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平安時代の美術 _ やまと絵・絵巻物・六道絵

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2024/01/13 (Sat) 14:10:07

日本の名画・彫刻
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平安時代の美術 _ 寺院・神社
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平安時代の美術 _ 密教美術
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平安時代の美術 _ 浄土美術
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平安時代の美術 _ やまと絵・絵巻物・六道絵
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絵巻物・漫画・アニメ
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解説!日本の絵巻:平安時代・鎌倉時代の絵巻物のみどころを詳しく紹介―地獄草紙、餓鬼草紙から、平治物語、鳥獣戯画まで
美術史チャンネル - YouTube
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徹底解説!「国宝展」II:絵巻篇(全4点)―東京国立博物館が所蔵する「国宝」指定の絵巻物の見所を詳しくご紹介! - YouTube
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国宝絵巻《鳥獣戯画》解説動画―甲・乙・丙・丁全四巻を四編の動画で徹底分析! - YouTube
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平安時代400年で絵画作品はどう変わった?日本美術史を流れで学ぶ(第7回)~平安時代の美術編その3~
https://irohani.art/study/13740/

平安時代って超長いんですよね。400年も続くんです。当然、美術作品もいろんな変遷を遂げていきます。前回は仏像でしたが、今回は「絵画作品はどう変わったのか」についてご紹介。前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。


平安時代前期(唐代絵画)から後期(大和文化の成立)へ

前回の記事で平安初期には中国的な規範が取り入れられ、後半から日本の文化があらわれてくることを紹介しました。前半はアジアにおいて唐がめっちゃ強国だった。それで日本も遣唐使を派遣してめっちゃ前向きに吸収するんですが、だんだん唐が弱体化したのと真似し終わった感もあって、むしろ日本独自の文化を発見していく流れに変わっていくんですね。

平安時代前期には前回の記事でもご紹介した「曼荼羅」がよく描かれるようになります。前回の記事では真言宗の空海が持ってきた密教由来のものを紹介しました。これが「根本曼荼羅」というものです。

巨勢公忠(こせの きんただ)や飛鳥部常則(あすかべ の つねのり)といった国内の絵師は、こうした根本曼荼羅を独自に吸収して描くようになるんですね。こうした国内の曼荼羅は根本曼荼羅と比べて、立体感が薄くのっぺりしています。また描線も柔らかい。こうした表現が日本文化の醸成につながっていきます。

もちろんベースには唐の表現様式があるんです。そのうえで「立体感を減らす」「一点にフォーカスするのではなく、広い視点を持たせる」などの特徴を持たせる表現にアップデートしていったんですね。その結果、ダイナミックでなく素朴で穏やかな形になっていきます。これが大和文化、ひいては日本文化の特徴として育っていくんです。



平安時代後期のやまと絵の特徴

そんなこんなで成立していくのが、よくある「やまと絵」といわれる日本文化独自の表現です。ちなみにやまと絵が盛り上がるにつれて、それまでの唐代絵画は「唐絵」といわれ、明確に差別化されていきました。

この違いは分かりにくいのは平安時代の絵画あるあるです。唐絵は唐の故事を基礎にしたもの、やまと絵は国内の貴族たちを描いたもの、という分かりやすい背景の違いはあるものの表現技法としての違いは微妙です。

そこで試しに自然を描いた「山水表現」でやまと絵と唐絵を見比べてみましょう。


奈良国立博物館Webサイトより引用

こちらが正倉院に伝わる「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんそうのびわ)」に描かれた唐絵の『騎象奏楽図(きぞうそうがくず)』です。琵琶に描かれているので画面は小さいんですが、見事に奥ゆきを描いていてダイナミックで超かっこいいですよね。

では比較してやまと絵ではどうなのか。国宝の『神護寺山水屏風』をみてみましょう。

Public domain, via Wikimedia Commons

同じく、遠くに山々を臨む構図なのですが、立体感は薄れ、人物や建物によって遠近感を演出するというよりは、大きな自然物の中にちょこっと登場している。画面全体で物語を描いているようなさりげない感じが出ています。


絵巻物ブームの到来

平安時代後期には絵巻物がめっちゃ盛り上がるのも特徴。これまでの一枚絵ではなく、紙・絹をつなげたものに絵を描くことでストーリーを見せるものです。日本由来と思われることもありますが、これも実は中国で先に生まれた様式となっています。

例えば有名どころでいうと「四大絵巻」と称されるのが『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』ですね。『伴大納言絵巻』は866年に起きた応天門の変をめぐる大納言・伴善男の陰謀と失脚までの物語を描いています。

Tokiwa Mitsunaga, Public domain, via Wikimedia Commons

そもそも絵巻物が流行る前から唐絵もやまと絵も何らかのテーマを持っていたんです。ある種の「ドラマ」を一枚の絵で見せる、というのが主流だったわけです。

現代人の我々のイメージに合わせるならば「101回目のプロポーズ」というタイトルで「武田鉄矢がトラックの前に飛び出すシーン」を画面に描くみたいな……。でもそれ以外の場面が描かれないと想像で補うしかないですよね。そこがおもしろいんですけど、あんまりキャッチーではない。

その点、絵巻物はかなりストーリーを補填しやすい形だったんだと思います。なんとなくストーリーの流れがわかりますし、実は説明文が別で付いているケースも多くあります。


コミカライズの原点ともいえる?

絵巻物ブームが起きていたのは現代日本のマンガ文化にも通ずるところがあるんじゃないか、とも考えられますよね。例えば先ほどの『伴大納言絵巻』の内容の一部は『宇治拾遺物語』巻第十にも文章として描かれています。

また『源氏物語絵巻』はもちろん、紫式部のベストセラー『源氏物語』を絵巻にしたものです。本を読んで頭のなかで構築したストーリーを絵で見せるという手法は最近のコミカライズに近い感覚もあると思います。

ここ20年くらいでコンテンツは一気にマルチメディア化しましたし、それがヒット作の教科書になりました。ライトノベル原作の作品がマンガになり、アニメになり、実写映画になり、舞台になり、音声コンテンツになり、声優によるコンサートが開かれる。

平安時代には小説『源氏物語』が絵巻物になっているのは、正にマルチメディア化の先取りで、すごくおもしろいです。日本人のオタクカルチャーにも通ずる部分があるのかなぁなんて思ったりします。
マンガの源流・信貴山縁起絵巻、鳥獣人物戯画
四代絵巻のうち2つ紹介したのでせっかくだから残り2つのおもしろいところも紹介しちゃいましょう。まず『信貴山縁起絵巻』ですが、実はむちゃくちゃファンタジーです。

いろんな奇跡を起こす「命蓮」という修行僧が主人公の3巻のお話になっています。1巻では命蓮が空に飛ばした鉄鉢が、山麓の長者の倉を持ち上げ信貴山上まで運んでしまう。という衝撃的なシーンで始まったりします。

Chōgosonshi-ji, Public domain, via Wikimedia Commons

この絵が冒頭の「鉢に乗って空を飛んでいく倉」を描いたものなんですが、躍動感があって笑えるんですよね。簡素な線で少しオーバーに描く感じが、割と現代のマンガに近いという話は有名です。確かに他の作品と比べると、線のタッチも人物描写も軽々としていて楽しいです。

その点、日本最古のマンガとも呼ばれるのが『鳥獣人物戯画』です。作者は鳥羽僧正(とばそうじょう)といわれています。そこそこ偉い方なのに変な絵巻ばっかり描くんですよこの人……。「放屁合戦」とか。興味がある方は調べてみてください。

Toba Sōjō, Public domain, via Wikimedia Commons

鳥獣人物戯画は見ていてかわいくてユーモラスですよね。それまでの技法とはまったく違う。完全に笑わせにきている。この画風は当時「鳴呼絵(おこえ)」といわれていました。

「おこ」とは「バカらしい」という意味です。バカらしい絵という見られ方だったんですよね。ちなみに鳴呼絵は「戯画」となり「漫画」に変わっていきます。手塚治虫以降は「マンガ」という呼ばれ方になっていく。このあたりのお話は江戸時代、明治時代でしましょう。

先ほどの山水表現で紹介した柔らかいタッチ、平面な絵は雅な文化として日本に根付きましたが、この絵巻物の文化も外せないでしょう。キャッチーなコンテンツが大好きな現代の日本文化の萌芽といっていいと思います。


いろんなキーワードが盛りだくさんの平安美術

さて、2回にわたって平安時代の日本文化を紹介しました。長い長い平安時代は本当にいろんなキーワードがありますよね。唐、密教、曼荼羅、国風文化の仏像、やまと絵、絵巻物と、さまざまな魅力がある時代です。
https://irohani.art/study/13740/


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大和絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%B5%B5

大和絵(やまとえ)は、日本絵画の分野のひとつ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり、平安時代以来発達した日本風の絵画のこと。「陸絵」「和絵」などとも表記され、「倭絵」「和画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。これら漢字表記の揺れを嫌い、ひらがなで「やまと絵」と表記することが多い。中世を通じて描き続けられ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、漢画の技法・主題を統合したと自称する(『本朝画史』)。

「やまと絵」の語義は、時代によって3度変化している。

平安時代には、画題についての概念であり、日本の故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物・事物・山水に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。また「唐絵」も「やまと絵」も障子絵や屛風絵のような大画面の絵画についていわれた用語であり、絵巻や冊子の絵は「紙絵」と呼ばれた。次の「歴史」の項目で絵巻の作例が多く挙げられているが、それらは後世の分類によるものであり、平安時代にやまと絵といわれることはなかった。

14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、唐の様式を基本に北宋以降の中国絵画の様式も部分的に取り込んで確立された伝統的絵画様式をやまと絵と称するようになった。そのとき「唐絵」(漢画)は宋以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった。そして土佐派などやまと絵を専門とする流派が登場するに至り、流派の意味でも使われるようになった。


平安時代
東アジア一帯に強力な政治的・文化的影響を及ぼした唐は、907年に滅びた。アジア諸地域ではこの頃から中国の影響を離れ、文化の地方化が進んだといわれている。日本においては894年に遣唐使が停止され、10世紀には唐の影響が薄れ、いわゆる国風文化が興った。漢字をもとに仮名が考案され、和歌や物語文学が興隆し、和様書道が成立したことなどがその具体的な現れであり、やまと絵の出現もこの頃と推量される。唐絵に対する「やまと絵」の語の初出は、藤原行成の日記「権記」の長保元年(999年)10月30日条とされ、そこには「倭絵四尺屛風」に、当時能書として評判の高かった行成が文字を書き入れたことが記録されている。同時期の制作である『源氏物語』の「絵合」の巻には『竹取物語』『うつほ物語』『伊勢物語』などの物語絵が登場する。当時の宮廷・貴族社会において、日本の物語文学を題材にした絵画が享受されていたことが分かる。

平安時代の絵画作品で仏教以外の世俗画としては、邸宅内の調度や間仕切りのための、障子、屛風など大画面の作品が制作された。現存するものは社寺関係の遺品のみであるが、屛風について詠まれた多数の屛風歌により画題がわかる。それによれば、やまと絵の主要な主題は、四季絵・月次絵(つきなみえ)と名所絵であった。平安時代前期から中期にかけての絵師としては、巨勢派(こせは)の巨勢金岡(こせのかなおか)とその子である巨勢相覧(おうみ)、飛鳥部常則(あすかべのつねのり)などの名が伝わるが、これらの絵師には現存する確実な遺品はなく、実作品からその作風の変遷をたどることはできない。絵巻にしても、現存するものは「源氏物語絵巻」など12世紀の作品が最古であり、11世紀以前にさかのぼる物語絵の実物は現存しないため、その実態や様式の変遷については今なお不明な点が多い。

平安時代のやまと絵の遺品としてよく挙げられるのは絵巻である。四大絵巻と称される「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起」「鳥獣人物戯画」はいずれも平安時代末期の12世紀に制作されたものである(ただし「鳥獣人物戯画」4巻のうち2巻は鎌倉時代制作)。


代表作

聖徳太子絵伝 - 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)、国宝。もと法隆寺東院の絵殿の壁画だったもので、現在は額装に仕立てられている。延久元年(1069年)、秦致貞(正確な読み方は不明だが通常「はたのむねざね」と読む)という作者の名前も判明している。

平等院鳳凰堂壁扉画 - 京都・平等院蔵、国宝。「九品来迎」(くほんらいごう)を主題とする浄土教系の仏教絵画であるが、背景には大和絵風の山水が描かれており、平安時代にさかのぼる数少ない大和絵資料としても貴重。天喜元年(1053年)完成。

源氏物語絵巻 - 徳川美術館、五島美術館蔵、国宝。

伴大納言絵巻 - 出光美術館蔵、国宝。

信貴山縁起 - 奈良・朝護孫子寺蔵、国宝。

鳥獣人物戯画 - 京都・高山寺蔵、国宝。

扇面古写経 - 大阪・四天王寺、東京国立博物館などに分蔵、国宝・重文。
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やまと絵:画像の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/08yamatoe/yamatoe.index.html

日本の絵画の伝統は、古墳時代以前に遡れないわけではないが、本格的に展開するのは、飛鳥時代以降のことである。大陸(唐)の圧倒的な影響を受けながら描かれたそれらの絵は、後に唐絵と呼ばれて、和風の絵であるやまと絵と対比されるようになるが、それはやまと絵が成立して、対比すべきライバルが現れたからであり、やまと絵成立以前には、絵と言えば唐絵のことをさしていた。唐絵というのは、中国の風俗や景物をそのまま描いたもので、たとえば聖徳太子の像や正倉院宝物の樹下美人図のようなものである。聖徳太子は、いうまでもなく日本人であるにかかわらず、あたかも中国人(唐人)であるかのような格好で描かれている。これらの絵を描いた画師は、大陸から来た帰化人とその末裔であろうと推測されている。

やまと絵が成立するのは、9世紀半ば以降のことである。その背景には、遣唐使が廃止されて大陸の文化の輸入が途絶えたことがあり、またそれとパラレルにして、和風文化の成熟が進んだことがある。たとえば漢字をもとに仮名が発明され、その仮名を用いて和風の文章が書かれるようになる。和風の絵としてのやまと絵も、そうした和風文化の成熟の一環として成立したと考えることができる。

そこで、従来の唐絵とやまと絵の比較であるが、もっとも重大な要素は絵のテーマである。唐絵の場合には、大陸の景物や唐風の人物が描かれている。それに対してやまと絵は、基本的には日本の風景や花鳥といったものを描いている。現代の洋画と日本画の違いが、単に描かれているテーマの違いに留まらず、使われる絵の具や定着される支持体まで異なるのに対して、唐絵とやまと絵の違いは、そこに描かれた人物や景物の違いに留まり、他は共通である。時代が下るにしたがって、唐絵とやまと絵の区別はますますわからなくなり、やまと絵が絵画の全体を代表するようになる。すると、もはややまと絵という言い方自体が不要になるわけであるが、そうなってもなお、やまと絵という言い方は残ったようである。それだけ、唐絵の残した影響が大きかったということだろう。

初期のやまと絵は、屏風や障子に描かれた四季絵というものが中心だったようだ。屏風は空間を仕切るための衝立として用いられ、障子は現在のふすまと同じく、壁の代わりに用いられた。いずれも平安時代における、寝殿造りの建物のなかでの、生活に欠かせない道具であった。その道具の表面に四季絵を描いて、日常の生活に彩りをもたらしたのが、やまと絵のそもそもの発端であった。しかしそれらの絵で、今日まで伝わっているものはほとんどないに等しい。東寺と神護寺に伝わっている屏風絵が、その残されている貴重な作品であるが、これは公式の行事で使われた格式の高いもので、絵の中には唐風の人物が出てきたりと、唐絵の名残も感じさせる。

したがって、この時代の四季絵がどんなものだったかを知るには、たとえば源氏物語絵巻に描かれている屏風の図柄から推し量るほかはない。また、四季絵には、絵のテーマを解説する和歌などの詞章がつきものだが、それらの詞章はかなり多く残されているので、それを通じて四季絵のイメージを推測することもできる。こうした努力を通じて浮かび上がってくるのは、年中行事などの景物を季節の移り変わりにあわせて抒情豊かに描いたのが四季絵だということだろう。

平等院鳳凰堂の扉絵は、本来は仏画として描かれたものだが、それをよく見ると、背景として日本的な山水が描かれており、四季絵に共通する要素を読み取ることができる。これが描かれたのは11世紀のなかばであり、その頃には、やまと絵もかなりな発展ぶりをしていたと推測される。

平安時代のやまと絵として今日まで残っているものとしては、絵巻物が重要である。平安時代の末近くなって、源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、伴大納言絵詞、鳥獣人物戯画といった絵巻物が作られた。これらの絵巻物に描かれた絵を見ると、さまざまな点で今日の日本画に通じるものを読み取ることができ、これこそ日本絵画の源流であるといった感を受ける。

また、平安時代末期に、平家によって作られた平家納経というものがある。このなかに描かれた絵が、やまと絵の特徴を強く感じさせる。

以上いくつかの要素を組み合わせながら、やまと絵がどのようなものであったか、その全体像を構成していく必要があると考えられる。

ここではそんなやまと絵の代表的な作品をとりあげ、画像を鑑賞しながら適宜解説を加えたい。


山水屏風:やまと絵

聖徳太子絵伝

信貴山縁起絵巻1:山崎長者の巻

信貴山延喜絵巻2:延喜加持の巻

信貴山縁起絵巻3:尼公の巻

伴大納言絵詞 上巻

伴大納言絵詞 中巻

伴大納言絵詞 下巻

平家納経:やまと絵

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2:777 :

2024/01/14 (Sun) 13:54:47

源氏物語絵巻:画像の鑑賞と解説
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源氏物語を絵画にしたいわゆる「源氏絵」は、平安時代から現代にいたるまで、様々な形で描きつがれてきた。その中で最も古いものは、国宝指定されている平安時代末期の「源氏物語絵巻」である。これは、尾張徳川家に伝わってきた15面の絵(蓬生、関屋、柏木3、横笛、竹河2、橋姫、早蕨、宿木3、東屋2、現在は徳川美術館蔵)と、阿波蜂須賀家に伝わってきた4面(鈴虫2、夕霧、御法、現在は五島美術館蔵)からなる。いづれも、同一の絵巻物の一部がそれぞれ別れて伝わったとされるが、どのようないきさつで両家に伝わったか、その経緯はよくわかっていない。もともと鷹司家にあったものが、子女の婚礼の引き出物として両家に分与されたのではないか、と推測されている。

現存するのは19面(ほかに詞書の部分が37面)であるが、もともとの形は、源氏物語54帖すべてに対応していたと思われる(現存するものは12帖分に対応)。またそれらは、絵巻物の形になっていたものを、現在は、保存の都合上、場面ごとに切り離して額装してある。というのも、源氏物語絵巻のそれぞれの部分は、ほかの絵巻物とは異なって、完結した絵を継ぎ合わせる形で作られていたため、切り離しやすかったのである。それぞれの部分は、縦21.8cm、横48.7cmのサイズの鳥の子厚紙に描かれている。

作者についてははっきりしないが、江戸時代の鑑定士によって藤原隆能説というものが主張され、それ以来「隆能源氏」として知られてきた。しかし、昭和以降の研究によって、絵の様式にニュアンスの相違が確認され、一人の手になったのではなく、少なくとも四種類の異なった手が働いていることが指摘されるようになった。その指摘にもとづいて絵の作者を分類すると、おおよそ次のようになる。

第一 柏木、横笛、夕霧、御法
第二 蓬生、関屋、
第三 早蕨、宿木、東屋、
第四 竹河、橋姫

このように、異なった手になるにかかわらず、全体として共通するところも多い。

まず、線をはっきりとさせないこと。最初は薄い色の線で輪郭を描き、その上から顔料で着色し、部分によっては、その上に更に明確な線でなぞるところもあるが、大部分は線をぼかしたままに放置している。線描をはっきりさせる日本の絵の伝統においては、ユニークなところである。

人物の顔はどれも、引目鉤鼻といって、眼を細い横線で表し、鼻を鉤型の単純な線で表している。しかも表情は押し殺したように単調で、信貴山縁起絵巻や伴大納言絵巻におけるダイナミックな描き方とは対照的である。

建物は、屋根を省き、すこし上空から見下ろすような角度に描かれている。吹抜屋台と呼ばれるものであり、日本の絵画の伝統のひとつとなった描き方である。このように描くことによって、貴族の邸宅の内部を、奥行きを伴って表現することに成功している。

各帖の表現は、原作をそのままに再現したものではない。原作のエッセンスを、一つないし三つの場面に凝縮して、表現するという方法を取っており、そこには作者による原作の解釈が介在していると指摘できる。


源氏物語絵巻一:蓬生、関屋

源氏物語絵巻二:柏木

源氏物語絵巻三:横笛

源氏物語絵巻四:鈴虫

源氏物語絵巻五:夕霧、御法

源氏物語絵巻六:竹河

源氏物語絵巻七:橋姫、早蕨

源氏物語絵巻八:宿木

源氏物語絵巻九:東屋

https://j-art.hix05.com/09genji/genji.index.html
3:777 :

2024/01/14 (Sun) 13:56:51

鳥獣戯画:作品の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/10choju/choju.index.html

京都栂尾の高山寺に伝わってきた「鳥獣戯画」は、国宝指定上の名称では「鳥獣人物戯画」ということになっている。それが単に「鳥獣戯画」として流布しているのは、甲乙丙丁と四巻あるうちの甲巻が、鳥獣をユーモラスに描き、それが全四巻を代表するものとして余りにも有名になってしまったからである。

鳥獣人物戯画四巻を仔細に分析すると、主題や画風に変化があることがわかる。まず、主題であるが、甲巻は鳥獣戯画として、擬人化された猿、兎、蛙などが、ユーモラスに描かれている。乙巻もやはり動物を描き、馬、水牛、鷹、狼、鶏、鷲、麒麟、羊、豹、獅子、像などが取り上げられているが、こちらは戯画ではなくて、動物の通常の生態をテーマにしながらも、中には日本に存在しないものも含まれていることから、中国から伝来した動物絵をもとにして描かれたのであろうと推測される。甲巻の絵がのびのびと描かれているのに対して、乙巻のそれは、やや生硬さを感じさせる。

丙巻の前半と丁巻は人物を描いている。また、丙巻の後半は動物を、戯画風に描いている。このように、丙巻は前後で主題や画風に変化が認められるが、それはもともと別の巻であったものを、後世につなぎ合わせたからだろうと解釈されている。

以上、主題や画風の相違からして、全巻が同じ手になったとは考えにくい。甲と乙とは同じ手になったと考えられるが、丙の前半、丙の後半、丁はそれぞれ別の手になるというのが今日の通説のようである。国宝指定書は、全巻の作者を鳥羽僧正覚猷としているが、これは上記の理由から支持しがたい。甲、乙の部分については、鳥羽僧正の手になったのではないかと考えられる。これについては、根拠がないともいえない。

鳥羽僧正は平安時代後期の天台僧で、天台座主まで上り詰めた人物である。仏道の傍ら仏画にも才能を発揮し、法勝寺金堂の扉絵を描いたことなどが伝えられている。鳥獣戯画のうち、甲乙二巻は鳥羽僧正の存命時期と重なるか、遠からぬ時期に作られたと考えられるので、僧正直筆の可能性はあり、また僧正の薫陶を受けた弟子の手になった可能性もある。これに対して、丙と丁の部分は、僧正死後の鎌倉時代に入ってからの作品だと考えられている。

現在、高山寺には、甲の実物大の模写絵と、乙丙丁の縮小版が、一般向けに展示されている。甲の画面を見ると、いたるところに高山寺と記した印が押されているが、これは、切り取りを防止するための措置だと解釈されている。鳥獣戯画は、一時期散逸したあと、断片をつなぎ合わせて復元された経緯があり、その際に、再度の切り取りを防止するために、このような処置が施されたと考えられる。ここでは、鳥獣人物戯画全四巻のうち甲巻の絵について鑑賞し、簡単な解説を加えたいと思う


鳥獣戯画1(泳ぎと弓)

鳥獣戯画2(宴会の準備)

鳥獣戯画3(猿の僧正)

鳥獣戯画4(逃げる猿)

鳥獣戯画5(蛙と兎の相撲)

鳥獣戯画6(蛙の御本尊)

https://j-art.hix05.com/10choju/choju.index.html
4:777 :

2024/01/14 (Sun) 14:43:13

六道絵:地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙
画像の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/11rokudo/rokudo.index.html

平安時代の末から鎌倉時代にかけて、地獄への関心が大いに高まり、地獄絵をはじめとした六道絵と言われるものが大いに普及した。六道というのは、六道輪廻といわれるように、極楽に対する穢土を意味し、人間は極楽往生できないかぎり、六道を輪廻するというふうに観念されていた。輪廻の思想は、仏教にもともとあったものだが、それが強まるのは浄土教の普及に伴ってのことで、その背景には末法思想の普及も作用していた。

浄土教は、一方では極楽浄土のすばらしさを人々に訴えるとともに、穢土に輪廻することの苦しさをも訴えた。そうすることで、極楽に対する人々の希求を掻き立てようとした訳である。源信の往生要集が、まず地獄の苦しみを描写することから始めているのも、そのような意図の表れである。

六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道の六つの世界のことをいい、いずれも穢れた世界、穢土として極楽に対置される。人は極楽に往生できないかぎり、この六道を永遠に輪廻しなければならない。この輪廻を断ち切って極楽往生すること、それが人と生まれての最大の目標となる。それを実現するためには、ただひたすら念仏するべきである。これが、往生要集が人々に訴えたことであった。

この六道の様子をありありと描き出し、人々に嫌悪と恐怖の感情を引き起こそうとしたもの、それが六道絵と呼ばれるものである。中でも地獄絵は、強烈な迫力で人々を捉えた。人々は、それらの絵の中で表現されたさまざまな苦しみに恐怖し、それから逃れるためには、極楽に往生するほかない、と強く感じたのである。

六道絵の現存するものとしては、平安時代の末(12世紀後半)に制作された地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙、13世紀前半に製作された北野天神縁起絵巻、13世紀後半に制作された聖衆来迎寺蔵六道絵などがある。

平安時代の末に製作されたものは、後白河法皇が命じて作らせたものである。それらは六道のそれぞれについて詳細に描かれたもので、法王はそれらを蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収めさせたのであったが、そのうちの地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙(人道絵巻)が今日に伝わった。ここでは、平安時代末期に作られた地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙について、紹介したい。


地獄草紙1(東京国立博物館本)

地獄草紙2(奈良国立博物館本)

地獄草紙3(奈良国立博物館本2)

餓鬼草紙1(東京国立博物館本1)

餓鬼草紙2(東京国立博物館本2)

餓鬼草紙3(京都国立博物館本)

病草紙1:京都国立博物館本1

病草紙2(京都国立博物館本2)

病草紙3(京都国立博物館本3)

https://j-art.hix05.com/11rokudo/rokudo.index.html
5:777 :

2024/01/14 (Sun) 22:15:26

ああhh
6:777 :

2024/01/14 (Sun) 22:19:55


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