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玉葉和歌集 ぎょくようわかしゅう (1313年)
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玉葉和歌集 - YouTube
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和歌データベース 玉葉集
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i016.html
『玉葉和歌集』は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。
鎌倉時代後期、当時の沈滞した和歌のあり方に疑問を持った京極為兼は、歌を詠むにあたり、心の絶対的な尊重と言葉の完全な自由化を主張するようになった。その主張は、為兼が仕えた皇太子時代の伏見天皇と側近の文芸愛好グループに受け入れられ、京極派の和歌が始まった。
京極為兼に主導された京極派の和歌は、当時の和歌の常識からは大きくかけ離れたものであったため、強い批判も浴びていた。特に和歌の家、御子左家宗家である二条為世は、京極為兼が撰者となる勅撰和歌集撰集に強く反発し、為兼と為世との間で延慶両卿訴陳状と呼ばれる激しい論争がなされた。結局、伏見上皇の院宣により、為兼が勅撰和歌集を独撰することで決着した。
京極為兼が撰んだ勅撰和歌集は、玉葉和歌集と名づけられた。全20巻、収録された歌数は21ある勅撰和歌集の中でも最大の約2800首に及び、あまりに肥大化してしまった点は玉葉集最大の欠点とされる。しかし構成的には上古から和歌集編纂当時までの名歌人、名歌を満遍なく収録し、ミスの少ない堅実なものになっており、玉葉和歌集を和歌史の中に位置づけるような構成となっている。もちろん中世和歌史に新風を吹き込んだ京極派の和歌も多く撰ばれていて、和歌史の中に京極派の歌風を位置づける構成にもなっている。
京極派主導の勅撰和歌集としては後に『風雅和歌集』が撰集されたが、観応の擾乱の影響で京極派は壊滅した。その結果、明治初期まで伝統派である二条派の歌壇支配が続くことになり、長い間、玉葉和歌集、風雅和歌集は邪道であり異端であると見なされた。しかし近代になって再評価が進み、特に迫真の自然詠に高い評価がなされている。
京極為兼が提唱した歌風に基づく京極派主導の勅撰和歌集撰集は伏見天皇の悲願であった。
皇太子時代の伏見天皇に仕え始めるようになった京極為兼は、言葉の解釈や故実の詮索に明け暮れ、枝葉末節に過ぎない知識のひけらかしが蔓延し、多くの規則に縛られた当時の和歌のあり方に大きな疑問を持っていた。和歌とは何か、歌を詠むべき態度、よい和歌とはどのような和歌であるかを真剣に考えるべきであると考えた為兼は、伏見天皇側近の文芸愛好グループに参加するようになった後、『為兼卿和歌抄』を著し、言葉で心を詠む当時の伝統的な和歌のあり方を否定し、事物に触れる中でおのづから動いていく心のままに歌を詠むべきで、その表現方法も自由であると主張するようになった。
朝廷が大覚寺統、持明院統の両統迭立の時代の中、為兼の主張は伏見天皇を始めとする持明院統宮廷に受け入れられ、和歌の強固な伝統を打破し、新しき和歌を創造する挑戦が始まった。
歌道家の間では為兼に対する批判が高まっており、永仁3年(1297年)には、京極為兼の和歌を痛烈に批判した歌論書、『野守鏡』が書かれた。
そうこうしているうちに、永仁4年5月15日(1296年6月17日)、京極為兼は権中納言を辞任して籠居し、永仁6年1月7日(1298年2月20日)六波羅探題により拘引された。そして永仁6年3月16日(1298年4月28日)には佐渡島に遠流となった。
永仁6年(1298年)に京極為兼が佐渡に流刑になり、伏見天皇の譲位と後伏見天皇の即位、そして大覚寺統の邦治親王が皇太子となり、大覚寺統に政権が交代する流れとなった。これまで順調であった持明院統にとって試練の時代が始まったが、和歌の革新を主導していた為兼の不在にもかかわらず、伏見上皇、永福門院を中心とした宮廷グループは頻繁に歌合を催し、為兼の主張した「心の絶対的尊重」、「言葉の完全な自由化」という理念に基づく和歌の完成を目指した。
乾元2年(1303年)閏4月、鎌倉幕府の赦免により、京極為兼は流刑地の佐渡から京へ戻った。為兼の帰京直後の乾元2年閏4月29日(1303年6月15日)には、伏見上皇、後伏見上皇、永福門院らが参加し、為兼を和歌師範とした歌合が催された。この歌合で、伏見上皇、永福門院らは実に見事な和歌を詠んでおり、自らの目で見、感じたことが心に響く中で生まれた言葉で歌を詠むという京極派の和歌は、突如として見事に花開いた。
伏見上皇は近臣の意見を聞き、鎌倉幕府の了解も取った上で応長2年5月3日(1311年5月21日)、京極為兼一人に勅撰和歌集撰集の院宣を下した。
京極為兼独撰となった伏見上皇下命の勅撰和歌集は、伏見上皇、京極為兼がともに出家した正和2年10月17日(1313年11月6日)までに、最終的に完成したものと考えられる。
最多入集歌人は下命者であり、実力派歌人でもある伏見上皇で93首、以下藤原定家69首、西園寺実兼60首、京極為兼の姉である為子60首、藤原俊成59首、西行57首、藤原為家51首、永福門院49首、撰者為兼36首、和泉式部34首、西園寺実氏31首、従二位親子(北畠親子)30首、慈円27首、紀貫之26首、柿本人麻呂24首、宗尊親王22首、鷹司基忠21首と続く。
玉葉和歌集は当時歌壇の中心であった二条派の歌風からすると、異端であるとしか言いようがないものであった。当然、玉葉和歌集はその歌風に反対する人々から激しい批判にさらされることになった。反論の中でも正和四年(1315年)8月に執筆されたと伝えられる、歌苑連署事書の批判が良く知られている。
歌苑連署事書の著者の主張は、勅撰集は美しい風物を美しい言葉で詠んだ、伝統的な優美な和歌を撰ぶべきであるという点にある。その主張に反した玉葉集に対する批判は当然厳しいものになったわけであるが、歌の取捨選択をきちんと行わず、和歌数が多すぎるとの批判以外はおおむね言いがかりに近いものであるとされている。
しかし当時の和歌の主流から見ると、それは当然の批判であった。鎌倉時代後期、京都の宮廷社会にはまだ革新的な京極派を生み出すエネルギーが残されていた、しかしその新しい動きを拒絶する勢力もまた強力であった。
正和4年12月28日(1316年1月23日)、鎌倉から上京した東使である安東重綱に率いられた六波羅の兵士数百名が京極為兼を逮捕した。為兼の逮捕を見て、二条為世の門弟たちは和歌の邪議を広めたからであると批判したが、罪状は和歌とは基本的に関係はなく、為兼が政治への過度の介入を続けたことが問題視されたものであった。為兼は翌月には土佐国へ流罪となり、流罪を前に、和歌に関する多くの文書を花園天皇に託していった。
その後、世は元弘の乱、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、そして南北朝の分裂と、激動の時代を迎えた。その中で情勢がやや落ち着いていた貞和2年(興国7年、1346年)、京極為兼の創始した京極派の歌風を守り続けた花園法皇監修、光厳上皇親撰により、風雅和歌集が編纂された。風雅集は心の絶対的尊重、言葉の完全な自由化という京極為兼の主張をしっかり守り育ててきた京極派和歌の成果であった。
風雅和歌集は京極派和歌の集大成と評価される和歌集であり、京極派の勅撰和歌集である玉葉和歌集、風雅和歌集は「玉葉風雅」と、一体のものとして評価されるようになった。
異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権
風雅和歌集の最終完成を前にして花園法皇が崩じ、風雅集の完成後まもなく勃発した観応の擾乱の中、光厳上皇が南朝に拉致されたことによって京極派は指導者を失い、壊滅していった。その後長い間、和歌の世界は伝統派である二条派の支配が続き、京極派は異端視された。江戸時代に至っても玉葉集、風雅集の和歌は異端であるとの見方が大勢であり、本居宣長も玉葉、風雅の風体は甚だ悪く、かりそめにも学ぶべきではないと酷評している。
近代に入り、正岡子規、与謝野鉄幹らによる和歌の革新運動の中にあっても、当初、玉葉集、風雅集の存在は忘れ去られており、鎌倉時代から室町時代にかけては文学の暗黒時代のように見られていた。
明治末期になって、まず藤岡作太郎が玉葉集、風雅集、そして京極派の和歌を評価した。
大正時代になると福井久蔵、そして与謝野鉄幹も京極派の和歌を評価するようになった。
とりわけ折口信夫、土岐善麿が玉葉和歌集、風雅和歌集を高く評価し、折口は「短歌の本質といふものは、実は玉葉、風雅に、完成して居たのである」と激賞した。これは京極派和歌の中でも特に自然詠が近代人の共感を呼ぶものであり、その結果、近代になって本格的に復権が可能となったものと見られている。
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2024/02/02 (Fri) 19:14:35
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ああつ