彼女の現実の眉毛は、こんな風ではないのだが、いわゆるげじげじ眉毛ではある。

(1937年 メソナイトに油彩 40×28㎝ ニューヨーク現代美術館)
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6:777 :

2024/08/27 (Tue) 20:23:41

猿のいる自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月27日 08:14)
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「猿のいる自画像(Autorretrato con mono)」と題されたこの絵は、ニューヨーク現代美術館の館長コンガー・グッドイアーの注文を受けて制作したもの。グッドイアーは、ジュリアン・リーヴィ・ギャラリーでのフリーダの個展に展示されていた「フラン・チャンとフリーダ・カーロ」を欲しがったのだったが、すでに他の人のものになっていたので、同じような構図の絵を描いてほしいとフリーダに頼んだ。それを受けてフリーダは、メキシコへ旅立つ前に、ニューヨークのホテルでこの絵を完成させた。

「フラン・チャンとフリーダ・カーロ」の構図は、巨大な植物の葉を背景にして、胸にクモザルを抱いたフリーダの上半身(肩から上)を、画面のやや下寄りに配置したものだった。この絵では、フリーダの上半身は、画面のほぼ全体を占め、クモザルは彼女の背後に控えている。このクモザル(フラン・チャン)は彼女のペットであり、ほかの作品にも登場する。

髪を髷に結い、首にはメキシコ先住民の先史時代の首飾りをつけている。こうすることで彼女は、メキシコの伝統に連帯を表明しているのである。

(1838年 メソナイトに油彩 40.6×30.5㎝ バッファロー、オルブライト・ノックス美術館)
7:777 :

2024/08/29 (Thu) 09:04:59

ザ・フレーム フリーダ・カーロの自画像
続壺齋閑話 (2024年8月29日 08:18)
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アンドレ・ブルトンの企画により、1939年にパリで「メキシコ展」が開催された。リベラとフリーダの夫妻は、トロツキーを通じてブルトンと親しくなった。ブルトンは、フリーダの描いた「トロツキーに捧げる自画像」に感銘を受け、彼女のためにもなると思って、この展覧会を企画したのだった。フリーダはこの展覧会に「ザ・フレーム(Autorretrato"The Frame")」と題された自画像を出展した。それをルーヴル美術館が買い求めた。ヨーロッパ以外の美術家の作品を、メジャーな美術館が買収するのは初めてのことだった。もっともルーヴル側では、フリーダ自身を高く評価していたわけではなく、ディエゴ・リベラの妻と認識していたようである。

非常に特殊な素材を用いている。青い背景とフリーダの半身部分はアルミニウムの板に描かれ、周囲の装飾的な部分はガラスの板に描かれている。この素材をフリーダはメキシコのオアハカの市場で買ったという。

アルミとガラスの境目の部分が、黒ずんでいるように見える。そこは、ガラスがアルミに重なる部分なのであろう。フリーダ自身は、ほかの自画像に比べると、素直な表情に見える。

(1838年 アルミとガラスの組み合わせに油彩 28.5×20.7㎝ パリ、国立現代美術館)
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8:777 :

2024/08/31 (Sat) 13:54:35

ドロシー・ヘイルの自殺 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年8月31日 08:08)
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「ドロシー・ヘイルの自殺(El suicidio de Dorothy Hale)」と題されたこの絵は、雑誌「ファニティ・フェア」の編集者クレア・ブース=ルースの依頼を受けて制作したもの。モデルのドロシー・ヘイルは、ニューヨーク社交界の花形で女優志望だったが、1831年に夫が死んだあと経済的困窮に陥り、1938年10月に、ニューヨークのハンプシャー・ビルの窓から飛び降り自殺した。ドロシーの親しい友人だったクレアが、ドロシーの生前の肖像画を母親に贈ろうと思ってフリーダ・カーロに制作を依頼したのだった。

フリーダはこの絵を、1939年8月に完成して、クレアに見せたところ、クレアはそれを破り捨てたくなるほど嫌悪した。生前の面影をしのぶことができる普通の肖像画を期待していたところ、自殺の様子がグロテスクに描かれていたからである。クレアはこの絵を破ることはしなかったが、ルースの母親に渡すことはせず、友人のフランク・クラウニンシールドに預けた。クラウニンシールドは後にルースの家族に返した。

高層ビルを背景に、一人の女性が窓から飛び降りる様子が、時間の順を追って描かれている。画面下には、地面にたたきつけられた女性が、苦痛に満ちた表情で横たわっている。この陰惨な描写は、当時のフリーダの心の中を反映していると解釈されている。当時のフリーダは、ディエゴとの関係が悪化し、悩みぬいていた。自殺願望もあったといわれる。この絵はそんなフリーダの自殺願望が表願されているというのである。なお、画面最下部には、ドロシーが自殺した事情が書かれている。

(1939年 布に油彩、木枠に彩色 60×49㎝ アメリカ、フェニックス美術館)
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9:777 :

2024/09/03 (Tue) 08:38:30

水の中に見たもの、あるいは水がくれたもの フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月 3日 08:32)
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「水の中に見たもの、あるいは水がくれたもの(Lo que vi en el agua o Lo que el agua me dio)」と題されたこの絵は、フリーダ・カーロの自伝をイメージ化したものといわれる。バスタブの中にさまざまなイメージが描かれているが、それらのイメージのそれぞれが彼女の人生のある時期をあらわしているというのである。なかでも、水の上に飛び出した両足先とその水面への反映が、画面を支配しているので、この絵には「足の自画像」という別名もある。

高層ビルを吐きだす火山、これはアメリカでの生活をイメージしているのであろう。火山の左手の麓には、顔のない男が横たわり、左手に握った綱がぐるっと円を描きながら両足先の中間にあるリングに巻き付いている。綱は、水面に浮かんだ女の首を絞め、穴だらけの貝殻を横切り、得体のしれない物体にからみついている。水面に浮かんだ女はフリーダ自身であろう。その隣に、彼女の両親の像。また二人の裸の女たちがいる。この女たちは、別途「森の中の二人の裸婦」として独立した作品になる。

フリーダはこれを、1938年にパリのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで開催された個展に出品した。アンドレ・ブルトンはこの絵を、シュルレアリズムの傑作だと評価した。フリーダ自身には、そう言われるまでシュルレアリストとしての自覚はなかった。

(1938年 カンバスに油彩 91×70.5㎝ パリ、フィリパッキ・コレクション)
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10:777 :

2024/09/05 (Thu) 15:06:14

ふたりのフリーダ フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月 5日 08:14)
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フリーダ・カーロは、1939年の11月6日に正式に離婚した。その年の夏には、フリーダはコヨヤカンの両親の家で別居を始めたのだが、秋に離婚に合意、11月に書類上離婚したのだった。離婚を言い出したのはフリーダではなく、ディエゴだったという。フリーダは、自分がディエゴに捨てられたと思い、絶望したそうである。「ふたりのフリーダ(Los dos Fridas)」と題されたこの絵は、離婚直後に描かれたものである。

二人のフリーダが、並んで座っている。右側のフリーダは、メキシコの民族衣装テワナを身にまとい、左側のフリーダは、西洋風の衣装を着ている。彼女らの深い結びつきは、一本の血管で互いの心臓が結ばれていることで表現されているが、左側のフリーダは、自分の心臓から伸びた血管を鉗子で断ち切っている。そこからの出血が、フリーダの悲しみをあらわしていると考えられている。一方、右側のフリーダは、ディエゴの少年時代の肖像が描かれた御守を持っている。

背景も暗鬱とした雰囲気であり、フリーダの心の状態を暗示させる。この作品は、1940年1月にメキシコシティで開催されたシュルレアルズム展に、「傷ついたテーブル」とともに出展された。

(1939年 カンバスに油彩 173.5×173㎝ メキシコシティ、現代美術館)
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11:777 :

2024/09/07 (Sat) 14:25:15

森の中の二人の裸婦 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月 7日 08:12)
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「森の中の二人の裸婦(Dos desnudes en un bosque o La tierra misma o Mi nana y yo)と題されたこの絵は、副題に「大地あるいは乳母と私」とあるように、大地に横たわった乳母とフリーダをイメージした作品。フリーダはこれ以前に「乳母とフリーダ・カーロ」と題した絵を描いており、そこでは乳母との表面的なつながりが強調され、二人の間には深い愛情を感じることはなかった。この絵の中の二人は、親密とはいえないまでも、よそよそしい関係にも見えない。

フリーダは、自伝的な作品「水の中に見たもの」の中で、この絵の図柄と同じものを描き入れていた。それを独立させて、それなりの背景の中に配置したのがこの絵の図柄である。

背景に地平線が描かれ、二人の裸婦は森のはずれに横たわっている。森の中には、猿が身を潜めて二人の裸婦をうかがっている。これはフリーダのペット、クモザルのフラン・チャンであろう。なお、この二人の裸婦を、フリーダと乳母ではなく、フリーダの同性愛的な傾向を表現したものだとする解釈もある。フリーダは、自分のそうした傾向を、ディエゴにも隠さなかった。ディエゴがフリーダとの離婚を迫ってきたのは、彼女の同性愛を拒絶したからだとも考えられる。

(1939年 金属板に油彩 25×30.5㎝ プライベート・コレクション)

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12:777 :

2024/09/10 (Tue) 08:51:23

断髪の自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月10日 08:11)
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「断髪の自画像(Autorretrato con pelo cortado)」と題されたこの絵は、ディエゴと離婚した直後に描かれた。おなじみのテワナをぬぎ、男物のスーツを着て、男のような髪型になったフリーダが、じっと我々を見つめている。これは、フリーダの中にあったバイセクシャルの傾向のうち、男性的な面を強調した作品である。

フリーダは、右手にはさみを持っている。そのはさみで自分の長い髪を切ったのだ。髪の断片がいたるところに散らばっている。その量は半端ではない。フリーダの髪がいかに豊かだったか、あらためて感じさせる。髪を切ったことで、フリーダは男っぽくなったが、しかし女らしさをすべて切り捨てたわけではないことは、イアリングをつけていることに見て取れる。

画面上部に、髪をテーマにしたメキシコの流行歌の歌詞とメロディの譜面が記されている。歌詞の意味は、「ほら、わたしがあなたを愛したのは、髪のせいでした。いまやあなたは髪がないので、もう愛してはいません」というものだ。

(1940年 カンバスに油彩 40×27.9㎝ ニューヨーク、現代美術館)

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2024/09/13 (Fri) 06:32:15

傷ついたテーブル フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月12日 08:15)
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「傷ついたテーブル(La mesa herida)」と題されたこの絵は、ディエゴと離婚して別居していた時期に描かれた。1940年にメキシコ・シティで開かれた国際シュルレアリズム展に初めて展示されたあと、いくつかの美術館で展示され、1943年に、フリーダの意思によってソ連共産党に寄贈された。トロツキーと親しくしたことで、ソ連共産党とは疎遠になっていたフリーダが、和解のしるしとしてこの作品を贈ったのだった。だが、ソ連側では、シュルレアリズムへの理解がなく、たなざらしにされた。1955年にポーランドの展覧会に出展されたが、それを最後に行方がわからなくなった。いまでも捜査の対象となっている。そんなわけで、実物は見ることができない。だが、写真が残っている。上の画像は、その写真である。

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を意識しながら描いたといわれる。大きなテーブルを囲んで、真ん中にフリーダ自身が座り、彼女のまわりには(左手から)二人の子供、メキシコ原住民、民俗人形、骸骨の標本、小鹿が並んでいる。小鹿はフリーダのペットだそうである。

テーブルの表面や床に血がこびりついているが、これはテーブルの傷から流れ出したものだ。テーブルの脚は人間の足の形をしており、生きているものとして扱われている。傷ついたテーブルはフリーダ自身なのであろう。フリーダの作品のなかでは、最も規模が大きく、ダイナミックな作品である。

(1940年 木に油彩 122×244㎝ 失踪中)
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2024/09/14 (Sat) 15:37:37

ドクター・エレッサーに捧げる自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月14日 08:07)
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「ドクター・エレッサーに捧げる自画像(Autorretrato dedicado al Dr. Eloesser)」と題されたこの絵は、サンフランシスコ滞在中に世話になり、その後深い交際を続けてきたメキシコ人医師レオ・エレッサーに捧げられたものである。エレッサーは、医師としてフリーダを支えたばかりではなく、彼女のよき理解者として心の支えにもなった。そんなエレッサーへのフリーダの感謝の気持ちを込めた作品だと解釈されている。

だが、画面をみるとよくわかるように、この絵には、自立した一人の女性としてのフリーダが生き生きと表現されている。この時期、フリーダはディエゴと離婚したばかりで、いろいろな意味で自立を希求していた。その自立への強い意思が伝わってくる作品である。

フリーダは、色鮮やかな花の冠をかぶり、棘ののびた茨のネックレスをつけている。イアリングは人間の手を逆さにぶら下げた形である。これらによってフリーダが何を象徴させているのか。ともあれ、フリーダの表情は、意思の強さと抑制された感情をあらわしている。画面下には、判読困難な文字が書かれた絹のリボンが、手に握られた形で描かれている。おそらくエレッサーへの感謝の言葉が記されているのであろう。

(1940年 メソナイトに油彩 59.5×40㎝ プライベート・コレクション)
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15:777 :

2024/09/17 (Tue) 15:16:55

茨の首飾りの自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月17日 08:15)
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「茨の首飾りの自画像(Autorretrato con collar de espinas)」と題されたこの絵は、「ドクター・エレッサーに捧げる自画像」と前後して制作された。両者とも、フリーダは茨の首飾りをつけている。茨の首飾りは、自分につらく当たるディエゴを象徴的に表現していると考えられる。この時期のフリーダは、ディエゴと離婚したばかりだったが、ディエゴを憎んでいたわけではなかった。ディエゴと一緒にいることができないことの代償として、他の男と付き合ったりしたが、まもなくやめてしまった。だから、男一般への複雑な気持ちを、この茨の首飾りで表現したかったのかもしれない。

首飾りの真ん中あたり、彼女ののどの真下に、ハチドリがぶら下がっている。ハチドリは、メキシコの伝説では、幸運の御守とも、アステカの戦争の神の使いとも言われている。両肩には、黒猫とクモザルがのっている。黒猫は死の、猿は悪の象徴である。また、髪飾りには二羽の蝶が、その上部の草のそばには二匹のトンボがいる。

フリーダの自画像は、顔を斜めに向けているのが多いのだが、この絵の中のフリーダは正面を向き、われわれを凝視しているように見える。両方の眉毛はつながり、口元にはうっすらとひげを生やしている。

(1940年 カンバスに油彩 63.5×49.5㎝ テクサス大学オースチン校)
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16:777 :

2024/09/19 (Thu) 15:26:55

編み上げ髪の自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月19日 08:11)
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フリーダ・カーロは、1940年の12月にディエゴ・ロベラと再婚した。離婚してから一年後のことだ。再婚にあたってフリーダは二つの条件をつけた。もうセックスはしないこと、経済的に自立するために創作を続けることを認めること、だ。彼女はすでに有名になっていたので、絵が売れるあてはあった。彼女がこの時期に最も多く描いたのは自画像だ。多少趣向を変えて、多くの自画像を描いた。

「編み上げ髪の自画像(Autorretrato con trenza)」と題されたこの絵は、そうした自画像群の一つ。フリーダは、植物の大きな葉を身にまとい、メキシコ伝統の首飾りをつけて、われわれの方を凝視している。もっとも気を引くのは、頭の上に乗せている髷だ。地毛の部分と色が違うので、独立したアイテムのように見える。

ディエゴと離婚した当初は、彼女は自分の女性らしさを嫌悪して、女性らしさのシンボルである髪を切り落とした絵を描いたりしていた。それがこの作品では反転して、女性らしさを積極的にアピールしている。

(1941年 メソナイトに油彩 51×38.5㎝ メキシコシティ、プライベート。コレクション)
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17:777 :

2024/09/21 (Sat) 12:10:39

私とオウム フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月21日 08:12)
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「私とオウム(Yo y mis pericos)」と題されたこの絵は、一時期恋愛関係にあった写真家ニコラス・ムライを念頭に置いた作品と解釈されている。二人は、フリーダの最初の個展(1938年)で知り合って以来、恋愛関係になったという。フリーダがディエゴと離婚・再婚をするあいだ、ムライはフリーダに付き添っていた。その二人の関係は、1941年に終わる。この絵は、その愛の終わりに促されて描いたということらしい。

フリーダは、ディエゴと再婚したあとも、同居はせずに、コヨヤカンの自分の家で暮らした。その家では、多くのペットを飼っていた。この絵の中のオウムは、そうしたペットたちの一部である。

オウムは、ヒンドゥー教の神カーマの従者である。カーマは、人間の愛と欲望をつかさどる。だからこの絵は、フリーダ自身の愛と欲望を表現したものだと解釈することもできよう。もっとも、この絵の中のオウムたちは、フリーダの欲望を掻き立てているようには見えない。むしろ、彼女の気持ちを落ち着かせているように見える。

(1941年 カンバスに油彩 82×62.8㎝ ニュー・オリンズ、プライベート・コレクション)
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18:777 :

2024/09/24 (Tue) 08:42:35

テワナ衣装の自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月24日 08:22)
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1942年にメキシコの国立彫刻学校が絵画と造形の専門学校に改組され、新しいタイプの授業が導入された。その専門学校にフリーダは、1943年からかかわるようになった。フリーダは、教師と生徒との関係を対等と位置づけ、自分をファーストネームで呼ばせた。背骨の不調をはじめ体調の悪化が重なったため、学校での授業が無理になり、彼女はコヨヤカンの自宅を教室にした。そのフリーダの授業からは何人かの芸術家が育ち、「ロス・フリードス」と呼ばれた。

「テワナ衣装の自画像あるいは私の思考の中のディゴあるいはディエゴを思う(Autorretrato con Tehuana o Diego en mi pensamiento o Pensado en Diego)」と題されたこの絵は、1940年に着手されたものだが、1943年に完成した。ディエゴとの新しい生活を記念したものと言われる。

ディエゴもフリーダとともに新しい造形学校の教授を務めたので、二人は芸術教育上の同僚であった。そんなディエゴへの思いがこの絵には込められている。フリーダの額にはディエゴのイメージが浮かんであり、これは彼女がしょっちゅうディエゴのことを考えていることをあらわしている。そのフリーダは、メキシコ南西部の民族衣装を着て、頭には葉っぱの飾り物をつけている。葉っぱの根元からは、細い根っこが蜘蛛の巣のように伸びている。

(1943年 メソナイトに油彩 76×61㎝ プライベート・コレクション)
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19:777 :

2024/09/26 (Thu) 13:18:58

死を考える自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月26日 08:15)
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1940年代以降、フリーダは全身にわたって不調を感じるようになり、ベッドで過ごす時間が増えた。そんなこともあって、自分の死について考えるようになった。「死を考える自画像(Pensando en la Muerte)」と題されたこの絵は、そんなフリーダの、自分自身の死をイメージした作品である。

例によって四分の三の角度に体をずらし、その角度から我々を見つめるフリーダ。彼女の額の真ん中には、髑髏のおかれた荒涼たる大地が浮かび上がって見える。これは、彼女が考えている死が、髑髏の形をとって浮き出たのであろう。

一方、背景にはサンザシの枝が配されている。メキシコ先住民の言い伝えでは、サンザシの枝は、死と再生のシンボルである。鋭い棘が死の、大きくて豊かな葉が再生の、それぞれ象徴と考えられている。この言い伝えをほのめかすことによってフリーダは、自分自身の死をメキシコ先住民の死のイメージに結びつけようとしたのであろう。

(1943年 カンバスに油彩 44.5×36.3㎝ プライベート・コレクション)
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20:777 :

2024/09/28 (Sat) 16:57:37

折れた背骨 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年9月28日 08:10)
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フリーダは、18歳の時に交通事故で脊椎を損傷して以来、その後遺症に苦しんだ。1944年には、脊椎の矯正手術を受けざるをえなかった。手術の後は、金属製のコルセットでぐるぐる巻きにされた。その気が滅入るような自分の状況を、フリーダは「折れた背骨(La Columna rota)」と題されたこの絵で表現した。

ほぼ正面を向いたフリーダは、割かれた身体を通じて損傷した背骨を見せている。背骨はところどころ断裂している。これでは体を支えることはできない。そのため、肩から腰にかけてコルセットを巻き、姿勢の安定を図らねばならない。それは不自然で苦痛に満ちたものだ。フリーダの目からは苦痛のために涙があふれている。全身に突き刺さった鋲は、局所的な苦痛の所在をあらわしている。

他の自画像とは異なって、この絵には猿やインコといったおなじみの動物はおらず、フリーダは孤独である。その孤独な姿で、荒涼とした大地の中に立っている。大地はむき出しのままで、かつ裂けている、あたかもフリーダの背骨の断裂と呼応しあっているように見える

(1944年 カンバスに油彩 40×30.7㎝ メキシコシティ、ドロレス・オルメド・コレクション)
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21:777 :

2024/10/01 (Tue) 14:19:47

希望もなく フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月 1日 08:33)
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「希望もなく(Sin Esperanza)」と題されたこの絵は、フリーダの陥っていた絶望的な状況をイメージ化したもの。背骨の矯正手術を受けて以来、彼女の体調はかえって悪化し、ベッドに伏せる日が続き、食欲がなくなって、体重は劇的に減った。主治医のエレッサーは、彼女にベッドでの安静を命じ、二時間ごとにピュレー状の食料を漏斗で摂取することにした。それをフリーダは苦痛に感じた。

画面は、ベッドに横たわったフリーダが、巨大な漏斗の先端を口の中につっこまれ、その漏斗を通じて大量の食糧が彼女の胃の中に送られる様子を描く。食料には、羽をむしられた鶏や、牛肉らしいもの、子豚や魚、そしてなぜか髑髏まである。髑髏は食料ではなく、死の象徴だろう。彼女は抵抗しようとするが、手が自由に動かずなんともしようがない。

フリーダの絶望に呼応するかのように、背景には不毛の大地が広がり、天空には太陽と月が共存している。日夜絶望に苦しむということか。なお、カンバスの裏面には次のような言葉が書きつけられている。「私には少しの希望も残っていなかった。おなかに入った食べ物はすぐに出て行ってしまった」。

(1945年 カンバスに油彩 28×36㎝ メキシコシティ、ドロレス・オルメド・コレクション)
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22:777 :

2024/10/03 (Thu) 18:49:14

モーゼあるいは太陽の核 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月 3日 08:20)
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フリーダは、有力な後援者ホセ=ドミンゴ・ラビンから借りて読んだフロイトの著作「モーゼと一神教」に夢中になり、読書の印象をイメージ化した。「モーゼあるいは太陽の核(Moisés o Núcleo Solar)」と題されたこの絵がそれである。彼女はこの絵を二か月かけて完成させ、国立芸術宮殿の美術展で受賞した。

テーマは、太陽の子として誕生したモーゼである。フロイトのモーゼは一神教の創設者という位置づけである。モーゼが人類に道徳をもたらしたというのがフロイトの主張の要点である。フリーダは自分なりのモーゼ像をもっていて、それをこの絵で表現した。彼女のモーゼ像は、太陽の子としてのモーゼである。絵は、上部に巨大な火の塊としての太陽を描き、その下に太陽の核に包まれた胎児のモーゼを描き、下段に生まれたばかりのモーゼを描く。モーゼにはディエゴの面影を見ることができる。ほかの絵のディエゴ同様、この絵の中の赤ん坊のモーゼも額に智慧の目をつけている。

両脇には、人類の歴史を動かしてきた様々な人物が配置されている。その中心は、人類の祖先であるアダムとイブ。かれらは顔を向けあっている。そしてかれらのまわりに人類の歴史を彩る英雄的な人物が控えている。左側には、エジプトのファラオを先頭にして、仏陀、マルクス、スターリンなどが見え、右側には、ヒンドゥーの神を先頭に、イエス・キリスト、マルティン・ルター、アドルフ・ヒトラーなどが見える。

(1945年 メソナイトに油彩 61×75.6㎝ プライベート・コレクション)
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23:777 :

2024/10/05 (Sat) 12:37:03

傷ついた鹿 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月 5日 08:51)
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1946年、フリーダはニューヨークで脊椎の大手術を受けた。18歳の時の事故で脊椎を損傷し、それ以後ずっと苦しんできた。手術によってその苦しみから解放されるという期待をもって、彼女は手術に臨んだのだが、結果的には失敗だった。痛みはかえってひどくなったのである。「傷ついた鹿(El venado herido)」と題されたこの絵は、自分の傷だらけの身体を傷ついた鹿にたとえたものである。

モデルの鹿はフリーダのペットである。その鹿の頭を自分の顔にかえてある。そのことで、傷ついた鹿は自分自身のイメージなのだといっているわけである。

鹿は森の中にいて、首から背中にかけて矢が刺さっている。痛みの所在をあらわしているのだろう。森はほとんど木の幹からなり、右手前の木は幹の一部が欠けている。フリーダの心の中の空虚を暗示させる。鹿の足元には葉っぱをつけた枝が落ちているが、これも欠乏感のあらわれか。森の背後には水が広がり、空には稲妻が走っている。不穏な雰囲気だ。その雰囲気が、フリーダの心の不安と呼応しあっているようだ。

(1946年 メソナイトに油彩 22.4×30㎝ プライベート・コレクション)
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24:777 :

2024/10/08 (Tue) 10:33:31

希望の木 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月 8日 08:05)
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「希望の木(Árbol de la esperanza mantente firme)」と題されたこの絵も、ニューヨークで受けた手術を回想した作品。彼女はこの絵を、パトロンのエドゥアルド・モリージョ・サファのために描いたのだったが、創作意図については、アレハンドロ・ゴメス=アリアス宛ての手紙の中で述べている。その中でフリーダは、手術の結果背中に巨大な傷ができたと嘆いている。

右半分に月を背景にして椅子に座っているフリーダが、左半分に移動ベッドの上に傷ついた背中を見せて横たわっているフリーダが、それぞれ描かれている。座っているフリーダは、右手に旗を持ち、そこには「希望の木よしっかりとせよ」と書かれている。また、左手にはピンクのコルセットが握られている。このコルセットは、「折れた背骨」の中でフリーダがつけているものである。

画面の左右を通じて荒涼たる大地が背景として広がっている。大地に刻まれた裂け目はフリーダの折れた心をあらわしているのか。フリーダが訴えかけている木はこの画面には見えない。

(1946年 メソナイトに油彩 55.9×40.6㎝ プライベート・コレクション)
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25:777 :

2024/10/11 (Fri) 04:28:29

髪をといた自画像 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月10日 08:16)
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フリーダは、1946年にニューヨークで脊椎の手術を受けた後、1950年にはメキシコで七回に及ぶ手術を受けている。手術は彼女の体を回復するには及ばず、1953には片足の切断という苦痛に直面した。彼女が死んだのは1954年、47歳のときであった。

「髪をといた自画像(Autorretrato con el pelo suelto)」と題されたこの絵は、ニューヨークでの手術が終わって一年ほど後のフリーダの様子を伝えている。フリーダは、ほかの多くの自画像とは異なり、髪をときほどいた姿でポーズをとっている。表情は穏やかで、ゆとりも感じさせる。フリーダのほどいた髪はディエゴが好んだというから、ディエゴとの普通の生活が戻ってくることを期待したのかもしれない。

画面下手の巻物には以下の文字が書かれている。"Aquí me pinté a mí misma, Frida Kahlo, con mi reflejo en el espejo. Tengo 37 años y estamos en julio de 1947. En Coyoacán, México, el lugar donde nací". (わたし、フリーダ・カーロの自画像、鏡に映った姿です。1947年の6月、わたしは37歳です。わたしが生まれた場所、メキシコのコヨヤカンにて) 実際には、彼女はこの時40歳だった。

(1947年 カンバスに油彩 61×45㎝ プライベート・コレクション)
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26:777 :

2024/10/12 (Sat) 08:51:18

太陽と生命 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月12日 08:22)
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「太陽と生命(El Sol y la Vida)」と題されたこの絵は、自然の豊饒さへのフリーダの憧れを表現したものだと解されている。フリーダ自身は、事故のために子を産めない体質になってしまったが、子を持つことへのこだわりを捨てることができなかった。この絵には、そうしたフリーダの複雑な気持ちが込められている。

フリーダ自身を思わせるような真っ赤な太陽と、それを囲んだ奇妙な形の植物群が描かれている。植物の中には生命の兆しがみえる、おそらく生命をはらんだ子宮をこれらの植物はあらわしているのだろう。子宮の中には精子を思わせるものがあふれている。右端の緑色の細長いものは、射精するペニスのように見える。

子宮を思わせる植物は花のようにも見え、それからは直接根っこが生えている。根っこは大地から養分を吸い取る役目を果たす。この絵の中の根っこは、直接太陽の光を浴びている。根っこはまた、葉っぱのようにも見える。

(1947年 メソナイトに油彩 40×50㎝ メキシコシティ、ガレリア・アブリル)
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27:777 :

2024/10/16 (Wed) 08:47:48

愛の抱擁 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月15日 08:22)
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「愛の抱擁(El abrazo de amor de entre el Universo, la Tierra, yo, Diego y el señor Xólotl)」と題されたこの絵は、かなり複雑な構造になっている。正式なタイトルには、「宇宙、地球、私、ディエゴ、セニョール・ショロトルの愛の抱擁」とある。宇宙と地球はシンボリックに表現されている。一方、私はディエゴを抱いた姿で表現されている。では、セニョール・ショロトルはどう表現されているか。ショロトルは、アステカ神話に出てくる双子である。とすれば、私とディエゴを抱えているものと、その背後にあって画面いっぱいに腕を広げているのがその双子なのだろうか。

画面ほぼ中央で、私がディエゴを抱いている姿は、フリーダの母性本能をあらわしていると思われる。ディエゴの額には第三の目がついている。第三の目は芸術家の特別な視野をあらわしているのだろう。フリーダのディエゴへの愛と尊敬が感じられる。

画面を二つにわけ、それぞれを太陽と月、昼と夜の二元性として表現するのは、フリーダの好んだ構図だ。

(1949年 メソナイトに油彩 70×60.5㎝ メキシコシティ、プライベート・コレクション)
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28:777 :

2024/10/17 (Thu) 12:48:12

生ける自然 フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月17日 08:14)
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フリーダは、1950年に受けた脊椎手術がうまくいかず、車椅子生活を余儀なくされた。そんなわけで、大作に取り組みことができなくなり、身近な対象を描いた静物画が多くなった。晩年のカーロが描いた静物画には果物を描いたものが多い。「生ける自然(Naturaleza Viva)」と題されたこの絵は、カーロ晩年の静物画を代表する作品である。

果物やイモ類などの食べ物とならんで、白い鳩が描かれている。鳩は平和のシンボルだろう。食べ物は命の泉となるものだ。平和で生き生きとしていること、それが自然本来の姿だというメッセージが伝わってくる。

画面の左半分は夜のイメージ、右半分は昼のイメージだ。このように画面を昼と夜に分割するのは、フリーダがよく用いた技法だ。昼は太陽が支配し、夜は月が支配している。

なお、植物からは直接根が生え、それらが互いにからまりあって、NATURALEZA VIVAの文字を浮かび上がらせている。

(1952年 カンバスに油彩 44×59.7㎝ メキシコシティ、プライベート・コレクション)
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29:777 :

2024/10/20 (Sun) 05:04:19

マルクシズムは病を癒す フリーダ・カーロの世界
続壺齋閑話 (2024年10月19日 08:15)
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晩年のフリーダは車椅子生活になり、しかも死の前年1953年には右脚を切断するなど、きわめて困難な状況に陥ったので、大作は描けなくなった。そういう中で渾身を振り絞って制作したのが「マルクシズムは病を癒す(El marxismo dará la salud a los enfermos)」と題されたこの絵である。若い頃からマルクス主義者を自認していたフリーダは、晩年ますますマルクス主義に自覚的になった。この絵には、マルクス主義者としての、自分自身の信念が込められている。

絵の中のフリーダは、メキシコの民族衣装テワナを着てまっすぐに立っている。二本の松葉杖は投げ捨てられ、コルセットも外された。自分をこのように勇気づけてくれるのはマルクシズムの思想だ。そのマルクスが、フリーダの守護神として彼女を見守りながら、鷲の身体を持った資本家の首をひねっている。

フリーダが左手で持っているのは聖書ではなく、マルクスの著作であろう。この絵をフリーダは、死の直前まで手掛けていたようである。フリーダの死後も、彼女の家にとどまった。

(1954年頃 メソナイトに油彩 76×61㎝ メキシコシティ、フリーダ・カーロ美術館)
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