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世界の文学
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日本の文学
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西洋の思想と宗教・深層心理学
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カルト宗教と心の病
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▲△▽▼
河合 隼雄 かわい はやお(兵庫県 丹波篠山市 1928年6月23日 - 2007年7月19日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84
河合隼雄 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84
[ユングの心理学] 河合隼雄 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zIlIwzv3-i0
精神分析とユング心理学 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLf6eYL4SWJAZTVhbdId-aE2j4hBgLK9NX
カール・グスタフ・ユングの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/394.html
▲△▽▼
日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。
河合は、欧米で修めた心理学を日本では同様に適用できないことに気づき、日本的環境や日本的心性にあった心理療法を工夫して創ることに苦心したという。
また、彼の著作には「母性社会日本の病理」、「中空構造日本の深層」、「日本人の心のゆくえ」、「日本人という病」、「日本文化のゆくえ」などのように、批判的かつ創造的な問題意識をもった日本文化論がある。
そして、著書『ユング心理学と仏教』は、河合隼雄による日本人の深層心理研究の到達点にして、同人の著作の1つの頂点ともされている。同書では、元々は日本文化や仏教に懐疑的・拒絶的で、欧米の学問・思想にばかり親和的であった河合隼雄が、心理療法の臨床経験を積み重ねる中で、日本人の深層心理に根付く日本の仏教の影響を見出すようになるとともに、人間の自我(ego)・自己(self)の構造や心理療法に伴う治癒の過程が、仏教の世界観・人間観によって的確に説明できること、心理療法の方法論としても、「治療」「解決」といった目的にとらわれず、また、合理的思考による解決や意味解釈を性急に求めない姿勢といった面で、自身の心理療法が実は禅と似ていると感じるようになったことなどが、欧米の聴講者向けの講義の形で語られている。また、そこで語られる日本人に典型的な治癒過程が、確固たる「自我(ego)」を出発点とする精神分析学とは逆方向の志向性を持っているとの指摘もされた。
物語を生きる――今は昔、昔は今〈〈物語と日本人の心〉コレクションII〉
https://www.amazon.co.jp/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E2%80%95%E2%80%95%E4%BB%8A%E3%81%AF%E6%98%94%E3%80%81%E6%98%94%E3%81%AF%E4%BB%8A%E3%80%88%E3%80%88%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%80%89%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3II%E3%80%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4006003455/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=NHM1SSSPTBZX&keywords=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B+%E4%BB%8A%E3%81%AF%E6%98%94%E3%80%81%E6%98%94%E3%81%AF%E4%BB%8A&qid=1706248794&sprefix=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B+%E4%BB%8A%E3%81%AF%E6%98%94+%E6%98%94%E3%81%AF%E4%BB%8A%2Caps%2C239&sr=8-1
心理療法家・河合隼雄が,日本の王朝物語を読み,現代人が自分の物語を作る上で参考になる知恵を探る.(解説=小川洋子)
河合隼雄は心理療法における物語の重要性に気づき,日本の王朝物語(9~11世紀)を現代人が自分たちの物語を作る上で参考にできるものはないか,という視点から読む.『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』『浜松中納言物語』『平中物語』などに現われる,様々な物語のパターンが心理療法家独特の目を通して分析される.(解説=小川洋子)(全6冊)
「心理療法というのは,来談された人が自分にふさわしい物語をつくりあげていくのを援助する仕事だ」.河合隼雄は,心理療法における「物語」の重要性に気づき,日本の近代以前の物語,とくに9世紀から11世紀に書かれた『竹取物語』などをはじめとする王朝物語を取り上げて,この本で分析する.王朝物語を,現代の人間が自分の物語をつくりあげていく上での何らかの参考にできないか,という見方で読んでいくのだ.
そのような視点から読んでいくと,日本の王朝物語には,西洋の物語にはない独特のパターンがいくつか見られ,繰り返されていることに気づかされる.たとえば,絶世の美女が男性と結ばれることなく立ち去っていく『竹取物語』のパターン,世継ぎを誰にするか政争はあるが,殺人はおろか話し合いもなされない『宇津保物語』の不思議,いじめられた継子が結局は幸福になる『落窪物語』のパターン,『浜松中納言物語』に現われる「夢」や「トポス」の重要性…….様々なテーマにそって,王朝物語の特徴が心理療法家独特の目を通して分析される.
なぜ近代以前の物語か,という点については,以下の著者の言葉を参照していただきたい.
現在のように科学技術が発達してくると、人間はこれまで不可能と思っていたことでもどんどんできるようになって、下手をすると、科学技術万能の考えに陥りやすい。人間が実際に生きてゆく上においては、それとは異なる思考が必要であり、その点において、「物語」ということが非常に大切になってくる。人間はその生涯にわたって、一人ひとり固有の「物語」を生きているのだ。このように考えると、日本の古い物語を読むことが、現代に生きることへとつながってくるのである。
――「あとがき」より
物語をものがたる―河合隼雄対談集
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目次
とりへばや物語 内なる異性の発見 桑原博史
竹取物語 美は人を殺す 中西進
能の物語・弱法師 翁からの変奏曲 白洲正子
日本霊異記 自在に往還する魂 山折哲雄
寝覚物語 永遠の美少女の苦悩 永井和子
堤中納言物語 読者がつくるファンタジー 稲賀敬二
とはずがたり キャリア・ウーマンの自己主張 富岡多恵子
小栗判官 絶望の果ての救い 梅原猛
落窪物語 女になるための試練 古橋信孝
宇治拾遺物語 滑稽話のおもちゃ箱 小峯和明
続 物語をものがたる―河合隼雄対談集
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日本古来の『物語』を、現代の「物語」として読み解き、古典の面白さ、現代を生きる様ざまな知恵を発見。『物語』の読み手12人と語り明かす。主な対談者=田辺聖子、今江祥智、大庭みな子、瀬戸内寂聴、他。
子供のころから「お話を読むことも、聴くことも、それを語ることも好きだった」著者は、親兄弟をはじめ、友人仲間たちと、つねに語り合うことで多くのことを学んだという。この「お話好き」こそが、今日の心理療法家・河合隼雄の原点である。 三〇代半ば、スイスのユング研究所に学んだ著者は、ここでふたたび「お話」に出会うことになる。心理療法家においては、人間と人間の関係を重視する。この関係の根幹をなすものが「物語」であり、人は自分自身の「物語」をつくりあげていくなかで、自己のアイデンティティーを確立し、やがて癒されていく。 人間は本来、物語が好きである。物語を読み、感動することで、語り手と聴き手の間に関係が生まれ、そこから真実が伝わっていった。物語はこうして生まれ、それを共有する人々によって、われわれの物語として存在していたのではないか。ところが、近代になって、物語は荒唐無稽なものとして忘れ去られてしまった。現代人は科学の知こそ唯一の真理だと思いがちである。そこで、関係を切断された現代人は、多くの苦悩を背負ったまま「たましい」を見失い立ち往生している。この「たましい」を回復し、いかに自分の物語をつくりあげるか。その知恵が物語
目次
古事記―神々と人間の壮大なロマン(田辺聖子)
御伽草子―開放的な時代の息吹き(今江祥智)
有明けの別れ―両性具有の美とエロス(中村真一郎)
平中物語―当世サラリーマンの処世訓(古橋信孝)
宇津保物語―作り物語のダイナミズム(高橋亨)
雨月物語―生と死の夢幻境(大庭みな子)
源氏物語―紫式部の女人マンダラ(A・ガッテン)
源氏物語―愛と苦悩の果ての出家物語(瀬戸内寂聴)
今昔物語―民衆を癒す処方箋(W・ラフルーア)
今昔物語―現世は前世の報いの巻(佐竹昭広)
浜松中納言物語―夢と転生のファンタジー(永井和子)
松浦宮物語―歌人・定家の夢想譚(池田利夫)
続々 物語をものがたる―河合隼雄対談集
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臨床心理学の第一人者・河合隼雄が日本の古典物語を対象に、第一線で活躍する作家・学者10人と対談。古典を現代の物語として読み解き、古典のおもしろさ、現代を生きる様々な知恵を導き出す。主な対談者=田辺聖子、大庭みな子、ドナルド・キーン、井波律子、他。
臨床心理学の第一人者・河合隼雄が、国文学者・作家と対談。古典物語の背景に潜む日本人の多様な心模様を明らかにする。日本古来の『物語』を、現代の〃物語〃として読み解き、古典の面白さ、現代を生きる様ざまな知恵を発見。斬新でユニークな古典への手引書でもある。 本巻は『物語をものがたる』、『続・物語をものがたる』の続編で、最終巻である。 対談者は、田辺聖子、大庭みな子、ドナルド・キーン、井波律子など第一線で活躍する作家・学者など10人である。
目次
狭衣物語―叶わぬ恋の行方(大槻修)
住吉物語―継子のサクセス・ストーリー(三谷邦明)
伊勢物語―夢かうつつの人生模様(大庭みな子)
更級日記―文学少女の見た夢と現実(ドナルド・キーン)
我身にたどる姫君―アイデンティティの探求(三田村雅子)
大和物語―世相を映す歌語り(光田和伸)
蜻蛉日記―自我にめざめた女の一生(河添房江)
中国史の女たち―伝説の美女から女帝まで(井波律子)
朝鮮宮廷物語―恨のものがたり(梅山秀幸)
愉しき哉、ものがたり(田辺聖子)
『源氏物語と日本人:紫マンダラ』
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○目次
はじめに
第一章 人が「物語る」心理
第二章 「女性の物語」の深層
第三章 内なる分身
第四章 光の衰芒
第五章 「個」として生きる
臨床心理学から日本屈指の王朝物語を読み解く
心理療法家・河合隼雄から見た,日本屈指の王朝物語である『源氏物語』とはどんなものであったのか? そこには,どのような日本人の心の世界が描かれていたか? 『源氏物語』の主役は,実は光源氏ではなく紫式部だった? 臨床心理家独特の読みによって,母性社会日本を生きる現代の日本人が直面している問題を解く鍵を提示する.(解説=河合俊雄)
■編集部からのメッセージ
今月から、〈心理療法〉コレクション、〈子どもとファンタジー〉コレクションに続く河合隼雄コレクションの第三弾・〈物語と日本人の心〉コレクションが始まります。その第一冊目となる本書は、河合隼雄が晩年になって日本古典の面白さに目を開かれ、独自の心理学的な読み方を切り開くきっかけともなった『源氏物語』をテーマにして書かれたものです。
1994年、プリンストン大学に二か月間客員研究員として滞在した折、著者は『源氏物語』に没頭することができた、といいます。確かに『源氏物語』は、著者がそれまで読んだどの王朝物語より抜きんでて面白かったのですが、ひとつ気になることがありました。それは、主人公であるはずの光源氏その人の姿がどうも影が薄い、ということです。読み進んでいくうちに、著者は「これは光源氏の物語ではなく、紫式部の物語なのだと思うようになった」のです。そして、読み終わったときには、「千年以上も前に、これだけ「個」ということを追求した一人の女性がいたという事実に興奮してしまって、しばらく眠ることができなかった」といいます。
心理療法というのは、「個々の人間がいかに自分の人生を生きるか、ということに直接かかわる仕事である」と著者はいいます。現代の日本人は、「好むと好まざるにかかわらず、西洋近代の影響を受けている」が、「日本的な生き方を知らず知らず身につけている」のではないか、とうのが著者の考え方で、西洋近代を超える努力をするときに、「日本の物語に語られている古い知恵が、あんがい役に立つのではないか」という期待を持って日本の古典文学を読んでいます。
幸いなことに『源氏物語』は、そのような著者の期待に応える素晴らしい作品であり、「これを、紫式部という一人の女性の自己実現の物語として読むときに、現代人にとって役立つことは大いにあると思った」といいます。それは、「この物語全体の構図が、女性による「世界」の探求の結果として読みとれる」ということだといいます。
西洋近代の学問は、圧倒的に「男性の目」を中心に成立してきました。しかし、「世界を「男性の目」だけではなく、「女性の目」で見ることが大切であるという主張が、近代を超えようとする欧米の学者の中に認められるように思う」と著者がいうように、このような読み方は現代の日本人にとって、大いに意味があるものだと思います。
https://www.iwanami.co.jp/book/b243851.html
源氏物語とは、思えばすごい物語です。
はるか昔に書かれた物語であるにもかかわらず、今でもほとんどの日本人がその名を知り、
多くの人によって読み継がれています。
しかしそうはいっても、源氏物語をちゃんと読んだことがない、という方も多いのではないでしょうか。
実は、河合隼雄も長い間読んだことがなかったようです。
「若いときに、人並みに挑戦ーと言っても現代語訳であるがーを試みたが、「須磨」に至るまでに挫折した。
青年期にはロマンチックな恋愛に憧れていたので、それと全く異なる男女関係のあり方が理解できなかったのである。
それは端的に言って、「馬鹿くさい」と感じられたほどであった。
次から次へと女性と関係をもつ光源氏のあり方には腹立ちさえ覚えたのである。」(「はじめに」より)
こんな文章を読むと、あーわかるわかる、河合隼雄って、本当に「ふつう」なんだなーと思わされて思わず安心してしまいます。
概して河合隼雄は、専門知識のないところで、感覚を使って読んでいくのが得意なようで、
源氏物語についても、これまでになされていなかった独自の読みを展開することになります。
それが副題にもある「紫マンダラ」という視点なのですが、
つまり、光源氏は中心にいるけれども実は影が薄いではないか、
この男性は、いわゆる主人公などではなく、多様な女性たちを描き出すために存在するのではないか、というものです。
光源氏は中心にいるようであって実は空虚な存在です。
それはまさに「光」であって、さまざまな女性を照らし出す役割をとります。
だからこそ、源氏物語では様々な女性の生き方が主役となって人々の心に残っていくというわけです。
確かに源氏物語って、光源氏かっこいいわーという感想はあまり聞かれず、どの女性が好きだ、嫌いだ、と
私たちは女性たちの方に心を動かされているようです。
このような物語構造を河合隼雄は「紫マンダラ」と名づけたわけです。
本書はそのような意味で学術的でもあり、心理学的な視点から物語を読むことのおもしろさが堪能できる、
つまり、「ふつう」の視点から読んでもおもしろい作品といえるのではないかと思います。
https://www.kawaihayao.jp/ja/information/publication/1218.html
河合隼雄 『とりかへばや、男と女』(新潮社、1991年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84%E3%80%81%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8%EF%BC%89-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84-ebook/dp/B00E38B1T4/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=182R6WHMIBBVN&keywords=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84%E3%80%81%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3&qid=1706247962&sprefix=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84+%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%2Caps%2C379&sr=8-1
男と女の境界はかくも危うい! 平安時代の男女逆転物語から「心」と「身体」の深層を探る。
性が入れ替わった男女を描いた異色の王朝文学『とりかへばや物語』。かつて「淫猥」と評された物語には、「性の境界」をめぐる深いテーマが隠されていた。男らしさと女らしさ、自我とエロス、性変換と両性具有――深層心理学の立場からジェンダーと性愛の謎を解き明かすスリリングな評論
あとがき
本書は、わが国の中世の『とりかへばや物語』を素材として、筆者が心理療法家として関心を持ち続けてきた「男と女」という課題に取り組んだ結果、生まれてきたものである。「男と女」の問題は永遠の問題であり、誰もそれを解くことはできないであろう。それ故にこそ、それを主題とする文学作品がつぎつぎと生み出され、それはとどまることを知らない。筆者にしても、わからないことが多すぎて困るのだが、もう還暦も済んだのだから、それなりに少しでもわかっていることについて書いてみようと思った次第である。
『とりかへばや物語』を知ったのは、明恵(みょうえ)の『夢記(ゆめのき)』の研究を通じてである。明恵については、『明恵 夢を生きる』として発表したが、明恵上人にとっての女性像の重要性を認識するにつけ、当時の人々の男女観を知ろうとして中世の物語にいろいろと目を通しているうちに、『とりかへばや物語』も読むことになった。これは「男と女」という点について大いに考えさせられるものと、興味をそそられ、『明恵-』を執筆中から、『とりかへばや物語』を取りあげて一書を書きたいと考えていた。ここにやっと念願を果すことができて真に嬉しく思っている。
スイスで学んできたユング心理学は筆者の考えを支える重要な支柱である。しかし、ユングの言う「個性化」を大切にするかぎり、彼の言葉の受け売りではなく、それを「私」という存在のなかで意味あるものとする努力を払わねばならない。その結果として、前著『昔話と日本人の心』、『明恵 夢を生きる』が生まれてきたが、本書はそれらに続く第三作になると自分では考えている。
心理療法という仕事をしていると、「男と女」という点について考えさせられることが多い。男と女の間の愛憎は、人間関係のもつれの重要な要因である。また、男として生きる、女として生きる、というとき、男とは何か、女とは何かについて真剣に考え、悩む人も多い。あるいは、本文中にも論じるように、男-女という軸は、人間生活を考える上で、思いのほかに重要な柱として用いられている。
心理療法家には守秘義務があって、自分の仕事の内容についてはなかなか話し難いところがある。その点で、今回のように『とりかへばや』という素材を用いて語るのなら、何らの問題も生じない。夢を用いている以外は、心理療法の場面において実際に生じることについては直接に何も語ってはいないが、本書に述べられていることは、筆者の臨床経験をその基礎にもっている。
『とりかへばや物語』は、男性と女性とを「とりかへ」るという奇想天外なアイデアを中心にしているだけあって、男性・女性に関する固定観念を打ち破り、まったく新しい視座から男女の問題を見直すことを可能にするヒントを多く与えてくれる。従って、これは古い物語でありながら、アメリカの友人が言ったように、「ポスト・モダーン」の知恵を提供してくれるようなところがある。この物語についてヨーロッパで話をしてきたが、なかなか好評だったのも、そのような点があるからだろうと思われる。
門外漢の気安さで、自分の主観を大切にしながら勝手なことを言わせていただいたが、それでもあまりにも独善にならぬようにと、本文中に引用しているような、先賢の研究を参考にしたり、桑原博史、吉本隆明、富岡多惠子の三人の方との対談によって多くの示唆を受けたりした。ここであらためて、この三人の方に厚くお礼申しあげたい。
担当編集者のひとこと
日本人には今、「河合隼雄」が必要です。
河合隼雄さんが惜しまれつつ世を去ってから、はや1年余。
このたび、河合さんの代表作『とりかへばや、男と女』を選書版で復刊しました。
本作品は、『昔話と日本人の心』『明恵 夢を生きる』と同じく、深層心理学の立場から日本の古典を読み解いた評論です。1991年に小社より単行本として刊行され、1994年に新潮文庫に収録されました。
平安末期の作品とされる男女逆転物語『とりかへばや』は、川端康成、ドナルド・キーン、吉本隆明など多くの文人を魅了してきた異色の王朝文学。河合さんはこの物語から、「男と女」という単純な二分法を超えた、しなやかなジェンダー観を見出してゆきます。
巷の窮屈なジェンダー論とは違って、心理療法家ならではの深い洞察に基づく論考は、われわれの凝り固まった脳と心を解きほぐしてくれます。
何かと性急に二分法的な「答え」を求めがちな現代社会。私たち日本人は今なお、いや、今だからこそ、ますます河合さんの言葉を必要としているのではないでしょうか。
https://www.shinchosha.co.jp/book/603616/
『母性社会日本の病理』(中公叢書、1976年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%AF%8D%E6%80%A7%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%97%85%E7%90%86-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%EF%BC%8B%CE%B1%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84-ebook/dp/B00FEBDDFY/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=39FQAIY4016YX&keywords=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E6%AF%8D%E6%80%A7%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%97%85%E7%90%86&qid=1706247750&sprefix=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E6%AF%8D%E6%80%A7%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%97%85%E7%90%86%2Caps%2C203&sr=8-1
『昔話と日本人の心』(岩波書店、1982年)
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『夢と昔話の深層心理』(小学館、1982年)
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『中空構造日本の深層』(中公叢書、1982年)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E7%A9%BA%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4122033322/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=GH2QRSTMHPSP&keywords=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E4%B8%AD%E7%A9%BA%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4&qid=1706247903&sprefix=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E4%B8%AD%E7%A9%BA%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%2Caps%2C235&sr=8-1
『明恵 夢を生きる』(京都松柏社・法蔵館、1987年)
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『ユング心理学と仏教』(岩波書店、1995年)
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神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉
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神話の心理学――現代人の生き方のヒント〈〈物語と日本人の心〉コレクションIV〉
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昔話と現代〈〈物語と日本人の心〉コレクションV〉
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2024/01/28 (Sun) 11:26:20
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死と再生というテーマ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4875/kangae/kangae_02.htm
ユング心理学の本を読んでいて「死と再生」というテーマにたびたび出会うことに気がつきました。
ここでいう「死」は肉体的な死を意味するのではなく、象徴的な「死」のことです。
それは、「ひとつの世界から他の世界への変容を意味し、古い世界の秩序や組織の破壊を意味」しています。
象徴の世界の「死」は肉体の死と直接結びついているものではなく、ある人が象徴的な死を繰り返し体験しても、肉体的生命は生き続けていることが多いのだそうです。
ユング心理学では、たとえば「結婚」は娘にとっては処女性が失われるという死の体験であり、両親にとっては娘が失われる死の体験という、2重の死が含まれていると考えます。
肉体的な死と象徴的な死はかならず結びつくものではないですが、微妙なかかわりを持つものでもあるといいます。
生死をさまよう体験をしたときに、それを転機としてそれ以降の人生が大きく変わるようなことがそうです。
これは特別新しい考え方ではないですよね。夏目漱石が生死をさまよう大病をわずらったあとでその後の作品が変わっていった例、また精神科医であった神谷美恵子さんが若い頃結核になったが自分が死ななかったことが心の中で大きな部分を占めていたこと、作家の辻邦生さんも生死に関わる病気をしていたことがその後の作品に影響を与えていると思います。
このような死と再生のテーマを、河合隼雄さんが自殺との関わりについて述べたものがありました。
自殺しようとする人が、象徴的な意味での死の体験を求めていることについてです。
人は深い意味での死の体験によって、次の次元に生まれ変わることができる。
このような体験を求めたが、しきれなかった(死の体験をしそこなった)ために自殺未遂を繰り返すことになるというものでした。
深い意味での死の体験には充分な自我の力が必要になるといいます。自我の力がそのときに充分強いかどうかで、ひとりでその体験を行ったり、セラピストの力が必要であったり、または今はそのときではないとして、それが肉体的な死の体験へつながってしまうことを予防するのだそうです。
死の体験はいちどすれば終わるのではなく、その体験を繰り返しながら長い成長の過程をたどっていくものでもあるそうです。
自殺が精神の再生や新生を願って行われることもあるという考え方は、自殺がすべてそのようなものと考えるのではないですし、自殺をすすめるものでもありません。ここで私が伝えたかったのは
象徴的な死の体験が、次の次元へ生まれ変わる意味をもっていること、
そう考えることで自分自身の「死」についての考えに何かが加わったように感じたことです。
死と再生についてのテーマは私にはまだよくわかっていなくて説明できない部分も多いです。また、みなさんそれぞれのとらえかたもあると思います。このテーマについてもっとよく知りたい方は、ユング心理学やその他死と再生に関する本を読んでみてください。
私が参考にした本は、少し古い本ですが、
「絵本と童話のユング心理学」(朝日カルチャーブックス)山中康裕/大阪書籍/1986年
https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B1%B1%E4%B8%AD-%E5%BA%B7%E8%A3%95/dp/4754810678
「カウンセリングと人間性」河合隼雄/創元社/1975年
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%80%A7-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4422110209
です。[10.Mar.2002]
「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」 2008/01/12
大晦日だったか、元旦だったか、
新聞の広告に、大きな笑顔があった。
親しんだ、名前があった。
「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
(新潮社 考える人 2008年冬号)
☆
その中で、こんな話が出てきます――
今増えてきているのは、抑鬱症(デプレッション)ですね。それはわりと説明が可能なんです、人生が長くなったこととか、社会の変動が速くなったことで。つまり自分の獲得したパターンというのが、意味を持たなくなることが多いんですね。
今まで大丈夫だったものとか、
今まで大切にしてきたものとか、
もっというと、今までそうやって生きてきたものが、<意味を持たなくなる>。
あるいは、通用しなくなる。
たとえば、私が算盤(そろばん)のすごい名人になったとします。算盤さえあれば、と思っているときにコンピューターが出てきますね。そこで自分の持っていたシステムそのものが、まさに行き詰るわけです。そうすると、これはもう抑鬱症になりますね。
自分の大切にしてきたものが、突然、価値を持たなくなる。
いい悪いではなくて、ともかく、そうなる。
それではどうしようもなくなる。
(大丈夫だと思いたい、でも、現実、大丈夫じゃない)
(一部をとったら大丈夫、でも、総体として、危うくなる)
(大丈夫だといえば大丈夫、危ういといえば危うい)
状態というか、環境というか、
取り巻く状況が変化しているのに、
自分というものが取り残されてしまう。
(もちろん、それはいい悪いの問題ではない)
それは、例えば(ヘンテコリンな例だけど)、
厚着をしているうちに、春になり、夏になったようなもので、
薄着をしているうちに、秋になり、冬になったようなもので、
冬に厚着をするのは間違ってないのだけれど、
暖かくなったのに厚着のままでいると、さすがに暑い。
真夏となると、なおさら。
夏に薄着をするのはその通りなんだけれど、
寒くなったのに薄着のままでいると、さすがにつらい。
真冬となると、なおさら。
身体も壊す。
壊す前に、つらい。
ファッションだとか、生き様だとか、
それはその通りで、ある意味、個人の聖域だけど、
だけど、実際問題、
凍えたり、汗だくになったり、
困ったことになってしまう。
気温は測定できて、温度計とか、天気予報とかで、
それを確認できるけれど、
時代の流れとか、社会の流れとか、
己を取り巻く状況とか、
そういうものは、なかなか数字として測定できません。
人生観でもそうでしょう。たとえば節約は第一なんて考えているうちに、息子は全然節約せんで無茶苦茶やっているのに、あれはいい子だ、なんて言われる。そうなると自分の人生観をいっぺんつくり変えなきゃいかんわけです。
☆
こういうことが、14歳(思春期)とか、中年の時期に問題化するのかもしれません。
思春期には、思春期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。
中年期には、中年期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。
いいとか悪いとかじゃなくて、
ともかく行き詰ってしまう。(*1
(理由なんかない。ないことはなくても、明確ではない)
(言葉を持たないから、納得も表現も、伝えることもできない)
(つまり、なかなか意識化できない)
(そういう風になっている)
ともかく、通用しなくなってしまう。
こうなると、壊すしかなくなる。
そこをうまく突破した人はすごく伸びていく人が多いんです。突破し損なった場合は、極端な場合は、死んでしまう、自殺するわけです。もう生きていても仕方ないと。抑鬱症というのは、常に自殺の危険性があります。それがわれわれとしても非常に大変なんです。
☆
ここが難しいところで、
根本的な崩壊を防ぎながら、いかに壊すかということが、突破するための必然になるのだと思います。
言葉をかえると、
いかにうまく壊すか、ということになる。
もっと奥に突っ込むと、
いかに生命としての死を避けながら、象徴的な死を経験するか、ということになる。
我々は破壊や死を避けるあまり、<そこを突破すること>まで拒否してしまう。
それは一方で正しく、もっともでありながら、
もう一方では、それだけでは語れない部分がある。
何を壊し、何を殺すか、
生命としては壊さず、殺さず、
(むしろ、生かし、残し)
どうやって、壊し、変革させていくか。
そのために、互いにつながった、深い部分にある、内なるものを、
どう壊し、変容させていくか。
それには、どうしても悲しみというものと付き合わなければならない。
そして、象徴ということが、非常に意味を持ってくる。
☆
実際には壊さず、実際には死なず、殺さず、
それでいて、殆どそれに近い、
それでしか語れぬもの、
それでしか代替が利かないものを、
経験し、経ねばならない。
(ここに象徴の魔法がある)
しかし、そのものは見えず、
(また、見たくないものである場合が多いし)
実際と同じくらいの、悲しみも経験する。
(ギリギリ、皮一枚を隔てて、あちらとこちらが隣接する)
ここに、象徴の意味が出てくる。
実際にはそうでなくて、
しかし、ほぼ実際に近く、
深いところでつながっていて、
実際と同等の悲しみを経験する。
そして、最終的に、実際に変容する。
これをうまく表現するには、
もっと言葉が熟さねばならないのだろうな…。
実際にやらずに、実際にやるというのは、
たいへん意味深い。
(それは安易な代替では行えんことだ)
(*1
環境の変化や、身体の変化が、
生じやすい時期でもありますね。
https://jungknight.blog.fc2.com/blog-entry-819.html
ユングは、「死後の生」のような神秘的な考えがもつ意味について、次のようにも述べます。
彼は母親が死ぬ前日に彼女が死ぬ夢を見ます。
悪魔のようなものが彼女を死の世界へとさらっていったのです。
しかし彼女をさらった悪魔は、じつは高ドイツの祖先の神・ヴォータンでした。ヴォータンはユングの母を、彼女の祖先たちの中に加えようとしていました。
この高ドイツの神・ヴォータンはユングによれば「重要な神」「自然の霊」であり、あるいは錬金術師たちが探し求めた秘密である「マーキュリー(ローマ神話の神)の精神」として、「われわれの文明」の中に再び生を取り戻す存在でした。しかしその「マーキュリーの精神」は歴史的にキリスト教の宣教師たちにより悪魔と認定されていました。
ユングにとってこの夢は、彼の母の魂が、「キリスト教の道徳をこえたところにある自己のより偉大な領域に迎えられたこと」を、そして「葛藤や矛盾が解消された自然と精神との全体性の中に迎えられたこと」を物語っていました。
母の死の通知を受け取った日の夜、ユングは深い悲しみに沈みつつも、心の底の方では悲しむことはできなかったと言います。
なぜなら彼は、結婚式のときに聞くようなダンス音楽や笑いや陽気な話し声を聴き続けていたからです。
彼は一方では暖かさと喜びを感じ、他方では恐れと悲しみを感じていました。
ユングはこの体験から、死の持つパラドックスを洞察します。
母の死を自我の観点から見たとき、それは悲しみになり、「心全体」からみたとき、それは暖かさや喜びを感じさせるものになります。
ユングは「自我」の観点からみた死を、「邪悪で非情な力が人間の生命を終らしめるものであるようにかんじられるもの」と述べます。
「死とは実際、残忍性の恐ろしい魂である。…それは身体的に残忍なことであるのみならず、心にとってもより残忍な出来事である。一人の人間がわれわれから引き裂かれてゆき、残されたものは死の冷たい静寂である。そこには、もはや関係への何らの希望も存在しない。すべての橋は一撃のもとに砕かれてしまったのだから。長寿に価する人が壮年期に命を断たれ、穀つぶしがのうのうと長生きする。これが、われわれの避けることのできない残酷な現実なのである。われわれは、死の残忍性と気まぐれの実際的な経験にあまりにも苦しめられるので、慈悲深い神も、正義も親切も、この世にはないと結論する」(下p.158)。
しかし同時に夢は、母をヴォータンの神が死を通じて祖先たち下へつれていったと教えます。死は、母にとって、またユングにとって、喜ばしいものであると夢は教えます。
「永遠性の光のもとにおいては、死は結婚であり、結合の神秘である。魂は失われた半分を得、全体性を達成するかのように思われる」(下p.158)。
https://blog.goo.ne.jp/vergebung/e/eea5611531d7f83630a078b001261c2c
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3:777
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2024/01/28 (Sun) 11:27:32
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河合隼雄・京大名誉教授はドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルと日本の弓道師範とのエピソードを紹介している。
ヘリゲルは大正から昭和にかけて東北大学の講師として日本に滞在し、五年間、弓道を習う。その様子を書きとめたのが『弓と禅』(1981、福村出版)で、東西の文化の比較を語るとき、広く用いられる文献だ。
ヘリゲルは日本にきて、まず禅を学ぼうとしたが、ある人に止められた。論理的な思考に慣れた彼には禅はとっつきにくい。最初は具体的に手でつかむことのできる芸道のようなものがよかろう、それを通してつかむことのできないものに移っていけばよいから、という理由だった。
彼は弓道に入門するが、師範の指導についていけない。
師範は4つのことを教えた。
1「弓をひくのに、筋肉を使ってはならない」
2「肺で呼吸してはならない」
3「矢を放とうと意志してはならない」
4「的に当てようとしてはならない」
彼は腕を力いっぱい張らないと弓がひけない。見ると、たしかに師範は強い弓をひくときも腕はゆるんでいる。
「呼吸の仕方が悪いからだ」と師範は腹式呼吸を教えるが、「呼吸は肺でするものでないか」「これでも自分は一心に力を抜こうとしているのだ」と彼は反発する。
「いろいろ考えるのがいけない。何も考えずに呼吸だけに集中しなさい」と師範は諭す。
そのうち、やっと1と2はできるようになった。
しかし、3と4はどうしても納得できない。指の自然な放れを待つことができないのだ。
彼は合理的に主張する。
「私が弓を引き放つのは的にあてるため。引くのは目的に対する手段です。意志するな、といわれてもそれはむりです」。
これに対し、師範は
「正しい弓道には目的も意図もありませんぞ!あなたは意志の行わないものは何も起こらないと考えていられるのですね」
と反論する。
腹にすえかねたヘリゲルは
「それでは先生は目隠しをしてでもあてられるのでしょうね」
と言ってしまう。
______________
修行が始まり、ヘリゲルは矢を放つことになった。
しかし、彼は矢を放つ方法が分からない。
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ヘリ「先生、どのように矢を放てばよろしいのですか?」
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師範「無になって、矢を放つのだ。」
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ヘリ「えっ!? 無になると言いますが、それでは誰が矢を放つのですか?」
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師範「あなたの代わりに誰が射るかが分かるようになったなら、一人前だ。」
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ヘリ「どういうことか、分かりません。きちんと説明してもらえませんか?」
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師範「経験してからでなければ理解できないことを、言葉でどう説明すれば
よかろう?
どんな知識や口真似も、何の役に立とう?
ただ、あなたは精神を集中し、まず意識を外から内へ向け、次に内にある
意識すらも無くしていくことを努力しなさい。」
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阿波師範の言葉、「無心になって、矢を放て!」。
しかし、ヘリゲルにはそのことが理解できなかった。
そして、西洋合理主義者である彼は、いろいろ考えた結果、「無心」になるため
の何らかのテクニックがあるに違いないと考えた。彼は、阿波師範の矢の放ち方
を徹底的に研究し、そのやり方を真似た。
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ヘリ「これで、師範と同じように射放てる! 恐らくこれが無心なんだ!」
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彼は得意げに師範の前で射放った。
非常によい出来ばえだったので、彼は師範からのお褒めの言葉を期待した。
しかし、師範はそっけなくいう。
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師範「どうかもう一度。」
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ヘリゲルはもう一度、射放った。今度の矢は、最初の矢より上手くいった。
ヘリゲルは嬉しくなって、師範の顔を見た。
すると師範は、一言もなく歩み寄り、ヘリゲルの手から静かに弓を取り、それを
片隅に置いた。そして、誰も居ないかのように、無言のまま座り続けた。
ヘリゲルはその意味を悟り、その場を立ち去った。
ヘリゲルが技術的に解決しようとしたため、師範は深く傷ついたのである。
後日、ヘリゲルは師範に平謝りをし、何とか許してもらった。
〆 〆 〆
それから何年かたって、ヘリゲルは「的」を射ることを許された。
それまでの4年間は、2メートル先の藁束に向かって、射放っていたのだった。
今度の「的」は60メートルも先にある。ヘリゲルは途方にくれた。
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ヘリ「矢を的に当てるためには、どうすれば良いのでしょうか?」
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師範「的はどうでも良いから、今までと同じように射なさい。」
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ヘリ「しかし、的に当てるならば、的を狙わないわけにはいきません。」
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師範「いや、その狙うということがいけない。的のことも、当てることも、
他のどんなことも考えてはいけない。ただただ、無心になるのだ。」
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ヘリ「無心ですか?」
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師範「そう、無心だ。そうすれば的が自分の方に近づいてくるように思われる。
そうして、的は自分と一体になる。」
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ヘリ「的と自分が一体に!? そんなことが、本当に可能なのですか?」
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師範「うむ。的と自分が一体になれば、矢は自分の中心から放たれ、自分の中心
に当たるということになる。故に、あなたは的を狙わず、自分自身を狙い
なさい。それが出来れば、あなたは宇宙になれる。」
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ヘリ「無理です。私には理解できません。」
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師範「弓術は技術ではない。理屈や論理を超越したものなのだ。弓を引いている
自分は宇宙と一体となるべきであり、すなわち禅的生活なのである。」
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しかし、ヘリゲルには信じられない。
______________
何事も理屈で納得しようとする頑迷な弟子を持った師は、このうるさい質問者を満足させるものが見つかるかもしれないとの希望を持って、日本語で書かれた哲学の教科書を何冊か手に入れた(!)。
その後、しばらく経って、師は首を振りながらそれらの本を投げ出し、こんなものを職業として読まなければならない弟子から、精神的にはろくなことは期待できないわけがだいぶん分かってきた、と親しいものに漏らした。
「偶然」が起こるのは、その数年後である。
______________
的に当てることへの執着を、何度師に諭されてもぬぐい去ることのできないヘリゲルに、師がこう言って、
「あなたの悩みは不信のせいだ。的を狙わず射当てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手であるが」、
夜もう一度、来るようにと告げる。
弟子は夜になって師を訪問する。師は無言で立ち上がり、弓と二本の矢をもって着いてくるようにと歩き出す。
針のように細い線香に火を灯させた師は、先ほどから一言も発せずに、やがて矢をつがう。
もとより、線香の火以外の光はない。闇に向かって第一の矢が射られる。
発止(はっし)という音で火が消え、弟子は矢が命中したことを知る。
そして漆黒の中、第二の矢が射られる。師は促して、二本の矢を弟子に改めさせる。
第一の矢はみごと的となった線香の真ん中をたち、そして第二の矢は、第一の矢に当たりそれを二つに割いていた。
「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い中でも的がどの辺りにあるかわかっているはずだから、一本目の矢が当たったのはさほど見事な出来映えでもない、とあなたは考えられるであろう。
それだけならばいかにももっともかも知れない。
しかし二本目の矢はどう見られるか。
これは私から出たものでもなければ、私があてたものでもない、この暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。
それでもまだあなたは、狙わずにはあてられぬと言い張られるか。まあ、私たちは、的の前ではブッダの前にあたまを下げるときと同じ気持ちになろうではありませんか」
この逸話は、のちにドイツに帰った弟子がこのことを『日本の弓術』という講演で語るまで、(師とこの弟子にしか)知られなかった。かつてドイツ人の弟子と、弓道の師との間を通訳した日本人は、講演の速記録を読み、さっそく師にこのことを尋ねた。
「不思議なことがあるものです。「偶然」にも、ああいうことが起こったのです」
師は笑って答えた。
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-4.html
上記の対話の成立について、河合さんは非常に興味深いこととして、両者が「半歩ずつ」自分の領域を踏み出している点をあげている。
ヘリゲルは学者らしい慎みを破って「暗闇でもできるのか」と師範に挑戦している。
師範は「正しい弓道には目的も意図もない」と主張していたのに、挑戦に乗って弟子を導く「意図」のために矢を射ている。
両者が自分の土俵に固執していると対話は生まれない。
一歩はみ出すのはそれぞれのアイデンティティが壊れるが、半歩踏み出すのは可能だろう。むろん、対話が成立するまでにはそれぞれが悩み、工夫する時間の経過が必要だ。
事実、ヘリゲルの場合も、途中で、師範と対立し、一度破門にされている。それを乗り越えて対話の成果が生まれたのだ。
現象を虚心にみるというとき、意識のレベル、ということも考えねばならない。
宗教的な修行によって得る体験やビジョンによって、通常の意識より、レベルアップされた状態。これまでは「異常」とか「病的」とレッテルを張られていたものが「意識の拡大」とみられるようになった。
http://d.hatena.ne.jp/kanama/20091006
弓と禅 改版 (単行本)
オイゲン・ヘリゲル (著), 稲富 栄次郎 (翻訳), 上田 武 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E5%BC%93%E3%81%A8%E7%A6%85-%E6%94%B9%E7%89%88-%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%AB/dp/4571300271
オイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel、1884年3月20日 - 1955年4月18日)は、ドイツの哲学者。海外では日本文化の紹介者として知られている。
哲学者としてはヴィルヘルム・ヴィンデルバントやエミール・ラスクの下で学んでおり、いわゆる新カント派の系譜に属する。ラスクが第一次世界大戦で戦死した後、ハインリヒ・リュッケルトの依頼を受けたヘリゲルはラスク全集(全3巻)を編纂、刊行した。
大正13年(1924年)、東北帝国大学に招かれて哲学を教えるべく来日、昭和4年(1929年)まで講師を務める。
この間日本文化の真髄を理解することを欲し、妻に日本画と生け花を習わせて講義にやってきた先生の教えを横で聞き、大正14年には妻と共に弓術の大射道教を創始した阿波研造を師として弓の修行に勤しみ始める。
日本人と西洋人のものの考え方の違いや禅の精神の理解に戸惑うものの、ドイツに帰国する頃には阿波より五段の免状を受けた。
帰国後の1936年、その体験を元にDie ritterliche Kunst des Bogenschiessens(騎士的な弓術)と題して講演をする。1941年にはこの講演の原稿から柴田治三郎訳『日本の弓術』(岩波文庫)が、1948年には同じ内容をヘリゲル自身が書き改めたZen in der Kunst des Bogenschiessens(『弓術における禅』)が出版され、ここから更に『Zen in the Art of Archery|Zen in the Art of Archery Zen in the Art of Archery』(ランダムハウス)、稲富栄次郎訳『弓と禅』(福村出版)、藤原美子訳『無我と無私』(ランダムハウス講談社)など様々な訳本が出ている。
ドイツに帰国後、ナチス政権下でエアランゲン大学の教授となり、大学人として成功した[1]が、晩年は苦難の日々を過ごした。その中で彼を精神的に支えたのは、『葉隠』だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%AB
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2024/01/28 (Sun) 14:08:42
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ロマンチック・ラブの世界とは
カール・グスタフ・ユングは、男性の人格の無意識の女性的な側面をアニマの元型と規定した。男性が持つ全ての女性的な心理学的性質がこれにあたる。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)でもあり、異性としての女性に投影されることもある。フィルム・インタビューでユングはアニマ・アニムスの原形が、「ほんの僅かな意識」または無意識と呼んで、完全に無意識のものであるかどうかは明らかにしなかった。
彼はインタビューで、恋に落ちた男性が、女性自身よりも寧ろ自身の無意識の女性像であるアニマと結婚した事に気付き、後になって盲目な選択に後悔するのを例に出した。アニマは通常男性の母親からの集合であるが、姉妹、おば、教師の要素を持つこともある。
ユングはまた全ての女性が精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムス(animus)を持つと信じた。アニムスは女性の人格の無意識の男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影される。
アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は沢山のアニムスを持つとされた。ユングはアニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源であるとみなした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E
アニマ
アニマは男性が無意識の中に持っている女性原理──男らしくあるべきという社会的要請によって抑圧された女性的要素──情緒、感情、恋愛などを司るものです。いわば『魂の女性』で、そのアニマに基づいて、男性は心の中に『理想の女性像』を作り上げるといわれています。
自分のアニマイメージを現実の女性に投影して、恋に身を滅ぼすこともあるそうです。アニマの存在は男性にとって、男性に足りない女性的情動や感情、潤いを補って、完成した人間へと導く存在でもあり、また一つ間違うと破滅の淵に引きずりこんでしまうような、危険な存在でもあるわけです。
まだ発達していないアニマは、動物の姿や黒っぽい女性だったりすることがあるそうです。男性の夢に登場する女性はすべてアニマと考えてもいいでしょう。
アニムス
アニマが男性にとっての『永遠の女性』なら、アニムスは女性にとっての『心の中の男性』──女性の心の中に形作られた、内なる男性です。
一般に知性や理念、決断力、論理性などを象徴します。アニマが『魂』なら、アニムスは『精神、ロゴス』であり、女性が成長するため必要な存在です。
アニムスをきちんと認識していないと、やたら理屈っぽいだけになったり、妙な男性に自分のアニムスイメージを投影してのぼせ上がったりと、やはり男性同様危険な側面があるようです。
アニムスは父親のイメージではじまることが多く、やはり認識されないうちは黒っぽいえたいの知れない男性の姿を取るといいます。女性の夢に登場する男性は、すべてアニムスなのだそうです。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/rush/anima.html
水の中を覗きこむと確かに自分の姿を見ることになるけど、それ以外にも魚、水の精などがいます。水の精は人間を誘惑し、理性のコントロールを失わせます。
それはからかい好きな生き物であって(中略)ありとあらゆる悪戯をしかけ、幸福なまたは不幸な錯覚、抑うつ状態や恍惚状態、コントロールのきかない感情等々をもたらす。
これがアニマだとユングは言います。しかしアニマは元々、「魂と呼ばれ、なんとも言えずすばらしい不死のものを指している」とあります。
しかしユングによるとこれはキリスト教によって教義化されたものであり、本来のアニマとは違うと言います。本来のアニマは「気分、反応、衝動およびその他の自律的な心的作用の、ア・プリオリ〔非経験的なもの〕な前提である」んですね。
アニマ元型と関わることによって、われわれは神々の国に入りこむ。
(中略)
すなわち絶対的で、危険で、タブー的で、魔術的になる。
(中略)
世間では無意識に没頭すると道徳的抑制が壊され、無意識のままにしておいたほうがよいもろもろの力を解き放つことになると言われているが、アニマはその無意識への没頭に誘うために(中略)納得させるに足る根拠を提示する。
いつでもそうだが、この場合にも彼女は間違っているわけではない。なぜなら生そのものは善であるだけではなく、悪であるからでもある。
(中略)
妖精が生きている国には善悪という範疇は存在しない。
http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/50791497.html
人間はもともと両性具有的(シュズュギュイ)なのですが、大人になるにつれてどちらかの性を発達させなければならず、顧みられなかった方の性がアニマやアニムスとして無意識の深奥に封印されるのです。
アニマの属性はエロスであり、アニムスの属性はロゴスです。
アニマは男性に情緒性やムードをもたらします。アニマの力によって、男性は想像力を湧き上がらせることができます。一方でアニムスは女性に論理性や意見をもたらします。アニムスの力を借りれば、女性は行動力を発揮することができます。
さらにアニマとアニムスは、心の深い部分にある元型として、後で述べるセルフと自我のコンタクトを手助けする役割も果たします。
しかし、アニマやアニムスが自我に取りつくと、自我を守るペルソナが破壊される危険性があります。アニマに憑かれてエロスに魅入られた男性は、アニマの持つムードに冒され、自分の殻に閉じこもって社会に背を向けることがあります。逆に、アニムスに憑かれてロゴスに支配された女性は、アニムスの持つパワーに振り回され、本末転倒な論理をヒステリックに振りかざして社会に無謀な戦いを挑むことがあります。
いずれの場合も、その場にふさわしいペルソナ形成が度を越えたアニマとアニムスの介入によって阻まれるため、自我が周囲の環境に適応できなくなったり外界の刺激によって不必要に傷つけられたりします。
アニマとアニムスは、心の成長と共に四つの段階に従って姿を変え、成熟します。アニマの場合は、生物的な段階、ロマンチックな段階、霊的な段階、叡智の段階があり、アニムスの場合は、力の段階、行為の段階、言葉の段階、意味の段階に分けられます。
つまりアニマは、最初は暗く性的アピールの強い娼婦のようなイメージとして登場し、次により明るく清純な女優のようなイメージに変化し、さらに性的な雰囲気のない巫女や尼僧のようなイメージになり、そして最後に性を超えた光り輝く女神や観音菩薩のようなイメージに昇華されます。
一方でアニムスは、まず肉体的に逞しく力強いスポーツマンのようなイメージとして現れ、それからより精神的な行動力のある実業家のようなイメージに変化し、さらに教養のある学者や僧侶のようなイメージになり、やがて超越した神や仙人のようなイメージに到達します。
また、男性にとってアニマはさまざまに姿を変えながらも永遠の女性として唯一存在します。それに対して、女性にとってアニムスは複数の英雄として現れます。
アニマとアニムスは現実の恋人や配偶者と同一ではありません。この元型的イメージが現実の異性に投影された結果、全ての恋愛がもたらされるのです。
また、恋愛関係にある男女のアニマとアニムスは相互的な関係にあります。例えばアニマに憑かれた男性は、同じようにアニムスに憑かれた勝ち気な女性に自分の未熟なアニマのイメージを投影し、彼女に惹かれます。一方でアニムスに憑かれた女性は、同様にアニマに憑かれた弱々しい男性に自分の未熟なアニムスのイメージを投影し、彼をパートナーに選ぶのです。
http://relache.web.fc2.com/report/jung.htm
ユングは恋愛感情や性的欲動も、アニマ・アニムスの元型イメージの投影(projection)によって説明できると考えます。アニマやアニムスは、『意識的な人生の生き方・対社会的(対他者的)な適応的な態度』を補償して、その人に精神的な安定感や幸福感を与えてくれるだけでなく、進むべき人生の進路や選ぶべき選択肢を暗示的に教えてくれる存在でもあるのです。
夢やイメージとして体験されるアニマやアニムスは、自己の性格特徴や行動パターンとは『正反対の特性』を示すことが多いとされています。それは、エナンティオドロミアの補償を行って、『心全体の相補性・全体性』を取り戻させようとする自己から独立した機能と無意識の目的性を持っているからです。
『影(シャドウ)』の元型は、『意識的態度に対する同性像のアンチテーゼ』として心にバランスのとれた全体性を回復させようとしますが、『アニマ・アニムス』の元型は、『意識的態度に対する異性像のアンチテーゼ』として自己に欠如した要素や特徴を補って心の相補性を実現しようとするのです。
影(シャドウ)をイメージで体験しているときには、不快感や抵抗感、否定感情を感じますが、アニマ・アニムスをイメージで体験しているときには、幸福感や恍惚感、肯定感情を感じやすくなるという特徴があります。
影(シャドウ)にせよ、アニマ・アニムスにせよ、物理的現実ではなく心理的現実に属するものですが、多くの場合、それらの元型のイメージが持つ感情や影響力は現実世界を生きる他者に投影されます。嫌悪感を抱いているそりの合わない人物には『影(シャドウ)』が投影されやすく、異性として理想的な魅力や誘惑的な特徴を持っている人物に『アニマ・アニムス』が投影されやすくなります。
内面の変容や経験としては、社会常識や性別役割分担などによって社会的に要請された『男らしい生き方(行動パターン)・女らしい生き方(行動パターン)』への反発や抵抗として、無意識領域に抑圧され排除された『反対の性の表象(アニマ・アニムス)』が立ち上がってくることになります。
http://phenix2772.exblog.jp/9847999/
ダンテの「神曲」におけるベアトリーチェはダンテを神の世界に導きますが、文字通り彼女は彼を「案内」します。
ゲーテの「ファウスト」にも最後の一説に謎めいた言葉
「永遠に女性なる者、我らを牽きて上らしむ」
があり、確か後書きだったと記憶していますが、その著者が心理学に深いらしく「この一文はフロイト心理学と関係がある」ような書き方をしていました。これもユング心理学的に言えばアニマになります。
つまり心の伴侶であるアニマまたはアニムスは、人間の心の変化・成長・革命に関係し、その変化を導く働きがあるのですが、ちなみにニーチェは
「私はゲーテの言う『永遠に女性なるもの』の秘密を暴いた最初の人間かもしれない」
と言っています。さらに
「男性は『永遠の女性』を信じるが、女性については『永遠の男性』を信じているのだ」
と、ユングのアニマ・アニムス論を先取りすることを述べています。
アニマの意味する範疇は広く、秋葉原系アニメの美少女キャラクタも勿論、一つのアニマの現れですが、これは多く恋愛・性欲の対象ですので「低次アニマ」と表現して良い物で、この段階では心の成長に関わる機能は殆ど無いと思います。
これがあるきっかけにより、(私の場合は完全に一種の偶然ですが)自分の心の変容が開始するとともに自分が投影するアニマも成長し、より凛々しく、高貴に、そして恐ろしく厳しく成長します。
非常に高次に達したアニマはギリシアの女神アテナのようになると言われていますが、私の経験から言えば「男性と見まごうごとき勇ましい女性」に進化しました。
簡単に言ってしまえば、自分の自我が成長すると、無意識としての伴侶のアニマも成長し、まるで2人で階段を上って行くように感じます。「神曲」にもこのような表現がありますが、非常に多くの錬金術絵画がそれを描いています。
別の言い方をしますと、最初は可愛らしい愛でるべきアニマ(性欲の対象)であるのですが、次第に本人を「告発するアニマ」となり最後には、アニマ対自我の命を賭けた一騎打ちのような様相になります。
中高校生の時は理解できませんでしたが、プラトンの言葉「エロス(美しい肉体への愛)からフィロソフィア(愛智)へ」にも、おそらくこの意味が含まれているのでしょう。
一部のキリスト教でYHWHの妻をソフィア(智)と呼ぶことがありますが、まさにそのような「智」を愛人とするような状態になり、はっきり言いますが、この段階のアニマは外見が美しくとも性欲の対象として絶対に見ないような「凄まじく厳格な人」のようなものになります。
実際、月と太陽が馬上で一騎打ちするような図や、雄雌のライオンが噛みつき合うような図が錬金術にありますが、正にこのように厳しいものであり、「アニマが勝つか自我が勝つか」という状況になります。
このようなことで抜きつ抜かれつつ精神の階段を上って行き、上り切る時、終に自我は「永遠」と遭遇することになるのですが、これがゲーテの愛した「永遠」でありニーチェの言う「永遠回帰」の根拠になっていると考えています。
ユングはこの「そら恐ろしい宇宙のようなもの」を「自己(セルフ)」と呼びましたが、この時言うならば一種の全能感「宇宙と一体化したような気分」になります。(この時が自我インフレーションの極限状態です。)
ユング心理学ではこの自我インフレーションが極大になった状態を「エナンティオドロミー」と呼びます。
ちなみにニーチェはユングより先にセルフという用語を使用しており、また「ツァラトゥストラ」の中で自己(セルフ)を「偉大なる天体=太陽」に喩えています。
ニーチェの永遠回帰(永劫回帰)は、色々と文章的に小難しく解釈する哲学関係者がいますが私はこれは、一つの精神的変容の究極段階に達した状態と深い関係があるものと考えており、この、まるで時間を静止したような、「永遠(∞)=無(ゼロ)」というべき非常に仏教的境地と関係が深いと思います。
これがニーチェが「西洋の仏陀」と呼ばれる理由なのでしょう。 しかしこれは文章に書いただけでは理解不可能であり、実際に体験しないと分からないのですが、経験してみると正にこのようにしか言えないものです。
http://www.seijin.asia/wps/?p=50
ユングは、
男女・パートナー同士の関係には、二人でなく、四人の関係性があるといっています。
男性の心のなかには「アニマ」といわれる女性像が存在します。
女性の心のなかには「アニムス」という男性像が存在します。
すると、二人の関係性においては、現実の男女関係の他に、このアニマ・アニムス関係があることになるんです。
ここで、大切となってくることは、男性なら、相手のパートナーとの関係に、
自分の中の女性像「アニマ」を多々投影しているのだ、ということに自覚的になる必要があること。
相手に不満を持つ時、あなたはアニマとの関係性を見直す必要があります。
あなたの心が投影しているアニマは、一人の人間としての現実のパートナーとは異なっている、ということに気づくかもしれません。
ここまでくると、パートナー関係に変化があります。
つまり、あなたとパートナーとの関係性(外的)、あなととアニマとの関係性(内的)に分化されるのです。
この内的・外的関係性がごっちゃになってしまうと、自分の内面の異性(アニマ)を常に相手に投影して、現実の相手はその投影に動かされる、悩まされることになってしまうからです。
人間関係はこうした投影をもとに成り立っているともいえます。
しかし、僕らが少しでも自分の内面に意識の光を当てる努力をしていくことで、関係性は変化してきます。より深まります。
男女関係は古来より神秘的なものと考えられてきました。
男女関係は、個人の内面を映し出してくれる鏡です。 恋愛がすごいのは、この二つの異なる存在が出会い、結ばれることにあります。対立物の統合
http://ameblo.jp/mundi/theme-10009990410.html
即ち、ロマンチック・ラブというのは実際の異性を愛するのではなく、自分の心の中に住むアニマ・アニムスを勝手に異性に投影して、その幻覚に執着する倒錯的行為です。
自分のアニマ・アニムスのイメージに近ければ相手は誰でもいいのですね。
まあ、自己愛の変形でしょうか。
太古から全く変わらない心性を持つ日本女性はグレートマザー憑依型の行動様式を取り、魔女狩りで母性的な女性をすべて焼き殺した西欧の女性はアニムス憑依型の行動様式を取ります。
グレートマザーが恋愛する事はありませんから、本来の日本女性は不特定多数の男からの夜這いは受け入れても、西洋的な恋愛はできないんですね。
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2024/01/28 (Sun) 14:15:10
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欧米人の倒錯と幻覚の世界
男女の愛の物語、つまりロマンチック・ラブ・ストーリーは、12世紀の騎士と貴婦人を主人公にした宮廷風恋愛叙事詩にはじまったものといわれています。また、西洋文学の中でロマンチック・ラブを扱った最初の物語は、「トリスタン・イズー物語」であるともいわれています。
ロマンチック・ラブは結婚の枠の外にあり、それは極めて霊的な関係であったのだ。(略)そのようなラブが結婚と結びついてくるのは、西洋人が教会のもつ宗教的な力から離れてゆくことと関連している(略)。
本来なら宗教的経験としてもつべきことを、公式の宗教に魅力を感じなくなったために、日常生活の中での恋愛に求める。その動機は素晴らしいが、そこで途方もない聖と俗の混交が生じてしまう。
ロマンチック・ラブの象徴的意義を認めて、象徴的実現をはかるのではなく、無意識に現実化しようとすると、欧米においては、男性は家父長的地位を守ったままで、たましいの像としてのアニマの役割を、女性がそのまま背負うことを要求する。
それは、女性を尊重しているように見えながら、途方もない押しつけによって、女性の自由を奪っていることにもなるのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
アニマはしばしば現実の女性に投影され、そのときには烈しい恋愛感情がはたらくことをユングは指摘しているが、その際は、その女性はアニマイメージのキャリアーなのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
http://homepage1.nifty.com/risako/report/yaoi2.htm
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ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『トリスタンとイゾルデ 第1幕への前奏曲とイゾルデの愛の死』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/378.html
ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html
Kirsten Flagstad and Ludwig Suthaus - Liebesduett
http://www.youtube.com/watch?v=B-ImojzMOAs
蓄音機で フルトヴェングラー トリスタンとイゾルデから「愛の死」
http://www.youtube.com/watch?v=JS0GA_0vIFc
Kirsten Flagstad and Furtwangler - Liebestod
http://www.youtube.com/watch?v=4tgn511ceNQ
下の楽譜は、総演奏時間三時間以上にわたるこの楽劇の最初の部分(左:「前奏曲」より)と、最後の部分(右:「イゾルデの愛の死」より)です[Edition Peters Nr. 3407より改変]。このほんの数小節の中にも「トリスタンとイゾルデ」の魅力は満載されていますので、これを使って私なりの解説を試みます。
まず矢印で示した小節の和音。これは、この楽劇が始まって最も初めに聴衆の耳に入る和音です。そして、この和音は、極めて絶妙なバランスの上に成り立っています。
和音はFを基音にH、Dis、Gisと4つの音から構成されています。一見単純に見えますが、実はこれは従来の機能和声法では解釈できない非常に特殊な音の並びなのです。不協和度は少ないものの、非常にストレスの大きな響きで、解決を待たねばならない不安定な音の固まりです。
これが、次の小節になるとE majorの和音に帰属し解決され、ここに至って聴衆は安堵を覚えます。逆にいえば、従来の理論では、一見、解決策のない不安定な音に聞こえた和声は、極めて単純な和声に落ち着きうることを、ここで初めて知ることができるのです。
この複雑怪奇な「トリスタン和声」は、機能和声法をきりぎりの所まで拡大解釈して見せたワーグナーの偉大なる手腕の発露です。
この和声は後にドビュッシーやスクリャービンらによってさらに拡張されていくことになります。実際、この和音の発見をもって、クラシック音楽全史を「トリスタン以前」と「トリスタン以降」に分類することさえできるのです。
さて、我々は、ここでもう一つ重要なことに気づかねばなりません。それはトリスタン和声が解決したその和音に、Dの音が含まれていることです。トリスタン和声があまりにも怪奇であったために、我々は次の小節で完全に和声が解決されたような錯覚を覚えるのですが、じつはその和音は属7を伴った「未解決」な和音にすぎません。
こうした語法は曲全体にわたって使用されています。和音の解決が再び次の不協を生み、このストレスの解決もまた・・・といった具合に、問題は次々と提起され、解決されないまま引き継がれていくことになります。この延々と続く和声のうねりは、トリスタンとイゾルデ二人の永遠に解決されることのないであろう愛を意味していることは言うまでもありません。
そして、なにより我々が注意しなければならないのは、トリスタン和声の持つ独特な生理的効果です。この絶妙な和声は、なぜか官能的に響きます。まさにこれこそがこの楽劇の最大の魅力です。
この音楽以前に、これほど官能美をたたえた音が鳴り響いたことはなかったでしょう。この法悦感を喚起する原理は、「四度音程」の累積に基づいたF、H、Dis、Gisという音の選択にあるようです。
実際、この原理は楽劇を隅ずみまで支配しています。結果として麻薬的効果が聴衆を陶酔の世界へと誘い、音楽的快感の虜とさせるのです。我々はこの和声のもつ圧倒的な煽情効果の前になすすべもありません。楽理を超越した仮想界。その抗い難いメフィスト的求心効果。幻影への陶酔。カタルシス的な憧憬。情動の浄化。「音楽」というものの魅力を余すところなく表現しつくした芸術中の芸術。それが「トリスタンとイゾルデ」なのです。
さて、トリスタンの魅力はなにも和声だけではありません。上の楽譜(左)に赤色でしめしたメロディーライン(モティーフ)に注目して下さい。Gis、A、Ais、Hという、単純な上行性の半音階進行です。
しかし、トリスタン和声に乗ったこの音の動きは、上へ上へ、高いところへ高いところへ、という至高なものへの憧憬を思わせます。もちろん、トリスタンとイゾルデ二人の至上な愛への憧れを示しているのでしょう。しかし、彼らの羨望もHの音で未解決のままに終わっています。
実ることのない愛。切なくも悲痛な終焉を想像させるに十分の旋律です。
この4つの音からなるモティーフもまた、楽劇中で何度も繰り返し現れます。しかも、その度に、解決を見ることなく音の渦へと消えていくのです。そして、二人の理想世界への憧れは望蜀として膨張し、最後には二人の死という形で結実します。
その瞬間、憧れのモチーフは、上の楽譜(右)の様に、Gis、A、Ais、H、Cis、Disと、Disの音まで到達し、これと同時に和声も極めて純粋なB majorの主和音に解決されるのです。このモティーフが不安に満ちたトリスタン和声と共に初めて聴衆の前に提示されてから、じつに3時間以上たった終結部で、ようやく死(浄化)による解決を迎えるわけです。
この楽劇は、最後の協和音「救済」に向かう葛藤を描いた壮大なドラマであると言えます。大河のうねりは聴くものの心を毟裂き、そして清らかに透きとおった高次の解決を迎えるその瞬間、我々は鳥肌の立つ思いを覚えます。
http://gaya.jp/myprofile/tristan.htm
<愛>は空虚な記号です。ただ、その空虚さ、あるいは無根拠性を隠蔽し、<愛>を実体化する道具として媚薬があります。
『トリスタンとイズー』の媚薬が有名ですが、古典的恋愛物語に登場する愛する若者たちはみな、あたかも媚薬が効いているかのように強い持続的な情熱にかられています。
実は媚薬こそがこうした若者の不条理な情熱のメタファーなのかもしれません。
実際、<愛>は麻薬のように心身に大きな変化をもたらすことがあります。<愛>の炎は身も心も焼き尽くすと言いますが、恋愛物語では全身にあらわれる症状が描かれることがあります。
「トリスタンの心臓の血の中には、鋭いとげをつけ、かぐわしい花を咲かせた、一本のいばらが根をはりひろげて、肉体も、心も、欲求も、そのすべてが、イズーの美しい体に、なにかこう強いきずなでもって巻き付けられているように、思われるのだった。」 『トリスタンとイズー』
「あなたを垣間見ただけで、私の声はうちふるえ、舌はこわばり、全身が微細な炎にちりちりと焼かれる」サッフォー
フィッシャーは『愛はなぜ終わるのか』のなかで次のK・ユングのことばを引用していますが、今日の大脳生理学の知見からすればこれもすでにレトリックではなく、字義通り科学的にある程度説明がつく内容です。
「ふたりの人間の出会いは、ふたつの化学物質の接触のようなものだ。何らかの反応が起こると、両方とも変質する。」
それでは愛する人の大脳ではどんな化学反応(情報操作)が起こっているのでしょうか?(以下、『愛はなぜ終わるのか』による)
人間の脳は主に三つの部分からできています。
最も原初的な本能を調整する脳幹(爬虫類脳とも呼ばれる)。
情動を司る大脳辺縁系(同じく哺乳類脳)。
感覚、言語機能をはじめ、各機能の統合をおこなう大脳新皮質。
<愛>は情動の一種ですから、それが活躍する舞台は大脳辺縁系ということになります。そして、中心となる作用素は、興奮、歓喜、恍惚などを引き起こす興奮性伝達物質フェニルエチルアミン(PEA)であると考えられています。
「ロマンス中毒患者」と呼ばれる人たちがいまして、彼らは実を結ぶはずのない恋を病的に求め、高揚と陰鬱の状態を交互に味わい続けるのですが、彼らにはPEAの分泌が多いことがわかっています。
ロマンス中毒患者にMAO抑制剤を投与しますと、数週間で「相手を選ぶのに前よりも慎重になって、さらには恋人なしでも快適に暮らせるようにさえなった」といいますから、恋愛を病ととらえた12世紀以前の西洋人の考え方には根拠があったことになります。
トリスタンとイズーが飲んだ媚薬というのは今風に解釈すれば、PEAの分泌を高める興奮剤だったのかもしれません。
ただし、PEAと<愛>の病が一義的に関係しているわけではないことは付け加えておくべきでしょう。
「PEAは高揚と不安を引き起こすだけで、そんな化学的状態になる経験はたくさんあり、恋の情熱はそのひとつでしかない。」
<愛>がPEAに依るとしても、PEAによる高揚感、不安感は愛以外の様々な形をとりうるということです。
PEA効果には時間的に限りがありますから、ロマンティックな恋愛の期間はずっと続くわけではありません。18ヶ月~3年もすれば、恋に落ちた人も再び相手に対し中立的な感情を抱くようになるといわれています。
つまり、その間は相手を、そしてさらには世界全体を高揚と不安を通じて情動的にみる態度が維持されうるわけです。結晶作用という知覚的な麻痺ももちろん伴うことでしょう。
PEA効果が切れると同時に愛もお終いになるというわけではありません。激しいロマンチック・ラブのあとには落ち着いた愛着による新しい愛の可能性もあるからです。この愛を司る物質はエンドルフィンで、心を落ち着かせ、苦痛をやわらげ、不安をしずめるといった、まさにPEAと反対の作用があります。
小さい頃に下垂体不全をおこした人の中にはPEA分泌不良による「愛の不感症」という症例もあるようですが、エンドルフィンによる静かな愛はこれとは別で、これこそ永続的な、現実的な人間関係の源でしょう。しかし、恋愛物語が対象とするのはやはり、PEA効果による病に苦悩する激しい愛ということになります。
「意識はある対象についての意識である」というのが現象学の出発点です。人はある対象を憎むべきものと捉えることにより、はじめてそれを憎むのであり、形をもたない憎しみエネルギーみたいなものが予めあり、それがたまたま見つけた対象に向けて発散されるのではない、というのが現象学的なとらえ方です。
しかし、これと反対の考え方もあります。人の情動とは無定形のマグマみたいなもので、それが外界の対象にそそがれるのは偶然であり、そのマグマが仮の形を得て持続するためのアリバイを外界の対象が与えるにすぎない、という考え方です。
このような考え方をとるならば、PEA効果が自己を持続させるために、高揚と不安状態を創出するアリバイが必要となり、それを外界にもとめる。情熱恋愛とはPEAの自己保持のアリバイであり、恋愛(物語)における障害とは、まさに保持時間をできるだけ延長するための仕組みに他ならない。要するに、恋愛物語の主体はPEAだという逆説です。
外在的障害がない場合、あるいは解決されたあとになおも内在的障害が待ち受けているのは、PEAの麻薬効果が自己を維持するためにあらゆるアリバイを捏造するせいなのかもしれません。
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/lovemac.html
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: 何 : /!::|::l:::: /|:::l:ヽ:\::ヽ:.:\:.:\.:::ヽ:.:.:ヽ:.:.:.:\::::::::::::\ ̄ : : :
: だ : |/l::|::|::|: ト、:::::::::、、:ヽ、:.:.:.:::::::::::::::ヽ::::.:ヽ:.:.:.:.\:.:.:.ヽ:::\. : : :
: か : |::|::/l::|::|r‐ヽ:::::ヽ(ヽー,―\::::::、::::::::::ヽ::.:.::::::.:::::::ヾ. ̄ : : :
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: わ :. |/l::|::|:::|ヽ==''" \:ヽ、ヽ=='" |:::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、::::\
か / ',|::|:::| / `゛ |!::::::::::::::::::::::::::::ト、::ト、_` ゛`
ら l::!::::ト、 '、 _ ||::::::::::::::::::::::::ト:ヽヾ| | ̄ ̄ ̄`ヽ、
な r'"´||',::::', |:::::/l:::::|\:::ト、ヾ | | / / \
い / ll ',::', 、 ーこニ=- /!::/ ヽ:::| ヾ、 ノ ノ / ,イ ヽ、
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2024/01/28 (Sun) 14:20:14
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アニマを映像化したヒッチコックの名作 めまい (1958):
アニマが出現する場面
https://www.youtube.com/watch?v=8317VVohgMo&t=206s
キム・ノヴァクを象徴する光は、グリーンのセロファンをライトの前に置いた暗い緑色がメインになっているのだが、これは死や墓穴を象徴するカラーであるというのは有名な話だ。
しかし、後半、栗色の髪をしたキム・ノヴァクがホテルのグリーンのネオンに当たると髪が金色に見えるというのはどういうことなのだろうかと考え込まざるを得ない。
ヒッチコックの金髪好きは有名な話であり、この作品でも、ジミー・スチュアートを突き動かす衝動は、ほとんどレストランの赤い壁に映えるキム・ノヴァクの金髪に起因しているわけだが、それはヒッチコックにとって死に至る病だということを証明してみせたのだろうか。
因みに、この場面に始まる、一連のキム・ノヴァクを昔死んだ女そっくりに仕立て上げていくジミー・スチュアートの行動は、屍姦を意味しているのだとヒッチコックは語っている。 ジミー・スチュアートの行動は、まさしく死んだ女を「死者の中から」呼び覚ますものなのだろう。だから、墓穴の緑が失われた女の記憶を呼び覚まし、別の女の髪をブロンドに輝かせるのである。
ジミー・スチュアートはアメリカ人の素朴さを体現する国民的俳優と称せられ、ヒッチコック作品でも『知りすぎていた男』では子供の命を救うために謎と陰謀に立ち向かう理想的な父親像を演じているが、この作品では死体マニアのような妄執にとり憑かれた男であり、『裏窓』では出歯亀のカメラマンに扮して、彼に与えられたイメージを気持ち良く裏切っている。
ドナルド・スポトーは『ヒッチコック--映画と生涯』の中で、ヒッチコック作品におけるスチュアートは、ヒッチコック自身を仮託されているのだと指摘しているが、これはなかなかの卓見だと思う。
この作品におけるマデリーン/ジュディ役は、当初、『間違えられた男』に主演してヒッチコックのお気に入りとなったヴェラ・マイルズが演じるはずだったが、マイルズは妊娠したことを理由に断ってきた。これもスポトーの著書によると、ヒッチコックの欲望に危険を感じたからだとかさまざまな憶測がなされている。
この頃、ヒッチコックはやたらと女優にしっぺ返しを喰らっているのは事実であり、オードリー・ヘップバーンは『判事に保釈はない』の主演を撮影直前に断ってきてこの作品を頓挫させているし、キム・ノヴァクも『めまい』の撮影中はヒッチコックとの対立が絶えなかったという。
こうしたことがトラウマとなって、『北北西に進路を取れ』では女性とは信用できない存在であるというように描き、『サイコ』ではジャネット・リーとヴェラ・マイルズをさんざんな目に合わせると共に息子を束縛する恐怖の象徴である母親を登場させるに至った。『間違えられた男』と『サイコ』でヴェラ・マイルズの扱い方が全然違ってしまったことに対するヒッチコックの精神的変貌を見る上で、この『めまい』は重要な作品であるだろう。
この作品からタイトル・デザインにソール・バスが加わり、次の『北北西』で脚本のアーネスト・レーマンが参加したことにより、ヒッチコック・ファミリーとでも呼ぶべきものが確立した。さまざまなプレッシャーやゴシップのネタがつきまとい、スポトーの著書から受けるイメージからは異常者ではないかとさえ思えてくるこの時期のヒッチコックではあるが、それでもなおそうしたスキャンダルを払拭してあまりあるほど彼を偉大たらしめているのは、彼がそうした要因をすべて作品に転化してしまうパワーを持っていたからである。
『めまい』『北北西』『サイコ』『鳥』と、ヒッチコック生涯最大の名作がこの時期に集中しているところを見ると、どんな逆境にも負けない強さが、まさしくヒッチコックの天才の原動力であったということに気づく。
そういう意味で『めまい』は、作品の性格とは裏腹に生きる強さとしたたかさを与えてくれる映画であり、最大限の賛辞を持って称されるべき名作である。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/vertigo.htm
ヒッチコックは完全に倒錯していますね。 こういうのが欧米人に特有な情動なのです。
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映画でアニマが現れる場面で奏されているのはワーグナーのトリスタンとイゾルデ:
男女の愛の物語、つまりロマンチック・ラブ・ストーリーは、12世紀の騎士と貴婦人を主人公にした宮廷風恋愛叙事詩にはじまったものといわれています。また、西洋文学の中でロマンチック・ラブを扱った最初の物語は、「トリスタン・イズー物語」であるともいわれています。
ロマンチック・ラブは結婚の枠の外にあり、それは極めて霊的な関係であったのだ。(略)そのようなラブが結婚と結びついてくるのは、西洋人が教会のもつ宗教的な力から離れてゆくことと関連している(略)。
本来なら宗教的経験としてもつべきことを、公式の宗教に魅力を感じなくなったために、日常生活の中での恋愛に求める。その動機は素晴らしいが、そこで途方もない聖と俗の混交が生じてしまう。
ロマンチック・ラブの象徴的意義を認めて、象徴的実現をはかるのではなく、無意識に現実化しようとすると、欧米においては、男性は家父長的地位を守ったままで、たましいの像としてのアニマの役割を、女性がそのまま背負うことを要求する。
それは、女性を尊重しているように見えながら、途方もない押しつけによって、女性の自由を奪っていることにもなるのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
アニマはしばしば現実の女性に投影され、そのときには烈しい恋愛感情がはたらくことをユングは指摘しているが、その際は、その女性はアニマイメージのキャリアーなのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
http://homepage1.nifty.com/risako/report/yaoi2.htm
めまい(1958/米/パラマウント) VERTIGO
製作・監督=アルフレッド・ヒッチコック(※製作ではノンクレジット)
原作=ピエール・ボワロー、トーマス・ナルスジャック(『死者の中から』)
出演=ジェームス・スチュアート(ジョン・“スコッティ”・ファーガソン)
キム・ノヴァク(マデリーン・エルスター/ジュディ・バートン)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%84-DVD-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B000BIX8E6/ref=pd_rhf_p_t_2
Vertigo (1958) - Movie - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL518C3FE4926104E6
「スコティ」ことジョン・ファーガソン刑事は、犯人を追う途中に同僚を死なせてしまったショックで、高所恐怖症によるめまいに襲われるようになり、警察を辞めてしまう。そこへ学生時代の友人エルスターが現れて、何かにつかれたかのように不審な行動する妻マデリンを調査してほしいという。
スコティはマデリンを尾行するうちに、彼女の先祖であり過去に不遇の死を遂げた人物、カルロッタの存在を知る。カルロッタは、髪型から首飾りまでマデリンそっくりであり、後にスコティはエルスターに、マデリンはカルロッタの亡霊に取り付かれていると聞かされる。尾行を続けていると彼女は突然海に飛び込み投身自殺を図る。そこを救い出したスコティは初めて彼女と知り合うことになり、やがて二人は恋へと落ちていく。
スコティは彼女を救おうと思い、マデリンが夢で見たスペイン風の村へ向かうが、マデリンはカルロッタの自殺した教会へと走っていく。スコティは追いかけるが高所恐怖症によるめまいのために追いつくことが出来ず、マデリンは鐘楼の頂上から飛び降りてしまう。
マデリンの転落は事故と処理され、エルスターは彼を慰めながら自分はヨーロッパへ行くと告げる。自責の念から精神衰弱へと陥り、マデリンの影を追いかけ続けるスコティはある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見する。
追いかけると、彼女はかつてマデリンの通っていたカルロッタの旧居のアパートに住むジュディという女だという。スコットはジュディとデートの約束を取り付けるが、ジュディは自責の念にかられる。知らないフリをしてはいるが、スコティに「マデリン」として会っていたのは誰でもない彼女自身だったからだ。高所恐怖症のスコティを利用して、エルスターの妻殺しという完全犯罪に加担していたのである。
ジュディはスコティの狂気じみた要望に素直に応え、洋服、髪型、なにもかもをマデリンと同じにし、死んだはずの「マデリン」へと次第に変貌していく。
ジュディとスコティはいびつな愛を育もうとするが、ある時二人でデートにいく際、その愛は破綻を迎える。ジュディのたのみでスコティが首にかけようとしたネックレスは、マデリンがカルロッタのものとして身に付けていたネックレスそのものだった。真相がはっきりと見えてしまったスコティはジュディを、マデリンが転落した教会へと連れて行き彼女を問い詰める。高所恐怖症も忘れ、鐘楼の頂上でジュディに迫るスコティ。しかし、そのとき暗がりから突然現れた影におびえたジュディは、バランスを崩してマデリンと同じように転落する。絹を裂くような悲鳴。
スコティは、呆然としてその鐘の音を聞いているばかりだった。
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ヒッチコックはこの作品をゴシック・ホラーに仕立て上げようと、19世紀の風景が数多く残るサンフランシスコに舞台を設定した。ジミー・スチュアートがキム・ノヴァクを尾行する前半部分がロジャー・コーマンなどの恐怖映画における導入部分を思わせるのはそのためで、『レベッカ』における開かずの間を配したマンダレー屋敷をそのまま一つの街にスケールアップしようとした気配が感じられる。
この作品を支配しているのは、光のコントロールだ。
幻想シーンを除くとほとんど影らしい影のないこの映画においては、光が当たっているか当たっていないかのいずれかで画面設計がなされている。
書店主のポップ・リーベルがカルロッタ・バルデスの伝説を語る場面では、雨雲が近づいていることを表現するために照明をどんどん落としていくという古典的な手法を敢えて使っていて、この場面も、重要なのは「暗くなること」でなくて「光が消え去っていくこと」と考えると納得がいく。
この映画は、平凡で先の見える人生を送っていたジミー・スチュアートの刑事が、ある日突然妖しい光彩を放つ女性に出会い、その光が失われることに神経質になっていく作品なのだから、光のコントロールは見事に作品の性格を表現していて完璧である。
キム・ノヴァクを象徴する光は、グリーンのセロファンをライトの前に置いた暗い緑色がメインになっているのだが、これは死や墓穴を象徴するカラーであるというのは有名な話だ。
この場面に始まる、一連のキム・ノヴァクを昔死んだ女そっくりに仕立て上げていくジミー・スチュアートの行動は、屍姦を意味しているのだとヒッチコックは語っている。
ジミー・スチュアートの行動は、まさしく死んだ女を「死者の中から」呼び覚ますものなのだろう。だから、墓穴の緑が失われた女の記憶を呼び覚まし、別の女の髪をブロンドに輝かせるのである。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/vertigo.htm
本作に対しては一つの大きな疑問が提起されているのです。それはこの映画の後半部全体が、主人公スコティの夢の中の出来事ではないかというものです。
<一年後・・・?>
精神病院のシーンを最後に前半部が終了し、後半部の展開がサンフランシスコの大パノラマで幕を開ける時、その俯瞰の映像には、普通なら映し出されるであろう「数ヶ月後」、もしくは「数年後」を表すテロップが表示されないのです。(およそ三十分後に発せられるスコティの台詞から推測するに、正確には「一年後」だと思われます。)
これはその直前のシーンにおいて、「彼はどのくらいで治るでしょうか?」と問うミッジに対する、医師の「数ヶ月か、もしくは数年か、全く見当が付かない」という返答が説明になっていると考えて、安易なテロップを省略したのだと解釈する事も出来るのですが、もう一つの疑問の方は、そう簡単には片付きません。
<ミッジの不在>
スコティの事を気遣い、あんなにも親身に接していたミッジを演じるバーバラ・ベル・ゲデスが、後半部からは全く登場しなくなってしまうのです。
スコティとミッジが以前に婚約していたという事実も語られていますが、ミッジが今でも彼を愛している事は一目瞭然です。観客は彼女の嫉妬に狂う様子さえ目にする事が出来ます。彼が入院している病院にも足繁く通うミッジ。そんな彼女がスコティの事を見捨てて、突然どこかに消えてしまうものでしょうか?
実はこの疑問に対する答えは、ミッジ自身の口から語られていました。病室において、放心して椅子に腰掛けているスコティに向かって彼女は言います。
「私がここに居る事も分からないのね」
そう、スコティの世界からはミッジは居なくなってしまっていたのです。
彼の「世界」の中には、巨大な「マデリン」という存在があるのみです。ミッジはその「存在」ではなく、彼女自身の「不在」を強調するために、映画の前半部おいて、あんなにも観客に印象付けられていたのです。そして、その不在がほのめかすものは、上記した「夢説」に他ならないのです。
おお、なんという巧みな脚本でしょうか! そしてなんという悲しい物語でしょうか! ミッジは居なくなったのではありません。今でも変わらずスコティの病室を見舞っているのです。
そう考えると、後半部の始まりにテロップが表示されなかった事にも合点がいきます。あれは「数ヶ月後」でも「数年後」の出来事でもないのです。映画はあの画面の暗転を境に、スコティの夢の世界に突入したのです。
大パノラマ直後のスコティの登場場面のカッテイングにも違和感を覚えたものですが、あれも夢の感覚の表現だと考えれば納得がいきます。
普通ならこうした「場所の移動」を行った場合には、車から降りる映像やバス停の前を歩いている映像などから始めて、「到着」の感覚を表現するものです。しかし、本作ではカメラが上から下に振られると、スコティがその場に立ち尽くしていて、まるで彼が街の中に忽然と出現したかのように感じられるのです。彼はあの瞬間、夢の世界に足を踏み入れたに違いありません。
<夢と贖罪>
愛する人を見殺しにしてしまったという罪の意識に苛まれ、現実を受容できなくなったスコティは、その夢の中で、不幸な現実を犯罪物語に仕立てて自らを贖罪すると同時に、マデリンの死を否定するのです。
でも、本当は彼にも分かっているんです。もう彼女が戻らないという事が。それ故に、最後には、自らが作り出した「マデリン」のイメージを、彼は破壊してしまうのです。
ラスト、高所恐怖症を克服したスコティは塔の上からマデリンの死体を見下ろしています。彼が克服しようとしたのは高所恐怖症などではなく、「マデリンの死」だったのです。
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2024/01/30 (Tue) 20:25:16
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