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ルネサンス美術

1:777 :

2024/01/02 (Tue) 17:23:18

ルネサンス美術

当時の大パトロン・メディチ家
https://irohani.art/study/4966/

特に今のK-POPアーティストを見ていると「いかに事務所の規模が大事か」が分かります。タレントであればスポンサー、相撲でいうとタニマチ……偉大な人の背景にはいつだってパトロンがいるわけです。その財力をもって活動ができ、プロモーションになり、知名度が高まるといった仕組みなんですね。

ルネサンスで教会や君主だけでなく、市民が作品の発注をするようになったのは前回書きました。なかでも大パトロンが銀行業で財を築いた「メディチ家」です。メディチ家はルネサンス前の14世紀なかごろからめちゃめちゃ儲かりはじめ、政治にも参入するようになり、15世紀末に没落するまで、芸術家に肖像画を描かせました。

パトロン・メディチ家
Pontormo


レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなど、メディチ家の恩恵を受けたアーティストはたくさんいますが、なかでもボッティチェッリはその最たる人です。
https://irohani.art/study/4966/


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いよいよみんな大好き「ダ・ヴィンチ」「ミケランジェロ」「ラファエロ」が登場。彼らの作品を通して、15世紀半ばからの盛期ルネサンス美術をみてみましょう。


ダ・ヴィンチというルネサンスを象徴するような超リアリスト

そんなダ・ヴィンチは死ぬほどリアリストで懐疑主義者でした。極端にいうと「自分の目で見たものしか信じない」という、もし口げんかになったらめっちゃ正論で攻めてくるタイプです。

「ペペロンチーノってうめぇよな」とか何の気なしに言ったら「それはいつ、どこで食べたもの?またなぜ美味しいんだい?食感?味付けかい?なぁ君がうまいというペペロンチーノを見せてから言ってくれ」とか早口で言ってきそうな感じの人です。

レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画
自画像
Leonardo da Vinci


このリアリズムのスタンスはルネサンスにおいてぴったりでした。ルネサンス時代の美術作品の1つが「写実主義」です。その背景の1つとして、もともとローマのキリスト教会や国が主なパトロンだったのが、だんだん市民のお金持ちも絵の発注をし始めたことがあります。またずっと遡ると「キリストだって人間だよ!」という考えが根付き始めたことも関係しているでしょう。

つまりルネサンス期のローマでは「人体や背景などをちゃんとリアリズムをもって描くこと」を意識し始めたんです。そのうえで絵の登場人物にはしっかりと感情(表情)が宿りましたし、遠近感も出始めました。


ダ・ヴィンチの発明

そんなダ・ヴィンチは「天使」を書く際に「天使の羽は見たことないけど鳥と同じなはずだ」と鳥の羽を見ながら宗教画を書いていたといいます。「受胎告知」でも確かに「オオワシかよ!」という感じで描かれていますね。

ダ・ヴィンチの「受胎告知」
「受胎告知」
Leonardo da Vinci


そんな現実主義の彼は「3次元には輪郭線がない」ということに気が付きました。輪郭線とはその通り顔の周りを描いた線のことです。前回に紹介した「ヴィーナスの誕生」でもしっかり輪郭線があります。

「ヴィーナスの誕生」(部分)


たしかに、こめかみ、頬、顎のラインが黒い人はいません。デーモン閣下すら輪郭は描いていません。そこでダ・ヴィンチは「スフマート」という技法を発明します。これは水に顔料を溶いて薄くしたものを指で何度も重ねるものです。

そしてスフマートを生かして描いたのが傑作「モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)」になります。顎のラインなど輪郭線が無いのが分かると思います。

「モナ・リザ」


またダ・ヴィンチは「あれ?近くに見えるものと遠くに見えるものでは色が違う!」ということも発見しました。どういうことかの例を持ち出してみましょう。

近くに見えるものと遠くに見えるものでは色が違う
写真AC

同じ山でも近くで見ると新緑ですが、遠くにいくにつれてモヤがかかり青みがかっていきます。この色の違いでも遠近感を出せることを発見するんですね。これを「空気遠近法」といいます。

「受胎告知」や「モナ・リザ」の背景でも空気遠近法がよく表れていますが「最後の晩餐」ではより分かりやすいです。

「最後の晩餐」


これらの発明はダ・ヴィンチが作り、後世に語り継がれる大発見となりました。その背景にあったのは左脳型の懐疑主義、そして強烈な好奇心だったのだと思います。



ルネサンスの合理主義を高めた若き天才・ラファエロ

ラファエロ・サンティの自画像
自画像
Raphael

ラファエロ・サンティのスゴさを見ていく前に「工房」の紹介をさせてください。ルネサンス当時は「工房を構える親方(マスター)」とその弟子の徒弟制で芸術家の社会は成り立っていました。

みんな10代で「頼もう!」と親方の工房の門を叩き、まずは雑用仕事から始まり、10年もすればようやく下書きなどを任せてもらえるようになり、下積みを積んで、親方に登録されたら独立、という職人っぽい感じだったんですね。

ラファエロも11歳で画家・ペルジーノの工房に入りますが、なんと独立したのは17歳という早さだったそうです。そんな彼の作品はとにかく合理的かつ明快。超分かりやすいんです。シンメトリーで、遠近法も正確、人体表現に誇張がない。

「聖母の結婚」
Raphael

「キリストの埋葬」
Raphael


師であるペルジーノのほか、ダ・ヴィンチやミケランジェロの手法を吸収しながらキャリアを重ねた彼の最高傑作が「アテネの学堂」でしょう。

「アテネの学堂」
Raphael


古代ギリシャの哲学者たちが集まって議論する様子を描いた1枚で、シンメトリーと完璧な一点透視図法がラファエロらしさを出しています。

時代や思想が違う哲学者を並べただけでなく、自分自身やダ・ヴィンチ、ミケランジェロの顔に似せて書いているのも特徴的で、また左右の像は別の宗教の神々、手前のアーチがだまし絵としても機能しているなど「ちょっと奇妙な仕掛け」がいくつもある、おもしろい絵です。

ラファエロは30代で亡くなりましたが、作品数はめちゃめちゃ多く、この合理的な絵は今後の西洋美術史において何百年も「お手本」とされました。めっちゃ早熟で、死後に評価される、というかっこよすぎる芸術家です。


ルネサンスの流れに逆らったマニエリスムを創始したミケランジェロ

御三家の最後はミケランジェロ・ブオナローティ。本業は彫刻家ですが、絵の腕も抜群でさらに建築もできて、詩も書けちゃう総合芸術家です。彼の作品で有名なのは「ダヴィデ像」。完璧といってもいいくらいのバランスで正確な人体を彫りました。台座も含めると600cmくらいあります。

「ダヴィデ像」
David Gaya


天才っぽいエピソードとしてミケランジェロはノミで彫る前に「大理石の声」を聞いていたそうです。「どうなりたいんだい?ふむふむツイストパーマの男か……OK」という感じでしょうか。やってることが、もうマンガのキャラクターですよね。

また彼は画家として「マニエリスム的な表現」をはじめてやったことでも知られています。その表現がしっかり出ているのが「聖家族(トンド・ドーニ)」です。

「聖家族(トンド・ドーニ)」
Michelangelo


向かって奥の「友だちのギャグを思い出し笑いする小学生」が可愛くて好きなのですが、ここでは置いておきます。

注目すべきは中央のマリアと、子どものイエスです。イエスを抱きかかえようとするマリアの腕や腰、首は激しくよじれています。イエスの腰もそうですね。ちょっと過度です。これを「セルペンティナータ(らせん状の)」といいます。

今までルネサンスでは「あるがままの姿を合理的に写実する」というブームだったんですが、ミケランジェロの作品はちょっと誇張しているんです。同時期の「アダムの創造」もやっぱりねじれています。

「アダムの創造」
Michelangelo


この絵から30年後に描いた「最後の審判」では400人以上の人が過度に筋骨隆々な姿であらわれます。もう6パックとかじゃないです。15パックくらい割れています。

「最後の審判」
Michelangelo


この見たままの姿以上の「美」を人工的に描くのを「マニエリスム」といい、ルネサンスが終わった後に本格的に流行ります(マニエリスムは第12回くらいで紹介する予定です)。ミケランジェロはまさしくマニエリスムの先駆者だったわけですね。
https://irohani.art/study/5118/


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北方ルネサンス
https://irohani.art/study/5282/

ルネサンスのサブカル!イタリア以外で起こった北方ルネサンスとは
日本で「サブカルチャー」というと、アニメやマンガ、文学、バンド、アイドル、演劇、映画、ひいてはアウトサイダー、都市伝説、廃墟、みうらじゅん、といったいわゆるまんだらけ、ヴィレッジ・ヴァンガードに乱雑に積み重なったナニカを思いつく方が多いのではないでしょうか。

ただ本来のサブカルは1960年代のヒッピー文化からスタートしたもので「決して大衆化はしないけど限られたコミュニティでワイワイやろうぜ」みたいな文化です。決してメジャーにはなれない、でも一部のコミュニティでは盛り上がる、それがサブカルチャーなのです。

北方ルネサンス

Derek Redmond and Paul Campbell


……さて「こいつ何の話してんだ」と戻るボタンを押しかけた方、すみません。つまり北方ルネサンスとは大きい目で見るとサブカルなんじゃないか、ということを伝えたかったんです(懺悔)。私たちにとって「ルネサンス」といえば、教科書にあったイタリア・ローマで起きた運動ですが、実は少し遅れて西ヨーロッパ諸国でも発生したんですね。

それを通称・北方ルネサンスといって、現代の私たちにとっては、イタリアのルネサンスに比べたらマイナーです。立派なサブカルチャーと捉えたほうがわかりやすいと思います。

ほぼ同時期の「モナ・リザ」とか「最後の晩餐」みたいな名画と比べると、ちょっと奇妙で、ちょっと怖くて幻想的……そんな「サブカルチック」な作品が多いのが特徴です。個人的には北方ルネサンス美術が好きな人は変態……いやものずk……もとい個性強めな方が多い気がします。

ルネサンス美術が北方まで広がった背景
イタリア・ローマでは1300年代初頭にはすでにルネサンス美術が開花していましたが、周りのヨーロッパ諸国にそれが広まったのは1400年代です。今のSNS時代では想像できないくらい乗り遅れました。

そもそも繊維業やら金融業が盛り上がって「市民(商人)」がパワーアップした結果、君主の統治を受けずに自分らで組織(ギルド)を作ってお金儲けをし始めたのがイタリア・ルネサンスの背景にありました。その結果、国とか教会だけでなく商人も絵を求め始めるんですね。

ただ北方諸国では君主とその家臣が中心となり国を仕切る「封建制」が強かったんです。それでなかなか市民が台頭できなかったんですね。ただそんな北方諸国、特にネーデルラント(今のオランダとベルギー)では毛織物などで賞に荷が盛り上がり、イタリアと同じような形でルネサンス美術が盛り上がります。

またフランスが宮殿の建設にダ・ヴィンチを雇用するなど、イタリアの芸術家が周りに進出し始めたこともあって、北方ルネサンスは広がりを見せるわけです。

異常なほど繊細な写実主義・初期フランドル派
北方ルネサンスのなかでも、特にネーデルラントで活躍した画家群を「初期フランドル派」といいます。代表的なのが以下の画家たちです。


● ロベルト・カンピン
● ヤン・ファン・エイク
● ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
● ハンス・メムリンク
● ヒエロニムス・ボス
● ピーテル・ブリューゲル

ネーデルラントの画家たちは創始者のロベルト・カンピンをはじめ、見たままの光景をリアルに描く「写実主義」をメインに描きました。また宗教画を書く際も「聖書の一場面だが舞台は現実世界」という、めちゃめちゃ斬新なテーマで描きました。

青森のリンゴ農家でアダムとイヴが禁断の紅玉喰うみたいな……、ちょっと麦わら帽子の農家さん見切れてる、みたいな感じですからね。めちゃ新しいです。

そして何より初期フランドル派の作品は、技術が進歩した今みてもすんごい緻密です。米粒にお経書くくらい精密に写真みたいな絵を描いています。では重要な画家たちを例に挙げつつざっくりと紹介していきましょう。

北方ルネサンス美術の創始者!ロベルト・カンピン
北方ルネサンスを始めたのは、通称「フレマールの画家」と呼ばれる画家です。これはロベルト・カンピンと同一人物だと“いわれて”います。彼は先述したように日常生活を舞台にして宗教画を描きました。

例えばマリアのところに天使(ガブリエル)がきて「はいあなたイエスを妊娠しましたよ。お産がんばってね~」と告げる『受胎告知』。かのダ・ヴィンチは1472年にこんな感じで描きました。


『受胎告知』
Leonardo da Vinci


“聖書っぽい”ですよね。「神の庭園」みたいなところでお告げがされてます。この絵に関しては前回の記事で紹介していますので、ここではあえてツッコみません。

この絵より約50年前にロベルト・カンピンが描いたのが、こちらです。


『メロードの祭壇画』(受胎告知)
Workshop of Robert Campin


どうですか、この「実家感」。マリアがまるで「夏休み中に帰省してる大学生の娘」です。ガブリエルが「ほら!だらだらしない!あなたイエスを身ごもったんですよ!」と言ってるように見えてきますね。
要するに「このくらいリアルなほうが感情移入しやすい」という考えで日常風景のなかに聖書のシーンを描くようになったんです。


「油彩」を発明したヤン・ファン・エイク
『ターバンの男の肖像』
Jan van Eyck


さて、そんなロベルト・カンピンの20個下、今でも画法として引き継がれている「油彩」を発明したのがヤン・ファン・エイクです。それまで「テンペラ」といって卵の黄身で顔料を定着させていたのを、彼は油を使いました。これによって塗り直し、ぼかしなどの技法が可能になったんですね。それで彼は顔料を何層にも重ねて絵を描くことで、周りにはできないくらい精密な色彩感覚の調整ができました。

そんな作品はとにかく超現実主義で、部屋の細かいところまで事細かに再現されています。また技術力が当時の他の画家に比べてもえぐいくらい高く、とにかく細かいです。有名な『アルノルフィーニ夫妻像』で紹介しましょう。


『アルノルフィーニ夫妻像』
Jan van Eyck


これ、縦82cm×横60cmと決して超巨大なわけじゃないんです。なかでも後ろの凸面鏡をアップにしてみます。

凸面鏡

実際のこの凸面鏡は直径5cmです。500円玉が2.65cmなのでその倍くらい。この狭いなかに夫妻の後ろ姿と部屋の全景、自分自身が描いてあります。またフレームについた円形の飾りにはキリストの受難のシーンが描かれているんですが、もうこれ1円玉くらいのサイズですよ。いや~、これぞ天才! という素晴らしすぎる技術力です。
https://irohani.art/study/5282/


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ルネサンスの終わり
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ルネサンスを振り返ってみる

ルネサンスは1300年代からはじまりましたが、1500年代のなかごろにあっさりと終了します。まずは簡単に「ルネサンスとは何ぞや」を振り返ってみましょう。

ときは古代ローマの時代、テルマエロマエみたいな彫りの深い風呂好きたちは「ヒューマニズム(人文主義)」、つまり「人間がすべての中心である」と考えていました。当時は君主が戦いによって領地を広げていた時代で、美術作品としてはムッキムキな彫像が主です。当然パトロンは「国(君主)」でした。

ルネサンスを振り返る
Radomil (talk · contribs)


そこから爆発的に広まったのがキリスト教。「キリスト万歳!」みたいな風潮が3世紀ごろからスタートして美術作品はキリスト関連のものばかりになりました。当然「教会」が超パワーアップし、信者を集めるための広告としても聖書の一場面を描いたものが多くなります。「国(君主)」と「教会」が主なパトロンです。


『ウラジーミルの生神女』 
Unknown authorUnknown author


しかし13世紀ごろからイタリアのフィレンツェ近辺で貿易が栄えたり、繊維業、金融業で一儲けしちゃう市民が出てきました。すると金持ちが商売しやすくなるように、君主に支配されない「自治都市(コムーネ)」を作ります。英語でいうとコミュニティ、日本語でいうと商工会議所みたいな感じですね。

ただ市民が自分で都市を作って運営するのは古代以来のこと。そこで「古代ギリシャ・ローマを見習おうぜ!あのヒューマニズムの時代に戻ろうぜ!」と宣言したのが「ルネサンス(文芸復興)」です。市民がパトロンになったので、聖書の一部とか王様の肖像だけでなく、メディチ家をはじめとした金持ちの絵を「リアルに」描くようになりました。

ジョットはキリストの磔刑像を人間っぽく描きました。ブルネッレスキは「線遠近法」を開発し、マザッチョは「人体の再現」「空間性」「感情溢れた表情」を確立しました。

ダ・ヴィンチは「空気遠近法」を発明し人の顔の輪郭線を消しました。北方ではカンピンが「普通の民家にマリアがいる」みたいな絵を描き、ファン・エイクは5cmの鏡の中にまで住まいの中の様子を緻密に描きました。

全部「もっともっとリアルに」といった写実主義の観念に基づいて描かれるようになったんですね。

なぜルネサンスが終わったのか
では「どうしてルネサンスが終わったのか」という話に移りましょう。一方向からはいえませんが、さまざまな理由が重なって、ルネサンスが終わりました。

自治都市(コムーネ)の崩壊
イタリア
Amada44


1つは「金持ち市民」が力を失ったからです。みんなが「金儲けしてぇ」となると戦いが生まれるもので、さっきの自治都市(コムーネ)同士の内乱が起こります。すると金持ち商人は「どっちが多くの兵士を雇うか」みたいになり、それがもとでイタリア中が金欠になるんです。もうなんかコントみたいな話ですね。

その背景には「新航路の発見」もあります。それまで地中海航路しかなかったんですが、大西洋航路が見つかりました。それでイタリアに入ってくる香辛料などの値段が半額以下の大セールになっちゃって、収入自体が減ったんですね。

で、イタリア中が金欠なときにフランス軍が攻めてきます。そりゃもう、あっさり負けてしまい、大きなパトロンだった市民が崩壊。ルネサンスの画家たちもダメージを受けました。

ルターによる宗教改革がおこった

1520年のルターの肖像 
Lucas Cranach the Elder


ルネサンス期の画家たちは、市民からの依頼が増えたとはいえ、依然プロテスタントの教会からも発注を受けて、聖書をモチーフにした作品を作っていました。

教会の収入源のうちの1つが「贖宥状(しょくゆうじょう)」の販売です。贖宥状とは「罪を軽減してくれるお札」みたいなものです。「これを買えば罪を許されますよー」というやつです。まぁ「お守り」に近いですよね。

で1514年に当時のローマ教皇だったレオ10世は「サン・ピエトロ大聖堂の改修費用を集めます」といった名目で贖宥状をめちゃめちゃ販売するんです。余談ですが、このサン・ピエトロ大聖堂はラファエロやミケランジェロが建築監督になった、美術作品としてもすんごい建物です。

サン・ピエトロ大聖堂
Jean-Pol GRANDMONT


話をもどしましょう。修理費用と謳って贖宥状を発行したんですが、これ実はレオ10世が単純にめちゃめちゃ浪費家でドイツのフッガーさんに返すお金を工面するために発行したんですね。彼はもともと豪族・メディチ家の生まれで浪費家としても有名なんです。

大学の神学科で教授していたマルチン・ルターは、そんなレオ10世の邪悪な目論見を知らなかったんですが「普通にさぁ、贖宥状バンバン発行し過ぎじゃない?ちょっと討論したいんだが」と宗教改革を起こしたんですね。

宗教改革の結果、プロテスタント教会ががっつりレオ10世から離れて、教会の資金力が激減しました。それでルネサンスの美術家たちも大打撃をうけた、というわけです。


ミケランジェロのカリスマ性が大爆発

ミケランジェロ
Attributed to Daniele da Volterra


それとは別に「ミケランジェロ」の存在があります。この人はルネサンス期の画家なのですが、ルネサンスのような「見たものをそのままに」というわけではなく「見たものをちょっとオーバーに」という方向性の画家です。かっこつけたいんです。

彼の絵画作品は独特の“ひねり”や“ねじれ”が目立ちます。また筋肉ムッキムキで「え?どこのジムでそんなことになったの?ぜひ紹介して?」という感じです。


『聖家族』 
Michelangelo

『最後の審判』 
Michelangelo

『アダムの創造』 
Michelangelo


また特にこの「最後の審判」では人体が引き延ばされているのにも注目したいところ。なんか不自然ですよね。「等身どうなってんねん」とツッコみたくなるくらい頭が小さく見えます。

「最後の審判」

これはルネサンスの「あるがままの美」ではなく「人工的に“盛った”美」への転換でした。ミケランジェロの出現に周りの美術家たちも心酔。「俺も真似しよう」というフォロワーが出てきました。美術作品への意識としても、ルネサンスはだんだんと衰退していったんですね。

そして美術の舞台はイタリアからフランスへ……

さて今回はルネサンスの終焉について紹介しました。ルネサンスという運動は芸術の手法だけでなく、文化、価値観などをガラッと変えてしまった運動です。当然、現代の人たちにも大きな影響を与えています。
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マニエリスム
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ルネサンスが終わった1500年代半ばから1600年代前半に流行る「マニエリスム」、またフォンテーヌブロー派についてみてみましょう。

このあたりから西洋美術の舞台はイタリアからフランスへと移っていきます。では美術作品はどのように変わっていくのでしょうか。

マニエリスムとは

エル・グレコ『ラオコーン』
El Greco


マニエリスムとはイタリア語で「様式」とか「手法」という意味です。「マニエリスム美術だけじゃなく、ルネサンスも印象派も全部何かしらの様式だろ」と言いたくなりますよね。

これ、ミケランジェロの弟子のヴァザーリさんが「ミケランジェロ先生やっぱレべル違ぇわ……。これもう教科書(マニエラ)だわ……」と言ったらしく、そこからマニエリスムと名が付きました。その当時のミケランジェロは今でいうHIKAKINみたいな超絶インフルエンサー。周りの画家はみんな彼の手法を真似し、マニエリスムは発達していくわけです。

だからスタートはミケランジェロの絵なんですね。ラファエロやダ・ヴィンチの絵にもマニエリスムっぽいものがありますが、基本的にはミケランジェロ発進です。

マニエリスムの特徴は「自然を上回る美しさ」

では「ミケランジェロの絵ってどんなものだっけ」という話に移りましょう。第10回でもお伝えしましたが、ミケランジェロは他のルネサンス期の画家とはまったく違う絵を描いています。かなりのかっこつけたがり屋さんです。たぶん話とか盛ってくるタイプです。

まずはルネサンス期の画家・マザッチョの「アダムとエヴァ」を紹介します。


マザッチョ『楽園追放』 ※左が修復前、右が修復後 
Masaccio


リンゴをもぐもぐしちゃったので楽園を追放される2人の様子です。正確無比な人体構造、悲しみ溢れる表情がリアリティ溢れていてルネサンス的ですね。当時はみんなこうした写実的でリアルな絵を描いていました。

いっぽうミケランジェロの絵はこんな感じ。


『最後の審判』
Michelangelo


彼の手法の特徴が人体を「ひねる」というものです。このひねったりねじったり、引き延ばしたりした絵を「セルペンティナータ」といいます。イタリア語で「らせん状」とか「蛇がとぐろを巻いたような」という意味です。

「あるがままの写実的な絵を」というより「人工的に自然以上の美を」というのがミケランジェロの方針であり、マニエリスムの特徴になりました。とにかく首や腰、腕をひねらせたいので、必然的にミケランジェロ作品の人物は横を向いているケースが多いです。

この上の絵より「彫像」のほうが伝わりやすいかとも思いますので、そちらも紹介しましょう。「勝利」という作品です。


ミケランジェロ『勝利』像
Michelangelo


この右腕なにこれ、こんな姿勢したことないんだけど……みたいな。とにかく肘も膝も手首も首も可動部は全部動いています。ルネサンスからマニエリスムに転換するきっかけになった作品でもあります。

彫像に関しては「ひねり」によって、これまで前から観られることを前提としていたのが360度どこから見ても楽しめるようになりました。これも大きな変化でした。

マニエリスム期には「寓意(アレゴリー)」を楽しむ文化も発達

またマニエリスムの時代には絵に「寓意(アレゴリー)」を込める文化も発達しました。寓意とは「概念を視覚化したもの」です。あの、トレンディドラマとかで振られたシーンになると急に豪雨が降ってくることありますよね。アレです。悲しみを雨で視覚化しているわけですね。


アーニョロ・ブロンツィーノ(ブロンズィーノ)『愛の寓意』
Bronzino


この「寓意たっぷり絵」のことを寓意画と呼んだりもします。なかでも最も有名と言ってもいいのが上の『愛の寓意』でしょう。ブロンツィーノというマニエリスム期の代表的な画家が描いたものです。

現代の私たちがみると「何が何やら……」という絵ですが、実はいろいろメッセージが隠されています。


まず中央で接吻しているのがヴィーナスとクピドのカップルです。クピドの足元には愛欲の象徴であるハトがおり、背後の老婆は嫉妬の象徴です。ヴィーナスの足元にも愛欲の仮面があります。

ヴィーナスの右でバラの花を持っている少年は「快楽」の象徴、しかしその背後には手が逆についた爬虫類か哺乳類か分からん少女がサソリ(毒)と蜂の巣(甘美)を持っています。そしてその上では時間の神・クロノス(肩に砂時計付き)が強引にカーテンを開けており、真実の仮面を付けた女が姿を表しています。そしてヴィーナスがクピド(キューピッド)の矢を取って背後に掲げています。これは「男女の愛を避けよ」という寓意です。

つまり総合すると「男女の肉体的な愛には一瞬の快楽がある。それは時間とともに薄れてしまうが真実の愛があれば残るよ」という情報があるわけです。なんてややこしいんだ。でもこれを文字ではなく絵にするところがなんだかオシャレですよね。

ただし、この寓意性は現代の私たちが解釈したものです。全部は読み取れませんし正しいかもわかりません。なんなら絵の鑑賞に「正しい」なんてないですよね。僕は「少年の逆転満塁ホームランに喜ぶカップルと、悲しむ老婆、スタンドでボールを捕ろうとするおっさん……」という全裸のどんちゃん騒ぎに見えますが、それも正しいわけです(暴論)。事実、この「愛の寓意」はいまだに美術学者が他の解釈はないかを研究し続けています。


パルミジャニーノ『長い首の聖母』
Parmigianino


このパルミジャニーノ作「長い首の聖母」も「左の天使が持っている壺」や「右下の預言者」「背後の円柱」などに寓意が込められているようですが、今となっては謎で、学者を悩ませている作品です。

こちらはマニエリスム期最高の名画といわれることもあります。もう描いた本人がタイトルにするくらい「あからさまに長い首と指、めっちゃピアノ上手そう……。そして感情が読み取れない無表情。まさに「人工的な美」を追究するマニエリスム感たっぷりですね。

またこの絵から分かる通り「比較的、遠近感が乏しいこと」もマニエリスムの特徴です。かなり後ろにいるはずの預言者が隣にいるように見えますよね。

マニエリスム期のフォンテーヌブロー派によって芸術の中心がイタリアからフランスに

そんなマニエリスム期への突入……というか前回ご紹介したルネサンスの終わりにしたがって、芸術の中心地はイタリアからローマに移動しました。

現在「芸術の都」といえばパリですが、逆にいうと1500年代までイタリアが芸術の中心地だったんですね。

芸術の都がフランスに移った背景

ではなぜ移動したのか。その理由としては前回でお伝えしたように「フランス軍がイタリアを壊滅させた」ということが大きいです。イタリア国内で内戦があったこともあり、弱体化していたところにフランス軍が攻め入ったアレですね。

で、勢いに乗るフランスはそのまま「文化、芸術のレベルもイタリアを追い抜こう」と決意。特にフランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに呼び寄せます。ダ・ヴィンチは以前お話ししたように、めちゃめちゃ理系で賢い人ですから「イタリアはもう終わりですね。よし、この話乗りましょう」と快諾。結果的にイタリアのルネサンスをフランスで開花させるんです。

イタリア出身のフォンテーヌブロー派がフランスに文化を持ち込む
またフランソワ1世はそのほかにもイタリアや今のドイツ、ベルギーからも高名な画家をフランスに呼んで、彼らに「フォンテーヌブロー宮殿」の装飾をしてもらうんですね。それで彼らは「フォンテーヌブロー派」といわれます。

「フォンテーヌブロー宮殿」
ignis


このフォンテーヌブロー派は最初イタリア出身の芸術家だけで形成されます。代表的な作品は「ガブリエル・デストレとその姉妹」ですが、これ作者不詳です。

真顔でこっちを向いて乳首をつまむ姉妹、そして奥にはこのとんでもない状況にも関わらず冷静に編み物をする侍女、というシュール過ぎる構図。15秒くらい観ていると「……なにこれ」とジワジワ笑えてきます。


『ガブリエル・デストレとその姉妹』
Unknown authorUnknown author (School of Fontainebleau)


金髪の女性が王の愛妾だったガブリエル・デストレで茶髪が(たぶん)妹のビヤール公爵夫人です。もちろん「う~ん、なんか足りない気がするなぁ……乳首つまませるか……」と何の寓意もなしに描いたわけではありません。ガブリエルが王の子を懐妊したことを示す説が濃厚です。

またガブリエルは指輪をつまんでいます。これは「王と結婚してプリンセスになりたいんだけど!」という彼女の意思表示なんだろうと言われています。

マニエリスムはのちに「マンネリ」に

さて、今回はルネサンス後のマニエリスムについて紹介しました。この時代は斬新な表現だといわれ、こぞってマニエリスムを真似しましたが、実は200年後くらいに「マンネリ」といわれちゃいます。マンネリズムの語源でもあるんですね。
https://irohani.art/study/5460/


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ルネサンス美術の画家・彫刻家

サンドロ・ボッティチェッリ Sandro Botticelli(イタリア フィレンツェ 1445年3月1日- 1510年5月17日)
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ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch(オランダ南部 スヘルトーヘンボス 1450年 - 1516年8月9日)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16833157

レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci(イタリア フィレンツェ 1452年4月15日 - 1519年5月2日)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16831536

アルブレヒト・デューラー Albrecht Dürer(ドイツ ニュルンベルク 1471年5月21日 - 1528年4月6日)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16833154

ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni (イタリア トスカーナ州 1475年3月6日 - 1564年2月18日)
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ラファエロ・サンティ Raffaello Santi(イタリア ウルビーノ 1483年4月6日 - 1520年4月6日)
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コレッジョ Antonio Allegri da Correggio(1489年–1534年)
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