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ジェフリー・オブ・モンマス(イギリス ウェールズ 1100年 - 1155年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%B9
アーサー王伝説の語り手として知られる。
ジェフリーの最も知られた代表作は、『ブリタニア列王史』(Historia Regum Britanniae)である。今日その内容のほとんどは、いくつかの神話や古書を基に、ジェフリー自身が創作した物語と考えられている。
(ジェフリーが)戦士ヴォーティガーンや彼以降の英雄たち、またアーサー王やその後継者について描いた物語は、一部は彼自身、一部は他の者(ジェフリーが参考とした本や神話)によって創作されたものである。
『ブリタニア列王史(Historiae Regum Britanniae)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
中世の歴史書や騎士道物語では、アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物とされる。
伝説上の王としてのアーサー王は、12世紀のジェフリー・オブ・モンマスによる歴史書『ブリタニア列王史(Historiae Regum Britanniae)』が人気を博したことにより国を越えて広まった。
アーサー王伝説は作品によって登場人物、出来事、テーマがかなり異なるため、原典となる作品が存在しない。ただし、ジェフリーの『列王史』が後の作品群の出発点になったことは確かである。
ジェフリーの描くアーサーは、サクソン人を撃退し、ブリテン、アイルランド、アイスランド、ノルウェー、ガリア(現在のフランス)にまたがる大帝国を建設した人物となっている。
アーサーの父ユーサー・ペンドラゴン、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィア、エクスカリバー、ティンタジェル城、モードレッドとの最終決戦(カムランの戦い)、アーサー王の死とアヴァロンへの船出といった、現在のアーサー王物語になくてはならない要素やエピソードの多くがジェフリーの『列王史』の時点ですでに登場している。
12世紀のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワはこれらにさらにランスロットと聖杯を追加し、アーサー王物語を中世騎士道物語の題材の一つとして定着させた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B
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アーサー王と円卓の騎士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B%E7%89%A9%E8%AA%9E
アーサー王物語 または アーサー王伝説、あるいはアーサー王と円卓の騎士たち は、中世の騎士道物語。
アーサー王の伝説上の物語はその配下の12人の円卓の騎士たちの物語とともに語り継がれ、多くのバリエーションを持つが、次第に理想のキリスト教的君主として描かれるようになっていく。ロマン主義の時代にも作品のモチーフとして非常に好まれ、現代でもしばしば映画の題材となっている。物語の細部化に伴い、円卓の騎士の数も次第に増加していった。またアーサー王伝説は、聖杯伝説などとも結びついていく。
それらの伝説の中でユーサー・ペンドラゴンの息子アーサーは、「これを引き抜いた者は王となるだろう」と書かれた台座に刺さっていた剣を引き抜き、魔法使いマーリンの助けで名君に成長していく。その途中湖の中で聖剣エクスカリバーを入手したり、キャメロット城を拠点として巨人退治やローマ遠征など様々な冒険を重ねフランスやイタリアなどを支配する巨大な王国となる。
グィネヴィアという妃を迎えて、アーサーは諸侯の騎士たちを臣下に迎えて円卓に席を与え、こうして有名な円卓の騎士が結成された。
しかしランスロットと妃の不義から円卓の騎士団は崩壊する。ランスロットと戦うためにフランスに出兵し、国は異父姉との不義の子モルドレッドを摂政に任命することで任せた。だがモルドレッドは謀反を起こしたのである。そして、モルドレッドはグィネヴィアを自分の妃に迎えようとしたが、グィネヴィアは拒絶し、ロンドン塔に籠城したので、モルドレッドは軍を率いて取り囲んだ。事情を聞いて軍勢を率いて舞い戻ったアーサー王は戦い、カムランの戦いでモルドレッドと一騎討ちし、槍で突き刺して討ち取るものの、深手を負う。
その後ベディヴィアに指示して湖の水面から現れた手に聖剣エクスカリバーを返し、小船で去る。アヴァロンの島へ傷を癒しに行ったのだといわれる。またアーサー王はアレクサンドロス3世と湖の乙女との子孫である]。
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マビノギオン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%93%E3%83%8E%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%83%B3
『マビノギオン』 (Mabinogion) は、中世のウェールズ語写本より収集した物語を収録した書物。ウェールズの神話・伝承を今に伝えるマビノギ四枝のほか、アーサー王伝説のバリエーションとなる話も含まれている。
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トマス・マロリー(イギリス ウォリックシャー 1399年 - 1471年3月14日)
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『アーサー王の死』は、15世紀後半にウェールズ人の騎士トマス・マロリーによって書かれた長編作品。内容はアーサー王の出生にはじまり、円卓の騎士たちの活躍、ランスロットとグィネヴィアの不義、最後の戦い、アーサー王の死までを含む、中世のアーサー王文学の集大成ともいえる作品である。
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アーサー王物語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B%E7%89%A9%E8%AA%9E
5世紀末にサクソン人を撃退したとされる英雄アーサーは、ブリトン人(ウェールズ人)の間で古くから伝説として語り継がれてきた。アーサーの直系の子孫であるウェールズ人が残した『マビノギオン』はそれを現代に伝えるほぼ唯一の史料であり、華やかな騎士道ロマンスに彩られる前の比較的古い状態のアーサー王伝説を見ることができる。
アーサーの生涯がはじめてまとまった形をとったのは、1136年頃ウェールズ人ジェフリー・オブ・モンマスが書いた『ブリタニア列王史』においてである。『ブリタニア列王史』は歴史書の体裁を取っているものの、非現実的な部分が多くを占めており、今日の伝説上の人物としてのアーサー王のイメージはここから始まると言ってよい。以降、彼の作品とそれを基にしたアングロ=ノルマンの詩人ウァースの『ブリュ物語』(1155年頃)、それにウェールズ人と共通の文化を有するブルターニュのブルトン人などを経由して、アーサーの伝説は西ヨーロッパ全体に伝播してゆく。
騎士道が花開く中世後半になると、アーサー王伝説はシャルルマーニュ(「フランスもの」)やアレクサンドロス3世(大王)(「ローマもの」)と並んで「ブルターニュ」(ブルターニュものとも)と呼ばれる騎士道文学の題材となり、フランスを中心に各地でさまざまな異本やロマンスが作られた。その過程で本来関係がなかったエピソードが円卓の騎士の物語として徐々に組み込まれていった。ランスロットや湖の乙女、トリスタンとイゾルデ、パーシヴァル、ガラハッド、聖杯探求、石に刺さった剣、円卓、キャメロットなどといった人物やモチーフはこの時期に導入されたものである。
この時代の優れた作品にクレティアン・ド・トロワ(フランス)の『ランスロ、あるいは荷車の騎士』、ドイツのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァル』、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタン』、イングランドの『ガウェイン卿と緑の騎士』(著者不明)などがあり、これらは中世文学を代表する俗語作品として高く評価されている。
このようにして製作された各種ロマンスは、『ランスロ=聖杯サイクル』や『後期流布本サイクル』(ともに著者不明)などの統一性を持った散文作品群にまとめられていった。
1470年にウェールズ出身の騎士トマス・マロリーがこれらを使用して書き上げた『アーサー王の死』はその決定版というべきもので、現在はマロリーの作品がアーサー王物語を代表する作品となっている(ただし、『アーサー王の死』に含まれないエピソードやヴァリエーションも数多く存在する)。この作品は15世紀末の出版業者ウィリアム・キャクストンの手による印刷本(キャクストン版)と、1934年に発見された中世写本(ウィンチェスター版)により現在に伝えられている。
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アーサー王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B
アーサー王(英語: King Arthur)は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人の君主。
中世の歴史書や騎士道物語では、アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物とされる。一般にアーサー王物語として知られるものはそのほとんどが民間伝承や創作によるものであり、アーサー王が実在したかについては2017年時点でも歴史家が議論を続けている。彼の史実性を証明する記述は『カンブリア年代記(Annales Cambriae)』、『ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)』、およびギルダス著『ブリタニアの略奪と征服(De Excidio et Conquestu Britanniae)』に断片的に残されている。また、アーサーという名前は『ア・ゴドズィン(Y Gododdin)』などの初期の中世ウェールズ詩にも見られる。
伝説上の王としてのアーサー王は、12世紀のジェフリー・オブ・モンマスによる歴史書『ブリタニア列王史(Historiae Regum Britanniae)』が人気を博したことにより国を越えて広まった。ジェフリー以前のウェールズやブルターニュの伝承にもアーサー王に関するものが存在するが、それらの中では超自然的な存在や人間からブリタニアを守る屈強な戦士として、あるいはウェールズ人のあの世であるアンヌン(Annwn)に関係を持つ魔法的な人物として描かれている[5]。1138年に『列王史』を書き上げたとされるジェフリーがこれらをどれほど利用したか、利用したとしてその割合は彼自身が創作した部分より多かったかなどについては詳しくわかっていない。
アーサー王伝説は作品によって登場人物、出来事、テーマがかなり異なるため、原典となる作品が存在しない。ただし、ジェフリーの『列王史』が後の作品群の出発点になったことは確かである。ジェフリーの描くアーサーは、サクソン人を撃退し、ブリテン、アイルランド、アイスランド、ノルウェー、ガリア(現在のフランス)にまたがる大帝国を建設した人物となっている。アーサーの父ユーサー・ペンドラゴン、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィア、エクスカリバー、ティンタジェル城、モードレッドとの最終決戦(カムランの戦い)、アーサー王の死とアヴァロンへの船出といった、現在のアーサー王物語になくてはならない要素やエピソードの多くがジェフリーの『列王史』の時点ですでに登場している。12世紀のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワはこれらにさらにランスロットと聖杯を追加し、アーサー王物語を中世騎士道物語の題材の一つとして定着させた。ただし、フランスのロマンスでは、アーサー王よりも円卓の騎士を始めとするほかの登場人物に話の中心が移っていることが多かった。アーサー王物語は中世にひろく流行したが、その後数世紀のうちに廃れてしまった。しかし、19世紀に人気が復活し、21世紀の今でも文学としてのみならず、演劇、映画、テレビドラマ、漫画、ビデオゲームなど多くのメディアで生き続けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E7%8E%8B
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『ブリトン人の歴史』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
『ブリトン人の歴史』(ラテン語: Historia Brittonum)は、イングランド、アングロサクソン朝の七王国時代に編纂された、ケルト系ブリトン人が国を支配していた時代についての歴史書らしき本である。原書は828年頃に成立。伝ネンニウスの著。アーサー王伝説に関する最古級の資料として重視されている。
この作品はまた、アーサー王に関する具体的な内容を確認できる最古の資料としても重要視され、アーサー王が戦ったという12の会戦を記録する(うち2つの会戦は『カンブリア年代記』で年代が特定できる)。『ブリトン人の歴史』の作中では、伝説のアーサーは一介の「軍の指揮官」(dux bellorum)または「戦士」(miles)にすぎず、「王」とされてはいないことも[4](その作成期の古さの傍証として)留意すべきである(#アーサー「王」伝説の節を参照)。
また、ある会戦ではアーサーが聖母マリアの像を「肩に」担いだという描写があるが、近代の解説者は、アーサーの「盾に」マリア像が掲げられていたという意味であるはずを、ウェールズ語では「肩」と「盾」の単語が近似するため取り違えたのだ、と考察している[5]。
アーサー「王」伝説
前述したように『ブリトン人の歴史』では、アーサーは王とされず、軍事指揮官であり、身分もそう高くはないと説明されている。編者モムゼンの分類では、アーサー本人に関する記述は、たった一章(§56章)のみである。だが広義にみれば、作中に登場する「マーリン・アンブロジウス」(§42章)(もっとも「マーリン」の名は使われないが)はもちろん、ヴォーティガン王(§31-49章)も、立派なアーサー王伝説の重要人物らである。
アーサー王の戦い
56章にアーサー王が関わったとされる12の戦いを並び立てた詩の要約と思われるものがあるが、いくつかはアーサー王との関連性がはっきりとしない。
アーサーが、ブリテン島の諸王と総力をあげたなかにくわわり、サクソン人と戦ったのもこの頃である。より高貴な者も幾多あるなか、アーサーが12回において軍事総統(dux bellorum) に選ばれ、同じ回数において勝者となった。最初におもむいた会戦はグレイン(Glein)川河口にて。第2、第3、第4、第5の会戦は、これとは別の川、リンヌイス(小国)(Linnuis)にある、ブリトン人の呼び名でドゥブグラス(Dubglas)という川のそばだった。第6はバッサス(Bassas)川。第7はケリドン(Celidon)の森でおきた、ブリトン人が「カト・コイト・ケリドン(Cat Coit Celidon)」と呼ぶ会戦だった。第8はグルニオン(castello Gunnion; Gurnion castle)城ちかくだったが、ここでアーサーは自らの肩に聖処女、神母の御神像を掲げ、イエス・キリストと聖マリアの御力を通じてサクソン人たちを敗退せしめ、彼奴等をまる一日追討し大殺戮をおこなった。第9はカイル・レオン(Cair Leon)と呼ばれる「レギオンの都市」。第10はトリブルイト(Triburuit)川。11回目は我々がカト・ブレギオン(Cat Bregion)と呼ぶ会戦で、ブレグオイン山(Breguoin; 異本ではアグネト山 Agnet)で行われた。12回目は最も激戦で、アーサーがベイドン山中まで突破したであった。この会戦では940人が、神以外の何者も手を借りず、彼のひとりの手で斃された。ブリトン人は、これらすべての会戦で勝利した。全能の神の思召しに抗がう力などないゆえに。
— 56章
ここに書かれる戦場は、ほとんど場所の特定ができていない。コイト・ケリドン(英語版)は、スコットランド南部をかつて覆った広大森を指すとされる。グルニオンとはウィンチェスターの事ではないかとしばしば指摘される。「地域(レギオン)の都市」が指すところとしては現イングランド北部のチェスターないしウェールズ南部のカーレオン(Caerleon)だと思われている。ブレグオインとは英語に直すと「白き丘」、すなわちダービーシャーのホワイト・ピーク(White Peak)の可能性が挙げられている。バドン山についてはイギリス国内でいくらでも候補が挙がっている。
『ブリトン人の歴史』、「ブリタニアの奇蹟」の部(73章)には、アーサー王関連の奇蹟が2件、紹介されている[15][16]。そのひとつによれば、戦士アーサー[17]の犬「カバル」を、トロイント[18](改め→トロイト[19])という猪を追っていて、ある石の表面に足跡のしるしを残した。その石を置いた石塚を「カルン・カバル」と呼ぶ[21]。"不思議なことに、その石は、誰かが持ち去っても、必ずもとに戻っているのだという"[22]、というのが「奇蹟」とされるゆえんのようである(該当文全文の引用はカヴァス § ブリトン人の歴史参照)[注 1]。
アーサーの息子アムル
もう一件、アーサーが自ら殺した(ラテン名:アムル)という息子の墓/塚が、"測るたびにに大きさが違う"奇蹟として伝えられる[23]:
次なる奇蹟は、エルキング(ウェールズの旧エルギング(英語版)王国、英語名:アーチェンフィールド(英語版)[24]。現今のイングランド・ヘレフォードシャー西部に所在[23])と呼ばれる地域にある。「リカト・アニル」(改め→アミル[19])と呼ばれる泉の隣に墓[注 2]がある。墓にはアニル(改め→アムル[19])という者が葬られている。戦士アーサーの息子であるが、アーサー本人が殺し、まさにこの場所に埋葬したと言う。人々がやって来て塚[注 3]みると、ときには6フィートの長さがあり、ときには9フィート、12フィート、または15フィートあった。いちど測った長さが、二度目に測ると同じ長さにならない。これは私自身も、試しにやってみたことである。
— 73章(後半)[25][26]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2