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トリスタンとイゾルデ(フランス 12世紀)

1:777 :

2024/01/20 (Sat) 16:14:15

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トリスタンとイゾルデ(フランス 12世紀)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%83%87

『トリスタンとイゾルデ』または『トリスタン物語』は、中世に宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語。騎士トリスタン(Tristan)と、主君マルク王の妃となったイゾルデ(Isolde)の悲恋を描く。

起源はケルトの説話であり、12世紀の中世フランスで韻文の物語としてまとめられた。12世紀終りごろドイツにも伝えられた。

元々は独立した作品であったが、13世紀になるとフランスで散文のトリスタンが書かれ、それがアーサー王物語に組み込まれる。そこではトリスタンは円卓の騎士の一人に数えられ、ランスロットと並ぶ武勇を誇る騎士として物語が展開された。


【騎士道物語紹介(仮)①】『トリスタンとイズー』について、詳しくご存知ですか?後世に絶大な影響を与えた作品を噛み砕いて紹介します!!
https://www.youtube.com/watch?v=jm_1ixSlZwI&t=14s

【騎士道物語紹介(仮)②】fin’amorって何?究極の「愛」とは何か?中世フランスで大流行した『トリスタンとイズー』から、その「愛」の形を一緒に見ていきましょう!!
https://www.youtube.com/watch?v=O7DY84kXZYg&t=10s

【騎士道物語解説②-1】騎士道物語ではなく恋愛物語!?騎士道と言う観点から、映画『トリスタンとイゾルデ』へ物申します!!!
https://www.youtube.com/watch?v=whdnwgRBKBA

【雑談マルチ?25-③】西洋で愛された「騎士道恋愛」。その中で、当時の騎士は何を求められていたのか?貴婦人は何を求められていたのか?一緒に考えてみてください!
https://www.youtube.com/watch?v=LOoY97_eGsg


雑談マルチシリーズ 騎士道物語 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLH9Ui3NskXTsQy96VJDTY_LlABUsxBWeo


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ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html

最美の音楽は何か? _ ワーグナー『トリスタンとイゾルデ 第1幕への前奏曲とイゾルデの愛の死』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/378.html

ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html
2:777 :

2024/01/20 (Sat) 22:54:03

トリスタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3

トリスタン(英: Tristan)またはトリストラム(英: Tristram)は、『トリスタンとイゾルデ』や『アーサー王物語』などに登場する伝説の人物。アーサー王伝説においては「円卓の騎士」の一人となっている。

「トリスタン」という名前がピクト系であり、またトリスタンの父親の名前もピクト系であることからトリスタンの起源はピクト人の伝承にあるのではないかと思われている。そして、この物語がコーンウォールを経て、ブルターニュへ、そして西洋の各地に移ったと見られる。

フィリップ・ヴァルテール『アーサー王神話大事典』(渡邉浩司・渡邉裕美子訳)は、トリスタン像を、<ドラゴン殺し><狩人><狡知にたけた者><メランコリー><楽師>というキーワードを用いて表し、その多面性を指摘している(関連書籍 268-270頁)。

中世ヨーロッパの散文『トリスタンとイゾルデ』、または『トリスタン物語』の主要人物である。もともと『アーサー王伝説』とは別の伝説であったが、『散文のトリスタン』以後、アーサー王物語にも組み込まれた。マロリー版では中盤においてランスロット卿とともに実質的な主人公として活躍する。一方、フランスの『散文ランスロ』を下敷きにした北イタリアのトリスタン物語の傑作『円卓物語』においては、トリスタン(トリスターノ)がランスロット(ランチャロット)を「騎士道においても恋愛においても凌駕している」[1]。また、ウェールズ語版『トリスタン』の「テーマはトリスタンとイズーの森への逃亡とマルクによる恋人たちの追跡であり、マルクはアーサーを同行させる。トリスタンには魔術的な力があり、彼に怪我を負わせる者は、彼が怪我を負わせるあらゆる敵と同じく命を落とす」とされる[2]。

フランス語での名称はトリスタン[3]、ドイツ語ではトリスタン[4]ないしトリストラント[5]、イタリア語でトリスターノ[6]とされる[7]。


あらすじ

生い立ち
トリスタンの伝説は各地で伝えられているため、版によって一致しないことが多い。多くの版で共通するのは、トリスタンはリオネスの王子という点と、トリスタンの出生前に父親を失った(ゴットフリート版など)、あるいは父親が母親以外の女性と関係を持ち、家庭に帰ってこなくなった(マロリー版)という悲しみから母親に「トリスタン(悲しみの子)」と名づけられた点である。

以下において粗筋を紹介するが、これは多くの版で共通するところを紹介するものであり、細部が異なるバージョンは無数に存在する。

ゴットフリート版では、両親の名前は、リオネス(ライオネス)の王メリオダスと王妃ブランシュフルール。これが、マロリー版では母の名前がエリザベスとなっていたりする。また、マーク王にしても、マロリー版やゴットフリート版では母方の叔父であるが、父方の叔父となっている版もある。

いずれにしろ、トリスタン伝説において両親は物語の出だしのみに登場するだけであり、中盤以降は登場しなくなる。そのあとは、トリスタンは叔父であるコーンウォールのマルク王の下に身を寄せることになる。

イゾルデとの関係

『トリスタンとイゾルデ』 (ジョン・ダンカン/画、1912)
アイルランドの使者として、モルオルトが、コーンウォールに貢物を要求するが、マルク王はこれを拒絶。事態がこじれたので、モルオルトとトリスタンが決闘することになるが、トリスタンはモルオルトに勝利する。敗北し重傷を負ったモルオルトは、やっとのことでアイルランドに帰還したが、直後に死亡する。このモルオルトがアイルランドの王族であったため、後に恋人となるアイルランドのイゾルデとの間に確執が生じることになる。

一方、モルオルトの剣には毒が塗られていたため、トリスタンも傷口が腐敗するという重傷を負い、傷を治療できるのは、アイルランドのイゾルテのみであった(イゾルテの母親であるアイルランド王妃とする版もあり)。モルオルトを殺したトリスタンはアイルランドの仇となっているので、トリスタンは「タントリス」(英語版のように名前がトリストラムとなっている場合は「トラムトリスト」)という本名をもじった偽名を名乗り、アイルランドに渡る。そこで身分を隠して治療を受けるかたわら、イゾルデ姫と心を通わせあう。しかし、治療が終わると、トリスタンはコーンウォールに帰国する。

コーンウォール帰国後、たびたびトリスタンがイゾルデの美しさを口にすると、いまだに独身であったマルク王が興味を持ち、トリスタンに対しイゾルデを妻としたいから連れて来るように、との命令を出す。マルク王がトリスタンにこのような命令をした理由として、版によってトリスタンの功績を羨んだ廷臣が口を出した、あるいはマルク王自身がトリスタンを嫌っていたとの説明が入ることが一般的である。

再度のアイルランド入国を果たしたトリスタンは、竜を退治したり、正体が明らかになったことでモルオルト殺しの責任を追及されたりもするが、アイルランド王から許しをもらい、イゾルデをコーンウォールに連れ帰る。この時の帰りの船で、トリスタンとイゾルデが過って媚薬を飲んだことから、お互い愛し合うようになり、これが後の不幸の伏線となる。

マルク王との確執
無事にイゾルデとマルク王を結婚させたが、これからトリスタンはマルク王との確執に苦しむことになる。版によっては、この結婚以前にトリスタンがイゾルデの処女を奪ってしまっていたため、マルク王との初夜においてイゾルデの代理として侍女をよこすエピソードや、不倫をしているとの疑いを晴らすために、策略を用いたりするエピソードが存在する。

マルク王の性格は、版によって様々な相違があり、トリスタンを羨む廷臣に讒言され、心ならずもイゾルデとの仲を疑うという、好意的な人物に描かれることもあれば、トリスタンを嫌いぬく悪人とされる版もある。いずれにせよ、トリスタンは宮廷内の確執に耐えられず、コーンウォールを出ることになる。

トリスタンの最期
コーンウォールを出たトリスタンは、旅の途中、版によって出自は異なるが、かつての恋人と同名である「イゾルデ」という女性と出会う。これ以降、2人のイゾルデを区別するため、アイルランドのイゾルデ姫は「金髪のイゾルデ」あるいは「美しいイゾルデ」と呼ばれ、ここで登場した女性は「白い手のイゾルデ」と呼ばれることになる。

トリスタンは「白い手のイゾルデ」と結婚する。彼女と結婚した理由として、名前が気になったから、「白い手のイゾルデ」あるいは「白い手のイゾルデ」の兄と友人になったから、などと説明される。しかし「金髪のイゾルデ」のことが忘れられなかったトリスタンは、「白い手のイゾルデ」と床を同じにすることはなかった、と説明が入ることが多い。

そんなある日、ふとしたきっかけからトリスタンは瀕死の重傷を負ってしまう。これを治療できるのは「金髪のイゾルデ」しかいない、ということで使者がアイルランドに派遣される。このとき、トリスタンは、帰りの船にイゾルデが乗っているなら白い帆を、乗っていないなら黒い帆を掲げてくれるように依頼する。はたして、「金髪のイゾルデ」を乗せたアイルランドの船がやってきた。もはや動きもままならないトリスタンは妻である「白い手のイゾルデ」に帆の色を尋ねるが、彼女は嫉妬から「黒い帆です」と答えてしまう。この答えに絶望し、気力をなくしたトリスタンは、「金髪のイゾルデ」の到着を待たず死亡した。

アーサー王物語での活躍
マロリー版などでのトリスタン卿は、マーク王の確執からコーンウォールを出た後、円卓の騎士として数々の活躍をするエピソードが追加されている。ただし『トリスタンとイゾルデ』と『アーサー王物語』は、もともと別系統の物語なので、さまざまな整合性のとれない点が見られる。例えば、マルク王はコーンウォールの王という設定だが、『アーサー王物語』前半では、アーサー王の母であるイグレーヌの前夫、ゴルロイスがコーンウォール公として領地を支配していることになっている。一方のマルク王は、物語初期のブリテンの統一戦争、終幕のカムランの戦いなどに登場しないが、トリスタン卿にかかわる中盤のみに領主として登場する。

また、マロリー版では、トリスタン卿はイゾルデ一筋というわけではなく、イゾルデの登場前に、セグワリデス婦人と恋仲だったとするエピソードも挿入されている。さらに叔父のマルク王もセグワリデス婦人に懸想しており、この時からマルク王とトリスタン卿は対立関係にある。

武勇において、トリスタン卿は円卓最高の騎士であるランスロット卿とならぶ騎士であり、数々の武勲を残している。交友関係としては、ランスロット卿、ラモラック卿やディナダン卿らと仲がよい。また、イゾルデに恋心を抱くパロミデス卿と対立し、後には友人となるエピソードが比較的よく語られる。

ある槍試合で、「アーサー王の敵方について、優れた円卓の騎士を打ち負かす方が名誉が得られるだろう」というパロミデス卿の提案に乗り、変装したうえでパロミデス卿、ガレス卿、ディナダン卿の4人でガウェイン卿らを始めとする円卓の騎士の多くを打ち倒したりもしている。

マロリー版では、「白い手のイゾルデ」と結婚するものの、「金髪のイゾルデ」を愛し続け、ついには「金髪のイゾルデ」と駆け落ちする。グェネヴィア王妃との不倫関係にあったランスロット卿が、「喜びの城」を2人の住まいとして提供し、幸せな日々を送ることとなる。パロミデス卿をキリスト教に改宗させた後、トリスタン卿は物語に登場しなくなる。

その後、ランスロット卿らの口から世間話のひとつとして「マルク王と和解して、イゾルデは結局アイルランドへ返された。だが、マルク王はトリスタン卿を酷く恨み、イゾルデの前で竪琴を弾いているトリスタン卿の背後から心臓を一突きにして殺害した」と語られる。

また、マロリー版には登場しないが、イタリア・スペインの騎士物語では、トリスタン卿は「金髪のイゾルデ」との間に男女1人ずつの子供をもうけたとするものもある。なお、このトリスタン卿と同名の息子・トリスタン2世はコーンウォールの王となり、カスティリャ王の妹と結婚するなどのエピソードがある[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
3:777 :

2024/01/23 (Tue) 13:08:14

あああbbn
4:777 :

2024/01/28 (Sun) 14:33:23

恋愛物語とはなにか
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/Love.html


恋愛物語以前

物語は<愛>に満ちています。例えば、

(1) 英雄志願者がたまたま訪れた村では怪物に毎年人身御供をせねばならない。今年は村長の娘の番である。そこで英雄は見事に怪物を退治し、娘と結婚する。

(2) 娘は不幸な境遇にある。しかし、清らかな心とたぐいまれな忍耐力によりそれを堪え、やがて王子さま(長者の息子)と出会い、結婚する。

(3) 若者が信じられないほど美しい娘と出会う。娘はなぜか若者の家まで付いてきて、そのままいっしょに生活し始める。子供にも恵まれ、順風満帆というところで夫は妻との約束を破ってしまい、妻はもとの場所(異界)に戻ってしまう。


(1)はすでにとりあげた男の子の物語、いわゆる英雄冒険物語です。

(2)はやはり以前に分析したシンデレラ・ストーリーにその典型がみられ女の子の物語です。

(3)は異類婚の話です。


(3)については日本でも「鶴女房」「雪女」の話などがありますが、西洋でもケルト系の話をはじめとして多く見られます。日本の羽衣伝説は異類婚の悲恋物語ですが、羽衣をアザラシの毛皮に置き換えれば、映画「フィオナの海」(ジョン・セイルズ監督、1994)で語られる挿話になります。西洋のメリュズィーヌ伝説では、土曜日には見てはならない妻の姿を夫レモンダンが見てしまうと妻は龍の姿で飛び去ってしまいます。このように(3)も世界中に拡がる物語パターンと言えます。
それでは<愛>に満ちた物語群において、<愛>は実際にはどのように記述されているのでしょうか?ここで驚くべき逆説に遭遇します。

物語で愛は実は記述されることはあまりないという逆説です。

例えば、冒険ものでは愛は男の主人公が怪物退治をしたご褒美に与えられます。しかし、それは結婚という儀式の形をとるだけで感情としての愛は描かれません。

シンデレラ・ストーリーは女の主人公がやはり結婚という儀式に到達するまでのプロセスを追うだけです。結婚は忍耐の、あるいは善意の対価に他なりません。冒険(あるいは忍耐)の目的あるいは結果として置かれた結婚が愛の形式(うつわ)なのであり、うつわの中身が問われることはないのです。

今日の冒険物語(例えば、007シリーズ)では褒賞はさすがに結婚という形はとらないかもしれません。その代わりをするのが女性の性的所有であり、これが古典的な結婚と物語構造上は等価です。愛の内容が問われない点では伝統的冒険物語と同じです。こうした物語においては、<愛>は交換を司る経済的な媒体だということができます。

男の子の物語、女の子の物語についてはすでに紹介しましたので、ここでは異類婚の物語についてくわしく見ていきたいと思います。以下に挙げた民話は日本の代表的な異類婚の話です。まず、物語の基本的図式をあてはめてみました。

異類婚の主人公はここでは男性であり、彼は貧しく、独身であるという点で二重の欠如状態にあると想定することができます。この欠乏状態はふつうはある試練(やさしさチェック)を経て、異類の女性との出会いにより解消されます。魔法の小道具により富を得、さらに異類の女性との結婚にいたるわけです。

民話の世界ではあらゆる富は異界からやってきます。財宝は天、山、地、海といった異界から村にもたらされます。あるいは英雄物語ならば、異界へ英雄自ら獲得にゆきます(「桃太郎」「スタンド・バイ・ミー」)。女性も異界からやってきます。さらに子宝すらも「桃太郎」、「かぐや姫」のように異界からもたらされます。

異類婚の話に戻りますと、せっかく獲得した二つの富(財宝と女房)を主人公は女性から課せられていた「見るな」あるいは「開けるな」の禁止を破り、失ってしまいます。異類の女性は異界に戻ってしまい、男は富の源泉も失います。

「浦島太郎」のふつうの物語は玉手箱を得るだけで女性との結婚は生じませんが、御伽草子版では死後の世界(異界)で乙姫と結婚したというエピローグのつくものがあるようです。「浦島太郎」のバージョンとしてはそのユニークに驚かされますが、一般に恩返しものでは助けられた動物自らが嫁になるというパターンが多いわけで、御伽草子版「浦島太郎」はこのパターンに素直にしたがっただけにすぎないと考えることもできましょう。

英雄の誕生は洋の東西を問わず、しばしば異類婚が介在します。英雄は異類を祖とすることが多いのです。「古事記」も英雄の誕生を説明する説話にあふれていますが、豊玉 姫の挿話にその典型が見られます。豊玉姫は海神の娘ですが、山幸彦はこれを連れ帰り、彼女は子を産みます。この出産が「見るな」の禁忌の対象になるのですが(「あだし国(異界)の人は、産むときになれば、本つ国(もとの国)の形をもって生むなり。願わくはあ(妾)をな見たまいそ」『古事記』)、物語の統辞論にしたがい山幸彦はこれを見てしまいます。これは上表の「魚女房」と同じ、男が女房を異界から連れ戻るパターンです。これに対して、「鶴女房」、「母の目玉 」などのように恩返しに女房が押しかけてくるパターンもあります。


天人女房型(「天降り乙女」)は女房連れ戻り型の話です。映画「フィオナの海」の中のエピソードでは女房は天女ではなくアシカの精霊であり、羽衣の替わりにアシカの皮が同じ物語機能をもちます。このパターンの物語は女房が衣を発見し、異界に戻ってしまうという悲恋で終わるものと思いがちですが、ヨーロッパではこの後に「失踪した女房を探す男」(MT400)のモチーフがあらわれ、さらに女房との再会後、女房の父親が婿に難題を課し、これに対して女房が男を助ける(「婿の逃走を助ける女」MT313)というシークエンスが続くロング・バージョンが多いようです。

なお、上では女性が異類である異類婚のパターンを扱いましたが、男性が異類として登場する物語は英雄物語以外にも実は多くあります。

AとBは同じパターンで、性を入れ換えたものとみなすことができます。超自然的存在(水神さまの申し子)「たにし長者」
動物「猿の婿どの」[岩波・]
水田:蛇婿入り、乾田(焼き畑、山村):猿婿入り

別バージョン「僕の知っているその話[足尾]は、一年後に猟師が娘に会うんですよ。そうしたらその娘は猿の格好になっていて、体中毛が生えて、しっぽが生えて、仲の良い猿の夫婦になっていました。それでまた楽しそうに山の中に入っていったという話なんです。」小松/立松『他界をワープする』122

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恋愛物語とは何か?

恋愛物語ではどうでしょうか。古典的な恋愛物語では<愛>は英雄的行為のご褒美(結果 )というより、それ自体が目的として機能します。

その目的に到達しないかぎり物語は続きますから、<愛>は恋愛物語という名のドッグ・レースのラビット(囮)の役を果 たすということができます。その囮に到達すると同時に幕が閉じられますから、やはり<愛>はその意味を問われることはありません。

恋愛物語はこのようにたえず<愛>を指さしながら、その意味を与えることはないのです。ヒッチコックは冒険物語の目的となる対象物を「マクガフィン」と名付けました。この大切な何かを探し当てるために、あるいはそれを敵の手から守るためにヒーローたちは命がけの冒険に挑みます。しかし、それほどの冒険を動機づける「マクガフィン」とは果 たして何なのでしょうか。国家の命運がかかっている秘密文書でしょうか?あるいはポオの『盗まれた手紙』にあるような恐喝の道具なのでしょうか(「書類の所有者は、名誉と平安が危険にされされているさる有名な方に対して、有利な位 置に立っている」)。

ヒッチコックならばこう答えることでしょう。それはすべてであり、なんでもないのだと。要するにそれは内容(シニフィエ)のない記号(シニフィアン)なのです。物語全体がそれを指さしています。しかし、指先に何があるかは結局明らかにされません。たとえ、マルタ騎士団の秘宝だといういわく付きのものであっても「マルタの鷹」もマクガフィンにすぎません。悪魔の手形のようにそれを手にとってしまうと手の平には枯葉が残るだけなのです。

恋愛物語における不可欠な要素、最も大切な要素<愛>もまた「マクガフィン」、つまり物語を導く空虚な記号なのです。以下ではこの空虚な記号の振る舞いを見てゆくことにしましょう。

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古典的恋愛物語(モデル1)


恋愛物語では出会いがあり情熱恋愛(amour-passion)が生まれますが、その情熱の充足を妨げる障害が用意されています。逆に障害があるからこそ、情熱(恋愛物語のエネルギー)が持続するわけです。そして、本来無定形な情熱が形を得るのも、この障害という作用に対する反作用として自らを形成するからに他なりません。この意味で、恋愛の情熱は与えられた障害(凸)のネガ(凹)として自己形成をとげるということができます。

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主人公たち

出会いがあるためには当然ながら、男女が登場しなければなりません。

出会うのは古典的恋愛物語では若くて美しい男女です。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」ではロミオは15歳、ジュリエットの14歳の誕生日前に物語が始まります。フランスの17世紀古典演劇の主人公たちも極めて若く、舞台上では「相手の気を害さずに、14歳のお嬢さんに愛を告白しても」よかったといいます。その代わり老いるのも早く、「女性は30才を過ぎれば醜い」という言葉も残っています。

現実の結婚は年齢差があったようです。伝統的な結婚が個人同士の結びつきよりも家と家との結びつきを目的としていた点を忘れてはなりません。

さらに、産褥などによる死亡率が高かった上に寡婦の再婚率が寡夫の再婚率よりもはるかに低かったことなどを考えれば、かなり年上の男性(寡夫)と若い女性の結婚が多かったことも納得ゆきます。

14,15世紀のフランス農村社会では再婚する寡夫、あるいは寡婦に対し、村の若者組が儀礼的な喧噪行為[シャリヴァリ]をおこなう習慣があった点もこれを裏付けています。しかし、恋愛物語の世界では若い女性と結婚しようとする年輩の男性は嘲笑の的であり、若い男女の間に障害としてわけ入っても所詮は排除される障害にすぎないのがゲームルールということになります。

モリエールの喜劇にそのパターンがしばしば見られますが、特に『女房学校』の主要テーマがこれです。コキュ(女房を寝取られた夫)恐怖症から孤児をもらいうけ、その子アニェスが大きくなったところで結婚しようと企むアルノルフ老人を主人公とするこの戯曲では、アニェスは老人の親友の息子と恋に落ちて結ばれることになりますから、喜劇の世界では年齢差は認められないことがわかります。
無知・無垢の女子を自らの妻にふさわしい存在に育てあげるというピグマリオンのテーマがここにすでに見られますが、20世紀に入ってジードは『田園交響楽』でこのテーマをふたたび取り上げます。結末でその女子ジェルトリュードが愛するのはやはりピグマリオン役の牧師ではなくその息子ジャックで、ジェルトリュードはジレンマのうちに自殺してしまいます。

当然のことですが、若い男女の役を演じる役者は必ずしも若かったわけではありません。役者によって役どころはある程度決まっており、小津安次郎の映画でおなじみの笠智衆のように若いときから老人役専門の人もいれば、逆に年とってからも女性にもてる役を続ける俳優もいます。

ヒッチコックの「めまい」をとったときに、主演のJ・スチュアートは50歳、K・ノヴァクは25歳。映画を見たひとは恋人同士を演じているのが実は親子ほども年齢の離れた役者だとは思わなかったはずです。

「ロミオとジュリエット」などは14,15歳という年齢ですから、当然、これを演じる役者は何歳も下の役を演じていたはずです。もっとも、F・ゼフィレリ監督の「ロミオとジュリエット」(1968)では当時16歳のL・ホワイティングをロミオに15歳のO・ハッシーをジュリエットに据えて話題をよびました。


また、古典的恋愛物語の男女は美男美女でなければなりません。

「公の姿をはじめて見た場合はだれでも目を見はるのがふつうである。とくにこの夜は身支度に念をいれてあっただけ容姿の美しさは格別だった。一方クレーブの奥方の美しさもはじめてみる人間を呆然とさせるほどのものであったのは言うまでもない。」 『クレーブの奥方』

現代の読者が、女性の美しさが描かれるのには何ら不自然さを覚えないにしても、古典期の恋愛物語で女性の美と同様に、あるいはそれ以上に男性の美が言及されるのにはいささか奇異な感じがするはずです。この点については注釈が必要でしょう。貴族社会では男性が女性以上に見られる存在だったのです。ルイ14世がよくその例に出されますが、一般の貴族もそうでした。革命後でも、19世紀前半はダンディズムという男性の表象モードがはやり、異性を魅惑し堕落させるのは「宿命の男」だったといいます(M・プラーツ)。「宿命の女」の登場は19世紀後半を待たなければなりません。

話を古典時代にもどしましょう。言うまでもないことですが、外面的な美しさだけがすべてではありません。ペロー自身、「シンデレラ」の教訓で次のように言っています。

「美しさは女性にとってまれな財産、みな見とれて飽きることはない、しかし善意と呼ばれるものは値のつけようもなく、はるかに尊い。」

外面の美よりも内面の善の方が大事だというのです。しかし、内面の善を支える象徴的価値として外面の美に言及しない物語は少なくとも古典的恋愛物語にはありません。結局のところ、読者がお伽話の数学として受け止めるのは美と善の等式に他ならないのです。この点でボーモン夫人の『美女と野獣』は法則を証明する例外のように一見みえるかもしれませんが、最後には魔法が解けて野獣が美しい若者に変身するわけですから、野獣の姿でいる間はむしろ美女の心の優しさをテストする試練のときと考えるべきでしょう。

20世紀の映画でも事態はそれほど変わりません。映画に登場する善意の人々は俳優の顔がそれを表徴しており、恋愛物語の主人公たちは相も変わらず美しい男女であり、それを強調するカメラ・アングル、メイク、照明などはすべて計算づくで選ばれているのです。

E. Scola 監督の「パッション・ダモーレ」Passione d'amore(1980)や B. Blier 監督の「美しすぎて」Trop belle pour toi (1989) は正に「恋愛物語の主人公たちは美しくなければならない」という古典法則を破ることによって、その物語としての新しさを出している一方、その新しさの根拠をやはり暗黙の古典法則に依っている作品といえましょう。「パッション・ダモーレ」の最後で醜女を愛するようになった主人公は「美しくない女を愛するのは自然に反するとでもいうのですか」と問うていますが、その答えはイエス、やはり「恋愛物語の自然法則」には違犯しているということになるでしょう。

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出会い

求愛行動としての出会い

それでは若く美しい男女はどのように出会うのでしょうか?

舞踏会はそもそも男女を出会わせるという社会的機能をもっていましたから、「シンデレラ」から「クレーブの奥方」「戦争と平和」に至るまで舞台装置として頻繁に使われています。舞踏会で誰にもダンスに誘われないことをフランス語では faire tapisserie [壁の花となる]という表現で残っているぐらいですから、舞踏会がもつ出会いの場としての重要さとそこで誘われないことへの女性の不安の大きさも想像に余りあります。

異類婚の物語「雪女」では巳之吉と雪子の出会い(雪子の視点からは再会)が次のように語られます。

「翌年の冬の、ある夕暮れのことであった。巳之吉が家にかえる途中、たまたま同じ道を歩いてゆく一人の娘に追いついた。背の高い、ほっそりした、たいへん器量のよい娘で、巳之吉が挨拶すると、まるで小鳥の歌のように快い声で答えた。それから、彼は娘とならんで歩き、二人は話をしはじめた。[・・・]巳之吉は、すぐにこの見も知らぬ娘に、ひどく心をひかれて、見れば見るほど、ますます美しく見えてきた。で、巳之吉は、もう約束した人があるのか、と娘に尋ねた。娘は笑いながら、そんなものはない、と答えた。」 「雪女」

田舎道ももちろん男女の出会いにふさわしい場所です。この出会いの場面では、民話的な話線のなかで、実に雰囲気に富んだ描写が施されています。笑いながら答える娘の色気は西洋人ハーンの目に映った若い日本女性の色気なのでしょうか。
異類婚の物語における出会いの場としては、この他に森や海といった異界があります。

森は異類婚に限らず、17世紀の牧歌的な恋愛物語でも重要な場です。ペロー童話の一つ「グリゼリディス」もやはり王子が森で道に迷い、奥深い森のなかで羊飼いの娘グリゼリディスに出会うところから始まります。羊飼いの娘もまた異界の女性のように超人的な力をしばしば付与されれていました。

吸血女の物語『死霊の恋』も一種の異類婚の物語と申せましょう。ここでは出会いの舞台は叙階式で、主人公ロムアルドはこれから司祭になろうする若者です。

「それまでじっと伏せていた顔をヒョイとあげたとたん、私は眼前に見たのです。手でさわれそうなほど間近に、とはいっても実際はかなり離れて手すりの向こう側にいたのですが、世にも稀な美しさをそなえ、王族のように美々しく着飾ったうら若い女性を。まるで瞳から鱗が落ちた思いでした。不意に視力を回復した盲人といった感じを味わいました。[・・・]何という眼でしょう!キラリとひらめく一瞥で、男の運命を決めてしまうのです。人間の眼には絶対に見たことのない生命力、深さ、熱気、うるんだ輝きをたたえています。」

しかし、『死霊の恋』で重要なのは再会の場面の方でしょう。司祭になった私がある女性の臨終に立ち会うことになります。相手はすでに息絶えています。ところが、主人公の司祭はその死体に妖しく惹きつけられるのです。

「その完全無欠の身体つきは死の影によって純化され聖化されながらも、あやしいまでに私の欲情をかき立て、その安息は眠りと見間違うほどでした。[・・・]
世がふけてゆき、永別のときが迫ったのを感じた私は自分が一途に愛したひとの死の唇にキッスするという、あの悲痛だが最高の喜びをわが身に禁ずることができませんでした。

ああ、何たる不思議ぞ!かすかな息が私の息に混じりあい、クラリモンドの口が私の押しつけた口に答えたのです。
眼が開いて幾らか輝きを取り戻すと、彼女はため息を一つついて腕を解き、言いしれぬ恍惚の面もちでその腕を私の首の後ろに廻しました。

「まあ!あなたなのね、ロムアルド」」

吸血鬼は予め死んだ者のことですから、クラリモンドにとって死は何ほども意味をもたないのです。実際、この再会を契機に二人の愛欲の生活が始まります。やがてクラリモンドに本当の死がおとずれ、二人の愛に終止符が打たれます。

主人公がエクソシストであるセラピオン師とともに悪魔払いを施すやいなや、クラリモンドの美しい身体は粉々に砕け散ってしまうのです。これなど吸血鬼ものの最期の典型ですが、少し視点をずらしてみますと、ある禁じられた行為をおこなったため(この場合はセラピオン師への密告)に異界の女性を失う異類婚(例えば「雪女」)の最期を思わせる場面 でもあります。しかもロムアルドは最後にこうつぶやくのです。

「魂の平安を得るのに何と高価な犠牲を払ったことでしょう。神の愛も彼女の愛に取って代わるほど大きくはありませんでした。」
吸血鬼の死が平安をもたらすという通常の吸血鬼物語とは明らかに異なります。これは真の恋愛物語なのです。


現代の恋愛物語では、出会いの場も多様化しています。旅先での出会いは恋愛映画がもっとも好むものでしょう。異国情緒のある風景はそれだけで映像効果 をもちますし、それに何よりも旅行者の心持ちは日常性の楔から解き離れた自由に満ちていますから、冒険心の混じった恋愛願望の素地がすでにあります。
イタリア旅行での出会いを描いた恋愛映画は多くあります(「終着駅」「旅情」「旅愁」「ローマの休日」)。やはり、南の国が旅の恋愛にふさわしいのでしょうか。ギリシャ(「シャーリー・バレンタイン」)、バリ島(「南太平洋」)。駐留軍人の現地女性との恋愛(「サヨナラ」など)。

とこうみてくれば、旅先(駐留先)というのは世間の眼差しから解放された一種の異界であることがわかります。

さらに言えば、伝統的な出会いの場である舞踏会や村祭りも日常(ケ)をカッコに入れたハレの世界であるわけで、これも現世に導入された異界的時間ということができるでしょう。

恋愛物語での出会いには異界という空間もしくは時間が必要なのです。

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出会いの技法


映画は出会いの場面を演出する技法を練り上げてきました。クローズアップされた男女の顔はすでに出会いが運命的なものであることを語っています。

画面いっぱいに映し出されたM・ディートリッヒを見るのは観客ではなく、観客はG・クーパーの視線を通じて彼女を見ているのです。

かすみフィルタにより幻のように浮き上がったディートリッヒの顔はクーパーの熱い眼差しを暗示しています。後へ引くことのできない決定的な出会いであることが観客にはすぐにわかります。

中世の恋愛物語では媚薬が宿命的な情熱を生み、それが熱病のように主人公たちの脳裡にはびこるのですが、フランス語で「雷の一撃」(un coup de foudre)と呼ばれるこの眼差しの交換も媚薬と同様の効果を主人公たちの脳裡に残すことになります。

「雷の一撃」のパロディであるポオの「眼鏡」は一目惚れが視覚による体験であり、それを越えるものでないことを痛烈に皮肉った作品ですが、そこでは出会いの場面 が次のように描かれています。

「たとえ千年生き延びようとも、この人物を見つめた際の強烈な感動は忘れることが出来ない。かって目にしたもっとも美しい女性の姿であった。[...]

この時の私の感情は、これまでいかに高名な典型的な美女たちを前にしても、ついぞ覚えた例しのないものであった。一種名状しがたいー磁気的と呼ばざるを得ない魂と魂との交感が、私の視力のみならず思考と感情の全能力までも・・」

伊達男の主人公はド近眼であるにもかかわらず決して眼鏡をかけないためにある女性に一目惚れしてしまうのですが、この女性が実は彼の曾曾祖母であったというオチがつきます。

ここでの眼鏡の欠如は一目惚れ、さらには情熱恋愛一般に不可欠なフィルタの存在と等値です。

このフィルタをスタンダールは「結晶作用」crystallisation と名付けました。
「恋人に会うごとに、あるがままの彼ではなく、自分でつくった甘い映像を楽しむでしょう。」

「恋をした瞬間から、最も賢明な男も対象をあるがままに見ない。」

恋は盲目とはよく言ったものですが、本人がそれでもなお相手を見ていると信じて疑わないのはこの主観的フィルタが本人にのみ見えないものだからです。

よく考えてみますと、フィルタにより理想化(審美化)された相手のイメージとは恋する人が自分で作り上げたイメージに他ならないことになります。

恋する人はそのイメージに恋するわけで、相手の存在は場合によってはイメージを描くためのカンバス程度なのです。

ポオの「眼鏡」が描いているのはまさにこうした情熱恋愛がもつ自己愛的側面 と申せましょう。恋愛物語の考察とは少し離れますが、この眼差しの病に対するワクチンをモンテーニュが紹介していますので、引用しておきます。

「本当に、その道の大先生方が、欲情を抑えるには、求める相手の身体をくまなく見よと教え、恋愛を冷ますには、愛するものをじろじろ見さえすればよいと教えていることも、一考に値する。」

もっとも、まさにじろじろ見えなくなるのがこの病の症状なのですから、そう簡単にことが運ぶわけもないのですが。

最後に、出会いを準備する映画技法であるパラレル・アクション(カット・バック)についてふれておきましょう。J. ドラノワ監督の「賭はなされた」Les Jeux sont faits (1947) (脚本サルトル)は階級を異にする男女が別々の状況で殺され、死者の世界で出会うまでを二人の間を行き来するカメラが同時進行的に追います。ここで本来無関係に起こっているはずの二つのシークエンスが予め運命により結びつけられていると感じさせるのがパラレル・アクションと呼ばれるモンタージュ技法です。見るものは二人の出会いが宿命であることをパラレル・アクションのおかげで強く感じます。ただ、「賭はなされた」では死者は身体性がないために真の出会い(ふれあい)はないとされています。そこへ二人の死が「役所」のミスであることがわかり、生還(蘇生)を認められることになります。したがって、ドラマ進行上は二人が現実世界に戻ってはじめて、再会を出会いとして演じることになるわけですが、観客にとっては出会いはすでにパラレル・アクションにより死の世界でなされていたのです。

→「賭けはなされた」の分析

http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/Jeuxfaits.html


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外在的障害


それでは障害にはどのようなものがあるでしょうか。お互いに愛し合っているカップルが登場する恋愛物語では障害はふつう外在的なものです。「ウェストサイド・ストーリー」の恋人R・ベイマーとN・ウッドは敵対する不良グループ(ジェット団とシャーク団)に属しています。ベイマーは両グループの抗争に積極的ではありませんが、仲間が殺されたことで激情し、ウッドの兄(G・チャキリス)を殺してしまいます。愛を貫くためにどこか別の土地へ旅立つことに二人が決めたとき、ベイマーはシャーク団の復讐の手にかかり死んでしまいます。所属する集団が敵対関係にあるために愛し合う二人の<愛>が妨害されるという話はもちろんシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をその嚆矢とします。アメリカの移民問題を背景とした「ウェストサイド・ストーリー」は「ロミオとジュリエット」の現代版なのです。

家と家の対立

フランスの演劇ではコルネイユの「ル・シッド」がやはり家と家の対立を障害に据えています。ロドリーグとシメーヌは愛し合っていますが、ロドリーグの父がシメーヌの父に侮辱を受けたため、ロドリーグはその侮辱をはらさなければならない立場に追い込まれます。相手は恋人の父です。愛をとるか名誉をとるか、この二律背反(ジレンマ)こそ悲劇に不可欠な文法要素です(ジレンマのない「ロミオとジュリエット」は厳密には悲劇ではありません)。しかし、このジレンマは実は偽りのジレンマです。なぜなら、コルネイユの倫理学では愛と名誉は等価値のものではないからです。愛はそれに値する英雄的行為(選択)の結果 に対し与えられるのであり、ロドリーグがはじめから愛を選んだとしたら、シメーヌはそんな安っぽい愛には答えなかったことでしょう。ここでは愛は選ばれない限りで価値を持つのです。名誉を選んだロドリーグは決闘によってシメーヌの父を殺してしまいます。ロドリーグは名誉を選ぶという英雄的選択により愛に値する存在(英雄)となったのですが、同時にシメーヌの父の仇ともなってしまうわけです。さて、シメーヌの方ですが、彼女に残された英雄的な選択とはロドリーグの愛を受け止めることではなく、逆に父の復讐を選ぶことです。それがまた唯一シメーヌを愛に値する存在にするわけです。そこで有名なシメーヌの台詞がでてきます。

「あなたは私の怒りを招いて私にふさわしい男となった。私もあなたの命を奪ってあなたにふさわしい女となろう。」 『ル・シッド』

シンメトリーへのすさまじい欲望です。ロドリーグとシメーヌは相補的な男女というよりも、左右対照的(シンメトリック)な位置関係に置かれ、それを是が非でも維持しようとする相似的存在なのです。このように、愛に値するために選んだ英雄的行為が愛の妨害となり、愛をある意味で純化・抽象化する、これが「ル・シッド」の基本構造ということになります。この後、物語は外的状況の助けを得てハッピーエンドを迎え、悲喜劇として終わります(ハッピーエンドで終わるものは喜劇ですが、トーンが悲劇調のものに限ってフランス古典時代は悲喜劇という名称をあてました)。

戦争

愛を妨害する外的状況として戦争があります。恋愛物語において障害として機能する戦争は、何よりも愛する二人の間に空間的距離を設定します。物語の結末で片方を戦死させた場合、二人は永遠に引き離され、愛は超越的な不可侵の価値(永遠の愛)を得ます(「グレン・ミラー物語」「慕情」)。

戦争はまた、愛が芽生えたときに愛する二人を空間的に引き離し、両者の間のコミュニケーションを遮断することもできます。「シェルブールの雨傘」(J・ドゥミー監督)では恋人が戦争へ行った後、C・ドヌーヴは妊娠していることに気がつきます。相手との音信が途絶え、ドヌーヴは理解ある金持ちとの結婚という現実的な選択をせざるを得なくなります。「ひまわり」(V・デシーカ監督)は反対に戦地で行方不明になった男を女(S・ローレン)が捜す物語です。男(M・マストロヤンニ)は現地で別 の相手と結婚生活を営んでいることがわかります。「哀愁」(M・ルロイ監督)でR・テイラーはロンドン空襲時に出会い、愛し合い、再会を約束した女性(V・リー)を戦後になって探しますが、彼女が生活のために娼婦になっていたことを知ります。

保護者である男性が家を離れたとき、女性は世の中の攻撃性に対して、まるで子山羊のように無防備(vulnerable)になり、愛を取り逃がしてしまうというのがこの種の物語の基本的パターンということになります。

犯罪者

犯罪者にとっても愛は不可能な贅沢です。犯罪者は警察、あるいは他の犯罪者に常に追われる存在だからです。「望郷」(J・デュヴィヴィエ監督)のジャン・ギャバンはアルジェの貧民街カスバに潜む犯罪者です。カスバにいる限りは警察も手を出せません。しかし、愛する女性がフランス本国へ出航すると知ったとき、ギャバンはカスバを離れて見送りにゆき、待ち伏せている警察につかまります。彼女を乗せる船の出航を見ながら自害してしまいます。『郵便配達夫は二度ベルをならす』(J・M・ケイン)や『異邦人』(カミュ)の主人公たちも明日に迎えた処刑のために愛の物語を中断せざるをえません。一人称の物語では死は語られる行動だけではなく、語る行為そのものを終焉させるからです。


また、愛する者と愛される対象は人間でなければならないというのも恋愛の規範です。恋愛物語ではこれに反すると外在的障害が生じます。

異類婚の話では女性が自分の真の姿を隠していますが、それが暴かれたときに二人の関係は終わります。「人魚姫」の場合は、王子との愛を目指すために自分の声と交換に人間の姿になる必要がありました。『死霊の恋』の最大の障害はクラリモンドが吸血女であったことです。また、SFの「ブレード・ランナー」では主人公(H・フォード)はレプリカントと呼ばれる人造人間たちを「解体」する仕事を引き受けます。彼が愛するようになる女性(S・ヤング)は人間として育てられ、本人も自ら人間だと思いこんでいるレプリカントです。彼は社会の法に反して彼女をまもることになります。 ここでも外在的障害が恋愛の成就を難しくする一方で、情熱を維持・強化している面 が見られます。


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内在的障害


義理と人情はすでに単なる外在的障害ではありません。義理は制度的ルールが内在化されたものですし、人情は内在性そのものともいえます。外在と内在との区分は常に明快なものではないことをまずお断りしておきましょう。
外在的障害が消えるやいなや、物語の幕が閉じれば問題はありません。 しかし近代的な恋愛物語ではその後も物語が続き、重要な事実が明らかになります。
それは二人は決して融合することはなく、二つの意識として絶対的な距離により距てられているという事実です。

古典的物語とちがって、媚薬の効果のもとで愛の化身になることはできないのです。

愛に内在的な障害とはこの存在論的な距離そのものに他なりません。それは相手に対する不信や誤解、さらにはコンプレックスといった形をとります。
しかし、外在的障害と同じで、愛をエネルギーとして支えるのがまさにこの障害なのです。ユマニストの箴言は愛のこうしたパラドックスを巧みにとらえています。


「恋は燃える火と同じで、絶えずかきたてられていないと持続できない。だから希望を持ったり不安になったりすることがなくなると、たちまち恋は息絶えるのである」ラ・ロシュフコー

「愛は疑いを嫌う。ところが、愛は疑いにより大きくなり、確信により消えるのだ。」ル・ボン

融合への願望と意識の対峙という矛盾した現実、この存在論的矛盾のうちに危うく燃え続ける炎が<愛>なのでしょう。

「完全な愛には(人間の内において相矛盾する)二つの徴がある。一つは恋人同士の間での融合(絶対的一体性)の必要性、すなわち、二重性の拒否である。もう一つは他者の人格・自由を重んじる気持ち、すなわち、二重性の尊重である。」ティボン

このティボンの箴言の後半では、完全な愛を実現する上での倫理的規範が問われているのですが、この点だけは問題をはらみます。そもそも他者の意識がこちらの意識を離れ自由であることの認識はサルトルがいうように対他存在の宿命とも言うべきで、決して態度として選び取れるようなものではないはずです。二重性はたとえ相手を権力により奴隷化したとしても、否定しがたい存在論的所与のはずです。
二重性は意識内部にもあります。狂気とは制御なき欲動のあらわれなのでしょうが、愛の狂気には自意識がつきまとうからです。ニーチェは『ツアラストラはこう言った』のなかで書いています。

「愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし、狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある。」

愛における自分と相手の二重性。自分内部での二重性。これは古典的恋愛物語にはない意識の運動です。古典的恋愛物語では<愛>という名の状況を生きる存在者(わたし・あなた)の二重性・他者性を拒否しました。古典的恋愛においては、他者との融合の夢は即自的に実現されるのです。

「恋人よ、我らはかくこそ。我なくばおんみなく、おんみなくば我なし。」(マリー・ド・フランス)
 
また外的障害がある限り、登場人物たちは<愛>が何であるかを問わずにすみました。

愛とは克服すべき障害の彼方にご褒美として確実に存在する何かだったのです。

あるいは愛は『ル・シッド』におけるようにそれを選ばない限りで価値をもつ倫理的観念でした。しかも、それを選択しないという選択(行為)のみが与うる観念である以上、やはりその観念自体が問われる必要はなかったのです。

他者との融合を夢見つつ、他者との緊張の中にその不可能性を感じるのは近代的人間の不幸に他なりません。この不幸を背負った人間がそれでも<愛>を語り得るとしたら、それは他者そのものの代わりにその似姿(イメージ)との、不安感を糧とした独我論的ゲームによるか(「はじめは欲望により生まれた愛も、その後にはつらい不安によってしか持続しない」 (プルースト)、

あるいは他者との緊張を心理的に否定する、主客の区別以前の状態を模した(ある意味では日本的な精神構造「甘え」に則った)人間関係に依拠するしかありません。

松山俊太郎によれば、日本的な愛とは

「母性的感情の発露を原型とする彼我の情緒的合一」であり、「欲である場合は少ない」といいます。


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不倫物語

「トリスタンとイズー」の物語で、トリスタンは伯父マルク王の元へ嫁ぐイズーをエスコートする役を負っています。イズーの母が調合した媚薬も元々は伯父とイズーのためのものでした。ところが道中、二人は誤ってこの媚薬を飲んでしまうのです。伯父の婚約者(後に妻)と愛し合うことは封建社会ではもちろんタブーです。トリスタンにとっては育ての親ですから、義理もからみ、媚薬の作用による強烈な情愛との間で揺れ動くことになります。イズーも人妻となった以上、トリスタンへの情熱は倫理に悖った感情に他なりません。義理と人情の板挟み(ジレンマ)は結局この世では解消できず、二人は死んでしまいます。二人の墓からスイカズラが伸びて絡み合ったとありますから、あの世でやっと結ばれたのでしょう


→「トリスタンとイズー」梗概
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/Tristan.html


義理と人情の板挟みといえば、歌舞伎の世話物を見逃すわけにはいきません。近松門左衛門の「曽根崎心中」もまた、ジレンマを物語の核としています。町人である主人公は遊女と恋仲なのですが、彼には家庭があり、親があります。彼にとっては義理(家)と人情(愛)が同価値で、どちらを選ぶこともできません。

論理的に選択不可能の状態にある場合、歌舞伎の世界には究極の解決法(アウフヘーベン)があります。 それが心中です。

これは儒教と仏教の教えに同時に合致する見事な解決法でもあります。なぜなら、儒教では愛はこの世には場所をもたないのですが、一方、仏教の方はこの世で不可能な愛でもあの世ならば実現できるとするからです。

「トリスタンとイズー」が影響を受けたといわれるキリスト教の異端、カタール派もこの点に関しては仏教に似た考え方をとっていたようです。これは恋愛物語に根強い考え方なのかもしれません。

「ロミオとジュリエット」の結末も「トリスタンとイズー」の結末の一種のヴァリアントと考えてもよいのではないでしょうか。「若きウェルテルの悩み」の主人公もやはり自殺を選びます。

独我論ゲーム

相手を追うとき、相手はイメージ化されます。自ら作り上げたイメージを追うことになるわけです。

「ベニスに死す」ではH・ボガード演ずる作曲家アッシェンバッハはベニスで出会ったポーランド貴族の美少年の後を追います。少年は自分がこの初老の男を惹きつけていることを知っており、わざとらしい流し目すら送ります。しかし、現実的な関係が築かれることはなく、アッシェンバッハもまたそれを求めてはいないのです。

ポオの「群衆の人」で夜を徹して尾行した当の相手が悪の化身という抽象的な存在であった(となった)ように、アッシェンバッハが後を追う少年も美の化身として手に触れることもできない羽のように軽い存在です。

相手が制御不可能な自立した、あるいは奔放な存在の場合、似たようなチェイス劇が今度は具体的な関係を交えながらも続くことになります。アベ・プレボーの『マノン・レスコー』やP・メリメの『カルメン』はそうした作品の典型と考えられています。モラビアの『軽蔑』は一種のコキュ・コンプレックスを描いた作品ですが、結婚して愛しあっていると思っていた妻の豹変を一人称の内的視点で描いた、サスペンスに富んだ小説です。夫婦でありながら、今や日光浴する露わな妻の肢体を草陰からこっそり盗み見することしか許されていない夫。

妻の様子の変化が何を意味するのかがわからず、語り手である夫は何とか真実を知ろうとします。

あるいはこちらの勝手な思いこみにすぎないのだろうか?

妻との関係に本質的な変化はないのだろうか?

現実の心変わりなのか、こちらの思い過ごしにすぎないのか、

不幸な恋愛物語の主人公はまさに幻想物語のように解釈の非決定性を生きなければなりません。


その矢先に妻の口からとうとう真実が告げられます。

「私はあなたを軽蔑しています。」


幼なさを残す新妻との関係を描いたエリア・カザンの「ベビー・ドール」もコキュ・コンプレックスを描いた作品です。ナボコフの名作『ロリータ』は下宿先の一人娘ロリータへの思慕からはじまります。ロリータのクラス名簿にLO-LI-TAという名が現れるやその音韻の官能性に恍惚となる場面 にも見られるように、主人公ハンバート・ハンバートはロリータのイメージを追い、そのイメージに囚われています。ロリータの失踪によりそのイメージはさらに強化されますが、何年か後に突然ロリータから無心の手紙を受け取り、再会を果 たすと彼女はすでに子持ちの幼妻となっていました。これでロリータのイメージから解放されたハンバートはしかしながら、失踪中に彼がイメージとして追っていたロリータを現実的に所有していた男(映画ではピーター・セラーズが演じる)が許せず、復讐します。

お互いに愛しあっているにもかかわらず身を引く人というのがいます。「カサブランカ」M.Curtis (43) のハンフリー・ボガード、「旅愁」W. Dieterle(50) のJ・フォンテインは相手の夫婦・家族生活を守るために身を引きます。デュマ・フィスの『椿姫』では、ヒロインは恋人の父親のとなえる現実原則を前に自らの快楽原則を引っ込めます。A・ジードの「狭き門」のヒロインもまた霊的価値をまえに、地上的快楽を断念し、そのまま病死してしまいます。ラファイエット夫人の『クレーブの奥方』も一種の姦通小説として始まりますが、姦通の唯一の障害である夫が死を迎えた後も恋人を受け入れません。

こうした物語に共通するのは愛の消費・消尽の拒否です。

愛が所詮燃え尽きるものであるという予感は『クレーブの奥方』以外では明示されませんが、愛が不可能となったと考えたときにその愛を捨てることによって、現実には不可能な愛をより高次のレベルで観念的に維持することには結果的には成功するわけです。

負ける(捨てる)が勝ち。悲恋物語の情緒的メカニズムがここに見られます。
求愛行為としての出会いのない物語もあります。恋する人が思いを打ち明けないというマゾヒスティックな物語群です。チャップリンの悲喜劇(例えば、「街の灯」)などに見られる、相手を思いやる主人公の純粋さは一部こうしたマゾヒズムに負っています。このカテゴリーの嚆矢はE・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」でしょう。

美を解し、愛するがゆえに自分の顔にコンプレックスをいだくシラノは、友人の騎士のために彼の恋の成就に一役かってでます。しかし、友人の愛する女性とはシラノ自身も愛するロクサーヌその人だったのです。ロクサーヌに宛てた愛の告白、手紙、すべてはシラノの手になるものでした。ロクサーヌはそれらに心うたれますが、書いたのがシラノだとは知る由もありません。友人は戦死し、ロクサーヌは死者の想い出とともに生き続けます。時はながれ、いつものようにロクサーヌを慰めに向かう途中で、シラノは悪漢に襲われ致命傷をうけます。そんなこととも知らぬロクサーヌは昔に愛人からもらった手紙をシラノに読ませます。シラノはロクサーヌへの思いの丈を記したその手紙を切々と朗読し続けますが、ロクサーヌはシラノがそれを暗闇の中で諳んじて読んでいることに気がつきます。書いたのはシラノだったのです。

負ける(捨てる)が勝ちという悲恋物語の情緒的メカニズムがここにも見られます。シラノの死と共に彼の情熱は永遠の輝きをもつことになるでしょう。シラノの態度が西洋の騎士道精神の表れとは俄には思われませんが、騎士道のもつサディズムの裏面として、一種審美化されたマゾヒズムの表現ではあるのかもしれません。これよりマゾヒズムが一層端的に表れているのが我が国の武士道ということになります。山本常朝は『葉隠』のなかで次のように書いています。

「恋の極は忍恋と見立て候、遭ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死すること恋の本意なれ」

忍恋(しのぶこい)とは愛情表現はおろか、コミュニケーションそのものの徹底した拒否です。相手との距離を最大限に保つという覚悟は欲望のマゾヒスティックな抑圧以外のなにものでもありません。しかし、抑圧を越えて、まさに抑圧ゆえに一層鮮烈にあらわれるものがあるはずです。それは相手のイメージです。最大限の抑圧により、最大限、イメージ化、結晶化されてしまった相手です。忍恋とは自家中毒的に肥大化するイメージとの戯れに他なりません。禁欲に貫かれたこの愛は相手に対する思いやりなどかけらもない自己愛と言ってもよいでしょう。「日の名残り」J.Ivory(93)[原作カズオ・イシグロ]はイギリスの階級社会を舞台とした現代の忍恋を描いていますが、A・ホプキンス演ずる執事は外界に対する未練を残しながらも、各駒の動きが決められたチェスのような自己完結した世界から決して抜け出すことができない存在です。家庭教師への感情はゲームのなかで彼に与えられた役割を越えるものですから、彼には行動できないのです。「日の名残り」は忍恋のマゾヒスティックな純粋さを巧みに描いた作品だと申せましょう。執事もまたサムライと同様に階級社会で課せられた役割の犠牲者なのです。原作では老執事が語り手ですが、自分の心理状況を克己的なほどに語らない省略法にこそ実は彼のマゾヒズムが間接的にあぶしだされます。

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反=恋愛物語


愛は物語の中にあり、その中にしかない。

もしも<愛>が語れないとき、人が語りうるのは正に<愛>の不在ということになります。

以下では反=恋愛物語についてみてゆきましょう。

存在しない<愛>の観念がそれではどこで生まれたのでしょうか。

それはもちろん恋愛物語の中です。『ボヴァリー夫人』のヒロインは恋愛物語の熱心な読者であり、物語に描かれた世界を真実と取り違え、そのまま結婚します。

「エンマは自分がそれでいいと思っている理論にしたがって、愛情を感じようとした。月明かりの庭で、暗誦しているかぎりの情熱的な詩句を朗唱し、物悲しい緩やかな調べの曲を溜息をつきながら夫に歌ってきかせた。しかし、そのあとでも、彼女は前と同じくらい冷静だったし、シャルルもいっこうに恋心をそそられたようでもないし、また感動した様子でもなかった。」フロベール『ボヴァリー夫人』
夫のシャルルはもともと現実的な男で、現実という名のカンバスに幻想的なイメージをダブらせるようなロマンチストではありません。

結晶作用とは所詮縁のない男なのです。そんな夫を相手にロマンチックな気分に浸ることはそもそも無理な話なのですが、エンマにしたところで聡明な女性ですから、思い描いていた小説的世界と現実との齟齬を直観せざるをえません。
小説的世界と現実が本質的に(存在論的に)異なることを明らかにした哲学者がサルトルです。彼の小説作品にも次のような考察があります。

「私はこう考えた。最も平凡な出来事が、ひとつの冒険となるには、それを<語り>はじめることが必要であり、それだけで充分である、と。これは人が騙されている事実である。
人間はつねに物語の語り手であり、自分の作った物語と他人の作った物語とに取り囲まれて生活している。

彼は日常のすべての経験を、これらの物語を通して見る。

そして自分の生活を、他人に語るかのように、生活しようと努めるのだ。[・・]
しかし、生活するか、人に語るかを選ばなければならない。たとえば、エルナと同棲してハンブルグにいたとき、私はこの女を信用していなかったし、また向こうでは私を怖れていたので、へんてこな生活をつづけていた。しかしその中にいた私は、そんなことは考えもしなかった。しかしある晩、サン・ポーリーの小さなキャフェで、彼女は席を立って化粧室へ行った。私はひとり残っていた。レコードが『青空』を演奏していた。そのとき私は、下船したときから過ぎていった日のことを、反省しだした。そして独語した。-三日目の晩、「青い洞窟」というダンスホールに入っていったとき、半分酔っぱらったいた背の高い女に気が付いた。いま『青空』を聞きながら私の待っているのがその女であり、いまに私の右側にもどってきて座り、私の頚に両腕をまきつけるだろう、と。そのとき、私は冒険を経験しているんだということを、はげしく感じた。しかしエルナがもどってきて私の横に座り、私の頚に腕をまきつけたとき、なぜであるか理由はよくわからなかったが、私はその女を嫌悪した。いまになって私にはわかる。それはそのとき、再び生活をはじめねばならなかったからであり、冒険の印象が消えてしまったからである。」サルトル『嘔吐』


<愛>の物語とは所詮何かを待つ物語なのです。

決定的な<何か>が待っているはずなのですが、その<何か>は決して現れません。

決定的な<何か>とは目的であると同時に終焉でもあるからです。

ヒッチコックのいうマクガフィンです。

それを求め、崇めている間はそれがあたかも存在するかのようにすべてがとりおこなわれます。

<愛>が存在するのは、例えば私が喫茶店で愛する人を待つときです。相手は時間に来ません。私は時計に目をやります。どうしたのだろう。不安がよぎります。時間はすでに数学的に刻むことをやめ、情緒的な強度を帯びつつあります。
R・バルトは待つときの不安には三段階あると書いています。

約束の場所、時刻に間違いはないか、と思い始める第一段階は推測の段階。
これが第二段階では怒りに変わります。「ひどい奴だ」。
第三段階では純粋な不安が生まれます。「相手があたかも死んだかのように、私は蒼白となる。」 

待つ人は第三段階で不在の人の喪を生きるわけです。

<愛>とは<待つ>ことそのものなのです。

「私は恋をしているだろうか?然り、こうして待っているのだから。」『愛のディスクール断章』

待つことにより、待つ対象は非現実化されます。

待つ人は妄想にとりつかれたかのように、待つ対象を幻覚化してしまいます。
私は待つ人を生身のまま思い描こうとするのですが、あらわれた映像・幻覚にはある意味がすでに刻印されています。その意味とはその対象自体の決定的な不在ということです。

この決定的な不在こそ<愛>を存在させ、<待つ>という物語シークエンスの形で維持し続けるのです。『嘔吐』の主人公に到来した「冒険意識」というのもこの情緒的・想像的な時間意識です。そして、この感覚は待っていた対象が生身で姿を見せるやいなや瓦解してしまったわけです。


前提そのものの問題化

今日、<愛>はメトニミーによってしか語ることできません 。

<愛>は物語の意味(signifié)ではもはやなく、物語化のプロセスそのものであり、不可能な意味へ到達しようとする無益な情熱、一種の受難(passion)に他なりません。

<愛>は欲望 desire(すなわち<~への>超越)の弁証法としてしか語られえないのです。

いずれにしろ<愛=欲望>の主体は安定した<わたし>ではありません。それは人称を失った死に瀕する<なにか>にすぎません。

「欲情するとは、世界の中に自己を投げ出し、ある女の肉体のかたわらで危険に瀕することだ、この女の肉体そのものの中で危険に瀕することなのだ。それは肉体をとおして肉体の上で、ひとつの意識にーヴァレリーの語るあの《神聖な不在》にー辿りつこうとのぞむことなのだ。[...]それは、本来みずから拒否する結合を求めているのではないか。本質的に欲情から逃れてゆくものである他者の自由、それを欲するものが欲情ではないか。要するに、人間存在の真正なる姿は《死ーへのー存在》であるということが真実ならば、真正な情熱は、いかなるものであれ、灰の味わいをもつはずである。死が愛のなかに現存するとしても、それはけっして愛の責任でもなく、なにかしれぬ ナルシシスムの責任でもない。それは死の責任だ。」サルトル「ドニ・ド・ルージュモン『愛と西欧』(書評)」『シチュアシオン I』所収


欲望を<愛>のメトニミーとして描いた作品の例として、マルグリット・デュラスの『愛人』があります。

http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/amant.html
5:777 :

2024/01/28 (Sun) 14:33:54

恋愛物語の文法


(1)「愛は12世紀に生まれた」

 12世紀南フランスの貴族社会では「雅の愛 fin amor」とよばれる情熱恋愛(amour-passion)が胚胎しつつあった。

時間的にも空間的にも限定をうけて生まれたという点で風土病ともいうべきこの熱病は、それにもかかわらず文学を媒体として中世以降のヨーロッパを席巻したのみならず、はてや小説や映画さらにはコマーシャルを通 じて20世紀極東の大衆社会にまで我が物顔で蔓延し続けている。
風土病であったはずの<愛>が、今や人間の存在の普遍的な証ででもあるかのように振る舞い続けているのである。

 誰もが<愛>を語る。

誰もが語れるということは、<愛>はロックなどよりもはるか以前に文化の国際化というプロセスを経て、受容と文化変容(acculturation)の歴史を生きてきたということである。

日本の開国後に費やされた西洋受容のためのエネルギーの一部もこの得体の知れない記号に向けられたという事実がある。


それにしても<愛>とはなにか?

ここで忘れてならないのは吟遊詩人(troubadour)にうたわれた<愛>はその生い立ちからして文学臭をただよわせ、今日の存在媒体も基本的には物語(小説・映画・テレビ)であるということである。

「愛」を語るとき、人は知らずに<物語>を引用しているのだ。

それでは<物語>における<愛>とはなにか?

 この問いに答えるためには12世紀西洋に生まれた<愛>の変遷(さらにはその文化変容)の歴史を記述する文化史のようなものが必要であろう。それは<物語>そのものの本質・形態を問う記号論的分析、<愛>の存在論分析・精神分析、さらに<愛>とその<物語>をかこむ環境への社会史的視点を総合したようなものでなければならない。

 個々の恋愛物語の分析はジャンルとしての恋愛物語(一般文法)を多かれ少なかれ射程におかざるをえない。したがって、「恋愛物語」の一般的定式とでもいうべきものを提示しておく。


1) 恋愛物語においては、<愛>はそれ自体としては存在しない。

 <愛>はそれ自体としては存在しない。存在しえない。
それは意識に似た自由な運動そのものだからである。
現代哲学は人間存在を「己がそうでないところのものであり、己がそうであるところのものではない」(サルトル)存在と規定しているが、<愛>の存在様式もこれに近い。
独楽は回転している限りで独楽なのであり、回転を止めたとき、残るのは回転の残像と「独楽」とよばれる木片にすぎない。

<愛>も同じである。求める限りは在るが、手に握りしめたとき掌にはなにも残っていない。なぜか?
それは<愛>がなによりも運動だからである。しかも意識がになう運動だからである。


2) 恋愛物語においては、この運動をささえるための障害が用意されている。

 <愛>が持続的な情熱として生き延びるためには抵抗が必要なのだ。
その抵抗に対する反作用として、<愛>は自らの根拠(中心)を問うことのない遠心的エネルギーの形に仮託される。言い換えれば、障害があってはじめて<愛>は形を与えられるのであり、形を与えられた<愛>が物語の結構を成す。

 なお、障害には外的障害と内的障害がある。

外的障害:家/名誉(「ロミオとジュリエット」)、法/道徳[義理・人情](「トリスタンとイズー」「曽根崎心中」)、相手の死(ポオの「愛の物語」群)、相手が自分を愛していない(ジード「田園交響楽」、モラビア「軽蔑」)等々。

内的障害:相手への不信・誤解(ヒッチコックの一連の作品)、相手を愛していない(「アドルフ」)、愛=美=情熱の一般 的不在[反ロマン主義](「ボヴァリー夫人」)、障害の(無)意識的捏造[愛という観念の根源的矛盾の自覚](「クレーブの奥方」)、等々。

3) 障害を乗り越えたとき、<愛>は消滅する。

 「トリスタンとイズー」では障害をすべて乗り越え、マルク王の許しを得るのはあの世においてである。古典的恋愛物語における<愛>はこの世では成就しない。
喜劇・悲喜劇では確かに障害を乗り越えたあとに結婚が待っている。
しかし、結婚は<愛>の成就ではない。
結婚するとき、<愛>の物語はすでに終わっている。と同時に、物語としての<愛>も終わっている。

12世紀に生まれた情熱恋愛は姦通恋愛である。
つまり、結婚は<愛>の媒体ではなく、障害としてのみ<愛>に資することができるのである。

いずれにしても、恋愛物語において<愛>は能記(signifi氏jなき所記(signifiant)として、つまり不可能な記号(signe)として機能する。


 <愛>はそれ自体で即自的に充足して在ることはできない。
<愛>がそれを望むとき、それは<死>を意味する。

「トリスタンとイズ-」「ロミオとジュリエット」ではヒーローとヒロインの死に時間的ずれがあるとはいえ、ある意味での心中であり、死においてはじめて愛=死が即自的に成就される。


なぜ、死においてなのか?

なぜなら、<愛>には根源的な矛盾があるからである。

<愛>が運動としてあり続けるためにはある距離が必要である。
しかも、<愛>は同時に距離の絶対的否定への情熱でもある。

ティボンは次のようにのべている。

「完全な愛には(人間の内において相矛盾する)二つの徴がある。一つは恋人同士の間での融合(絶対的一体性)の必要性、すなわち、二重性の拒否である。もう一つは他者の人格・自由を重んじる気持ち、すなわち、二重性の尊重である。」


 距離の否定(一体性)と距離の尊重(他者性)。古典的恋愛は<愛>という名の状況を生きる存在者(わたし・あなた)の二重性・他者性を観念的に否定する。
トリスタンとイズーの<愛>をマリー・ド・フランスのレーは次のように唄う。

「恋人よ、我らはかくこそ。我なくばおんみなく、おんみなくば我なし。」

古典的恋愛においては、他者との融合の夢は即自的に実現されるのである。他者との融合を夢見つつ、他者との緊張の中にその不可能性を感じるのは近代的自意識の不幸に他ならない。この矛盾(アポリア)を解消する一つの戦略はポオにみられる。

 ロレンスはポオにおける恋愛が他者性に基づくものではなく、その否定による不可能な融合・一体化をめざす、所詮<死>によってしか完成されない企てであるとみなす。
ただし、こうつけ加えなければならないだろう。ポオにおける<死>は「トリスタンとイズ-」「ロミオとジュリエット」と異なり心中ではなく、ヒーローは生き残る、と。
「アッシャー家の崩壊」ですら、ヒロインの屍体化とヒーローの 屍体化との間には時間的ずれがあり、そのずれに意味がある。つまり、ポオの<愛>とは 屍体愛なのだ。相手はすでに死んでいなければならない。

死者との<愛>はもちろん他者をイメージ化した自体愛にすぎない。したがって、ここでも<愛>は存在しないことになる。

相手が死んでいるかわりに眠っていた(プルースト)としても事情が変わるわけではない。眠っている者も他者そのものではなく、眠っている者を眺める主体が投影するその似姿(イマージュ)であり、そこで演じられる<愛>とは、その主体が安心感/不安感を糧として演じる独我論ゲームに他ならないからだ。


 本稿のはじめに<愛>は運動としてしか存在しないと定義した。<愛>は不幸・不安を糧とする運動としてのみ語りうるのであり、逆に語られうる限りにおいてはじめて<愛>は存在するのだ、と。

ここで物語を機能させる運動として定義された<愛>について、それが運動するかぎりにおいてしか存在し得ない所詮不可能な企てであるというのは、じつは同語反復(トートロジー)にすぎない。

<愛>=運動という定義そのものにその不可能性はすでに含まれている。
問題はそれにもかかわらず、多くの恋愛物語では<愛>というの名の独楽が回転を終えた後も回転し続けているかのごとく振る舞い続けるということなのである。

障害を乗り越えたカップルが結婚にゴールインしたところで幕が上がれば、幕の背後世界で独楽は永遠に回転し続けると人は思う。

ゴールインする前にトリスタン/イズーのように死を迎えれば、<愛>は外的障害のために挫折を余儀なくされたのであり、<愛>そのものの存在不可能性によるものだとは考えない。

「タンド伯爵夫人」(ラファイエット夫人作)

http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Composition/articles/tende1_95.html
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Composition/articles/tende2_96.html


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2024/01/28 (Sun) 14:34:46

欧米人の倒錯と幻覚の世界

男女の愛の物語、つまりロマンチック・ラブ・ストーリーは、12世紀の騎士と貴婦人を主人公にした宮廷風恋愛叙事詩にはじまったものといわれています。また、西洋文学の中でロマンチック・ラブを扱った最初の物語は、「トリスタン・イズー物語」であるともいわれています。


ロマンチック・ラブは結婚の枠の外にあり、それは極めて霊的な関係であったのだ。(略)そのようなラブが結婚と結びついてくるのは、西洋人が教会のもつ宗教的な力から離れてゆくことと関連している(略)。

 本来なら宗教的経験としてもつべきことを、公式の宗教に魅力を感じなくなったために、日常生活の中での恋愛に求める。その動機は素晴らしいが、そこで途方もない聖と俗の混交が生じてしまう。

 ロマンチック・ラブの象徴的意義を認めて、象徴的実現をはかるのではなく、無意識に現実化しようとすると、欧米においては、男性は家父長的地位を守ったままで、たましいの像としてのアニマの役割を、女性がそのまま背負うことを要求する。
それは、女性を尊重しているように見えながら、途方もない押しつけによって、女性の自由を奪っていることにもなるのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)

アニマはしばしば現実の女性に投影され、そのときには烈しい恋愛感情がはたらくことをユングは指摘しているが、その際は、その女性はアニマイメージのキャリアーなのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
http://homepage1.nifty.com/risako/report/yaoi2.htm


▲△▽▼


ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html

最美の音楽は何か? _ ワーグナー『トリスタンとイゾルデ 第1幕への前奏曲とイゾルデの愛の死』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/378.html

ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html  

Kirsten Flagstad and Ludwig Suthaus - Liebesduett
http://www.youtube.com/watch?v=B-ImojzMOAs


蓄音機で フルトヴェングラー  トリスタンとイゾルデから「愛の死」
http://www.youtube.com/watch?v=JS0GA_0vIFc

Kirsten Flagstad and Furtwangler - Liebestod
http://www.youtube.com/watch?v=4tgn511ceNQ


 下の楽譜は、総演奏時間三時間以上にわたるこの楽劇の最初の部分(左:「前奏曲」より)と、最後の部分(右:「イゾルデの愛の死」より)です[Edition Peters Nr. 3407より改変]。このほんの数小節の中にも「トリスタンとイゾルデ」の魅力は満載されていますので、これを使って私なりの解説を試みます。

 
 まず矢印で示した小節の和音。これは、この楽劇が始まって最も初めに聴衆の耳に入る和音です。そして、この和音は、極めて絶妙なバランスの上に成り立っています。

和音はFを基音にH、Dis、Gisと4つの音から構成されています。一見単純に見えますが、実はこれは従来の機能和声法では解釈できない非常に特殊な音の並びなのです。不協和度は少ないものの、非常にストレスの大きな響きで、解決を待たねばならない不安定な音の固まりです。

これが、次の小節になるとE majorの和音に帰属し解決され、ここに至って聴衆は安堵を覚えます。逆にいえば、従来の理論では、一見、解決策のない不安定な音に聞こえた和声は、極めて単純な和声に落ち着きうることを、ここで初めて知ることができるのです。

この複雑怪奇な「トリスタン和声」は、機能和声法をきりぎりの所まで拡大解釈して見せたワーグナーの偉大なる手腕の発露です。

この和声は後にドビュッシーやスクリャービンらによってさらに拡張されていくことになります。実際、この和音の発見をもって、クラシック音楽全史を「トリスタン以前」と「トリスタン以降」に分類することさえできるのです。

 さて、我々は、ここでもう一つ重要なことに気づかねばなりません。それはトリスタン和声が解決したその和音に、Dの音が含まれていることです。トリスタン和声があまりにも怪奇であったために、我々は次の小節で完全に和声が解決されたような錯覚を覚えるのですが、じつはその和音は属7を伴った「未解決」な和音にすぎません。

こうした語法は曲全体にわたって使用されています。和音の解決が再び次の不協を生み、このストレスの解決もまた・・・といった具合に、問題は次々と提起され、解決されないまま引き継がれていくことになります。この延々と続く和声のうねりは、トリスタンとイゾルデ二人の永遠に解決されることのないであろう愛を意味していることは言うまでもありません。

 そして、なにより我々が注意しなければならないのは、トリスタン和声の持つ独特な生理的効果です。この絶妙な和声は、なぜか官能的に響きます。まさにこれこそがこの楽劇の最大の魅力です。

この音楽以前に、これほど官能美をたたえた音が鳴り響いたことはなかったでしょう。この法悦感を喚起する原理は、「四度音程」の累積に基づいたF、H、Dis、Gisという音の選択にあるようです。

実際、この原理は楽劇を隅ずみまで支配しています。結果として麻薬的効果が聴衆を陶酔の世界へと誘い、音楽的快感の虜とさせるのです。我々はこの和声のもつ圧倒的な煽情効果の前になすすべもありません。楽理を超越した仮想界。その抗い難いメフィスト的求心効果。幻影への陶酔。カタルシス的な憧憬。情動の浄化。「音楽」というものの魅力を余すところなく表現しつくした芸術中の芸術。それが「トリスタンとイゾルデ」なのです。

 さて、トリスタンの魅力はなにも和声だけではありません。上の楽譜(左)に赤色でしめしたメロディーライン(モティーフ)に注目して下さい。Gis、A、Ais、Hという、単純な上行性の半音階進行です。

しかし、トリスタン和声に乗ったこの音の動きは、上へ上へ、高いところへ高いところへ、という至高なものへの憧憬を思わせます。もちろん、トリスタンとイゾルデ二人の至上な愛への憧れを示しているのでしょう。しかし、彼らの羨望もHの音で未解決のままに終わっています。

実ることのない愛。切なくも悲痛な終焉を想像させるに十分の旋律です。

この4つの音からなるモティーフもまた、楽劇中で何度も繰り返し現れます。しかも、その度に、解決を見ることなく音の渦へと消えていくのです。そして、二人の理想世界への憧れは望蜀として膨張し、最後には二人の死という形で結実します。

その瞬間、憧れのモチーフは、上の楽譜(右)の様に、Gis、A、Ais、H、Cis、Disと、Disの音まで到達し、これと同時に和声も極めて純粋なB majorの主和音に解決されるのです。このモティーフが不安に満ちたトリスタン和声と共に初めて聴衆の前に提示されてから、じつに3時間以上たった終結部で、ようやく死(浄化)による解決を迎えるわけです。

この楽劇は、最後の協和音「救済」に向かう葛藤を描いた壮大なドラマであると言えます。大河のうねりは聴くものの心を毟裂き、そして清らかに透きとおった高次の解決を迎えるその瞬間、我々は鳥肌の立つ思いを覚えます。

http://gaya.jp/myprofile/tristan.htm

<愛>は空虚な記号です。ただ、その空虚さ、あるいは無根拠性を隠蔽し、<愛>を実体化する道具として媚薬があります。

『トリスタンとイズー』の媚薬が有名ですが、古典的恋愛物語に登場する愛する若者たちはみな、あたかも媚薬が効いているかのように強い持続的な情熱にかられています。

実は媚薬こそがこうした若者の不条理な情熱のメタファーなのかもしれません。
実際、<愛>は麻薬のように心身に大きな変化をもたらすことがあります。<愛>の炎は身も心も焼き尽くすと言いますが、恋愛物語では全身にあらわれる症状が描かれることがあります。

「トリスタンの心臓の血の中には、鋭いとげをつけ、かぐわしい花を咲かせた、一本のいばらが根をはりひろげて、肉体も、心も、欲求も、そのすべてが、イズーの美しい体に、なにかこう強いきずなでもって巻き付けられているように、思われるのだった。」 『トリスタンとイズー』

「あなたを垣間見ただけで、私の声はうちふるえ、舌はこわばり、全身が微細な炎にちりちりと焼かれる」サッフォー

フィッシャーは『愛はなぜ終わるのか』のなかで次のK・ユングのことばを引用していますが、今日の大脳生理学の知見からすればこれもすでにレトリックではなく、字義通り科学的にある程度説明がつく内容です。

「ふたりの人間の出会いは、ふたつの化学物質の接触のようなものだ。何らかの反応が起こると、両方とも変質する。」

それでは愛する人の大脳ではどんな化学反応(情報操作)が起こっているのでしょうか?(以下、『愛はなぜ終わるのか』による)


人間の脳は主に三つの部分からできています。

最も原初的な本能を調整する脳幹(爬虫類脳とも呼ばれる)。
情動を司る大脳辺縁系(同じく哺乳類脳)。
感覚、言語機能をはじめ、各機能の統合をおこなう大脳新皮質。

<愛>は情動の一種ですから、それが活躍する舞台は大脳辺縁系ということになります。そして、中心となる作用素は、興奮、歓喜、恍惚などを引き起こす興奮性伝達物質フェニルエチルアミン(PEA)であると考えられています。

「ロマンス中毒患者」と呼ばれる人たちがいまして、彼らは実を結ぶはずのない恋を病的に求め、高揚と陰鬱の状態を交互に味わい続けるのですが、彼らにはPEAの分泌が多いことがわかっています。

ロマンス中毒患者にMAO抑制剤を投与しますと、数週間で「相手を選ぶのに前よりも慎重になって、さらには恋人なしでも快適に暮らせるようにさえなった」といいますから、恋愛を病ととらえた12世紀以前の西洋人の考え方には根拠があったことになります。

トリスタンとイズーが飲んだ媚薬というのは今風に解釈すれば、PEAの分泌を高める興奮剤だったのかもしれません。

ただし、PEAと<愛>の病が一義的に関係しているわけではないことは付け加えておくべきでしょう。

「PEAは高揚と不安を引き起こすだけで、そんな化学的状態になる経験はたくさんあり、恋の情熱はそのひとつでしかない。」
<愛>がPEAに依るとしても、PEAによる高揚感、不安感は愛以外の様々な形をとりうるということです。

PEA効果には時間的に限りがありますから、ロマンティックな恋愛の期間はずっと続くわけではありません。18ヶ月~3年もすれば、恋に落ちた人も再び相手に対し中立的な感情を抱くようになるといわれています。

つまり、その間は相手を、そしてさらには世界全体を高揚と不安を通じて情動的にみる態度が維持されうるわけです。結晶作用という知覚的な麻痺ももちろん伴うことでしょう。

PEA効果が切れると同時に愛もお終いになるというわけではありません。激しいロマンチック・ラブのあとには落ち着いた愛着による新しい愛の可能性もあるからです。この愛を司る物質はエンドルフィンで、心を落ち着かせ、苦痛をやわらげ、不安をしずめるといった、まさにPEAと反対の作用があります。

小さい頃に下垂体不全をおこした人の中にはPEA分泌不良による「愛の不感症」という症例もあるようですが、エンドルフィンによる静かな愛はこれとは別で、これこそ永続的な、現実的な人間関係の源でしょう。しかし、恋愛物語が対象とするのはやはり、PEA効果による病に苦悩する激しい愛ということになります。

「意識はある対象についての意識である」というのが現象学の出発点です。人はある対象を憎むべきものと捉えることにより、はじめてそれを憎むのであり、形をもたない憎しみエネルギーみたいなものが予めあり、それがたまたま見つけた対象に向けて発散されるのではない、というのが現象学的なとらえ方です。

しかし、これと反対の考え方もあります。人の情動とは無定形のマグマみたいなもので、それが外界の対象にそそがれるのは偶然であり、そのマグマが仮の形を得て持続するためのアリバイを外界の対象が与えるにすぎない、という考え方です。
このような考え方をとるならば、PEA効果が自己を持続させるために、高揚と不安状態を創出するアリバイが必要となり、それを外界にもとめる。情熱恋愛とはPEAの自己保持のアリバイであり、恋愛(物語)における障害とは、まさに保持時間をできるだけ延長するための仕組みに他ならない。要するに、恋愛物語の主体はPEAだという逆説です。

外在的障害がない場合、あるいは解決されたあとになおも内在的障害が待ち受けているのは、PEAの麻薬効果が自己を維持するためにあらゆるアリバイを捏造するせいなのかもしれません。
 
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/lovemac.html

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  い   /   ll ',::', 、 ーこニ=-       /!::/ ヽ:::|  ヾ、  ノ ノ  /  ,イ   ヽ、
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7:777 :

2024/01/28 (Sun) 14:43:41

ロマンチック・ラブの世界とは

カール・グスタフ・ユングは、男性の人格の無意識の女性的な側面をアニマの元型と規定した。男性が持つ全ての女性的な心理学的性質がこれにあたる。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)でもあり、異性としての女性に投影されることもある。フィルム・インタビューでユングはアニマ・アニムスの原形が、「ほんの僅かな意識」または無意識と呼んで、完全に無意識のものであるかどうかは明らかにしなかった。

彼はインタビューで、恋に落ちた男性が、女性自身よりも寧ろ自身の無意識の女性像であるアニマと結婚した事に気付き、後になって盲目な選択に後悔するのを例に出した。アニマは通常男性の母親からの集合であるが、姉妹、おば、教師の要素を持つこともある。

ユングはまた全ての女性が精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムス(animus)を持つと信じた。アニムスは女性の人格の無意識の男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影される。

アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は沢山のアニムスを持つとされた。ユングはアニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源であるとみなした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E


アニマ


 アニマは男性が無意識の中に持っている女性原理──男らしくあるべきという社会的要請によって抑圧された女性的要素──情緒、感情、恋愛などを司るものです。いわば『魂の女性』で、そのアニマに基づいて、男性は心の中に『理想の女性像』を作り上げるといわれています。

 自分のアニマイメージを現実の女性に投影して、恋に身を滅ぼすこともあるそうです。アニマの存在は男性にとって、男性に足りない女性的情動や感情、潤いを補って、完成した人間へと導く存在でもあり、また一つ間違うと破滅の淵に引きずりこんでしまうような、危険な存在でもあるわけです。

 まだ発達していないアニマは、動物の姿や黒っぽい女性だったりすることがあるそうです。男性の夢に登場する女性はすべてアニマと考えてもいいでしょう。

アニムス

 アニマが男性にとっての『永遠の女性』なら、アニムスは女性にとっての『心の中の男性』──女性の心の中に形作られた、内なる男性です。

一般に知性や理念、決断力、論理性などを象徴します。アニマが『魂』なら、アニムスは『精神、ロゴス』であり、女性が成長するため必要な存在です。

アニムスをきちんと認識していないと、やたら理屈っぽいだけになったり、妙な男性に自分のアニムスイメージを投影してのぼせ上がったりと、やはり男性同様危険な側面があるようです。

 アニムスは父親のイメージではじまることが多く、やはり認識されないうちは黒っぽいえたいの知れない男性の姿を取るといいます。女性の夢に登場する男性は、すべてアニムスなのだそうです。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/rush/anima.html

水の中を覗きこむと確かに自分の姿を見ることになるけど、それ以外にも魚、水の精などがいます。水の精は人間を誘惑し、理性のコントロールを失わせます。

それはからかい好きな生き物であって(中略)ありとあらゆる悪戯をしかけ、幸福なまたは不幸な錯覚、抑うつ状態や恍惚状態、コントロールのきかない感情等々をもたらす。

 これがアニマだとユングは言います。しかしアニマは元々、「魂と呼ばれ、なんとも言えずすばらしい不死のものを指している」とあります。

しかしユングによるとこれはキリスト教によって教義化されたものであり、本来のアニマとは違うと言います。本来のアニマは「気分、反応、衝動およびその他の自律的な心的作用の、ア・プリオリ〔非経験的なもの〕な前提である」んですね。

 アニマ元型と関わることによって、われわれは神々の国に入りこむ。

(中略)


すなわち絶対的で、危険で、タブー的で、魔術的になる。

(中略)

世間では無意識に没頭すると道徳的抑制が壊され、無意識のままにしておいたほうがよいもろもろの力を解き放つことになると言われているが、アニマはその無意識への没頭に誘うために(中略)納得させるに足る根拠を提示する。

いつでもそうだが、この場合にも彼女は間違っているわけではない。なぜなら生そのものは善であるだけではなく、悪であるからでもある。

(中略)

妖精が生きている国には善悪という範疇は存在しない。

http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/50791497.html


人間はもともと両性具有的(シュズュギュイ)なのですが、大人になるにつれてどちらかの性を発達させなければならず、顧みられなかった方の性がアニマやアニムスとして無意識の深奥に封印されるのです。

 アニマの属性はエロスであり、アニムスの属性はロゴスです。

 アニマは男性に情緒性やムードをもたらします。アニマの力によって、男性は想像力を湧き上がらせることができます。一方でアニムスは女性に論理性や意見をもたらします。アニムスの力を借りれば、女性は行動力を発揮することができます。

 さらにアニマとアニムスは、心の深い部分にある元型として、後で述べるセルフと自我のコンタクトを手助けする役割も果たします。

 しかし、アニマやアニムスが自我に取りつくと、自我を守るペルソナが破壊される危険性があります。アニマに憑かれてエロスに魅入られた男性は、アニマの持つムードに冒され、自分の殻に閉じこもって社会に背を向けることがあります。逆に、アニムスに憑かれてロゴスに支配された女性は、アニムスの持つパワーに振り回され、本末転倒な論理をヒステリックに振りかざして社会に無謀な戦いを挑むことがあります。

 いずれの場合も、その場にふさわしいペルソナ形成が度を越えたアニマとアニムスの介入によって阻まれるため、自我が周囲の環境に適応できなくなったり外界の刺激によって不必要に傷つけられたりします。

 アニマとアニムスは、心の成長と共に四つの段階に従って姿を変え、成熟します。アニマの場合は、生物的な段階、ロマンチックな段階、霊的な段階、叡智の段階があり、アニムスの場合は、力の段階、行為の段階、言葉の段階、意味の段階に分けられます。

 つまりアニマは、最初は暗く性的アピールの強い娼婦のようなイメージとして登場し、次により明るく清純な女優のようなイメージに変化し、さらに性的な雰囲気のない巫女や尼僧のようなイメージになり、そして最後に性を超えた光り輝く女神や観音菩薩のようなイメージに昇華されます。

 一方でアニムスは、まず肉体的に逞しく力強いスポーツマンのようなイメージとして現れ、それからより精神的な行動力のある実業家のようなイメージに変化し、さらに教養のある学者や僧侶のようなイメージになり、やがて超越した神や仙人のようなイメージに到達します。

 また、男性にとってアニマはさまざまに姿を変えながらも永遠の女性として唯一存在します。それに対して、女性にとってアニムスは複数の英雄として現れます。

 アニマとアニムスは現実の恋人や配偶者と同一ではありません。この元型的イメージが現実の異性に投影された結果、全ての恋愛がもたらされるのです。

 また、恋愛関係にある男女のアニマとアニムスは相互的な関係にあります。例えばアニマに憑かれた男性は、同じようにアニムスに憑かれた勝ち気な女性に自分の未熟なアニマのイメージを投影し、彼女に惹かれます。一方でアニムスに憑かれた女性は、同様にアニマに憑かれた弱々しい男性に自分の未熟なアニムスのイメージを投影し、彼をパートナーに選ぶのです。

http://relache.web.fc2.com/report/jung.htm

ユングは恋愛感情や性的欲動も、アニマ・アニムスの元型イメージの投影(projection)によって説明できると考えます。アニマやアニムスは、『意識的な人生の生き方・対社会的(対他者的)な適応的な態度』を補償して、その人に精神的な安定感や幸福感を与えてくれるだけでなく、進むべき人生の進路や選ぶべき選択肢を暗示的に教えてくれる存在でもあるのです。

夢やイメージとして体験されるアニマやアニムスは、自己の性格特徴や行動パターンとは『正反対の特性』を示すことが多いとされています。それは、エナンティオドロミアの補償を行って、『心全体の相補性・全体性』を取り戻させようとする自己から独立した機能と無意識の目的性を持っているからです。

『影(シャドウ)』の元型は、『意識的態度に対する同性像のアンチテーゼ』として心にバランスのとれた全体性を回復させようとしますが、『アニマ・アニムス』の元型は、『意識的態度に対する異性像のアンチテーゼ』として自己に欠如した要素や特徴を補って心の相補性を実現しようとするのです。

影(シャドウ)をイメージで体験しているときには、不快感や抵抗感、否定感情を感じますが、アニマ・アニムスをイメージで体験しているときには、幸福感や恍惚感、肯定感情を感じやすくなるという特徴があります。

影(シャドウ)にせよ、アニマ・アニムスにせよ、物理的現実ではなく心理的現実に属するものですが、多くの場合、それらの元型のイメージが持つ感情や影響力は現実世界を生きる他者に投影されます。嫌悪感を抱いているそりの合わない人物には『影(シャドウ)』が投影されやすく、異性として理想的な魅力や誘惑的な特徴を持っている人物に『アニマ・アニムス』が投影されやすくなります。

内面の変容や経験としては、社会常識や性別役割分担などによって社会的に要請された『男らしい生き方(行動パターン)・女らしい生き方(行動パターン)』への反発や抵抗として、無意識領域に抑圧され排除された『反対の性の表象(アニマ・アニムス)』が立ち上がってくることになります。

http://phenix2772.exblog.jp/9847999/

ダンテの「神曲」におけるベアトリーチェはダンテを神の世界に導きますが、文字通り彼女は彼を「案内」します。

ゲーテの「ファウスト」にも最後の一説に謎めいた言葉


「永遠に女性なる者、我らを牽きて上らしむ」


があり、確か後書きだったと記憶していますが、その著者が心理学に深いらしく「この一文はフロイト心理学と関係がある」ような書き方をしていました。これもユング心理学的に言えばアニマになります。

つまり心の伴侶であるアニマまたはアニムスは、人間の心の変化・成長・革命に関係し、その変化を導く働きがあるのですが、ちなみにニーチェは


「私はゲーテの言う『永遠に女性なるもの』の秘密を暴いた最初の人間かもしれない」


と言っています。さらに

「男性は『永遠の女性』を信じるが、女性については『永遠の男性』を信じているのだ」


と、ユングのアニマ・アニムス論を先取りすることを述べています。


アニマの意味する範疇は広く、秋葉原系アニメの美少女キャラクタも勿論、一つのアニマの現れですが、これは多く恋愛・性欲の対象ですので「低次アニマ」と表現して良い物で、この段階では心の成長に関わる機能は殆ど無いと思います。

これがあるきっかけにより、(私の場合は完全に一種の偶然ですが)自分の心の変容が開始するとともに自分が投影するアニマも成長し、より凛々しく、高貴に、そして恐ろしく厳しく成長します。

非常に高次に達したアニマはギリシアの女神アテナのようになると言われていますが、私の経験から言えば「男性と見まごうごとき勇ましい女性」に進化しました。
簡単に言ってしまえば、自分の自我が成長すると、無意識としての伴侶のアニマも成長し、まるで2人で階段を上って行くように感じます。「神曲」にもこのような表現がありますが、非常に多くの錬金術絵画がそれを描いています。

別の言い方をしますと、最初は可愛らしい愛でるべきアニマ(性欲の対象)であるのですが、次第に本人を「告発するアニマ」となり最後には、アニマ対自我の命を賭けた一騎打ちのような様相になります。

中高校生の時は理解できませんでしたが、プラトンの言葉「エロス(美しい肉体への愛)からフィロソフィア(愛智)へ」にも、おそらくこの意味が含まれているのでしょう。

一部のキリスト教でYHWHの妻をソフィア(智)と呼ぶことがありますが、まさにそのような「智」を愛人とするような状態になり、はっきり言いますが、この段階のアニマは外見が美しくとも性欲の対象として絶対に見ないような「凄まじく厳格な人」のようなものになります。

実際、月と太陽が馬上で一騎打ちするような図や、雄雌のライオンが噛みつき合うような図が錬金術にありますが、正にこのように厳しいものであり、「アニマが勝つか自我が勝つか」という状況になります。

このようなことで抜きつ抜かれつつ精神の階段を上って行き、上り切る時、終に自我は「永遠」と遭遇することになるのですが、これがゲーテの愛した「永遠」でありニーチェの言う「永遠回帰」の根拠になっていると考えています。

ユングはこの「そら恐ろしい宇宙のようなもの」を「自己(セルフ)」と呼びましたが、この時言うならば一種の全能感「宇宙と一体化したような気分」になります。(この時が自我インフレーションの極限状態です。)

ユング心理学ではこの自我インフレーションが極大になった状態を「エナンティオドロミー」と呼びます。

ちなみにニーチェはユングより先にセルフという用語を使用しており、また「ツァラトゥストラ」の中で自己(セルフ)を「偉大なる天体=太陽」に喩えています。

ニーチェの永遠回帰(永劫回帰)は、色々と文章的に小難しく解釈する哲学関係者がいますが私はこれは、一つの精神的変容の究極段階に達した状態と深い関係があるものと考えており、この、まるで時間を静止したような、「永遠(∞)=無(ゼロ)」というべき非常に仏教的境地と関係が深いと思います。

これがニーチェが「西洋の仏陀」と呼ばれる理由なのでしょう。 しかしこれは文章に書いただけでは理解不可能であり、実際に体験しないと分からないのですが、経験してみると正にこのようにしか言えないものです。

http://www.seijin.asia/wps/?p=50


ユングは、

男女・パートナー同士の関係には、二人でなく、四人の関係性があるといっています。
男性の心のなかには「アニマ」といわれる女性像が存在します。

女性の心のなかには「アニムス」という男性像が存在します。

すると、二人の関係性においては、現実の男女関係の他に、このアニマ・アニムス関係があることになるんです。

ここで、大切となってくることは、男性なら、相手のパートナーとの関係に、
自分の中の女性像「アニマ」を多々投影しているのだ、ということに自覚的になる必要があること。

相手に不満を持つ時、あなたはアニマとの関係性を見直す必要があります。
あなたの心が投影しているアニマは、一人の人間としての現実のパートナーとは異なっている、ということに気づくかもしれません。

ここまでくると、パートナー関係に変化があります。
つまり、あなたとパートナーとの関係性(外的)、あなととアニマとの関係性(内的)に分化されるのです。

この内的・外的関係性がごっちゃになってしまうと、自分の内面の異性(アニマ)を常に相手に投影して、現実の相手はその投影に動かされる、悩まされることになってしまうからです。

人間関係はこうした投影をもとに成り立っているともいえます。

しかし、僕らが少しでも自分の内面に意識の光を当てる努力をしていくことで、関係性は変化してきます。より深まります。

男女関係は古来より神秘的なものと考えられてきました。

男女関係は、個人の内面を映し出してくれる鏡です。 恋愛がすごいのは、この二つの異なる存在が出会い、結ばれることにあります。対立物の統合

http://ameblo.jp/mundi/theme-10009990410.html

即ち、ロマンチック・ラブというのは実際の異性を愛するのではなく、自分の心の中に住むアニマ・アニムスを勝手に異性に投影して、その幻覚に執着する倒錯的行為です。

自分のアニマ・アニムスのイメージに近ければ相手は誰でもいいのですね。

まあ、自己愛の変形でしょうか。


太古から全く変わらない心性を持つ日本女性はグレートマザー憑依型の行動様式を取り、魔女狩りで母性的な女性をすべて焼き殺した西欧の女性はアニムス憑依型の行動様式を取ります。

グレートマザーが恋愛する事はありませんから、本来の日本女性は不特定多数の男からの夜這いは受け入れても、西洋的な恋愛はできないんですね。
8:777 :

2024/01/28 (Sun) 14:44:30

アニマを映像化したヒッチコックの名作 めまい (1958):

アニマが出現する場面
https://www.youtube.com/watch?v=8317VVohgMo&t=206s


キム・ノヴァクを象徴する光は、グリーンのセロファンをライトの前に置いた暗い緑色がメインになっているのだが、これは死や墓穴を象徴するカラーであるというのは有名な話だ。

しかし、後半、栗色の髪をしたキム・ノヴァクがホテルのグリーンのネオンに当たると髪が金色に見えるというのはどういうことなのだろうかと考え込まざるを得ない。

ヒッチコックの金髪好きは有名な話であり、この作品でも、ジミー・スチュアートを突き動かす衝動は、ほとんどレストランの赤い壁に映えるキム・ノヴァクの金髪に起因しているわけだが、それはヒッチコックにとって死に至る病だということを証明してみせたのだろうか。

因みに、この場面に始まる、一連のキム・ノヴァクを昔死んだ女そっくりに仕立て上げていくジミー・スチュアートの行動は、屍姦を意味しているのだとヒッチコックは語っている。 ジミー・スチュアートの行動は、まさしく死んだ女を「死者の中から」呼び覚ますものなのだろう。だから、墓穴の緑が失われた女の記憶を呼び覚まし、別の女の髪をブロンドに輝かせるのである。

ジミー・スチュアートはアメリカ人の素朴さを体現する国民的俳優と称せられ、ヒッチコック作品でも『知りすぎていた男』では子供の命を救うために謎と陰謀に立ち向かう理想的な父親像を演じているが、この作品では死体マニアのような妄執にとり憑かれた男であり、『裏窓』では出歯亀のカメラマンに扮して、彼に与えられたイメージを気持ち良く裏切っている。

ドナルド・スポトーは『ヒッチコック--映画と生涯』の中で、ヒッチコック作品におけるスチュアートは、ヒッチコック自身を仮託されているのだと指摘しているが、これはなかなかの卓見だと思う。

この作品におけるマデリーン/ジュディ役は、当初、『間違えられた男』に主演してヒッチコックのお気に入りとなったヴェラ・マイルズが演じるはずだったが、マイルズは妊娠したことを理由に断ってきた。これもスポトーの著書によると、ヒッチコックの欲望に危険を感じたからだとかさまざまな憶測がなされている。

この頃、ヒッチコックはやたらと女優にしっぺ返しを喰らっているのは事実であり、オードリー・ヘップバーンは『判事に保釈はない』の主演を撮影直前に断ってきてこの作品を頓挫させているし、キム・ノヴァクも『めまい』の撮影中はヒッチコックとの対立が絶えなかったという。

こうしたことがトラウマとなって、『北北西に進路を取れ』では女性とは信用できない存在であるというように描き、『サイコ』ではジャネット・リーとヴェラ・マイルズをさんざんな目に合わせると共に息子を束縛する恐怖の象徴である母親を登場させるに至った。『間違えられた男』と『サイコ』でヴェラ・マイルズの扱い方が全然違ってしまったことに対するヒッチコックの精神的変貌を見る上で、この『めまい』は重要な作品であるだろう。

この作品からタイトル・デザインにソール・バスが加わり、次の『北北西』で脚本のアーネスト・レーマンが参加したことにより、ヒッチコック・ファミリーとでも呼ぶべきものが確立した。さまざまなプレッシャーやゴシップのネタがつきまとい、スポトーの著書から受けるイメージからは異常者ではないかとさえ思えてくるこの時期のヒッチコックではあるが、それでもなおそうしたスキャンダルを払拭してあまりあるほど彼を偉大たらしめているのは、彼がそうした要因をすべて作品に転化してしまうパワーを持っていたからである。

『めまい』『北北西』『サイコ』『鳥』と、ヒッチコック生涯最大の名作がこの時期に集中しているところを見ると、どんな逆境にも負けない強さが、まさしくヒッチコックの天才の原動力であったということに気づく。

そういう意味で『めまい』は、作品の性格とは裏腹に生きる強さとしたたかさを与えてくれる映画であり、最大限の賛辞を持って称されるべき名作である。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/vertigo.htm


ヒッチコックは完全に倒錯していますね。 こういうのが欧米人に特有な情動なのです。

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映画でアニマが現れる場面で奏されているのはワーグナーのトリスタンとイゾルデ:


男女の愛の物語、つまりロマンチック・ラブ・ストーリーは、12世紀の騎士と貴婦人を主人公にした宮廷風恋愛叙事詩にはじまったものといわれています。また、西洋文学の中でロマンチック・ラブを扱った最初の物語は、「トリスタン・イズー物語」であるともいわれています。


ロマンチック・ラブは結婚の枠の外にあり、それは極めて霊的な関係であったのだ。(略)そのようなラブが結婚と結びついてくるのは、西洋人が教会のもつ宗教的な力から離れてゆくことと関連している(略)。

 本来なら宗教的経験としてもつべきことを、公式の宗教に魅力を感じなくなったために、日常生活の中での恋愛に求める。その動機は素晴らしいが、そこで途方もない聖と俗の混交が生じてしまう。

 ロマンチック・ラブの象徴的意義を認めて、象徴的実現をはかるのではなく、無意識に現実化しようとすると、欧米においては、男性は家父長的地位を守ったままで、たましいの像としてのアニマの役割を、女性がそのまま背負うことを要求する。
それは、女性を尊重しているように見えながら、途方もない押しつけによって、女性の自由を奪っていることにもなるのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)

アニマはしばしば現実の女性に投影され、そのときには烈しい恋愛感情がはたらくことをユングは指摘しているが、その際は、その女性はアニマイメージのキャリアーなのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)

http://homepage1.nifty.com/risako/report/yaoi2.htm


めまい(1958/米/パラマウント) VERTIGO

製作・監督=アルフレッド・ヒッチコック(※製作ではノンクレジット) 
原作=ピエール・ボワロー、トーマス・ナルスジャック(『死者の中から』) 

出演=ジェームス・スチュアート(ジョン・“スコッティ”・ファーガソン) 
キム・ノヴァク(マデリーン・エルスター/ジュディ・バートン)

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%84-DVD-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B000BIX8E6/ref=pd_rhf_p_t_2


Vertigo (1958) - Movie - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL518C3FE4926104E6


「スコティ」ことジョン・ファーガソン刑事は、犯人を追う途中に同僚を死なせてしまったショックで、高所恐怖症によるめまいに襲われるようになり、警察を辞めてしまう。そこへ学生時代の友人エルスターが現れて、何かにつかれたかのように不審な行動する妻マデリンを調査してほしいという。

スコティはマデリンを尾行するうちに、彼女の先祖であり過去に不遇の死を遂げた人物、カルロッタの存在を知る。カルロッタは、髪型から首飾りまでマデリンそっくりであり、後にスコティはエルスターに、マデリンはカルロッタの亡霊に取り付かれていると聞かされる。尾行を続けていると彼女は突然海に飛び込み投身自殺を図る。そこを救い出したスコティは初めて彼女と知り合うことになり、やがて二人は恋へと落ちていく。

スコティは彼女を救おうと思い、マデリンが夢で見たスペイン風の村へ向かうが、マデリンはカルロッタの自殺した教会へと走っていく。スコティは追いかけるが高所恐怖症によるめまいのために追いつくことが出来ず、マデリンは鐘楼の頂上から飛び降りてしまう。

マデリンの転落は事故と処理され、エルスターは彼を慰めながら自分はヨーロッパへ行くと告げる。自責の念から精神衰弱へと陥り、マデリンの影を追いかけ続けるスコティはある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見する。

追いかけると、彼女はかつてマデリンの通っていたカルロッタの旧居のアパートに住むジュディという女だという。スコットはジュディとデートの約束を取り付けるが、ジュディは自責の念にかられる。知らないフリをしてはいるが、スコティに「マデリン」として会っていたのは誰でもない彼女自身だったからだ。高所恐怖症のスコティを利用して、エルスターの妻殺しという完全犯罪に加担していたのである。

ジュディはスコティの狂気じみた要望に素直に応え、洋服、髪型、なにもかもをマデリンと同じにし、死んだはずの「マデリン」へと次第に変貌していく。

ジュディとスコティはいびつな愛を育もうとするが、ある時二人でデートにいく際、その愛は破綻を迎える。ジュディのたのみでスコティが首にかけようとしたネックレスは、マデリンがカルロッタのものとして身に付けていたネックレスそのものだった。真相がはっきりと見えてしまったスコティはジュディを、マデリンが転落した教会へと連れて行き彼女を問い詰める。高所恐怖症も忘れ、鐘楼の頂上でジュディに迫るスコティ。しかし、そのとき暗がりから突然現れた影におびえたジュディは、バランスを崩してマデリンと同じように転落する。絹を裂くような悲鳴。

スコティは、呆然としてその鐘の音を聞いているばかりだった。


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ヒッチコックはこの作品をゴシック・ホラーに仕立て上げようと、19世紀の風景が数多く残るサンフランシスコに舞台を設定した。ジミー・スチュアートがキム・ノヴァクを尾行する前半部分がロジャー・コーマンなどの恐怖映画における導入部分を思わせるのはそのためで、『レベッカ』における開かずの間を配したマンダレー屋敷をそのまま一つの街にスケールアップしようとした気配が感じられる。

この作品を支配しているのは、光のコントロールだ。

幻想シーンを除くとほとんど影らしい影のないこの映画においては、光が当たっているか当たっていないかのいずれかで画面設計がなされている。

書店主のポップ・リーベルがカルロッタ・バルデスの伝説を語る場面では、雨雲が近づいていることを表現するために照明をどんどん落としていくという古典的な手法を敢えて使っていて、この場面も、重要なのは「暗くなること」でなくて「光が消え去っていくこと」と考えると納得がいく。

この映画は、平凡で先の見える人生を送っていたジミー・スチュアートの刑事が、ある日突然妖しい光彩を放つ女性に出会い、その光が失われることに神経質になっていく作品なのだから、光のコントロールは見事に作品の性格を表現していて完璧である。

キム・ノヴァクを象徴する光は、グリーンのセロファンをライトの前に置いた暗い緑色がメインになっているのだが、これは死や墓穴を象徴するカラーであるというのは有名な話だ。

この場面に始まる、一連のキム・ノヴァクを昔死んだ女そっくりに仕立て上げていくジミー・スチュアートの行動は、屍姦を意味しているのだとヒッチコックは語っている。

ジミー・スチュアートの行動は、まさしく死んだ女を「死者の中から」呼び覚ますものなのだろう。だから、墓穴の緑が失われた女の記憶を呼び覚まし、別の女の髪をブロンドに輝かせるのである。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/vertigo.htm

本作に対しては一つの大きな疑問が提起されているのです。それはこの映画の後半部全体が、主人公スコティの夢の中の出来事ではないかというものです。


<一年後・・・?>

 精神病院のシーンを最後に前半部が終了し、後半部の展開がサンフランシスコの大パノラマで幕を開ける時、その俯瞰の映像には、普通なら映し出されるであろう「数ヶ月後」、もしくは「数年後」を表すテロップが表示されないのです。(およそ三十分後に発せられるスコティの台詞から推測するに、正確には「一年後」だと思われます。)

 これはその直前のシーンにおいて、「彼はどのくらいで治るでしょうか?」と問うミッジに対する、医師の「数ヶ月か、もしくは数年か、全く見当が付かない」という返答が説明になっていると考えて、安易なテロップを省略したのだと解釈する事も出来るのですが、もう一つの疑問の方は、そう簡単には片付きません。


<ミッジの不在>

 スコティの事を気遣い、あんなにも親身に接していたミッジを演じるバーバラ・ベル・ゲデスが、後半部からは全く登場しなくなってしまうのです。
 スコティとミッジが以前に婚約していたという事実も語られていますが、ミッジが今でも彼を愛している事は一目瞭然です。観客は彼女の嫉妬に狂う様子さえ目にする事が出来ます。彼が入院している病院にも足繁く通うミッジ。そんな彼女がスコティの事を見捨てて、突然どこかに消えてしまうものでしょうか?

 実はこの疑問に対する答えは、ミッジ自身の口から語られていました。病室において、放心して椅子に腰掛けているスコティに向かって彼女は言います。

「私がここに居る事も分からないのね」

 そう、スコティの世界からはミッジは居なくなってしまっていたのです。

彼の「世界」の中には、巨大な「マデリン」という存在があるのみです。ミッジはその「存在」ではなく、彼女自身の「不在」を強調するために、映画の前半部おいて、あんなにも観客に印象付けられていたのです。そして、その不在がほのめかすものは、上記した「夢説」に他ならないのです。

 おお、なんという巧みな脚本でしょうか! そしてなんという悲しい物語でしょうか! ミッジは居なくなったのではありません。今でも変わらずスコティの病室を見舞っているのです。

 そう考えると、後半部の始まりにテロップが表示されなかった事にも合点がいきます。あれは「数ヶ月後」でも「数年後」の出来事でもないのです。映画はあの画面の暗転を境に、スコティの夢の世界に突入したのです。


 大パノラマ直後のスコティの登場場面のカッテイングにも違和感を覚えたものですが、あれも夢の感覚の表現だと考えれば納得がいきます。

 普通ならこうした「場所の移動」を行った場合には、車から降りる映像やバス停の前を歩いている映像などから始めて、「到着」の感覚を表現するものです。しかし、本作ではカメラが上から下に振られると、スコティがその場に立ち尽くしていて、まるで彼が街の中に忽然と出現したかのように感じられるのです。彼はあの瞬間、夢の世界に足を踏み入れたに違いありません。

<夢と贖罪>

 愛する人を見殺しにしてしまったという罪の意識に苛まれ、現実を受容できなくなったスコティは、その夢の中で、不幸な現実を犯罪物語に仕立てて自らを贖罪すると同時に、マデリンの死を否定するのです。

 でも、本当は彼にも分かっているんです。もう彼女が戻らないという事が。それ故に、最後には、自らが作り出した「マデリン」のイメージを、彼は破壊してしまうのです。

 ラスト、高所恐怖症を克服したスコティは塔の上からマデリンの死体を見下ろしています。彼が克服しようとしたのは高所恐怖症などではなく、「マデリンの死」だったのです。

http://www.h7.dion.ne.jp/~eiga-kan/Vertigo.htm

 


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/,仆 >'   /    { /´,.ノ__   `ヽ、 }
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  ,!:..     ',  / li レ' ノ‐- ニ=      \/
. ヽ   __ ,.ソ´   i! =ニ ヽ、    ヽ、     ヽ
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