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風雅和歌集 ふうがわかしゅう (1349年)

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2024/01/31 (Wed) 17:05:02

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風雅和歌集 ふうがわかしゅう (1349年)
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和歌データベース 風雅和歌集
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i019.html


『風雅和歌集』は、室町時代(南北朝時代)に北朝で成立した勅撰和歌集。二十一代集のうち、17番目の歌集である。
全20巻、全2211首。光厳上皇親撰・花園法皇監修。京極派歌風を採る。

貞和5年(1349年)秋ごろ完成したと見られる。名付けて『風雅和歌集』。王道が正しく行われている時の和歌を集成した歌集という意味が込められている。

『風雅和歌集』は、京極派歌風を採った歌集であり、『玉葉和歌集』を継承しつつ、その歌境をさらに深め、京極派和歌の集大成と評価されているが、観応の擾乱以降京極派歌壇が壊滅したことで長らく異端の歌集として冷遇されていた。

ところが、近代に至ると『玉葉和歌集』とともに再評価がなされ、現在『風雅和歌集』は、『新古今和歌集』以後の中世和歌史上、最も注目すべき歌集との評価が確立している。


乾元2年(1303年)、京極為兼とその主君であり持明院統の伏見院らのグループは、革新的な歌風である京極派を確立させた。さらに正和元年(1312年)、伏見院下命のもと、京極為兼撰にて、京極派の特性を宣揚する『玉葉和歌集』が成立した。

伏見院は晩年、自身の皇子である後伏見院と花園院に対し、和歌を振興すべきことをさとし、さらに後伏見院に対しては、今後勅撰集編纂のことがあれば、伏見院の中宮で京極派随一の歌人でもある永福門院と前関白鷹司冬平に相談すべきことを言い遺していた。崩御直前も、将来必ずもう一度、京極派の勅撰集を編纂するように言い遺していた。

伏見院の崩御後、政権は大覚寺統に移ったが、紆余曲折を経て持明院統の朝廷である北朝が開かれ、亡き後伏見院の皇子である光厳院(上皇)が治天の君となる。

北朝にて、撰集の直接的な契機となったのは、伏見院崩御後に京極派歌壇を主導していた永福門院の死であった。伏見院の遺志を受け継ぎ、勅撰集の編纂を強く意識していた永福門院の死は、その実現を光厳・花園両院に深く促した。

貞和2年10月17日、この勅撰集の題名が『風雅和歌集』と決定した。
王道が正しく行われている時の和歌を集成した歌集という意味である。
貞和5年8月ごろに全巻が完成したと考えられている。


風雅集では、南朝の『新葉集』に比べて、血なまぐさい事件までもありのままに記しているという特色がある。例えば、当代では、建武の乱での贈答歌や石津の戦いでの戦勝を祝う歌なども挿入され、前代では、治承・寿永の乱にて平資盛を失った建礼門院右京大夫の歌を多数採り、保元の乱での配流先で詠まれた崇徳院の御製や、承久の乱の配流先で詠まれた後鳥羽院の御製なども採っている。それまでは、流罪となった者が配流先で詠んだ歌は不吉として挿入されないのが原則であったから、その点で風雅集は進歩的である。

武士の和歌も多数採られており、尊氏や直義といった最高位の武士だけでなく、五位級の武士の和歌も採られ、なかには、「命をば かろきになして もののふの 道より重き 道あらめやは」と最初に武士道を詠んだとされる和歌も採られている。また、風雅集巻第17の冒頭12首は光厳院の治世に関する述懐詠であるが、そのなかに、光厳院詠とともに「民」を思う為政者の歌として直義の「しづかなる 夜半の寝覚めに 世の中の 人のうれへを おもふくるしさ」が採られており、これは前例のない点で注目される。

所収傾向としては、花・時鳥・月・雪の歌をもっとも多く掲載するという伝統は風雅集でも継承されているが、風雅集では花・雪・月の次に山家の歌が多く採られている。玉葉集では花・月・雪に次ぐのは海であり、この違いから窺える玉葉集と風雅集の性格の違いは、玉葉集が開放的であり、風雅集が求心的な点である。

一般的性格としては、風雅集の当代歌人は、冬の題材を多くとりあげ、冬の自然の中の寂しさや、厳しい自然を好んだとされている。その自然に関しても、暁闇・朝明・夕闇・月明・斜陽・霧・雨などのなかで、対象を凝視することを好んだ。風雅集の自然観照には、光・時・動きが感じられ、感覚的に研ぎ澄まされており、主観的表現はほとんど使用せずに対象に対する求心的な追求がなされている点が特色である。

また風雅集は、他の勅撰集にはない特異な歌材を好んで用いているという特徴を有するが、こうした歌材は漢詩の影響を受けたものであり、漢詩的隠遁、隠逸の境地を象徴するものであるという。平安以降の歌人からはあまり注目されていなかった陶淵明や、宋代の漢詩からの影響も指摘されている。


評価とその変遷

風雅集は、京極派和歌の全容が集大成されたものであった。しかし、直後に発生した観応の擾乱によって、京極派を主導していた光厳院が政治的権力を喪失したことで、京極派歌壇は壊滅した。

こうして、風雅集は玉葉集とともに「玉葉・風雅」と一括にされ、長らく「異端の歌集」として冷遇され続けた。

ところが、近代に至り、この2集の自然詠が近代短歌にも通ずる美を有していると再評価がなされた。この2集を評価したのは、与謝野鉄幹、折口信夫、土岐善麿などである。そして現在風雅集は、『新古今和歌集』以後の中世和歌史上、最も注目すべき歌集との評価が確立している。

風雅集の歌風について国文学者である岩佐美代子は、「風雅集は玉葉集の祖述継承に違いないが、歌境を更に深め、内観性において特に沈潜した哲学的境地にまで至っている。為兼・伏見院の志した歌風は、ここに見事に完成した」と評価している。


風雅集の序文は、花園院が下命者兼撰者である光厳院の立場で、花園院自らの考えを述べたものである。この点で、過去の集のなかでもっともすっきりとした形となった[32]。花園院の生涯の学研・思索の粋を傾けた力作であり、歴代の序のなかでも異彩を放つ格調高い作品となっている。

真名序の本文は次の通りである(岩佐 & 2002(1), pp. 3–10より引用)。

(現代語訳)そもそも和歌の表現するところは、現象的には天地間のすべてを満たし、思想的には全宇宙をその範疇としている。天地の初め、陰陽のまだ分かれていない時から、その原理は天然に存在していたが、人間が生れ出てのち、その形が遂に明らかになった。風雲草木が人の心奥に感応するや、万物すべてが風雅の興のいとぐちとなり、思想感情が事物に触発されるや、その心が人生を諷喻する根本となる。生来の感情をうたい出し、政治道徳をほめ、そしる。「難波津」の歌は天子の徳を讃えたものである。これにより、聖人の教えがはじめて天下に弘まった。「浅香山」の歌は采女の機知即興である。これにより、賢者の教化がすでに諸地方に行き渡った。こうした我が国の和歌の由来を深く考えてみると、期せずして聖人賢者の治のもとにあった古えの周南・召南の豊かな趣に通い、調和するものと言えよう。


(現代語訳)ところが、世は軽薄な時代となり、人は華美に流れて、和歌の真の意義を知らず、ひたすら色好み・数奇心をあらわす手段と考えるようになった。近代の悪習として、言葉はますます巧みにますます細やかになり、思うところはただ美しく作り飾る事のみに専念する。古語を盗用し、あでやかな言葉を偽り並べ、つくろい立て詠作し、ひるがえって根本の精神には無知である。或いは反対に、低俗で洗練されないいやしい言葉で、無作法にも拙劣な内容を述べ、歌としての姿がどうあるべきかを考えもしない。いずれの詠風も、見るに足りぬものである。飾りけのない誠実さは人情道理の根本であり、これに従ってよい事は当然である。しかし歌としての情趣のあり方を理解せず、むやみに無技巧にのみ走るのは、文学創作の精神ではない。雅びな心や巧みな言葉は華麗な美しさであり、不満とし批判する所は何もないようである。しかしその面白さにひかれて、かりそめにも不必要な技巧を弄すれば、上品で正しい本来の歌の姿を失う。またその歌体を丈高い昔の風に学ぶ時は、言外の深情を漂わせにくく、表現を細やかに詳しくと心がければ、わずらわしく卑小な詠み口に陥りやすい。強く正しければ肩肘張ったようだし、あでやかに美しいのもまた弱く無気力という欠点を生ずる。こういう諸形式を諭じて行けば、繁雑できりがない。結局、外見と実質がしっくり釣り合って、内容と表現が巧まずして合致する、といった境地は、言葉では学べず自然に感得すべきものだろう。どうして筆舌で説きつくす事ができようか。結論として言うならば、その根本精神に達していない者は、大方末流になずんで大成しない。ただ必要とするところは志を古代の正風にかけ、邪まな道に踏み入らぬよう心するばかりであろう。三代集以後、こうした精神を体得した人物は僅か数名にすぎない。すぐれた歌人と認められていても、その真髄に達していない者も多い。ましてや、最近の作者においては問題外である。いくら嘆息しても足りない次第である。


(現代語訳)このような衰退した有様を救わんが為に、遥かに元久年間、後鳥羽院新古今集親撰の故事にならって、詩経の風雅の道にかなう作品を收集して編纂した。およそ天下に切り棄ててよい言葉はない。故に広く採りあまねく訪ねて、上古から当代に至るまで、集めて記録し、名づけて風雅和歌集という。さて、考えてみるに、国のはかりごとを握る天子として自ら国運を押しひらき、退位した今も俗界を離れず、なお政務万端の諮詢にあずかる身ではあるが、さすがに夜半の間暇の時を得た。それのみならず、戦火の煙は早々に收まり、春駒は美しい山野の風光に興じて走る。峻厳な刑も必要がなくなり、はびこった秋の雑草は空しく草原の露と消えた。万民の業はおしなべて盛んになり、多くの功績がまさに広まっている。ささやかな善事も必ずほめたたえ、ただ一物でもその所を得ない事を憂える。それゆえに、歌道が久しく廃れて、一般の風潮が善悪を分ち得ぬ現状を残念に思う。これが、この撰集を成す所以である。単に華やかな言葉、美しい章句をもって当代的な外観だけを誇示するのではない。専ら王道による厳正な詩歌を賞揚して、千年の後にその美を遺さんとするものである。時に貞和二年十一月九日、ほぼ主要部分の編纂を終えた。よって撰集精神の概要を示し、かつ編纂方針の基本を記すこと、以上の如くである。
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2024/02/02 (Fri) 19:13:31

aaあ

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