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日本の旅 _ 富山県・石川県・福井県・滋賀県

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2024/01/14 (Sun) 11:02:17

日本の旅
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2024/03/03 (Sun) 12:50:55

取材してわかった能登地震の被害 被災状況 part1  自衛隊の活躍 道路の崩落の現状 輪島まで (2024.02.15.撮影日)
Lizzy channel (愛国女子見習い)
https://www.youtube.com/watch?v=DgaONpyKbPc

能登の震災 輪島の火災の現状  2024.03.05.
Lizzy channel (愛国女子見習い)
https://www.youtube.com/watch?v=vN8gAsrui8A


能登地震 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%83%BD%E7%99%BB%E5%9C%B0%E9%9C%87&sp=CAI%253D
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2024/03/15 (Fri) 19:44:30

Part2 能登の震災 輪島の火災の現状  2024.03.05.
Lizzy channel (愛国女子見習い)
2024/03/05
https://www.youtube.com/watch?v=vN8gAsrui8A&t=0s

part3 珠洲 被災者の生の声 津波の被害状況 (2024.02.16.撮影日)
Lizzy channel (愛国女子見習い)
2024/03/07
https://www.youtube.com/watch?v=unClcvlN9Aw&t=0s

part4 能登現地取材 被災者に困っていることを伺ったら返ってきた意外な答え 自衛隊の配食 井戸掘り支援!  (2024.02.16.撮影日)
Lizzy channel (愛国女子見習い)
https://www.youtube.com/watch?v=p8HRTYGMbXg

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2024/04/29 (Mon) 14:40:29

能登被災地で棄民くり返すな 家は崩れ、避難所も出され…3カ月以上たってまだ車中泊も 支援打ち切り集約化促す国【記者座談会】
2024年4月28日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/30158

崩れた住宅のがれきで塞がれた輪島朝市通り付近の道路(8日、石川県輪島市)

 能登半島地震の発生から3カ月半以上が経過した石川県奥能登地域では、被災家屋やがれきの撤去をはじめとする復旧作業が遅々として進まず、数万人の被災者が避難所や壊れた自宅、また車中泊などでの生活をよぎなくされている。4月の年度替わりを前後してさまざまな公的支援が縮小されたり、打ち切られるなか、避難所から退所を迫られ、仮設にも入れない多くの住民が身動きがとれない状態にある。被災した住居の修復にも手がつかず、水道管も壊れ水も使えない過酷な状況に放置された被災地の現状と今後の復興のあり方について、本紙はこの間の現地取材をもとに記者座談会で論議した。



住民を離散させる「復興」とはなにか?




焼け跡に放置されたままの車(8日、輪島市)

 A 元日の地震発生から3カ月半以上が経過し、石川県では金沢市から奥能登まで道路はなんとか通行できるようになっている。ただ、現地の人たちが「何も変わらない」というように、本当に被災地の光景は地震直後のままだ。主な道路のがれきが撤去されたり、ガタガタだった道が舗装されて少しは改善しているのだろうが、被災して倒壊した建物はそのまま放置され、あの日から時が止まったような光景だった。



 輪島市では、7階建てのビルが根元から基礎がえぐれて横たわったままになっていた。地震直後に消防が救助活動にあたる様子が何度も放送されていた当時の光景そのままだった。その周辺の家屋もぺしゃんこに潰れたまま。輪島朝市通りの火災現場も、焼け野原のまま放置されている。町並みだけを見ると、とても3カ月が経過したとは思えない。ただ、そんななかを子どもたちが普通にサッカーボールを手に歩いて行くので、生々しい地震の爪痕と生活感とのギャップにものすごい違和感を覚えた。



 発災から3カ月も経てば、がれき撤去のために大量に重機が投入され、ダンプが行き交って砂埃が舞っているような光景を想像していたが、現地で目にしたのは、他県から応援で派遣されて被災家屋の調査をする行政職員、水道工事業者、仮設住宅建設の作業員くらいだった。復旧に向けた慌ただしい空気感がまったくない。



 そんな状態のまま3カ月が経過し、各地に避難していた住民が被災した自宅へ戻って来ている。というより、戻らざるを得ない。もともと市の指定避難所等に避難していた人たちは、その後市外のホテルなどを利用した二次避難所へ移っていた。しかし、ホテルも避難者1人当り1万円の補助でやりくりしているなかで受け入れに限界もある。最近は避難所閉鎖の動きも出始めており、避難していた高齢者たちは次の場所への移転を迫られている。



 一方、仮設住宅の建設は遅れており、住民からは「夏頃までに入居できれば良い方」「抽選なので当たるかどうか、あまり期待していない」といわれる状況。現時点であまりあてにされていない。



 石川県の調査によると、これまでに県内外の宿泊施設に二次避難していた5275人のうち、16日時点で3043人が退所している。このうち、49%が自宅に戻り、29%がみなし仮設へ移っている。そして、仮設住宅に入れたのは全体のわずか8%にすぎない。石川県の把握した数字は、被災者がみずからの情報をネットで登録しなけば数として計上されない。実際には発災直後からの在宅避難者がこの数倍いる。



 そもそも仮設に入居できるのは自宅が半壊以上の住民なので、準半壊や一部損壊では入居対象にすらならない。今後、今いる避難所や二次避難所から退所を迫られる住民は増えていくだろうが、仮設にも入れず、「地元から遠く離れた『みなし仮設』(アパートなどの借り上げ住宅)に住むくらいなら、壊れた自宅に戻る方がまし」と考えて、被災した自宅に戻ってくる人が増えるだろう。



 半壊や一部損壊とはいえ、家の中は傾いたり、戸が閉まらなくなったり、基礎と地盤との間に隙間があるなど、安心して生活できる環境にはほど遠い状態だ。それでも自宅に戻って生活する以外に選択肢がない。傾いた床で寝起きし、「普通に生活しているだけで頭が痛くなる」という状態のまま暮らすか、自腹で家を修理する以外ない。そんな余力がある人がどれだけいるだろうか。



 家を修理するだけでも数百万円単位の資金が必要だが、半壊以下は生活再建支援法による支援金の支給対象ですらない。災害救助法で雀の涙ほどの支援があるだけだ。国の支援からも外され、「あとは自分でなんとかしろ」と避難所から再び放り出される。何人もの人が「いっそのこと全壊だった方がよかった」といっていた。



生活再建支援は雀の涙 半壊以下はゼロ円




自宅の基礎と地面の間に10㌢以上の亀裂が入ったが「準半壊」とされた男性(珠洲市)

 A そのように自宅に戻る人が増えれば、当然家を住めるように補修しなければならない。だが現地では、家を修理する瓦工や大工、水道工事業者が不足している。現在、能登半島の一番奥にある珠洲市以外では断水はほぼ解消しているが、家の中の管が被害を受け漏水しているため水道が使えないケースが多発している。その場合は自費で業者に修理を依頼しなければならないが、電話をかけると「百数十件待ち」といった状況だ。地元業者も被災し、人材が流出しているのだ。



 現行制度では市の指定業者にしか水道工事を頼めないため、マンパワーが間に合っておらず、工事が遅れ、住民が家に戻れても水が使えない。水道に限らず、瓦や屋根の補修、ガス管の補修・点検など、すべての業者に共通していえることだ。



 水道工事の遅れについて石川県の担当課に聞くと、ようやく今指定業者以外でも工事ができるよう国、県、市町で協議をしているところだといっていた。こうなることは当初からわかっていたはずだが、国主導で先回りして復旧を後押ししていく動きが皆無なのだ。そのうえ国は3月末で飲料水供給のプッシュ型支援を打ち切ったため、現地では飲料水不足が起きている。



 さらに、「罹災証明書」の発行も遅れている。支援金受給や税金減免、仮設住宅への入居申請などに必要で、被災者であることを証明する書類だ。罹災証明書には、住宅被害度のランク付けが記される。被災家屋の解体を住民にかわって自治体がおこなう公費解体の対象は「半壊」以上。「準半壊」や「一部損壊」と判定されると対象外だ。



 公費解体できるのか、それとも自費で解体、または屋根や瓦、トイレ、風呂、上下水道、ガス等々、あらゆる修理のために何百万円も身銭を切るのか、当事者にとって住宅の被害度判定は死活問題だ。だが判定基準もあいまいだといわれており、一次調査に納得できずに二次調査を申請する人が役所に殺到しているが、その結果が出るのは数カ月後。その間、判定が出るまでは罹災証明がないので支援金等の申請もできず、仮設の入居申請もできず、ただ待つしかない。生活再建に向けた身動きがとれなくなるため、復旧を急ごうと思えば公的支援を諦めるしかない。



 珠洲市のある高齢男性は、最初の調査で「半壊」だったが、二次調査で「準半壊」にランクが下げられた。地盤に対して自宅の基礎が浮いた所もあり、外壁は剥離、屋根も瓦も壊れ、家の中も雨漏りする。判定そのものに納得いかないが、「もう待っているのに疲れた。準半壊では支援は少ないが、どうせ仮設にも入れないならもう自腹で家を修理して住むしかない」と諦めていた。自宅を直すための蓄えもなく、借り入れもできないのなら、故郷から離れざるを得ないのだ。




自宅の地盤が隆起して室内の床がドーム状に盛り上がっている。戻ってきて2日目にして「船酔いをしているようだ」と語る住民(輪島市)



 B 現行制度では、地震で住宅被害を受けた人へ国の支援として「被災者生活再建支援法」がある【表参照】。住宅再建のための支援金の支給額は、全壊(損害割合50%以上)で300万円だが、あくまで「最大で」だ。内訳を見ると、基礎支援金はわずか100万円で、そこから先は住宅再建の手段によって金額が変わる。家の建てかえや購入なら200万円。補修なら100万円。補修も難しくて賃貸に移るのなら50万円だ。いずれにしても微々たるものだ。



 国会では野党側が「最大300万円」を600万円に倍増させる案を提案しているが、それでも家を建て直すことは難しい。液状化地域では、地盤からして沈下、隆起しているのだから。



 全壊未満の被害については、大規模半壊で最大250万円、中規模半壊では最大100万円。そして、半壊以下の被害はゼロ円。一銭も出ない。



 別途、「災害救助法」による応急修理費用は出るが、トイレや風呂など必要最小限度の修理費用として、半壊(損害割合20%台)で70万6000円以内、準半壊(同10%台)では34万3000円以内で、一部損壊(同10%未満)ではゼロ円。つまり一部損壊では、どんな制度でも支援金はビタ一文出ない。瓦が落ちて雨漏りしたとか、壁にひびが入ったり隙間ができたり、傾いた家でも一部損壊とされる。基礎からやりかえるなら数百万円かかるにもかかわらずだ。



 今回の地震後、政府は能登6市町(珠洲、能登、輪島、穴水、志賀、七尾)限定で、高齢者や障害者がいる世帯に限定して最大300万円を上乗せ支給することを表明したが、これも「半壊以上」が対象だ。半壊未満、一部損壊の世帯には何の関係もない話だ。そして、そういう人たちが圧倒的に多い。これではコミュニティを守ることにはならない。



 C 仮設住宅の入居条件にしても、基本的に「全壊」が対象で、半壊でも解体する場合は可能というものだ。自治体が被災した建物の解体・撤去を支援する公費解体も、「半壊以上」と判定された家屋などが対象だ。この公費解体すら、熊本地震では完了までに2年以上もかかっている。悲惨な前例踏襲しかしないのなら絶望感しかない。



 A 現地ではまだ車中や家の前のビニールハウスで暮らしている人もいる。仮住まいを他市に移し、港で復旧作業があるときにだけ輪島に通っているという漁師もいた。自宅は住める状態ではないため、その期間は車中泊をしているという。自分も取材中に1日だけ車中泊をしたが、夜は何枚重ね着しても寒くて目が覚めるほどだった。全身の震えが止まらない。元日の地震発生から真冬の奥能登で燃料のないまま何カ月も車中泊をしてきた被災者の心身の疲労は想像を絶する。冷たい体育館で、3日間飲まず食わずの日があり、段ボールすらないまま2週間過ごしたという人もいた。



 能登半島は漁業集落が多く、漁師たちは港から離れた避難所や他市から仕事に行くことはできない。農業者や漁業者などは港や土地から離れたら生業がなりたたないので、遠く離れた場所の仮設住宅では、たとえ条件が合っても入れない。できるだけ生業の場から離れたくないのは当然だ。そのためにはトレーラー型などの移動式仮設などが必要になるが、そんな支援はまだない。車中泊が3カ月以上も続いていることには愕然とするし、このままでは漁業離れが加速すると心配されていた。



 C 復興のために前に進もうとする被災者に対し、国の支援制度は旧態依然として貧弱すぎる。そのため被災地は何年もブルーシートで覆われた家での生活を強いられたり、身寄りのない高齢者がプレハブ仮設にとり残され、孤立や疾患などによる震災関連死が地震の直接死よりも大幅に上回るという状態になる。こんなことは東日本大震災、熊本地震をはじめ、各地の豪雨土砂災害の被災地で何度もくり返されてきたことだ。



 半島である能登は地理的にも制約があるし、被害の度合いも甚大で、高齢化率も高く、さらに復旧のための資材や人件費だって数年前に比べたら高騰しており、杓子定規の前例踏襲主義では実際に見合った支援になるわけがない。



 山本太郎も国会で主張していたが、全壊だろうが一部損壊だろうが、住宅や生活再建に必要な費用の八割を国が面倒を見て、残りを自治体や義援金などで補填するくらいの対応をしなければ、悲劇がもっと悲惨な形でくり返される。コミュニティや地域産業が全体として守れなければ復興など絵に描いた餅だ。



 A 現状を見かねて集まってきたボランティアや災害NGOなどが善意で炊き出しやがれき撤去を手伝って支えているが、長期になれば限界がある。国は「ボランティアが必要だ」と号令をかける前にやるべきことがある。能登だけの話ではない。これまでの被災地もそうだし、今後どこでも起きる可能性がある地震や豪雨災害でも同じ事が起きるということだ。地震活動期に見合った「公助」のあり方が問われている。途上国ODA(政府開発援助)の大盤振る舞いの前に、まず国民を救え! という話だ。



国はプッシュ型支援打切り 自治体は弱体化




弁当の配布や炊き出しをおこなう避難所(9日、珠洲市)

 A 奥能登の被災地を回っていて、復興どころか復旧すらも手つかずの状態への焦りや国の支援が乏しいことへの憤りがあった。ただ、同時にものがいいにくいような空気が漂い始めているのではないかと感じることが何度かあった。倒壊家屋の解体や撤去にもまだ手つかずな状態のなか、ボランティアや土木作業員の泊まる場所がないことや、物資や機材の不足などについても「珠洲は場所が悪いからね…」という人もいた。



 確かに一番被害の大きな地域がもっともアクセスが悪い場所だったという、地理的な悪条件もある。だが地震直後から「道が寸断された」「港が隆起した」という悪条件だけが報道の節々にちりばめられ、それが国の支援が遅れた言い訳に使われてきたと感じる。



 B 国の対応は初動から遅かった。地震から数日経って国が「今から自衛隊に被災地のニーズを聞きとりさせる」といった調子だった。首相が現地入りしたのも2週間後。空からの視察なら直後でもできたはずだ。国の災害対策特別委員会が開かれたのは1カ月後だ。裏金問題で派閥解散云々と騒いでいたが、それ以上の被災地救済に対する熱量はない。



 そして今、道路の補修が進んで交通の便も良くなったのに、国は支援を加速させるどころか、被災地へのプッシュ型支援をやめ、自衛隊も徐々に撤退させている。被災直後は「交通事情」を理由に支援が遅れ、これから巻き返していく本気度が必要なときに「もう3カ月たったから…」といって手を引いていく。



 A 現地では、防犯のために他県ナンバーの警察車両だけは相変わらずあちこちにいる。夕方になると警察の人員輸送車が現地にやってきて、夜になると検問所を設置して大量の警官と警察車両を見せつけるかのようにこれでもかと並べていた。空き巣や窃盗などのならず者がいるため、地元住民の安心のためには必要なことかも知れないが、もっと被災者を安心させるために国がやれることがあるだろうと思わずにはいられなかった。



 C 被災自治体から具体的な要請を待たずに国が物資を緊急輸送するプッシュ型支援は、3月末で終了した。水も食料も電気も途絶えた被災地では最後の生命線だ。プッシュ型支援打ち切りの理由について石川県の馳知事は「地元商店などの営業が次第に再開しており、物資支援と商流再開を両立させることが重要」などといっているが、これが現場の実際とかけ離れている。



 被災前から珠洲市では53%、輪島市で49%が65歳以上の高齢者だ。まだ水道も使えず、飲み水の確保もままならず、これからは崩壊したコミュニティの住民に対して県や市町が物資調達をおこなうことになるが、各自治体からの応援職員も徐々に減り、必要とされる場所に物資が届けられなくなることは目に見えている。要するに被災者切り捨てだ。



 実際、輪島市は応援職員の減少等を理由に2月末で自宅避難者への物資配達をやめ、住民は自分で避難所や公共施設までとりに行かなければならない。自宅への帰還者が増えるタイミングで支援が縮小されており、このままでは分散した高齢者たちの孤立、災害関連死に繋がる可能性が高い。そうなることがわかっていて打ち切っているというほかない。



台湾地震とも雲泥の差 災害支援体制に違い




台湾地震直後、簡易ベッドが備えプライバシーに配慮したテントが設置された花蓮市内の避難所(4月3日、台湾)

 A 同じように4月に大規模な地震に見舞われた台湾の災害対応と比べても雲泥の差がある。能登被災地でも、台湾地震での政府やボランティアの対応について話題になった。「台湾では被災からわずか2日後には傾いたビルの解体作業に入っていた。能登では3カ月経っても見渡す限りの被災家屋がまったく手つかずのままだ。この違いは何なのか。正直台湾がうらやましい」とある住民は話していた。



 B 4月3日にマグニチュード7・2の地震が起きた台湾では、地震発生後わずか2、3時間で避難所が設営されたという。被害が大きかった花蓮市内の避難所では、冷房完備、簡易ベッドが備えられたプライバシーに配慮したテントの設置、女性や特別支援者専用の寝室も設置された。飲食料も充実し、Wi-Fiや充電、電話サービス、子どもが遊ぶスペースなども用意されたという。



 行政が日頃からボランティア団体と連携をとり、被災直後もすぐに連携して必要な物資の情報交換等をおこない、4時間後には設備がほぼ整っていたという。台湾では、こうしたボランティア団体を支援専門家と位置づけ、行政へのアドバイザー的役割を担っているそうだ。要するにNGOやボランティアを国が保護し、準公務員的扱いをしているから可能なのだ。



 かたや能登では発災後2週間も段ボールすらなかった避難所もあった。ただでさえコストカットで人員縮小し、被災者でもある自治体職員によるサポートには限界があることは最初から目に見えており、NGOやNPOなど各地で実績を積んできた災害ボランティアを国が支援し、連携することの必要性を突きつけている。自治体だけでは明らかに実情を把握し切れていない。



 A 珠洲市でボランティアに参加した男性は「現場でリーダーシップを発揮して人を動かす部署が必要」といっていた。今、被災地でおもにボランティアの受入や人員配置をおこなっているのは地元の社会福祉協議会だ。だが、小さな自治体の、そのまた小さな社協という組織には重荷だという声も多い。



住民不在の創造的復興 東北や熊本の教訓



 C そのなかで動いているのが、居住地域の集約化だ。財務省は9日、能登の被災地復興をめぐり「維持管理コストを念頭に置き、集約的なまちづくりを」と提言を出した。コスト削減ありきで、復興したいなら集約化を進めろという被災地への提言だ。言い換えれば、「分散化した非効率な田舎を復旧させる意味はないから、住む場所をまとめろ」ということだ。地盤の隆起によって使い物にならなくなった奥能登の漁港復旧も国が予算を出ししぶっているため、県漁協側から各地の漁港を輪島1カ所に集約させる案が浮上している。



 地震という自然災害に見舞われ、家も生業も失い、明日の生活もわからない状態で過ごしている住民たちの混乱、疲弊の足下をみて、またぞろ「創造的復興」という名のショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)を押しつけようとしているようだ。



 住民たちが頑なに被災した地元から離れずに留まっている理由の一つには、土地から離れ、地域コミュニティが崩れてしまったら、復興主体である住民不在のまま復興計画が進行してしまうことへの懸念がある。そんなことが各地でおこなわれてきたからだ。



 B 東日本大震災の被災地でも同じだった。津波に浸かった土地を居住制限区域にして住めなくし、国は強引に集団移転を進めようとした。だが、結局集団移転どころか多くの住民が地元から離れ、そこから何年もかけて巨大な防潮堤や高台などを整備する方針が、自治体や住民の意向とはかけ離れたところで進められた。



 東日本大震災の場合は、「コスト削減」どころか逆に「ゼネコンの復興ではないのか」といわれるほど誰も望んでいない巨大公共事業が持ち込まれ、地元住民が嫌気をさして出て行ったという地域が多々ある。そして13年が経過してできあがった巨大防潮堤に囲まれた土地には誰も住んでいないという本末転倒だ。



 岩手県陸前高田市の例はその最たるものだが、街全体を平均10㍍かさ上げする工事が10年間続き、結局今になって完成したかさ上げ地の民有地利用率は「今後利用予定」も含めわずか31%だ。今も広大な空き地が広がっている。



 A 能登では、地盤隆起によって港が使えず漁再開のメドが立たない輪島の漁師が「このままでは東北沿岸部の二の舞になる」と危機感を募らせていた。このまま能登の被災地が放置されたら、時間の経過とともに若者が流出して高齢化が進み、いつまでも漁が再開できないままの状態が続くのではないかという将来への不安だ。海底が4㍍も隆起して漁船が出せない。製氷施設や選別場などの漁港施設も破壊されて使えず、漁師たちはがれき撤去などの作業でなんとか食いつないでいる。だが隆起した海底の浚渫でさえ一向に進んでいない。相当大がかりな作業になるにもかかわらず、国に復旧させる気がないのだ。諦めるのを待っているように見える。



 B 条件はその被災地域によってさまざまだが、地元住民が被災直後からその地で復興のために歩みを進められない状況に置かれる点は共通している。



 3・11の福島原発事故後も地元住民は地元から追い出され、何年もの間仮設住宅暮らしをよぎなくされ、棄民状態が続いた。今、福島県浜通りでは、「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)」構想が進められ、核戦争や生物化学兵器戦争を想定したような訓練場整備が現実に検討されている。「福島原発の廃炉のための研究施設」と説明されているが、実際には軍事にも転用できるAI、ロボット、ドローン研究の拠点になろうとしている。そしてここに作られるロボットテストフィールドや福島国際研究教育機構(F-REI)には、福島復興予算がつぎ込まれている。住民を離散させ、復興主体から排除したのは、土地収奪のための意図的な棄民政策だったということだ。



 C 2016年の熊本地震に見舞われた熊本県内では、被災から3年後に取材に行ったときも、まだ1万6000人がプレハブ仮設などでの生活をよぎなくされていた。もっとも被害が大きかった益城町では、以前から懸案だった県道の四車線化を「復興の目玉」として決定し、沿線の商店街にも建築制限がかかり、住民は立ち退きを迫られ、地震の被害を持ちこたえた店舗も移転をよぎなくされた。この計画が進むまで身動きがとれなくなり、出て行った住民も少なくない。



 一方、熊本県内では、半年後に実施された公費解体は申請棟数の3割程度で、約3万5000棟の公費解体が完了するまでに3年近くかかった。「自宅が全壊したのに、公費解体は1年経っても順番が決まらなかったので、結局自費解体した」という人もいたし、多くが諦めて土地を去っていった。



 政府やメディアが災害のたびに口にする「創造的復興」とは、裏返せば「もとの暮らしや生業は復旧しない」という意味であり、災害というショックを利用して、ゼネコンや大企業などが土地を収奪し、地元の住民が誰も望んでもいない姿に変貌していくことを過去の被災地の事例が示している。



 A 輪島市で出会った住民は「役場に何をいいに行っても融通が利かず、言い訳のように“東日本のときもそうだったから”“熊本地震のときもそうだったから”と門前払いされる」と嘆いていた。



 今回も岸田首相は「被災地に寄り添う」「コミュニティを守る」「できることはなんでもする」などと口先では宣言しているが、現場では貧弱な公的支援さえも打ち切られ、ふたたび棄民がくり返されようとしている。これは日本全国にとっても他人事ではない。すでに今年に入って震度5弱以上の地震は全国で23回以上起きており、地震や津波に限らず大規模災害は必ず起きる。「今日の能登は、明日の我が身」なのだ。



 能登には「能登はやさしや土までも」という言葉があるという。取材中も被災者であるにもかかわらず、「遠い所からお疲れ様」「ごはんはちゃんと食べてるの」とたいへんに気遣っていただいた。郷土への思いや人への気配りや優しさが人一倍溢れる地域だと感じた。住民の力や生業、コミュニティなくして復興などあり得ないし、地震災害という極限のなかで、政治がなんのために機能すべきかが問われている。棄民政治という人災で失われていいはずがない。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/30158
5:777 :

2024/04/29 (Mon) 14:41:37

能登被災地を置き去りにするな 住居を失い、食料や水も途絶え… 許されぬ国の支援打ち切り 自宅全半壊でも微々たる支援金
2024年4月22日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/30072

地震で火災に見舞われた輪島市朝市通り周辺。3カ月前と何も変わっていない(8月、石川県)


倒壊した家屋と、液状化によって地面から飛び出したマンホール(10日、石川県珠洲市)

 能登半島地震が発生してから3カ月が経過した。もっとも被害が大きかった石川県内ではいまだ7400人以上の住民が避難所生活を続けている。とくに深刻な被害を受けた石川県珠洲市や輪島市の住民のなかには、自主避難所の閉鎖や市外の宿泊施設を利用した二次避難所の受入終了や閉鎖により、生活拠点の移動をよぎなくされる人が増えている。いまだに仮設住宅が十分に整備されておらず、今後指定避難所の縮小なども進んでいくなか、自宅への帰還を決断する高齢者も多く、住民の離散避難でコミュニティが崩壊している地域も少なくない。震災から約3カ月半を経た被災地の今を取材した。



住居・食料・水も失った被災者たち



 珠洲市蛸島町の自宅で妻と暮らす80代の男性は、「地震が起きたときに慌てて外に飛び出したが、そのときに屋根から瓦が落ちてきて頭に直撃し、血をボタボタ垂らしながら毛布で頭を押さえ避難所までなんとか逃げた。だが道路はガタガタで救急隊も身動きがとりにくく、避難所はけが人ばかりでなかなか名前が呼ばれなかった。病院に行って治療を受けられたのはその日の夜中2時で、17針を縫うけがだった」という。



 自宅は一次調査では「半壊」の判定だったが、家の中まで見てもらうために二次調査を依頼した結果「準半壊」へとランクが引き下げられたという。基本的に仮設住宅に入居できるのは自宅が半壊以上と認定された人が対象となるため、仮設への入居は選択肢から排除せざるをえなかった。



 男性は妻と2人で3月までは地域の避難所で生活していたが「いつまでも避難所の世話になるわけにはいかないし、自宅も住めないわけではない。どうせ仮設に入れないのだから早めに家を直して住むしかない」と今は自宅へ戻って生活している。だが自宅は現在、屋根の瓦が所々剥がれ落ち、地盤沈下によってブロック塀もほとんどがバラバラに崩壊、外壁にはひびが入って所々剥がれている。家の中も雨漏りし、建て付けが悪くなり、ふすまが閉まらなくなるなど、あちこち不具合が出ている。地盤と家の基礎との間にも10㌢ほどの隙間が開いている。「まだ通水していないのでわからないが、おそらく水道管などもかなりダメージを受けているはずだ。これだけの被害で準半壊という基準もよくわからないし納得がいかないが、また調査を依頼して結果を待つのも疲れるから諦めた」という。



 自宅で生活していくためにはこれからあちこち修理しなければならない。男性は「準半壊に対する支援などごくわずかなもので、今日やった瓦修理だけで全部なくなってしまうだろう。だからそれ以外の基礎や塀、雨漏り修理などの残りの工事はすべて手出しでなんとかしなければならない。私も妻もこの家で何年生きられるかわからないし、その後住む人もいない。だが今から暮らしていくためには金をかけて修理しないとまともに住めない」と話していた。



 被害を受けた住宅を建て直す場合は、生活再建支援法からの支援で最大支給額はそれぞれ全壊300万円、大規模半壊250万円、中規模半壊150万円だ。だが補修や賃貸に移る場合はさらに少なくなる。また、半壊、準半壊、一部損壊では、住宅再建のための支援金は一切出ない。災害救助法から応急修理費用は出るが、トイレや風呂など必要最小限度の修理費用を支援するもので、半壊で最大70万6000円、準半壊なら34万円だ。



 自宅に戻ってきた現在の生活の様子については「今一番大変なのは水が使えないことだ。このあたりはまだ断水が続いているので、家の外に貯水槽(バスタブのような形)を三つ並べて雨水を溜めておいて、トイレ、洗濯、風呂すべて手で汲んで使っている。車は無事だったので自力でスーパーに通って食料や水はなんとか調達できている。これまで生活していた避難所に頼めば弁当の配布もあるので、必要なときは利用している。今は家での生活はなんとか続けられている。避難所にいたときの方が楽だったが、いつまでもそういうわけにはいかない」と話す。



 珠洲市内では在宅避難者への弁当の配布などはすでに終了しており、そうした人の分も含めて今は避難所へ届けられるようになっている。だが、今後は指定避難所が縮小に向かっていくと、地元に残った住民のセンター的な拠点がなくなる。



 避難所の世話をしている住民は「避難所の方が居心地がいいからと残っている人も多く、無理に“出て行ってください”とはいわないが“いつまでもいていいですよ”ともいえない」と複雑な思いを語っていた。避難所縮小にともない支援物資の配布や飲食料の供給体制が縮小していくことで、今後地域に残った高齢者の孤立化が進んでいくことを危惧する声もある。




地震の揺れと液状化による地盤沈下で自宅が被害を受けた男性(珠洲市)

 蛸島町の自宅に戻った男性が暮らしている集落にある家屋のほとんどが全壊被害を受け、自宅の周りを見渡して見える家のうち、住民が戻ってきたのはわずか3軒だけだという。



 「地元の知り合いが何人か近くの避難所にいるが、それ以外はみんなどこに行ってしまったのかまったくわからない。地震の前は昼間に家の外に出れば誰かが畑で作業をしたり散歩をしていたが、液状化で畑が田んぼのようにぬかるんでしまい使い物にならなくなってしまった。今は家の周りでは誰とも会わない。妻は“寂しい”“避難所の方がよかった”といって日中は避難所の知人のところに話をしに通っているが、いつかはなくなる。避難所の知り合いも“仮設が当たってよかった”といっていたが、2年後には出て行かなければならない決まりだ。その後にまた蛸島に戻ってこれるのかはまったくわからない。結局またこうしてみんながバラバラになっていく」と不安な思いを語った。



 男性は、玄関先から畑の向こうにある桜の木を眺めながら「もうすぐ向かいの桜が満開になる。上手いもんで、花たちはこんな地震があっても春になって時期が来れば自然に花開く。わしら人間は哀れなもので、この先どうなるか何も分からず何も変わらない」と力なく語った。



 輪島市で準半壊の自宅に戻って生活しているという80代の高齢夫婦は、4月になってから二次避難先のホテルから自宅に戻った。女性は「うちは車がないので、食材を自分で買いに行くことができない。今は歩いて数分のところにある避難所が支援物資や食事の配布をおこなっているのでわけてもらっている」という。この避難所では、さまざまなところから届く支援物資の余った分を地元の住民やボランティアなどに対し、毎日誰にでも無料で3食分提供していた。



 この日の昼食は、パックごはんに、カップ麺とレトルト食品の肉じゃが。女性は「とにかく食べられるものを頂けるだけでありがたい。近所の避難所の食事があるから家に戻って来られたようなものだ。今日、壊れたガスコンロを買い換えたら、家電屋さんが米10㌔分を差し入れしてくれた。電気も水も使えるようになったので、ようやく米だけでも自炊して食べられるようになった」と話していた。



仮設入居も「1年間」と 先行き見えぬ流浪




大規模な火災に見舞われた朝市通り。家の焼け跡で使えるものを探す夫婦(8日、石川県輪島市)

 地震発生当日に起きた輪島朝市通り周辺での火災により、自宅が焼失した高齢男性は「地震の直後、何も持たずに家を飛び出した。妻と“貴重品は後からとりに来よう”と話していたら、家が全焼していた。避難所では3日間飲まず食わずで、あの時は本当に辛かった。1月14日までの2週間段ボールもなく、体育館の体操マットを高齢者から優先して配り、みんなで分け合って使っていた。とても寒かったが電気ストーブしかなく、停電していたのでそれも使えなかった。結局、避難者が自宅から石油ストーブを持ち寄ってなんとか暖をとっていた」と当時を振り返る。



 その後、二次避難所である加賀市のホテルに約1カ月いたというが、最初の避難所から二次避難所のホテルに移るとき、みんな行き先を知らされずにバスに乗せられたという。「県の職員に聞いても絶対に行き先を教えてくれず、ただ二次避難所に行くということしか知らされなかったので、みんな“どこに連れて行かれるのだろうか”と不安だった。どうやら行き先を教えると“私はここがいい”という要望が出て手に負えなくなるのを避けるためだったそうだ」という。



 2月22日に仮設住宅の抽選に当選し、今は夫婦で仮設暮らしを続けている。ただ、「基本的に仮設の期限は2年間だが、“できれば1年で仮設を出てほしい”といわれて驚いた。1年後までに次住む家を考えなければならないのだが、まだ自宅周辺は火災直後のまま焼け野原の状態で、がれきの撤去などいっさい手つかずだ。1年以内に同じ場所に家を建てるなんてできないし、もう考えるのも疲れた。せっかく仮設に入れたのに1年後に出ることを考えなければならないなんて思ってもみなかった。正直今はなにも考えられない」と語っていた。



 同じ地域で被災し、自宅兼店舗が焼失したという男性は「自分自身、東日本大震災や熊本地震のことは大変だと思いながらも、どこか他人事として捉えていたと思う。いざ自分の身にふりかかると何も教訓を得られていなかったと感じた。着の身着のままで避難したので、火災で何もかも失った。今思うともう少しでも対策しておけばよかった。被災直後、もっとも辛かったのはトイレがしたいときにできないということ。女性はとくにかわいそうだった。他の市に比べ、輪島市の避難所ではそうした災害時の物資が備わっていなかった。メディアの人たちには、“かわいそう”という報道だけではなく、被災地の本当の教訓を全国に伝えてほしい」と話していた。



 また、災害直後から今までの国の対応について、「被災後スマホの電波が入らなくなったが、1月6日にはドコモとKDDIが輪島港のすぐ沖合に基地局機能がある船を停泊させて電波を飛ばして連絡がとり合えるよう対応してくれた。港からすぐそこに船が見え、“ここまでやってくれるのか”と本当にありがたかった。“奥能登は地理的条件が悪いから災害対応が遅れた”ともいわれるが、私たちからすると、携帯会社がそこまで船を付けられるのなら、国が海上自衛隊なりを動かして、どこよりも早く物資を届けることはできなかったのだろうかと思ってしまう。地盤の隆起などの懸念もあるかもしれないが、小型のボートや筏を中継したり何かしら対応策は見出せたのではないか。確かに能登はアクセスも悪いし、ボランティアも作業員も輪島には泊まれないので活動できる時間も短い。条件が悪いのはわかるが、“言い訳”で今の状況が良くなるわけがない」と語っていた。



 男性は続けて、「正直、国や役所も過去の震災の教訓を生かせていないと思う。例えば、家のがれきなどはボランティアの人たちが撤去してもいいが、車は“所有者がいるから”と触ることすらできない。道路にはみ出して家の下敷きになっている車が歩道を塞いだままになっていて危険だが、持ち主がどこにいるかもわからず連絡もつかないので誰も手が付けられず放置されている。火災が起きた朝市通り周辺にも焼け焦げた車があちこちに放置されているが、これからどうやって片付けるのか。今の一点張りの制度のままでは前に進まない。もう少し融通の利く現場に合った制度が必要だ」という。



 そして「いろいろ市の窓口に要望をいいに行くが、“いや、東日本大震災のときもそうだったから”“熊本地震のときもそうだったから”といって聞き入れてもらえず、結局何も動かないということが多々ある。過去の災害のときも同じような問題がいくつも起きているはずなのに、教訓が生かされずにむしろその事例が被災者に黙ってもらうために提示する“実例”として扱われている気がする。倒れたままになっている7階建てのビルも、朝市通りの焼け野原もこの先放置され続けて“被災地のシンボル”のような扱われ方をしていくのではないかと思えてくる。地震からたった2日で倒壊したビルの撤去を始めた台湾がうらやましい」と語っていた。



生活基盤の再建が急務 机上の復興計画より




地震で崩れた生活道路や階段なども手つかずのままだ(8日、輪島市)

 輪島市や珠洲市では、住宅の解体作業はまったく進んでいない。道路に散乱したがれきを撤去して舗装し、なんとか車が通行できるという状態で、それ以外の路地などはいまだに崩れた住宅やがれきが道の上に散乱して通行できないところも多々ある。自宅の片付けなど復旧に向けた作業に手が付けられず、高齢者ほど身動きがとれない。漁業をはじめとした地域の産業も壊滅的な打撃を受け、生活の糧を求めて若い生産者やその家族など、子持ち世帯から徐々に地元を離れている。



 そんななか、財務省は9日に開いた財政制度等審議会の分科会で、能登被災地の復旧・復興について「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、過去の災害の事例も教訓に集約的な街づくりを」と提言した。今、被災地の住民がバラバラになって自立した生活さえままならず、地域コミュニティが維持できなくなることへの不安が広がっているなかで、国が「コスト削減ありき」で被災地に集約化を求めるこの姿勢こそが、3カ月経って何も進まない被災地の現状を導いている。



 輪島朝市通りの被害で店を失った店主は「まだ火災の焼け跡はがれきの撤去さえいっさい手つかずなのに、どうやらすでに“新しいまちづくり”とか“新しい朝市”などという話が動いているそうだ。そんな話は地元の商店主たちにはいっさい来ていない。机上の世界で描かれた復興計画に振り回されて、当事者である自分たちが右往左往したくない。地元の住民が主体となって話し合い、将来のことを決めていかないといけないと思う」と話していた。家々が燃え尽きた朝市通りの焼け野原を眺めながら、それでも男性は最後に「後ろ向いても進めない。下向いてでも前に進まないと」と前を向いた。「がんばらなしゃあない」と。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/30072
6:777 :

2024/04/29 (Mon) 14:42:31

住まいと生業を失った能登の漁業者 国は第1次産業の再建に全力を注げ――能登地震被災地の水産業の現状 
2024年4月22日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/30079

漁港の海底地盤が隆起し、漁船を動かすことができない輪島漁港


少しでも船を軽くするために船内から網を取り出す漁業者(8日、石川県輪島漁港)

 能登地震により、石川県内では基幹産業である水産業が深刻な打撃を受けた。奥能登の日本海側地域では海岸線が約90㌔㍍にわたって沖方向に広がり、最大4㍍もの地盤隆起によって漁港が使い物にならなくなった。そのため今も漁船を動かすことすらできず、漁業者は職を失ったままだ。半島東側の沿岸地域では地盤の隆起に加え津波で港が壊れたり、漁船や漁具が流されるなどの大きなダメージを受けた。多くの漁業者が住まいを失い、3カ月半が経過した今も避難所や市外のみなし仮設などでの生活をよぎなくされている。輪島市や珠洲市は水産業や関連産業に従事する人の割合がとくに多い地域でもあり、奥能登の復興に漁業の復興は不可欠だ。だが、未曾有の地震被害に晒された生産現場を支え、復旧に導く国の動きは乏しい。現在の被災地の水産業の現状を取材した。



輪島市輪島漁港 地盤隆起し漁港使えず





 石川県内で最多の水揚げ高を誇る輪島市の輪島漁港では、地盤が2㍍近く隆起した。岸壁から覗くと水面直下に漁港の海底が見える。地震から3カ月半が経過した今も約200隻の漁船が動かせず、港に係留されたままになっている。潮が引いて水かさが減ると、船底が海底に着いて傾いてしまう。この港の問題が前に進まない限り、漁師はみな失業状態が続くことになる。



 まずは漁船を沖に出さなければ何も始まらないため、今は漁港の海底を掘り起こして船が通れるようにするための浚渫(しゅんせつ)作業がおこなわれていた。今後、浚渫が終わってから一隻ずつ船を沖に出し、現在建設中の仮桟橋に係留。それから護岸工事や船だまりの浚渫などをおこなう計画だが、その工程だけで「1年以上はかかるのではないか」といわれている。



 話を聞いた漁業者は、「もう絶望に慣れてしまった」といっていた。漁港内で稼働している浚渫船も地元の業者が所有する1隻だけで、国からの応援体制はない。能登半島の日本海側の沿岸が約90㌔にわたって隆起するという過去に例のない地震被害が発生しているにもかかわらず、復旧のために投入されている重機やマンパワーがあまりにも乏しく、誰もが「何も変わらない」と口を揃える。



 3カ月以上にわたって漁船を動かすことすらできないなか、今後別の場所に新たな漁港を新設するのか? それとも今ある漁港を整備して使えるようにするのか? 今後の方針に関してはまだ何も決まっておらず、現場では「元通りに漁をして水揚げできるようになるには五年以上はかかる」といわれていた。水揚げの見込みがないということで、輪島市では水産物を他の市場へトラックで運んでいた運送業者2社が撤退した。



 輪島市全体の漁協組合員は現在、正副合わせて約1000人いる。これら漁業者の多くが家を失い、市内の全漁港で出漁が止まり収入源が途絶えている。家族持ちの若い漁業者の多くが輪島を離れ、市外の親戚の家や見なし仮設に住まいを移しており、家族を養うために被災現場などで土木関係のアルバイトをしているという。地元に戻って漁を再開できる目処が立たないなかで、地元では「輪島を離れている期間が長くなればなるほど、このまま漁師をやめるという人も少なくないだろう」との不安も広がっている。



 港では、少しでも漁船を軽くして浮きやすくするために、漁業者らが協力して漁船から漁具を搬出する作業をおこなっていた。この間出漁できず収入源がないなか、国の「漁場復旧対策支援事業」を利用して海底清掃や地震関連の調査のサポートなどをおこない、1万5000円の日当を得てなんとか食いつないでいるという。作業に出ている漁師の半分以上が加賀市など市外の避難所やみなし仮設から輪島まで通っているが、自宅が住める状態ではないため、作業がある期間中は車中泊しなければならない人も多数いる。



 60代の漁師は「港や荷揚げ設備などすべてが整備され元通りに漁ができるようになるのは5年先とも10年先ともいわれている。この3カ月間、生活も何もかもいっさい変わりがなく、もう絶望に慣れてしまった。漁業がだめになると輪島や珠洲など奥能登の地域全体が終わる。運送業や加工業、輪島朝市の店主や旅館、食堂など地域の産業へのダメージが大きすぎる。最近になってようやく“専門家”を招いた協議会が立ち上げられたそうだが、専門家に何が分かるのかというのがわれわれ漁師の正直な思いだ。地震が起きてから今まで現場の漁師の要望を聞く場などいっさいもうけられなかったが、それでどうやって復興を進めていくつもりなのか」と話していた。



 たとえ今後漁港内の浚渫が進んで船が動かせたとしても、漁港が隆起しているため接岸も荷揚げも難しい。今までと同じ場所で荷揚げするためには「護岸を1・5~2㍍低く削るしかない」ともいわれている。また、輪島では漁港の製氷施設が2基とも壊れて使い物にならず、荷さばき施設も地面がガタガタにひび割れ、足下のコンクリートの割れ目から海面が見える。とても作業ができる状態ではない。




地盤隆起で使い物にならなくなった荷さばき場(輪島市)

 刺し網漁をしているという漁師は、「3~5月はメバルやノドグロの最盛期で、1年のなかでも一番の稼ぎ時だ。刺し網漁師なら4月だけでもだいたい200万~300万の売上がある。それが今はゼロだ。今後仮桟橋が完成してとりあえず船を動かせる状況になった場合、輪島から出漁して金沢など他の漁港で水揚げするという方法もある。だがその場合、燃料費が大幅に増えるため、採算が合わないので難しい」と話していた。



 ある漁師は「これほど広範囲にわたって地盤が隆起したのは過去に例がないはずだ。前例のない地震被害が起きているのだから、国は前例のない支援を早急に示してほしい。今まで通りの法律や制度のなかではどうにもならないと思う。今地元を離れている漁師もいずれ輪島に戻って漁業ができるような支援方針を示し、早急に動き出してほしい。今のスピードではたとえ数年後に港が使えるようになったとしても、その頃には漁師も住民も輪島から離れてしまう。このままでは東北の沿岸地域の二の舞になってしまう」と話していた。



 半島の日本海側では輪島市沿岸を中心に地盤の隆起で漁船が動かせず、まったく出漁できない状態が続いているが、内海側の漁港でもそれぞれ地震や津波の影響でまったく出漁できていない所もある。



 石川県漁協七尾支所がある七尾市の石崎漁港では、津波による被害で護岸が崩壊。複数の漁船が流され、その他にも大量の漁具が流出したため、まったく出漁できない状態が続いていた。



 若手漁師は「年明けから4月までの期間は底引き網漁の最盛期で、この期間だけで年間の収入の約8割を占める。だが今年は漁の収入がゼロだ。津波で流された船を今日解体した。組合員約40人の小さな漁港だが、今は週に四回みんなで海底清掃に出て、国の事業で日当1万5000円を得て生活している。本格的に漁ができるようになる目処は立っていない」という。海底ではあちこちで地割れが起き、もともと砂地だったが今は岩がゴロゴロ散乱しているという。泥やがれきが混じった津波の引き波によって海底の藻が根こそぎなくなるなど、本来の漁場だった環境も、今は漁ができる状態ではなくなっているという。



 80代の漁師は「3カ月以上経ったが、県の義援金5万円だけが振り込まれただけでそれ以外はまだだ。罹災証明も手続きが難しく、遅れていて発行されない。罹災証明がなければ国の生活再建支援金への申請もできないのだが、いつまでこのままの状態なのだろうか。家は何とか住める状態だが、基礎がやられてしまって近くの道をトラックが通っただけでまるで地震が来たかのようにグラグラ揺れる。この周辺では家屋の半分が半壊以上の被害を受けており、住民の多くが地元に戻れないままになっている」と話していた。



珠洲市蛸島漁港 漁再開しても人手不足




定置網漁を再開し、水揚げ作業をおこなう漁業者(9日、珠洲市蛸島漁港)

 珠洲市にある蛸島漁港では、定置網漁3カ統が水揚げを再開していた。珠洲市では、外海に面した地域の漁港では地盤が隆起して出漁できていない。内海側の漁港では津波による被害で船が流されたり、漁港設備が崩壊していて出漁は困難なままだ。蛸島漁港でもアスファルトがひび割れて漁港はガタガタになったが応急的に舗装し、1月21日には定置網漁を再開させた。



 ただ、今も出漁体制は万全ではない。珠洲市では病院や介護施設、学校、避難所などの主要な施設以外ではまだ大半で断水が続いている。さらに漁村地域では自宅が壊滅的な被害を受けた漁師も多いなか、子どもを持つ若い乗組員数人は家族と一緒に市外に移り住むことをよぎなくされた。また、雇用していたインドネシア人乗組員も、母国に帰るなどしたため、元々16人いた乗組員が現在は8人へと半減した。



 漁港でも断水が続いており、2基あった製氷設備も地震で壊れて一つしか使えないため氷が作れない。そのため金沢で調達した氷をトラックで珠洲まで運んでいる。使える方の製氷機では、浄水場からタンクで汲んできた水を使って製氷している。本来ならこの時期30~35㌧の氷が必要だが、今確保できる氷はわずか5~6㌧。そのため今は氷の量に合わせて水揚げする量をセーブしなければならない。



 定置網事業を営む水産会社の社長は「とにかく人手が足りないのが最大のダメージだ。流出した漁師が戻ってくるのかという心配が大きい。今までは、とれた魚を漁師が浜で選別して発泡スチロールに並べて出荷していたので、扱いの良さが評判となって“蛸島ブランド”として蛸島のイワシはキロ単価200~300円で取引されていた。だが今は乗組員が半減しているのでそんな手間をかけられなくなり、とれた魚をまとめて出荷するしかない。そのためキロ単価は数十円で利益が出ない。市場の競りもできなくなり、蛸島から全国の市場に向けたトラック便もなくなった。このまま人が戻らなければ、この定置網の事業もたとえ魚がとれて水揚げできたとしても、利益が出ず続けられなくなる」と語っていた。



 別の漁師は、地震で自宅が被害を受けた。複数ある棟のうち、準半壊の棟と全壊の棟がある。辛うじて準半壊の家に寝泊まりしているが、液状化によって日を追うごとに家が傾いていき、今では普通に生活しているだけで頭が痛くなるという。



 「公費解体の申請をしに行ったが、全壊の棟だけを壊すことはできないといわれた。“公費解体で壊すなら家全部を解体、準半壊の棟を残して全壊の棟だけ壊すのなら自費でやってくれ”といわれた。そういう制度なのかもしれないが、残った棟だけでは生活できないし、かといって全部解体すれば住む家を失う。もうどうしたらいいか分からない。市の窓口にはなんとかならないかと訴えているが、融通が利かない。被災地の声がきちんと国に届いていないと感じる。同じような状況の人は能登にたくさんいると思うし、熊本地震や東日本大震災でも同じような事例はあったはずだ。このまま何カ月も同じことで頭を悩ませたくないし、安心して暮らせる生活拠点がないと、まともに仕事もできない」と話していた。



 蛸島地区で小型定置網漁を個人で営んできたという漁師は、津波によって漁船も網も流されてしまい、漁ができなくなった。自宅も応急危険度判定で「危険」と判定され赤紙が貼られており、入ることすらできない。被災から現在までの3カ月間、避難所に身を寄せたきり住まいも生業もまったく先が見えない状態が続いている。



 男性は「漁村地域では古い家が多く、家が壊滅的な被害を受けたという人がたくさんいる。みんな避難所や市外の親戚の所などに住まいを移し、もとの漁村に住んでいる人はほとんどいない。私の家も“危険”の赤紙が貼られている。本来は“危ないので入らないでくれ”といわれているが、そうはいっても家具や漁具、貴重品などを外に出さないと解体もできない。だが、自力では無理だった」という。そこで、ボランティアセンターに家具の搬出を依頼したが、やはり赤紙が貼られた家にはボランティアを派遣してもらえず、結局個人で活動していたボランティアに依頼して家の片付けをしてもらったという。



 男性は「今、珠洲では公費解体の受け付けが始まったばかりで、実際の解体工事が動き出すのはまだまだ先だ。自宅に手がつけられないまま、避難所暮らしが続き“動き出したいのに何もできない”という人がたくさんいる。私は漁具も漁船も家も失ったが、今すぐにでも漁を再開させたいし、できることは何でもするつもりだ。補助が出るかどうかなどは関係ない。自費でも良いのでとにかく生活を前に進めたいが、今は地域が向かう方向性も何も見えない。若い人たちは家族の生活のために市外に出て稼がなければならないので、珠洲には戻らない。高齢者がとり残された今の状態のまま“復興”しても、地域の未来はない。どれだけの若い人がこの先珠洲に残って生活していけるかが大事なのに、そのための希望を見出せるような目標が今は何もない」と話していた。



 働く場がなければ珠洲では生活していけない。そして、仮設でも何でも、定まった住まいがなければ安定して働くことは難しい。住まいと生業、その両輪がまったく前に進んでいないことが、「何も変わってない」という住民の言葉に凝縮されていた。



石川県漁協関係者 ハード面の復興を急げ




能登の漁港施設が使えないため漁業者は金沢市の総合市場に水揚げしている。現場の人手が足りないため選別作業は漁協職員も一緒におこなう(12日、かなざわ総合市場)

 石川県漁協の関係者は「石川県の水産業において、輪島と珠洲は中心を担う地域だ。県内全体の水揚げ金額はだいたい180億円だが、そのうち輪島だけでも25億円あった。それがいっさい出漁できないというのだからダメージは大きい。昨年度の決算はなんとか1~3月分の損益をカバーできたが、今年度分については厳しい経営になる。漁協としては、漁業者の支援制度を手配したり、全国に漁船の手配を依頼したり、積み荷がなくなった運送業者が能登の他の地域で仕事ができるよう交渉したりと、ソフト面でのサポートをおこない、漁師の手取りが減らないための支援を模索している。漁師にできることは、沖に出て魚をとってくることだ。その体制をいち早く整えることが必要だが、こういうときこそ国の金をつぎ込んでハード面の復興を全力で進めなければならないと思う。それが今の能登のためになることであれば、国民は誰も文句はいわないはずだ」と語った。



 被災地域では、漁港で荷揚げできなくなったり、乗組員が確保できないなどの問題を抱える地域が多数あり、これまで通りのまともな出荷ができなくなっている。



 そうした生産者は今、金沢市にある漁協の直営市場「かなざわ総合市場」に魚をそのまま出荷しており、その魚を朝の競りに間に合うように漁協の職員やパート職員などが数十人体制で選別し、生産者の出荷体制をサポートしている。



 漁協の職員は「道が悪く、トラックの積み荷も今まで通り積むと運送中に荷崩れしてしまうので2台に分けて半分ずつしか積めない。当然その分コストもかかる。今も出漁できない地域が多く、自分の生活すらもままならない漁師がたくさんいる。漁港と船はそこにあるのに、家を失い生活の拠点がないという人も多い。仮設住宅でもなんでもいいので、地元の住民に住まいが行き渡らないと何も始まらない。3カ月以上が経過したが、能登の水産業はまだ復興のスタートラインにも立てていない」と話していた。



 輪島市のある高齢漁師は真剣な面持ちでこう話していた。「今は収入源がないなか、国の事業で日当1万5000円が得られることはありがたいことだ。ただ、私たちは漁師だ。先祖代々の漁師が魚をとって輪島という地域の経済が回ってきた。今得ている日当は、自分一人が生きていくための“日銭”でしかない。早く海に出たいが、漁を再開できる日がいつになるか、その時自分はまだ漁ができるだろうか…」と。



 輪島の隆起した沿岸地域だけでなく、その他の地域でも崩壊した護岸などが手つかずのままだ。3カ月以上が経って「何も進んでいない」という現実に、少しずつ現地が疲弊し、停滞感に押しつぶされていくような重い空気を感じた。何もしない国は、もはやそうした「諦め」を期待しているのではないかとさえ思えてくる。



 以前、東日本大震災で被災した石巻市牡鹿半島のある漁業関係者が、被災からそれまでを振り返り「最初は自分の地域のことは自分たちで決めようと、地元を無視した復興計画に対し、“将来のために”と激しく意見していた。だが、何も進まない現状にだんだんみんな疲れてきて、“いえばいうだけ復興が遅れてしまう”と諦めの空気が広がり、結局元気がなくなり、地元に残ることを諦めて出て行く人も増えた」と話していた。進められていく復興計画に矛盾や疑問を感じながらも、だんだんと地域を「諦め」が支配していったのだと。



 国が何もせず、このまま奥能登でも同じような停滞感が広がっていくのではないかと感じる。東日本大震災では、津波浸水地域を居住制限区域として住めなくして地元住民をおいやり、そこから何年もかけて誰も望まない巨大な防潮堤や高台建設を進めた。結局、完成した今になって防潮堤が守る街に暮らす住民はほとんどいない。輪島の漁業者が「このままでは東北の二の舞いになってしまう」と話していたが、そうした現場の危機感や焦りをひしひしと感じた。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/30079
7:777 :

2024/05/01 (Wed) 08:14:08

能登半島地震4カ月 解体終了は想定の1%以下、建物の未登記が壁に
5/1(水) 5:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/27914d55cba60f9a5469c1cd71f674888ed89e4f

商店街のあちこちで進む公費解体。隣の建物に影響が出ないよう、慎重に衣料品店を取り壊していた=2024年4月17日午後2時8分、石川県穴水町川島、上田真由美撮影

 能登半島地震の発生から1日で4カ月になった。石川県内では、住宅や店舗などの建物約4万8千棟が全半壊し、県はうち約2万2千棟が解体の対象になると見込んでいるが、復興の前提となる公費解体が終わったのは、緊急解体を含め88棟(4月22日時点)。自費解体を加えても計131棟と想定の1%以下にとどまっている。

【写真】地震直後と地震4カ月後の街の姿を上空から比べました

 公費解体は、自治体が所有者に代わり、被災した建物を解体・撤去する制度で、能登半島地震では半壊以上の建物が対象になる。県内の市町は2月以降、住民からの申請を受け付けており、申請棟数は16市町で計8528棟(4月22日時点)に上る。

 解体するには、建物の所有者を確かめる必要があるが、被災地では、代々同じ場所に住み続けている家族が多く、名義が2~3代前のままという「未登記」のケースがある。所有権が移転されていない場合、解体には相続の権利がある関係者全員の同意が原則必要なため、申請や審査に時間がかかっている。

 県は、1班4~5人の解体班を500~600班確保したとして、来年10月までに2万2千棟の解体を終える計画を立てている。

 だが、県構造物解体協会の幹部は、水道などのライフラインが十分に回復していない状況などから、600班が同時に作業できるようになるのは今秋とみており、「来年10月に解体をすべて終えるのはきつい」と話している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/27914d55cba60f9a5469c1cd71f674888ed89e4f

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