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アメリカ先住民の起源

1:777 :

2024/01/01 (Mon) 12:24:25

マヤ文明滅亡の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/670.html

メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/979.html

アマゾン盆地に点在する「小さな森」が1万年以上昔に農業が行われていた痕跡だと判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/973.html

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/999.html

人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html


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アメリカ先住民の起源~古代DNA解析で明らかになったヨーロッパ人とアメリカ先住民の共通祖先「古代北ユーラシア人」の存在~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2020/10/27
https://www.youtube.com/watch?v=9aHbzWnonvc&t=97s

1996年、アメリカ、ワシントン州のケネウィック市で発見された9千年前頃の古代人の人骨は、ケネウィック人と名づけられ、復元された姿がヨーロッパ人に似ていたことから、アメリカ先住民(ネイティブアメリカン、インディアン、エスキモー、イヌイット)の起源について、激しい論争が巻き起こりました。
発見当初の研究結果では、ケネウィック人はヨーロッパ人に属するとされ、1970年代から提唱されていた、ソリュートレ仮説への関心も高まりました。
別の研究結果では、アイヌ人に関連した系統であるとする説も提唱され、ケネウィック人がどの人類集団に属するのか、10年以上にわたり、激しい論争が続きました。
近年、古代人のDNA分析と研究が、飛躍的に進んだことで、ホモサピエンスがネアンデルタール人と交雑した事や、古代北ユーラシア系統と、寒冷地適応前の東アジア系統の人類集団が、アメリカ先住民の形成に大きな役割を果たした事が明らかになってきました。
この動画では、最終氷期最盛期のベーリンジアでの出来事や、アメリカ先住民(ネイティブアメリカン、インディアン、エスキモー、イヌイット)の起源(ルーツ)についての研究結果を紹介しています。

参考書籍
交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
2:777 :

2024/01/01 (Mon) 12:27:15

LEMURIA CH/レムリア・チャンネル - YouTube
https://www.youtube.com/@lemuriach3391/playlists
https://www.youtube.com/@lemuriach3391/videos


ゲノム革命で明らかになる人類の移動と混血の歴史(ヨーロッパ人の起源&アメリカ先住民の起源) - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLCFG6UvfbQfmuxgnoEeSvAbii1WEnJh0F

人類の進化史 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLCFG6UvfbQfnwt5i2s7CVwx1tCltQ1yl5
3:777 :

2024/01/01 (Mon) 12:32:12

アメリカ先住民の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/353.html

ゲノム革命で明らかになる人類の移動と混血の歴史(ヨーロッパ人の起源&アメリカ先住民の起源) - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLCFG6UvfbQfmuxgnoEeSvAbii1WEnJh0F

先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/590.html

なぜ日本食は世界で人気があるのか _ ネイティブアメリカン料理
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/487.html

実は魅力ぎっしり、過小評価されている米大陸スキーリゾート7選
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/302.html

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm

人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html

カリブ海諸島の3200~400年前頃の古代ゲノムデータを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html

カリブ海諸島の古代ゲノムデータをさらに拡張した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

アメリカ・インディアンの遺伝子 _ ハプログループ Q (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/179.html

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm
4:777 :

2024/01/01 (Mon) 12:38:08

雑記帳 2021年07月18日
アメリカ大陸への人類の移住に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html

 アメリカ大陸への人類の移住に関する総説(Willerslev, and Meltzer., 2021)が公表されました。アメリカ大陸への人類の移住に関する研究は、とくに遺伝学の分野で21世紀になって大きな進展があり、最近までの関連諸研究をまとめた本論文はたいへん有益です。ゲノミクスの登場前には、アメリカ大陸への移住の遺伝的証拠は、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系遺伝となるY染色体の非組換え領域の研究に依拠していました。これらの片親性遺伝標識は、アメリカ大陸への移住の大まかな概要を提供しましたが、潜在的に複雑な祖先系統(祖先系譜、ancestry)や人口構造と混合の解明には限界があり、性別の偏った文化的慣行により上書きされる可能性があり、遺伝的浮動と系統損失の影響を受けやすくなります。系統損失の問題はアメリカ大陸に関してはひどくなり、片親性遺伝標識研究の大半は現代の人口集団で行なわれ、過去の人口集団もしくは遺伝的多様性を代表していないかもしれません。それは、16世紀のヨーロッパ人による感染症の伝来や、戦争と飢饉と奴隷化と搾取の付随的な打撃後の、先住民集団の人口崩壊に起因します。

 アメリカ大陸先住民の人口史へのより広く深い洞察は、多くの独立した系統の斑状を提供するゲノム研究によりもたらされました(関連記事)。ゲノム研究は、過去の人々のゲノムを回収できるようになった時、その力が拡大しました。最初のアメリカ大陸古代人のゲノムは、12800年前頃となるアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児(Anzick-1)で、2014年に公表されました(関連記事)。それ以来、南北アメリカ大陸全域の多くの古代人のゲノムが配列されており(図1)、アメリカ大陸の人口史の理解に革命をもたらしています。以下は本論文の図1です。
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 しかし、アメリカ大陸人口史についての理解は決して完全なものではない、と強調することが重要です。それはとくに、アメリカ大陸古代人のゲノムの数が比較的少なく、南アメリカ大陸よりも北アメリカ大陸の方が少なくなっているためで、その理由は、古代人遺骸に関する先住民の伝統や、遺産保護法が異なっていることに起因します(関連記事)。本論文は、今後数年でいくつかの解釈がおそらくは変わることを認識しつつ、アメリカ大陸への移住についての現時点で知られているゲノム証拠をまとめます。


●考古学的および地質学的知見

 アジア北東部における現生人類(Homo sapiens)の最初の確実な証拠は、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)までさかのぼります。これにより、更新世の最終期開始前に、アメリカ大陸への出発点からまだかなりの距離があるもの、人類がそこに近い北極圏にすでに存在していたことになります。この時までに、大陸の氷床が形成され始め、世界の海面が低下し、23000~19000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)で最高に達しました。

 北太平洋の相対的海面が現在より50m低下すると、ベーリング海峡地域の大陸棚は乾燥した土地となり、南北約1800kmの陸橋、つまりアジア大陸とアメリカ大陸をつなぐベーリンジアとして知られる地域の中心部が形成されました。この陸橋は、おそらく早くも3万年前頃には横断可能で、それは12000年前頃の氷期後の海面上昇まで続きました。ベーリンジアはほぼ無氷でしたが、LGMには、寒冷で過酷な条件により移動が制限されたかもしれません。

 12000年前以後、人類集団はもはやアメリカ大陸へと歩いて行けなくなり、代わりにベーリング海峡とチュクチ海を渡らねばなりませんでした。これには、極寒で頻繁に嵐が起き、季節によっては閉ざされる海を横断する技術と戦略を有する航海技術が要求されました。アメリカ大陸への移動の手段と課題のこの違いや、適応的戦略の変化は、おそらく最初の祖先的アメリカ大陸先住民集団到来の現在受け入れられている考古学的証拠(15500~15000年前頃)と、アメリカ大陸への次の主要な人口集団移動、つまり古イヌイットのアメリカ大陸への拡散(5500年前頃)との間の間隙を説明します。

 アジア北東部の考古学的記録が限定されていることもあり、いつ人々がベーリンジアを渡ったのか、不明です。ヤナRHSにおける人類の痕跡の後、次に古い既知の遺跡はシベリアのディウクタイ洞窟(Diuktai Cave)で、16800年前頃以降となります。約15000年におよぶ人類の痕跡の証拠の欠如は、人類集団がシベリアを放棄したことに起因するかもしれません。それはある程度、小規模でひじょうに遊動的な人口集団が考古学的に検出されにくいこと、広範な地域で遺跡を探すこと、この遠隔地の考古学的調査が比較的限られていることにも起因します。

 ベーリンジア東部における人類の最初の存在は、14200年前頃となるアラスカのスワンポイント(Swan Point)遺跡にさかのぼります。しかし、これは最初の人々の到来年代ではありません。なぜならば、南北アメリカ大陸にはすでに先クローヴィス(Clovis)文化期(南アメリカ大陸にはクローヴィス文化は存在しませんが)となる15500~15000年前頃にはすでに人類が存在していたからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 北アメリカ大陸において最初の広範囲な人類の存在を示すクローヴィス複合と南アメリカ大陸におけるその同時代の集団は、それから約1500年後に出現します。先クローヴィスおよびクローヴィス文化人口集団が歴史的に関連する集団を表しているのかどうか、不明です。アメリカ大陸の氷床の南側ではより古い遺跡群が報告されており、LGMに先行するものも含まれますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、LGMに先行する遺跡は実証されていないか、論争が続いています。

 15500年前頃までのアメリカ大陸の氷床の南側における人類の存在は、アラスカから南方への移動に人々が用いた(複数かもしれない)経路の再検討を必要とします。LGMとなる23000年前頃には、現在のカナダの大半を覆ってアメリカ合衆国北部に達していたコルディレラ(Cordilleran)氷床とローレンタイド(Laurentide)氷床とが、南方への通交を事実上妨げていました(図2)。伝統的概念は、人々がロッキー山脈の東側面に沿って氷期後に開けた無氷回廊を通って移動した、というものでした(関連記事)。この見解は、回廊が15000~14000年前頃に完全には無氷ではなかった、と示す地質学的証拠と、化石バイソンと湖の堆積物両方からの古代DNAの証拠により、最近疑問が呈されました。それらの証拠では、狩猟採集民が約1500kmの経路において食資源として必要としただろう動植物が、13000年前頃まで回廊では利用できなかった、と示唆されました(関連記事)。したがって、この経路は、最初の人々の移動に間に合うほど早くには開けなかったでしょう。

 内陸経路の欠如から、アメリカ大陸最初の人々が太平洋沿岸を南方に移動した、と示唆されます。氷河は早くも23000年前頃にはその経路を遮断しましたが、LGM後の氷河後退に伴って17000年前頃以後には無氷となり、16000~15000年前頃までには沿岸はほぼ開けており、移動する人類にとって必要な資源を支えました。沿岸経路により、人類は現在受け入れられている最初の考古学的存在よりもかなり前に、氷床の南側のアメリカ大陸に到達できました。クローヴィス文化集団は後に無氷回廊経由でアメリカ大陸に到来したものの、回廊地域における人類の最初の考古学的証拠はクローヴィス文化期に先行する、と提案されてきましたが、南下ではなく北上の移動を示しているようです。


●古代ゲノミクスと最初の人々

 ヤナRHSと24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体群のゲノムから、シベリアには「古代北シベリア(ANS)個体群」と呼ばれる人口集団が居住していた、と示されます(関連記事)。この構造化された人口集団は、ユーラシア西部人口集団とユーラシア東部人口集団が分岐した直後となる39000年前頃(95%信頼区間で45800~32200年前)に、ユーラシア西部人口集団と分岐しました(関連記事1および関連記事2)。ANSは最終的に別々の人口集団として消滅しましたが、その遺伝的影響は後の古代人や一部の現代人集団に残っており、とくに顕著なのはアメリカ大陸先住民集団で、シベリアの先住民集団にはさまざまな程度で見られます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これが示唆するのは、後期更新世におけるANSの地理的分布は全体として、シベリアの大半とおそらくはベーリンジアにまで広がっていたに違いない、ということです。

 現在の証拠では、23000~20000年前頃にANSとアジア東部集団との間で遺伝子流動があった、と示唆されています。関連する人口集団の既知の場所(一方はシベリア、もう一方はアジア東部)に基づいて、両者の混合はバイカル湖地域もしくはその東側か、おそらくはベーリンジア西部のさらに北方で東方の地域だった、と仮定されていました(関連記事)。これらの仮定のどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要でしょう。

 ともかく、これら人口集団間の遺伝子流動は、(異なる混合割合で明らかなように)最終的に別々の機会に少なくとも2つの異なる系統を生じさせました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。一方は、シベリア北東部の9800年前頃となるデュヴァニヤー(Duvanny Yar)遺跡のコリマ(Kolyma)個体のゲノムに基づいて命名された「古代旧シベリア人(APS)」で、その言語が旧シベリア言語族の範疇に収まるチュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)など、シベリア北東部現代人の祖先集団を形成します。他の系統は基底部アメリカ大陸分枝となり、その子孫は最終的にアメリカ大陸に渡りました(関連記事)。

 その基底部アメリカ大陸分枝の形成時期の可能性がある代替案は、シベリア南部のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の18000年前頃となる1個体(Afontova-Gora 3)が、マリタ遺跡個体よりもアメリカ大陸先住民と多くの遺伝的浮動を共有している、との観察に基づきます。この知見から、ANSとアジア東部人口集団間の混合は、マリタ遺跡個体よりもアフォントヴァゴラ3号と密接に関連した人口集団とのものなので、基底部アメリカ大陸系統の形成はLGMの前ではなく後に起きた、と示唆されます。しかし、アフォントヴァゴラ3号の人口集団とマリタ遺跡の人口集団の分岐年代に追加の制約がなければ、混合年代について確実な推定はできません。遺伝子流動は、マリタ遺跡個体に代表される人口集団がアフォントヴァゴラ3号に代表される人口集団と分岐した後に起きさえすれば、24000年前頃(マリタ遺跡個体の年代)の前に起きた可能性さえ残っています。したがって、基底部アメリカ大陸分枝がいつどこで出現したのか、正確には不明なままです。

 それにも関わらず、基底部アメリカ大陸分枝の出現は21000~20000年前頃以前だったに違いなく(したがって、混合はLGM以前と推測されます)、それは、その後までに基底部アメリカ大陸分枝が別々の系統に分岐し始めており、APSもしくは他のアジア北東部人口集団からのその後の遺伝子流動の証拠が示されないからです。アメリカ大陸先住民個体群がANSとアジア東部の祖先系統(祖先系譜、ancestry)しか有していないことは注目に値します。シベリア北東部個体群は、さまざまな割合のANSとアジア東部祖先系統と、追加の祖先系統を有しています(関連記事1および関連記事2)。これは、基底部アメリカ大陸分枝が早期に地理的に孤立しており、その場所はおそらくベーリンジア西部(アジア北東部)もしくはさらに南方だった、と示唆します(関連記事1および関連記事2)。可能性の一つは、LGMの居住しにくい気候および環境が、集団の分離と基底部アメリカ大陸分枝の孤立と、その後の基底部アメリカ大陸分枝内の分岐につながった、ということです。これは、提案されてきたように、LGMにベーリンジアの一部が放棄された場合に起きた可能性がありますが、上述の理由で放棄の問題は議論されており、検証困難です。

 LGMの孤立は、アメリカ大陸への拡散はすぐに起きず、代わりに、おそらくはベーリンジア地域で長い休止が続いた、と提案するベーリンジア停止モデル(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)と一致しています。その孤立した人口集団から、いくつかの系統が出現しました。それは、現在ほとんど知られていない「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)と、「古代ベーリンジア」個体群と、「祖先的アメリカ大陸(ANA)」個体群(関連記事)です(図2)。これら3人口集団は最終的に北アメリカ大陸へと移動しましたが、それら3集団間の深い分岐と限定的な遺伝子流動からは、それら3集団が別々の移動で北アメリカ大陸へと渡った、と示唆されます。

 古代ベーリンジア個体群はアラスカへと渡りましたが、明らかにそれ以上南下しませんでした。この人口集団の構成員は、アメリカ大陸氷床の南側では確認されていません。アラスカで知られている最も新しい古代ベーリンジア人であるトレイルクリーク洞窟(Trail Creek Cave)個体の年代である9000年前頃以後のある時点で、この人口集団は消滅しました。その地域の現在の先住民集団は、古代ベーリンジア人と密接には関連していません(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、古代ベーリンジア個体群は他のあらゆる現在の人口集団よりも、過去および現在のアメリカ大陸先住民個体群の方と密接です。

 ANA系統内では、連続した内部分岐がありました。最初のものは21000~16000年前頃で、「ビッグバー」系統がANA系統から分岐し(関連記事)、次に15700年前頃(95%信頼区間で17500~14600年前)に、北アメリカ大陸先住民(NNA)人口集団と南アメリカ大陸先住民(SNA)人口集団との間の分岐が起きました(関連記事)。「ビッグバー」系統は太平洋北西部で知られていますが、アラスカでは確認されておらず、系統地理的にNNAとSNAの分岐よりも早く、ベーリンジア東部(アラスカ)から南方へ移動するにつれて分岐したに違いありません(関連記事)。これは、NNA集団とSNA集団が遺伝的に古代ベーリンジア個体群と等距離である、という事実と一致して、NNAとSNAの分岐がさらに南方で起きたことを示唆します(関連記事)。

 この証拠は、祖先的アメリカ大陸先住民個体群がベーリンジアを越え、古代ベーリンジア個体群よりも先に氷床南側の北アメリカ大陸へと到達したことを示唆します。代替的な可能性として、これら全ての人口集団が、アジア北東部もしくはベーリンジアの同じ地域に居住している間に分岐した、というものもありますが、現在は証拠のない強い長期間の人口集団構造を必要とします。あるいは、おそらく全集団が同じ人口集団の一部としてベーリンジア東部に到達し、その後でNNA集団とSNA集団が分岐し、アメリカ大陸氷床の南側に移動しました。これは、古代ベーリンジア個体群および祖先的アメリカ大陸先住民個体群がひじょうに異なる文化的分類と関連していることを考えると、可能性が低そうですが、文化的分岐は人口集団の分岐と一致しないかもしれません。これらのどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要になるでしょう。

 かつてアメリカ大陸氷床の南側に位置したNNA集団とSNA集団の拡散パターンは、ひじょうに異なっていました。NNAは北アメリカ大陸に留まったようです。NNAが南アメリカ大陸に到達したかもしれない、との提案(関連記事)は支持されていません(関連記事)。完新世のある時期、おそらくは古代ベーリンジア人が消滅した後、NNA集団はさらに北方に移動したに違いなく、それは、NNA集団が現在アラスカとユーコン準州に現在存在するからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 無氷回廊では12600年前頃に人類の考古学的証拠があり、その頃までには横断可能になっていしました。この証拠は、その物質文化がより古いクローヴィス伝統と関連して歴史的に出現する人々の、北方への拡散を示しています。それでも、クローヴィスはSNA分枝の範疇に収まり、現在のアラスカではSNA集団の証拠はありません。これは、いくつかのあり得る想定を示唆します。まず、クローヴィス文化はNNA個体群を含んでいた、ということです。次に、北極圏への複数回の帰還があり、現在その地で暮らすNNA集団は、異なる後の北方の移動の結果だった、ということです。あるいは、NNAとSNAの分岐はアメリカ大陸氷床の北側で起きました。現在の証拠では、最初の2仮説のうちどちらかを除外できません。最後の仮説が正しければ、ビッグバー系統の分岐を北方へと変えねばなりませんが、ビッグバーとNNAとSNAの密接な時期の分岐や、SNA集団の16000年前頃以後のアメリカ大陸氷床の南側での広範な分布を考えると、その可能性は低そうです(関連記事1および関連記事2)。

 NNA集団とは対照的に、SNA集団は急速に南方へと拡大し、それは同じく1万年前頃に存在したものの、数千km離れて南北アメリカ大陸に暮らしていた、古代の個体群間の密接な遺伝的つながりに明らかです(関連記事1および関連記事2)。SNA拡散の急速さは、南北アメリカ大陸の最初期の遺跡の近同時代性に基づいて長く考えられていた、初期の移動と一致します。それは、単一の放散ではなかったかもしれません。アルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とアンジック遺跡個体(アンジック1号)とのさまざまな程度の類似性を考えると、南アメリカ大陸へのSNA集団の少なくとも2回の後期更新世の移動があったようです(関連記事1および関連記事2)。拡散の見かけの急速さが、おそらく居住地内および居住地間のより遅くて小規模な移動を隠している、と認識することも重要ですが、それは放射性炭素年代測定の誤差の範囲内なので、考古学的にほとんど検出できません。

 到来する人口集団の比較的小さな規模(関連記事1および関連記事2)、およびその集団と子孫による半球全体の最初の移動範囲の広大な距離は、南方への移動に連れてのSNA系統内の繰り返しの分岐(関連記事)で明らかなように、孤立と分岐の機会を増大させ、南アメリカ大陸古代人におけるかなりの祖先系統の変動をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 アメリカ大陸への人類の移住の注目すべき推論はイヌの遺伝的歴史に見られ、イヌはおそらくシベリアもしくはベーリンジアで後期更新世に家畜化され、シベリアもしくはベーリンジアからアメリカ大陸へのmtDNA系統の分岐は、拡散する人口集団内の主要な分岐とほぼ一致しています(関連記事)。人類とイヌの分岐が相互に並行していることはとくに驚くべきではなく、それは、人類はアメリカ大陸にイヌなしで移動できたものの、イヌは人類なしではアメリカ大陸へと移動しなかったからです。人類の集団が相互に孤立するようになるにつれて、人類とともに移動したイヌも相互に孤立していきました。

 現在まで、アジア北東部人類遺骸の地域人口集団がアメリカ大陸最初の人類の重要な起源だった、というゲノム証拠はありません。ヨーロッパの後期更新世の文化であるソリュートレアン(Solutrean)と、北アメリカ大陸のクローヴィス文化との間の石器技術の表面上の類似性に基づく、アメリカ大陸最初の人々は北大西洋経由でヨーロッパから到来した、との物議を醸す主張は、祖先的アメリカ大陸先住民集団のSNA分岐の範疇に収まる、アンジック遺跡のクローヴィス文化の子供(アンジック1号)のゲノムにより突き崩されました(関連記事)。アメリカ大陸の人類の古代もしくは現代のゲノム(もしくはmtDNAもしくはY染色体)は、上部旧石器時代ヨーロッパ人口集団との直接的類似性を示しません。

 同様に却下されたのは、異なる頭蓋を有する古代およびより最近の骨格、いわゆる「古代アメリカ人」が、ヨーロッパ人やオーストラリア先住民や日本列島のアイヌやポリネシアの人口集団と関連するかもしれない異なる祖先系統を有しているので、現代アメリカ大陸先住民集団とは遠い遺伝的関係にある、との主張です。アメリカ合衆国ネバダ州の精霊洞窟(Spirit Cave)の10700年前頃の個体や、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)の10400年前頃の個体(関連記事)や、アメリカ合衆国ワシントン州で発見されたケネウィック人(Kennewick Man)と呼ばれる9000年前頃の個体(関連記事)も含めて、現在までに配列された全ての「古代アメリカ人」は、アメリカ大陸先住民の遺伝的多様性の範疇に収まります。じっさい、後に到来した古イヌイットやイヌイットチューレを除いて、アメリカ大陸の全ての古代人のゲノムは、世界中の他のあらゆる現代の人口集団よりも現代のアメリカ大陸先住民の方と密接な類似性を有する、と示されてきました。以下は本論文の図2です。
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●完新世の歴史

 完新世の何千年にもわたって人々の移動は継続し、完新世には開けたベーリング海とチュクチ海を横断してのアジア北東部からのものと、アメリカ大陸内との両方がありました(図3)。ベーリング海峡を横断した集団の最初の証拠は、5200年前頃の海洋考古学的伝統とともに現れ、それは一般的にゲノム記録に見える中期完新世人口集団の分岐および拡散とも一致します(関連記事)。

 北アメリカ大陸北部のアサバスカ(Athabaskan)集団はNNAの分枝で、他のNNA(もしくはNSA)集団よりもわずかに多くのアジア東部人の遺伝的祖先系統を有しています。最近、この遺伝的兆候は、グリーンランドの4000年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体の祖先である「祖型古エスキモー」により、5000~4400年前頃にアラスカで起きたと推定されるNNA集団への遺伝子流動でもたらされた、と提案されました(関連記事)。しかし、古代旧シベリア人(APS)がサカク遺跡個体と関連している人口集団よりもアサバスカ個体群の方と密接に関連していることを考えると、この解釈には問題があります(関連記事)。

 じっさいAPSは、ケット人(Ket)やコリャーク人(Koryak)など現在の旧シベリア人の主要な祖先的構成要素を表しています(関連記事)。これは、コリャーク人がアサバスカ個体群で見られる余分なアジア東部人の兆候を有する最も近い現代の人口集団であることにより、証明されています(関連記事)。したがって、アサバスカ個体群への追加のアジア東部人からの遺伝子流動を提供した供給源集団は、現代の旧シベリア人や旧イヌイットやアメリカ大陸先住民の祖先と遺伝的に近かったに違いありません。じっさい、その人口集団の要素が複数回アメリカ大陸に渡りました。

 この余分なアジア東部人の兆候が古代ベーリンジア個体群では欠けていることを考えると、この人口集団とアサバスカ人との間の接触は、アラスカからの古代ベーリンジア個体群の消滅に続いて起き、それは同じ地域における旧イヌイットの到来前だったので、9000~5500年前頃と推測されます(関連記事1および関連記事2)。この過程でも言語要素が交換された、と仮定されています。言語学者は、アサバスカ諸語とシベリア中央部のエニセイ語族話者のケット人との間のつながりを議論してきました。言語学的根拠に関するこの仮説への批判はさておき、ケット人とアサバスカ人との間の遺伝的関係は単純ではなく、いずれにしても、言語的つながりの確証に古代DNAを用いることはできません。

 北アメリカ大陸北極圏の完新世後期の歴史は、2つの特徴的な北極圏全体の考古学的伝統により特徴づけられます。一方は最初の旧イヌイット文化で、北アメリカ大陸極北とグリーンランドで5200年前頃に考古学的記録に現れ、紀元後1500年頃に消滅しますが、その間、年代や場所や文化的区分に基づくさまざまな名称の文化があります。旧イヌイット文化は最終的に、現在のイヌイットおよびイヌピアト(Iñupiat)の祖先と一般的に考えられている、以前には新エスキモーと呼ばれていたチューレ(Thule)文化の人々に置換されました。さらに、2000年前頃となるエクヴェン人(Ekven)と現代のチュクチ人の遺伝的構成において、アメリカ大陸からシベリアへの逆移住の証拠があります(関連記事1および関連記事2)。

 古代ゲノミクスを用いての分析の前には、旧イヌイット集団が相互に、もしくは現代のイヌイットやアリューシャン列島人やシベリアの人口集団やアサバスカ個体群や他のアメリカ大陸先住民と関連していたのか、不明でした(関連記事)。上述のようにサカク遺跡個体はアメリカ大陸先住民個体群とは異なり、コリャーク人やチュクチ人のような旧シベリア人集団とより密接です。したがって旧イヌイットは、他のアメリカ大陸先住民とは完全に独立した、シベリアからアメリカ大陸へと拡散した人口集団を表しています(関連記事)。これまでにDNA解析された旧イヌイットの個体数は限定的で、同じmtDNAハプログループ(mtHg)D2a193を有しており、創始者集団が小規模だったサカク個体ゲノムからの証拠と一致します。

 チューレ文化はおそらく早くも紀元後200年頃にはアラスカのベーリング海峡と沿岸部地域で発展しましたが、紀元後1200頃に急速に東方へ拡大し、グリーンランドにほぼ同時に出現しました。遺伝的には、チューレ人は旧イヌイット関連集団とアメリカ大陸先住民の混合なので(関連記事)、チューレ人がシベリアからアメリカ大陸への独立した移住(おそらく、逆移住したアサバスカ個体群と混合しています)を表しているのかどうか、あるいはアラスカ内で出現したのかどうか、不明なままです。イヌイットにおけるアメリカ大陸先住民構成要素は、その地理的近接から予測されるように、NNA集団に由来します。

 旧イヌイットとイヌイット・チューレ人集団は数世紀にわたって重複していましたが、考古学者は、両者が同じ時代に同じ場所に存在したのかどうか、疑問視しています。遺伝的には、旧イヌイットとイヌイット・チューレ人との間の混合、およびアサバスカ個体群との混合のいくつかの証拠があります(関連記事)。しかし、それぞれの拡散を伴う遺伝的に異なるイヌでも明らかなように(関連記事)、遺伝子流動の程度はおそらく限定的でした。ともかく、旧イヌイットは最終的に考古学およびゲノム記録から消滅し、その理由はまだ不明です。

 グリーンランドのノース・ヴァイキングは、アメリカ大陸に到達した最初のヨーロッパ人で(紀元後1000年頃)、先住民の遺跡におけるノース人の製品の出現に基づくと、ノース人は旧イヌイットと遭遇したかもしれず、あるいは、年代に基づくとより可能性があるのは、イヌイット・チューレ人およびアメリカ大陸先住民との遭遇です。ヴァイキング人口集団内のかなりの混合の古代ゲノムの証拠があり、交易および襲撃のネットワークを反映していますが(関連記事)、旧イヌイットもしくはイヌイット・チューレ人との混合を示唆する証拠はありません。アメリカ大陸における先住民共同体へのノース人の遺伝子流動があったならば、その証拠は紀元後1000~1500年頃の個体で探せるでしょう。

 完新世中期および後期においてさらに南方では、現在のメソアメリカ人の祖先が拡大し、南北両アメリカ大陸で他のSNA人口集団と相互作用していました(関連記事)。このメソアメリカ人関連の遺伝子流動は、「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)を含み、北アメリカ大陸西部のグレートベースンにおいて明らかで、それは1900年前頃~700年前頃のある時点でのことです(関連記事)。この下限年代は、ネバダ州のラブロック洞窟(Lovelock Cave)の2個体のゲノムデータに基づいています。

 南アメリカ大陸へのメソアメリカ人の拡大は、いくつかの現代の人口集団において明らかですが、アンデス山脈の反対側ではさまざまな割合で、長期にわたって続きました(関連記事)。第二の、「非アンジック」SNA系統の示唆的な証拠もあり、カリフォルニアのチャネル諸島の古代人との類似性を有しており、この古代人は5000年前頃となる完新世中期に南アメリカ大陸へと拡大し、アンジック個体と密接な類似性を有する人口集団の子孫を含んで、それ以前に到来していたSNA集団をほぼ置換しました(関連記事1および関連記事2)。この祖先系統がどのようにメソアメリカ人の拡大と関連しているのか、明らかではありません。

 完新世中期と後期において、カリブ海諸島への人口集団の移動の少なくとも2回の主要な事象がありました。最初のものは6000年前頃以後の「古代(Archaic)」期となり、2つの分離した南アメリカ大陸の人口集団の移動を表している、と元々考えられていました(関連記事1および関連記事2)。しかし、その後の研究では、南アメリカ大陸祖先系統の単一の波のみが検出されました(関連記事)。2500年前頃以後のある時点で、土器時代の人々が南アメリカ大陸北部から到来し、それはアマゾン集団を含む単一の起源人口集団からで、カリブ海のタイノ人(Taino)とアマゾン北部の他のアラワク語族との間の提案された関係と一致します(関連記事)。土器時代および古代の人口集団はまだ解明されていない期間重複していましたが、現時点ではひじょうに限られている混合の証拠しかありません(関連記事1および関連記事2)。

 中南米全域で後期完新世までに、人口集団は本質的に「定住し」、多くの地域では、ヨーロッパ人の到来前の数千年にわたって人口集団が継続しています。もちろん、人口集団の移動混合も継続していましたが、それ以前の期間よりはずっと小さな空間規模でした(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。インカ帝国のように後に帝国が台頭した地域でさえ、広大な地域への拡大は、たとえば新石器時代やその後のユーラシアで見られるような、広範な人口集団の移動を必ずしも伴いませんでした。それでも、これらの拡大はずっと多様な遺伝的景観をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。以下は本論文の図3です。
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●太平洋における接触の可能性

 イヌイットの人々がベーリング海を横断してアラスカへと渡ったのとほぼ同じ頃、ポリネシアの航海者が遠く離れた東太平洋のラパヌイ(Rapa Nui)島(イースター島)に到達しました。ポリネシア人が東方へ航海を続けて南アメリカ大陸に上陸した(不利な海流に対して約3700kmの追加の航海が必要です)のかどうか、あるいはアメリカ大陸先住民が太平洋へと西方へ航海したのかどうか、長く議論されてきました。ラパヌイの現代人の最初のゲノム研究は、低水準のアメリカ大陸先住民祖先系統を示唆し、その遺伝子流動は紀元後1280~1425年頃に起きたと推定されましたが、それがどのように起きたのかは不明なままです。しかし、混合が起きた時期の曖昧さを考慮し、ラパヌイの古代人2個体の後の研究結果に基づくと、ラパヌイにおけるアメリカ大陸先住民祖先系統の推論は却下されました(関連記事)。

 太平洋の人々とアメリカ大陸先住民との接触の可能性は、太平洋の島々および中南米の沿岸に住む現代のアメリカ大陸先住民数百個体の最近の研究で再度提起されました。コロンビアのゼヌ人(Zenu)と最も密接に関連するアメリカ大陸先住民との混合を有するポリネシア人は、広範に散在する東太平洋の9つの島で見られます。その混合事象は紀元後13世紀に起きたと推定されており、太平洋におけるヨーロッパ人の存在と最初の定住のずっと前です(関連記事)。これは、アメリカ大陸先住民の東太平洋への拡散を表しているものの、より可能性の高い想定では、太平洋の島への定住をオセアニア航海民に結びつける豊富な考古学的証拠を考慮すると、これら太平洋の島々におけるアメリカ大陸先住民祖先系統は、太平洋の人々が南アメリカ大陸を訪れて混合したか、南アメリカ大陸の人々とともに太平洋の島々に戻って来た結果である、と提案されています。先コロンブス期におけるアメリカ大陸先住民とポリネシア人との接触の年代と性質に関する問題はおそらく、現代の太平洋諸島の人々で検出されるよりも強いアメリカ大陸先住民の遺伝的兆候を有しているかもしれない、古代ポリネシア人の分析でのみ解決できます。


●より大きなパターンと過程

 大陸規模では、古代のゲノムおよび考古学的証拠は、アメリカ大陸全域の急速な最初の拡大を示しており、これには顕著な文化的変化も伴いました。ゲノム記録も、かなりのボトルネック(瓶首効果)を経て、人口が到来後数千年で急激に増加した、と確証しており(関連記事)、これは現生人類(Homo sapiens)の人口史で最も顕著な成長事象の一つだったかもしれません(関連記事)。

 最初の放散の急速性にも関わらず、古代のゲノム記録も、拡散後に多くの地域の集団が多かれ少なかれその地域に定住した、と明らかにしています。これは人口集団の継続性をもたらし、一部地域では数千年にも及び、長く持続したものの、比較的小規模な人口集団とおそらくは相互作用と交換のより限定的な地理的範囲を反映しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。

 人口集団の継続性は時として、放棄や置換につながる可能性が高いと考えられている生態学的条件下でも起きました。たとえば、北アメリカ大陸のグレートベースン西部では、中期完新世の数千年にわたる深刻な乾燥と旱魃により、人口密度が急激に低下しました。この期間の前後の考古学的記録はかなり異なっており、かつては新たな(複数)集団による在来の人々の置換を表している、と考えられていました。しかし、その数千年間の前(10700年前頃の精霊洞窟個体のゲノム)および後(2000~700年前頃のラブロック個体群)の個体群のゲノム間には強い類似性があり、ラブロック個体群のうち新しい方でメソアメリカ人との混合さえ認められます(関連記事)。

 他の事例では、古代ゲノムは2種類の不連続性を明らかにします。まず、古代人が現代人とつながっているものの、現在その地域に居住している人々とはつながっていない場合です。つまり、地域放棄の事例です(関連記事)。具体的には旧イヌイットが当てはまり、そのDNA断片は現代のアサバスカ個体群で見られます(関連記事)。次は、古代の人口集団が完全に消滅した事例で、その人口集団に由来する現代人は存在せず、具体的には古代ベーリンジア人口集団などです(関連記事)。とはいえ、古代ベーリンジア人口集団は北極圏に1万年以上存在したので、「失敗した移住」ではありませんでした。

 古代の標本は古代の人口集団の規模および分布と比較して必然的に制限されるので、人口集団の不連続性や置換に関する記述には注意が必要です。ともかく、次のように疑う理由があります。移住過程の初期に、小さく孤立して分散した一団(バンド)が遠くの故郷もしくは親族から離れた不慣れな土地を開拓したさいに、数十もしくは数百年で消滅した可能性があり、それは、充分な人口の欠如、もしくは新たに発見された環境で確率的事象に対処できないためです。

 地理的および社会的障壁両方に起因する、孤立の証拠は明らかです。これは、アンデス山脈の一方の側の人口集団におけるゲノム(およびmtDNAとY染色体でも)の違いで見られ、アンデス山脈両側への最初の南方への拡散も反映しているかもしれず、山脈を越えての東西の移動の困難により経時的に維持された分離です(関連記事1および関連記事2)。より小さな規模では、地域的孤立のパターンがあり、たとえば低地と高地との間(関連記事)や、島々(関連記事)や、大陸のより遠い辺境部(関連記事1および関連記事2)で見られます。

 社会的孤立は、たとえばブリティッシュコロンビア沿岸の中期完新世集団のゲノムから推測され、この集団は数百km離れた内陸部の同時代の人口集団とは、フレーザー川(Fraser River)経由で両地域を比較的容易に行き来できるにも関わらず、遺伝的に異なっています(関連記事)。この地域の自然の豊かさと多様性により、人類集団はさまざまな環境条件に住むことができ、恐らくそこから、人口集団の分離を維持する境界が出現しました。

 ゲノムの連続性もしくは不連続性、孤立もしくは混合が、人口集団の生物学にのみ関連し、文化的パターンに実質的な影響を及ぼすとは限らない、と強調することは重要です。たとえば、後期更新世に存在したクローヴィス文化と西方有茎伝統(Western Stemmed Tradition、略してWST)の石器技術は、「遺伝的に分岐した創始者集団」に起因するとされるほど、充分に異なります(関連記事)。しかし、クローヴィス文化のアンジック個体(アンジック1号)と精霊洞窟のWST関連個体のゲノム間の密接な類似性が示すように、両文化は強い遺伝的類似性を有する人々の所産でした(関連記事)。文化的な継続性や不連続性や浮動や混合は、人口集団の仮定とは独立して進行する可能性があります。じっさい、人口集団と社会的動態の両方が、地域の遺伝的および文化的景観の形成において、重要で時には独立した役割を果たしました。これはとくに、後の時代と、強い領域境界が確立もしくは蹂躙された地域に当てはまります(関連記事1および関連記事2)。


●人口史を超えて

 古代ゲノミクスは、疾患史の仮説に取り組むためにも使用されてきました。たとえば、結核の原因となる結核菌(Mycobacterium tuberculosis)と関連する細菌系統は、ペルーの1000年前頃の人類に存在しました(関連記事)。したがって、結核は先コロンブス期には存在しており、以前に信じられていたようにヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされなかったかもしれません。注目すべきことに、古代の結核菌系統はアザラシやアシカで見られる結核菌(Mycobacterium pinnipedii)と最も密接に関連しており、先コロンブス期の結核が海獣を通じて人類に感染した、と示唆されます。これまでのところ、アメリカ大陸の病原体研究は限られていますが、アメリカ大陸先住民共同体が限定的か全く免疫を有していない、ヨーロッパ人によりもたらされた一連の感染症の歴史と、長期的な健康への影響とを理解するのに役立つ可能性があります。

 古代DNAの分析も、環境条件や食性の変化により起きるアレル(対立遺伝子)頻度の変化を特定できるので、たとえば、人類が最初にアメリカ大陸熱帯地域に拡散した時に受けたような、有病率に影響する遺伝的要因と環境要因との間の相互作用への新たな洞察を生みだせます。古代および現代の人口集団ゲノミクスを通じて人類の疾患の歴史に取り組む利点は、最近報告されています。古代ゲノミクスを用いて疾患の問題に取り組む研究はまだ比較的稀で、とくにアメリカ大陸先住民に関しては少ないままです(関連記事)。現代のDNAと古代DNAの機能的研究を組み合わせることにより、アメリカ大陸先住民における、進化と生活様式および代謝性疾患の根底にある遺伝的原因への新しく有益な洞察を得る、強力な手法を構成できるかもしれません。

 その可能性を実現するには、先住民と科学界の間でより協力的な関係を築くことが必要です。これは、アメリカ大陸先住民集団への非倫理的で搾取的な研究の長い歴史の結果である、アメリカ大陸先住民の間の不信の深い遺産を是正するために必要です。研究共同体は現在、人類の参加者に関する遺伝的研究のより強力な指針を有しており、先住民の利益をよりよく保護しようとしています。たとえば、文化的に有害な方法での標本の未承認の使用の禁止です。それにも関わらず、ほとんどの場合、そうした監視はおもに存命者の研究と関連しており、古代人とは関連しておらず、しばしば存命者のみが対象となります。古代DNAの使用は、人類遺骸への利用、遺骸に関する研究への同意、データの所有権と配布に関する複雑さの尺度を追加します。とくに、古代人遺骸が組織により保有され、共同体もしくは特定の部族に所属しないとみなされる場合はそうです。

 研究と先住民共同体の間で、古代ゲノム研究の最初の10年を特徴づけてきた科学的な「骨の殺到」の倫理性を問うことも含めて、古代人の研究への倫理的に健全で協調的な最良の実践を発展させるために、努力がなされています。時間と適切な協約により、より協力的な関係を確立できるでしょう。これらの研究の利害関係者間の協議と協力においてより大きな努力を払い、その方向ですでに前向きな進展があります。これらの努力は、ひじょうに意見の相違した返還の事例だった古代ゲノミクスの適用を可能にしました。たとえば、ケネウィック人はDNA標本を提供したコルビル(Colville)の連合部族の協力により解決され、精霊洞窟個体は、ファロン・パイユート・ショショーニ(Fallon Paiute–Shoshone)部族とネバダ州立博物館がゲノム分析を進めることに合意しました。


●ゲノムの過去を見据えて

 古代ゲノミクスは、アメリカ大陸の人口史に関する理解を変えてきました。それにも関わらず、まだ知られていないことが多くあります。その一つは、アメリカ大陸の氷床の南側におけるひじょうに古い(たとえば、LGM以前)遺跡(関連記事1および関連記事2)の主張が確かなのか、不明なままです。そうした主張がもし確かならば、それらの遺跡群が、祖先的アメリカ大陸先住民集団がその時点ではまだアジア北東部で特有の人口集団として出現していなかった、と推測されている現在のゲノムデータからの想定とどのように適合するのか、不明です。

 その時点でアメリカ大陸に人類が存在したならば、考古学的にも遺伝学的にも、現時点で確実な証拠はない初期人類が存在した、と示唆されます。しかし、クローヴィス文化期以前のアメリカ大陸の個体からはゲノムデータが得られていない、と強調することも重要です。したがって、先クローヴィス文化期人口集団がNNA系統とSNA系統のどちらかに相当するのか、両系統の分岐前なのか、あるいは別の集団なのか、不明です。アメリカ大陸最初期の遺跡群の骨格遺骸は欠如しており、古代環境ゲノミクスが役立つかもしれません。それは、植物や人類も含めての動物といった複雑な組織を有する生物からのDNAが古代の堆積物から得られて、人類の存在を明らかにできる可能性があるからです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候は、僅かではあるものの、ブラジルの比較的小さな地域の古代人1個体と現代人で報告されてきました(関連記事1および関連記事2)。南北アメリカ大陸もしくはアジア北東部では、そうした兆候を有する古代人も現代人も、他には見つかっていません。この兆候がひじょうに構造化された最初期人口集団に存在し、ブラジル以外の地域での欠如は標本抽出の偶然なのかどうか、あるいは、この兆候は祖先的アメリカ大陸先住民集団の到来前にほぼ消滅し、わずかな程度の遺伝子移入しかない、アメリカ大陸のより早期の人口集団を表しているのかどうか、もしくは、アメリカ大陸全域に人類が最初に拡大した後の完新世の移動の事例なのかどうか、判断は困難です。しかし、これまでにDNA解析された古代人の数を考えると、最後の仮説の可能性はますます低くなっているようです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候はさまざまな領域に散在しているので、遺伝的収束や「偽陽性」兆候の事例ではないようです。この問題を解決するための課題の一部は、先クローヴィス文化期個体群のゲノム証拠の欠如で、それが得られれば、少なくとも、オーストラレーシア人のゲノム兆候がより早期の集団とともに到来したのかどうか、解決できます。同様に、アジアからの更新世人類遺骸のゲノムデータは比較的少なく、オーストラレーシア人のゲノム兆候の起源と拡大は、もし存在するならば、アジア、とくに北東部のより多くの個体の配列を通じて調べられるべきです。最近の古代ゲノム研究で、オーストラレーシア人の遺伝的兆候が中期完新世のアジア南東部本土の狩猟採集民集団で見つかったことは、注目に値します(関連記事)。したがって、他の人口集団がアメリカ大陸先住民の祖先系統に寄与した可能性は残っており、それら人口集団の一部は、たとえばUPopAのようなゴースト的存在か、まだ検出されていない方法で関連している可能性があります。また、これまでに検出されたものよりも、祖先的アメリカ大陸先住民集団内で多くの系統分岐と移動があった可能性は高そうです。

 古代ゲノム記録は広範な拡散や長期間の継続や人口集団置換事象や遺伝子流動と混合の証拠を示してきましたが、人々が移動した(もしくは留まった)理由、異なる集団が遭遇した時に相互に何が起きたのか(混合を除いて)、一部の集団はなぜ消滅し、これらの過程は考古学的に見られる物質文化の記録と変化にどのように関連するのか、といった問題にはほぼ沈黙しています。これらの問題には、単にゲノムと文化の変化の間の相関(関連記事)に注目するだけではなく、ゲノム記録と考古学的記録を今よりもはるかに統合する必要があります。結局のところ、文化的変化は人口集団の混合とは無関係に起きる可能性があり、全ての人口集団の混合が文化的変化につながるわけではありません。

 なお、オーストラレーシア人のゲノム兆候は最近になって、現在南アメリカ大陸太平洋沿岸に住むアメリカ大陸先住民で検出されました(関連記事)。これは、オーストラレーシア人のゲノム兆候の範囲と構造が、上述した既知の知見よりも大きいことを示唆します。オーストラレーシア人のゲノム兆候は太平洋沿岸経由でアメリカ大陸に到来した人口集団によりもたらされた、と推測されますが、その地域の古代人と、北および中央アメリカ大陸の古代人および現代人からのオーストラレーシア人のゲノム兆候の欠如は、まだ説明されていません。


参考文献:
Willerslev E, and Meltzer DJ.(2021): Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics. Nature, 594, 7863, 356–364.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03499-y


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html
5:777 :

2024/02/15 (Thu) 17:11:21

アマゾン川上流域 の2500年前頃にさかのぼる都市化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16839851



ゲノム革命で明らかになる人類の移動と混血の歴史(ヨーロッパ人の起源&アメリカ先住民の起源) - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLCFG6UvfbQfmuxgnoEeSvAbii1WEnJh0F

アメリカ先住民の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16833139
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/353.html

人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm

カリブ海諸島の3200~400年前頃の古代ゲノムデータを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html

カリブ海諸島の古代ゲノムデータをさらに拡張した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

アメリカ・インディアンの遺伝子 _ ハプログループ Q (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/179.html

北アメリカ北西海岸 トーテムポール
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16831890

なぜ日本食は世界で人気があるのか _ ネイティブアメリカン料理
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/487.html
6:777 :

2024/06/06 (Thu) 07:27:02

埋もれた古代人骨が解明する! 空白の1万年の謎...!!【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】2024/06/05
https://www.youtube.com/watch?v=ERzBu0tom6A
7:777 :

2024/07/01 (Mon) 07:01:43

雑記帳
2024年06月30日
チチェン・イッツァの被葬者のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202406article_30.html

 マヤ文化の有名な都市であるチチェン・イッツァ(Chichén Itzá)の被葬者のゲノムデータを報告した研究(Barquera et al., 2024)が報道されました。チチェン・イッツァはメキシコのユカタン半島に位置し、マヤ文化の古典期後期および末期(600~1000年頃)における最大級の都市とされています。本論文は、チチェン・イッツァの儀式的中心地にあるサグラド・セノーテ(Sacred Cenote、陥没穴)の近くのチュルトゥン(chultún、地下貯水槽)で発見された、500~900年頃の未成年64個体のゲノムデータを報告しています。

 この全員男性である64個体のうち、2組の一卵性双生児を含めて約25%が密接な親族関係にある、と明らかになりました。この64個体は人身供犠の対象と考えられ、遠方地域ではなく、比較的近い地域の出身者と推測されています。チチェン・イッツァの古代の住民と現代の住民との遺伝的連続性も示されましたが、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のうち父系ではヨーロッパや近東からの影響が過半数を占めていることや、HLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球型抗原)などヒトの免疫に関連する特定の遺伝子座での、植民地時代にこの地域にもたらされた感染症に起因する適応の痕跡が示唆されました。


●要約

 メキシコのユカタン半島の古代都市であるチチェン・イッツァは、古典期後期および末期(600~1000年頃)における最大級で最も影響力のあった集落の一つで、メソアメリカにおいて最も集中的に研究されている考古学的遺跡の一つであり続けています。しかし、その儀礼空間の社会的および文化的用途や、その人口集団他のメソアメリカ集団との遺伝的なつながりに関しては、多くの疑問が未解決です。本論文は、チチェン・イッツァの儀式的中心地にある陥没穴近くの地下の集団埋葬地で発見された、500~900年頃の未成年64個体から得られたゲノム規模のデータを提示します。

 遺伝学的分析から、分析された全個体は男性で、2組の一卵性双生児を含めて、複数の個体が密接な親族関係にあった、と示されました。双生児は、マヤおよびより広くメソアメリカの神話において重要な役割を果たしており、そこでは神々や英雄たちの二元論的特性を具現化しますが、これまで古代マヤの埋葬地で発見されたことはありませんでした。この地域における現代人との遺伝学的比較は、チチェン・イッツァの古代の住民との間の遺伝的な連続性を示しますが、HLAなどヒトの免疫に関連する特定の遺伝子座は例外で、植民地時代にこの地域にもたらされた感染症に起因する適応の痕跡を示唆しています。


●研究史

 マヤの古代都市であるチチェン・イッツァはユカタン半島の北部中央に位置しており(図1a・b)、メソアメリカで最大かつ最も象徴的な考古学的遺跡ですが、その起源と歴史についてはさほど理解されていないままです。古典期後期(600~800年頃)において初めて台頭したチチェン・イッツァは、古典期末期(800~1000年頃)にはマヤ北部低地の有力な政治的中心地となり、この期間には南部および北部低地のほとんどの他の古典期マヤ遺跡は政治的崩壊を経ていきました。チチェン・イッツァの彫刻された記念碑に刻まれた暦年代のほとんどは850~875年頃に収まり、チチェンとして知られる遺跡の北部の儀式中心地はほぼ900年頃以後に建設され、チチェン・イッツァ遺跡で最大の建造物である、ククルカン(Kukulkán)寺院としても知られているエル・カスティージョ(El Castillo)でした。

 サクベ(石灰岩の舗装道路)は新チチェンをサグラド・セノーテとつなぐため連接され、サグラド・セノーテとは、巨大な陥没穴で、ほぼ子供である200人以上の儀式で犠牲になった遺骸など、豊富儀式の供物が含まれます。儀式殺人の証拠はチチェン・イッツァ遺跡全体で広範にあり、擬制になった個体の遺骸と記念碑的芸術の表現の両方が含まれます。チチェン・イッツァにおけるエリートの活動は11世紀に減少し、最後の刻まれた暦年代は998年ですが、チチェン・イッツァ遺跡は植民地時代およびそれ以降において顕著な儀式と巡礼の中心地であり続けました。以下は本論文の図1です。
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 1967年、100個体以上の未成年を含む再利用されたチュルトゥン(地下貯水槽)がサグラド・セノーテ(陥没穴)の近くで発見されました。そうした地下洞窟と象徴を共有しています。陥没穴については、チュルトゥンは貯水や儀式活動と関連しており、洞窟と象徴性を共有しています。そうした地下の特徴は長く水や雨や子供の犠牲と関連づけられてきており、マヤの地下世界への入口と広く考えられています。小さな地下洞窟ともつながっていたチチェン・イッツァ遺跡のチュルトゥンの場所と状況を考えて、トウモロコシ農耕の周期を支えるために犠牲にされたか、マヤの雨の神であるチャク(Chaac)への供物として捧げられた子供を含んでいる、と推測されてきました。16世紀のスペイン植民地時代の記録とサグラド・セノーテの浚渫後の20世紀初期の調査から、若い女性と少女がおもにチチェン・イッツァで犠牲となった、との理解が広がりましたが、最近の骨学的分析から、男女両方の身体がサグラド・セノーテに堆積していた、と示唆されています。

 マヤ地域全体の犠牲者群の体系的調査から、男女両方が儀式的殺害の対象だった、と確証されてきましたが、古典期のマヤ遺跡ほとんどの犠牲となった個体は学童期(6~7歳から12~13歳頃)なので、正確な性別分布は伝統的な骨学的手法のみを用いては判断できません。16世紀のスペインの資料には、そうした子供は誘拐や購入や贈物の交換により地元で得られた、と記録されていますが、最近の同位体研究では、サグラド・セノーテ内の少なくとも一部の個体は地元出身ではなく、遠くホンジュラスもしくはメキシコ中央部出身だったかもしれない、と示唆されています。とはいえ、1世紀以上の研究にも関わらず、チチェン・イッツァにおける子供の犠牲と儀式的な集団墓地としての地下施設の儀式的使用についての多くは、分かっていないままです。

 犠牲となった子供の起源および相互やこの地域の現在の住民との制す物学的関係をより深く理解するため、本論文は生物考古学とゲノムの手法の組み合わせを用いて、サグラド・セノーテの近くのチュルトゥン内の未成年64個体(図1c)を調査し、その64個体を近隣のティシュカカルツユブ(Tixcacaltuyub)町の現在の住民68個体、およびこの地域の他の利用可能な古代人および現代人の遺伝的データと比較しました。ティシュカカルツユブ共同体は長年この研究団に協力してきており、その視点がこの原稿の作成に情報をもたらしました。古代人の遺伝的データ分析や炭素(C)と窒素(N)の骨コラーゲン安定同位体分析と放射性炭素年代測定から、チュルトゥンの未成年は男性で、密接な親族が集団埋葬に存在し、それには2組の一卵性双生児が含まれる、と示されます。

 安定同位体分析から、親族関係にある子供はより類似した食べものを消費し、全体的にチチェン・イッツァの子供の食性はマヤ低地全域の他の古典期人口集団と類似していた、と示唆されます。他の古代人および現代人との遺伝的比較はマヤ地域における長期の遺伝的連続性を示しますが、HLAクラスII遺伝子座、とくに、サルモネラ菌(Salmonella enterica)感染に対するより大きな耐性を提供する、HLA-DR4アレルの、免疫遺伝子におけるアレル(対立遺伝子)頻度変化を示唆しています。サルモネラ菌感染は、メキシコ南部のオアハカ(Oaxaca)市の植民地期の集団墓地で以前に特定された腸炎熱(腸チフス)の原因媒体で、これは1545年のココリツトリ(cocoliztli)流行病と関連していました。


●ゲノムおよび免疫遺伝子データの生成

 チチェン・イッツァのチュルトゥン埋葬(以後、YCHと呼ばれます)で発見された古代の個体群から得られた骨標本が、専用施設で古代DNA研究用に設計された実施要綱に従って、収集・処理・分析されました。全ての骨格要素を明確に単一個体に割り当てることができなかったので、1回以上の個体の標本抽出を避けるため、左側錐体骨が収集されました。放射性炭素年代測定(26点)から、このチュルトゥンは7世紀初期におけるチチェン・イッツァ遺跡の最初の開花から10世紀の最盛期を経て12世紀半ばまで、少なくとも500年間使用されていた、と示されました。

 YCHの64個体全員からの古代DNA回収に成功しました。さらに、メキシコのユカタン半島のDNAはティシュカカルツユブ(Tixcacaltuyub、略してTIX)町の現代の住民68個体の血液標本から収集され、この地域の現代および古代の住民と比較されました。抽出されたゲノム資料はウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理(YCHについて)もしくは非UDG処理ゲノムライブラリ(TIXについて)され、DNAの保存と信頼性評価のため、約500万~1100万の読み取り深度で配列決定されました。次に、11点の一本鎖のUDG処理ライブラリが構築され、YCH個体群の部分集合で分析可能なデータがさらに増加されました。

 nf-core/Eagerパイプラインの一部として実装された二つの手法で、許容可能な汚染量(5%未満)を確保するための品質管理評価が実行されました。すべてのTIX個体およびYCHの56個体では分析に充分なヒトDNAが得られ(0.1%以上)、再調整手順後に、これらのDNAライブラリが120万の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)情報をもたらす一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)のパネル(124万SNP)と、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ゲノムと、免疫遺伝子のパネルのため、さらに濃縮されました(関連記事)。濃縮されたゲノムライブラリの配列決定後に、ライブラリ1点あたり約4000万の読み取りが得られ、これらのデータで、さらに品質管理が実行され、集団遺伝学的分析とHLA分類が行なわれました。


●チュルトゥンにおける遺伝的親族関係と双子

 X染色体とY染色体のSNPの網羅率比較から、YCHの全未成年個体は遺伝的に男性に分類され、TIX参加者全員の記録された性別が確証されました(関連記事)。YCH個体群の不適正塩基対率(pairwise mismatch rate、略してPMR)は、2組の一卵性双生児(YCH018–YCH019およびYCH033–YCH054)と9組の他の密接な親族の組み合わせ(YCH016–CH017、YCH017YCH018、YCH017–YCH019、YCH034–YCH041、YCH036–YCH038、YCH042–YCH049、YCH047–YCH057、YCH049–YCH057、YCH059–YCH060)の存在を裏づけます。全体的に、儀式埋葬の分析された子供のうち25%(16個体)がチュルトゥン内の他の子供と密接な親族関係にあります。


●子供の食性の同位体パターン

 骨のコラーゲンのδ¹³Cおよびδ¹⁵N測定は、−13.9‰~−7.6‰(平均および標準偏差=−9.9‰±1.5‰)の範囲のδ¹³C値と5.9‰~14.0‰(平均および標準偏差=9.7‰±1.5‰)の範囲のδ¹⁵N値を提供しました。全体的に、これらの値は他の古典期マヤ低地遺跡と類似しており、ユカタン半島および他の古典期マヤ遺跡の食性証拠と一致しています。より高いδ¹⁵N値の一部の個体(たとえば、YCH004、YCH008、YCH023、YCH039、YCH047、YCH061)の食性は、水産資源を含んでいたかもしれませんが、社会的地位と関連している他の食性の差異か、授乳の影響の結果を示唆しているかもしれません。

 関連する動物相からのさらなる背景情報もしくは地元の基準同位体データがなければ、個々の食性をより正確に判断することは困難なままです。それにも関わらず、本論文のデータと刊行されている結果(古典期後期および古典期末期で調べられた450個体以上)との比較から、チュルトゥンの54個体は、さまざまな量のC₃タンパク質と組み合わされた顕著な量のC₄陸生資源と淡水および/もしくは海洋資源を消費した、と示唆されます。これは、記録された古典期マヤの食性に焦点を当てた以前の考古学的調査と一致します。関連する個体の同位体値は相互の近くに位置し、食性の類似性を示唆します。


●マヤ地域における遺伝的連続性

 世界規模の人口集団とアメリカ大陸の現在の個体群(関連記事)に基づいて、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図2)。メソアメリカ人口集団について予測されるように、YCHは世界規模のPCAでは混合していないアメリカ大陸先住民人口集団と密接にクラスタ化します(まとまります)。TIXの一部の個体はヨーロッパ人の方へと動いており、遺伝的混合が示唆されます(図2)。YCHとTIX両方の個体群は、現在のアメリカ大陸北部と中央部と南部の先住民人口集団(関連記事)に投影されると、マヤの現代人とクラスタ化します(図2a)。

 アフリカとヨーロッパとオセアニアとアメリカ大陸の人口集団の部分集合を用いた教師なし混合分析(図2b・c)は、YCH個体群における混合の兆候を示さず、TIX個体群についてはヨーロッパおよびアフリカ祖先系統の小さな寄与を示し、一部の個体(18個体)は非アメリカ大陸先住民の遺伝的寄与の兆候を示しません。カリブ海地域の古代の人口集団で最大化される遺伝的構成要素がベリーズのマヤ地域古代人とYCH個体群の両方に存在するものの(関連記事1および関連記事2)、マヤ地域とTIXの現代人の遺伝的構成にほぼ存在しないのに注目するのは興味深いことです。メソアメリカ(この構成要素はまだ検出されていません)の他の人口集団との混合もしくは遺伝的浮動が、マヤ地域の現代人から消えつつあるこの構成要素を説明できるかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 現在および古代のアメリカ大陸人口集団との遺伝的類似性を検証するため、f₃形式(外群、標的、検証対象)の外群F₃統計が、外群としてサハラ砂漠以南のアフリカ人からムブティ人を、標的としてアメリカ大陸先住民人口集団のパネルを、検証対象としてTIXもしくはYCH個体群を用いて計算されました(関連記事)。YCHおよびTIX個体群両方で検出された最高の遺伝的類似性(図2)には、アメリカ大陸中央部および南部の集団が含まれました。TIX個体群は、チチェン・イッツァ遺跡の古代の個体群と最高の浮動を共有します(図2)。検証された古代の人口集団のうち、ベリーズ南部のマヤ山脈のマヤハク・カブ・ペク(Mayahak Cab Pek、略してMHCP)遺跡の9300年前頃の1個体(関連記事)とベリーズではあるもののもっと新しい状況の他の団関された個体群は、古代チチェン・イッツァ個体群と遺伝的に最も類似しており、マヤ地域における長期の遺伝的連続性が示唆されます。

 YCHおよびTIX個体群が、最高のF₃得点のアメリカ大陸先住民人口集団の部分集合を使い、f₄形式(ムブティ人、TIX、標的、YCH)のF₄統計を用いて、他のアメリカ大陸先住民人口集団とよりも相互の方と密接なのかどうか、検証されました。その結果、検証された標的のアメリカ大陸先住民人口集団の数集団がTIX個体群とより密節に関連している、と示唆されます。これが示唆しているかもしれないのは、TIX個体群がチチェン・イッツァの古代の住民と遺伝的に関連しているとしても、チチェン・イッツァの古代の住民と遺伝的に最も近い人口集団はもはや存在しないか、まだ標本抽出されていないかもしれない、ということです。

 次に、2個体群/集団が特定の人口集団参照一式と比較して同じ祖先系統供給源から派生する尤度を評価するqpWaveが適用されました。その結果得られたP値から、YCH個体群とマヤ地域の現代人集団は同じ祖先系統を共有している、と示唆されます。TIX個体群はYCH個体群とスペイン人とヨルバ人の混合としてモデル化でき、作業モデルは、アメリカ大陸先住民構成要素92%とヨーロッパ人からの遺伝的寄与7%とアフリカ人祖先系統0.03%()の組成を示唆します。遺伝的連続性の遺伝的最尤検定を用いて、TIX個体群はYCH個体群の直接的な遺伝的子孫人口集団である、と形式的に検証されました。

 YCHの53個体とTIXの全68個体について、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を決定でき、その頻度(AとBとCとD)は両集団【YCHとTIX】間でほぼ同一です。しかし、より高水準の遺伝的解像度を表しているハプロタイプからは、mtDNAの多様性がTIX個体群よりもYCH個体群の方で高いことは明らかです。mtHgとmtDNAのハプロタイプ系統は、古代および現在両方のマヤ地域住民で以前に報告されたものに相当します。チチェン・イッツァ個体群(51個体)から回収された全てのY染色体ハプロタイプは(アメリカ大陸先住民で多い)Qの一部ですが、TIX個体群の半分以上(19個体)はヨーロッパ(47.37%)および中東(5.26)系統で、他のラテンアメリカ人口集団で以前に説明されてきたように、植民地時代およびその後の混合過程における強い性別の偏りを反映しています。


●マヤ地域住民における代謝経路のゲノミクス

 両人口集団【YCHとTIX】で生成されたSNPデータを用いて、LSBL(locus-specific branch lengths、遺伝子座固有の枝の長さ)が計算され、YCHとTIXの両個体群のゲノム規模選択について検証されました。2通りのLSBL比較が行なわれ、第一に、YCH個体群とスペインのイベリア人および中国の漢人(ともに1000人ゲノム計画のデータ)、第二に、TIX個体群とイベリア人およびYCH個体群で、YCH個体群とイベリア人からの選択の分離が検証されました。

 注釈付けされた上位0.5%のSNPのうち、YCH個体群では脂質代謝と関わる29個の遺伝子が見つかり、以前に報告された脂肪酸不飽和化酵素(fatty acid desaturase、略してFAD)遺伝子が含まれ、TIX個体群については20個の遺伝子が見つかり、FTOαケトグルタル酸依存二原子酸素添加酵素(FTO)と転写産物因子7様2(transcription factor 7 like 2、略してTCF7L2)が含まれ、両者ともラテンアメリカおよびとくにマヤ地域の人口集団における代謝特性と関連づけられてきました。アデニル酸環化酵素族(adenylate cyclase family、略してADCY)に属するような特定の遺伝子のSNPもTIX個体群では上位0.5%に入り、これは以前の報告と一致しますが、YCH個体群ではそうではなく、植民地時代の前後での選択の相違を示しているかもしれません。

 次に、GoWindaを用いて、濃縮された遺伝子オントロジー経路が検索されました。両集団【YCHとTIX】は代謝経路と関連する濃縮された遺伝子オントロジー期間を示しますが、YCH個体群が繁殖関連の生物学的過程(卵形成やステロイドホルモンに媒介されたシグナル伝達経路や排卵周期や発情周期など)における増加を示す一方で、コレステロールおよび脂質代謝経路期間(脂質生合成過程の負の調節やコレステロール恒常性やステロール恒常性など)はTIX個体群においてより顕著に現れます。


●HLA遺伝子は免疫における変化を示します

 免疫に関連する遺伝子については、YCH個体群とTIX個体群についてそれぞれ、上位0.5%の注釈付けされたSNPのうち15ヶ所と7ヶ所のHLA領域を検出でき、正の選択の兆候を示しています(図3)。YCHおよびTIXの両個体群で共有されているSNPはなく、北アメリカ大陸の北西部沿岸の古代および現代の先住民において先行研究で選択下にあると明らかになったSNPもありませんでした。YCH個体群で見つかったSNPが、HLAのB・DRB1・DQA1・DQA2・S・X・DOA・DQB1遺伝子もしくはその近傍領域に位置しているのに対して、TIX個体群のSNPは、HLAのC・DQA1・DQA2・DQB1遺伝子もしくはその周辺で見つかります。

 宿主と病原体のアレル特有の適応的免疫を伴う共進化多遺伝子座モデルを使用して、病原体からの選択は宿主の認識遺伝子座(HLA系におけるものなど)間の関連を維持するならば、遺伝子座におけるアレル(対立遺伝子)は連鎖不平衡にあるだけではなく、重複しない関連性も示すかもしれない、と示されてきました。その理由のため、重複しない関連性のパターンが分析され(図3)、YCHおよびTIX個体群とメキシコ南部のチアパス(Chiapas)州の高地の以前に分析されたマヤ地域のラカンドン人(Lacandon)における、HLA関連での病原体駆動選択について検証されました。HLA遺伝子座のさまざまな組み合わせ間のf*adjf*adj計量(重複しない関連づけの強度の順位付けに用いられる媒介変数)が測定されました。標準偏差の単位で、本論文で観察された非重複の量と、無作為化されたアレル関連づけで観察された非重複の量との間の違いも測定されました。以下は本論文の図3です。
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 古代のデータと比較すると、マヤ地域現代人のデータは、より高水準の非重複を有しているようで(図3a・b・c)、それは、分析された現代の人口集団がHLA遺伝子座において病原体への曝露に起因するかもしれない選択を経てきた、と示唆しているのでしょう。YCH個体群とTIX個体群のHLAアレル頻度を比較すると、8ヶ所のアレルで統計的に有意な変化が検出され、それは、いくつかの比較の補正後の、3ヶ所のHLAクラスIアレルと、5ヶ所のHLAクラスIIアレルです。YCH個体群と比較してTIX個体群において、アレルのHLA-B*40:02(0.2447対0.0821)とHLA-DQA1*03:03(0.1277対0.0224)とHLA-DQB1*04:02(0.1809対0.0299)で頻度が減少したのに対して、HLA-A*68:03(0.0532対0.2687)とHLA-B*39:05(0.0532対0.2687)とHLA-C*07:02(0.2021対0.3955)とHLA-DQB1*03:02(0.4894対0.7015)とDRB1*04:07(0.2340対0.4627)では頻度が増加しました。TIX個体群については、HLAハプロタイプの88%がアメリカ大陸先住民人口集団で以前に報告されており、そのうち10%はおそらくヨーロッパ人起源で、2%はアフリカ人のハプロタイプを表している、と分かりました。全てのYCH個体群のHLAハプロタイプは、アメリカ大陸先住民人口集団、とくにマヤ人で見られるものと一致します。

 HLAクラスII領域は以前に、16世紀アメリカ大陸におけるヨーロッパ人との接触の前後の選択事象およびサルモネラ菌感染に対する耐性が示唆されてきました。したがって本論文は、有意な変化のあるアレルがサルモネラ菌由来のペプチドにどのように反応するのか、検証することに関心を抱きました。そのために、免疫抗原決定基データベース(Immune Epitope Database、略してIEDB)分析情報源に実装されたNetMHCIIPan 結合予測法を用いて、ヒトにおいて免疫原性の証拠があるサルモネラ菌の18個のタンパク質が選択され、YCHおよびTIX両個体群で見つかった、コンピュータで計算された(in silico)HLAクラスII分子に、それらに由来するペプチドを提示されました。

 強い結合では、結合ペプチドはそのペプチドに対して免疫応答を起こす可能性が高い、と意味するのに対して、より弱い結合では免疫応答の誘発がさほど成功しません。最も強力なHLA-DRの結合体が、HLA-DRB1*14:02とHLA-DRB1*04:07とHLA-DRB1*16:02とHLA-DRB1*04:17であるのに対して、HLA-DQの最も強い結合はHLA-DQA1*05:01/DQB1*03:01とHLA-DQA1*05:05/DQB1*03:03とHLA-DQA1*03:01/DQB1*03:03でした。全体的に、HLAクラスII分子により示される強弱いずれかのペプチドの最少数は、HLA-DRアレルのDRB1*08:02およびDRB1*04:04およびDRB1*14:06と、以前に一覧が示された同じHLA-DQ分子です。大まかには、TIX個体群において、HLA-DRB1*04:07(強い結合体)とHLA-DQB1*03:02(弱い結合体、HLA-DRB1*04:07との連鎖不平衡)の頻度が上昇するのに対して、HLA-DQA1*03:03とHLA-DQB1*04:02は低下し、弱い結合体です。


●考察

 考古遺伝学は、より伝統的な考古学的手法を用いての推測は困難かもしれない、過去のマヤ地域の期時期感光生物学的親族関係や遺伝的歴史の側面の調査機会を提供します。本論文は、チチェン・イッツァの古代都市マヤのサグラド・セノーテの近くに位置する、古典期のチュルトゥンに500年間にわたって儀式的に埋葬された未成年遺骸64個体を調べました。サグラド・セノーテのヒト遺骸とは対照的に、チュルトゥンの分析された全未成年は男性と分かり、この状況における男児の儀式的犠牲への強い選好を論証します。遺伝学的分析は、チュルトゥン内における親族関係にある個体の存在も示し、それには2組の一卵性双生児と9組の他の親族の組み合わせが含まれます。そうした双子の自然的な発生率は一般人口のわずか0.4%なので、チュルトゥンにおける一卵性双生児2組の存在は、偶然により予測されるよりずっと高くなります。

 全体的に、子供の25%は遺骸群内で密接な親族を有しており、犠牲にされた子供はその密接な生物学的親族関係のため特別に得らばれたかもしれない、と示唆されます。さらに、これはチュルトゥンにおける親族の実際の人数を過小評価しているかもしれず、それは、チュルトゥンにおいて推定された106個体のうち64個体のみで、分析に利用可能な左側側頭骨の錐体部が保存されていたからです。各一式で密接な親族関係にある子供のが、類似した食事を消費しており、同様の死亡年齢であるように見えるさらなる発見から、そうした子供たちは1組もしくは双子の犠牲として同じ儀式行事中に犠牲にされた、と示唆されます。

 双子はマヤ神話ではとくに縁起がよく、双子の犠牲は、起源がマヤ先古典期にさかのぼるかもしれない本である『ポポル・ヴフ(Popol Vuh)』と呼ばれている、神聖なキチェ人(K’iche’)の評議会書の中心的主題です。『ポポル・ヴフ』では、双子のフン・フナプ(Hun Hunapu)とヴクブ・フナフプ(Vucub Hunahpu)が球技で負けた後に、神により冥界に下され、犠牲にされます。その後、フン・フナプの頭はカラバッシュの木に吊るされ、そこで処女を受精させ、この女性は2組目の双子であるフナプとイシュバランケー(Xbalanque)を生みます。これらの双子は英雄の双子として知られており、その後、冥界の神を出し抜くため、犠牲と復活の繰り返しの周期を経ることにより、その父親とオジのための復讐を続けます。英雄の双子とその冒険は、古典期マヤ芸術において豊富に表現されており、地下構造が冥界への入口とみなされていたことを考えると、チチェン・イッツァにおけるチュルトゥン内の双子とその親族の犠牲は、英雄の双子に関わる儀式を想起させるかもしれません。

 チュルトゥンの未成年をマヤ地域の他の古代および現在の人口集団と比較すると、長期の遺伝的連続性の証拠が見つかり、それはチチェン・イッツァにおける犠牲とされた子供やキョウダイの組み合わせが近隣の古代マヤ共同体から得られたことも示唆しています。TIXの現在の個体群では、ヨーロッパ勢力との接触期以降のヨーロッパ人およびアフリカ人との混合の証拠が検出されます。非アメリカ大陸先住民供給源からの祖先系統の寄与はゲノム規模水準では低いものの、片親性遺伝標識に関してはひじょうに非対称的です。TIX個体群では、すべてのmtHgがアメリカ大陸先住民系統であるのに対して、Y染色体ハプログループ(YHg)の半分以上は非アメリカ大陸先住民系統で(ほぼヨーロッパおよび中東/地中海起源で、以前の報告と一致します)、ヨーロッパ勢力との接触期における非アメリカ大陸先住民祖先系統への強い男性の偏りが起きた、と示唆されます。

 集団遺伝学的分析(混合特性とF₃およびF₄と遺伝的連続性検証)で判断されたマヤ地域集団における遺伝的類似性により、古代(YCH個体群)と現在(TIX個体群)のマヤ地域における選択の検証のため、機能的多様体をコードするゲノム領域における変化の調査が可能となりました。本論文の調査結果は、脂質代謝と繁殖の両方がアメリカ大陸先住民では最近選択されてきた特性で、それは恐らく、植民地時代初期および定住期におけるこれらの人口集団の経てきた強いボトルネック(瓶首効果)とカロリー制約に起因する、との以前の仮説を裏づけます。

 チチェン・イッツァで分析された個体から得られたδ¹⁵N値の観察された標準偏差(1.5)は、これまでに分析された全ての古典期後期~末期のマヤ遺跡のうち最高です。マヤ地域における古食性の再構築から得られた全体像は、おひらくトウモロコシであるC₄食料の顕著な量の消費を示しますが、地理的差異が利用可能な食料における微細環境の違いと交易網の変動性に反映されています。この変動性を説明するため、チチェン・イッツァで犠牲にされた個体のかなりの割合がわずかに異なる食事を消費していた地元ではないマヤ人だったかもしれない、と想定できます。あるいは、先行研究では、古典期マヤのエリートの食性パターンは経時的に一般人口より大きな変動性を示す、と示唆されています。この変動性は、アルトゥン・ハ(Altun Ha)やベイキング・ポッ(Baking Pot)など他の場所で観察されたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nの標準偏差にも反映されています。したがって、分析されたチチェン・イッツァの個体群で観察されたタンパク質摂取津の違いも、社会的地位の差異を示唆しているかもしれません。

 観察されたδ¹⁵Nの変動性が母乳育児の結果であることも、必ずしも除外できず、それは、標本抽出された遺骸が3~6歳の間と推定されている個体に由来するからです。したがって、他の背景情報がない場合には、特定の食性の差異の解釈には注意が必要です。本論文のデータから、DNAが密接な遺伝的関係を示す個体はより類似したδ¹³Cおよびδ¹⁵N値を示し、そうした個体は同様の世話と食事を提供した拡大家族網で育ったかもしれない、と示唆されます。

 遺伝的検証から得られた遺伝的浮動の値が意味するのは、TIX個体群の祖先は過去1000年間ほどのある時点で深刻な人口減少を経た、ということです。16世紀を通じて、戦争と飢饉は疫病が人口減少をもたらした、と論証されてきており、ヨーロッパ人の接触時期に現在のメキシコに暮らしていた1000万~2000万人の先住民は16世紀すえにはわずか200万人と、最大で90%人口が減少したかもしれません。天然痘や麻疹やおたふく風邪やインフルエンザやタバルディヨ(tabardillo)もしくはマトラルザフアトル(matlalzahuatl)と呼ばれる発疹チフスや腸チフスや風疹や百日咳やガロッティッロ(garrotillo、深刻なジフテリア)や風土病性赤痢や三次熱(マラリア)や梅毒などの感染症は、植民地時代メソアメリカにおいて大規模な発生を引き起こし、人口減少に寄与し、おそらくは免疫関連遺伝子座での選択を引き起こした、と主張されてきました。

 HLAクラスII領域は以前に、アメリカ大陸の植民地期において選択事象を経てきた、と報告されました。注目すべきことに、YCH個体群をTIX個体群と比較した場合に頻度が変化したアレルのうち3ヶ所はHLAクラスIIの一部である、と分かり、これはLSBL分析で見つかったSNPによりさらに裏づけられる調査結果です。それらのアレルのうち1ヶ所(HLA-DRB1*04:07)は、南アメリカ大陸とアジア東部においてサルモネラ菌亜種により引き起こされる腸チフスへの耐性と関連している、と以前に報告されたアレル群(HLA-DR4)に属しています。最近、考古遺伝学的研究は、1545年のココリツトリ流行病と関連する集団埋葬においてサルモネラ菌パラチフスC(Salmonella enterica sp. Paratyphi C)の存在を特定しており、全ての記録されている植民地時代の流行病の最高の死亡率であるこの流行病の少なくとも一つの原因媒体だった、と示唆されます。古代のサルモネラ菌株のゲノム解析は、16世紀におけるアメリカ大陸へのその到来を強く裏づけます。

 現在のマヤ人とメキシコ人で一般的に観察されているHLA-DR4アレル群の増加は、疫病事象とその後の病原体への持続的な曝露により引き起こされた選択と一致します。HLAアレル間の非重複関連のさらなる調査は同様に、現在のマヤ地域人口集団が、病原体選択を経てきて、それがYCH個体群よりも重複の少ないHLAとの関連を促進したことと一致します。コンピュータで計算された結合予測分析も、HLA-DRB1*04:07をサルモネラ菌由来のペプチドへの強い結合体として示しますが、マヤ地域の現代人で有意に減少しているHLA-DQB1*04:02とHLA-DQB1*03:03は同じペプチドに対してより弱い結合体です。まとめて検討すると、各証拠は植民地時代における疫病事象に応答してHLA領域で起きた(複数の)選択事象を示しています。そうした選択は、1545年の強烈なココリツトリ流行病と、16世紀初頭以降のマヤ地域における疫病事象の回数の多さに直面して、予測されるでしょう。アレルの重ならない組み合わせを有するハプロタイプが偶然に非疾患関連のボトルネックを生き残ったことは除外できませんが、そうした仮定的状況はおそらく、古代の人口集団にすでに存在したアレルの頻度増加をもたらすでしょうが、それは本論文では観察されません。

 本論文は、チチェン・イッツァにおける後期~末期古典期マヤの詳細な肖像を示しており、この地域の古代の住民のゲノムの遺産が、この古代都市の周辺地域に暮らす共同体に依然として存在する、と示唆されます。男児の儀式的な集団埋葬一卵性双生児2組や他の密接な親族の発見から、若い少年がその生物学的親族関係およびマヤ神話における双子の重要性のため犠牲に選ばれたかもしれない、と示唆されます。本論文では、ゲノム規模水準で、TIXの現在のマヤ人がかつてチチェン・イッツァに暮らしていた古代のマヤ人と遺伝的連続性を示す、と分かり、いくつかの証拠を通じて、植民地時代にヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされた感染症により引き起こされた病原体による、(複数の)選択事象におけるHLA領域の関わりが論証されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:マヤ文明の人身供犠儀式の詳細が古代ゲノムの解析により明らかに

 マヤ文明の古代都市チチェン・イッツァで500年の間に人身供犠の対象になったとみられる64人の古代DNAの解析が行われ、マヤ文明の埋葬儀式を洞察する手掛かりが得られたことを報告する論文が、Natureに掲載される。今回の知見から、地下貯蔵庫で発見された多くの個体が近縁関係にあることが明らかになり、マヤ地域で現在まで遺伝的連続性が認められることが示された。

 メキシコのユカタン半島に位置する古代都市チチェン・イッツァは、マヤ文明の古典期終末期(西暦800~1000年)の主要な集落の1つだった。この遺跡全体で、人身供犠儀式があったことを示す証拠が数多く見つかっており、その1つがサグラド・セノーテだ。サグラド・セノーテは、大きな陥没穴で、200体以上の遺骸が埋葬されていた。しかし、儀式の詳細については明らかになっていない。

 1967年にサグラド・セノーテの近くで発見されたチュルトゥン(地下貯水槽)に、成人間近の人々の遺骸100体以上が収容されていたことが明らかになった。今回、Rodrigo Barquera、Oana Del Castillo-Chávez、Johannes Krauseらは、そのうちの64体から古代DNAを回収し、解析した。そして、放射性炭素年代測定法によって、このチュルトゥンが紀元7世紀初頭から12世紀半ばまで使用されていたことが示された。また、遺伝的解析の結果、64個体が全て男性で、解析された個体の約25%が近縁関係にあり、2組の一卵性双生児が含まれていることも判明した。これに対して、サグラド・セノーテで発見された遺骸は、若年成人女性と男女の子どもの遺骸だった。著者らは、子どもを供犠する儀式は、作物の収穫量と降水量の確保に役立てるためだったと推測されており、マヤ神話には、双生児を供犠することが記述されていると指摘している。

 今回の研究では、チュルトゥンで発見された個体の素性が明らかになっただけでなく、この地域の現代人との遺伝的比較によって遺伝的連続性も明らかになった。この知見は、人身供犠の対象になった人々が、遠く離れた地域の出身者ではなく、マヤの近傍のコミュニティーの出身者であったことを示唆している。また、著者らは、免疫に関連する遺伝子の塩基配列の多様性を見いだした。このことは、植民地時代にこの地域に持ち込まれたパラチフスC菌などの流行性病原体による適応を示している可能性がある。

 以上の知見を考え合わせると、チュルトゥンの事例では男児の人身供犠が好まれたことが示唆され、マヤの人々の遺伝的歴史を洞察する手掛かりが得られた。


参考文献:
Barquera R. et al.(2024): Ancient genomes reveal insights into ritual life at Chichén Itzá. Nature, 630, 8018, 912–919.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07509-7

https://sicambre.seesaa.net/article/202406article_30.html

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