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へうげもの _ 本能寺の変の黒幕は千利休!織田信長と相容れない理由と侘びの思想

1:777 :

2024/07/13 (Sat) 12:54:12

【へうげもの】としお激推し歴史漫画が衝撃だった!読め!そして歴史観はこう作れ!【岡田斗司夫切り抜き】
としお話【岡田斗司夫切り抜き】2022/01/15
https://www.youtube.com/watch?v=WSIXyho97tU

00:00 としおオススメ歴史漫画『へうげもの』
00:13 千利休の描き方
03:25 織田信長の描き方
07:32 としおが凄いと思った真田幸村
10:49 歴史漫画の読み方・歴史観の作り方



【へうげもの】本能寺の変の黒幕は千利休!織田信長と相容れない理由と侘びの思想【岡田斗司夫切り抜き】
としお話【岡田斗司夫切り抜き】2022/01/18
https://www.youtube.com/watch?v=mCKMhCujlm0

00:00 へうげもので面白い「本能寺の変の黒幕は千利休」
00:18 千利休の侘茶の思想とは
01:36 黒の良さは理解してもらえない
02:51 舶来品を愛する信長は邪魔
03:38 派手さと舶来ものを好む織田信長
04:52 秀吉を使い信長を討つ
05:24 明智光秀の解釈が面白い
09:11 単行本の造本のこだわり



【へうげもの 】完全解説【フル字幕】【岡田斗司夫/切り抜き】
初代としお専門切り抜き【岡田斗司夫】2022/03/11
https://www.youtube.com/watch?v=5cH9npRIWsU

0:00 へうげもの
0:12 茶道の神様、千利休
3:28 織田信長、豊臣秀吉
8:05 真田幸村、真田丸
11:30 単行本の作りもすごい、わび数奇
12:46 ダジャレ
14:00 オタキング流、漫画の読み方
21:34 千利休が極めたわび茶、わびとは
23:05 豊臣秀吉と千利休の会話、黒こそ至高
25:11 五重の塔と金閣寺が合体してんじゃん
26:16 織田信長がポルトガル語を喋る
27:10 明智光秀のわび、味噌汁
28:49 明智光秀の死、辞世の句5・7・5
31:27 へうげものの悪ふざけが酷い
31:37 古田織部、サタデーナイトフィーバー
33:05 織田信長を弔うために古田織部が作った旗がすごい
35:09 豊臣秀吉が開いた大茶会
37:56 千利休の兄弟子、丿貫のお茶
38:40 古田織部が考えたお茶会が面白い



岡田斗司夫ゼミ#217(2018.2)マンガ講座『へうげもの』〜戦国時代のスピルバーグ古田織部。大茶会はコミケだった仮説
岡田斗司夫 2018/02/16
https://www.youtube.com/watch?v=6ijFoUAXmAQ&t=0s



【ゆっくり解説】酷すぎる…『千利休』が切腹をした本当の理由とはなんだったのか?
いとをかし日本の歴史【ゆっくり解説】2024/01/30
https://www.youtube.com/watch?v=MOylWE_3SxI


秀吉が千利休を殺した理由。。。【ゆっくり解説】
にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】2024/01/16
https://www.youtube.com/watch?v=XrcTB48RgrI



千利休処刑の真相に迫る
歴史じっくり紀行 2021/12/12
https://www.youtube.com/watch?v=zL8doU-wInc

今回の歴史じっくり紀行は、『千利休処刑の真相に迫る』について紹介していこうと思います。

~目次~
0:00 オープニング
1:10 私腹を肥やしていたことが逆鱗に触れた説
1:59 茶道に対しての価値観の違が生んだ軋轢からの処刑説
3:09 政治闘争に巻き込まれての処刑だった説
4:39 朝鮮出兵を否定・批判したことで逆鱗に触れた説
6:02 天皇陵から勝手に石を持ち出して秀吉の逆鱗に触れた説
6:57 婚姻の破談による怨恨によって処刑を命ぜられた説
7:41 大徳寺にて自らの像の下を秀吉に通らせたから説
8:30 交易を独占しようとしたことで軋轢が生じた説
9:39 家康と結託した暗殺が露呈した説
10:53 まとめ



【悲惨な末路】千利休の闇!果てしなき野望の末の切腹!秀吉との確執で切腹!歴史解説
【歴史入門】戦国雑記帳 2024/07/06
https://www.youtube.com/watch?v=Ar5RVis5wOc

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の側近にして当代一の茶人と呼ばれた千利休が、切腹して果てました。
表向きの理由としては、茶器を法外な値で売りさばいたこと、
大徳寺の山門に自分の木像を安置したといったものですが、
それだけで秀吉の怒りを買うとは思えません。
実のところ、秀吉は利休の存在に脅威を抱いており、
粛清するしかなかったという説が有力視されているのです。
果たして利休にどんな野望があったのか?その心の闇を暴いていきたいと思います。




2:777 :

2024/07/13 (Sat) 12:56:07

天才料理長を失った嵐山_吉兆と雲仙_半水盧のその後
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/276.html



釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1058.html
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1158.html

東洋ではどんな分野の達人でも超能力者
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/607.html

西洋の達人が悟れない理由
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/608.html

湯河原温泉の「指月」は何故山を下りたのか?
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/190.html

修善寺温泉「あさば」 _日本最高の旅館だけど、客によって扱いがガラッと変わるのは何故?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1109.html

LPの音をSPの音に変える魔法のスピーカ タンノイ オートグラフ _ 由布院で価値が有るのは蓄音器だけ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/494.html

あの伝説の山代温泉 白銀屋は今…
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/930.html

女性の憧れの宿 _ 軽井沢 星野温泉
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1098.html

こんな温泉に泊まってみたい _ 妙見温泉 石原荘
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/223.html

超絶人気の仙仁温泉 岩の湯 _ 温泉の泉質も宿からの景観も料理もすべて一流半なのに何故?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/229.html

京都の「おもてなしの文化」 とは _ わかる人にはわかる日本一ハイ・センスな京都 俵屋旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/231.html
3:777 :

2024/07/13 (Sat) 16:18:55

茶道の本当の目的


柔道、剣道、弓道、華道、茶道 何でも同じですが、日本人は仏教の悟りの過程を真似して中身の無い物を如何にも奥深い深遠な物に見せかけるのが得意なのですね。

本来、剣道、弓道は殺しのノウハウ、柔道は喧嘩のノウハウ、華道、茶道はもてなしのノウハウであって、それ以上の物ではないのです。道と付くものをやる人間はみんな知性も教養もゼロのアホばかりでしょう。アホだからこそ道だとか精神だとか言ってカッコ付けるしかないのですね。

それに悟りと言っても、大乗仏教や禅宗や密教では釈迦の悟りの意味を完全に誤解していたのですが:


禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。

しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。

悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。

悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、悟りの世界を味わうという手段も生まれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97

悟りへの道ー夢窓疎石の教えー

峯尾: 夢窓国師と言いますと、非常に優れた造園家で、沢山の庭園を造っており、目の前のこの天龍寺の庭もそうなんですが、禅宗にとって庭の意味するところというのは、どういうものなんでしょうか。

 
平田:  禅宗に必ず庭がなくてはいけないということはないのですが、一つの禅の芸術表現として庭があるということです。だから、禅の表現は庭園芸術だけではなく、能もそうであるし、茶道も明らかに禅から出ているわけです。そういう芸能の一つに庭園芸術はあると思います。ことに夢窓國師はそのような山水を愛し、愛でるということが好きだったようですね。


峯尾:  天龍寺以外で夢窓国師が造った庭ですが、まず、岐阜県多治見市の永保寺(えいほじ)。これは比較的若い時に造られたものですね。
 
平田:  虚渓山に入ったのは・・・
 
峯尾:  三十八歳ですね。
 
平田:  まだ若い。聖胎長養の真っ最中ですね。山中にあって池を造り、観音信仰をもっていたのでしょうか、観音閣というようなものを造るわけです。ずいぶん高いところにあるおぜん型の坐禅石もあります。その上で坐禅をしたのでしょう。
 
峯尾:  そして、天龍寺の比較的近くにある西芳寺(さいほうじ)、私どもは、「苔寺(こけでら)」と言っていますが。
 
平田:  夢窓國師は南陽慧忠(なんようえちゅう)(中国・唐の禅僧)という中国の國師に憧れ、彼をモデルにしているようなとこがあります。その南陽慧忠の有名な詩をとって、一つ一つ庭園に名をつけたわけです。「湘(しょう)の南(みんなみ)、潭(たん)の北(きた)」という詩句があって、「湘南亭」「潭北亭」という茶室がある。「中に黄金あって一国に充つ」というので、「黄金池」と言っているわけですね。
 
峯尾:  そして枯山水ですね。
 
平田:  向上関(こうじょうかん)。
 
峯尾:  滝を表している。

平田:  ええ。得ては捨て、悟っては捨て、ますます向上していくという意味で向上関というところがある。もともと西芳寺は浄土宗の寺で、改宗して禅の寺にしたのです。ここは先ほど言った聖胎長養の人だけを入れる場で『西芳遺訓』と称して、厳しい規則を作って、ここへ住んでいる人はその規則に従う、いわば厳しい悟後の修行の道場であったわけです。苔寺を造る時に、このような句を作っています。
 
     仁人自是愛山静   仁人(じんじん)は自(みず)から是(これ)山の静なるを愛す
     智者天然楽水清   智者は天然に水の清きを楽しむ
     莫怪愚惷翫山水   怪(あやし)むこと莫(な)れ愚惷(ぐとう)の山水を翫(もてあそ)ぶを
     只図藉此砺精明   只だ此(こ)れを藉(かり)て精明(せいめい)を砺(と)がんことを図(はか)るのみ
 
「砺(れい)」、これは研ぎ澄ますという意味なんですね。そこから「励精閣(れいせいかく)」というのを造っている。この偈頌がいわんとしていることは、「私が山や川のような山水を愛して庭を造るというようなことを、なぜそんなことをするのだという人がいるかもわからないが、それは言うことなかれ、怪しむことなかれ、そういうものを通して我が心を研ぎ澄ますためなのだ」ということです。怨憎(おんぞう)、愛欲、見たり、聞いたり、欲しがったり、貪ったりという心はどこから出てくるのか、そういう心の根源へと目覚めるためにやっているんだと。それが庭を造るひとつの方針になっているわけです。

 
上田:  心を磨く場として、夢窓国師は庭造りにいそしまれたと思うのですが、私が好きな言葉に、
 
     山水に得失なし
     得失は人の心にあり
       (『夢中問答』)
 
というのがあります。自然そのものの中に人間のありようを見出すということでしょう。

人間は常に損得を考えて行動する。自然と人間が一体化する、今の言葉で言えば共生ですね。ともに生きる。そういう思想が禅宗の庭園にあるのではないかと私は思います。禅宗の庭というのは観賞の庭より、まさに心を磨く庭だと思いますね。枯山水などもそうですし、曹源池(そうげんち)のように見事な池を廻遊する。廻遊式庭園というのですが、このような庭を造られる心ですね。

日本の文化というものは、室町時代の庭園に集約されているような気がします。庭園の文化は、勿論、中国、朝鮮の方から入ってきたものですが、最近飛鳥寺の南で飛鳥時代の大きな庭園の遺構が見つかり、もう飛鳥時代には日本独自の庭園の文化になっているんですね。京都には名園が多いですが、大体が室町時代のものです。いわゆる苔寺、すなわち西芳寺にしても、鹿苑寺金閣にしても室町時代でしょう。大徳寺の大仙院の庭もですね。これはまさに日本の文化を集約している。そういう日本の庭園文化の基礎を夢窓国師が作られたと言えると思います。

 
峯尾:  上田さんは庭を造らせた夢窓国師だけでなく、実際の庭師の方たちのこともおっしゃっていますね。
 
上田:  ええ。夢窓国師は勿論設計されたでしょうが、忘れ易いのは、「山水(さんずい)の河原者(かわらもの)」と呼ばれた人びとのことです。彼らは身分も低くて、差別された人びとですが、そういう人たちが庭造りに加わっているんですね。時代は下りますが、銀閣寺のあの名園も、そのオーナーには足利義政がいるのですが、実際には善阿弥(ぜんあみ)という庭師が造るわけです。ですから、夢窓国師の庭の背後に、そういう「山水河原者(さんずいかわらもの)」と呼ばれた人びとが加わっているということも忘れてはならないと思います。
 
 
上田:  高僧なりのあり方についてですね。深山幽谷にこもって悟る、もちろんそれは大事なことですが、その教えを世俗に広める、民衆を救わずして何の宗教だという考えが私にはあります。そういう意味では夢窓国師の行われたことは、今の世にも学ぶべきものが多いと思います。特に、乱世でしょう。乱世の中で、敵味方を乗り越えて、教えののあるべき姿を説かれたというところに魅力を感じますね。
 

 
平田: 最近の宗教学者は、「純粋禅」なんていう言葉を使うが、そんな言葉を誰が作ったのかは知らないが、純粋に拘ったら、そんなものは禅じゃない。やはりいろいろなものを包み込んで、それを自家薬籠中のものにしながら、禅をあたためていくところが本当の一流の禅。

人を見たら一喝をはいたり、一棒を叩いたりして、禅ぶるというのは本当ではないんです。この点は頂相(ちんそう)をご覧になっても、夢窓国師は私なんかと違って、痩せ型で、口元を見ても慈悲に満ちた口元をしておられる。あの人こそ純粋な日本人で、純粋に一流人であると私は思う。和歌も巧みでしたしね。だから、「宋直入の禅ではない」とも批判される。非常に日本化した禅というものを広めた方だと思っております。
http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-262.htm

茶道は修行であり、稽古にひたすら励むことで悟りを得ることが出来ると師匠からも教えてもらって、確かに色んなことが分かるようになってきた。点前の所作を通して生まれる『何故?』を考えたり、師匠に言われたことを咀嚼しきれずに抱えたままの状態で月日を重ね、ある時急にその言葉の意味が分かるようになったり。

けど、悟ったり、理解が深まったりというのは、あくまで自分目線で世の中の仕組みを『世の中こうなってるんだよ』と思慮深い顔で語っても だから、この世界の真ん中でどうやって生きていけば良いのかという答えは導き出せない。
それを茶道を通して人に伝えて行こうというのだから尚更難しい。
http://torianchado.sblo.jp/article/53284658.html

茶道・禅・スノビズム

 茶の湯は禅宗より出たるに依りて・僧の行を專にする也。珠光・紹鴎、皆禅宗也。(『山上宗二記』)

 茶の湯と禅の結び付きは、利休の高弟、山上宗二の言葉を引用するまでもなく、よく知られていることである。抹茶の風味・茶人の立ち振る舞い、侘びた茶室の佇まい等々、禅宗のストイックな雰囲気は茶の道のいたる所に看取できる。禅的であると同時にそれは、日本的という言葉もふさわしいと言えるだろう。

 しかし、現象的な面だけではなく、思想的な面でも茶と禅を強く結び付けることは可能だろうか? 茶を一杯飲むだけのために必要とされる、覚え切れぬほどの煩項な点前。「数寄」の名のもとにくり広げられる、かくあるべき価値体系。これらは茶道を特徴づけるものではあるものの、果たして、禅の精神に沿うものなのだろうか? 

たしかに、禅宗の寺には「規矩」と呼ばれる細かい規則があり、食事の仕方から草履の上げ下ろしに至るまで正しい作法が決められている。その意味では、「点前」と「規矩」の類似性から茶道の細かい決まり事も、禅と無関係ではないと言うことはできるだろう。だが、それにしても、現象的な共通点以上のものではなく、思想的な裏付けがあるわけではない。

 逆に、禅宗を含めた仏教が目指すのは、いっさいのとらわれやこだわりをなくすことではなかっただろうか? 

法外な値段で売買されてきた茶器はまさに欲望(煩悩?)の対象であるといえるだろう。そして、茶道の美意識とこだわりの体系は、すべてを超越した悟りの意識の前ではどれほどの価値をもつのか? こうしてみると、茶道と禅の関係は極めてあやういものに思えてくる。


 ロラン・バルトは禅と言語についてこう語っている。

 禅において《悟り》と名付けられているもの、これはおそらく、言語の空おそろしい宙吊り、わたしたちの内なる「記号列」の支配を追い払う空白、わたしたちの人となりを構成する内的詠誦の割れ目にほかならないのではなかろうか。この無言語の状態が一種の解放であるのは、二次的思考(思考についての思考)の増殖・あるいは余分な表徴化作用の行う終わりのない補足--つまり言語そのものがその行い手であるとともに規範である悪循環--これが仏教的体験を閉塞するものだからである。逆に、二次的思考の廃絶こそが、言語の悪しき無限をうちくだく。これらの仏教体験の一切において、たいせつなのは、言語をいわく言いがたいものの神秘的な沈黙のもとに押しつぶすことではなくて、言語に「見切りをつける」ことなのであり、たえず象徴が執念ぶかく事物にとってかわろうとする働きを独特の旋回運動のなかにまきこんで、表現へと導いてしまう言葉の独楽を停止させることなのである。要するに、そこにおいて攻撃の目標となるのは、意味論的作業としての象徴なのである。
(ロラン・バルト『表徴の帝国』)

 フランスの記号学者バルトが言っているように、禅の目標とすべき地点は「言葉を停止させる」ことであるといえるだろう。この場合の「言葉」とは我々が口に出し・読み・書く記号だけを表しているのではあるまい。ソシュールが提唱した記号学が音声記号だけでなく・広く文化一般を対象としたように、禅が停止させるべき意味はすべての価値体系、すべての文化体系に広がるはずである。

 そのことは、禅の「以心伝心、不立文字」という教えの中にも見ることができる。《悟り》の経験というものは経典などの言葉で伝えることはできない。逆に悟りを言葉でとらえようとすればするほど、いわゆる「悪循環」に陥ってしまう。それを手に入れるには(それはもちろん、容易なことではないのだが)、記号の持つ意味作用を宙吊りにすることが不可欠だということである。

 一方、茶道を記号論的な観点から解釈するとどうなるだろうか。いくつかの茶書から、茶書の特徴と言える部分を引用してみる。


名物の釜

一 平蜘蛛  松永の代に失す。宗達平釜、藤波平釜、弐つ。但し此の三つ釜は、当世在りても用いず。
一 紹鴎小霰釜 水弐升の上入る。信長公より宗二拝領して、後に関白様へ進上す。
一 乙ごぜの釜、関白様に在り。
  此の釜、信長公より山上宗二拝領し、関白様へ進上す。
(以下、項目続く)(山上宗二 『山上宗二記』)


客人類

一 客になりて座敷へ入る事、上座入は、上座の分の障子をあけ、次に下座のほうをあけ、下座入は、先ず下座の方をあけ、後に上座の方をあくべし。さて、縁より床ならびに勝手へ目をくばり、気を閑めて座中へ入るべし(以下項目続く)   (真松斎春渓『分類草八木』)


一 数寄と云う事、何れの道にも好み嗜みを云うべし。近代、茶の湯の道を数寄と云うは、数を寄するなれば、茶の湯には物数を集むる也。侘びたる人も風炉釜・小板・水指・水翻・蓋置・茶入・茶碗・茶筅・茶杓・茶巾・囲炉・自在・炭斗・火箸・花入・画・墨跡・葉茶壺・茶臼等を集むる也。諸芸の中に、茶の湯ほど道具を多く集むる者これ無し。(同上)


 これら茶書のありかたは、現代のカタログやマニュアルとほとんど同じものと考えてさしつかえあるまい。南坊宗啓が書き残したといわれている『南方録』にも曲尺割(かねわり)と呼ばれる、道具の置き方の非常に細かい法則がイラスト入りで描かれている。これらのありさまは、あたかも昆虫の図鑑か、語学の文法書にも似て、茶の道の文化体系の網の目の様子を示している。

 徹底した様式化とその反復、そして、反復による様式のさらなる洗練。茶の湯の文化は、武道や芸能と同じように、コジェーヴの言う日本的スノビズムの様相を呈している。この饒舌な姿はそのままでは《悟り=言葉の停止》と縁があるとは言えないだろう。

これらのスノビズムと禅の間に関連があるとすれば《悟り》そのものにおいてではなく、そこに至るまでの過程においてではないだろうか。先にも述べたとおり、禅寺での修行僧の生活が事細かに規則によって規定されていること。そして、日本曹洞宗の開祖、道元が「只管打坐」と伝えるように、ただひたすら座禅を反復し、打ち込むこと。これらはいずれもそれ自体は《悟り》そのものではなく、あくまでも《悟り》に至るための過程である。

このように、茶道をはじめとする日本のスノビズムの文化は禅の精神そのものというよりも、禅の形式の引用といったほうがよいのではないだろうか。

 茶道をはじめとする日本のスノッブな文化は、禅の《悟り》そのものではない。だがそれは、茶道では禅の修行にはならない、ということではない。「仏法を以て修行得道する事也」(『南方録』覚書)といわれるように、茶道が《悟り》に至る過程を引用しているものならば、それをたどって大悟する可能性もある。また、それは茶道に限ったことではなく、唐の普化禅師を開祖とする普化宗では、吹禅と称して尺八を吹くことを修行とした。さらに、道元が宋に渡った時に年老いた典座(食事係)との問答で理解したことは、禅者にとって本来雑用はひとつもなく、すべてが仏道の実践であるということであった。

つまり、食事を作ることでも、掃除をすることでも、それが何であろうと《悟り》に至る可能性はあるということだ。
http://homepage2.nifty.com/k-katsunori/sadou.htm

まあ、禅で悟りを得た名僧は一人も居ないですし、まして茶道で悟りを得られる筈も無いのですが、元々、千利休は茶道の精神はどろどろとして浅ましい世俗的欲望を隠す為の建前だというのを前提にして、形式だけを整えて茶の湯の儀式体系を完成させたのです:


『千利休』

一般に彼の名は茶道の大成者として世に知られている。別にその事自体が間違いではないが、同時に『当代随一の茶人』の称号が皮肉な事に彼の本質を消し去ってしまっている気がする。

彼は江時代の文化人の様に芸の道一筋に打ち込んでいた訳ではなく、むしろどろどろとした政治や商売の世界に棲息していた『政商』とも言うべき立場の人間である。

彼が堺の豪商の息子としてこの世に生を享け、物心ついた西暦1530~1540年頃は古い価値観が地響きを立てて崩れ落ちつつも未だに一定の権威を所有していた『不確実の時代』であり、そんな時代にあって上流階級の人々が嗜んだのが茶道であった。茶の湯を楽しむ趣味自体は奈良・平安時代から存在していたが、それは静寂な茶道のイメージとは異なる多分に猥雑なものだった。そんな流儀は人間の浅ましい欲と付き合う連中の支持は得られず、彼等が志向したのは閑静な環境で定刻に遅れた者は追い返す厳しい礼儀の下で行われる『茶数寄』であった。


この様に現世からの煩わしさから逃れる趣のあった茶数寄だが、嗜む連中自身が金と暇と権力を持て余していた為(全てを所有している人物はごく限られていたが)権力者との接触は避け難く、次第と本来の目的から逸脱していく。

例えば徹底した唯物論者であった織田信長は茶の湯本来の『わび』『さび』への価値は認めなかったが、付帯価値とも言える『社交場兼密談』としての茶道を認めていた。

その様な状況の中で幾何・音楽等の南蛮文化に詳しく刀・書画の鑑定眼をも併せ持つ持つ田中与四郎は『千宗易』として信長に接近、彼の要望に合わせて伝統的な概念と斬新な新発想を巧みに纏め上げる事で信長の周囲にいる胡散臭い連中に一堂に会せるだけの共通の価値観を与える事に成功、この功績をきっかけに『利休』の称号へと近付いていく。

一般に我々が『利休』と呼んでいるのは単なる号ではなく1586年に朝廷から下賜された居士(こじ)号である。
理由は『禁中茶会』を開く為とされたが無論それだけではない。
これは秀吉から宗易への目に見えぬ彼の功績への褒美であった。

周知の通り本能寺の変を契機とした政治的混乱を巧みな手腕で鎮圧した羽柴秀吉は『偉大な主君』織田信長の遺産を殆ど全て相続したのだが、その統治体制には大きな問題点があった。元々農民からの成り上がりである秀吉には譜代の家臣など存在する訳も無く、戦にせよ(人たらしの彼は調略の方を好んだ様だが)領地の統治にせよ、実弟の秀長が補佐役としてかなりの部分をフォローしていた。

数カ国を預かるサラリーマン大名としてならそれでも問題ないが天下を預かる中央政権としてはきちんとした政権機構は必要であった。言葉を変えれば単なる行政手腕だけではなく、万人を納得させるだけの政治理念を持つ人材が秀吉自身も含めて羽柴家には存在しなかった。

単に力があるからとか勢力があるから天下が治まる程世の中は甘くはなく、秀吉は強大な外敵と戦う間にも内部の難題にも取り組まねばならなかった。石田三成に代表される子飼いの官僚達にその様な器量はない。

彼が急激過ぎる程の膨張への対応策として選択したのは堺の大商人を『社外重役兼相談役』として招聘する手段だった。こうして信長政権下では『有力茶頭』の一人に過ぎなかった千宗易は天下第一の実力を持つ『千利休』としてその名を天下に轟かせる。

だが秀吉と利休の蜜月は決して長い年月ではなかった。大阪城築城とそれに伴う城下町の発展は堺の衰退を招来し、指折りの大商人であった利休も派手な外聞とは異なり内実は必死で金銭の工面を執り行う。そして彼の力を借りて天下を統一した豊臣政権は有り余る武力と経済力を吐き出す為に国内志向の強い堺よりも海外志向の強い博多への結び付きを強めていく。

表向きは『不敬の振る舞いが多かった』だの『関白との芸術観の違い』故とされる利休の末路はどろどろとした豊臣政権内部の
抗争の一端に過ぎなかったのである。
http://www6.tok2.com/home/temjin/rikyuu.html

千利休は武器商人   JUST-IDEA 12/03/03

日本における武器商人の起源について学んでいます。茶人千利休は、堺銃、及び火薬の営業マンだったようです。戦国の世において、茶室は、商取引の場、或いは、接待の場として利用されていた可能性もあります。そう捉えると3人の天下人に仕え、非業の死を遂げた利休の生涯にも裏の史実がありそうです。


■歴史を変えた堺銃
http://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_kokusai/asia_sea13.html

堺商人は、薩摩から種子島などを経由して琉球へと往復していたので、鉄砲の伝来をすぐに知ることができ、その製造技術を堺に持ち帰りました。それを見てすぐに模造品をつくる高い技術を、堺の職人たちは持っていました。

戦国大名の多くは、この新兵器に注目し、堺へ続々と注文を出しました。これらを引き受けることができたのは、現代の総合商社のような役割を果たしていた堺商人が、職人たちを組織し、「部品互換方式」(部品の大きさをあらかじめ決めておいて、別々に作っても製品として組み立てることができるため大量生産が可能になるものづくりの手法)を開発するなどして、鉄砲の大量生産に成功したためです。

有名な茶人である今井宗久や千利休らも、鉄砲の製造取引や硝石の貿易で活躍した商人でした。


■千利休
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic21.html

活力に湧く自由都市・堺に信長が目をつける。信長は圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。

信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用した。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=261886

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茶の湯と倒錯文化(1)


侘び茶とは、中世の堺で武野紹鴎や千利休によってはじめられた茶の湯文化です。

形成された初期の頃には、いまだ「侘び数寄」などと呼ばれていたらしく、侘び茶と呼ばれるようになるのは江戸時代になってからです。つまり、後の世に武野紹鴎や千利休が実践していた茶の湯の様式のことを、侘び茶と呼ぶようになったというように順序に逆転がみられます。以下では、武野紹鴎や千利休の実践した茶の湯のことを、便宜的ですが通俗的な呼び名として「侘び茶」に統一することにします。

侘び茶は、数寄物といわれた堺衆の武野紹鴎や千利休によってはじめられたとされています。

武野紹鴎や千利休は、唐物の天目茶碗にみられるような品質の高い工芸品などよりも、むしろ実用品とされた高麗茶碗や呂宋壺を重用することになります。また、公家文化の茶の湯では使用されることがなかった竹細工を茶席の中に用いるなど、茶の湯そのものを革新的な試みによって実践していくということになります。

このような、茶の湯は、おそらくは当時においては風変わりな(数寄物)ものとして写ったのではないでしょうか。このように風変わりな(数寄物)茶の湯が、時の堺の権力者である三好長慶や松永久秀、織田信長の目にとまることになり、庇護をされることになります。

風変わりな茶の湯である侘び茶は、やがて権力者の周辺で権威ある社交手段として認識されるようになります。このことで、侘び茶の持つ社会的価値は増していくことになるのですが、それとともにその指南役であった武野紹鴎や千利休ら堺衆の権威も増していくということになります。

では、なぜ時の堺の権力者が、このような倒錯した文化ともいえる侘び茶に対して高い評価をすることとなり、指南まで受けるということになったのでしょうか。

そもそも茶の湯は、貴族や大名の間だけで行われていた、公家社会の社交文化のひとつであったとされています。茶の湯が一般大衆にまで広まることになるのは、江戸時代も中期以降のこととされています。従って、千利休らの堺衆が風変わりな茶の湯である侘び茶を広めることになる対象とは、一般大衆ではなく、戦国大名などの時の権力者たちであったということになります。


茶の湯と倒錯文化(2)


戦国時代は、律令制の持つ秩序や旧来からの価値が崩壊してしまった時代であり、秩序と価値の大転換期にあたるといえます。朝廷や幕府の権威も地に落ちてしまい、諸国の兵(つわもの)がのし上がっては、つぶされていく弱肉強食の下剋上の時代でした。絶対的に信用できるような秩序や価値は、もはやどこにも存在せず、先が見えないということでは、現代社会にも通じるものがあるのかもしれません。

このような下剋上の時代にあっては、既存の秩序を破壊し、新しい秩序を構築するということが、すなわち天下をめざすということにもなってきます。既存の秩序の破壊という時代精神を持担った戦国大名が、侘び茶の持つ既存文化への反逆性に対して共感を抱き、高く評価することになるのは自然なことであったのかもしれません。つまり、倒錯文化としての侘び茶が、価値の逆転を目指す戦国大名により、親和的な文化として受け入れられたということになります。

それでは、そもそも武野鴎紹や千利休がはじめた侘び茶が、公家社会の茶の湯文化に対するカウンターカルチャー(対抗文化)として、強い反逆性を帯びることになるのはどうしてなのでしょうか。

千利休は「ととや」とよばれた納屋衆(倉庫業)であり、屋号からは鮮魚を扱う商人であったとされています。そして、千利休の侘び茶の師匠であった武野紹鴎は、武器商人とも皮革を扱う問屋ともいわれており、時の堺の支配者であった三好長慶などとも武器商人として交流があったとされているようです。また、千利休についても、三好長慶や松永久秀との茶会での交流の記録が残されていることから推測すれば、おそらく武野紹鴎と同様に茶人としてだけではなく、商人としても時の権力者たちと接触していた可能性が高いと考えることができるのではないでしょうか。

そして、時の権力者である戦国大名からの信任を得るために、なにより必要とされた才覚は、より多くの武器を商うということであり、権力者の布武による覇権にいかに貢献できるかということであったと考えられます。武野紹鴎と千利休が、このような商いを通じて、時の堺の権力者から大きな信任を得ていた可能性については、あながち否定できないことではないでしょうか。

茶の湯と倒錯文化(3)

武野紹鴎や千利休が武器を扱う商売をしていたとすれば、両人が武具の生産にとって必需品とされる皮革を扱う職人とも交流があったことは、推測できるところです。皮革の生産を生業とする職人や屋号の「ととや」から推測できる漁労を生業とする職人が、当時の日本の支配的な宗教観であった死に対するケガレや仏教における殺生戒などから、特別視されていたことや賤視されていたことは考えられることです。

職業が、いまだ身分制度としては固定化されておらず、流動的な時代であったといえますが、その生業が先のような宗教観から畏怖や賤視の対象になっていたということについては、網野善彦氏など多くの研究者によって言及がされているところです。

武野紹鴎が武器を商っていたとされるように、千利休も同様な商いをしていた可能性については先にも触れました。両人が、時の堺の権力者から信任を得ていたということは事実であり、権力者を相手に商売で利益をあげていた可能性は十分に考えられることです。そして、現在においても、武器商人は平和のかく乱者として疎んじられています。

もし、武野紹鴎や千利休が、武器商人として利益をあげていたら、おそらく当時の堺の町衆は、両人のふるまいをにがにがしく思って眺めていたのではないでしょうか。宗教的な禁忌品を商いするだけではなく、これを武器に転用し、時の堺の権力者と取引をしていたとすれば、堺の町衆である世間の目は、両人を、おそらく、ねたんだり、賤視したり、そして特別視するということになったのではないでしょうか。

武野紹鴎や千利休が、このような世間からの特別視や賤視というものを経験していたとすれば、おそらくその心理状態は抑圧的なものであったと推測することができます。侘び茶が形成される背景には、このような創始者の抑圧心理というものが、大きく影響していた可能性があることについて指摘できるのかもしれません。

武野紹鴎や千利休が、世間からの特別視や賤視からの抑圧心理を共有していたとすれば、侘び茶は抑圧心理がもたらすことになる、反逆性を原因とした倒錯文化ということになります。つまり、既存の宗教観や文化的秩序からもたらされるコンプレックスは、自我の防衛機制として、いったん抑圧されてしまうことになります。

しかしながら、抑圧されたコンプレックスは、自我のバランスを維持するために、旧来の既存システムに対する強い反逆性として出現してくることになります。そして、出現した反逆性は、価値の逆転という倒錯性を伴うことにもなります。このような反逆性は、戦国大名が下剋上の時代にあって既存の価値を否定しながら、新たな秩序と価値を構築しようとした反逆性と、その方向性がとても似ているといえそうです。

茶の湯と倒錯文化(4)

武野紹鴎とその弟子の千利休は堺の南宗寺で侘び茶を始めたとされることから、侘び茶と禅宗との関係については従来から指摘がされているところです。この関係については否定できるものではないと思われます。しかしながら、この論考では、ひとつの仮説として、武野紹鴎と千利休を取り巻く社会的背景が抑圧的なものであったことを想定し、両人が伝統的な茶の湯の権威を認めながらも、一方で旧来の文化観や宗教観を破壊することになる侘び茶に傾倒した深層心理の視点から考察することとしております。

抑圧心理は、反逆性(倒錯性)という心理状態を出現させることになります。

侘び茶が、抑圧されたコンプレックス(複合的心理)によって生み出された倒錯文化ということであれば、このような倒錯文化を共有できるような心理的背景を持つ人は限られていたといえそうです。つまり、誰もが同じように抑圧心理を背負いながら暮らしていたわけではないということです。従って、侘び茶は、草創期においては理解されるということは少なく、比較的小さい規模の人たちによって始められた趣向のひとつであったのかもしれません。このことからすると、侘び茶は、既存の茶の湯文化に対するカウンターカルチャー(対抗文化)として位置付けられることになります。

侘び茶が、カウンターカルチャー(対抗文化)ということであれば、その本質は旧来からの世間の持つ宗教観や文化観への反逆性ということになるのが自然といえそうです。つまり、侘び茶は、既存の公家文化である茶の湯を憧憬しながらも、一方では既存の茶の湯も持つ権威に対する反逆性から生み出されることになった倒錯文化ということになります。

戦国時代は、社会の秩序や価値が崩壊してしまった時代でした。時の権力者は、旧来からの権威や価値を利用しながらも、その必要性がなくなれば迷うことなく破壊する行動様式(エトス)が主流の時代であったといえます。侘び茶は、このような時代にあってはじめて成立することができた文化といえるのかもしれません。つまり、下剋上の時代精神が背景となり、侘び茶の持つ倒錯文化が熟成されていくことになったといえそうです。


茶の湯と倒錯文化(5)

第2章 侘び茶とコンプレックス

戦国大名の中でも松永久秀や織田信長は、朝廷や幕府、そして宗教などの旧来からの権威を認めなかったことについては、よく知られているところです。また、松永久秀や織田信長は、旧来からの権威の破壊者として、戦国大名の中でもひときわ異才を放つ存在といえそうです。下剋上という戦国時代を勝ち抜くためには、旧来の権威を利用するだけではなく、むしろその権威を超越していくことが、新たな支配者に求められた能力であったといえるのかもしれません。従って、戦国の世の支配者となるためには、旧来の権威を破壊するということが求められていたということがいえます。

しかしながら、未だ呪術的な世界観が支配的であった中世の世においては、朝廷や宗教という既存の権威を破壊するという行為は、畏怖の感覚からすれば、大罪として認識されるということが一般的な感覚であったと思われます。従って、旧来からの権威を何らかの形で利用しようとした支配者は多かったものの、実際には秩序と権威を破壊することまでできた支配者は、戦国の世でも一握りの人たちであったといえるかもしれません。

このような戦国大名にとって侘び茶の持つ倒錯文化の反逆性は、既存の政治的権威である朝廷や幕府を否定することにもつながることから、戦国大名が戦略的に侘び茶に内在する政治性を利用したことは考えられることです。侘び茶に見られるような、価値がないとされたものを高く評価することや価値があるとみなされていたものを躊躇なく破壊するなどの反逆性は、戦国大名が下剋上の時代を生き抜くために日常的に試みていた戦略といえるのではないでしょうか。

松永久秀や織田信長は政治的秩序の破壊者であり、同時に新たな政治的秩序の構築者であったということができます。そして、松永久秀や織田信長が、倒錯文化としての侘び茶を政治的な戦略手法として利用したことについては、千利休ら堺衆が重用されたことからも説明できることといえます。一方、侘び茶の持つ既存の秩序への反逆性とは、公家文化への羨望の裏返しでもあったことについては同時に押さえておかなければならないことと思われます。

茶の湯と倒錯文化(6)

このような両義性は、侘び茶のみならず下剋上の戦国大名にも内在していた心性ということができます。侘び茶と戦国大名が結びつくのは、おそらく侘び茶に内在していたコンプレックス(葛藤)が戦国大名のコンプレックス(葛藤)に共鳴したと考えられます。これはユング心理学のコンプレックス仮説である「コンプレックス(葛藤)はコンプレックス(葛藤)に共鳴する」にあてはまります。

むろん、侘び茶に内在するコンプレックスが形成されるのは、その創始者である武野紹鴎や千利休が自分自身のコンプレックス(葛藤)を抑圧したためということです。そして、松永久秀や織田信長の抱いたコンプレックスは、下剋上という時代精神によって形成されたものですが、結果として武野紹鴎や千利休の持つコンプレックスに対し共鳴していくという形になったのです。


今一度整理しておきます。

侘び茶においては、唐物のような豪華で質の良い茶器は重要とはされずに、むしろ実用品として大量に生産されることになった形のいびつな茶器が、高い価値があるものとされることになりました。

また、漁師が使用する魚籠などの竹細工が、伝統的な高品質の磁器などよりも価値のあるものとして茶席に飾られることになりました。

このような倒錯した文化は、確かに既成の価値観にとらわれない革新的なものの見方への飛躍ということがいえるのかもしれません。しかしながら、旧来の価値が創造されるまでのプロセスを十分に評価したものとはいえそうにはありません。要するに、誰もが共有できる価値(普遍性)にはなっていないということです。従って、侘び茶の持つ倒錯的価値とは、選定する者の恣意的な評価基準に依拠することになってしまうため、どうしても曖昧な価値基準が残ってしまうことになります。つまり、侘び茶がなぜ素晴らしいのか、なぜ美しいのかという美意識が、恣意性を帯びたものになってしまうということです。

これは、侘び茶の美意識が、当時の日本人の自然な感覚からすると、かなりずれたものになっていることを推測させます。おそらく当時の日本人の標準的な価値基準(文化)ではなかったといえそうです。このことからすると、草創期の侘び茶は、倒錯した美意識を共有できるような限定された範囲において成立していた特殊な文化(価値観)ということになるのではないでしょうか。


茶の湯と倒錯文化(7)

論考の最初の問いにもどることになりますが、侘びや寂は果たして日本人の美意識となっているといえるのでしょうか。

いままで見てきましたように、侘びや寂が倒錯した文化であるという特徴からすると、人間の持つ感性に対してストレートな価値観というよりも、むしろ屈折した価値観といえるかもしれません。つまり、侘びや寂は日本人なら誰でも共通感覚として持つことができる普遍文化というよりは、むしろ特定の集団の特殊性を伴った文化ということになるのではないでしょうか。

従って、侘び茶の侘びや寂の本質を理解しようとするのであれば、その価値が形成される過程まで遡るという必要があるのかもしれません。そして、価値の倒錯を引き起こすことになった、戦国という特殊な時代背景や社会背景というものを理解する必要があるのかもしれません。このように侘びや寂が特殊な時代や社会を背景として形成された文化なら、日本人であれば誰でも同じようにその価値が共有できるという普遍的な側面は否定されることになり、むしろ倒錯文化としての特殊性が強調されてくるということになります。

千利休は、侘び茶の創始者であったがゆえに、侘び茶の持つ特殊性、つまり価値の恣意性を独占することができたのかもしれません。そして、価値が恣意的であったがゆえに、千利休の権威は政治的に利用されることにもなったのかもしれません。このため、さらに上位にある権威から、千利休の権威(政治性)が否定されてしまうと、侘び茶の持つ価値も衰退するということになってしまいます。侘び茶が、千利休という特殊性(政治性)に依拠していたがゆえの結末といえるのかもしれません。これらのことからすると、侘び茶は、それ自体が自律した(思想性のある)文化というよりも、特殊性ゆえの愉悦性、あるいは恣意性ゆえの脆弱性というような、どちらかというと寄生的な倒錯文化ということになるのかもしれません。

また、侘び茶では、装飾的な茶器よりも、むしろ実用的な茶器を重視したという特徴から、侘び茶が、「使用的価値」に重点をおいていたように思われることもあるようです。しかしながら、実際にはその実用的な茶器に破格な価値や値段がつけられたことからも分かるように、千利休が選定した「利休ごのみ」というものが、ひとつの「象徴的価値(ブランド)」になっていたということになります。
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茶の湯と倒錯文化(8)

象徴的価値とは、ブランドのロゴなどにみられるような価値のことであって、その価値が共有できている人にとっては権威や権力を象徴することになります。つまり、茶器などの「名物」を所持しているということが、権力者の象徴にもなるということです。このように、侘び茶の持つ社会学的な意味は、侘び茶に実用性を重視するような使用的価値が重んじられていたものではありません。むしろ、旧来の公家文化の茶の湯と同様に権威や権力の象徴的価値を重んじる記号的意味が重視されていたということになりそうです。

この点からすると、旧来からの茶の湯と侘び茶には大きな相違はないということになります。しかしながら、侘び茶は、権威への羨望や憧憬というコンプレックス(葛藤)を抑圧したことによって、旧来の価値基準が倒錯した形で出現することになったものでした。つまり、侘び茶とは、創始者の武野紹鴎や千利休のコンプレックス(葛藤)が引き起こした倒錯的価値ということであったわけです。そして、そのような倒錯的価値は、当時の日本人の感覚からすれば、おそらく普遍的な感覚とはいえず、千利休の権威によって支えられていた特殊な象徴的価値であったということになります。

千利休が削ったとされる茶杓(ちゃしゃく)がいくつか残っています。しかしながら、これらを別の茶人のものと比較して、美的に、技術的に明確な区別をすることはおそらく無理ではないでしょうか。そこに差異を認めるとすれば、それはかつて千利休が選定したという歴史的意味だけになると思われます。つまり、侘び茶がもともと内在させていた倒錯文化の持つ反逆性や政治性という本質は、モノや作法という様式からは消失してしまうということになるということです。

現在まで続く茶道は、千利休がいったん廃絶された後に、再興されたものであって、侘び茶の流れを汲むものといえます。しかしながら茶道は、千利休以来の伝統に基づいた作法という様式は守りながらも、侘び茶にもともと内在していた倒錯文化の本質についてまでは、おそらく伝えていないように思われます。このことからすれば、もともと侘び茶は時代背景を越えて成立することができるような普遍的な価値を持った文化ではなく、戦国という動乱の時代を背景として成立した特殊な価値を持った倒錯文化ということになるのではないでしょうか。

茶の湯と倒錯文化(9)


第3章 倒錯文化と堺

侘び茶は、人間の持つ感覚にストレートに伝わるようなものの見方ではなく、むしろ屈折した倒錯文化ということでした。美しいものを美しいとはしない、価値の高いものを高いとは評価しないということは、価値のないとされるものを高いと評価することになり、否定されているものを積極的に肯定するという尺度が転倒した倒錯文化ということになります。従って、このことからは、弱いものが強いということにもつながることになり、貧しいものが貴いことということにもなってしまう、複雑で屈折した倒錯文化ということになります。ニーチェのいうルサンチマンにも通じるような、抑圧的で屈折したものの見方といえるのかもしれません。

養老孟司氏によると、普遍性とは、人間が持つ一般的な感性や感覚のうちで、両端に偏在することになる極端を取り除いた残りとして定義されています。侘びや寂が、このような普遍性として位置付けられるのであれば、侘び茶の持つカウンターカルチャーとしての反逆性は、人間や社会に幅や厚みを与えるものと位置づけられることになるのかもしれません。しかしながら、倒錯したものの見方を無批判に鵜呑みにしているだけでは、人間や社会に幅や厚みを与えるどころか、人間の持つ自然な感覚や社会の秩序を混乱させてしまうことにもなり、私たちのアイデンティティに危機をもたらすことになります。

従って、まず私たちに求められるものは人間の持つ普遍的な一般感覚であり、倒錯した特殊な感覚ではないということです。そして、橋本治氏によると、個性とは一般感覚という基盤からこぼれ落ちてしまった感覚や能力のことであり、つまり個性とは一般からの破綻ということになります。このような破綻は、私たちに痛み(みんなと同じではないという痛み)をもたらすことになるのですが、やがて破綻した個性は、一般感覚という全体の中に再び統合されていくという考え方があります。

ユング心理学でいう個性化の過程ですが、これは自我が個性をコンプレックス(葛藤)として抑圧してしまうのではなく、むしろ自我に統合していく過程にあたるとされています。


茶の湯と倒錯文化(10)

現在の茶道においては、侘び(劣っていること)や寂(時間が経過して古びたこと)は、伝統の様式や作法として残っていますが、倒錯文化の持つ本質までは伝えていないといえるのではないでしょうか。

侘びや寂は、完全なものにはない、むしろ手垢のついた少しいびつなものにこそ価値があるとする美意識といえます。

このような美意識と似たものとしては、ドレスダウンのような、わざとドレスコードを破って着崩すという文化があります。最近のバンクーバーオリンピックで、物議をかもしたドレスダウンの問題は、同様な美意識といえるのかもしれません。

しかしながら、現在の茶道においては、侘びや寂が既定のものになってしまっていることから、なぜこのような迂回的な表現がなされるようになったかという理路までは理解されていないようです。従って、現在の茶道には、観念や様式としての侘びや寂は残っていても、その意味や起源についての考察は、十分になされているとはいえないのではないでしょうか。

現在の茶道が、従来からの伝統の様式と作法を受け継いで来たことは間違いないことですが、その本質までは受け継いでいるといえないように思われます。

現在にまで至る茶道の流れは、千利休のあとに再興された京千家の千少庵や千宋旦の流れを受け継ぐものといえます。 表千家、裏千家、武者小路千家の三千家などは、千利休以来の伝統の様式と作法を「型」によって受け継ぎながら、その差異は小さいものにとどまっているようです。そして、茶道の美意識が、もともと倒錯的価値に起源を持つ可能性があることまでは考察されておらず、従って反逆性や政治性も茶道の本質ではなくなってしまっているように思われます。

しかしながら、侘び茶の発祥の地である堺や京都には、いまだ侘びや寂を生み出すことになる倒錯文化を受け継ぐような土壌が伝統として残っているところがあるように思われます。もちろん、劣っていることが素晴らしいとか、弱いものが強いとされるような倒錯文化に見られる現象は、堺や京都だけに限って見られることではなく、他の日本の都市でも同様な現象はあるのかもしれません。堺や京都では中世以前から都市文化が成立していたことから考えれば、都市化と倒錯文化との間には相関関係があるのかもしれません。現代のように都市化が進んだ社会状況では、誰もがコンプレックス(複合的心理)を抑圧しなければならない構造の中に投げ込まれているということになり、いずれの都市にあっても倒錯文化が生まれる土壌にあるということであるのかもしれません。

茶の湯と倒錯文化(11)

現代社会に見られる価値の倒錯性は、反逆と憧憬のようなアンビバレンツ(両面等価)な葛藤(コンプレックス)を抑圧してしまうことによって出現する、病理的な現象といえるのかもしれません。そして、このような倒錯的なものの見方は、日本だけに見られる独自のものではなく、欧米社会においても報告がなされています。

フロイトの精神分析では、葛藤(コンプレックス)がもたらす価値の倒錯性について、抑圧心理や転嫁行動(敵ではない弱い第三者を攻撃する)、反動形成(嫌いな相手に逆に優しくする)などが報告されています。

また、ニーチェのいうルサンチマン(弱者の奴隷精神がもたらす価値観の反転)も、同様に価値の倒錯が見られる現象といえるのではないでしょうか。

このように、価値の倒錯性は、洋の東西を問わず、私たちの日常生活の中で当たり前の現象として出現しているといえそうです。

人間は、自我を脅かすような葛藤(コンプレックス)が生じると、無意識にこれらを抑圧することによって自我を守ろうとします。その結果、意識下にとどめ置かれることになった葛藤(コンプレックス)は、自我の自己制御を誤作動させてしまうことになり、やがて価値の倒錯が引き起されることになるようです。

しかしながら、現在のストレスフルな社会環境では、日常的に多元的な価値を抱え込まなければならない状況は決して珍しいことではありません。このため、自分自身が既に価値の倒錯を引き起こしてしまっていたとしても、また逆に回りから倒錯した価値観を押し付けられたとしても、そのまま気付かないでいるというケースは多々あるのではないでしょうか。

茶の湯の発祥の地である堺や京都は、歴史的に多元的な価値観が並立して存在する伝統的な都市文化の土壌になるということができそうです。そして、幾重にも重なった歴史の古層に覆われた堺や京都では、多元的な価値観の棲み分けがなされないままに、対立と協調という長い歴史が繰り返されてきたのではないでしょうか。このような価値の多元性は、現代の都市文化が抱えるひとつの特徴でありますが、長い歴史を経過することによって錯綜した問題が、さらに複雑化してしまっているのではないでしょうか。


堺や京都では、このような都市文化の特徴を伝統的に受け継いできたということになるのではないでしょうか。そして、コンプレックス(葛藤)を抑圧した結果として出現する倒錯的価値が、伝統的なものの見方になってしまっていると、それが自然となってしまい、自分が倒錯した構造にあることにさえ気付かなくなってしまうことにもなります。つまり、伝統的に倒錯したものの見方が強く残っているような社会では、普遍性ではなく特殊性が社会の基盤になってしまうということです。
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2024/07/13 (Sat) 16:21:21

道を究めて素晴らしい何かを生み出すのが日本人の生き方

考え抜かれた製品、技術、デザイン、哲学、サービスを持った希有な企業が世の中には存在する。磨き抜かれたオリジナル、技、発想、アイデアを持った希有な人が世の中には存在する。

独自の「何か」を生み出す能力を持った企業や人は本物だ。そして、長い目で見ると、結局生き残るのは本物だ。

誰かが何かを成功させると、真似やパクリをする企業や人が山ほど現れるのだが、パクリ製品は気が付けばいつしか消えて後に残らない。

パクリがどんなにうまくやってのけても、結局はオリジナルの方が生き残る。そして、オリジナルの方が愛される。

どれほど巧妙にパクリを成し遂げても、なぜオリジナルが最後に生き残る可能性が高いのか。

その理由は、その製品、技術、デザイン、哲学、サービス、発想、アイデアには、それができあがるまでに多くの試行錯誤が為され、その試行錯誤で得た知識や経験が「物事の基本」となって製品を支えているからだ。しかし、パクリには土台を支える思想がない。

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ。それが揺らいでいると何が重要で何が重要でないのかも分からない。そして、「次」を踏み出す時に間違う。

次の新しいものを生み出すにも、今あるものを改良するにも、さらなる付加価値を付けるにも、基本ができていないと何もできない。逆に、基本がしっかりしていると、「次」に発展することができる。

本当のことを言えば、そんなことは誰でも分かっている。では、なぜ基本をないがしろにして、他人のものをパクることで生きていこうとする企業や人がいるのだろうか。

たとえば、中国や韓国は、ありとあらゆる企業のパクリを行っており、国中に粗悪なパクリ製品が溢れている。

なぜ、彼らは次から次へとパクリを行うのか。なぜ、彼らはオリジナルを生み出すこと、すなわち基礎や基本をないがしろにするのか。

その理由は簡単だ。基礎や基本をきちんと身につけるというのは、実は尋常ではないほど単調で、単純で、根気のいる作業を延々と繰り返さなければならないからだ。これは、すべての分野に関して言える。

基本を身につけるには、誰も注目しておらず、誰も褒めてくれず、誰も気付かないところで、ずっと単調な作業を繰り返し、常に試行錯誤していかなければならない。

この単調な繰り返しを行って基本が身につくのだが、パクリを行う人間はそれをすっ飛ばすのである。そして、表面や形だけをパクって世の中をごまかす。

最初は騙せるのかもしれない。しかし、それがオリジナルではない時、やがて人々に見透かされる。そして捨てられる。


時代が変わっても古くならない原理原則

基本が重要であるというのは、職人も、技術者も、芸術家も、アスリートも、アナリストも、兵士も、各職業人も、すべてがそれぞれの言葉で言い伝えている。

そして、基本を否定する人間は誰ひとりとしていない。

つまり、「基本を怠らずに鍛える」というのが、時代が変わっても古くならない原理原則であるということである。

表面や形だけをパクリ取って、まともな基本を身につけていない企業や人は、そのときは良くても最後に足をすくわれる。土台がないので応用がまったく利かない。

もちろん、そのようなパクリをして人生を乗り切る生き方もひとつの生き方である。あえてそれを選び取る人間もいる。

手っ取り早く儲かるのであれば、あるいは手っ取り早く売名できるのであれば、それを選び取る人は珍しくない。

売れた製品のパクリを作って安売りする企業、あるいは売れた人間の技や作品や芸をそのまま真似して、自分こそが元祖だと起源を主張するクズのような人間もいる。しかし、それは邪道であり王道ではない。

王道とは、その道の基礎や基本を誰も見ていないところで、淡々と愚直に繰り返し、泥にまみれ、汗を流し、苦しみを味わうことである。

それは、一見ムダなように見える時間だが、基礎や基本は膨大な時間をそこに費やさなければ身につかないのだから、絶対にムダではない。

どれだけ基礎と基本が身についているかで、その世界で成功できるかどうかが決まる。

ムダなのは、自分の人生に重要でも何でもないことに時間を費やすことだ。自分がその道で生きていくつもりもないようなもの、たとえば時間つぶしのゲームだとか、だらだら見ているテレビだとかに時間を費やすのは、たしかにムダだ。


自分の分野で道を究めることが日本の復活になる

自分の全人生を費やしても構わないと思うことに全力集中で取り組み、基礎や基本を繰り返し反復する。

そうやって、基礎的な能力を身につけても、まだそれで世の中を渡っていけるのか、成功できるのか、大成できるのかどうかは分からない。そして、それで食べて行けるのかどうかも分からない。

しかし、基礎や基本がないのに、いきなり他人のパクリをしてそれで生きていけないことだけは、はっきりしている。

かつての日本人はこういった基礎や基本を「型」と言っていたが、型を身につけるのに誰も見ていないところで死ぬほど練習していたし、それが日本人の底力を作り上げていた。

日本人が「特異な民族」なのは、そういった基礎や基本を疎かにしないという人間が夥しく存在していて、基礎を追求する文化を持っていたからである。日本人には、ありとあらゆる分野が「道」を極める対象となった。

ただ、「お茶を淹れる」という些細なものであっても、それは「道」となって、茶道となっている。

日本人のひとりひとりが、それぞれの分野で基礎と基本を地道に積み上げて道を究めてきたから、あらゆる点で日本は他の民族や国家を凌駕してきたのだ。

最近、日本の土台が揺らいできたというのであれば、恐らく最近の日本人は、かつての日本人ほどに基礎と基本の積み上げが足りなくなっているからだ。

科学の世界でも、ノーベル賞を取るほど優秀な人間がいる一方で、形ばかり研究者のフリをして他人の論文をコピーして、パクリや真似でごまかそうとする人間が出てきたりしている。

日本人にパクリは似合わない。日本人はパクリの道を行くのではなく、優れたものを生み出せる民族であってほしい。パクリを排除し、ひとりひとりが自分の分野で道を究めることが日本の復活になる。

基礎や基本を疎かにしないで道を究めるのが日本人の特異性だ。
http://www.bllackz.com/2014/12/blog-post_30.html
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2024/07/13 (Sat) 16:22:02

庶民自らが庶民のために発展させた芸能
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3371.html

西洋で発達した芸能のほとんどは王侯貴族のためのものでしたが、日本における芸能は、大衆自らが、大衆のために作り出し、継承していったものがほとんどです。 和歌、万葉集も庶民発で貴族がまとめたものであるし、能・狂言、そして茶の湯や生花も庶民の間で流行した文化芸能です。

惣村の集団内で庶民を楽しませるために、芸能に特化した人材が生まれ、やがて職業化し、その技術を近年まで継承してきました。 その精神性や日本独特の価値観は現在の日本文化の中にも色濃く根付いています。

その原点となる精神性や価値観は、まさに縄文時代に形成された自然感と集団性にあり、究極まで極めるその意識は、縄文人が追求し気づき上げた土器や漆などの芸術、文化を出発点としています。

今回もるいネットから、時代を追って、芸能に潜む日本人の精神世界を紹介します。

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【和歌に見る日本人の可能性】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=240273

本来、観念力貧困であると考えられる日本に、和歌(やまとうた)はなぜ生まれてきたのか?

今でも中国南部や東南アジアで残っている「歌垣」と呼ばれる習俗は、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗である。古代日本においてもこの風習は見ることができ、万葉集に多く集録されている「相聞歌(男女の恋愛問答歌)」は、この「歌垣」から来ているのではないかと考えられる。

また、初期万葉歌の時代は、なお古代的な自然観の支配する時期であり、人びとの意識は自然と融合的な関係にあった。自然に対する態度や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させることが可能であると考えられていたのである。自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」こと。それは、万葉集中50例を超える「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められている。

このように、和歌はもともと庶民(の感覚≒潜在思念)発、それも誰かひとりのひとが作ったのではない、言い伝えの「伝承歌」のようなものだったのではないかと考えられる。そこに通底するのは、自然への畏敬→祈り→肯定視と、ひとに対する親愛の情感。個性に乏しく「同じような歌が多い」のも、みんな発の共感であれば説明がつく。

さらに人々の気持ちを後押ししたのは、共同体社会から統一国家という時代の転換に対する期待とおそれであったと思われる。

>古代的な共同体のあり方が、豪族勢力の伸張や地域的政権の成立、そしてついには王朝的統一政権が樹立されるに及んで、社会全体に構造的な変化が生まれ、古代的共同体は変質し、その固有の秩序は失われる。人びとは古い全体社会から解放されるが、同時に共同体的紐帯を失った人びとは、また新しい権力関係のなかに包摂されて、以前よりも強大な力による従属関係のもとに組織される。解放は同時に新しい隷属を生むのである。その喜びとおそれとが、新しい詩歌の時代を招く原動力であった(白川静「初期万葉論」)。

和歌には政治や社会のことを歌ったものがほとんど残っておらず、わずかに人麻呂と山上憶良の数首に見られる程度、杜甫や李白に代表される中国の漢詩とは対極にある。これは、日本人が社会統合よりも、身近な生活に密着した感情≒潜在思念に基盤を置いており、和歌はその発露としてしか定着しなかった、ということを意味している。

「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」。(紀貫之 「古今和歌集~仮名序」)

日本では古くから、言葉にも霊が宿ると信じられていた。声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられていたのである=言霊(ことだま)信仰。そして、漢字が入ってきてからもながらく、「言」と「事」は区別されていなかった。

かくして、日本人は、こころ(内部)と事(外部)を言葉(観念)で端的に表現でき、であるがゆえに、難しい言葉を使うことなく誰にでも伝わり、誰もが親しむことのできる世界でもマレな文学様式=和歌を確立した。

【自治集団が大衆芸能の発達の土台となった(室町時代)】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=337824

中世から近世にかけての大衆市場の発達において、庶民への芸能や文化の浸透は見逃せない要素である。 とりわけ室町時代から戦国時代にかけては、庶民と貴族との文化交流が盛んであり、相互の文化が受容され、階層を超えて文化が発達した時代である。能・狂言、そして茶の湯や生花。これらの文化は公家や武家だけではなく、都市の商工業者や村の百姓(商工業者と農民・漁民)などの庶民の上層部の文化でもあった。和歌の上の句と下の句を別々の人がつくってまとめていく連歌は、村の寄合などでも流行した。 また、お伽草子とよばれる絵本がつくられ、「浦島太郎」や「一寸法師」の物語が、武家や民衆の人気を博した。室町時代には、今日に直接通じる、文化や衣食住の生活習慣がおこった。村祭りや盆踊りといった年中行事も、すべてこのころ始まったものである。 各地の寺院では、江戸時代の寺子屋に繋がる、武家や庶民の子どもの教育も始まっている。

○惣の発達と大衆芸能の進展 もちろんその原因として、生産力の上昇によって生活に余裕が出来たことは指摘できる。しかし、それだけでは説明はつかない。 こで、注目されるのが中央権力の衰弱の中で、拡大していった惣村の存在である。当初は人々はこの集団を一揆と呼んでいた。一揆といえば百姓一揆を連想するが、元々は、惣村を形成する中で、幾つかの村が共同で村の人々の生存と繁栄をはかるために協同してつくった集団を指す言葉である。おそらく、集団の団結を図る誓いの儀礼に由来する言葉なのであろう。

この寄合という一揆を形成し、その構成員の繋がりをより強める場は宴であった。そしてこの宴の場の余興として盛んに取り入れられたのが連歌であり、さらには猿楽・田楽やそこから発展した能や狂言なのであったし、茶の湯や生花も同様であった。

○芸能の民の形成 このような惣と一揆の形成が、全国の町や村において様々な集団的芸能を繁栄させた背景であった。つまり個々の家や一揆集団の繁栄を祈る神事に芸能が欠かせなくなったことが、これらの芸能を専業的に行う人々の活動の場をも広げたのであった。これによってこれまでは寺社や貴族に隷属していた芸能民が独立して活動し、それぞれが芸能の座を形成していったのである。

惣村や惣町は、それぞれの一揆の神事に欠かせない芸能を行う座と契約を結び、それぞれの年度の神事の余興をあらかじめ予約していくのである。もちろん契約であるからそれは金銭の授受を伴う。さらには惣村や惣町の構成員は、専業的芸能民に依頼するだけではなく、それらの専業的芸能民にそれぞれの芸能を教わり、村や町の構成員自身がその芸能を演じるということが盛んになっていく。つまりそれが、芸能民にとっては、芸能の教授という新たな稼ぎの場を生み出す事となったのである。

【マリーアントワネットも虜に。伝統工芸「漆」は日本を救うか②~ものづくりの原点】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=323972

「漆は生き物なので、人のおもいどおりにはならない」

漆工芸のプロセスを見て感じることは、まずこの伝統技術が自然現象に対する実に細やかな観察に基づている事である。漆の乾燥には高い湿度が必要だ、というような発見が、どれだけの長年月の試行錯誤と観察の上になされたものか、まさに想像を絶する。

それは現象を極端に単純化した上で法則化する西洋近代科学のアプローチとは異なるが、ラッカーゼ酵素の働きを巧みに生かすなど、自然の物理的化学的法則性を見事に活用している。伝統技術の背景にこのような合理的思考の姿勢があったからこそ、明治期における西洋近代科学の導入も急速に進んだのであろう。

もう一つ印象深いのは、そうした製造プロセスの創意工夫が長い歴史を通じて、無数の人々によって積み重ねられてきていることだ。様々の素材に対して、多様な技法やデザインが生み出されてきた。無数の職人たちが、師匠から技術を厳しく仕込まれて一人前になった後は、少しでも先代を追い越そうと、倦まず弛まずに新しい工夫をしてきたのであろう。明治以降においても、また戦後の復興においても、製造現場でのこうした弛まぬ創意工夫の姿勢が急速な産業発展の原動力であった。

「精密な自然観察」と「弛まぬ創意工夫」、この二つの姿勢は漆だけでなく、和紙、金箔、磁器、日本刀などの伝統技術を生み出した。そして和紙技術は電解コンデンサー・ペーパー、金箔技術はプリント基板の電解銅箔、磁器技術は携帯電話のセラミック・フィルターなどに生かされ、それぞれの分野で日本企業が圧倒的な世界シェアを持つ原動力となっている。

【ビジネスパーソンに捧ぐ世阿弥のことば①~初心忘るべからず】~http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=323146

世阿弥が残した「風姿花伝」を始めとする多くの著作は、演劇や芸術についての考えが述べられたものですが、世阿弥のことばの深さはそれだけではありません。今でいえば、「観世座」という劇団のオーナー兼プロデューサーでもあった世阿弥は、劇団の存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。

それは役者の修行方法から始まり、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書です。いわば、芸術のための芸術論というよりは、生存競争の厳しい芸能社会を勝ち抜くための戦術書ともいえるものです。

世阿弥は、観客との関係、人気との関係、組織との関係など、すべては「関係的」であり、変化してやまないものと考え、その中でどのように己の芸を全うするか、ということを中心に説いています。

「能」を「ビジネス」、「観客」を「マーケット」、「人気」を「評価」として読めば、彼のことばは、競争社会を生きるビジネスパーソンへの提言とも読めるのです。 世阿弥の珠玉のことばの中から、代表的なものをご紹介しましょう。

■初心忘るべからず

世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味しています。つまり、「初心を忘れるな」とは、人生の試練の時に、どうやってその試練を乗り越えていったのか、という経験を忘れるなということなのです。

世阿弥は、風姿花伝を始めとして、度々「初心」について述べていますが、晩年60歳を過ぎた頃に書かれた『花鏡』の中で、まとまった考えを述べています。その中で、世阿弥は「第一に『ぜひ初心忘るべからず』、第二に『時々の初心忘るべからず』。第三に『老後の初心忘るべからず』」の、3つの「初心」について語っています。

「ぜひ初心忘るべからず」 若い時に失敗や苦労した結果身につけた芸は、常に忘れてはならない。それは、後々の成功の糧になる。若い頃の初心を忘れては、能を上達していく過程を自然に身に付けることが出来ず、先々上達することはとうてい無理というものだ。だから、生涯、初心を忘れてはならない。

「時々の初心忘るべからず」 歳とともに、その時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、その時々にあった演じ方をすることが大切だ。その時々の演技をその場限りで忘れてしまっては、次に演ずる時に、身についたものは何も残らない。過去に演じた一つひとつの風体を、全部身につけておけば、年月を経れば、全てに味がでるものだ。

「老後の初心忘るべからず」 老齢期には老齢期にあった芸風を身につけることが「老後の初心」である。老後になっても、初めて遭遇し、対応しなければならない試練がある。歳をとったからといって、「もういい」ということではなく、其の都度、初めて習うことを乗り越えなければならない。これを、「老後の初心」という。

このように、「初心忘るべからず」とは、それまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい事態に挑戦していく心構え、その姿を言っているのです。その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、新しい試練に向かっていくことができる。失敗を身につけよ、ということなのです。

今の社会でも、さまざまな人生のステージ(段階)で、未体験のことへ踏み込んでいくことが求められます。世阿弥の言によれば、「老いる」こと自体もまた、未経験なことなのです。そして、そういう時こそが「初心」に立つ時です。それは、不安と恐れではなく、人生へのチャレンジなのです。

【江戸からくり人形と雇用のお話】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=323489

江戸の「からくり人形」といえば、有名なのが上の絵の茶運人形です。 この茶運人形、人形が手にしているお盆に茶碗を乗せると、ひとりでに動いてお茶をお客さんに運びます。 そのとき、ちゃんと足も動きます。 そしてお客さんの前に着くと、きちんとおじぎをすします。 まるで「どうぞ」とお茶を進めているように、です。

お客さんがお茶を飲み終わって、お盆の上に茶碗を戻すと、今度はちゃんと方向転換して、もといた場所に戻ってきます。 実によくできたものです。 こうした「からくり人形」を、現代に伝えてくれたのが、「からくり半蔵」と呼ばれた土佐藩の細川半蔵頼直(ほそかわはんぞうよりなお)が、寛政八(1796)年に書いた『機巧圖彙(きこうずい)』という本です。

庶民が買ってくれるから、技術が進み、より精度の高い、これまた世界の王侯貴族のどんな贅沢品をもしのぐほど精巧なものができあがっていました。

西洋にせよ東洋にせよ、文化遺産とか美術品などは、ことごとく王侯貴族のものです。 王侯貴族のために造られ、王侯貴族が楽しみ、王侯貴族の富を象徴するものでした。 庶民のための文化、庶民の楽しみのための文化物や工芸品となると、極端に数が減ります。

けれども日本の場合、庶民の楽しみが、第一でした。 技術も庶民のために多くが開発されました。 そうしてより高い技術が、競い合って磨かれてきました。 そしてそれらは、どこまでも庶民が楽しみ、庶民の生活にうるおいを与えるものとして開発され、技術が磨かれてきました。 そしてそのことは、雇用にも活かされていました。

江戸時代までの日本は、人がどこまでも大切にされた社会です。 商店も、物流も、製造業も、すべては人のためにあるものでした。 ですから、たいせつなことは、いかに儲けるか、そのためにいかに人件費を減らすかではなく、ひとりでも多くの人が食べていけるようにしていくことに価値が置かれていました。

ですから価値があるのは、儲かっている企業ではなく、ひとりでも多くの人を養ない、食べていかせることができるお店、あるいは藩、あるいは地主農家が、偉い人でした。 そういう社会観念が、世の中の中心でした。

社会全体を見てみると、結局のところ、人を大切にしている企業が生き残っています。 人は石垣、人は城なのです。 洋風化した企業は、短期的に利益を極大化させ、成功したように見えても、瞬く間に衰退します。 また、どんなに古くからある企業でも、道を踏み間違えれば、存続はできなくなります。 世の常です。

効率重視、利益重視の経営とかいうけれど、そもそも産業にせよ商業にせよ企業にせよ、究極的には、そこに従事している人々が、幸せになるために、存在しているものであるように思えるのです。

【折口信夫『日本藝能史六講』 「足拍子」の起源】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=289458

「足拍子」、つまり、役者・演者が舞ったり踊ったりしながら、音楽にあわせて舞台の上でドン!と足踏みをし、大きな音を鳴り響かせる「足拍子」は、能でも、狂言でも、歌舞伎でも、日本舞踊でも、ごく当たり前のようにあちこちで多用されているのです。でも西洋の踊りではあまり見たことがないし。・・・一体これは何なんだろう? 日本伝統芸能における独特の技法なのか? と、とても不思議に思っておりました。(足拍子のない伝統芸能もあります。念のため)。

そんな時ふと手に取ったのが、折口信夫の『日本藝能史六講』(講談社学術文庫)でした。1941年(昭和16年)、折口信夫が公開講座でおこなった、日本の芸能がどのように発生していったかについてのスリリングな講義録。

まず先に結論を言ってしまうと、この足を踏み鳴らすという動作は、実は、「鎮魂」の意味があったのだそうです。引用は、以下。

>(日本の芸能の)無意識の目的は大体考へることが出来る。つまり簡単に言へば、それは一種の鎮(しづ)め――鎮魂といふことに出発して来ているやうに思はれることであります。この鎮魂といふことは、外からよい魂を迎へて人間の身体中に鎮定させるといふのが最初の形だと思ひますが、同時に又魂が遊離すると、悪いものに触れるのでそこに病気などが起るといふことから、その悪いものを防がうとする形のものがあります。

>日本の芸能でこの傾向を持ってをらないものはないといふほどの、共通の事項を取出してみるといふことならば、先(まず)、第一に挙げなければならぬのは鎮魂と まう一つ同じに考へられ易い反閇(へんばい)といふことであります。

>この二つが一つになり二つになりして日本の芸能の凡(あら)ゆる部面に出てまいります。その中の一つ、或は二つが這入っておらぬ芸能は考へにくい位であります。

折口信夫によると、「鎮魂」には二つの形がある、と。一つは、「良いスピリットを呼んでこちらに定着させる」という形。もうひとつの鎮魂の形は、「悪いスピリットが出てこないように押さえつける」という形。

そこでググッとクローズアップされてくるのが、「大地を踏む」という動作なのです。

「良いスピリットを呼んでこちらに定着させる」という意味での「鎮魂=足踏み」は、『古事記』『日本書紀』の有名な「天岩戸伝説」がよい例として挙げられています。その後、さらに混じってきたのが、中国大陸からやってきたと思われる「反閇(へんばい)」という歩行法。平安~鎌倉時代、呪術を行う陰陽師(おんみょうじ)は、呪文を唱えながら五方に向かって足踏みをし、悪い霊がやってこないよう足で踏み鎮めるということをやっていたそうで、これを「反閇(へんばい)」と言ったそうなのです。

>ともかく能を見ても、足拍子を踏む場合が度々ありますが、譬えば道成寺の中の乱拍子などは最も思ひ合せられませう。これは能ばかりではありません。日本の近代の舞踊をみましても、足拍子といふものからは離れられない位で、日本の藝能をよく観察しますならば、何処かで足拍子を踏まう踏まうとしていた昔の約束の伝承されているのが窺える筈であります。舞台へ出るといふことが、つまり力足を踏むといふ目的をもっていたのです。

>而もこれはただ舞台ばかりではなく、御殿に畳を敷いたり、或は地上に莚(むしろ)を敷いて其の上を踏むといふことがあります。つまりその敷物がその場所、或はその村全体と見立てられてをるのです。吾々はむしろ近世の芸能の上にどうしてこんなに反閇が印象深く残っているかと驚くばかりです。譬へて申しますと、歌舞伎役者にしても、一番先に役者の役者らしさを鑑定するのは、舞台で両足の指を逸らして居るか否かといふことです。足の指先の踏む用意をしてをる、といふことなのでせう。

「鎮魂」という初期の意味が忘れられた後にも、なお「足を踏み鳴らす」という動作がえんえんと引き継がれてきて、今に至る。「足を踏み鳴らす」という動作は、「鎮魂」である以前に、おそらく「快楽」だったのではないでしょうか。

さらに言うならば、この「足拍子」、実は、楽器としても工夫されてきたのですよ! たとえば、能においては、音響効果を考えて舞台は総ヒノキで作られ、床下には通常7~10個ほどの甕を置いて、足拍子が美しく響くよう調節しています。また、歌舞伎舞踊や日本舞踊でも、舞台の上に「所作台(しょさだい)」というヒノキ製の置き舞台をさらに重ねて、足拍子がいい音で響くように工夫しているのです。

要するに、能でも歌舞伎でも日舞でも、その足拍子の音を聞く・感じるだけで、人間がとっても気持ちがよくなるよう、ちゃんと計算されているのです。これには逆らえません。足拍子は、鎮魂の動作としての聖なる意味をもつだけでなく、いい音を鳴らす楽器としても、リズムを刻む楽器としても、開発されてきた、というわけで。足踏みひとつで、なんと奥の深いことよ・・・。

【外国人から見た日本と日本人(芸術編)】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=171817

■日本人の縄文体質が創造する芸術は、外国の有名な芸術家をも驚嘆させるような本源性、普遍性を持っていたようです。  普通の人達が全ての存在を畏敬し受け入れ委ね、そして共認するために創造したからこそ現代にまで継承されているのだと思います。

~以下「日本・どんな国?・・・外国人の見たニッポン」より引用。

■ヴィンセント・ウィレム・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)オランダ画家

「ゴッホの手紙」より

●日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり、哲学者であり、知者である人物に出合う。彼は、歳月をどうすごしているのだろう。地球と月の距離を研究しているのか。いや、そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いや、そうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、次には季節を、田園の広々とした風景を、さらには植物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして、彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼が自らが花のように、自然の中に生きていくこんな素朴な日本人がわれわれに教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。 (中 略)  僕は、日本人がその作品のすべてのものにもっている極度の明確さを、羨ましく思う。それは決して厭な感じを与えもないし、急いで描いたようにも見えない。彼らの仕事は呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように簡単に、楽々と確かな数本の線で人物を書き描き上げる。ああ、僕もわずかな線で人物が描けるようにならなければならない。

■エドウィン・アーノルド(1832-1904)イギリス ロンドンの詩人

地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国

●「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」 明治22年(1889)

■ブルーノ・タウト(1880-1938) ドイツ近代を代表する偉大なる建築家。

(伊勢神宮の社殿建築を評して)

●伊勢は世界の建築の王座である。芳香高い美麗な桧、屋根の萱、これらの単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬ迄に、よく構造と融合している。形式が確立された年代は正確にはわからず、最初にこれを作った人の名も伝わらないこの建築は、恐らく天から降ったものであろう。

■エミール・E・ギメ(1836-1918)フランス 実業家にしてバレイやオペラの作曲など芸術にも手を染める。

「東京日光散策」より

●「初めから日本人は、自分たちを取り巻いている自然に驚嘆していた。日本人は慈悲深い大地と、魚がたくさんいる海を崇拝した。神々が彼らを幸福にしてくれるのだと心底から考えた。(中略)日本人は黙想し、手を合わせ、頭を下げて礼拝したのだ。誰を、何をだって?・・・・・・・すべてをだ!」

■アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)理論物理学者

~「関門・福岡のアインシュタイン訪日最後の一週間」より~

●この自然に適応した生活様式はどこまでも貴いものです。できるものならば、この日本の生活と様式をいつまでも楽しみたいもので、もし私は事情が許せば、日本に永住してもよいと思っているくらいです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3371.html
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2024/07/13 (Sat) 16:22:26

日本古美術保存協会・専務理事 細矢 隆男
枯山水庭園と簡素化、そして夜の美学
https://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_5/post_968.html

 今回は日本の庭園、特に枯山水という独特の庭園様式と銀閣寺の独自性、そして能楽について書いてみたい。

 枯れた山水とは何か?山水とは自然の山とそこに流れる川をいうのであるから、水が枯れていたのでは話にならないではないかと思われるであろう。大自然の雄大さを自分の庭に持ち込もうとした試みがその背景にあることは言うまでもないが、大自然を小さな庭にそのまま持ち込むことは、対象が広大すぎて不可能なことである。そこで小さい世界に縮める、すなわち縮小する、ミニチュア化することからはじまる。それはまた省略の歴史そのものでもある。余計なものは省く。簡略化する。水の代わりに白い砂が使われる。盆栽のルーツは中国で、それが平安時代に日本に伝わったとされる。まさに一遍上人の国宝の絵伝の「筑前の国の武士の館」の縁側に見られる盆栽が資料性の高い初現ではないか。それは次第に愛好者を増やしてゆくが、ある意味で「省略、簡略」化の日本の美学の歴史にも沿っており、広大な自然を一幅の絵に描いた雪舟の色を省略した白黒の世界である水墨画にもその傾向は顕著である。

 「能」は足利義満の時代に、世阿弥が大成した世界である。能の最もすばらしいところは、その省略性にある。舞台には最小限の小鼓、大鼓、笛、謡いが静かなたたずまいで控え、正面には松の絵が見えるのみである。小道具が時々使われるが、それはもう最小限の「かたち」を示す程度でしかない。能を鑑賞する側からみると、面(おもて)の中で発せられる謡は聞きにくく、意味すら判じにくい。事前の勉強が必要、いや当時の観る側、すなわち貴族はそうした知識を教養として身に付けておかねばならなかった。吉野が舞台で、桜が散っているとシテが謡えば、吉野山の風景が眼に浮かび、そこにある古桜の花びらが風に舞っている有様を想像しなければいけない。そのように能はあらゆる意味において、最高の教養と体験、最もふさわしい場を自分の脳裏に描き出し、作者の言わんとする核心を即座に理解しないといけないのだ。省略という点において「能」はその究極といえる。庭も同じだ。有名な「竜安寺石庭」。


観る者の心のありようによって見方が変化する石の庭園

 この庭に配置されたそれぞれの石は「どうだ、おまえはこれをみて何を思うか?」そう問いかける。見る者によってそれぞれの心に浮かぶ想いが異なる。禅問答のようであるが、素直に感じればいい。絶対的に正しい答えなどない。海に浮かぶ島のようだ・・とか、雲の合間に顔を出す山の頂きのようであるとか、宇宙に広がる空間に浮かぶ星々のようだとか、何でもいい。その観る者の過ごしてきた人生経験の世界と想像、観念の世界がそこに表現される。「絶対の答え」ということなど存在しない、個人によってその人生もそれぞれ違うように、その感じ方も大きく違う。その振幅の幅が禅的世界観とも、芸術感覚ともいえる。さらに哲学ともいえるのである。であるから禅の世界には芸術家が生まれやすい土壌が形成される。日本の芸術、美術の奥深さ、すごさはこうした世界に類例のない省略の世界観を室町という時代に創り上げたことだ。もちろんそこには仏教という大きな思想的世界が背景にあることはいうまでもない。

 外国のオペラや劇には大道具、小道具はひしめいて、演出者の世界を観る者に解りやすく、具体的に、より現実的に示そうと試みる。それが演出だ。ところが日本の能では「演出者」は観る者自身なのだ。日本の室町の能のように、省略に徹した芸術は海外には存在しない。

 生け花、すなわち華道も自然の花を室内に持ち込むことにおいては同じ発想の流れにある。自然をひとつの小さな世界の中に閉じ込めること、すなわち都会で田舎の大自然を楽しもうということは、そうした省略の方向づけがなされてはじめて大きな花の咲く空間が部屋の一隅に集約される。料理も建築も同じだ。

 足利義満の時代のいわゆる「北山文化」の歴史的特徴としては、中国文化、とりわけ禅宗の影響を強く受けたことがあげられる。鎌倉時代から武士を中心に新しい宗教として信仰されてきた内向的な禅宗は、次第に日本の文化や芸術の中に溶け込み、その担い手は武士から庶民、町人に広く浸透して行くこととなった。

 村田珠光、利休とその茶の師である武野紹鴎などによる侘び茶の展開も禅宗の影響が大きく影を落としている。さらに茶道の中に禅宗的な庭が取り込まれ、その簡素さ、精神性、枯淡美を取り入れるなど、後の侘び茶道の方向性に極めて強い影響を与えたと考えられる。

 同じ室町時代に作られた金閣寺と銀閣寺にも大きな意味、象徴性が隠されている。金と銀、太陽と月、昼と夜、明暗、陰陽など、日本文化は常に2つの世界の対比、すなわち二元論的世界観が基本になっている。金はもとより宝であり、冨の象徴であり、精神的には阿弥陀浄土の色彩である。反面、銀は渋く、それでいて高貴な色彩をおび、いぶし銀という言葉に代表されるような、渋く控えめな光沢を持っている。金を代表する建築物が金閣寺で、銀を代表する建築物が銀閣寺である。ところが金閣寺には金が貼られ、黄金色に輝いているが、銀閣寺には銀はどこにも貼られていない。木造の単なる書院造り。義政に銀を貼る財力がなくなったからだとかの理由がまことしやかに伝えられたが、銀閣には元々銀が貼られる予定はなかった。それは何故かというと、銀閣は銀、すなわち月の光、夜を象徴する寺だからである。門を入ると、銀閣の手前に白い盛り砂の「銀沙灘(ぎんさだん)」がある。そして銀閣と銀沙灘の間に向月台がある。この向月台の形は円錐型の上三分の一を横に切り取った形をしている。


銀沙灘 向月台 そして銀閣を望む

 そして銀閣を背にして立つと、前には池が広がっている。銀閣の正面には東山がひかえ、夕闇が迫り、暗黒の世界が出現するとそこから月がのぼり始める。銀閣は月の出に真正面に向いている。実はこれからが銀閣の世界なのである。

 こうした月夜に足利義政は銀閣の二階に上り、庭を見下ろす位置に立つ。右下に実際の池が東山からのぼった月を映してキラキラ輝いている。左に目を転じると、月の光に照らされた銀沙灘があたかも大海のように照らし出されているのが見える。その手前には円錐型の上面に月の光が反射して、架空満月を演出している。義政のいる銀閣の上から観ると「実」と「虚」の対比世界が巧妙に演出されて見えるのである。まさに日本美術史上かつてない新しい試みの世界が足利義政によってつくり出されたのである。


筆者による想像のイラスト・義政の観た銀閣の不思議な「虚」と「実」の世界

 その美学は後に小堀遠州等によって「桂離宮」の観月台に引き継がれるが、しかし銀閣は単なる月見を楽しむ場所ではない。義政は応仁の乱の時でさえ、この銀閣にこもっていたという。義政の父は足利六代将軍義教(よしのり)で、赤松満祐に嘉吉の変で暗殺された。義教は信長の手本となった人物ともいわれ、恐怖政治ともいえる強権をふるいすぎた末の暗殺であった。下克上の世の始まりである。その義教の子が義政である。義政の将軍就任以後、天下は乱れ、応仁の乱が勃発する。その全国を二分する大乱の中で義政は銀閣に閉じこもった。政治的には無能と言われる義政であるが、そうせざるを得なかった義政の気持ちは理解できる。将軍という権力のむなしさを彼はまさに実感していたに違いない。「虚」と「実」を見極める場、「空」すなわち、うつろう実相の中において哲学的に「実」は「虚」ではないのか、さらにそこから「生」と「死」を考えたのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

 この虚と実の対比、対立が抽象とか象徴という概念を生みだすことにつながってゆく。熟した自由な見方、自由な考え方、その自由な組み合わせと対比・・・そこにこそ次なる芸術の飛躍が待っている。

https://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_5/post_968.html
7:777 :

2024/07/13 (Sat) 16:26:21

懐石料理

懐石料理 - 検索 画像
https://www.bing.com/images/search?q=%e6%87%90%e7%9f%b3%e6%96%99%e7%90%86&form=HDRSC3&first=1

懐石 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3

天才料理長を失った嵐山_吉兆と雲仙_半水盧のその後
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/276.html


懐石(かいせき)とは、本来茶の湯において茶会の際、会の主催者である亭主が来客をもてなす料理をいい、禅寺の古い習慣である懐石にその名を由来する。懐石料理とも呼ばれる。懐石を弁当にしたものを点心という。

懐石料理とは茶道の形式に則した食事の形式である。利休時代の茶会記では、茶会の食事はただ「会」とのみ記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことが分かる。江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石(おんじゃく)に通じる「懐石」の文字が当てられるようになった。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めた蒟蒻(こんにゃく)などを布に包み懐に入れる暖房具を意味する。

「懐石」が料理に結び付く経緯は諸説ある。一に修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れたことから、客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったとする説。また老子の『徳経』(『老子道徳経』 下篇)にある被褐懐玉の玉を石に置き換えたとする説などである。

天正年間には堺の町衆を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜(或いは一汁二菜)が定着した。これは『南方録』でも強調され、「懐石」=「一汁三菜」という公式が成立する。また江戸時代には、三菜を刺身(向付)、煮物椀、焼き物とする形式が確立する。さらに料理技術の発達と共に、「もてなし」が「手間をかける」ことに繋がり、現在の茶道や料亭文化に見られる様式を重視した「懐石」料理が完成した。なお、『南方録』以前に「懐石」という言葉は確認されておらず、同書を初出とする考えがある。

『お茶会』と『お茶事』は違う。「お茶事」は、一昼夜行うことであり、「お茶会」は、ただ単に、お菓子を食べ、お抹茶を飲むことを指す。

懐石料理と「茶懐石」

現代では茶道においても共通する客をもてなす本来の懐石の意味が廃れ、茶会の席上で空腹のまま刺激の強い茶を飲むことを避け、茶をおいしく味わう上で差し支えのない程度の軽食や類似の和食コース料理を指すといった実利的な意味に変化している。

懐石料理は茶会以外の場、例えば料亭や割烹などの日本食を扱う料理店を初めとして様々な飲食店で提供される饗応料理である会席料理と同じ「カイセキ」の発音の混同を防ぐため、茶事を目的とする本来の懐石を特に「茶懐石」と表して区別することもある。この一因には、料理店で提供される際に、会席料理を持ち出す順序、提供される順序などが「茶懐石」と若干異なることにある。例えば茶懐石で初めに提供される飯と味噌汁は料理屋の会席では省略され、先に八寸が提供されることが多い。また一人一人に料理が盛って持ち出され、茶席におけるように、取り回し時に特別の作法を言われぬことなど、総じて料理屋で食べる会席料理は打ち解けたものであることが多い。また料理店によっては料理のみを提供し、料理の後に薄茶の提供がないこともままある。

加えて、懐石料理は本来量が少なかったことから、量の少ないコース料理全般を懐石と呼ぶ傾向があり洋風懐石や欧風懐石といった名称の料理が存在する。

懐石の流れ

飯、汁、向付
飯碗、汁碗、向付を乗せた折敷(おしき、脚のない膳)を亭主自ら運び、客に手渡す。膳の手前左に飯碗、手前右に汁碗、奥に向付が置かれ、手前に利休箸(両端が細くなった杉箸)を添える。箸置は用いず、箸は折敷の縁に乗せかけてある。飯碗と汁碗は塗り物の蓋付き碗、向付は陶器製の皿を用いるのが普通である。飯碗には炊きたての柔らかい飯を少量盛り、汁碗の味噌汁も具が頭を出す程度に控えめの量にする。向付は一汁三菜の1菜目に当たるもので、なます、魚の造りなどを盛る。飯は一口程度を残し、汁は全部吸い切り、向付は酒が出されてから手を付けるのがマナーとされている。客が汁を飲み切った頃合を見て、亭主が銚子と盃台(客の人数分の盃が乗っている)を運び、客に酒を注ぐ。客はここで向付の肴に手を付ける。酒は懐石の中で3回ほど出される。


煮物
1献目の酒が出された後、一汁三菜の2菜目に当たる煮物碗が出される。煮物碗は飯碗や汁碗よりやや大きめの蓋付き碗を用いる。煮物は懐石のメインに相当する料理であり、しんじょなどを色取りよく盛る。煮物に続いて飯次(飯器)が出され、客は各自の飯碗にお替りの飯を付ける。また、亭主から汁替えが勧められ、味噌汁のお替りが運ばれる。


焼物
焼物は一汁三菜の3菜目に当たる。煮物碗が客一人一人に配られるのに対し、焼物は大きめの鉢に盛った料理(焼魚など)を取り回す。取り箸は青竹か白竹製で中節の取り箸を用いる[1]。客は鉢からめいめいの食べる分を取り箸で取り分け、向付か煮物碗の蓋に取る。なお、焼物は重箱で出す場合もあり、その場合は重箱の下の段に焼物、上の段に香の物を入れる。ここで2度目の飯次が出され、2度目の汁替えも勧められるが、汁替えは客の方で断るのが通例となっている。また、煮物の後か焼物の後に2献目の酒が勧められる。


預け鉢
現代の茶事では、一汁三菜に加え「預け鉢」あるいは「進め鉢」と称して、もう1品、炊き合わせなどの料理が出されることが普通である。これも焼物と同様に、大きめの鉢に盛り合わせた料理を天節(止節、節が持ち手の端にあるもの)の取り箸で取り分ける[1]。なお、流派によっては「預け鉢」そのものを「強肴(しいざかな)」と称する場合もある。


吸物
食事の最後に出される小さめの吸物で、「箸洗い」「すすぎ汁」とも称する。以後は盃事となる。


八寸
八寸(約25cm)四方の杉の素木の角盆(これを八寸という)に、酒の肴となる珍味を2品ないし3品、品よく盛り合わせる。2品の場合は、1つが海の幸ならもう1品は山の幸というように、変化をつけるのがならわしである。亭主は正客の盃に酒を注ぎ、八寸に盛った肴を正客の吸物碗の蓋を器として取り分ける(両細の取り箸が用いられ、それぞれの端が酒肴によって使い分けられる[1])。酒と肴が末客まで行き渡ったところで、亭主は正客のところへ戻り、「お流れを」と言って自分も盃を所望する。その後は亭主と客が1つの盃で酒を注ぎ合う。盃が正客から亭主、亭主から次客、次客から亭主、と回ることから、これを「千鳥の盃」と称する。

客が上戸の場合は、さらに「強肴」(しいざかな)と称される珍味が出される場合もある(強肴は「預け鉢」の前後に出される場合もあり、「預け鉢」そのものを「強肴」と称する流派もある)。


湯と香の物
納盃した後、湯桶(湯斗、湯次)と香の物が出される。湯桶には湯と共に「湯の子」が入っている。湯の子は飯の「おこげ」が本来だが、あられ等で代用することもある。添えられた湯の子すくい(柄杓)で湯の子を取って飯碗と汁碗に入れた後、両碗に湯を注ぎ、飯碗に少量残しておいた飯で湯漬けをする。香の物は一片を残しておき、これで碗をゆすぐ。最後は湯を全部飲み切り、器を懐紙で清めて亭主に返す。これは禅寺の食事作法を取り入れたものである。


菓子
食事の後に菓子が出される。菓子は縁高(ふちだか)と称する重箱に入っており、黒文字と称する木製の楊枝が添えられている。縁高は客の人数分重ねられ、1段に1個の菓子が入っている。正客は縁高の一番下の段を残し、残りを次客に送る(次客も同様にする)。菓子は懐紙に取り、黒文字を使って食する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%9F%B3#.E6.87.90.E7.9F.B3.E6.96.99.E7.90.86.E3.81.A8.E3.80.8C.E8.8C.B6.E6.87.90.E7.9F.B3.E3.80.8D


参考D 会席料理

会席料理は宴席に供される料理である。本膳料理が廃れた現在、日本料理に於いては、儀式などで出される最も正統な料理形式である。会席とはもともと連歌や俳諧の席のことであり、呼称の似た「懐石料理」と混同されがちだが、ルーツは同じであるものの、近世以降は明確に区別されている。懐石料理は茶を楽しむためのものだが、会席料理は酒を楽しむためのものである。江戸時代には会席が料理茶屋(りょうりぢゃや)で行われるようになり、酒席向きの料理が工夫されるようになった。

会席料理の献立は、一汁三菜(吸い物・刺身・焼き物・煮物)が基本である。さらにお通し・揚げ物・蒸し物・和え物・酢の物などの酒肴が加えられ、最後に飯・味噌汁・香の物、水菓子となる。

伝統的な例 [編集]

1.先付(さきづけ) ・・・ 前菜
2.椀物(わんもの) ・・・ 吸い物
3.向付(むこうづけ) ・・・ 刺身
4.鉢肴(はちざかな) ・・・ 焼き物
5.強肴(しいざかな) ・・・ 煮物
6.止め肴 ・・・ 原則として酢肴(酢の物)、または和え物
7.食事 ・・・ ご飯・止め椀(味噌汁)・香の物(漬物)
8.水菓子 ・・・果物

ご飯、止め椀、漬物は同時に供される。ただし上記以外にも油物(揚げ物)や蒸し物、鍋物が出ることがある。油物が供される場合には一般に強肴のあとである。 飲み物は基本的に日本酒、または煎茶である。近年はほうじ茶やコーヒーが出されることもある。 明治時代以降は肉も出される。シチューなどの洋食の皿が交えられたり、デザートとして洋菓子が供されたり、ご飯の代わりに蕎麦やうどんが出されることもあり、上記のような献立の流れに必ずしもとらわれるものではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%B8%AD%E6%96%99%E7%90%86


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2024/09/11 (Wed) 07:40:02

「音楽&オーディオ」の小部屋
人生の最終的な勝利者とは
2024年09月11日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/b6af2f770594a47e4170817b0a6ea806

作家の「井上 靖」氏、「司馬遼太郎」氏、「松本清張」氏のお歴々の「鼎(てい)談」とくれば見逃す手はない。

どなたも「故人」なので、過去の「鼎談」や「対談」を寄り集めて発行した本である。

興味深く読ませてもらったが、長年の疑問が一点だけようやく氷解したので、それに絞って記録しておこう。

その疑問とはこうである。

「血で血を洗うほどの凄まじい戦国時代の猛将たちが、なぜあれほど静穏極まる茶の湯に没頭したのか」

な~に、取るに足りない「ささやかな疑問」だが(笑)、これに関して以下の通り引用してみよう。

井上「大体において戦国の武将はみんな字がうまいですね。家康や秀吉に限らず戦国の歴史に名を出している連中は、だいたい立派な字を書いてますね」

松本「やっぱり教養の一つでしょうね。だから各国の禅僧を手元に置いたりして、信玄なんか五山文学をささえて、それから山口の大内ね、幸い応仁の乱で禅僧たちは京都で食えないから、地方大名に保護を求めて行った。」

井上「それからお茶ですね。茶道具というものをそれぞれ大切にしているけれども面白いことですね。僕など凡人は乱世になったら、そんな余裕はないな、まず勝たなければならないと思うんだけれども。」

司馬「そういう意味で言えば文化というか、そういうものへの憧れは我々の想像以上に強かったようです。」

井上「強いですね。今の時代は茶がなくとも生きられますけれども、あの頃は生きられなかったと思います。ほんとにあの頃は茶というものが、彼らの持っていた死生観の中に生きていたと思います。それほど凄まじい時代だったでしょう」

司馬「それを非常に殺風景に解釈すると、茶や茶室というものは非常に利用価値があった。たとえば松本清張先生と私が話をするときは松本先生が上段の間に座って、室町時代の作法だと私のような若輩ははるか下へ座って、顔を上げちゃいけないんです。

ですから将軍が「これからお前と協力して信濃国を盗ろうと思うがお前はこうしろ」とディテールを話そうとしても、数十歩を隔ててですから、できない。それは室町の小笠原流ですね。

それで対面の式が終わったあとで、茶室へ行こうというので行くと、松本清張将軍は亭主に過ぎない。それから私は客に過ぎないでしょう。そうすると、亭主と客というだけの無階級の場で、一尺隔ててのことですから、非常にディテールを話すことができる。

つまり、お茶というものが政治工作にどれだけ大きな役割を果たしたか、想像を絶するほどですね」

とまあ、以上の通りで「茶の湯」にそういう役割があったなんてまったく「目からうろこ」で、猛将たちが茶の湯に勤しんだのも風流どころではなくて「生き残る」ためだった!

「茶席での内密の話」を知り過ぎた「利休」が権力を持っていくのとは裏腹に危険視されて秀吉から切腹を命じられたのもわかるような気がしてくる。

それにしても戦国時代の「茶席」の意義は現代における「ゴルフ」に通じるような気がしてならない。

大事な商談をはじめ組織での重要なポイントや人事などが公式の場を離れて私的なゴルフのときの身近な会話を通じて決められていく・・。

したがってゴルフをしない人は 出世競争から自然と脱落・・。

というわけで「音楽&オーディオ」に割く時間を「ゴルフ」に充てていたらもっと偉くなれたかもしれない・・、「後悔先に立たず」だけど、今となっては組織でどんなに偉くなって退職を迎えようとも、その後の人生においては大差ない気がする。

「人生の最終的な勝利者」とは、健康で長生きして趣味を存分に楽しんで(人生を)謳歌した人間だよね~、ま、人それぞれだけどね(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/b6af2f770594a47e4170817b0a6ea806
9:777 :

2024/09/22 (Sun) 07:11:15

後輩ちゃんたちと初めて茶道体験!和菓子を作ってみた!外国人女子の反応は?‪@yanacchi‬
あしや 2024/09/21
https://www.youtube.com/watch?v=l71YE9CD9Vs

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