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2024/01/26 (Fri) 16:17:24
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柿本 人麻呂 かきのもと の ひとまろ (島根県 660年 - 724年 3月18日)
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柿本人麻呂が詠んだ歌
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柿本人麻呂が書いた万葉集 | 万葉集ナビ
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柿本人麻呂歌集の一覧 | 万葉集ナビ
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柿本人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。
人麻呂の出自については不明である。生前や死没直後の史料には出自・官途についても記載がなく、確実なことは不明である。
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも記載がないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
歌道の秘伝化や人麻呂に対する尊崇・神格化が進んだ平安後期から中世、近世にかけては、『人丸秘密抄』のように持統天皇の愛人であったと記す書籍や、山部赤人と同一人物とする論も現れるが、創作や想像による俗説・伝承である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が載り、また石見国の鴨山における辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多い。
同時代の各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序では五位以上を示す大夫を付して「柿本大夫」と記され、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれている。また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
江戸時代、契沖や賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱えた。以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載されるはずであるが、人麻呂の名は正史に見られない。
死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっていた。『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。
梅原猛による異説
「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来説に対して、梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘した。
『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかと梅原らは唱えた。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代律令の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原が言うように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などに何一つ記されていない点などに問題があるからである。
梅原猛 『水底の歌 柿本人麿論』(新潮社、1973年)
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梅原猛 『歌の復籍』(集英社、1979年)
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人麻呂の辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
人麻呂の恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていた。近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。
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壺齋散人 柿本人麻呂
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.index.html
柿本人麻呂は、万葉歌人のなかでも、最も優れた歌人であったといえる。万葉集は、長い時代にわたる大勢の人の歌を収録しており、歌風にはおのずから変遷が見られる。人麻呂は、万葉の時代の丁度中間の転換期に現われて、それ以前の古代的なおおらかさを歌った時代から、人間的な肌理細やかな感情を歌うようになっていった時代とを橋渡しするような存在である。そういう意味で、万葉の時代を象徴するような歌人である。
柿本人麻呂の生涯については、わからぬことも多いが、持統天皇の時代に、宮廷歌人として多くの儀礼的な歌を作ったことを、万葉集そのものが物語っている。その歌は、古代の神話のイメージを喚起させて、雄大なものがある。宮廷歌人としての人麻呂は、天皇や皇子たちの権威をたたえたり、皇族の死を悼んだり、折に触れて宮廷の意向に応えていたと思われる。こうした宮廷歌人の役割は、古代における部曲の一つのあり方だったように思われる。
柿本人麻呂は相次いで失った二人の妻のために、哀切きわまる挽歌を作っている。また、旅の途中に目にした死者を見ては、彼らの不運に感情移入して、歌わずにはいられなかった。それらの歌に響く人麻呂の人間的な感情は、時代を超えて人びとの心を打つ。日本の詩歌の歴史は、柿本人麻呂を得ることによって、豊饒さを持つことができたと言える。
柿本人麻呂の死については不明な点が多く、古来様々な憶測を呼んだ。有名な憶測として梅原猛の水死説があげられるが、根拠らしいのもはほとんど示しておらず、文字通り憶測にとどまっている。筆者は、独自の考察をもとに、柿本人麻呂火葬説を提出した。
万葉集中における柿本人麻呂自作の歌は百首に上る。その他に、柿本人麻呂歌集の中にも人麻呂自作の歌が交っている可能性がある。ここでは、人麻呂の自作が明らかな歌のうちから代表的なものを選んで、鑑賞しながら適宜解説を加えたい。柿本人麻呂歌集の歌については、別途万葉集拾遺の部分で触れたい。
宮廷歌人柿本人麻呂(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.kyuuteikajin.html
柿本人麻呂の儀礼的挽歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.banka.html
柿本人麻呂:泣血哀慟の歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.aido.html
柿本人麻呂:妻の死を悼む歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.tuma.html
柿本人麻呂:覊旅の歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.kiryo.html
柿本人麻呂:別れに臨んで妻を恋ふる歌
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.wakare.html
柿本人麻呂歌集の相聞叙景歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.kashu.html
柿本人麻呂の死:人麻呂火葬説(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.death.html
日本における火葬の始まり(柿本人麻呂の挽歌)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.cremation.html
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2024/01/28 (Sun) 08:31:34
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梅原猛氏は、『水底の歌』の中で、「雲は、古代人にとって、死霊の行末であった。死霊が雲になり、雨になるのである」と指摘している。
たとえば、『万葉集』巻二に、「柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首」がある。
今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも(224)
直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ(225)
諸説あるらしいが、梅原氏の解釈では、この二首は以下のような状況で歌われている。
人麿は死んだ。妻は人麿の死を聞いて現場へかけつける。それが、石川のほとりである。女は、その河の河口まできた。夫に逢いたい、せめて、その屍(しかばね)なりと見たいと女はいう。しかし、その屍は河口近くの海に沈んで、どこにあるのか分からない。そして女が詠んだのが、最初の歌である。
女はここに来たけれど、夫の死骸すら見ることができない。「直の逢ひ」とは、せめて死体なりとも逢いたいという願い、すなわち直接の邂逅(かいこう)をいう。しかし夫の死体は(海底の貝に交じって)、どこへ行ったのか分からない。それで女は叫ぶのだ――せめて石川にいっぱい雲が立ちこめておくれ、その雲を見て夫を偲ぼうと。
《雲が、古代日本人にとって、死人の魂の行方を示すものであることは、依羅娘子(よさみのをとめ)の二首目の歌によっても分かる。夫が沈んだという石川の河口までたずねて行って、妻は歌う。
「せめて雲よ、死んだ人の霊の行方だという雲よ、どうかいっぱい石川に立ちこめて、せめて亡き夫の霊魂の存在を私に知らせておくれ」と。》
もう一つ、菊地威雄(よしお)氏の『万葉の挽歌』(2007年)を読んでいたら、「鳥は霊魂の運搬者である」という指摘があった。
たとえば『万葉集』巻二に、「大后(おほきさき)の御歌一首」(153)がある。
鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を 沖放(さ)けて 漕(こ)ぎ来る船 辺(へ)付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
(近江の海の沖べを漕いでくる舟よ。岸辺について漕いでくる舟よ。沖の櫂もひどく水を撥ねはいでおくれ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。若草のようにいとしい夫が愛していた鳥が、驚いて飛び立ってしまうではないか。)
この歌について、菊地氏は、こういうことを言っている。
《水面を「いたくな撥ねそ」と歌うのは、 水音に驚いて若草の夫の「思ふ鳥」が飛び去ってしまうからである。鳥が霊魂の象徴であることを示す伝承は、魂が白鳥になって天がける倭建命(やまとたけるのみこと)の物語をはじめ数多い。鳥は霊魂を運ぶ器でもあった。》
《天智天皇が生前愛していた水鳥が飛び去ってしまうことは、天皇の霊魂が天がけることである。湖上に浮かぶ鳥は倭姫にとっては天皇を偲ぶ唯一のよすがであった。》
ちなみに、船もまた霊魂を運ぶと考えられていたらしい。
http://h.hatena.ne.jp/matsuiism/228172354017557204
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2024/01/29 (Mon) 10:13:32
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