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 在原 業平  ありわら の なりひら (825年 - 880年7月9日)
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 在原業平 - YouTube
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 在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
 六歌仙・三十六歌仙の一人。
 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
 
 
 『日本三代実録』の卒伝に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。
 
 歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している。『古今和歌集仮名序』において紀貫之が業平を「その心余りて言葉足らず」と評したことはよく知られている。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。
 
 早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。
 
 紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた[注釈 2]。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。
 
 同じく『伊勢物語』に描かれた「東下り」についてもその史実性については議論がある。通説では貴種流離譚の一種とみなす説が強いが、角田文衛のように母の服喪中の貞観4年(862年)の出来事とする説がある[7]。戸川点は史実か創作かは断定できないとした上で、業平や父の阿保親王が中央との兼官ながら東国の国司を務めていたことに注目し、当時問題となっていた院宮王臣家の東国への進出(荘園の形成・経営)に業平周辺も関わっており、創作であったとしてもその背景になる事実はあったとみている。また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子された叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。
 
 
 
 勅撰和歌集に80首以上入撰した、六歌仙・三十六歌仙の一人ではあるが、自撰の私家集は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『後撰和歌集』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。
 
 業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『古今和歌集』である。また『伊勢物語』は業平の歌を多く使った歌物語であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。
 
 しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。
 
 
 代表歌
 
 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは
 — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。落語「千早振る」も参照。
 
 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
 — 『古今和歌集』撰歌。
 
 忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
 — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
 
 から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
 — 『古今和歌集』撰歌。
 
 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
 — 『古今和歌集』撰歌。
 
 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
 —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。
 
 人知れぬ わが通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ
 —『古今和歌集』巻一三、六三二。また、『伊勢物語』五段。
 
 白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
 —『新古今和歌集』巻八、八五一。また、『伊勢物語』六段。
 
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	2024/01/29 (Mon) 11:08:35 
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