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紀 貫之 き の つらゆき (京都 866年 - 945年6月30日)
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777
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2024/01/31 (Wed) 09:54:18
日本の文学
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紀 貫之 き の つらゆき (京都 866年 - 945年6月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%B2%AB%E4%B9%8B
紀貫之 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%B4%80%E8%B2%AB%E4%B9%8B
紀 貫之は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈位、従二位。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。
日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。
散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。
『大鏡』によると、その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。
『袋草紙』などでは、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。
作品
紀貫之(百人一首より)
古今和歌集:勅撰和歌集。紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒との共撰。
古今仮名序
新撰和歌:貫之単独撰の私撰集。
新撰和歌序:真名序。
大井川御幸和歌序:『古今著聞集』巻第十四遊覧廿二に載る。
貫之集
土佐日記
代表歌
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2)
霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9)
さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89)
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35)
吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471)
新撰和歌 しんせんわか (平安時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%92%8C%E6%AD%8C
『新撰和歌』(しんせんわか)は、平安時代に編まれた私撰和歌集である。紀貫之撰。『新撰和歌集』ともいう。
四巻一冊で、巻第一に春・秋120首、巻第二に夏・冬40首、巻第三に賀・哀20首、別・旅20首、巻第四に恋・雑160首を収める。各巻はそれぞれの題の歌を1首ずつ交互に並べる構成とする。和歌には作者名および詞書は一切無い。
漢文の序があり、それによれば『古今和歌集』撰進後、藤原兼輔が伝えた醍醐天皇の勅命により本書を編纂し始め、土佐国赴任中完成し帰京後に奏覧に供するつもりであったが、醍醐天皇の崩御と兼輔の死去によりそれが叶わなくなった。しかしこの集が散逸することを惜しみ、序を添えて世に出したという。また『古今和歌集』から弘仁より延長年間までの秀歌360首を撰出したとするが、実際にはそれ以外の和歌も採られている。貫之最晩年の編著である。
土佐日記 とさにっき (平安時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98
土佐日記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98+
土佐日記 概要 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98/
『土佐日記』は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。
日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。
延長8年(930年)から承平4年(934年)にかけての時期、貫之(つらゆき)は土佐国に国司として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である。
主題は単一ではなく、親子の情・国司の望郷と孤独感・歌論・紀氏の士族意識などが指摘される[1]。女性に仮託した理由については、男性官人が仮名文で書いたため、諧謔風刺のための韜晦、公的身分を離れて私的感情を開陳するためなどの諸説がある。
57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を多く用いていることも特筆される。
成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが、『土佐日記』そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。
田辺聖子は、娘を亡くした悲しみを書くにあたって、「男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、「泣血(きゅうけつ)」のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです」という見方である。
橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている。当時の男性の日記は漢文であったが、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。
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