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平安時代の美術 _ 浄土美術

1:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:21:32

日本の名画・彫刻
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平安時代の美術 _ 寺院・神社
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平安時代の美術 _ 密教美術
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平安時代の美術 _ 浄土美術
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平安時代の美術 _ 絵巻物・六道絵
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平安時代400年の仏像の変化を作品で見比べ!
https://irohani.art/study/13521/

前回の第5回では平安時代の美術作品がどう変わったのかをお伝えしました。超絶ざっくり書くと、前期(784~800年代後半)までは、唐の影響をゴリゴリに受けていたんだけど、後期(900年~1100年代)は国風文化が芽生えるようになったよ~、って話です。

今回はそんな平安時代の作品の変遷をより分かりやすくするため、実際に前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。


仏像でみる平安時代前期と後期の違い

まずは仏像にフォーカスして平安時代前期・後期の美術作品から紹介してみます。まずは唐の影響をがっつり受けていた前期。特に8世紀~9世紀前半の桓武・嵯峨・仁明天皇の時代には唐風美術がめっちゃ盛り上がりました。このころの美術作品のキーワードは「密教」です。


平安時代前期の仏像

「密教」とはインド発祥の仏教の一つ。シンプルにいうと「言葉だけじゃわからない激ムズな教えだけど、理解できたら生きてる間に仏になれるよ」と説いたものです。空海が真言宗を、最澄が天台宗を日本に伝えました。ちなみに対義語は「顕教」、これは言葉でわかる仏教の教えをいいます。

そんな「密教」にまつわる美術作品が「曼荼羅」です。平安時代前期には密教由来の曼荼羅が多く作られました。曼荼羅とはシンメトリーの構図で「〇」を描き、そのなかにさまざまな仏様を描いたものです。特に日本では神護寺の「高雄曼荼羅(紫綾金銀泥絵両界曼荼羅図)」(※)が有名な作品です。

※編集部注:高雄曼荼羅は6年間の修復を経て、2024年4月から奈良国立博物館で開催される特別展「空海 KUKAI ―密教のルーツとマンダラ世界」にて一般公開予定。
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/special_exhibition/202404_kukai/

他には「伝真言院曼荼羅(両界曼荼羅図)」も有名ですね。彩色された曼荼羅では最古のものです。

国宝 両界曼荼羅図 胎蔵界曼荼羅,
Tō-ji


ちなみに今の時代でいうと、さくらももこさんのイラストなんか、すんごく曼荼羅ぽいモチーフのものが多かったりします。今でもデザインとして機能するほどキレイな構図ですね。曼荼羅は今でも、おしゃれな町のシーシャ屋さんとかにほぼ100%飾られてますんで、見本が気になる人はシーシャを吸いにいってください。

空海はそんな曼荼羅を絵から出して、仏像にしました。こうした密教の仏像は「インド由来の新しい仏の形」なのがポイントです。つまりインドの神様をモチーフにすることで仏像の表現の幅が広がっていくわけです。

というのも、インドの神様ってむっちゃユニークなんですよ。超かっこいい。なんか、ウルトラマンの怪獣みたいな……。腕が4本生えてたり、顔が4つあったりするんですよ。よく「多面多臂像(ためんたひぞう)」といいますが、平安時代にはインドから唐を経由して日本に流れ着いた「なにこれ怖っ……」と言っちゃう異形の像が増えてきました。美術的にはかなり斬新な表現だったわけですね。

そんな密教美術の最高傑作といわれるのが「観心寺如意輪観音像」です。腕が6本あります。


9世紀ごろ, 図:飛鳥園 編


そこから仏像全体の表現が進化していきます。ただの人物像ではなく、演出を加えたものが出てくるようになりました。例えば法華寺の「十一面観音像」は後光のように蓮の葉などを並べた、珍しい表現をしています。こうした密教像によって仏像のバリエーションは増えていきました。

・ 十一面観音菩薩立像(法華寺公式ホームページ)
https://hokkejimonzeki.or.jp/about/honzon/

個人的にはこのインド由来の異形的な表現は、今の日本のアニメ文化などに通ずるところもあるのかもしれない……と拡大解釈したくなったりしますね。


平安時代後期の仏像

これが後期にどう変わっていくのか。まず時代背景をいうと、実は900年代後半になると、唐では仏教排斥がおこなわれます。それで唐の呉越国は「やばい、仏教なくなっちゃう……そうだ。日本で盛り上げよう」と日本に浄土教を広めるわけです。「祈れば極楽浄土にいけまっせ」という教えですね。

その結果、900年代末~1000年代にかけて浄土教が広まり、1053年には藤原頼通が10円玉でおなじみ平等院鳳凰堂を建立します。庭園を含めて極楽浄土の光景を再現したものです。


Photo by Martin Falbisoner


それとともに、前回の記事でお伝えしたように「唐を見習おうぜ」という動きは鈍くなっていき、反対に「日本ならではの作品を確立しなきゃ」という考え方が国全体に広がっていきました。つまり浄土教など、海外由来の文化を取り入れつつ、日本独自の方向性と合致させていく考えだったわけです。

この時代に現れたのが天才仏師が康尚と弟子・定朝。彼らが作った国産の仏像は平安貴族的に大ヒットします。「これぞ浄土教の心安らかなメンタル状態を具現化している傑作だ」とウケまくるんです。

定朝(11世紀), 図鑑:福山恒夫 森暢 編


上は定朝の「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」。華やかでありながら凹凸が少なく平面的なのが特徴で、ひと言でいうと「めっちゃ穏やか」なんですね。これが平安貴族の美意識にフィットしました。そしてその背景には心の安定を求める仏教の教えがあった、という感じです。

これは「定朝様式」ともいわれ、あえていうと「貴族にウケるモデル」ができたという感じなんですね。なのでその後に出てきた仏師も定朝のような「華やか」なスタイルを継承していきました。モデルができたので大量につくれるようになり、1100年代には「蓮華王院本堂千体千手観音像」というとんでもないものもできています。


Nara National Museum 奈良帝室博物館 (Showa 8 - 1933)


これらのどっしりと構えた安定感のある構図は、実は平安時代より前の奈良時代などの表現にも共通しています。まさに温故知新。日本独自のスタイルを確立していったんですね。
https://irohani.art/study/13521/


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平安時代400年で絵画作品はどう変わった?
https://irohani.art/study/13740/

平安時代って超長いんですよね。400年も続くんです。当然、美術作品もいろんな変遷を遂げていきます。前回は仏像でしたが、今回は「絵画作品はどう変わったのか」についてご紹介。前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。


平安時代前期(唐代絵画)から後期(大和文化の成立)へ

前回の記事で平安初期には中国的な規範が取り入れられ、後半から日本の文化があらわれてくることを紹介しました。前半はアジアにおいて唐がめっちゃ強国だった。それで日本も遣唐使を派遣してめっちゃ前向きに吸収するんですが、だんだん唐が弱体化したのと真似し終わった感もあって、むしろ日本独自の文化を発見していく流れに変わっていくんですね。

平安時代前期には前回の記事でもご紹介した「曼荼羅」がよく描かれるようになります。前回の記事では真言宗の空海が持ってきた密教由来のものを紹介しました。これが「根本曼荼羅」というものです。

巨勢公忠(こせの きんただ)や飛鳥部常則(あすかべ の つねのり)といった国内の絵師は、こうした根本曼荼羅を独自に吸収して描くようになるんですね。こうした国内の曼荼羅は根本曼荼羅と比べて、立体感が薄くのっぺりしています。また描線も柔らかい。こうした表現が日本文化の醸成につながっていきます。

もちろんベースには唐の表現様式があるんです。そのうえで「立体感を減らす」「一点にフォーカスするのではなく、広い視点を持たせる」などの特徴を持たせる表現にアップデートしていったんですね。その結果、ダイナミックでなく素朴で穏やかな形になっていきます。これが大和文化、ひいては日本文化の特徴として育っていくんです。



平安時代後期のやまと絵の特徴

そんなこんなで成立していくのが、よくある「やまと絵」といわれる日本文化独自の表現です。ちなみにやまと絵が盛り上がるにつれて、それまでの唐代絵画は「唐絵」といわれ、明確に差別化されていきました。

この違いは分かりにくいのは平安時代の絵画あるあるです。唐絵は唐の故事を基礎にしたもの、やまと絵は国内の貴族たちを描いたもの、という分かりやすい背景の違いはあるものの表現技法としての違いは微妙です。

そこで試しに自然を描いた「山水表現」でやまと絵と唐絵を見比べてみましょう。


奈良国立博物館Webサイトより引用

こちらが正倉院に伝わる「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんそうのびわ)」に描かれた唐絵の『騎象奏楽図(きぞうそうがくず)』です。琵琶に描かれているので画面は小さいんですが、見事に奥ゆきを描いていてダイナミックで超かっこいいですよね。

では比較してやまと絵ではどうなのか。国宝の『神護寺山水屏風』をみてみましょう。

Public domain, via Wikimedia Commons

同じく、遠くに山々を臨む構図なのですが、立体感は薄れ、人物や建物によって遠近感を演出するというよりは、大きな自然物の中にちょこっと登場している。画面全体で物語を描いているようなさりげない感じが出ています。
https://irohani.art/study/13740/


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平安時代後期の浄土美術:主要作品の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo.index.html

四百年近い平安時代のうち、十世紀後半から十二世紀末までの二百数十年を平安時代後期とするのが美術史上の通説である。この時代はさらに、前半の摂関時代(藤原時代)と十一世紀末からの約百年間にわたる院政時代に再区分されることもある。また、この時代全体をさして、王朝時代と呼ぶこともある。

平安時代前期が密教美術の時代だったとすれば、平安時代後期は浄土美術の時代ということができる。浄土美術とは、一言で言えば、浄土教(阿弥陀信仰)を視覚化したものだと考えてよい。この時代全体を通じて、阿弥陀信仰が強まり、有力者たちは阿弥陀仏を作らせて、それを阿弥陀堂に安置して礼拝した。また、阿弥陀仏のいます浄土を描いた浄土変や死後阿弥陀仏に迎えられ成仏するさまを描いた浄土来迎図などが作られ、これらが全体として浄土美術を形成したわけである。

中国では隋の時代(六世紀末)から阿弥陀信仰が盛んになり、七世紀に入って浄土教が発達したが、日本で盛んになったのは八世紀の後半からである。十世紀には天台教団の中に、良源と源信が現れ、浄土教の普及に大いに力を尽くした。とくに源信の「往生要集」は、阿弥陀信仰に強い影響を与えたといわれる。

こうして、十世紀後半に及んで、藤原氏など平安貴族を中心に阿弥陀信仰が広まり、それに伴って浄土美術もまた盛んになっていった。

まず、浄土美術の舞台となった寺院建築であるが、摂関時代のものとしては、藤原道長による法成寺、その子頼道による宇治平等院が代表的なものである。このうち法成寺は滅びてしまったが、平等院はいまもなお当時の姿を伝えている。このほか、摂関時代に作られた浄瑠璃寺は九体阿弥陀像を安置する阿弥陀堂としては、現存する最古のものである。

摂関時代に作られた彫刻を藤原彫刻あるいは藤原仏などと呼ぶ。作者としては定朝が有名であり、優雅な雰囲気の作風が特徴である。

院政時代には、白河、鳥羽、後白河の各上皇が、それぞれ阿弥陀仏とそれを納める阿弥陀堂を作った。白河上皇は洛東白河の地に六勝寺と総称される諸寺を作り、鳥羽上皇は鳥羽の離宮に証金剛院をはじめとしたいくつかの阿弥陀堂を作り、後白河上皇は洛東の法住寺を拠点に阿弥陀堂などを作った。

院政時代は浄土美術が地方にも広がった。平泉の中尊寺はその一大拠点であり、金色に輝く堂内には、阿弥陀如来を中心に諸仏・諸天の像が納められている。また九州の臼杵には、阿弥陀如来の石仏が作られた。

ここではそんな平安時代後期の浄土美術について、主要な作品をとりあげ、画像を鑑賞しながら適宜解説を加えたい。
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藤原彫刻総論
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo05.soron.html

平安時代後半の美術を藤原美術といったり、仏像に代表される彫刻類を藤原仏とか藤原彫刻といったりする場合がある。厳密に言えば、平安時代のうち藤原氏の時代は十一世紀末までの百数年間であり、それ以降鎌倉時代に移行する十二世紀末までの約百年間は院政の時代なのであるが、それをも含めて平安時代後半の彫刻類を藤原彫刻というのには一定の理由がある。この時代を通じて彫刻のモチーフが阿弥陀如来を中心とした浄土信仰を反映したものであること、また、その様式に共通性が認められることなどである。

浄土信仰については、天台宗を創立した最澄自身がその原初的な形態を日本に持ち込んでいたのであるが、十世紀の後半になると、その天台宗の中から、阿弥陀信仰を中核とする浄土教の動きが活発化した。空也上人による念仏や、良源によるもっと体系的な浄土教の運動がそれを先導した。

浄土教が普及した背景には、仏教の末法思想というものがあった。末法というのは、釈迦入滅後、正法、像法各千年間に続く一万年の時代をいうもので、それが藤原時代に始まるのだと意識された。この時代には、人々は阿弥陀を念じて称号を唱えることでしか救われないと感じ、死後の安楽を祈るために競って念仏を唱えた。こん時代に大量に作られた阿弥陀如来像は、念仏をささげる宗教的な対象として作られたのである。

したがって、この時代の仏像や彫刻類は、そうした人々の信仰と深いかかわりを持つことで、或る意味世俗的な雰囲気を帯びていた。密教以降、仏教が世俗化したといっても、まだまだ末端の民衆にまで浸透しなかったことに比べれば、この時代の仏教は大衆の間に広く、深く浸透したわけで、そうした大衆化が、仏像の中にも色濃く反映されるようになった。つまり、この時代の仏教は、大衆の日常生活の延長上に成立し、それにともなって仏像も、日常性の中での理想化を追求するようになった。

このような藤原時代の彫刻を前時代のそれと比較して、加藤修一は次のようにいっている。「飛鳥仏の精神性、天平仏の写実的な身体性、平安初期の肉感的超越性から、藤原仏の日常性の中での理想化に至る」

こうした動きは、仏教が大陸から伝来した外国の宗教として出発しながら、次第に日本人の心の中に受け入れられ、ついには一般大衆の心をつかむに及んで、世俗化・日常化したというふうに概括できる。

藤原仏の殆どすべては木彫りであり、しかも巨大なものが多い。平安時代初期からすでに木彫りが圧倒的になっていたが、藤原時代になると、それが巨大化したのである。その背景には寄木造の技法が普及した事情がある。藤原時代の初期までは一木作りが主流であり、したがって仏像の大きさも或る程度の規模に制限されざるを得なかったのが、寄木作りによって、その制限がなくなり、仏像も巨大化したわけである。もっとも、東大寺の大仏のような巨大さではなく、せいぜい丈六(4.8メートル)ほどであったが。

藤原彫刻の大成者として、定朝が有名である。定朝は仏師康尚の後継者として、主に道長の造営した法成寺の諸仏像を作ることに生涯の殆どを費やしたが、いまに残っているものは少ない。残っているものの中で最も重要な意義を持つのは平等院鳳凰堂の阿弥陀像である。この像を通じて伺われる彼の作風は、人間のリアルな姿をベースにしながら、それを最大限理想化しようとするもので、理想化された人間のイメージを感じることができる。それゆえ、精神性の強調とかデフォルメとかいったものは感じさせず、あくまでも現実の人間の延長としての如来の姿を感じることができる。それは見る人にとっては、浄土に生まれ変わった自分自身の姿でもあるのだ。

それ以前の彫刻類が、原則として仏師個人の勢作になるのに対して、定朝の場合には、多くの弟子を動員した共同制作という色合いを強くした。それは、一方では仏像が巨大化したことと、もう一方では、仏像に対する需要が飛躍的に増大したことを反映していると考えることができよう。
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2:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:29:57

平等院鳳凰堂:平安時代後期の寺院建築1
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo01.byoudouin.html

(平等院鳳凰堂)

宇治の平等院が立っている地には、もともと藤原道長の別荘があり、宇治殿と呼ばれて遊興の場として使用されていた。それが、道長の子頼道の時に、平等院と名づけられ、本堂が供養された(永承七<1052>年)。この本堂は、法成寺同様に大日如来を本尊としていた。しかして、その翌年の天喜元年(1053)に、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が作られた。それが今日、鳳凰堂と呼ばれるものである。

平等院の伽藍配置は法成寺とほぼ同じである。池を掘り、それに面して本殿などの主要な建物を配する。その配置のさまは、寝殿造りの貴族の邸宅を思わせる。おそらく寝殿造りが基本となって、寺院がその様式を取り入れたのだと思われる。このような寺院建築の様式は、浄土様式と呼ばれる。

鳳凰堂の建物は中堂と両翼部からなる。中堂は積基壇の上に立ち、入母屋造りの屋根の下に裳階をつけた構造である。本体部分は三手先斗栱を持ち、裳階の部分は平三斗を持つ。

左右の翼部は、高覧をめぐらす楼づくりになっており、先端に出組斗栱を持つ楼閣を乗せている。楼閣は方丈造りの屋根を持ち、その下に切妻の屋根を配している。

以上のような眺めは、浄土曼荼羅に見える極楽浄土の宝楼閣を模したものだとされている。藤原時代の貴族たちにとって、阿弥陀堂そのものが疑似的な極楽浄土とされていたのである。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo01.byoudouin.html
3:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:30:39

浄瑠璃寺:平安時代後期の寺院建築
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo02.joruri.html

(浄瑠璃寺本堂)

浄瑠璃寺は、平安時代に多く作られた九体阿弥陀堂のうち、現存する唯一のものである。九体阿弥陀と言うのは、西方浄土の九つの相を示すとされ(九品仏)、それを収めた阿弥陀堂を九体阿弥陀堂と呼んだ。藤原道長が造営した法成寺無量寿院はその典型とされた。

浄瑠璃寺の中尊は来迎印を結び、他の八体は定印を結んで、静かに並列安座している。

浄瑠璃寺はもともと薬師仏を本尊としていたが、嘉承2年(1107)に新堂が立てられ、それが保元2年(1157)に池の西岸に移されたと「縁起」に記載されている。それがいまの本堂だと思われる。

浄瑠璃寺は浄土様式の典型ともいえる。すなわち、池を掘り、それに面して本堂を配置し、寺域全体が極楽浄土の再現のごとく工夫されている。

建物は寄棟造りで、正面11間、側面4間。当初は桧皮葺であったが、江戸時代に瓦葺に改められた。


(浄瑠璃寺三重塔)

『浄瑠璃寺流記事』に,治承2年(1178)京都の一条大宮から移建したとある。そもそもいつごろ建てられたのかは明らかでない。特徴は、初層に心柱がないこと。初層の天井から上に立てられている。
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4:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:31:13

蓮華王院三十三間堂:平安時代後期の寺院建築
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo03.sanjusan.html

(蓮華王院三十三間堂)

院政期における上皇による寺院建築として今日にその面影を伝えているのは、三十三間堂の名で知られる蓮華王院である。長寛二年(1164)、後白河上皇が御所とした法住寺の一角に作られ、丈六の中尊と千体の千手観音と二十八部衆を安置した。仏師は、康慶、運慶父子のほか、京の六条万里小路、七條大宮両仏処の仏師も参加した。

この建築物は建長元年(1249)に洛中の火災により消失、その際に中尊の頭、百五十六体の観音像、二十八部衆は取りだされた。それらを補修し安置するために、文永元年(1266)に新たに作られたのが、現存する三十三間堂である。構造は、元の建物を踏襲しているという。

千体観音の発想は、遠く九品仏の発想に淵源しているといわれる。九品仏(九体阿弥陀)から千体阿弥陀の発想がうまれ、それが千体観音へとつながっていったらしい。多くの仏を拝むほど、供養も大きくなると考えられていたのであろう。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo03.sanjusan.html
5:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:31:46

中尊寺金色堂
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo04.konjiki.html

(中尊寺金色堂)

平泉の中尊寺金色堂は、奥州藤原氏三代の栄華を示す遺構である。宇治の平等院鳳凰堂と並んで浄土様式を代表する建築物であるが、平等院のように大きな建築物ではなく、一辺が5.5メートルの小さな仏堂である。覆堂とよばれる大きな建築物の内部に収容されるようになっている。現存の覆堂は1965年に作られた鉄筋コンクリート造りの建物である。

奥州藤原氏の初代清衡は、後三年の役の後奥州の支配者となるや、平泉に拠点を構え、そこに中尊寺を造営した。造営は11世紀の末に始まり、完成(総供養)は大治元年(1126)である。金色堂は天治元年(1124)に完成した。

金色堂の平面は、正面が三間とも扉口、背面は中央が、側面は手前の部分が扉になっているほか板壁である。そしてそれらの上に漆を塗り、その上に金箔を押している。堂の内部は、金箔のほか螺鈿、蒔絵が施されている。外面も内部空間もまばゆいほどに光り輝いている。

堂内には三つの須弥壇が据えられ、それぞれの上に阿弥陀如来を中心に多くの仏像が安置されているほか、須弥壇には清衡、基衡、秀衡三代の遺体が収められていることから、これが単なる仏堂ではなく、埋葬のための施設であったことを物語っている。

藤原三代の支配者たちは、金色堂を阿弥陀浄土とみなし、そこに葬られることによって、極楽浄土に生まれ変わることを願ったのだと思われる。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo04.konjiki.html
6:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:33:48

平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:藤原彫刻1
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo06.hoo.html

(平等院阿弥陀如来像 木像漆箔、像高284.0cm)

平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は定朝の製作になる唯一の現存像である。鳳凰堂はこの如来像を安置するために建てられたのであり、当初は阿弥陀堂と呼ばれた。実際鳳凰堂の堂内には、壁や扉に施された像や図を除けば、この像だけが安置されているのである。

本体は、全体に入念な内刳りが施され、一定の肉厚に統一されている。また、その本体は寄木造りの技法でできており、前面は、頭部、体部とも左右の二材を中央で剥ぎ寄せ、背面は、頭部は一材、体部は二材を剥ぎ寄せている。

仏壇は九重蓮華座と称されているが、実際には八重である。そのうち形のよい蓮弁が四重に差し入れられ、その反り花には藻文を刻んでいる。光背は、飛天光といって、二重円相に雲と飛天を配している。光背の上部には、丸い小天蓋とその上を覆う四角い大天蓋とがあり、複雑な装飾文様が施されている。

また、本体内刳りの内部には、阿弥陀大小呪を記した月輪が置かれている。

この如来像は、表情は非常に現世的であり、その身体もリアルな肉感を感じさせる。深い精神性とか宗教的な荘厳性というよりは、身近な人間性といったものに近い。

こうした像の雰囲気や、寄木造りの木割り、体各部の比例などが、定朝様としてもてはやされ、以後の仏像作りの模範となった。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo06.hoo.html
7:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:34:22

平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像:藤原彫刻2
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo07.kuyo.html

(平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像五十二躯、木造40数cm~60数cm)

平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を安置する堂内の長押の上の壁に、雲中供養菩薩像と呼ばれる五十二躯の像が掛けられている。僧侶や比丘尼の姿を現したもので、それらが雲中にあって、供養をしていたり、立って舞っていたり、あるいは音楽を演奏していたりする姿が表現されている。死後生まれ変わる浄土とは、このように楽しくすばらしい世界なのだということを、視覚的に現したものであろう。

姿の多様さとならんで、構造もさまざまである。一木作りのものがあったり、寄木作りのものがあったり、材を縦に用いてみたり、横に用いてみたりといった具合である。これらはレリーフの一種と見てよく、レリーフ類の少ない我が国の美術史上ユニークな位置を占めているといえよう。

これらの像は、本尊と同じ時の製作と認められるので、そのうちのいくつかは定朝自らが製作したものであろう(どれがそれにあたるのかは、詳しくわかっていない)。

なお、これら五十二躯の像のうち、半分の二十六躯については、壁から切り離されて、鳳凰像二体ともども、別院の鳳翔館に展示されている。そこで見ると、各像をより詳細に見ることができる。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo07.kuyo.html
8:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:34:57

浄瑠璃寺九体阿弥陀像:藤原彫刻3
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo08.joruri.html

(浄瑠璃寺九体阿弥陀像 いづれも木像、漆箔 中尊以外は像高140cm前後)

藤原時代には、九体の阿弥陀像を安置する九体阿弥陀堂が多く作られた。九体阿弥陀とは、西方阿弥陀浄土の九つの相を示すといわれる。これら九体阿弥陀堂のなかでも、道長が造営した法成寺無量寿院のものは、その典型とされたが、現在には伝わっていない。この時代の九体阿弥陀堂のうち唯一伝わっているのが、浄瑠璃寺のものである。


(浄瑠璃寺中尊阿弥陀如来像 像高224.2cm)

中尊を中心にして、その両脇に八体の阿弥陀像が並んでいる。中尊は来迎印を結び、他の八体はいづれも定印を結んでいる。八体の表情はそれぞれ個性を感じさせるが、中尊のそれは平等院鳳凰堂の阿弥陀如来の表情に似ている。ただ、鳳凰堂のものよりも、幾分肉付きが豊かになっている。その分、勇壮さを感じさせる。

なお、九体阿弥陀堂がさらに発展して千体阿弥陀堂になり、それが変化して千体観音堂となっていった。三十三間堂はその唯一の遺構である。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo08.joruri.html
9:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:35:29

法界寺阿弥陀如来像:藤原彫刻4
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo09.hokkai.html

(法界寺阿弥陀如来像、木造、漆箔、像高227.0cm)

法界寺は日野氏の氏寺として十一世紀の半ばごろ、薬師如来を本尊として建てられた。その後、阿弥陀信仰の広がりにしたがって、阿弥陀堂を併設するようになった。現存する阿弥陀如来像(国宝)は、十一世紀末に作られたと考えられている。

この像は、もともとこの寺にあった定朝作の丈六の阿弥陀像を手本にして作られたと古記にある。たしかに様式的には、鳳凰堂の阿弥陀像に似ているところがある。しかし、全体としてふくよかな感じで、その分親しみやすさは感じさせるが、宗教的な荘厳性には劣るともいえる。

ともあれ、定朝様式の丈六仏のうち最も早い時期の作品として、歴史歴な価値が高いとされている。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo09.hokkai.html
10:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:36:05

万寿寺阿弥陀如来像:藤原彫刻5
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo10.manju.html

(京都万寿寺阿弥陀如来像、木造・漆箔、像高281.0cm)

万寿寺は京都東山の東福寺の塔厨のひとつ。この阿弥陀如来像はその本尊であったが、明治以降長らく京都国立博物館に寄託されており、現在は東福寺光明宝殿に保存されている(非公開)。

もとは後白河法皇の皇女郁芳門院の六条御堂の仏だったとする説もある。この説が正しければ、この像は永長二年(1097)に作られたということになる。ともあれ、定朝様式を伝える作風であり、十一世紀末の作品と考えることができる。

全体を前後で二分割し、それぞれを寄木で作っているところは、鳳凰堂の阿弥陀如来像と同じであるが、前部が二材であるのに対して、後部が四材でできている点、鳳凰堂のものよりやや細かい。

円満な表情とふくよかでまとまりのよい姿は、鳳凰堂の阿弥陀如来に非常によく似ている。
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11:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:36:48

即成院の阿弥陀如来と二十五菩薩像:藤原彫刻6
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo11.sokujo.html

(即成院の阿弥陀如来と二十五菩薩像、木造・漆箔、中尊の像高233.6cm)

即成院は京都東山の泉湧寺の塔頭のひとつ。そこに安置されているのが阿弥陀如来と二十五菩薩像。これらはもと伏見寺にあり、寛治八年(1094)に頼通の三男橘俊綱が作ったとされる。ただし、阿弥陀を含む二十五体のうち、当初のままのものは脇侍の両観音像を含む十体の観音像であり、阿弥陀如来が後世に他の寺から移されたほか、十五体の観音像は江戸期の作である。

阿弥陀如来は他の寺から移されたとはいえ、やはり平安時代後期の作であると考えられ、定朝様式の特徴をとどめている。

このように、阿弥陀如来が大勢の菩薩を従えている場面は、阿弥陀来迎の場面として、この当時の絵画に多く描かれた図柄である。この仏像群は、阿弥陀来迎の様子を立体的に表現したものだといえよう。これと同じような仏像群は他にも作られたと思われるが、今日に伝わるのは、これだけである。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo11.sokujo.html
12:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:37:21

三千院阿弥陀三尊像:藤原彫刻7
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo12.sanzen.html

(三千院阿弥陀三尊像、木造・漆箔、像高中尊233.0cm、脇侍各132.0cm)

現在、大原三千院阿弥陀三尊像として知られるものは、明治以前には往生極楽院という寺の本尊であった。往生極楽院は、永治二年(1142)に死んだ高松中納言実衡の菩提を弔うために後室真如房が建立したものであり、明治になって三千院がこの地に移ってくるのにともなって、吸収されたような形になった。

この像が往生極楽院建立の頃に作られたであろうことは、脇侍の勢至菩薩像の胎内に、久安四年(1148)造立の記事があることから知られる。

中尊は堂々とした構えで肉付きも豊かだ。両脇侍は、やや前にかがんでいるが、体つきは豊かに見える。定朝に始まった様式が、法界寺、万寿院と、時代が下がるにつれて次第に世俗化し、この像に至ってそれがひとつのピークに達した、とする解釈が成り立つ。

なお、この三尊像は、阿弥陀来迎を簡略化したものとする見方もある。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo12.sanzen.html
13:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:37:55

普賢菩薩騎象像:藤原彫刻8
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo13.hugen.html

(普賢菩薩騎象像<大倉文化財団>木造・彩色、像高85.3cm)

普賢菩薩像は、文殊菩薩と並んで釈迦の両脇侍としてあらわされることが多いが、単体としては、白象の上に蓮華座を据え、その上で結跏している姿であらわされることが多い。この姿は、絵画や彫刻の形で多く作られた。というのも、普賢菩薩は女性の信仰の対象となり、貴婦人の間ではこの像を作らせて持仏とする習慣がひろがっていたからだ。

この像は檜材を用い、藤原時代の木寄せの手法によって作られている。細部に至るまで入念に仕上げられ、また、美しい截金文様が施されている。

全体でも一メートルに満たず、像本体も50センチ余しかないが、見た目はもっと大きく感じさせる。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo13.hugen.html
14:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:38:37

中尊寺金色堂内の仏像
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo14.konjiki.html

(中央檀、木造・漆箔、像高、中尊62.3cm)

中尊寺金色堂内部には、四点柱内と背面庇両端間に計三つの須弥壇があり、それぞれの上に仏像群が置かれている。中央檀が清衡、向かって左(右檀)が基衡、向かって右(左檀)が秀衡の作らせたもので、像は彼らの死の前後に作られたものと思われる。彼らはほぼ30年ごとに死んでいるから、仏像の様式も、この間の60年間における変遷を反映しているとされる。なお、須弥壇の下に彼らの遺体が置かれていることは、先述したとおりである。

仏像配置は、中央に阿弥陀如来、その両脇に観音・勢至両菩薩、外側に二天王と六地蔵という構成になっている(合計33躯)。ただし、右檀の二天王のうち向かって左側が欠けている。また、右檀の阿弥陀如来像は、大きさや様式の点からみて、後世になって持ち込まれたものとされている。したがって、造立時そのままに伝わるものは、計31躯である。

中央檀の諸仏は、清衡の没した大治三年(1128)前後の作である。定朝様式によったもので、全体にゆったりとした印象を与える。ただし二天王は、烈しい動きを感じさせる造りで、定朝様式とは思えない。むしろ右檀の天王像のほうが定朝様式に近い。そんなことから、これは後世に両者が入れ替わったのであろうと推測されている。


(右檀、木造・漆箔、像高、中尊48.9cm)

右檀の諸仏は、基衡が死んだ保元二年(1157)前後に作られたと思われる。ただし阿弥陀如来像は、後世に他から移入されたものである。


(左檀、木造・漆箔、像高、中尊65.4cm)

左檀の諸仏は、秀衡が死んだ文治三年(1187)前後に作られたと思われる。阿弥陀如来像は、中央檀の如来像同様定印を結んでいる。また、二天王像は、ほかのものに比べて穏健な印象を与えており、本来はこれらが中央檀にあったのではないかとも推測されている。これを含めて、堂内の諸仏の配置には、後世における移動がかなりあったのではないかと推測されている。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo14.konjiki.html
15:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:39:10

臼杵石仏の阿弥陀三尊像:藤原彫刻10
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo15.usuki.html

(臼杵石仏の阿弥陀三尊像<ホキ石仏>、石造・彩色、像高中尊279.0cm)

大分県の臼杵市にある石仏群は臼杵石仏と呼ばれる。四か所に別れて所在し、併せて六十躯に上る。いずれも、丘陵の斜面に露出した阿蘇溶岩の凝結層に刻まれているところから、磨崖仏と称されている。その大半は藤原時代に製作されたものと考えられている。

石仏のうち最大のものは、ホキ石仏第二群にある阿弥陀三尊像である。いわゆる丈六像で、石仏の中でもすこぶる威容を感じさせる。三尊とも、目鼻がやや下に集中し、むっくりした面相をしているが、これは十一世紀前後の木造仏にも見られる特徴であることから、藤原時代の半ばころに作られたのではないかと推測されている。

なお、これらの石仏のほとんど(五十九躯)が、国宝に指定されている。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo15.usuki.html
16:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:39:43

平等院扉絵:阿弥陀来迎図1
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo16.tobira.html

(平等院鳳凰堂、上品下生扉絵、77×58cm)

平惟茂の臨終にあたって、源信が自ら赴くことができず、身代わりに「極楽迎接曼荼羅」という図を贈って、これを見て往生せよといった。歴史上は、これが極楽往生図あるいは阿弥陀来迎図の走りといわれる。阿弥陀来迎図は、庶民が極楽に往生するための切札として非常な信仰を集め、平安時代の末から鎌倉時代に掛けて沢山作られた。

平等院の扉絵に描かれている阿弥陀来迎図は、その最も早い時期の作品である。観無量寿経の記述をもとに、九品の阿弥陀来迎の様子が、正面および両側面にある計12面の扉に描かれている。

これはそのうちの、上品下生の扉絵で、死者を迎えに来た阿弥陀如来が、死者と従者を従えながら極楽へ戻っていく様子が描かれている。多くの阿弥陀来迎図と異なり、この絵の中の阿弥陀如来は、横顔を見せている。


(平等院鳳凰堂、下品上生扉絵、75×97.5cm)

この絵の中の阿弥陀如来は、斜め前方を向いて願者の方を見、来迎院を結びながら白毫の光りで願者を照射している(その光が線で表されている)。従者はみな、動きを感じさせる。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo16.tobira.html
17:777 :

2024/01/13 (Sat) 15:40:20

阿弥陀来迎図その二
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo17.amida.html

(有志八幡講十八箇院の阿弥陀と聖衆来迎<中幅>、絹・彩色、210.8×210.6cm)

阿弥陀来迎図は、曼荼羅図同様、絹布の上に描かれ、掛け軸の形にされるのがふつうだった。上の図はもと比叡山横川の安楽谷にあったが、近世になって高野山に移った。群像は阿弥陀如来を含めてすべて坐像で、横に広がるように配置されており、動きは感じさせない。中央の阿弥陀如来は来迎院を結び、その前に観音・勢至の両菩薩が座っている。


(奈良興福院の阿弥陀と二十五菩薩来迎図、絹・彩色、118.6×70.8cm)

この図は雲に乗った阿弥陀如来が願者の方に向かって駆けつけている様子を描いている。阿弥陀如来の前には、観音・勢至の両菩薩が先導し、如来の背後からは大勢の菩薩が続いている。すべての像に動きがあるのは、有志八幡講のものと大きく異なっている。

この両者はいずれも、12世紀の作とされている。
https://j-art.hix05.com/07jodo/jodo17.amida.html
18:777 :

2024/01/14 (Sun) 14:13:44

あああv

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