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平安時代の美術 _ 密教美術

1:777 :

2024/01/09 (Tue) 17:18:33

日本の名画・彫刻
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平安時代の美術 _ 寺院・神社
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平安時代の美術 _ 密教美術
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平安時代の美術 _ 浄土美術
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平安時代の美術 _ やまと絵・絵巻物・六道絵
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神護寺 曼荼羅 - YouTube
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両界曼荼羅 - YouTube
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観心寺 如意輪観音像 - YouTube
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法華寺 十一面観音菩薩立像 - YouTube
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密教仏
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密教の仏像 - YouTube
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【密教】密教には密教特有の仏像がある | 仏像の種類とみわけ方
https://butsuzo.magazine7.net/mikkyo-butuzo/

高野山霊宝館【収蔵品紹介:仏に関する基礎知識】
https://reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/mikkyo.html#:~:text=%E3%81%93%E3%81%AE%E5%AF%86%E6%95%99%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%A7%98,%E3%81%98%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82



空海 - Wikipedia
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空海 - YouTube
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真言宗 - Wikipedia
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真言宗 - YouTube
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台密 - Wikipedia
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台密 - YouTube
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密教 - Wikipedia
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曼荼羅 - Wikipedia
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曼荼羅 - YouTube
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【編集後喋】ユングと曼荼羅と神秘主義 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UsZlKivY3g0

心理学者ユングと曼荼羅の癒し
https://care-heart.net/yungu-mandala/

ユングは「曼荼羅」を発見し「相補性」として理論を調和させていく! - CBLコーチング情報局
https://info.coaching-labo.co.jp/encyclopedia/mandala/

ユング心理学とマンダラ
http://j-phyco.com/category1/entry23.html

「ユングのマンダラと密教の曼荼羅」 - ユング心理学研究会
https://jung2012.jimdofree.com/%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%B3/2005%E5%B9%B4-%E5%89%8D%E6%9C%9F-%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%A8%E8%8A%B8%E8%A1%93-%E4%BB%8F%E6%95%99/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%A8%E5%AF%86%E6%95%99%E3%81%AE%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85/


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平安時代の美術
https://irohani.art/study/12700/

前回の第3~4回は唐の文化が日本にやってきた奈良時代の美術作品について触れました。今回は、その後の平安時代の美術作品についてご紹介します。
和歌を詠み合う貴族たち、揺れる十二単、源氏物語の恋愛模様……みたいな、もうなんか「ザ・日本文化」というイメージがありますよね。日本美術史のなかでも人気が高い時代です。しかし直前の奈良時代には唐文化が隆盛したのは確かです。では、なぜ平安時代になって日本文化が醸成されていったのか。そのあたりをみていきたいと思います。

平安時代の美術は前期・後期に分かれる

※参考:平安京の復元模型(平安京創生館の展示物),


まず平安時代は一般的に長岡京遷都の784年~平氏陥落の1185年までの400年を指します。ざっくりいうと「鳴くよウグイス」~「いい国つくろう」まで。そのなかでも実は前半は唐の文化が主流でした。いわゆる「国風文化」といわれる日本的な美術が出てくるのは900年代後半あたりからです。

じゃあ何がきっかけで、日本は唐のカルチャーを抜け出して、やまと文化に移行するのか。大きな契機となったのは「遣唐使の廃止」です。奈良時代は20年に一度のペースで遣唐使が唐に渡り「唐っていまこんなんが流行ってるんやで~」と文化を持ち帰ってきていました。

当時の唐は超大国ですので、もう日本人は「マネしたい!かっこいい!」みたいな気概に満ちていたんですね。今でも日本人は海外に強い憧れがあると思いますが、これは島国独特のカルチャーなのかも。

※参考:遣唐使船(貨幣博物館蔵),
PHGCOM, anonymous Japanese painter 8-9th century


しかし平安時代は400年もあるのに、804年と838年の2回しか遣唐使は渡唐していません。

その主な理由は以下です。

● 唐の政治体系を学び終えた
● 唐が弱体化して憧れではなくなった

まず「もう、唐のいいところは吸収し終わったわ」という点ですね。いわゆる碁盤の目のように作られた平安京の完成(794年)は唐の都を真似たものでした。「平安京もできたし、もうええか」という雰囲気が流れていたんですね。

また「もう唐って古くね?」という、ものすごく根本的な問題もありました。実際8世紀に入ると、唐はもうボロボロで、めちゃめちゃ内乱が起こっていたんですよね。そんななか日本でも「唐ってお手本にする価値あるか?」というムードが流れたわけです。

それで894年、学問の神様・菅原道真が宇多天皇に「もう遣唐使いいでしょ」と意見したことで廃止となりました。その10年後、実際に唐は滅亡することとなります。
「遣唐使の廃止=日本での唐人気の終了」ではない
これが唐文化から国風文化に切り替わった直接的な要因といわれています。ただ誤解したくないのは遣唐使が廃止になった後も、まだ唐の舶来品は日本で人気だったんですよ。

ただ「捉え方」が変わったんですね。つまりかつては「すげぇ、あの大国・唐のものだ。真似しなきゃ」という憧れだったんです。それが「唐を目指さなくてもいいけど、見慣れてるし、かっこいいし……うんまぁ欲しいわ」くらいのテンションになったという感じ。理想から消化に変わりました。

「新撰万葉集」「古今和歌集」の編纂からみる国風文化への遷移


そんな唐風文化から国風文化への移ろいを表しているのが9世紀末の「新撰万葉集」、10世紀初唐の「古今和歌集」です。

平安時代前期には天皇の指令で「漢詩文集を作ろうぜ」となりました。それで「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」といった漢詩文集ができた。しかしそれが、和歌で編まれた「新撰万葉集」「古今和歌集」に変わったわけですね。

これは象徴的な変遷ですよ。「奈良時代から国外ばっか見てたけど、そろそろ準備できたし国内に目を向けていこうぜ」という気概が感じられます。そのほか同時期には「諸説不同記」「日本国見在書目録」といった書籍が刊行されています。こうした国全体の「外から内へ」の意識変化が、やまと文化を醸成していくことになります。

政治や文化の基礎が完成し「これで日本は国外でも通用する環境を構築できるぜ」という“自信”が国内文化の醸成に向かわせたのかもしれません。
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平安時代400年の仏像の変化を作品で見比べ!
https://irohani.art/study/13521/

前回の第5回では平安時代の美術作品がどう変わったのかをお伝えしました。超絶ざっくり書くと、前期(784~800年代後半)までは、唐の影響をゴリゴリに受けていたんだけど、後期(900年~1100年代)は国風文化が芽生えるようになったよ~、って話です。

今回はそんな平安時代の作品の変遷をより分かりやすくするため、実際に前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。


仏像でみる平安時代前期と後期の違い

まずは仏像にフォーカスして平安時代前期・後期の美術作品から紹介してみます。まずは唐の影響をがっつり受けていた前期。特に8世紀~9世紀前半の桓武・嵯峨・仁明天皇の時代には唐風美術がめっちゃ盛り上がりました。このころの美術作品のキーワードは「密教」です。


平安時代前期の仏像

「密教」とはインド発祥の仏教の一つ。シンプルにいうと「言葉だけじゃわからない激ムズな教えだけど、理解できたら生きてる間に仏になれるよ」と説いたものです。空海が真言宗を、最澄が天台宗を日本に伝えました。ちなみに対義語は「顕教」、これは言葉でわかる仏教の教えをいいます。

そんな「密教」にまつわる美術作品が「曼荼羅」です。平安時代前期には密教由来の曼荼羅が多く作られました。曼荼羅とはシンメトリーの構図で「〇」を描き、そのなかにさまざまな仏様を描いたものです。特に日本では神護寺の「高雄曼荼羅(紫綾金銀泥絵両界曼荼羅図)」(※)が有名な作品です。

※編集部注:高雄曼荼羅は6年間の修復を経て、2024年4月から奈良国立博物館で開催される特別展「空海 KUKAI ―密教のルーツとマンダラ世界」にて一般公開予定。
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/special_exhibition/202404_kukai/

他には「伝真言院曼荼羅(両界曼荼羅図)」も有名ですね。彩色された曼荼羅では最古のものです。

国宝 両界曼荼羅図 胎蔵界曼荼羅,
Tō-ji


ちなみに今の時代でいうと、さくらももこさんのイラストなんか、すんごく曼荼羅ぽいモチーフのものが多かったりします。今でもデザインとして機能するほどキレイな構図ですね。曼荼羅は今でも、おしゃれな町のシーシャ屋さんとかにほぼ100%飾られてますんで、見本が気になる人はシーシャを吸いにいってください。

空海はそんな曼荼羅を絵から出して、仏像にしました。こうした密教の仏像は「インド由来の新しい仏の形」なのがポイントです。つまりインドの神様をモチーフにすることで仏像の表現の幅が広がっていくわけです。

というのも、インドの神様ってむっちゃユニークなんですよ。超かっこいい。なんか、ウルトラマンの怪獣みたいな……。腕が4本生えてたり、顔が4つあったりするんですよ。よく「多面多臂像(ためんたひぞう)」といいますが、平安時代にはインドから唐を経由して日本に流れ着いた「なにこれ怖っ……」と言っちゃう異形の像が増えてきました。美術的にはかなり斬新な表現だったわけですね。

そんな密教美術の最高傑作といわれるのが「観心寺如意輪観音像」です。腕が6本あります。


9世紀ごろ, 図:飛鳥園 編


そこから仏像全体の表現が進化していきます。ただの人物像ではなく、演出を加えたものが出てくるようになりました。例えば法華寺の「十一面観音像」は後光のように蓮の葉などを並べた、珍しい表現をしています。こうした密教像によって仏像のバリエーションは増えていきました。

・ 十一面観音菩薩立像(法華寺公式ホームページ)
https://hokkejimonzeki.or.jp/about/honzon/

個人的にはこのインド由来の異形的な表現は、今の日本のアニメ文化などに通ずるところもあるのかもしれない……と拡大解釈したくなったりしますね。


平安時代後期の仏像

これが後期にどう変わっていくのか。まず時代背景をいうと、実は900年代後半になると、唐では仏教排斥がおこなわれます。それで唐の呉越国は「やばい、仏教なくなっちゃう……そうだ。日本で盛り上げよう」と日本に浄土教を広めるわけです。「祈れば極楽浄土にいけまっせ」という教えですね。

その結果、900年代末~1000年代にかけて浄土教が広まり、1053年には藤原頼通が10円玉でおなじみ平等院鳳凰堂を建立します。庭園を含めて極楽浄土の光景を再現したものです。


Photo by Martin Falbisoner


それとともに、前回の記事でお伝えしたように「唐を見習おうぜ」という動きは鈍くなっていき、反対に「日本ならではの作品を確立しなきゃ」という考え方が国全体に広がっていきました。つまり浄土教など、海外由来の文化を取り入れつつ、日本独自の方向性と合致させていく考えだったわけです。

この時代に現れたのが天才仏師が康尚と弟子・定朝。彼らが作った国産の仏像は平安貴族的に大ヒットします。「これぞ浄土教の心安らかなメンタル状態を具現化している傑作だ」とウケまくるんです。

定朝(11世紀), 図鑑:福山恒夫 森暢 編


上は定朝の「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」。華やかでありながら凹凸が少なく平面的なのが特徴で、ひと言でいうと「めっちゃ穏やか」なんですね。これが平安貴族の美意識にフィットしました。そしてその背景には心の安定を求める仏教の教えがあった、という感じです。

これは「定朝様式」ともいわれ、あえていうと「貴族にウケるモデル」ができたという感じなんですね。なのでその後に出てきた仏師も定朝のような「華やか」なスタイルを継承していきました。モデルができたので大量につくれるようになり、1100年代には「蓮華王院本堂千体千手観音像」というとんでもないものもできています。


Nara National Museum 奈良帝室博物館 (Showa 8 - 1933)


これらのどっしりと構えた安定感のある構図は、実は平安時代より前の奈良時代などの表現にも共通しています。まさに温故知新。日本独自のスタイルを確立していったんですね。
https://irohani.art/study/13521/


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平安時代400年で絵画作品はどう変わった?日本美術史を流れで学ぶ(第7回)~平安時代の美術編その3~
https://irohani.art/study/13740/

平安時代って超長いんですよね。400年も続くんです。当然、美術作品もいろんな変遷を遂げていきます。前回は仏像でしたが、今回は「絵画作品はどう変わったのか」についてご紹介。前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。


平安時代前期(唐代絵画)から後期(大和文化の成立)へ

前回の記事で平安初期には中国的な規範が取り入れられ、後半から日本の文化があらわれてくることを紹介しました。前半はアジアにおいて唐がめっちゃ強国だった。それで日本も遣唐使を派遣してめっちゃ前向きに吸収するんですが、だんだん唐が弱体化したのと真似し終わった感もあって、むしろ日本独自の文化を発見していく流れに変わっていくんですね。

平安時代前期には前回の記事でもご紹介した「曼荼羅」がよく描かれるようになります。前回の記事では真言宗の空海が持ってきた密教由来のものを紹介しました。これが「根本曼荼羅」というものです。

巨勢公忠(こせの きんただ)や飛鳥部常則(あすかべ の つねのり)といった国内の絵師は、こうした根本曼荼羅を独自に吸収して描くようになるんですね。こうした国内の曼荼羅は根本曼荼羅と比べて、立体感が薄くのっぺりしています。また描線も柔らかい。こうした表現が日本文化の醸成につながっていきます。

もちろんベースには唐の表現様式があるんです。そのうえで「立体感を減らす」「一点にフォーカスするのではなく、広い視点を持たせる」などの特徴を持たせる表現にアップデートしていったんですね。その結果、ダイナミックでなく素朴で穏やかな形になっていきます。これが大和文化、ひいては日本文化の特徴として育っていくんです。



平安時代後期のやまと絵の特徴

そんなこんなで成立していくのが、よくある「やまと絵」といわれる日本文化独自の表現です。ちなみにやまと絵が盛り上がるにつれて、それまでの唐代絵画は「唐絵」といわれ、明確に差別化されていきました。

この違いは分かりにくいのは平安時代の絵画あるあるです。唐絵は唐の故事を基礎にしたもの、やまと絵は国内の貴族たちを描いたもの、という分かりやすい背景の違いはあるものの表現技法としての違いは微妙です。

そこで試しに自然を描いた「山水表現」でやまと絵と唐絵を見比べてみましょう。


奈良国立博物館Webサイトより引用

こちらが正倉院に伝わる「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんそうのびわ)」に描かれた唐絵の『騎象奏楽図(きぞうそうがくず)』です。琵琶に描かれているので画面は小さいんですが、見事に奥ゆきを描いていてダイナミックで超かっこいいですよね。

では比較してやまと絵ではどうなのか。国宝の『神護寺山水屏風』をみてみましょう。

Public domain, via Wikimedia Commons

同じく、遠くに山々を臨む構図なのですが、立体感は薄れ、人物や建物によって遠近感を演出するというよりは、大きな自然物の中にちょこっと登場している。画面全体で物語を描いているようなさりげない感じが出ています。
https://irohani.art/study/13740/


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平安時代の密教美術:主要作品の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/06heian/heian.index.html

日本美術史上平安時代は密教美術の時代といってもよい。平安遷都後間もない804(延暦23)年に遣唐使に加わった空海は、長安の青竜寺で僧恵果から大乗密教の極意を授けられ、翌々年の806(延暦25)年に帰国するや、京都神護寺で胎蔵・金剛両部の灌頂を最澄その他の僧に授けた。その後空海は、高野山の金剛峰寺や京都の教王護国寺を舞台にして真言密教の教えを伝播し、一方、最澄の方も比叡山の延暦寺を中心に、台密とよばれる密教を普及した。それにともなって、密教美術が全面的に花開いたわけである。

密教とは、顕教に対する対立概念で、顕教である大乗仏教が衆生の教化を目的にして方便を用いるのに対して、密教は僧の修行を主たる目的として、方便を排し、僧みずから直接仏と一体化することを目指している。その究極の理想は即身成仏である。

空海の時代に密教がさかんになった背景には、仏教が広く普及して、僧侶の集団が大規模に形成されていたということがある。彼らは、自分自身の修行を目的にして、修行に相応しい場所に集まり、密教の儀式に専念した。彼らが高野山や比叡山といった山中に向かったのは、そこが修行に相応しい場所と観念されたからである。

密教自体は、空海以前にもなかったわけではない。大乗仏教は、高度の精神性と抽象的な思考をともなうものであったが、そうした迂路を通らずに、仏教的な秘儀によって、大衆の信仰を集めようとしたものもあった。それは歴史上雑密と呼ばれる。雑密は日本の各地に浸透する過程で、土着の神道信仰と融合するようになり、そこから神仏習合と呼ばれる現象があらわれるようになる。

雑密は高度な体系性とは無縁であったが。空海は大乗仏教の普遍性や抽象性と密教的な秘儀とをうまく調和させ、大乗密教といわれるような体系的な教義を築き上げたのである。そのうえで、神仏習合の動きにも理論的な根拠を与え、民衆の神信仰を仏教体系の中に取り込んだ。それによって、前時代の素朴な神仏習合は、本地垂迹というたかちで体系化された。

つまり空海の教義体系は、一方では仏教的真理の追究を徹底して僧階級の希望に応えるとともに、大衆の信仰を仏教のもとに取り込んで組織化した。ここに至って仏教は、それまで支配階級の内部に留まっていた段階から、大衆化へ向けての歩みを始めることともなったわけである。そういう点で、空海が日本の仏教史上に果たした役割は巨大である。

密教美術は、寺院建築、仏像を始めとする彫刻、そして仏画の各方面で前時代とは異なる特徴を発揮した。その最大の特徴は、曼荼羅を意識していることである。曼荼羅とは、大日如来を中心にして、この世界が成り立っている様子を具象化したものである。それを図で表せば曼荼羅図となる。この曼荼羅図に展開されているイメージが基本になって、それを空間に配置したものが密教建築であり、曼荼羅図に描かれた様々な像が立体化されたものが貞観彫刻と呼ばれる彫刻群である。貞観彫刻では、観音像と天部の諸像がとりわけ重んじられた。

ここではそんな平安時代の密教美術について、主要な作品をとりあげ、画像を鑑賞しながら適宜適宜解説を加えたい。
https://j-art.hix05.com/06heian/heian.index.html




貞観彫刻総論
https://j-art.hix05.com/06heian/heian07.jougan.html

平安時代前期(ほぼ9世紀に相当)の文化を弘仁・貞観文化と呼び、特に仏像を始めとする彫刻類を貞観彫刻と呼ぶ場合がある。最近では、単に平安時代初期とか、単に9世紀の文化とかいうことが多くなったが、ここでは貞観彫刻或は貞観仏といった名称を用いることにする。

貞観彫刻は、先行する天平時代と後続する藤原時代とにはさまれた時代の彫刻であるが、天平仏とも藤原仏とも異なった独特の特徴を持っている。

天平仏は、盛唐の様式を取り入れつつ、人体の理想形を仏像の形に表現するようなところがあった。また、それを信仰した階層が主に貴族層ということもあって、おおらかな精神性を湛えていた。また、藤原仏になると、信仰の主体が大衆一般に広範囲に広がり、それを反映するような形で、仏像は大衆の悩みに応えたり、大衆の願望を受け止めたりするような、いわば大衆的な性格を強めていく。

ところが貞観仏には、以上のような性格は弱い。それは、天平仏のように大らかな精神性を具現して人々の宗教的な感情を抱擁するというよりは、人々に厳しい修練を迫るような厳しさをもっているし、表現の仕方にも異国的な(インド的な)要素が強く見られる。これは、空海が持ち帰った密教のなかに、インド的な要素が含まれていることを反映しているのだと考えられる。

またそれは、藤原仏のように、広く大衆一般を救済しようというようなおおらかさを感じさせない。それが救済するのは、自ら修練に耐えた人々なのである。こうした性格にも、僧侶集団の自己鍛錬という側面を強く持つ密教の特徴が反映されているのだと思える。

貞観仏の特徴をもう少し積極的に言うと、まずは、その肉感性である。天平仏の中にもこうした肉感性は認められないではないが、天平仏の場合には人体の理想的あり方としての肉感性であったのに対して、貞観仏の場合には、肉感性が強調されて、場合によってはデフォルメされることもある。その身体は分厚い肉として表現され、顔の表現も特異な雰囲気を感じさせる。どうみてもリアリズムの精神とはかけ離れている。

貞観仏の肉感的な面については、個々の仏像の説明の所で触れるが、総論的に言うと、異国的な、それも特にインドを連想させるような、物理的な肉感性である。こうした性格は、日本人の従来の美意識の中には見られなかったものだ。とりわけ、貞観仏によく見られる鉤鼻などは、日本人の顔には決して見られないとされていたものだ。これは、密教におけるインド的な要素がそうさせるのだと考えられる。

ついで、表現される仏の種類に変化があった。天平時代以前には、如来像が中心で菩薩像がそれを補完していたが、この時代になると菩薩像が多くなり、それも観音信仰の拡大にともない観音菩薩像が多く作られるようになった。観音像は天平時代以前にも作られたが、貞観時代になると観音像の割合は圧倒的に多くなる。それも天平時代以前には十一面観音が中心だったものが、千手観音が好まれるようにと変化した。

観音像と並んで、明王像が多く作られるようになった。明王の中でも不動明王は、観音と並んでこの時代の信仰の中心へと発展した。不動明王は、彫刻で表されたほかに、明王図の形でも多く表された(青不動、黄不動など)。

仏像の材質にも変化があった。天平時代には、銅像、塑像、乾漆像、木造などが作られたが、この時代になると、銅像と乾漆像は全く作られなくなり、また乾漆像も最初の頃は細々と作られていたがやがて作られなくなり、木造ばかりになっていった。その背後には、神仏習合のプロセスが存在し、木を神聖視する神道の考え方が仏像製作にも影響を与えたのではないかとの見方もある。

貞観仏とならんで、この時代には曼荼羅が多く作られたが、曼荼羅の説明については、別稿にゆずる。
https://j-art.hix05.com/06heian/heian07.jougan.html
2:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:48:13

胎蔵界・金剛界両界曼荼羅
https://j-art.hix05.com/06heian/heian01.mandara.html

(胎蔵界曼荼羅、教王護国寺)

密教では、曼荼羅を特に重視する。曼荼羅自体は密教の専売特許ではなく、ほかの宗派でも用いることがあるが、密教の場合には、教義の中心となる重要なものである。それは、密教的世界観を視覚的なイメージとして表現したもので、世界の本質をあらわしたものとされる。真言密教では、曼荼羅を真言と言うこともある。真言とは、本質あるいは真理をあらわす言葉と言う意味である。

密教では、曼荼羅は両界曼荼羅と言って、二つの曼荼羅からなる。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅がそれである。胎蔵界曼荼羅は、密教の経典である大日経の教えに基づき、金剛界曼荼羅は金剛頂経の教えにもとづいている。どちらも、大日如来を中心にして、諸仏、諸菩薩、明王、諸天像を一定の形式にしたがって配置している。

本来は寺院本堂内の壇上に描かれたものだが、後代になって、敷物に描いたものを壇上に敷いたり、掛け軸の形に描いたものを壁に掛けて拝んだりするようになった。今日伝わっているものは、ほとんどが掛軸形式の曼荼羅図である。

胎蔵界曼荼羅図は、中心の四角形のなかに八葉の蓮華を描き、その中心に大日如来、蓮華上に四仏と四菩薩を配する。この四角形の周囲には、いくつかの四角形の空間が重層的に広がり、そこに、様々な如来や菩薩、明王などを配し、最外部には諸天が守護するという形をとっている。これらの像は、中心に近いほど大きく、最外部の諸天はもっとも小さい。


(金剛界曼荼羅:教王護国寺)

金剛界曼荼羅図は、画面を縦横三分割、計九つの四角形に分割し、それぞれの四角形に諸仏を描いたものである。上段中央の区画には大日如来が大きく描かれているが、大日如来は、ここだけでなく、ほかの区画に描かれることもある。というのは、金剛界曼荼羅は別名を九会曼荼羅ともいうように、九つの区画それぞれが曼荼羅をあらわしているとされるからである。

一見してわかるように、金剛界曼荼羅図は、四角と円とを組み合わせた、幾何学的な構成になっている。
https://j-art.hix05.com/06heian/heian01.mandara.html
3:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:48:47

密教建築1:高野山金剛峰寺
https://j-art.hix05.com/06heian/heian02.koyasan.html

(金剛峰寺不動堂)

日本で最初の密教建築といえば、空海が高野山に造立した金剛峰寺である。金剛峰寺の諸伽藍は、消失と再建を重ね、現存するものは、最も古い不動堂や大会堂でも12世紀末より先には遡らない。しかし、個々の建物はかなりな程度、創建当時の面影を帯びていると言われている。

金剛峰寺の密教建築としての意義は、個々の建物よりも、それらの配置のあり方にある。それは、山上の平地に二つの塔を左右に並べ、その中間前方に講堂を置き、後方に僧坊を配するというものである。二つの塔は、所謂多宝塔形式で、向かって右側が根本大塔、左側が西塔である。根本大塔のほうは大日経の教えを視覚化し、西塔のほうは金剛頂経の教えを視覚化している。それ故両塔合せて両界曼荼羅を空間的に展開したものということができる。

この形式は、日本ではほかに見られないものであり、空海の独創によるものである。奈良仏教の伽藍を見慣れたものには、かなり異様に映ったことだろうと思われる。とりわけ、従来の五重塔や三重の塔とは異なった多宝塔のありさまは、密教寺院のシンボルとして受け取られた。金剛峰寺に類似した伽藍配置は以後作られることはなかったが、多宝塔の方は、密教寺院のシンボルとして、各地に作られていった。

なお、現存する金剛峰寺多宝塔は、西塔が1834(天保5)年、根本大塔が1937(昭和12)年の再建になるものである。
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4:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:49:23

密教建築2:教王護国寺(東寺)
https://j-art.hix05.com/06heian/heian03.touji.html

(北東側から見た教王護国寺:左が五重の塔、右が講堂(手前)と金堂)

空海の真言密教には、僧侶の修行という面と衆生の救済という面との両面があるが、そのうち僧侶の修行の拠点として作られたのが高野山金剛峰寺であり、衆生の救済及び国家鎮護の場として位置付けられたのが教王護国寺(東寺)である。この寺はもともと、平安遷都に伴い、国家鎮護のための官営寺として計画されたものであった。その計画によれば、平安京の南端に東西二つの寺院が対になって整備されることになっていた。そのうちの東側の寺(東寺)を、空海に深く心服していた嵯峨天皇が、空海に与え造営をゆだねた。そこで空海は、これを教王護国寺と名づけ、国家鎮護の役割を果たさせるとともに、衆生救済の拠点とも位置付けたわけである。

この寺の伽藍の配置等が、金剛峰寺とは違って、奈良時代以来の伝統的な様式にしたがっているのは、官営寺としてすでにあった計画に制約されたためだろうとされる。

南大門をくぐるとその先に、金堂、講堂、食堂が一直線上に並び、その右手手前の東南隅に五重の塔が、その反対側の西南隅に灌頂院が配置されている。

このように、伽藍配置と五重の塔の様式は伝統に従ったものであるが、建物内部は密教の思想に従った仏像配置がなされている。とりわけ重要なのは講堂で、そこには金剛曼荼羅の世界が視覚化される形で諸仏の配置がなされている。すなわち、中央に大日如来と四仏が、そのまわりに菩薩、諸天、明王などが規則的に配置されている。五重の塔の内部には、大日如来を除いた金剛曼荼羅の諸仏が配置されている。

金堂、講堂など主要伽藍は文明十八(1486)年に焼失、五重の塔も度々消失を重ねた。現存するものは、金堂、講堂については慶長年間に豊臣秀頼の寄進によって再建されたもの、五重の塔については、寛永年間に徳川家光の寄進によって再建されたものである。なお五重の塔は高さが約55メートルあり、現存の木造建築としては世界最高である。
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5:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:50:04

密教建築3:室尾寺
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(室尾寺五重塔)

室尾寺は奈良時代末期の宝亀年間に興福寺の別院として創立された寺院である。それが真言宗に転じたのは、元禄年間のことである。したがって本来は密教寺院ではないが、山地にあって堂宇が自由に配置され、密教の山地伽藍の雰囲気を感じさせる。

建物は古いものが残っている。五重塔は室尾寺創建当時、奈良時代末期のものとされている。高さは16メートルばかりと、五重塔としては非常に小さい。しかしよく見ると、桧皮葺の緩い勾配の屋根や、軸部の組物、垂木など、いずれもがっしりとした構成になっており、見どころが多い。相輪は通常の竜車・宝珠に代えて宝蓋・宝瓶をつけた珍しい形をしている。


(室尾寺金堂)

室尾寺金堂は、創立よりやや遅れて平安時代初期に建てられたとされている。斜面を利用した建て方になっていて、建物本体の前面に礼堂と呼ばれる舞台状の構築物がせりだし、その床を束が支える構造になっている。このような建て方を懸崖造りといい、山岳寺院によく見られる形式である。

礼堂の部分は当初はなく、また屋根の形状ももともとは入母屋造りであった。現状のような形になったのは、寛文年間の大改修のときである。
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6:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:50:45

密教建築4:醍醐寺
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(醍醐寺金堂)

醍醐寺は空海の孫弟子である聖宝僧正を開基とし、醍醐、朱雀、村上三天皇の御願によって建立された。そんな経緯からして、密教寺院として強大な権威と勢力を誇った。

醍醐寺は醍醐山と呼ばれる山地に展開しており、山上と山下の二つの伽藍群からなる。山下伽藍は、金堂を中心として、60間の回廊を巡らし、中門、鐘楼、経蔵などを、左右対称に配置していたといわれる。しかし、永仁三年(1295)、文明2年(1470)と二度にわたって消失。その後豊臣秀吉によって再建が進められ、紀州の満願寺から堂を写して金堂とした。これが現在の金堂である。

金堂は正面7間、側面5間の大堂であり、平安時代末期ごろの建築と見られる。密教寺院の本堂で現存するものとしては、最も古いものの一つである。


(醍醐寺五重塔)

醍醐寺五重塔は、山下伽藍の東南に離れて立っている。金堂とは異なり消失を免れ、創建当時のままの姿である。創建は承平元年(931)朱雀天皇の御願によって始まり、天暦6年(952)に完成した。

高さ38メートルあまり、そのうち三分の一が相輪であるので、非常に安定感のある、しかも威風堂々とした感じを抱かせる塔となっている。

内部は彩色が施され、心柱覆板には両界曼荼羅が描かれている。そのほか、天部や真言八祖像などが描かれ、いかにも密教寺院らしい雰囲気を感じさせる。


(醍醐寺薬師堂)

山上伽藍は、堂舎を自由に配した密教山地伽藍の典型的形態を呈している。中心になる薬師堂は、寺院の創建当時から作られていたが、その後腐朽したため再建、保安5年(1124)に完成した。それが現在の薬師堂である。

桁行五間、梁間四間の規模で、中心部の内陣と庇部分の外陣とからなる。床は内外陣とも土間床で、内陣には組物間に蟇股を入れてある。
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7:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:51:19

密教建築5:石山寺
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(石山寺本堂)

滋賀県大津市にある石山寺は、奈良時代に創建された古い寺であるが、平安時代に密教寺院になった。醍醐寺の開基として知られる聖宝僧正が座主として入寺したと伝えられるから、醍醐寺の創建と同じ頃に密教化したものと思われる。

奈良時代に作られた本堂が焼失した後、永長元年(1096)に再建された。これが現在の本堂のうち、正堂部分である。正堂に接する礼堂部分は、慶長7年(1602)の建築である。正堂は桁行七間、梁間四間、礼堂は桁行九間、梁間四間で、この両者を奥行き一間の合間でつないでいる。

山地伽藍らしく斜面の上に立っているので、前面の舞台を束で支える懸造りになっている。正堂部分は土間床だが、礼堂の床は板敷きである。


(石山寺多宝塔)

石山寺多宝塔は、建久五年(1194)に作られた。それ以前には塔はなかったものと思われる。

この塔は、現存する多宝塔のなかでは最も古く、形態ももっとも美しいといわれる。上階の軸部は細く引き締まり、下階は広くがっしりとしている。屋根は桧皮葺で、緩やかな勾配を描き、美しい姿をしている。
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8:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:53:32

貞観彫刻1:神護寺薬師如来像
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(神護寺薬師如来像、木造、像高169.7cm)

京都神護寺の薬師如来像は貞観彫刻の初期の傑作である(9世紀初頭の制作)。神護寺は、もともと高尾山寺といって、最澄や空海とも深いつながりがある。空海が唐から帰朝して初めて灌頂を行ったのはこの寺においてである。その折にはこの薬師如来像はすでに寺にあったものと思われる。

この像は、奈良時代の仏像とかなり異なっている。まず、全身がマッシブと言ってよいほど量感的である。分厚さを感じさせる体躯に、これもまた量感たっぷりの衣装がかぶさり、切れ目の深い衣文が、衣装の量感をことさらに強調しているように見える。

頭部もまた非常にマッシブに作られている。とくに盛り上がった螺髪が圧倒的な迫力を感じさせる。面相は重厚さを感じさせる。切れ長の目とギリシャ風の鉤鼻、そしてきりりとしまった唇などは、日本人の表情と言うよりも、異国的な雰囲気を感じさせる。晩唐における密教彫刻の影響があるものと思われる。晩唐の密教彫刻にはインドの影響があるのだが、それが貞観彫刻にも伝えられているのではないか、と思われるわけである。

全身から台座の蓮肉までヒノキの一材から彫り出しており、内刳りを施していない。ただし両腕の半ばから先は、後世の補充である。
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9:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:54:06

貞観彫刻2:新薬師寺の薬師如来坐像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian09.shin-yakushi.html

(新薬師寺の薬師如来坐像、木造、像高190.3cm)

神護寺の薬師如来像とならんで、貞観彫刻の最も古い作品に新薬師寺の薬師如来坐像がある。ヒノキの一木彫で、背面に頭部に及ぶ長方形の内刳りをしてある。口ひげを墨で描き、唇を赤く塗ってあるほかは彩色を施しておらず、木彫りの素地を生かしている。

全体の印象としては、奈良時代の自然な姿の仏像に比べて、かなりな作為性を感じさせる。体躯のボリュームのある質感、表情のどぎつさ、衣文の切れ込みの鮮やかさなどは、奈良時代以前の仏像には見られなかったものである。

とくに顔の表情が印象的である。両眼をきっと見開き、上下の瞼が盛り上がったさまは、見る人をその視線に釘づけにするような迫力を湛えている。また、横からみると尖った鼻がギリシャ鼻を思わせ、体躯の厚みが一層強調されて見える。

衣文は深くて鋭く彫られている。注目すべきなのは、下腹部の茶杓型の断ち切られたような模様の衣文で、これは唐代の石彫りの仏像によく見られるものだそうである。
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10:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:54:44

貞観彫刻3:東大寺弥勒仏像
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(東大寺弥勒仏像、木造、像高39cm)

貞観彫刻には、形態を強調するあまりにデフォルメを強く感じさせるものがあるが、東大寺の弥勒仏像はその典型である。像高わずか39センチの小さな仏像にかかわらず、その迫力のゆえに、実物よりはるかに大きく感じさせる。

最大の特徴はその顔である。鋭い目つき、ギリシャ風の鼻、巨大な耳といったぐあいに、それぞれがデフォルメされたイメージを与える。また、やや前かがみになった姿勢は、見るものに襲い掛かってくるような雰囲気を感じさせる。これは、修行を旨とした密教に由来すると思われるが、それが密教寺院ではない東大寺に伝わるというのも面白い。もっとも、密教は奈良時代においても雑密というかたちで一定の普及をみていたわけであるから、東大寺に密教風のものがあっても決して不思議ではない。

弥勒は、本来は菩薩の姿であり、それも半跏思惟像のように深い思索を感じさせる雰囲気が相応しいのであるが、菩薩でありながら仏になることを約束されていたということから、このように如来の姿で表現させることもある。もっとも、その場合にも、この仏像のように荒々しい雰囲気で表現されることは珍しいといえる。
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11:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:55:16

貞観彫刻4:金剛峰寺大日如来像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian11.dainichi.html

(金剛峰寺大日如来像、木造、像高98.5cm)

密教といえば大日如来ということになるが、貞観彫刻のなかで大日如来像が残されているものは少ない。その貴重なものの一つが、金剛峰寺西塔の大日如来像である。これは西塔に安置されている五仏の中心となるものだが、ほかの四仏が徳川時代の作であるのに対し、西塔創建時(仁和年間<885-888>)のものと推定されている。

ヒノキの一木彫で、内刳りを施さず、堅固な造りであるが、烈しい損傷のために、あちこちに補修の跡がある。光背・台座は後世の補充であり、条帛や膝の上面に彫り直しのあとがみられ、また漆の箔も塗り直している。この像が国宝になれないのは、こうしたためかもしれない。

がっしりとした体躯、精悍な顔の表情、また今は後補の宝冠に隠れて消えないが、高く盛り上がった髻などに、貞観時代の仏像の特徴をみることができる。
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12:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:55:51

貞観彫刻5:向源寺十一面観音像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian12.kogenji.html

(向源寺十一面観音像、木造、像高177cm)

滋賀県長浜市にある向源寺は、現在は浄土真宗の寺であるが、もともとは渡岸寺といって延暦寺の末寺であった。この渡岸寺に伝わった十一面観音像は、密教の影響が色濃く見られる仏像で、貞観彫刻の代表的作品とされ、また日本の彫刻史上最高傑作との評価が高い。無論国宝である。

像本体は一木造りで、台座も本体と同じ材木から作られている。また、頭上の菩薩面は植え付けたものである。髪の部分は乾漆を盛り付けて整えてある。背面には、腰上と腰下とに内刳りが施されてある。

十一面のうち、二面は脇に、八面は頭上に拝し、頂点には大きな観音面を乗せている。通常観音像の頭上の頂点には如来を置くこととなっているものだが、この像の場合には、頂上の観音面のそのまた頭上に如来を置いている。また、この像は、両耳に大きなイアリングをつけているが、これもこの像のポイントのひとつである。

首をわずかに前に傾け、腰を軽く左にひねり、右足を踏み出して立っている姿は、躍動感と安定感が両立している。また、体躯は肉厚で、衣文までが表情豊かに刻まれている。これらの特徴は、晩唐の石仏にも見られるものであり、密教美術の特徴をなすものだといえる。
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13:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:56:25

貞観彫刻6:宝菩提院菩薩像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian13.hobodai.html

(宝菩提院菩薩像、木造、像高124.5cm)

京都の宝菩提院は東寺の塔頭の一つであったが、一時期荒廃した後、現在では願徳寺と名を変えて再興した。その本尊とされるものが貞観彫刻の傑作といわれる菩薩半跏像である。美術史上では宝菩提院菩薩像として知られる。

本体、蓮肉とも一木彫である。ただし、両腕の先端部及び踏み下げた右脚の足先部分は継ぎ足したものである。背面の内刳りはない。

一見して特徴とわかるものは、頭部の髻の装飾的な感じと、衣文の流れるようなリズム感だろう。このようなデコラティブな要素は、奈良時代の仏像には見られないものであり、表情の異国的な雰囲気と併せて、大陸の影響を強く感じさせるところといえる。

特に眼を引くのは、瞳に黒珠を嵌め込んである点である。これも、中国の晩唐時代の様式を感じさせる要素といえる。

この像が、単に菩薩像と言われているのは、観音像や他の菩薩像のように、イコンとなっている要素(たとえば観音なら化仏)がどこにも見られないためである。
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14:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:57:01

貞観彫刻7:神護寺五大虚空蔵菩薩像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian14.jingoji.html

(神護寺五大虚空蔵菩薩像、木芯乾漆造、像高はそれぞれ94-98cm)

神護寺の五大虚空蔵菩薩像は、承和年間(834-47)の末頃に、仁明天皇の発願により、空海の弟子真済が作ったとされる。虚空蔵菩薩は、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教では重視される菩薩である。それが五大虚空蔵菩薩となるのは、虚空蔵菩薩の五つの知恵をそれぞれあらわしたものとされる。(上の写真左から、金剛、業用、法界、蓮華、宝光の各虚空蔵菩薩)

体躯はそれぞれヒノキの一木彫で、内刳りはない。表面に乾漆を塗り、そこに顔の表情や衣文を描いている。また、全身に彩色を施してある。ただし彩色や宝冠、腕の一部には後世の補修の跡が見られる。

ひとつひとつの像を丁寧に見ると、肉厚の体躯や異国風の顔立ちなどに、貞観彫刻の特徴を見ることが出来る。
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15:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:57:33

貞観彫刻9:法華寺十一面観音像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian16.hokkeji.html

(法華寺十一面観音像、木造、像高100cm)

奈良の法華寺は、総国分尼寺として奈良時代に作られたものだが、本尊の十一面観音像は平安時代になってから作られた。貞観彫刻を代表するもののひとつである。檀像様式の傑作だが、材料にはカヤ材を用いている。檀像様式とは、本来は白檀を用いるが、日本には産しないので、かわりにカヤやサクラなどが用いられた。材質の堅さが特徴である。

高100cmと小振りながら迫力を感じさせる。肉厚の体躯や姿勢のしからしむるところだ。姿勢は腰をやや左にひねり、左足を踏み出してバランスをとっている。また、右腕はひざ下に達するほど長いが、不自然には見えない。その右上の手先でつまんだ衣の裾から裳裾にかけての衣文が、シャープな印象を与えるのは、堅い材質のせいもある。

檀像様式の特徴である素木作りであり、群青色の髪、朱色の唇などのほか彩色を施さない。髪先の部分は銅板でしつらえられ、瞳には金属が嵌められている。天冠上に載っている十面の像のうち頂上のものは、定石に従って如来の面である。

貞観彫刻のなかでは、最も優雅さを感じさせる逸品である。なお、この仏像は秘仏とされ、普段はコピーが観賞用に展示されている。
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16:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:58:06

貞観彫刻10:法性寺千手観音像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian17.hosshoji.html

(法性寺千手観音像、木造、像高110cm)

法性寺千手観音像は、法華寺十一面観音像と同じく、壇像様式の仏像である。これは、サクラ材を用いている。しかも、合掌手や宝鉢手も同じ材を用いて継ぎ足してある。腕は実際に千本あるわけではないが、一本一本が丁寧に彫られてある。

特徴的なのは、面の様子。通常は十一面のところ、この仏像には本面や両脇面を併せて合計27面もある。これらは今では漆を固めて作ってあるが、当初は本体と同じ木材から作られていたと思われる。

肉厚の体躯や衣文の深い彫りくちなどに貞観彫刻の特徴を感じさせるが、全体的な印象としては、静的で、穏やかな作風である。寺の創建と同じく10世紀に入っての制作と思われる。
https://j-art.hix05.com/06heian/heian17.hosshoji.html
17:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:58:41

貞観彫刻11:教王護国寺梵天・帝釈天像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian18.bonten.html

(教王護国寺梵天像、木芯乾漆造、像高100cm)

教王護国寺(東寺)は、京都における真言密教の大本山であり、密教美術の宝庫といえるほど、多くの貴重な美術品が残されている。この寺の圧巻はなんといっても両界曼荼羅図であるが、彫刻も天部や明王の像に見るべきものが多い。なかでも梵天・帝釈天像は、その原形的なイメージをもっとも忠実に表現したものとして貴重である。

というのも、東大寺など奈良時代の梵天・帝釈天像の多くが普通の人間の姿をしているのにたいして、これら一対の像は、野性的な雰囲気を漂わせ、鳥や獣の上に乗っている。

梵天像のほうは、四面四臂の坐像で、鵞鳥の上の蓮華座に座った姿である。本面以外の面は、損傷のため後補されたことがわかっている。また台座も近世に補充されたものである。


(教王護国寺帝釈天像、木芯乾漆造、像高106cm)

帝釈天のほうは、衣の下に鎧をつけた坐像で、像の背中に座っている。頭部と体躯の一部が後補とされている。

これら両像は、インド的な特徴が指摘されているが、それは空海が日本に持ち込んだものである。
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18:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:59:16

貞観彫刻12:教王護国寺四天王像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian19.shitenno.html

(教王護国寺四天王像のうち持国天像、木造、183cm)

教王護国寺の四天王像も、奈良時代以前の四天王像と比較して、インド的と思われる荒々しさに満ちている。本来普通の表情をしているはずの広目天、多聞天も荒々しい表情をかもし、憤怒相の持国天、増長天に至っては、その荒々しさが並み外れている。

これは持国天であるが、たとえば東大寺戒壇院のものと比較しても、その荒々しさは一目瞭然である。戒壇院の持国天も、邪鬼を踏みつけながら斜め前方を睨みつけているが、この持国天は、両手に武器を振りかざし、背中から憤怒の炎を燃え上がらせ、恐ろしい表情をしながら、足を踏み出して、いまにも敵に襲い掛かろうとする姿に描かれている。その憤怒の表情は、後の仁王像の原形になったと思われる。

なお、この像は、木彫りの表面に彩色を施し、一部に切金文様もまじる。
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19:777 :

2024/01/13 (Sat) 17:59:53

貞観彫刻13:教王護国寺の五大明王像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian20.myoo.html

(教王護国寺講堂不動明王像、木造彩色、像高173cm)

明王信仰は密教の登場に伴って生まれたもので、したがって明王像も平安時代以降に現れる。教王護国寺講堂に伝えられている五代明王像は、明王像の中でも最も古いものである。不動明王を中心にして、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の諸明王が阿取り囲むようにして立っている。いずれも、真言呪文の力を象徴する憤怒相である。

教王護国寺には、御影堂にも不動明王像が伝わっているが、講堂のものが古いと考えられる。総髪に結った弁髪を左肩に垂れ、両眼を開いているところ、また羂索を持つ左手をかなり外側に張り出しているところなどは両者共通だが、講堂のものの方が、彫口が荒々しい。なお、儀軌によれば、不動明王は、右手に降伏しないものを切る利剣を、左手に悪い人間をしばる羂索を持つこととされている。


(降三世明王、木造彩色、像高174cm)

降三世明王とは三千世界の支配者という意味である。三面八臂の姿で、正面は憤怒相をあらわし、手前の二本の腕で、降三世印という特殊な印相を結んでいる。また両足で、大自在天とその妻烏摩妃を踏みつけているが、これは降三世明王にだけ見られる特徴である。


(軍荼利明王、木造彩色、像高202cm)

軍荼利明王は、疫病をもたらす毘那夜迦天を調伏すると解釈されている。一面八臂の姿で、正面には三つの眼をつけ、手前の二本の腕で三鈷印を結び、両足で、亀頭神を踏みつけているのが特徴である。
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20:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:00:30

貞観彫刻14:教王護国寺の僧形八幡三神像
https://j-art.hix05.com/06heian/heian21.sogyo.html

(教王護国寺僧形八幡三神像のうち男神、木造、像高109cm)

密教はいわゆる神仏習合を進め、その過程で、日本古来の神を仏の化身と考える本地垂迹説のようなものが生まれてきた。それに伴い、仏像の中に、日本古来の神に僧形をさせたもの(神仏習合像とでもいうべきもの)があらわれるようになった。教王護国寺に伝わる僧形八幡三神像は、その最も古いもので、かつ神仏習合像の代表的な作品でもある。

八幡三神とは主神の男神である八幡大菩薩(応神天皇)と、二人の女神(神功皇后と仲津姫)のことである。

男神は剃髪した頭に法衣をつけた僧形の形を取っている点で、普通の仏像とは著しく趣を異にしている。そこには、仏の超越性よりも、現世的な人間性を感じさせるものがある。これは、神仏習合が、神社側の都合から始まったという、歴史的な経緯を反映しているのかもしれない。つまり、本地垂迹の仏たちは、人間的な悩みの化身として観念されていたと想像される。


(教王護国寺僧形八幡三神像のうち女神、木造、像高114cm)

男神が僧形をしているのにたいして、女神のほうは、当時の高貴な女性の姿を反映しているものと考えられる。

なお、これら三つの像は、いずれも同一の木材から作られたと思われるが、それは、木に対する当時の日本人の感覚(憑代としての木)を反映しているのかもしれない。
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21:777 :

2024/01/13 (Sat) 18:01:02

青蓮院不動明王図(青不動)
https://j-art.hix05.com/06heian/heian22.shoren.html

(青蓮院不動明王図、絹の掛軸、203.3×148.8cm)

密教絵画では、曼荼羅図と並んで不動明王図が多く描かれた。不動明王は観音菩薩と並んで密教における最も重要な崇拝対象であるが、観音像が奈良時代以前から作られていたのに対し、平安時代になってあらわれたものである。彫刻の形のものと図に描かれたものとがある。図に描かれた場合には、炎を背景にして、剣と羂索を両手にそれぞれ持ち、憤怒の相を見せ、両側に矜羯羅、制吒迦の両童子を控えさせているというのが典型的なものだが、単身であったり、両童子を片側にまとめて描いていたりと、様々なバリエーションがある。

不動明王図としてもっともオーソドックスな形に近いものとして、京都青蓮院の不動明王図が挙げられる。これは、十一世紀に作られたものだが、現存する不動明王図としては、最も古いものに属する。保存状態がよいのは、秘仏とされて来たためである。(現在でも現物は非公開である)

不動明王は画面やや左を向き、白目と白い牙をむき出して憤怒の相を呈している。右手に剣、左手に検索を持った姿勢で、岩石の上に坐し、両側には矜羯羅、制吒迦の両童子を従えている。この三者の織り成す三角形の構図が画面に安定感をもたらす一方、背後で燃え盛る炎が、躍動感をもたらしている。この静と動との見事なコントラストが、この絵の最大の魅力といってよい。
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2024/01/14 (Sun) 14:13:59

っせ
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2024/01/14 (Sun) 22:19:44

おおおお

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