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2024/01/08 (Mon) 20:47:43
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日本の名画・彫刻
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飛鳥時代の美術 _ 遺跡・古墳
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飛鳥時代の美術 _ 仏像・壁画
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飛鳥 石造物 - YouTube
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飛鳥寺 飛鳥大仏 - YouTube
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高松塚古墳 壁画 - YouTube
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キトラ古墳 壁画 - YouTube
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法隆寺金堂壁画 - YouTube
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法隆寺仏像 - YouTube
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法隆寺 百済観音 - YouTube
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山田寺(興福寺)仏頭 - YouTube
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飛鳥時代の美術
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第3回は今から1,400年前くらいの「飛鳥時代」です。日本にとっては本格的に外国との交流がはじまり、それまで原始的だったものが急に文化的なものになる、おもろい時代となっております。
飛鳥時代に仏教が伝来する
日本史ってみんな「縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良~」って習いましたよね。で、この流れの古墳時代と飛鳥時代のギャップってやばいと思います。
古墳時代以前はいわゆる原始的な人間というか「裸に布一枚で稲を耕す」みたいなイメージだと思いますが、飛鳥時代って突如「大化の改新」が起きたり、急に超立派な服を着た聖徳太子(今は「厩戸王(うまやとおう)」と教えられるらしい)が出てきたりするんですよ。「おい日本人急に進化したな。何があった?」みたいな状態になっちゃいますよね。
そんな進化しまくりな飛鳥時代において、もちろん美術も進化していきます。そんな進化の背景にあったのが、なんといっても中国・朝鮮との交流でした。538年に当時の中国・朝鮮の一部だった百済(くだら)という国の聖明王が当時の天皇・欽明帝に経典と仏像を送っています。
「ほい。これが仏っす。仏マジですごいんすよ。国を守ってくれるんですよ」みたいな感じで紹介したんですね。ここで仏教が伝来したことで、それにまつわる美術作品が大量に生まれました。
飛鳥時代当時の仏像・仏教の衝撃
始めて仏像を見た日本の欽明帝は「仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し」と感想を述べたそうです。「きらきらしい」という言葉は今でもありますが、イメージの通り「輝いている」とか「たいそうイケメンである」みたいな意味。つまりはすごく魅力的に見えたんですね。当時は仏教反対派も生まれましたが、最終的には受け入れる方向で決着しました。
この「日本人と仏との出会い」って、すごいインパクトだったと思うんですよ。それまで日本にも「信仰」の文化はありました。だからこそ古墳を作って弔っていたんですが、「かたち」のないものだったんですね。目に見えないものを長年信じてきた民族だったんです。
これを「アニミズム」といいます。アニミズムでは森羅万象に神様が宿る、みたいな考えなので、今の日本が多神教なのは縄文~古墳時代のアニミズムが関連している、というのが通説なんですね。今でもアレですよね。日本人は自然物に備わる神を信じるところがあると思います。樹齢数百年の屋久杉を抱きしめて「おぉ……パワー感じるわ~……」みたいなね。パワーストーンを財布に入れたらお金貯まるみたいなね。
そんななか、お隣の中国では人間の姿をした金ピカの「仏」という存在がいるわけですよ。この時に日本人は初めて信仰する対象の「かたち」を発見したわけです。だからもう「あ、ありがてぇ~」ってなったんですね。この事件を「仏教公伝」といいます。
だから飛鳥・奈良時代はもう仏にまつわる美術作品が出まくります。では実際にどんな作品が登場したのか。「建築・仏像」「絵画」の2つの軸でみていきましょう。
飛鳥時代の建築
建築といえば、まず思いつくのが601年、聖徳太子によって創建された「法隆寺」でしょう。日本の世界遺産第一号です。柿食ったら鐘が鳴るシステムの寺院です。
法隆寺
Nekosuki
なかには「日本最古の寺院」と思っている方もいるかもしれませんが、実は違います。「現存する日本最古の寺院・木造建築」は法隆寺ですが、作られた年でいうと583年の「飛鳥寺」が最古となっています。鎌倉時代の落雷による火災で大部分を失ってしまったんですけどね。
鞍作止利による人間ぽくない仏像
特に飛鳥寺・法隆寺をはじめ、寺院には仏像を設置するのがお決まりでした。当時は中国・朝鮮からやってきた人や、その技術を受け継ぐ職人によって作られました。なかでもこの時代の仏像づくりの立役者が、日本の仏師第一号「鞍作止利(くらつくりのとり)」さんです。代表作は法隆寺金堂の「釈迦三尊像」でしょう。
法隆寺金堂「釈迦三尊像」
Tori Busshi
彼の作品の特徴としては上下のまぶたが同じ弧を描いている「杏仁形の目」、「やせ型のボディ」「面長の顔」「服や布の皺がシンメトリー」、そして「アルカイック・スマイル」と呼ばれる微笑みです。アルカイック・スマイルは紀元前6世紀ごろの遠く離れたギリシャの彫像にも見られた特徴。ウルトラマンにもアルカイック・スマイルが用いられています。
▼関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第3回) ~ギリシャ美術編~
https://irohani.art/study/4358/
上記の特徴をひと言で表すと「抽象的で肉感が少ない表現」といえます。これは中国の「神仙思想」の影響を受けているものです。この様式は「止利様式(とりようしき)」と呼ばれます。
止利様式から初唐様式への変遷
しかしこの後、7世紀から8世紀初頭に進むにつれて、止利様式はだんだんと変化していきます。というのも、当時の日本は中国・朝鮮の変化にかなり引っ張られるんですね。特に618年に中国では隋が滅亡して唐が建国されました。
これを見た留学生が日本に帰ってきて「唐って国ができましたで。これ日本も体制強化せんとやばいっすよ」と言って、できたのが天智天皇と藤原鎌足の「大化の改新(645年)」です。その後、日本は百済と組んで唐・新羅(しらぎ)と「白村江の戦い(663年)」をしますが惨敗。「唐、超強えじゃん」となるわけです。しかしその結果、他国との戦いに供えるため戸籍制度などが整えられ、国としては強化されます。が、その後天智天皇と大海人皇子の古代最大の兄弟喧嘩「壬申の乱(672年)」でまた国は真っ二つになり、勝利した大海人皇子は「天武天皇」になる……みたいな、もう唐をけん制しながら自国にも大忙し、みたいな時期なんですね。
そんななか、日本は「唐の文化を吸収しながら東アジアに通用する国家を作らないと!となるんです。しかし白村江の戦い以降は日唐の交流は経たれていたため、新羅を介して日本は唐の文化を吸収していきました。
その結果、仏像は止利様式を脱却して「初唐様式」に移行します。初頭様式で有名な作品は山田寺の薬師如来(仏頭)でしょう。
山田寺の薬師如来(仏頭)
AnonymousUnknown author
止利様式より若々しくなり、頭がデカくなりました。まぶたも上下均等ではなくなり、より人間らしくなった感じですね。西洋美術もそうですが、国家がビジネスライクになると、戦争が起こり、美術作品がリアリズムに近づく傾向があると思います。ルネサンス期も、第二次産業革命期も同じ傾向がありますね。
この後、初唐から盛唐へ、さらに仏像は進化を遂げていきますが、実は超内容が濃く、校長先生が寝るレベルで長くなっちゃうので、その詳細は次回の記事でご紹介しましょう。
飛鳥時代の絵画
飛鳥・奈良時代は絵画の文化が花開く時期です。古墳時代には抽象的にしか描かれなかった絵画が、仏教のおかげでものすごく具体的に作られるようになります。
というのも当時の絵画は今でいうYouTubeとかTwitterみたいな、情報拡散のメディアとして機能していたんですね。だから日本人になじみがなかった仏教を「仏ってこんな人なんですよ~」と伝える目的で描かれました。
法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」
BENRIDO
法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」です。元ネタはインドのアジャンタ石窟寺院の壁画ともいわれますね。「顔の印影をつけるために隈取りが描かれている点」「同じ太さで描かれている点(鉄線描)」が共通しています。個人的には左右の二人が謎にふてくされてるのがジワジワくる一枚です。
高松塚古墳壁画の「西壁女子群像」
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こちらは高松塚古墳壁画の「西壁女子群像」です。ガールズトークしてますね。スカートが令和の今でも全然古くないくらいかわいくて、マジで素晴らしい。この服装は当時流行っていたファッションだと見られていて、高句麗の古墳壁画にも同じものが見られます。やはり、ファッションに至るまでむっちゃ影響を受けてたんですね。
Old replica before 1945
最後に正倉院の「鳥毛立女屏風」です。こちらは唐で流行していた女性画を日本でも真似て描かれたもので「今の唐ではこんな感じの絵が流行ってたんだぞ」というメッセージを持っています。
実際に当時の唐ではこうしたぽっちゃりした女性の絵が流行っていて、それは実は三大美女の一人・楊貴妃がモデルだったともいわれます。楊貴妃って実はそこそこぽっちゃりだったんですよね。
ただそれが「嫌だ!ぶちゃいくじゃん!」というわけではなくて、当時はまゆ毛もボディもふくよかな女性が美人の代名詞だったわけです。美醜の感覚は人と時代によって大きく左右されてきたわけですね。
史上まれに見る国際色豊かな時代
さて、今回は飛鳥時代の美術をお届けしました。この時代は本格的に他国との交流が始まり、今の日本文化の基礎が築かれた時代といってもよいでしょう。
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飛鳥・白鳳時代の美術
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka.index.html
仏教の伝来は、公式記録(日本書紀)では、欽明天皇七年(538)に百済の聖明王から我が国に仏像・経倫などが伝えられたのが始まりということになっている。受容にあたっては、複雑な反応もあったが、聖徳太子の時代(六世紀末)には、本格的に受容された。
仏教の受容とともに仏教寺院の建設も始まった。最初の仏教寺院は蘇我馬子が飛鳥に作った法興寺(飛鳥寺)である。日本書紀によれば、着工は592(崇峻五)年、完成は596(推古四)年である。その後、浪速の四天王寺と斑鳩の法隆寺が建てられた。法隆寺は、670(天智九)年に焼失し、その後30年以内に再建されたが、現存する木造建築物としては世界最古である。
仏教の受容の産物として、建築物だけではなく、仏像についても、古い物が残されている。それらには、大陸の仏教美術の模倣にとどまらず、日本独特の美意識が働いていると指摘できる。ここでは、日本史上初期の仏教美術について、俯瞰したい。飛鳥・白鵬時代それぞれの代表的な美術作品について画像を鑑賞しながら適宜解説を加えたいと思う。
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仏教の渡来と飛鳥時代の寺院建築:日本の美術
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仏教の渡来が日本にとって持った意義はまことに巨大であった。そのインパクトの大きさは明治維新に匹敵するといえば理解しやすいだろう。明治維新を契機にして、日本が西洋文化を取り入れ、急速に近代化、国際化を図ったのと同じように、仏教の伝来は古代日本社会のあらゆる部分に甚大な影響を与え、日本を極東の孤立した島国から、東アジアの国際社会における一員へと発展させていった。その過程で、仏教文化が広く浸透し、それが日本古来の文化と融合しながら、独自の日本文化を作り上げていく。
仏教の伝来は一時にしてなったものではない。公式記録(日本書紀)では、欽明天皇七年(538)に百済の聖明王から我が国に仏像・経倫などが伝えられたのが始まりということになっているが、実際には四世紀中葉から少しずつ伝来していたようである。四世紀中葉には、日本は朝鮮半島南部に一種の植民地として任那を保持しており、朝鮮半島の諸国とは色々な関係があった。そこでそれらの国々から様々な形で仏教が伝えられたことは十分に考えられる。
百済王による仏教使節の派遣には、当時の朝鮮半島の情勢が関わっていたと思われる。当時の朝鮮半島は三国時代であり、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅が割拠していた。任那は百済と新羅に囲まれていたかたちだが、日本では百済と同盟を結ぶことで、任那の安全保障を図ろうとした。百済王による使節派遣はだから、両国の友好関係を強化するための儀式だった側面がある。
こうして次第に伝来して来る仏教に対して、国内の支配層の態度は分裂していた。蘇我氏や大伴氏は百済との同盟を主張し仏教の受容に積極的だったのに対して、物部氏や中臣氏は新羅との関係を重視して廃仏の立場をとった。その背後には両勢力の権力闘争があったものと思われるが、その権力闘争に蘇我氏とこれを支持した聖徳太子が勝利し、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のラインが権力を掌握すると、仏教の受容は決定的なものとなった。
聖徳太子は遣隋使を送るなど日本の国際化に努力する一方、憲法十七条を定めて国内の統治機構を整備した。憲法の第二条には、「其不帰三宝、何以直枉(仏教に帰依せずして、どうして正しい行いができるだろうか)」と記しているが、それはすべての判断基準を仏教に求めようとするもので、聖徳太子がいかに仏教を重んじていたかがわかるところである。
仏教の受容とともに仏教寺院の建設も始まった。最初の仏教寺院は蘇我馬子が飛鳥に作った法興寺(飛鳥寺)である。日本書紀によれば、着工は592(崇峻五)年、完成は596(推古四)年である。着工に先立って百済から大勢の工人が呼び寄せられており、彼らの主導によって作られたと思われる。この寺は、1,196(建久七)年に焼失したが、発掘調査によって伽藍配置の状況が明らかになっている。塔を囲んで三方に金堂を配置し、それらを回廊で囲む。さらに回廊の外(北側)に隣接して講堂を配置するというものである。正面から見ると完全な左右対称になる。これは高句麗の清岩里廃寺にも見られるところから、高句麗の様式を採用したのだろうと推測される。
法興寺に続いて浪速の四天王寺と斑鳩の法隆寺が建てられた。正確な造営年次はどちらもわかっていないが、四天王寺はその後火災と再建を繰り返し、現在は原形をとどめていない。しかし発掘調査によって創建時の伽藍配置が明らかになっている。中門、塔、金堂、講堂を一直線上に並べ、中門と講堂とを回廊で結び、そのなかに塔と金堂を収めるというもので、これも正面から見ると完全な左右対称である。
法隆寺は聖徳太子の死後間もなく作られたようだが、670(天智九)年に焼失し、その後30年以内に再建された。この再建された法隆寺は現存する木造建築物としては世界最古である。発掘調査によると原法隆寺は四天王寺と同じ伽藍配置だった。現存のものは、それとは大分異なっている。
以上三つの寺は日本の仏教寺院史の最初期を飾る大寺院であるが、このほかにも多くの寺院が相次いで作られ、推古朝の末年(624)には、仏寺42、僧尼1385人を数えるに至った
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飛鳥時代の画家・彫刻家
鞍作 止利(岐阜県飛騨市河合町 飛鳥時代)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16834289
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2024/01/13 (Sat) 18:17:38
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法隆寺の伽藍:日本の美術
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka01.2.garan.html
(法隆寺遠景、平凡社刊「日本の美術4」)
現存する法隆寺の伽藍は、西暦670年の火災による消失の後、7世紀の末に再建されたものである。原法隆寺の北側に隣接して再建されたが、その際に、地形上の制約から、原法隆寺のように一直線上に伽藍群を配置することができなかったために、現在のような配置になったのだとする説があるが、本当のことはわかっていない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
7世紀の末といえば白鳳時代である。だから現存の法隆寺は白鳳建築ということになるが、それと飛鳥建築たる原法隆寺との間にどのような異同があるのか、詳しいことはわからない。原法隆寺についての建築学的な資料がほとんどないに等しいからだ。
それでも、法隆寺の再建にあたったのが、百済からやってきて原法隆寺の建設に携わった人々の子孫だということは分かっている。それ故、両者の間には何らかの共通点はあるのに違いない。
伽藍配置は、前稿で述べたように、中門とその反対側を結ぶ矩形の回廊で空間を仕切り、その空間の中に、左手に塔を、右手に金堂を、並べるという形をとっている。
回廊で囲まれた内部空間は、一面に白砂が敷かれているほかは、若干の樹木があるのみで、余計な装飾を省いている。その空間は広すぎもせず、また狭すぎもせず、装飾がないせいで高度に抽象的な印象を与える。
五重の塔は、まっすぐ上に向かって伸びているというよりは、巨大な瓦屋根が積み重なっているような印象を与える。軒のもつ水平のイメージがそのような印象を醸し出すのだと思われる。これはだから、西洋のゴシックの塔のように上に向かって垂直に伸びていくイメージではなく、地上に強く結びついたイメージである。五重の塔、あるいはその変形としての三重塔は、以後この法隆寺のイメージを原型として、作り続けられていった。
金堂は二層の建築物だが、単純な二階建てというのではなく、巨大な屋根が積み重なっているように見えるのは、五重の塔と同様である。このように、屋根を建物のポイントと考える傾向は、日本の建築の大きな特徴であるが、それが法隆寺に遡る古い起源のものだということを、改めて感じさせられる。百済から来た人々の美意識に根差したものなのか、あるいは日本固有の美意識を反映したものなのか、については、比較文化の研究対象となるであろう。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka01.2.garan.html
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2024/01/13 (Sat) 18:21:02
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飛鳥時代の仏像1:飛鳥大仏
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka02.daibutsu.html
(飛鳥の大仏、奈良安居院蔵、銅像、像高275.7cm)
日本最古の寺法興寺(飛鳥寺)の本尊は、今日飛鳥大仏と呼ばれている丈六の釈迦像である。法興寺の完成は日本書紀によれば596(推古四)年のことであるが、この仏像が完成したのはそれより遅れて609年のことと推定されている(606年説もある)。作者は鞍作止利、後に法隆寺金堂の釈迦三蔵像を作った仏師である。
平城遷都とともに飛鳥地方の諸寺院も奈良へ移転し、法興寺も移転して元興寺と名を改めたが、原法興寺の堂宇はそのまま残され、飛鳥大仏も引き続き飛鳥寺に残った。しかし、1196(建久七)年の雷火で堂宇はことごとく消失、大仏も大きく損傷し、その後、野ざらしのまま立っていた。現在安居院と呼ばれる本堂は1825(文政八)年に再建されたもので、その際に大仏にもかなり手が加えられたものと思われる。
現存の大仏像は単体であるが、作られた当初は法隆寺金堂の釈迦三尊と同じような形式であった。即ち大きな挙身光に包まれたかたちで、中央に釈迦像、両脇に脇侍が並ぶというものである。
現存の釈迦像は度々修復された結果、制作時とは大分異なっていると考えられている。制作時そのままの部分は、1933年の石田茂作の調査では、頭の上半分、左耳、右手の第2〜第4指のみだと推定されている。1973年の奈良国立文化財研究所による調査でも、頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2〜第4指のみだとされた。
こんなところから、全体の印象は法隆寺金堂の釈迦物とは大分異なって見えるが、当初から残っている部分について両者を対比すると、かなりな共通点があることを確認できるという。特に目は、よく似ていると言える。
ともあれ、日本最古の仏像と言えるこの釈迦像は、丈六仏の名にふさわしく、275センチ・メートルの高さを誇っている。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka02.daibutsu.html
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2024/01/13 (Sat) 18:21:42
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飛鳥時代の仏像2:法隆寺金堂釈迦三尊像
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka03.shaka.html
(法隆寺金堂釈迦三尊像、銅像、釈迦像高86.3cm)
法隆寺の本尊として金堂中の間に安置されている釈迦三尊像は、聖徳太子の等身像として作られたものだが、完成したのは太子の死後1年経った623(推古三十一)年である。作者は飛鳥仏と同じく、渡来系の仏師鞍作止利である。
大きな挙身光に包まれるようにして、中央に釈迦像が、両脇に脇侍が立っている。釈迦の像高は約86センチと、そんなに大きくはないが、大小二種の須弥坐(台座)を重ね、また上部に天涯を下げると、結構大きく見える。
釈迦は、大きな台座の上に結跏趺坐し、右手は施無畏の印、左手は与願の印を結んでいる。長い顔と長い首、目は下瞼が目尻のところで吊り上り、三角の大きな鼻と分厚い唇といったところが特徴で、異国の神の風情を感じさせる。額の白毫のところは欠損して釘だけが痛々しく残って見える。
光背(挙身光)は蓮華文を中心にしていくつかの同心円があり、その外側に火焔文が施され、その中に七身の仏像が置かれている。
両脇侍はそれぞれ、基底の上に据えられた蓮華の上に立っている。像高はそれぞれ約90センチメートルである。どちらも同じ姿勢をとっているので、左右対称には見えない。顔つきは釈迦とほぼ同じで、大きな宝冠を被り、地面にまで垂れ下がった衣の袖が特徴である。
この三尊像は、渡来人系の仏師鞍作止利が作ったこともあり、大陸、とくに北魏の影響が指摘されている。当時の日本には独自の仏像文化などはなかったわけだから、大陸から輸入するか、渡来人が大陸をモデルにして作ったか、そのどちらかであったわけである。
(法隆寺金堂薬師仏、銅像、像高63cm)
法隆寺金堂内にはもう一体、薬師仏が安置されている。釈迦物と非常によく似ている。ただ、その表情は釈迦像よりも柔和だという印象を与える。
光背に造像記があり、607(推古15)年に完成したと記してある。また、聖徳太子が用明天皇の命によって作ったとあるから、もしかしたらこれが、法隆寺のもともとの本尊ではなかったかとの推測もたてられている。もっともこれは、後世のデッチアゲで、この仏が作られたのは白鳳期だとする意見もないではない。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka03.shaka.html
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2024/01/13 (Sat) 18:22:25
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飛鳥時代の仏像3:法隆寺夢殿観音
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka04.yumedono.html
(法隆寺夢殿観音、木像、像高179.9cm)
夢殿観音の名でも知られる法隆寺夢殿の観音像は正式には救世観音という。仏像本体はクスノキの一木彫りで、高さは180センチメートルもある。顔や姿の特徴からして、飛鳥大仏や金堂釈迦三尊像と同じく北魏の仏像の影響を強く感じさせる。製作者の名は明記されていないが、前二者と同じ鞍作止利かその息のかかった人の制作になる可能性が高いと思われる。
顔が長く、鼻の形が三角形で、下の瞼が目尻のところで吊り上っているのは、金堂の釈迦本尊及び飛鳥大仏と似ている。しかしよく見て比較すると、飛鳥大仏が荒々しい男性らしさを感じさせ、釈迦仏が貴公子のような端正さを感じさせるとすれば、この観音像は女性的なやさしさを感じさせる。顔のみならず、姿勢からもそうした女性らしさが漂ってくるようだ。
法衣は長い下裳と左右にひきずるように伸びた天衣が特徴である。天衣は肘のあたりから先端にかけて五つの突起がついており、肩からはワラビ状の垂髪が伸びている。全体の印象としてほぼ完全なシンメトリーといえる。
唯一シンメトリーから外れるのは両手だ。違う角度に組み合わせた両手でマニ宝珠を持っているが、その手の様子が静的なシンメトリーではなく、動的な非対称性を感じさせるのだが、それがかえって仏像に動きの要素を付け加えているように見える。
冠と光背は銅製で、非常に精巧な模様が付されている。宝冠は円筒状で、冠帯の左右がはみ出し、中央部には三つの円座がつけられている。円座の中心にあるのは青玉である。光背には唐草文と火焔文が施されているが、その精密さは高度な技術を感じさせ、そこからも鞍作止利のような専門家の手の介在を推測させる。
観音像が乗っている複弁の蓮華座は別木で、飛鳥時代ではなく白鳳時代になって作られたとする説が強い。
なおこの像にも、作られた当初には、銅製のと同じように金箔が施されていたと考えられている。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka04.yumedono.html
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2024/01/13 (Sat) 18:22:59
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飛鳥時代の仏像4:広隆寺の半跏思惟像
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka05.kouryu.html
(広隆寺の半跏思惟像:木像、像高123.5cm)
7世紀後半の白鳳時代には弥勒菩薩の半跏思惟像が数多く作られるが、その模範あるいは先駆けとなったのが京都太秦の広隆寺にある半跏思惟像である。これは日本書紀が記するところの、新羅からの貢物が葛野の秦寺に安置された仏像だとすれば、623(推古31)年に新羅から到来したものだということになる。
赤松の一木彫で、像の高さは約123センチメートル。赤松を仏像の材料に使った例は、日本では他にないところとか、ソウルの徳壽宮美術館にそれによく似た金銅の弥勒像があることなどから、新羅からの舶来品だとの推測には十分な根拠があるといえる。
弥勒像は簡素な形の宝冠を抱き、両脚を半跏の形に組み合わせて台座に座り、右肘を組んだ足で支えている。そのため幾分か前かがみの姿勢になっている。かすかに微笑をたたえた顔はいかにも思惟しているということを感じさせる。
(法隆寺弥勒菩薩像、銅像、像高41.5cm、国立博物館蔵)
飛鳥時代の半跏思惟像としてはほかに、法隆寺献納御物中の弥勒菩薩像がある。これは、台座の下縁の記載から606(丙寅)年の制作とされており、また全体の印象が朝鮮のものと似ているため、朝鮮渡来のものと推測されている。
ともあれ飛鳥時代には朝鮮半島からいくつもの弥勒菩薩半跏思惟像が移入され、白鳳時代にはそれらをもとにして、日本製の半跏思惟像が多く作られるようになったのではないか、というふうに推測される。半跏思惟思惟像は、奈良時代以降には殆ど作られることがなくなったので、仏像の歴史上特異な存在であったということができよう。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka05.kouryu.html
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2024/01/13 (Sat) 18:23:33
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法隆寺玉虫厨子:日本の美術
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka06.tamamushi.html
(法隆寺玉虫厨子、木製、高さ232.7cm)
法隆寺の玉虫厨子は7世紀の半ばごろ、すなわち飛鳥時代から白鳳時代への過渡期に、日本で作られたと思われる。厨子とは仏像を安置する容れ物のことをいう。この厨子が玉虫と名付けられたわけは、柱、桁、台座などの縦横材の装飾の一部に玉虫の羽(五色に光るとされる)を用いていることにある。
全体の高さは232.7センチメートルで、建築部はヒノキ、彫刻部はクスノキを用いている。仏殿は二層の基壇からなり、上段には刳形の彫刻が施されている。屋根は入母屋造りで、正面は平入りになっている。瓦は錣葺きで、飛鳥時代によく作られたものであることから、飛鳥時代の建築様式を推察する手がかりを与えてくれる。
(玉虫厨子正面扉、神王像)
上層は正面及びその両側あわせて三面が扉になっている。下層はいづれも壁面である。そしてこれらすべての面に絵画が描かれている。我が国絵画史上最も古いもので、いずれも漆を用いた絵である。
上層の正面扉には、一対の神王を描いている。腰を張り首を巡らしたいわゆる三屈法の姿勢からして、四天王のうちの二人だと思われる。明確な線からなる線描画で、人物の躍動感を表現するのに成功している。
(玉虫厨子側面扉、観音像)
側面の扉には、一対の観音像が描かれている。二体とも長身で、蓮華座の上に立ち、片方の手で印を結び、もう片方の手で蓮枝を持っている。下裳{スカート}には北魏の仏像の影響が伺われるとの指摘もある。
上層背面には霊鷲山と思われる岩山と四人の比丘が描かれ、下層(須弥坐)には、梵香供養、海竜王宮、捨身飼虎、施身聞偈の図柄がそれぞれの面に描かれている。
本尊は観音菩薩の金銅像である。もともとは釈迦像だったらしいが、この観音像は白鳳期に作られたものである。
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2024/01/13 (Sat) 18:24:06
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白鳳時代の仏像1:百済観音像
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka07.kudara.html
(法隆寺百済観音像、木造、像高179.9cm)
7世紀後半から8世紀初頭にかけてのいわゆる白鳳時代は、飛鳥時代と天平時代に挟まれた時代だが、その意味で過渡期と位置付けることもできる。飛鳥時代の仏教美術が朝鮮半島を経由しながら北魏の強い影響(深い精神性)を受けているのに対して、天平時代は隋・唐の影響を受け、地上的・現世的な特徴が強い。したがって両者はほとんど共通するところがないほど、対立的な関係にあるといえるが、白鳳時代の日本の美術は、この対立を包み込んで、雑多な要素が混在している。単に過渡期と言うよりは、対立しあう雑多なものが共存した時期と言い換えることが出来る。
現在法隆寺の法蔵殿に安置(鎌倉時代に安置)されている百済観音像は、白鳳時代に作られた仏像としては、やや特殊な地位を占めている。異様に細長い体系、目鼻の小さな顔立ち、うねりを感じさせるようなリズミカルな姿勢といったこの像の特徴が、他に例を見ないのである。百済観音と名がついたのは、異国の風情を思わせるからかもしれないが、本体がクスノキ材、水瓶と蓮華座がヒノキ材でつくられていることから、日本製であることは確かだとされる。
寺伝では虚空蔵菩薩と呼ばれたとあるが、宝冠に化仏があることからも、観音像であることは間違いない。
蓮華座の上にすっくと立って前方をまっすぐ見据え、右手を水平に差し出して受け、左手で水瓶を持っている。宝冠は首飾り同様金属製の刺繍だが、大きな宝髷に比較して貧弱な印象を与える。光背は彫刻ではなく彩色である。彩色は本体にも施されている。胡粉で下塗りした上に色を塗り重ねている。
仏像は、偏袒右肩といって、内衣の襟は左から右にかけて下がっているのが基本だが、この像は逆になっている。髪は両側から垂れ下がって肩に密着している。
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2024/01/13 (Sat) 18:24:43
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白鳳時代の仏像2:中宮寺半跏思惟像
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka08.chuuguu.html
(中宮寺半跏思惟像、木造、高さ133cm)
白鳳時代から天平時代にかけて多くの半跏思惟像が作られた。これらの像は今ではいずれも弥勒菩薩像と言うことになっているが、中には如意輪観音と呼ばれていたものもあった(中宮寺ではいまでもそう呼んでいるようである)。しかし、大阪野中寺の半跏思像の台座銘に明確に弥勒菩薩とあるところから、ほぼ似たような形の半跏思惟像はいずれも弥勒菩薩だと断定されるようになった。
半跏思惟像の中で最も名高いのは中宮寺のものである。中宮寺は、聖徳太子の生母間人皇后の死後、その宮を寺としたものだが、鎌倉時代に現在地に移り、法隆寺の一部のようなかたちになっている。なお、原中宮寺は現在地より東に300メートルほどの地点に位置し、その心礎が残っている。
大きな台座の上に腰をおろし、右足を左膝の上に乗せ(半跏)、更に右ひじを右ひざの上において、あたかも考え事をしているかのようであるところから、半跏思惟像と呼ばれる。これは弥勒菩薩の修行の様子を現しているのだと解釈されている。
上半身は裸体で、下半身は下裳に覆われている。双髷を結い、左右の髪が両肩に垂れかかって、ワラビ状の形を呈している。光背は彫刻が施され、古式を保っているといわれる。
顔はふくよかで、体つきも全体として豊満なイメージである。半跏思惟像はもともと渡来像として入ってきたわけだが、日本化される過程で、このように人間臭さのただよう形へと変わってきたのだと思われる。なお材質はクスノキ材である。
(野中寺半跏思惟像、銅像、高さ31.2cm)
大阪野中寺の半跏思惟像は、台座銘から666年に作られたことがわかっている。これは中宮寺とは違って木造ではなく、金銅像で、高さ僅か31センチ余りの小さな像である。
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2024/01/13 (Sat) 18:25:17
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白鳳時代の仏像3:夢違観音
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka09.yumetagai.html
(法隆寺夢違観音、銅像、高さ87cm)
白鳳時代も後期になると、仏像の人間臭さが目立ってきて、豊満な肉体を感じさせるものが多く現れる。その代表的なものは、法隆寺宝蔵にある夢違観音だ。ふっくらとした顔、肉付きのよい体つきが、いかにも人間的な地上性を感じさせる。
高さ87センチの立像で、金銅製である。大きく結った宝髷の周囲に三面宝冠を被っている。シンプルな瓔珞の胸飾りを懸け、天衣の裾を両手に受け、左手の先で小壺を持っている。また、下裳はやや扁平であるが単純なカーブを描いている。全体としてシンプルで、人間性を前面に押し出しているところが、奈良時代に近いことを感じさせる。
(深大寺釈迦仏、銅像、高さ81.8cm)
このように、人間性を強調した仏像として、東京深大寺の釈迦仏があげられる。高さ約81センチメートルの銅像である。これは腰かけているところから弥勒菩薩とも、あるいは印相の形から薬師如来とも似ているが、いちおう如来像ということになっている。この像も、ふくよかな顔つきと肉付きのよい体つき、そしてシンプルな装いが特徴である。
なお、夢違観音の名前の由来は、この観音を拝むと悪夢から逃れさせてくれるという信仰に基づく。もっともこれは近世以降の俗説のようなので、もともとは単に観音菩薩と呼ばれていたのであろう。
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2024/01/13 (Sat) 18:25:52
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白鳳時代の仏像4:橘夫人念持仏
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka10.tachibana.html
(橘夫人厨子)
法隆寺所蔵の厨子には、玉虫厨子の他にもうひとつ、橘夫人厨子と伝えられるものがあって、そのなかに小さな阿弥陀三尊像が収められている。この厨子は藤原不比等の妻で光明皇后(聖武天皇の皇后)の母となった藤原三千代の念持仏を収め、婦人の個人的な信仰に用いられていたと推測されている。
厨子は斗張型で宮殿型の玉虫厨子とは異なっている。全体の高さは約263センチメートル、三尊像の高さが60センチセンチメートル余りである。
(橘夫人念持仏)
仏像は中央が阿弥陀如来、左側が観音菩薩、右側が勢至菩薩、いずれも金銅像である。阿弥陀如来は大きな蓮華座の上に坐しているが、大部分の阿弥陀像と異なって、この阿弥陀像は釈迦像と同じ印相をしている。すなわち右手が施無畏印、左手が与願印である。両脇の菩薩もそれぞれ蓮華座の上に立ち、観音は化仏、勢至は水瓶を宝冠に埋め込んである。それぞれ、慈悲と救済の象徴である。
仏像の後ろには、供養天人像の浮彫を施した衝立がおいてある。蓮池から蓮枝がのび、蓮の花弁の上には浄土に生まれ変わったばかりの仮仏が休息しているという絵柄である。阿弥陀信仰が本格化するのは平安時代にはいってからであるが、すでにこの頃から信仰を集め始めていたことを窺わせる。
仏像の表現はいかにも人間的で、白鳳時代末期の特徴を感じさせる傑作である。
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2024/01/13 (Sat) 18:26:31
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法隆寺金堂壁画
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka11.hekiga.html
(法隆寺金堂壁画のうち阿弥陀浄土図)
法隆寺には五重の塔と金堂にそれぞれ壁画が施されていた。いた、というのは金堂の壁画の大部分が、昭和49年の解体修理中の不審火によって焼失してしまったからである。現在あるものは、その後になって模写物を埋め込んだものである。焼失したのは、金堂外陣にあった12面の壁画と、その上部の小壁に描かれていた18面の山中羅漢図である。内陣の20面からなる飛天の壁画は、火災の際には取り外されて別の所に保管されていたために無事であった。
金堂外陣の壁面には、柱と柱の間に、大壁が4面、小壁が8面あり、そのうち大壁には四仏浄土図が、小壁には8菩薩図が描かれていた。壁面の高さは約310センチメートル、横幅は大壁で約260センチ、小壁で約155センチメートルである。
四仏のうち正体が明らかなのは、西側の壁面に描かれた阿弥陀浄土図(上の写真)である。蓮華座に坐し、両手を胸の前で天法輪印に結び、左右の脇侍はそれぞれ宝冠に化仏と宝瓶があることから観音菩薩と勢至菩薩であることが明らかである。このような特徴を併せ持つのは阿弥陀如来のみであるから、この像については、人による異存は生じていない。
残りの三つは、それぞれ釈迦、薬師、弥勒であると考えられるが、どの壁画がどの仏を描いているのかについては、学者の間でも意見が異なっている。その中で有力なのは、阿弥陀浄土図の対面にあるものを釈迦とする意見である。これは両側に脇侍を従えているほかに十人の羅漢を従えているが、これは十大弟子をあらわすと考えられ、十大弟子だとすれば、本尊は釈迦に違いないと考えられるからである。
(法隆寺金堂壁画のうち飛天図)
飛天の壁画は20面あるが、図柄はどれも同じで、二人の飛翔する天人を描いたものである。すべて同じ下絵に基づいて描かれたと思われる。サイズは縦約71センチ、横約136センチメートルである。
絵画の様式には、唐の影響が伺われると指摘されている。これを以て、天平絵画の始まりだとする意見もある。天平絵画というのは、仏像もそうであるが、ふくよかで円満な身体と質感を伴った衣装といった具合に、信仰の精神性よりも現世の御利益に着目した人間臭い内実をもったものと指摘できる。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka11.hekiga.html
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2024/01/13 (Sat) 18:27:07
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法隆寺五重塔の塑像
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka12.neha.html
(法隆寺五重塔の塑像群:釈迦涅槃)
法隆寺五重塔下層の中心部に、一群の塑像が置かれている。これは四天柱を取り囲んで壁を作り、その壁に龕を作り、龕の内部に岩塊をしつらえて、そこに塑像を並べたものである。塑像群は、東面が弥勒菩薩と維摩居士の問答、西面が釈迦仏舎利、南面が弥勒浄土、北面が釈迦涅槃の様子を、それぞれ表現している。
もっとも迫力があるのは、北面の釈迦涅槃である。死に面した釈迦が台座の上に横たわり、その周囲を十大弟子たちや聴聞衆が取り囲む。弟子たちはみな号泣する姿であらわされている。すべて裸体の上半身の左肩から衣を掛け、頭は剃っている。天を仰いで歯を食いしばる者、両手で胸を叩いて号泣する者、拳を握り、頭をかきむしって号泣する者もいる。その声が塔内の空間に響き渡るような錯覚さえ起こさせる。
これらは、その表情の迫真性からして、日本彫刻史上の傑作といえるが、仏教理解と言う点では、限界があると加藤周一は言っている(日本美術の心とかたち)。たとえば、これを敦煌莫高窟の仏陀の涅槃像と比較すると、それが良くわかるという。そこでは、中央に大きな像がよこたわり、その左右に未来仏と過去仏が立つ。このことで、仏の死と言うのはいまの瞬間的な出来事として終わるのではないという思想を表現しているわけである。
仏の諸相に対応するかのように、周囲の壁画に描かれている像は、上層の菩薩、中程の弟子たち、下層の外道というように三層からなり、泣き悲しんでいるのは弟子たちだけである。上層の菩薩にとっては、仏の死は未来で生まれ変わることを意味し、外道の人々にとっては、何ら関心のないことである。
つまり、敦煌の莫高窟の塑像群は、仏の死を様々な立ち位置から重層的に捉えているといえる。これに対して、日本のそれは今現在に注意を集中している。そこが、仏教理解がまだ不十分なことの証拠だと、加藤はいうわけである。
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2024/01/13 (Sat) 18:27:45
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当麻寺の塑像と乾漆像
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(当麻寺金堂弥勒仏 塑像 像高約220cm)
奈良県の当麻寺には現存する日本最古の塑像と乾漆像がある。本尊の弥勒仏(塑像)と従者の四天王像(乾漆像)である。塑像は685(天武13)年に開眼し、当初は左右に脇侍を従えていたと推測される。また、四天王像は本尊よりやや遅れて作られた。本尊仏も四天王像も1180(治承四)年の兵火で損傷したため、補修の跡が多く残っている。
本尊仏は台座の上に結跏趺坐し、釈迦と同じ施無畏・与願印をとっている。現在では弥勒仏とされているが、当初からそうであったのか、或は釈迦であったものが途中から弥勒にかわったということも考えられる。
像の様式には隋や新羅の影響を指摘するものもあるが、同年に開眼した山田寺の仏頭同様に、我が国の内発的な様式だとする見方の方が強い。その見方によれば、これは天平仏の先駆者という位置づけになるが、天平仏には隋・唐様式の影響が指摘されるから、堂々巡りの議論になりかねないところがある。
台座は干乾煉瓦で中心部を固めた上に塑土を塗っていたと考えられる。本体は全体が塑像である。ただし、羅髪の部分は塑土が剥落したために、一部分木材で補充されているが、大部分は剥落したままである。
(当麻寺金堂増長天像 乾漆像 像高さ約216cm)
当麻寺の四天王像は我国最初の乾漆像であるとともに、四天王像としては法隆寺についで古いものである。上述したように損傷による補修の手が多く入っており、増長天像も、下半身、両襟、両袖が木材で補修されている。
四天王像と言えば、憤怒の表情をし、かつ身体をダイナミックに動かしているというものが多いが、この四天王像は、表情も穏やかで仕草も静かさを感じさせる。
乾漆像は天平時代以降さかんに作られることになるが、これはその先駆的な作品である。
https://j-art.hix05.com/02asuka/asuka13.taima.html
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2024/02/29 (Thu) 12:48:26
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【高松塚古墳】極彩色壁画を再現
考古学チャンネル
2024/01/20
https://www.youtube.com/watch?v=l8ucp2UCIYI
【高松塚古墳】極彩色壁画を再現
考古学チャンネルです。この動画は、高松塚古墳の壁画について紹介した動画です。
高松塚古墳は、明日香村の南部、天武・持統天皇陵を始めとした皇族クラスの古墳が集中する一角に築かれています。直径23m、高さ5mの2段築成の円墳です。1972年に発掘調査が行われ、極彩色の壁画が見つかったことで広く知られています。仁徳天皇陵古墳、石舞台古墳と並んで、日本で最も有名な古墳の1つではないでしょうか。
ただ、西壁の女性群像があまりにも有名で、他の壁画についてや、全体の様子、そして完成当時はどのような姿であったのかは、意外に知られていないのではないでしょうか。今回は刊行されている資料から高松塚古墳の壁画を再現してみました。精度はそれなりですので、あくまでもこんな雰囲気なのかという事を知っていただければと思います。
出土遺物には海獣葡萄鏡、ガラス製玉類942個、琥珀製丸玉2個、太刀金具等が出土し、7世紀末~8世紀初めの築造と考えられています。また、飾金具、釘、漆膜破片などの出土から、漆塗りの木棺が収められていたことがわかりました。
被葬者は諸説あり確定していませんが、石槨内からは歯やあごの骨が出土しており、熟年の男性と推測されており、天武天皇の皇子である忍壁皇子や高市皇子といった、天皇に極めて近い皇族とする説や、阿倍御主人(あべのみうし)等の有力官人とする説がありますが、結論は出ていません。
高松塚古墳の、合計16人の男女群像は、何を現わしているのでしょうか。壁画を俯瞰すると、彼等のほとんどは南に向かっており、色々な物を手に持っています。男子が先導し、後続する女性達を待っており、女性達は被葬者の頭の横に寄り添って被葬者を促して南に向かって、少しずつ歩き出すかのように描かれています。これについては、彼等は共に野外の遊興のために外出することで、主人である被葬者を慰めようとしている、出行図とする説や、被葬者が儀礼に向かう際の従者を描いたとする説、天武天皇の即位に関わる儀礼を描いたとする説などがあり、未だ謎のままです。
また、四神、天文図、日月は被葬者の周囲を取り囲んで、安静な永遠の眠りを守っていると考えられます。
このような構図は、 中国から東アジアに広く共有された画題で、高松塚古墳がこうした文化的な背景から強い影響を受けている事が伺えます。
高松塚古墳の壁画は、キトラ古墳の壁画と共に、法隆寺金堂壁画と並んで最も古いものです。高松塚古墳の壁画は、当初は現地で保存されていましたが、カビなどの要因による劣化を食い止めることが出来ず、解体されて修復が行われました。現在の技術では現地での保存は困難で、施設で保存されています。そう考えると、1972年の発見まで、このように鮮やかな色彩を保って残ってきたことは、奇跡のように思えます。長く後世に伝えられることを期待したいですね。