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2024/01/03 (Wed) 21:29:55
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日本の名画・彫刻
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弥生時代の美術 _ 弥生遺跡
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弥生時代の美術 _ 弥生土器・銅鐸
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弥生時代の美術 _ 銅鏡・青銅器
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徹底解説!日本の美術史④「弥生時代の土器」:煮炊き・盛り付け・保存用の容器から宗教的儀式に使われた「聖なる」赤色の食器まで
美術史チャンネル
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弥生土器 - YouTube
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銅鐸 - YouTube
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勾玉 - YouTube
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銅剣 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%85%E5%89%A3
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弥生時代の美術作品
弥生時代。紀元前300年ごろ~300年ごろの時代です。作り方で言うと、焼き上げの方法が変わりました。弥生土器も縄文土器と同じく「紐作り」ですが、縄文土器が土器の下に草を敷いて焼くことで固めていたのに対して、弥生土器は土でドームを作って焼くようになりました。今の窯の原型です。
縄文土器より高温で焼けるようなった。その結果、縄文土器より丈夫になったという背景があります。
弥生土器の洗練されたデザイン
美術史的にみると弥生土器と縄文土器の大きな違いはデザイン性。もうなんかめっちゃシンプルで洗練されました。
壺 弥生時代(前期)奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡出土 東京国立博物館蔵
ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan)
「なんでシンプルになったのか」。その理由は一概には定義づけられません。例えば縄文時代の呪術や信仰といった文化が弥生時代で変わったから模様を付ける必要がなくなった説があります。
また機能的なところでいうと、弥生時代は大陸の人がたくさんやってきます。それで人口爆発したので、縄文土器のような複雑な形を作るのがめんどくさくなった説もあります。
ただデザインとして「縄文土器が優れていて、弥生土器が劣っている」というわけではありません。デザインの言葉には「Less is More(少ないほうが豊か)」という常識があります。西洋美術史でいうと、20世紀のデザイン学校「バウハウス」に代表されるように、少ないデザインで最大の効果を得るということが、優れているとされることもあります。
そう考えると、派っ手派手な縄文土器を何千年も見てきた当時の人は「いやいや、それあざといから。こっちのほうがかっけぇっしょ」とミニマリスト的に要素を減らしたのかもしれないです。
縄文・弥生時代を舐めちゃいかんぜよ
日本美術史、第1回は縄文・弥生時代の美術、というか土器について紹介しました。縄文土器っておもしろいですよね。ただ調理したり、貯蔵したりするだけなら、別に模様なんて付ける必要ないわけです。しかし土を焼く前に火焔型土器みたいな形にしちゃう。したくなる。ここに人間の美意識が詰まっているような気がします。
もちろん呪術的な意味合いや、もしかしたら機能的デザインの一部だったのかもしれません。しかし数千年前の人類もまた「どうせ作るんなら、カッコよくしようぜ」みたいな感覚があったんじゃないかな、と思います。いま私たちは日常でいろんなクリエイティブやアートに触れ、良くも悪くも“知ってしまった”。しかしほとんど何も知らなかった縄文人が造形したのが、あの形なんですね。この感覚はおもしろいっすよね。だって、絶対使いにくいもん。でも遊びたいんですよね。人間って変!
ということで、次回は「古墳時代の美術」について、たっぷり紹介したいと思います。造形のほか、絵画作品も登場し始める「日本美術史的には第一の分岐点」です。
https://irohani.art/study/11111/
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2024/01/13 (Sat) 18:54:44
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弥生土器
https://j-art.hix05.com/01prehistory/pre05.yayoidoki.html
(弥生土器:奈良県田原本町出土)
弥生文化は紀元前200年前後から始まるが、それは稲作栽培の広範な導入を伴った。稲作の普及によって生産力は飛躍的に高まり、また、人々の生活様式をも変えていった。即ち稲作は労働集約的であることから、村落共同体の発展をうながし、また水田の水を管理するため、村落共同体は「環濠集落」という形をとった。水を導くための堀を巡らした集落のことである。
こうして弥生時代の日本人は、村落共同体の中で、その一員として生活するようになる。共同体は共同で様々な労働を行う一方、共同体の維持を目的とした様々な儀式・行事を行うようになる。弥生時代の土器や金属器の多くは、こうした儀式・行事に使うことを目的に作られたものである。
弥生土器には主に三つの形がある。煮炊きするための甕、保存するための壺、食べ物を盛るための高坏である。壺は米などの保存に使われ、高坏は行事や儀式に用いられたと考えられる。このほか、個人用の食器として鉢が使われた。
弥生土器は低温で焼かれ、縄文土器より硬い。縄文土器のような波状の開口部はなく、表面の凹凸は少なく、全体の形は縄文土器よりずっとスッキリしている。円みを帯びて、しかも薄くできているのは、轆轤の技術があったことを思わせる。
また装飾を省いたものが多く、装飾があっても縄文土器に比べればずっとシンプルである。その模様には、箆描文や彩文など、幾何学的で規則的な装飾がみられる。
この時代には朝鮮半島から大量の金属器が輸入されているが、その金属器のすっきりした印象を土器に反映させたとも考えられる。
弥生土器が登場した後、すぐに縄文土器がなくなったわけではない。弥生文化は西日本から始まって次第に東へと移動していくのであるが、東北や北海道では稲の栽培に適さないところが多く、したがって弥生文化が浸透しなかったところもある。そうした地域ではかなり後まで、縄文文化が残った。また、弥生文化が浸透したところでも、弥生土器と縄文土器が混交するケースも多かった。
縄文土器と弥生土器をごく単純に比較すると、縄文の動に対して弥生の静ということになろう。縄文土器は躍動的で迫力がある。それに対して弥生土器は静的でしかも抽象性が高い。この二つの対極的な性質のうちでは、弥生式のほうがその後の日本の美術的感性に及ぼした影響が大きいといえるのではないか。
上の図像は、奈良県の田原元町から出土した弥生土器の一群。装飾は極力抑えられ、形はシンプルでしかも均整がとれている。
https://j-art.hix05.com/01prehistory/pre05.yayoidoki.html
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2024/01/13 (Sat) 18:56:03
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弥生時代の金属器
https://j-art.hix05.com/01prehistory/pre06.kinzoku.html
(弥生時代の銅鐸)
弥生時代には朝鮮半島から大量の金属器が輸入された。それには大きく二種類あった。ひとつは銅剣、銅矛、銅鐸、銅鏡などの青銅器であり、もうひとつは鉄製の農機具であった。縄文時代の日本人は金属というものを知らなかったので、日本は新石器時代から一挙に鉄器時代を迎えたということになる。
金属器は、最初は輸入されたが、次第に日本で作られるようになった。それにしたがって、形態や用途が日本人向けに変化していった。
たとえば銅剣。朝鮮半島製の銅剣は、細身で鋭い形をした武器であったが、日本で作られるようになると、幅広で長大なものになった。それは武器というにはあまりにも不細工なので、おそらくは武器以外の用途、たとえば共同体の権威の象徴として用いられた可能性がある。
また銅鐸は、朝鮮のは小型のものが多く、楽器として用いられていた。ところが日本では、大型、幅広となり、装飾も複雑となり、これも楽器としては適さないものになった。これも銅剣同様に共同体の権威の象徴としてか、祭祀用の器物として用いられた可能性がある。
銅鏡は文字通り化粧用の鑑であったが、日本では呪術の道具になったらしい。主として巫女が用い、後には神社の本体になった。
時代は下るが、皇室の三種の神器は、剣、鑑、玉からなっている。これはおそらく弥生時代における儀礼的な器物にその起源があるのではないかとも考えられる。
上の図像は弥生時代の銅鐸二点。左は流水文をあしらい、右は袈裟襷文をあしらっている。流水文は縄文土器にも見られたが、弥生時代になると一層規則性をまし、繊細な印象を与える。
袈裟襷文のほうは、銅鐸の表面を袈裟や襷を渡したように縦横の区切りをいれ、それぞれの区切りの空間の中に人や動物などを書き込んでいる。(美術出版社、日本美術史参照)
https://j-art.hix05.com/01prehistory/pre06.kinzoku.html