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壺齋散人 ニーチェにおける問いの立て方:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から

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2024/01/15 (Mon) 17:27:36

壺齋散人 ニーチェにおける問いの立て方:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から
続壺齋閑話 (2024年1月14日 08:09)
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議論というものは、問いの立て方次第で大体の方向が決まるものだ。その問いは疑問というかたちをとるが、その疑問は多くの場合、というよりほとんどの場合、議論の参加者すべてに共通した問題をめぐるものである。というのも、一部の人にだけ関心を持たれるだけで、大部分の人あるいは多数の人に関心を持たれない問題は、そもそも議論の題材とはならないからだ。議論というものは、最低限共通の土台の上でなされる必要があるのだ。ところが、大部分の人にとって共通する問題とは、じつはどうでもよいことだ、とニーチェは言う。なぜならそういう問題は、人間の大多数をしめる凡愚な連中にとって意味を持つにすぎず、したがって現実の秩序の容認を前提としている点で、ロバが背負う荷物と異ならないからだ。そういう連中の関心事は、自分たちの利益を守ろうとする動機に駆られている。その利益は奴隷の利益である。だから、問いの立て方を問題にするときには、たとえば真理とは何かといったような、万人に共通するような外観を呈しているような場合には、それを疑ってかからねばならない。誰がその問いを発したかを、見極めねばならない。奴隷の発した問いは、所詮奴隷の利益を守ろうとするものである。真に有用なのは、人類全体の向上につながるような問いであり、それを発することができるのは、一部のエリート、つまり超人なのだ、というのがニーチェの基本的な考えである。

このように、「誰が問いを立てるか」ということにこだわるニーチェの方法論的な意識をドゥルーズは、ニーチェのもっともニーチェらしい振舞いだと評価する。「誰が問いを立てるのか」という問いは、一方では奴隷道徳の起源を明かすことにつながるとともに、もう一方では、エリートの役割を前景化する。ニーチェは奴隷道徳を破壊し、それに替えるに真の強者の価値創造を目指すので、誰がそのような問いを立てるのかという問いの形式は、エリート対奴隷の戦いを明るみに出すうえで、とりあえず有効なやり方なのである。

奴隷の道徳を体系化したものが西洋の伝統思想だと考えるニーチェは、その伝統の起源をソクラテスとプラトンに見ていた。かれの処女作「悲劇の誕生」は、とりあえずはアポロン的なものとディオニュソス的なものとの対立を取り上げていたが、実はディオニュソス的なものとソクラテス・プラトン的なものとの対立だというのがドゥルーズの見方である。そのソクラテス・プラトン的なものにおける問いの立て方は、本質とは何か、真理とは何か、といった具合に、「とはなにか」という形をとる。これは議論の前提となる現存の秩序を容認したうえで、なおかつその秩序を構成するものについて、それは何かと問うものである。そうした問い方は、基本的に現前の秩序を守護する役割を果たしているに過ぎない。大事なのは、現存する秩序を守ることではなく、人類を一層の高みに引き上げることである。それができるのは、一握りのエリートである。だから、問題なのは、果たしてエリートなのか、あるいは凡人なのか、いったい誰が問いを立てているのかを見定めることである。凡人の問いの立て方は、現存秩序を守る役割を果たすに過ぎない。それに対してエリートの問いの立て方は、人類を一層の高みに持ち上げる効果をもたらす、というのが、問いの立て方についてのニーチェの考えだったとドゥルーズは言うのである。

そういう問いの立て方においては、真理とはなにかとか、本質とは何かといったことは、大した意義を持たない。本当に意義あるものは、価値、それもエリートにとっての価値の創造なのである。ニーチェは万人に共通する真理などというものを軽蔑する。というより真理そのものを軽蔑するのである。ニーチェは言う、「われわれが真理を意志するということを認めるとしても、なぜわれわれはむしろ非真理を、不確実を、また無知をさえ、意志しないのであろか」(足立和弘訳)。真理が意義を帯びるのは、ニーチェによれば、それがエリートの意思を価値あるものたらしめる限りにおいてである。それ自体としての真理などというものは、奴隷の好むたわごとに過ぎない。

本質についても、真理の場合と同様のことが言える。本質とは、事象がそれ自体として内在させている自立した属性ではなく、人が事象に付与する意味と価値なのだ。誰が本質について問いを立てるかに応じて、その意味と価値の付与の仕方は異なる。奴隷は奴隷らしく意味付与し、エリートはエリートにふさわしい意味付与をする。だから、「本質とはつねに意味と価値なのだ。かくして『誰が』という問いは、あらゆる事物にとって、またあらゆる事物に関して、『どんな力が』、『どんな意志が』という風に聞こえる」のである。

以上を踏まえてドゥルーズは次のように言う。「真理への意思はやはり禁欲主義の理想に由来するものであり、やり方は相変わらずキリスト教的である・・・ニーチェが要求するのは別のこと、つまり理想の変更、別の理想、『別の感じ方』なのだ」。「別の感じ方」とは、奴隷ではなく超人が感じるような感じ方という意味である。奴隷の感じ方を拒否して、超人の感じ方を共有すれば、我々人類は一層の高みに舞い上がることができる、というわけである。
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ニーチェの超人:ドルーズによる解釈
続壺齋閑話 (2024年1月 7日 08:07)
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ニーチェのいう超人をドゥルーズは「価値の創造者」として捉える。その前に「価値転換」とか「価値変換」とか言っているが、それはある価値をほかの価値で置き換えるということではない。ドルーズが言うには、「これは諸価値を変えることではなく、諸価値の価値を生み出す境位を変えることである」(足立和弘訳)。ちょっとわかりにくい言いかたであるが、既存の価値とは全く違った新しい価値を生み出すようなそういう境位の転換ということを意味する。要するに、まったく新しい価値を生み出す、つまり価値を創造する、それが超人だと言うのである。

新しい価値の創造という概念は、力への意志とか永遠回帰とも深い関係をもつ。というより、超人とは力への意思の究極の行使者、永遠回帰の当事者なのである。力への意思が最終的に目指すのは、絶対的な肯定である。自分自身の存在を含めてあらゆるものを肯定すること。存在にけちをつけず、それをそのままに受け入れることであった。また、永遠回帰は、同一のものの繰返しではなく、差異の反復として、まったく新たなものを次々と生み出すことをいう。そうした境位にあるのが、ニーチェの言う超人だとドゥルーズは言うのである。

そこで、存在の肯定ということ、及び差異の反復ということについて、もうしこし立ち入って見てみたい。

まず、存在の肯定ということ。ニーチェが存在の肯定にこだわるのは、キリスト教道徳への嫌悪感からである。キリスト教道徳は、肯定ではなく否定の上に成り立っていた。それはあらゆる存在者を否定することから始める。自分の存在が善いのは、他者が悪いからである、という具合に、肯定すべきものは、そのままに絶対的に肯定されるのではなく、他者の否定のうえに肯定される。そうした肯定は偽の肯定である。キリスト教道徳はそうした偽の肯定の上に成り立っている。だから、鼻持ちならぬキリスト教道徳を破壊するには、否定を媒介せずに、肯定そのものを肯定しなければならない。超人とはまず、そのような肯定を肯定する者なのである。そのことをドゥルーズは、ニーチェ自身の言葉を引用して、説明に替えている。「存在の永遠の肯定よ、私は永遠にあなたの肯定である」。私とは超人の自称である。その超人が永遠に存在を肯定すると言っているわけである。

とはいえドルーズは、存在の絶対的な肯定にこだわるあまり、否定の役割を否定するでもない。否定にもある程度の役割を認めている。そのことをドルーズは、ニーチェの有名なロバの比喩を引用しながら説明している。ドゥルーズのようにニーチェに取りつかれたものは、ニーチェの文学的な才能を無視するわけにはいかないのだ。否を言うことのできないロバが、「何がきてもかみくだき、消化するとは、まさしく豚なみである。いつでも<そーだー、そーだー>と言うのは、ロバとロバのような頭の持主の、莫迦の一つおぼえというものだ」。つまり、「ロバの『然り』は偽りの然りである。それは否を言うことができず、ロバの耳にこだまを与えることのできぬ『然り』であり、『然り』を取り囲む二つの否定から切り離された『然り』である」。

だからといって、ロバと関連付けながら否定の意義を強調するのは、弁証的な否定という意味での否定を肯定するからではない。ニーチェは弁証法に徹底的に敵対していたのであって、したがって弁証法的な否定を肯定するわけにはいかないのである。ニーチェがロバの耳が否定を知らぬといって非難するのは、弁証法的な否定を知らぬと言っているわけではなく、あまりにも一面的な見方に陥ると言っているに過ぎない、とドゥルーズは考えているようである。だが、ディオニュソス的な絶対の肯定がなぜ否定を含まねばならぬのか、ドゥルーズの説明は説得的ではないように思える。

ドルーズは、否定を知らぬロバの肯定を、「肯定するとはこの場合、荷物を背負う、引き受けるという以外の何物でもない。ありのままの現実に従うこと、ありのままの現実を引き受けること」といって、その受動的な性格を強調して見せたりするのだが、いかにも苦しい弁明のように聞こえる。

永遠回帰における差異の反復ということと超人とのかかわりあいについてはどうか。差異の反復とはわかりにくい言葉合わせであるが、反復されるのは同一性ではなく、差異だという主張である。つまり世界はつねに新たに創造されているという思想である。この常に新たなものを創造するというのが、超人のもっとも強烈なイメージである。ニーチェは超人を仏陀にたとえたと別稿で言及したことがあるが、世界がつねに無から創造されているとする思想は、仏教にもある。仏教には「刹那滅」という思想があって、世界は連続した現象の流れではなく、すべてが一端消滅したあと全く新たなものがそれに続いて現れると考える。ニーチェの永遠回帰はそれに似た考えである。その永遠回帰の担い手として超人がイメージされている。超人は、日々世界を無から創造している神のような存在だとイメージされるのである。

その超人のイメージが、ニーチェが生涯追求してきた人間の理想態を現わしていることは容易に考え及ぶことである。ニーチェは、既存の世界を破壊して全く新たな世界を構築しなおしたいとずっと考えつづけてきた。ニーチェによれば、我々が生きているこの世界は、奴隷道徳によって汚染された世界であり、生きるに値しない。生きるに値するような世界は、既存の世界を破壊することからしか生まれえない。そのような破壊を行うのが超人とよばれるエリートである。ニーチェは人間の社会は一部のエリートとその他大勢の凡人からなっていると考え、エリートに世界をリードする役割を担わせた。世界というのは、エリートが牽引していくべきで、俗物どもが大きな顔をするべきだはないのだ。それがニーチェの本音だと思うが、その本音を前面に立てると、哲学の議論としては粗雑に陥りやすいから、ドゥルーズとしてもなるべく、スマートな形でニーチェの超人を論じたい。そういう意図が、このニーチェを論じた著作からは、強く伝わってくる。
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壺齋散人 ニーチェの思想
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フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900)は、既存のあらゆる価値に対して根本的な疑問を提起し、それらを徹底的に相対化した。そうすることで、哲学を全く新しい土台の上に築きなおそうとした。その決然とした姿勢は、20世紀の思想に圧倒的な影響を及ぼした。20世紀の思想は、すべてニーチェへの注釈であったといってよいほどである。良きにつけ、悪しきにつけ、20世紀以降の思想は、ニーチェを意識せずには語れない。


ニーチェの読者がまず最初に感じるのは、その逆説的なものの言い方をどう受け取ったらよいかというとまどいだろう。ニーチェは善いとか悪いとか、美しいとか醜いとかいった言葉を通常の意味で使った上で、自分は「悪い」とか「醜い」もののほうを評価するというような言い方をする。そこで読者はそれを一種の逆説だろうと推測したくなるのだが、これは逆説などではない、とニーチェは言う。つまり彼は本気でそう思っていると言うのだ。

こんな訳であるから、ニーチェはあらゆる事柄について、世の中の常識とは逆のことを言う。彼にとっては、世の中の常識を支えている考え方は唾棄すべきものなのである。世の中の常識にはすべて裏がある。その裏の事情を知ってしまうと、それを尊重する理由はなくなる。世の中の常識を支えているのは、ニーチェのようなヨーロッパ人にとってはさしあたりキリスト教道徳であるが、これはそもそも奴隷根性が生み出したものなのだ、そうニーチェは言って、世の中で尊重されているあらゆる価値を転倒させようとするのである。

ヨーロッパの哲学の歴史においては、当然のことながら、世の中で価値あるものとされる事柄について、その根拠と正統性とを裏付けることが哲学の使命だとされてきた。ニーチェはそうした伝統に異議を唱えたわけである。しかもこれほど強烈な異議申し立てはなかった。そんなわけでニーチェは、ヨーロッパの知的伝統への厳しい対立者としての位置づけを持たされるようになった。それ故、伝統的な哲学を否定するような文脈においては、かならず参照される思想家となった。つまりニーチェは、ヨーロッパ哲学の知的伝統である合理主義とか主知主義とかいったものの対極に位置する思想家として、大きな影響力を及ぼすようになったのである。

実際ニーチェの思想は、反合理主義とか反近代が問題となるごとに復活してきた。現代の思想状況においても、ニーチェの株は大いに上がっている。ということは、現代という時代も反合理主義がもてはやされる時代だということなのだろう。

既存の価値体系をトータルに否定するニーチェの態度はあまりにも激烈かつ徹底的なので、批判にとっての最強のモデルを提供している。世の中には批判を超越した価値などはない。あらゆる価値は批判の対象になる。それがニーチェの基本的な態度である。それ故、前の世代の思想を批判しようとする者にとっては、ニーチェは導きの星となるような存在なのだ。

ここまでは誰もが認めるところだ。既成の価値の批判者としてのニーチェの意義を否定するものはいない。反合理主義への敵対者として知られるあのバートランド・ラッセルでさえ、ニーチェの批判のもつ意義については一目置いている。ニーチェはキリスト教道徳が勧めるところの利他主義とか普遍的愛とかいったものを軽蔑し、それが奴隷根性に基づくものだということを、歴史的に明らかにしたわけだが、そうした断定に対してラッセルは自信をもって反対できないと言っている。ラッセルでさえそう言うのであるから、凡庸な思想家にとってはニーチェの言葉は新たな啓示のように聞こえるに違いない。実際ニーチェの思想は凡庸な人たちによって金科玉条の如くにあがめられてきたのである。

だが凡庸な人たちにとって躓きの石となってきたのは、ニーチェが既存の価値に対置させた新たな価値である。彼らはニーチェの批判的方法とともに、ニーチェ自身の思想をも受け入れることで、グロテスクな状況に陥るという危険を冒すことになる。ニーチェが持ち出した彼自身のユニークな考え方は、ニーチェだから大目に見てもらえるところがあるが、凡庸な人々の口から出て来るとグロテスクにしか聞こえない。例えば、人を殺してはいけないという主張には確固たる根拠はないとニーチェが言うとき、それはひとつとの考え方として許容されるが、凡庸な人間が言うと、そうは聞こえない。この男は殺人を容認する人間だとしか受け取られない。というわけで、ニーチェのユニークな思想には色々と問題がある。すくなくとも文字通りには受け取れないところがある。

そうしたニーチェの思想の問題点について、ラッセルはいくつかあげて批判している。たとえばニーチェのエリート主義。ニーチェはキリスト教の聖徒のかわりに「高貴なる」人間を持ってくるが、それは普遍的で理想的な人間類型としてではなく、支配する貴族としての具体的で現実的な人間たちなのだ。ニーチェにとってはこれら貴族たちこそが、優越した人間としてすべての権力を振るい、弱い人間たちは貴族たちの犠牲にならねばならない、何故なら貴族たちが栄えることを通じて、人間という種族もより繁栄することができるからだ。だがそんな貴族制度なら、エジプトを数千年にわたって支配した階級制度や、アメリカやフランスの革命がおこるまで各国で採用されていた制度と何ら変わりはないと言って、ラッセルは厳しく批判する。

ニーチェの女性蔑視についてもラッセルは厳しい。女性は戦士の慰安のために尽くすべきだといい、男が女のもとにいくときには鞭を持参しなければならないなどとニーチェは言って、女性をあからさまに軽蔑してみせるが、そんなニーチェにとって、身近にいた女性は彼の妹だけだったと言って、たいした経験もなく、したがってたいした根拠もなく女性を軽蔑するニーチェの幼稚なところをラッセルは馬鹿にしている。

また、キリスト教に対するニーチェの軽蔑が、キリスト教が掲げる普遍的な愛への軽蔑に根差しているとラッセルは言い、ニーチェにはいかに人間への同情心に欠けていたかを問題にする。そしてニーチェのそうした残忍性に、キリスト教や仏教の愛を対比させる。ニーチェの残忍性は人の拷問を見て喜びを感じるような体のものである。それに対して仏教の慈愛は、どんな生き物が苦しんでいても、それが苦しんでいる限りは自分は幸福には成り得ないと感じる。どちらが正しいかについて自分は説明できない、だが自分は、ニーチェのように感じることを嫌悪する、とラッセルは言う。道徳というものは絶対的なものではないかもしれないが、顧みないで済むものでもない。少なくともニーチェの言うことが仏陀の言うことより正しいとは誰にも言えない、と言いたいようである。

ともあれニーチェは、既存のあらゆる価値に対して根本的な疑問を提起し、それらを徹底的に相対化したわけだが、それに対置する形で自ら提起したものは、既成の価値に対する反価値として、あまりにもグロテスクな様相を呈した、というのが素直な受け取り方ではないか。ニーチェの方法に学ぶことはあっても、彼の提起した価値観については、眉に唾をして向き合う必要がある、ということだろうか。ここではそんなニーチェについて、なるべく多角的に評価・検討したい。


ディオニュソス的なもの:ニーチェ「悲劇の誕生」

反時代的考察:ニーチェの教養俗物批判

生に対する歴史の利害:ニーチェの歴史主義批判

ニーチェのショーペンハウアーかぶれ

あらゆる価値の転倒へ向けて:ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」

あらゆる価値の転倒へ向けて(承前):ニーチェの形而上学批判

自由な精神と束縛された精神:ニーチェの人間類型論

高貴な人間と卑俗な人間:ニーチェのエリート論

支配者道徳と奴隷道徳:ニーチェの道徳論

ルサンチマン:ニーチェのキリスト教批判

力への意思:ニーチェの思想の根幹

真理とは解釈されたもの:ニーチェの哲学批判

神は死んだ:ニーチェのニヒリズム

霊の三つの変転:ニーチェの思想

ニーチェの超人

永遠回帰:ニーチェの思想

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2024/01/15 (Mon) 17:33:26

ニーチェやドストエフスキーはエドヴァルド・ムンクにどんな影響を与えたか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007256

『存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being』1988年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14005676

リリアーナ・カヴァーニ 『ルー・サロメ 善悪の彼岸 A L DI LA DEL BENE E DEL MALE』1977年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14005263

ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html

音楽家フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.htm

フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html

フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html

超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1753.html

ニーチェの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html

ニイチェ ツァラトゥストラ
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/899.html

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