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1:777
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2024/08/16 (Fri) 01:26:35
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ブラックロックと関係も…?「黒い貴族」とは
大調和ちゃんねる【大経連公式】 2023/12/22
https://www.youtube.com/watch?v=5CTuEC32TVQ
ロスチャ・ロックフェラー上の黒い貴族。
河添恵子国際情報アナライズ 2023/09/07
https://www.youtube.com/watch?v=awnl-QcJ2vU
呪われた「13」の本当の意味とは?
調査報道 河添恵子TV / 公式チャンネル 2024/07/26
https://www.youtube.com/watch?v=uX0Gq9KlW2U
河添恵子【英王室とその後ろにいる黒幕】
大調和ちゃんねる【大経連公式】 2024/04/23
https://www.youtube.com/watch?v=jeB_LtuwbvU
河添恵子【エプスタインリストとビルゲイツ】
大調和ちゃんねる【大経連公式】2024/02/09
https://www.youtube.com/watch?v=jOwicmaRJbQ
河添恵子【「理解できない」を理解すること】
大調和ちゃんねる【大経連公式】2023/12/05
https://www.youtube.com/watch?v=hF_WPiTruUQ
バチカンも乗っ取られた?!イエズス会の創設には布教以外の理由があった
調査報道 河添恵子TV / 公式チャンネル 2024/08/02
https://www.youtube.com/watch?v=qi6CA2EqZS8&t=20s
イエズス会とワクチン開発は繋がっていた・・?
調査報道 河添恵子TV / 公式チャンネル 2024/08/09
https://www.youtube.com/watch?v=KPYFs2_RyMs&t=27s
バチカンも乗っ取られた?!イエズス会の創設には布教以外の理由があった
調査報道 河添恵子TV / 公式チャンネル 2024/08/02
https://www.youtube.com/watch?v=qi6CA2EqZS8
イエズス会とワクチン開発は繋がっていた・・?
調査報道 河添恵子TV / 公式チャンネル 2024/08/09
https://www.youtube.com/watch?v=KPYFs2_RyMs&t=27s
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黒い貴族 at DuckDuckGo 動画
https://duckduckgo.com/?hps=1&q=%E9%BB%92%E3%81%84%E8%B2%B4%E6%97%8F&iax=videos&ia=videos
ベネツィアの黒い貴族
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/677.html
「日本人が知らない「人類支配者」の正体」第一部
太田龍、 船井幸雄
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-243.html
イエズス会を組織したのはヴェネチアの「黒い貴族」だった
「日本人が知らない「人類支配者」の正体」第二部
太田龍、 船井幸雄
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-245.html
デイビッド・アイク - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AF
大いなる秘密 (上) – 2000/8/1
デーヴィッド アイク (著), David Icke (原名), 太田 龍 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%80%8C%E7%88%AC%E8%99%AB%E9%A1%9E%E4%BA%BA%E3%80%8D-%E3%83%AC%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89%E8%B6%85%E9%95%B7%E6%9C%9F%E7%9A%84%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%80%E5%85%A8%E6%9A%B4%E9%9C%B2-%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89-%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AF/dp/4879191450/ref=cm_cr_arp_d_product_top?ie=UTF8
地球原人を操作して家畜人化した「爬虫類人」とは? そして彼らの代理人として人類支配を行う秘密結社の正体とは? 超長期的人類支配計画アジェンダの全貌を明らかにする。
大いなる秘密 下 世界超黒幕 – 2000/10/1
デーヴィッド アイク (著), David Icke (著), 太田 龍 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%80%88%E4%B8%8B%E3%80%89%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%B6%85%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%80%8D%E2%80%95%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E5%B7%A8%E6%82%AA%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%9F-%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89-%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AF/dp/4879191469
国際諸団体や巨大多国籍企業、金融寡頭勢力は政治の実質的意思決定機関であるが、さらにその奥にある「世界超黒幕」とは? 人類誕生以来地球文明に介入する爬虫類的異星人の存在とその悪魔的全所業を暴く。
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2021年6月8日
世界を牛耳る黒い貴族の中心的家系とは?
https://new-world-entertainment.net/black-noble/
世界を支配する覇権の大部分を牛耳っ
ており新しい世界の秩序を創るあらゆ
る演出の裏に黒い貴族の影がある
こう言っても過言ではないことは別記
事でも書いてきた
黒い貴族とは?その元々のルーツはヘ
ロデ・アグリッパが創った支配者家系
であり・・
いわゆる古代メーソンの系列であり、
大きな枠で言えば支配者階級でも上位
となる13ファミリーに位置するという
ことも別記事で書いている
黒い貴族は、婚姻などで血が複雑にな
ってこの中でも派閥などがあってかな
り見えにくくなっている
ただ、本サイトではわかりやすくシン
プルに説明しよう
中世以降の支配者階級として、黒い貴
族の中でも強いのはサヴォイア王家の
サヴォイ家
そして、そこから出たデルバンコ家が
金融支配の大元を牛耳っている
デルバンコのBANKが、銀行の文字に
なっているという話もあるほどだ
そう、黒い貴族とは金貸しつまり金
融業によりユダヤの看板と血を乗っ
取った”背乗りユダヤ”である
そして、元々の肌が浅黒かったとか
諸説あるがいつの間にか「黒い貴族
」と呼ばれた”ユダヤ人”である
そんな彼らが金融支配を現代まで続
けているというのは極めてわかりや
すい話だ
そして、金融支配と言えば有名どころ
ではロスチャイルド家と言われるが、
ルーツはヴェルフ家と系列のヘッセン
家である
このヘッセン家の使用人のような立場
だったのがロスチャイルドである
ちなみに、陰謀論に詳しい人には言う
までもないがロスチャイルド = ユダヤ
人である
しかし、この系列を見ればわかる通り
でロスチャイルドは純血のユダヤ人で
はない
いわゆる”背乗り系”だ
さらに、黒い貴族の中心的な位置に
いる家系を挙げると・・
アイゼンベルグ家、ブロンフマン家、
キャボット家などだがこれらの面々を
見るとどうだろう?
軍事支配において力を持ち、中国とも
関係が深いアイゼンベルグ家
北米メディア、電通の親会社も牛耳る
ブロンフマン家
米国支配に大きな力を持ち、全米主要
大学を支配しているキャボット家
新型コロナに対する科学的根拠を述べ
るのによく登場する某有名大学などす
べてここに入る・・
ちなみに、穀物・食糧もブロンフマン
家とアイゼンベルグ家が世界で大きな
利権を持っている
ざっくり、シンプルに書いたが、つま
り世界の主要な支配権限や利権を黒い
貴族の系列が牛耳っているのだ
そして、彼らの思想的背景などをさら
に深く知っていくと・・
Covid19やCovid21がなぜ、
確実に実行されるのか?
さらに、第3次世界大戦など大規模な
戦争を起こす必要があるのか?
食糧危機は自然発生的に起きる側面も
あるがどちらかと言えば大きな目的の
元で演出されるのではないか?
など、裏の裏まで見えてくるのだ
また、この黒い貴族の主要家系を知る
だけでもアメリカ合衆国という大国が
どのように持っていかれるのか?
これもなんとなく想像出来るように
なると思う
https://new-world-entertainment.net/black-noble/
2023年9月16日
黒い貴族とは?現在も暗躍する黒い貴族の正体を暴く!
https://new-world-entertainment.net/black_noble/
黒い貴族とは?黒い貴族の現在は?
世間や陰謀論の世界では世界支配に
関わる団体や金貸しの起源になった
などと言われる「黒い貴族」とは何
者なのか?
ウィキペディア(Wikipedia)
で検索しても情報は多くはない
また、当たり前だが真に迫る記述は
ほぼ皆無といえるだろう
陰謀”論”に聞こえるような記述か、
読んでも意味不明な記述が多いだろう
ネットで検索すれば、黒い貴族 現在
黒い貴族 コロナなどと出てくる
コロナ禍で陰謀論熱が高まり、彼らに
も注目が集まったということだろう
しかし、その多くはあくまで陰謀論や
陰謀説の域であり思考停止を招く”情報
“と陰謀学という”学問”は別物である
・・ということは覚えておいてほしい
黒い貴族については本サイト「世界を
動乱させるカナンの子たち」という記
事でも少し触れている
また、今後の世界情勢・動向を見る上
で「黒い貴族」は大切なテーマになる
なので、黒い貴族についてはここでも
わかりやすく解説していくことにする
黒い貴族の元を辿ると、紀元前264
年から紀元前146年まで3度繰り広げ
られたポエニ戦争だ
その戦争でフェニキア人国家カルタ
ゴが滅亡、そこからベネチアに逃げ
たカナンの子孫たちが現地で商人と
して財を成した
当然、彼らは非常に賢く、騙し方な
ども熟知しているためベネチアで貴
族となった
見た目は、カルロス・ゴーンのよう
な浅黒い肌をしたレバノン人をイメ
ージするといい
そう、カルタゴからベネチアに逃
げたカナンの子孫フェニキア人が
「黒い貴族」である
黒い貴族となった主な「一家」
は以下の通りである
・サヴォイア家
・ヴェルフ家
・アイゼンベルグ家
・ブロンフマン家
・キャボット家⇒シェルバーン家
・タクシス家
・エッシェンバッハ家
・レーゲンスベルク家
・キーブルク家
・フローブルク家
・ラッパースヴィル家
・トッゲンブルク家
黒い貴族と現代の世界、現在の出来事
と照らし合わせて見る際のポイントは
カナンの子孫「カナン人」はモレク信
仰・バアル神崇拝だということだ
つまり、人身御供の儀式を行っている
そして、その思想は血統を受け継ぐ
者たちにも当然ながら継承されてい
るだろう
人身御供の儀式とは生贄の儀式だが、
現代風に言い換えれば「結果が手段を
正当化する」というにもつながる
また、資本主義社会の常識である
トレードオフという言葉
つまり、何かを得れば別の何かを失う
一得一失(いっとくいっしつ)の考え方
にも相通じるものがある
となると、現代の資本主義社会の常識
や仕組み、金融相場や株式市場などに
大きな影響を与えている思想とも言え
ると思う
つまり、黒い貴族を見る上で単に陰謀論
的な捉え方をするのではなく彼らが何者
で?彼らの思想とはなにか?
その思想は現在どこに反映されているの
か?など本質的な面に着目していくとい
いだろう
https://new-world-entertainment.net/black_noble/
2021年6月8日
アメリカ合衆国のFRBは今後どうなるのか?
https://new-world-entertainment.net/central-bank/
FRBとは連邦準備制度
アメリカの中央銀行
日本で言えば日銀
金融の中枢である
FRBを簡単に言えば、20世紀のア
メリカを金融面で牛耳ってきた組
織である
1910年11月22日にジキル島の秘密
会議でネルソンオルドリッチ共和党
上院議員
JPモルガン、クーンローブ商会の共同
経営者、ロックフェラーやモルガン系
銀行、ロスチャイルド系関係者などで
設立された
ただ、基本的にFRBの大元は、血流で
言うとサヴォイ家→デルバンコ家→ウ
ォーバーグ家となる
その部下的な立ち位置にロックフェラ
ー家やモルガン家がいるわけだ
(FRB事業の部長的なイメージ)
そして、1913年12月のクリスマスの
ドサクサに紛れてFRBの根拠となる連
邦準備法が成立・・
FRBによるアメリカの金融支配が始ま
ったのだ
こうして見ると、FRBによる支配は
110年ほどなので歴史としては浅い
のだ
そんなFRBだが今後はどうなるのか?
ニューワールドオーダー実現にあたり
FRBは一新されると考えた方がいいと
見ている
アメリカ合衆国という国家を政治や金
融など実質的に支配しているのは英国
王室
金融で言えば、番頭的な立ち位置でロ
スチャイルドがいるがその上を辿ると
結局13ファミリーに行き着く
FRBの大元はサヴォイ家になるが
サヴォイ家と言えばBIS(国際決済
銀行)が彼らの持ち物である
FRBという既存の金融、通貨制度の仕
組みを今後崩壊させると言うより・・
すでに新しい時代においてお役御免と
いうような形で幕引きされるイメージ
で捉えておくといいと思う
つまり今後、FRBも世界の流れの一端
としてグレートリセットされる・・
こう捉えておくといいだろう
旧ワールドオーダー的な金融、通貨制
度は本当に近い将来にグレートリセッ
トされるだろう
そのような見方でFRB、世界の金融経済
指標を冷静に捉えてご自身の戦略を構築
していくといいだろう
まさに、エンタメ志向が必要である
https://new-world-entertainment.net/central-bank/
2021年6月8日
プロジェクト「コロナ騒動」の真の黒幕は誰なのか
https://new-world-entertainment.net/wire-puller/
我々が以前から、何度も取り上げて
きたCovid21だが・・
現在は「変異種」と呼ばれている
21の前に、世界中を激動の渦に巻き
込んでいるのが【Covid19】
いわゆる新型コロナウイルスだ
我々は、現在の「コロナ変異種」に
対してマスコミがCovid21と言い始
めるのは2021年2月中旬過ぎだろう
と見ている
19がジャブなら、21はかなり強め
のストレートパンチだろう
Covid21になるといよいよ、世界中
のゴイム(大衆)から資産を収奪する
債務リセットプログラムが始まって
くると以前の記事でも書いている
そして・・
旧ワールドオーダー的な経済や資本
主義をぶっ壊して世界をグレートリ
セットする絵図が描き上がるのだ
つまり、一連のプロジェクトCovid
の大きな目的は「ウイルス感染」で
人口削減するより経済破壊が目的だ
そう、お金という絶対的価値を創造
して、お金をバラ撒き、お金により
富を収奪するスキームである
この一連の元締め、Covid21など
プロジェクトCovidの黒幕は誰か?
その黒幕のルーツを知れば一連の
流れに合点が行くと思う
なぜなら、ニューワールドオーダー
に向けた経済混乱→破壊→グレート
リセットの大元を辿ると【金貸し】
に行き着くからだ
具体的には、フェニキア系背乗りユ
ダヤことハム系ユダヤ人
ヘロデアグリッパ系列の黒い貴族に
行き着くのだ
古代より、金貸しによってユダヤ人
貴族を支配してユダヤ人という看板
を乗っ取った系統(子孫)が現在の世
界で強大な力を持っているのだ
誤解を恐れず言えば、今世界で起き
ていることのすべての表も裏も
これから何が起きて、どうすればい
いかも「黒い貴族」のルーツを知る
ことで見えてくるといっても過言で
はないのだ
まあ、この突っ込んだ所は興味があ
ればニューワールドエンターテイメ
ントの正式メンバーになるといいだ
ろう
もうひとつ、言いたいことがある
欧州各国は首都封鎖(ロックダウン)
やそれに近い状態になっている
アメリカは混乱、分断、対立が激化
して不安定極まりない状態になって
いる
日本国内も2度目の緊急事態宣言が
出されて我慢や自粛を迫られている
しかし、ニューワールドオーダー時
代という世界の大変革期に必要なの
は【我慢】ではない
我慢ではなく、我々人類に必要な
ものは【辛抱】しんぼうである
そう、今こそ善悪や正反という二元
論的な価値観をぶち壊すことが必要
だと思うのだ
時代の変革期に起きる幸も辛もすべ
て受け入れ己の成長の糧に変える
エンタメ志向という価値観で、この
二度とない大変革期ニューワールド
オーダー時代を捉えて欲しいと切に
願っている
今、この時代の大変革期に産まれ、
生かされていることには必ず意味が
あるのだ
どうか、決して目を逸らさないで
ほしい
どうか、決して逃げないでほしい
共に、あるがままの世界を受け入れ
てすべてを大きく強く・・
そして、優しく包み込める
しぶとい人間になろう
我々ニューワールドエンターテイメン
トメンバーはそのための力を、スキル
を日々磨いているのだ
https://new-world-entertainment.net/wire-puller/
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2:777
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2024/08/16 (Fri) 02:00:59
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パリ五輪開会式の背景はユダヤ選民思想によるキリスト教の否定
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16862095
マクロン大統領はゲイのサイコパス、奥さんは元男性
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16864156
陰謀論? 闇の支配層『黒い貴族 ヨーロッパ13貴族』とは?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16864643
【LIVE】8/16(金)20:00〜「パリ五輪で暴かれたフランスの闇~マクロン夫妻の秘密~」ーノンフィクション作家 河添恵子
https://www.youtube.com/watch?v=SObIOeIkLG0
河添恵子×古賀真【河添先生に聴くフランスの事情】
大調和ちゃんねる【大経連公式】 2024/08/12
https://www.youtube.com/watch?v=zmvfSfdNiKk
河添恵子×古賀真【続!河添先生に聴くフランスの事情/ジャック・アタリ】
大調和ちゃんねる【大経連公式】2024/08/14
https://www.youtube.com/watch?v=ZZChEPNUOLA
陰謀論の問題 _ ある出来事の受益者が「悪の張本人」だという妄想
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14033997
河添恵子【ディープステート三本の矢とは?】#河添恵子
大調和ちゃんねる【大経連公式】2024/08/16
https://www.youtube.com/watch?v=L82YKTYVDNM
西側支配層の人類を死滅させかねない政策は背後に優生学
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202311210000/
Microsoft創業者ビル・ゲイツの優生学
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14142318
LGBTは軍隊の弱体化、家族の解体、国民の断絶が目的
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14118138
9割の日本人が理解していないWHOとは何か?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16861390
【日本の危機】お注射強制でボロ儲けWHOと製薬会社! 闇のパンデミック条約は間もなく決まる
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16849337
【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第35回「テロとバッド・メディシンな新世界秩序、グローバリストとの戦いは文字通り命懸けの段階に!」[桜R6/7/20]
https://www.youtube.com/watch?v=V8rmozJhW5Q
接種者を死亡させ、人類の存続を危うくする薬を世界規模で接種させるのは誰か
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14112398
現在でも米政府やWHOは劣等な民族を「淘汰」すべきだと考えている
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14056012
大手メディアが報道しないレプリコンワクチンの真実
【公式】吉野敏明の政経医チャンネル〜日本の病を治す〜
https://www.youtube.com/watch?v=4igSjSaA_bI
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3:777
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2024/08/16 (Fri) 07:15:26
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陰謀論の問題 _ ある出来事の受益者が「悪の張本人」だという妄想
チャットGPTは2022年11月に公開された会話型人工知能アプリで、テキスト文章を入力するとAIが回答するが文章を書いたりプログラミングもできる
音楽、小説、脚本、詩、歌詞や作文ができてテストの問題は人間よりうまく早く、大学程度の論文も数分で書くことができたとされる
欠点もあり「もっともらしく見えるが誤っている回答を作成する」のが得意で、要するにフェイクニュースや偽理論を作るのも人間よりうまい
人間が書いた偽理論は独特の文章構造があり、例えば仮説や目撃談を根拠に「宇宙人が文明をもたらした」などと断定します
陰謀論は数少ない証拠を元に全体を断定する特徴があり、例えば911でWTCの鉄骨が溶けていたので「ブッシュ大統領による自作自演」と断定していました。
真相はジェット燃料が風にあおられて燃焼すると1000度以上の高温になり、鉄骨が溶けてカメラに映っただけでした。
https://www.thutmosev.com/archives/89989571.html#more
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【アンチも見ろ!】なぜ『陰謀論』を信じてしまうのか?【陰謀論者診断】
世界ミステリーch 2024/05/11
https://www.youtube.com/watch?v=bHeFZBuTGMk
コロナの拡大以降、ネット上には陰謀論が溢れるようになりました。ではなぜ人は陰謀論を信じてしまうのか?『陰謀論者』と呼ばれる人はどのような思考、精神的傾向にあるのか、実際に実験が行われているのです。今回は陰謀論を語る人の傾向を話していくので、ぜひ自己診断してください!
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宇野正美講演会・傍聴記「反ユダヤ伝道師」かく語りき
7月20日(1995年)に、神田の日本教育会館・一ツ橋ホールで開かれた、宇野正美氏の「1996年 国家存亡の危機が来る」という講演会を聴きに行った。
そうか。この人物が、H氏やA氏やY氏と並んで、「ユダヤによる世界支配の陰謀」を唱えて、日本の言論界の一角で、異様な気炎をはいてきた宇野正美氏か。
この人が「ユダヤの陰謀」という恐ろしいテーマをひっさげて,もう二十年も言論活動をやっている人なのか。もし本当に氏が「陰謀」なるものを暴いてしまった人だったら、とっくの昔に殺されていないのはなぜだろうという疑問が脳裏をかすめた。
宇野氏ら陰謀評論家は、世界の一般民衆を操る支配階級の人びとの、さらにそのまたごく少数の限られた人びとの秘密クラブの存在を確信することから、自分たちの言論活動を開始する。
「1990年にバブル経済が破裂したあとの5年間で、世界で、日本で、〇〇、〇〇の事件がありましたね。
これは、〇〇が〇〇して、〇〇になったものでした。その背後に、世界を操る〇〇〇〇の存在があるのです」。
要約するならば、宇野氏の話は、このスタイルに終始している。
「〇〇という事実がありました。これは、皆さんもご存知のとおり〇〇〇〇だったのですが、これも実は〇〇〇〇がからんでいるのです」。
この語り口調は、なかなか小気味よいのである。そうか、あの事件も、この事件も、やっぱり裏に秘密があったのか。自分もヘンだな、と思っていたんだ。
聴衆は、宇野氏の推理いつしかのめり込んでいく。開場は静まり返って、みんな真剣に聴き入っている。
いろんな厳しい人生経験を積んでそれなりの生き方をしてきたあとでも、人間はこの程度のホラ話に一気のめり込むことができるのである。
「この1月17日の関西大地震は、人工地震の可能性が、1%はあります」
「3月のオウム事件は、地下鉄サリン事件は、北朝鮮が裏で糸を引いているのです」
「最近起きたソウルのデパートの倒壊事件。奇妙でしょ。ビルの中央部分だけが、一気に崩れ落ちるなんて。これは、低周波兵器でズーンと低周波をかけると、起こるのです」
この三年ほどで、宇野氏の考えは二つの点で大きく変化している。かつて文芸春秋系のネスコ社から出していた本では、単純素朴な、ユダヤの秘密組織による日本征服説が説かれていた。これは、若い頃からの氏の聖書研究と愛国感情が混じり合った産物だった。
最近は、
「ユダヤ人には、アシュケナージ・ユダヤ人というニセものがおり、スファラディ・ユダヤ人という本物のユダヤ大衆を抑圧するためにイスラエルを建国したのだ。
そしてこのイスラエル建国主義者たちがシオニストであり、国際陰謀をめぐらす諸悪の根源である」
という考え方をしている。
かつての論調ではフリーメーソン、ビルダーバーグ、イルミナティ、TC(米欧日三極会議)、CFR(外交問題評議会)などの秘密結社や国際機関と、ユダヤ人の秘密結社との関係がどうなっているのかはっきりしなかった。ところが、今回の講演では、「ザ・クラブ・オブ・アイルズ」というヨーロッパの旧来の王侯貴族達の裏結社が、これらすべての秘密クラブの上に君臨し、序列を作りそのずっと下の方で使われているのがユダヤ人たちである、という簡単な理論になっていた。
フリーメーソンやイルミナティなどの秘密結社の存在はさておくとして、TC
(トライラテラル・コミッション、米欧日三極会議)は公然と存在する。
私は、「陰謀」の存在自体は否定しない。世の中に「陰謀」の類はたくさんあると思っている。世界覇権国であるアメリカ合衆国の、政治・経済の実権を握っている支配層の人びとの間に、多くの「陰謀」があるのは当然のことだと思う。
そして、1990年以来の、日本のバブル経済の崩壊によって深刻な不況に陥っている現状は、やはりニューヨークの金融界が、日本の経済膨張を抑え込むために陰に陽に仕組んで実行したものであると信じないわけにはいかない。薄々とだが、ビジネスマン層を中心にこのような話は語られ広まっている。
私の友人のなかに銀行員が何人かいる。昔、いっしょに『ニューヨーク・タイムズ』紙の早朝読み合わせ会という勉強会をやっていた友人のひとりは、ニューヨーク駐在勤務から帰ってきた後に、私にははっきりと語ってくれた。
「ニューヨークの金融センターは、ユダヤ系の人びとに牛耳られており、彼らの意思に逆らうと商売ができない恐ろしいところだ」
彼は、宇野理論のような直接的なユダヤ陰謀論は説かないが、そのような傾向が存在することを信じている。株式の大暴落を引き起こし、ついで地価の下落、そして円高による波状攻撃で日本の大企業の力を弱体化させ、日本国民の金融資産の3分の1は、ニューヨークで解けて流れて、消失してしまった。日本の資産の運用先の大半は、その金利の高さゆえに、アメリカの政府債(TB、トレジャリー・ビル)や社債で運用されてきたからである。それが、円高で元金の方がやられてしまった。
http://soejima.to/souko/text_data/wforum.cgi?room=0&mode=new_sort
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保守・右翼の人間は何故論理的な思考ができないのか?
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阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html
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2024/08/16 (Fri) 07:59:36
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【前半無料パート】内田樹 氏出演!「反ユダヤ主義を再考する」
https://www.youtube.com/watch?v=QNdNsuR6GHc
7月31日(水)21:00~ 生放送!
「反ユダヤ主義をめぐって」
ゲスト:内田樹 さん(哲学者)
複雑な話は複雑なまま扱うことについて - 内田樹の研究室
2022-08-13 samedi
http://blog.tatsuru.com/2022/08/13_0929.html
「複雑な現実は複雑なまま扱い、焦って単純化しないこと」というのは私が経験的に学んだことの一つである。「その方が話が早い」からである。話は複雑にした方が話が早い。私がそう言うと、多くの人は怪訝な顔をする。でも、そうなのだ。いささか込み入った理路なので、その話をする。
私は人も知る病的な「イラチ」である。「イラチ」というのは関西の言葉で「せっかち」のことである。どこかへ出かける時も、定時になったらメンバーが全員揃っていなくても置いてでかける。宴会でも時刻が来たら来賓が来ていなくても「じゃあ、乾杯の練習をしよう」と言ってみんなに唱和させる(来賓が着いたら「乾杯の儀に粗相があってはならないので、繰り返しリハーサルをしておきました」と言い訳する)。
そういう前のめりの人間なので、当然ながら話をする時も最優先するのは「話を先に進めること」である。ぐずぐずと話が停滞することも、一度論じ終わったことを蒸し返されるのも大嫌いである。そういう人間が長く対話と合意形成の経験を積んできた結論が「話を複雑にした方が話は早い」ということであった。
多くの人は「話を簡単にすること」と「話を早くすること」を同義だと考えているが、それは違う。話は簡単になったが、そのせいで現実はますます手に負えないものになるということはしばしば起こる。現実そのものが複雑な時に、無理に話を簡単にすると、話と現実の間の隔たりが広がるだけである。そこで語られる話がどれほどすっきりシンプルでも、現実との接点が失われるなら、その「簡単な話」にはほんとうの意味で現実を変成する力はない。
そう書いておいてすぐに前言撤回するのも気が引けるが、実は「簡単な話」に基づいて現実を変成することは可能なのである。だからこそ人々は「簡単な話」に魅惑され、それに固着しもするのである。話を簡単にするというのは、単に知的負荷を軽減してくれるというだけでなく、たしかにある種の実効性はある。ただし、複雑な現実を簡単な話に還元することによって出現させられた「現実」はいわば力任せに、無理やりに創り出したものである。そういう「無理やり変えた現実」には「現実である」必然性が欠けている。だから、保持力がない。そのうちに「無理」が祟って、内側から壊れてゆく。そして、形状記憶合金のように、元の「複雑な現実」という本態に戻ってしまう。何一つ解決しないままに。
ギリシャ神話にプロクルステスという盗賊が出てくる。彼は街道沿いで待ち構えて、通りがかりの旅人に彼の寝台で休息するように声をかける。そして、寝台に寝かせて、相手の体が寝台からはみ出したらその部分を切断し、逆に寝台の長さに足りなかったら足を無理やり寝台の長さにまで引き延ばした。
複雑な現実を簡単な話に落とし込む人を見ていると、私はこのプロクルステスの故事を思い出す。当然のことながらそんなことをすると天罰が当たる。神話によれば、英雄テセウスがやってきて、プロクルステスを彼の寝台に寝かせてはみ出した頭と足を切断してしまった。「プロクルステスの寝台」というのは「無理やり出来合いのスキームに落とし込むこと」を意味する喩えとして今でも使われるが、そういう無理をするとかえって自分の頭と足を切られて絶命することになるのである。
だから、現実を切り縮めることも、現実になかったことを書き加えることも、どちらも止めた方がいい。現実はできるだけ現実そのものの大きさと奥行きと不可解さを込みで扱う。たしかに手間はかかる。それに誰がやっても、多少は「切り縮めたり、書き加えたり」という作為は免れない。でも、それを当然のように行うか、疚しさを覚えつつ行うかの間には千里の径庭がある。
「話を簡単にする」方法の中で最も簡単なのは「問題を消す」ことである。問題があるのに、「そこには問題などない」と言い立てるのである。
例えば、北方領土についての日ロの意見はずいぶんと食い違っているが、最大の食い違いは、ロシアが「北方領土はもともとロシア固有の領土であるので、日本との間に領土問題などは存在しない」と主張し始めたことである。「そこに問題がある」ということを当事者双方が認めているからこそ話し合いは始まるのだが、当事者の一方が「問題はない」と言い出したら、問題は未来永劫解決しない。
ナチスは紀元前から続く「ユダヤ人問題」の「最終的解決(the final solution)」とはユダヤ人を「消す」ことだという天才的なアイディアを思いついた。問題の当事者がこの世からいなくなれば、問題もなくなる。
第三帝国の宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスは1941年に「ユダヤ人問題に関して、総統は問題を簡単にすることにした」と日誌に記しているが、これは「問題を簡単にする」というフレーズの最も印象的な用例として記憶しておいてよいと思う。しかし、歴史が教えてくれるのは「最終的解決」によって話を簡単にしようとしたせいで、ドイツ国民は永遠に解決できない問題を抱え込んでしまったということである。
さすがにこれはかなり極端な事例だが、問題を簡単にするためにふつう「陰謀論」が採用される。これはたいへん使い勝手がよいので、あらゆる人々があらゆる政治的難問についてこれを準用する。
「陰謀論」というのは、何か「都合の悪いこと」が起きた時に、それを「邪悪なるものの干渉」として説明する態度のことである。その集団がかつて「本来の純良な状態」にあったときには、たいへん豊かで生産的で効率的だったのだけれど、外部から異物が混入してきて、集団を「汚染」したせいで、「本来の姿」を失ってしまった。だから、混入した異物を特定し、これを摘抉排除すれば、集団は原初の清浄と活力を回復するであろうというのが「陰謀論」の基本的な話型である。
われわれの集団のどこかに「悪の張本人(author)」がいる。それを名指した時点で仕事はほとんど終わる。あとはみんなで総がかりでその「張本人」を迫害して、叩き出せばいい。「誰が張本人か」を探し出すまでは「犯人捜し」に多少は頭を使わなければいけないけれど、張本人の名指しが終わったあとは、力仕事だけで、知的負荷はゼロになる。だから、世界中の人がこの「簡単な話」に偏愛を示す。政治的カリスマはあるが、頭があまりよくない政治的指導者はほぼ100パーセントこの話型でその政策を実現しようとする。
陰謀論は民衆の政治的熱狂を掻き立てるという点においては圧倒的な力を発揮する。それはナチスにおいてもスターリンにおいても毛沢東においてもイスラム原理主義においても実証済みである。
破局的な大事件が起きた時に、陰謀論者は、それがいくつかの複合的な原因の帰結であるというふうに考えない。単一の「張本人」がすべてを計画し、差配していると考える。
例えば、フランス革命は巨大な政治的変動であったが、それを王政の機能不全、資本主義の発展、啓蒙思想の普及などの複合的な効果とは考えずに、フランスのすべてを裏から支配している「秘密組織」の計画の実現とみなすのが陰謀論である。
この場合、「張本人」は必ず「秘密組織」でなければならない。というのは、革命が起きる直前まで、フランスの警察はこのような巨大な運動を一糸乱れぬ仕方で統制しうるほどの実力を持った「組織」が存在することを知らなかったからである。だから、「闇の組織」だということになる。とりあえず「秘密組織」が存在することは自明とされる。だとすれば、次の問題は「それは誰だ?」ということになる。フリーメイソン、イリュミナティ、聖堂騎士団、英国の海賊資本、プロテスタント・・・さまざまな候補が挙げられ、最終的に「ユダヤ人の世界政府」が「オーサー」だという話に落ち着いた。フランス革命後に、ユダヤ人が被差別身分から解放され、市民権を獲得し、政治経済メディアの各界にはなばなしく進出したという歴史的事実が目の前にあったからである。ドリュモンはこう書いた。「フランス革命の唯一の受益者はユダヤ人である。すべてはユダヤ人から始まる。だから、すべてはユダヤ人のものになるのである。」(『ユダヤ的フランス』)
ある出来事の受益者がその出来事の「オーサー」であるという推論は論理的には成立しない。それは「風が吹けば桶屋が儲かる」という事実から桶屋は気象をコントロールできる謎の力を有していると推論するのと同程度に没論理的である。だが、この陰謀論にフランスの読者は飛びつき、『ユダヤ的フランス』は19世紀フランス最大のベストセラーになった。そして、ドレフュス事件はこの荒唐無稽な陰謀論が一人のユダヤ人将校を破滅させるほどの現実変成力を持っていることを世界に示したのである。
http://blog.tatsuru.com/2022/08/13_0929.html
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反知性主義者たちの肖像 - 内田樹の研究室
ユダヤ陰謀論の起源
http://blog.tatsuru.com/2020/09/03_1232.html
ホーフスタッターは反知性主義者の相貌を次のように描き出している。反知性主義の「スポークスマンは、概して無学でもなければ無教養でもない。むしろ知識人のはしくれ、自称知識人、仲間から除名された知識人、認められない知識人などである。読み書きのできる彼らは、ろくに読み書きのできない人々を指導し、自分たちが注目する世界の問題について、真剣かつ高邁な目的意識をもっている。」(同書、19頁)
彼らは世界のなりたちを理解したいという強い知的情熱に駆られており、しばしば特定の分野について驚くほど専門的な知識や情報を有している。また、世界をよりよきものにしようという理想主義においてもしばしば人に後れをとることはない(と口では言う)。
けれども、そのような知的情熱や理想主義がしばしば最悪の反知性主義者を生み出すことになるのである。具体的な例を挙げた方がわかりやすいだろう。反ユダヤ主義者がそうだ。
私はある時期、ヨーロッパにおけるユダヤ教思想と反ユダヤ主義について研究していたことがある。そして、この分野について日本にも膨大な量の「研究」書が存在することに驚嘆した。
日本にはユダヤ人はほとんどいない。日本には二つしかシナゴーグ(ユダヤ教会堂)がないが、東京広尾にあるシナゴーグに通っていた在日ユダヤ人は1980年代末で1000人。神戸のシナゴーグに通うユダヤ人はもっと少なかった。日本はユダヤ人とほとんど無関係な国だということである。にもかかわらず、「ユダヤがわかると世界がわかる」とか「ユダヤ人の世界征服の陰謀」といったタイプの反ユダヤ主義的な書物は飽きることなく出版され続けている。それらの本を開くと、国際政治も国際経済もメディアもすべてはユダヤ人の国際ネットワークによって操られているという同工異曲の主張が延々と記されている。よくこんなことまで調べたものだ・・・と驚嘆するほどトリビアルな情報が紹介されている。そのような文章を書いている人たちは、ユダヤ人の世界支配の抑圧的な機構からわれわれを解放しさえすれば、自由で豊かな世界を奪還できるとおそらく信じているのであろう。これらの書物の書き手は間違いなく知的情熱に駆られており、おそらくは善意の人である。けれども、そこには何か知性のはたらきをはげしく阻害するものが含まれている。私はそれを「反知性」として咎めるのである。
知性と反知性を隔てるものは対面的状況でなら身体反応を通じて感知可能であると私は上に書いた。二人で顔を向き合わせている状況だったら、「私」の知性が活性化したかどうかを自己点検すれば、それだけで自分の前にいる人が知性的な人かどうかは判定できる。個人的なレベルでの、かつ短期の出会いについては、それで対応できる。けれども、個人が自分の身体をモニターして前にいる人物が知性的であるかないかを判断するにはおのずと限りがある。会ったこともないし、見たこともないし、声を聴いたこともない人々(外国の人たちや、死者たちはたいていそうだ)の思考や行動が知性的であるかどうかをみきわめるためには、もう少し射程の広い「物差し」が要る。知性と反知性を識別するためには、どのような基準を適用すればよいのか。
反ユダヤ主義に見られる「陰謀史観」は反知性主義の典型的なかたちである。私はそれを「反知性」と判定する。なぜそう判定できるのかを説明するために、まずこのような思考枠組みが出現してくる歴史的経緯を見ておきたい。
世の中にはさまざまな理解しがたい事象が存在する。例えば、グローバル経済では関与する変数が多くなり過ぎて、もはやどのような専門家もこれを単純な方程式に還元することができなくなってしまっている。どこか遠い国で起きた通貨の暴落や株価の乱高下や、あるいは天災やパンデミックのせいで、一国の経済活動が致命的な打撃を受けるリスクがある。一国単位でどれほど適切な経済政策を採択していても、その打撃を逃れることはできない。私たちが知っている限りでも、ドルショック、オイルショック、リーマンショックといった「ショック」によってわが国の経済は繰り返し激震に襲われて、長期にわたる低迷を余儀なくされた。「ショック」という言葉が示すように、それはいつ来て、どれほどの被害を、どの領域にもたらすか予測できないかたちで到来した。私たちがそれらの経験から学んだのは、経済についての専門知は、「想定内の出来事」だけしか起きないときにはそれなりに有用だが、「想定外の出来事」についてはほとんど役に立たないということであった。
この無力感・無能感から陰謀史観は生まれる。陰謀史観というのは、どこかにすべてをコントロールしている「張本人(author)」がいるという仮説である。一見すると、まったく支離滅裂に、いかなる法則性にも随わずランダムに、まさに「想定外」のしかたで生起しているように見えるもろもろの事象の背後には、他者の苦しみから専一的に受益している陰謀集団が存在する。そういう物語への固着のことを陰謀史観と呼ぶ。
陰謀史観は人類史と同じだけ古いが、近代の陰謀史観は18世紀末のフランス革命を以て嚆矢とする。革命が勃発したとき、それまで長期にわたって権力と財貨と文化資本を独占してきた特権階級の人々はほとんど一夜にしてすべてを失った。ロンドンに亡命したかつての特権階級の人々は日々サロンに集まっては自分たちの身にいったい何が起きたのかを論じ合った。けれども、自分たちがそこから受益していた政体が、自分たちがぼんやりと手をつかねているうちに回復不能にまで劣化し、ついに自壊に至ったという解釈は採らなかった。彼らはもっとシンプルに考えた。これだけ大規模な政治的変動という単一の「出力」があった以上、それだけの事業を成し遂げることのできる単一の「入力」があったはずだ。自分たちは多くのものを失った。だとすれば、自分たちが失ったものをわがものとして横領した人々がいるはずである。その人々がこの政変を長期にわたってひそかに企んできたのだ。亡命者たちはそう推論した。
だが、革命前のフランス社会には、そのような巨大な事業を果しうるほどの力を備えた政治集団は存在しなかった。少なくとも政府当局はそのようなリスクの切迫を感知していなかった。しかるに、ある日突然、磐石のものと見えていた統治システムが根底から覆されたのである。恐るべき統率力をもった単一の集団によって事件は計画的に起こされたに違いないのだが、事前にはそのような事業をなし得る政治的主体が存在することさえ知られていなかったのだとすると、そこから導かれる結論はひとつしかない。それは一国の政体をあっというまに覆すことができるような巨大な政治的主体が久しく姿を現さないままに活動していたという「秘密結社の物語」である。
陰謀史観の本質はこの推論形式に現われている。それは「巨大な政治的主体が誰にも気づかれずに活動している」ということがまず事実として認定され、そのあとに「それは何ものか」という問いが立てられるということである。重要なのは「陰謀集団が存在する」ということであって、それが誰であるかということには副次的な重要性しか与えらない。事実、ロンドンに亡命した貴族たちは「犯人は誰か?」という問いに熱中した。フリーメーソン、ババリアの啓明結社、聖堂騎士団、プロテスタント、英国の海賊資本、ジャコバン派、ユダヤ人・・・さまざまな容疑者の名が上がった。そして、多くの陰謀史観論者は「犯人」の特定を二転三転させたが、それを恥じる様子は見られなかった。その様子は適当な容疑者を殺人事件の犯人に仕立て上げて一件落着を急ぐ冤罪常習者の警察官を思わせる。彼らにとっては「この事件の全過程をコントロールしている単一の犯人が存在する」という信憑を強化できるのであれば犯人は誰でもよかったのである。
最終的に19世紀末にエドゥアール・ドリュモンというジャーナリストが登場して、「フランス革命からの100年間で最も大きな利益を享受したのはユダヤ人である。それゆえ、フランス革命を計画実行したのはユダヤ人であると推論して過たない」と書いた。この推論は論理的に間違っている(「風が吹いたので桶屋が儲かったのだから、気象を操作したのは桶屋である」という推論と同型である)。だが、フランス人たちはそんなことは気にしなかった。ドリュモンのその書物『ユダヤ的フランス(la France juive)』は19世紀フランス最大のベストセラーになり、多くの読者がその物語を受け容れ、著者宛てに熱狂的なファンレターを書き送った。その多くは「一読して胸のつかえが消えました」、「頭のなかのもやもやが一挙に晴れました」、「これまでわからなかったすべてのことが腑に落ちました」という感謝の言葉を書き連ねたものだった。読者たちはどうやらこの物語に身体の深いところで納得してしまったようである。
やがて、ドリュモンのこの物語は、同時期にロシアの秘密警察が捏造した偽書『シオン賢者の議定書』とともに全世界に広がり、半世紀後に「ホロコースト」として物質化することになった。フランス革命とユダヤ人を結びつけた陰謀史観の物語はおそらく人類史上最悪の「反知性主義」の事例としてよいだろう。
600万人ユダヤ人の死を帰結したこの物語の最初のきっかけがはげしい「知的渇望」だったということを私たちは忘れるべきではない。そして、この書物を迎えた読者たちの支配的な反応が「長年の疑問が一挙に氷解しました。ありがとう」という大きな解放感と感謝の気持ちだったことも。
歴史的変動(ドリュモンの場合は、産業革命以後のフランスの急速な近代化・都市化・産業化趨勢)に遭遇した人々が「どうして『こんなこと』が起きたのか」を知りたがるのは人間知性の自然である。知性の健全のあかしであると言ってもよい。しかし、その知的渇望はどこかで反知性に転じた。どこで転じたのか。
いささか無礼な言い方になるが、それは一言で言えば、彼らが自分程度の知力でも理解できる説明を切望したからである。
実際に、フランス革命は単一の「張本人」のしわざに帰すことのできるような単純なものではなかった。統治システムの経年劣化、資本主義の発達に伴う生産や流通構造の変化、科学とテクノロジーの進化、近代市民社会理論の登場、英雄的革命家の出現など無数のファクターが革命の勃発には関与しており、そのどれか一つが欠けていても、革命は別の軌跡を辿り、別の政治的事象となったはずである。だから、「どうして革命が起きたのか?」という問いに対して、一言で答えることは不可能なのである。強いて言えば、「いろいろな原因の複合的効果によって」というのがもっとも正直な回答なのであろうが、そのようなあいまいな説明を嫌って、人々は「ずばり一言で答えること」を求めた。
これもまた知的渇望の一つのかたちだなのである。同一の現象について複数の説明がある場合、もっともシンプルな説明を選好する。これもまた知性の働きである。たしかに、一見複雑怪奇に見える現象の背後には、美しいほど単純な数理的法則が存在するという直感こそは、科学的知性を起動させる当のものだからである。
数学にはさまざまな「予想」が存在する。フェルマー予想をフェルマーは「証明した」と書き残したが、久しく誰も証明も反証もできなかった。予想が証明されたのは360年後のことである。リーマン予想は予想が示されてから150年経った現在でも証明されていないが、多くの数学者はいずれ証明されると信じている。数学における「予想」の存在が示すのは、平たく言えば、人間には「まだわからないはずのことが先駆的にわかる」能力が備わっているということである。
かつてソクラテスは「問題」について似たようなことを言った。「問題」というのはよく考えると不思議な性質のものである。私たちはその解法がわかっているものを「問題」としては意識しない。またその逆に、その解法がまったくわからないものも「問題」としては意識しない。私たちが「これは問題だ」と言うのは、まだ解けていないが、時間と手間をかければいずれ解けることが直感されているものだけである。私たちの知性は、自分がまだ解いていない問題について「まったく解けない」のか「手間暇さえかければ解ける」のかを先駆的に判断している。
私たちの知性はどこかで時間を少しだけ「フライング」することができる。知性が発動するというのはそういうときである。まだわからないはずのことが先駆的・直感的にわかる。私はそれが知性の発動の本質的様態だろうと思う。
あらゆる自然科学は、一見ランダムに生起しているかに見える自然現象の背後に数理的な法則性が走っていることを直感した科学者たちによって切り拓かれてきた。その科学的知性のプロトタイプは、自然を前にしてじっと観察している子どものうちに見ることができる。子どもたちを自然の中に放置すると、しばらくしてそれぞれの興味に従って「観察するもの」を選び出す。あるものは昆虫を眺め、あるものは花を眺め、あるものは空の雲を眺め、あるものは海岸に寄せる波を眺める。そうしているうちに、子どもたちがふっと観察対象のなかにのめり込む瞬間が訪れる。それは彼らの様子を横で見ているとわかる。いったいどういう場合に「のめり込む」のか。それは「パターンを発見したとき」である。虫の動きのうちにある法則性があることを直感したとき、花弁のかたちにある図形が反復することを直感したとき、岸辺に寄せる波の大きさに一定のパターンがあることを直感したとき、子どもたちは彼らなりのささやかな「予想」を立てる。もし自分の仮説が正しければ、次は「こういうこと」が起きるはずだと考える。そして自分の「予想」の通りの「イベント」が起きるかどうか息を詰めて見守る。そのとき、子どもたちは自然の中に一歩踏み込み、自然と融合している。それは、はたで見ていても感動的な光景である。そのとき、私たちは彼らのうちで科学的知性が起動した瞬間に立ち合っているからである。
このような「対象へののめり込み」は「ずばり一言で言えば」というシンプルな説明を求める知的渇望とは似て非なるものである。どちらもランダムな事象の背後に存在する数理的秩序を希求している点では変わらない。でも、一点だけ決定的に違うところがある。それは先駆的直感には時間が関与していることである。
自分がある法則を先駆的に把持していることはわかるけれどそれをまだ言葉にできないときの身もだえするような前のめりの構えにおいて、時間は重大なプレイヤーである。「まだわからないけれど、そのうちわかる」という予見が維持できるのは、時間の経過とともにその予見の輪郭や手触りがしだいに確かなものに変じてゆくからである。「熟す」という言い方をしてもいい。青い果実が時間とともにしだいに果肉を増し、赤く変色し、ずしりと持ち重りのする熟果になるプロセスにそれは似ている。Time is on my side というローリングストーンズの名曲があるが、「時間は私の味方である」というのは、時間の経過とともに自分の予見や願望がしだいに現実性を増してゆくことが今この瞬間も感知されている消息を語っている。
フェルマー予測は証明までに360年がかかった。一人の人間の寿命どころか、一つの王朝の興亡に匹敵する時間である。その予測が維持されたのは、時間の経過とともに予測の証明に「近づいている」という実感を世代を超えた数学者たちが共有したからである。
「私が見ているものの背後には美しい秩序、驚くほど単純な法則性が存在するのではないか」という直感はある種の「ふるえ」のような感動を人間にもたらす。その「ふるえ」はその秩序や法則を発見した「個人」が名声を得たり、学的高位に列されたり、世俗的利益を得たりすることを期待しての「ふるえ」とは違う。「誰にでもすぐにその価値や意味が理解されそうな発見」はたぶんそれほどの感動をもたらさない(経験したことがないから想像だが)。ノーベル賞級の発見をしたのだが、ジャーナルに早く投稿しないと、「他の誰か」が自分と同じ発見をして、プライオリティも特許も奪われてしまうかもしれないと恐れているときの「ふるえ」は私が話しているものとは違う。「他の誰か」が自分と同じ発見をしてしまうからもしれないから「急ぐ」という構えそのもののうちに何か本質的に反知性的なものがあるように私には思われる。というのは、自分が直感的に幻視した仮説が「他の誰かによって、すぐに」追尋可能なものであるということが本人にもわかっているなら、実はそれはそれほど直感的ではなかったということだからである。真の直感はもっと大きな時間の流れの中に人を置く。
自分は今これまで誰も気づかなかった「巨大な知の氷山」の一片に触れた。それはあまりに巨大であるために自分ひとりでは、一生をかけても、その全貌を明らかにすることはできない。だから、これから先、自分に続く多くの何世代もの人々との長い協働作業を通じてしか、自分が何を発見したのかさえ明らかにならないだろう。そのような宏大な見通しのうちで、まだ顔も知らない(まだ生まれてもいない)未来の協働研究者たちとのたしかな連帯を感じるときに、ひとは「ふるえ」を覚えるのだと私は思う。
ひとが「ふるえる」のは、自分が長い時間の流れの中において、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなしている」という実感を得たときである。「いるべき」ときも、「いるべき」ところも、「なすべき」わざも、単独では存立しない。それは、死者もまだ生まれぬ人たちをも含む無数の人々たちとの時空を超えた協働という概念抜きには成立しないのである。もう存在しないもの、まだ存在しないものたちとの協働関係というイメージをありありと感知できた人間のうちにおいてのみ、「私以外の誰によっても代替し得ない使命」という概念は受肉する。
自然科学というのはまさにそのようなものである。科学性とは何かということについて深く考究したカール・ポパーはこんな例を挙げている。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが孤島に研究室を建て、そこで冷徹な観察と分析に基づいて膨大な数の論文の執筆をなしとげたと仮定する。その研究成果は現在の自然科学の知見とぴたりと一致するものであった。さて、クルーソーは「科学者」だと言えるだろうか。ポパーは「言えない」と答える。ロビンソンの科学には科学的方法が欠如しているからである。
「なぜなら、彼の成果を吟味する者は彼以外にはいないし、彼個人の心性史の不可避的な帰結であるもろもろの偏見を訂正しうる者は彼以外にはいない」からである。
「人が判明でかつ筋道の通ったコミュニケーションの修練を積むことができるのは、ただ自分の仕事をそれをしたことのない人間(somebody who has not done it)に向かって説明する企てにおいてだけであり、このコミュニケーションの修練もまた科学的方法の構成要素なのである。」(Karl Popper, The Open Society and Its Enemies, Vol.II, Princeton University Press,1971, p.219,強調はポパー)
ポパーは科学的客観性とは何かについて、ここでたいへんリアカットな定義を下している。
「われわれが『科学的客観性』と呼んでいるものは、科学者の個人的な不党派性の産物ではない。そうではなくて科学的方法の社会的あるいは公共的性格(social or public character of scientific method)の産物なのである。そして、科学者の個人的な不党派性は(仮にそのようなものが存在するとしてだが)この社会的あるいは制度的に構築された科学的客観性の成果なのであって、その起源ではない。」(Ibid., p.220)
「科学および的客観性はひとりひとりの科学者の『客観的』たらんとする個人的努力に由来するものではない(由来するはずもない)。そうではなくて、多くの科学者たちの友好的-敵対的な協働に(friendly-hostile co-operation of many scientist)由来するのである。」(Ibid., p.217,強調はポパー)
私はポパーが「科学」について述べたことは「知性」についてもそのまま準用できるだろうと思う。科学の場合と同じく、知性が知性的でありうるのは、それが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである。個人がいかほど「知性的であろう」と念じても、人は知性的であることはできない。知性は「社会的あるいは公共的な」かたちでしか構築されないし、機能もしない。
ただし、「社会的あるいは公共的」という言葉から、「学会」のようなものを漠然と想像すべきではないだろう。複数の専門家が一堂に会して、相互に忌憚なく業績を評価する仕組みができているというだけでは「社会的あるいは公共的」という条件は満たされない。現に、20世紀以降でも、さまざまな国家において当代一流の学者たちがぞろぞろと時の権力者の喜びそうな学説の保証人になった例を私たちはいくらでも知っているからである。ある一時点において多くの支持者を得た支配的な学説であるということだけでは「社会的あるいは公共的」という条件は満たされない。「社会的あるいは公共的」であるためには、時間を味方にしなければならない。時間の経過とともに、学説のあちこちに散乱していた「満たされるべき空虚」がひとつひとつ充填されてゆくような力動的なしかたで構成されたものを「社会的あるいは公共的」な言明と呼ぶべきだと私は思う。そのようなプロセスが出来するためには、そのプロセスには「原理的にその場に居合わせることができないもの」たちも含まれていなければならない。死者たちもいまだ生まれざる者たちにもまたその場に参加する正式の招待状を送られていなければならない。
社会性、公共性とはいまここにおける賛同者の多寡によって計量されるものではない。そうではなくて、過去と未来の双方向に向けて、時間的に開放されているかどうか、それが社会性・公共性を基礎づける本質的な条件だろうと私は思う。「協働」という言葉に私が託したいのは、そのような「存在しない人々」をもフルメンバーとして含む、時空を超えて拡がる共同体の営みのイメージである。
ポパーはかつて、科学者は先行する世代の科学者たちの「肩の上に立って」仕事をするという卓越した比喩を用いたことがある。死者たちからの贈与の恩恵を私たちはいま享受している。だとすれば、私たちの仕事の成果に何らかの価値があったとしたら、その果実を受け取るのは未来の科学者たち、まだ生まれていない、私たちがまだその顔も知らない科学者たちであることになる。先行世代から伝えられた「パス」を、次世代に繋ぐこと。ポパーの「社会的あるいは公共的」という言葉から私が思い浮かべるのは、そのような時間の流れの中で生起する繋がりである。
それゆえ、時間の中でその真理性がしだいに熟してゆくような言明を私は「知性的」と呼びたいと思っている。私が時間の関与にこだわるのは、「ランダムな事象の背後に存在する数理的秩序」を幻視する知性の渇望が必ずしも知性的なものではないということを言いたかったからである。陰謀史観がその適例であるが、それは同時代に多くの賛同者を得たという意味についてだけ言えば「社会的・公共的」な仮説と言えなくもない。けれども、そこには構造的に欠落しているものがあった。そこには時間が流れていなかったのである。
ドリュモンは古代ローマから現代まで、ヨーロッパの全歴史は「セム族の世界支配の陰謀との戦い」の歴史であったと書いた。それゆえ、これからのちも同じ戦いが意匠を変えて継続することになるだろう、と。彼の物語において、死者たちも未来世界の人々も、その相貌はほとんど変わることなく同一である。セム族の人間は永遠不変のセム的性格を負い続け、アーリア人種も永遠のアーリア人性を負い続ける。たしかに、それによって世界史の見通しは驚異的にシンプルなものになる。あらゆる歴史的出来事は同一の戦いの反復と変奏だったのである。ドリュモンの物語の中で、死者たちは誰もがぎくしゃくした「操り人形」のように無個性的で、無表情である。彼らはただ単一の分かり易いストーリーを再演するためだけにそこに繰り返し召喚される。私はドリュモンの書いた膨大な反ユダヤ主義文献を読みながら何度も窒息感を覚えた。彼において、過去はほとんど現在であった。古代ローマ人も中世の騎士たちも、19世紀末のフランスの紳士たちと同じような論理と感受性によって行動している。その絶望的な「広がりのなさ」に私は辟易したのである。その経験が私に教えてくれるのは、反知性主義を決定づけるのは、その「広がりのなさ」「風通しの悪さ」「無時間性」だということである。
反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。
だから、彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使することを厭わない。これは自分の仕事を他者との「協働」の一部であると考える人は決してすることのないふるまいである。
私はこれを「エンドユーザー・シップ」というふうに呼んでいる。自分の知的努力を享受するのは自分ひとりである。自分の努力がもたらした成果は自分が使い切る。誰にも分与しない、贈与もしない。そう考える人のことを私は「エンドユーザー」と呼ぶ。
これは大学で卒論指導をしているときに学生たちに毎年伝えたことである。私はこんなふうにオリエンテーションのときに話した。
諸君にはこれから卒業論文というものを書いてもらう。これは君たちがこれまで書いてきた「レポート」とは性質が違うものである。「レポート」の場合、君たちは自分がどれほど勉強したか、どれほど出席して講義をノートしたかを、教師ひとりに専一的にアピールすれば済む。「レポート」はふつう教師ひとりしか読まない。だから、たとえそこに嘘を書いても、読んでもいない本を読んだことにしても、ネットからコピーした文章を切り貼りしても、教師ひとりがそれを見落とせば、諸君は高い評点をもらえる可能性がある。そういう「レポート」は評点をもらったらその使命を終え、誰にも読まれることなく、そのまま退蔵され、やがて捨てられる。それがどれほど不出来でも、どれほど誤謬や推論上のミスがあっても、それで困るものはどこにもいない。
卒論はそれとは違う。卒論は君たちのほとんどにとって生涯にただ一度だけ書く「学術論文」である。それは潜在的には「万人」が読者であるということを意味している。教師ひとりが読むわけではない。だから、仮にデータの数値が間違っていたり、引用文献の書名が間違っていたり、事実誤認があったり、論理的に筋道が通らないことが書かれていた場合、仮に教師が読み落としても、他の誰かから指摘される可能性がある。実際に、うちのゼミ生の卒論をネットで公開したとき、自著からの「盗用」に気づいて指摘してきた人がいた。その学生はまさか盗用した本人が自分の論文を見ることになるとは思っていなかったのだろう。
だから、論文の読者が「万人」であるということは書き手にそれなりの緊張感を求める。けれども、それは必ずしもストレスフルな緊張感には限られない。諸君には「君たちと同じテーマで卒論を書くことになった、何年か先の内田ゼミの後輩」を想定読者に論文を書いて欲しい。それならどう書いていいかわかるはずだ。
「重箱の隅を突くような」査定的なまなざしを意識して文章を書くことがいつもよいこととは限らない。たいていの場合、査読者に「自分の論文がどれほどの評点を得るのか」怯えながら書くよりも、自分の後輩を想定読者にして、彼女たちが「自分の論文からどれほどの利益と愉悦を得るか」を想像しながら書く方がずっと生産的だ。
そう考えれば、どう書けばよいかはわかるだろう。君たち自身がこのテーマで卒論を書こうと決めたとき、「こういう先行研究があったらいいな」ということを漠然と思い描いたはずだ。だったら、それをそのまま後輩のために書くようにすればいい。論理的な記述を心がけるのも、引用に正確を期すのも、データや史料の恣意的解釈を自制するのも、それは君たちの書いた「先行研究」を後輩たちがその上に立つことのできる「肩」にするためだ。君たちが読みやすくて、論理的で、データが豊富で、信頼性の高い研究論文を書き残せば、それは「パブリック・ドメイン」として多くの後続研究者に繰り返し利用されることになる。学術研究では「被言及回数・被引用回数」がその論文のもつ影響力の尺度として用いられるけれど、それは言い換えれば、その研究の「社会性・公共性」が高いということだ。
君たちがこれから書く論文の価値を判定するのはゼミの指導教師である私ではない。これから君たちの論文を読むことになる「まだ存在してない読者たち」である。その人たちのために書かなければならない。「レポート」の場合、どれほどひどいものを書いても、どれほど引用のしかたがずさんでも、データの転記ミスがあっていても、それを読んで実害をこうむる読者は(絶望的な気分になる教師の他には)誰もいない。でも、「論文」の場合はそうではない。もし、君たちが引用出典の頁数を間違えたり、書名を誤って表記していたら、後輩たちは典拠を探しあぐねて図書館で何時間もうろうろしなければならないかも知れない。論理的に記述されていなければ、いったい何を言いたいのか知るために繰り返し同じ頁をめくらなければならないかも知れない。論文の質がよいか悪いか、それから影響を受けるのは、まだ見ぬ読者たちである。君たちが質のよい論文を書けば、それによって受益するのは、まだ見ぬ読者たちである。君たちはその人たちに向けて「よいパスを出す」ことを期待されている。論文において君たちはエンドユーザーではなく、パッサーなのである。
おおよそそのような話を私は卒論ゼミの最初の時間に学生たちに話してきた。易しい言葉づかいではあるけれど、私なりに「知性的」であるとはどういうことか、「科学的」であるとはどういうことかを学生に説き聞かせてきたつもりである。それは最終的には「まだ見ぬ読者たち」との協働の営みをどれほど生き生きと想像できるかにかかっている。
反知性的なふるまいは「狭さ」を特徴する。それは上に書いたとおりである。彼らは「いま、ここで、目の前にいる人たちを威圧すること(黙らせること、従わせること)」を当面の目標にしている。それ以外には目的がない。その場での相対的優位の確保、それが彼らの求めるもののすべてである。ほんとうにそうなのだ。彼らには「当面」しかない。彼らは時間が不可逆的なしかたで流れ、「いま、ここ」で真実とされていることが虚偽に転じたり、彼らが断定した言明の誤りが暴露されることを望まない。それくらいなら、時間が止まった方がましだと思うのである。この「反時間」という構えのうちに反知性主義の本質は凝集する。
20世紀における反知性主義者のワーストテンに必ず算入されるはずの人間にジョセフ・マッカーシー上院議員がいる。彼が常習的な嘘つきであり、金に汚く、卑劣漢であったことについては無数の証言があるが、それは彼が1950年から1954年までトルーマン、アイゼンハウアーという二代の大統領の権限を「半身不随」に追い込むほどの権力を持った理由を説明してくれない。全盛期のマッカーシーはその一挙手一投足を世界のメディアが注視するアメリカでただ一人の上院議員だった。同盟国イギリスの『タイムズ』は彼のまわりに立ちこめる空気を「西側の政策決定にあたって不可欠の要素」と語り、ウィンストン・チャーチルはエリザベス二世の戴冠式の祝辞の中でマッカーシー批判の一節を挿入することを自制できなかった。短期ではあったけれど彼が国内外にふるったこの恐るべき影響力は彼の徹底的に反知性主義的な構えにあったと私は考えている。
反知性主義はしばしば法外な政治力を持つことがある。ただし、それは「未来を持たない」という大きな代償と引き替えにしか手に入らない。反知性主義者の最大の特徴は「少し時間と手間をかければ根拠がないことが露見する話」を自信たっぷりに語ることにあるからである。
これほど自信ありげに断言するからには彼はきっと「真実」を語っているに違いないと人々は推論する。この推論そのものは経験的には正しい。けれども、少し時間が経つうちに、彼の話につじつまの合わないところが出て来て、疑問に思って話の裏を取ろうとする人も出てくる。すると、彼は「そんな話をしているんじゃない」と一喝して、また違う話を自信たっぷりに断言する。すると、これほど自信ありげに断言するからには、彼はきっとこの話題については真実を語っているに違いないと人々は推論し、問題になっている過去の断言についての吟味を停止する・・・ということが何度か繰り返される。それが何度か繰り返されているうちに、人々はどうも彼はその場しのぎで嘘を言うことで政治生命を延命させていただけではないのかということにようやく思い至る。でも、信じられないのだ。「どうしてそんなことをするのか」意味がわからないからだ。それが暴露されたときに(時間が経てば必ず暴露される)失うものがあまりに多いからだ。それがわかっていて、なぜ彼はあれほど嘘をつき続けたのか。マッカーシーも、上院議員として選挙民区でこまめに「どぶ板」活動をしているくらいのことで満足していれば、酒浸りで48歳で窮死することもなっただろう。
ジョセフ・マッカーシーは政敵への遠慮ない人格攻撃と悪質な経歴詐称によって順調に政治的キャリアを積み重ね、40代で上院議員に選出された。
「1950年の初め頃、マッカーシーはウィスコンシン州以外の世間の人にとってはとるにたらぬ人間であった。ウィスコンシン州ではかれは下品で大げさな身振りの、公共の利益にいいかげんな態度で臨む安っぽい政治家として知られていた。アメリカ人百人のうち一人がその存在を知っていたかどうかも怪しい」という当時のジャーナリストの筆致は決して意地が悪すぎるというわけではない。(R・H・ロービア、『マッカーシズム』、宮地健次郎訳、岩波文庫、1984年、13頁)
ある日転機が訪れる。1950年ウェストヴァージニア州のウィーリングの共和党婦人クラブという小さな集会でマッカーシーはその歴史的な演説をした。演説中で彼は、国務省は共産主義者の巣窟であり、自分も国務長官もその名前を記載したリストを持っているという爆弾発言を行った。
「後日、マッカーシーは共産主義者が205人と言ったか、81人、57人、それとも『多数の』と言ったかということで若干の論争があったが(かれが何か言うと必ず論争があった)、『国務長官にも知られている』共産主義者が『今も勤務し、政策を立てている』、これは事実だとかれが主張したのにくらべれば、数はどうでもよかった。」(同書、13頁)
ただちに上院に調査委員会が組織されたが、マッカーシーはたいしたことを知っているわけではないということしかわからなかった。問題は、委員会がマッカーシーに「政府部内に共産主義者がいること」を証明せよと要望する代わりに、政府当局者は「政府部内に共産主義者がいないことを証明すべきだ」というマッカーシーの言い分にうっかり同意してしまったことだ。悪魔の証明である。ある政府部局に共産主義者が「ひとりでもいる」ことは簡単に証明できるが、「ひとりもいない」ことはほとんど証明不可能である。マッカーシーズムの期間、政府の各部局の長たちはマッカーシーの弾劾から組織を防衛するために「自分は腐敗しておらず、共産主義に反対で、反逆者を雇用してもいない」ことを証明することを他のすべての業務に優先せざるを得なかった。この無意味な作業のためにアメリカが五年間でどれほどの国益を失ったのか計算するのかを計測したものはいないが、おそらく天文学的な数値に上るだろう。彼が在任中に摘発できた「反逆者」は何人かの元共産党員だけに過ぎなかったが、彼が破壊したものは桁外れだった。
マッカーシーは実際には共産主義者が政府部内に侵入しているのかどうか知らなかったし、興味もなかった。彼に必要だったのは何よりも「注目を浴びること」だった。
彼がウィーリングで歴史的な演説をしたのは1950年2月9日だが、その一月前の1月7日にマッカーシーはワシントンで三人の選挙コンサルタントたち(ひとりの神父、ひとりの大学教授、ひとりの弁護士)とディナーを取りながら次の選挙の「目玉」になりそうな政策を物色していた。コンサルタントの一人はマッカーシーに「セント・ロレンス水路」の推進はどうかと提案した。マッカーシーはそれにはとりあわず、65歳以上のものに月額100ドルの年金をばらまくのはどうかと逆提案した。コンサルタントたちは賛成しなかった。別のコンサルタントが共産主義者の勢力拡大と破壊活動を主題にするのはどうかというアイディアを出した。マッカーシーはこれに飛びついた。彼らはしばらく討議したが、その話を持ち出した神父自身がマッカーシーの興奮ぶりを警戒して、こういう問題にあまり無責任なしかたで取り組まないようにと釘を刺した。マッカーシーは慎重に取り組むと約束したが、もちろん約束は守られなかった。
この逸話は私に「反ユダヤ主義の父」ドリュモンがユダヤ人のフランス支配の陰謀の物語を着想したときのことを思い出させる。ドリュモンはその大著の刊行まで、新聞記者としてある新聞社で働いていた(その経営者はユダヤ人であり、彼はその社で厚遇されていた)。そしてある日、ドリュモンは、フランスの政治家も官僚も財界人もメディアもすべてはユダヤ人に支配されているという「隠された真実」を発見した。その証拠に、フランスのメディアは「政官財をユダヤ人が事実上支配している」という真実を報道していない。この完璧な報道管制こそユダヤ人の支配がフランス社会の隅々まで徹底していることの動かぬ証拠である。彼自身ユダヤ人が経営している新聞社で働きながら、そのことに気づかずにいたくらいだ・・・。不思議な論法であるが(ドリュモンという人は論理的な思考がほんとうに苦手な人だった)、読者たちはそれを読んで「なるほど」と同意した。
マッカーシーもまたある日、共産主義者たちがひそかに政府を支配し、政策を起案しているという「真実」を発見した。まさに共産主義者が政策決定に深く関与していることが、共産主義者が政策決定に深く関与しているという事実が少しも明らかにされない当の理由なのだという論法もドリュモンとよく似ている。「そうでないことを証明してみせよ」という恫喝によってマッカーシーは4年間にわたって大統領と議会ににらみを効かせ、FBIを頥使し、アメリカ社会を狂騒と混乱のうちに陥れた。
なぜ、このような人物がこれほどの政治力を発揮しえたのか。理由の一つは彼が「政府には共産主義者が巣喰っている」という自分が喧伝している当の物語を一瞬たりとも信じたことがなかったからだと『マッカーシーズム』の著者は書いている。私もこれに同意の一票を投じる。
「本当にそう信じ、本当に気にかけていたのなら、唯面倒くさいからとか、期待したような大見出しにならなかったからという理由で、調査を放棄するようなことはしなかっただろう。かれは政治的投機者、共産主義を掘り当て、それが噴油井を上って来るのを見た試掘者だったのである。そしてその噴油井が気に入った。しかし、別のどういう噴油井でも同じように気に入ったであろう。」(同書、97頁)
例えば、マッカーシーはCIAこそ「最悪の状態」だと述べ、そこには百人以上の共産主義者がおり、それをこの手で根絶してみせると宣言した。だが、政府部内にマッカーシーの調査員たちがCIAを土足で歩き回ることを望むものはいなかった。彼らは自分たちの身内の調査委員会の結論(「何もありませんでした」)をマッカーシーに伝えた。マッカーシーはこれ以上ことを荒立てると誰かの虎の尾を踏むリスクがあることを感じ取ったのか、「この問題はこれ以上踏み込まない」と言って調査を切り上げた。マッカーシーの告発が正しければ、CIAはそれ以後も「最悪の状態」のままだったはずであるが、そのことはマッカーシーをあまり悩ませなかった。結局のところマッカーシーのキャンペーンは最終的に何一つ成就しなかったし、調査をすると発表しながら、調査に着手しないことさえあった。
マッカーシーのカラフルな事例が教えてくれる最も豊かな教訓の一つは、自分の言っていることを信じていない人間は、自分の言っていることを信じている人間よりも、論争的な局面ではしばしば有利な立場に立つという事実である。ふつうの人は、自分の言いたいことにまだ充分な裏付けがない場合は断定的に語るのを自制する。だから、どうしても歯切れの悪い言い方になる。そして、自分が「確信のないことを語るときの気後れ」を他人も経験するはずだと推論する。残念ながら、マッカーシーはそのような気後れとまったく無縁の人物であった。ロービアのほとんど詩的な罵倒を採録すると「マッカーシーは確かに嘘つきのチャンピオンだった。かれは思うままに嘘をついた。怖れることなく嘘をついた。白々しい嘘をつき、真実に面と向かって嘘をついた。生き生きと、大胆な想像力を用いて嘘をついた。しばしば、真実を述べるふりすらしないで嘘をついた。」(同書、71頁)
反知性主義者には気後れというものがない。その点で、彼は論争における勝負の綾を熟知していると言ってよい。「ふつうなら気後れして言えないこと」を断定的に語る者はその場の論争に高い確率で勝利する。
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2024/08/16 (Fri) 08:00:27
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反知性主義者には気後れというものがない。その点で、彼は論争における勝負の綾を熟知していると言ってよい。「ふつうなら気後れして言えないこと」を断定的に語る者はその場の論争に高い確率で勝利する。
しかし、このような「短期決戦」スタイルの言論は当然ながら「手間暇をかけて裏を取る」人によってていねいに吟味されるといずれ土台から崩壊する。時間が経てば必ず崩壊する。だから、反知性主義のほんとうの敵は目の前にいる論敵ではない(彼らは目の前にいる人間のことなど、ほとんど気にしない)。彼らのほんとうの敵は時間なのである。
時間はどのような手立てを講じようと経過する。そして、その過程で「嘘」は必ず露呈する。反知性主義者はだからある意味で「時間と戦っている」のである。それゆえ、彼らの戦術的狡知は「時間を経過させない」ことに集中することになる。
時間を経過させないことは人間にはもちろんできない。人間にできるのは「時間が経過していないように思わせる」ことだけである。これについては経験的にかなり確かなやり方がある。それは反復である。「同じ言葉を繰り返すこと」「同じふるまいを繰り返すこと」によって時間は止まる(ように見える)。すべての反知性主義者はこの点については実に洞察力にすぐれた人類学者だと言わなければならない。彼らは太古の祭祀儀礼以来、同じリズム、同じメロディで反復される同じダンスを見せられているうちに人間は時間の感覚を失ってしまうということを熟知している。強化された反復によって、人間の時間意識は麻痺する。自然的時間は経過するのだが人間的時間は経過しない。歴史上のすべてのデマゴーグはこのことを直感的に知っていた。彼らはしばしば「雄弁」だと言われるが、その「雄弁」性は次々と新しい語彙を作り出すとか、次々と新しい概念を提出するとか、次々と新しいロジックを繰り出すというかたちでは示されない。彼らの「雄弁」性の本質を形成するのは、同一のストックフレーズの終わりなき繰り返しを「厭わない」という忍耐力なのである。
ふつうの人間は同一性の反復に長くは耐えられない。同一の口調、同一のリズム、同一のピッチ、同一の身振りを繰り返すということはどこか本質的に反生命的・反時間的なふるまいだからである。同一的なものの反復は反生命的であり、反時間的である。だが、デマゴーグは反復を厭わない。むしろ反復に固執する。同じ表情、同じ言葉づかいで、同じストックフレーズを繰り返し、同じロジックを繰り返す。政治的失敗を犯した場合でさえ、その失敗をあえて二度三度と繰り返す。彼らは失敗から学習するということをしない。学習によって「変わる」とせっかく止めていた時間が動き始めてしまうからだ。彼らは同じ表情で、同じ言葉を繰り返す。それを見ているうちに、私たちはそれがいつの出来事だったのか、しだいにわからなくなってくる。一年前の出来事なのか、三年前の出来事なのか、それとも一年後の出来事なのかが識別ができなくなる。この過剰なまでの同一性への固執は彼らの知的無能を示しているのではない。むしろ、彼らの戦術的狡知の卓越性を示している。彼らは自分たちが息を吐くようについている嘘が時間の経過に耐え得ないものであることを知っている。だから、時間を止めようとするのである。
現代に話を戻す。これまでもいろいろなところで書いてきたことの繰り返しになるが、わが国はいま「国民国家のすべての制度の株式会社化」のプロセスを進んでいる。平たく言えば、金儲けに最適化したシステムだけが生き残り、そうでないシステムは廃絶されるというルールに国民の過半が同意したのである。営利企業の活動はもちろんのこと、農林水産業のような自然の繁殖力を永続的に維持管理するための活動も、医療のような国民の健康を保持するための活動も、教育のような次世代の担い手の市民的成熟を支援するための仕組みも、すべてが経済効率だけを判定基準にして淘汰されるべきだという判断に国民の過半が同意を与えた。この趨勢を「国民国家の株式会社化」と私は呼ぶ。
株式会社のCEOは独断専行で経営政策を決定する。従業員や株主の合意を得てからはじめて経営判断を下すような経営者はいない。そのような手間暇をかけていては生き馬の目を抜くグローバル資本主義を生き残れない。ワンマン経営が推奨されるのは、経営判断の適否はただちにマーケットによって検証されることをみんな知っているからである。「マーケットは間違えない」。これはすべてのビジネスマンの信仰箇条であり、これに異を唱えるビジネスマンはいない。CEO の経営判断の適否は、タイムラグなしに、ただちに、売り上げや株価というかたちで可視化される。どれほど非民主的で独裁的なCEOであっても、経営判断が成功している限り、そのポストは安泰である。
現代の政治家たちは「株式会社のCEOのような統治者」をロールモデルにしている。そして、そのことを国民もまた当然のことのように思っている。けれども、人々は国家は株式会社のように経営することはできないという平明な事実を忘れている。政治にはビジネスにおける「マーケット」に対応するものが存在しない。
国政におけるいまここでの政策の適否は今から50年後、100年後も日本という国が存続しており、国土が保全され、国民が安らぎのうちに暮らしているかどうかによって事後的にしか検証されない。株式会社であれば、新製品がどれくらい市場に好感されたか、展開した店舗がどれくらい集客したか、ターゲットの設定がどれくらい適切であったかは、当期の売り上げや株価によってダイレクトに評点が下される。けれども、残念ながら四半期で適否が決まるような政策は国政については存在しない。いま政府が行おうとしている重要政策の適否が判明するのは、その政策が重要であればあるほど遠い未来になる。場合によっては、私たちの死後かも知れない。「政治にマーケットはない」というのはそういう意味である。採択された政策が「失敗」したとわかったときに、国民は「CEOを馘首する」というソリューションが採れない(たいていの場合、失政の張本人はとうに引退するか、死んでいる)。そのとき失政の後始末をするのは国民国家の成員たちしかいない。誰にも責任を押しつけることができない。祖先が犯した政策判断の失敗の「尻ぬぐい」はその決定に参与しなかった自分たちがするしかない。そのような「負債」の引き受けを合理化する唯一の根拠が民主制である。
誤解している人が多いが、民主制は何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である。
このためには、死者もまだ生まれてこない者もフルメンバーとして含む、何百年もの寿命を持つ「国民」という想像の共同体を仮定せざるを得ない。その国民なるものが統治の主体であるという「物語」に国民が総体として信用を供与するという手続きを践まざるを得ない。
これは株式会社とは最も縁遠い共同体理解である。株式会社は短命である。今年起業された株式会社のうち50年後にまだ存続しているものはおそらく1%以下であろう。だが、別に短命であることは株式会社にとって困ったことでも恥ずかしいことでもない。起業して一年目に会社ごと身売りしてキャピタルゲインで天文学的な個人資産を手に入れた経営者は、老舗の看板を細々と100年守っている小商いの経営者より高く評価される。株式会社は「当面の勝利」以上のものを望まない。どれほどの規模の経営破綻を来しても、株券が紙くずになるのが株式会社の取りうる責任のすべてである。倒産してそれで「終わり」である。倒産した企業の社会的責任を何十年何百年も追及し続けるというようなことは誰もしない。
しかし、国家はそうはゆかない。国政の舵取りに失敗すれば、その責任はその政策決定にまったく関与しなかった世代にまで及ぶ。日本のかつての被侵略国に対する戦争責任は戦後70年を経ても追及が終わらない。「もういい加減にしろ」といくら大声でどなっても、「じゃあ、もう追及するのは止めます」と隣国の人々が言ってくれるということは絶対に起こらない。「日本人は戦争責任への反省がない。決して許すまい」という相手のネガティブな心証形成が強化されるだけである。米軍はこのままおそらく未来永劫に日本の国土に駐留し続け、広大な土地を占有し続けるだろう。北方四島もロシアが占領し続けるだろう。国家の失政の責任は無限責任だからである。「70年も経ったのだから、もういいでしょう」と言っても、相手国が「そうですね」と引き下がることはない。彼らはみな「日本に貸しがある」と思っており、その貸しは「まだ完済されていない」と思っている。彼らがいつ「完済された」と思うようになるのか。それを決めるのは先方であって、われわれではない。無限責任とは「そういうこと」である。
しかし、今の為政者たちは、政策の適否は長い時間的スパンの中で検証されるものであって、自分たちが今犯した失政の「負債」は自分たちが死んだ後、まだ生まれていない何代もの世代に引き継がれることになるというふうには考えていない。彼らは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない。彼らが興味を持つのは「当面の政局」だけである。政治家であれば「次の選挙」である。「次の選挙」がビジネスマンにとっての「マーケット」を代用する。「マーケットは間違えない」のであれば、次の選挙で当選すれば、彼らが採択した政策の適否についての歴史的判断はすでに下ったということになる。歴史的判断は選挙によって国民がすでに下したのであるから、彼らが表舞台から退場したあと、彼らが死んだあとになって、彼らの下した政策判断がどういう結果をもたらしたか、そんなことには何の意味もない。政治家が「文句があれば次の選挙で落とせばいい」とか「みそぎは済んだ」というような言い回しを好むのは、直近の選挙結果が政策の適否を判定する最終審級であり、歴史的な審判などというものは考慮するに及ばないと彼らが本気で信じているからである。
私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。
反知性主義者たちもまたシンプルな法則によって万象を説明し、世界を一望のうちに俯瞰したいと願う知的渇望に駆り立てられている。それがついに反知性主義に堕すのは、彼らがいまの自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」に導くために何をすべきかを問わないからである。「ここではない場所」「いまではない時間」という言葉を知らないからである。
最後にレヴィナスの『全体性と無限』の冒頭の言葉を記して筆を擱くことにする。「形而上学」というレヴィナスの言葉を「知性」に置き換えて読んで頂ければ、私の言いたいことがこのわずか二行に尽くされていることがおわかりになるだろう。
「形而上学は『ここではない場所』、『別の仕方で』、『他なるもの』に向かう。思想史の中で形而上学はさまざまな形態をまとってきたが、最も一般的なかたちとしては、形而上学は私たちにとって親しみ深いこの世界(・・・)から、私たちの棲み着いている『私の家』から、見知らぬ自己の外、ある彼方へと向かう運動として現われるのである。」(Emmanuel Lévinas, Totalité et Infini, Martinus Nijhof, 1971, p.21)
(2020-09-03 12:32)
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