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保元物語 ほうげんものがたり (鎌倉時代)
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777
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2024/01/31 (Wed) 11:25:21
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保元物語 ほうげんものがたり (鎌倉時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E7%89%A9%E8%AA%9E
保元物語 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BF%9D%E5%85%83%E7%89%A9%E8%AA%9E
『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。
保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を和漢混淆文で描く。鳥羽法皇の崇徳院への譲位問題より始まり、鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに崇徳院が挙兵。崇徳院と後白河天皇との皇位継承争いを軸に、藤原忠通、藤原頼長の摂関家の対立、源義朝と源為義の源氏の対立、平清盛と平忠正との平家の対立が加わり、崇徳側の敗退、以降の平治の乱、治承・寿永の内乱(治承・寿永の乱)の予兆までを記す。細かい内容は諸本によって差異があるが、何れも源為朝の活躍がメインとなっている。また為朝の父の源為義をはじめ、敗者となった崇徳・頼長らに同情的であり、この敗者への視点が本作品の主題ともいえる。
この『保元物語』に『平治物語』『平家物語』『承久記』を合わせた4作品は「四部之合戦書」(『平家物語勘文録』)と称され、保元から承久にいたる武士の勃興期の戦乱をひと続きのもとして理解する見方が中世からあったことが確認できる。これは、保元の乱を「武者ノ世」のはじまりであるとする『愚管抄』の認識とも一致しており、時代の画期であると考えてられていたことがわかる。『将門記』などの先行する軍記物語はいくばくか存在するものの、『平家物語』などとともに、新たな文学のジャンル形成に寄与した作であるといえるだろう。
『保元物語』の主人公といってもいい源為朝であるが、物語と史料において造形には大きな隔たりがある。物語における為朝は、保元の乱における記述だけに話をしぼっても、まさしく一騎当千の勇者であり、その強弓で馬ごと鎧武者を打ち抜き、わずか28騎の手勢のみで、清盛率いる600余騎、義朝率いる250余騎を退けるという活躍を見せている。とくに長時間戦闘をおこなった義朝勢は50人以上の死者を出し、重傷者も80人を超えるという有様だった。同時に、為朝は兄を射殺そうとすれば可能であったのに、不孝となることを思ってためらうという、優しさも見せている。このような為朝の造形は冨倉徳次郎によって智・勇・仁の三徳を兼ねそなえた理想的な武人の姿であると言われている。なお、為朝の配下が28騎であるのには、『史記』項羽本紀の影響であろうと田中芳樹が述べている。
一方、史料では為朝の記述はほとんどない。『愚管抄』で「小男」とされるのは、父為義の言葉であるから謙遜としても、具体的な活躍の場面は残されていない。ただし、『兵範記』保元元年8月27日の記事では為朝を捕縛した平家貞が特別に恩賞にあずかっており、為朝が崇徳院に味方した武士のなかでも特別な存在であったとみなされていた可能性は高い。
また、『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1日の記事には、保元の乱に参加した大庭景義が為朝を「吾朝無双の弓矢の達者」と評している。ただし大庭景義は「然れども弓箭の寸法を案ずるに、その涯分に過ぎるか」とし、また「鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか」「この故実を存ぜざれば、忽ち命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。壮士等耳の底に留むべし。老翁の説嘲哢すること莫れ」と武者の騎射戦の心得を述べている。『吾妻鏡』の編年が鎌倉時代中期以降とされることからも、この話は「騎射戦の心得」の伝授に力点があり、事実と断定は出来ないが、しかし物語のような武勇譚が生まれる下地は実際にあったのかもしれない。
なお、物語では伊豆大島に流された後、鬼の子孫をしたがえた等、荒唐無稽といっていい話を載せているが、流罪後の為朝については、わずかに『尊卑分脈』に伊豆で討たれたことが記されるのみである。
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