777投稿集 2589801


山部 赤人 やまべ の あかひと (愛媛県 生年不詳 - 736年)

1:777 :

2024/02/03 (Sat) 15:04:11

日本の文学
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16835407

インターネットの電子図書館、青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/

映画・テレビドラマ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14035190

日本の旅
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037431

日本の思想と宗教
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16835412

東洋の思想と宗教
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16835414


▲△▽▼


山部 赤人 やまべ の あかひと (愛媛県 生年不詳 - 736年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%83%A8%E8%B5%A4%E4%BA%BA#%E6%B3%A8%E9%87%88


山部赤人 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B1%B1%E9%83%A8%E8%B5%A4%E4%BA%BA


山部 赤人は、奈良時代の歌人。姓は宿禰。官位は外従六位下・上総少目。三十六歌仙の一人。

山部氏(山部連・山部宿禰)は、天神系氏族である久米氏の一族・久味国造の後裔で、職業部(cf. 部民制、品部)の一つである山部の伴造家とされる。また、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定によって山部連から山部宿禰への改姓が行われている。赤人も宿禰姓を賜与されたことが『万葉集』の詞書から確認できる。

その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの正史に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。

『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。

柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と高く評価している。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする。

平安時代中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名声の高まりに合わせて、私家集の『赤人集』(三十六人集のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の巻11の歌などを集めたもので、『人麻呂集』や『家持集』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど含んでいない。『後撰和歌集』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急増するので、関連が考えられている。


作品

万葉集
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだもさわく 鳥の声かも
春の野の すみれ摘みにと こしわれそ 野を懐かしみ 一夜寝にける
吾兄子(わがせこ)に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪のふれれば

ストラヴィンスキーが曲をつけていることで知られる。


新古今和歌集
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

新古今和歌集に収録された当歌は、後に『百人一首』に採録されている。


▲△▽▼


壺齋散人 山部赤人
https://manyo.hix05.com/akahito/akahito.index.html

山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉集を代表する歌人である。人麻呂より一世代後の、平城京時代初期に活躍した。その本領は、人麻呂同様宮廷歌人だったことにある。元正、聖武天皇両天皇に仕え、儀礼的な長歌を作った。大伴家持は、柿本人麻呂、山部赤人を並べ立てて「山柿の門」という言葉を使ったが、これは宮廷歌人としての、荘厳で格式の高い歌風をさしたのだと思われる。

また紀貫之は「古今集」の序文で、「人麿は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と記して、赤人を人麻呂に匹敵する大歌人と評価している。これは褒めすぎかもしれぬが、赤人が人麻呂に並べ称されることには相当の理由があるといってよい。

山部赤人は、人麻呂の後継の宮廷歌人として、儀礼的な長歌を多く作ったほか、叙情的な短歌にすぐれていた。後の時代への影響という点では、短歌のほうが、及ぼした影響の範囲が大きい。赤人の生きた万葉中期は、長歌が依然作られる一方、短歌が次第に歌の主流になりつつある時代だった。そんな時代において、赤人はもっとも短歌らしい作品、それは抒情的な歌と言ってよいが、そうした時代に応えるような歌を歌ったということが指摘できる。

その山部赤人の最も愛された歌は、有名な富士を詠った歌(田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にぞ不尽の高峯に雪は降りける)や花鳥を題材にした叙景歌(たとえば、春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける)である。また、恋の歌にも優れたものがある。彼は、人麻呂とは違うイメージで人間の感性をのびのびと歌った歌人であり、古今集以後につながるものを感じさせる。

山部赤人はまた、下級官人として諸国を旅し、そのなかから、葛飾の真間の手古奈のような、地方の伝説に取材した歌を作った。手児奈のことは、高橋虫麻呂も歌に詠んでいるが、両者を読み比べると、それぞれの感性が窺われて興味深い。

ここでは、山部赤人について、代表的な歌を取りあげて鑑賞し、簡単な解説を加えたい。


山部赤人の宮廷儀礼歌(万葉集を読む)
山部赤人:旅の歌(万葉集を読む)
山部赤人:富士を詠む(万葉集を読む)
山部赤人の叙景歌(万葉集を読む)
山部赤人:恋の歌(万葉集を読む)
真間の手児奈伝説:山部赤人と高橋虫麻呂


  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.