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2024/01/14 (Sun) 16:56:24
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日本の名画・彫刻
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室町時代の美術 _ 寺院・庭園
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室町時代の美術 _ 水墨画
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室町時代の美術 _ 水墨画
室町時代の水墨画:作品の鑑賞と解説
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日本の水墨画は中国の影響を強く受けながら発達した。鎌倉時代には、白画といって、線描主体の絵が中心だったが、室町時代に入ると本格的な水墨画が描かれるようになり、雪舟において芸術的な頂点に達する。安土桃山時代には、狩野派や長谷川等伯のような名手を出し、徳川時代にも綿々とその流れは続いた。そうした日本の水墨画の歴史にあって、室町時代は大きな転換期といえる時期だ。
室町時代の水墨画の主な担い手は禅僧たちだった。その担い手からして、水墨画は芸術というよりは、禅僧たちの余技のような位置付けで、したがってその初期には本格的な作品も少なかった。禅僧たちの中から本格的な画僧が現れて来るのは、南北朝時代以降のことで、明兆を中心とした東福寺系の画僧たちが主に活躍した。
時代がやや下ると、相国寺が画僧たちの拠点となり、周文以下すぐれた画僧が輩出した。その周文の流れの中から、雪舟や雪村といった、日本の水墨画の歴史を飾る名手が出現した。かれらは、宋元の水墨画をどん欲に模倣・吸収しながら、自分たち独自の世界を作り上げていった。
相国寺は、足利幕府と強いつながりを持ち、さながら官制アカデミーの如き観を呈した。幕府とつながりの深い絵師の集団は他にもあった。同朋衆と呼ばれる将軍の侍者集団のなかから、絵画や彫刻などの芸能に従事する集団が現れ、それがもうひとつの水墨画の流れを担ったのである。この流れの中心にいたのは、能阿弥、芸阿弥、相阿弥の父子三人のいわゆる三阿弥である。この流れは、禅僧たちとはまた異なった風情の水墨画を描いたのであり、その流れの中から狩野派を始め世俗的な水墨画の流れが生まれてきたといえる。
日本の水墨画は、なんといっても宗元の水墨画の強い影響を受けている。それゆえ、日本人同士の縦の影響の系列よりは、中国からの横の系列の影響のほうが強く指摘される。雪舟なども、直接中国絵画から学ぶことで、自分の画風を確立していったのである。そこが日本画壇の最も大きな問題点だと指摘できるかもしれない。
このサイトでは、雪舟と雪村は別に項をたてて紹介しているので、この項では、そのほかの水墨画家について紹介したい。上述したように、画僧の水墨画を中心とし、それに三阿弥などの世俗的な作品を加えるということになる。画僧の作品に、観音像などの宗教的な作品が多いのは、かれらの出身地盤を反映している。また達磨像が好んで描かれたのは、画僧の多くが禅僧だったからである。それらの作品を鑑賞しながら、その歴史的な背景や作品の特徴などについて、簡単な解説を加えたいと思う。
可翁:室町時代の水墨画
黙庵:室町時代の水墨画
鉄舟と愚渓:室町時代の水墨画
良全:室町時代の水墨画
明兆:室町時代の水墨画
如拙:室町時代の水墨画
周文:室町時代の水墨画
霊彩:室町時代の水墨画
赤脚子:室町時代の水墨画
文清:室町時代の水墨画
三阿弥:室町時代の水墨画
宮本二天:近世の水墨画
達磨像:室町時代の水墨画
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2024/01/14 (Sun) 18:15:27
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雪舟の世界:作品の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/13sesshu/ss.index.html
雪舟は、日本の美術史上、個人の名が前面に出た最初の芸術家と言える。彼以前には、日本の芸術は、基本的には匿名作品だった。鳥獣戯画の作者とされる鳥羽僧正は、実在の芸術家というより、象徴的な意味を持たされた存在だったといえるし、運慶や快慶は、確かに個人として卓越した技術を持っていたが、歴史的には個人としてよりも、技法の集団を代表するという意味合いで言及されることが多かった。特定個人の名と結びついた芸術が日本に現れるのは、雪舟以後と言ってもよい。
雪舟は、応永二十七年(1420)備中で生まれ、永正三年(1506)周防で八十七歳で死んだ。彼が画家として活躍し始めたのは応仁の乱前後のことで、日本は戦乱の世であった。それ故雪舟は、都に定住することができず、各地を転々とした。周防で死んだときも、大内氏の縁故をたより、客分として滞在していたときであった。
こうした放浪にかかわらず、雪舟の作品は、比較的若い時期からから日本中に知られていたようである。彼は画家であるとともに、禅僧でもあったので、当時の日本の知識人階級であった禅僧のネットワークを通じても、世の中に広く知られるきっかけを持つことができた。雪舟の若いころの作品は残っていない。京都の相国寺で修行し、その際に画僧であった春林周藤に師事したことがわかっている。周藤は、中国の南画を手本にしながら、日本独自の繊細な絵を描いたようである。この周藤から認められた雪舟は、等楊という名で、絵を世に出すようになる。雪舟にとって大きな転機になったのは、応仁元年から約二年間明に留学したことである。雪舟は、当時の日明貿易の拠点であった周防から、明に渡った。帰朝後も、周防に滞在する期間が長く、彼の残した作品の多くは、周防に伝わってきた。
雪舟の今に伝わる最初の作品は、この在明時代に描かれた四季山水図である。この絵は、当時の明の宮廷画壇の影響を強く反映している。雪舟の初期の画業は、中国の影響を受け止めることから始まっているのである。李在、夏珪、李唐、梁楷といった中国の画家の画風を模倣した絵を多く残している。雪舟が、中国の画風を模倣することから、自立した画風を感じさせる絵を描くようになるのは、秋冬山水図以降のことだといえる。この作品は、雪舟の画業の前半を飾る傑作であり、文明八年(1476)雪舟馬歯五十七歳の年の作である。雪舟が遅咲きの天才であったことをうかがわせる。
雪舟の画業の頂点は、文明十八年(1486)、六十七歳の年に描いた四季山水図巻(山水長巻)である。これは、雪舟が画業の前半に多く手がけた山水図の総仕上げと言えるとともに、雪舟の画業の頂点ともいえるものである。山水長巻以降を、雪舟の晩年といえるが、雪舟は晩年に自由闊達といえるほど、のびのびと製作した。テーマも広がり、山水図のほかに、鳥獣図や人物図なども手がけるようになる。
雪舟は八十七歳の高齢で死ぬのだが、死の直前まで、旺盛な製作意欲を見せた。天橋立図は八十二歳以降の作であるし、山水図は死の直前に仕上げたと考えられる。このように雪舟は、幼い頃から禅寺に入って絵を学び、中国にわたって当時の中国画の真髄を身につけ、それらをもとにして次第に自分独自の世界を作り上げていった。彼の画業は、こうした旺盛な製作意欲に裏打ちされていたわけであり、そのエネルギーがあったからこそ、雪舟を日本で最初の本格的な芸術家に高めたのだと思われる。ここでは、雪舟の作品のうち代表的なものを取り上げて鑑賞したい。雪舟の作品は水墨画を基本として、それに淡彩を施すといった技法が骨格になっている。ここではそんな雪舟の代表的な作品を取り上げ、画像を鑑賞しながら適宜解説を加えたい。
四季山水図(春):雪舟渡明中の水墨画
四季山水図(夏):雪舟の水墨画
四季山水図(秋):雪舟の水墨画
四季山水図(冬):雪舟の水墨画
四季山水図(春):雪舟の山水画
四季山水図(夏):雪舟の山水画
四季山水図(秋):雪舟の山水画
四季山水図(冬):雪舟の山水画
雪舟の倣夏珪山水図
雪舟の山水図巻(春夏)
雪舟の山水図巻(秋冬)
倣李唐牧牛図:雪舟
黄初平図(倣梁楷):雪舟
雪舟の山水小巻
山水図屏風(左隻):雪舟
山水図屏風(右隻):雪舟
秋景山水図:雪舟
冬景山水図:雪舟
雪舟の山水図
益田兼尭像:雪舟の肖像画
花鳥図屏風(右隻):雪舟
花鳥図屏風(左隻):雪舟
雪舟の山水長巻(一)
雪舟の山水長巻(二)
雪舟の山水長巻(三)
雪舟の山水長巻(四)
花鳥図屏風二(右):雪舟
花鳥図屏風二(左隻):雪舟
雪舟の猿猴図屏風
雪舟の破墨山水図(一)
雪舟の破墨山水図(二)
恵可断臂図:雪舟
杜子美図:雪舟
天橋立図: 雪舟
山水図:雪舟の絶筆
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2024/01/14 (Sun) 18:21:38
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雪村の世界 :水墨画の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/14.2.sesson/sesson.index.html
雪村は雪舟と並んで室町時代の日本の水墨画を代表する画家である。雪村に私淑してその名の一部を借用したほど尊敬していたが、雪舟と会ったという記録はない。雪村が生まれたのは雪舟より六十四年もあとのことであり、雪舟が死んだとき雪村はまだ二歳だったのである。にもかかわらず雪村は、雪舟の絵をこよなく愛し、自分も又その画風にあずかろうと願って雪村と名乗ったのであろう。
雪村は、数多くの絵が今日に伝わっており、生前すでに大家として認められていたが、その割に生前の彼の動向に関する記録が少ない。というより、同時代の記録は皆無であり、徳川時代になって、さまざまな資料をもとに、かれの生涯が再構成されたというのが実情である。今日雪村の生涯に関する資料として用いられるものとしては、狩野山雪の遺稿を基にしたという「本朝画伝」があげられるが、これにしても情報量は少ない。その少ない情報のなかから、雪村の生涯と画業をまとめると、次のようになる。
雪村は、常陸の武将佐竹氏の嫡男として生まれた。しかし父が庶子に家督を継がせたので、雪村は剃髪して僧になった。雪村の画家としてのスタートは、画僧であったわけである。雪村は生涯を僧として過ごしたようである。
雪村が剃髪したのは、常陸の臨済宗の寺院正宗寺だったというのが有力な説である。正宗寺は、佐竹氏の菩提寺だったといわれる。この寺で得度する際、雪村周継と名乗った。雪村は雪舟にちなみ、周継は師から与えられた法諱である。臨済宗夢窓派の画僧は、周の文字を諱とする例があったようだ。
正宗寺は、鎌倉黄梅院の塔頭であったことから、雪舟は鎌倉に度々遊んだようだ。また黄梅院が足利学校と縁が深かったことから、足利学校に遊学したこともあったようだ。雪村が誰から絵を学んだかは明らかではない。おそらく独学だろうと思われる。雪舟を始め、先達の絵を見て、自分なりに学んだのであろう。
雪村の若い頃の絵は、あまり伝わっていない。若い頃の雪村は、常陸、鎌倉、足利、会津の黒川などで暮らし、黒川では、黒川城主芦名盛氏に「画軸巻舒法」一巻を授けている。また、この頃の作品としては、「辛螺に蘭図」などがある。
天文十五年(1546)には、鹿島神宮に「神馬図」を奉納しているが、これは北条氏の武運を祈ったものと言われる。当時雪村は、箱根の早雲寺に滞在していたらしい。この年から、天文十九年(1550)頃にかけて、雪村の最初の円熟期があって、「風濤図」や「夏冬山水図」などの傑作が描かれた。その頃の雪村の画風には、中国の浙派の影響が見られる。天文十九年には、早雲寺の住持の肖像画「以天宗清像」を描いている。
雪村はまた、溌墨法を用いて描いた。溌墨法は中国の玉澗が得意としたもので、日本では雪舟がこれを取り入れた草体の画法である。雪村による溌墨法の代表作としては、「瀟湘八景図」とか「山水図」があげられる。これと並行する形で行体図も描いており、「琴高群仙図」などの躍動感にあふれた作品がある。
雪村は、永禄年間(1558-1569)には小田原に居住し、北条氏の庇護を受けた。雪村の代表作「呂洞賓図」は、北条氏政の家督相続を祝って献上したものとされる。
六十歳代の後半には、足利と佐野に滞在し、七十歳以降は奥州の三春に隠棲した。「竹林七賢図」は七十一歳の時の作品であり、雪村が最晩年迄旺盛な創作力を発揮していたことをうかがわせる。ここではそんな雪村の代表作を取り上げ、水墨画の画像を鑑賞しながら適宜、解説・批評を加えたい。なお、上の肖像画は雪村自画像の一部である。
芙蓉竹の兎図:雪村の世界
辛螺に蘭図:雪村の世界
楊柳水郭図:雪村の世界
百馬図帖:雪村の世界
風濤図:雪村の世界
夏冬山水図(夏):雪村の世界
夏冬山水図(冬):雪村の世界
松に鷹図:雪村の世界
叭叭鳥図:雪村の世界
琴高群仙図:雪村の世界
列子図:雪村の世界
山水図:雪村の世界
波岸図:雪村の世界
蕪図:雪村の世界
呂洞賓図:雪村の世界
四季山水図屏風:雪村の世界
花鳥図屏風:雪村の世界
竹林七賢図屏風:雪村の世界
竹林に猿蟹図:雪村の世界
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