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やまと絵とその代表作

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2023/12/27 (Wed) 09:45:16

大和絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%B5%B5

大和絵(やまとえ)は、日本絵画の分野のひとつ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり、平安時代以来発達した日本風の絵画のこと。「陸絵」「和絵」などとも表記され、「倭絵」「和画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。これら漢字表記の揺れを嫌い、ひらがなで「やまと絵」と表記することが多い。中世を通じて描き続けられ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、漢画の技法・主題を統合したと自称する(『本朝画史』)。

「やまと絵」の語義は、時代によって3度変化している。

平安時代には、画題についての概念であり、日本の故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物・事物・山水に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。また「唐絵」も「やまと絵」も障子絵や屛風絵のような大画面の絵画についていわれた用語であり、絵巻や冊子の絵は「紙絵」と呼ばれた。次の「歴史」の項目で絵巻の作例が多く挙げられているが、それらは後世の分類によるものであり、平安時代にやまと絵といわれることはなかった。

14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、唐の様式を基本に北宋以降の中国絵画の様式も部分的に取り込んで確立された伝統的絵画様式をやまと絵と称するようになった。そのとき「唐絵」(漢画)は宋以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった[1]。そして土佐派などやまと絵を専門とする流派が登場するに至り、流派の意味でも使われるようになった。


歴史

平安時代

東アジア一帯に強力な政治的・文化的影響を及ぼした唐は、907年に滅びた。アジア諸地域ではこの頃から中国の影響を離れ、文化の地方化が進んだといわれている。日本においては894年に遣唐使が停止され、10世紀には唐の影響が薄れ、いわゆる国風文化が興った。漢字をもとに仮名が考案され、和歌や物語文学が興隆し、和様書道が成立したことなどがその具体的な現れであり、やまと絵の出現もこの頃と推量される。唐絵に対する「やまと絵」の語の初出は、藤原行成の日記「権記」の長保元年(999年)10月30日条とされ、そこには「倭絵四尺屛風」に、当時能書として評判の高かった行成が文字を書き入れたことが記録されている。同時期の制作である『源氏物語』の「絵合」の巻には『竹取物語』『うつほ物語』『伊勢物語』などの物語絵が登場する。当時の宮廷・貴族社会において、日本の物語文学を題材にした絵画が享受されていたことが分かる。

平安時代の絵画作品で仏教以外の世俗画としては、邸宅内の調度や間仕切りのための、障子、屛風など大画面の作品が制作された。現存するものは社寺関係の遺品のみであるが、屛風について詠まれた多数の屛風歌により画題がわかる。それによれば、やまと絵の主要な主題は、四季絵・月次絵(つきなみえ)と名所絵であった。平安時代前期から中期にかけての絵師としては、巨勢派(こせは)の巨勢金岡(こせのかなおか)とその子である巨勢相覧(おうみ)、飛鳥部常則(あすかべのつねのり)などの名が伝わるが、これらの絵師には現存する確実な遺品はなく、実作品からその作風の変遷をたどることはできない。絵巻にしても、現存するものは「源氏物語絵巻」など12世紀の作品が最古であり、11世紀以前にさかのぼる物語絵の実物は現存しないため、その実態や様式の変遷については今なお不明な点が多い。

平安時代のやまと絵の遺品としてよく挙げられるのは絵巻である。四大絵巻と称される「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起」「鳥獣人物戯画」はいずれも平安時代末期の12世紀に制作されたものである(ただし「鳥獣人物戯画」4巻のうち2巻は鎌倉時代制作)。

代表作
聖徳太子絵伝 - 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)、国宝。もと法隆寺東院の絵殿の壁画だったもので、現在は額装に仕立てられている。延久元年(1069年)、秦致貞(正確な読み方は不明だが通常「はたのむねざね」と読む)という作者の名前も判明している。
平等院鳳凰堂壁扉画 - 京都・平等院蔵、国宝。「九品来迎」(くほんらいごう)を主題とする浄土教系の仏教絵画であるが、背景には大和絵風の山水が描かれており、平安時代にさかのぼる数少ない大和絵資料としても貴重。天喜元年(1053年)完成。
源氏物語絵巻 - 徳川美術館、五島美術館蔵、国宝。
伴大納言絵巻 - 出光美術館蔵、国宝。
信貴山縁起 - 奈良・朝護孫子寺蔵、国宝。
鳥獣人物戯画 - 京都・高山寺蔵、国宝。
扇面古写経 - 大阪・四天王寺、東京国立博物館などに分蔵、国宝・重文。


鎌倉時代
鎌倉時代は平安時代につづいて絵巻がさかんにつくられた時代である。戦乱や武士の生活に題材をとったものがあらわれ、民間宗教の時代であることを反映して、寺社縁起や高僧伝記、仏教説話などを題材としたものが多く描かれた。後者は、社寺への報恩の意味で奉納されたものも少なくなかった。

この時代の絵巻物のうち、合戦絵としては「平治物語絵巻」「蒙古襲来絵巻」「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵巻」が有名である。社寺縁起絵としては、「北野天神縁起絵巻」「春日権現験記絵巻」「石山寺縁起絵巻」「粉河寺縁起絵巻」などがあり、高僧伝絵としては、「法然上人絵伝」「一遍聖絵(一遍上人絵伝)」「西行物語絵巻」「鑑真和上東征絵伝」「玄奘三蔵絵」が知られる。その他、日記文学を題材とした「紫式部日記絵巻」や東国武士の生活をつたえる「男衾三郎絵巻」など、鎌倉時代は質・量ともに絵巻全盛の時代となった。

肖像画の傑作「神護寺三像」のうち「伝源頼朝像」[注釈 1]。
やまと絵の手法で実際の人物を写実的に描写した肖像画には、藤原隆信・信実父子や豪信らによる、一連の名品がある。軽快な線描で描き、即興的ときに戯画的な性格を持つ肖像画は、似絵(にせえ)と呼ばれた。「後鳥羽上皇像」「花園天皇像」「伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像」「親鸞上人像」「北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像」などが代表作として知られる。

鎌倉時代のやまと絵では、このように写実的性格の強い人物肖像画があらわれ、絵巻のなかにも伝記物が登場するなど、肖像彫刻の隆盛などと合わせ、鎌倉文化における個人および個性に対する強い関心がうかがえる。



室町時代
「浜松図」(東京国立博物館)、「日月山水図」(金剛寺)など、やまと絵のすぐれた屛風絵が描かれた時代である。室町時代中葉から戦国時代にかけて現れた土佐光信は、「十王図」「槻峰寺縁起絵巻」などで知られる。光信はまた、永正3年(1506年)、越前の朝倉貞景のために「京中図」を描いており、これが、洛中洛外図の文献上における初見である[要出典]。光信は、このように公家や武家、寺社のため多くの作品を描き、やまと絵の題材・技法を拡大した。特に絵巻に定評があり[どれ?]、従来の伝統的な絵巻のほか、当時「小絵」と呼ばれた小型絵巻を描いたことが知られる。さらに、後円融天皇像、桃井直詮像、伝足利義政像、三条西実隆像など肖像画の名品も光信筆と伝わるが、光信が肖像画を得意とすることは当時にあっても知られていたことが、同時代史料からも裏付けられている[要出典]。



戦国・安土桃山時代
障壁画隆盛の桃山文化に天下人と結びついた狩野派に対し、大和絵の名門であった土佐派は16世紀半ば以降、押され気味になる[注釈 2]。土佐派はまた、天下人の支援を受けた狩野派の宮廷への進出に対抗することができず、足利義昭邸の障壁画を描いた土佐光茂は、その晩年、京都を去って堺に移り死去[8]。その子の土佐光元は秀吉に従軍して戦死し、土佐派は宮廷絵所職の地位を失ってしまった[8]。弟子の土佐光吉が流派を継ぐが、そのまま境を拠点とし、上洛要請に応じなかった。その子の土佐光則も堺で活動するが、晩年に子の光起と共に京に戻った。光則の門人の住吉如慶は、江戸幕府御用絵師の住吉派の祖となった。



江戸時代
土佐光起は父と共に寛永11年(1634年)、18歳で父と共に京都に移り以降は京を拠点とした。承応3年(1654年)3月10日、38歳で従五位下左近衛将監に叙され、この際に絵所預職となったとされる。土佐派中興の祖と呼ばれる光起以降、土佐派は江戸時代を通し朝廷の絵所預職を勤めた。

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2023/12/27 (Wed) 14:43:16

やまと絵:画像の鑑賞と解説
https://j-art.hix05.com/08yamatoe/yamatoe.index.html

日本の絵画の伝統は、古墳時代以前に遡れないわけではないが、本格的に展開するのは、飛鳥時代以降のことである。大陸(唐)の圧倒的な影響を受けながら描かれたそれらの絵は、後に唐絵と呼ばれて、和風の絵であるやまと絵と対比されるようになるが、それはやまと絵が成立して、対比すべきライバルが現れたからであり、やまと絵成立以前には、絵と言えば唐絵のことをさしていた。唐絵というのは、中国の風俗や景物をそのまま描いたもので、たとえば聖徳太子の像や正倉院宝物の樹下美人図のようなものである。聖徳太子は、いうまでもなく日本人であるにかかわらず、あたかも中国人(唐人)であるかのような格好で描かれている。これらの絵を描いた画師は、大陸から来た帰化人とその末裔であろうと推測されている。

やまと絵が成立するのは、9世紀半ば以降のことである。その背景には、遣唐使が廃止されて大陸の文化の輸入が途絶えたことがあり、またそれとパラレルにして、和風文化の成熟が進んだことがある。たとえば漢字をもとに仮名が発明され、その仮名を用いて和風の文章が書かれるようになる。和風の絵としてのやまと絵も、そうした和風文化の成熟の一環として成立したと考えることができる。

そこで、従来の唐絵とやまと絵の比較であるが、もっとも重大な要素は絵のテーマである。唐絵の場合には、大陸の景物や唐風の人物が描かれている。それに対してやまと絵は、基本的には日本の風景や花鳥といったものを描いている。現代の洋画と日本画の違いが、単に描かれているテーマの違いに留まらず、使われる絵の具や定着される支持体まで異なるのに対して、唐絵とやまと絵の違いは、そこに描かれた人物や景物の違いに留まり、他は共通である。時代が下るにしたがって、唐絵とやまと絵の区別はますますわからなくなり、やまと絵が絵画の全体を代表するようになる。すると、もはややまと絵という言い方自体が不要になるわけであるが、そうなってもなお、やまと絵という言い方は残ったようである。それだけ、唐絵の残した影響が大きかったということだろう。

初期のやまと絵は、屏風や障子に描かれた四季絵というものが中心だったようだ。屏風は空間を仕切るための衝立として用いられ、障子は現在のふすまと同じく、壁の代わりに用いられた。いずれも平安時代における、寝殿造りの建物のなかでの、生活に欠かせない道具であった。その道具の表面に四季絵を描いて、日常の生活に彩りをもたらしたのが、やまと絵のそもそもの発端であった。しかしそれらの絵で、今日まで伝わっているものはほとんどないに等しい。東寺と神護寺に伝わっている屏風絵が、その残されている貴重な作品であるが、これは公式の行事で使われた格式の高いもので、絵の中には唐風の人物が出てきたりと、唐絵の名残も感じさせる。

したがって、この時代の四季絵がどんなものだったかを知るには、たとえば源氏物語絵巻に描かれている屏風の図柄から推し量るほかはない。また、四季絵には、絵のテーマを解説する和歌などの詞章がつきものだが、それらの詞章はかなり多く残されているので、それを通じて四季絵のイメージを推測することもできる。こうした努力を通じて浮かび上がってくるのは、年中行事などの景物を季節の移り変わりにあわせて抒情豊かに描いたのが四季絵だということだろう。

平等院鳳凰堂の扉絵は、本来は仏画として描かれたものだが、それをよく見ると、背景として日本的な山水が描かれており、四季絵に共通する要素を読み取ることができる。これが描かれたのは11世紀のなかばであり、その頃には、やまと絵もかなりな発展ぶりをしていたと推測される。

平安時代のやまと絵として今日まで残っているものとしては、絵巻物が重要である。平安時代の末近くなって、源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、伴大納言絵詞、鳥獣人物戯画といった絵巻物が作られた。これらの絵巻物に描かれた絵を見ると、さまざまな点で今日の日本画に通じるものを読み取ることができ、これこそ日本絵画の源流であるといった感を受ける。

また、平安時代末期に、平家によって作られた平家納経というものがある。このなかに描かれた絵が、やまと絵の特徴を強く感じさせる。

以上いくつかの要素を組み合わせながら、やまと絵がどのようなものであったか、その全体像を構成していく必要があると考えられる。

ここではそんなやまと絵の代表的な作品をとりあげ、画像を鑑賞しながら適宜解説を加えたい。


山水屏風:やまと絵

聖徳太子絵伝

信貴山縁起絵巻1:山崎長者の巻

信貴山延喜絵巻2:延喜加持の巻

信貴山縁起絵巻3:尼公の巻

伴大納言絵詞 上巻

伴大納言絵詞 中巻

伴大納言絵詞 下巻

平家納経:やまと絵

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2024/01/14 (Sun) 16:42:10

平安時代の美術 _ 絵巻物・六道絵
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鎌倉時代の美術 _ 絵巻物
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似絵(にせえ)
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江戸時代の美術 _ 浮世絵
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近代日本の美術 _ 日本画
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藤原 隆能 ふじわら の たかよし(京都 平安時代後期)
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覚猷 かくゆう(滋賀県大津市 1053年 - 1140年10月27日)
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雪舟 せっしゅう(岡山県総社市 1420年- 1506年8月8日)
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土佐 光信 とさ みつのぶ(京都 1434年 - 1525年6月10日)
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狩野 永徳 かのう えいとく(京都 1543年2月16日 - 1590年10月12日)
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本阿弥 光悦 ほんあみ こうえつ(京都 1558年 - 1637年2月27日)
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俵屋 宗達 たわらや そうたつ(出生地不明、生没年不明)
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狩野 探幽(京都 1602年3月7日 - 1674年11月4日)
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土佐 光起 とさ みつおき(大阪府堺 1617年11月21日 - 1691年11月14日)
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菱川 師宣 ひしかわ もろのぶ (千葉県安房郡 1618年 - 1694年7月25日)
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尾形 光琳 おがた こうりん(京都 1658年 - 1716年7月20日)
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伊藤 若冲 いとう じゃくちゅう(京都 1716年3月1日 - 1800年10月27日)
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円山 応挙 まるやま おうきょ(京都府亀岡市曽我部町 1733年6月12日 - 1795年8月31日)
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4:777 :

2024/01/14 (Sun) 22:47:02

あああff

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