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京極 為兼 きょうごく ためかね (京都 1254年 - 1332年4月16日)

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2024/02/02 (Fri) 19:27:57

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京極 為兼 きょうごく ためかね (京都 1254年 - 1332年4月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E7%82%BA%E5%85%BC


京極為兼 - YouTube
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京極 為兼は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。

京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世とともに祖父為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。

弘安3年(1280年)には東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、永仁6年(1298年)に佐渡国に配流となった。嘉元元年(1303年)に帰京が許されている。

勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て正和元年(1312年)に『玉葉和歌集』を撰集している。翌正和2年(1313年)、伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚のちに静覚と称した。

正和4年(1315年)12月28日、得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁する。翌正和5年(1316年)正月12日には得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。

2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。

歌風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる。


玉葉和歌集 ぎょくようわかしゅう (鎌倉時代後期)
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風雅和歌集 ふうがわかしゅう (1349年)
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為兼卿和歌抄 (1285年 - 1287年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%BA%E5%85%BC%E5%8D%BF%E5%92%8C%E6%AD%8C%E6%8A%84

為兼卿和歌抄は革新的な歌風で知られる中世和歌の一流派、京極派の創始者であり指導者である京極為兼唯一の歌論書である。建長6年(1254年)生まれの京極為兼は執筆当時まだ30代になったばかりであり、和歌の実力は十分ではなく、歌人としてまだまだ未完成の時期であった。為兼卿和歌抄の中で京極為兼は多岐にわたる論議を展開していくが、論旨は「心ののままに言葉がにほひゆく」という言葉に代表される「心の絶対的な尊重」と、当時の伝統的な和歌の、「ことばにて心をよまむとする」姿勢を否定し「言葉の完全な自由化」を一貫して唱えたものである。


執筆の背景

年少気鋭の東宮煕仁と、東宮側近の若手文芸愛好グループの中で京極為兼はその独自の歌風を育んでいった。

御子左家の家督は藤原為家の後は長子である二条為氏が継ぐ。為兼の父、為教は生涯を通じて兄の為氏との関係が悪く、不遇の中、弘安2年5月24日(1279年7月4日)に没する。為兼は父の後を継ぐかのように二条為氏、その子の二条為世、そして和歌宗家たる御子左家嫡流(二条派)の権威に対決していくことになる。

京極為兼は和歌の大家であった祖父、藤原為家から和歌の奥義を学んでいた。東宮に仕える頃には当時の伝統的な和歌の詠み方を会得し、しかも伝統の枠内で巧みな歌を詠む技術も身につけていた。為兼は伝統的な方法で和歌を作り続けたとしても成果を挙げることが可能だったと考えられるが、あえて伝統を捨て、新たな和歌を生み出す道を選んだ。

京極為兼は「心のおこる所のままに」歌を詠むべしと主張した。これは和歌宗家たる二条派の形式主義に対する反発があった。二条派の和歌は決まりにのっとって歌題、言葉を選び、歌全体が規範に当てはまるものとなる。つまりうるわしい言葉でうるわしい情景を詠むといった和歌を理想とする。それに対して為兼はやむにやまれぬ心の動きによって表現されたものこそがまことの歌であり、表現方法は問題とならないとしたのである。当時、表現方法に箍が嵌められたも同然の二条派の伝統和歌に対し、皇室や廷臣の一部にはそのあまりの窮屈さに疑問を持つ土壌が形成されていた。和歌の家である御子左家に生まれた為兼は、伝統の呪縛の強さを良く知る立場にあったが、伝統的な和歌に疑問を抱きつつもその殻を突き破れない東宮を囲む文芸愛好グループの中で、心のおこる所のままに歌を詠むべきでどのような表現を用いるのも自由であると、御子左家の伝統的な歌風を破壊する行為を実践していった。また野心的な為兼は伝統の破壊、新たな和歌の創造を通じて二条派に制圧されていた歌壇の主の座を奪い取り、さらには宮廷内での出世をも目指したと考えられる[15]。

しかし伝統を破壊して新しい和歌を創造することはたやすいことではなかった。およそ表現方法は問題ではなく「心のおこる所のままに」詠むべきといっても、その理想を実際の和歌に結実させるのは極めて難しい。当時の為兼の和歌について、野守鏡が厳しい批判を加えているが、実際、弘安年間に為兼が詠んだ和歌を見ると、極めて観念的な和歌や極めて奇矯な和歌とは言いがたい作品が数多く見られる。為兼卿和歌抄は作者為兼が高い理想を抱きながらも実作の裏づけが皆無な状態で執筆された歌論書であった。

著者為兼は形式主義に囚われた二条派の和歌の桎梏を打ち破ることを目指し、心の絶対的尊重と表現方法の自由を主張した。しかし為兼卿和歌抄執筆当時、為兼本人は極めて未熟な和歌しか詠むことが出来ず、東宮側近の若手文芸愛好グループにしても状況は基本的に同じであった。一般的に歌論書は実作経験を積み重ねた上で、帰納的に生み出されるものである。しかし為兼やその同志たちがいまだ不安定かつ未熟な歌しか詠めない段階でありながら、為兼卿和歌抄は執筆された。そのため、内容としては為兼の『自分の心を自分の言葉で詠いたい』とのやむにやまれぬ衝動に突き動かされたものになっており、その主張を裏付けんが為、御子左家の有力歌人であった藤原俊成の歌学書である古来風躰抄、藤原定家の近代秀歌、そして空海、明恵、紫式部などの文学論を引用しているものの、肝心の自身の説の裏づけとすべき歌が皆無であるため、他の多くの歌論書のように秀歌を列挙して歌論の締めくくりをすることが出来ず、まとまりがつかず尻切れとんぼのような形で終わっている。

しかし多くの欠点を抱えながらも、為兼卿和歌抄は優れた表現論であるとされている。冒頭、詩経などを引用し、「心にあるのを志とし、言葉にあらわるるを詩歌」であると、まず和歌の本質を掲げた。続いて1、2章では主に心に生まれる感動を表現する仕組みを哲学的に説明している。ここでは為兼のいとこにあたる興福寺の実聡僧正を通じて学んだとされる唯識論と、空海の声字実相義の三密相応の教義を援用し、対象に向けての心のあり方と、その心の向かうところに生まれいずる言葉について述べている。つまり感動を心と対象との相互作用によるものとし、その中で生み出される言葉への信頼を説いた。

続いて3章からは歌の稽古、俗語の使用、そして歌病と呼ばれる作歌に際し避けるべきとされた表現について等の論述が続く。歌病を論ずる中で、為兼は形式的なことばかりにこだわり、歌の心を忘れた当時の歌壇を厳しく批判し、俗語の使用についてもそれが真に自らの心の中から生まれた言葉であるのなら構わないとした。また稽古についても『古い歌を多く覚え、諸家の歌学書から学ぶだけで歌が上手くなるのならば、末代後世の人ほど歌が上手くなるはずではないか』と皮肉った上で、万葉集の大歌人、柿本人麻呂や山部赤人がいったいどんな歌論を学んだというのか、自らの真心で歌を詠んだのではないかと続けた。つまり為兼卿和歌抄は多方面にわたる論が展開されているが、「ことばにて心をよまむとする」二条派の和歌を否定し、「心のままに言葉がにほひゆく」和歌を目指すべきであるという論旨は終始一貫しており、対象に心を向け、なりかえることを繰り返し強調し、心の絶対的な尊重と言葉の完全な自由化を強力に主張している。

また為兼は多くの文献を引用して自らの主張を裏付けようとしたため、文中には論旨が強引な部分も散見されるが、空海や明恵の著作の中に文学的な価値を見いだし、自らの歌論に摂取した実力も評価できる。


京極派の予言の書

京極派は、観応の擾乱の際、光厳上皇が南朝に拉致されたことがきっかけとなって崩壊し、その後、和歌は二条派が主導することとなり京極派の和歌は長く異端視されることになる。実際、為兼卿和歌抄も明治後半までその存在が忘れ去られており、他に与えた影響はほとんど見られない。しかし京極派の和歌は近代になって再評価が進み、逆に二条派が伝統に凝り固まったものであると見なされるようになった。いずれにしても京極為兼の創始した京極派は和歌の世界にこれまでにない新風を吹き込んだ。

為兼は和歌の実力が全く伴わないまま、和歌宗家たる二条派への反発心と、心のままに表現方法にこだわることなく歌を詠みたいとの欲求に突き動かされて為兼卿和歌抄を執筆した。この為兼の主張は東宮煕仁やそのブレーンたち、つまり持明院統の宮廷に受け入れられ、皇位をめぐる大覚寺統との抗争や鎌倉幕府の滅亡など、鎌倉時代から南北朝にかけての時代の荒波の中、京極派の和歌は真に芸術性の高い歌風に到達することに成功した。

完成期の京極派の和歌は『心の絶対的な尊重』、『言葉の完全な自由化』という、まさに京極為兼が為兼卿和歌抄で主張した通りの歌風を実践したものであった。つまり歌論書為兼卿和歌抄と京極派和歌の実作との間には結果として緊密な関係性が見られることになった。

京極派の和歌の研究家である岩佐美代子は、若き京極為兼の大言壮語で終わることなく、その歌論が見事に実を結ぶことになった為兼卿和歌抄を『稀に見る幸福な歌論書、驚くばかりの的確な予言書』とし、土岐善麿もまた、京極為兼は藤原俊成、藤原定家、田安宗武とともに、歌論も歌の実作も一流である論作一致の人であったと評価している。

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