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デニソワ人と現生人類の混血

1:777 :

2024/01/13 (Sat) 07:58:07

雑記帳
2024年01月12日
アジア南東部の古環境と人類の進化
https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_12.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア南東部の古環境と人類の進化に関する研究(Bacon et al., 2023)が公表されました。本論文は、ラオスを中心にアジア南東部の古環境と、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)などの非現生人類(Homo sapiens)ホモ属や現生人類の進化との関連を検証しています。デニソワ人は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)から発見された人類遺骸で遺伝学的に特定された非現生人類ホモ属の分類群で、その他には、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された、16万年以上前と推定される右側下顎(夏河下顎骨)がプロテオーム(タンパク質の総体)解析に基づいて、ラオスのフアパン(Huà Pan)県に位置するタム・グ・ハオ2(Tam Ngu Hao 2、略してTNH2)で発見された人類の下顎大臼歯が、形態に基づいてデニソワ人に分類されています。タム・グ・ハオとは、「コブラ洞窟」という意味です。同じくフアパン県に位置するタムパリン(Tam Pa Ling、略してTPL)洞窟では、初期現生人類遺骸が発見されています。

 本論文は、高緯度のデニソワ人集団がツンドラや草原地帯を含む森林と開けた環境の混合で、アジア南東部のデニソワ人が開けた森林とサバンナで暮らしていた、と推測しています。また本論文は、現生人類のみが熱帯雨林の資源を利用できた可能性も指摘します。本論文はアジア南東部における13万年前頃の熱帯雨林の局所的拡大を示していますが、これにより、デニソワ人がこの局所的な気候変化にどのように適応したのか、という問題も提起しています。デニソワ人は、現生人類ほどではないかもしれませんが、かなり多様な環境に適応できたのかもしれません。なお、本論文で引用されているデニソワ人についての遺伝学的研究は、おおむね以前のデニソワ人に関するまとめで取り上げています。


●要約

 確実な環境状況は、人類の解釈と比較において重要です。ラオスのコブラ洞窟でのデニソワ人および関連する動物相の発見は164000~131000年前頃までさかのぼり、この(亜)熱帯遺跡と旧北区のデニソワ洞窟および中国の白石崖溶洞遺跡との間の環境比較を可能とします。高緯度のデニソワ人は、ツンドラや草原地帯を含む森林と開けた環境の混合で採食していました。コブラ洞窟遺骸群の安定同位体値を用いて、近隣の林冠の存在にも関わらず、コブラ洞窟のデニソワ人個体はおもに開けた森林とサバンナの植物および/もしくは動物を消費していた、と論証されます。動物相の証拠と気候の代理指標を用いての結果は、13万年前頃の熱帯雨林の局所的な拡大を浮き彫りにし、デニソワ人がこの局所的な気候変化にどのように対応したのか、という問題を提起します。ラオスの、コブラ洞窟の古代型人類と、タムパリン洞窟(46000~43000年前頃)の初期現生人類の植生と生息地を比較すると、現生人類のみが熱帯雨林の資源を利用できたようです。


●研究史

 デニソワ人は当初、ゲノムを通じて初めて特定され、そのゲノムはロシアのシベリア南部のデニソワ洞窟の一握りの指骨や歯や堆積物から抽出されました。それ以降、追加の証拠が部分的下顎の古代のタンパク質および形態や、チベット高原の白石崖溶洞の堆積物のDNAから明らかになってきました(図1)。中国北部の河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の侯家窰(Xujiayao)遺跡の一連の人類の歯(関連記事)や、台湾沖で発見された澎湖1号(Penghu 1)と呼ばれる下顎骨(関連記事)や、ホモ属の推定新種であるホモ・ロンギ(Homo longi)として知られる黒竜江省ハルビン市で発見された309000~138000年前頃と推定される頭蓋(関連記事)など、他の人口集団が、デニソワ人かもしれない、と示唆されてきました。最近、若い女性のデニソワ人の大臼歯がラオスのコブラ洞窟で発見され、その推定年代範囲は164000~131000年前頃で(関連記事)、その形態は白石崖溶洞の下顎と類似しています。以下は本論文の図1です。
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 古遺伝学的証拠から、デニソワ人は高地の低酸素環境で暮らす生理学的能力を有している、と示唆されています。この特徴は、16万年前頃から下限で6万年前頃まで(関連記事)のチベット高原の極限状態への適応から生じた可能性が高そうです。デニソワ人遺骸が発見された白石崖溶洞は海抜3280mの標高に位置しており、これはアルタイ山脈の山麓のデニソワ洞窟(海抜700m)もしくはラオス北東部のカルスト山脈に位置するコブラ洞窟よりずっと高くなっています。さらに、ニューギニアとインドネシア東部とフィリピンのマナンワ人(Mananwa)集団とオーストラリア先住民の現代の人口集団のゲノムにおけるデニソワ人DNAの高い割合の遺伝子移入から、デニソワ人はアジア南部および/もしくは南東部に存在した、と強く示唆されます。したがって、デニソワ人が発掘された遺跡の位置と年代推定値から、20万~5万年前頃に、デニソワ人はアルタイ山脈の温帯生息地からアジア南東部の熱帯生息地にまたがるさまざまな環境に適応した、と示唆されます。

 古代DNA解析から、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とデニソワ人と現生人類は中期~後期更新世においてユーラシアでの進化を通じて数回交雑した、と示唆されています。ネアンデルタール人と初期現生人類との間の主要な遺伝子流動事象はレヴァントで17万年以上前に起きた可能性が高い一方で、現代人へのネアンデルタール人からの遺伝的寄与は、6万~5万年前頃の後のアフリカからの現生人類拡散の時期に制約されます。同様に、デニソワ人は現在のメラネシアおよびオーストラレーシア(オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域)の人口集団の祖先のゲノムに4~6%ほど、アジア本土人およびアメリカ大陸先住民の祖先のゲノムに0.2%ほど寄与しました【上述のまとめで述べましたが、とくにメラネシアおよびオーストラレーシアの人口集団のゲノムにおけるデニソワ人由来領域の推定割合は、最近の研究ではもっと低くなっています】。アジアにおけるデニソワ人と現生人類との間の日宇雑事象の年代は、不明なままです。古ゲノム証拠から、交雑は5万年前頃にデニソワ人の分布の北方地域で起きた、と示唆されています(関連記事)。しかし、別の研究では、交雑は南方地域でもっと新しい年代に起きたかもしれない、と示唆されています(関連記事)。

 熱帯の緯度では、人類化石の少なさ、および化石と堆積物の両方からのDNA配列の回収の難しさを意味する高温湿潤条件が、デニソワ人と現生人類の人口史への取り組みにおいて課題となっています。コブラ洞窟での発見は、デニソワ人と低緯度熱帯環境との間の相互作用の調査への新たな機会を提供します。考古学的資料の不足は、熱帯雨林への適応可能性の直接的評価を制約しますが、安定同位体など地球化学的代理はデータの貴重な情報源を提供できます。動物組織は代謝し、その食性の同位体組成を取り込むか反映する、という原理に基づいて、歯のエナメル質の炭素(C)同位体分析は、古食性、したがって古環境に関する重要な情報を提供できます。さらに、反芻有蹄類分類群、つまりブラウザー(低木の葉や果実を食べるヤギやシカなどの採食動物)や混食動物やグレーザー(体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物)の広い生態学的範囲と、アジア南東部における気候変化への予測不可能な反応のため、唯一のそうした代理記録は、過去の生態系の構造、したがって異質性の水準を明らかにできます。これはとくに重要で、それは、更新世において、アジア南東部の環境は、閉鎖林冠から草原にまたがる連続的な変動を経た、生物群系の多様な範囲で構成されていたからです(関連記事)。

 本論文は、偶蹄目や奇蹄目や長鼻目や食肉目や霊長目や齧歯目といった哺乳類分類群と、コブラ洞窟のデニソワ人個体の広範囲の炭素(δ¹³C燐灰石)と酸素(δ¹⁸O)の同位体組成の最初の分析を提示し、その食性と生息地を記載します。デニソワ人の歯(TNH2-1)は、3.5~8.5歳の間に死亡した学童期(juvenile)の女性個体の発達中の、下顎第一大臼歯もしくはもっと可能性の高い第二大臼歯です。デニソワ人が離乳した年齢は不明ですが、その最近縁の分類群であるネアンデルタール人から得られた証拠は、現代人と類似した初期の離乳過程を示唆しています。したがって、TNH2-1の同位体値が歯冠の底で標本から得られた、という事実を考えると、コブラ洞窟の若い少女は集団の成人と同じ食べ物を摂取した可能性が高そうです。

 生体燐灰石のδ¹³C値は、C₃植物(樹木や灌木や低木や草)対C₄植物(イネ科の草やスゲ)と関連する値に基づく古食性、および各環境の調査に用いられます。次にも動物の食性におけるδ¹³C炭素源値が、δ¹³C燐灰石から計算され、閉鎖林冠のような部分的分割生物群系を含めて、調査対象期間のこれらの同位体的に異なる炭素源の割合がより正確に調べられました。δ¹⁸O値は、非生物的条件(降水量の緯度や気候や温度や湿度の内容と量や同位体組成およびその称号)の差異と関連する古生態学的情報への寄与に用いられました。したがって、これらは直接的にδ¹³C値を補完し、過去の状態への追加の洞察を提供します。

 海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)6(19万~13万年前頃)における温帯地域対熱帯地域でのデニソワ人の環境を調べるため、動物相から推測された生息地およびコブラ洞窟から得られた同位体記録が、同じ期間のデニソワ洞窟(主空洞の第19層~第17層、151000±17000~128000±13000年前)から得られた動物相および花粉の証拠から推測されたもの(関連記事)と比較されました。12万年前頃までジャワ島に存在した(関連記事)他のアジアの人類であるホモ・エレクトス(Homo erectus)の生息地が評価され、デニソワ人とホモ・エレクトスの生態的地位がどの程度同等なのか、問われました。過去20年間のいくつかの研究は、インドネシアのホモ・エレクトスの生態的地位の輪郭を洗練しており、それは明らかに低地の開けた生息地でした(関連記事)。

 さらに、コブラ洞窟のデニソワ人とその地域の最古の現生人類との間で生息地と食性を比較する試みにおいて、TPL洞窟の利用可能なデータが用いられ、コブラ洞窟とTPL洞窟は300mほど離れています(図1)。TPLから得られた同位体データには、33000年前頃以前、つまり最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)状態の定着前の堆積物区画で回収された、現生人類個体(TPL-1、46000~43000年前頃の若い成人の部分的頭蓋の上顎左側大臼歯)と一握りの草食動物(偶蹄類と奇蹄類)の歯が含まれます。先行研究では、森林の多い生息地で採食していた、と記録されてきました。

 第二段階では、コブラ洞窟かに得られた炭素と酸素の動物相記録を、ベトナム北部とラオスの同等の構成の中期~後期更新世の一連の5分類群の動物相(偶蹄目、奇蹄目、長鼻目、食肉目、霊長目、齧歯目)とともに用いて、局所的に古環境を変化させた大規模な気候変動が確認されました。したがって、不連続で斑状の記録にも関わらず、164000~131000年前頃のコブラ洞窟、148000~117000年前頃のコク・ムオイ(Coc Muoi)、94000~60000年前頃のタム・ハン・サウス(Tam Hang South )、86000~72000年前頃のナム・ロト・1(Nam Lot I)、7万~6万年前頃のドゥオイ・ウオイ(Duoi U’Oi)、38400~13500年前頃のタム・ハイ・マークロット(Tam Hay Marklot)の哺乳類動物相は、この期間の機能的(種の多様性と豊富さ)と構造(生態的地位の分布)両方で生態系大きな変化への、したがって新たな環境への人類の適応能力への重要な洞察を提供します。

 全体的に、アジア南東部の大陸部と島嶼部の規模では、中期更新世は古代型人類の居住と拡大に有利な開けた生息地の期間とみなされていますが、後期更新世は現生人類の拡散事象の時点での熱帯雨林のかくだいにより特徴づけられるので、二つの異なる適応戦略を明らかにするかもしれません。しかし、どのような環境がインドネシア半島の北方の緯度で広がっていたのか、疑問に思う人もいるかもしれません。本論文はこの背景を考慮して、デニソワ人と現生人類が地に宇井差対象地域に連続して居住した環境条件の記載を目的とし、少なくとも68000年前頃となる最古の現生人類の証拠(関連記事)とともに新たな拡張TPL年表を検討します。


●コブラ洞窟のデニソワ人と関連する動物相

 あらゆる標本のδ¹³C炭素源とδ¹⁸O燐灰石値は、補足添付資料S1にまとめられています。図2で示されているように、コブラ洞窟のδ¹³C炭素源値は−31.3~−11.9‰で、平均δ¹³C炭素源は−25.18±4.6‰(54点)です。コブラ洞窟遺跡のδ¹⁸O燐灰石値は−10.5~−2. 6‰で、平均δ¹⁸O燐灰石値は−6.7±2.0‰(54点)です。デニソワ人個体(TNH2-1)のδ¹³C炭素源値とδ¹⁸O燐灰石値は、それぞれ−16.3‰と−7.0‰です。以下は本論文の図2です。
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 コブラ洞窟(164000~131000年前頃)と他の遺跡(コク・ムオイ、タム・ハン・サウス、ナム・ロト、ドゥオイ・ウオイ、タム・ハイ・マークロット)ののδ¹³C炭素源値間の事後ダン検定の対での比較は、コク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)およびドゥオイ・ウオイ遺跡(7万~6万年前頃)のみとの有意な違いを論証します。コブラ洞窟のδ¹⁸O燐灰石値は他の動物相とは有意な違いを示しません。


●考察

 デニソワ洞窟(151000~128000年前頃となる主空洞の第19層~第17層)や白石崖溶洞(16万~10万年前頃)のような高緯度の生態系と、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)の中緯度生態系は、多様な草食動物集団を抱えています。それらには、旧北区対東洋区という、ひじょうに異なる環境条件に適応した大型動物が含まれています。この生物地理学的区分は、寒冷適応のマンモスおよびケブカサイと温暖適応のステゴドンおよびジャイアントパンダ属の動物相単位間の属水準での分類学的組成におけるわずかな共通性に反映されています。

 デニソワ人の生態系の生物多様性について、何が分かっているでしょうか?図2では、コブラ洞窟の緯度において、哺乳類種の大半(62%)が閉鎖林冠と関連しない(つまり、−27.2‰超)δ¹³C炭素源値を示しており、したがって、むしろ中間的で開けた森林からサバンナ環境までを反映している、と示されています。大型反芻動物つまり、大型のウシ属やルサジカ属は、この開けた景観でおもに採食していた哺乳類です。生態的地位の増加に起因する、中型反芻動物の生物多様性の増加も注目されます。ゴーラル属などの八木や他の中型のシカが、これらの開けた地域で草を食べていました。この生態系では、C₃林冠には他の地上に生息する草食動物(δ¹³C炭素源値が−27.2‰未満)が含まれており、その中には、1000kg超の大型草食動物、バク属、サイ(インドサイ属およびスマトラサイ属)、ステゴドン属がいますが、より開けた森林には、霊長目、マカク属、オランウータン属、イノシシ属、ジャイアントパンダ属、ヤマアラシ属が生息しています。インドシナ半島北部の緯度では、雷州(Leizhou)半島の花粉記録が、MIS6における主要な2期を明らかにしており、その後半は、イネ科の比較的高い割合により特徴づけられ、これは同じ期間のコブラ洞窟におけるサバンナの存在と一致します。

 アルタイ山脈の緯度では、環境指標も生物群系の混在を示しています。デニソワ洞窟第19層の下部(168000年前頃以降)から得られた花粉学的証拠は、旧北区圏の状況における比較的温暖な気候条件下の、温帯要素(ハンノキとリンデンとニレの混合を伴う、カバノキやマツ)で構成される森林のある川辺の低地と草原地帯環境を示唆しています。この種の環境では、ツンドラや草原地帯のような開けた景観では、含まれる生物量の大半が大型草食動物で、熱帯環境はその逆となります。デニソワ洞窟の堆積物DNAから、「マンモス」草原地帯は、ステップバイソンとともに草やスゲを好んで食べる非反芻グレーザー(ケブカサイやケナガマンモス)、草の多い草原およびその時点(デニソワ洞窟第19層)でとくに草の豊富な環境に適応した、広範囲のガゼル(チベットガゼル属やサイガ属)やヤギ属やヒツジ属に占められて、と示唆されています。デニソワ洞窟におけるシベリアアカシカ(Cervus elaphus)やウマの出現も、旧北区圏のこれらの種で行なわれた同位体調査により示唆されているように、灌木や樹木の存在を裏づけます。

 チベット高原とアルタイ山脈両方の動物相は、共通の旧北区起源を有しています(図1a)。現在、海抜3500m超の高地での生息に適応した大型草食動物の集団は、中型のシカ、アカシカ(シカ属)、シベリアノロジカ(ノロ属)、ガゼル(チベットガゼル属)やアルガリ(ヒツジ属)や(ゴーラル属)やカモシカ(カモシカ属)などの中型のウシ科と、唯一の大型ウシ科のヤク(ウシ属)から構成されています。白石崖溶洞の正確な場所では、山麓はさまざまな草やスゲや草本で構成される高山草原が優占しているのに対して、一部の森林地帯は河畔環境や山の斜面に存在します。白石崖溶洞の後期更新世堆積物のmtDNA解析から、デニソワ人は現在よりも豊かな草食動物集団の中で暮らしており、そこで優占していたのは、大型のウシ科やシカ科とともに、今では高地には存在しないサイ類やウマ類だった、と明らかになりました(関連記事)。

 したがって、温帯もしくは熱帯環境に居住していた既知のデニソワ人集団は、広範な草食動物に先行していたかもしれません。デニソワ洞窟と白石崖溶洞遺跡では、草食動物遺骸は豊富な旧石器時代の石器、および解体痕のある動物の骨により示唆されるヒトの活動の直接的証拠と関連して見つかってきました。類似の考古学的証拠がない場合、コブラ洞窟のデニソワ人個体のδ¹³C炭素源値をその食性の評価に使用できます。それは、開けた景観の植物および/もしくは動物の消費(δ¹³C炭素源=−16.3‰)を反映しています(図3)。コブラ洞窟周辺では、開けた景観は混食動物とグレーザー(ウシやヤギやシカ)の範囲拡大に有利で、そうした環境では多様化した大型の獲物が人類の捕食に曝されていました。これは、密集した林冠がその環境に存在していたものの、デニソワ人が近隣の森林の周縁での開けた地域で優先的採食していたことをもたらしたかもしれません。以下は本論文の図3です。
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 コブラ洞窟のデニソワ人個体の炭素同位体値を、すでに刊行されている近隣のTPL遺跡の現生人類個体(46000~43000年前頃)と比較すると、その結果は注目すべき違いを示します。TPL個体のデータ(δ¹³C炭素源=−26.4‰)は、おそらくは密集した林冠から得たC₃植物森林生物群系を優先的に選択する、食料獲得戦略を反映しています。さまざまなヤギ類(ゴーラルやカモシカ)やサイや大型ウシ科動物が、この生物群系と関連しています(図3)。2点のヤギ類の歯に基づいて、C₄植物のある開けた植生の点在も推測され、これは70000~33000年前頃陸生腹足類(Camaena massiei)の貝殻の同位体組成によりさらに裏づけられます。したがって、コブラ洞窟のデニソワ人個体とは逆に、TPLの現生人類はより森林に覆われた地域から得た食料を消費していました。

 熱帯の緯度における考古資料の不足と有機物の乏しい保存にも関わらず、今や7万年前頃までのアジアにおける現生人類による熱帯雨林居住の証拠があり(関連記事1および関連記事2)、45000年前頃の多様な環境への依存の根底にある証拠が増えつつあります(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら全ての遺跡から得られた現生人類のδ¹³C値は、C₃植物の森林およびC₄植物の開けた生物群系が近くに存在する同様の環境においてさまざまな行動を採用する、現生人類の能力を浮き彫りにします。このデータは、樹上性種の狩猟採集民や沿岸資源の使用や斑状および/もしくは開けた森林端環境の資源の機械的利用など、専門化を示唆します。

 46000年前頃となるTPLの現生人類と関連して、深い森林資源への依存は、植物の利用および処理(関連記事)と、罠や細石器や有機物で作った他の道具など多様な狩猟戦略の使用を示唆するでしょう。対照的に、コブラ洞窟のデニソワ人はジャワ島の古代型人類であるホモ・エレクトスと同様に、開けた環境への食性依存のみを示唆するδ¹³C値を示します。さらに、デニソワ人は多様な気候と生息地に適応しましたが(つまり、デニソワ洞窟や白石崖溶洞の高地から、コブラ洞窟の中緯度まで)草原および森林資源への依存は持続したようです。

 30万年前頃以降の現生人類の進化経路は、脳の構造とゲノム両方の再構成、およびネアンデルタール人やデニソワ人など他の同時代の大型脳の人類との比較における、脳の大きさの中程度の増加により特徴づけられます。先行研究はデニソワ人に存在しない現生人類の派生的なゲノムの特徴を同定し(関連記事)、ヒトの遺伝子におけるいくつかの置換が、脳機能もしくは神経系の発達、とくに現生人類におけるより大きなシナプス可塑性に重要な変化をもたらした、と示しました。それはアジア南東部の古環境データと一致しているようで、人類クレード(単系統群)内での独特な生態学的可塑性のおかげで、現生人類の拡大は生物群系固有の専門化への依存(デニソワ人もしくはホモ・エレクトスに対して)を含んでいた、と示唆されます(関連記事)。

 以前の分析で、地理的に近い一連の動物相におけるδ¹³C炭素源値(植生被覆)の顕著な変化に基づいて、中期~後期更新世の生態系は局所的に動的で多様だった、と明らかになりました。これは、バイオリン図の使用により図4で示されているように、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)の新たなデータで本論文において確証され、コク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)およびドゥオイ・ウオイ遺跡(7万~6万年前頃)との有意な違いのある統計的データによりさらに裏づけられます。全体的に、δ¹⁸O燐灰石値(降雨量の状況)は、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)からナム・ロト遺跡(86000~72000年前頃)にかけてのより高い値へと向かう傾向を示し、これは、ドゥオイ・ウオイ遺跡(7万~6万年前頃)およびタム・ハイ・マークロット遺跡(7万~6万年前頃)の記録により示唆されているように(ただ、統計的に有意ではありません)、7万年前頃以降の最終氷期における乾燥増加と関連している可能性が高い変化の前のことです。以下は本論文の図4です。
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 したがって、過去の環境の再構築を可能にすることで、たとえ発光年代測定により制約された動物相の年代順と、二次生成物記録から得られたより適切に年代順に制約された古気候兆候との間で、年表を相関させることが困難と明らかになってさえ、動物相同位体データは人類進化の外部要因の特定に役立てることができます。調査対象の地域と関連して、アジア東部の夏のモンスーンの強度の指標として最も近い中国の参照遺跡の二次生成物から得られたδ¹⁸O曲線と、各動物相から推測されたさまざまな生物群系と関連するδ¹³C炭素源値の分布の柱状図が用いられました(図5b)。以下は本論文の図5です。
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 本論文の結果は、気候変動に伴う熱帯雨林拡大の2回の繰り返しの事象を浮き彫りにします(図5b)。各事象は特異な出来事で、新たな植物の群落と構造につながりました(つまり、林冠と灌木と地面層の密度)。最初の事象は現生人類の拡散時期に起き、先行研究により説明されてきており、ナム・ロト遺跡(MIS5となる86000~72000年前頃)とドゥオイ・ウオイ遺跡(MIS4となる7万~6万年前頃)のホモ属種間の生物群系の分布における変化に基づいています(図5b・c)。全体的に、MIS5は強いモンスーンと降水量の多い期間で、斑状の生物群系と関連しています。

 それに続いたのが、MIS4の始まりにおけるモンスーン強度の急速な減少でした(図5a)。当時、急速な森林変化が、比較的寒冷な気候における温帯森林要素、とくに針葉樹の増加をもたらしました。これらの変化は新たな種類の灌木やシダや草本層も伴っており、それは狩猟採集民の移動や採食にとってより容易な森林をもたらした可能性が高そうです。この地域における現生人類の存在は最近、少なくとも68000年前頃となるTPLの拡張年表により確証されました(関連記事)。広範囲の熱帯雨林に居住する現生人類の能力に関するさらなる証拠は、スマトラ島のリダ・アジャー(Lida Ajer)洞窟(71000~68000年前頃)に由来します。この緯度では、ヒトは閉鎖林冠の優占する景観(同位体の動物相記録に基づきます)を利用し、その景観は現在のスマトラ島の赤道付近の森林とさほど変わりませんでした。

 さらに、ドゥオイ・ウオイ遺跡(MIS4となる7万~6万年前頃)とタム・ハイ・マークロット遺跡(MIS3~2となる38400~13500年前頃)との間の生物群系の分布の比較(図6)は、MIS4~2の環境変化がどれだけ劇的だったのか示し、この期間には、サバンナ回廊を通っての狩猟採集民の拡散が伴いました。ドゥオイ・ウオイ遺跡では、生物多様性が低く、閉鎖林冠の優占するこの生態系は、サンバー(61.3%)とホエジカに有利でした。タム・ハイ・マークロット遺跡は、景観が開けて、生物群系が多様化するにつれて、生態的地位の数の増加に起因して草食動物の多様性が増加した、と示しています。この生物多様性の獲得は、拡散事象を通じてのものだった可能性が最も高く、開けた地域で大規模な群で暮らすと知られているさまざまなシカ(17.2%)と、ヤギに関係しています。その相対的な豊富さは、タム・ロッド岩陰(Tham Lod Rockshelter)遺跡(3400~12000年前頃)の同じ位置でも観察されているように、草原の範囲とその重要な収容能力も示し、本論文のMIS6~5の動物相記録では観察されなかった独特な状態です。以下は本論文の図6です。
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 本論文では、コブラ洞窟(164000~131000年前頃)とコク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)との間の生物群系の分布における変化により別の事象が初めて浮き彫りになり、これは古代型人類【非現生人類ホモ属】に局所的に影響を及ぼした可能性が高い期間です。コブラ洞窟はすでに、断片的な熱帯雨林とともにサバンナおよび森林サバンナの生物群系の存在に関する証拠を提供し、その年代範囲は比較的強いモンスーンのMIS6.3の期間と一致します。この環境は16万年前頃に確立し、その頃にはとくにイネ科とカヤツリグサ科で構成される草の多い地域が、ヨモギ属の草原を置換しました。コク・ムオイ遺跡(148000~117000年前頃)における林冠生物群系の拡大により記録されている植生被覆におけるこの変化は、135500~129000年前頃となるより弱いモンスーンの間隔(Hulu/Sanbao記録におけるMIS6.2)と一致しているようです。この変化は、寒冷で比較的湿潤な状態を伴う低地における森林山地性要素の急激な出現と関連しているかもしれません。

 コブラ洞窟のデニソワ人個体の生計戦略を考えると、この寒冷事象は古代型人類【非現生人類ホモ属】の進化の推進要因となった可能性があるでしょうか?単一の個体から得られたデータが集団全体の生計戦略の多様性を局所的に反映できないならば、食資源のため混合景観から開けた景観に依存していた事実は、これらの生物群系が熱帯生態系においてこの古代型人類【デニソワ人】の移動性と定着に顕著な役割を果たしたかもしれない、との見解を裏づけます。これは、デニソワ人が熱帯雨林の拡大をもたらした13万年前頃の気候変化にどのように適応したのか、という問題を提起します。採食民はその行動の柔軟性に基づいて森林生物群系でのさまざまな課題に直面しており、古代型人類は密集した熱帯雨林の出現に応じて人口縮小を経たかもしれません。

 ホモ・エレクトスの歴史との類似を描くのは、魅力的です。ジャワ島では、サンギラン(Sangiran)遺跡から得られた80万年前頃の花粉記録は、草原の優占する景観の定着を説明していますが、熱帯雨林は高地や河川流域や沼地で深刻な断片化を経ました。ホモ・エレクトスはジャワ島で120万年前頃以降草原のある斑状の生息地で居住しましたが、80万年前頃となるこの植生変化は、アシューリアン(Acheulian、アシュール文化)的インダストリーの拡大とともに、人類遺骸の豊富さの増加と関連しており、この景観を好んだ可能性の高い人口集団が定着したのでしょう。

 その後の期間については、ホモ・エレクトスの発見されている54万~43万年前頃(関連記事)トリニールH.K.(Trinil H.K.)と、117000~108000年前頃(関連記事)となるガンドン(Ngandong)遺跡から得られた炭素同位体分析は、混合した森林とサバンナの環境を示唆します。これらのより低緯度では、大きな生物地理学的事象は、最大で120m低下した海水面から生じた、熱帯雨林に適応した動物相の拡散につながりました。これは、完全な現代のプヌン(Punung)動物相(128000~118000年前頃)によるガンドン古代動物相(117000~108000年前頃)の置換によって記録されていますが、13万年前頃のさらに北方への熱帯雨林拡大につながったこの気候事象との同時発性は、まだ論証されていません。ガンドンでも、ホモ・エレクトスの最後の存在が見られ(関連記事)、その消滅の直前となる、スンダランド(ジャワ島やスマトラ島やボルネオ島などがユーラシア大陸南東部と陸続きだった時代の陸域)におけるより適した地域での人口の範囲縮小という問題を提起します。


●まとめ

 本論文では、デニソワ人により居住された生態系は、温帯であれ熱帯であれ、開けた景観のかなりの区域のある混合植生被覆を共有していた、と浮き彫りになります。コブラ洞窟では、開けた信連とサバンナの存在が草食動物の高い多様性を促進し、シカ科やウシ科の範囲は分類群間の生態的地位の分割の増加を通じて、顕著に拡大しました。閉鎖的な森林地域の存在にも関わらず、デニソワ人は開けた景観もしくは森林の端で見える大型の獲物を優先的に標的にした可能性が高そうです。対照的に、本論文の結果から、同じ地域の初期現生人類は異なる生態的地位を有しており、それは少なくとも7万年前頃には熱帯雨林に依存しており、新たな行動技術の開発に起因する可能性が最も高い、と示唆されます。

 したがって、本論文の調査結果は、アジア南東部における人類進化の主要な駆動としての熱帯雨林の役割の可能性に関する議論と関連しており、熱帯雨林の拡大がデニソワ人にとって地域的な障壁として作用したのかどうか、という問題を提起します。最近のゲノム解析は、アジア南東部の更新世における相互と地理的に孤立した複数のデニソワ人集団を明らかにしています。熱帯雨林拡大の繰り返しの事象は、人類の進化を形成したこの人口縮小範囲において、重要な役割を果たしたかもしれません。


参考文献:
Bacon AM. et al.(2023): Palaeoenvironments and hominin evolutionary dynamics in southeast Asia. Scientific Reports, 13, 16165.
https://doi.org/10.1038/s41598-023-43011-2

https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_12.html
2:777 :

2024/05/30 (Thu) 08:39:58

日本人にも影響を与えた謎の種『デニソワ人』とは?これまで解明された真相を徹底解説!
世界ミステリーch 2024/05/29
https://www.youtube.com/watch?v=kkCZbAkSkcs

デニソワ人とはなんなのか?
現生人類にも影響を与えた古代の人類の近縁種デニソワ人。
これまでの研究で分かっていることを徹底解説します!
3:777 :

2024/11/21 (Thu) 17:08:29

ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程/日本人の起源/アフリカ単一起源説~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル 2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ

古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。

人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
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交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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LEMURIA CH/レムリア・チャンネル - YouTube
https://www.youtube.com/@lemuriach3391/videos
https://www.youtube.com/@lemuriach3391/playlists



人類誕生の謎を徹底解説します【ホモ・サピエンス総集編】
世界ミステリーch 2024/09/07
https://www.youtube.com/watch?v=OmvKtwjiA28

この動画は、これまでお送りしたホモ・サピエンスについての総集編となっております。
最新研究も含め、人類の謎でもあるホモ・サピエンス誕生や当時の背景などを知ってください!

■チャプター■
00:00 スタート
0:13 アフリカ単一起源説が崩壊するかもしれない!?最新の研究で分かった人類の起源は〇〇だった?
8:51 出アフリカルートの謎が明らかに!ホモ・サピエンスはどう旅をしたのか?
17:50 出アフリカが大きな分岐点!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの運命が決まった分かれ道とは?
28:27 定説が覆る?ホモ・サピエンスは異種族との交雑で生まれた!
38:38 ホモ・サピエンス誕生の最新考察!ホモ・サピエンスの誕生の定説が大きく変わる!?
47:01 人類最大の謎!ホモ・サピエンスはどこからきたのか?人類誕生と進化の謎に迫ります!
59:55 ホモ・サピエンスは最強の人類として生き残った!ホモ・サピエンスが手に入れたものとはなんだったのか?
1:10:49 農業が人類を狂わせてしまったのか?農耕生活が始まり何が起こったのかを徹底解説!
1:22:36 ホモ・サピエンスはなぜアフリカで生まれ、いつネアンデルタール人に出会ったのか?



ネアンデルタール人の最新研究で新事実も分かってきています【総集編】
世界ミステリーch 2024/09/12
https://www.youtube.com/watch?v=eVF1HCXDDR4&t=16s

この動画は、これまでお送りしたネアンデルタール人についての総集編となっております。
ネアンデルタール人についての研究はどんどんアップデートされ、新事実も分かってきています。
最新研究も含め、ネアンデルタール人の誕生や当時の背景などを知ってください!

■チャプター■
00:00 スタート
0:11 ネアンデルタール人と現生人類のつながりを解明!大きい鼻の謎に迫る!
9:02 出アフリカが大きな分岐点!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの運命が決まった分かれ道とは?
19:40 ネアンデルタール人の狩り能力が凄すぎた!狩りから分かるネアンデルタール人の新事実!
29:01 ネアンデルタール人の頭の良さが最新の研究で判明!人間並か?それ以上か?
35:53 【最新の科学】ネアンデルタール人研究の新展開が見えてきた!
44:45 人ホモ・サピエンスはなぜアフリカで生まれ、いつネアンデルタール人に出会ったのか?




世界ミステリーch _ ネアンデルタール人の頭蓋骨から『顔』が復元された
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16854610

レベッカ・ウラグ・サイクス著『ネアンデルタール』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14056986

ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の関係
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14095189

4代前にネアンデルタール人の親、初期人類で判明
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/620.html

日本人はネアンデルタール人の生き残り?
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/105.html

2024年4月18日 理化学研究所
全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴
-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
4:777 :

2024/11/23 (Sat) 08:30:24

人類誕生の謎を徹底解説します【ホモ・サピエンス総集編】
世界ミステリーch 2024/09/07
https://www.youtube.com/watch?v=OmvKtwjiA28&t=182s

この動画は、これまでお送りしたホモ・サピエンスについての総集編となっております。
最新研究も含め、人類の謎でもあるホモ・サピエンス誕生や当時の背景などを知ってください!

■チャプター■
00:00 スタート
0:13 アフリカ単一起源説が崩壊するかもしれない!?最新の研究で分かった人類の起源は〇〇だった?
8:51 出アフリカルートの謎が明らかに!ホモ・サピエンスはどう旅をしたのか?
17:50 出アフリカが大きな分岐点!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの運命が決まった分かれ道とは?
28:27 定説が覆る?ホモ・サピエンスは異種族との交雑で生まれた!
38:38 ホモ・サピエンス誕生の最新考察!ホモ・サピエンスの誕生の定説が大きく変わる!?
47:01 人類最大の謎!ホモ・サピエンスはどこからきたのか?人類誕生と進化の謎に迫ります!
59:55 ホモ・サピエンスは最強の人類として生き残った!ホモ・サピエンスが手に入れたものとはなんだったのか?
1:10:49 農業が人類を狂わせてしまったのか?農耕生活が始まり何が起こったのかを徹底解説!
1:22:36 ホモ・サピエンスはなぜアフリカで生まれ、いつネアンデルタール人に出会ったのか?
5:777 :

2024/12/26 (Thu) 08:41:44

【まだ教科書にない人類のルーツ】ノーベル賞「ゲノム研究」でわかった人類史/ネアンデルタール人とホモサピエンスは「子供」を作っていた/謎の人類デニソワ人/国立科学博物館館長・分子人類学者篠田謙一氏に聞く
プレジデント 公式チャンネル 2024/12/24
https://www.youtube.com/watch?v=yxFnu9-KcP0&t=0s

0:00 そもそも人類学とは何か
5:07 ゲノム解析で生物学に変化が
8:10 人類史が書き換えられた!?
12:59 ネアンデルタール人のDNA
17:48 謎の人類「デニソワ人」
20:22 6万年前にアフリカを出発
23:52アメリカへはいつ行ったか
27:05ホモサピエンスは虚構を作る?


【9割は「外来種」日本人のDNA】縄文人と弥生人は違う種だった?/人類は1万年前よりバカになっている?/沖縄3割・アイヌ7割「日本人の二重構造モデル」/国立科学博物館館長・分子人類学者篠田謙一氏に聞く
https://www.youtube.com/watch?v=E1j7w3eBrBs&t=0s

0:00 日本人は大陸からやってきた
5:27 弥生時代は混血の時代?
9:21 縄文人と弥生人は何が違うか
13:09 人類の脳容積は減っている?
17:09 我々はどっちの方向へ行くのか
21:13 日本人の「二重構造モデル」
24:30 邪馬台国はどこにあったか
29:44 日本人とは何なのか?

▼出演者
篠田謙一|国立科学博物館館長 1955年生まれ。京都大学理学部卒業。79年産業医科大学解剖学講座助手。86年佐賀医科大学解剖学講座助手。94年講師。96年助教授。2003年国立科学博物館人類第一研究室室長。09年同人類史研究グループ長。21年より 現職。医学博士。専門は分子人類学。著書に『人類の起源』『日本人になった祖先たち』 等。
6:777 :

2025/04/11 (Fri) 08:54:52

台湾で発見された化石を分析、古代の謎の旧人「デニソワ人」と判明…日本などの国際研究チーム
2025/04/11
https://www.yomiuri.co.jp/science/20250410-OYT1T50208/?utm_source=newsshowcase&utm_medium=gnews&utm_campaign=CDAqEAgAKgcICjDX194KMOi01gEw2YDAAw&utm_content=rundown&gaa_at=g&gaa_n=AerBZYOf6hms9Zf_wf0auWVnjW_jlvMQNuFpNET2ks9l4Zz6joVPYfDNdX14YZ9gQJZX1RHVNiL2MmkJRYSlPXtApM9nPT6hbZJMwnw%3D&gaa_ts=67f864f4&gaa_sig=fGY_URlGRT_H2rA-TvTH4REX6AkmD1mBU2_5rOd8lU8zXz28pz9DeuqqGuDzAwu44596DV6d4T5g-sEFlc3SgQ%3D%3D

 台湾で発見された化石を最新の技術で分析した結果、古代の謎の旧人「デニソワ人」の男性のものと判明したと、総合研究大学院大などの国際研究チームが発表した。デニソワ人の骨はほとんど見つかっておらず、アジア北部以外で化石が見つかったのは初めて。論文が科学誌サイエンスに掲載される。

研究チームによるデニソワ人の想像図(孫正涵氏作画)
 デニソワ人は、中国に近いシベリア南部のデニソワ洞窟で指の骨の化石が見つかり、DNA分析により2010年に存在が証明された。化石はチベットでも見つかっており、ネアンデルタール人と同じ旧人に属する。数万年前に現生人類(ホモ・サピエンス)と交雑したと考えられている。その後絶滅したが、日本人を含む現生人類のDNAにもわずかに遺伝情報が残っている。

 総合研究大学院大の 蔦谷匠つたやたくみ 助教(自然人類学)らは台湾沖の海底で発見された下顎の骨の化石から微量のたんぱく質を採取し、分析した。2種類のたんぱく質について、デニソワ人に特有の配列が確認され、特定に至った。歯からは男性特有のたんぱく質も検出された。時期は19万~1万年前と推定され、大きくて頑丈な形状が特徴という。

デニソワ人と判明した下顎の骨の化石(海部教授提供)
 分布域がより南方に広がっていたことを示す発見で、チームの海部陽介・東京大総合研究博物館教授(人類進化学)は「アジアにおける人類の歴史が、これまで考えられたよりも複雑だった可能性がある」と話している。これまで、この骨は北京原人やジャワ原人、フローレス原人に続く「アジアで4番目の原人」のものとみられていた。

  国立科学博物館の篠田謙一館長(分子人類学)の話
「現代人のゲノム解析でアジア南東部にもデニソワ人が分布していたことは予想されてきたが、今回初めて証拠を提示したことは意義深い」
https://www.yomiuri.co.jp/science/20250410-OYT1T50208/?utm_source=newsshowcase&utm_medium=gnews&utm_campaign=CDAqEAgAKgcICjDX194KMOi01gEw2YDAAw&utm_content=rundown&gaa_at=g&gaa_n=AerBZYOf6hms9Zf_wf0auWVnjW_jlvMQNuFpNET2ks9l4Zz6joVPYfDNdX14YZ9gQJZX1RHVNiL2MmkJRYSlPXtApM9nPT6hbZJMwnw%3D&gaa_ts=67f864f4&gaa_sig=fGY_URlGRT_H2rA-TvTH4REX6AkmD1mBU2_5rOd8lU8zXz28pz9DeuqqGuDzAwu44596DV6d4T5g-sEFlc3SgQ%3D%3D
7:777 :

2025/04/13 (Sun) 12:12:57

雑記帳 2025年04月13日
台湾沖で発見されたデニソワ人の下顎骨
https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_13.html

 台湾沖で発見された人類遺骸のプロテオーム解析結果を報告した研究(Tsutaya et al., 2025)が報道されました。日本語の解説記事もあります。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、台湾本島と澎湖諸島の間の水深60m~120mの海域で、他の脊椎動物とともに漁網にかかって発見された、「澎湖1号(Penghu 1)」と呼ばれているホモ属の下顎骨[26]を、プロテオーム解析に基づき、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と同定しています。デニソワ人は、現生人類(Homo sapiens)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とは遺伝的に異なるホモ属の分類群で、現生人類よりもネアンデルタール人の方と近縁です[8、11]。

 デニソワ人は元々、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された指骨断片から遺伝学的に特定されましたが[8]、デニソワ人の現代人への遺伝的影響は、オセアニア[16]やアジア南東部島嶼部の一部の集団[15]でとくに高いことから、デニソワ人がユーラシア南東部、さらにはオセアニアにまで拡散した可能性も指摘されていました[14]。これまで、分子生物学的にデニソワ人と同定された人類遺骸は、デニソワ洞窟以外では、チベット高原[18]でしか確認されておらず、いずれも寒冷な地域でした。チベット高原のデニソワ人遺骸は、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見されました。

 しかし、ラオスのフアパン(Huà Pan)県に位置するタム・グ・ハオ2(Tam Ngu Hao 2、略してTNH2)で発見された、164000~131000年前頃と推定されている人類の歯(TNH2-1)が形態に基づいてデニソワ人と分類されており[21]、デニソワ人がより温暖湿潤な地域にも分布していた可能性は高い、と考えていた人は多かったでしょう。本論文は、デニソワ人がアジア東部南方にまで分布していたことを示し、デニソワ人が気候の異なる広範な地域に分布していたことを確証しています。デニソワ人は、寒冷なアルタイ山脈から、より温暖湿潤と思われるアジア東部南方やアジア南東部にまで分布していたことがほぼ確実な人類集団で、チベット高原のような高地での存在も確認されていますから[18~20]、ネアンデルタール人よりも多様な生態系に適応していた可能性も考えられ、今後の研究の進展が注目されます。

 なお、タンパク質の略称は、AMBN(ameloblastin、アメロブラスチン)、COL1A2{collagen α-2(I) chain、コラーゲンα-2(I)鎖}、COL11A1{collagen α-1(XI) chain、コラーゲンα-1(XI)鎖}、COL2A1{collagen α-1(II) chain、コラーゲンα-1(II)鎖}、COL5A2{collagen α-2(V) chain、コラーゲンα-2(V)鎖}、AMEL(amelogenin、アメロゲニン)、アメロゲニンのYアイソフォーム(AMELY)です。以下は本論文の日本語訳ですが、この記事の最後に「私見」の項目で再度、本論文で提示された知見を踏まえつつ、デニソワ人について現時点で考えていることをより詳しくまとめます。


●要約

 デニソワ人は、シベリア南部の中期~後期更新世の古代ゲノムによって定義される絶滅人類集団です。ゲノムの証拠はデニソワ人のアジア東部とおそらくはオセアニアにわたる広範な分布を示唆していますが、これまで、アルタイとチベットからのごく少数の化石しか、デニソワ人と分子的に同定されていません。本論文は古代のタンパク質解析によって、台湾の人類下顎骨である澎湖1号(7万~1万年前頃、もしくは19万~13万年前頃)が男性のデニソワ人に属すると、と同定しました。4241点のアミノ酸残基が回収され、2点の2点のデニソワ人固有の多様体が特定されました。デニソワ人化石の標本の増加は、温暖湿潤地域を含めてそのより広範な分布や、姉妹集団であるネアンデルタール人とは著しく対照的な、独特で頑丈な歯顎形質を論証しています。


●研究史

 化石標本の最近の発見と再分析は、分子技術および新たな年代測定手法の適用とともに、現生人類の到来前の、中期~後期更新世のアジア東部における古代型人類【絶滅人類、非現生人類ホモ属】の予期せぬ多様性を明らかにしてきました[3]。「デニソワ人」の同定は、そうした進歩の重要な一例です。デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟から発掘された断片的な骨と歯のDNA解析によって、ネアンデルタール人および現生人類とは異なる人類集団と認識されました(4~6、8)。デニソワ人はその核ゲノムから、ネアンデルタール人との姉妹群としての独自のクレード(単系統群)を形成した、と示されており、この2クレード【デニソワ人とネアンデルタール人】間のゲノムの分岐は40万年以上前に起きた、と計算されています(本論文はこの【2クレードのうちネアンデルタール人ではない方の】クレードの全構成員をデニソワ人と呼びます)[9、10]。遺伝学的証拠は、デニソワ人と現生人類とネアンデルタール人との間の遺伝子流動も示唆しています(8~11)。現代人集団における遺伝子移入されたデニソワ人のDNAに関する研究は、アジア東部大陸部とおそらくはアジア南東部島嶼部の一部にわたりかつて広範囲に分布していた[12~17]、複数のゲノムの異なるデニソワ人集団の存在を示唆しています。

 しかし、デニソワ洞窟以外では、デニソワ人の直接的な分枝証拠は、チベット高原の1ヶ所の遺跡のみで見つかっています(図1)。甘粛省の夏河県の白石崖溶洞では、下顎骨1点(夏河1号)[18]と肋骨1点(夏河2号)[19]がそのタンパク質配列に基づいてデニソワ人と同定されました。さらに、デニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が、白石崖溶洞の堆積物で見つかりました[20]。たとえば、中国北東部のハルビンや中国北部の許家窯(Xujiayao)遺跡や中国中央部の河南省許昌市(Xuchang)の霊井(Lingjing)遺跡やラオスのTNH2といった、アジア東部の他の化石が、その形態もしくは間接的な遺伝学的推測に基づいて、他のデニソワ人候補として示唆されてきました(図1)[21、23]。しかし、直接的な古代の生体分子がないので、これらの帰属は暫定的なままです[3、7]。これは、今までデニソワ人が分子的に定義されているからで、デニソワ人の頭蓋歯形態について現時点で限られた情報しか利用可能ではないためでもあります[8、18、23、25]。以下は本論文の図1です。
画像

 したがって、デニソワ人の可能性がある標本からの確実なデニソワ人特有の分子識別特性の回収は、アジア東部におけるデニソワ人の人口構造および地理的分布、および形態や差異や進化をより適切に特徴づけるためにはきわめて重要です。本論文は、台湾の澎湖水道から発見された古代型人類の下顎骨(澎湖1号、NMNS006655、F051911)[26]が男性のデニソワ人個体に属する、と示す古プロテオームの証拠を提示します。

 澎湖1号と多くの動物標本を含む澎湖骨格遺骸は、商業漁業と関連する浚渫活動中に、海底(台湾の西岸から25km離れた水深60~120m)から収集されました[26]。この地域は、更新世の海面低下期にはアジア本土の一部でした(図1)。澎湖1号は45万年前以降と年代測定されており、最も可能性が高い年代範囲は、微量元素含有量と生物層序学的敵証拠と過去の海水準変化によると、7万~1万年前頃か、19万~13万年前頃です[26]。海水のウランの影響のため、澎湖1号の直接的なウラン年代測定が失敗したのに対して、低い窒素濃度から、放射性炭素年代測定に不充分なコラーゲンが示唆されました[26]。澎湖1号からDNAを抽出する以前の試みはこれまで失敗しましたが、夏河1号下顎骨との形態学的類似性から、澎湖1号もデニソワ人の下顎骨かもしれない、と示唆されています[18]。


●プロテオーム配列の回収

 澎湖1号の処理の前に、澎湖1号への損傷を最小限にするために、同じ場所の動物標本を用いて、標本調整法が最適化されました。動物の骨と象牙質とエナメル質から、それぞれ約5mgの内在性タンパク質の回収に成功しました。下顎骨と歯のエナメル質は、保存されているタンパク質特性がより豊富で良好なので、抽出に最も有望な組織と特定されました。LC–MS/MS(liquid chromatography coupled with tandem mass spectrometry、液体色層縦列質量分光法)を使用し、44回の測定活動を通じて、13回の異なるタンパク質抽出および酵素選択が検証されました。動物標本の分析から得られた結果に基づいて、(1)酵素を伴わない手法[29]と、(2)ミネラル除去剤を除かずに、3種の異なるエンドプロテアーゼのある酵素を含んだ作業の流れの組み合わせによって、澎湖1号が処理されました。

 この戦略で、ケラチンなど典型的な現代の汚染タンパク質の除外外に、澎湖1号の51点のプロテオームから4241点のアミノ酸残基が特定されました。澎湖1号では、回収されたすべての残基の52.3%(4241点のうち2216点)が単一の作業の流れのみで回収されました。回収された全ての残基のうち、83.6%(3546点)が澎湖1号の下顎骨の内部から穴を開けて採取された25mgの骨粉に由来したのに対して、16.4%(695点)は第二大臼歯の微小破壊的に酸処理されたエナメル質表面に由来しました。これらのプロテオームは、夏河2号の肋骨(4597点のアミノ酸残基)[18]、ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡のサイ科のステファノリヌス属(Stephanorhinus)化石(875点のアミノ酸残基)[29]、中国の吹風(Chuifeng)洞窟で発見されたギガントピテクス・ブラッキー(Gigantopithecus blacki)の化石(456点のアミノ酸残基)[34]など、更新世化石から報告されている高品質なプロテオームに匹敵します。澎湖1号のプロテオームは、コラーゲンやアメロゲニンやエナメリンやα-2-HS糖タンパク質など、骨もしくはエナメル質組織で通常見つかるタンパク質から構成されています。生体分子の分解と正に相関する代理である、特定されたタンパク質一式の平均脱アミド化率[34]は、1点の標本で特定された20点以上のアスパラギンおよびグルタミンの残基のある全ての測定で、83%を超えています。これらの結果は、回収された人類のプロテオームの確実性を裏づけます。


●澎湖1号はデニソワ人に属します

 澎湖1号で回収された51点のタンパク質から得られた4241点のアミノ酸残基のうち、5点のタンパク質から得られた差異の5ヶ所の部位は、デニソワ人に特有か、系統発生的に関連する変異でした(表1)。デニソワ人と関連する2点の派生的なアミノ酸配列多様体が、澎湖1号のAMBN(M273V)とCOL1A2(R996K)で特定され、ペプチドの深度はそれぞれ17と28でした(表1、図2)。AMBNとCOL1A2の両方で、澎湖1号の本論文のデータセットにおいて、かなりの配列網羅率(それぞれ、35.8%と67.7%)がありました(図2A・B)。AMBN(M273V)のデニソワ人型多様体は、ほとんどの現代人において対応するSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のアレル(rs564905233)では頻度が1%未満ですが、フィリピン人では21.22%(104個体)の頻度です[35]。遺伝学的証拠は、フィリピンがデニソワ人からの遺伝子移入の地域の一つであることを示唆しています。COL1A2(R996K)の派生的な多様体はこれまで、澎湖1号と夏河1号と夏河2号とデニソワ3号でしか見つかっていません。以下は本論文の図2です。
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 最尤法とベイズ手法を用いて構築された系統樹は同一でした。これらの系統樹は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と大型類人猿の間の系統発生的関係を正確に反映しています(図3)。澎湖1号は利用可能である充分な参照ゲノム配列のある唯一のデニソワ人個体であるデニソワ3号とクラスタ化します(まとまります)。デニソワ人特有の多様体と全体的な系統発生の結果は、澎湖1号がデニソワ人の下顎骨であることを確証します。以下は本論文の図3です。
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●さらなるタンパク質配列の差異

 COL5A2とCOL2A1における派生的多様体は、特定のデニソワ人個体に固有です(表1)。COL5A2(E1211V)の多様体は澎湖1号に特有で、これまでに配列決定された他の人類個体では見つかっていません。澎湖1号におけるこの部位は、派生的(V)および一般的(E)両方の残基を6点と3点のペプチドの深度で示しており、異型接合状態が示唆されます。先行研究では、異型接合のペプチドの組み合わせはショットガンプロテオミクスで容易に検出でき、化石標本でさえ検出可能である、と示されました。夏河1号[18]に存在するCOL2A1(E583G)の派生的多様体は澎湖1号や夏河2号や他の人類および類人猿の個体群では観察されず、それは、これらの全個体がその部位ではEの多様体を有していたからです(表1)。

 調査対象の古代型人類において、澎湖1号のみでCOL11A1の多様体が特定され、その深度は2ペプチドです(表1)。この多様体は現代人にも存在し、対応するSNP(P1535S、rs1676486)は地域的な偏りなしに世界的に分布しており、その平均頻度は80.08%です(281988個体)。このSNPの推定される起源は125万年~156万年以上前です。したがって、澎湖1号におけるこの多様体が現生人類からデニソワ人への遺伝子流動の結果なのか、あるいは人類で共有される祖先的な多型として存在しているのかどうか、明らかではありません。


●性別は男性です

 性染色体上でコードされ、歯のエナメル質のみで発現するAMEL(アメロゲニン)のアイソフォームは、対象個体の遺伝的性別の判定に使用できます。澎湖1号の酸処理された歯のエナメル質から、男性特有の標識であるアメロゲニンのYアイソフォーム(AMELY)が23ヶ所の診断部位のうち11ヶ所の配列網羅率で特定され、その深度は最大で44ペプチドです(図2C)。AMELYに特有のペプチドのみから計算されたAMELYのアミノ酸配列網羅率は、澎湖1号では48.9%でした。この証拠から、澎湖1号は遺伝学的に男性に帰属します。


●考察

 相対的に良好な化石の保存状態と最適化されたタンパク質抽出手法によって可能となった、澎湖1号から得られた高品質な古プロテオームデータは、澎湖1号が男性のデニソワ人に属していたことを示唆します。AMBNとCOL1A2のデニソワ人の多様体における2ヶ所の診断部位は、19点以上のペプチドで網羅されていました(図2A・B)。AMBNのデニソワ人関連多様体は本論文の主張への裏づけを追加し、それは、この部位がデニソワ人標本[18、19]もしくは暫定的なデニソワ人標本[21]の以前のプロテオーム研究で観察されなかったからです。プロテオーム組成は組織で異なり、タンパク質配列の差異の発生はDNAより低いので、2点の系統発生的に情報をもたらす残基でさえ、一般的に確実な裏づけを提供します。異なる二つの手法両方の使用によって構築された系統樹は、澎湖1号がデニソワ3号とクラスタ化することを示唆しました(図3)。さらに、11ヶ所のAMELY特有の部位が澎湖1号の最大深度44のペプチドで網羅されており、澎湖1号標本が男性であることを示唆しています(図2C)。

 これらの調査結果は、アジア東部大陸部における中期~後期更新世の古代型人類への洞察を提供します。第一に、澎湖1号は直接的な分子証拠のあるデニソワ人の既知の地理的範囲を拡大します。澎湖1号はデニソワ洞窟から南東約4000km、【チベット高原の】夏河の南東約2000kmに位置しています(図1)。デニソワ人の科学としての澎湖1号の同定は、デニソワ人がアジア東部に広範に分布していた、との現代人のゲノム研究からの推測を確証します。長く寒い冬(デニソワ洞窟、北緯51度)から、高い標高(海抜3280m)と関連する高山の亜北極気候(夏河、北緯35度)や、低緯度(澎湖、北緯23度)のより温暖湿潤な気候まで、多様な気候地理および気候地帯におけるデニソワ人の存在は、その適応的柔軟性を論証します[19]。低い海水準の氷期における台湾の古気候は現在より寒冷だったものの、以前の元素分析は澎湖1号とアジアスイギュウ属(Bubalus)のほぼ同時の出現を示しました[26]。アジアスイギュウ属は現在のアジア南東部の代表的な動物で、シベリア南部およびチベット高原とは対照的な環境を示唆しています。そうした環境は、最近のモデル模擬実験[44]によって推定された、デニソワ人の選好する生息地と一致します。

 第二に、澎湖1号の追加の分子証拠によって、今や歯のある2点の下顎骨(夏河1号と澎湖1号)と2点の大臼歯(デニソワ4号および8号)があり、これらからデニソワ人の形態学的特徴に関する確実な考察が可能となります。まとめると、これらの化石から、デニソワ人には、厚いものの低い下顎体、広い前歯弓状部、大きなサイズの歯(とくに大臼歯で明らかです)、分枝傾向のある頑丈な小臼歯根、第一大臼歯(M₁)根より長くて頑丈な第二大臼歯(M₂)根、M₂の近位と遠位の歯根の頬側面の間の独特である余分な歯根、第三大臼歯(M₃)の無形成傾向(これらの遊離した歯が第三大臼歯ではなく第二大臼歯を表しているならば、澎湖1号と夏河1号だけではなく、デニソワ4号および8号もこの傾向を示します)がある、と示唆されます[8、18、25、26]。既存の人類化石のうち、駐車場東部の安徽省馬鞍山市(Ma'anshan)の和県(Hexian)で発見された下顎と歯は、これらの特徴の殆ど若しくは全てを示しており[26]、この遺跡から発見された頭蓋および歯顎遺骸もデニソワ人クレード(単系統群)に属している、と示唆されます(しかし、異なる解釈もあります)。デニソワ人化石で見られるこれらの特徴は、DNAメチル化パターン[23]によると、再構築されたデニソワ人の骨格形態とは異なっており、これが示唆するのは、下顎突出と顆状の大きさと下顎前方の幅および高さが現代人より大きいか、ネアンデルタール人と匹敵する、ということです。しかし、この再構築は、デニソワ人の下顎がまだ発見されていないデニソワ洞窟からのゲノムデータに由来します。

 第三に、分子的に性別判定されたデニソワ人化石には今や、デニソワ洞窟の巨大な大臼歯2点(デニソワ4号および8号)[25]と本論文の頑丈な澎湖1号が含まれ、すべて男性と特定されました。これは、頑丈な特徴が男性の性別に起因するのかどうか、一方で、形態学的に女性と性別判定されている中国北東部の金牛山(Jinniushan)遺跡個体など、より華奢な歯顎の特徴のある一部の他のアジアの化石はデニソワ人の女性を表しているかもしれないのか、という問題を提起します。しかし、この問題の解決には、分子情報のあるより多くの化石が必要です。

 これらの不確実性は置くとして、今や明らかなのは、対照的な人類の2集団、つまり、高いものの華奢な下顎のある小さな歯のネアンデルタール人と、低いものの頑丈な下顎のある大きな歯のデニソワ人(人口集団もしくは男性の特徴として)が、ユーラシアの中期更新世後期から後期更新世初期に共存していたことです。後者【デニソワ人】の形態はアフリカとユーラシアの前期更新世後期から中期更新世初期の化石では稀か存在しないので、以前に示唆されたように[25]祖先的な保持ではなく、おそらくはデニソワ人クレードにおいて、40万年以上前のネアンデルタール人からの遺伝的分離[9、10]後に発達したか強化されました。ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)[49]といったアジア南東部島嶼部やホモ・ナレディ(Homo naledi)[50]といった南アフリカ共和国からの最近の発見は、ホモ属の多様な進化を浮き彫りにしており、現生人類につながる系統とは対照的です。デニソワ人の歯顎形態は、ホモ属で起きた別のそうした独特な進化として解釈できます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文はプロテオーム解析によって、台湾沖で発見されたホモ属の下顎(澎湖1号)がデニソワ人系統の男性であることを示しました。夏河1号と澎湖1号との形態の類似性は以前から指摘されており[3]、歯根の本数からも澎湖1号がデニソワ人系統である可能性は提示されていたので(Bailey et al., 2019、Scott et al., 2020、Bailey et al., 2020)、私も含めて(関連記事)澎湖1号がデニソワ人系統に属する可能性を想定していた人は多かったのではないか、と思います。その意味で、本論文の結論自体に驚く人は少ないかもしれませんが、じっさいにプロテオーム解析に成功して証明したことは画期的と思います。

 本論文の意義として挙げられるのは、デニソワ人はこれまで、断片的な人類遺骸からの高品質なゲノムデータ[5]によって遺伝学的情報が豊富だったものの、形態学的情報が不足していた状況を、下顎骨の澎湖1号をデニソワ人系統と示したことで、大きく改善したことです。これによって、デニソワ人系統の可能性が想定されながら、デニソワ人系統と分類することが難しかった非現生人類ホモ属遺骸を、より高い確実性でデニソワ人系統に位置づけることが可能となります。とはいえ、形態のみから後期ホモ属の系統関係を論じることには慎重でなければならないとは思います。また本論文は、人類進化研究におけるプロテオーム解析の重要性を改めて示した点でも注目されます。プロテオーム解析はDNA解析よりも得られる遺伝的情報がずっと少ないとはいえ、時空間的に適用可能な範囲はずっと広いでしょうから[29、34]、今後も人類進化史の解明でプロテオーム解析の果たす役割には大いに期待しています。

 本論文によって、デニソワ人が寒冷なアルタイ山脈やチベット高原だけではなく、比較的温暖湿潤だったと思われる地域にも分布していた可能性はきわめて高い、と示され、デニソワ人の環境適応能力が改めて注目されます。ラオスで発見されたTNH2もデニソワ人である可能性が高そうですから[21]、デニソワ人は寒冷な環境や海抜2500m以上の高地や比較的温暖湿潤と思われる地域にも拡散していたわけで、ネアンデルタール人よりも多様な生態系に適応していた可能性も考えられます。デニソワ人よりもネアンデルタール人の方がずっと研究は進んでいるわけですが、本論文によってデニソワ人の形態学的情報が増えたことで、今後はデニソワ人の研究がこれまで以上に進むことも期待されます。最近、中華人民共和国河北省張家口市陽原県の許家窯(Xujiayao)遺跡で発見された中期更新世のホモ属遺骸の形態学的分析から、この許家窯個体はデニソワ人系統である可能性が指摘されています(Zhang et al., 2024)。この許家窯個体には部分的な下顎も残っているので、澎湖1号との比較が注目されます。

 本論文は、頑丈な下顎や大きな大臼歯がデニソワ人系統に共通する特徴である可能性を示しています。ただ、すでに古代ゲノム研究において、デニソワ人が複数の系統に分岐していき、異なる現代人集団の祖先集団と交雑した可能性が指摘されており[14]、そうした研究でも推測されていたように、デニソワ人はシベリア南部からチベット高原やアジア東部南方やアジア南東部まで広範囲に分布していたようなので、デニソワ人系統は全体的に多様な形態だった可能性が高そうです。本論文で指摘されているように、澎湖1号も含めて、デニソワ人系統と考えられる断片的ではない人類遺骸は、デニソワ洞窟で発見され、高品質なゲノムデータが得られている、デニソワ人の1個体であるデニソワ3号[6]のDNAメチル化パターンから再構築されたデニソワ人の骨格形態[23]とは異なるところがあります。これは、デニソワ人系統が分岐し、異なる生態系の環境に広く拡散していき、多様化していったことを反映しているのかもしれません。

 上述のように、デニソワ人は複数の系統に分岐していき、異なる現代人集団の祖先集団と交雑した可能性が指摘されており[14]、澎湖1号はその地理的位置から、76200~51600年前頃のデニソワ3号の高品質なゲノムデータ[5]によって表されるアルタイ山脈のデニソワ人集団よりも、パプア人の祖先集団[16]やアジア南東部島嶼部の一部の集団[15]と交雑したデニソワ人集団の方と遺伝的に近いかもしれません。現代のパプア人[16]やアジア南東部島嶼部の一部の集団[15]のゲノムには、他地域の現代人集団よりもずっと多い割合のデニソワ人由来と考えられる領域があります。ただ、澎湖1号やデニソワ人の可能性が高そうなTNH2[21]は、その発見場所からDNA解析は難しそうなので、この仮説を証明することはできないでしょう。

 そこで注目されるのは、チベット高原のデニソワ人集団です。チベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞では、堆積物からデニソワ人系統のmtDNAが確認されています[20]。堆積物からmtDNAが解析されているため、白石崖溶洞はデニソワ洞窟ほどではないかもしれないとしても、DNAの保存に適した環境と考えられるので、断片的でも人類遺骸が確認されれば、比較的高品質なゲノムデータが得られる可能性は低くないように思います。チベット高原のデニソワ人集団が、分岐して多様化していったと考えられるデニソワ人集団[14]のどの系統と遺伝的に近いのか、現時点では不明ですが、高品質なゲノムデータ[5]によって表されるアルタイ山脈のデニソワ人集団よりも、パプア人の祖先集団やアジア東部現代人の祖先集団と交雑したデニソワ人集団の方に近い可能性も考えられます。また、堆積物のmtDNA解析[20]から、チベット高原のデニソワ人集団において人口置換が生じた可能性も考えられ、チベット高原には複数系統のデニソワ人集団が存在したかもしれません。チベット高原では、45000年前頃以降にデニソワ人と現生人類が共存していたかもしれない点でも注目されます[19]。

 本論文は、ユーラシア東部圏における非現生人類ホモ属の具体的様相の一端を示しています。ユーラシア東部圏における、デニソワ人系統も含めて非現生人類ホモ属多様性や、そうした非現生人類ホモ属と拡散してきた現生人類との関係の解明に、澎湖1号は寄与できるでしょう。澎湖1号の年代は19万~13万年前頃もしくは7万~1万年前頃で[26]、7万~1万年前頃ならば、現生人類と共存していた可能性も考えられます。アジア東部現代人集団にもわずかながらデニソワ人系統由来のゲノム領域があり、それはパプア人の祖先集団と交雑したデニソワ人とは異なる系統と推測されていますが[14]、澎湖1号はそうしたデニソワ人系統と遺伝的に比較的近い集団を表しているかもしれません。
https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_13.html

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