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日本の文学

1:777 :

2024/01/16 (Tue) 10:47:35

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日本の文学


日本文学史を年表でまとめ!作家・代表作で一気に振り返る【奈良時代から平成まで】|ジュウ・ショ(アートライター・カルチャーライター)
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日本の上代文学(奈良時代までの日本文学)
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日本の中古文学(平安時代の日本文学)
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日本の中世文学(鎌倉時代から安土桃山時代までの日本文学)
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日本の近世文学(江戸時代の日本文学)
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日本の近現代文学(近代(戦前と戦後の日本文学)
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古典の改め:Bible Be Available (Revival)
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 原初の古典の原典を読解し、大意の把握、更なる理解を開拓する。
 古典の象徴作品を通し、古今を通じ色あせない古歌の実質を知る。 

 竹取物語、伊勢物語、いろは歌、源氏物語、百人一首、古今集、万葉集、古事記を収録。これを古い聖書読解の布石にする(宗教とは無関係)。 

 その他、大和物語、土佐日記、蜻蛉日記、枕草子、和泉式部日記、紫式部日記、紫式部集、更級日記、宇治拾遺物語、平家物語、徒然草、奥の細道。 


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インターネットの電子図書館、青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/

 青空文庫は、誰にでもアクセスできる自由な電子本を、図書館のようにインターネット上に集めようとする活動です。
 著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを、テキストとXHTML(一部はHTML)形式に電子化した上で揃えています。


作家別 インターネットの電子図書館、青空文庫
http://www.asyura2.com/20/reki5/index.html

日本の文学 - 中川隆 2020/12/27 13:12:09 (コメント数:5)
神西清 翻訳集 - 中川隆 2021/7/26 04:03:32
米川正夫 翻訳集 - 中川隆 2021/7/26 04:05:25
折口信夫 死者の書・民俗学論集 - 中川隆 2021/7/25 19:31:39
南方熊楠 民俗学論集 - 中川隆 2021/7/26 03:51:32
柳田国男 民俗学論集 - 中川隆 2021/7/25 19:33:18
高村光太郎 智恵子抄 - 中川隆 2021/7/25 18:38:03 (コメント数:1)
堀 辰雄 作品集 - 中川隆 2021/7/25 18:33:24
林 芙美子 放浪記 - 中川隆 2021/7/25 16:02:15 (コメント数:1)
太宰治 小説集 - 中川隆 2021/7/25 11:48:41
谷崎潤一郎 小説集 - 中川隆 2021/7/25 11:44:39
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)怪談集 - 中川隆 2021/7/25 10:24:54
三遊亭円朝 作品集 - 中川隆 2021/7/25 20:00:34
泉鏡花 小説集 - 中川隆 2021/7/25 10:14:35 (コメント数:1)
永井荷風 作品集 - 中川隆 2021/7/26 03:48:17
中原中也 在りし日の歌・山羊の歌 - 中川隆 2021/7/25 09:56:14 (コメント数:1)
三好達治 作品集 - 中川隆 2021/7/27 08:32:53
石川啄木 一握の砂・悲しき玩具 - 中川隆 2021/7/25 09:48:58 (コメント数:1)
与謝野晶子 作品集 - 中川隆 2021/7/26 03:41:51
萩原朔太郎 詩集 - 中川隆 2021/7/26 03:23:31
北原白秋 詩集 - 中川隆 2021/7/25 18:30:53
宮沢賢治童話集 - 中川隆 2021/7/25 09:31:15
山頭火 作品集 - 中川隆 2021/7/27 08:36:58
正岡子規 作品集 - 中川隆 2021/7/27 08:30:22
知里幸惠編訳 アイヌ神謡集 - 中川隆 2021/7/26 03:54:43
樋口一葉 作品集 - 中川隆 2021/7/26 03:50:09
芥川竜之介 作品集 - 中川隆 2021/7/25 20:20:04
島崎藤村 作品集 - 中川隆 2021/7/25 20:14:26
夏目漱石 作品集 - 中川隆 2021/7/25 19:56:06
森 鴎外 作品集 - 中川隆 2021/7/25 19:48:13
二葉亭 四迷 作品集 - 中川隆 2021/7/25 19:19:52
三木 清 著作集 - 中川隆 2021/7/27 08:46:06
西田幾多郎 著作集 - 中川隆 2021/7/27 08:42:43
和辻哲郎 著作集 - 中川隆 2021/7/27 08:40:56
鈴木大拙 作品集 - 中川隆 2021/7/27 08:39:19
河口慧海 チベット旅行記 - 中川隆 2021/7/26 05:32:31
大杉栄 作品集 - 中川隆 2021/7/26 04:46:49
幸徳秋水 作品集 - 中川隆 2021/7/26 05:40:44
福沢諭吉 作品集 - 中川隆 2021/7/26 04:41:47
魯迅 作品集 - 中川隆 2021/7/26 04:14:50
松尾芭蕉 おくのほそ道 - 中川隆 2021/7/25 09:19:40 (コメント数:1)
近松門左衛門 浄瑠璃集 - 中川隆 2021/7/26 10:25:56 (コメント数:1)
説経節 - 中川隆 2021/7/25 12:34:25
雨月物語 - 中川隆 2021/7/25 11:31:40
世阿弥の能 - 中川隆 2021/7/25 09:07:12 (コメント数:1)
源氏物語 - 中川隆 2021/7/25 08:52:42 (コメント数:2)
清少納言 枕草子 - 中川隆 2021/7/26 10:57:54 (コメント数:1)
蜻蛉日記 - 中川隆 2021/7/26 10:42:17
更級日記 - 中川隆 2021/7/26 11:05:45
とはずがたり - 中川隆 2021/7/26 10:14:57
和泉式部日記 - 中川隆 2021/7/26 09:30:33 (コメント数:1)
平家物語 - 中川隆 2021/7/26 11:32:10 (コメント数:1)
方丈記 - 中川隆 2021/7/26 11:19:42
白楽天 長恨歌(ちょうごんか)とわのかなしみのうた - 中川隆 2021/7/26 10:47:16
新古今和歌集 - 中川隆 2021/7/25 08:46:43
小倉百人一首 - 中川隆 2021/7/26 11:21:41
古今和歌集 - 中川隆 2021/7/25 08:34:55
伊勢物語 - 中川隆 2021/7/25 08:10:11 (コメント数:1)
訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による― - 中川隆 2021/7/25 08:00:27 (コメント数:1)
柿本人麻呂が詠んだ歌 - 中川隆 2021/7/25 12:41:10
古事記 - 中川隆 2021/7/25 07:53:29 (コメント数:1)


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「ダメダメ家庭の目次録」_ 教育・文学に関する最も優れた評論集

ダメダメ家庭の目次録
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壺齋散人 日本語と日本文化
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 日本神話:記紀の世界
  -古事記、日本書紀を題材にして、日本神話を読み解く

 日本の昔話 
  ー鬼の話

 説話・語り物の世界

  -今昔物語集を読む
  ー平家物語の世界
  -太平記の世界

 日本の民衆芸能
  ー説教の世界
  -幸若舞の世界

 浄瑠璃の世界

  -古浄瑠璃
  ー近松門左衛門の世界

 能楽の世界:能、狂言、謡曲

 古典を読む

  -堤中納言物語
  -方丈記  
  ー西行を読む
  ー雨月物語
  -伊勢物語

 日本民俗史

  ー日本の埋葬文化
  -日本人の性愛、婚姻、家族のあり方
  -日本の食文化
  -日本の居住文化

 民俗学的思考

  ー柳田国男の方法
  -折口信夫の思想
  ー南方熊楠の世界

 仏教と日本人

   ー仏教入門
   ー仏教の思想
   ー仏教経典の研究:お経を読む
   ー論の解説
   ー日蓮を読む
   ー鈴木大拙の仏教思想
   ー正法眼蔵読解

 日本文学覚書

   ー大田南畝
   ー成島柳北
   ー森鴎外
   ー夏目漱石
   ー正岡子規
   ー徳田秋声
   ー永井荷風
   ー谷崎潤一郎
   ー宮沢賢治
   ー草野心平
   ー川端康成
   ー井上靖
   ー大岡昇平
   ー第三の新人
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   ー瀬戸内晴美
   ー大江健三郎
   ー村上春樹
   ー高樹のぶ子
   ー桐野夏生
   ー多和田葉子
   ー小川洋子
   ー日本文学覚書補遺

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壺齋散人

今昔物語集を読む:現代語訳と解説
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絵巻物で読む伊勢物語:現代語訳と解説
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西行を読む:現代語訳と解説
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堤中納言物語:現代語訳と解説
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方丈記:現代語訳と解説
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雨月物語を読む:現代語訳と解説
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壺齋散人 万葉集を読む
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壺齋散人 世阿弥「風姿花伝」を読む
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世阿弥の能
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能の世界
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壺齋散人 宮沢賢治の世界:作品の魅力を読み解く
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壺齋散人 村上春樹を読む
https://murakami-haruki.hix05.com/


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梅原 猛 うめはら たけし(宮城県 仙台市 1925年 3月20日 - 2019年1月12日)
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梅原猛 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B


梅原日本学
1965年、仏像案内のテレビ番組の司会をし、これを本にした『仏像-心とかたち』を佐和隆研、望月信成との共著で刊行、毎日出版文化賞を受賞。
1967年、中公新書から『地獄の思想』を刊行し、古代から宮澤賢治、太宰治に至る記述を行い、ベストセラーとなる。
その後、日本仏教の研究を行い、釈迦からインド仏教・中国仏教を経て鎌倉新仏教までを述べる長編の仏教史『仏教の思想』(共著)を著した。

さらに、多くの対談等の本、『美と宗教の発見』等の論文集刊行の後、創刊された文芸雑誌『すばる』を舞台に、古代史に関する研究的評論の連載を始める。該博な知識による大胆な仮説により、「梅原古代学」「梅原日本学」「怨霊史観」と言われる独特の歴史研究書を多数著している。



『仏像-心とかたち』 望月 信成 (著), 佐和 隆研 (著), 梅原 猛 (著) 1965年
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E5%83%8F-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E2%80%95%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-No-1250/dp/4140912502


神々の流竄
https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90-%E6%96%87%E5%BA%AB%E7%89%88-%E5%85%A84%E5%B7%BB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F/dp/4087459640/ref=sr_1_8?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-8


『地獄の思想』(中公新書、1967年)のち文庫
https://www.amazon.co.jp/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%B3%BB%E8%AD%9C-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B-ebook/dp/B00G44VKFK/ref=sr_1_4?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-4
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『仏教の思想』(角川書店、1980年)
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3+%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%96%87%E5%BA%AB&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=17HRDPVI9SHI5&sprefix=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3+%2Caps%2C230&ref=nb_sb_noss_2


『「歎異抄」と本願寺教団』(小学館 1984年)
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歎異抄
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『誤解された歎異抄』(光文社・カッパ・ホームス、1990年)
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『梅原猛の『歎異抄』入門』(プレジデント社、1993年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B%E3%81%AE%E3%80%8E%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84%E3%80%8F%E5%85%A5%E9%96%80-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/456963267X/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3R4D4PIFWP5LE&keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84&qid=1706241439&sprefix=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84%2Caps%2C244&sr=8-2


『美と宗教の発見』(筑摩書房、論文集、1967年)
https://www.amazon.co.jp/%E7%BE%8E%E3%81%A8%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B-%E5%89%B5%E9%80%A0%E7%9A%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E8%AB%96-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B-ebook/dp/B07SDQ375T/ref=sr_1_23?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-23


『塔』(集英社、1976年)
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『隠された十字架 法隆寺論』(新潮社、1972年)
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『古典の発見』(講談社、1973年)
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『水底の歌 柿本人麿論』(新潮社、1973年)
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『黄泉の王 私見・高松塚』(新潮社、1973年)
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『さまよえる歌集』(集英社、1974年)
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『飛鳥とは何か』(集英社文庫 1986年)
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『歌の復籍』(集英社、1979年)
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『聖徳太子』(小学館、1980年 - 1985年)
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『日本の深層――縄文・蝦夷文化を探る』(佼成出版社、1983年、新版、1985年)
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『写楽仮名の悲劇』(1987年、新潮社)
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『最澄瞑想』(佼成出版社、1987年)
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『赤人の諦観』(集英社文庫 1987年)
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『日本冒険』全3巻(角川書店、1988年 - 1989年)

日本冒険〈第1巻〉異界の旅へ
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日本冒険〈第2巻〉太陽の輪廻
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日本冒険〈第3巻〉予言者の翼
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『日本の原郷熊野』(新潮社・とんぼの本、1990年)
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人間の美術〈1〉縄文の神秘
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人間の美術〈4〉平城の爛熟
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『人間の美術7――バサラと幽玄』(学習研究社 1991年)
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『人間の美術 10――浮世と情念』(学習研究社、1990年)
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『海人と天皇』(朝日新聞社、1991年)
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『京都発見』全9巻(新潮社、1997年 - 2007年)
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『法然の哀しみ』 梅原猛著作集第10巻、小学館、2000年
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『浄土仏教の思想〈巻8巻〉法然』(講談社 2000年)
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『天皇家の"ふるさと"日向をゆく』(新潮社、2000年)
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『古事記』(学研M文庫、2001年)
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『葬られた王朝――古代出雲の謎を解く』(2010年、新潮社)のち文庫(2012年)
https://www.amazon.co.jp/%E8%91%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E2%80%95%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4101244146/ref=sr_1_6?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-6
2:777 :

2024/01/16 (Tue) 10:53:46

文学作品の映画化作品

溝口健二 雨月物語 (大映 1953年)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004612

黒澤明 羅生門 (大映 1950年)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004611

テレビドラマ 早勢美里 木村拓哉『伊豆の踊子』TX 1993年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004906

川端康成「雪国」の世界
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009970
3:777 :

2024/01/16 (Tue) 12:54:35

4:777 :

2024/01/24 (Wed) 19:28:39

日本の文学者とその代表作(生年順) _ 生年:574年 -


飛鳥時代の文書


聖徳太子 しょうとくたいし (574年2月7日 - 622年4月8日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16836830


聖徳太子シンポジウム─聖徳太子信仰と伝承─(パネルディスカッション) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GhIpUK_y6Dk

聖徳太子没後1400年フィナーレイベント (基調講演 2月19日) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=iApR0B9V8mQ

聖徳太子 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90


聖徳太子は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努めた。

604年 聖徳太子(厩戸皇子) 「十七条憲法」 衆議主義の政治思想
615年頃 聖徳太子(厩戸皇子) 『三経義疏』 日本最古の仏典解注釈書
620年頃 蘇我馬子、聖徳太子 『天皇記』『国記』 日本最古の史書


十七条憲法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

十七条憲法 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

十七条憲法(原文・現代語訳・解説・英訳)
http://www10.plala.or.jp/elf_/kenpou/2-1.html



三経義疏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F


こーぼーくん【哲学系】 三経義疏 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL-tDklNSUFrixnTVxbdLRz604abgc_z-3

三経義疏 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F


壺齋散人 勝鬘経を読む
https://japanese.hix05.com/buddhism3/shoman01.html


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梅原猛の聖徳太子・法隆寺論

梅原 猛 うめはら たけし(宮城県 仙台市 1925年 3月20日 - 2019年1月12日)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837060


『塔』(集英社、1976年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%81-l1116293856-%E3%80%8E%E5%A1%94%E3%80%8F%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B/dp/B0CPWQBJWN/ref=sr_1_37?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-37

『隠された十字架 法隆寺論』(新潮社、1972年)
https://www.amazon.co.jp/%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6%E2%80%95%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E8%AB%96-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4101244014/ref=sr_1_7?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-7

『聖徳太子』(小学館、1980年 - 1985年)
https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90-%E6%96%87%E5%BA%AB%E7%89%88-%E5%85%A84%E5%B7%BB%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F/dp/4087459640/ref=sr_1_8?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-8



梅原猛 隠された十字架
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6

『隠された十字架』は、哲学者・梅原猛が著した評論。副題に「法隆寺論」とあるように、法隆寺に関して論じている。雑誌『すばる』(当時は季刊誌)に3回にわたって連載され、1972年(昭和47年)5月に新潮社から単行本が出版された。

法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたと主張する。その大胆な仮説に説得力を持たせるため、様々な古典や史料、論考などを論拠として提示する。

梅原猛は「たたりの条件」として、

個人で神々に祀られるのは、一般に政治的敗者が多い。
且つそのとき、彼らは無罪にして殺害されたものである。
罪無くして殺害された者が、病気や天災・飢饉によって時の支配者を苦しめる。
時の権力者はその祟りを鎮め自己の政権を安泰にする為に、祟りの霊を手厚く葬る。
それとともに、祟りの神の徳を褒め讃え、良き名をその霊に追贈する。

といった公式を与え、聖徳太子がこの条件を満たしているとする。その上で、法隆寺の建造目的が聖徳太子の怨霊鎮魂のためであるとする可能性について論を展開していく。

梅原猛の法隆寺論においてもう一つ着目すべき特徴は、蘇我氏を排して政治的実権を握った藤原氏が歴史を掌ったとし、『日本書紀』の実質的な著者が藤原不比等(不比等は史人に通ずるとする)と論じている所と言える。

常識や通念に捉われない大胆な仮説と、詳細な資料による長大な論証・考察は多くの学者を驚かせ、1972年に第26回毎日出版文化賞を受賞した。作家・秦恒平はそのサスペンスのようなドラマティカルな構成に「猛然文学」・「非小説」と綽名を付けた。また考古学者ではない一哲学者の論考が、かなりの専門的な歴史的・考古学的知識を有していたという点も読者を驚嘆させた。

一方で考古学・歴史学の立場からは、坂本太郎の「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』第300号)を皮切りとして、厳しい批判や反論が出されている。

謎の多い法隆寺における建造目的についての論は今日においても様々な議論が交わされており、完全な論証はそれを確実に裏付ける文献が発見されない限り、推測の域に留まるというのが目下の現状である。
5:777 :

2024/01/24 (Wed) 19:59:33

奈良時代の歴史書


古事記 (712年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
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古事記・まんが日本昔ばなし - YouTube
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古事記全文ゆっくり解説 - YouTube
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古事記 - YouTube
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古事記 原文対訳 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98/

古事記(現代語訳・口語訳の全文)
https://nihonsinwa.com/column/novel/22.html

古事記(原文)
http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html  

校註 古事記
稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉注釈校訂
https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51731_50813.html

現代語譯 古事記
稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html

壺齋散人 日本神話の世界:記紀(古事記・日本書紀)を読み解く
https://japanese.hix05.com/Myth/myth.index.html
 


古事記(こじき)は、日本の日本神話を含む歴史書。現存する日本最古の書物である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇の記事である。

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた[1]。その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させた。

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。


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日本書紀(720年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16836981


日本書紀講座 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLGqoPsu9icDZFwbDTGazIfgej6MU75_Nb

ねずさんと学ぶ「今こそ!日本書紀」 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLGqoPsu9icDZF67Jvow41sp02e4WU2da2

日本書記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E8%A8%98


日本書紀(現代語訳・口語訳の全文)
https://nihonsinwa.com/column/poya/2

壺齋散人 日本神話の世界:記紀(古事記・日本書紀)を読み解く
https://japanese.hix05.com/Myth/myth.index.html


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先代旧事本紀 (807年 - 868年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16836844


先代旧事本紀 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80


【先代旧事本紀】現代語訳
https://mononobe-muraji.blogspot.com/2021/11/kujihongi-toc.html


『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)あるいは『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。

全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明だが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。

蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証された。

『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。


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斎部 広成 いんべ の ひろなり(京都 平安時代初期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E9%83%A8%E5%BA%83%E6%88%90
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16836977


古語拾遺(807年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E6%8B%BE%E9%81%BA


古語拾遺 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E6%8B%BE%E9%81%BA


古語拾遺(現代語訳)
https://nihonsinwa.com/column/novel/72.html


『古語拾遺』(こごしゅうい)は、平安時代の神道資料。官人・斎部広成が大同2年(807年)に編纂。全1巻。

内容


本文
神代古伝承
神武天皇以降の古伝承
古伝承に抜けた11カ条
御歳神祭祀の古伝承



天地開闢から天平年間(729年 - 749年)までが記されている。『古事記』や『日本書紀』などの史書にはみられない斎部氏に伝わる伝承も取り入れられている。

斎部氏は天太玉命の子孫とされていることから、天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記されている。造化三神については『古事記』と共通するものの、神名については全て『日本書紀』に沿っている。

記紀と比して重要性は薄いとされてきたが、現在では再評価されつつある。昭和天皇の大典の際に外国人として唯一建礼門の前に立つことを許可された神道学者のリチャード・ボンソンビー=フェインは記紀よりも重視している。


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大神神社のオオタタネコのミコトが記したとされる『ホツマツタヱ』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16836983

ホツマツタヱ - YouTube
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大神神社の初代神主のオオタタネコのミコトが記したとされる『ホツマツタヱ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139992

縄文ホツマツタヱの旅【CGSいときょう】 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6mu43UnNThDc4VEosKvKotu3XFXaOZD9

もぎせかチャンネル ほつまの世界 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%82%E3%81%8E%E3%81%9B%E3%81%8B%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB+++%E3%81%BB%E3%81%A4%E3%81%BE%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C

もぎせかチャンネル いときょう先生のホツマを学ぶ - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%82%E3%81%8E%E3%81%9B%E3%81%8B%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB+++%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%AE%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B6


『古事記』との決定的な違い/ほつまの世界02
https://www.youtube.com/watch?v=0NZVs4WJlaM

文字の謎、君が代の本歌/ほつまの世界03
https://www.youtube.com/watch?v=MW5tjux2OE8&t=1203s

古事記・日本書紀の謎に答える!/ほつまの世界04
https://www.youtube.com/watch?v=E8ot1N4iqVQ

神代七代からアマテルまで/いときょう先生にホツマを学ぶ02
https://www.youtube.com/watch?v=sYztPNa1nqw&t=556s

天孫降臨から神武東征まで/いときょう先生にホツマを学ぶ03
https://www.youtube.com/watch?v=RLfW7nf06T0&t=238s

欠史八代〜崇神天皇/いときょう先生にホツマを学ぶ04
https://www.youtube.com/watch?v=UoR4cxLF37o&t=115s



6:777 :

2024/01/26 (Fri) 12:51:00

風土記 (713年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98
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まんが 風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLdcG6vSyd7z8dLgcjHEHnJxCzVVF43Q55

風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98


奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日、先発グレゴリオ暦6月3日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。

国郡郷の名(好字を用いて)
産物
土地の肥沃の状態
地名の起源
伝えられている旧聞異事

現存するものは全て写本で、

『出雲国風土記』がほぼ完本

『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態で残る。

その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用されるのみである。


風土記現代語訳まとめ
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/fudoki-matome.html


『出雲国風土記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

出雲国風土記・現代語訳
https://izumonokunifudoki.blogspot.com/

出雲国風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

ここまでわかった『出雲国風土記』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4GYUnH6pvx0&list=PLNWz7rg-A99GZSgg8bC5lVONmbnoTWFRN&index=8&t=16s

【講座】風土記が拓く出雲の古代史 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Uo3dhIKbasA&list=PLNWz7rg-A99GZSgg8bC5lVONmbnoTWFRN&index=10


『播磨国風土記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

播磨国風土記の現代語訳
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/01/harimanokuni-fudoki.html

播磨国風土記の現代語訳|パーネ・メローネ
https://note.com/pane_melone/n/nce8c0a736c79
https://note.com/pane_melone/n/n2242092dca4b
https://note.com/pane_melone/n/nac19e21883b6

播磨国風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%92%AD%E7%A3%A8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98



『肥前国風土記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

肥前国風土記 現代語訳-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2020/12/hizennokuni-fudoki.html

肥前国風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%82%A5%E5%89%8D%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98



『常陸国風土記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

常陸国風土記 現代語訳-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2020/12/hitachinokuni-fudoki.html

口訳・常陸国風土記
https://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm

常陸国風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98



『豊後国風土記』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

豊後国風土記 現代語訳-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2020/12/bungonokuni-fudoki.html

豊後国風土記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98


風土記逸文 現代語訳(畿内編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/01/fudoki-itsubun-kinai.html

風土記逸文 現代語訳(東海道編)
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/01/fudoki-itsubun-toukaidou.html

風土記逸文 現代語訳(東山道編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/01/fudoki-itsubun-touzandou.html

風土記逸文 現代語訳(北陸道編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/01/fudoki-itsubun-hokurikudou.html

風土記逸文 現代語訳(山陰道編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/fudoki-itsubun-sanindou.html

風土記逸文 現代語訳(山陽道編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/fudoki-itsubun-sanyoudou.html

風土記逸文 現代語訳(南海道編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/fudoki-itsubun-nankaidou.html

風土記逸文 現代語訳(西海道編)-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/fudoki-itsubun-saikaidou.html

丹後国風土記 残欠 現代語訳-人文研究見聞録
https://cultural-experience.blogspot.com/2021/02/tangonokuni-fudoki-zanketsu.html
7:777 :

2024/01/26 (Fri) 23:58:00

奈良時代の漢詩集


懐風藻(751年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E9%A2%A8%E8%97%BB
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懐風藻 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%87%90%E9%A2%A8%E8%97%BB


『懐風藻』は日本最古の漢詩集、近江朝から奈良時代中期までの漢詩120首が収録される。
撰者不明の序文によれば、751年12月10日 - 752年1月8日 のどこかに完成。

奈良時代、天平勝宝3年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、また他に石上宅嗣、藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。

近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。五言がほとんどであり、七言はわずか7首である。 七言のなかに聯句が1首ある。 五言のうち最多は八句の詩であり、四句がこれについで、十二句もまじっている。 題目は宴会が最多で、遊覧、応詔がこれについでいる。

作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶など。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている。

古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだという。

なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。
8:777 :

2024/01/26 (Fri) 23:59:00

万葉集 (奈良時代末期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16836987


万葉集 arigatodaisuki - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLttipHTk-ytS6pz32assAmSIaHd59ehWr

万葉集 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86

万葉集 全体構造 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86/

訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html#%E7%9B%AE%E6%AC%A1  

たのしい万葉集: 巻ごと(巻1~20)
https://art-tags.net/manyo/volume.html


万葉集入門
http://manyou.plabot.michikusa.jp/index.html

万葉集入門:万葉集全歌一覧巻一~巻四
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu_0.html

万葉集入門:万葉集全歌一覧巻五~巻八
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_8.html


讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ
https://sanukiya.exblog.jp/i20/


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万 葉 集 を 読 む ー壺齋散人の万葉集評釈ー
https://manyo.hix05.com/


壺齋散人 王朝の周辺
https://manyo.hix05.com/ocho/ocho.index.html

万葉集巻一、巻二は各天皇の御世ごとに編年体の形式をとって、それぞれの時代を代表する歌を納めている。巻一には雄略天皇、巻二には仁徳天皇の歌とされるものが冒頭を飾っているが、実質的にカバーしているのは、天智天皇から聖武天皇までの時代、約百年間である。

われわれ現代人は、万葉集の巻一、巻二を読むことを通じて、古代史の一端に触れることができる。

万葉の時代は、大化の改新を経て、日本の歴史上王権の権威がもっとも高かった時代である。だがその王権は常に平和裏に継承されたのではなかった。王権を巡ってはさまざまな戦いがあり、それぞれの戦いを生き残ったものが、天皇の権威を手にすることができた。壬申の乱はそのもっとも象徴的な出来事であった。

ここでは、天智天皇から天武・持統両天皇への権力の継承、権力闘争の影で消えていかざるを得なかった悲劇の皇子たち、そして王朝の周辺にあって万葉の世界を彩ったさまざまな人々を取り上げてみたい。


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壺齋散人 斉明女帝の歌:万葉ぶりの始め
https://manyo.hix05.com/ocho/saimei.html

万葉集巻一は、冒頭に雄略天皇に仮託された伝承歌を据えた後、二首目には時代を超えて舒明天皇の歌を置いている。しかして、舒明天皇の后斉明〔皇極〕天皇以後、各天皇の時代区分に従って、それぞれの時代を代表する歌を並べている。

舒明天皇は天智天皇の父君である。万葉の世紀は大化改新以後百年の間をカバーしていると序論で述べたが、舒明天皇はそれに直接先立つ時代の天皇として、万葉の世紀へのいわば導入的な位置づけを持たされているのだともいえよう。

舒明天皇の御製歌は雄略天皇の歌同様、国寿ぎ歌である。歌には壮大な気分がみなぎっており、古代王朝の儀礼的権威を伺わせる。

―高市の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代
  天皇の香具山に登りまして望国(くにみ)したまへる時にみよみませる御製歌
  大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 
  国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ 
  うまし国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は(2)

天の香具山は古来神聖な山としてあがめられていた。恐らく古代人の信仰にあって、祖霊が天下ってくる場所として観念されていたのだろう。その山の上から大和の国を一望すれば、国原には煙がたち、海原には鴎が舞い飛ぶと歌う。日本人が国土に寄せる親愛な感情が素直に現れた、いい歌である。

この歌に続いて、中皇命(なかつすめらみこと)が間人連老をして舒明天皇に献らせたという歌がおかれている。中皇命が誰であるか、またほかならぬ中皇命自身がこの歌を書いたのかどうか、従来議論があった。齋藤茂吉などは、結局わからぬといって匙を投げているが、北山茂夫などは斉明天皇であると断定している。筆者は浅学にして確実な証拠を提出できるわけでもないが、ここでは北山説に従って、中皇命を斉明天皇として読み進んでいきたい。

―天皇の宇智の野に遊猟したまへる時、中皇命の間人連老をして献らせたまふ歌
  やすみしし 我が大王の 
  朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕へには い倚(よ)り立たしし 
  み執(と)らしの 梓の弓の 長弭(なりはず)の 音すなり 
  朝猟(あさがり)に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし 
  み執らしの 梓の弓の 長弭の音すなり(3)
反歌
  玉きはる宇智の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野

これは、舒明天皇が宇智の野に狩をする姿を、后であった斉明女帝が留守宅にあってしのびつつ歌ったものである。互いに遠く離れていながら、夫たる天皇の手にする梓弓の音が聞こえると歌うところは、夫婦の情愛を感じさせる。単なる儀礼に終わらず、人の感情のきめ細かさが盛られている点で、日本の詩歌史上に新しい息吹を持ち込んだ歌とも言えるのではないか。

その意味で、斉明女帝のこの歌は、万葉ぶりが始めて現れたそもそもの歌として、評価を受けるに値する作品である。

斉明女帝の歌は、10首目以降にも3首並べて載せられている。

―中皇命の紀の温泉に徃(いま)せる時の御歌
  君が代も我が代も知らむ磐代(いはしろ)の岡の草根をいざ結びてな(10)
  我が背子は仮廬作らす草(かや)無くば小松が下の草(かや)を苅らさね(11)
  吾が欲りし子島は見しを底深き阿胡根(あこね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ(12)
  右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、天皇ノ御製歌ト云ヘリ。

左書に山上憶良が天皇ノ御製歌云々とあることから、中皇命の紀とはあるが斉明女帝が即位した後の歌と解するのが自然である。女帝は夫君同様出遊とりわけ温泉を好んだようで、南紀へ旅行したことは記録にもある。

一首目にある君とは舒明天皇のことか。夫と自分の時代の連続性を確認するために、岡の草や根を結ぼうと歌ったのであろう。また二首目では、旅先の仮宿を作るべく、草を刈って屋根としなさいと臣下に命じている。女帝のうきうきした気分が伝わってくるようである。

万葉集巻四にも、岳本天皇すなわち舒明天皇がよんだとする歌が載せられている。

―岳本天皇のよみませる御製歌一首、また短歌
  神代より 生(あ)れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて
  あぢ群(むら)の 騒きはゆけど 吾(あ)が恋ふる 君にしあらねば
  昼は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜の明くる極み
  思ひつつ 寝(いね)かてにのみ 明かしつらくも 長きこの夜を(485)
反歌
  山の端にあぢ群騒き行くなれど吾(あれ)は寂(さぶ)しゑ君にしあらねば(486)
  近江路の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)日(け)のこの頃は恋ひつつもあらむ(487)

君と呼びかけるところや、歌の雰囲気からして、これはあきらかに女性の歌である。そんなところから、この歌は舒明天皇の歌ではなく、斉明天皇の歌であろうと考えられてきた。

その辺の事情を踏まえて読み直すと、斉明天皇の女ながらにしての国土経営への思いが伺われる。

斉明天皇は、称徳天皇同様二度にわたって王位につかれた。一度目は夫舒明天皇が死んだ直後であり、皇極天皇と称せられる。その後孝徳天皇の短い治世を挟んで斉明天皇として重祚した。皇太子中大兄(天智天皇)が即位するまでの?ぎ役であったと思われる。


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壺齋散人 天智天皇:万葉集を読む
https://manyo.hix05.com/ocho/tenji.html

天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新をなしとげ、即位して後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが、万葉集に納められている歌から伺われるように、人間的な側面をも併せ持っていた。

天智天皇が政治的実権を手中にしながら、長らく即位しなかったことについては、様々な憶測がなされてきた。有力な説としては、弟大海人(天武)への配慮、またその背後に控える豪族たちとの抗争といったもの、或は女性関係に原因があるといったものである。

今日から見てもっともらしいのは、やはり女性関係であると考えられる。天智天皇が大勢の女性を妻にしたことは有名であるが、特異なのは同母の妹間人皇女との関係である。天智天皇はこの実の妹と関係を持ち、彼女を孝徳天皇の后として嫁がせた後も関係を持ち続けた。孝徳天皇が難波に遷都した後、天智天皇は群臣たちをすべて引き連れて大和に帰ってしまったことがあったが、このとき孝徳の皇后だった間人皇女まで天智と行動をともにした。かれらの関係を苦々しく思っていた孝徳天皇は、二人の不倫を揶揄すると思わせる歌を作っている。(日本書紀記載)

古代の日本においては、異母兄弟姉妹が結婚することは許容されていたが、同母の間柄での性的関係はタブーであった。そんなことから、天智天皇には、自分の汚点を注ぐのに、時間がかかったのだと思われるのである。

それはさておき、万葉集は天智天皇の皇太子時代の歌を載せている。

―中大兄の三山の御歌
  香具山は 畝傍(うねび)を善(え)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき
  神代より かくなるらし 古昔(いにしへ)も しかなれこそ
  現身(うつせみ)も 嬬(つま)を 争ふらしき(13)
反歌
  香具山と耳成山と戦(あ)ひし時立ちて見に来(こ)し印南(いなみ)国原(14)
  綿津見の豊旗雲に入日さし今宵の月夜(つくよ)きよく照りこそ(15)
右ノ一首ノ歌、今案(カムガ)フルニ反歌ニ似ズ。但シ旧本此ノ歌ヲ以テ反歌ニ載セタリ。故レ今猶此ノ次ニ載ス。亦紀ニ曰ク、天豊財重日足姫天皇ノ先ノ四年乙巳、天皇ヲ立テテ皇太子ト為ス。

左書から、皇極天皇4年の時の歌か。もしそうなら蘇我氏を倒した年である。

畝傍山を巡って、香具山と耳成山の争ったさまが歌われている。恋をめぐる駆け引きを三つの山の争いに喩えたのでもあろうか。それぞれが誰をさすのかはわからない。

天智天皇の歌としてはもうひとつ、鏡女王との相聞の歌が万葉集に載せられている。

―天皇の鏡女王に賜へる御歌一首
  妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺(ね)に家居(を)らましを(91)

―鏡女王の和へ奉れる歌一首
  秋山の樹(こ)の下隠(がく)り行く水の吾(あ)こそ勝(まさ)らめ思ほさむよは(92)

ついで天智天皇の后の歌を取り上げよう。

天智の数多くの后たちのなかで皇后の地位についたのは倭姫王である。倭姫王は古人大兄皇子の娘で、父親は天智によって殺されている。天智の子を産むこともなく、記紀も殆ど記するところがないが、夫の死に際して哀切な歌を作っている。

―天皇の聖躬不豫(おほみやまひ)せす時、大后の奉れる御歌一首
  天の原振り放け見れば大王の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり(147)
一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、御病急(ニハカ)ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト。

これは、天智が不治の病に倒れたときに皇后が詠んだ歌である。病に倒れたとはいえ、大君の命は永遠に続くに違いないと、なかば呪術的な願いが込められているともいえる。

続いて、天皇の死に際して、皇后が作った短歌と長歌を読んでいただきたい。

―天皇の崩御せる時、大后のよみませる御歌二首
  青旗の木旗(こはた)の上を通ふとは目には見ゆれど直(ただ)に逢はぬかも(148)
  人はよし思ひ止むとも玉蘰影に見えつつ忘らえぬかも(149)

―大后の御歌一首
  鯨魚(いさな)取り 淡海の海を
  沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
  沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
  若草の 夫(つま)の命の 思ふ鳥立つ(153)

自分ひとりが夫の愛を独占したわけではなかったのに、その死に際しては誰よりも強く、まるで悲しさを独占しているかのように、切々たる情を歌う。

倭姫王は、類まれな優しい真情の持ち主だったようだ。


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壺齋散人 天武・持統両天皇(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/ocho/tenmu.html

天武天皇(大海人皇子)は壬申の内乱を勝ち抜き、自力で王位を手中にした。持統女帝は天智天皇の娘であったが、叔父の大海人に嫁いでともに壬申の乱を戦い、夫の即位後は皇后としてともに政に当たった。しかして天武天皇が亡くなって後は、孫の文武天皇が成長するまでのつなぎ役として即位した。この夫婦が統治した時期は、日本の古代でも最も安定した時代だったといえる。

大海人皇子は若い頃から才能を発揮し、周囲からも天智の後継者と目されていた。現代と異なり、古代においては兄弟間の王位継承は珍しいことではなかったからである。しかし、天智天皇は庶腹とはいえ実子の大友皇子に即位させたかったようだ。

天智天皇が死の病の床に臥せると、大海人は吉野に移った。しかして天智が死ぬと、そこより美濃に走り、大軍を組織して大友(弘文天皇)を戴く近江の朝廷を倒した。これが壬申の乱といわれる古代最大の内乱である。

大海人は何故亡命先に吉野を選んだのか、これについては様々な憶測がなされている。吉野は大海人が少年時代から青年時代にかけて多くの時間をすごしたところらしく、そんなことから政治的な拠り所があったのだろうとするのが、有力な説である。

天皇みずからその吉野を歌った歌が、万葉集巻一に載せられている。非常に議論を呼んだ歌である。

―天皇のよみませる御製歌
  み吉野の 耳我(みかね)の嶺(たけ)に 
  時なくそ 雪は降りける 間(ま)無くそ 雨は降りける 
  その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 
  隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を(25)
―或ル本ノ歌、
  み吉野の 耳我の山に 
  時じくそ 雪は降るちふ 間なくそ 雨は降るちふ 
  その雪の 時じくがごと その雨の 間なきがごと 
  隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を(26)
  右、句々相換レリ。此ニ因テ重テ載タリ。

この歌の作られた時期、万葉集の中にある類似の歌との関連、記紀が記す所の童謡との関連などについて、古来様々な臆説がなされてきた。

それらをさておいて、筆者はこの歌を、大海人が都を逃れて吉野にやってきた頃に作られたものとして鑑賞したい。

吉野は規模は小さいながら峻厳な山岳地帯である。その険しい山道を、雪や雨に打たれ、心中に繁き思いを抱きながら上ってきたことよ、そんな感慨をこの歌は詠んでいるものと思える。馴れたこの山を根拠にして、大海人は一生一大の壮大な賭けに出ようとしているのである。そう思って読めば、おのずから感慨深く迫ってくるものがある。

この歌にすぐ続いて載せられている歌は、即位後吉野の離宮に立ち寄った際に天皇自ら詠んだものである。

―天皇の吉野の宮に幸せる時によみませる御製歌
  淑き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見(27)
紀ニ曰ク、八年己卯五月庚辰朔甲申、吉野宮ニ幸ス。

この歌には、前の歌と違って、心のゆとりが感じられる。かつて身を隠すために逃れてきて、そこを拠点に王位簒奪の戦いに立ち上がった地、それが吉野だ。今やその王位を手中にして、こうして思い出の地に戻ってきた、そんな気負いが伺われるのである。


持統女帝は夫君以上に、すぐれた歌の感性をもっていた。人麻呂始め、歌人たちの作った歌を正当に評価したばかりでなく、自らも感性豊かな歌を作っている。

ここでは、天武天皇の死を悲しんで詠んだ歌を掲げておこう。

―天皇の崩(かむあがりま)せる時、大后のよみませる御歌一首
  やすみしし 我が大王の 夕されば 見(め)したまふらし
  明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を
  今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見(め)したまはまし
  その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しみ
  明け来れば うらさび暮らし 荒布(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ひ)る時もなし(159)
一書ニ曰ク、天皇ノ崩セル時、太上天皇ノ御製(ミヨ)ミマセル歌二首
  燃ゆる火も取りて包みて袋には入(い)ると言はずや面智男雲(160)
  北山にたなびく雲の青雲の星離(さか)り行き月も離(さか)りて(161)

―天皇ノ崩シシ後、八年九月九日御斎会(ヲガミ)奉為(ツカヘマツ)レル夜、夢裏ニ習(ヨ)ミ賜ヘル御歌一首
  明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし
  やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子
  いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は
  沖つ藻も 靡(なび)かふ波に 潮気のみ 香れる国に
  味凝(うまごり) あやにともしき 高光る 日の御子(162)

次の歌は、おそらく藤原宮の宮殿から天の香具山を望んで歌った歌と考えられる。

―天皇のよみませる御製歌
  春過ぎて夏来るらし白布(しろたへ)の衣乾したり天の香具山(28)

言葉遣いが流れるようで、しかも景色を彷彿とせしめるような写生の確かさがある。茂吉はこの歌あるを以て、持統天皇の歌への造詣の深さをよく物語るものだとした。


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壺齋散人 額田王:恋の歌 
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額田王は、万葉の女性歌人のなかでもひときわ光芒を放つ存在である。ただに女性らしき繊細さに溢れていたというにとどまらない。相聞歌における率直な感情の表出は、斬新なものであったし、また、当時はやりつつあった漢詩に対抗して、和歌にも叙景などの新しい要素を盛り込み、歌の世界を広げたともいわれる。北山茂夫は、彼女を評して、万葉の世紀の初期を代表する歌人であり、人麻呂、赤人へとつながる流れを用意したともいっている。

だが、多くの現代人にとっては、額田王といえば、恋多き女というイメージが強いのではないか。

そんな思い込みを助長するかのような相聞歌が、万葉集巻一の冒頭に近い部分に載せられている。

―天皇の蒲生野に遊猟(みかり)したまへる時、額田王のよみたまへる歌
  茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる

―皇太子の答へたまへる御歌 明日香宮ニ御宇シシ天皇
  紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

―紀ニ曰ク、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野ニ縦猟シタマフ。時ニ大皇弟諸王内臣及ビ群臣皆悉ク従ヘリ。

詞にあるとおり、これは天智天皇が群臣とともに蒲生野に狩をした時に、額田王と皇太子大海人皇子(天武天皇)との間に交わされた相聞歌である。恐らくは、皇子のほうから先にモーションを仕掛けたのであろう。額田王が、こんなところで袖などお振りになると、野守にみとがめられますよと、たしなめると、皇子のほうでは「紫のにほへる妹」を恋わずにはいられないといって返す。このやりとりが、狩の野を背景にした切ない恋のかけひきを感じさせる。

実は、この二人は若い頃に結婚し、子まで設けていた間柄なのである。だが、大海人の兄たる天智天皇が額田王を見初め、自分の妻にしてしまったため、二人は引き裂かれてしまった。そんな切なさが、狩という開放的な雰囲気に接して、昔の思い出を呼び寄せたのかもしれない。

とはいえ、額田王は、新しい夫たる天智天皇に対しても、愛の溢れる相聞歌を贈っている。

―額田王、近江天皇を思(しの)ひて作る歌
  君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く

この時代の結婚は、夫婦同居ではなく、男が女のもとに通うという、妻問婚であった。それは、天皇始め王族にあっても同様だったらしい。だから、夫の来るのを待つ女の心を詠んだ歌は、相聞歌の中心をなすものであった。 

そもそも、この国に和歌というものが生まれ、それが広がっていったきっかけは、このような結婚の形態がもたらす、相聞のやりとりにあったとも思われるのである。

この歌は、簾といい秋の風といい、叙景にことよせて恋の心を歌っている。その歌い方が余りに斬新であったので、論者の中には、額田王にかこつけて、後世のものが作ったのではないかというものまで現れた。それほどに、古代人の感性としては、新しいものがあったのだろう。

額田王は、叙景の歌にも優れたものを残した。

―天皇の内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の万花の艶、秋山の千葉の彩を競憐(あらそ)はしめたまふ時、額田王の歌を以て判(ことは)れるその歌
  冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 
  咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 
  草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 
  黄葉(もみ)つをば 取りてそ偲ふ 青きをば 置きてそ嘆く 
  そこし怜(たの)し 秋山我は

天智天皇が詩文のコンクールとでもいうべきものを開き、春の花と秋の葉といづれが勝れるか、漢詩を以て述べよと命じたのに対し、額田王のみは和歌を以て応えたとされる歌である。当時漢詩は、新しい教養として貴族の間に普及しつつあった。日本伝来の歌に比べ、結構においても表現においても幅が広く、論理性や叙景に優れた器と意識されていた。そこを、額田王は日本古来の言葉を以て、あえて叙景の歌を作ったのである。

対句を効果的に用いているところなど、漢詩の影響もあるのだろう。だが、日本語でこのような歌を作ることができたのは、彼女以前には殆どいなかったのではないか。詞とイメージの運び方などは、後の時代の人麻呂や赤人を想起させる。

額田王は、中年時代に最愛の娘をなくし失意の時期もあったらしいが、長い寿命を享受したらしい。六十歳を過ぎてもなお、若々しさを失わず、二十代の青年と相聞歌をやり取りしている。

―吉野の宮に幸(いでま)せる時、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首
  古に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井(みゐ)の上より鳴き渡りゆく

―額田王の和へ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る
  古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと


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壺齋散人 悲劇の皇子たち:有間皇子と大津皇子
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日本の古代王朝における皇位の継承には、近代に確立されたような直系長〔男〕子相続のような明確なルールがあったわけではなく、兄弟間の継承や時には女帝の誕生といったことが頻繁に起きた。

皇位の継承は常に緊張を伴ったのであり、そこには様々なドラマがあった。それらのドラマを今日の目で読むと、シェークスピアの王権劇にも匹敵するほどである。

万葉の時代を彩った王権劇の中で最大のものは、いうまでもなく壬申の乱であるが、それ以外にも皇位継承がからんだ血なまぐさい事件は数多く起きている。

なかでも有間皇子と大津皇子にからむ事件は、その悲劇的な背景から人々の同情を誘ってきた。二人とも、有能であるがゆえに警戒され、罠を仕掛けられて死んだ。しかして死に臨んで、無念の思いを歌に残した。それらの歌からは、悲劇の皇子としての彼らの姿が、彷彿として浮かび上がってくるのである。

有間皇子は孝徳天皇の皇子である。孝徳天皇は政治的な基盤が弱く、斉明(皇極)女帝や中大兄との関係では常に不本意な思いを強いられていた。皇子はそんな父帝の姿を眼にし、子どもながら悩んだに違いない。

孝徳天皇が死ぬと、有間皇子は政治的には孤立状態に陥った。成人した皇子は、権力関係の中で自分に与えられた地位を自覚し、身の危険を感じるようになったにちがいない。日本書紀には「性黠くして陽狂す」とある。性格がわからず、狂った真似をしたという意味だろう。おそらく自分の身を守るための演技だったと思われる。ハムレットのようではないか。

そんな有馬皇子を、斉明女帝と中大兄は煙たいと感じたのだろう。蘇我赤兄に狂言を仕組ませて皇子を罠にはめ、抹殺したのである。

斉明天皇らが紀の湯に出かけている間、赤兄は皇子をけしかけて謀反の企てを図る。皇子がその話に乗ったところを見届けると、赤兄は皇子を捕らえ、天皇に引き渡した。これが事件の概要とされるものだが、あくまでも天皇方の視点から書かれたものであり、どこまで真実を伝えているかは定かでない。

有間皇子が引き立てられて紀の湯に向かう途次詠んだという歌が万葉集に載せられている。

―有間皇子の自傷(かなし)みまして松が枝を結びたまへる御歌二首
  磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む(141)
  家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(142)

一首目は、松の枝に目印をつけ、もし命があったら帰りがけに見たいものだと歌ったもの。命のあるはずもないことは、皇子自身十分にわかっていたことなのに、何故このような歌を歌ったのか。あるいは息災のマジナイとして、そのような風習があったのでもあろうか。

二首目は、文字どおりに自然にせまってくる歌である。この旅は常の旅とは異なり、死出の旅であった。椎の葉に盛った飯は、あるいは涙で潤ったかもしれない。

万葉集は皇子の歌に続けて、後人の歌を二三添えている。いづれも一種目の歌に関連して、皇子の不運に同情したものである。すでに万葉の頃から、皇子の悲劇的な死が人々の心をとらえていた徴だろうと思われる。ここではそのうち、人麻呂歌集中のものをあげておく。

―柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、紀伊国ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首
  後見むと君が結べる磐代の小松が末(うれ)をまた見けむかも(146)


大津皇子は、鵜野讃良皇后(持統天皇)によって死を賜った悲劇の人である。天武天皇の長子として生まれ、その母大田皇女は鵜野讃良皇后の姉であったこともあり、血統的には申し分なかったが、母を幼くして失い、政治的な後ろ盾は小さかった。それでも幼い頃から聡明さを発揮し、人柄も人に慕われるものを持っていたため、鵜野讃良皇后は大津皇子をわが子草壁のライバルとして煙たがっていた。

天武天皇が死するや、間髪を置かぬが如くに、皇后は皇子に謀反の罪を負わせ、ついに葬り去ったのである。

万葉集は、大津皇子の辞世の歌とされるものを載せている。

―大津皇子の被死(つみな)はえたまへる時、磐余(いはれ)の池の陂にて流涕(かなし)みよみませる御歌一首
  つぬさはふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(416)
右、藤原宮、朱鳥元年冬十月。

大津皇子は漢詩の教養も豊かであったとみえ、漢詩でも辞世の句を残している。(懐風藻所収)

  金烏臨西舎  金烏 西舎に臨み
  鼓声催短命  鼓声 短命を催す
  泉路無賓主  泉路 賓主無し
  此夕誰家向  この夕 誰が家にか向ふ

大津皇子には同母の姉がいた。大伯(大来)皇女という。大伯皇女は父天武によって伊勢神宮の斎宮とされた。弟とは姉弟仲がよかったらしく、彼女が弟の死を嘆いて歌った歌には骨肉の情愛が溢れている。

ここでは、万葉集に載せられた彼女の歌六首をすべて並べてみたい。

―大津皇子の、伊勢の神宮に竊(しぬ)ひ下りて上来ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首
  我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に吾(あ)が立ち濡れし(105)
  二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ(106)

この歌がいつ作られたのかは明らかではないが、「竊ひ下りて上来ります時」とあることから、大津はなりを潜めて訪れたのであろう。あるいは身に迫った危険を姉に打ち明けにいったのかもしれない。歌に流れている悲しみに似た情が、そんなことを感じさせるのである。

次の四首は、大津の死を悼んだものである。

―大津皇子の薨(すぎま)しし後、大来皇女の伊勢の斎宮より上京(のぼ)りたまへる時、よみませる御歌二首
  神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も在(ま)さなくに(169)
  見まく欲り吾(あ)がする君も在さなくに何しか来けむ馬疲るるに(164)

―大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りまつれる時、大来皇女の哀傷(かなし)みてよみませる御歌二首
  うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む(165)
  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在すと言はなくに(166)

弟の葬られた二上山を弟の形見と思って眺めましょうと歌う、深い悲しみとあきらめのような辛い感情が伝わってくる歌である。


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柿本 人麻呂 かきのもと の ひとまろ (島根県 660年 - 724年 3月18日)
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柿本人麻呂 - YouTube
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柿本人麻呂が詠んだ歌
https://art-tags.net/manyo/poet/hitomaro.html  

柿本人麻呂が書いた万葉集 | 万葉集ナビ
https://manyoshu-japan.com/18182/

柿本人麻呂歌集の一覧 | 万葉集ナビ
https://manyoshu-japan.com/18249/


柿本人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。


壺齋散人 柿本人麻呂
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.index.html

宮廷歌人柿本人麻呂(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.kyuuteikajin.html

柿本人麻呂の儀礼的挽歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.banka.html

柿本人麻呂:泣血哀慟の歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.aido.html

柿本人麻呂:妻の死を悼む歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.tuma.html

柿本人麻呂:覊旅の歌(万葉集を読む)
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柿本人麻呂:別れに臨んで妻を恋ふる歌
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.wakare.html

柿本人麻呂歌集の相聞叙景歌(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.kashu.html

柿本人麻呂の死:人麻呂火葬説(万葉集を読む)
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日本における火葬の始まり(柿本人麻呂の挽歌)
https://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.cremation.html



「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来説に対して、梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。

また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘した。

『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかと梅原らは唱えた。

しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。


梅原猛 『水底の歌 柿本人麿論』(新潮社、1973年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B4%E5%BA%95%E3%81%AE%E6%AD%8C%E2%80%95%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BF%E8%AB%96-%E4%B8%8A-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4101244022/ref=sr_1_16?keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B&qid=1706239628&sr=8-16
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梅原猛 『歌の復籍』(集英社、1979年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B%E8%91%97%E4%BD%9C%E9%9B%86%E3%80%8814%E3%80%89%E6%AD%8C%E3%81%AE%E5%BE%A9%E7%B1%8D-1982%E5%B9%B4-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/B000J7JRV2/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=EPA1QPZEVVQU&keywords=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E6%AD%8C%E3%81%AE%E5%BE%A9%E7%B1%8D&qid=1706240461&sprefix=%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E6%AD%8C%E3%81%AE%E5%BE%A9%E7%B1%8D%2Caps%2C253&sr=8-3


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山部 赤人 やまべ の あかひと (愛媛県 生年不詳 - 736年)
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山部赤人 - YouTube
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山部 赤人は、奈良時代の歌人。姓は宿禰。官位は外従六位下・上総少目。三十六歌仙の一人。

山部氏(山部連・山部宿禰)は、天神系氏族である久米氏の一族・久味国造の後裔で、職業部(cf. 部民制、品部)の一つである山部の伴造家とされる。また、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定によって山部連から山部宿禰への改姓が行われている。赤人も宿禰姓を賜与されたことが『万葉集』の詞書から確認できる。

その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの正史に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。

『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。

柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と高く評価している。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする。

平安時代中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名声の高まりに合わせて、私家集の『赤人集』(三十六人集のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の巻11の歌などを集めたもので、『人麻呂集』や『家持集』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど含んでいない。『後撰和歌集』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急増するので、関連が考えられている。



壺齋散人 山部赤人
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山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉集を代表する歌人である。人麻呂より一世代後の、平城京時代初期に活躍した。その本領は、人麻呂同様宮廷歌人だったことにある。元正、聖武天皇両天皇に仕え、儀礼的な長歌を作った。大伴家持は、柿本人麻呂、山部赤人を並べ立てて「山柿の門」という言葉を使ったが、これは宮廷歌人としての、荘厳で格式の高い歌風をさしたのだと思われる。

また紀貫之は「古今集」の序文で、「人麿は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と記して、赤人を人麻呂に匹敵する大歌人と評価している。これは褒めすぎかもしれぬが、赤人が人麻呂に並べ称されることには相当の理由があるといってよい。

山部赤人は、人麻呂の後継の宮廷歌人として、儀礼的な長歌を多く作ったほか、叙情的な短歌にすぐれていた。後の時代への影響という点では、短歌のほうが、及ぼした影響の範囲が大きい。赤人の生きた万葉中期は、長歌が依然作られる一方、短歌が次第に歌の主流になりつつある時代だった。そんな時代において、赤人はもっとも短歌らしい作品、それは抒情的な歌と言ってよいが、そうした時代に応えるような歌を歌ったということが指摘できる。

その山部赤人の最も愛された歌は、有名な富士を詠った歌(田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にぞ不尽の高峯に雪は降りける)や花鳥を題材にした叙景歌(たとえば、春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける)である。また、恋の歌にも優れたものがある。彼は、人麻呂とは違うイメージで人間の感性をのびのびと歌った歌人であり、古今集以後につながるものを感じさせる。

山部赤人はまた、下級官人として諸国を旅し、そのなかから、葛飾の真間の手古奈のような、地方の伝説に取材した歌を作った。手児奈のことは、高橋虫麻呂も歌に詠んでいるが、両者を読み比べると、それぞれの感性が窺われて興味深い。

ここでは、山部赤人について、代表的な歌を取りあげて鑑賞し、簡単な解説を加えたい。


山部赤人の宮廷儀礼歌(万葉集を読む)
山部赤人:旅の歌(万葉集を読む)
山部赤人:富士を詠む(万葉集を読む)
山部赤人の叙景歌(万葉集を読む)
山部赤人:恋の歌(万葉集を読む)
真間の手児奈伝説:山部赤人と高橋虫麻呂


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山上 憶良 やまのうえの おくら (奈良県 660年 - 733年)
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山上憶良 - YouTube
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山上 憶良は、奈良時代初期の貴族・歌人。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏(山上臣)の出自とされる。

大宝元年(701年)第八次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。

神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている。



壺齋散人 山上憶良
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山上憶良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。それらの歌には、きわめて人間臭い響きがある。

これは、憶良の歌の殆どが、六十台半ば以降の老年に書かれたことにもよる。若い頃に作った歌もあったのかもしれないが、万葉集には残されていない。

山上憶良は、晩年の筑紫国守時代に、大伴旅人と巡りあった。そこで二人は、互いに影響しあいながら、歌の世界を繰り広げていった。万葉集に残されている憶良の歌は、殆どすべてがこの時代以後のものである。それらの歌は、旅人を介して家持に伝えられ、万葉集に載せられたのであろう。

ここでは、山上憶良の歌を、テーマ別に分類して鑑賞する。


山上憶良:その生涯と貧窮問答歌
山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む)
山上憶良:日本挽歌と大伴旅人との交友
山上憶良:七夕の歌(万葉集を読む)
山上憶良:惑へる情を反さしむる歌
山上憶良:横死者を悼む歌
山上憶良:好去好来の歌(遣唐使を送る)
山上憶良:我が子の死を悼み恋ふる歌
山上憶良:沈痾自哀の文(万葉集を読む)
山上憶良:去りし日の青春と今生きる老年


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大伴 家持 おおとも の やかもち (奈良 718年 - 785年10月5日)
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大伴家持 - YouTube
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大伴 家持は、奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父、安麻呂、父、旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙爵し、翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、次いで6月に越中守に任ぜられて地方官に転じる。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される一方で、223首の和歌を詠んだ。

天平勝宝3年(751年)少納言に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔、天平勝宝9歳(757年)兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の天平勝宝7歳(755年)難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。

天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、越中国赴任時に深い交流を持った大伴池主を始めとして、大伴古麻呂や大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年(759年)正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。


歌人として

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。なお、473首のうち223首が越中国在住中の歌である。

『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。

勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。

日本海軍を象徴する歌として映画やテレビドラマで度々使用された「海ゆかば」(作曲:信時潔)は、家持の「賀陸奥国出金詔書歌」(『万葉集』巻十八)に拠る。


『海行かば』
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海ゆかば - YouTube
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歌詞
海行ゆかば 水漬づく屍
山行ゆかば 草生むす屍
大君の 辺へにこそ死なめ
かへりみはせじ
(長閑には死なじ)




壺齋散人 万葉の世紀(万葉集と大伴家持)
https://manyo.hix05.com/intro.html

若い頃から折に触れて読み親しんできた万葉集。様々な注釈書の世話になったが、筆者が最も参考にしたのは、齋藤茂吉と北山茂夫だった。茂吉には鑑賞のコツのようなものを学んだ。北山茂夫は本業が歴史学者だけあって、万葉人の群像を古代史の文脈の中でとらえており、個々の歌を歴史的な背景に関連付けながら読み直している。そこが得がたい魅力にうつった。

北山説によれば、日本最古の歌集「万葉集」は、大伴家持という一官人の手によって集大成され、完成形を与えられた。全二十巻のうち、最後の四巻は家持自身が自分のために書きためた私的な歌日記である。

大伴家持は、彼以前に存在した様々な歌の資料(宮廷にささげられたものの記録や、柿本人麻呂歌集のような個人の歌集)をもとに、自分自身のための作歌ノート(歌集)を作っていた。名門の貴公子として、家持には宮廷周辺に存在したと思われるそれらの資料に触れる機会があったのだろう。家持は死後、同族のからんだ事件に連座して名誉を奪われ、家財没収の憂き目に会うが、そのときに作歌ノートも没収され朝廷の所有に帰した。これが万葉集として、世に伝わることとなったのである。

家持の選んだ歌は、冒頭の雄略天皇の歌などを別にすれば、最も古いもので七世紀後半、大化の改新以降のものである。また彼自身は、天平宝字三年(759)、正月を寿いで歌ったのを最後に歌わなくなってしまった。この間にあって、万葉集がカバーする時代は約100年間である。北山茂夫は、この百年を万葉の世紀と名づけた。

ちなみに、全二十巻、四千五百十六首のうち、冒頭と棹尾を飾るそれぞれの歌を、ここに紹介しておこう。

―泊瀬の朝倉の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇のよみませる御製歌
   籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
   この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
    そらみつ 大和の国は 
   おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 
   吾をこそ 夫とは告らめ 家をも名をも

冒頭の歌は、雄略天皇の国寿ぎ歌である。万葉集第一巻には、歴代の天皇の御製歌が多く集められている。これに対して、棹尾の歌は、家持自身が新春を寿いで歌ったものである。家持にとっても、万葉集全体にとっても、最後に歌われた歌となった。

   新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事
―右の一首は、守((かみ)大伴宿禰家持がよめる。

万葉の世紀百年を大雑把に時代区分すると、和銅三年(710)の平城京遷都を境にして、前期と後期に分けられよう。前期を代表するのは額田王と柿本人麻呂であり、和歌というものが形を確立する時期だと位置づけられる。後期は、山部赤人、山上億良、大伴旅人らによって代表される。かれらは、人麻呂の確立した和歌の伝統を踏まえて、それぞれに表現の幅を広げたといえる。

大伴家持は、平城遷都の数年後、古い武門の家大伴氏の支流佐保大納言家の三代目として生まれた。父旅人は家持が十四歳のときに死んでいる。この武門の家の父子が何故和歌の道に名を残すようになったか、詳しい事情はわからない。だが、家持は若い時期から歌の才能を発揮したらしい。一方、貴族の家の当主として、政治的な立身も目指したらしい家持は、橘諸兄などの権力者に近づいたりもしたが、政治的な面ではあまり器用ではなかったらしく、権力争いの狭間にあって、始終傍観者的な煮えきらぬ態度ばかりをとっていた。

こんなことから、彼の政治経歴は地方官が多く、中央の政治地図に大きな足跡を残すには至らなかったが、晩年桓武天皇の信頼を得て高官に上り、最後には持節征東将軍に任命された。武官としては、最高の名誉だったろう。しかし、死後に生じた藤原種継の暗殺事件に同族がかかわっていたことから、累が一族全体に及び、家持もまた死後にして除名されることとはなったのだった。

家持が旺盛な作歌活動を示し、また万葉集の編纂に取り組んだのは、越中国司時代だとされる。彼は29歳のときにこの任に赴き、数年間越中に留まった。この間に、彼は先人たちの残した業績を歌集として編纂すると同時に、身辺から集めた歌や、自ら歌った歌を精力的に書き溜めた。それらが、今日に伝わる万葉集として結実したのだと思われる。

大伴家持は、越中国司としては、何らの業績をも上げなかったようだ。だが日本の文学にとっては、この地での彼の活動が貴重な成果をもたらしてくれたのである。
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壺齋散人 大伴家持
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大伴家持は、万葉集の編集者として擬せられているとともに、自身も偉大な万葉歌人の一人であった。かれの歌は、万葉の世紀の最後を飾るものであり、その歌風は、万葉のおおらかな歌い方と、古今集以後の歌との橋渡しをしている。歌のモチーフは多岐にわたっており、数も多い。万葉集全二十巻のうち、まる四巻は彼の歌を集めたものである。万葉集は、高級官人としての大伴家持が、宮廷に伝わっていた歌集を中核にして、彼自身が集めた歌集、たとえば防人の歌といったものや、自分自身の歌を収めた歌集を加えて、最終的に今日あるような形にまとめたのだろうと考えられている。

大伴家持は、大伴旅人の子として名声高き武門の家に生まれた。その家には、なぜか風雅を愛する人たちが輩出し、家持にも大きな影響を与えたらしい。家持は若い頃から歌を作っていたのだが、それは叔母の坂上郎女はじめ、一族の歌好きな人びととのやりとりを通じて研鑽されたのだと思われる。家持は妻も一族から迎え、一族に対しては門閥の長として強い責任感をもっていた。有名な「族を諭す歌」は、そうした一族への家持の気持を歌ったものである。

また、大伴家持は武門の長として、また朝廷の藩屏として、天皇への忠誠心が強かった。有名な「うみゆかば」の歌は、そうした家持の天皇への忠誠心を歌ったものだが、それが先の戦争に際しては、日本人の天皇への忠誠心を高める材料として利用されたことは、家持にとってどんなふうにうけとられただろうか、興味深いところである。

大伴家持は、古代最後の歌人として、古代人らしいおおらかさを感じさせる一方、自我意識がもたらす繊細な感性ももっていた。むしろそうした繊細な感性を感じさせる歌に秀作が多い。たとえば、「うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀あがり心悲しも独りし思へば」といった歌は、万葉ぶりというよりは、すでに古今集の世界を感じさせる。

大伴家持の文学史上の業績としては、全国から防人の歌を集めたことがあげられる。このおかげで我々日本人は、古代の庶民が歌に詠みこんだ素朴な感情を知ることができるとともに、古代の庶民の暮らしぶりの一端を知ることもできる。防人の歌は、歴史を研究する上での貴重な資料でもある。

ここでは大伴家持の代表的な歌を取り上げて、鑑賞しながら適宜解説を加えたい。


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壺齋散人 大伴旅人
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壺齋散人 志貴皇子(万葉集を読む)
https://manyo.hix05.com/ocho/shiki.html

壺齋散人 万葉の女流歌人
https://manyo.hix05.com/joryu/joryu.index.html

壺齋散人 下級官人の歌
https://manyo.hix05.com/kakyu/kakyu.index.html

壺齋散人 万葉の庶民の歌
https://manyo.hix05.com/shomin/shomin.index.html

壺齋散人 四季の歌
https://manyo.hix05.com/shiki/shiki.index.html

壺齋散人 恋の歌
https://manyo.hix05.com/koi/koi.index.html

壺齋散人 万葉集拾遺
https://manyo.hix05.com/shui/shui.index.html
9:777 :

2024/01/27 (Sat) 00:21:43

平安時代初期の文学


景戒 きょうかい/けいかい (奈良 奈良時代)
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景戒は、奈良時代の薬師寺の僧。日本最初の仏教説話集である『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)全3巻 822年』の著者として知られる。

『日本霊異記』下巻末の第38話には景戒自身が登場する。それによれば、延暦6年(787年)には景戒は僧の身でありながら、一方では世俗の家に住み、妻子がいたものの、それを十分に養うだけの財力がないという状態にあった。また、延暦14年(795年)に伝灯住位の僧位に進んでいる。また、その2年後の延暦16年に造立した仏堂に向かってキツネがいくたびか鳴くので不審に思っていたところ、自身の子息や牛馬が相次いで亡くなったという。

いっぽう、下巻第12話および同第21話には、景戒自身が実際に大和国薬師寺で見聞したとみられる話が収められていることから、称徳天皇の代(764年-770年)には薬師寺の仏僧となり、その後は、ふだんは紀伊国に住みながら半僧半俗の生活を長くつづけたものと推測できる。
薬師寺の僧となってからも景戒はふだん名草郡粟村の近くに住んでおり、貴志村にあった貴志寺の行者であっただろうと考えられる。

なお、彼は延暦6年(787年)に著した『日本霊異記』の初稿本を年を追って集成し、それが完成したのも弘仁13年(822年)のこととみられている。


『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)全3巻 822年』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%8F%BE%E5%A0%B1%E5%96%84%E6%82%AA%E9%9C%8A%E7%95%B0%E8%A8%98


こーぼーくん【哲学系】 霊異記【了】 - YouTube
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日本霊異記を読む - YouTube
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日本霊異記 - YouTube
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説話徹底解説ブログ
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上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話。で、合計116話が収められる。それぞれの話の時代は奈良時代が多く、古いものは雄略天皇の頃とされている。

登場する人物は、庶人、役人から貴族、皇族に及び、僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。

田に引く水をめぐる争い(上巻第3)、盗品を市で売る盗人(上巻第34、第35、下巻第27)、長期勤務の防人の負担(中巻第3)、官営の鉱山を国司が人夫を使って掘ること(下巻第13)、浮浪人を捜索して税をとりたてる役人(下巻第14)、秤や桝を使い分けるごまかし(下巻第20、第26)など、説話自体が事実を伝えるものではないとしても、その主題から外れた背景・設定からは、当時の世相を窺い知ることが出来る。

また、性愛を扱った説話も収められている。例えば、生まれた息子を愛するあまりに陰茎を啜るようになった母が三年で病を得、臨終の際に子の陰茎を吸いながら「わたしは、今後次々に生まれ変わって、後の世でいつもそなたと夫婦になります」と言い残し死ぬ。この母が隣家の娘に生まれ変わったのちに息子と結婚し、前世の墓の前で夫婦で嘆くといった奇譚などがある(中巻「女人. 大蛇に婚はれ薬の力に頼りて命を全くすること得る縁 第四十一」中の挿話 )。


編纂の目的から、奇跡や怪異についての話が多い。

仏像と僧は尊いものである。
善行には施し、放生といったものに加え、写経や信心一般がある。

悪事には、殺人や盗みなどの他、動物に対する殺生も含まれる。狩りや漁を生業にするのもよくない。とりわけ悪いこととされるのが、僧に対する危害や侮辱である。と、これらが『霊異記』の考え方である。

転生が主題となる説話も多い。説話の中では、動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く、人間だった者が前世の悪のために牛になることもある。


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小野 小町 おの の こまち(秋田県湯沢市小野 平安時代前期)
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小野小町 - YouTube
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小野小町の和歌 17首 【現代語訳】付き | ジャパノート -日本の文化と伝統を伝えるブログ-
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小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。     

系図集『尊卑分脈』によれば小野一族である小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。


血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在は疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。

また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる。ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する。前述の小町姉が実在するという前提で、出羽国の郡司の小野一族の娘で姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。

生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。


歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。

仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。また、小町の歌集として『小町集』が伝わる。


思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
『古今集・序』

色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける
『古今集・序』

わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ
『古今集・序』

わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも
『古今集・序』


いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる

うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ

夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを

人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり

今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり

秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば

— 『古今集』


ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや

空をゆく月のひかりを雲間より見でや闇にて世ははてぬべき

宵々の夢のたましひ足たゆくありても待たむとぶらひにこよ

— 『小町集』


次の歌からも美女であった事が窺える。これは、百人一首にも選ばれている。

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
— 『古今集』


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在原 業平 ありわら の なりひら (825年 - 880年7月9日)
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在原業平 - YouTube
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在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
六歌仙・三十六歌仙の一人。
全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。


『日本三代実録』の卒伝に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。

歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している。『古今和歌集仮名序』において紀貫之が業平を「その心余りて言葉足らず」と評したことはよく知られている。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。

早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。

紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた[注釈 2]。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。

同じく『伊勢物語』に描かれた「東下り」についてもその史実性については議論がある。通説では貴種流離譚の一種とみなす説が強いが、角田文衛のように母の服喪中の貞観4年(862年)の出来事とする説がある[7]。戸川点は史実か創作かは断定できないとした上で、業平や父の阿保親王が中央との兼官ながら東国の国司を務めていたことに注目し、当時問題となっていた院宮王臣家の東国への進出(荘園の形成・経営)に業平周辺も関わっており、創作であったとしてもその背景になる事実はあったとみている。また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子された叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。



勅撰和歌集に80首以上入撰した、六歌仙・三十六歌仙の一人ではあるが、自撰の私家集は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『後撰和歌集』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。

業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『古今和歌集』である。また『伊勢物語』は業平の歌を多く使った歌物語であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。

しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。


代表歌

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは
— 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。落語「千早振る」も参照。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
— 『古今和歌集』撰歌。

忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは
— 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。

から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
— 『古今和歌集』撰歌。

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
— 『古今和歌集』撰歌。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
—『古今和歌集』巻十五、恋歌五。

人知れぬ わが通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ
—『古今和歌集』巻一三、六三二。また、『伊勢物語』五段。

白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
—『新古今和歌集』巻八、八五一。また、『伊勢物語』六段。


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紀 貫之 き の つらゆき (京都 866年 - 945年6月30日)
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紀貫之 - YouTube
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紀 貫之は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈位、従二位。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。


延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。

日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。

散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。

『大鏡』によると、その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。
『袋草紙』などでは、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。


作品
紀貫之(百人一首より)
古今和歌集:勅撰和歌集。紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒との共撰。
古今仮名序
新撰和歌:貫之単独撰の私撰集。
新撰和歌序:真名序。
大井川御幸和歌序:『古今著聞集』巻第十四遊覧廿二に載る。
貫之集
土佐日記


代表歌

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2)

霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9)

さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89)

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35)

吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471)



新撰和歌 しんせんわか (平安時代)
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『新撰和歌』(しんせんわか)は、平安時代に編まれた私撰和歌集である。紀貫之撰。『新撰和歌集』ともいう。


四巻一冊で、巻第一に春・秋120首、巻第二に夏・冬40首、巻第三に賀・哀20首、別・旅20首、巻第四に恋・雑160首を収める。各巻はそれぞれの題の歌を1首ずつ交互に並べる構成とする。和歌には作者名および詞書は一切無い。

漢文の序があり、それによれば『古今和歌集』撰進後、藤原兼輔が伝えた醍醐天皇の勅命により本書を編纂し始め、土佐国赴任中完成し帰京後に奏覧に供するつもりであったが、醍醐天皇の崩御と兼輔の死去によりそれが叶わなくなった。しかしこの集が散逸することを惜しみ、序を添えて世に出したという。また『古今和歌集』から弘仁より延長年間までの秀歌360首を撰出したとするが、実際にはそれ以外の和歌も採られている。貫之最晩年の編著である。



土佐日記 とさにっき (平安時代)
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土佐日記 - YouTube
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土佐日記 概要 - 古典の改め
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『土佐日記』は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。

日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。

延長8年(930年)から承平4年(934年)にかけての時期、貫之(つらゆき)は土佐国に国司として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である。

主題は単一ではなく、親子の情・国司の望郷と孤独感・歌論・紀氏の士族意識などが指摘される[1]。女性に仮託した理由については、男性官人が仮名文で書いたため、諧謔風刺のための韜晦、公的身分を離れて私的感情を開陳するためなどの諸説がある。

57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を多く用いていることも特筆される。

成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが、『土佐日記』そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。

田辺聖子は、娘を亡くした悲しみを書くにあたって、「男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、「泣血(きゅうけつ)」のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです」という見方である。

橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている。当時の男性の日記は漢文であったが、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。


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古今和歌集(905年)
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古今和歌集 - YouTube
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古今和歌集 概要と目次 - 古典の改め
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古今和歌集
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古今和歌集データベース
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『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代の歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの。醍醐天皇の命により編纂され、905年に奏上された。

後世の勅撰和歌集の範となり、国風文化・日本文学に影響をのこした。
『古今和歌集』は「勅命により国家の事業として和歌集を編纂する」という伝統を確立した作品でもあり、八代集・二十一代集の第一に数えられ、平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与した。

『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されているほか、『源氏物語』においてもその和歌が多く引用されている。

中世以降、『古今和歌集』は歌詠みにとって「和歌を詠む際の手本」として尊ばれた。藤原俊成は著書『古来風躰抄』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が「歌を詠む際の基準とすべきものである」ということである。

『古今和歌集』についての講義や解釈は次第に伝承化され、やがて古今伝授と称されるものが現れた。これは「『古今和歌集』の講義を師匠と定めた人物より受け、その講義内容を筆記し、さらに師匠からその筆記した内容が伝えたことに誤りはないかどうかの認可を最後に受ける」というものであった。この古今伝授は、当時の公家や歌人にとっては重要視され、朝廷を中心とする御所伝授や地下伝授・堺伝授と呼ばれる系統が形成されていった。

このように成立した頃から評価が高かった『古今和歌集』であるが、その歌風は江戸時代になると、賀茂真淵により『万葉集』の「ますらをぶり」(すなわち男性的である)と対比して「たをやめぶり」(すなわち女性的である)と言われるようになる。


代表的歌人

紀貫之 - 入集102首。巻第六巻軸。撰者の一人。
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凡河内躬恒 - 入集60首。巻第二第三第五巻軸。撰者の一人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A1%E6%B2%B3%E5%86%85%E8%BA%AC%E6%81%92

紀友則 - 入集46首。巻第八第十二巻軸。撰者の一人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%8F%8B%E5%89%87

壬生忠岑 - 入集36首。撰者の一人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%9F%E5%BF%A0%E5%B2%91

素性 - 入集36首。巻第九巻軸。遍昭の子。撰者以外での最多入集。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%80%A7

在原業平 - 入集30首。巻第十三第十五巻頭。六歌仙の一人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3

伊勢 - 入集22首。巻第一第十三第十八巻軸。宇多天皇の中宮温子に仕える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2_(%E6%AD%8C%E4%BA%BA)

藤原興風 - 入集17首。巻第四巻第十巻頭、並びに古今集1100首の掉尾を飾る巻第二十巻軸。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%88%88%E9%A2%A8

小野小町 - 入集17首。巻第十二巻頭。六歌仙の一人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA

遍昭 - 入集18首。巻第四巻軸。六歌仙の一人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8D%E6%98%AD

清原深養父 - 入集17首。
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在原元方 - 入集14首。古今集の劈頭を飾る巻第一巻頭。業平孫、棟梁子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E5%85%83%E6%96%B9


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竹取物語 (平安時代前期)
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竹取物語 - YouTube
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竹取物語~全体構造・作者 - 古典の改め
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竹取物語[かぐや姫](原文・現代語訳:全巻)- 学ぶ・教える.COM
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/taketori.html


『竹取物語』(たけとりものがたり)は、平安時代前期に成立した日本の物語。「現存する日本最古の物語」とされている。作者は不明で、正確な成立年も未詳である。


竹取の翁(たけとりのおきな)によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。

『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。


江戸時代の国文学者・加納諸平は、『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。諸平は、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物であり、車持皇子のモデルは、天智天皇の落胤との説があり母の姓が「庫持」である藤原不比等、石作皇子のモデルは、宣化天皇の四世孫で「石作」氏と同族だった多治比嶋(丹比真人島)だと述べている。

しかし、物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人が連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子と、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある。

この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。


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2024/01/27 (Sat) 21:49:59

国風文化
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国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。

江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている[1]。国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。


特色
中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い[注釈 1]。

11世紀に確立された「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる、調和のとれた優美さにあると言える[2]。平安時代は日本史上最も女性の感性が大切にされた時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映された[3]。 内裏では調度を整えるにあたり、公式な場やハレの場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、ケの場では和風に誂えるという使い分けをした[4]。


遣唐使の停止
以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。

しかし、遣唐使は、9世紀には頻度が減り、仁明天皇の治世に相当する、承和年間(834年 - 848年)の派遣が最後となった。その一方で、9世紀には中国からの海商が多数渡航するようになったため、遣唐使をわざわざ派遣しなくても中国の文物を多く入手できるようになった。

そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。


浄土教の流行
日本仏教では、末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。往生伝。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像、絵画などにその影響を残した。


女房文学の発達
藤原氏(藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。


かな文字の使用
奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字(ひらがな、カタカナ)が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、ひらがなは漢字の草書体を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。紀貫之が書いた『古今和歌集』の「仮名序」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた和文として初期のものである。



文学

和歌
古今和歌集:延喜5年(905年)に醍醐天皇が紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集。
和漢朗詠集:寛仁2年(1018年)頃に藤原公任が編集した漢詩集。

物語
竹取物語:現存する最古の仮名の物語。
伊勢物語:在原業平を主人公にしたといわれている歌物語。
うつほ物語:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。
落窪物語:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。
源氏物語:王朝物語の最高傑作。

日記・随筆
土佐日記:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。
蜻蛉日記:藤原道綱母が夫藤原兼家との生活の不満を綴った日記。
和泉式部日記:和泉式部が自らの恋愛について綴った日記。
紫式部日記:紫式部が宮中に仕えている時の事を綴った日記。
枕草子:清少納言の随筆。これら2つは、鎌倉時代の随筆。鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。
更級日記:菅原孝標女が自分の人生を自伝的に綴った回想録。
小右記:藤原実資の日記。(漢文)
御堂関白記:藤原道長の日記。

その他
倭名類聚抄:源順が編纂した日本最初の百科事典。
六歌仙:在原業平、小野小町、僧正遍昭、喜撰法師、文屋康秀、大友黒主の6人の歌人の総称。


服装
湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとしたシルエットになった。

男性用
衣冠
束帯
直衣
狩衣

女性用
十二単(女房装束)
細長
楽器
和琴


宗教
御霊信仰
陰陽道
本地垂迹説


建築
貴族住宅が寝殿造の様式で建てられた。平等院にはその影響が見られる。
仏教建築としては浄土教の影響を受けた阿弥陀堂が多く建立された。

法成寺無量寿院:寛仁4年(1020年)に藤原道長が建立。現存せず。
平等院鳳凰堂:天喜元年(1053年)に藤原頼通が建立。
法界寺阿弥陀堂:永承5年(1050年)頃、日野資業が自分の別荘を寺にしたもの。承久の乱で焼失し、再建。

阿弥陀堂以外の建築としては天暦5年(951年)建立の醍醐寺五重塔が知られる。


彫刻
阿弥陀如来像を大量生産するため、分けて造った部品を組み立てる寄木造の技法が用いられた。この技法を完成させたとされるのが定朝である。彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔に細い目の穏やかで瞑想的な表情が特徴で、こうした仏像を定朝様式と呼ぶ。

平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品
法界寺阿弥陀如来像
平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像


絵画
大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画(山水屏風など)や壁画(平等院鳳凰堂扉絵など)が描かれたが仏教絵画を除いて少数しか現存していない。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されたことが推測されているが、11世紀末以前に制作された作品は現存していない。 仏教絵画では来迎図がよく描かれた。

高野山 涅槃図(1086年)
高野山 聖衆来迎図
東寺 十二天(1127年)
東京国立博物館 普賢菩薩像
平等院鳳凰堂扉絵(1053年前後)
京都国立博物館 山水屏風
源氏物語絵巻(平家時代または院政期)
信貴山縁起(院政期)
伴大納言絵巻(院政期)
鳥獣人物戯画甲乙巻(院政期)[注釈 2]


書道
小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。


工芸

刀剣
日本刀の様式(鎬造・彎刀)の確立期である。

三条宗近(三日月宗近)
小烏丸(天国)
備前国友成
童子切安綱(安綱)


蒔絵
奈良時代に日本で考案された蒔絵の技法が大きく発展した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96
11:777 :

2024/01/27 (Sat) 22:59:01

ユング心理学者 河合隼雄の平安物語論


河合 隼雄 かわい はやお(兵庫県 丹波篠山市 1928年6月23日 - 2007年7月19日)
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河合隼雄 - YouTube
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日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。

河合は、欧米で修めた心理学を日本では同様に適用できないことに気づき、日本的環境や日本的心性にあった心理療法を工夫して創ることに苦心したという。

また、彼の著作には「母性社会日本の病理」、「中空構造日本の深層」、「日本人の心のゆくえ」、「日本人という病」、「日本文化のゆくえ」などのように、批判的かつ創造的な問題意識をもった日本文化論がある。

そして、著書『ユング心理学と仏教』は、河合隼雄による日本人の深層心理研究の到達点にして、同人の著作の1つの頂点ともされている。同書では、元々は日本文化や仏教に懐疑的・拒絶的で、欧米の学問・思想にばかり親和的であった河合隼雄が、心理療法の臨床経験を積み重ねる中で、日本人の深層心理に根付く日本の仏教の影響を見出すようになるとともに、人間の自我(ego)・自己(self)の構造や心理療法に伴う治癒の過程が、仏教の世界観・人間観によって的確に説明できること、心理療法の方法論としても、「治療」「解決」といった目的にとらわれず、また、合理的思考による解決や意味解釈を性急に求めない姿勢といった面で、自身の心理療法が実は禅と似ていると感じるようになったことなどが、欧米の聴講者向けの講義の形で語られている。また、そこで語られる日本人に典型的な治癒過程が、確固たる「自我(ego)」を出発点とする精神分析学とは逆方向の志向性を持っているとの指摘もされた。



物語を生きる――今は昔、昔は今〈〈物語と日本人の心〉コレクションII〉
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心理療法家・河合隼雄が,日本の王朝物語を読み,現代人が自分の物語を作る上で参考になる知恵を探る.(解説=小川洋子)

河合隼雄は心理療法における物語の重要性に気づき,日本の王朝物語(9~11世紀)を現代人が自分たちの物語を作る上で参考にできるものはないか,という視点から読む.『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』『浜松中納言物語』『平中物語』などに現われる,様々な物語のパターンが心理療法家独特の目を通して分析される.(解説=小川洋子)(全6冊)


 「心理療法というのは,来談された人が自分にふさわしい物語をつくりあげていくのを援助する仕事だ」.河合隼雄は,心理療法における「物語」の重要性に気づき,日本の近代以前の物語,とくに9世紀から11世紀に書かれた『竹取物語』などをはじめとする王朝物語を取り上げて,この本で分析する.王朝物語を,現代の人間が自分の物語をつくりあげていく上での何らかの参考にできないか,という見方で読んでいくのだ.

 そのような視点から読んでいくと,日本の王朝物語には,西洋の物語にはない独特のパターンがいくつか見られ,繰り返されていることに気づかされる.たとえば,絶世の美女が男性と結ばれることなく立ち去っていく『竹取物語』のパターン,世継ぎを誰にするか政争はあるが,殺人はおろか話し合いもなされない『宇津保物語』の不思議,いじめられた継子が結局は幸福になる『落窪物語』のパターン,『浜松中納言物語』に現われる「夢」や「トポス」の重要性…….様々なテーマにそって,王朝物語の特徴が心理療法家独特の目を通して分析される.

 なぜ近代以前の物語か,という点については,以下の著者の言葉を参照していただきたい.

 現在のように科学技術が発達してくると、人間はこれまで不可能と思っていたことでもどんどんできるようになって、下手をすると、科学技術万能の考えに陥りやすい。人間が実際に生きてゆく上においては、それとは異なる思考が必要であり、その点において、「物語」ということが非常に大切になってくる。人間はその生涯にわたって、一人ひとり固有の「物語」を生きているのだ。このように考えると、日本の古い物語を読むことが、現代に生きることへとつながってくるのである。
――「あとがき」より



物語をものがたる―河合隼雄対談集
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目次
とりへばや物語 内なる異性の発見 桑原博史
竹取物語 美は人を殺す 中西進
能の物語・弱法師 翁からの変奏曲 白洲正子
日本霊異記 自在に往還する魂 山折哲雄
寝覚物語 永遠の美少女の苦悩 永井和子
堤中納言物語 読者がつくるファンタジー 稲賀敬二
とはずがたり キャリア・ウーマンの自己主張 富岡多恵子
小栗判官 絶望の果ての救い 梅原猛
落窪物語 女になるための試練 古橋信孝
宇治拾遺物語 滑稽話のおもちゃ箱 小峯和明


続 物語をものがたる―河合隼雄対談集
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日本古来の『物語』を、現代の「物語」として読み解き、古典の面白さ、現代を生きる様ざまな知恵を発見。『物語』の読み手12人と語り明かす。主な対談者=田辺聖子、今江祥智、大庭みな子、瀬戸内寂聴、他。

 子供のころから「お話を読むことも、聴くことも、それを語ることも好きだった」著者は、親兄弟をはじめ、友人仲間たちと、つねに語り合うことで多くのことを学んだという。この「お話好き」こそが、今日の心理療法家・河合隼雄の原点である。 三〇代半ば、スイスのユング研究所に学んだ著者は、ここでふたたび「お話」に出会うことになる。心理療法家においては、人間と人間の関係を重視する。この関係の根幹をなすものが「物語」であり、人は自分自身の「物語」をつくりあげていくなかで、自己のアイデンティティーを確立し、やがて癒されていく。 人間は本来、物語が好きである。物語を読み、感動することで、語り手と聴き手の間に関係が生まれ、そこから真実が伝わっていった。物語はこうして生まれ、それを共有する人々によって、われわれの物語として存在していたのではないか。ところが、近代になって、物語は荒唐無稽なものとして忘れ去られてしまった。現代人は科学の知こそ唯一の真理だと思いがちである。そこで、関係を切断された現代人は、多くの苦悩を背負ったまま「たましい」を見失い立ち往生している。この「たましい」を回復し、いかに自分の物語をつくりあげるか。その知恵が物語

目次
古事記―神々と人間の壮大なロマン(田辺聖子)
御伽草子―開放的な時代の息吹き(今江祥智)
有明けの別れ―両性具有の美とエロス(中村真一郎)
平中物語―当世サラリーマンの処世訓(古橋信孝)
宇津保物語―作り物語のダイナミズム(高橋亨)
雨月物語―生と死の夢幻境(大庭みな子)
源氏物語―紫式部の女人マンダラ(A・ガッテン)
源氏物語―愛と苦悩の果ての出家物語(瀬戸内寂聴)
今昔物語―民衆を癒す処方箋(W・ラフルーア)
今昔物語―現世は前世の報いの巻(佐竹昭広)
浜松中納言物語―夢と転生のファンタジー(永井和子)
松浦宮物語―歌人・定家の夢想譚(池田利夫)


続々 物語をものがたる―河合隼雄対談集
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臨床心理学の第一人者・河合隼雄が日本の古典物語を対象に、第一線で活躍する作家・学者10人と対談。古典を現代の物語として読み解き、古典のおもしろさ、現代を生きる様々な知恵を導き出す。主な対談者=田辺聖子、大庭みな子、ドナルド・キーン、井波律子、他。

 臨床心理学の第一人者・河合隼雄が、国文学者・作家と対談。古典物語の背景に潜む日本人の多様な心模様を明らかにする。日本古来の『物語』を、現代の〃物語〃として読み解き、古典の面白さ、現代を生きる様ざまな知恵を発見。斬新でユニークな古典への手引書でもある。 本巻は『物語をものがたる』、『続・物語をものがたる』の続編で、最終巻である。 対談者は、田辺聖子、大庭みな子、ドナルド・キーン、井波律子など第一線で活躍する作家・学者など10人である。

目次
狭衣物語―叶わぬ恋の行方(大槻修)
住吉物語―継子のサクセス・ストーリー(三谷邦明)
伊勢物語―夢かうつつの人生模様(大庭みな子)
更級日記―文学少女の見た夢と現実(ドナルド・キーン)
我身にたどる姫君―アイデンティティの探求(三田村雅子)
大和物語―世相を映す歌語り(光田和伸)
蜻蛉日記―自我にめざめた女の一生(河添房江)
中国史の女たち―伝説の美女から女帝まで(井波律子)
朝鮮宮廷物語―恨のものがたり(梅山秀幸)
愉しき哉、ものがたり(田辺聖子)


『源氏物語と日本人:紫マンダラ』
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○目次
はじめに
第一章 人が「物語る」心理
第二章 「女性の物語」の深層
第三章 内なる分身
第四章 光の衰芒
第五章 「個」として生きる



臨床心理学から日本屈指の王朝物語を読み解く

心理療法家・河合隼雄から見た,日本屈指の王朝物語である『源氏物語』とはどんなものであったのか? そこには,どのような日本人の心の世界が描かれていたか? 『源氏物語』の主役は,実は光源氏ではなく紫式部だった? 臨床心理家独特の読みによって,母性社会日本を生きる現代の日本人が直面している問題を解く鍵を提示する.(解説=河合俊雄)


■編集部からのメッセージ

今月から、〈心理療法〉コレクション、〈子どもとファンタジー〉コレクションに続く河合隼雄コレクションの第三弾・〈物語と日本人の心〉コレクションが始まります。その第一冊目となる本書は、河合隼雄が晩年になって日本古典の面白さに目を開かれ、独自の心理学的な読み方を切り開くきっかけともなった『源氏物語』をテーマにして書かれたものです。

 1994年、プリンストン大学に二か月間客員研究員として滞在した折、著者は『源氏物語』に没頭することができた、といいます。確かに『源氏物語』は、著者がそれまで読んだどの王朝物語より抜きんでて面白かったのですが、ひとつ気になることがありました。それは、主人公であるはずの光源氏その人の姿がどうも影が薄い、ということです。読み進んでいくうちに、著者は「これは光源氏の物語ではなく、紫式部の物語なのだと思うようになった」のです。そして、読み終わったときには、「千年以上も前に、これだけ「個」ということを追求した一人の女性がいたという事実に興奮してしまって、しばらく眠ることができなかった」といいます。

 心理療法というのは、「個々の人間がいかに自分の人生を生きるか、ということに直接かかわる仕事である」と著者はいいます。現代の日本人は、「好むと好まざるにかかわらず、西洋近代の影響を受けている」が、「日本的な生き方を知らず知らず身につけている」のではないか、とうのが著者の考え方で、西洋近代を超える努力をするときに、「日本の物語に語られている古い知恵が、あんがい役に立つのではないか」という期待を持って日本の古典文学を読んでいます。

 幸いなことに『源氏物語』は、そのような著者の期待に応える素晴らしい作品であり、「これを、紫式部という一人の女性の自己実現の物語として読むときに、現代人にとって役立つことは大いにあると思った」といいます。それは、「この物語全体の構図が、女性による「世界」の探求の結果として読みとれる」ということだといいます。

 西洋近代の学問は、圧倒的に「男性の目」を中心に成立してきました。しかし、「世界を「男性の目」だけではなく、「女性の目」で見ることが大切であるという主張が、近代を超えようとする欧米の学者の中に認められるように思う」と著者がいうように、このような読み方は現代の日本人にとって、大いに意味があるものだと思います。
https://www.iwanami.co.jp/book/b243851.html



源氏物語とは、思えばすごい物語です。

はるか昔に書かれた物語であるにもかかわらず、今でもほとんどの日本人がその名を知り、

多くの人によって読み継がれています。



しかしそうはいっても、源氏物語をちゃんと読んだことがない、という方も多いのではないでしょうか。

実は、河合隼雄も長い間読んだことがなかったようです。



「若いときに、人並みに挑戦ーと言っても現代語訳であるがーを試みたが、「須磨」に至るまでに挫折した。

青年期にはロマンチックな恋愛に憧れていたので、それと全く異なる男女関係のあり方が理解できなかったのである。

それは端的に言って、「馬鹿くさい」と感じられたほどであった。

次から次へと女性と関係をもつ光源氏のあり方には腹立ちさえ覚えたのである。」(「はじめに」より)



こんな文章を読むと、あーわかるわかる、河合隼雄って、本当に「ふつう」なんだなーと思わされて思わず安心してしまいます。

概して河合隼雄は、専門知識のないところで、感覚を使って読んでいくのが得意なようで、

源氏物語についても、これまでになされていなかった独自の読みを展開することになります。



それが副題にもある「紫マンダラ」という視点なのですが、

つまり、光源氏は中心にいるけれども実は影が薄いではないか、

この男性は、いわゆる主人公などではなく、多様な女性たちを描き出すために存在するのではないか、というものです。



光源氏は中心にいるようであって実は空虚な存在です。

それはまさに「光」であって、さまざまな女性を照らし出す役割をとります。

だからこそ、源氏物語では様々な女性の生き方が主役となって人々の心に残っていくというわけです。

確かに源氏物語って、光源氏かっこいいわーという感想はあまり聞かれず、どの女性が好きだ、嫌いだ、と

私たちは女性たちの方に心を動かされているようです。

このような物語構造を河合隼雄は「紫マンダラ」と名づけたわけです。

本書はそのような意味で学術的でもあり、心理学的な視点から物語を読むことのおもしろさが堪能できる、

つまり、「ふつう」の視点から読んでもおもしろい作品といえるのではないかと思います。
https://www.kawaihayao.jp/ja/information/publication/1218.html




河合隼雄 『とりかへばや、男と女』(新潮社、1991年)
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男と女の境界はかくも危うい! 平安時代の男女逆転物語から「心」と「身体」の深層を探る。

性が入れ替わった男女を描いた異色の王朝文学『とりかへばや物語』。かつて「淫猥」と評された物語には、「性の境界」をめぐる深いテーマが隠されていた。男らしさと女らしさ、自我とエロス、性変換と両性具有――深層心理学の立場からジェンダーと性愛の謎を解き明かすスリリングな評論


あとがき

 本書は、わが国の中世の『とりかへばや物語』を素材として、筆者が心理療法家として関心を持ち続けてきた「男と女」という課題に取り組んだ結果、生まれてきたものである。「男と女」の問題は永遠の問題であり、誰もそれを解くことはできないであろう。それ故にこそ、それを主題とする文学作品がつぎつぎと生み出され、それはとどまることを知らない。筆者にしても、わからないことが多すぎて困るのだが、もう還暦も済んだのだから、それなりに少しでもわかっていることについて書いてみようと思った次第である。

『とりかへばや物語』を知ったのは、明恵(みょうえ)の『夢記(ゆめのき)』の研究を通じてである。明恵については、『明恵 夢を生きる』として発表したが、明恵上人にとっての女性像の重要性を認識するにつけ、当時の人々の男女観を知ろうとして中世の物語にいろいろと目を通しているうちに、『とりかへばや物語』も読むことになった。これは「男と女」という点について大いに考えさせられるものと、興味をそそられ、『明恵-』を執筆中から、『とりかへばや物語』を取りあげて一書を書きたいと考えていた。ここにやっと念願を果すことができて真に嬉しく思っている。

 スイスで学んできたユング心理学は筆者の考えを支える重要な支柱である。しかし、ユングの言う「個性化」を大切にするかぎり、彼の言葉の受け売りではなく、それを「私」という存在のなかで意味あるものとする努力を払わねばならない。その結果として、前著『昔話と日本人の心』、『明恵 夢を生きる』が生まれてきたが、本書はそれらに続く第三作になると自分では考えている。

 心理療法という仕事をしていると、「男と女」という点について考えさせられることが多い。男と女の間の愛憎は、人間関係のもつれの重要な要因である。また、男として生きる、女として生きる、というとき、男とは何か、女とは何かについて真剣に考え、悩む人も多い。あるいは、本文中にも論じるように、男-女という軸は、人間生活を考える上で、思いのほかに重要な柱として用いられている。

 心理療法家には守秘義務があって、自分の仕事の内容についてはなかなか話し難いところがある。その点で、今回のように『とりかへばや』という素材を用いて語るのなら、何らの問題も生じない。夢を用いている以外は、心理療法の場面において実際に生じることについては直接に何も語ってはいないが、本書に述べられていることは、筆者の臨床経験をその基礎にもっている。

『とりかへばや物語』は、男性と女性とを「とりかへ」るという奇想天外なアイデアを中心にしているだけあって、男性・女性に関する固定観念を打ち破り、まったく新しい視座から男女の問題を見直すことを可能にするヒントを多く与えてくれる。従って、これは古い物語でありながら、アメリカの友人が言ったように、「ポスト・モダーン」の知恵を提供してくれるようなところがある。この物語についてヨーロッパで話をしてきたが、なかなか好評だったのも、そのような点があるからだろうと思われる。

 門外漢の気安さで、自分の主観を大切にしながら勝手なことを言わせていただいたが、それでもあまりにも独善にならぬようにと、本文中に引用しているような、先賢の研究を参考にしたり、桑原博史、吉本隆明、富岡多惠子の三人の方との対談によって多くの示唆を受けたりした。ここであらためて、この三人の方に厚くお礼申しあげたい。


担当編集者のひとこと
日本人には今、「河合隼雄」が必要です。

 河合隼雄さんが惜しまれつつ世を去ってから、はや1年余。
 このたび、河合さんの代表作『とりかへばや、男と女』を選書版で復刊しました。

 本作品は、『昔話と日本人の心』『明恵 夢を生きる』と同じく、深層心理学の立場から日本の古典を読み解いた評論です。1991年に小社より単行本として刊行され、1994年に新潮文庫に収録されました。

 平安末期の作品とされる男女逆転物語『とりかへばや』は、川端康成、ドナルド・キーン、吉本隆明など多くの文人を魅了してきた異色の王朝文学。河合さんはこの物語から、「男と女」という単純な二分法を超えた、しなやかなジェンダー観を見出してゆきます。

 巷の窮屈なジェンダー論とは違って、心理療法家ならではの深い洞察に基づく論考は、われわれの凝り固まった脳と心を解きほぐしてくれます。

 何かと性急に二分法的な「答え」を求めがちな現代社会。私たち日本人は今なお、いや、今だからこそ、ますます河合さんの言葉を必要としているのではないでしょうか。
https://www.shinchosha.co.jp/book/603616/



『母性社会日本の病理』(中公叢書、1976年)
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『昔話と日本人の心』(岩波書店、1982年)
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『夢と昔話の深層心理』(小学館、1982年)
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『中空構造日本の深層』(中公叢書、1982年)
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『明恵 夢を生きる』(京都松柏社・法蔵館、1987年)
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『ユング心理学と仏教』(岩波書店、1995年)
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神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉
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神話の心理学――現代人の生き方のヒント〈〈物語と日本人の心〉コレクションIV〉
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昔話と現代〈〈物語と日本人の心〉コレクションV〉
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2024/01/28 (Sun) 20:11:54

平安時代の文学書


伊勢物語 (平安時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837443


伊勢物語 - YouTube
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伊勢物語 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E/

伊勢物語 全章徹底解読 音声つき
https://ise.kaisetsuvoice.com/


讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ
伊勢物語
https://sanukiya.exblog.jp/i13/
伊勢物語 現代語訳1 初冠~芥川
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伊勢物語 現代語訳2 東下り
https://sanukiya.exblog.jp/25735976/

伊勢物語 現代語訳3 紀の有常
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伊勢物語 現代語訳4 筒井筒・梓弓
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伊勢物語 現代語訳5 あはで寝る夜
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伊勢物語 現代語訳6 よしや草葉よ
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伊勢物語 現代語訳7 下紐
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伊勢物語 現代語訳8 源の至・すける物思ひ 
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伊勢物語 現代語訳9 紫
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伊勢物語 現代語訳10 馬のはなむけ
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伊勢物語 現代語訳11 行く蛍
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伊勢物語 現代語訳12 うるはしき友
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伊勢物語 現代語訳13 若草
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伊勢物語 現代語訳14 鳥の子
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伊勢物語 現代語訳15 飾り粽(ちまき)
https://sanukiya.exblog.jp/25898967/


『伊勢物語』(いせ ものがたり)とは、平安時代に成立した日本の歌物語。全1巻。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られる。作者不詳。平安時代のうちの具体的な成立年代も不詳で、初期、西暦900年前後、前期、(現在のような形になったのが)中期などの説がある。名称については後述する。

『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作。現存する日本の歌物語中最古の作品。同じく歌物語とされるものに『大和物語』があるものの、後世への影響力の大きさでは『伊勢物語』と比べるべくもなく、そういった意味では『伊勢物語』は『源氏物語』と双璧をなしており、これらに『古今和歌集』を加えて同時代の三大文学と見ることもできる。


『伊勢物語』は「いろごのみ」の理想形を書いたものとして、『源氏物語』など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語、『大和物語』(950年頃成立)にも共通した話題がみられるほか、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』にも『伊勢物語』から採録されたと考えられる和歌が見られる。

中世以降にはおびただしい数の注釈書が書かれるようになり、それぞれに独自の伊勢物語理解を展開して、それが能の演目の『井筒』や『雲林院』などの典拠にもなった。


▲△▽▼


壺齋散人 絵巻物で読む伊勢物語
https://ise-monogatari.hix05.com/

伊勢物語は今も多くの日本人に愛されている。九世紀の半ばごろに成立したこの古い歌物語は、二十一世紀に生きる日本人の心にも訴えかけるものを持っているからだろう。かくいう筆者も、少年時代にこの物語に感激して以来、還暦を過ぎた今でも、時折繙いては読んでいるところである。最近は、単に物語の本文に接するばかりではなく、絵巻物になったものを、絵物語として鑑賞するようにもなった。

伊勢物語はすでに平安時代の末頃までには絵巻物にされたと推測されている。現存する最古のものは、鎌倉時代(13世紀後半)に成立したものである(現在は久保惣美術館所蔵)。これは、物語の一部に対応するものが残っているにすぎない。物語のすべてに対応するものとしては、徳川時代初期の寛文二年(1663)に作られた住吉如慶本と呼ばれるものがある。これは住吉派の開祖住吉如慶が絵を描き、愛宕通福が詞を書いた。底本には藤原定家の写本を用いているらしく、125段すべての本分と、66段分の絵からなる。

伊勢物語は、本文を読むだけでもつきせぬ味わいがある。なにしろ日本最古の歌物語として、あの紫式部も霊感を受けたと思われるものだ。日本文学の最大の伝統として色好みの男女の恋を描くというものがあるが、伊勢物語はその伝統の出発点にあるといってよい作品だ。我々現代の日本人も、伊勢物語を読むことによって、男は男女の駆け引きを学ぶことができるし、女は男に愛される秘訣を体得することができるはずだ。それほど伊勢物語は、日本人の感性に溶け込んでいるのだ。

そんな伊勢物語を、絵物語の形で読んだら、どんなに楽しいかしれない。そこでこのサイトでは、絵巻物を通じて伊勢物語の世界を耽溺したいと思う。そのよすがとしては、上述した住吉本を用いることにする。

鑑賞するにあたっては、まず、本文及びその現代語訳を載せ、文章の解説及び絵の解説を記し、参考のために付記を加えた。絵は東京国立博物館のサイトからダウンロードしたものを使い、詞書は岩波文庫版(大津有一校注による天福本系統の写本)を底本とした。


伊勢物語絵巻・巻一
 初段(春日野の若紫)
 三段(ひじきも)
 四段(西の対)
 五段(わが通ひ路)
 六段(芥川)
 七段(かへる浪)
 八段(浅間の嶽)
 九段(東下り)
 十二段(武蔵野)
 十四段(陸奥)
 十六段(紀有常)


伊勢物語絵巻・巻二
 十七段(桜花)
 十八段(くれなゐ)
 十九段(雨雲)
 二十段(かへでのもみじ)
 廿一段(忘れ草)
 廿三段(筒井筒)
 廿四段(梓弓)
 廿五段(秋の野)
 廿九段(花の賀)
 卅一段(御達の局)
 卅九段(ともし消ち)


伊勢物語絵巻・巻三
 四十段(さかしらする親)
 四一段(武蔵野の心)
 四三段(賀陽の親王)
 四四巻(県へ行く人)
 四五段(行く蛍)
 四九段(若草)
 五一段(植ゑし植ゑば)
 五二段(あやめ刈り)
 五六段(露の宿り)
 五八段(色好みなる男)
 六十段(花たちばなの香)
 六一段(染河)
 六二段(年ごろ訪れざりける女)
 六三段(つくも髪)


伊勢物語絵巻・巻四
 六五段(在原なりける男)
 六六段(難波津)
 六七段(花の林)
 六八段(住吉の浜)
 六九段(狩の使)
 七十段(あまの釣舟)
 七六段(小塩の山)
 七八段(山科の宮)


伊勢物語絵巻・巻五
 七九段(千尋ある影)
 八十段(藤の花)
 八一段(塩釜)
 八二段(渚の院)
 八三段(小野の雪)
 八五段(めかれせぬ雪)
 八七段(蘆屋の里)
 九十段(つれなき人)
 九五段(へだつる関)
 九六段(天の逆手) 


伊勢物語絵巻・巻六
 九七段(四十の賀)
 九八段(梅の造り枝)
 九九段(ひをりの日)
 百段(忘れ草)
 百一段(あやしき藤の花)
 百四段(賀茂の祭)
 百六段(龍田河)
 百七段(涙河)
 百十四段(翁さび)
 百十五段(都島)
 百十七段(住吉行幸)
 百二十一段(梅壺)
 百二十五段(つひにゆく道)



▲△▽▼


大和物語 やまとものがたり (平安時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%89%A9%E8%AA%9E
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大和物語 - YouTube
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大和物語 和歌一覧 295首 - 古典の改め
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『大和物語』とは、平安時代に成立した中古日本の物語。ジャンルは歌物語で作者はいろいろな説がある。

当時の貴族社会の和歌を中心とした歌物語で、平安時代前期『伊勢物語』の成立後、天暦5年(951年)頃までに執筆されたと推定されている。登場する人物たちの名称は実名、官名、女房名であり、具体的にある固定の人物を指していることが多い。

通常では、内容は173段に区切られる。約300首の和歌が含まれているが、『伊勢物語』とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。

第140段までの前半は(物語成立の)近年に詠まれた歌を核として、皇族貴族たちがその由来を語る歌語りであり、141段からの後半は、悲恋や離別、再会など人の出会いと歌を通した古い民間伝説が語られており、説話的要素の強い内容となる。二人の男から求婚された乙女が生田川に身を投げる「生田川伝説」(147段)、「姥捨山伝説」(156段)などである。また『伊勢物語』にあらわれる「筒井筒」と同じ話が『大和物語』にも出てくるなど、『伊勢物語』の影響は色濃い。『後撰和歌集』や凡河内躬恒の『躬恒集』、『檜垣嫗集』、『公忠集』などの和歌が『大和物語』に出てくることから、これらの作品も『大和物語』と何らかの関係があろう。

作者について、古くは在原滋春や花山院が擬せられたが、現在に至るまで未詳である。内容が宇多天皇や周辺の人物の話題になることが多く、その成立には宇多天皇の身辺に侍っていた女房が関わっているといわれる。


大和物語(尾形月耕画)
以下は尾形月耕による『大和物語』の木版画である。

藤原忠文の息子藤原滋望が父とともに東国へ下ることになったとき、滋望と交際していた監の命婦がやまももを贈ると、滋望は命婦に「みちのくの あだちのやまも もろともに こえばわかれの かなしからじを」と詠んだ(70段)。


藤原庶正(藤原兼輔の子)が賀茂神社の臨時祭の舞人に選ばれて勤めた。このとき或る女から「むかしきて なれしをすれる ころもでを あなめづらしと よそにみるかな」と詠みかけられる(113段)。


大和掾という男は妻のほかに筑紫出身の女を妾にしていたが、男は心変りして妾とは別れることになり、妾は故郷の筑紫へ帰ることになった。男と本妻は山崎の渡しまで出て筑紫の女を見送ると、女は男と本妻に「ふたりこし みちともみえぬ なみのうへを おもひかけても かへすめるかな」という歌を残し舟で去ってゆく(141段)。


攝津国難波に住む夫婦は貧しさから、妻が夫を残し都に出て宮仕えをした。妻は都で別の男の妻となるも、なお故郷に残した夫のことが忘れられず摂津に戻る。だが住んでいた家は跡形もなく夫の行方もわからない。そこへ芦を背負ったみすぼらしい男が通りかかるが、その男は「きみなくて あしかりけりと おもふにも いとどなにはの うらぞうみうき」という歌を女に差し出す。これこそ別れたもとの夫であった(148段)。


「ならのみかど」に仕える采女は帝のことを思うあまり猿沢の池に身を投げてしまった。それを聞いた帝が采女の死を痛み猿沢の池を訪れたとき、供をしていた柿本人麿が「わぎもこが ねたくれがみを さるさはの いけのみなもに なすぞかなしき」と帝の心に擬えて歌を詠んだ(150段)。


朝廷に陸奥国の磐手(いわで)の郡より鷹が献上され、帝はこの鷹を大変気に入り可愛がっていた。あるとき近臣の大納言にその鷹を預けたところ、鷹は逃げて行方知れずとなった。八方手を尽くして探したがどうしても見つからない。致し方なく大納言はこのことを奏上すると、帝はただひとこと、「いはでおもふぞいふにまされる」というのみであった(152段)。


信濃国更科に住む男は年老いたおばとともに暮らしていたが、男の妻はこのおばのことを憎み、深い山におばを捨ててこいと男に迫った。ついに男はおばをだまして月夜に連れ出し、山に置き去りにする。だが家に帰った男は、「わがこころ なぐさめかねつ さらしなの をばすてやまに てるつきをみて」と自分のしたことを悔い、おばを迎えに行ったという(156段)。


下野国に住む男がそれまで暮らしていた妻を捨て、新しい女のもとで暮らすことになった。元の妻の家にある家財道具は新しい女の所へ持っていかれ、残ったのは馬ぶね(飼葉桶)ひとつだけ。それも取りにやらすため、男の従者で「まかぢ」という少年が使いに出された。妻はまかぢに、「ふねもいぬ まかぢもみえじ けふよりは うきよのなかを いかでわたらむ」と男に言づてしてくれと頼む。これを聞いた男は家財道具とともに元の妻のところへ帰った(157段)。
13:777 :

2024/01/28 (Sun) 23:15:04

藤原道綱母 ふじわらのみちつな の はは (936年 - 995年6月2日)
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藤原道綱母は、平安時代中期の歌人。『蜻蛉日記』の作者。藤原倫寧の娘。藤原道綱の母。


蜻蛉日記 かげろうにっき(974年)
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蜻蛉日記 - YouTube
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蜻蛉日記 目次・あらすじ・全体構造 - 古典の改め
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『蜻蛉日記』現代語訳:参考文献:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/kagerou.html


『蜻蛉日記』(かげろうにっき)は、平安時代の女流日記文学。作者は藤原道綱母。天暦8年(954年) - 天延2年(974年)の出来事が書かれており、成立は天延2年(974年)前後と推定される。上中下の3巻よりなる。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。


夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。

歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首にとられている。女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学の嚆矢ともされている。


▲△▽▼


源信 げんしん (奈良県 942年 - 1017年7月6日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%A1_(%E5%83%A7%E4%BE%B6)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837423

源信は、平安時代中期の天台宗の僧。恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)と尊称される。天台宗恵心流の祖。学才に恵まれ、浄土教のみならず、因明、性相、天台など幅広い分野に亘って著作を残した。

源信は日本の浄土教の祖と称され、良忍、法然、親鸞などに大きな影響を与えた。紫式部の『源氏物語』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされる。



往生要集 おうじょうようしゅう(985年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6%81%E9%9B%86


往生要集 - YouTube
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往生要集(おうじょうようしゅう)は、比叡山中、横川(よかは)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。


▲△▽▼


いろは歌 (10世紀末 - 11世紀半ば)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E6%AD%8C
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いろは歌 - YouTube
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いろは歌~作者と解釈 - 古典の改め
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いろは歌とは、仮名文字を重複させず使って作られた47字の誦文ずもん。七五調の韻文で、作者は不明だが10世紀末から11世紀半ばの間に成立したとされる。のちに手習いの手本として広く受容され、近代にいたるまで用いられた。転じて「いろは」は初歩に習得しておくべき事という意味も持つ。またその仮名の配列は字母表の「いろは順」として、中世から近世の辞書類や番号付け等に広く利用された。


現代に伝わるいろは歌の内容は、以下の通りである。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず


いろは歌にある「うゐ」とは「有為」という仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物(サンスカーラ)。転じて「有為の奥山」とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。

いろは歌の内容については中世から現代にいたるまで、各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、儚い夢をみたり、酔いに耽ったりすまい」と、仏教的な無常を述べたものと解釈されてきた。新義真言宗の祖である覚鑁(1095 - 1144年)はその著『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中で、いろは歌は『大般涅槃経』にある、以下の「諸行無常」と始まる無常偈(むじょうげ)の意訳であると説明している。


諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽

諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。
生滅(へのとらわれを)滅しおわりぬ、寂滅をもって楽と為す。

—パーリ仏典, 長部16, 大般涅槃経, Sri Lanka Tripitaka Project
すなわち、

諸行無常→色は匂へど散りぬるを
是生滅法→我が世誰ぞ常ならむ
生滅滅已→有為の奥山今日こえて
寂滅為楽→浅き夢見し酔ひもせず

と、この四句の意をあらわしたものであるとした。



仮名を網羅したいろは歌は、11世紀ごろから仮名を手習いをするための手本としても使われるようになり、江戸時代に入るとさらに仮名の手本として広く用いられた。大正時代に3,065の寺子を対象に行われた調査では、いろは歌を手習いに用いていたところは2,347箇所におよび、それに次ぐ「村名」(近隣の地名を列挙するもの)より850箇所も多い。

いろは歌の作者について確定した説は無く不明である。

『河海抄』には「江談云」、すなわち大江匡房(1041 - 1111年)の言として、いろは歌は弘法大師空海(774 - 835年)の作であるとし、「大女御」が仮名文字で法華経を写し供養する際、僧都源信が法華経の講義をする中で、弘法大師が梵字を伝えたのち仏の教えによっていろは歌を作ったと説明した、という話を引用している。

しかし江戸時代には村田春海や黒川春村から空海作であることを否定する意見が出されており、明治時代の学者大矢透はその著『音図及手習詞歌考』において、いろは歌は空海の時代に作られたものではないと断定している。

小松英雄もいろは歌が空海の作であるという話は俗信に過ぎず、「大矢透によって否定されて以後、すくなくとも国語史研究の領域では、その俗信が問題にされることはなくなった」と述べている。


▲△▽▼


落窪物語(おちくぼものがたり (10世紀末)
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落窪物語 - YouTube
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『落窪物語』は、10世紀末頃に成立したとされる中古日本の物語である。全4巻。作者は不明[1]。源順、源相方などが候補に挙がっており、巻四は清少納言が書き加えたとする説まであるが、いずれも確定に至っていない。

題名の「落窪」は、主人公の薄倖な女君が置かれた居室の名前に由来する。美しい容貌を持つ主人公の落窪の女君が、その名の通り寝殿の隅にある、畳の落ち窪んだ陋屋(ろうおく)に住まわされ、継母からのいじめにあうが、結末は右近の少将に見初められ結ばれるという、シンデレラとも似通った構図を持つ継子いじめ譚。

『落窪物語』は『源氏物語』に先立つ中古の物語で『枕草子』にも言及がある。恩讐のけじめをはっきりさせているやや単純な筋ながらも、継子いじめの筋を軸に、当時の貴族社会を写実的に描写した物語として評価されている。


▲△▽▼


清 少納言 せい しょうなごん (966年 - 1025年)
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清 少納言は、平安時代中期の女房、作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一つ。歌人としては中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人でもある。


枕草子 まくらのそうし(1001年)
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枕草子 - YouTube
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枕草子 全文 - 古典の改め
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枕草子【全文】【原文・現代語訳あり】清少納言 | おにぎりまとめ
https://matome.eternalcollegest.com/post-2145787200427830301

清少納言 枕草子 現代語訳
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/makura.html

清少納言集
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/seisho.html

『枕草子』原文 - 全323段と奥書
https://origamijapan.net/origami/2019/06/20/makurano-sousi-2/

枕草子(原文・現代語訳) - 学ぶ・教える.COM
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/makura.html



『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされている。
『源氏物語』に比肩する中古文学の双璧として、後世の連歌・俳諧・仮名草子に大きな影響を与えた。鴨長明の『方丈記』、兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。



『枕草子』には、清少納言に関する陰口が広まり、それを信じた藤原斉信が一時期「なぜあんな者を一角の人物と思って褒めてきたのだろうか」と殿中で述べていたという記述がある。また源俊賢が清少納言の返答に感心し、内侍の役職につけてもらうよう天皇に願おうとしたという記述もある。『栄花物語』「とりべ野巻」では、清少納言は華やかであった定子の宮廷の中心人物として描かれている。

一方で紫式部は『紫式部日記』において

「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば(清少納言という人はとても自慢げにしている人です。賢そうに漢文など書いていますが、よく見れば粗が多いものです。このような人と変わったことを好む人は、必ず失敗し、行く末も危ないものです)」

と酷評している。


また、近代以降の研究においても『枕草子』の記述などを元に、清少納言に対する評価は低いものであった。田辺聖子は『枕草子』を小説化した『むかし・あけぼの』(1983年)の執筆に当たって研究書に目を通したが、清少納言の自己顕示欲を嫌った評論家や研究者が「信じられないような冷評」を行っているとし、中には「感情的な文章で罵倒する評論家もあった」と述べている。

国文学者藤岡作太郎は「多くの記事は自讃に充ちて、清少納言が驕慢の性を表せり」と、「『艷容麗色』ならざるがゆえに(美人ではなかったために)」学識を誇っていると評し、評論家の中野孝次は「一言でいって実にいやな女」であり、『枕草子』も「あさはかな古典」であると述べている。こうした傾向は1970年代ごろまで続いた。
14:777 :

2024/01/29 (Mon) 05:49:21

和泉 式部 いずみ しきぶ (福井県 978年 - 没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837394


和泉 式部 は、平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人でもある。


敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。

ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。

『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。


和泉 式部 は、平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人でもある。


敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。

ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。

『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。


和泉式部集 いずみしきぶしゅう
和泉式部の家集。
『和泉式部正集』、『和泉式部続集』、宸翰(しんかん)本『和泉式部集』、松井本『和泉式部集』、雑種本『和泉式部集』の5種が知られている。

902首からなる正集、647首の続集は、ともに雑纂(ざっさん)的な内容を有し、重出歌分布の状況などから、両集はもと一体であったものと想像される。その内部に、百首歌、題詠歌群、帥宮挽歌(そちのみやばんか)群、日次(ひなみ)詠歌群など、式部自撰(じせん)の痕跡(こんせき)をとどめる歌群を含みもってはいるが、全体としては他撰(たせん)の総収歌集とみられる。 宸翰本、松井本はともに部立(ぶだて)組織を有する勅撰集などからの抜粋本であり、雑種本は、以上の4種いずれにも属さない、後人の撰になる伝本の総称である。

質量ともに優れたこの集には、王朝期歌人の代表的私家集としての高い評価が与えられている。


『和泉式部集〔正集〕』現代語訳
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/i_uta.html

『和泉式部集〔続集〕』現代語訳
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/zoku.html  



和泉式部日記 いずみしきぶにっき
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98


和泉式部日記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98

和泉式部日記 全文 - 古典の改め
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和泉式部日記 和歌一覧 147首 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E4%B8%80%E8%A6%A7/

『和泉式部日記』現代語訳:参考文献:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/izumi.html

『和泉式部日記』現代語訳
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken/izumi.html

讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ
和泉式部日記現代語訳
https://sanukiya.exblog.jp/i9/

和泉式部日記現代語訳1~4夢よりも
https://sanukiya.exblog.jp/25681923/

和泉式部日記現代語訳5~8疑惑
https://sanukiya.exblog.jp/25685689/

和泉式部日記現代語訳9~12手習
https://sanukiya.exblog.jp/25685927/

和泉式部日記現代語訳13~16手枕の袖
https://sanukiya.exblog.jp/25719080/

和泉式部日記現代語訳17~19愛の日々①
https://sanukiya.exblog.jp/25728911/

和泉式部日記現代語訳20~23愛の日々②
https://sanukiya.exblog.jp/25728995/

和泉式部日記現代語訳24~26宮仕え
https://sanukiya.exblog.jp/25729254/



『和泉式部日記』は女流日記文学の代表的作品である。
和泉式部の本人自筆の作品とされることもあるものの、かつては『和泉式部物語』とも呼ばれたこともあり、また主人公であり筆者であるはずの和泉式部本人を「女」という三人称的呼称で扱っていることから別に作者がいるのではないか、との意見もある。


和泉式部は恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されている。

敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。

『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。


和泉式部は、あらかじめ決められた歌題について和歌を詠む、12世紀初頭の題詠成立以前の歌人であった。和泉式部が活躍した10世紀後半から11世紀前半は、源融の旧宅であった河原院という場に、和泉式部の実家である大江氏を始めとして、清原氏、平氏などという中下級貴族が集う和歌のサロンが形成されていた。このような和歌サロンの中で、後の題詠へと繋がっていく文芸性を重んじる和歌が形作られていく。

曽根好忠は河原院の和歌サロンの代表的な歌人であるが、身分が低い曽根は上級貴族の歌会に参加することが難しく、勅撰和歌集の撰者となることもなかった。その一方でそのような公共性が強く、制約の多い立場から自由に歌を詠むことに繋がった。和泉式部はこのような和歌サロンの流れを受けて和歌を詠むようになっていった。

和泉式部は同時代の紫式部から、優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されている。高名な紫式部による和泉式部評は、後世に和泉式部の好色な女性像を広めることに繋がった。この好色なイメージは平安時代の後期になるとより強化された。

中世前期から室町時代にかけて、仏教的な説話が和泉式部像に強く反映されるようになる。中世の説話では和泉式部が遊女であると捉えられているものがあり、そのような中で、法華経の教えを踏まえながら、仏教的な救済を求める女性として和泉式部が描かれるようになる。

近世に入ると、与謝野晶子が「情熱的な」歌人として和泉式部を高く評価し、その評価が定着していったとの説がある。しかし実際には、藤岡作太郎が、与謝野晶子が和泉式部に関する著作を発表する以前に情熱的な歌人として評価しており、また、与謝野晶子による評価も情熱を全面に押し立てるようなものではなく、和泉式部の作品には、多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥という相反した感情が詠み込まれていることを指摘したものであった。

しかしながら、与謝野晶子自身が「情熱的歌人」として捉えられるのと期を同じくするように、和泉式部も情熱に結び付けられていく。そして情熱は「愛欲」、「爛熟した性」、「刹那的な詩人」などといった和泉式部像の形成に繋がってしまった。この和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」との結び付きは、両者の人物像把握に大きな影響を与え続けている。

もちろんそのような和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」や「愛欲」、そして「性」との安易な結びつけには批判があり、求道者として、そして近代的な自我的なものに依る解釈も見られる。しかしそのような和泉式部の受容もまた、近現代からの眼を安易に古典に敷衍するものであるとの批判がある。
15:777 :

2024/01/29 (Mon) 05:49:39

紫 式部 むらさき しきぶ (平安時代中期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8


紫式部 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8


紫 式部は、平安時代中期の歌人・作家・女房(女官)。

『源氏物語』の作者とされ、この作品は生涯で唯一の物語作品となった。歌人としては、『百人一首』の和歌が知られており、『紫式部日記』(18首)、『紫式部集』、『拾遺和歌集』などにも和歌を残し、和歌795首が詠み込まれた。『中古三十六歌仙』、『女房三十六歌仙』の一人でもある。


代表作
小説
『源氏物語』

日記
『紫式部日記』(18首)

和歌
『百人一首』(57番)
『紫式部集』
『拾遺和歌集』
『勅撰和歌集』(計51首)


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源氏物語 げんじものがたり (1008年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E


源氏物語 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

源氏物語
http://james.3zoku.com/genji/index.html

源氏物語  あらすじ
http://james.3zoku.com/genji/genji_arasuji.html  

源氏物語 与謝野晶子 翻訳
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person52.html#sakuhin_list_1

源氏物語(原文・現代語訳) - 学ぶ・教える.COM
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/genji.html


『源氏物語』は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。全54帖、文献初出は1008年(寛弘五年)、平安末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された。

作者の紫式部は平安中期における和歌の名手の1人で、娘の大弐三位とともに「百人一首」や「女房三十六歌仙」の歌人として現代に至るまで永く親しまれており、源氏物語は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品である。日本の歴史上、貴族階級の全盛期だった平安中期に生き、宮仕えで宮中の内情にも日常的に接した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して当時の貴族社会を描いた。


『源氏物語』ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/index.html

紫式部年表:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/nenpyo.html

年齢設定(桐壺~朝顔):演劇版『源氏物語』
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/gekisaku/a_settin.html

紫式部の視点:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/gekisaku/shiten.html

劇作備忘録:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/gekisaku/bibou.html

「源氏物語」ここが素晴らしい!:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/pickup.html

参考文献:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/bunken.html


過激すぎる源氏物語の謎!
https://www.youtube.com/watch?v=3y6HgJmp7fE

倉本一宏『紫式部と藤原道長』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16822363


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紫式部集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E9%9B%86

紫式部集 全文 原文対訳 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E9%9B%86/%E5%85%A8%E6%96%87/

「紫式部集」解読:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/kaidoku2.html


『紫式部集』(むらさきしきぶしゅう)は、紫式部の和歌集。
和歌はおよそ120首が収められている。

掲載された和歌の分析を通じて、紫式部の思想的背景、彼女が人生で感じていた不条理、虚無感といった生涯にわたる心理的変化を汲み取ることができる。大きく二層に分かれ、前半生は人生に肯定感が強く明るい作品が多いが、後半生は否定的で荒涼とした作風が目立つ。


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紫式部日記 (1010年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98


紫式部日記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98

紫式部日記 原文対訳 全文 - 古典の改め
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「紫式部日記」解読:源氏物語ウェブ書き下ろし劇場:台本:演劇の世界:MAC
http://www.misawa-ac.jp/drama/daihon/genji/kaidoku.html


『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。

鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。

中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。

よく話題にされる部分では、

和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、

先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。

特に清少納言への評では

「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば至らぬところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」

とあって、実際に後の「古事談」に似た話(清少納言の住居が零落したさまになり、侮りを口にした通行人に瞬時に故事を持ち出して反撃した話)が記されている。

そして、清少納言の「枕草子」には人々のふるまいへの批判的な感想も多く、紫式部の亡くなった夫が人に批判されることもあって、恨まれていたと解釈されている。
16:777 :

2024/01/29 (Mon) 06:14:13

和漢朗詠集 わかんろうえいしゅう(1013年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%9C%97%E8%A9%A0%E9%9B%86
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837413


和漢朗詠集 - YouTube
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縦書き和漢朗詠集
https://utakura.com/w/wakan#1


『和漢朗詠集』は、平安時代中期の歌人で公卿の藤原公任(藤原北家小野宮流)が漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集である。長和2年(1013年)頃に成立した。『倭漢朗詠集』あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。

上下二巻で構成。その名の通り朗詠に適した漢詩および漢文588句(多くは断章。日本人の作ったものも含む)と和歌216首を選んだものである。主として三代集(古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集)と大江維時編『千載佳句』より取材しており、詩句では唐の白居易(白楽天)の137句、ついで日本の菅原文時の40余句、和歌では紀貫之の26句を最多としている。

構成は、勅撰和歌集『古今和歌集』等にならい、上巻に春夏秋冬の四季の歌、下巻に雑歌を入れている。

成立以後、朗詠のテキストとして、また詩作歌作の手本として広く愛賞され、書道の名家によって書写されたので習字の手本としても珍重された。文学においては『源氏物語』や『枕草子』など、平安時代以降の日本中世文学に詞章の題材をあたえた影響にはきわめて大きいものがある。
また、漢字と仮名文字の両方で当時の流行歌が書いてあることから、寺子屋などで長年読み書きの教科書としても用いられた。


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菅原孝標女 すがわらの たかすえの むすめ (千葉県市原市 1008年 - 1059年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E5%AD%9D%E6%A8%99%E5%A5%B3


菅原孝標女 - YouTube
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菅原孝標女は、平安時代の貴族の女性。本名は伝わっていない。
10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者。

父は菅原道真の玄孫で上総国・常陸国の受領を務めた菅原孝標。母は藤原倫寧の娘。母の異母姉(伯母)は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。

彼女は寛弘5年(1008年)に出生。寛仁4年(1020年)、上総国における父の上総介としての任期が終了したので一家で帰国(上京)し、3ヶ月ほどの旅程を経てようやく京へと入った。帰国するころ彼女は13歳で、『更級日記』は上総国に居る頃から始まっている。

当時、物語に対する熱が冷めず、翌年に上京した伯母から『源氏物語』五十余巻などを貰い、昼夜を問わず読み耽った。夢に僧が出てきて(女人成仏が説かれている)「法華経・第五巻を早く習え」と言うが、心にも掛けず物語を読みふけったことを、後年『更級日記』の中で、「まづ いとはかなく あさまし」と批評している。万寿元年(1024年)には姉が二女を残して亡くなり、なお物語に耽読した。しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになる。

祐子内親王に仕え、長久元年(1040年)頃、橘俊通と結婚。寛徳2年(1045年)に一男(仲俊)と二女をもうけたが、俊通は康平元年(1058年)に死去し、子供達も独立して彼女は孤独になった。このあたりで『更級日記』は終わっている。


作品

更級日記
夜半の寝覚?
浜松中納言物語?

歌人としては、勅撰和歌集に14首はいっている。


更級日記 さらしなにっき (平安時代中期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E7%B4%9A%E6%97%A5%E8%A8%98


更級日記 - YouTube
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更級日記 現代語訳・朗読つき 全篇徹底解読
https://koten.kaisetsuvoice.com/SarashinaNikki/

更級日記 全文・あらすじ・目次 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E6%9B%B4%E7%B4%9A%E6%97%A5%E8%A8%98/%E5%85%A8%E6%96%87/

更級日記 現代語訳
https://bonjin-ultra.com/sarasina.htm


『更級日記』は、平安時代中期頃に書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母である。夫の死を悲しんで書いたといわれている。

作者13歳(数え年)の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。

『蜻蛉日記』『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。


東国・上総の国府(市原郡、(現在の千葉県市原市)にあったと考えられている)に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、寛仁4年(1020年)9月に上総から京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆する。

『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。執筆形態としてはまとめて書いたのだろうと言われている。


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とりかへばや物語 (平安時代後期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84%E7%89%A9%E8%AA%9E


とりかへばや物語 - YouTube
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とりかへばや物語(第1部全16話) - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLUATrGLX94D-c7SWa-e-yumvf5QQNqFRX


『とりかへばや物語』は、平安時代後期に成立した物語である。作者は不詳。「とりかへばや」とは「取り替えたいなあ」と言う意の古語。

この作品は、男性と女性が入れ替わるという非現実的な設定である反面、2人を中心とする人間関係の描写は現実的かつ重層的であり、現在でも十分に味わい深く鑑賞できる。特に男装の女児である「若君」が宰相中将に素性を知られ身を許してしまうシーンは、本作品のクライマックスの一つでもあり、本作品が文学史の中で「変態的」という評価の一因ともなっている[2]といい、「ポストモダーン」の知恵を提供してくれるという[3]。この点が、当時書かれた数量に対して現存作品の少ないジャンルであるにもかかわらず、人々へ強い印象を残し、当時、数多く作られた物語の中で本作品を現在まで命脈を保たせる原因となったのであろう。河合隼雄は、著書の中で、日本文学というと「わび」、「さび」など深遠すぎて理解しがたいものだと思っていたが、全く違ったもので、そこで語られる「知恵」は相当に深く、現代でも通用するし、現代でこそ生かしたいほどのものである旨、述べている。河合はのちの1988年のエラノス会議の場で、この作品について発表してみたところ反響が上々で、欧米人にも通用することが分かったと述べている。


河合隼雄 『とりかへばや、男と女』(新潮社、1991年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84%E3%80%81%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8%EF%BC%89-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84-ebook/dp/B00E38B1T4/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=182R6WHMIBBVN&keywords=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84%E3%80%81%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3&qid=1706247962&sprefix=%E6%B2%B3%E5%90%88%E9%9A%BC%E9%9B%84+%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%81%B0%E3%82%84+%E7%94%B7%E3%81%A8%E5%A5%B3%2Caps%2C379&sr=8-1


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堤中納言物語 つつみちゅうなごんものがたり (平安時代後期以降)
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https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837773


堤中納言物語 - YouTube
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『堤中納言物語』は、日本の平安時代後期以降に成立した短編物語集。編者は不詳。10編の短編物語および1編の断片からなるが、成立年代や筆者はそれぞれ異なり、遅いものは13世紀以後の作品と考えられる。
10編の物語の中のいずれにも「堤中納言」という人物は登場せず、この表題が何に由来するものなのかは不明である。

以下の10編、及び未完の断片で構成される。

「逢坂越えぬ権中納言」
唯一筆者と成立年代が確認されている。天喜3年(1055年)成立、筆者は小式部(小式部内侍とは別人)。「六条斎院物語合」(天喜三年五月三日物語歌合)のために新作された作品で、いわゆる「薫型」の貴公子の恋を描いたもの。

諸事にわたって完璧な貴公子である中納言が、恋する女宮の側まで参上するが、遠慮のためについに契ることは出来ずに終わる。


「花桜折る少将(中将)」
主人公の少将は「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」(もったいない。こんな美しい月と花を趣を知る人だけに見せたい)と詠う美しい姫君に恋をし、彼女が入内する前に盗み出そうとする。しかし、誤って姫の祖母を連れてきてしまう。


「虫愛づる姫君」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%82%81%E3%81%A5%E3%82%8B%E5%A7%AB%E5%90%9B

按察使大納言の姫は美しく気高いが、裳着(元服に相当)を済ませたにもかかわらず、化粧せず、お歯黒を付けず、ゲジゲジ眉毛のまま、引眉せず、平仮名を書かず、可憐なものを愛さず毛虫を愛する風変わりな姫君だった。その様子を屋敷に入り込んだ風流な貴公子が覗き、歌を詠みかける。「かは虫の毛ぶかきさまをみつるよりとももちてのみまもるべきかな」。返事をしないので女房が返歌「人に似ぬ心のうちはかは虫のなをとひてこそいはまほしけれ」。これを見ていた貴公子は「かは虫にまぎるるまゆの毛の末にあたるばかりの人はなきかな」と詠う。突然話が終わり、<二の巻にあるべし>となり、第二巻はない。


「このついで」
中宮(または女御)の無聊と徒然を慰めようと薫き物を試みたことをきっかけに、中宮の弟である宰相の中将と、中納言の君・少将の君といった女房らが今まで見聞きしたしみじみとする話を語り合う。


「よしなしごと」
ある僧が他人から品物を借りるために書いた長い手紙は、驚き呆れるようなものだった。


「はなだの女ご(花々の女ご)」
ある屋敷に集った姉妹達が、それぞれ仕えている女主人のうわさ話をする。姉妹達の大半と関係がある風流男が、そのさまをこっそりと覗き見る。


「はいずみ」
新旧二人の妻を持った男が、新しい方の妻を家に迎えて同居しようとするが、もとの妻の哀しむ様子を見て思いなおす。ある日新しい妻の所へ行くと、慌てた妻ははいずみ(眉墨)を白粉と間違えて顔に塗ってしまう。せっかちな男はそれに幻滅し、もとの妻のもとへ戻る。両親がやってくると黒い娘にびっくり。娘も鏡を見て「かかりけるものを、『いたづらになり給へる』とてさわぎけるこそ、かへすがえすをかしけれ」。


「ほどほどの懸想」
女童と小舎人童の恋から、侍と女房、頭中将と宮の姫、という主従3組、それぞれの身分(「ほど」)相応の恋が進んでゆく。


「貝合はせ」
蔵人少将は、偶然ある姫君とその腹違いの姉が貝合をすることを知る。母の居ない姫君の境遇に同情した少将は、こっそりと素晴らしい貝を用立てて、味方してやる。


「思はぬ方にとまりする少将」
姉妹の姫君にそれぞれ通って相婿となっている二人の少将が、ふとした取り違えで、妻ではない方の姫君とそれぞれ契ってしまう。と見せかけてー


未完断片
「冬ごもる……」という書き出しで始まる、数行程度の断片。物語の冒頭部分と見られる。しかし、これがただの断片の混入なのか、意図的に置かれたものなのか、あるいは写本時の書きさしなのかについては不明である。

2:777 : 2024/01/31 (Wed) 11:04:46
壺齋散人 堤中納言物語を読む
https://japanese.hix05.com/Classic/tutumi.index.html

堤中納言物語は、現存するわが国最古の短編物語集であり、また、ショートストーリーズの祖形の一つとして、世界文学史上にユニークな地位を占める。10編の短編小説からなり、そのどれもが独特な味わいをかもし出す。物語の意外性や描写の細やかさなど、短編小説として優れたものが多い。そんなところから、21世紀のいま読んでも、新鮮さを感じさせる。日本文学史上の奇貨といってよい。

10篇の物語のそれぞれが、いつ、だれによって書かれたかについて、詳しいことは不明であるが、概ね、平安時代末期から鎌倉時代の前期にかけて、複数の人々によって書かれ、それらが一定の時期に一冊にまとめられたのだろうと考えられている。堤中納言物語という標題がそのときにつけられたか、あるいは後世になってそう呼ばれるようになったか、についても不明であり、いくつかの推測がなされているに過ぎない。

10篇の物語を比較考量すると、相互の類似や相違にもとづいて分類したくなる誘惑を感じる。おおまかに分類すれば、「このついで」「逢坂越えぬ権中将」「貝あはせ」のように王朝的なみやびをテーマにしたもの、「はいずみ」のように「伊勢物語」や「大和物語」同様の説話の形式をとっているもの、「花桜折る少将」「虫めづる姫君」のように猟奇性を押し出しているものなどに分けられよう。そして、王朝的な雰囲気の作品が平安末期に、猟奇的な作品が鎌倉時代に書かれたのだろうと推測される。

平安時代末に書かれたものには、物語合わせとの関連が指摘されている。物語合わせとは、貝合わせや根合わせと同様、宮中における遊戯の一種で、人々が二手に分かれてそれぞれ物語を披露し、その優劣を競うというものだ。遊戯の席上でのことだから、短いボリュームのなかにすぐれた趣向を盛り込んだほうが勝つ。そうした前提が、これらのいくつかの短編物語に独特のウィットを加えさせる推進力になったと考えるわけである。物語合わせからは大量の物語が生まれたと思われるが、それらは全くといってよいほど伝わっていない。その一部が、堤中納言物語のなかに取り入れられて、わずかに伝わったのだと思われる。

一方、「虫めづる姫君」に見られる猟奇性は、ほかに例を見ないユニークなものだ。猟奇性への趣味は、すでに平安時代末の今昔物語集に伺えるが、「虫」の猟奇性ははるかに常識の枠を超えた、意外なものだ。その意外性が、この作品に、日本文学史上独特の地位を与えるもととなっている。

ここでは、堤中納言物語所収の10篇の短編物語について、一つひとつ鑑賞していきたい。テクストには山岸徳平訳注「堤中納言物語」(角川文庫)を用い、管理人による現代語訳と鑑賞上のポイントを付した。


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今昔物語集 こんじゃくものがたりしゅう (平安時代末期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86


今昔物語集 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86


『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)とは、平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。

『今昔物語集』の成立年代と作者は現在も不明である。

『今昔物語集』に想を採った近代小説家は多い。中でも大正時代の芥川龍之介による『羅生門』と『鼻』は有名である。

河合隼雄によると、『今昔物語集』の内容は「昔は今」と読みかえたいほどで、ひとつひとつの物語が近代を超える知恵を含んでおり、その理由としては、当時の日本人の意識が外界と内界、自と他を区別しないまま、それによって把握された現実を忠実に書き止めている点にあるとしている。ポストモダンの問題意識は、それがデカルト的(心身二元論的)切断をいかに超越するかにあり、その点で『今昔物語』は真に有効な素材を提供するとしている。


壺齋散人 今昔物語集を読む:現代語訳と解説
https://japanese.hix05.com/Narrative/Konjaku/konjaku.index.html

今昔物語集は、平安時代末期に成立した説話集で、全三十一巻、併せて千二百余の説話を収めている。そのいづれも、原則として、「今昔」ではじまり、「トナム語リツタヘタルトヤ」で結んでいることから、「今昔物語集」と呼ばれるようになった。もっとも鎌倉時代の半ば頃までは、「今昔物語」と呼ばれていたようである。

今昔物語集に収録された説話の中には、「宇治拾遺物語」と共通するものが結構ある。「宇治拾遺物語」はまた「宇治大納言物語」との共通性が指摘される。そんなことからこの三者を、宇治大納言源隆国と関連付ける意見もあるが、今日では否定的に受け取られている。もっとも内容的には共通なものが多いのは事実で、それらを特徴づけると、因果応報、生者必滅、会者定離といった仏教的世界観が濃厚なことである。

今昔物語集の撰者は、はっきりとはわかっていないが、その表現能力からして、貴族社会の一員ではなく、大寺に所属する無名の僧だったのではないかと思われる。無名の僧とは言っても、相当の教養はあるわけで、でなければ今日に至るまで多くの読者をひきつけることはなかったであろう。しかも、文学作品として読んでも面白い。芥川龍之介や谷崎潤一郎が、今昔物語集の説話からインスピレーションを受けて、小説を書いたことはよく知られている。

今昔物語集の説話の面白さは、事実を淡々と、誇張なく描くことにあり、簡潔な表現のなかから、具体的な出来事がありありと浮かんでくるようなところにある。美辞麗句を排して、論理的に積み上げていく文章が、ある種のリアリズムの力を以て、読者に迫ってくるようなところがある。それがこの説話集の生命というべきものだ。

しかもその簡潔で論理的な文章が、書き手が読み手に向って呼びかけるような説話固有の口調とあいまって、独特の調子の文体となっている。その独特の文体がこの説話集に共通の性格を付与しているのであるが、語られる説話の内容は多岐にわたっている。その多岐の説話を、大きく三つに区分して収録している。巻一から巻五までは天竺の部、巻六から巻十までは震旦の部、巻十一から巻三十一までが本朝の部である。本朝の部はさらに、仏法にかかわる部分(巻廿まで)と世俗的な部分(巻二十二以降)とにわかれている。説話として面白いのは、主として本朝世俗部のものであるが、それ以外のものにも面白いものはある。

このサイトでは、今昔物語集の本朝世俗部からとりわけ面白い話数十篇を取り上げて、テクストの現代語訳と簡単な解説を付した。今昔物語集は、今に生きる日本人にも、尽きせぬ興味の源泉である。



時平の大臣、國經大納言の妻を取る語(今昔物語集巻二十二第八)

左衞門尉平致經、明尊僧正を導きし語(今昔者物語集巻二十三)

陸奥前司橘則光、人を切り殺す語(今昔物語集巻二十三第十五)

相撲人大井光遠の妹、強力の語:今昔物語集巻二十三第廿四

女、醫師の家に行き瘡を治して逃ぐる語 今昔物語集巻二四第八

蛇に嫁ぐ女を醫師もなほせる語:今昔物語集巻二十四

安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語 今昔物語集巻二十四第十六

玄象の琵琶、鬼の爲に取らるる語:今昔物語集巻二十四第廿四

源宛と平良文と合戰ふ語:今昔物語集巻二十五第三

藤原保昌朝臣、盗人袴垂に値へる語:今昔物語集巻二十五第七

藤原親孝、盗人の爲に質に捕られ、頼信の言に依りて免されし語:今昔物語集巻二五第十一

源頼信朝臣の男頼義、射殺馬盗人を射殺せる語:今昔物語集巻二十五第十二

東の方へ行く者、蕪を娶ぎて子を生む語:今昔物語集巻二十六第二

土佐國の妹兄、知らぬ島に行きて住む語:今昔物語集巻二六第十

參河の國に犬頭糸を始むる語:今昔物語集巻二六第十一

利仁の將軍、若き時京より敦賀へ五位を將て行く語:今昔物語集巻二六第十七

産女、南山科に行きて鬼に値ひて逃げし語:今昔物語集巻二七第十五

近江國の生靈、京に來たりて人を殺す語:今昔物語集巻二七第二十

人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語:今昔物語集巻二七第廿四

女死せる夫の來たるを見る語 今昔物語集巻二七第廿五

近衞舎人共の稲荷詣に重方女に値ふ語 今昔物語集巻二八第一

頼光の郎等共、紫野に物見たる語 今昔物語集巻二十八第二

近衞舎人秦武員、物を鳴らす語 今昔物語集巻二八第十

祇園の別當戒秀誦經に行はるる語 今昔物語集巻二八第十一

池尾の禅珍内供の鼻の語 今昔物語集巻二十八第二十

大蔵の大夫紀助延の郎党、唇を亀に食はれし語 今昔物語集巻二八第三三

信濃守藤原陳忠御坂より落ち入る物語集巻二十八第卅八

寸白信濃守に任じて解け失する語 今昔物語集巻二十八第卅九

外術を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十

近江國の篠原の墓穴に入る男の語 今昔物語集巻二十八第四四

羅城門ノ上層ニ登リ死人ヲ見タル盗人ノ語 今昔物語集巻二九第十八

袴垂、関山ニ於テ虚死シテ人ヲ殺ス語 今昔物語集巻二九第十九

妻ヲ具シテ丹波国ニ行ク男、大江山ニ於テ縛ラルル語 今昔物語集巻二九第二十三

丹波守平貞盛、児干ヲ取ル語 今昔物語集巻二九第二十五

日向守、書生ヲ殺ス語:今昔物語集巻二九第二十六

女、乞匂ニ捕ヘラレテ子ヲ棄テテ逃グル語 今昔物語集巻二九第二十九

蛇、女陰ヲ見テ欲ヲ発シ、穴ヲ出デテ刀ニ当タリテ死ヌル語 今昔物語集

蛇、僧ノ昼寝ノマラヲ見テ呑ミ、婬ヲ受ケテ死ヌル語 今昔物語集

平定文、本院の侍従に懸想せし語 今昔物語集巻第三十第一話
17:777 :

2024/02/17 (Sat) 15:23:53

雑記帳
2024年02月17日
榎村寛之『謎の平安前期 桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』
https://sicambre.seesaa.net/article/202402article_17.html

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本の「古典的国制」の確立期で、多くの古代集落の消滅など大規模な社会変化があったと推測され、重要ではあるものの、日本史でも一般的な人気が低く、よく理解されていないだろう平安時代前期を扱っています。具体的には、本書では一条天皇の頃までが扱われています。もちろん、私も平安時代前期についての理解はあやふやなので、最近の知見を得るために読みました。以下、本書のとくに興味深い見解を備忘録として取り上げます。

 平安時代前期の重要な特徴の一つは、「国史」編纂が行なわれなくなったことです。それまで、行政記録は最終的に「国史」に編纂されていましたが、「国史」編纂は難事業で、そこから先例を導くのは苦労するため、行政担当者の残した事務記録が日記に残され、「先例」として重視されるようになります。また、そもそも漢字文化圏の史書には王朝交替を批判的に検証する目的もあったものの、天皇と摂関が一体になり、王権簒奪のような形での王朝交替が強く意識されないようになったため、王朝交替を批判的に評価するための歴史書は、日本において価値を完全に失ったのではないか、とも指摘されています。また本書は、平安時代前期の大きな特徴として、「大きな政府」から「小さな政府」への転換を挙げています。

 平安時代は桓武天皇に始まり、桓武はその出自から皇位継承の可能性はほとんどなく、それ故に劣等感が強かったので、さまざまな自己正当化を図った、との見解は広く浸透しているように思います。本書はそれを、天皇を「中華皇帝」に近づけるなどの「漢風化」として把握しますが、それが多分に場当たり的だったことも指摘します。本書は桓武朝の特徴の一つとして、出自が低くても学識のある人物の登用を挙げています。こうした流れの延長に、菅原道真の出世もあったようです。また本書はこの頃の官人登用試験も取り上げ、8~9世紀にかけては、現場の課題解決のための秀才確保という性格が明確にあったことを指摘します。このように、平安時代初期には人材登用に流動性がありましたが、それが次第に失われていき、それは菅原道真が失脚した901年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の昌泰の変で決定的となります。この後、貴族は公卿になれる上層とそうではない下層との格差が大きくなり、平安時代でも後期は前期とかなり異なる社会へと変容していきます。

 女官の地位も、平安時代前期には変容していきます。奈良時代には女官の身分は高く、自立性が高かったわけですが、8世紀後半以降に変容していき、重要な転機となったのが、810年の平城天皇の乱(薬子の変)で、女官の役職は形骸化していきます。女性関連では、桓武天皇と嵯峨天皇の時代に本格的な後宮が形成されていったことや、内親王が結婚しなくなっていったことも、平安時代前期の重要な変化です。全体的に、平安時代前期には奈良時代と比較して女性の地位が低下していったようです。摂関政治期における「女流文学者」の続出にしても、9世紀前半までと異なり、その実名はほぼ伝わっていないことにも、それは現れているようです。

 本書は、現在では地味な天皇の一人と一般的には認識されているだろう、文徳天皇にも1章を割いています。本書は、文徳天皇をめぐる背景として、嵯峨天皇以降とくに、儒教思想に基づく、礼を重視した秩序意識の強調が挙げられています。高圧的・専制的ではなく、謙譲的で文化的な態度が規範とされていった、というわけです。奈良時代には、瑞祥は天皇の徳の現れと認識されていましたが、そうした単純素朴な認識は低下していきました。これは、儒教的な知性と理性で政治を行なう「文章経国思想」と通じている、と本書は指摘します。また文徳朝の前後で、名前(諱)には縁起のよい二文字をつける、という発想が定着していったようで、つまりは「馬子」というような名前はこの頃に消えていきました。

 本書は、紀貫之にも1章を割いています。紀貫之は『古今和歌集』の撰者の一人ですが、当時の和歌は漢詩と比較して地位が低く、『古今和歌集』の撰者にも上級貴族はいません。こうした意識は藤原道長の頃にも続いており、天皇や上級貴族も和歌を詠むものの、歌合の場にでるようなことはありませんでした。この点で、平安時代末~鎌倉時代初期の藤原定家が上級貴族だったこととは対照的でした。本書は、歌合に始まる「歌壇」の形成が、歌紀行としての『土佐日記』や歌物語としての『伊勢物語』といった新たな分野の文学を生み出し、平安文学の根源にもなった、と評価しています。8世紀以前の口承に基づく「神話」や「歌謡」による表現から、平仮名を記録媒体として文字化された「物語」や「和歌」に基づく社会へと変容していき、その延長線上に『枕草子』や『源氏物語』があった、というわけです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202402article_17.html


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ヤマト連合国家vs中華グローバリズム/弥生・古墳・飛鳥時代|茂木誠
2023/09/25
https://www.youtube.com/watch?v=aY0tvU-U3R0&list=PL6mu43UnNThB56GlP8WFC7l7nHmuxW-ha&index=14&t=38s

仏教グローバリズムの衝撃/伝来から空海まで|茂木誠
2023/09/27
https://www.youtube.com/watch?v=G7YgbgZHYgE&list=PL6mu43UnNThB56GlP8WFC7l7nHmuxW-ha&index=15&t=59s

神仏習合とケガレ思想(平安時代)|茂木誠
2023/09/28
https://www.youtube.com/watch?v=UoTvyzz97HU&list=PL6mu43UnNThB56GlP8WFC7l7nHmuxW-ha&index=16&t=22s

鎌倉幕府が皇室を潰さなかったワケ|茂木誠
2024/02/25
https://www.youtube.com/watch?v=ysnAl9Hf_sw

南北朝の動乱/三種の神器と皇統|茂木誠
2024/02/28
https://www.youtube.com/watch?v=T0VJeMfkbEc
18:777 :

2024/02/19 (Mon) 19:34:11

平安時代・鎌倉時代の軍記物語


将門記 しょうもんき (11世紀)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E9%96%80%E8%A8%98


将門記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B0%86%E9%96%80%E8%A8%98


『将門記』は、10世紀半ばに関東地方でおこった平将門の乱の顛末を描いた、初期の軍記物語。
平将門が一族の私闘(承平5年(935年)2月)から国家への反逆に走って最後に討ち取られるまで(天慶3年(940年)2月)と、乱の始末、死後に地獄から伝えたという「冥界消息」が記されている。
和化漢文(漢文様式で表記された日本語文)で記載されるが、随所に駢儷体(べんれんたい)による修辞や中国の故事を取り込んでいる。 独特の文体ゆえ今日でも解釈が定まっていない箇所も少なくない。 『陸奥話記』や『奥州後三年記』とともに初期軍記とされている。

平将門は『将門記』では939年に上野の国庁で八幡大菩薩よりの神託をうけて「新皇」を自称した。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があり、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。


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保元物語 ほうげんものがたり (鎌倉時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E7%89%A9%E8%AA%9E


保元物語 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BF%9D%E5%85%83%E7%89%A9%E8%AA%9E


『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。


保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を和漢混淆文で描く。鳥羽法皇の崇徳院への譲位問題より始まり、鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに崇徳院が挙兵。崇徳院と後白河天皇との皇位継承争いを軸に、藤原忠通、藤原頼長の摂関家の対立、源義朝と源為義の源氏の対立、平清盛と平忠正との平家の対立が加わり、崇徳側の敗退、以降の平治の乱、治承・寿永の内乱(治承・寿永の乱)の予兆までを記す。細かい内容は諸本によって差異があるが、何れも源為朝の活躍がメインとなっている。また為朝の父の源為義をはじめ、敗者となった崇徳・頼長らに同情的であり、この敗者への視点が本作品の主題ともいえる。

この『保元物語』に『平治物語』『平家物語』『承久記』を合わせた4作品は「四部之合戦書」(『平家物語勘文録』)と称され、保元から承久にいたる武士の勃興期の戦乱をひと続きのもとして理解する見方が中世からあったことが確認できる。これは、保元の乱を「武者ノ世」のはじまりであるとする『愚管抄』の認識とも一致しており、時代の画期であると考えてられていたことがわかる。『将門記』などの先行する軍記物語はいくばくか存在するものの、『平家物語』などとともに、新たな文学のジャンル形成に寄与した作であるといえるだろう。


『保元物語』の主人公といってもいい源為朝であるが、物語と史料において造形には大きな隔たりがある。物語における為朝は、保元の乱における記述だけに話をしぼっても、まさしく一騎当千の勇者であり、その強弓で馬ごと鎧武者を打ち抜き、わずか28騎の手勢のみで、清盛率いる600余騎、義朝率いる250余騎を退けるという活躍を見せている。とくに長時間戦闘をおこなった義朝勢は50人以上の死者を出し、重傷者も80人を超えるという有様だった。同時に、為朝は兄を射殺そうとすれば可能であったのに、不孝となることを思ってためらうという、優しさも見せている。このような為朝の造形は冨倉徳次郎によって智・勇・仁の三徳を兼ねそなえた理想的な武人の姿であると言われている。なお、為朝の配下が28騎であるのには、『史記』項羽本紀の影響であろうと田中芳樹が述べている。

一方、史料では為朝の記述はほとんどない。『愚管抄』で「小男」とされるのは、父為義の言葉であるから謙遜としても、具体的な活躍の場面は残されていない。ただし、『兵範記』保元元年8月27日の記事では為朝を捕縛した平家貞が特別に恩賞にあずかっており、為朝が崇徳院に味方した武士のなかでも特別な存在であったとみなされていた可能性は高い。

また、『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1日の記事には、保元の乱に参加した大庭景義が為朝を「吾朝無双の弓矢の達者」と評している。ただし大庭景義は「然れども弓箭の寸法を案ずるに、その涯分に過ぎるか」とし、また「鎮西より出で給うの間、騎馬の時、弓聊か心に任せざるか」「この故実を存ぜざれば、忽ち命を失うべきか。勇士はただ騎馬に達すべき事なり。壮士等耳の底に留むべし。老翁の説嘲哢すること莫れ」と武者の騎射戦の心得を述べている。『吾妻鏡』の編年が鎌倉時代中期以降とされることからも、この話は「騎射戦の心得」の伝授に力点があり、事実と断定は出来ないが、しかし物語のような武勇譚が生まれる下地は実際にあったのかもしれない。

なお、物語では伊豆大島に流された後、鬼の子孫をしたがえた等、荒唐無稽といっていい話を載せているが、流罪後の為朝については、わずかに『尊卑分脈』に伊豆で討たれたことが記されるのみである。


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平治物語 へいじものがたり (鎌倉時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E


平治物語 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E


『平治物語』(へいじものがたり)は、平治の乱の顛末を描いた軍記物語。

作者不詳。平治元年(1159年)、後白河上皇方最大の武力勢力であった平清盛が熊野参詣に出かけた隙を狙って、かねてから藤原通憲(信西)と後白河の寵愛をめぐって権力争いを起こしていた藤原信頼が、保元の乱での賞与などで平家の圧迫に不満を覚えていた源義朝を語らって挙兵する。上皇を大内裏で監禁、通憲を殺害し一度は権勢を握るものの、熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も暗殺される。以降、平家政権の全盛や没落、鎌倉幕府の成立などまでを描いた諸本も多い。『保元物語』や『平家物語』と同様、和漢混淆文で叙述されている。諸本によって内容に異同は大きいが、悪源太義平(源義平)の武勇譚や、源義経の母である常盤御前(常葉とも)が、老いた母のために清盛のもとへと赴く哀憐の話が中心を占めている。『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容であるのが特徴である。


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平家物語 へいけものがたり (鎌倉時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E


平家物語 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E+

平家物語 全文:語句検索用 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%85%A8%E6%96%87/


『平家物語』は日本における作者不詳の軍記物語である。 鎌倉時代に成立したとされ、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などが描かれている。

保元の乱および平治の乱に勝利した平家と敗れた源氏の対照的な姿、その後の源平の戦いから平家の滅亡、そして没落しはじめた平安貴族と新たに台頭した武士たちの人間模様などを描いた。「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。


語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことで、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。


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壺齋散人 平家物語:古典を読む
https://japanese.hix05.com/Narrative/heike/heike.index.html

平家物語は、中世から近世にかけて、琵琶法師と呼ばれる盲僧たちによって、全国津々浦々に語り歩かれた。この国の口承文芸の中でも、とりわけて大きな流れをなしてきたものであり、能をはじめほかの文芸に及ぼした影響も計り知れないものがあった。また、口承の文芸というにとどまらず、読み物の形でも広く受容された。いわば、この国の民族的叙事詩ともいうべきものなのである。

平家物語の成立については、徒然草第二百二十六段の記しているところが、最も早く、かつ詳しいものとして知られている。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論義の番にめされて、七徳の舞をふたつ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心うき事にして、学問をすてゝ遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までもめしをきて、不便にせさせ給ければ、此信濃入道を扶持し給けり。此行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教てかたらせけり。さて、山門のことをことにゆゝしくかけり。九郎判官の事はくはしく知て書のせたり。蒲冠者の事はよくしらざりけるにや、おほくのことゞもをしるしもらせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国のものにて、武士に問聞てかゝせけり。彼生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたる也。」

この記述によれば、平家物語の原型が成立したのは、承久年間、平家が壇ノ浦で滅びた寿永四年(1185)から、ほぼ30年たった頃、源平の戦の記憶がまだ覚めやらぬ時期である。

作者とされる行長については、諸説あるが、その者が剃髪して比叡山に入った後、天台座主慈鎮和尚の扶持を受けながら平家物語を作り、盲僧の生仏に語らせたのが始まりだとしている。

当時の比叡山は、源平の戦乱の後の世にあって、多くの遁世者が身を寄せる所であった。行長もそんな者のひとりとして、まだ記憶に新しい源平の戦について、ほかの遁世者に尋ねるなどしながら、物語を書いたものと思われる。

重要なのは、この物語を盲僧に語らせたという点である。むしろ、盲僧に語らせることを念頭において作ったのではないかとも、思われるのである。

盲僧が琵琶を弾くようになるのは、任明天皇の子人康親王が盲目となり、ほかの盲僧にも琵琶を教えるようになって以来といわれている。鎌倉時代初期には、そのような琵琶法師が多数存在していた。生仏もそのような琵琶法師の一人だったと思われる。琵琶法師の中には、乞食同然の者もいて、語り物を語って諸国を漂泊していたとも考えられるのであるが、盲官という官職を授けられて、詩歌管弦をこととする者もいたのである。生仏はそのような盲官であったと思われる。

このように、平家物語は語られる物語として作られた。平家物語という名称自体、徳川時代以降に定着したものであり、当初は単に平家と呼び、その語りを平曲ともいっていたのである。そして、平曲を語る者を平家語りというようになったのであった。

語った盲僧たちは比叡山ゆかりの琵琶法師たちであったから、その語り方には、天台声明の響きがあった。同じく声明を取り入れたものに、安居院派の唱導や説教などがあるが、両者は親縁関係にあったものと思われる。

平曲に用いられた琵琶は、独特なものだったらしい。漂泊する乞食僧たちは、笹琵琶とよばれる比較的単純な琵琶を使っていたことがわかっており、また、一方では雅楽に用いられる伝統的な楽琵琶というものがあった。平曲用の琵琶は、それらを折衷させたものだったらしい。

生仏のあと、平曲は後継の琵琶法師たちによって語り継がれ、また修正を加えられて次第に大部のものになっていく。三巻だったとされる原型の物語は、13世紀半ばには十二巻にまで膨らんだ。

平曲を語る琵琶法師たちは、乞食法師たちとは異なる扱いを受け、社会的にも認知されていた。彼らは、検校、別当、勾当、座頭からなる身分組織をつくり、強い団結を誇ったといわれる。盲僧には世襲の権威というものはないので、自分たちの実力を示すことで、その存在価値を社会に認めさせたのであった。
  
このサイトでは、平家物語からさわりの部分を取り出して、原文と簡単な解説を付した。あわせて、平家物語絵巻等から、関連する場面を描いたものを掲載した。平家物語は、琵琶の音にあわせて語られたものであり、音曲としての性格を持っているが、言葉そのものも味わい深いものがある。


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承久記 じょうきゅうき (鎌倉中期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E8%A8%98


承久記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%89%BF%E4%B9%85%E8%A8%98

『承久記』(じょうきゅうき)は、承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた承久の乱を記した公武の合戦記である。『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)』『承久兵乱記』(同名異書あり)などとも呼ばれる。保元・平治・平家と続く「四部之合戦書」の最後の戦記物で鎌倉武士が王朝を崩壊に追い込むさまと、封建体制確立の過程をえがいている。作品の評価は完成度の点で高くないとされるが、後鳥羽院の描いた王政復古の夢をやや批判的に首尾一貫した姿勢で書いている。

『承久記』と思われる軍記物の初見は洞院公定の『公定公記』応永7年(1374年)4月21日条に見え、『平家勘文録』などの複数の史料に『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』の四つを「四部合戦状」(しぶがっせんじょう)(あるいは「四部之合戦書」)と呼んでいたことを見ることができる。『承久記』はこの「四部合戦状」の最後にあたる。


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義経記 ぎけいき (南北朝時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E8%A8%98


義経記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E8%A8%98+


『義経記』(ぎけいき)は、源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語。全8巻。南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。能や歌舞伎、人形浄瑠璃など、後世の多くの文学作品に影響を与え、今日の義経やその周辺の人物のイメージの多くは『義経記』に準拠している。

国文学者の岡見正雄は本作が軍記物として『平家物語』に基づいた上で生い立ちと没落の書き加えられた、室町時代の要素が色濃い義経が描かれていると述べている。
19:777 :

2024/02/19 (Mon) 19:35:02

鎌倉時代の文学


鴨 長明 かも の ちょうめい (京都 1155年 - 1216年7月26日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E9%95%B7%E6%98%8E
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16837668


鴨 長明 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%B4%A8+%E9%95%B7%E6%98%8E+


鴨 長明は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。

代表作『方丈記』の方丈とは、晩年暮らした庵を指す。日野には庵跡とされる地や方丈石がある。また下鴨神社摂社の河合神社には、方丈の庵が復元されている。


著作
方丈記
無名抄
発心集
鴨長明集 - 自選の和歌集。
伊勢記 - 散佚した旅行記。現在は抄本が出版されている。


方丈記 ほうじょうき (1212年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98

方丈記 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98+


『方丈記』は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆。日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。

晩年に長明は、京の郊外・日野(日野岳とも表記、京都市伏見区日野山)に一丈四方(方丈)の小庵をむすび隠棲した。庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけた。

漢字と仮名の混ざった和漢混淆文で記述された最初の優れた文芸作品であり、詠嘆表現や対句表現を多用し、漢文の語法、歌語、仏教用語を織り交ぜる。慶滋保胤『池亭記』を手本としていることが指摘されており、かつてはこれを根拠の一として偽書説も唱えられていた。隠棲文学の祖や、無常観の文学とも言われ、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論ともされる。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」

の書き出しで移り行くもののはかなさを語った後、同時代の災厄についての記述が続き、後半は草庵での生活が語られる。さらに末尾では自身の草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定的な見解を述べている。

『方丈記』の中で長明は、安元3年(1177年)の都の火災、治承4年(1180年)に同じく都で発生した竜巻およびその直後の福原京遷都、養和年間(1181年~1182年)の飢饉、さらに元暦2年(1185年)に都を襲った大地震(文治地震)など、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、歴史資料としても利用されている。


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壺齋散人 方丈記を読む:現代語訳と解説
https://japanese.hix05.com/Classic/hojoki/hojoki.index.html

方丈記は鎌倉時代初期に成立した随筆集で、著者は鴨長明。鴨長明は、京都下鴨神社の禰宜の家系に生まれたが、神職につくことはなく、もっぱら歌の師匠として名をなした。方丈記は鴨長明晩年の随筆集で、枕草子以来の本格的随筆集として、後年の徒然草を加えて三大随筆集と呼ばれている。

鴨長明は、晩年京都郊外日野に一丈四方の草案を結び、そこで閑居しながら世の中の動きを随筆というかたちで記した。折から平安時代から鎌倉時代への転換期における激動の時代であり、戦のほかに天変地異も重なって、世の中は混乱の極みにあった。鴨長明は、仏教的な世界観からそうした世の中の動きを眺めた。したがって、その見方は平家物語に通じるような無常感に満ちている。

方丈記に記された時代の出来事としては、安元の大火(1177年)、治承の竜巻(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1181-82年)、元暦の地震(1185年)などがある。この時代に起きた源平合戦の様子については、詳しく言及されていない。おそらく京都が戦場になることがほとんどなかっためであろう。

最終的な成立時期は、建暦二年(1212年)。その四年後に鴨長明は死んでいるから、かれにとっては絶筆というべき著作である。ここではそんな鴨長明の方丈記について、全文を現代語訳しながら、簡単な解説を加えてみた。

方丈記(一):ゆく河の流れは絶えずして
方丈記(二):去安元三年四月廿八日かとよ
方丈記(三):又治承四年卯月の頃
方丈記(四):治承四年水無月の頃、にはかに都遷り侍りき
方丈記(五):二年が間、世中飢渇して
方丈記(六):いとあはれなる事も侍りき
方丈記(七):大地震振ること侍りき
方丈記(八):すべて世中のありにくゝ
方丈記(九):すべてあられぬ世を念じ過ぐしつゝ
方丈記(十):六十の露消えがたに及びて
方丈記(十一):その所のさまをいはゞ
方丈記(十二):ふもとに一つの柴の庵あり
方丈記(十三):假の庵もやゝふるさととなりて
方丈記(十四):たゞわが身一つにとりて
方丈記(十五):三界は只心一つなり
方丈記(十六):一期の月かげ傾きて


無名抄 むみょうしょう (鎌倉時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%90%8D%E6%8A%84

『無名抄』は、鴨長明による鎌倉時代の歌論書(和歌に関する理論および評論の書)。正確な成立年は不詳であるが、建暦元年(1211年)10月以降、鴨長明没の1216年までに成立したと考えられている。別名『長明無名抄』『無名密抄』など。約80段からなる。全1巻。6種類以上の諸本が存在するが、その違いは後の人による付加部分の違いに由来する。

歌論としては、幽玄論、題詠論、本歌取りなどの技術論などを記述している。そのほかにも、先人の逸話や同時代の歌人に対する論評など多岐にわたる内容を持ち、随筆風な記述である。後に醒睡笑などに取り入られた逸話を含んでいる。



発心集 ほっしんしゅう (鎌倉初期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E5%BF%83%E9%9B%86


発心集 - YouTube
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『発心集』は、鎌倉初期の仏教説話集。『方丈記』の作者として知られる鴨長明(1155-1216年)晩年の編著。建保4年(1216年)以前の成立。『長明発心集』とも。仏の道を求めた隠遁者の説話集で、『閑居友』、『撰集抄』などの説話集のみならず、『太平記』や『徒然草』にまで影響を及ぼし、説話の本性というべきものを後世に伝えている。

天竺・震旦よりは本朝に重心を置き、発心譚・遁世譚・極楽往生譚・仏教霊験談・高僧伝など、仏教関係の説話を集録。仏伝からの引用が多い。長明自身を含む隠遁者(西行が有名)が登場人物の主体をなす。盛名を良しとせず隠遁の道を選んだ高僧(冒頭の玄賓僧都の話など)をはじめ、心に迷いを生じたため往生し損なった聖、反対に俗世にありながら芸道に打ち込んで無我の境地に辿り着いた人々の生き方をまざまざと描き、編者の感想を加えている。人間の心の葛藤、意識の深層を透視したことで、従来の仏教説話集にはない新鮮さがある。


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宇治拾遺物語 うじしゅういものがたり(1212年 - 1221年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8B%BE%E9%81%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E


宇治拾遺物語 - YouTube
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宇治拾遺物語 全文 検索・テキスト取得用 - 古典の改め
https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8B%BE%E9%81%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E/%E5%85%A8%E6%96%87/


『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)は、鎌倉時代前期(建暦2年(1212年)~承久3年(1221年))成立と推定される日本の説話物語集である。編著者は未詳。


題名は、佚書『宇治大納言物語』(宇治大納言源隆国が編纂したとされる説話集、現存しない)から漏れた話題を拾い集めたもの、という意味である。他にも拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名とも。

全197話から成り、15巻に収めている。古い形では上下の二巻本であったようだ。

収録されている説話は、序文によれば、日本のみならず、天竺(インド)や大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。ただ、オリジナルの説話は少ない。先行する説話集と酷似する話が、『今昔物語集』とは約60話、『古本説話集』とは23話、『古事談』とは20話ある。他にも『十訓抄』『打聞集』などに類似の話が見られる。

貴族から庶民まで、幅広い登場人物が描かれている。また、日常的な話題から滑稽談まで、と内容も幅広い。
「芋粥」や「絵仏師良秀」は芥川龍之介の短編小説の題材に取り入れられている。

『宇治拾遺物語』に収録された説話の内容は、大別すると次の三種に分けられる。

仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
民間伝承(「雀報恩の事」など)
民間伝承には、「わらしべ長者」や「雀の恩返し」「こぶとりじいさん」などなじみ深い説話が収められている。仏教に関する説話も含むが、どちらかというと猥雑、ユーモラスな話題(比叡山の稚児が幼さゆえの場違いな発言で僧侶の失笑を買う、等)が多く、教訓や啓蒙の要素は薄い。信仰心を促すような価値観に拘束されておらず、自由な視点で説話が作られている。その意味において、中世説話集の中では特異な存在である。後世の『醒睡笑』などに影響を与えた。


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古今著聞集 ここんちょもんじゅう (鎌倉時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E8%91%97%E8%81%9E%E9%9B%86
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古今著聞集 - YouTube
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古今著聞集は鎌倉時代、13世紀前半の人、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。単に『著聞集』ともいう。事実に基づいた古今の説話を集成することで、懐古的な思想を今に伝えようとするものである。20巻30篇726話からなり、『今昔物語集』に次ぐ大部の説話集である。1254年(建長6年)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた。今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。


古今著聞集序には「宇県亜相巧語之遠類、江家都督清談之余波也」とあり、宇治大納言物語や江談抄の遠類としてまとめられた。さらに実録を補う事が意図であることを述べ、勅撰集の部類に倣ったその構成は実に整然としている。古今著聞集の序や跋文によると、橘成季が、官を辞めて閑暇をえて編纂したものである。説話収集にあたっては、『台記』『中右記』『江談抄』といった家々の記録を調べ、いろいろな場所を訪ね、人から話を聞いたとしている。現在流布しているものは、すべてが橘成季の手になるものではなく、後年に江談抄、十訓抄などから追記されている。


各篇の冒頭には、その篇に収録されている説話に応じた、事の起源や要約的な内容が記され、それに続いて、説話が年代順に記されている。題材を多く王朝社会に仰ぎ、尚古傾向も著しい。


公卿日記を下地とした記録風の逸話から、下々の庶民に関する異聞奇譚まで、その描写対象は多岐にわたるが、中でも各種芸能の説話に富んでいるのは、琵琶を藤原孝時に学び、詩歌絵画などにも優れた作者成季の才芸を反映している。作者が関白九条道家の近習であったこともあり、『古今著聞集』の観点は摂関家寄りである。江戸期の逸著聞集・近世江戸著聞集・新著聞集等多くの著聞集物に影響を与えた。


古今の説話の集成とはいえ、大半が王朝時代の説話で占められ、当代の説話は比較的少ない。これは、名門橘氏の出身である成季の王朝志向によるものであると同時に、当代を「末代」・「世の末」と呼ぶ成季の当代への批判的意識を示している。その一方で、輿言利口篇などの特色ある当代の説話群を形成することによって説話文学としての価値を高からしめている。


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とはずがたり (鎌倉時代中後期)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A


とはずがたり - YouTube
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とはずがたり 現代語訳 巻一1~6 : 讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ
https://sanukiya.exblog.jp/25803389/


『とはずがたり』は、鎌倉時代の中後期、後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学。作者の実在性や、その内容にどこまで真偽を認めるかについては諸説ある。1938年(昭和13年)に再発見された「新しい古典」である。

タイトルは問はず語りとも表記され、「(他人に)問われなくても話し出してしまう語り」の意。

「誰に問われるでもなく自分の人生を語る」という自伝形式で、後深草院に仕えた女房(女性の側近)である二条の数え14歳(文永8年/1271年)から数え49歳(嘉元4年/1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。平安時代中期の雅やかな宮廷文化と異なり、摂関政治の終焉による退廃的な時代背景の下、斎宮の愷子内親王の後深草院との関係など乱れた愛欲と共に、二条の波乱に満ちた半生が描写される。

『源氏物語』等の王朝文学からの影響、西行法師からの影響、また『増鏡』への影響が指摘されている(後述)。しかし、宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であり、ほとんど無名のまま宮廷で秘書・禁書の扱いを受けてきた。

5巻5冊。1313年ごろまでに成立した模様である。


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卜部 兼好 (吉田兼好)うらべ の かねよし (京都市左京区 1283年 - 1352年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E5%85%BC%E5%A5%BD

吉田兼好 - YouTube
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卜部兼好 - YouTube
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卜部 兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。私家集に『兼好法師家集』。

治部少輔・卜部兼顕の子。卜部兼名の孫。鎌倉および京都に足跡を残す。旧来、吉田神社の神官の家系である吉田流卜部氏の系譜に連なると考えられてきたが、資料の見直しにより、その根拠となる家系図が吉田兼倶による捏造ではないかという見解がある。吉田神社の系譜に連なるという説に基づき江戸時代以降は吉田 兼好(よしだ けんこう)と通称されるようになった。

二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。また、散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。



徒然草 つれづれぐさ (1349年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89

徒然草 - YouTube
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徒然草 概要と目次 - 古典の改め
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徒然草の原文内容と現代語訳|兼好法師の生涯 | 四季の美
https://shikinobi.com/kenkou


『徒然草』は、卜部兼好が書いたとされる随筆。清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと評価されている。

序段を含めて243段から成る。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。内容は多岐にわたり、序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者学に位置づけられる。兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映しているほか、兼好が仁和寺がある双ヶ丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。

また、『徒然草』が伝える説話のなかには、同時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても広く利用されている。中でも『平家物語』の作者に関する記述(226段)は現存する最古の物とされる。


江戸時代以降はもっぱら教訓書として読まれてきたが、国文学者の内海弘蔵は「趣味論者」兼好による「一大趣味論」と捉えている。また、兼好の無常観、死生観を強調する見方もある。

小林秀雄は「徒然草」という短いエッセイで、兼好の「物が見え過ぎる眼」を指摘し、本書を「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」と評価している。

加藤周一は、『徒然草』の他に類を見ない顕著な特徴として、「心に移りゆくよしなしごと」を次々と書きとめることで、多面的でしばしば相反する思想を一冊の小著にまとめあげた点を指摘している。この点において加藤は、『徒然草』にジェイムズ・ジョイスの「意識の流れ」の先駆を見ている。

清水義範は『徒然草』を「日本の知的エッセイの基本形、知識人エッセイの原形」と評しており、「エッセイは「世の中の間違いを叱り飛ばす」形式で書くべきという思い込みに囚われている」と指摘している。清水は「人間は皆、兼好が徒然草で喝破したように、毒を吐いて「けしからん」と言うのが愉しいのだ」と指摘する。
20:777 :

2024/02/19 (Mon) 19:35:47

鎌倉時代と室町時代の和歌


京極 為兼 きょうごく ためかね (京都 1254年 - 1332年4月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E7%82%BA%E5%85%BC
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16838127


京極為兼 - YouTube
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京極 為兼は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。

京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世とともに祖父為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。

弘安3年(1280年)には東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、永仁6年(1298年)に佐渡国に配流となった。嘉元元年(1303年)に帰京が許されている。

勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て正和元年(1312年)に『玉葉和歌集』を撰集している。翌正和2年(1313年)、伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚のちに静覚と称した。

正和4年(1315年)12月28日、得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁する。翌正和5年(1316年)正月12日には得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。

2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。

歌風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる。


玉葉和歌集 ぎょくようわかしゅう (鎌倉時代後期)
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風雅和歌集 ふうがわかしゅう (1349年)
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為兼卿和歌抄 (1285年 - 1287年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%BA%E5%85%BC%E5%8D%BF%E5%92%8C%E6%AD%8C%E6%8A%84

為兼卿和歌抄は革新的な歌風で知られる中世和歌の一流派、京極派の創始者であり指導者である京極為兼唯一の歌論書である。建長6年(1254年)生まれの京極為兼は執筆当時まだ30代になったばかりであり、和歌の実力は十分ではなく、歌人としてまだまだ未完成の時期であった。為兼卿和歌抄の中で京極為兼は多岐にわたる論議を展開していくが、論旨は「心ののままに言葉がにほひゆく」という言葉に代表される「心の絶対的な尊重」と、当時の伝統的な和歌の、「ことばにて心をよまむとする」姿勢を否定し「言葉の完全な自由化」を一貫して唱えたものである。


執筆の背景

年少気鋭の東宮煕仁と、東宮側近の若手文芸愛好グループの中で京極為兼はその独自の歌風を育んでいった。

御子左家の家督は藤原為家の後は長子である二条為氏が継ぐ。為兼の父、為教は生涯を通じて兄の為氏との関係が悪く、不遇の中、弘安2年5月24日(1279年7月4日)に没する。為兼は父の後を継ぐかのように二条為氏、その子の二条為世、そして和歌宗家たる御子左家嫡流(二条派)の権威に対決していくことになる。

京極為兼は和歌の大家であった祖父、藤原為家から和歌の奥義を学んでいた。東宮に仕える頃には当時の伝統的な和歌の詠み方を会得し、しかも伝統の枠内で巧みな歌を詠む技術も身につけていた。為兼は伝統的な方法で和歌を作り続けたとしても成果を挙げることが可能だったと考えられるが、あえて伝統を捨て、新たな和歌を生み出す道を選んだ。

京極為兼は「心のおこる所のままに」歌を詠むべしと主張した。これは和歌宗家たる二条派の形式主義に対する反発があった。二条派の和歌は決まりにのっとって歌題、言葉を選び、歌全体が規範に当てはまるものとなる。つまりうるわしい言葉でうるわしい情景を詠むといった和歌を理想とする。それに対して為兼はやむにやまれぬ心の動きによって表現されたものこそがまことの歌であり、表現方法は問題とならないとしたのである。当時、表現方法に箍が嵌められたも同然の二条派の伝統和歌に対し、皇室や廷臣の一部にはそのあまりの窮屈さに疑問を持つ土壌が形成されていた。和歌の家である御子左家に生まれた為兼は、伝統の呪縛の強さを良く知る立場にあったが、伝統的な和歌に疑問を抱きつつもその殻を突き破れない東宮を囲む文芸愛好グループの中で、心のおこる所のままに歌を詠むべきでどのような表現を用いるのも自由であると、御子左家の伝統的な歌風を破壊する行為を実践していった。また野心的な為兼は伝統の破壊、新たな和歌の創造を通じて二条派に制圧されていた歌壇の主の座を奪い取り、さらには宮廷内での出世をも目指したと考えられる[15]。

しかし伝統を破壊して新しい和歌を創造することはたやすいことではなかった。およそ表現方法は問題ではなく「心のおこる所のままに」詠むべきといっても、その理想を実際の和歌に結実させるのは極めて難しい。当時の為兼の和歌について、野守鏡が厳しい批判を加えているが、実際、弘安年間に為兼が詠んだ和歌を見ると、極めて観念的な和歌や極めて奇矯な和歌とは言いがたい作品が数多く見られる。為兼卿和歌抄は作者為兼が高い理想を抱きながらも実作の裏づけが皆無な状態で執筆された歌論書であった。

著者為兼は形式主義に囚われた二条派の和歌の桎梏を打ち破ることを目指し、心の絶対的尊重と表現方法の自由を主張した。しかし為兼卿和歌抄執筆当時、為兼本人は極めて未熟な和歌しか詠むことが出来ず、東宮側近の若手文芸愛好グループにしても状況は基本的に同じであった。一般的に歌論書は実作経験を積み重ねた上で、帰納的に生み出されるものである。しかし為兼やその同志たちがいまだ不安定かつ未熟な歌しか詠めない段階でありながら、為兼卿和歌抄は執筆された。そのため、内容としては為兼の『自分の心を自分の言葉で詠いたい』とのやむにやまれぬ衝動に突き動かされたものになっており、その主張を裏付けんが為、御子左家の有力歌人であった藤原俊成の歌学書である古来風躰抄、藤原定家の近代秀歌、そして空海、明恵、紫式部などの文学論を引用しているものの、肝心の自身の説の裏づけとすべき歌が皆無であるため、他の多くの歌論書のように秀歌を列挙して歌論の締めくくりをすることが出来ず、まとまりがつかず尻切れとんぼのような形で終わっている。

しかし多くの欠点を抱えながらも、為兼卿和歌抄は優れた表現論であるとされている。冒頭、詩経などを引用し、「心にあるのを志とし、言葉にあらわるるを詩歌」であると、まず和歌の本質を掲げた。続いて1、2章では主に心に生まれる感動を表現する仕組みを哲学的に説明している。ここでは為兼のいとこにあたる興福寺の実聡僧正を通じて学んだとされる唯識論と、空海の声字実相義の三密相応の教義を援用し、対象に向けての心のあり方と、その心の向かうところに生まれいずる言葉について述べている。つまり感動を心と対象との相互作用によるものとし、その中で生み出される言葉への信頼を説いた。

続いて3章からは歌の稽古、俗語の使用、そして歌病と呼ばれる作歌に際し避けるべきとされた表現について等の論述が続く。歌病を論ずる中で、為兼は形式的なことばかりにこだわり、歌の心を忘れた当時の歌壇を厳しく批判し、俗語の使用についてもそれが真に自らの心の中から生まれた言葉であるのなら構わないとした。また稽古についても『古い歌を多く覚え、諸家の歌学書から学ぶだけで歌が上手くなるのならば、末代後世の人ほど歌が上手くなるはずではないか』と皮肉った上で、万葉集の大歌人、柿本人麻呂や山部赤人がいったいどんな歌論を学んだというのか、自らの真心で歌を詠んだのではないかと続けた。つまり為兼卿和歌抄は多方面にわたる論が展開されているが、「ことばにて心をよまむとする」二条派の和歌を否定し、「心のままに言葉がにほひゆく」和歌を目指すべきであるという論旨は終始一貫しており、対象に心を向け、なりかえることを繰り返し強調し、心の絶対的な尊重と言葉の完全な自由化を強力に主張している。

また為兼は多くの文献を引用して自らの主張を裏付けようとしたため、文中には論旨が強引な部分も散見されるが、空海や明恵の著作の中に文学的な価値を見いだし、自らの歌論に摂取した実力も評価できる。


京極派の予言の書

京極派は、観応の擾乱の際、光厳上皇が南朝に拉致されたことがきっかけとなって崩壊し、その後、和歌は二条派が主導することとなり京極派の和歌は長く異端視されることになる。実際、為兼卿和歌抄も明治後半までその存在が忘れ去られており、他に与えた影響はほとんど見られない。しかし京極派の和歌は近代になって再評価が進み、逆に二条派が伝統に凝り固まったものであると見なされるようになった。いずれにしても京極為兼の創始した京極派は和歌の世界にこれまでにない新風を吹き込んだ。

為兼は和歌の実力が全く伴わないまま、和歌宗家たる二条派への反発心と、心のままに表現方法にこだわることなく歌を詠みたいとの欲求に突き動かされて為兼卿和歌抄を執筆した。この為兼の主張は東宮煕仁やそのブレーンたち、つまり持明院統の宮廷に受け入れられ、皇位をめぐる大覚寺統との抗争や鎌倉幕府の滅亡など、鎌倉時代から南北朝にかけての時代の荒波の中、京極派の和歌は真に芸術性の高い歌風に到達することに成功した。

完成期の京極派の和歌は『心の絶対的な尊重』、『言葉の完全な自由化』という、まさに京極為兼が為兼卿和歌抄で主張した通りの歌風を実践したものであった。つまり歌論書為兼卿和歌抄と京極派和歌の実作との間には結果として緊密な関係性が見られることになった。

京極派の和歌の研究家である岩佐美代子は、若き京極為兼の大言壮語で終わることなく、その歌論が見事に実を結ぶことになった為兼卿和歌抄を『稀に見る幸福な歌論書、驚くばかりの的確な予言書』とし、土岐善麿もまた、京極為兼は藤原俊成、藤原定家、田安宗武とともに、歌論も歌の実作も一流である論作一致の人であったと評価している。


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玉葉和歌集 ぎょくようわかしゅう (1313年)
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和歌データベース 玉葉集
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i016.html


『玉葉和歌集』は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。


鎌倉時代後期、当時の沈滞した和歌のあり方に疑問を持った京極為兼は、歌を詠むにあたり、心の絶対的な尊重と言葉の完全な自由化を主張するようになった。その主張は、為兼が仕えた皇太子時代の伏見天皇と側近の文芸愛好グループに受け入れられ、京極派の和歌が始まった。

京極為兼に主導された京極派の和歌は、当時の和歌の常識からは大きくかけ離れたものであったため、強い批判も浴びていた。特に和歌の家、御子左家宗家である二条為世は、京極為兼が撰者となる勅撰和歌集撰集に強く反発し、為兼と為世との間で延慶両卿訴陳状と呼ばれる激しい論争がなされた。結局、伏見上皇の院宣により、為兼が勅撰和歌集を独撰することで決着した。

京極為兼が撰んだ勅撰和歌集は、玉葉和歌集と名づけられた。全20巻、収録された歌数は21ある勅撰和歌集の中でも最大の約2800首に及び、あまりに肥大化してしまった点は玉葉集最大の欠点とされる。しかし構成的には上古から和歌集編纂当時までの名歌人、名歌を満遍なく収録し、ミスの少ない堅実なものになっており、玉葉和歌集を和歌史の中に位置づけるような構成となっている。もちろん中世和歌史に新風を吹き込んだ京極派の和歌も多く撰ばれていて、和歌史の中に京極派の歌風を位置づける構成にもなっている。

京極派主導の勅撰和歌集としては後に『風雅和歌集』が撰集されたが、観応の擾乱の影響で京極派は壊滅した。その結果、明治初期まで伝統派である二条派の歌壇支配が続くことになり、長い間、玉葉和歌集、風雅和歌集は邪道であり異端であると見なされた。しかし近代になって再評価が進み、特に迫真の自然詠に高い評価がなされている。

京極為兼が提唱した歌風に基づく京極派主導の勅撰和歌集撰集は伏見天皇の悲願であった。
皇太子時代の伏見天皇に仕え始めるようになった京極為兼は、言葉の解釈や故実の詮索に明け暮れ、枝葉末節に過ぎない知識のひけらかしが蔓延し、多くの規則に縛られた当時の和歌のあり方に大きな疑問を持っていた。和歌とは何か、歌を詠むべき態度、よい和歌とはどのような和歌であるかを真剣に考えるべきであると考えた為兼は、伏見天皇側近の文芸愛好グループに参加するようになった後、『為兼卿和歌抄』を著し、言葉で心を詠む当時の伝統的な和歌のあり方を否定し、事物に触れる中でおのづから動いていく心のままに歌を詠むべきで、その表現方法も自由であると主張するようになった。

朝廷が大覚寺統、持明院統の両統迭立の時代の中、為兼の主張は伏見天皇を始めとする持明院統宮廷に受け入れられ、和歌の強固な伝統を打破し、新しき和歌を創造する挑戦が始まった。

歌道家の間では為兼に対する批判が高まっており、永仁3年(1297年)には、京極為兼の和歌を痛烈に批判した歌論書、『野守鏡』が書かれた。

そうこうしているうちに、永仁4年5月15日(1296年6月17日)、京極為兼は権中納言を辞任して籠居し、永仁6年1月7日(1298年2月20日)六波羅探題により拘引された。そして永仁6年3月16日(1298年4月28日)には佐渡島に遠流となった。

永仁6年(1298年)に京極為兼が佐渡に流刑になり、伏見天皇の譲位と後伏見天皇の即位、そして大覚寺統の邦治親王が皇太子となり、大覚寺統に政権が交代する流れとなった。これまで順調であった持明院統にとって試練の時代が始まったが、和歌の革新を主導していた為兼の不在にもかかわらず、伏見上皇、永福門院を中心とした宮廷グループは頻繁に歌合を催し、為兼の主張した「心の絶対的尊重」、「言葉の完全な自由化」という理念に基づく和歌の完成を目指した。

乾元2年(1303年)閏4月、鎌倉幕府の赦免により、京極為兼は流刑地の佐渡から京へ戻った。為兼の帰京直後の乾元2年閏4月29日(1303年6月15日)には、伏見上皇、後伏見上皇、永福門院らが参加し、為兼を和歌師範とした歌合が催された。この歌合で、伏見上皇、永福門院らは実に見事な和歌を詠んでおり、自らの目で見、感じたことが心に響く中で生まれた言葉で歌を詠むという京極派の和歌は、突如として見事に花開いた。

伏見上皇は近臣の意見を聞き、鎌倉幕府の了解も取った上で応長2年5月3日(1311年5月21日)、京極為兼一人に勅撰和歌集撰集の院宣を下した。

京極為兼独撰となった伏見上皇下命の勅撰和歌集は、伏見上皇、京極為兼がともに出家した正和2年10月17日(1313年11月6日)までに、最終的に完成したものと考えられる。

最多入集歌人は下命者であり、実力派歌人でもある伏見上皇で93首、以下藤原定家69首、西園寺実兼60首、京極為兼の姉である為子60首、藤原俊成59首、西行57首、藤原為家51首、永福門院49首、撰者為兼36首、和泉式部34首、西園寺実氏31首、従二位親子(北畠親子)30首、慈円27首、紀貫之26首、柿本人麻呂24首、宗尊親王22首、鷹司基忠21首と続く。


玉葉和歌集は当時歌壇の中心であった二条派の歌風からすると、異端であるとしか言いようがないものであった。当然、玉葉和歌集はその歌風に反対する人々から激しい批判にさらされることになった。反論の中でも正和四年(1315年)8月に執筆されたと伝えられる、歌苑連署事書の批判が良く知られている。

歌苑連署事書の著者の主張は、勅撰集は美しい風物を美しい言葉で詠んだ、伝統的な優美な和歌を撰ぶべきであるという点にある。その主張に反した玉葉集に対する批判は当然厳しいものになったわけであるが、歌の取捨選択をきちんと行わず、和歌数が多すぎるとの批判以外はおおむね言いがかりに近いものであるとされている。

しかし当時の和歌の主流から見ると、それは当然の批判であった。鎌倉時代後期、京都の宮廷社会にはまだ革新的な京極派を生み出すエネルギーが残されていた、しかしその新しい動きを拒絶する勢力もまた強力であった。

正和4年12月28日(1316年1月23日)、鎌倉から上京した東使である安東重綱に率いられた六波羅の兵士数百名が京極為兼を逮捕した。為兼の逮捕を見て、二条為世の門弟たちは和歌の邪議を広めたからであると批判したが、罪状は和歌とは基本的に関係はなく、為兼が政治への過度の介入を続けたことが問題視されたものであった。為兼は翌月には土佐国へ流罪となり、流罪を前に、和歌に関する多くの文書を花園天皇に託していった。

その後、世は元弘の乱、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、そして南北朝の分裂と、激動の時代を迎えた。その中で情勢がやや落ち着いていた貞和2年(興国7年、1346年)、京極為兼の創始した京極派の歌風を守り続けた花園法皇監修、光厳上皇親撰により、風雅和歌集が編纂された。風雅集は心の絶対的尊重、言葉の完全な自由化という京極為兼の主張をしっかり守り育ててきた京極派和歌の成果であった。

風雅和歌集は京極派和歌の集大成と評価される和歌集であり、京極派の勅撰和歌集である玉葉和歌集、風雅和歌集は「玉葉風雅」と、一体のものとして評価されるようになった。

異端視された玉葉、風雅集と近代以降の研究と復権

風雅和歌集の最終完成を前にして花園法皇が崩じ、風雅集の完成後まもなく勃発した観応の擾乱の中、光厳上皇が南朝に拉致されたことによって京極派は指導者を失い、壊滅していった。その後長い間、和歌の世界は伝統派である二条派の支配が続き、京極派は異端視された。江戸時代に至っても玉葉集、風雅集の和歌は異端であるとの見方が大勢であり、本居宣長も玉葉、風雅の風体は甚だ悪く、かりそめにも学ぶべきではないと酷評している。

近代に入り、正岡子規、与謝野鉄幹らによる和歌の革新運動の中にあっても、当初、玉葉集、風雅集の存在は忘れ去られており、鎌倉時代から室町時代にかけては文学の暗黒時代のように見られていた。

明治末期になって、まず藤岡作太郎が玉葉集、風雅集、そして京極派の和歌を評価した。

大正時代になると福井久蔵、そして与謝野鉄幹も京極派の和歌を評価するようになった。

とりわけ折口信夫、土岐善麿が玉葉和歌集、風雅和歌集を高く評価し、折口は「短歌の本質といふものは、実は玉葉、風雅に、完成して居たのである」と激賞した。これは京極派和歌の中でも特に自然詠が近代人の共感を呼ぶものであり、その結果、近代になって本格的に復権が可能となったものと見られている。


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風雅和歌集 ふうがわかしゅう (1349年)
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和歌データベース 風雅和歌集
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i019.html


『風雅和歌集』は、室町時代(南北朝時代)に北朝で成立した勅撰和歌集。二十一代集のうち、17番目の歌集である。
全20巻、全2211首。光厳上皇親撰・花園法皇監修。京極派歌風を採る。

貞和5年(1349年)秋ごろ完成したと見られる。名付けて『風雅和歌集』。王道が正しく行われている時の和歌を集成した歌集という意味が込められている。

『風雅和歌集』は、京極派歌風を採った歌集であり、『玉葉和歌集』を継承しつつ、その歌境をさらに深め、京極派和歌の集大成と評価されているが、観応の擾乱以降京極派歌壇が壊滅したことで長らく異端の歌集として冷遇されていた。

ところが、近代に至ると『玉葉和歌集』とともに再評価がなされ、現在『風雅和歌集』は、『新古今和歌集』以後の中世和歌史上、最も注目すべき歌集との評価が確立している。


乾元2年(1303年)、京極為兼とその主君であり持明院統の伏見院らのグループは、革新的な歌風である京極派を確立させた。さらに正和元年(1312年)、伏見院下命のもと、京極為兼撰にて、京極派の特性を宣揚する『玉葉和歌集』が成立した。

伏見院は晩年、自身の皇子である後伏見院と花園院に対し、和歌を振興すべきことをさとし、さらに後伏見院に対しては、今後勅撰集編纂のことがあれば、伏見院の中宮で京極派随一の歌人でもある永福門院と前関白鷹司冬平に相談すべきことを言い遺していた。崩御直前も、将来必ずもう一度、京極派の勅撰集を編纂するように言い遺していた。

伏見院の崩御後、政権は大覚寺統に移ったが、紆余曲折を経て持明院統の朝廷である北朝が開かれ、亡き後伏見院の皇子である光厳院(上皇)が治天の君となる。

北朝にて、撰集の直接的な契機となったのは、伏見院崩御後に京極派歌壇を主導していた永福門院の死であった。伏見院の遺志を受け継ぎ、勅撰集の編纂を強く意識していた永福門院の死は、その実現を光厳・花園両院に深く促した。

貞和2年10月17日、この勅撰集の題名が『風雅和歌集』と決定した。
王道が正しく行われている時の和歌を集成した歌集という意味である。
貞和5年8月ごろに全巻が完成したと考えられている。


風雅集では、南朝の『新葉集』に比べて、血なまぐさい事件までもありのままに記しているという特色がある。例えば、当代では、建武の乱での贈答歌や石津の戦いでの戦勝を祝う歌なども挿入され、前代では、治承・寿永の乱にて平資盛を失った建礼門院右京大夫の歌を多数採り、保元の乱での配流先で詠まれた崇徳院の御製や、承久の乱の配流先で詠まれた後鳥羽院の御製なども採っている。それまでは、流罪となった者が配流先で詠んだ歌は不吉として挿入されないのが原則であったから、その点で風雅集は進歩的である。

武士の和歌も多数採られており、尊氏や直義といった最高位の武士だけでなく、五位級の武士の和歌も採られ、なかには、「命をば かろきになして もののふの 道より重き 道あらめやは」と最初に武士道を詠んだとされる和歌も採られている。また、風雅集巻第17の冒頭12首は光厳院の治世に関する述懐詠であるが、そのなかに、光厳院詠とともに「民」を思う為政者の歌として直義の「しづかなる 夜半の寝覚めに 世の中の 人のうれへを おもふくるしさ」が採られており、これは前例のない点で注目される。

所収傾向としては、花・時鳥・月・雪の歌をもっとも多く掲載するという伝統は風雅集でも継承されているが、風雅集では花・雪・月の次に山家の歌が多く採られている。玉葉集では花・月・雪に次ぐのは海であり、この違いから窺える玉葉集と風雅集の性格の違いは、玉葉集が開放的であり、風雅集が求心的な点である。

一般的性格としては、風雅集の当代歌人は、冬の題材を多くとりあげ、冬の自然の中の寂しさや、厳しい自然を好んだとされている。その自然に関しても、暁闇・朝明・夕闇・月明・斜陽・霧・雨などのなかで、対象を凝視することを好んだ。風雅集の自然観照には、光・時・動きが感じられ、感覚的に研ぎ澄まされており、主観的表現はほとんど使用せずに対象に対する求心的な追求がなされている点が特色である。

また風雅集は、他の勅撰集にはない特異な歌材を好んで用いているという特徴を有するが、こうした歌材は漢詩の影響を受けたものであり、漢詩的隠遁、隠逸の境地を象徴するものであるという。平安以降の歌人からはあまり注目されていなかった陶淵明や、宋代の漢詩からの影響も指摘されている。


評価とその変遷

風雅集は、京極派和歌の全容が集大成されたものであった。しかし、直後に発生した観応の擾乱によって、京極派を主導していた光厳院が政治的権力を喪失したことで、京極派歌壇は壊滅した。

こうして、風雅集は玉葉集とともに「玉葉・風雅」と一括にされ、長らく「異端の歌集」として冷遇され続けた。

ところが、近代に至り、この2集の自然詠が近代短歌にも通ずる美を有していると再評価がなされた。この2集を評価したのは、与謝野鉄幹、折口信夫、土岐善麿などである。そして現在風雅集は、『新古今和歌集』以後の中世和歌史上、最も注目すべき歌集との評価が確立している。

風雅集の歌風について国文学者である岩佐美代子は、「風雅集は玉葉集の祖述継承に違いないが、歌境を更に深め、内観性において特に沈潜した哲学的境地にまで至っている。為兼・伏見院の志した歌風は、ここに見事に完成した」と評価している。


風雅集の序文は、花園院が下命者兼撰者である光厳院の立場で、花園院自らの考えを述べたものである。この点で、過去の集のなかでもっともすっきりとした形となった[32]。花園院の生涯の学研・思索の粋を傾けた力作であり、歴代の序のなかでも異彩を放つ格調高い作品となっている。

真名序の本文は次の通りである(岩佐 & 2002(1), pp. 3–10より引用)。

(現代語訳)そもそも和歌の表現するところは、現象的には天地間のすべてを満たし、思想的には全宇宙をその範疇としている。天地の初め、陰陽のまだ分かれていない時から、その原理は天然に存在していたが、人間が生れ出てのち、その形が遂に明らかになった。風雲草木が人の心奥に感応するや、万物すべてが風雅の興のいとぐちとなり、思想感情が事物に触発されるや、その心が人生を諷喻する根本となる。生来の感情をうたい出し、政治道徳をほめ、そしる。「難波津」の歌は天子の徳を讃えたものである。これにより、聖人の教えがはじめて天下に弘まった。「浅香山」の歌は采女の機知即興である。これにより、賢者の教化がすでに諸地方に行き渡った。こうした我が国の和歌の由来を深く考えてみると、期せずして聖人賢者の治のもとにあった古えの周南・召南の豊かな趣に通い、調和するものと言えよう。


(現代語訳)ところが、世は軽薄な時代となり、人は華美に流れて、和歌の真の意義を知らず、ひたすら色好み・数奇心をあらわす手段と考えるようになった。近代の悪習として、言葉はますます巧みにますます細やかになり、思うところはただ美しく作り飾る事のみに専念する。古語を盗用し、あでやかな言葉を偽り並べ、つくろい立て詠作し、ひるがえって根本の精神には無知である。或いは反対に、低俗で洗練されないいやしい言葉で、無作法にも拙劣な内容を述べ、歌としての姿がどうあるべきかを考えもしない。いずれの詠風も、見るに足りぬものである。飾りけのない誠実さは人情道理の根本であり、これに従ってよい事は当然である。しかし歌としての情趣のあり方を理解せず、むやみに無技巧にのみ走るのは、文学創作の精神ではない。雅びな心や巧みな言葉は華麗な美しさであり、不満とし批判する所は何もないようである。しかしその面白さにひかれて、かりそめにも不必要な技巧を弄すれば、上品で正しい本来の歌の姿を失う。またその歌体を丈高い昔の風に学ぶ時は、言外の深情を漂わせにくく、表現を細やかに詳しくと心がければ、わずらわしく卑小な詠み口に陥りやすい。強く正しければ肩肘張ったようだし、あでやかに美しいのもまた弱く無気力という欠点を生ずる。こういう諸形式を諭じて行けば、繁雑できりがない。結局、外見と実質がしっくり釣り合って、内容と表現が巧まずして合致する、といった境地は、言葉では学べず自然に感得すべきものだろう。どうして筆舌で説きつくす事ができようか。結論として言うならば、その根本精神に達していない者は、大方末流になずんで大成しない。ただ必要とするところは志を古代の正風にかけ、邪まな道に踏み入らぬよう心するばかりであろう。三代集以後、こうした精神を体得した人物は僅か数名にすぎない。すぐれた歌人と認められていても、その真髄に達していない者も多い。ましてや、最近の作者においては問題外である。いくら嘆息しても足りない次第である。


(現代語訳)このような衰退した有様を救わんが為に、遥かに元久年間、後鳥羽院新古今集親撰の故事にならって、詩経の風雅の道にかなう作品を收集して編纂した。およそ天下に切り棄ててよい言葉はない。故に広く採りあまねく訪ねて、上古から当代に至るまで、集めて記録し、名づけて風雅和歌集という。さて、考えてみるに、国のはかりごとを握る天子として自ら国運を押しひらき、退位した今も俗界を離れず、なお政務万端の諮詢にあずかる身ではあるが、さすがに夜半の間暇の時を得た。それのみならず、戦火の煙は早々に收まり、春駒は美しい山野の風光に興じて走る。峻厳な刑も必要がなくなり、はびこった秋の雑草は空しく草原の露と消えた。万民の業はおしなべて盛んになり、多くの功績がまさに広まっている。ささやかな善事も必ずほめたたえ、ただ一物でもその所を得ない事を憂える。それゆえに、歌道が久しく廃れて、一般の風潮が善悪を分ち得ぬ現状を残念に思う。これが、この撰集を成す所以である。単に華やかな言葉、美しい章句をもって当代的な外観だけを誇示するのではない。専ら王道による厳正な詩歌を賞揚して、千年の後にその美を遺さんとするものである。時に貞和二年十一月九日、ほぼ主要部分の編纂を終えた。よって撰集精神の概要を示し、かつ編纂方針の基本を記すこと、以上の如くである。
21:777 :

2024/02/28 (Wed) 19:33:46

南北朝の動乱/三種の神器と皇統| 茂木誠
2024/02/28
https://www.youtube.com/watch?v=T0VJeMfkbEc

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