メルバは、ロンドンでも、コヴェント・ガーデンにおいて重きをなしていたグレイ伯爵夫人(当時の Lady de Grey、後に Marchioness of Ripon となるConstance Gwladys)という、以前より強力な支援者を得た。メルバはロンドンに戻るよう説得され、ハリスは1889年6月の『ロメオとジュリエット』で、メルバをジャン・ド・レスケ(Jean de Reszke)と共演させた。後にメルバは、「私がロンドンで成功した日は、ほかでもないあの1889年6月15日でした」と回想している[3]。このロンドンでの成功の後、メルバはパリに戻り、『ハムレット』のオフェリ、『ランメルモールのルチア』のルチア、『リゴレット』のジルダ、『ファウスト』のマルグリート、『ロメオとジュリエット』のジュリエットを演じた[1]。フランス語で書かれたオペラ作品では、メルバはうまく発音ができなかったが、作曲家レオ・ドリーブは、(自作『ラクメ』を)彼女が歌うならフランス語だろうとイタリア語だろうと、ドイツ語、英語、中国語など何であっても構いはしない、と言ったと伝えられている[n 4]。
オルレアン公フィリップ
1890年代はじめ、メルバはオルレアン公フィリップと関係を持つようになった。2人はロンドンで一緒にいるところをしばしば目撃され、ゴシップの種になったが、その後メルバがヨーロッパを横断してロシアのサンクトペテルブルクで皇帝ニコライ2世の御前演奏に向かった際には、オルレアン公が彼女の後を追い、途中のパリ、ブリュッセル、ウィーンとサンクトペテルブルクで、一緒にいる2人が目撃されて疑いはいよいよ高まった。メルバの夫アームストロングは、メルバが姦通を犯し、相手はオルレアン公である、として離婚訴訟を起こしたが、最終的には説得されて訴えを取り下げた。オルレアン公はほとぼりを冷ますため、2年ほどアフリカ旅行に(メルバを伴うことなく)赴くことを決めた。公とメルバの関係は、そのまま立ち消えとなった[3][12]。1890年代前半、メルバは、ミラノのスカラ座、ベルリンのクロル歌劇場(Kroll Opera House)、ウィーン国立歌劇場など、ヨーロッパの主だった歌劇場(オペラ・ハウス)に出演した[1]。
『ファウスト』のマルグリートに扮したメルバ
1890年代から、メルバはコヴェント・ガーデンで幅広く様々な役を演じるようになったが、その大部分はリリック・ソプラノの役だったが、より重い役も含まれていた。メルバは、エルマン・ベンベルグ(Herman Bemberg)の『Elaine』や[16]、アーサー・ゴーリング・トーマスの『Esmeralda』で主役を演じた[17]。イタリア語のオペラの役としては、『リゴレット』のジルダ[18]、『アイーダ』の主役アイーダ[19]、『オテロ』のデズデーモナ[20]、マスカーニの『ランツァウ家の人々 (I Rantzau)』のルイーザ[21]、『道化師』のネッダ[22]、『セビリアの理髪師』のロジーナ[23]、『椿姫』のヴィオレッタ[24]、『ラ・ボエーム』のミミ[25]などを演じた。フランス語のオペラの役としては、『ロメオとジュリエット』のジュリエット[26]、『ファウスト』のマルグリート[27]、『ユグノー教徒』のマルグリット・ド・ヴァロワ[28]、メルバのために書かれた役とされるサン=サーンスの『エレーヌ ( Hélène)』の主人公エレーヌ[1]、『カルメン』のミカエラ[29]があった。
メルバが、脇役に過ぎないミカエラ役を演じたことについては、驚きを表明した文筆家もいた。主役のカルメンは、声の質がコントラルトやメヅォソプラノまたはドラマチックソプラノの歌手に向けられて造られていたため、あえて声の質が合うミカエラの役を演じる事となった筈である。メルバはこの役を何度も演じ、回顧録でも「いったい何で、プリマ・ドンナは脇役を歌っちゃいけないのか、その頃も分からなかったし、今でもさっぱり分からない。こんな芸術がらみの気取りなんて大嫌い」と述べている[9]。メルバはミカエラ役を、主役カルメンをエマ・カルヴェ(Emma Calvé)や[2]、ゼリー・デ=ルサン(Zélie de Lussan)[29]、マリア・ガイ(Maria Gay)[30]がそれぞれ演じる舞台で務めた。『ユグノー教徒』のマルグリット・ド・ヴァロワも主役ではないが、メルバは主役ヴァランティーヌを演じたエマ・アルバーニに次ぐ「セコンダ・ドンナ」を進んで務めた[2]。メルバは、自分のお気に入りの役で競合しない歌手たちには気前良く支援をしていたが、メルバの伝記を著した J・B・スティーン(J. B. Steane)の言葉を借りれば、ほかのリリック・ソプラノ歌手たちには「病的なまでに批判的 (pathologically critical)」であったという[1]。
戦後、メルバはロイヤル・オペラ・ハウスに凱旋し、4年間閉鎖されていた劇場の再開を告げる、ビーチャム指揮による『ラ・ボエーム』に出演した。『タイムズ』紙は、「コヴェント・ガーデンのシーズンが、これほどまでの情熱的な興奮に満ちて始まったことは、これまでなかったことだろう」と報じた[43]。しかし、メルバ自身のコンサートは、レパートリーが限られた、ありふれたものと受け止められるようになっていた。そうしたコンサートのひとつを取り上げた『ミュージカル・タイムス (The Musical Times)』紙は、次のように記した。
この日の午後の曲目の中でも特に音楽的興味を引いたのは、(シャルル・グノーのオペラ)『ファウスト』の「宝石の歌」、プッチーニの「Addio」[n 9]、リューランス (Lieurance) の「ミネトンカの湖畔」、トスティの「Good-bye」、そして、予告されていた通りのアンコール、「埴生の宿」、「アニーローリー」だった。見出しの最後のところを見直してみよう。「The Diva to go home.(ディーヴァはもうすぐ帰国する)」。結講。よいではないか。ディーヴァ自身が旋律に載せて(何度も何度も)歌い上げているように、故郷に勝るものはない。「そして、百人の少女たちに自ら教える」もし、デイムがその百人の少女たちに自分の美声を授けることができたなら、これは結構なことだろう、しかし、ぜひとも音楽家を雇って彼女たちのレパートリーを広げてやってほしい。われわれは、1年後に、「ミネトンカ」や「宝石の歌」や「埴生の宿」ばかりを百人の新人歌手たちからいやというほど聴かされるのには耐えられないだろう[44]。
1922年、メルバはオーストラリアに帰国し、大成功を収めた「民衆のためのコンサート (Concerts for the People)」をメルボルンとシドニーで開催し、低額に抑えたチケット料金によって、併せて7万人の聴衆を集めた[3]。1924年には、再びウィリアムソンとともにシーズンに臨んだが、このときにはコーラス全員をナポリから招聘したことで、地元の歌手たちの顰蹙を買ってしまった[45]。1926年、メルバは引退公演としてコヴェント・ガーデンに出演し、『ロメオとジュリエット』、『オテロ』、『ラ・ボエーム』からの場面を歌った[1]。オーストラリアでは、引退を意味する「さよなら (farewell)」と銘打った公演を、きりがないと思われるほど延々と続けたことで語り草となったが、そうした公演には、1920年代半ばの様々な出演機会に加え、1928年8月7日のシドニーにおけるコンサート、1928年9月27日のメルボルンにおけるコンサート、1928年11月のジーロングにおけるコンサートが含まれている[3]。このためオーストラリアでは、「デイム・ネリー・メルバよりも数多くのさよなら (more farewells than Dame Nellie Melba)」という言い回しが生まれた[3]。
1929年、メルバは、最後となったヨーロッパへの旅からの帰路にエジプトを訪問したが、そこで熱病を患ってしまい、最期までこれから完治できなかった[3]。ロンドンでの最後の公演は、1930年6月10日の慈善コンサートであった[46]。メルバは、オーストラリアへ帰国できたが、1931年にシドニーの聖ヴィンセント病院 (St Vincent's Hospital) で69歳の生涯を閉じた。死因は、以前にヨーロッパで施術した顔面の外科手術がもとで悪化した敗血症であった[3]。葬儀は、かつてメルバの父が建立し、メルバが十代のころに聖歌隊に加わっていたメルボルンのスコッツ教会 (Scots' Church) で盛大に行われた[3][47]。葬儀の車列は1キロメートル以上に及び、オーストラリアのみならず、イギリス、ニュージーランド、ヨーロッパ各国でも、メルバの訃報が新聞の一面を飾った。各国の掲示板には、「メルバ死す (Melba is dead)」とだけ書かれた告知が張り出された。こうした諸々の行事の一部は、後々のために映画に記録された。メルバは、コールドストリームに近い、ビクトリア州リリーデール (Lilydale) の墓地に埋葬された。その墓石には、ミミの別れの言葉「Addio, senza rancor」[n 10]が刻まれた[48]。
1920年6月15日、メルバは、チェルムスフォードにあったグリエルモ・マルコーニのニューストリート工場 (New Street Works) から、先駆的なラジオ放送を行ない、アリア2曲と有名なトリルを披露した。メルバは、国際的に著名なアーティストとしては、ラジオの生放送に参加した最初のひとりとなった。全国のラジオ愛好家たちがメルバを聴き、一説には、遠く離れたニューヨークでも受信されて聴かれたという。ラジオを聴いていた人々には、トリルと2曲のアリアが辛うじて聞こえていた。その後のメルバのラジオ出演としては、上述のコヴェント・ガーデンにおける「さよならコンサート」や、1927年のイギリス帝国に向けた放送(Empire Broadcast:当時のイギリス帝国全域における放送として、シドニーのAWAと2FCが1927年9月5日に放送し、ロンドンのBBCは時差の関係で9月4日に中継した)があった[58]。
栄誉、記念物、伝統
メルボルン、ドックランズ (Docklands)にあるウィーターフロント・シティ (Waterfront City) のメルバの像
1918年、メルバは、第一次世界大戦中の慈善活動に対して大英帝国勲章デイム・コマンダー (DBE) を受け、メイ・ウィッティとともにこの勲位を受けた最初の舞台芸能人となったが、1927年にはデイム・グランド・クロス (GBE) に昇格した[3]。1927年4月、メルバは、オーストラリア人として初めて雑誌『タイム』の表紙を飾った[59]。1962年には、メルバを記念したステンドグラスの窓が、「音楽家たちの教会 (the musicians' church)」として知られるロンドンのセント・セパルカー・ウィズアウト・ニューゲイト教会 (St Sepulchre-without-Newgate) の 音楽家記念礼拝堂 (the Musicians' Memorial Chapel) に設置された[60]。メルバは、コヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスの大階段に大理石の胸像が飾られた2人の歌手のひとりである。ちなみに、もうひとりはアデリーナ・パッティである[要出典]。メルバが1906年に住んだキングストン・アポン・テムズ (Kingston upon Thames) クーム (Coombe) 地区ディーヴィ・クローズ (Devey Close) のクーンベ・ハウス (Coombe House) には、彼女を顕彰するブルー・プラークが設置されている[61]。
メルバは、メルボルン音楽院 (the Melbourne Conservatorium) と密接なつながりがあったが、音楽院は1956年にメルバを讃えてメルバ記念音楽院 (Melba Memorial Conservatorium of Music) と改称した。メルボルン大学の音楽堂はメルバ・ホール (Melba Hall) と称されている。キャンベラ郊外の地区メルバ (Melba) は、彼女にちなんで命名された地名である。現在のオーストラリアの100ドル紙幣には、メルバの肖像は描かれており[62]、また彼女の姿はオーストラリアの切手にも現れている [4]。シドニー・タウン・ホール (Sydney Town Hall) には、「メルバを思い出せ (Remember Melba)」と刻まれた大理石のレリーフがあるが、これは第二次世界大戦中に、メルバを記念し、また第一次世界大戦中の彼女の慈善活動や愛国的なコンサート活動を讃えて開かれたコンサートの際に、除幕されたものである[要出典]。
ニコルズが1932年に発表した小説『Evensong』は、メルバの日常生活のいくつかの側面を踏まえたもので、飾らない筆致で主人公を描いている[1]。この小説をもとにした1934年の映画『夕暮れの歌』では、メルバをもとにした主人公をイヴリン・レイ (Evelyn Laye) が演じたが、この映画はしばらくの間、オーストラリアでは上映禁止となった[64]。マーティン・ボイド (Martin Boyd) の1946年の小説『Lucinda Brayford』にも、メルバが出てくる。題名になっている主人公の両親 (Julie and Fred Vane) が開いたガーデン・パーティーにメルバが登場し、「Down in the Forest」、『ラ・ボエーム』のムゼッタの歌、最後に「埴生の宿」と数曲を歌う。メルバは「世界一愛らしい声」と描写されている[65]。