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桜井万里子『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』

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2024/02/26 (Mon) 15:05:43

雑記帳
2024年02月24日
桜井万里子『歴史学の始まり ヘロドトスとトゥキュディデス』
https://sicambre.seesaa.net/article/202402article_24.html

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 講談社学術文庫の一冊として、2023年4月に講談社より刊行されました。本書の親本『ヘロドトスとトゥキュディデス 歴史学の始まり』は2016年に山川出版社より刊行されました。電子書籍での購入です。まず、現代日本社会でも知名度が高そうな、おもにペルシア戦争を題材とした『歴史』の著者ヘロドトスと、ペロポネソス戦争を題材とした『戦史』の著者トゥキュディデスの基本的な情報ですが、推定生没年は、ヘロドトスが紀元前484~紀元前420年代、トゥキュディデスが紀元前460~紀元前400年頃です。両者には親子くらいの年齢差がありそうです。

 ヘロドトスは、小アジア南西部のカリア地方のエーゲ海沿岸に位置するハリカルナッソス(現在のホドゥルム)で生まれ育ちました。ハリカルナッソスは、紀元前900年頃にペロポネソス半島東北部のトロイゼン出身者により建設されたドーリス系ポリスですが、紀元前5世紀には文化はイオニア系になっており、ヘロドトスもイオニア方言で執筆しました。ハリカルナッソスでは周辺のカリア人との通婚も盛んで、ギリシア人とカリア人が混在していました。ヘロドトスは名門出身だったようですが、父のリュクセスという名はカリア系で、従兄弟もしくはオジに叙事詩人のパニュアッシスがいたように、知的・文化的環境で育ったようです。ヘロドトスとパニュアッシスは僭主リュグダミスの追放に関わりましたが、同胞市民の妬みを恐れて亡命します。ヘロドトスは小アジアからわずか1.8km西方に位置するサモス島に行き、サモス島では紀元前10世紀頃にイオニア方言のギリシア人が定住を始めました。その後、ヘロドトスはペルシアやエジプトなど各地を旅して、アテナイにも一時滞在しました。ヘロドトスは紀元前444年にイタリア半島南部に建設されたギリシア人の植民市トゥリオイに移住し、そこで亡くなったか、ペロポネソス戦争勃発時にアテナイに戻っていた、と推測されています。ヘロドトスの『歴史』執筆時期は不明ですが、紀元前425年に上演されたアリストファネス作『アカルナイの人々』に『歴史』のもじりと推測される台詞があることから、紀元前425年までに『歴史』はアテナイの人々に知られていたかもしれません。

 トゥキュディデスはアテナイの名門出身で、紀元前470年代~紀元前460年代にかけてアテナイを指導した政治家キモンと血縁関係があったようです。トゥキュディデスはペロポネソス戦争中に数度軍役を経験し、紀元前424年にはエーゲ海北岸のアンフィポリスに将軍として遠征しています。しかし、この遠征でスパルタからアンフィポリスを奪還することに失敗して追放処分となり、以後20年間ほど亡命生活を余儀なくされました。トゥキュディデスはこの亡命中に、ペロポネソス半島のアルゴスやコリントスに滞在し、情報を収集したようですが、トラキアのパンガイオン山に鉱山の権益を有していたので、トラキア地方に滞在したと推測されています。トゥキュディデスはペロポネソス戦争でアテナイが敗北した後の紀元前404年にアテナイに帰国し、紀元前400年頃に死亡したようです。この推定没年は、紀元前400年以降もトゥキュディデスが存命ならば、『戦史』でのアテナイの決定的敗北との評価も変わっていたのではないか、との推測に基づいています。たとえば、トゥキュディデスの未完の作品を引き継いだテオポンポスは紀元前394年まで完結を引き延ばしています。

 このように、ヘロドトスとトゥキュディデスには、名門出身のギリシア市民で亡命生活を送った、という共通点があります。この亡命生活は、幅広い情報収集に役立ったでしょう。本書は、ヘロドトスとトゥキュディデスの著作がそれぞれ『歴史』と『戦史』と訳されていることから、両者ともに一般的には歴史と考えられているものの、当時世界には「歴史家」という言葉も「歴史」という分野もまだ存在していなかったことから、両者を「歴史」と判断することに慎重です。また、当時は作品に署名を関する習慣もありませんでした。ヘロドトスは『歴史』では、著述の方法として「ヒストリエー(調査・探求)」という言葉が用いられており、これが「歴史」の語源となりますが、当時は現代の「歴史」という用語と意味が完全に一致しているわけではありませんでした。一方のトゥキュディデス『戦史』では、ヘロドトスを意識しているような箇所も見られますが、ヘロドトスは直接的に言及されておらず、「ヒストリエー」も用いられておらず、類似の言葉として「ゼーテーシス(追及)」が使われています。ヘロドトスもトゥキュディデスの執筆は、『イリアス』や『オデュッセイア』のように戦争を対象とした文学的作品の延長上にあったものの、新たな一歩を踏み出す意気込みが両書の冒頭から窺える、と指摘します。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んだのはローマ共和政期のキケロでしたが、すでにアリストテレスが紀元前4世紀にヘロドトスを歴史家と呼んでいました。つまり、ヘロドトスとトゥキュディデスの頃から100年ほど経過した頃には、ギリシア世界では現代と完全に一致するわけではないとしても「歴史」という分野が確立していたわけで、未完に終わった『戦史』を書き継いだ作者は、少なくとも3人いました。

 ヘロドトス『歴史』に荒唐無稽な話が多いことは古くから指摘されていますが、そもそもヘロドトスには叙述の対象を事実のみに限定する意図はなかった、と本書は指摘します。これと関連して、ヘロドトス『歴史』は歴史家としての視点の獲得の前後で区別される、との見解もあります。ヘロドトスに対する「嘘つき」との批判は、すでに紀元前4世紀前半にはあったようです。なお、ヘロドトス『歴史』から、ペルシア戦争勃発時点でギリシア人意識がすでに定着していたようにも解釈できそうですが、本書は、ペルシア戦争を通じてギリシア人意識が形成され定着していった側面を指摘しています。ペルシア戦争については、『歴史』と真贋論争のある碑文との比較から、ヘロドトスがテミストクレスに批判的で、意識的か無意識的かはともかく、テミストクレスの際立った洞察力が目立たないような叙述をしたのだろう、との本書の指摘は興味深いものでした。

 ヘロドトス『歴史』に荒唐無稽な話が多いことを、トゥキュディデスは名指ししていないとはいえ『戦史』で批判した、とも言われています。ただ、『戦史』のヘロドトス批判と解釈されてきた一節については、ヘロドトスではなく同時代のソフィストが対象だったのではないか、との見解も提示されています。本書は、トゥキュディデスがヘロドトスに敬意を抱いていた可能性も指摘しており、たとえば、『戦史』が『歴史』で末尾に置かれた紀元前478年のセストス攻略から始まっていることなどは、トゥキュディデスがヘロドトスを意識しており、それは批判よりもむしろ敬意だったのではないか、と推測されています。この視点では、トゥキュディデスがヘロドトスに直接言及しなかった理由について、尊敬対象の直接的な名指しを避けることもあるから、と解釈されます。
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