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大伴 家持 おおとも の やかもち (奈良 718年 - 785年10月5日)

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2024/02/02 (Fri) 20:33:34

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大伴 家持 おおとも の やかもち (奈良 718年 - 785年10月5日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81


大伴家持 - YouTube
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大伴 家持は、奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父、安麻呂、父、旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙爵し、翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、次いで6月に越中守に任ぜられて地方官に転じる。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される一方で、223首の和歌を詠んだ。

天平勝宝3年(751年)少納言に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔、天平勝宝9歳(757年)兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の天平勝宝7歳(755年)難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。

天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、越中国赴任時に深い交流を持った大伴池主を始めとして、大伴古麻呂や大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年(759年)正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。


歌人として

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。なお、473首のうち223首が越中国在住中の歌である。

『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。

勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。

日本海軍を象徴する歌として映画やテレビドラマで度々使用された「海ゆかば」(作曲:信時潔)は、家持の「賀陸奥国出金詔書歌」(『万葉集』巻十八)に拠る。


『海行かば』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0

海ゆかば - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0


歌詞
海行ゆかば 水漬づく屍
山行ゆかば 草生むす屍
大君の 辺へにこそ死なめ
かへりみはせじ
(長閑には死なじ)


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壺齋散人 万葉の世紀(万葉集と大伴家持)
https://manyo.hix05.com/intro.html

若い頃から折に触れて読み親しんできた万葉集。様々な注釈書の世話になったが、筆者が最も参考にしたのは、齋藤茂吉と北山茂夫だった。茂吉には鑑賞のコツのようなものを学んだ。北山茂夫は本業が歴史学者だけあって、万葉人の群像を古代史の文脈の中でとらえており、個々の歌を歴史的な背景に関連付けながら読み直している。そこが得がたい魅力にうつった。

北山説によれば、日本最古の歌集「万葉集」は、大伴家持という一官人の手によって集大成され、完成形を与えられた。全二十巻のうち、最後の四巻は家持自身が自分のために書きためた私的な歌日記である。

大伴家持は、彼以前に存在した様々な歌の資料(宮廷にささげられたものの記録や、柿本人麻呂歌集のような個人の歌集)をもとに、自分自身のための作歌ノート(歌集)を作っていた。名門の貴公子として、家持には宮廷周辺に存在したと思われるそれらの資料に触れる機会があったのだろう。家持は死後、同族のからんだ事件に連座して名誉を奪われ、家財没収の憂き目に会うが、そのときに作歌ノートも没収され朝廷の所有に帰した。これが万葉集として、世に伝わることとなったのである。

家持の選んだ歌は、冒頭の雄略天皇の歌などを別にすれば、最も古いもので七世紀後半、大化の改新以降のものである。また彼自身は、天平宝字三年(759)、正月を寿いで歌ったのを最後に歌わなくなってしまった。この間にあって、万葉集がカバーする時代は約100年間である。北山茂夫は、この百年を万葉の世紀と名づけた。

ちなみに、全二十巻、四千五百十六首のうち、冒頭と棹尾を飾るそれぞれの歌を、ここに紹介しておこう。

―泊瀬の朝倉の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇のよみませる御製歌
   籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
   この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
    そらみつ 大和の国は 
   おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 
   吾をこそ 夫とは告らめ 家をも名をも

冒頭の歌は、雄略天皇の国寿ぎ歌である。万葉集第一巻には、歴代の天皇の御製歌が多く集められている。これに対して、棹尾の歌は、家持自身が新春を寿いで歌ったものである。家持にとっても、万葉集全体にとっても、最後に歌われた歌となった。

   新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事
―右の一首は、守((かみ)大伴宿禰家持がよめる。

万葉の世紀百年を大雑把に時代区分すると、和銅三年(710)の平城京遷都を境にして、前期と後期に分けられよう。前期を代表するのは額田王と柿本人麻呂であり、和歌というものが形を確立する時期だと位置づけられる。後期は、山部赤人、山上億良、大伴旅人らによって代表される。かれらは、人麻呂の確立した和歌の伝統を踏まえて、それぞれに表現の幅を広げたといえる。

大伴家持は、平城遷都の数年後、古い武門の家大伴氏の支流佐保大納言家の三代目として生まれた。父旅人は家持が十四歳のときに死んでいる。この武門の家の父子が何故和歌の道に名を残すようになったか、詳しい事情はわからない。だが、家持は若い時期から歌の才能を発揮したらしい。一方、貴族の家の当主として、政治的な立身も目指したらしい家持は、橘諸兄などの権力者に近づいたりもしたが、政治的な面ではあまり器用ではなかったらしく、権力争いの狭間にあって、始終傍観者的な煮えきらぬ態度ばかりをとっていた。

こんなことから、彼の政治経歴は地方官が多く、中央の政治地図に大きな足跡を残すには至らなかったが、晩年桓武天皇の信頼を得て高官に上り、最後には持節征東将軍に任命された。武官としては、最高の名誉だったろう。しかし、死後に生じた藤原種継の暗殺事件に同族がかかわっていたことから、累が一族全体に及び、家持もまた死後にして除名されることとはなったのだった。

家持が旺盛な作歌活動を示し、また万葉集の編纂に取り組んだのは、越中国司時代だとされる。彼は29歳のときにこの任に赴き、数年間越中に留まった。この間に、彼は先人たちの残した業績を歌集として編纂すると同時に、身辺から集めた歌や、自ら歌った歌を精力的に書き溜めた。それらが、今日に伝わる万葉集として結実したのだと思われる。

大伴家持は、越中国司としては、何らの業績をも上げなかったようだ。だが日本の文学にとっては、この地での彼の活動が貴重な成果をもたらしてくれたのである。
https://manyo.hix05.com/intro.html


壺齋散人 大伴家持
https://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.index.html

大伴家持は、万葉集の編集者として擬せられているとともに、自身も偉大な万葉歌人の一人であった。かれの歌は、万葉の世紀の最後を飾るものであり、その歌風は、万葉のおおらかな歌い方と、古今集以後の歌との橋渡しをしている。歌のモチーフは多岐にわたっており、数も多い。万葉集全二十巻のうち、まる四巻は彼の歌を集めたものである。万葉集は、高級官人としての大伴家持が、宮廷に伝わっていた歌集を中核にして、彼自身が集めた歌集、たとえば防人の歌といったものや、自分自身の歌を収めた歌集を加えて、最終的に今日あるような形にまとめたのだろうと考えられている。

大伴家持は、大伴旅人の子として名声高き武門の家に生まれた。その家には、なぜか風雅を愛する人たちが輩出し、家持にも大きな影響を与えたらしい。家持は若い頃から歌を作っていたのだが、それは叔母の坂上郎女はじめ、一族の歌好きな人びととのやりとりを通じて研鑽されたのだと思われる。家持は妻も一族から迎え、一族に対しては門閥の長として強い責任感をもっていた。有名な「族を諭す歌」は、そうした一族への家持の気持を歌ったものである。

また、大伴家持は武門の長として、また朝廷の藩屏として、天皇への忠誠心が強かった。有名な「うみゆかば」の歌は、そうした家持の天皇への忠誠心を歌ったものだが、それが先の戦争に際しては、日本人の天皇への忠誠心を高める材料として利用されたことは、家持にとってどんなふうにうけとられただろうか、興味深いところである。

大伴家持は、古代最後の歌人として、古代人らしいおおらかさを感じさせる一方、自我意識がもたらす繊細な感性ももっていた。むしろそうした繊細な感性を感じさせる歌に秀作が多い。たとえば、「うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀あがり心悲しも独りし思へば」といった歌は、万葉ぶりというよりは、すでに古今集の世界を感じさせる。

大伴家持の文学史上の業績としては、全国から防人の歌を集めたことがあげられる。このおかげで我々日本人は、古代の庶民が歌に詠みこんだ素朴な感情を知ることができるとともに、古代の庶民の暮らしぶりの一端を知ることもできる。防人の歌は、歴史を研究する上での貴重な資料でもある。

ここでは大伴家持の代表的な歌を取り上げて、鑑賞しながら適宜解説を加えたい。


大伴家持:青春と恋(万葉集を読む)
大伴家持:春の歌(万葉集を読む)
大伴家持:池主との交流と山柿の門
大伴家持:弟書持の死を悼む歌(万葉集を読む)
大伴家持:花鳥の歌(万葉集を読む)
大伴家持:鷹狩と鵜飼(万葉集を読む)
大伴家持:諸国の遊行女(万葉集を読む)
海ゆかば:大伴家持の伴造意識(万葉集)
大伴家持:族を諭す歌
大伴家持と防人たち(万葉集を読む)


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