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デニソワ人と現生人類の混血

1:777 :

2024/01/13 (Sat) 07:58:07

雑記帳
2024年01月12日
アジア南東部の古環境と人類の進化
https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_12.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア南東部の古環境と人類の進化に関する研究(Bacon et al., 2023)が公表されました。本論文は、ラオスを中心にアジア南東部の古環境と、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)などの非現生人類(Homo sapiens)ホモ属や現生人類の進化との関連を検証しています。デニソワ人は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)から発見された人類遺骸で遺伝学的に特定された非現生人類ホモ属の分類群で、その他には、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された、16万年以上前と推定される右側下顎(夏河下顎骨)がプロテオーム(タンパク質の総体)解析に基づいて、ラオスのフアパン(Huà Pan)県に位置するタム・グ・ハオ2(Tam Ngu Hao 2、略してTNH2)で発見された人類の下顎大臼歯が、形態に基づいてデニソワ人に分類されています。タム・グ・ハオとは、「コブラ洞窟」という意味です。同じくフアパン県に位置するタムパリン(Tam Pa Ling、略してTPL)洞窟では、初期現生人類遺骸が発見されています。

 本論文は、高緯度のデニソワ人集団がツンドラや草原地帯を含む森林と開けた環境の混合で、アジア南東部のデニソワ人が開けた森林とサバンナで暮らしていた、と推測しています。また本論文は、現生人類のみが熱帯雨林の資源を利用できた可能性も指摘します。本論文はアジア南東部における13万年前頃の熱帯雨林の局所的拡大を示していますが、これにより、デニソワ人がこの局所的な気候変化にどのように適応したのか、という問題も提起しています。デニソワ人は、現生人類ほどではないかもしれませんが、かなり多様な環境に適応できたのかもしれません。なお、本論文で引用されているデニソワ人についての遺伝学的研究は、おおむね以前のデニソワ人に関するまとめで取り上げています。


●要約

 確実な環境状況は、人類の解釈と比較において重要です。ラオスのコブラ洞窟でのデニソワ人および関連する動物相の発見は164000~131000年前頃までさかのぼり、この(亜)熱帯遺跡と旧北区のデニソワ洞窟および中国の白石崖溶洞遺跡との間の環境比較を可能とします。高緯度のデニソワ人は、ツンドラや草原地帯を含む森林と開けた環境の混合で採食していました。コブラ洞窟遺骸群の安定同位体値を用いて、近隣の林冠の存在にも関わらず、コブラ洞窟のデニソワ人個体はおもに開けた森林とサバンナの植物および/もしくは動物を消費していた、と論証されます。動物相の証拠と気候の代理指標を用いての結果は、13万年前頃の熱帯雨林の局所的な拡大を浮き彫りにし、デニソワ人がこの局所的な気候変化にどのように対応したのか、という問題を提起します。ラオスの、コブラ洞窟の古代型人類と、タムパリン洞窟(46000~43000年前頃)の初期現生人類の植生と生息地を比較すると、現生人類のみが熱帯雨林の資源を利用できたようです。


●研究史

 デニソワ人は当初、ゲノムを通じて初めて特定され、そのゲノムはロシアのシベリア南部のデニソワ洞窟の一握りの指骨や歯や堆積物から抽出されました。それ以降、追加の証拠が部分的下顎の古代のタンパク質および形態や、チベット高原の白石崖溶洞の堆積物のDNAから明らかになってきました(図1)。中国北部の河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の侯家窰(Xujiayao)遺跡の一連の人類の歯(関連記事)や、台湾沖で発見された澎湖1号(Penghu 1)と呼ばれる下顎骨(関連記事)や、ホモ属の推定新種であるホモ・ロンギ(Homo longi)として知られる黒竜江省ハルビン市で発見された309000~138000年前頃と推定される頭蓋(関連記事)など、他の人口集団が、デニソワ人かもしれない、と示唆されてきました。最近、若い女性のデニソワ人の大臼歯がラオスのコブラ洞窟で発見され、その推定年代範囲は164000~131000年前頃で(関連記事)、その形態は白石崖溶洞の下顎と類似しています。以下は本論文の図1です。
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 古遺伝学的証拠から、デニソワ人は高地の低酸素環境で暮らす生理学的能力を有している、と示唆されています。この特徴は、16万年前頃から下限で6万年前頃まで(関連記事)のチベット高原の極限状態への適応から生じた可能性が高そうです。デニソワ人遺骸が発見された白石崖溶洞は海抜3280mの標高に位置しており、これはアルタイ山脈の山麓のデニソワ洞窟(海抜700m)もしくはラオス北東部のカルスト山脈に位置するコブラ洞窟よりずっと高くなっています。さらに、ニューギニアとインドネシア東部とフィリピンのマナンワ人(Mananwa)集団とオーストラリア先住民の現代の人口集団のゲノムにおけるデニソワ人DNAの高い割合の遺伝子移入から、デニソワ人はアジア南部および/もしくは南東部に存在した、と強く示唆されます。したがって、デニソワ人が発掘された遺跡の位置と年代推定値から、20万~5万年前頃に、デニソワ人はアルタイ山脈の温帯生息地からアジア南東部の熱帯生息地にまたがるさまざまな環境に適応した、と示唆されます。

 古代DNA解析から、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とデニソワ人と現生人類は中期~後期更新世においてユーラシアでの進化を通じて数回交雑した、と示唆されています。ネアンデルタール人と初期現生人類との間の主要な遺伝子流動事象はレヴァントで17万年以上前に起きた可能性が高い一方で、現代人へのネアンデルタール人からの遺伝的寄与は、6万~5万年前頃の後のアフリカからの現生人類拡散の時期に制約されます。同様に、デニソワ人は現在のメラネシアおよびオーストラレーシア(オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域)の人口集団の祖先のゲノムに4~6%ほど、アジア本土人およびアメリカ大陸先住民の祖先のゲノムに0.2%ほど寄与しました【上述のまとめで述べましたが、とくにメラネシアおよびオーストラレーシアの人口集団のゲノムにおけるデニソワ人由来領域の推定割合は、最近の研究ではもっと低くなっています】。アジアにおけるデニソワ人と現生人類との間の日宇雑事象の年代は、不明なままです。古ゲノム証拠から、交雑は5万年前頃にデニソワ人の分布の北方地域で起きた、と示唆されています(関連記事)。しかし、別の研究では、交雑は南方地域でもっと新しい年代に起きたかもしれない、と示唆されています(関連記事)。

 熱帯の緯度では、人類化石の少なさ、および化石と堆積物の両方からのDNA配列の回収の難しさを意味する高温湿潤条件が、デニソワ人と現生人類の人口史への取り組みにおいて課題となっています。コブラ洞窟での発見は、デニソワ人と低緯度熱帯環境との間の相互作用の調査への新たな機会を提供します。考古学的資料の不足は、熱帯雨林への適応可能性の直接的評価を制約しますが、安定同位体など地球化学的代理はデータの貴重な情報源を提供できます。動物組織は代謝し、その食性の同位体組成を取り込むか反映する、という原理に基づいて、歯のエナメル質の炭素(C)同位体分析は、古食性、したがって古環境に関する重要な情報を提供できます。さらに、反芻有蹄類分類群、つまりブラウザー(低木の葉や果実を食べるヤギやシカなどの採食動物)や混食動物やグレーザー(体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物)の広い生態学的範囲と、アジア南東部における気候変化への予測不可能な反応のため、唯一のそうした代理記録は、過去の生態系の構造、したがって異質性の水準を明らかにできます。これはとくに重要で、それは、更新世において、アジア南東部の環境は、閉鎖林冠から草原にまたがる連続的な変動を経た、生物群系の多様な範囲で構成されていたからです(関連記事)。

 本論文は、偶蹄目や奇蹄目や長鼻目や食肉目や霊長目や齧歯目といった哺乳類分類群と、コブラ洞窟のデニソワ人個体の広範囲の炭素(δ¹³C燐灰石)と酸素(δ¹⁸O)の同位体組成の最初の分析を提示し、その食性と生息地を記載します。デニソワ人の歯(TNH2-1)は、3.5~8.5歳の間に死亡した学童期(juvenile)の女性個体の発達中の、下顎第一大臼歯もしくはもっと可能性の高い第二大臼歯です。デニソワ人が離乳した年齢は不明ですが、その最近縁の分類群であるネアンデルタール人から得られた証拠は、現代人と類似した初期の離乳過程を示唆しています。したがって、TNH2-1の同位体値が歯冠の底で標本から得られた、という事実を考えると、コブラ洞窟の若い少女は集団の成人と同じ食べ物を摂取した可能性が高そうです。

 生体燐灰石のδ¹³C値は、C₃植物(樹木や灌木や低木や草)対C₄植物(イネ科の草やスゲ)と関連する値に基づく古食性、および各環境の調査に用いられます。次にも動物の食性におけるδ¹³C炭素源値が、δ¹³C燐灰石から計算され、閉鎖林冠のような部分的分割生物群系を含めて、調査対象期間のこれらの同位体的に異なる炭素源の割合がより正確に調べられました。δ¹⁸O値は、非生物的条件(降水量の緯度や気候や温度や湿度の内容と量や同位体組成およびその称号)の差異と関連する古生態学的情報への寄与に用いられました。したがって、これらは直接的にδ¹³C値を補完し、過去の状態への追加の洞察を提供します。

 海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)6(19万~13万年前頃)における温帯地域対熱帯地域でのデニソワ人の環境を調べるため、動物相から推測された生息地およびコブラ洞窟から得られた同位体記録が、同じ期間のデニソワ洞窟(主空洞の第19層~第17層、151000±17000~128000±13000年前)から得られた動物相および花粉の証拠から推測されたもの(関連記事)と比較されました。12万年前頃までジャワ島に存在した(関連記事)他のアジアの人類であるホモ・エレクトス(Homo erectus)の生息地が評価され、デニソワ人とホモ・エレクトスの生態的地位がどの程度同等なのか、問われました。過去20年間のいくつかの研究は、インドネシアのホモ・エレクトスの生態的地位の輪郭を洗練しており、それは明らかに低地の開けた生息地でした(関連記事)。

 さらに、コブラ洞窟のデニソワ人とその地域の最古の現生人類との間で生息地と食性を比較する試みにおいて、TPL洞窟の利用可能なデータが用いられ、コブラ洞窟とTPL洞窟は300mほど離れています(図1)。TPLから得られた同位体データには、33000年前頃以前、つまり最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)状態の定着前の堆積物区画で回収された、現生人類個体(TPL-1、46000~43000年前頃の若い成人の部分的頭蓋の上顎左側大臼歯)と一握りの草食動物(偶蹄類と奇蹄類)の歯が含まれます。先行研究では、森林の多い生息地で採食していた、と記録されてきました。

 第二段階では、コブラ洞窟かに得られた炭素と酸素の動物相記録を、ベトナム北部とラオスの同等の構成の中期~後期更新世の一連の5分類群の動物相(偶蹄目、奇蹄目、長鼻目、食肉目、霊長目、齧歯目)とともに用いて、局所的に古環境を変化させた大規模な気候変動が確認されました。したがって、不連続で斑状の記録にも関わらず、164000~131000年前頃のコブラ洞窟、148000~117000年前頃のコク・ムオイ(Coc Muoi)、94000~60000年前頃のタム・ハン・サウス(Tam Hang South )、86000~72000年前頃のナム・ロト・1(Nam Lot I)、7万~6万年前頃のドゥオイ・ウオイ(Duoi U’Oi)、38400~13500年前頃のタム・ハイ・マークロット(Tam Hay Marklot)の哺乳類動物相は、この期間の機能的(種の多様性と豊富さ)と構造(生態的地位の分布)両方で生態系大きな変化への、したがって新たな環境への人類の適応能力への重要な洞察を提供します。

 全体的に、アジア南東部の大陸部と島嶼部の規模では、中期更新世は古代型人類の居住と拡大に有利な開けた生息地の期間とみなされていますが、後期更新世は現生人類の拡散事象の時点での熱帯雨林のかくだいにより特徴づけられるので、二つの異なる適応戦略を明らかにするかもしれません。しかし、どのような環境がインドネシア半島の北方の緯度で広がっていたのか、疑問に思う人もいるかもしれません。本論文はこの背景を考慮して、デニソワ人と現生人類が地に宇井差対象地域に連続して居住した環境条件の記載を目的とし、少なくとも68000年前頃となる最古の現生人類の証拠(関連記事)とともに新たな拡張TPL年表を検討します。


●コブラ洞窟のデニソワ人と関連する動物相

 あらゆる標本のδ¹³C炭素源とδ¹⁸O燐灰石値は、補足添付資料S1にまとめられています。図2で示されているように、コブラ洞窟のδ¹³C炭素源値は−31.3~−11.9‰で、平均δ¹³C炭素源は−25.18±4.6‰(54点)です。コブラ洞窟遺跡のδ¹⁸O燐灰石値は−10.5~−2. 6‰で、平均δ¹⁸O燐灰石値は−6.7±2.0‰(54点)です。デニソワ人個体(TNH2-1)のδ¹³C炭素源値とδ¹⁸O燐灰石値は、それぞれ−16.3‰と−7.0‰です。以下は本論文の図2です。
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 コブラ洞窟(164000~131000年前頃)と他の遺跡(コク・ムオイ、タム・ハン・サウス、ナム・ロト、ドゥオイ・ウオイ、タム・ハイ・マークロット)ののδ¹³C炭素源値間の事後ダン検定の対での比較は、コク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)およびドゥオイ・ウオイ遺跡(7万~6万年前頃)のみとの有意な違いを論証します。コブラ洞窟のδ¹⁸O燐灰石値は他の動物相とは有意な違いを示しません。


●考察

 デニソワ洞窟(151000~128000年前頃となる主空洞の第19層~第17層)や白石崖溶洞(16万~10万年前頃)のような高緯度の生態系と、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)の中緯度生態系は、多様な草食動物集団を抱えています。それらには、旧北区対東洋区という、ひじょうに異なる環境条件に適応した大型動物が含まれています。この生物地理学的区分は、寒冷適応のマンモスおよびケブカサイと温暖適応のステゴドンおよびジャイアントパンダ属の動物相単位間の属水準での分類学的組成におけるわずかな共通性に反映されています。

 デニソワ人の生態系の生物多様性について、何が分かっているでしょうか?図2では、コブラ洞窟の緯度において、哺乳類種の大半(62%)が閉鎖林冠と関連しない(つまり、−27.2‰超)δ¹³C炭素源値を示しており、したがって、むしろ中間的で開けた森林からサバンナ環境までを反映している、と示されています。大型反芻動物つまり、大型のウシ属やルサジカ属は、この開けた景観でおもに採食していた哺乳類です。生態的地位の増加に起因する、中型反芻動物の生物多様性の増加も注目されます。ゴーラル属などの八木や他の中型のシカが、これらの開けた地域で草を食べていました。この生態系では、C₃林冠には他の地上に生息する草食動物(δ¹³C炭素源値が−27.2‰未満)が含まれており、その中には、1000kg超の大型草食動物、バク属、サイ(インドサイ属およびスマトラサイ属)、ステゴドン属がいますが、より開けた森林には、霊長目、マカク属、オランウータン属、イノシシ属、ジャイアントパンダ属、ヤマアラシ属が生息しています。インドシナ半島北部の緯度では、雷州(Leizhou)半島の花粉記録が、MIS6における主要な2期を明らかにしており、その後半は、イネ科の比較的高い割合により特徴づけられ、これは同じ期間のコブラ洞窟におけるサバンナの存在と一致します。

 アルタイ山脈の緯度では、環境指標も生物群系の混在を示しています。デニソワ洞窟第19層の下部(168000年前頃以降)から得られた花粉学的証拠は、旧北区圏の状況における比較的温暖な気候条件下の、温帯要素(ハンノキとリンデンとニレの混合を伴う、カバノキやマツ)で構成される森林のある川辺の低地と草原地帯環境を示唆しています。この種の環境では、ツンドラや草原地帯のような開けた景観では、含まれる生物量の大半が大型草食動物で、熱帯環境はその逆となります。デニソワ洞窟の堆積物DNAから、「マンモス」草原地帯は、ステップバイソンとともに草やスゲを好んで食べる非反芻グレーザー(ケブカサイやケナガマンモス)、草の多い草原およびその時点(デニソワ洞窟第19層)でとくに草の豊富な環境に適応した、広範囲のガゼル(チベットガゼル属やサイガ属)やヤギ属やヒツジ属に占められて、と示唆されています。デニソワ洞窟におけるシベリアアカシカ(Cervus elaphus)やウマの出現も、旧北区圏のこれらの種で行なわれた同位体調査により示唆されているように、灌木や樹木の存在を裏づけます。

 チベット高原とアルタイ山脈両方の動物相は、共通の旧北区起源を有しています(図1a)。現在、海抜3500m超の高地での生息に適応した大型草食動物の集団は、中型のシカ、アカシカ(シカ属)、シベリアノロジカ(ノロ属)、ガゼル(チベットガゼル属)やアルガリ(ヒツジ属)や(ゴーラル属)やカモシカ(カモシカ属)などの中型のウシ科と、唯一の大型ウシ科のヤク(ウシ属)から構成されています。白石崖溶洞の正確な場所では、山麓はさまざまな草やスゲや草本で構成される高山草原が優占しているのに対して、一部の森林地帯は河畔環境や山の斜面に存在します。白石崖溶洞の後期更新世堆積物のmtDNA解析から、デニソワ人は現在よりも豊かな草食動物集団の中で暮らしており、そこで優占していたのは、大型のウシ科やシカ科とともに、今では高地には存在しないサイ類やウマ類だった、と明らかになりました(関連記事)。

 したがって、温帯もしくは熱帯環境に居住していた既知のデニソワ人集団は、広範な草食動物に先行していたかもしれません。デニソワ洞窟と白石崖溶洞遺跡では、草食動物遺骸は豊富な旧石器時代の石器、および解体痕のある動物の骨により示唆されるヒトの活動の直接的証拠と関連して見つかってきました。類似の考古学的証拠がない場合、コブラ洞窟のデニソワ人個体のδ¹³C炭素源値をその食性の評価に使用できます。それは、開けた景観の植物および/もしくは動物の消費(δ¹³C炭素源=−16.3‰)を反映しています(図3)。コブラ洞窟周辺では、開けた景観は混食動物とグレーザー(ウシやヤギやシカ)の範囲拡大に有利で、そうした環境では多様化した大型の獲物が人類の捕食に曝されていました。これは、密集した林冠がその環境に存在していたものの、デニソワ人が近隣の森林の周縁での開けた地域で優先的採食していたことをもたらしたかもしれません。以下は本論文の図3です。
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 コブラ洞窟のデニソワ人個体の炭素同位体値を、すでに刊行されている近隣のTPL遺跡の現生人類個体(46000~43000年前頃)と比較すると、その結果は注目すべき違いを示します。TPL個体のデータ(δ¹³C炭素源=−26.4‰)は、おそらくは密集した林冠から得たC₃植物森林生物群系を優先的に選択する、食料獲得戦略を反映しています。さまざまなヤギ類(ゴーラルやカモシカ)やサイや大型ウシ科動物が、この生物群系と関連しています(図3)。2点のヤギ類の歯に基づいて、C₄植物のある開けた植生の点在も推測され、これは70000~33000年前頃陸生腹足類(Camaena massiei)の貝殻の同位体組成によりさらに裏づけられます。したがって、コブラ洞窟のデニソワ人個体とは逆に、TPLの現生人類はより森林に覆われた地域から得た食料を消費していました。

 熱帯の緯度における考古資料の不足と有機物の乏しい保存にも関わらず、今や7万年前頃までのアジアにおける現生人類による熱帯雨林居住の証拠があり(関連記事1および関連記事2)、45000年前頃の多様な環境への依存の根底にある証拠が増えつつあります(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら全ての遺跡から得られた現生人類のδ¹³C値は、C₃植物の森林およびC₄植物の開けた生物群系が近くに存在する同様の環境においてさまざまな行動を採用する、現生人類の能力を浮き彫りにします。このデータは、樹上性種の狩猟採集民や沿岸資源の使用や斑状および/もしくは開けた森林端環境の資源の機械的利用など、専門化を示唆します。

 46000年前頃となるTPLの現生人類と関連して、深い森林資源への依存は、植物の利用および処理(関連記事)と、罠や細石器や有機物で作った他の道具など多様な狩猟戦略の使用を示唆するでしょう。対照的に、コブラ洞窟のデニソワ人はジャワ島の古代型人類であるホモ・エレクトスと同様に、開けた環境への食性依存のみを示唆するδ¹³C値を示します。さらに、デニソワ人は多様な気候と生息地に適応しましたが(つまり、デニソワ洞窟や白石崖溶洞の高地から、コブラ洞窟の中緯度まで)草原および森林資源への依存は持続したようです。

 30万年前頃以降の現生人類の進化経路は、脳の構造とゲノム両方の再構成、およびネアンデルタール人やデニソワ人など他の同時代の大型脳の人類との比較における、脳の大きさの中程度の増加により特徴づけられます。先行研究はデニソワ人に存在しない現生人類の派生的なゲノムの特徴を同定し(関連記事)、ヒトの遺伝子におけるいくつかの置換が、脳機能もしくは神経系の発達、とくに現生人類におけるより大きなシナプス可塑性に重要な変化をもたらした、と示しました。それはアジア南東部の古環境データと一致しているようで、人類クレード(単系統群)内での独特な生態学的可塑性のおかげで、現生人類の拡大は生物群系固有の専門化への依存(デニソワ人もしくはホモ・エレクトスに対して)を含んでいた、と示唆されます(関連記事)。

 以前の分析で、地理的に近い一連の動物相におけるδ¹³C炭素源値(植生被覆)の顕著な変化に基づいて、中期~後期更新世の生態系は局所的に動的で多様だった、と明らかになりました。これは、バイオリン図の使用により図4で示されているように、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)の新たなデータで本論文において確証され、コク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)およびドゥオイ・ウオイ遺跡(7万~6万年前頃)との有意な違いのある統計的データによりさらに裏づけられます。全体的に、δ¹⁸O燐灰石値(降雨量の状況)は、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)からナム・ロト遺跡(86000~72000年前頃)にかけてのより高い値へと向かう傾向を示し、これは、ドゥオイ・ウオイ遺跡(7万~6万年前頃)およびタム・ハイ・マークロット遺跡(7万~6万年前頃)の記録により示唆されているように(ただ、統計的に有意ではありません)、7万年前頃以降の最終氷期における乾燥増加と関連している可能性が高い変化の前のことです。以下は本論文の図4です。
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 したがって、過去の環境の再構築を可能にすることで、たとえ発光年代測定により制約された動物相の年代順と、二次生成物記録から得られたより適切に年代順に制約された古気候兆候との間で、年表を相関させることが困難と明らかになってさえ、動物相同位体データは人類進化の外部要因の特定に役立てることができます。調査対象の地域と関連して、アジア東部の夏のモンスーンの強度の指標として最も近い中国の参照遺跡の二次生成物から得られたδ¹⁸O曲線と、各動物相から推測されたさまざまな生物群系と関連するδ¹³C炭素源値の分布の柱状図が用いられました(図5b)。以下は本論文の図5です。
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 本論文の結果は、気候変動に伴う熱帯雨林拡大の2回の繰り返しの事象を浮き彫りにします(図5b)。各事象は特異な出来事で、新たな植物の群落と構造につながりました(つまり、林冠と灌木と地面層の密度)。最初の事象は現生人類の拡散時期に起き、先行研究により説明されてきており、ナム・ロト遺跡(MIS5となる86000~72000年前頃)とドゥオイ・ウオイ遺跡(MIS4となる7万~6万年前頃)のホモ属種間の生物群系の分布における変化に基づいています(図5b・c)。全体的に、MIS5は強いモンスーンと降水量の多い期間で、斑状の生物群系と関連しています。

 それに続いたのが、MIS4の始まりにおけるモンスーン強度の急速な減少でした(図5a)。当時、急速な森林変化が、比較的寒冷な気候における温帯森林要素、とくに針葉樹の増加をもたらしました。これらの変化は新たな種類の灌木やシダや草本層も伴っており、それは狩猟採集民の移動や採食にとってより容易な森林をもたらした可能性が高そうです。この地域における現生人類の存在は最近、少なくとも68000年前頃となるTPLの拡張年表により確証されました(関連記事)。広範囲の熱帯雨林に居住する現生人類の能力に関するさらなる証拠は、スマトラ島のリダ・アジャー(Lida Ajer)洞窟(71000~68000年前頃)に由来します。この緯度では、ヒトは閉鎖林冠の優占する景観(同位体の動物相記録に基づきます)を利用し、その景観は現在のスマトラ島の赤道付近の森林とさほど変わりませんでした。

 さらに、ドゥオイ・ウオイ遺跡(MIS4となる7万~6万年前頃)とタム・ハイ・マークロット遺跡(MIS3~2となる38400~13500年前頃)との間の生物群系の分布の比較(図6)は、MIS4~2の環境変化がどれだけ劇的だったのか示し、この期間には、サバンナ回廊を通っての狩猟採集民の拡散が伴いました。ドゥオイ・ウオイ遺跡では、生物多様性が低く、閉鎖林冠の優占するこの生態系は、サンバー(61.3%)とホエジカに有利でした。タム・ハイ・マークロット遺跡は、景観が開けて、生物群系が多様化するにつれて、生態的地位の数の増加に起因して草食動物の多様性が増加した、と示しています。この生物多様性の獲得は、拡散事象を通じてのものだった可能性が最も高く、開けた地域で大規模な群で暮らすと知られているさまざまなシカ(17.2%)と、ヤギに関係しています。その相対的な豊富さは、タム・ロッド岩陰(Tham Lod Rockshelter)遺跡(3400~12000年前頃)の同じ位置でも観察されているように、草原の範囲とその重要な収容能力も示し、本論文のMIS6~5の動物相記録では観察されなかった独特な状態です。以下は本論文の図6です。
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 本論文では、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)とコク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)との間の生物群系の分布における変化により別の事象が初めて浮き彫りになり、これは古代型人類【非現生人類ホモ属】に局所的に影響を及ぼした可能性が高い期間です。コブラ洞窟はすでに、断片的な熱帯雨林とともにサバンナおよび森林サバンナの生物群系の存在に関する証拠を提供し、その年代範囲は比較的強いモンスーンのMIS6.3の期間と一致します。この環境は16万年前頃に確立し、その頃にはとくにイネ科とカヤツリグサ科で構成される草の多い地域が、ヨモギ属の草原を置換しました。コク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)における林冠生物群系の拡大により記録されている植生被覆におけるこの変化は、135500~129000年前頃となるより弱いモンスーンの間隔(Hulu/Sanbao記録におけるMIS6.2)と一致しているようです。この変化は、寒冷で比較的湿潤な状態を伴う低地における森林山地性要素の急激な出現と関連しているかもしれません。

 コブラ洞窟のデニソワ人個体の生計戦略を考えると、この寒冷事象は古代型人類【非現生人類ホモ属】の進化の推進要因となった可能性があるでしょうか?単一の個体から得られたデータが集団全体の生計戦略の多様性を局所的に反映できないならば、食資源のため混合景観から開けた景観に依存していた事実は、これらの生物群系が熱帯生態系においてこの古代型人類【デニソワ人】の移動性と定着に顕著な役割を果たしたかもしれない、との見解を裏づけます。これは、デニソワ人が熱帯雨林の拡大をもたらした13万年前頃の気候変化にどのように適応したのか、という問題を提起します。採食民はその行動の柔軟性に基づいて森林生物群系でのさまざまな課題に直面しており、古代型人類は密集した熱帯雨林の出現に応じて人口縮小を経たかもしれません。

 ホモ・エレクトスの歴史との類似を描くのは、魅力的です。ジャワ島では、サンギラン(Sangiran)遺跡から得られた80万年前頃の花粉記録は、草原の優占する景観の定着を説明していますが、熱帯雨林は高地や河川流域や沼地で深刻な断片化を経ました。ホモ・エレクトスはジャワ島で120万年前頃以降草原のある斑状の生息地で居住しましたが、80万年前頃となるこの植生変化は、アシューリアン(Acheulian、アシュール文化)的インダストリーの拡大とともに、人類遺骸の豊富さの増加と関連しており、この景観を好んだ可能性の高い人口集団が定着したのでしょう。

 その後の期間については、ホモ・エレクトスの発見されている54万~43万年前頃(関連記事)トリニールH.K.(Trinil H.K.)と、117000~108000年前頃(関連記事)となるガンドン(Ngandong)遺跡から得られた炭素同位体分析は、混合した森林とサバンナの環境を示唆します。これらのより低緯度では、大きな生物地理学的事象は、最大で120m低下した海水面から生じた、熱帯雨林に適応した動物相の拡散につながりました。これは、完全な現代のプヌン(Punung)動物相(128000~118000年前頃)によるガンドン古代動物相(117000~108000年前頃)の置換によって記録されていますが、13万年前頃のさらに北方への熱帯雨林拡大につながったこの気候事象との同時発性は、まだ論証されていません。ガンドンでも、ホモ・エレクトスの最後の存在が見られ(関連記事)、その消滅の直前となる、スンダランド(ジャワ島やスマトラ島やボルネオ島などがユーラシア大陸南東部と陸続きだった時代の陸域)におけるより適した地域での人口の範囲縮小という問題を提起します。


●まとめ

 本論文では、デニソワ人により居住された生態系は、温帯であれ熱帯であれ、開けた景観のかなりの区域のある混合植生被覆を共有していた、と浮き彫りになります。コブラ洞窟では、開けた信連とサバンナの存在が草食動物の高い多様性を促進し、シカ科やウシ科の範囲は分類群間の生態的地位の分割の増加を通じて、顕著に拡大しました。閉鎖的な森林地域の存在にも関わらず、デニソワ人は開けた景観もしくは森林の端で見える大型の獲物を優先的に標的にした可能性が高そうです。対照的に、本論文の結果から、同じ地域の初期現生人類は異なる生態的地位を有しており、それは少なくとも7万年前頃には熱帯雨林に依存しており、新たな行動技術の開発に起因する可能性が最も高い、と示唆されます。

 したがって、本論文の調査結果は、アジア南東部における人類進化の主要な駆動としての熱帯雨林の役割の可能性に関する議論と関連しており、熱帯雨林の拡大がデニソワ人にとって地域的な障壁として作用したのかどうか、という問題を提起します。最近のゲノム解析は、アジア南東部の更新世における相互と地理的に孤立した複数のデニソワ人集団を明らかにしています。熱帯雨林拡大の繰り返しの事象は、人類の進化を形成したこの人口縮小範囲において、重要な役割を果たしたかもしれません。


参考文献:
Bacon AM. et al.(2023): Palaeoenvironments and hominin evolutionary dynamics in southeast Asia. Scientific Reports, 13, 16165.
https://doi.org/10.1038/s41598-023-43011-2

https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_12.html

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