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井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年2月15日 - 1993年7月10日)

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2024/08/17 (Sat) 11:02:58

井伏鱒二戦後の短編小説 「遥拝隊長」ほか
続壺齋閑話 (2024年8月10日 08:17)
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井伏鱒二は戦時中甲府や郷里の福山に疎開していたが、昭和22年に東京の自宅に戻った。その後短編小説を中心に多くの作品を発表、中編小説「本日休診」で、第一回読売文学賞(昭和25年)を受けたりしている。昭和25年は短編小説でも、底光りのするような優れた作品を発表した。ここでは、そのころの井伏鱒二の短編小説を代表する作品三篇を取り上げたい。「遥拝隊長」「かきつばた」「ワサビ盗人」である。

「遥拝隊長」は、戦場で心身に傷を負った傷痍軍人くずれの話である。戦時中の井伏は、戦争を正面から取り上げた作品は書かなかった。戦後数年して初めて戦争にかかわる話を書いたのが、この「遥拝隊長」である。だが、この小説は戦争を直接描いているわけではなく、一傷痍軍人の戦後の日常を描いている。それに併せて、かれがなぜ心身に傷を負ったか、その経緯を第三者の証言として紹介している。要するに、間接的な形で戦争を描いているわけである。

この傷痍軍人岡崎悠一(三十二歳)は気が狂っている、というふうに紹介される。戦争は終わっているのに、まだ戦争が続いていると思い込み、自分は以前通りの軍人だと勘違いしている。普段はおとなしくしているが、一旦発作が起こると、軍人として行動する。自分は小隊の隊長であり、近所の人々は自分の部下である。そういう思い込みから、かれはだれかれかまわず命令し、そのあげくに皇居のある方向に向かって遥拝するように命令する。そこで遥拝隊長というあだ名がつけられたのである。

悠一が発作をおこすと、母親が連れ戻しにきて、納戸の檻に閉じ込めるのであるが、三日もたてば檻から出してやる。そのうえで近所の人々に迷惑をかけたことを謝罪する。近所の人々は、母親ひとりでは生活していけないことがわかっているので、大体のことは我慢するのである。

ここで悠一の過去が簡単に紹介される。悠一は頭はよさそうだったので、村長のはからいで幼年学校に入った。そののち士官学校を経て陸軍に任官。少尉としてマレー方面に配属された。そのマレーで、悠一は中尉に昇任した直後に脚に大けがをし、内地に送り戻された。村の人々は、悠一の脚が悪いのと、頭もいかれていることに気が付いたが、その原因となったいきさつについては、ろくろく知ることがなかった。本人の悠一自身が語らないし、母親のほうも要領が悪かったのだ。

そこへ、村人棟次郎の弟与十がシベリアから帰ってきて、悠一が脚にけがをし、また頭もいかれてしまった経緯を皆に語った。かれはシベリアから内地に帰還し、敦賀から故郷へ戻る汽車のなかで、かつて悠一の部下として仕えた上田という男と出会い、その男から、悠一がけがをしたことや頭がおかしくなったいきさつを聞いたのである。悠一は現役のときから融通が利かないたちで、年中部下を怒鳴り散らしていた。部下は部下で愚痴をこぼす。あるとき、友村という部下が吐いた言葉が気にいらず、その友村を成敗してやろうと意気込んだ。友村はトラックの中にいたので、自分もトラックに入り込んだが、二人で組み合っているときに、トラックが突然振動し、そのあおりで二人は車外に投げ出されてしまった。友村はがけ下に落ちた後川に沈んでしまい、悠一は石にぶつかって脚に大けがをした。そのさいに石に頭をぶつけて、頭がおかしくなってしまったようなのである。

上田という男は、悠一の頭がおかしくなったのは、友村の怨霊がついたためだと推測したが、いづれにせよ、譫妄のたぐいの発作は一生続くだろうということだった。

こうして悠一のけがや頭のいかれた事情が村人に知れ渡ったころ、与十が帰還したことを先祖に報告するために、与十の兄と、その友人橋本屋さんと新宅さんのあわせて四人で墓参りに出かけた。一同が墓前に並んだところ、背後から大声でどなるものがあった。悠一が発作を起こしたのである。目が吊り上がっている。「しゅうごう、小隊、あつまれえ」と叫ぶと、「気をつけえ、右へならえ、なおれ」と命じる。そして「東方へ向かって遥拝の礼を捧げたてまつる」という。また、饅頭を下賜されたといって、それを小さな団子にわけ、四人に配った。その汚らしい団子を見て、四人は気を悪くしたが、黙とうのやりなおしをして去ってしまった。

まあ、要するに戦争のために心身ともにいかれてしまった男の話である。

「かきつばた」は、広島に原爆が落とされた日の前後の人々の様子を描いた作品。語り手は福山にいることになっているから、井伏自身の体験をかなり踏まえているのであろう。原爆自体は直接は触れられていない。それよりも、福山の町が空襲にあったとか、その空襲で仮の宿にしていた家が、庭石もろとも破壊されてしまったとか、友人の家の窓から季節はずれのカキツバタが咲いたとか、そのカキツバタが咲いている池に、一人の女の遺体が浮かんだとかいったことがらが淡々と描かれるのである。

井伏は、後に「黒い雨」を書くために、周辺の人からいろいろと情報を集めたそうだが、そうした情報の一部がこの作品にも盛られているようである。ひとつ興味深いのは、原爆が投下された直後、福山から広島方面に向かう列車は止まってしまったが、それを国鉄の職員はじめだれも原因がわからない、とあるところである。よほど混乱していたことが察せられる。

「ワサビ盗人」は、天城山麓のワサビ畑でワサビを盗んだ男を捕まえる話である。伊豆の天城山は、信州の安曇とならんでワサビ栽培で有名なところだ。そこへワサビ盗人がやってくる。結構いい値段ではけるので、盗みに来るものが絶えない。ワサビ農家は注意を怠るわけにはいかない。この小説では、釣好きの老人が、沢でヤマメ釣りをしている最中、たまたま盗人の存在に気付いて、村の人々ともどもその盗人を捕まえるところを描く。捕まったやつは悪びれる様子もなく、「ちかごろ、ワサビの値が高すぎるから悪いんだ。ヤマメなんかも値が高すぎるから、川に毒流しするやつがあるんだ」と放言する始末である。
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井伏鱒二晩年の随筆 「猫」ほか
続壺齋閑話 (2024年8月17日 08:26)
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井伏鱒二は、随筆にも味わい深い作品がある。晩年に差し掛かるころから、自分の身辺に取材した随筆を結構書いている。ここでは、昭和36年に刊行された随筆集「昨日の会」から「猫」「琴の記」「おふくろ」を取り上げたい。

「猫」は、井伏と一匹の猫の交流を描いたものだ。この猫は野良の三毛猫がたまたま迷い込んできたのを井伏がネズミをとらせることを目的に飼ったのだった。時期を同じくして近所から生まれたばかりの猫をもらったのだが、即戦力にはならぬとみてその猫を返し、かわりにこの三毛猫を家に置いたのだった。

猫に続いてチャボが迷い込んできた。猫は最初そのチャボを狙ったが、奥さんが叱っているうちに狙わなくなり、かえってほかの猫が来ると追い払ったほどだった。チャボは三ケ月くらいたってやっと卵を一つ生んだ。チャボは生み始めると続けて生むというので、楽しみにしていると、隣の町内の見知らぬ夫人がやってきて、そのチャボは自分のものだといって持ち去ってしまった。それ以来井伏は、家に迷い込んできた動物は置かないことにした。

あるとき、井伏が庭にいるとき、鎌首をもたげたマムシを見た。井伏は危害を恐れて後ろへ下がったところ、猫が果敢にマムシに挑戦した。猫はマムシの習性をよく知っていると見えて、安全を確保しながらマムシを攻撃した。猫ながらなかなかのものである。そのうち井伏が鳶口でマムシの頭を押さえると、猫はマムシの首にとびついて皮をはいだ。目に止まらぬ早業であった。それ以来井伏はこの猫に一目置くようになった。猫もそんな井伏の気持ちを、動物の直感でわかっている様子だった。

この随筆を書いている頃には、猫は13歳以上になっていた。猫としては大した年寄りではないのだろうが、五年前に難産して帝王切開手術を受けてから、すっかり弱ってしまい、子も産まなくなった。それを奥さんは喜んだ。ところで、チャボについては面白い余談がある。知り合いの斎藤さんが飼っているチャボが、いまは二代目なのだが、その親子が引き写しに似ているので、同じチャボにしか見えない。チャボは同じなのに、自分だけは年をとったと思うだろうじゃないか。そう井伏が奥さんに言ったところ、奥さんは別の考えをもっていた。「うちの三毛を見ている方が、まだ光陰矢の如しです」というのだ。そのうえで、亭主のいっていることがわからないという。そこで亭主の井伏は、うちの猫はチャボと違って年をとってしまったのだから、「共に老けましたというべきだ」と思うのである。

「琴の記」は、太宰治の最初の妻が井伏の家に預けておいた琴をめぐる話である。太宰は井伏に弟子入りしたこともあって、井伏は太宰の面倒を見ていたようである。その太宰が最初の妻初枝を離婚したさい、初枝は青森の実家にかえる支度をする間、一か月あまり井伏の家に世話になった。その折に琴を持参したのだったが、青森に帰るに際して、その琴を置いていった。その後初枝は中国の青島と日本を往来するようになり、昭和44年に青島で死んだ。その初枝の思い出のまとわりついた琴についての話なのである。

井伏は、太宰の縁者からこの琴の由来をきくと、なかなか由緒を感じさせる琴で、人にゆずるにしても、滅多な人にはゆずれないと思った。そう思っている所へ、有名な筝曲家の古川さんが井伏の家を訪ねてきた。井伏は琴を持ち出して古川さんに見せた。古川さんは、まず琴爪を見て、「この爪は生田流ですが、琴は山田流です」といった。井伏はぜひ古川さんに引き取ってもらいたいと思っていたので、のっけから不安を感じたが、古川さんは琴を弾いてみて感心したようだった。井伏が床の間に三好達治の二行詩を半折にしてかけたところ、「太郎を眠らせ」で始まるこの有名な詩を歌いながら琴を弾いた。その後もしばらく弾いていたが、井伏が是非引き取ってくれというと、押し問答をしたあげくにその琴を自動車にのせて持ち帰った。

琴をめぐるちょっとした話だが、行間には太宰に虐待された初枝への同情が感じられる。

「おふくろ」は、井伏の母親にたいする思いを淡々と語ったものである。これを読むと井伏が母親をかなり冷めた目で見ていることが伝わってくる。その母親は、この文章を書いた時点で86歳である。その母親が息子の井伏に向かって、「あたしゃもう、えっと生きたような気がするが」という。それを息子の井伏は、「えっと生きたという方言は、さんざん長生きしてしまった、もう沢山だという意味をもっている」と解釈する。息子の井伏自身は95歳まで生きた。
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2024/08/24 (Sat) 10:21:28

井伏鱒二晩年の短編小説 「無心状」ほか
続壺齋閑話 (2024年8月24日
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井伏鱒二が代表作「黒い雨」を書いたのは67歳のときである。67歳といえば、作家にとっては晩年といえると思うが、井伏は95歳まで生きたから、晩年というのは早いかもしれぬ。じっさいかれは、その年になっても旺盛な創作力を発揮していたし、短編小説類にも優れたものが多い。ここでは井伏の60代半ばの短編小説二本をとりあげ、その魅力を探ってみない。取り上げるのは「無心状」と「コタツ花」である。

「無心状」は一青年の淡い恋心を描いたもの。小説とエッセーの中間のようなもので、読む人によっては、井伏が自分自身の体験を書いたのだと受け取って不思議ではない。作家の永井龍男はそのように受け取ったうえで、あまりにもよくできているので、「あの話は嘘だろう?」と聞いたそうである。井伏は本当だと答えたそうだが、もしこれを小説だとすれば、うそも本当もないわけである。

原稿用紙にして20枚にも満たぬ短いものだが、なかなか中身が濃い。出だしは、語り手が40年ぶりに古本屋で「近世絵画史」という本を見かけたところから始まる。その本がきっかけとなって、語り手は40年前に体験した出来事を思い出すのである。その出来事というのが、ある女性とのかりそめの触れ合いなのだった。その触れあいは、本格的な恋愛関係には発展せず、なんとなく終わってしまったようだが、語り手の心に大きな余韻を残したようである。その証拠に、40年前には買わずにすませたその本を、わざわざ買うのである。実用からではない。自分の思い出の記念としてなのである。

タイトルにある無心状は、語り手と女性とを媒介する役目を果たす。語り手は郷里の兄に金を無心する手紙を書いた。ところが、大学の教授に提出すべきレポートと勘違いして、その無心状を教授に渡してしまった。読まれたらえらい恥をかくところだ。そこで語り手は教授の家に押し掛けて行ってレポートのかわりに無心状を取り戻す。その帰りに、本郷三丁目の停留所である女性を見かけた。その女性に語り手はかねてから関心を抱いていたのだが、なかなか声をかけることができないでいた。ところが今回は、気軽に声をかけることができたのである。教授とのその日のやりとりが、かれを大胆にしていたらしい。

声をかけられた女性は、思いかけず反応した。彼女は絵が好きらしく、高橋源吉という画家の噂話を始めた。それがきかっけで二人は本郷のさる古本屋に立ち寄り、日本美術史と題する本を立ち読みした。さいわいその本には高橋源吉についての記事も載っていた。相手の女性は本の記事の一部を読んだりしたが、その様子を見て語り手は胸に鼓動を覚えた。結局その本は相手の女性が買い、二人は別れた。その後のことは書いていない。

さて、語り手はそのことがあってから40年後に、まったく同じ本屋であの時と同じ本を見かけたのである。そしてそれを記念のしるしとして買ったのであるが、その本が果たして彼女があのときに勝った本なのかどうかはわからない。わかるのは、語り手の恋心が実らなかったことだけである。

「こたつ花」は、釣り好きな男と、これもまた釣りが好きな老人との交流を描いたもの。語り手であるその男は、信州の姫川上流にある代場という村に焼物制作の窯元の世話になりにいく。その際、反故伝と呼ばれる老人と知り合いになる。小説はその老人と語り手の触れ合いを描くのである。

二人は釣りが縁で知り合いになった。語り手が渓流へ釣りに行くと、その老人が相当年季の入った釣り人のような格好で話しかけてきた。老人は語り手の釣り道具を見て、「お前、こんなメメズじゃ駄目だな。ここの川には、フナは住まねえよ。あのの、この川の釣りは、今なら蜂の子でなくちゃ仕事になんねえよ」といい、また道糸が細すぎて切られてしまうと批評した。老人は語り手を案内して蜂の子をとりにいくが、その途中マムシを見つける。マムシは金になるといって、老人は器用にマムシをとらえる。語り手はその様子を、気味悪く思いながら見ているのである。マムシは体内で子供をかえらせる。かえった子供は親の腹を突き破って外へ出るそうである。

語り手がヤマメ釣りのコツを教えてくれというと、老人はヤマカカジをつかまえて、「あのの、このヤマッカジが、川魚を捕る名人だでの。お前、釣りしるときの,気の配り方、身のこなしを、これに教えてもらえばいいだでの」という。そしてヤマカカジを相手にしばらく遊ぶ様子を見せる。この老人は蛇と相性がいいのである。老人は、五年前にヤマカカジが奮闘する様子を見たことを話す。五年前にこの一帯が大嵐に見舞われ、大きな土砂崩れが起こった。その土砂崩れに巻き込まれたヤマカカジが必死になって身の安全を図ろうと奮闘していた。老人はただ見守るだけだったが、ヤマカカジの必死に生きようとする姿には感心したようである。

語り手はその後、甲州の貸川村に移動することにした。出発の前夜に老人にあって挨拶をしたが、老人はめずらしく晴着をきていて、なにやら紙に書いた字を読んでいた。盆踊りの歌の文句が書いてあるという。こんなふうに別れて語り手は貸川村に移った。部屋へ通されると、代場村で見た撫子のような花が活けてあるのが見えた。代場村の人はこの花をコタツ花と呼んでいた。ここでもそう呼ぶのかねと聞いたところ、ここでは「おでん花」と呼ぶという。語り手は東京へ戻ると、さっそく図鑑を開いてこの花のことを詳しく知ろうとしたが、これだと思われる花は見つからなかった。小生も図鑑にあたってみたが、やはり見つけることはできなかった。
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2024/08/31 (Sat) 13:53:06

井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」を読む
続壺齋閑話 (2024年8月31日 08:07)
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「ジョン万次郎漂流記」は、昭和13年の直木賞受賞作品であり、井伏の作家としての地歩をゆるぎないものとした。この作品はもともと河出書房の「記録文学叢書」シリーズの一冊として、昭和12年に刊行され、その際には「風来漂民奇譚ジョン万次郎漂流記」というタイトルであった。井伏には、漂流民への関心があったとみえ、若い頃の作品には「無人島長平の墓」といったものがあり、また、戦後には「漂民宇三郎」のような作品を書いている。

井伏本人の供述によれば、これは他人から借りた「漂流奇譚全集」というものを素材に使って、「記録を並べてみただけだから、これは小説ではなく」とあるから、記録文学ということになろうか。たしかに、この小説は、小説らしきところがあまりない。事実を淡々とならべ、その合間に作者の意見をさしはさむことをなるべく抑制している。

ジョン万次郎については、幕末期に漂流してアメリカに暮らした経験をいかし、明治維新に多少の貢献をした人物としてよく知られていた。かれの漂流の様子とか、また後年の政治へのかかわりなどについて、多くの人が評伝を残している。井伏はそうした評伝のうち、石井研堂の「中浜万次郎伝」を底本に使った。石井自身は、戸川残花の「中浜万次郎君伝」などを材料にして、少年向きの読み物として書いた。漂流体験が主体である。

ジョン万次郎という呼称は、それまでは流通しておらず、中浜万次郎という呼び方が一般的であった。井伏はジョン万次郎という呼び名を、アメリカ船で航海中にアメリカ人らによってつけられた綽名「ジョンマン」からとったらしい。それをもとにジョン万次郎と呼んだわけだが、この小説の出版後は、もっぱらそのジョン万次郎が広く普及するようになった。

小説は前段で万次郎ら五人の漂流と異国での暮らしぶりを描き、後段で日本帰還後の万次郎の公的な活動について描いている。その描写の仕方は、事実をして語らしめるといった具合に客観的なものであり、装飾的な表現は少ない。

万次郎が漂流することになった船に乗り込んだのは、十五歳の正月五日のことである。旧暦天保12年1月5日のことである。新暦では1841年1月27日になる。15歳は馬齢であり、満年齢では14歳を目前にした13歳である。要するにまだ子供である。同船者は、漁師の伝蔵(38歳)、その弟重助(25歳)、伝蔵の息子五右衛門(15歳)、同村の漁師寅右衛門(27歳)であった。五人は船を出した後すぐに嵐に襲われ、海上を漂流する羽目になった。漂流後、小笠原近海の無人島に漂着し、そこで数か月間暮らしたのち、アメリカの捕鯨船に救出された。その捕鯨船の船長は非常に人間味のある人物で、かれのおかげで一同はおのれの未来を見出すことができるのだ。もっとも伝蔵の弟重助は病気で死んでしまうのだが。ほかの四人は、何らかの形で自分の未来を迎えることができた。もっとも小説が触れるのは、万次郎のその後の活躍だけだ。

捕鯨船はハワイに立ち寄る。そこで伝蔵以下の四人は日本への帰国の機会を待ちながら暮らすことになるが、万次郎は船長のホィットフィールドに見込まれてマサチューセッツ州の捕鯨基地ニューベッドフォードにいく。この港はメルヴィルの小説「白鯨」の舞台にもなっている。当時アメリカの捕鯨は、灯油の原料確保のために行われていた。だから、鯨をとると、油脂だけをとりだして、肉の大部分は海に捨ててしまうのである。

万次郎は、教育の機会も与えられ、順調に成長していく。もっとも現地の学校に通ったわけではなく、教養のある大人から英語や生きていくうえで必要な基礎的知識を身に着けた程度だった。20歳になったころ、万次郎はアレンという男が所有する捕鯨船に乗った。捕鯨の技量を買われたのである。その航海の途中、日本の奥州沖で漁をする日本の漁船団(20隻ほど)と邂逅する。しかし日本へ帰国することはできず、船はホノルルに立ち寄った。そこで万次郎は、伝蔵らと再会する。伝蔵らは、万次郎と別れてから七年のあいだに身に降りかかった自分らの運命について語った。

死んだ重助をのぞく四人のうち、寅右衛門をのぞく三人(万次郎と伝蔵親子)が、ロロンデ号という捕鯨船に乗って日本帰国を企てた。ロロンデ号は、松前の諸島にさしかかる。松前というのは、北海道のことのようである。そこに列島があるといっているから、おそらく千島のことであろう。その中の一つに近づいた。万次郎らはぜひその島に上陸したいと言ったが、船長は許さなかった。無人島に置き去りにするわけにはいかないというのだ。それを伝蔵は、船長の姦計と疑い、万次郎もそう思ったが、のちにホイットフィールドから、船長の判断は妥当なものだったと言われた。

万次郎が伝蔵父子とともに再び船に乗り、琉球へ上陸したのは1851年正月のことである。漂流してから丁度十年が経過していた。彼らは上海行きのアメリカの商船に便乗し、沖縄付近を通過した際に、小舟を繰り出し、沖縄の南端マブニ村に上陸したのだった。マブニ村は、沖縄戦の際に、アメリカ軍に追われた住民が、追い詰められて海に飛び込んだところである。そこでかれらは、とりあえず薩摩藩士の尋問を受けた後、薩摩に送られ、そこで尋問を重ねて受けた後、長崎へ送られた。長崎では、異国から来たというので、踏み絵をさせられた。伝蔵の息子五右衛門はキリスト教に帰依していたが、何食わぬ顔でキリスト像を彫った銅板を踏んだ。

長崎から故郷の土佐に送られてからが、万次郎の後半の人生である。万次郎は、英語を話し、またアメリカの事情にも通じているというので、土佐藩や幕府から重宝された。万次郎は幕府に対して、捕鯨の振興を進言し、捕鯨御用の役職を得たはいいが、幕府は次第に多用を究めるようになり、捕鯨に力をいれることはなかった。万次郎後半の最大の仕事は、咸臨丸に乗ってアメリカに行ったことだった。咸臨丸は、日米和親条約の締結を目的とした派遣団を乗せたもので、軍艦奉行木村摂津、船長勝麟太郎、そのほか福沢諭吉や万次郎など総計90名を乗せていた。木村は終始穏やかな態度をとり、勝は船のなかで伸びて終始寝ていたという。小生も小笠原へ向かう船のなかで伸びて寝ていたので、勝の気持ちはわかる。

アメリカ人に対する万次郎の態度は、堂々としたものであった。この小説は、当時の日本人がアメリカ人に対してへつらうことなく、対等に接したと強調している。その一方、アメリカ人に対しても好意的な書き方をしている。中には日本人を侮蔑するようなアメリカ人もいたが、そういうやからには万次郎は決然として対応したと書いている。他方で、南方の原住民については、土人というなど差別的な書き方をしている。これは万次郎に土人といわせているのではなく、作者のナレーションとして土人という言葉を使っているので、井伏の偏見が現われた部分だろう。この小説を書いたのは昭和12年のことで、対中戦争が本格化したばかりだ。だから、アジアに対しては優越感をもつとともに、アメリカに対しては敵意が本格化していなかった。そんな時代の空気をこの小説は感じさせる。
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2024/09/07 (Sat) 14:23:41

井伏鱒二「多甚古村」を読む
続壺齋閑話 (2024年9月 7日 08:10)
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井伏鱒二の小説「多甚古村」は、昭和14年に雑誌に分載したものを一冊にして同年のうちに刊行したものだ。二年前に本格的な日中戦争が始まっており、欧州では第二次大戦に向かってきな臭い空気が漂っている時期、つまり日本も世界も戦争の影に覆われている時代だ。そんな時代だから、この小説にも戦争の影がさしている。だいたい出征兵士にかかわることから始まっているのだ。だが、戦争の影はせいぜい出征兵士への言及にあらわれるくらいで、そんなに大きな影を投げかけているわけでもない。この小説は、戦前の権威主義的な日本社会における、人々の行動のパターンみたいなものに焦点をあてている。そのパターンとは、住民はなにごとにつけてもお上の指導を仰ぎ、お上のほうも良民を適切に指導するのが自分らの天職だと思っているような態度に裏付けられたものである。

小説は、田舎の駐在所の警察官の日記という形をとっている。その田舎というのが多甚古村という村なのだが、これがどこにあるのか、明確な言及はない。井伏の田舎広島の福山のはずれかと思い、ヒントをさぐったところ、盈進高校というのが出てきた。これは福山にある高校なので、やはり福山が舞台かと思いきや、駐在所を管轄する警察署が、高松警察署と同じ県警に属していることになっているから、香川県にあるとも考えられる。だが、そもそも作者の井伏は、小説の舞台を明示することにこだわっていないのだろう。おそらく、戦時中の日本でどこにでも見られた駐在所をモデルにしているのだろう。

この小説を読むと、駐在所というのは、単に地域の治安を維持するのみならず、地域住民の生活に深くかかわっていることが納得される。現代日本の警察は、民事不介入を旗印にして住民の生活にはなるべくかかわらない方針をとっているようだが、この小説の中の駐在所は、住民生活のあらゆる部面に深くかかわる。警察官が自主的に住民生活に介入することもあれば、住民のほうから、自分たちの近隣関係を調停してほしいと申し入れてくる場合もある。懸案は多岐にわたっていて、大きなことでは水をめぐる地域同士の争いの調停があったり、小さいことでは、夫婦げんかの調停といったことがある。自殺者が出た時の騒ぎについては、これは警察本来の仕事だから、警官が深く介入することはわかる。

駐在所には、警官がひとり詰めているばかりで、その一人の警官が、住民生活のあらゆる部面で出動する。休む暇もないくらいで、場合によっては、冷や飯をかきこんで朝飯にしたり、寒さに震えながら一晩中仕事に励んだりする。犯罪者が山の中に逃げ込むと、村の人々と一緒になって山狩りをする。村人とは一体なのだ。その村人は、主人公の警察官にとっては、取り締まりの対象であったり、保護すべき弱者だったり、相互関係を調停すべき存在だったりする。そんなわけだから、警察官の職務意識は強烈である。強烈な職務意識があるから、警察官はすさまじいエリート意識をもっている。そのエリート意識が小説のあちこちで噴き出してくる。たとえば半島出身の人を鮮人と呼んで卑下したり、カフェの女をダルマと呼んだりである。ダルマとは娼婦のことらしいが、なぜそう呼ぶのかというと、ダルマのように誰でも安易に転がすことができるからだという。

井伏はなぜこんな小説を書いたのか。この小説を虚心に読むと、井伏は警察官の目線に立って書いているわけだから、井伏自身もその警察官と同じような心情を共有しているのではないかと思われないでもない。だが、この小説は、一警察官の日記という体裁をとっていて、そこに小説の普通の意味での語り手は出てこない。あくまでも、架空の人物の日記なのだ。その日記をそのままに紹介するという形をとっているので、日記の書き手とこの小説の作者とは別のものである。こういうタイプの小説はなかなかクセがある。こういう一人称タイプの小説をドストエフスキーも好んで書いたもので、ドストエフスキーの場合には、一人称の語り手に自分自身の思想をある程度まで盛り込んだところがあるが、井伏のこの小説の場合には、そんなに簡単に割り切れない。この小説の中の日記の作者である警察官と、井伏自身の関係は、この小説の枠組みからは明らかにはならない。

あるいは、井伏はこの警察官の権威的な姿勢をそのままにあからさまに示すことで、そうした権威主義にとらわれている日本社会を、間接的な形で批判したと考えられないでもない。この警察官は人種差別的な言葉を平気で使うし、また自分の持っている権力をあからさまに表出しようとする。そういうかなりゆがんだ行動を、本人の言葉や行動として、あからさまに描き出すことで、井伏は当時の日本の時代環境を手厳しく批判したと考えることもできる。つまり井伏は、アイロニーの手法を用いて、同時代の日本を批判したとも考えられるのである。
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5:777 :

2024/09/14 (Sat) 15:39:27

井伏鱒二「本日休診」を読む
続壺齋閑話 (2024年9月14日 08:06)
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井伏鱒二は、疎開先の福山から昭和22年の夏に東京荻窪の家に戻り、本格的な執筆活動を開始する。戦後最初の傑作といえる作品は「本日休診」だろう。これは、昭和24年8月から雑誌に連載し、翌昭和25年6月に刊行された。テーマは外科医の日常である。外科医の目から見た、戦後の混乱期を生きる人々を描いている。戦後間もないこの時代は、まだ堅固な生活基盤ができていない人が多く、人々は貧しさにうちひしがれていた。医療の面でいえば、全国民を対象とした医療保険制度が確立するのは昭和58年のことであり、戦後間もないこの時代には、医療費の支払いに苦しむ人が多かった。この小説に出てくる人物には、患者として世話になったにかかわらず、治療費を踏み倒したり、治療費が支払えないことを理由に診療を中止し、そのため病状が悪化して死ぬものもある。そんな人々を相手に、主人公の外科医はなるべく金にこだわらず、人間的な良心を大事にしようとするのだ。そんなわけで、多少俗っぽい雰囲気がしないでもない。だが、井伏一流のユーモア感覚を駆使して、戦後の混乱期を生きる人々のある種のたくましさを描き出している。

舞台は東京蒲田駅近くの診療所。産婦人科と内科の医師がいて、ほかに外科の医師がいる。その外科医師である主人公は、病院の経営を息子にゆだね、自分は顧問格のつもりだが、実際にはひっきりなしにやってくる患者の対応に余念がない。患者の中には外科の手術を必要とするものや、難産の妊婦などがいる。患者はみな貧しく、治療費の支払いを気にしている。金がないから安心して治療を受けることができないのだ。戦後間もないころの日本には、そうした人たちが大勢いて、医者の中にはそうした患者を鷹揚に受け入れるものもいれば、診療を拒絶するものもいただろう。

面白いことに、主人公の老医師八春先生は警察医を兼ねている。だから警察の案件が結構ある。小説の中での八春先生は、ポリスが連れてきた一女性の診察から仕事を始めるのである。ポリスが言うには、その女性は悪いやつに強姦されたとのことで、強姦を裏付ける診断書を書いてくれという。八春先生が診察しようとすると、女性は激しく拒む。羞恥心のためである。先生は性病の感染を恐れているのだが、女性は先生の忠告に従わない。感染予防のために用意した薬品類も使おうとしない。そのためその女性は、後に性病(淋病だろう)にかかる羽目になる。

こういう不幸な境遇の患者たちがたくさん出てくる。先生は、なるべく患者たちに人間らしい振舞いをしたいと考えている。とにかく治療を優先して、金のことは二の次だ。結果的に不払いのまま逃げられることが多い。しかし中には、その不払いを気にして、金に余裕ができたときに払いに来るものもいる。たとえば、十年以上も前に、子どもを出産した女が、八春先生にその子の名付け親になってもらったあげく、金を払わないで退院した。そんなことをすっかり忘れていた先生のところに、十数年たったころに女がやってきて、金を払いたいという。ただし、十数年前に請求された額である。その間にすさまじいインフレがあったから、十数年前の請求額は、いまの貨幣価値からすればただみたいなものだ。それでも先生は、その金を気持ちよく受け取るのである。

先生は人から頼まれればどんなところにも往診する。一度船に住んでいる人から往診を頼まれた。六郷川の河口近くに船をもやい、その中で暮らしている人がいるのである。名古屋を舞台にした映画「泥の河」は、船で暮らす母子を描いたものだが、そんな船上生活者が、戦後間もないころの東京にも結構いたようである。

ポリスが強姦犯人をつかまえたが、犯人は大したおとがめもなく釈放された。強姦された女は悠子といって、いまはある母子と一緒に住んでいる。十数年前に出産した例の女とその息子である。かれらがやっかいな患者をつれてくる。長屋の隣の部屋に住んでいる女が産気づいているというのだ。その長屋へ出かけて行って患者を診ると、胎児が過熟児で母体は狭骨盤であった。助けるためには帝王切開をせねばならない。しかし亭主はそれを拒絶する。金のことを心配しているのだ。帝王切開ができなければ、母親か子どもかどちらか一方に絞って助けるほかはない。結局母親の命を優先して、胎児には穿顱術を施すことにした。強制流産である。

八春先生の次の大きな仕事は死産の処置であった。大きな腹を抱えた女を診察すると、胎児が死んでいるのがわかった。生命反応がまったくないのだ。この妊婦も悠子たちが連れてきたのだった。手術すると死胎は腐乱して臭気芬々としていた。手術を施した女性はお町さんという名前だった。そのお町さんも金のことを非常に気にして、治療を途中できりあげ、家に帰ってしまった。先生が引き留めてもきかない。しかしそれが命取りになった。小説の末尾は彼女に不幸な運命が見舞ったことをほのめかしているのである。

先生は、金のことで命を落とすほど馬鹿なことはないと思っている。だが、世の中には、自分の命より金の心配を優先するような人もいる。そういう人たちに囲まれながら、せめて自分に忠実に生きようとする八春先生の姿に、我々読者は井伏のある種のヒューマニズムを感じるのである。
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2024/09/21 (Sat) 12:09:14

井伏鱒二「漂民宇三郎」を読む
続壺齋閑話 (2024年9月21日 08:10)
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井伏鱒二の小説「漂民宇三郎」は、「ジョン万次郎漂流記」同様、徳川時代に起きた日本人の海洋漂流をテーマにした作品。ジョン万次郎とその仲間の漂流は幕末時代のことであり、万次郎は日本に帰還後一定の政治的役割を果たした。それに対してこの小説が取り上げた漂流は、長者丸という漁船の乗組員の漂流で、天保年間に起きたものだ。日本に帰還した乗組員が政治的な役割を果たすこともなく、一過性の事故として片づけられたようだ。しかも、「万次郎漂流記」が、一応事実を踏まえているのに対して、この小説の主人公格宇三郎は井伏の想像上の人物である。井伏は、本当は実在したのだが、ほかの乗組員が口裏を合わせて存在しないことにしたのだと書いているが、それは小説の技法上での方便であろう。

長者丸漂流事件というのは、越中富山の漁師たちが天保九年(1838)11月に、三陸沖で暴風のため遭難し、五か月間の漂流の後アメリカの捕鯨船に救助され、各地を転々としたのち、天保十四年(1843)5月に択捉島に帰還したというもの。数か月の漂流の後、アメリカの捕鯨船に救出され、ハワイなどの各地を転々としたことは万次郎らの漂流と同じである。井伏はそこに因縁のようなものを感じて、同じような物語を書いたのではないか。ただし、宇三郎という架空の人物を主人公に選んだ。物語は、その宇三郎からの聞き書きの物語である素老生の「異国物語」に取材したという体裁をとっているが、これもまた架空の物語であり、実際は、実在の乗組員から取材した「蛮談」や「時規物語」を材料に使っているようである。

この小説は、宇三郎という架空の人物を中心に展開していくが、実在の人物の中では、次郎吉に重点を置いている。次郎吉は、日本帰還後に「蛮談」を口述するなど、漂流の詳細を日本人に向かって報告する役目を果たしている。また、漂流中にもかなり大きな役割を果たしていたようである。この小説の中では、他のメンバーと反目して孤立した宇三郎になにかと気を使っている。また、外国語の習得能力が高く、仲間のために通訳の働きもしている。

それにしてもなぜ井伏は、宇三郎という架空の人物を小説の主人公に仕立てたのか。宇三郎はそんなに派手な性格ではなく、小説のなかでのエピソードにも目まぐるしいものは指摘できない。ハワイで現地の女アイランに惚れられたこととか、漂流中に食った米粒に二つもみ殻が混じっていて、それをハワイの土地で苗に育てたことくらいである。しかもアイランとの関係は尻切れトンボのように途中で終わってしまうし、もみ殻もその後どうなったかわからない。つまり、あまり影の濃さを感じさせないキャラクターなのである。小説の題名は「漂民宇三郎」になってはいるが、ただ単に「漂民物語」でも差し支えないのである。

当初、宇三郎を含め11人いた乗組員のうち、択捉に帰還したのは6人である。宇三郎をのぞく4人のうち、船長の平四郎と宇三郎の兄金六は漂流中に自殺した。二人とも船を漂流させた責任を負ったのである。択捉に上陸した6人のうち、太三郎と七左衛門は病死した。太三郎の死因は性病であった。ハワイで娼婦から移されたのである。そういうわけで、11人のうち4人だけが、越中の故郷に帰還することができた。

小説の読ませどころは、漂流中の乗組員同士の人間関係と択捉島に帰還して後の公儀による尋問だろう。乗組員の人間関係があまり良くなかったことは、船長と金六が自殺したことからうかがわれる。船長も金六も漂流について責任を感じていたし、ほかの乗組員には被害者意識があった。それがかれらの団結心を乱し、仲間を自殺に追いやったといえなくもない。また、宇三郎が金蔵はじめ他のメンバーと反目するところにも、乗組員同士の団結が弱いことがうかがわれる。そうじてこの漂流船の乗組員は、万次郎の仲間に比べて親交の度合いが弱いようである。

公儀による取り調べは3年以上かかったことになっているが、なぜそんなに時間がかかるのか。当時の官僚機構の不能率を物語っているのか。しかも取り調べにあたった役人らは、いずれも責任感に欠けていることを感じさせる。その無責任さを、漂流民たちは責めるわけでもなく、ひたすら平身低頭してかしこまっているばかりである。

そんなわけでこの小説は、「ジョン万次郎漂流記」から一段の飛躍が見えるとは言えないようである。なお井伏はこの作品を、昭和29年4月に雑誌に連載を始め、翌昭和30年12月に完成している。たいして長いとも言えない小説としては、かなりな時間を要しているわけだ。
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2024/09/28 (Sat) 16:56:40

井伏鱒二「駅前旅館」 番頭稼業を番頭が語る
続壺齋閑話 (2024年9月28日 08:08)
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井伏鱒二には、大衆受けを狙った通俗的な作品もある。「駅前旅館」と題した中編物はその代表的なものだ。旅館の番頭の独白というような体裁をとっている。それも、作家に頼まれて、番頭としての自分の生きざまを語るという形である。作家がそれを頼んだのは、すでに過去のものとなりつつある番頭という職業の持つ独特の美学を記録しておきたいという考えからだということになっている。たしかに、戦後のあわただしい近代化の波を受けて、旅館経営も近代化し、徳川時代以来の番頭という身分は次第に消え去り、近代的なマネージャーなるものが、それに代わりつつあった。井伏は、そんな傾向に一抹のわびしさを感じ、番頭というものの美学的な雰囲気を多少とも記録しておきたいと思ったのであろう。当の番頭自身に語らせることで、その美学を生々しく再現しようとしたのであろう。

語り手は、上野駅前にある柊本という旅館の番頭。上野の駅前には多数の旅館があったようで、語り手の番頭は、他の旅館の番頭たちと、同輩としての付き合いをしている。場所は明示されてはいないが、いまでも御徒町方面へかけて旅館の集中立地する地区があり、上野駅前旅館街と呼ばれているから、そのあたりにあったものと考えられる。位置感覚がなくても小説は十分味わえるが、位置感覚が明確だと、味わいはさらに深さを増す。

この番頭は、母親が旅館の女中をしていたこともあり、子どものころから女中部屋で、女中に囲まれて育った。そんなことから性格的にいい加減なところがある。だが、そのいい加減さが番頭稼業にマッチする。番頭といえば、謹厳実直なイメージが浮かぶが、実際にはいい加減なものらしい。店の金と自分の小遣いの区別がつかないというのは、その最たるものだ。しかも、店の金を自分の懐にいれることに、何らのやましさも感じない。むしろそれを合理化するための屁理屈を弄する。よそから来た板前が、それを批判すると、かえって逆切れする。

仲間の番頭が、女房のほか色を持っているのに対して、この番頭は女房もいない。だが女が嫌いというわけではない。じっさい、この番頭はお菊といういわれ多い女に入れあげており、また、お菊がいなくなると、辰巳屋という飲み屋の女将とねんごろになる。とはいえ、くっつくまではいたらないようだ。辰巳屋は後家横丁という裏通りにある。戦後の上野には後家がたくさんいたものと見える。

関東の旅館の番頭は、江ノ島で武者修行をするものらしい。夏場は東京の旅館はヒマになるが、江ノ島は夏でもにぎわう。そこで江ノ島の旅館に一時奉公して、客引きのコツを身に着けるのが一流の番頭になる秘訣だ。番頭の仕事のうち最も肝心な部分は、いかにして客を入れるかということなのである。自分の才覚でいれた客は、半分は自分の財産のようなものだ。だから、店を通さず直接客と取引をすることもある。それは近代的な感覚では公私混同だが、番頭たちの伝統的な観念のうちでは正当な行為なのである。

お菊は二度番頭の前に顔を見せる。一度目は甲州の旦那の付き添いでくる。その際に番頭はお菊から二の腕あたりをつねられる。だがそれ以上には接近しない。二度目は、信州の紡績工場の女工たちを引率して東京見物に来る。その際は、飲み屋で脚を絡ませるくらいで止む。番頭は、色好みであっても、客の旦那の色に手出しするようなことは、職業倫理として許されないと考えているのである。

お菊がいなくなると、女日照りになった番頭は、辰巳屋の女将に接近する。だが、男女の関係までは進まない。その前に、友達になってしまうのだ。男女が友達同士になると、いわゆる男女関係には発展しないものらしい。

番頭は、仲間の番頭の勧めもあって、見合いをする気になる。その前祝いとして、仲間同士で甲州辺へ旅行することになる。だが、いろんな事情があって、甲州旅行は中止、番頭は辰巳屋の女将とともに、東中野の求心閣というところへ出かける。東中野にはかつて、ちょっとした宴会場があったものだが、どうやらそれをイメージしているらしい。そこは今は存在しない。再開発のためのタネ地にされてしまったからだ。

求心閣に行ったことで、番頭は昔のことを思い出す。さる書生の見合いのことだ。その書生は、下宿の女将と変なかかわりになったおかげで、その姉を押し付けられたのだった。

そんな具合で小説としてはまとまりも取り留めもない。作家の要望に応えて自分の体験を語るという体裁のためであろう。
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8:777 :

2024/10/05 (Sat) 12:35:58

井伏鱒二「黒い雨」を読む
続壺齋閑話 (2024年10月 5日 08:50)
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井伏鱒二が「黒い雨」を書く気になったのは、原爆のある被災者から、日記を提供するのでぜひ是非書いてほしいと言われたのがきっかけだったと自身明かしている。だが、それ以前から、彼にはいつかこのテーマを書いてみたいという気持ちがあったはずである。広島に原爆が落とされたとき、かれは広島から100キロあまり離れた福山の山中の郷里にいた。広島の悲惨な状況は、非常に身近に感じられた。身の周りに犠牲者も多くいた。それらの人々の悲惨な運命を直に見聞すれば、作家として、これを書くことを自分の使命と感じるようになるのは自然のことである。

井伏は、提供してもらったいくつかの日記をもとにこの小説を構成した。小説の主人公に想定されている人物(小説中「閑間重松」とされている)の被災日記、かれの姪にあたる女性(矢須子)の被災日記、それに知り合いの細川医師の知人岩竹医師の被災日記が中核部分をなし、そのほか、重松の妻にあたる女性の日記類(戦中の食糧事情を記したものと姪の病状を記録したもの)が補足的に加わる。岩竹医師の日記は、原爆症から奇跡的に生還した経緯を記しており、姪の矢須子にも生きる可能性が全くないわけではないということの裏付けとして役立つものとされている。その日記を読んで、重松や矢須子が、自分の未来に希望を失わずにいよと励ますような作用を、この日記は期待されているのである。

小説は、一応語り手を設定し、その語り手の目線から、重松らの被災体験や、原爆による破壊のすさまじさを描き出している。被災体験や原爆災害のすさまじさについては、直接の被災者たちの日記をつうじて表現しているので、リアルな迫力を感じさせる。とくに重松の日記は、自分自身の苦境を表現しながら、事実をなるべく客観的に見ようという意思が伝わってくるように書かれている。しかも単に事実を書くだけではなく、そうした事実を出来せしめた原因についての考察もある。だれが、なんのためにこんなことをしたのか。だれにもそんなことをする権利はないはずだ、という怒りが、重松の日記からは伝わってくるのである。

小説の主要な登場人物は、重松本人と姪の矢須子そして妻のシゲ子である。かれらの被ばく前後の行動を、かれらの日記を通じて、時間軸で追いながら、原爆災害の状況をなるべく俯瞰的に明らかにしながら、微細な点についても目配りを怠らない。そのため、原爆災害の悲惨なありさまが、もれなく伝わってくるようになっている。

そこで、この小説がなぜ日記類を中心に成り立っているのかということが問題になる。一つには形式的な理由がある。小説は、主人公格の重松が、姪矢須子の縁談をめぐって色々心痛することから始まっている。近所では矢須子が被爆したという噂が立っていた。そのため、縁談話が次々と破綻する。それを重松は苦々しく思う。原爆投下当日の矢須子の行動経路からすれば、彼女が被曝していないのは明らかだ。そこで重松は矢須子の記した被ばく日記を清書して関係者に読ませようとする。折から新たな縁談がもちあがっていて、相手側に熱心な様子がうかがわれる。そこで矢須子の日記を見せて、彼女が被曝していないことを理解してもらえれば、縁談はうまく進むのではないか。そんな期待から重松は、矢須子の日記の清書にとりかかる。その清書した日記の内容がまず紹介されるのだ。しかし、矢須子の日記は不都合な部分もあるので、自分自身の被災日記で補う必要がある。そう感じた重松が、自分の日記の清書にとりかかる。かくして、矢須子と重松の日記が紹介されるという形で話が進んでいく。それに加えて重松の妻シゲ子の記録類や、医師岩竹の被災体験記が紹介される。という具合で、この小説全体が、日記から成り立つことに、形式上の理由があるというわけである。

実質的な理由としては、個人的な記録である日記をいくつか組み合わせることで、日記作者たちの体験が交差しあい、その結果原爆災害の実態が総合的に浮かび上がってくるという利点があげられる。単独の日記ではカバーしきれないものが、複数の日記を組み合わせることで、複合的に浮かび上がってくるのである。

それらの日記を通じて、原爆投下直後の広島の市街の様子や、被爆した人々の悲惨な状況が生き生きと浮かび上がってくる。重松ら三人の家族は、広島市内の別々の地点で原爆の爆発に遭遇したあと、それぞれ自宅のある千田(市の南部)をめざす。そこで三人そろった後、重松の勤め先のある古市を目指して歩く。古市は広島の北の郊外にあり、そこまで行くためには、広島市街の中心部を通らねばならない。中心部は爆心地の近くなので、災害の程度がもっともはなはだしいところだ。かれらは見るに堪えない悲惨な状況をいやでも見ることとなる。その描写が、この小説の一つの山場をなす。今村昌平の映画は、かれら三人が広島の中心部を通るさいに見聞した事態をハイライトにしている。

そうした描写の一部をあげる。市街の中心部では、おびただしい人の死骸があり、また生き残った人も見るに堪えない様相を呈している。「肩の骨が見えはしないかと思われるもの、片方の足に添木をして、竹の杖にすがりながら片足でやっと歩くもの、戸板に血まみれの子供の死体を寝かせて運ぶ男と女、髪が血で固まって、顔も肩も血だらけで、目と歯だけが白い女などが目に付いた。その都度也須子が気を奪われて、『おじさん、あの人を見なさい、おばさん、あの人を見なさい』と云う。『見世物ではない。どうしようにも、どうしてあげることもできないんだから、黙って歩け。下を見て歩け』と何度も言い聞かせた」。しかし重松自身も、「一度、半焼死体に僕の靴が引っかかって、足の骨や腰骨などが四尺四方に散ったとき、僕は不覚にも『きゃあッ』と悲鳴を上げた」のである。

爆心地である相生橋の状況もすさまじかった。「ここでも続々と川面を死体が流れ、橋脚に頭を打ち付けて、ぐらりと向きを変える有様は二目と見られたものではなかった」。また左官町、空鞘町のあたりに来ると、「上半身だけ白骨になったもの、片手片足のほかは、みんな白骨になったもの、俯伏せになって膝から下が白骨になったもの、両足だけ白骨になったものなど、千差万別の死体が散乱し、異様な臭気を発している。嘔吐しそうであった」。

こうした見聞から重松が得たものは、「八月六日の午前八時十五分、事実において、天は裂け、地は燃え、人は死んだ」という感慨だった。そこからかれは、「広島は死んだ」と結論づけざるを得なかった。

重松の恐れたことがやがて現実化する。姪の矢須子が原爆症を発症するのだ。それ以来重松は、姪のこと以外に考えられないほど心の負担を感じた。この小説は、そうした重松の心の負担に言及することから始まるのである。それに関して、知り合いの細川医師が見舞いの手紙をよこし、それに知人岩竹医師の被災体験記を添付した。岩竹医師は、原爆症を発症して生死の境をさまよい、ミイラ同様になりながら、奇跡的に回復した。そんなわけだから、矢須子にも希望がないわけではない。回復を目指すためには、気を強く持たねばならない。そういうメッセージに励まされた重松は、姪の回復に期待を寄せるのだが、その期待が実現したかどうか、小説は触れないまま終わるのである。

大江健三郎がノーベル文学賞をとったとき、ノーベル賞にふさわしいのは、自分より安倍公房と井伏鱒二だと言ったことがある。安部はともかく井伏の名をあげたのは、この「黒い雨」が念頭にあったためと思われる。大江自身も、広島・長崎の原爆災害に強い関心を寄せていた。井伏のこの小説は、原爆災害をテーマにしたものとしてもっともすぐれたものであり、ノーベル賞にふさわしい作品だと考えたのであろう。しかしそうはならなかった。ノーベル賞委員会は、白人コミュニティのサロンのようなものである。それが、白人国家アメリカの非人間的な蛮行を暗に批判したこの小説を快く思わなかったのは十分にありうることだ。大江の作品は、白人への批判的な視点はあまり感じさせない。
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2024/10/12 (Sat) 08:50:14

広島原爆災害地理 井伏鱒二「黒い雨」を読む
続壺齋閑話 (2024年10月12日 08:21)
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小説「黒い雨」は、重松とその家族の被災日記を中心として、それに重松の知り合いである細川医師の知人岩竹博の被災日誌とか、親戚二人(シゲ子方で一人は矢須子の実父)の見聞談などからなっている。それらを読むと、かれらが原爆投下直後に広島の街をあちこち歩き回る様子がわかる。特に重松は、市域の南から北の郊外にかけて、実に幅広く歩き回っている。小説であるから、地理について正確なイメージを持つ必要はないのかもしれないが、原爆災害という事柄の特殊性からして、やはり広島の地理を頭に浮かべながら読んだ方が、よりインパクトのある読み方になるだろう。そんなわけで小生は、具体的な地名が出てくるたびに、一々地図にあたり、その場所を特定しながら読んだ次第だ。それによって、広島の原爆災害の地理的な特徴がかなり具体的なイメージをもって浮かび上がってきた。

原爆が炸裂したのは、この小説によれば(重松の言い分によれば)、相生橋の真上ということになっている。この橋は、原爆ドームの北側で旧太田橋をまたいでいるもので、橋の半ばから小さな橋が南方向へ分岐して、いまの平和記念公園があるところに通じている。橋全体の形状がT字型に見えるので、T字橋と呼ばれていたらしい。いずれにしても、原爆ドームの直近の場所で炸裂したといえる。災害の規模は、爆心地から500メートル以内では、99パーセントが死亡、500メートルから1キロの範囲では、90パーセントが死亡というもの。1キロを超えると、全体としての規模は小さくなるが、場所によっては甚大な規模にのぼったところもあるらしい。小説では、重松らの主観に沿った書き方がされているので、爆心地近くではすさまじい惨状を呈し、爆心地から離れるにしたがって、被害の程度が弱まるという印象が述べられるだけである。

原爆投下当時、重松は横川の駅におり、矢須子は古江にいた。またシゲ子は千田の自宅にいた。千田は、広島県庁や広島市役所がある島の南のはずれにあり、川を隔てたすぐ南側は宇品である。宇品は広島港のあるところで、広島の物流の拠点である。ともあれ、重松一家の行動範囲は、千田を中心として、重松の勤め先の工場がある古市までの間を軸にして広がる。

まず、重松の行動の軌跡をたどる。かれは古市の会社へ出勤の途中、横川の駅で原爆に出くわした。横川駅は、爆心地から北方2キロ圏内で、運が悪いと即死することもありえたが、重松は顔の片方に火傷を負っただけですんだ。その片方が原爆の投下地点の方角を向いていたのである。もっともそれが最大の原因となって、原爆症を発症する。

重松は、妻と矢須子の安否を気にした。矢須子は隣組の主婦たちと一緒に古江町に行っているから、大丈夫だろう。妻のシゲ子は、生きていれば、かねての打ち合わせにしたがって広島大学のグランドにいるはずだ。そこでかれは、自宅のある千田方面をめざす。横川から千田まで行くには、広島城、県庁、市役所などを通らねばならない。要するに爆心地を縦断するわけである。そこは家屋が一瞬にして焼失し、人々が即死したところだ。その惨状を横目にしながら、歩かねばならない。途中、隣組の宮地という人に会った。その人は、別の場所で被爆したあと、千田の自宅を目指していたのだが、御幸橋のところで別れた。その人は翌日死んだそうである。重松は遠目に我が家がまだ立っていることを確認すると、御幸橋をわたって広島大学のキャンパスに行き、そこで妻のシゲ子と会う。シゲ子は、ほとんど無傷であった。

姪の矢須子は、隣組の主婦たちと一緒に古江町(広島市街の西)に行っており、そこから原爆の閃光ときのこ雲を見た。古江町は、爆心地から4キロほどの距離である。この距離だと、直接的な影響はない。そのことを重松は知っていて、矢須子については安心したのである。その矢須子は、訪問先の人の配慮で、船で宇品方面をめざす。広島市街の様子を横目に見ながら、御幸橋下に着岸。そこから歩いて千田の家に行くと、折から家で作業をしていた重松夫妻と合流。そこでしばらく過ごした後、かれらは宇品の日本通運支点を訪れる。そこで社用を足している間に、千田の家がつぶれる。行き場を失ったかれらは、古市にある会社に行くことにする。古市は、横川駅から出ている可部線の途中にある駅で、爆心地からは北へ6キロほど離れている。

かれらは、千田の御幸橋から、古市までの最短距離を選ぶ。まず鷹野橋をめざし、紙屋橋の交差点までいく。この道筋は、広島城、県庁、市役所を結ぶ広島のメーンストリートである。かれらはこの通りを歩いて横川駅までいくつもりだったようだ。もし可部線の列車が動いていれば、それに乗って古市までいくことができる。だが、横川駅へ至る道は横川橋の手前ではばまれる。橋が渡れないのだ。その前にかれらは、相生橋の付近で地獄のような光景を目撃している。そのあたりがもっともすさまじいことから、かれらはそこが爆心地だと納得するのである。

可部線は山本駅から先が動いていた。山本駅は、横川と古市のほぼ中間地点にある駅である。かれらはそこから可部線の列車に乗って、6日のうちに古市の会社にたどりつくことができた。だいたい以上が、被爆当日における重松一家の行動の軌跡である。重松は、7日以降広島市内をたびたび歩くが、その範囲は、だいたい上述の範囲を超えていない。

広島市内を転々と移動したものとしてもう一人、重松の知人細川医師が紹介した岩竹博という人がいる。細川医師は、岩竹の被爆日記が、同じ被爆者としての矢須子を勇気づけるだろうと思って、かれの被爆記録を送ってきたのだが、その記録には、岩竹が被爆後広島市内の救援所を転々としたことが記されていた。

岩竹は細川の知り合いの医師で、昭和20年7月1日に徴収された。45歳のことである。第二陸軍病院教習所に配属された。爆心地から北へ1キロほどの、太田川沿いにあった。そこで岩竹は被爆した。重傷を負った。同僚の隊員30数名のうち、生き残ったのはわずか3人だけだった。岩竹はそのうちの一人だった。岩竹は、太田川の上流の三滝橋方向へ避難しようとするが、途中で軍用トラックと出会い、戸坂へ行けと言われる。臨時の救援所がそこにあるというのだ。救援所のある戸坂国民学校は、太田川のさらに上流の、左岸の丘にある。そこまでいって、とりあえず息を抜く。だが、被爆の影響で、身体は極めて危険な状況に陥った。

戸坂の国民学校が患者であふれてきたので、その一部を、庄原の陸軍病院分院に移すことになった。庄原は、広島県北部の山中にあり、広島市からは80キロほど離れている。岩竹がそこに移る気になったのは、そこが自分の生まれ故郷だったからである。庄原には着いたものの、岩竹の症状は悪化し、生死の境をさまよう状況だった。そんな折に、妻の声が聞こえた。妻は夫を追いかけて、ここまで来たのだった。その細君は、細川医師の実の妹である。

以上、重松一家と岩竹医師の、被爆前後の行動の様子を、かれらの日記を読みながら追っていくと、広島の各地がどんな状況だったのか、その具体的なイメージが浮かんでくるのである。
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2024/10/20 (Sun) 05:02:51

安芸門徒の葬儀 井伏鱒二「黒い雨」を読む
続壺齋閑話 (2024年10月19日 08:13)
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古市の重松の勤め先の工場には、大勢の被災者が集まっていて、それらが次々と死んだ。最初に死んだのは50歳の外務部員で、工場への出勤途上被爆したのだった。なんとか自力で工場まで来たが、翌日の昼頃死んだ。工場ではとりあえず棺桶を作り、死体の処理のために必要な手続きをとろうとしたが、市役所の機能は停止していて、火葬場で火葬できる見込みもない。そこで工場の独断で火葬することにした。警察では、非常事態を理由に、野辺で火葬することを認めていた。

しかし、ただ焼けばいいというものではない。せめてお経を読んで聞かせたい。だが、手ごろな坊さんがいない。そこで工場長は、重松にお経を習ったうえで、それを棺桶の前で読めと命令した。重松は面食らったが、工場長の強い意向に従って、お経を習うことにした。工場長は、「どこかお寺に行って火葬するときに坊主の読む経文をノートしてこいと言った。そればかりでなく、広島には真宗の人が多いから,真宗の流儀で読む経文を筆記してこいと注文をつけた」。

重松は近所の真宗寺をたずね、老僧に向かって、葬式のときに読む経文を伝授してもらいたいと頼んだ。老僧は、三帰戒、開経偈、讃仏偈、阿弥陀経及び白骨の御文章をすすめてくれた。そして、「お葬式のときには、安芸門徒は『三帰戒』『開経偈』『讃仏偈』という順に読んで参ります。次に流転三界の『阿弥陀経』でございますが、このお経を読む間に参集者がお焼香をいたします。次に『白骨の御文章』でございますが、このときは仏の方へ向かないで参集者の方へ向いて風誦いたします」と言った。

「『三帰戒』は『白骨依仏、当願衆生、体解大道、発無上意・・・』という書き出しで、『開経偈』は『無上甚深微妙法、百千万億雖遭奉・・・』という冒頭である。『白骨の御文章』は、筆記していて心にしみこんでくるような美しい和文である」。

始めは棺桶の前で読経していたが、棺桶の材料がなくなると、死体に向かって読経するようになった。そもそも読経は棺桶に向かってなすものである。死体に面と向かって読経するのはやりづらい。しかし、実際はノートに向かって読むのだから、なんとかやりおおせた。中にはお礼の御布施をくれるものがある。そんなことよしてくれというと、受け取ってもらわんと、仏さんが浮かばれません、と真顔で言う者がいる。

付近の河原は、両岸ともいたるところ火葬の煙があがっている。盛んに燃えているものもあり、燃え残ってくすぶっているのもある。焼かれた骨は穴を掘って埋めた。穴を覗くと髑髏が見える。「髑髏のことを、昔の人はノザラシと別称した」と重松は云う。昔とは、鳥野辺の昔のことだろう。鳥野辺など平安時代の墓所は、いわゆる風葬が行われており、白骨化した死体はいつまでも野ざらしにされていたものだ。

社員以外の部外者の葬儀に際しては、その身元や被災・死亡の状況をなるべく詳細に記録した。後日遺族に引き継ぐときの資料としてである。

重松は死者の葬式ばかりしていたわけではない。毎日多忙に歩き回っていた。歩き回っていると多くの死体と出会う。ピカドンこのかた、人の死骸を見すぎるほど見たにもかかわらず、死骸というものがかれには怖いのだ。所用で外出の帰り、古市の近くの浅瀬を渡ろうとしたところ、死にかけている男と、すでに息絶えた二体の屍に遭遇した。重松は足音を殺して通り過ぎようとしたが、死骸が怖くて、おもわず「白骨の御文章」の一節を唱えた。

「・・・我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人やもとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば、あしたには紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常のまなこたちまちにとぢ、ひとつのいき長くたえぬれば・・・」

この小説は、虹についての俚諺あるいは迷信に触れるところで終わっている。白い虹が見えればそれは凶事の予兆、五彩の虹が見えれば吉事の予兆というものである。重松の心境としては、今の自分自身の力ではなにもできない。しかし手をこまねいているだけでは気が済まない。そんなときには、せめて奇跡を期待するよりほかない。重松はお経を読みながら多くの人を送ってきた。お経を読むことで、自分の心も救われたし、無論人々にも感謝された。五彩の虹を期待するのも、同じような心境ではないか。お経が心を慰めてくれるように、五彩の虹への期待もなにがしか心を慰めてくれる。それゆえ重松はこう叫ぶのだ。「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」。
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