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奈良時代の美術 _ 寺院・神社

1:777 :

2024/01/09 (Tue) 22:45:40

日本の名画・彫刻
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奈良時代の美術 _ 寺院・神社
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奈良時代の美術 _ 仏像
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徹底解説!日本刀の歴史①縄文時代から平安時代―石・銅・鉄で作られた両刃と片刃の剣から、蕨手刀・毛抜形太刀、平氏一門の家宝・小烏丸まで
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朝の奈良が神々しい... 奈良で感じる日本の美に感動 【外国人の反応】
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2:777 :

2024/01/12 (Fri) 16:11:51

天平時代の寺院建築
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(薬師寺東塔)

平城京への遷都直後には、飛鳥や藤原京にあった大寺院が次々と移転してきた。四大官寺のうち、飛鳥寺は移転して元興寺となり、大官大寺は大安寺となり、薬師寺は名を変えずに移転した。また藤原氏の氏寺であった雁坂寺は移転して興福寺となった。これらに遷都前からあった寺を加えると、遷都間もない平城京にはかなりな数の寺があったことになる。続日本紀養老四(720)年の記述には、藤原不比等が病になったため,京内の四十八寺に命じて薬師経を読ませたとあるから、実際にはそれ以上の寺があったと思われる。

遷都後新たに作られた寺としては、光明皇后が作った法華寺や、鑑真和尚の唐招提寺、総国分寺として作られた東大寺、そして西大寺などがある。こうして平城京は大寺院が伽藍を並べる仏教都市としての風貌を呈し、華麗な仏教美術の舞台となったのである。

天平時代に作られた寺院建築のうち、今日現存するものは、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺法華堂、同転害門、当麻寺東塔などである。

薬師寺は、平城遷都直後に飛鳥から移転してきたとされるが、寺院の建築物は新築されたと考えられる。東塔は天平2(730)年に完成したと、扶桑略記に記録されている。相輪を含めた高さ約34メートルで、一見六重のように見えるが、実は三重で、それぞれの層に裳をつけてある。これは薬師寺に特有の様式で、塔のほか金堂や講堂にもそれぞれ裳を施していた。


(唐招提寺金堂)

唐招提寺は渡来僧鑑真によって天平宝字三(759)年に創建された寺院であるが、堂塔の建築はそれより遅れたようである。そのなかで唐招提寺金堂は天平時代に建てられた金堂としては唯一現存するものである。唐招提寺ではこのほか、講堂、校倉二棟も天平時代の建築物であり、この時代の建築物研究の中心となっている。

桁行七間(約28メートル)、梁行四間(約14メートル)で、前面の扉や窓は前から一間後退してしつらえられており、したがって前面が吹きさらしになっているのが特徴である。屋根は寄棟造りで、両端に鴟尾を載せている。


(東大寺法華堂)

東大寺は前身の金鐘寺を利用して造営された経緯があるが、法華堂はその金鐘寺の堂宇の一つだったものである。正面が五間、奥行きが八間と、奥行きの深い建て方になっているが、そのうち後方の四間が仏像を安置する正堂、前面の二間が礼堂になっており、中間の二間はつなぎの空間である。礼堂は後世になって付加された部分で、天平時代におけるもともとの姿は正堂のみからなっていた。

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3:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:29:31

正倉院宝物:数々の国宝を解説
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin.index.html


正倉とは、もともとは官倉をさす一般的な名称であり、上代には中央の大蔵省を始め地方官庁の倉庫、果ては東大寺などの諸大寺にも置かれていたが、他のものはことごとく滅び東大寺のもののみが残った。そこで正倉といえば東大寺のものを指すようになった。鎌倉時代にはすでに、正倉院という言い方が一般化していたようである。

正倉院の建築は、ヒノキ造りで、屋根は寄棟造りの瓦葺、南北に長く東向きに建てられている。間口は33メートル、奥行きは9.4メートル、高さは14メートル、床下2.7メートルの高床式建物である。全体が三つの部屋からなっており、そのうち南北両側の部分の壁がいわゆる校倉造りになっている。中央部分は通常の板壁である。

その構造の特色から、かつては二棟双倉説と一棟三倉説とが対立したことがあった。二棟双倉説とは、当初は南北二つの独立した建物だったのを、後につないだとする説である。一棟三倉説とは、当初から現在あるような形に作られたという説である。それぞれに根拠をあげているが、現在では一棟三倉説が有力である。

何故このような様式に作ったかについては諸説あるが、南北の倉が保存用に作られ、中央の部分は什器類の出し入れのための一時的な保管場所として作られたというのが有力な説である。もっとも後になると、中央部分ももっぱら保存用のスペースとして使われるようになった。

この建築物が作られたのは天平時代のことで、今から1200年以上も前のことであるが、什器類の保存状態は驚くほど良好である。その最大の要因は、温湿度が一定であることに求められる。すなわち、建築物の内部の温湿度が安定しているのに加えて、什器類を収納していた杉製のカラビツが二重に保護する役目を果していたと考えられる。現在では、宝庫内にあった宝物は、空調設備の完備したコンクリート製の新しい宝庫(東宝庫と西宝庫)に分納されている。

正倉院に収められている宝物の由来には、大きくわけて二つある。一つは、光明皇后が東大寺の大仏に聖武天皇の遺品を献納したものであり、二つ目は、それより200年ほど後に、羂索院(三月堂)の倉庫にあった多数の仏具・什器類が正倉院の倉庫に移されたものである。前者は、聖武天皇の死後五回に分けて献納され、その数は併せて七百点に上ったが、多くの部分が持ち出されたまま戻らず、百数十点が残っているに過ぎない。後者については、移納の際の記録が残っていないので、その詳細は不明であるが、大仏開眼供養に用いられた楽器類や伎楽面の類、光明皇后が聖武天皇の法要に用いた様々の什器類などからなっている。

これらの遺物はどれも、1200年も前に使われていたものであり、それらを通じて当時の文化の状況の一端を理解することが出来る。このように古い時代の物が大量に残されている例は、世界でも珍しいとされる。
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4:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:30:20

鳥毛立女屏風図:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin01.torige.html

(鳥毛立女屏風図、136×56cm)

国家珍宝帳に記載されている屏風六扇のうちの第三扇。名称にあるように、もともとは墨で描いた輪郭の中に山鳥の羽毛を貼ってあったが、今日では羽毛は殆ど剥落して残っていない。ただ、顔や手に施された淡彩がまだ色彩の名残をとどめている。

樹木の下に唐風の美人を置いていることから「樹下美人図」とも呼ばれるが、このように樹下に人物を描くのは、インド起源の様式だとされる。それが唐を経て日本に伝わったのであろう。

美人の姿からして、これは唐で描かれた舶来品ではないかとの憶測もなされたが、第五扇の下貼紙に、「天平勝宝四年」の年号の記載があることや、わずかに残存する羽毛が日本産の山鳥のものであることから、日本で描かれたものというのが定説である。

いずれにしても、この絵は、天平時代の宮廷がいかに唐やインド、西域などと文化的につながっていたかについての、貴重な証言だともいえる。
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5:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:30:54

聖武天皇・光明皇后自筆:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin02.shoumu.html

(聖武天皇宸筆「雑集」)

「国家珍宝帳」所載のもの。奥記天平三(731)年の署款があり、天皇31歳の時の宸筆だと知れる。内容は、六朝時代から隋、唐にかけての仏教に関する史文類を抄録したものである。それ故「雑集」といわれる。

文字は肉細で、ちょっと見たところ女性的な繊細さを参じさせないでもないが、一文字づつ注意してみると、なかなか躍動感を感じさせ、唐の書家褚遂良の書体を想起させる。なお、紙には唐舶来の白麻紙を用いている。


(光明皇后自筆「杜家立成」)

これも「国家珍宝帳」所載のもので、光明皇后の自筆になるものである。夫君の聖武天皇の字体と比べると、一層雄勁さを感じさせ、むしろこちらの方に男性的なものを感じさせる。

「杜家立成」とは、隋末唐初の人杜正蔵の現したもので、書簡の文例集ともいうべきものである。併せて36種の往復文例計72編を示したものであるが、本場の中国では既に滅びて今は伝わらない。

紙は、数種類の色麻紙を用いている。これも唐からの舶来品だと思われる。これとは別に国産の紙も保存されており、当時すでに我が国において紙を産出していたことを物語っている。それらは、麻紙、楮紙、雁皮紙などであり、我が国独自の製法である流漉きの方法も認められるという。
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6:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:31:28

天平琵琶:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin04.biwa.html

(木画紫檀琵琶、長さ100cm、幅41.7cm)

正面(左側)の表面の板は沢栗、覆手(絃止め)は楓、鹿頸(細くなった部分)、乗弦、転手(絃を巻くところ)及び裏面(右側)は紫檀である。

撥受けの部分に丹塗りの皮を張り、その上に緑青、白緑、群青、朱、胡粉などを使って絵柄を描いてある。裏面には、蓮華、宝相華を中心にして、その周囲に様々な鳥や花柄などを散らしている。

(撥受けの部分に丹塗りの皮を張り、その上に緑青、白緑、群青、朱、胡粉などを使って絵柄を描いてある。裏面には、蓮華、宝相華を中心にして、その周囲に様々な鳥や花柄などを散らしている。


(螺鈿紫檀五弦琵琶、長さ108cm、幅31cm)

琵琶は普通四弦であるが、五弦の琵琶はインドに起って、北魏から唐の時代にかけて完成されたといわれる。今現存するものとしては、世界でこれひとつだそうである。

表面(左手)の腹に張ってある板は沢栗、撥受けの部分に玳瑁(たいまい、鼈甲)を張り、そこにラクダに乗って琵琶を弾く人の図柄を描き、また玳瑁以外の部分には、13個の花弁の文様を規則正しく描き入れている。

裏面(右手)の材質は紫檀で、上下に螺鈿で大宝相華文を配し、それらを囲むようにして鳥と飛雲の文様を一面に散らしている。

五弦琵琶としては世界でただ一つの遺品であることや、螺鈿の技法が非常に精緻なことから、正倉院宝物の中でも屈指の宝物といえる。
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin04.biwa.html
7:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:32:03

天平時代の管楽器:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin05.hue.html

(刻彫尺八、長さ43.7cm)

正倉院宝物には管楽器として尺八(8口)、横笛(4口)、笙(3口)、竽(4口)などが伝わっている。

この刻彫尺八は正倉院の尺八の中で最も大きなものである。竹制で、三節を用い、全面に細密な文様を施している。尺八は唐起源の楽器であるが、その後和楽にも使われて、独自の音楽を作り出すに至った。正倉院の尺八は、我が国の尺八の原形と言えるものである。


(呉竹笙<53.1cm>と呉竹竽<78.8cm>)

笙と竽は唐で完成した管楽器である。17管のものがもっとも普通に用いられ、我が国にもこの形のものが伝わった。同じような音を出すが、笙の方が短いのでその分高音程である。

両者とも管の部分は竹製で、壺と水管は木製漆塗りである。笙壺は黒無地であるが、竽のほうには、壺、水管ともに文様が施されている。

子守唄の中に、「里の土産に なにもろた  でんでん太鼓に しょうの笛」という歌詞があるが、笙はここで歌われているように、里の土産になる程庶民的な物でもないし、また日本の音楽に大きく解けこむこともなかった。
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin05.hue.html
8:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:32:53

伎楽面:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin06.men.html

(伎楽面<呉女面>、縦34.5×横23cm)

伎楽面は日本最古の仮面で、正倉院には実に171面の多数が伝わっている。それらの面の大部分は天平勝宝四(752)年の東大寺大仏開元の際に行われた供養会に用いられたものである。

伎楽と言うのは、別名を呉楽ともいうように、中国江南地方の呉の国で行われていた古代の楽舞である。飛鳥時代に百済から帰化した味摩之によって伝えられたという。その後、仏教儀式に取り入れられ、仏教の勃興とともに盛んになり、天平時代にはピークに達したが、平安時代には廃れてしまった。

上の写真は3面ある呉女面のうちもっとも美しいもの。双髻を結っているのは呉の風俗である。眼孔、鼻孔のほか耳後の紐通孔が開いている。


(伎楽面<獅子面>)

獅子面は8面あり、これはその一つ。呉女面が能面のようにして顔の前面に取り付けたのに対して、これは獅子舞とおなじようにして使われたのだと思われる。現在に伝わる獅子舞の原形であるわけだ。顎も上下に開くようにできている。
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9:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:33:25

刀子:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin07.tousu.html

(刀子、右側が鞘の長さ約15cm、把が約10cm、左側が約17cmと9cm)

刀子とは小刀のことであるが、武具ではなく装身具である。腰帯に結びつけて着用した。現在正倉院に60数口が伝わっており、刃渡り16cmに及ぶものから、2cmほどの小さなものまでさまざまである。

写真右側の二口は、紫檀螺鈿把斑犀鞘金銀荘刀子といい、二口で一組となっている。把(つか)は紫檀製で螺鈿と金線とでつる草模様をあらわし、留め具には鍍金した銀台を用いている。また、鞘には褐色にまだら模様のある犀角を用いている。

左側の二口は斑犀把沈香銀絵鞘金銀荘刀子といい、把はまだらの犀角製で、鞘には木心に沈香を張り、銀泥で草花の模様を描いてある。
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin07.tousu.html
10:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:34:01

天平時代の陶器:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin08.touki.html

(二彩皿、口径14.6cm、高さ4.2cm)

正倉院には、磁皿と称するものが29口、磁鉢と称するものが25口伝わっているが、いずれも彩釉陶器である。それもわが国最古の彩釉陶器である。

この二彩皿は、素焼きした後に白土の化粧を施さず、緑、白の順に釉薬を塗っている。簡素ですがすがしいところが、日本的だと評価されている。これを含めて正倉院保存の磁皿は、いずれも聖武天皇の聖母藤原宮子の一周忌の法要の際使われたものである。


(三彩鉢、口径27.0、高さ15.8cm)

磁鉢は、僧侶が托鉢に用いる鉄撥の形をしている。あるいは東大寺の僧侶が托鉢に用いたのかもしれない。口の部分が欠けたものの多いことが、その推測を有力にしている。

外面、内面共に、白、緑、黄の釉薬を塗り、外面には鋸歯状の文様を施してある。
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11:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:34:34

漆胡瓶:正倉院宝物
https://j-art.hix05.com/05shosoin/shosoin09.hei.html

(漆胡瓶、高さ41.3cm)

正倉院には瓶が三口伝わっている。漆胡瓶、白瑠璃瓶、二彩の磁瓶が各一口ずつである。そのうちこの漆胡瓶と白瑠璃瓶は、ともに注ぎ口を鳥の頭にかたどり、把手をつけてある。胡瓶というのは、ペルシャ風の瓶と言う意味であり、この瓶もペルシャ風にデザインしたものを唐で作ったというふうに推測されている。

薄い板を巻き重ねて本体を形作り、その上に漆を塗り、そこへ平脱の技法を用いて草花や動物の文様を施してある。平脱とは、文様の形にあわせた金や銀の薄板を張りつけるというもので、ここでは銀が用いられている。

この瓶は、ペルシャ式の形と唐で発達した漆芸とが融合したもので、東西文化の交流の跡を確認することが出来る。
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12:777 :

2024/01/15 (Mon) 15:10:18

壺齋散人 奈良古寺巡り
https://j-art.hix05.com/nara/nara.index.html

春日大社、東大寺:奈良古寺巡り(一)
法隆寺、中宮寺、薬師寺:奈良古寺めぐり(二)
唐招提寺、秋篠寺:奈良古寺めぐり(三)
室生寺:奈良古寺めぐり(四)
橿原神宮、今井町:奈良古寺めぐり(五)
浄瑠璃寺、興福寺:奈良古寺めぐり(六)
ならまち:奈良古寺めぐり(七)

奈良・大和路を歩く
平城宮跡、西大寺:奈良・大和路を歩く
長谷寺:奈良・大和路を歩く
當麻寺:奈良・大和路を歩く
吉野:奈良・大和路を歩く
https://j-art.hix05.com/nara/nara.index.html


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壺齋散人 寧都雑感:奈良観仏記(その一)
https://j-art.hix05.com/03neito/neito01.html

元号が昭和から平成へと変わった年の秋、筆者は奈良へ一人旅をしたことがあった。目的は仏像を見ることだった。和辻哲郎の古典的著作「古都巡礼」を懐にしながら、古寺の内陣の奥に保存されている仏像たちを一つひとつ訪ね歩いては、その魅力を肌で感じとったものである。その折の体験がもとになって、日本の美の伝統について、筆者なりの見方を模索してきた。

最近、その結果というか、日本の伝統的な美術についての筆者なりの見方を、このブログを舞台に展開している。先日は飛鳥・白鳳時代の美術についての部分を終え、これから先は天平時代の美術に移る予定であるが、それに先立って、先年の奈良旅行に際してしたためた印象記を紹介しておこうと思う。

これは、毎日の見物を終えたあと、ホテルの部屋の中で書き綴った日記がもとになったものだ。とりあえず、「寧都雑感」と名づけてみた。


平成元年十月十九日(木)今年は二度にわたり子づれ旅行を試みしが、秋風の吹き始むる頃より旅情またまた止みがたく、今度は一人旅せんとて家を出づ。旅先は奈良。四日ばかりかけて歴史探訪に耽らんとの魂胆なり。午前九時、東京駅より新幹線に乗り込む。予約したる席に至れば、既に先客の座りをるを見て驚く。東南アジア系の男女なり。切符を拝見するに、余のものと全く同じ番号なれど、よく見れば日付に一月の相違あり。どうやら、切符を買ふ際言語十分に通ぜざりしが如く、違ふ日付のものを買ひしやうなり。聞けば京都まで観光旅行に行くなりといふ。車掌を呼んで事情を話し、彼らのために別に席を確保せしむ。

東京を出るころ曇りがちなりし空は、名古屋辺より雨模様となる。京都にて近鉄特急に乗換へ、奈良に到着したるは十二時半。駅近くの東向通りなるアーケード街にて昼餉を喫し、雨中、奈良公園に向かって歩く。まず手始めに国立博物館に入り、次いで興福寺を見物。博物館へは、奈良美術の流れを概観せんとて入りたるなれど、建物狭く、陳列物も予想以上に少なく、かつあまり古きものも見当たらず。期待を裏切られたる気分になる。ただ一つ印象に残りしは、名古屋のある寺の蔵になるという巨大仁王像なり。筋骨隆々覇気凛々として、子どもらが見たら怖がりそうな雰囲気のものなり。

興福寺にて東金堂と国宝館を見る。いづれも中々の迫力あり。如来像は皆比較的新しい時代のものばかりなりしが、諸天、眷属の像の類には古い時代のものもいくつかあり。最も印象深かりしは仁王・邪気の像なり。事前の目的の中心は如来なりしが、これは又いかなることか。我ながら不思慮な目の付け方といふべし。

五時過、猿沢池の近くなるホテル、サンルートに投ず。朝鮮人の姿多し。疲労甚だしきにつき、半時ばかり休養を取りて後、町中へ出る。飲屋を探せしがそれらしきもの中々見つからず。とある割烹料理屋を見つけて入る。料理口に合はず。魚介痩せ、茶碗蒸しに至っては、恰も和風スープを飲むが如くなり。帰途猿沢池畔の土産店街を過るに、修学旅行の小学生蝟集して土産を求むるところに出会ふ。この日は、京都駅に降りて以来、至る所修学旅行の団体を目にせり。彼らの一人一人に声をかけるに、僕は愛知県から来ました、わたしは広島県から来ました、と元気良く答ふ。この外に或は岐阜県、或は兵庫県といふ具合に関西一円より汎ねく来れるものの如し。その姿の愛らしき様をみて、思はず、我が子らのことを思ひ出しぬ。

  (旅先雑感)
  旅路にて幼な子騒ぐ群れ見れば思ひは馳する我が宿の方

この子どもらとともにあれこれ土産の品を物色し、幾品か求めて後、八時頃宿へ戻る。


 十月二十日(金)晴。七時前に起床し、ホテル内にて朝餉を喫して後、まず法隆寺を訪ふ。JR奈良駅前よりバスに乗り、揺らるること一時間程にて南門前松並木の取りつきに至る。並木の入口に立つ碑銘を見るに、聖徳宗総本山法隆寺とあり。かかる宗派のかつてありしやと首を傾げながら、並木道を通り、中門を潜って西院の中へ入る。境内小学生びっしりと蝟集し大歓声を上ぐ。修学旅行やら遠足やらの子どもたちなり。この連中に押されながらでは落ちついて見てゐられぬべしと観念しつつ、一つ一つ見物して歩く。金堂は囲ひの網が邪魔になり内部を良く見ることを得ず。とりわけ期待しをりし壁画は暗くて良く判別できず。パンフレットの写真と想像力を以て補ふ。これに比すれば、宝蔵殿の方は一体一体よく見ることを得る。最も印象の強かりしは百済観音にて、かかる木造の華奢な像がよく千数百年の風雪に耐へしものよと感心す。この像に限らず、この寺の像は大部分木造にて、この国の木の文化の根深さを改めて感じ取りたり。時に上空を見上ぐれば、紺碧の空抜けるが如く、白雲の緩き流れに時の悠久を感ず。

  (斑鳩の空を見て)
  斑鳩の空青みたり古の空の青みぞ我独り立つ
  風も空も塔も仏も変はらねど人の身我は老ゆるを如何せん

ついで夢殿、中宮寺を見る。夢殿の救世観音は見ることを得ざりしが、中宮寺の半跏思惟像には思ひの外大きな姿に強く印象づけらる。この像写真に見るかぎり、人をして小仏ならんとの印象を抱かしむるなり。しかるに間直に見れば、小柄な女ほどの大きさなり。これとは逆に、想像しをりしに比し実物の遙かに小さかりしは九面観音なり。これは、頭部を大写しにせる写真などからは、随分大きな仏ならんといふ気持を抱かせるものなれど、実際は一尺余りの、掌にでも乗りさうな様子なり。さはれ、いづれの仏も威厳に満ちたり。

  (半跏思惟像を見て)
  はるかなる時空を超えて出でたまふ尊とかりけりみ仏の微笑

中宮寺を出でしは一時頃なりき。付近の茶店にてうどんを食ひ、そのあと法輪寺、法起寺、慈光院の順に巡り歩く。木犀の香漂ふ道々、収穫を待つ稲田広がり、畦道のそこかしこには、これも実の熟せる柿の木何本も連なりたり。青々たる空の下気持良き眺めなり。

  (斑鳩の里)
  木犀のにほへる里をひとり行けば稲穂黄金なす古思はゆ

法輪寺にて、法隆寺の百済観音とよく似た像を見る。ガイドの説明によれば、これは、長頭、痩身、撫肩、薄胸といふ特徴がしかく感ぜしむるにて、飛鳥期の仏像に共通する手法なる由。法起寺より慈光院に至るまでは長き道のりなり。途中くたびれて、幾度か腰を下ろしたき気分になりぬ。

  (斑鳩の里を行く)
  くたびれて道ばたにふとたたずめば思はずやさしコスモスの花

慈光院に着きたる時分には疲労極限に達せり。されど抹茶を馳走せられ、庭園を眺めをるうち気分蘇りたり。時恰も三時半。いま一箇所くらゐ訪ねてみんと思ひ、路上タクシーの通りがかるを待ちしが、いくら待てども来ざる故、仕方なく四時頃通りがかりたる奈良行きのバスに乗り、旅館に戻る。途次薬師寺の前を通り過ぎたる際、降りて見物せんとも思ひしかど、己が身の疲労の度合を考へ合はせ、見送りたり。

帰館後暫く休養を取り、 七時頃、東向通りの居酒屋に赴きて夕餉をなす。帰途再度、件の場所にて小学生の群に出会ふ。そのうちの一団と話をしながら宿に戻る。聞けば、彼らは岐阜県下の小学校の生徒にて、一泊二日の日程にてこの地へ修学旅行に来れる由。しかして、今日は京都の二条城、金閣寺、宇治の平等院などを見学しました、明日は奈良公園と法隆寺を見る予定ですといふ。

この日も一日、方々にて修学旅行中の子どもらに遭遇し、旅の気分を破らるる
https://j-art.hix05.com/03neito/neito01.html

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