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鎌倉時代の美術 _ 仏像

1:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:04:23

日本の名画・彫刻
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鎌倉時代の美術 _ 寺院
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鎌倉時代の美術 _ 仏像
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鎌倉時代の美術 _ 絵巻物
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鎌倉時代の美術 _ 仏像

運慶と鎌倉彫刻:慶派の作品の特徴
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鎌倉時代の美術は、仏教彫刻を中心に展開した。それを主に担ったのは慶派と呼ばれる仏師集団である。慶派は、奈良仏師の流れで、藤原時代の末期に康慶が出て一派の基礎固めをし、その子運慶の代に盛隆を極めた。そして運慶の流れが鎌倉時代を通じて日本の仏教彫刻界を主導していった。

流派の祖康慶については、由来がはっきりしない。興福寺を中心に活躍していた奈良仏師の傍流であったらしい。藤原時代の仏教彫刻は京都が中心だったが、奈良は古い伝統を残し、奈良時代以前の様式を伝えていた。そういうところに、源平争乱で消失した仏像の復興の動きがおこり、それに乗る形で活躍の場を広げていったと思われる。

運慶は、父親康慶から奈良仏師の伝統を受け継ぐと同時に、武士が勃興する時代を背景にして、新しい創造の動きを仏教彫刻に加えた。彼は若い頃に関東地方で修行するが、その時代に関東武士の嗜好に応えるような、リアリティあふれるダイナミックな作風を確立していった。その運慶の流儀が鎌倉時代の仏教彫刻を基本的に特徴付けるようになるわけである。

晩年の運慶は、京都に進出し、奈良という地域性を脱して、日本の仏師の頂点になった。運慶の子どもたちもまた、京都を中心にして活躍するようになる。蓮華王院(三十三間堂)に残る仏像群は、彼らの共同作業の賜物である。

こんなわけで、慶派に代表される鎌倉彫刻の特徴は、ダイナミックな写実主義にあるといえる。その象徴ともいえる作品が、東大寺南大門の仁王像である。これは運慶と快慶の共同制作だが、慶派の特徴である、ダイナミックな荒々しさ、人体表現のリアルさといったものが遺憾なく発揮されている。

仁王像に見られるような、ダイナミズムと写実性とは、いずれも当時勃興しつつあった武士階級の嗜好を反映したものだと考えられる。仏教美術もまた時代の動きを反映しているわけである。

ここでは、康慶から始まり、運慶で一躍頂点に達する鎌倉彫刻の流れについて、所要な作品を鑑賞しながら、適宜解説・批評を加えたい。なお、掲載写真は、「日本の美術 運慶と鎌倉彫刻」(小学館)から援用した。
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2:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:33:16

東大寺南大門仁王像(吽像):運慶と鎌倉彫刻
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東大寺は、治承四年(1181)の平家による南都焼き討ちで、伽藍の殆どが焼失したが、すぐさま重源による再建が始まった。その再建の過程で、運慶や慶派の仏師たちが造仏にかかわり、本堂の諸像や南大門の仁王像を造立した。そのうち本堂の諸像は、永禄十年(1567)の兵火で焼失したが、南大門は幸いにも焼けず、今日に伝わっている。その一対の仁王像は、運慶と快慶を中心にして造られたものであり、鎌倉彫刻の最高傑作といえるものだ。

この仁王像は、建仁三年(1203)の七月に作り始められ、同年の十月に、わずか三か月で完成した。そしてその直後の十一月に、開眼供養がなされた。制作に携わったのは、運慶、備中法橋、快慶、越後法橋の四人の大仏師、及び十六人の小工である。誰がどれを担当したのかよくわかっていないが、当時の仏師の慣行から見て、二人の仏師が共同して一つの大仏を制作することになっており、この二つの仁王像のどちらかを、運慶と備中法橋が、もう一方を、快慶と越後法橋が担当したのではないかと推測されている。その場合、運慶が担当したのは、阿吽のうち吽像のほうだろうというのが、有力な説である。

阿吽両像とも、門の左右の狭い空間を最大限有効に使って、躍動感あふれるフォルムを作りだしている。あたかも、この空間を突き破って、大空へと飛翔せんとするかの如き、強烈な印象を、視る者に与える。

これは阿吽像のうちの吽像。まず両像に共通する特徴として、檜の寄木作りであること、躍動感があふれる肉どりがなされていること、豪快な衣文が施されていることなどが上げられる。また、肉身には丹彩、裳には大柄な団花門が施されている。

木組みの特徴としては、軸足を含めた左半分に上下を貫く材木を通し、その周囲に寄木をして全体を作り上げるという工法をとっている。



これは、上半身の部分を拡大したもの。大きな目を見開き、口をきりりと結び、右腕を半分前に突き出して、指を力強く広げている。胸のあたりの筋肉も、隆々と盛り上がっている。表情と言い、筋肉と言い、力強さが迫ってくる。

(寄木作り、彩色 像高848cm 東大寺南大門)
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3:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:42:00

東大寺南大門仁王像(阿像):運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura02.azo.html


東大寺南大門仁王像のうち阿像については、一応快慶が担当したと推測されているが、両像のコンセプトにはかなりの共通性が見られるので、運慶による全体的な目配りがあったものと思われる。運慶が、全体に共通する方針を立て、それに従った形で快慶も制作にあたったというのが実際ではないか。

軸足から肩先まで上下に一本支柱を通し、その周囲に寄木する方法は、吽像と同じである。また憤怒の表情、筋肉の盛り上がり、衣文の表現などにも、両像の共通性が見られる。

吽像は、左手で棍棒を持ち、右手を前に突きだしていたが、こちらは逆に、右手で棍棒を持ち上げ、左手を前に突きだしている。とはいっても、左右の対称性にはあまりこだわらず、これはこれで完結した躍動感を表現している。しかし、全体的な印象としては、吽像のほうの躍動感が勝っているようである。

阿像の右腰部分の矧木内に、楽阿弥陀仏以下の結縁者の名が記されている。これは、重源による勧進に協力した人々の名だろうと思われる。この勧進には西行も協力しているが、その名もここに含まれているのだろうか。



これは、上半身の部分を拡大したもの。眼を大きく見開いて、憤怒の表現をしているところは吽像と同じだが、口を開いていることで、印象がやや緩慢になっている。

(木造、寄木作り 像高842cm 東大寺南大門)
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4:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:43:04

興福寺南円堂不空羂索観音像(康慶):鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura03.huku.html

(康慶作興福寺南円堂不空羂索観音像 木造寄木 像高342cm)

慶派の基礎を築いた康慶については、出自など詳しいことはわかっていない。興福寺と縁が深かったことから、奈良仏師の流れから出て来ただろうと推測されている。奈良仏師は、定朝のあと脈々と続き、藤原時代の末頃に成朝が活躍するが、成朝が死ぬと、それとは別の流れである康慶が出現し、その康慶の流れから、運慶を始め鎌倉彫刻を代表する仏師が輩出した。

治承四年(1181)の平家による南都焼き討ちで、東大寺や興福寺など奈良の古寺が焼かれたが、すぐさま復興が始まり、その過程で康慶は、主に興福寺の造仏に関わった。今日南円堂に残る不空羂索観音像や四天王像は、康慶の代表作である。

文治四年に造仏にとりかかり、翌年完成した。特徴としては、天平時代のおおらかな作風を基調とし、それに武士の時代である鎌倉時代の幕開けにふさわしいリアリスティックな作風を加味している。そのリアリズムが、その後の鎌倉彫刻を基本的に特徴づけるものとなった。

ヒノキ材の寄木作りで、矧木を用いた工法を採用している。瞳は玉眼である。像内には、金の種子、銀の羂索、仏舎利、経巻などが収められている。

不空羂索観音像の目印は、羂索用の縄を持っていることだが、この像の場合には、縄は棒の先に結わえられている。
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5:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:44:46

興福寺南円堂持国天像(康慶):鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura04.jikokuten.html

(康慶一門作興福寺南円堂持国天像 木造寄木 像高206.6cm)

興福寺南円堂には、本尊の不空羂索観音像を囲んで四天王像が安置されている。これらの像は、康慶が中心になって、彼の弟子たちが協力して作られた。この持国天像は、康慶の舎弟実眼が分担したとされているが、いずれにせよ康慶の構想によるものと考えてよい。

本尊同様、天平時代の伝統の上に、鎌倉時代の新しい息吹のようなものを重ね合わす手法が指摘できる。伝統的な要素としては、裳裾を短くした天平時代の作風が指摘できるし、新しい要素としては、躍動する肢体や表情豊かな顔の表現に、リアリスティックな作風が指摘できる。

この四天王像の特徴のひとつとして、胸や腹の部分に施された獅子噛の荘厳(装飾)がある。これは康慶の装飾性への志向をよく物語るものである。

なお、興福寺南円堂には、本尊と四天王像のほか、法相六祖座像と称して、法相宗の高僧の肖像が安置されている。これらの像にも、写実的な表現を見ることが出来る。
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6:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:45:40

大日如来像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura05.dainichi.html


運慶は年少時から父の康慶に師事して奈良仏師としての修行を積み、二十代の半ばには一人前の仏師になっていたと思われる。その成果を物語るのが、円成寺の大日如来像である。台座の蓮華板裏面に書かれた銘文には、大仏師康慶実弟子運慶が安元元年(1175)に作り始め、翌年十一月に完成したと記されている。実弟子とは、実の子でありかつ弟子であるという意味である。

安元という年代は、藤原文化の余韻が残っていた。この像にも、藤原彫刻の特徴である穏やかさのようなものが感じられる。運慶はそうした要素を父の康慶から受けついだのだと思われる。彼が鎌倉彫刻特有の荒々しさを身につけるのは、東国に修行に出向いて以降のことである。

檜材の寄木造りで、頭から体幹にかけて左右二材で継ぎ合わせ、内部を刳り面(空洞)にしている。上膊部と手首の部分も矧木をして調子を整えている。目には玉眼が施されている。

藤原彫刻のような穏やかさが全体としての特徴だが、肉身の張りや腰のひねりなどに、運慶らしい新しさが指摘される。

(木像寄木造り漆塗り 像高98.2cm 安元二年 円成寺)
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7:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:46:40

願成就院阿弥陀如来像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura06.amida.html


運慶は、三十歳代半ばに鎌倉に下向して、結構多くの仏像を作っている。奈良仏師で、康慶と同世代の成慶が頼朝に招かれて仏像を作っているが、運慶も成慶を追うようにして鎌倉に下向し、頼朝の岳父北条時政のために仏像を作っている。今日伊豆韮山の願成就院に残っている阿弥陀像以下の諸像がそれだが、ほかにも浄楽寺の阿弥陀三尊像がこの時期の作である。

願成就院は、時政が北条氏の氏寺として創建した寺で、その本尊の制作を依頼されたということは、運慶の名声がすでに日本中に轟いていたことを物語るようである。運慶はこの寺のために、ほかにも不動明王像などを制作している。

願成就院の諸像の特徴は、全体として量感があふれ、逞しさを感じさせることである。また、不動明王像には、たくましさのほかに荒々しさも感じられる。こうした要素は、西国にいたのではなかなか表面化しなかっただろうと指摘されており、運慶が東国武士たちとの交流を通じて身につけたものだろうと思われる。その意味で、この時代の運慶の諸像は、鎌倉彫刻の確立にとって、特別の意味を持つと評価できる。

檜材の寄木造りで、頭部は前後に矧木、体幹部は四材の矧木である。また像内の刳面を浚って漆塗りにしているところは円成寺大日如来像と同じである。

(木像寄木造り 像高143.9cm 文治二年<1186> 神奈川県願成就院)
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8:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:47:37

願成就院不動三尊像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura07.hudo.html


願成就院の不動三尊像は、阿弥陀如来像、毘沙門天像とともに、文治二年(1186)に運慶が北条時政のために作ったものである。不動明王とその従者、制多迦童子及び矜羯羅童子からなっている。X線写真で、二童子像の内部には、毘沙門天像の内部から取り出された木札と同様のものが入っていることが確認されている。おそらく制作経緯を記しているのだろうと思われる。

三像とも、写実的で荒々しい雰囲気をたたえている。その荒々しさとかたくましさといった要素は、阿弥陀如来像よりも徹底しており、運慶らしさがいっそう強く現われている。

不動明王の表現には、東国武士の荒々しさが反映されていると指摘される。こうした荒々しさは、運慶が使った当地の仏師たちの技術をも幾分反映しているのではないかとみられてもいる。それを含めて、東国滞在中に運慶は、武士のエネルギーを彫刻のうちに盛り込むようになったのだろう。



これは、不動明王像の上半身を拡大したもの。憤怒の表情に大きな特徴がある。こうした表情は、以前の仏像にはたえて見られなかったものだ。

(木像彩色 像高明王136.5cm 制多迦童子82.6cm 矜羯羅童子76.0cm )
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9:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:49:48

浄楽寺阿弥陀三尊像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura08.joraku.html


浄楽寺は、鎌倉幕府侍所別当和田義盛が文治五年(1189)に創建した寺である。その本尊として運慶が作ったのがこの阿弥陀三尊像であ
る。運慶はこれとあわせて、不動明王、毘沙門天の両像も作っている。これら三者は、願成就院でもやはりセットになっている。不動明王といい、毘沙門天といい、東国武士の好みを強く反映したものだ。

制作の経緯は、毘沙門天像の内部から出てきた木札に記されている。それには、文治五年に運慶が小仏師五人を率いて、和田義盛とその夫人小野氏のために作ったとある。和田義盛は、頼朝挙兵のときから従った腹心だ。

本尊は檜材の寄木造り。頭部は四材の矧木で首の根を体部に差し込んである。その体部も四材の矧木で、内部を刳面にして浚っている。両脇時は、頭部、体部とも左右矧木、頭部の根を体部に差し込んである。眼は、三尊とも彫眼である。なお、現存のものは全体に漆箔が施されているが、これは後世の補修の結果である。このため、像容が損なわれているとの指摘もある。



これは本尊の拡大写真。ふっくらとしたなかにしまりのある表情は、願成就院の阿弥陀像に通じる。

(木像寄木造り 像高本尊140.0cm 脇侍各178.0cm)
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2024/01/14 (Sun) 15:50:33

興福寺北円堂弥勒仏像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura09.miroku.html


治承四年(1180)の兵火で焼かれた東大寺や興福寺は、いち早く復興された。その過程で、康慶・運慶父子をはじめとした慶派の仏師も参加した。東大寺南体門の仁王像はその代表的なものである。興福寺のほうについても、運慶を中心に仏像の再建が行われた。北円堂の諸像はその代表である。

北円堂の諸像は、承元二年(1208)から建暦二年(1212)にかけて、運慶を総仏師、源慶を上座大仏師、静慶を頭仏師として造立された。弥勒仏坐像はその中尊となるものである。

時に運慶は六十歳前後だった。晩年であるが、衰えぬ創作意欲を感じさせるばかりか、日本彫刻史のうえでのエポックを画す作品である。

桂材の寄木造りで、頭部、体部ともに四材の矧木造りである。頭部内に、弥勒菩薩小像と建暦二年記の願文を納めた厨子などが収められている。なお、光背は後世のものである。

(木像寄木造り 造高141.9cm)
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11:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:52:38

無著・世親立像:運慶と鎌倉彫刻
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無著・世親は、五世紀頃のインドで活躍した兄弟僧である。法相の教学を確立したとされている。その兄弟僧の立像を、興福寺北円堂の中尊弥勒仏の住持として運慶以下が作成した。弥勒仏台座の銘によれば、世親は運慶第五子運賀の担当とされている。無著のほうは、第六子運助の担当だろうと推測されている。

どちらも、運慶の構想にもとづいて作られたと考えられる。運慶の特徴であるリアリズムと勇壮さとが共存したこの作品は、運慶様式の到達点を示すものと評価される。日本の肖像彫刻の最高傑作といってよい。

両像とも桂材を用いる。無著のほうは、頭部、体幹部を一材で造り、世親のほうは、体幹部を前後に矧木している。ともに玉眼を嵌め込んである。

写真は、上が無著、下が世親である。優劣をつけるのがむつかしいが、世親のほうがより緊迫したものを感じさせる。



(木像彩色 像高無著194.7cm 世親191.6cm)
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2024/01/14 (Sun) 15:53:43

醍醐寺三宝院弥勒菩薩像:快慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura11.daigo.html


快慶は、康慶の弟子として、運慶とは兄弟弟子にあたる。運慶と共に東大寺南大門仁王像を造立したことに象徴されるように、鎌倉彫刻の全盛期において、運慶と名声を二分した。南大門仁王像を共同制作したことなどで、彼らの作風に共通点ばかり強調される傾向があるが、その作風には微妙な違いが指摘できる。単純化して言うと、男性的な荒々しい作風の運慶に対して、女性的で優雅な作風の快慶ということになろうか。両者に共通しているのは、リアリズムを貫いているという点である。

快慶の仏師としての生涯は、署名の相違にもとづいて三つの時期に画される。第一は、「巧匠安阿弥陀仏快慶」という署名をした初期、この時代に快慶はすでに安阿弥風と称されるような、彼一流の作風を確立していた。第二は、「巧匠法橋快慶」の署名をした中期、第三は、「巧匠法眼快慶」の署名をした晩年である。快慶はほとんどすべての作品に署名をしているが、これは彼の強い自意識を物語るものと考えられる。

「安阿弥陀仏」の法号は生涯用いたが、これは東大寺の勧進聖として知られる重源から付与されたものである。重源は浄土経の信者でもあり、みずから南無阿弥陀仏と称する一方、弟子たちにも阿弥陀号を付与した。快慶も浄土教の信者として、重源の弟子だったわけである。

快慶の初期の作品を代表するものの一つに、醍醐寺三宝院の弥勒菩薩像がある。写実的な傾向が強い一方、形を意識的に整える工夫も見られる。全体的な印象としては、優雅でおだやかな感じを与える。

建久三年(1192)、後白河法皇の追善供養として、醍醐寺座主勝賢の依頼にもとづいて作られた。

(木像金泥彩 造高112.5cm 京都府醍醐寺三宝院)
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13:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:54:31

浄土寺阿弥陀如来像:快慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura12.jodo.html


快慶初期の傑作のひとつに、浄土寺の阿弥陀三尊像がある。本尊の阿弥陀像が像高530cm、両脇時が370cmと、非常に規模の大きな仏像である。「浄土寺縁起」によると、建久八年(1197)に丹波法眼懐慶によって作られたとあるが、この懐慶とは快慶をさす。「丹波法眼」とした理由はよくわからない。

宋画を手本にしたとされるが、その造形の特色は快慶独自のものといえる。三尊とも、頭部、体部を通じて四材を矧木している。

写真は本尊阿弥陀如来の上半身部分。三宝院弥勒菩薩像以上に、優雅でおだやかな印象を受ける。またふっくらとした面相は、両者に共通するものであり、初期の時代の快慶の特徴を現している。

(木像漆塗 像高530.0cm 兵庫県浄土寺浄土堂)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura12.jodo.html
14:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:55:11

僧形八幡像:快慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura13.hachiman.html


快慶は、建仁年間(1201-03)に作風の転換期を迎え、中期の段階に入ったといえる。いまだ前期同様安阿弥陀仏の署名をしてはいるが、その作風には、前期の特徴である写実に加え、優美繊細さが目だってきた。これは、この時期の快慶が、宋風、藤原彫刻、奈良の伝統的な様式を丹念に取り入れたことの結果だったと考えられる。こうした試みを通じて快慶は、運慶とはまた違った、彼独特の作風を確立していった。

僧形八幡像は、この転換期を画す作品だといえる。それまでの写実的表現を基礎にしながら、快慶独特の様式美を感じさせる。

頭部、体部通して二材を左右に矧木、それに肩部を寄木している。眼は彫眼である。衣や台座の彩色文様が鮮やかに残っている。

僧形八幡像は、もともと東大寺八幡宮の神体であったが、治承の兵火で焼けたため、重源が鳥羽勝光明院に残っていた画像をもとに快慶に再現させたものである。像内の銘記に、建仁元年に開眼したことが記されている。

(木像寄木造り彩色 像高87.5cm 東大寺勧学院)
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15:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:56:01

文殊菩薩騎獅像:快慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura14.monju.html


文殊菩薩騎獅像は、奈良の文殊院の本尊として作られた。文殊院は大化の改新時代の官僚安倍倉梯麻呂の氏寺として創建された寺で、安倍文殊院とも呼ばれている。この像は寺の本尊として、善財童子以下の眷属四像をしたがえ、獅子に騎乗した姿であらわされている。獅子は本来文殊の乗り物である。

頭部内に建仁、安阿弥の名が認められる。僧形八幡と同じく、快慶の作風の転換期を画す作品だといえる。

獅子の背中に蓮華坐が置かれ、文殊菩薩はその蓮華座の上に座しているが、右足を胡坐のかたちに、左脚を踏み下げるというかわった形をとっている。もっとも、獅子と蓮華座は造立時のものではなく、後の時代に補われたものである。

なお、文殊院は東大寺の別格本山として、東大寺の復興を記念する総供養を行った。文殊菩薩像はそのために作られたと寺伝は伝える。

(木像彩色 像高199.2cm 奈良文殊院)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura14.monju.html
16:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:56:52

地蔵菩薩立像:快慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura15.jizo.html


快慶は、建仁三年(1203)の東大寺僧供養の際に法橋となった。この地蔵菩薩立像は、「巧匠法橋快慶」の署名が右足部に刻まれており、快慶の法橋時代の作品で、唯一現存するものである。

白い雲に乗り、蓮華座の上に立ち、右手には錫杖を握り、左手に宝珠をささげもったその姿は、来迎の様子をあらわしたものとされる。地蔵といえば、地獄に落ちた人に救いの手を差し伸べるものとしてうけとられているが、これは救いの手を差し伸べるべく、迎えに来た様子を表現したものだろう。

体躯の釣り合いがよくとれていて、美しさと優雅さを感じさせる。また、衣や袈裟に施された文様は切りがねで、袈裟の紐は銅で作られている。

快慶の作風である安阿弥様の完成した形をこの像に見ることができる。快慶の最高傑作との評判も高い。

(木像寄木造り 像高90.6cm 東大寺公慶堂)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura15.jizo.html
17:777 :

2024/01/14 (Sun) 15:59:24

蓮華王院中尊千手観音像:湛慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura16.senju.html


運慶には六人の子どもがいて、みな仏師となった。そのうち今日作品が確実に残っているのは、長男の湛慶、三男康弁、四男康勝の三人である。これらの息子たちが中心となって、慶派の本流を支えた。京都蓮華王院の千躰千手観音以下の諸像は、彼らの集大成と評価されている。もっとも蓮華王院の諸像は、慶派のほか、院派や円派などもかかわっており、当時の仏師を総動員しての壮大な事業であった。

湛慶は、このプロジェクトの中心となり、中尊の千手観音像のほか十点ばかりの千手観音像を作った。湛慶最晩年の作品である。蓮華王院は、後白河法皇によって長寛二年(1164)に創建され、そのさいに千躰観音像が安置されたのであるが、建長元年(1246)の火災で大部分が焼失した。そこで湛慶以下の仏師によって復興され、文永三年(1266)に供養された。

この千手観音像は、湛慶最晩年の作とあって、湛慶の特徴がよく現われていると評価される。父運慶ゆずりの作風を基調にしながらも、よりおだやかで優雅な趣を感じさせる作風である。この像からは、厳粛でかつ力強い印象とともに、穏やかな感じが伝わってくる。

なおこの像自体は、台座の墨書銘によれば、建長三年(1251)七月に作り始め、同六年正月に完成した。その時湛慶は八十二歳であった。

(木造寄木造り 漆箔 像高334.8cm 京都蓮華王院)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura16.senju.html
18:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:00:08

毘沙門天像:湛慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura17.bishamon.html


湛慶の作品として今日伝わっているものは、蓮華王院の諸像のほか、高知の雪蹊寺にある毘沙門天像及び吉祥天、善膩師童子の諸像である。毘沙門天像の足部の墨書銘によれば、これら三像は法院湛慶によって造立されたとなっている。湛慶が法院になったのは建暦三年(1213)のことだが、それから建長三年(1256)に没するまでの何時の時点でこれらを作ったのか、くわしくは判らない。

湛慶の作品として今日伝わっているものは、蓮華王院の諸像のほか、高知の雪蹊寺にある毘沙門天像及び吉祥天、善膩師童子の諸像である。毘沙門天像の足部の墨書銘によれば、これら三像は法院湛慶によって造立されたとなっている。湛慶が法院になったのは建暦三年(1213)のことだが、それから建長三年(1256)に没するまでの何時の時点でこれらを作ったのか、くわしくは判らない。

この像を安置する高知の雪蹊寺は、嘉禄元年(1225年)に高福寺として創建されたという。この像もその創建にあわせて造立されたという見方もある。

写実を基調とし、父運慶ゆずりの力強さを感じさせるが、それとともに、おだやかな優雅さも込められている。そこが湛慶の湛慶らしさと言えよう。

檜材の寄木造りで、眼は玉眼である。今日、右腕と左手首の部分が失われている。

(木造寄木造り 像高168.5cm 高知雪蹊寺)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura17.bishamon.html
19:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:00:56

天灯鬼・龍灯鬼立像:康弁
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura18.tentoki.html


運慶の三男康弁の作品としては、興福寺の天灯鬼・龍灯鬼立像が残っている。もと西金堂に安置されていた。仏前に灯篭をささげる一対の鬼をかたどったものである。天灯鬼は左肩で灯篭を担ぎ、龍灯鬼は頭の上に灯篭を乗せている姿だ。龍灯鬼像内から出た銘文には、建保三年(1215)仏師法橋康弁が作ったと記されていた。

上は、天灯鬼。左肩の上に灯篭を担ぎ、腰をひねってバランスを取りながら、怒号している姿は、擬人化された人間的な感情を感じさせる。ユーモアと迫力が混在した作品だ。



これは龍灯鬼のほう。頭の上に灯篭を乗せ、それを上目遣いに見上げているところがユーモラスだ。龍灯鬼にもとわりついているのは、龍である。龍は鬼の体を締め付けるようにまきつけ、鬼とは違う方向を見つめている。

両者とも檜材の寄木造り。眼は玉眼で、体部は彩色されている。

(木造寄木造り 像高各約78cm 奈良県興福寺
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura18.tentoki.html
20:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:01:56

空也上人像(六波羅蜜寺):康勝作
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura19.kuya.html


京都の六波羅蜜寺にある空也上人像は、運慶の四男康勝の作品。康勝の作品としてはほかに、法隆寺の阿弥陀如来像、教王護国寺の弘法大師像などがある。空也上人は、平安時代中期に活躍した僧で、浄土教の先駆者として知られ、各地を回って、南無阿弥陀仏の六字の名号を唱えれば成仏できると説いた。

そんなことから阿弥陀聖と呼ばれ人々に慕われた。かれはまた、駅病予防のために、古い井戸を壊し、新しい井戸を作ったりもした。

六波羅密寺は空也上人が作ったとされる。康勝がこの像を創ったのは、鎌倉時代の初期。空也上人の死後一世紀後のことである。。

左手で鹿の角をつけた杖を持ち、右手で持った撞木で胸に下げた鉦鼓を叩き、念仏を唱えている姿を表現したものだ。上人の口からでている六体の化像は、それぞれ南無阿弥陀仏の文字をあらわしている。

顔の表情や衣文の表現に写実的な特徴が見える。これは父親運慶の写実主義を忠実に受け継いだものだといえる。とくに、右肩の衣装がずりおちているところなどは、細かい配慮を感じさせる。



これは空也上人の顔の部分を拡大したもの。口から六体の聖が出てきている。この像は木造寄木造りで、目は玉眼である。

(木造寄木造り 像高117.6cm 京都六波羅密寺)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura19.kuya.html
21:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:03:53

俊乗上人坐像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura20.shunjo.html


俊乗上人重源は、治承の兵火で焼けた東大寺の復興に奔走した人である。かの西行も、重源に協力して、奥州の藤原氏に砂金の勧進を行ったことが知られている。重源の努力が実って、東大寺は速やかに復興できた。その復興に、運慶をはじめ慶派が総力をあげてかかわった。

この像は、重源が87歳で没した直後に、供養のために作られたと思われる。猫背の姿勢で座り、両手で数珠をまさぐりながら、口を固く閉じて前方を見つめている。右目は左目よりやや小さい。これらは重源晩年の風貌を忠実に伝えているといわれる。

作者の特定はできていないが、運慶の周辺にいた仏師の作だろうと推測される。運慶その人がかかわっていた可能性もある。衣文の表現などに運慶の特徴がよく伺えるからだ。

檜材の寄木造り。頭部は前後矧木、体部は左右矧木。体内は深く刳りぬいて、黒漆塗りを施している。

(木造寄木造り彩色 像高82.5cm 東大寺俊乗堂)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura20.shunjo.html
22:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:04:31

婆藪仙・迦楼羅王像:蓮華王院二十八部衆
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura21.basusen.html


京都蓮華王院には、千手観音の眷属である二十八部衆の像が安置されている。二十八部衆には、梵天、帝釈天、阿修羅などおなじみのキャラクターのほか、婆藪仙、迦楼羅王像といった地味なものも含まれている。これらが、千躰千手観音とともに収まっている眺めは壮観である。

二十八体いづれも寄木造りで、玉眼をはめこんである。上の写真は婆藪仙。ヨガの修行を積み、ヴェーダ聖典を感得したという伝説上の聖者である。痩せた体に粗末な衣を着、長い髪をたらしていたとされる。この像はそうした伝説上のイメージを再現したものだろう。



こちらは迦楼羅王。インド神話に由来する仏教の守護神。鳥頭人身の姿でイメージされる。この像はそのイメージを表現したものである。不動明王と同じく炎を背負い、横笛を吹いている。

作者は特定されていないが、蓮華王院は運慶を始め慶派が総力をあげて取り組んだプロジェクトなので、これらの二像も慶派の仏師によるものと考えてよい。

(木造寄木造り彩色 像高婆藪仙155.1cm 迦楼羅王166.3cm 京都蓮華王院)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura21.basusen.html
23:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:05:08

蓮華王院風神・雷神像:運慶と鎌倉彫刻
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura22.hujin.html


蓮華王院の風神・雷神像は、二十八部衆像と共に、千躰千手観音の眷属として安置されているものだ。風神・雷神の由来については諸説あり、もっとも有力なのは日本神話とそれがもとになった民間伝承に起源を求めるものだが、二十八部衆同様仏教起源だという説もある。蓮華王院の風神・雷神は、宋本における風神・雷神のイメージを形象化したものと言われており、その点では仏教起源説に従っているといえよう。

風神(上の写真)は、風の入った袋を担ぎ上げ、その袋の口を開いてそこから風を噴き出す姿で描かれている。一方雷神(下の写真)は、太鼓を円形に連ねたものを背負い、それらの太鼓を打つことで雷鳴をとどろかすイメージであらわされている。



どちらの像も、顔の表情といい、躍動する筋肉の表現といい、写実を基本としながらも、両神の暴力的な性格をイメージ豊かに表現しているといえる。作風からして、二十八部衆に通じるものがあり、湛慶とその周辺の仏師たちの手になるものと考えられる。

両像とも木造寄木造りで玉眼。風神は朱色、雷神は緑青で彩色されている。

(木造寄木作り彩色 像高風神112.0cm 雷神100.0cm 京都蓮華王院)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura22.hujin.html
24:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:05:51

維摩居士像:定慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura23.yuima.html


定慶は、運慶や快慶と同世代の仏師で、作風からみて慶派に属すると見られる。しかし、その作品が収められたのが興福寺と春日大社に限られ、また僧綱位についた形跡がないことから、慶派の主流ではなかった可能性が高い。その作風は、慶派の特徴である写実を基本としながらも、細部へのこだわりや装飾性等など、彼独自のものを指摘できる。

維摩居士は、文殊菩薩と法論をかわしたことが維摩経に見える。この像はその際の維摩居士の様子をイメージ化したものだ。まっすぐに相手を見つめ、両手で身振りをまじえながら、論争する様子がリアルに表現されている。宋画の維摩像を手本にしたとの指摘がある。

この像は、興福寺の東金堂に納められたが、同じ堂内には、論争相手の文殊菩薩の像も安置されている。だがこちらは定慶の作ではない。慶派に属するほかの仏師の手になるものだ。

木造寄木作りで玉眼。台座には獅子や牡丹の浮き彫りが施されている。獅子は文殊菩薩の使者だ。

(木造寄木作り彩色 像高88.1cm 奈良興福寺東金堂)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura23.yuima.html
25:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:06:27

興福寺梵天像:定慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura24.bonten.html


興福寺の東金堂にあった梵天・帝釈天像のうち、帝釈天像は建仁元年(1201)に定慶によって作られ(現在は根津美術館蔵)、梵天像は翌建仁二年(1202)に作られた。梵天像の背面の墨書に、大仏師定慶、小仏師盛賀及び定賀によって作られたとの記録がある。

慶派としての写実的な作風を基本にしながら、定慶なりの特徴が伺える作品。その特徴とは、全体としてやわらかく穏やかな印象と、肉感のふっくらとした仕上がりだ。そのふっくらとしたところは、衣装の表現にもよく現われており、袖の部分など、布の質感を感じさせる。

檜材の寄木つくりで、玉眼。頭部、体幹部とも前後の矧木。表面には朱と緑で彩色してある。

(木造寄木作り彩色 像高181.3cm 奈良興福寺)
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura24.bonten.html
26:777 :

2024/01/14 (Sun) 16:07:05

興福寺金剛力士像:定慶
https://j-art.hix05.com/12kamakura/kamakura25.kongo.html


金剛力士(仁王)像といえば、東大寺南大門のように、寺院の門の内部に安置されるものがイメージされるが、興福寺の場合には、西金堂の中に、本尊の脇時として安置されていた。それ故、サイズは人身大であるが、この両像は、南大門のそれに劣らぬ迫力を感じさせる。

寺伝では、定慶の作となっているが、確証はないようだ。確証的な情報としては、吽像の像内に、正応元年(1288)両像が大仏師善増らによって修復されたと墨書されているものがあるのみだ。しかしその作風から見て、定慶の作である可能性は非常に大きいと言えるのではないか。

これは阿像。筋肉や衣文を中心にして非常に写実的でありながら、表情やポーズにはどことなく大らかさも感じられ、そのあたりに運慶とは異なった定慶らしさが指摘される。

両像とも檜材の寄木作りで玉眼。頭部は前後の矧木。体幹部は、上半身と下半身を腹部で上下に重ねている。上半身は前後矧木、下半身は左右矧木である。

(木造寄木作り彩色 像高阿像154.0cm 吽像153.7cm 奈良興福寺)
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