777投稿集 2585308


山上 憶良 やまのうえの おくら (奈良県 660年 - 733年)

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2024/02/03 (Sat) 15:15:53

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山上 憶良 やまのうえの おくら (奈良県 660年 - 733年)
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山上憶良 - YouTube
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山上 憶良は、奈良時代初期の貴族・歌人。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏(山上臣)の出自とされる。

大宝元年(701年)第八次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。

神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている。


作品

好去好来の歌(第9次遣唐使大使(多治比広成)の無事の帰国を祈って送った歌)

神代かみよより 云いひ伝つて来くらく 虚見そらみつ 倭国やまとのくには 皇神すめかみの厳いつくしき国 言霊ことたまの 幸さきはふ国くにと 語かたり継つぎ 言いひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら 愛めでの盛りに 天あめの下 奏まをし給ひし 家の子と 選び給ひて 勅旨おほみこと 戴き持ちて 唐もろこしの 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 邊へにも沖にも 神留かむづまり 領うしはきいます 諸もろもろの 大御神等たち 船舳ふなのへに 導き申し 天地の 大御神たち 倭の 大國霊 ひさかたの 天の御虚みそらゆ 天がけり 見渡し給ひ 事了をはり 還らむ日には また更に 大御神たち 船舳に 御手みて打ち懸けて 墨縄を 延はへたるごとく あちかをし 値嘉ちかの岬さきより 大伴の 御津の濱びに 直泊ただはてに 御船は泊はてむ つつみなく 幸くいまして 早帰りませ
(「神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理・・・」『万葉集』巻5-894)

反歌
大伴の 御津の松原 かき掃きて 吾立ち待たむ 早帰りませ(『万葉集』巻5-895)
難波津に 御船泊みふねはてぬと 聞え来ば 紐解き放けて 立走りせむ(『万葉集』巻5-896)


唐にて詠んだ歌
いざ子ども はやく日本やまとへ 大伴の御津みつの浜松 待ち恋ひぬらむ(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)


有間皇子の挽歌
つばさなす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ(『万葉集』巻2-145)


宴を罷る歌
憶良らは 今は罷まからむ 子泣くらむ それその母も 吾わを待つらむそ(『万葉集』巻3-337)


日本挽歌
大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の國に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うちなびき 臥しぬれ 言はむ術 せむ術知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人並びゐ 語らひし 心そむきて 家離りいます(『万葉集』巻5-794)



惑へる情を反さしむる歌

父母を 見れば尊し 妻子めこ見れば めぐし愛うつくし 世の中は かくぞ道理ことわり もち鳥の かからはしもよ 行方知らねば 穿沓うけぐつを 脱ぎ棄つるごとく 踏み脱ぎて 行くちふ人は 石木いはきより 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地つちならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 谷蟆たにぐくの さ渡る極み 聞しをす 國のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに 然にはあらじか(『万葉集』巻5-800)

ひさかたの 天道あまぢは遠し なほなほに 家に帰りて 業なりを為しまさに(『万葉集』巻5-801)


子等を思しのふ歌
瓜食はめば 子供念おもほゆ 栗食めば まして偲しのはゆ 何処いづくより 来たりしものぞ 眼交まなかいに もとな懸りて 安眠やすいし寝なさぬ(『万葉集』巻5-802)

銀しろがねも 金くがねも玉も 何せむに まされる宝 子に如しかめやも (『万葉集』巻5-803)



大宰府「梅花の宴」で詠んだもの
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(『万葉集』巻5-818)


松浦佐用姫を詠んだもの
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫(『万葉集』巻5-874)


奈良時代の農民の厳しい暮らしの様子を記した『貧窮問答歌』

風まじり 雨降る夜よの 雨まじり 雪降る夜は 術すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯酒かすゆさけ うち啜すすろひて 咳しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾あれを除おきて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被かがふり 布肩衣ぬのかたぎぬ 有りのことごと 著襲きそへども 寒き夜すらを 吾われよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子めこどもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝なが世は渡る

天地は 広しといへど 吾あが為は 狭さくやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾われのみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾あれも作なれるを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 曲いほの内に 直ひた土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲みゐて 憂へ吟さまよひ かまどには火気けぶりふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊いひかしく 事も忘れて 奴延鳥ぬえどりの のどよひをるに いとのきて 短き物を 端きると いへるがごとく 楚しもと取る 里長が声は 寝屋処ねやどまで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間よのなかの道(『万葉集』巻5-892)

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)


痾やまひに沈みし時の歌(1首)
士をのこやも 空しかるべき 万代よろずよに 語り継ぐべき 名は立てずして(『万葉集』巻6-978)


七夕の歌(12首)
天漢あまのがは 相向き立ちて わが戀ひし 君来ますなり 紐解き設まけな(『万葉集』巻8-1518)


秋の野の花を詠める歌|2首)
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種ななくさの花(『万葉集』巻8-1537)

萩の花 尾花葛花おばなくずはな なでしこの花 女郎花をみなへし また藤袴ふぢばかま 朝がほの花(『万葉集』巻8-1538)



筑前国志賀の白水郎あまの歌(10首)
大君の 遣つかはさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖振る(『万葉集』巻16-3860)


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壺齋散人 山上憶良
https://manyo.hix05.com/okura/okura.index.html

山上憶良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。それらの歌には、きわめて人間臭い響きがある。

これは、憶良の歌の殆どが、六十台半ば以降の老年に書かれたことにもよる。若い頃に作った歌もあったのかもしれないが、万葉集には残されていない。

山上憶良は、晩年の筑紫国守時代に、大伴旅人と巡りあった。そこで二人は、互いに影響しあいながら、歌の世界を繰り広げていった。万葉集に残されている憶良の歌は、殆どすべてがこの時代以後のものである。それらの歌は、旅人を介して家持に伝えられ、万葉集に載せられたのであろう。

ここでは、山上憶良の歌を、テーマ別に分類して鑑賞する。


山上憶良:その生涯と貧窮問答歌
山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む)
山上憶良:日本挽歌と大伴旅人との交友
山上憶良:七夕の歌(万葉集を読む)
山上憶良:惑へる情を反さしむる歌
山上憶良:横死者を悼む歌
山上憶良:好去好来の歌(遣唐使を送る)
山上憶良:我が子の死を悼み恋ふる歌
山上憶良:沈痾自哀の文(万葉集を読む)
山上憶良:去りし日の青春と今生きる老年

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